さる16日の夜、民進党の小西洋之参院議員が、国会近くの路上で、防衛省統合幕僚監部の三等空佐から「お前は国民の敵だ」と暴言を浴びせられた問題について、東京新聞は社説でつぎのように書いていました。

このニュースを聞いて、戦前・戦中の旧日本軍の横暴を思い浮かべた人も多かったのではないか。

 一九三八年、衆院での国家総動員法案の審議中、説明に立った佐藤賢了陸軍中佐(当時)が、発言の中止を求める議員に「黙っておれ」と一喝した事件は代表例だ。

 佐藤中佐は発言を取り消したものの、軍部は政治への関与を徐々に強め、やがて軍部独裁の下、破滅的な戦争へと突入する。


東京新聞・社説(東京新聞TOKYO Web)
幹部自衛官暴言 旧軍の横暴想起させる

これは、シビリアンコントロールという民主国家のイロハから言っても、とうてい看過できない問題でしょう。田母神の例をあげるまでもなく、自衛隊内部でも、既にネトウヨ思想が蔓延している証左と言えるのかもしれません。

一方、つぎの画像は、この事件を伝えたYahoo!トピックスのコメント欄のスクリーンショットです。

Yahoo!ニュース
「お前は国民の敵だ」 現役幹部自衛官が野党議員に暴言

自衛官暴言ヤフコメ1
自衛官暴言ヤフコメ2

まさに水は低いほうに流れるを地で行くようなコメントのオンパレードです。シビリアンコントロールなんてことばも、彼らには馬の耳に念仏なのでしょう。政治関連のニュースのコメント欄には、排外主義的な主張をしている某カルト宗教の信者たちが常駐していると言われていますが、これでは、Yahoo!ニュースはカルト宗教の信者たちを使って記事をマネタイズしている、と言われても仕方ないでしょう。誰であれ、記事がバズれば、その何倍にもなってアクセスが返ってくるからです。Yahoo!ニュースの政治関連の記事に、ネトウヨと親和性が高い産経新聞の記事が多いのも、それゆえでしょう。

Yahoo!ニュースは、いつまでこのようなコメント欄を放置しつづけるつもりなのでしょうか。記事を書いた記者たちに対してこれほどの侮辱はないでしょう。それは、ジャーナリズムに対する侮辱でもあります。私は、新聞やテレビがYahoo!への配信をやめればいいのに、とさえ思います。前も書きましたが、Yahoo!ニュースの編集者には、新聞社からの転職組も多いのですが、ジャーナリズムをどのように考えているのか、彼らに問いただしたい気がします。

『サイゾー』の今月号(5月号)に掲載されていたウェブ編集者と雑誌編集者の匿名座談会によれば、同じYahoo!JAPAN系列のニュースサイト・BUZZFeed(Japan)は、高給をエサに新聞社などから若手の記者を引き抜いている一方で、社員の流出も止まらないそうです。たしかに、BUZZFeedを見ると、ニュースサイトを謳いながら、まるでテレビのワイドショーみたいに、YouTubeやInstagramなどから拾ってきた動画や写真を面白おかしく紹介したり、コンビニのコスメが「神」だとか、どこどこのお菓子が「無敵」だとか、そんな記事ばかりが目に付きます。また、犬猫の動画や身近な素材をテーマにしたクイズや性格診断は、もはや定番になっています。そうやってなりふり構わずアクセスを稼ぐことを強いられているのかもしれません。

先日も、ソフトバンクの939億円の所得逃れ(申告漏れ)のニュースがありましたが、たしかに”ネットの守銭奴”のもとでニュースサイトを運営する苦労もわからないでもありません。しかし、だからといって、ネトウヨやカルト宗教の信者に魂を売ってどうするんだと言いたいのです。そうやってニュースを台無しにしているという認識はないのかと思います。

これも既出ですが、藤代裕之氏も、『ネットメディア覇権戦争』のなかで、コメント欄にいくら問題があっても、Yahoo!は閉鎖する気なんてなく、「理由は単純で、コメント欄がアクセスを稼いでいるから」だと書いていました。

再度、同書のなかから、Yahoo!ニュースに対する、まさに箴言と言うべき藤代氏の批判を引用しておきます。

言論に責任を持たず、社会を惑わす企業は、ニセモノのメディアに過ぎない。


 組織的にリスクを回避する仕組みがなく、体制も整わない中で、新聞記者に憧れたトップがいくら旗を振っても、ニセモノのジャーナリズムは本物にならない。



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2018.04.21 Sat l ネット l top ▲
日本テレビ系のNNNの最新世論調査によれば、安倍内閣の支持率は、とうとう“危険水域”と呼ばれる30%を切って26.7%にまで下落したそうです。

livedoor NEWS
内閣支持率26.7%“発足以来”最低に

また、朝日新聞がこの週末におこなった世論調査でも、安倍政権の支持率は“危険水域”目前の31%に「低迷」しているそうです。

朝日新聞デジタル
安倍内閣支持、低迷31% 不支持52% 朝日世論調査

安倍政権もいよいよ断末魔を迎えつつあるのかもしれません。

安倍総理と麻生副総理には、幼い頃乳母がいたそうですが、なんの苦労もせずに、小さい頃からおだてられて年を取ると、あんな不遜だけが取り柄のような「幼稚な老人」になるんだろうなとしみじみ思います。彼らは、漢字が読めないだけでなく、おそろしく世間や人間のことも知らないのでしょう。そして、そんな自分を対象化することもないのでしょう。

そんな「幼稚な老人」がこの国の最高権力者として権勢を振い、官僚を平伏させ、国のかじ取りをしているのですから、おぞましいとか言いようがありません。しかも、彼らは「愛国」者を自認しているのです。

しかし、それでもなお、私は、顰蹙を買うのを承知の上で、二人の「幼稚な老人」に対して、塚本幼稚園の園児たちと同じように、「安倍ガンバレ!」「麻生ガンバレ!」と言いたい気持があります。そう易々とやめてもらっては困るのです。もっと悪あがきをしてもらいたいのです。

世論調査を見ると、安倍内閣の支持率は下落しているものの、かと言って野党の支持率が伸びているわけではありません。すべての野党の支持率を足しても自民党一党の支持率に及ばない、いわゆる「一強多弱」の状態であることには変わりはないのです。「安倍やめろ!」と言っても、安倍がやめたら、石破内閣(?)が生まれるだけでしょう。

これでは、ソ連が崩壊して喜んだのもつかの間、今度はプーチンの独裁政権にとって代わられたのと同じです。ソ連共産党であれ、統一ロシアであれ、全体主義に身を委ねるロシア国民の意識は変わってないのです。

森友文書の改ざんやPKOの日報隠蔽は、なにも中央の高級官僚や自衛隊の幹部だけの問題ではないでしょう。たしかに、人事権を官邸に握られた高級官僚たちが、ときの政権に忖度したという側面はあるのかもしれません。しかし、その根底には、「存在が意識を決定する」(マルクス)ではないのですが、国家を食い物にし国民を見下す公務員の思い上がった意識があまねく伏在しているのは間違いないでしょう。

先日、田舎に帰ったら、田舎の病院の事務長に役場の職員が天下りしていたのでびっくりしました。昔はそんなことはありませんでした。聞けば、事務長の席は退職する職員の指定席になっているそうです。当の役場の職員たちは、「これは天下りではなく、ただの再就職だ。天下りというのは、中央の官僚が関連団体に就職を斡旋されることを言うので、自分たちは違う」と嘯いていました。このように天下りも、今や市町村の職員にまで常態化しているのです。財務省の事務次官のセクハラ問題にしても、公務員の驕りをひしひしと感じます。驕っているのは、政治家だけではないのです。

要は、国民=有権者=納税者がいいようになめられているからでしょう。しかし、街頭インタビューなどを見ても、多くの国民が言っていることは、テレビのワイドショーが言っていることのオウム返しにすぎません。これではなめられるのも当然でしょう。

たしかに政治は、個々人の生活や人生にとって二義的なものです。彼らに高い政治意識をもつべきだと言っても、政治党派の党員ではないのですから、それは無理な相談でしょう。吉本隆明が言うように、私たちにとって「政治なんてない」のです。政治なんてどうだっていいのです。

ハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』のなかで、ナチズムの時代を振り返り、「政治的に中立の立場をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」「アトム化」した大衆が、不況や戦争で生活や人生が脅かされると、一転して全体主義運動に組織される政治の怖さを指摘したのですが、しかし、哀しいかな、そういった政治の怖さを経験しないと骨身に染みないのも大衆なのです。

だからこそ(と言うべきか)、「幼稚な老人」が偉そうにふんぞり返り、支持率が”危険水域”に入るような内閣は、国民=有権者=納税者にとって、これ以上ない”反面教師”と言えるでしょう。安部政権によって「政治の底がぬけた」と言った人がいましたが、「政治の底がぬけた」おかげで、国家を食い物にするこの国の政治の構造が私たちの目にも見えるようになったのです。この手の政治に対しては、無用な希望をもつより、絶望するほうがまだしも”健全”と言えるでしょう。なによりこんな「幼稚な老人」を支持し、彼らをふんぞり返らせたのは、私たち国民なのです。国民はみずからの民度に合わせた政治家を選ぶ、と言われますが、今になって他人事のように迷惑がるのはおかしいでしょう。


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2018.04.15 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、Yahoo!トピックスに、『女性セブン』が2014年に掲載した安室奈美恵に関する記事について、発行元の小学館が「お詫び」を掲載したという日刊スポーツの記事がアップされていました。

Yahoo!ニュース
安室洗脳記事 女性セブン謝罪

また、朝日新聞デジタルも、同様の記事を掲載していました。

朝日新聞デジタル
女性セブン、安室さん記事でお詫び 男女関係報道など

ちなみに、日刊スポーツは朝日新聞系列のスポーツ紙です。

記事は安室の事務所から事実無根と訴えられていたそうで、おそらく、来年の引退を控え、両者でなんらかの”手打ち”がおこわれたのでしょう。

手前味噌ですが、”洗脳記事”が出た当時、私は、このブログにつぎのような記事を書きました。

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※一部リンク切れあり

芸能人が独立すると、見せしめのために、人格を否定するようなスキャンダルが流されるのはよくある話です。女性週刊誌やスポーツ紙などの芸能マスコミがそのお先棒を担ぎ、さらに、ワイドショーがそれを追いかけて、テレビからも締め出しを食うのです。そうやって独立した芸能人は兵糧攻めに遭うのです。それが怖い怖い芸能界のオキテです。

何度も言いますが、そうやって芸能マスコミやテレビ局が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。

今回、小学館は彼女の引退ビジネスに乗り遅れるのを懸念して、頭を下げたということなのでしょう。小学館は、児童書を手掛ける一方で、『SAPIO』などでもひどいヘイト記事を垂れ流しており、お金のためなら悪魔にでも平気で心を売る出版社です。

私は、件のねつ造記事に関わった記者や編集者(編集長)を、芸能マスコミから永久追放するくらいのきびしい処分が必要ではないかと思いますが、もちろん、彼らは口を拭い、これからも悪徳プロダクションと結託して、ねつ造記事を流しつづけるのでしょう。

一方、”洗脳記事”をなんの見識もなく掲載し、アクセスを稼ぐためにコメント欄に常駐する「バカと暇人」(中川淳一郎)を煽ったYahoo!ニュースは、相変わらず他人事です。しかし、そうやってねつ造記事をマネタイズするYahoo!ニュースも同罪であることは言うまでもありません。


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2018.04.13 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
代表戦しか観ない俄かサッカーファンの私でさえ、ワールドカップ本戦を目前にしたハリル解任には、違和感を禁じ得ませんでした。

ハリルの戦術(あるいは性格?)に問題があったとは言え、この時期に監督を入れ替えて、ホントにワールドカップ本戦に効果があると思っているのでしょうか。どう考えても、混乱や戸惑いしかもたらさないように思います。

日本代表の低迷は、なにも今にはじまったことではないのです。低迷の原因は、ときの代表監督の戦術だけにあるのではないのです。それはむしろ些末な問題です。どんな優秀なドライバーでも、車のエンジンが貧弱ではレースに勝てないのです。杉山茂樹氏は、ハリルホジッチのサッカーは「サッカーの質が悪い」と言ってましたが、それは監督の問題ではなく選手の問題でしょう。

日本代表の低迷の原因は、スポンサーの関係で海外に移籍する選手は多いものの、実際に世界に通用する選手が少ない、そういった選手が育ってないということでしょう。それは、日本のサッカー文化や選手の育成の問題です。強いて言うならば日本サッカー協会の問題でしょう。

直近のベルギー遠征の結果に危機感を抱いたと言ってますが、それは、日本代表の”真の実力”が見えたにすぎないのです。まるでボクシングの「咬ませ犬」のような海外のチームをホームに招待しておこなわれる、スポンサー主導の親善試合だけでは”真の実力”ははかれないのです。ハリル自身がこの時期の海外遠征を切望したと言われていますが、そうやって日本代表の”真の実力”を客観的に見る必要性を感じたからでしょう。

セルジオ越後氏は、西野監督になったら通訳が必要ないので、選手とのコミュニケーションもよくなるだろうと言ってましたが、もしそれが本当ならあまりにレベルの低い話で呆れるばかりです。選手の意見を聞かないハリルの独裁的な姿勢が、選手との信頼関係を損なったなどという報道がありますが、ナショナルチームはサッカー同好会ではないのです。常にきびしい結果を求められる代表チームの指揮官が、妥協を排し独裁的にならざるを得ないのは当然でしょう。それに、出場機会の減った選手が不平不満を漏らすのは、スポーツの世界ではよくある話です。一方で、香川や岡崎や本田などスター選手の起用法をめぐって、スポンサーの不評を買っていたという話もあります。解任の本当の理由は案外、そのへんにあるのかもしれません。

代表監督の交代劇のたびに、協会の任命責任や協会内部の派閥の問題が指摘されていますが、協会の役員たちは責任を取らず、いつも現場に責任を押し付けるだけです。

不都合の責任を外国人監督ひとりに押し付けるだけの日本サッカー。そんな協会を忖度するだけのスポーツメディア。なんと夜郎自大な国の夜郎自大な対応なんだろうと思います。そうやって日本サッカーの”真の実力”という現実から、いつまでも目を背けつづけるつもりなのでしょう。


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2018.04.09 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ビートたけしの“独立騒動”に関して、リテラが『噂の真相』の記事を引用して、さらにつぎのような記事をアップしていました。

リテラ
愛人問題を森社長の責任にスリカエ、たけし軍団の声明文がネグるオフィス北野“株問題”の真相とたけしのタブー

たけし軍団の声明文に書かれた「デタラメな主張」。水道橋博士は、「たけし軍団は徒弟制度の中にある。いわゆる芸能事務所と違う。師匠が言うことは絶対」とテレビで言ってましたが、だからと言って、デタラメを言っていいということにはならないはずです。

リテラが書いているように、たけしだけでなく軍団の古参メンバーも、たけしが太田プロから独立してオフィス北野を設立した経緯や、26年前(!)に森社長がオフィス北野の筆頭株主になった経緯などは当然知悉しているはずです。にもかかわらず、森社長が「裏切った」「いつの間にか筆頭株主になっていた」などと主張するのは、極めてタチが悪い言いがかりと言うべきでしょう。

また、オフィス北野の従業員の給与の問題やたけしが軍団のために持ち株を売却したという話も、彼らが言っていることは嘘ばかりだとか。そもそも愛人を「ビジネスパートナー」と呼んでいることからして、彼らの主張は眉に唾して聞く必要があるでしょう。それは、森友文書の改ざん問題で、改ざんを「書き換え」と呼んでいるのと同じようなものです。

まして、水道橋博士やガダルカナル・タカは、ワイドショーでコメンテーターを務めているのです。それを考えれば、悪い冗談だとしか思えません(たけしがニュース番組のキャスターを務めているのは、悪夢を見ているような話ですが)。

たけし軍団が今のお笑いの世界からズレており、お笑い芸人として終わっているのは誰の目にもあきらかです。たけしの後ろ盾を失ったら、芸能界で生き残るのは難しいでしょう。だから、あれほど必死なのかもしれません。

今回の”独立騒動”に対して、芸能マスコミは相変わらず及び腰です。たけしの番組のカラミもあるのでしょう、テレビのワイドショーも、たけしを”善人”あるいは“被害者”と見るスタンスを崩していません。たけしのいかがわしさを指摘する声は皆無なのです。

もっとも、たけしを登用している限り、テレビがたけしに肩入れするのは当然と言えば当然かもしれません。そのため、Yahoo!ニュースのコメント欄なども、テレビ報道を真に受けた情弱なコメントで溢れています。

私は、森昌行社長がたけしと決別して、北野映画の「影の監督」であったみずからの役割について”衝撃の告白”をすることを期待していますが、ただ、芸能界に跋扈する魑魅魍魎の存在を考えれば、それはとても無理な相談かもしれません。

何度も言いますが、芸能マスコミやテレビ局が、芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。今回の“独立騒動”でも、その一端が垣間見えているように思えてなりません。
2018.04.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
噂の真相2002年5月号


ビートたけしが「オフィス北野」から独立して、愛人と一緒に設立した新事務所に移籍するというニュースが話題になっています。ちなみに、(俄かに信じがたいけど)事務所名の「T.Nゴン」というのは、「T」がたけし、「N」が愛人の頭文字で、「ゴン」が二人の愛犬の名前だとか。もしこれが本当なら「色ボケ」と言われても仕方ないでしょう。

ただ、私が興味があるのは、たけしの「色ボケ」より、「世界の北野」などと言われた映画監督・北野武の虚像が、これでようやく白日のもとに暴かれるのではないかということです。

リテラも、今回の“独立騒動”に関して、下記のような記事を掲載していました。

リテラ
ビートたけし「恩人を切り捨て愛人と独立」の報い…“陰の共同監督”を切り捨てて北野映画は撮れるのか

リテラは、休刊した『噂の真相』の旧スタッフたちが中心になって運営されているそうですが、私が知る限り、かつて北野武の虚像を記事にしたのは『噂の真相』だけです。

それで、私は、本棚の奥から『噂の真相』のバッグナンバーを引っぱり出して、関連する記事を読み返してみました。たけしは、独立について、「軍団を含め、これまで背負ってきたものをいったん下ろしたい」と言ったそうですが、記事を読むと、そのことばの意味もなんとなくわかるような気がするのでした。

フライデー事件(1986年)以降、たけしのまわりでは右翼や闇社会の人間たちが見え隠れするようになりました。それは、芸能界復帰に関する右翼団体とのトラブルに、広域暴力団の組長に仲介を頼んだためと言われています。事件をきっかけに、太田プロから独立したのも、そのカラミだったそうです。1992年、新右翼の大物が参院選挙に出馬した際、たけしが横山やすしらとともに記者会見の席に座っていたのも、そういった裏事情があったからなのでしょう。しかし、その手の人間たちも徐々に離れていったと言います。

以下、長くなりますが、記事から引用します。

 愛娘、北野井子の売り出しの際、大物右翼の同席の記事が潰される一件があったように、『フライデー』事件以降、たけしの周辺には常に闇人脈が群がっていたのは周知の事実だろう。ところが、いまやその闇人脈でさえたけしから離れていっているのである。(略)
 こうした厳しい状況は、たけし本人が一番理解しているだろう。「映画を撮るために、テレビで金を稼いでいる」と虚勢をはるが、本音はわずらわしいテレビの仕事を離れ、映画に集中したいのではないか。
 だが、たけしはそれでもなおテレビから離れられないのだ。たけし軍団や前述した愛人たちの存在があるからである。
「今やオフィス北野は完全な映画製作会社で、芸能部門は放し飼いですからね。古株のダンカンやガナル・タカあたりはまだしも井出らっきょあたりは、まだまだたけしの庇護が無ければやっていけない。実際、食い詰めた大森うたえもんが独立したけどすぐに潰れてしまった。軍団を養っていくためにも、たけしは自分の番組を無くすわけにはいかないんだ」(前出・事務所関係者)
 そしてもうひとつ。最大の理由が、数々の愛人スキャンダルを乗り切ったことで、今や”マザコン”たけしの母親代わりとして確固たるポジションを得た幹子夫人の存在だ。
 たけしのギャラは、基本的にはオフィス北野からたけしの個人事務所である北野企画に支払われているが、この金は幹子夫人がいっさい管理しているという。(略)
 妻や弟子たち、さらに愛人たちへの責任をも背負い、どれだけ落ち目になったとしても、たけしはブラウン管でその醜態を晒し続けなければならない事情があるのだ。
(『噂の真相』2002年5月号・『フライデー』スクープで判明した北野武「権威」の残像と凋落との因果)


また、ほかの号では、北野映画について、つぎのような記事を掲載していました。北野映画では、「沈黙」や「無表情」が絶賛されると沈黙や無表情のシーンをやたら増やしたり、青色のトーンが「キタノ・ブルー」と評価を受けると、今度は青色を多用するようになったのだとか。もっとも「キタノ・ブルー」にしても、撮影監督の柳島克己氏が『ソナチネ』でたまたま「そういった色彩で撮っただけ」だそうです。

そして、北野映画において「影の監督」と言われたのが、オフィス北野の社長で、北野映画のプロデューサーを務めた森昌行氏なのです。

「もともとたけしさんは、映画監督としては信じられないくらい無責任な人で、ロケハンも自分はいかず他人まかせ。とくにプロデューサーの森さんにはオンブにダッコで、キャスティングやスタッフの選定も全部決めてもらっていた。今や北野映画に不可欠といわれている久石護の音楽だって、起用を決めたのはたけしさんじゃなく、森さんだしね。ただ、そんなたけしさんも、演出と編集だけは絶対に人に口をはさませなかったんです。(略)ところが、『HANA-BI』から、その演出と編集まで森さんに頼り、ほとんどいいなりになって作ったんです」(前出・元スタッフ)
 実際、『HANA-BI』における森の姿はまさに「影の監督」といってもいいものだった。撮影中はたけしにぴったり張りつき、ワンカット撮るたびにたけしとひそひそ話し合い、撮影が終わればラッシュを見て、たけしの相談に乗る――。(略)
 しかも、この傾向は作品を重ねるごとに強くなり、「BROTHER」にいたっては、撮影現場にたけしが不在で森がメガホンをとっている光景までが一部で目撃されている。
(『噂の真相2001年3月号・映画「BROTHER」』で絶賛された北野武の映画監督手腕と辛口両断!)


そうやって「世界の北野」が作られていったのです。

既出ですが、ビートたけしは、東日本大震災の前年、『新潮45』に掲載された電事連のパブ記事のなかで、つぎのように発言しています。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


これもまた、ビートたけしの虚像を表していると言えるでしょう。たけしがイタいのは、滑舌や笑いのセンスや事務所のネーミングだけでなく、その知性や見識においても然りなのです。芸能マスコミは、そんなたけしを持ち上げ、批判を封印し、タブー視していたのです。


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「官邸にキタノ」
水道橋博士
2018.03.31 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
このところ体調がすぐれず、ずっと寝てすごしていました。先日、病院に行ったら、また一つ薬が増えました。これで毎日4種類の薬を飲まなければなりません。

田舎に帰って高校時代の同級生と食事に行ったときのことです。食べ終えると、向かいの席の同級生は、やにわにカバンから「内服薬」と書かれた袋を出して、テーブルの上に薬を並べたのでした。私は、それを見て思わず苦笑しましたが、もちろん、私とて例外ではありません。私たちの年代になると、食後と就寝前の薬が日課になってくるのです。

年を取ってくると、身近なことに思い煩わされるようになります。所謂「大状況」より「小状況」が切実な問題になってくるのです。言うまでもなく、その先にあるのは「死」です。しかし、死に至るまでにも、身過ぎ世過ぎの苦悩はつづくのです。

体調がすぐれないと、ひどく弱気になっている自分がいます。深夜、ひとり湯船に浸かり、水滴のついた天井を見上げながら、無性に悲しい気持になることがあります。人生に対して後悔の念に襲われ、いたたまれない気持になるのです。「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」という森鴎外の気持が痛いほどわかるのです。

「ナマポ老人」などと自嘲しながら、本や政治などについて精力的に記事を書いていた高齢者のブロガーがいました。昨日、久しぶりにブログにアクセスしたら、昨年の11月から更新が途絶えていました。しかも、昨年は3本の記事しかアップされていません。本や政治などの発言はすっかり影を潜め、生活苦を訴える書き込みが並んでいるだけです。

低年金のために生活扶助を受けている人間は、「生活保護」ではなく「年金生活者(生活保護併用)」と呼ぶべきだと書いていました。「ナマポ老人」などという、世間の顰蹙をものともしないような“開き直り”も影を潜めていました。

吉本隆明が言うように、ホントに困ったら強盗でもなんでもするしかないのです。生活するのに切実な状況に陥ったら、本や政治などの話をしている余裕はなくなるのです。「大状況」なんて衣食足りた上での話です。

そう考えれば、森友文書改ざん問題に関する参院予算委員会の集中審議を見て、「自民党はどうして青山某や和田某のような下等物件(©竹中労)を質問に立たせたんだろう?」「自爆しようとしたのか?」などと憤慨したり呆れたりするのも、まだまだ若い証拠なのかもしれません。政治に悪態を吐いているうちが華かもしれないのです。


2018.03.20 Tue l 日常・その他 l top ▲
週刊ダイヤモンド7月26日号

アベ経済マフィア


上のイラストは、2014年、『週刊ダイヤモンド』(7月28日号)がアベノミクスを特集した際の、表紙と特集ページに掲載されていたイラストです。特集については、当時、私は下記のような感想を書きました。

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アベ経済マフィア

週刊ダイヤモンド』では「アベ“経済”マフィア」となっていましたが、今や政治までがマフィア化しているように思えてなりません。麻生太郎財務大臣は、12日に決裁文書の改ざんを認める会見をおこなった際、「佐川が」「佐川が」と佐川宣寿前理財局長の名前を何度も挙げ、改ざんは財務省及び佐川宣寿氏の責任だと強調する一方で、みずからは「進退を考えてない」と厚顔無恥に開き直ったのでした。

フジテレビの「グッディ!」で麻生氏の会見を取り上げた際、コメンテーターの長谷川聖子氏が麻生氏を「悪代官」とコメントしたことが話題になっていますが、当日、たまたま「グッディ!」を観ていた私も、「悪代官」は言い得て妙だなと感心したものです。そして、上のイラストを思い出したのでした。

安倍晋三氏には『美しい国へ』(文春新書)、麻生太郎氏には『とてつもない日本』(新潮新書)という著書があります。二人とも自他ともに認める「愛国」者で、「ニッポン凄い!」の元祖のような人物です。また、安倍氏は「云々」と「でんでん」、麻生氏は「有無」を「ゆうむ」と読み間違うなど、(「愛国」者のわりには)日本語に不自由なところもよく似ています。もちろん、二人ともおぼっちゃまの三世議員です。

安倍夫妻が疑惑を追及されても、「バカげた質問」とせせら笑ってやりすごす一方で、極右思想を共有しメール交換するほどの親しい関係にあった籠池夫妻は、大阪拘置所の「独居房」に半年以上も勾留され、接見や手紙のやり取りも禁止されているそうです。既に拘禁症状が出はじめているという話さえあります。口封じのために、精神に変調を来すまで勾留するつもりなのかもしれません。

財務省が決裁文書を改ざんしたのも、司法当局が籠池夫妻を長期勾留しているのも、安倍政権がマフィア化している証拠のように思えてなりません。

北朝鮮問題においても、韓国政府は米朝首脳会談をお膳立てして国際的に高く評価されています。一方、蚊帳の外に置かれた日本政府は、メディアを使って「会談なんて成功するはずがない」「トランプが騙されているだけだ」と負け惜しみを言うのが関の山です。経済だけでなく、政治までもが、韓国の後塵を拝するまでになっているのです。

報道によれば、米朝首脳会談では、朝鮮戦争の終戦宣言や休戦協定に代わる平和協定が議題に上る可能性さえあるそうです。ついこの前までの戦争前夜のような応酬を考えると、あまりの変わりように驚くばかりですが、これが外交というものなのでしょう。

拉致問題が置き去りにされることを怖れる日本政府は、会談前に安倍総理が訪米し、拉致問題を取り上げてもらうようトランプ大統領に懇願するそうです。しかし、日本政府は、昨日まで、圧力をかければ困窮した北朝鮮が拉致被害者を差し出してくるなどという荒唐無稽な強硬論をとっていたのです。しかも、被害者家族や世論の反発を恐れ、北朝鮮の調査報告書の受け取りも拒否しているのです。交渉の叩き台さえないのです。それでは、北朝鮮も「解決済み」の姿勢は変えず、交渉のテーブルに上がることはないでしょう。

こう見てくると、「ニッポン凄い!」の自演乙も、なんだか滑稽にすら思えてきます。この国のかじ取りをする二人のおぼっちゃま政治家の尊大な態度が示すように、日本自体がますます夜郎自大でトンチンカンな国になっているように思えてなりません。


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森友学園問題の思想的背景
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2018.03.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
ルポ川崎


磯部涼『ルポ川崎』(CYZO)を読んだ流れで、ヒップホップグループBAD HOPのドキュメンタリーをYouTubeで観ました。

YouTube
MADE IN KAWASAKI 工業地帯が生んだヒップホップクルー BAD HOP

もう20年以上前ですが、川崎の桜本にある病院にお見舞いに行ったことがありました。そのとき、ちょうどロビーで赤ちゃんを抱いた若い夫婦に遭遇しました。出産した妻が退院するので夫が迎えにきたみたいです。

ただ、二人はどう見てもまだ10代の少年少女でした。しかも、髪はアイパーを当て剃り込みを入れた、見るからにヤンキーといった感じでした。一緒に行った友人は、「ああいった光景はここらではめずらしくないよ」と言ってました。

お見舞いのあと、車を病院の駐車場に置いて、友人が「朝鮮部落」と呼ぶ桜本や池上町を歩きました。友人もまた在日朝鮮人で、実家は都外にあるのですが、桜本や、多摩川をはさんだ対岸の大田区に親戚がいると言ってました。親戚の多くは、もともと鉄くずなどの回収業や土建業をやっていたそうです。

大きな通りから一歩なかに入ると、粗末な造りの家が密集した一帯がありました。しかも、路上に車がずらりと停められているのです。なかには、廃車にされたまま打ち捨てられているのでしょう、原形をとどめないほどボロボロになった車もありました。友人は「みんな、違法駐車だよ」「車庫なんてないよ」と言ってました。

BAD HOPのドキュメンタリーを観ていたら、ふとそのときのことを思い出したのでした。

ドキュメンタリーのなかで、「いちばん好きなライムってありますか?」と質問されて、リーダーのYZERRが答えたのは、つぎのような「Stay」のライム(韻)です。

14でSmoke Weed
15で刺青
16で部屋住み


「部屋住み」というのは、ヤクザの事務所に住み込んで見習いになることです。

「Stay」のBarkのパートには、つぎのようなリリック(歌詞)があります。

オレの生まれた街 朝鮮人 ヤクザが多い
幼い少女がチャーリー 絶えぬレイプ、飛び降り
金のために子どもたちも売人か娼婦へ
生きるために子どもたち罪を犯す罪人かホームレス
こんなところで真面目なんて難しい
積み重なる空き巣に暴行、毎夜の悪さは普通だし
15の頃には数十人まとめて逮捕
それでも一度のことじゃないから反省ない態度
とって繰り返し 気づけば暗がり 切れないつながり黒いつながり
進路は極道かハスラー なるようになったお似合いのカップル
(『ルポ川崎』より転載)


「チャーリー」はコカイン、「ハスラー」はクスリの売人という意味のスラングです。

言うまでもなく、ヒップホップは、70年代にアメリカの黒人やヒスパニックなどマイノリティの社会で生まれたアンダーカルチャーで、人種差別や貧困や犯罪などが背景にあります。川崎の少年たちが、ヒップホップに惹かれていったのは当然でしょう。BAD HOPのラップが体現しているのは、彼らの実体験に基づいた不良文化です。そして、そこで歌われているのは、都市最深部の風景です。

桜本のコミュニティセンター「ふれあい館」の職員であり、みずからも在日コリアンである鈴木健は、“川崎的なるもの”という「ドツボの連鎖」から抜け出すためにも、「BAP HOPの存在は大きい」と言います。

「(略)だからこそ、成功してほしい。これまでも川崎からはラッパーは出てきていますけど、“川崎なるもの”にとらわれて挫折してしまった人もいる。BAD HOPが起こしたムーブメントが大きくなって、どこに行っても彼らにあこがれた子どもたちがラップをしているような現在、仮に彼らが挫折してしまったら、ダメージを受ける子どもたちは多いだろうから」
(同上)


それは、なによりBAD HOPのメンバー自身がわかっていることでしょう。小学生が「将来の夢」の欄に、「ヤクザ」と書くような環境。ヤクザになることが、「普通に育ったヤツが高校に行くのと同じ感覚」のような人生。ヤクザになれないヤツは、クスリの売人か職人になるしかない現実。「そこにもうひとつ、ラッパーという選択肢をつくれたかも」と彼らは言います。自分たちは、ラップによって変われたのだと。先の「Stay」のなかで、Barkもつぎのように歌っています。

この街抜け出すためなら欲望も殺すぜ
ガキの頃と変わらない仲間と目にするShinin
We Are BAD HOP ERA 今じゃドラッグより夢見る売人


また、下記の「Mobb Life」でも、成り上がることを夢見るほとばしるような心情が表現されていました。

掃き溜めからFly
この街抜け出し勝つ俺らが
まだまだ足りない
数えきれんほど手に札束
誰にも見れない
景色を拝みに行くここから
収まらないくらい
俺ら仲間達と稼ぐMoney


YouTube
BAD HOP / Mobb Life feat. YZERR, Benjazzy & T-Pablow (Official Video)

『ルポ川崎』では、川崎を標的にしたヘイト・デモに対してカウンター活動をおこなっているC.R.A.C.KAWASAKIなども取り上げられているのですが、著者は川崎の若者たちで交わされるつぎのようなジョークを紹介していました。

 川崎の若者たちと話していると、いわゆるエスニック・ジョークのようなものが盛んに飛び交う。
「お前の親は北朝鮮だろ?」
「ふざけんな、韓国だよ」
「北朝鮮っぽい顔しているんだけどな」
「どっちも同じようなもんだろ。なんなら日本人も」
 端で聞いているとぎょっとするが、そのポリティカル・コレクトネスなど知ったことではないというような遠慮のなさは、外国人市民との交流のなさから生まれる被害妄想めいたヘイトとは真逆のものである。


今、読んでいる桐野夏生の新作『路上のX』は渋谷が舞台ですが、やはり都市最深部の風景を描いた小説と言っていいでしょう。『ルポ川崎』のなかに、「自由は尊いが、同時に過酷だ」ということばがありましたが、けだし資本主義(社会)は自由だけど、同時に過酷なのです。都市最深部の風景が映し出しているのは、差別や貧困や犯罪と共棲する(せざるをえない)過酷な現実です。私はあらためて、リアルなのは右か左かではなく上か下かなのだと思いました。


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2018.03.10 Sat l 本・文芸 l top ▲
2018春節01


中華街の春節のイベントも、昨日(3月2日)が最終日で、夕方から媽祖廟で「元宵節燈籠祭」という奉納舞がおこなわれるというので、中華街に行きました。

しかし、行ってがっかりでした。媽祖廟は改装中で、入口の通路が工事の囲いで覆われていました。しかも、通路が見物客で溢れているため、中でおこなわれている奉納舞がまったく見えないのです。

もっとも中国の旧正月である春節は、2月15日~2月21日だそうです。「元宵節燈籠祭」も、観光用に引き伸ばされた春節のイベントのひとつにすぎないのでしょう。

「元宵節燈籠祭」の見学をあきらめ、江戸清で豚まんを買い、伊勢佐木町で蕎麦を食べて帰りました。

中華街は言わずもがなですが、伊勢佐木町も歩いていると、至るところから中国語が耳に飛び込んできます。若い中国人のチンピラも相変わらず目につきます。一方、隣の福富町に行くと、途端にコリアンの店が多くなるのです。これこそアジア的混沌と言うべきかもしれません。

前も書きましたが、横浜市立大卒で横浜の事情に通暁している馳星周あたりが、伊勢佐木町や福富町を舞台にしたピカレスク小説を書いたら、きっと面白いものが書けるのに、とあらためて思いました。


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2018.03.03 Sat l 横浜 l top ▲
昨日、ネットで、つぎのようなツイッターのつぶやきを目にしました。



まったく同感です。このブログでも書いたことがありますが、私も、えげつないヘイト本が本屋の平台を占領するようになって、本屋に行くのが嫌になり、前より足が遠のいています。

昔は本屋に行くのが楽しみでした。ワクワクしました。本屋で知らない本に出会うのが楽しみだったのです。本屋には知性がありました。こんな本があるよと教えてくれたのです。でも、今はそんな出会いは望むべくもありません。本屋大賞なんて片腹痛いのです。

ヘイトな発言で有名な某作家は、講演料が200万円だそうです。前も書きましたが、元ニュースキャスターの”ネトウヨの女神”も、港区の数億円とも言われる白亜の豪邸に住んでいるそうです。彼らは愛国者なんかではないのです。ただのヘイトビジネスの商売人にすぎないのです。貧すれば鈍する書店は、そんなヘイトビジネスに便乗しておこぼれを頂戴しようとしているのでしょう。

出版文化に対する気概も見識もない書店なんて潰れればいいのだと思います。潰れてもざまあみろと思うだけです。

それは、テレビも同じです。最近は、100円ショップの商品を海外に持って行って、外国人に「ニッポン、凄い!」と言わせる番組がありますが、日本の「凄さ」はそんなところにしかないのかと思うと、なんだか情けなくなります。しかも、それらの商品の多くは中国製なのですから、もはや笑えない冗談です。



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2018.02.28 Wed l 本・文芸 l top ▲
20日から2泊3日で、墓参りに九州に帰りました。

大分空港は、大分県の北東に位置する国東半島にあるのですが、空港に着くと、そのままレンタカーで国東半島の両子寺・文殊仙寺・富貴寺をまわりました。

いづれも国東半島を代表する天台宗の名刹です。国東半島の仏教文化については、下記のウィキペディアにわかりやすく書いています。

ウィキペディア
国東半島

奈良時代から平安時代にかけて、仏教(天台宗)に宇佐八幡の八幡信仰(神道)を取り入れた「六郷満山」と呼ばれる仏教文化が形成され、山岳地域の険しい山道を歩く「峰入り」と呼ばれる難行が行われるようになった。「六郷」とは、来縄(くなわ、現・豊後高田市)・田染(たしぶ、豊後高田市)・伊美(いみ、国東市国見町)・国東(国東市国東町)・安岐(あき、国東市安岐町)・武蔵(むさし、国東市武蔵町)の6つの地域を指しているといわれる。


両子寺は国東市安岐町両子、文殊仙寺は国東市国東町大恩寺、富貴寺は豊後高田市田染蕗にあります。

ウィキペディアに書いているとおり、「六郷満山」は、当時、荘園領主として権勢を誇った宇佐神宮の影響を受け、仏教と神道が混合したこの地域特有の宗教文化です。そのため、お寺のなかに鳥居があったり、お寺が「商売繁盛」や「安産祈願」のお札を売っていたりしているのです。それは、とても奇妙な光景でした。

2月の平日でしたので訪れる人も少なくて、それがかえってお寺巡りを印象深いものにしてくれました。ナビに従って車を走らせると、途中離合する(九州の方言で「車がすれ違う」の意)のも難儀するような山奥の道を行ったり来たりしました。でも、そうやって山道を走るのも、なんだかなつかしい気がするのでした。

二日目は、熊本県境に近い生まれ故郷の菩提寺に行きました。

初日も富貴寺の前にある食堂で、大分名物のだんご汁を食べたのですが、二日目も墓参りに行く途中、山間の県道沿いにある食堂で、だんご汁を食べました。その食堂は、近所のおばさんたちが共同で営む、文字通り田舎のおふくろの味が味わえる店です。だんご汁のほかに、お稲荷さんもなつかしい味がしました。

墓に行くと、誰かお参りにきたのか、新しい花が供えられていました。私は、それと一緒に持参した花を供えました。我が家の墓は、墓地のなかでいちばん古いのですが、花立からあふれるように多くの花で彩られ、いっきに華やかになった気がしました。

私は、これが最後になるかもしれないなと思いながら手を合わせ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えました。すると、いつの間にか涙があふれてきました。『歎異抄』によれば、親鸞は、父母の孝養のために一度も念仏を唱えたことはないそうですが、私は墓に眠る父母や祖父母の供養のために、念仏を唱えました。

墓地も、冬の午後の静けさに包まれていました。墓地の端からは、私が生まれた街が見渡せます。昔の面影が残る家並みを眺めていると、近所の幼馴染と嬌声を上げながら通りを走り回っていた子どもの頃が思い出されました。年を取って、昔を追憶することほどつらいものはありません。もう私のなかのふるさとは、追憶の対象でしかないのです。

私は、ふと隣町の高原にある高台に行ってみようと思いました。そこは、子どもの頃、家族でピクニックに行った思い出がある場所です。10月21日という日にちまで覚えています。とても肌寒くて早々に弁当を食べ、帰ってきたのでした。

熊本との県境に向けて高原のなかを車を走らせると、道路にはまだ至るところに雪が残っていました。まわりの木々にもうっすらと雪が残っており、それが午後の日差しを浴びてキラキラ輝いていました。県境の近くは、チェーンを装着した車しか通れない交通規制がおこなわれていました。私がめざす高原の高台はその手前にあります。ところが、麓に着くと、高台に上る道路が鉄柵で封鎖されていたのでした。残念ながら、入口で引き返すしかありません。

途中、小学生のときに父親と九州の最高峰の山に登った際に利用した登山口を再び訪れ、記念に写真に撮ったのですが、うっかりしてSDカードから削除してしまいました。初日の富貴寺を訪れたときから、二日目の墓参りや若い頃仕事で住んでいた町を訪れたときの写真などをことごとく消去してしまったのです。まったくついてません。「六郷満山」のお寺参りをしたにもかかわらず、霊験あらたかとはいかなかったのです。

そのあと、60キロ離れた街まで、知人に会いに行きました。知人は、二つの癌と闘っています。しかし、笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました。会うたびに、「また帰って来いよ。でも、オレはそれまで生きているかわからないけどな」と言うのですが、今回はそう言われないように淡々と別れました。

親しい人間たちはみんな、田舎に帰っています。もう東京に残っている人間は、ひとりもいません。会う人間会う人間から「帰って来いよ」と言われるのですが、私は、(別に格好を付けるわけではありませんが)知らない土地でひとりで生き、ひとりで死ぬことを決めたのです。

運動会のとき、校舎の裏をこっそり訪れることが好きだった子どもの頃。やはり、今でもひとりがいいなと思います。私にとって、淋しさこそが人生の親戚なのです。いくら年を取ってもそれは変わらないのでした。


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別府タワー

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ディープな別府タワー

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別府タワー 窓ガラスの至るところにヒビが入っています。


2018.02.23 Fri l 故郷 l top ▲
平昌オリンピックをめぐる日本国内の報道には、なにがなんでもオリンピックを貶めようとする底意地の悪さが垣間見えて仕方ありません。国内では相変わらず、「ニッポン凄い」の自演乙が盛んですが、「凄い」国のわりには、”スポーツの祭典”を偽善的にでも祝い楽しむ余裕さえないのです。

とりわけひどいのが、南北対話に対してです。そもそも韓国が北の「ほほ笑み外交」に乗ったのは、なんとしてでも戦争を回避したいという切実な事情があるからでしょう。戦争になれば、韓国は国家存亡の危機に直面するのです。もちろん、日本も他人事ではないはずです。ところが、日本はアメリカに追随し、北と挑発合戦を繰り広げるトランプ政権の口真似をするだけなのです。これでは、産経新聞のねつ造記事と同じで、いじましいばかりの(骨の髄まで沁み込んだ)”属国根性”と言うほかないでしょう。

田中宇氏は、平昌オリンピックの南北対話について、つぎのように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説
北朝鮮の核保有を許容する南北対話

(略)今回の北の五輪参加をめぐる南北対話の再開や米韓軍事演習の延期が、ロシアのプーチン提案、中国のダブル凍結和平案、韓国の文在寅の対北融和策という、露中韓の三位一体の北核問題の解決策のシナリオに北朝鮮が乗ってきたものであるとわかる。(略)

 だが、米日のマスコミなどでは、露中韓のシナリオがまともに報じられず、ほとんど論じられず、けなされる対象として存在している。米日では、北が核兵器を全廃することが「北核問題の解決」であると考えられている。北に核廃絶を求めず、北の核保有を黙認している露中韓のシナリオは、北核問題の解決策ではないと、特に(中韓嫌悪の)日本で思われている。(略)


韓国が北の「ほほ笑み外交」に翻弄されているように見えるのも、現実的な(非米的な)戦争回避のシナリオがあるからなのでしょう。

 露中韓のシナリオは、北に核やミサイルの廃絶でなく開発凍結を求めているが、それすら北に凍結宣言を出せと求めるものでなく、北が不言実行で静かに開発を凍結し続けてくれればそれで良い。目指しているのは東アジア的な「あうんの呼吸」「(北の)メンツ重視」の方式だ。露中韓は、北が核兵器を持ったままでも、周辺諸国との緊張関係が緩和されれば、それで事態が安定すると考えているようだ。

 
戦争ありきのような日本のメディアの報道だけを見ていると「あり得ない」と思うかも知れませんが、オリンピックの南北対話をきっかけに緊張緩和へ進む可能性もなきにしもあらずでしょう。いづれにしても、オリンピック明けの米韓軍事演習や文在寅大統領の訪朝に対して、露中韓と日米の間で激しい駆け引きがおこなわれるに違いありません。

もとよりトランプ政権の“圧力外交”には、軍事ビジネスの側面があることも忘れてはならないのです。朝鮮半島や東シナ海の緊張が高まれば高まるほど、国策でもある軍需産業が繁栄する寸法です。なかでも日本に対しては、武器が言い値で売れるので、これほど美味しい商売はないのです。

今の日本は、中国や北朝鮮の影に怯えるばかりです。それは、もはや「病的」と言ってもいいほどです。しかも、中国も北朝鮮も、かつての植民地です。だから、よけい神経症的に怯えるのかもしれません。

東アジアにおいて、政治的にも経済的にも日本の存在感が低下しているのは、誰が見ても明らかで、そういった“日沈む国”の卑屈な精神が、「ニッポン凄い」の自演乙(虚勢)につながっているのは間違いないでしょう。もちろん、卑屈な精神は、『永続敗戦論』が喝破したような“対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムを支える心性でもあります。そして、そこに露わになっているのが、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理なのです。


関連記事:
リベラル左派と「北朝鮮の脅威」
『永続敗戦論』


2018.02.11 Sun l 社会・メディア l top ▲
最近、体調がよくないということもあって、私も、自分の死について考えることが多くなりました。

先日、椅子から立ち上がったら、まっすぐに歩けないほどフラフラするのでした。洗面所に行こうと廊下を歩くのに、千鳥足のようになり左右の壁に身体がぶつかるのでした。さらに歯を磨こうとコップを手にしたら、うまく持つことができず、コップを床に落とす始末です。

私は、すかさず目の前の鏡に映っている自分の顔を見ました。しかし、表情に歪みはありません。また、両手を肩まで持ち上げて左右に広げました。しかし、片一方が下がるということもありません。自分の名前と住所を口に出してみましたが、別に呂律がまわらないということもありません。

私は、ふらつく足で居室に戻り、ベットに仰向けになりました。すると、徐々に頭のほうから逆さまに落ちていくような感覚に襲われました。遊園地に行くと、横一列に座って後ろ向きに回転するアトラクションがありますが、あんな感じです。私は、ボーッとした(それでいてどこか快感でもあるような)意識のなかで、「このまま死ねたらいいなあ」と思いました。このまま意識が遠のいて死ねたら最高だなあと。

ところが、しばらく経つと、意識が遠のくどころか、逆に覚醒して落ち着いてきました。そして、結局、何事もなかったかのように気分はもとに戻ったのでした。

自分の死を考えるなかで、有賀さつきの「孤独死」のニュースは、少なからずショックでした。以来、西部邁氏の「自裁死」と有賀さつきの「孤独死」について、ずっと考えています。

二人には、余人が入り込めない覚悟があったのです。「自裁死」はとても無理ですが、有賀さつきの「孤独死」だったら私もできそうな気がします。

家族がいながら、病名を伏せ、臨終に立ち会うことも拒否するというのは相当な覚悟ですが、私の場合、家族がいませんので、そこまで覚悟を背負う必要もないのです。

このブログでも再三書いていますが、私は孤独に生き孤独に死ぬ人生を選択していますので、あとは具体的に死の過程に覚悟を持てばいいだけの話です。

有賀さつきは、死を悟り、入院する前に銀行口座なども既に解約していたそうで、父親が言うとおり「すごい精神力」だな思います。

鈴木いづみは、「老衰したい。ジタバタみぐるしくあばれて『死にたくない』とわめきつつ死にたい」と言っていたにもかかわらず、36歳で(しかも、娘の目の前で)自死したのですが、それもまたみずからの死に対して覚悟することを選んだと言えるのかもしれません。

前に、自分の死について心配事はなにかという葬儀会社のアンケートがネットに出ていましたが、お金がないとかお墓がないとか残される家族が心配とかいった回答に混ざって、「看取ってくれる人がいない」という回答がありました。それも10%近くの人がそう回答していました。

「孤独死」は、他人事ではないのです。有賀さつきと違って、(私もそうですが)最初から独り身の人間も多いのです。誰にも看取られずに死ぬというのは、もう特別なことではないのです。

いつもの朝が来て、いつもの一日がはじまる。そんな日常のなかで誰にも知られることなく息を引き取る。それは願ってもない死に方です。そう死ねたらいいなあと思います。


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ある女性の死
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2018.02.06 Tue l 訃報・死 l top ▲
出川哲郎のCMでおなじみの仮想通貨取引所コインチェックにおいて、顧客から預かっていた580億円相当の仮想通貨NEMが流出した事件で、真っ先に思い浮かべたのは、先日、朝日新聞に載っていた下記の岩井克人氏のインタビュー記事です。すべては、この記事に尽きるように思います。

朝日新聞デジタル
(インタビュー)デジタル通貨の行方 経済学者・岩井克人さん

そもそも「通貨」という呼び方が間違っていると言った人がいましたが、仮想通貨(デジタル通貨)は、あくまで貨幣という幻想、貨幣になるであろうという幻想で成り立っているものにすぎないのです。

しかし、岩井氏は、投機の対象になった仮想通貨は、貨幣になるためには「過剰な価値」を持ちすぎたと言います。

 「(略)あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」


貨幣は、価値が安定していることが大前提なのです。それが「だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』」という安心(信用)につながるのです。

――一方、使える店やサービスは増えており、日本も資金決済法を改正して通貨に準ずる扱いにしました。この動きのギャップは、どう考えればよいですか。

 「値上がりしているので事業者が受け入れを始める一方、人々は値上がり益を期待して貨幣としてはあまり使わない、という矛盾が起きています。もちろん、価値が下がると思い始めたら人々は急いで貨幣として使おうとするでしょうが、その時、事業者は受け入れを続ければ損をするので、受け入れをやめるはずです。ただ、投機家はこうした動きのタイムラグを見越し、だれかがババをつかんでくれると思って投機をしているのかもしれない。現実に多少なりとも支払い手段として使われている以上、対応した法整備は必要ですが、それが貨幣になることを保証しているわけではありません」


仮想通貨が投機のババ抜きゲームの対象になるのは必然かもしれません。しかも、百歩譲って投機=投資の対象として見ても、インサイダー取引きやノミ行為がやりたい放題の”仮想通貨市場”は、最低限のマネーゲームの体も成してないとさえ言えるのです。

また、デジタル技術で支えられた「匿名性」や「自由放任主義」が、ジョージ・オーウェルが描いた超管理社会と紙一重だというのは、慧眼と言うべきでしょう。

コインチェックの社長も20代ですが、流出の報道を受けて、渋谷のコインチェックの本社に押しかけてきた顧客も、ネットで不労所得を得ようとする若者たちが大半でした。

ネットには、「できれば汗を流して働きたくない」と思っている人間が、働かなくても金儲けができるような幻想を抱く(抱かせる)一面があります。そういった情弱な人間たちに幻想を抱かせて金儲けをする仕掛けがあるのです。しかし、そこにあるのは、金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間のほうが儲かる(山本一郎)身も蓋もない現実です。

金を掘る道具を売る人間は、宝探しの犬のように、「ここに金があるぞ」「早く掘らないと他人に先を越されるぞ」とワンワン吠えて煽るのです。ネットで一攫千金を夢見る人間たちは、所詮「煽られる人」にすぎないのです。
2018.01.28 Sun l ネット l top ▲
手前味噌になりますが、文春砲とそれに煽られる“お茶の間の論理”や、大塚英志が言う「旧メディア のネット世論への迎合」によって文春砲が増幅される“私刑の構造”について、私はこのブログで一貫して批判してきたつもりです。

ただ、今回の小室哲哉に関する文春砲については、文春砲に煽られる“お茶の間の論理”だけでなく、一転して文春砲を批判する世論に対しても、違和感を抱かざるを得ません。

今回の文春砲について、いろんな人が発言していますが、そのなかで目にとまったのは、ゲスの極み乙女。の川谷絵音の「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間。」という発言と、新潮社の出版部部長でもある中瀬ゆかり氏の「二元論でものを考える人は怖い」という発言です。

デイリースポーツ
川谷絵音「病的なのは週刊誌でなく世間」

デイリースポーツ
中瀬ゆかり氏、文春批判にひそむ危険性を警告「二元論でものを考える人は怖い」

中瀬氏はつづけて、つぎのように言ってます。

「私の好きな言葉に『知性っていうのは、思ったことを極限までに突き進めないことだ』っていう。知性っていうのは、あるところで歩留まりというか、そこで止められることが一種の知性だと思っているので。一方的に、感情だけでカッとして、『だから廃刊にしろ』とか『不買運動だ』みたいになっている人たちは、また今度、何かあった時には手のひらを返すんだろうなって気はしてみてますね。


川谷絵音の発言に対して、ネットでは「お前が言うな」と批判が起きているそうですが、私はむしろ中瀬氏の発言のほうに、「お前が言うな」と言いたくなりました。

世間も週刊誌もメディアも「病的」なのです。そうやって“異端”や”異物”を排除することで、”市民としての日常性”が仮構されるのです。”市民としての日常性”は、そんな差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないのです。

それにしても、中瀬氏の“知性論”は噴飯ものです。「留保」ということを言いたかったのかもしれませんが、そうやって他人の不幸を飯のタネにする自分たちのゲス記事をただ弁解しているとしか思えません。そもそも新潮社の中瀬氏がテレビのワイドショーに出て、したり顔でコメントしている光景にこそ、”私刑の構造”の一端が垣間見えるのです。

今回、文春砲を批判し炎上させている人間たちは、小室の場合はやりすぎだけど、山尾志桜里や上原多香子やベッキーは別だというスタンスが多いようです。男の不倫には理由があるが、女の不倫はどんな理由も許されないとでも言いたげです。そこにあるのは、文春や新潮と同じ男根主義的な”オヤジ目線”です。また、日頃不倫に眉をしかめる世間の人間たちも、妻の介護によるストレスや欲望のはけ口を身近な女性に求めたことには、なぜか理解を示すのでした。

前も書いたことがありますが、小室哲哉に関しては、みずからが手を付けたB級アイドル(華原朋美)をデビューさせた公私混同ぶりや、絶頂期の目をおおいたくなるようなバブリーな振舞いに、私は当時から違和感を抱いていました。

絶頂期の彼には、今のような如何にも「誠実そうな」姿とは真逆な一面がありました。常にクスリやオンナの噂が付き纏っていたのは事実です。詐欺事件で逮捕されたときも、事件に登場する人物たちにどこかいかがわしい人間たちが多かったのも事実でしょう。

芸能人である限り、「不倫なんてどうだっていいじゃないか」「どこが悪いんだ」「お前たちだって不倫したいと思っているだろう」と口が裂けても言えないのです。そのため、小室哲哉は、よりによって妻の介護と不倫を結び付け弁解しているのです。小室哲哉が虚像であることは言うまでもないでしょう。文春砲に対してどっちの立場をとるにせよ、その当たり前の前提がすっぽりとぬけ落ちているのです。それが違和感を抱く所以です。


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2018.01.25 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
二階堂


遅くなりましたが、鎌倉に初詣に行きました。日曜日だったので、鎌倉駅も小町通りも若宮大路の段葛も人でごった返していました。

ただ今日は、鶴岡八幡宮を素通りして、金沢街道を東に進み、二階堂に行きました。鶴岡八幡から5分くらい歩くと、その名もずばり「岐れ道」という標識が見えてきます。その「岐れ道」を左折すると二階堂です。昔は「二階堂大路」とか呼ばれていたみたいですが、角には「お宮通り」という表示がありました。

二階堂は、大きな邸宅が並ぶ閑静な住宅街で、昔から作家や画家などが居を構えていました。私も鎌倉では好きな場所です。下記のウィキペディア以外にも、久米正雄や川端康成も一時住んでいたそうです。また、高橋和己や神西清や高橋源一郎も住んでいたという話を聞いたことがあります。

Wikipedia
二階堂(鎌倉市)

ただ、最近は、屋敷跡にマンションや建売住宅が建てられて、昔の面影を失いつつあります。もっとも、今日行ったのは、二階堂のほんの入口にすぎません。鎌倉はどこもそうですが、同じ地名でも、表のバス通りから昔ながらの狭い道(大概一方通行になっている)をずっと奥に入って行ったところに住宅地が広がっているのが特徴です。鎌倉で暮らすなんて言ったら、優雅で素敵なイメージがありますが、実際は田舎で生活するのと同じで、通勤や通学はむろん、日常の買い物も不便を我慢しなければならないのです。そのため、私の知っている鎌倉出身の人間たちは、みんな高校卒業と同時に親元を離れ東京に出ています。地方出身者と同じなのです。

「お宮通り」の突き当りに鎌倉八幡宮(大塔宮)があります。鎌倉八幡宮は、鶴岡八幡宮のミニチュア版のような感じです。観光ルートから外れているからなのか、外国人観光客の姿はまったくありませんでした。その代わり、(鎌倉ではおなじみの)歴史散歩の中高年のグループが目に付きました。リュックを背負った彼らが、神社横の道からぞくぞくと出てくるのでした。おそらく二階堂の奥にある瑞泉寺をまわってきたのでしょう。

鎌倉宮のあとは、「お宮通り」を引き返し、途中の荏柄天神社に寄りました。来るとき、鎌倉駅に到着して改札口に向かっていると、前を歩いていた若い女の子たちが、「荏柄天神社は学問の神様だからさ‥‥」と言っているのが聞こえてきました。受験シーズンの真っ只中なので、菅原道真を祭っている荏柄天神社は合格祈願の受験生でいっぱいなのではないかと思ったのですが、参拝の列は思ったほど長くはなく、10分くらい並ぶと順番がきました。

Wikipedia
荏柄天神社

菅原道真を祭る「学問の神様」と言えば、九州の人間が思い出すのは福岡の大宰府天満宮ですが、荏柄天神社は大宰府天満宮とは比べようもないくらい小さな神社でした。やはり、受験生と思しき子供を連れた親子の姿が目立ちました。境内には、大宰府天満宮と同じように梅の木が植えられ、既に枝には赤い蕾が付いていました。

昔、年を取って二階堂あたりに住めたらいいなあと思ったことがありましたが、それも叶わぬ夢に終わりました。それだけによけい、合格祈願をする若者が眩しく見えて仕方ありませんでした。


鎌倉宮1
鎌倉宮

鎌倉宮2
鎌倉宮

荏柄天神社1
荏柄天神社

荏柄天神社2
荏柄天神社

荏柄天神社3P
荏柄天神社
2018.01.21 Sun l 鎌倉 l top ▲
ドッグヤード1月3日


正月休みの間、文字通り食っちゃ寝てのプチ引きこもり生活をしていましたので、夕方から散歩に出かけました。

横浜駅で降りて、馬車道・伊勢佐木町・長者町を歩き、帰りも日出町から桜木町、みなとみらいをまわって横浜駅まで歩きました。

途中、温かい蕎麦を食べたいと思いましたが、まだ正月の3日なので目当ての店はどこも休みでした。それで、仕方なくラーメンを食べて帰りました。

何度も同じことを書きますが、私は、休日の夜の横浜の街が好きです。祭りのあとのさみしさのようなものを覚えるからです。平岡正明の言う“場末感”が漂っているからです。

横浜は決してオシャレな街などではありません。文明開化の足音がする時代には、西欧文化の入口だった横浜はオシャレな街だったのかもしれませんが、今はどちらかと言えば、時代に取り残されたようなレトロな街になっています。

めまぐるしく変わる東京と比べれば、その違いは一目瞭然でしょう。みなとみらいや、あるいは青葉区や都筑区や港北区のような郊外のベットタウンは別にして、古い横浜の街にはまだ個人商店が残っているところも多いのです。アイパーをあてた古典的なヤンキーなども未だ生息しています。

私は、当時勤めていた会社で横浜を担当していましたので、白塗りのメリーさんが馬車道のベンチに座っている姿を見ることもできました。ちょうど横浜博覧会が催された頃です。その頃の馬車道は、今と違って人通りも多く賑わっていました。伊勢佐木町も、“伊勢ブラ”の時代には及ばないものの、まだ繁華街の華やかさが残っていました(だからゆずも路上ライブをやったのでしょう)。

一方で、都内と比べれば横浜はどこか地方都市のような雰囲気がありました。それが横浜の個性だったのです。そして、それからほどなく横浜の旧市街は、みなとみらいの開発と引き換えに、日増しに”場末感”を増していくのでした。

横浜市庁舎の建設に合わせるように、近くの北仲では高層マンションなどの建設がはじまっています。また、みなとみらいの空地も、いくつか建築中のビルがありました。

横浜の場合、街中のビジネスビルが建つ表通りから一歩なかに入ると、古い住宅街が広がっているのが特徴です。そんな路地の奥にひっそりと佇む家々が、街灯の仄かな灯りに照らし出される夕暮れの風景が私は好きです。それこそ、美空ひばりの「哀愁波止場」が聞こえてくるような感じがするのです。繁華街の路地にも、裏町のような雰囲気のところが多く残っています。そのコントラストが横浜の魅力なのです。

カメラをあたらしく買ったので、久しぶりにカメラをもって散歩に出かけたのですが、とは言え、写真を撮るとなると、やはりみなとみらいの風景になるのでした。みなとみらいは、謂わば表の顔です。横浜の人たちにとって、たしかにみなとみらいは”自慢”ではあるのですが、でも、愛着があるのは”場末感”が漂う旧市街なのです。


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2018.01.03 Wed l 横浜 l top ▲
元日は大手のスーパーは休みなので、夜、近所の食品だけを扱っているミニスーパーに行きました。

店内に入ると、数人の先客がいました。いづれも中年の男性ばかりでした。レジにはアルバイトと思しき若い男の子と女の子が立っていました。

奥の飲み物などを置いている棚のところに行くと、そこにも一人の男性が商品を物色していました。ところが、私の姿を見ると、ヨーグルトをひとつだけ手に持って売り場を離れ、入口の脇にあるレジに向かったのでした。棚のあるところはレジから死角になっています。私は何気に男性の後ろ姿を目で追いました。

すると、男性はレジを通り抜けてそのまま外に出たのでした。たしかに手にはヨーグルトのカップを持っていたはずです。

私は、レジに行って、「今の人万引きだよ」と言いました。「手にヨーグルトを持っていたはずだよ」。

しかし、レジの若者は、「そうですか」「わかりませんでした」と言うだけで慌てる様子はありません。「こらっ!」と叫びながら追いかける場面を想像していたので、なんだか拍子抜けしました。アルバイトの彼らには、どうだっていいことなのでしょう。私は、この店は万引きし放題だなと思いました。万引き犯も、それを知ってやったのかもしれません。

万引き犯は、40~50歳くらいで、ジャンパーを着た見るからにさえない感じの男性でした。バックを肩から下げていましたので、もしかしたら仕事帰りなのかもしれません。

元日に、ヨーグルトを1個万引きする中年男性。なにが哀しくてそんなことをしなければならないんだろうと思いました。吉本隆明は、お金を借りにきた友人に、「人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」と言ったそうです。たしかに、強盗だったらまだしも納得ができます。どうしてヨーグルト1個だけなのか。

メンヘラで万引きをするケースも多いそうですが、男性はそんなふうには見えませんでした。もちろん、腹を空かした子どもが家で待っているようにも思えません。おそらく浅慮なだけなのでしょう。捕まったら「レジでお金を払うのが面倒くさかったから」なんて言い訳をするのかもしれません。カギのかかってない自転車を拝借したり、目の前の忘れ物をこっそり懐に入れたりするのも同じでしょう。もっと飛躍すれば、人を押しのけて座席に座る人や、歩きタバコや歩きスマホをする人も似たようなものかもしれません。

そんな人たちをどう考えるかというのも、大事な思想です。ヒューマニズムでは、あんなやつはゴミだと切り捨てることはできないのです。もとより「ゴミ」なんてことばは使ってはならないのです。

抑圧された人民。そんなステロタイプな考えだけでは捉えられない現実が私たちのまわりには存在します。政治などより、そんな日常にある現実のほうがホントは切実なのです。モリ・カケに対する怒りより、駅のホームで列に割り込まれたときの怒りのほうが、私たちにとっては大きなことなのです。

平岡正明のように「あらゆる犯罪は革命的である」と考えれば、そう言えないこともありません。でも、私はやはり、情けないという思いしかもてないのでした。

このようにヒューマニズムの思想は、私たちの日常やそこにある個人的な感情の前では無力、とは言わないまでも非力なのです。だから、見ないことにしたり(見て見ぬふりをしたり)、取るに足らないことだと無視を決め込んだりするのかもしれません。それが現実をかすらない所以のように思います。


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2018.01.01 Mon l 日常・その他 l top ▲
先日、朝日新聞デジタルに、つぎのような宮台真司氏のインタビュー記事が載っていました。

朝日新聞デジタル
「制服少女」の告白、実はショックだった 宮台真司さん

この記事にあるように、社会学者の宮台氏が、援交をしたり、ブルセラショップに下着や制服を売ったりして小遣いを稼いでいる女子高生たちをフィールドワークして、『制服少女たちの選択』(講談社のちに朝日文庫)を書いたのが1994年です。それは、このブログで何度も書いていますが、私が仕事で渋谷に日参していた時期と重なります。

私は、女子高生など若い女性向けの商品を扱う仕事をしていましたので、「女子高生が流行を作る」などというメディアのもの言いを嘲笑しながら、宮台氏が言う「制服少女」たちを身近で見ていました。

暗さを押しつける前者(引用者:「彼女たちを「道徳の崩壊」の象徴として批判」する言説)と違い、彼女たちは「うそ社会」を軽やかに飛び越えていると感じました。「うそ社会」に適応するといっても、染まるのではなく、なりすます。内面の夢や希望は捨てない。断念と夢を併せ持つ明るい存在。僕は自分を重ねて共感したのです。


それは、私も同じでした。

要するに、「制服少女」たちのほうが一枚も二枚も上手だったのです。センター街に行くと、通りを行ったり来たりしている彼女たちに、背広姿のオヤジが「二万でどう?」などと声をかけている光景を当たり前のことのように目にすることができました。

そうやってテレクラや街頭で声をかけてくるオヤジのなかに、教師や役人や警察官やマスコミの人間がいることを彼女たちは知っていたのです。また、そんなオヤジたちが、一方で「道徳然」とした説教を垂れ、若者たちの性の乱れを嘆いていることもよく知っていたのです。

「論壇的ないし新聞の論説的な道徳然とした言説が、現実をかすりもして来なかったことが暴露された」というのは、そのとおりでしょう。

「現実をかすりもしない」「道徳然とした言説」は、今の左派リベラルの言説も例外ではありません。

菊地直子元被告の無罪確定について、マルチ商法やカルト宗教の被害者救済で知られる弁護士の紀藤正樹氏が、みずからのブログでつぎのように書いていました。

17年の逃亡生活は何だったのだろうか?無罪なら逃亡する必要はなかった。

無罪は、とても後味の悪い結末となった。それは被害者にとっても、社会にとっても、そして菊地さんにとっても。

菊地さんは、逃亡のために多くの人に迷惑をかけた。

逃亡のために多くの税金が投入された。

無罪と言っても、菊地さんが、殺人集団であるオウム真理教に所属していた事実は、変わらない。

今回の無罪を教訓に、菊地さんには、オウム真理教の犯罪性の語り部になってほしい。

弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS
17年の逃亡生活は何だったのか?オウム・菊地直子の無罪確定


菊地直子元被告は、無罪が確定したのです。「17年間の逃亡」は、警察が指名手配したからです。手記にあるように、警察に捕まれば無罪でも有罪にさせられるのではないかという恐怖から逃げたのです(実際に一審では有罪判決が下され、無罪なのに有罪にさせられそうになったのでした)。

「多くの税金が投入された」などと言うのは、菊地元被告に対してではなく、無罪の人間を容疑者として指名手配した警察に言うべきことでしょう。

これが法律の専門家の言うことなのかと驚くばかりです。無罪が確定し、これから一般人として社会復帰しなければならない人間が、どうして「オウム真理教の犯罪性の語り部」にならなければならないのでしょうか。

マルチ商法やカルト宗教の被害者救済の弁護をするというのは、リベラルな人なのでしょう。でも、このように、紀藤弁護士のリベラルなるものは、いつでも全体主義に転化できるようなリゴリズムで固められたそれでしかありません。

市民社会や市民としての日常性を所与のものとし、その安寧と秩序を保守することを一義とするような思想には、左派も右派もリベラルも違いはないのです。いざとなれば、みんなで翼賛の旗を振りはじめるに違いありません。
2017.12.31 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、オウム真理教による東京都庁爆発物事件で殺人未遂ほう助罪に問われた菊地直子被告の上告審で、最高裁が検察側の上告を棄却する決定をし、同被告の無罪が確定したというニュースがありました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<元オウム信者>菊地直子被告の無罪確定へ 検察の上告棄却

では、検察側の証人で出廷した井上嘉浩死刑囚の偽証があったとは言え、一審の裁判員裁判で下された判決はなんだったんだ、と思わざるをえません。裁判員裁判での判決は、上級審で減刑されたり破棄されたりするケースが多いのですが、裁判員裁判に往々にして見られる俗情におもねる感情的な厳罰主義には大きな問題があると言えるでしょう。裁判員裁判は、審理や量刑に市民感覚を反映させる目的で導入されたのですが、そもそも市民はそんなに賢明なのかという疑問があります。『大衆の反逆』を書いたオルテガが現代に生きていたら、間違いなく裁判員裁判には反対したでしょう。

市民裁判員たちに、オウムの信者だったら罪を犯しているに違いない、だったら厳罰に処すのは当然だ、という先入観がなかったとは言えないでしょう。もしかしたら、市民感覚なるものは、その程度のものかもしれないのです。

一方、菊地元被告のことを「走る爆弾娘」などとレッテルを貼り、あたかも爆弾テロをおこなう危険人物であるかのように書いていたメディアの罪も看過してはならないでしょう。無罪が確定してもなお、「時間の壁」「関係者無念」などと、ホントは有罪だけど、(逃亡で)時間が経ったので無罪になったのだと言わんばかりの報道が目に付きます。

17年間も逃亡したのは、「警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられる」という恐怖を抱いていたからだと、彼女は手記に書いています。裕福な家庭に育ち、大学に進学してすぐに出家したために、文字通りの世間知らずだったのでしょう。身に覚えがなかったらどうして17年間も逃亡したんだというもの言いも、メディアお得意の(推定有罪!の)印象操作と言えるでしょう。


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2017.12.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
毎年書いていることですが、年の瀬はどうしてこんなに淋しい気持になるんだろうと思います。年を取ると、よけいその気持が強くなります。しかも、そこには少なからず侘しさも伴っているのです。

クリスマスの時期になると、最近はどこもイルミネーションばやりですが、カップルや家族連れなどがさも楽し気に嬌声をあげている前を通るのは、苦痛で仕方ありません。そのため、気が付いたら、いつの間にかイルミネーションを避け、遠回りして歩くようになっている自分がいました。

イブの日、野暮用で渋谷へ行ったら、革命的非モテ同盟という集団(と言っても十数人)のデモに遭遇しました。

革命的非モテ同盟
https://kakuhidou.fumizuki.net/

「クリスマス粉砕!」「恋愛資本主義反対!」「街中でイチャつくのはテロ行為。テロとの戦いを貫徹するぞ!」「セックスの回数で人間を差別するな!」「セックスなんかいくらやったって無駄だ!」(サイトより)などというスローガンを掲げてデモをしていましたが、立ち止まってデモが通り過ぎるのを見遣りながら、心のなかで拍手喝さいを送っている自分がいました。

でも、考えてみたら、「非モテ」も若い人の話なのです。年を取るのは、「非モテ」以前の話です。

私たちが若い頃はちょうどバブルの真っ只中でしたので、クリスマスは恋人とディナーを楽しみ、都心のホテルで一夜をすごすのが定番でした。

当時、私は六本木にある会社に勤めていたのですが、イブの夜、仕事を終え駅へ向かう途中、あるレストランの前を通りかかった際に目にした光景を今でもよく覚えています。その店は半地下になっていて、通りから店内が見渡せるのですが、見ると、壁際の席に女性が、反対の通路側に男性がお行儀よく一列に並んで座っているのでした。まるでおやつの前に勢ぞろいさせられた幼稚園児のようでした。しかし、当時の私もまた同じようなことをしていたのです。

赤坂プリンスホテルは「赤プリ」なんて呼ばれ、イブの夜をすごすカップルにとってはあこがれのホテルでしたが、煌々と灯る客室の明かりを見上げながら、あのそれぞれの部屋でみんないっせいにセックスをしているのかと思うと、なんだかホテルの灯りも妖しげに見えたものです。

でも、今は昔、私は背を丸め、白髪交じりの頭をうつむけて、これからイブの夜を楽しむカップルや家族連れとは逆方向に家路を急いでいるのでした。

クリスマスが終わると、学校も冬休みになり、電車もいっきに空いてきます。それにつれ、キャリーバックを持った乗客の姿も目に付くようになりました。

一方で(これも毎年書いていることですが)、人身事故で電車が遅れることも多くなります。

おせっかいなテレビが、年末年始を一人ですごしている人間のアパートをアポなし訪問して、どうして一人ですごしているのか事情を訊く番組がありますが(私だったら水をかけて追い払うけど)、私もいつの間にか、そんな「一人正月」の人間になっていたのです。

でも、今、イルミネーションの前で嬌声をあげている若者たちも、そのうちイルミネーションを避けて歩くようになるでしょう。そうやって時はめぐって行くのです。

年は取りたくないものだと思います。しかし、容赦なく年は取って行くのです。それもあとで考えれば、あっという間なのでした。
2017.12.26 Tue l 日常・その他 l top ▲
ルポ ニッポン絶望工場


日本は公式には「移民労働者」を認めていません。しかし、下記の毎日新聞の記事によれば、2016年末の在留外国人数は238万2822人で、そのうち永住資格を持つ「永住者」が72万7111人もいるそうです。

在留資格のなかでは、「永住者」がもっとも多く、つぎに在日韓国・朝鮮人などの特別永住者(33万8950人)、留学生(27万7331人)、技能実習生(22万8588人)の順になっています。「永住者」は「1996年の約7万2000人から約10倍と大幅に増加」しているのです。

首都大学東京の丹野教授が言うように、「在留資格の更新が不要で職業制限もない『永住者』は実質的に移民」なのです。これが日本が「隠れ移民大国」と言われるゆえんです。

毎日新聞
在留外国人 最多238万人…永住者、20年で10倍

一方、「移民労働者」を認めない政府が、「国際貢献」や「技能移転」という建て前のもとに、外国人労働者の期限付きの受け入れをおこなっている「技能実習生制度」には、過重労働や低賃金など多くの問題が指摘されています。“現代の奴隷制度”だと指摘する人さえいるくらいです。

実習生の失踪も問題になっていますが、その主因になっているのが低賃金です。

実習制度を統括する公益財団法人「国際研修協力機構」(JITCO)が公表している2009年9月に「基本給が最も低い技能実習生」の平均給与額は、14.3万円です(なぜか2009年以降公表されてない)。しかし、そのなかからさまざまな名目で経費が引かれるため、実際に手にするのは10万円くらいだと言われています。

昨年度の大宅賞の候補になった『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α文庫)の著者・出井康博氏は、外国人労働者が置かれている実態について、「日本が国ぐるみで『ブラック企業』をやっているも同然だ」と書いていました。

どうして低賃金になるのかと言えば、背後にピンハネの構造が存在するからです。つまり、実習生たちが受け取るべき労働の対価の一部が、「会費」や「管理費」の名目で、監理団体や監理機関の「天下り役員たちの報酬に回されている」からです。

『ルポ ニッポン絶望工場』では、その「”ピンハネ”のピラミッド構造」について、具体的につぎのように書いていました。

 実習生の受け入れ先では、「監理団体」と呼ばれる斡旋団体を通すのが決まりだ。受け入れ先の企業は、監理団体に対して紹介料を支払うことになる。(略)一人につき約50万円の支払いが生じる。(略)
 実習制度には、民間の人材派遣会社などは関与できない。監理団体も表面上は「公的な機関」ということになっていて、実習生の斡旋だけを目的につくることは許されていない。しかし、そんな規制はまったく形骸化してしまっている。
 監理団体には一応、「協同組合」や「事業組合」といったもっともらしい名前がついている。だが、実際は人材派遣業者と何ら変わらない。しかも、実習生の斡旋を専業とする団体がほとんどだ。監理団体は業界に幅広い人脈を持つ関係者が設立するケースが多い。運営には、官僚に顔のきく元国会議員なども関わっている。
(略)
 受け入れ側の日本と同様、送り出し国でも公的な機関しか関われない決まりだ。しかし、それも建て前に過ぎず、実際には現地の人材派遣会社が送り出しを担っている。政府や自治体の関係者が送り出し機関を設立し、仲介料を収入源にしていることもよくある。
 送り出し機関にとっても、実習生は”金ヅル”なのである。一人でも多く日本へと送り出せば、毎月入っている「管理費」も増える。だが、実習生が失踪すれば管理費も途絶えてしまう。そこで失踪を防ごうと、実習生から「保証金」と称して大金を預かり、3年間の仕事を終えるまで「身代金」にしているような機関もある。
 一方、日本の監理団体は、実習生が仕事を始めると、受けれ先から「管理費」を毎月徴収する。送り出し機関と山分けするためのものだ。金額は団体によって差があるが、月5万円前後が相場である。だからといって、監理団体が実習生を「管理」してくれるわけではない。
 受け入れ先は、監理団体に年10万円程度の「組合費」も支払わなくてはならない。あの手この手で、監理団体が受け入れ先からカネを取っているわけだ。

 
こうしたピンハネ構造には官僚機構も加わっています。「国際研修協力機構」(JITCO)は、法務・外務・厚生労働・経済産業・国土交通の5つの官庁が所轄し、役員には各官庁のOBが天下りしています。しかも、JITCOは、監理団体や受け入れ先から年13億円の会費収入を得ているのです。

 受け入れ企業の上には監理団体と送り出し機関があって、さらに制度を統括するJITCOが存在する。このピラミッド構造を通じ、実習生の受け入れが一部の業界関係者と官僚機構の収入源となっている。そして陰では、官僚や政治家たちが利権を貪っているわけだ。その結果、実習生の賃金は不当に抑えられてしまう。


しかし、話はこれだけにとどまりません。実習制度の問題点が指摘されると、その「改善」と制度の拡充を目的に、あらたな法律(技能実習適正化法)が作られたのでした。そして、同法の成立に伴い、今年1月、JITCOとは別に、厚労省と経産省によって外国人技能実習機構(OTIT)という監理機関が設立されたのでした。しかし、OTITも受け入れ先企業や監理団体からの「会費」を収入源としており、またひとつピンハネ先と天下り先が増えたと言っても言いすぎではないでしょう。「転んでもタダでは起きない」如何にも官僚らしいやり方ですが、出井康博氏もあたらしい監理機関の設立について、「官僚利権」の「焼け太り」だと批判していました。

そのOTITのサイトに、先日、つぎのような「重要なお知らせ」が掲載されていました。

外国人技能実習機構(OTIT)
送出機関との不適切な関係についての注意喚起

でも、これがみずからを棚にあげたきれい事にすぎないことは誰が見てもあきらかでしょう。諸悪の根源は、国が主導する「”ピンハネ”のピラミッド構造」にあるのです。

しかし、“現代の奴隷制度”は、実習制度だけではありません。技能実習生の”悲惨な実態”を取り上げる新聞社に対しても、出井氏は批判の矛先を向けています。新聞社も決して他人事ではないのです。

今や都市部の新聞配達は外国人(特にベトナム人)留学生なしでは成り立たないと言われています。彼らは、留学ビザで来日していますので、就労は「週28時間以内」に制限されています。しかし、彼らの目的は勉学ではなく就労(出稼ぎ)です。日本語学校のなかには、手数料を取ってアルバイトを斡旋しているところもあるそうです。

人手不足に悩む新聞販売店は、(なにがあっても泣き寝入りするしかない)彼らの”弱み”に付け込み、「週28時間以内」の制限はおろか、法定賃金や法定休日を無視した違法就労を強いているのです。出井氏は、「外国人労働者で今、最もひどい状況に置かれているのは実習生ではなく、留学生」で、その典型が「新聞配達の現場」であると書いていました。

 朝日新聞本社社員の平均年収は約1237万円(2015年3月末)にも達する。そんな高給も販売所、そして配達現場で違法就労を強いられている外国人たちのおかげなのである。


まったくどこに正義や良心があるんだと言いたくなります。テレビやネットでは、相変わらず「ニッポン、凄い!」の自演乙が満開ですが、(大手企業の検査データ改ざんなどもそうですが)どこが「凄い!」のだろうと思ってしまいます。ホントに日本は世界の人々があこがれる「凄い!」国なのか。出井氏もつぎのように書いていました。

 シリア内戦で難民が欧州に押し寄せた際、日本も彼らを受け入れるべきだという声が出た。確かに日本は、欧米の先進国と比べて難民の受け入れ数は少ない。だが、難民にとっては日本は魅力的な国なのだろうか。事実、400万人にも達したシリア難民のうち、日本への亡命を希望した人はわずか60人程度と見られる。命がけで国を逃れたシリア人にとってすら、日本は「住みたい国」ではないのである。
 今、日本でも移民の受け入れをめぐっての議論が始まっている。だが、私から見れば、受入れ賛成派、そして反対派にも大きな勘違いがある。それは、「国を開けば、いくらでも外国人がやってくる」という前提で議論を進めていることだ。日本が「経済大国」と呼ばれ、世界から羨望の眼差しを注がれた時代は今や昔なのである。にもかかわらず日本人は、昔ながらの「上から目線」が抜けない。


外国人労働者の主流は、中国人や日系ブラジル人からベトナム人やネパール人に変わりつつあるそうです。中国人やブラジル人が少なくなっているのは、母国が経済発展して、もはや日本でお金を稼ぐ必要がなくなったからです。それは裏を返せば、出井氏が書いているように、日本が彼らに「見捨てられた」と言えなくもないのです。彼らにとって、日本はもはやお金を稼ぐ国ではなくなったのです。その魅力も必要性もなくなったのです。もちろん、そのうち、ベトナム人やネパール人からも「見捨てられる」ときがくるでしょう。

国家を食い物にすることしか能のない政治家や官僚たち。自分たちが坂道を下っているという自覚さえない国民。そこには、移民受け入れ是か非か以前の問題があるように思えてなりません。「ニッポン、凄い!」と自演乙しているのも、なんだか滑稽にすら思えてくるのです。


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上野千鶴子氏の発言
2017.12.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
年を取っても、社会に媚を売るような衛生無害な好々爺なんかではなく、永井荷風のような好色で偏屈な老人になりたいと思っていますが、好色はともかく、偏屈ぶりはそれなりに身に付いている(身に付きつつある)気がします。

今日、最寄りの駅で改札口を出ようとしたときでした。その改札機はいつも出口専用に設定されているのですが、なにを勘違いしたのか、前からやってきた初老の男性が、私に先を越されまいとするかのように、急いで財布を取り出しセンサーのところにタッチしたのでした。当然、エラーが出て通ることができません。

すると、男性は再び財布をセンサーに(前より激しく)タッチしたのでした。結果は同じです。男性は、髪の毛がヘルメットのようにベタッと貼り付いた、見るからにむさ苦しい感じで、パスモ(かスイカ)が入っている財布もボロボロに使い古されたものでした。

男性は、みずからの勘違いに気付かず、何度も同じ行為を繰り返しています。私は、改札機の前で男性の行為が終わるのを待っていました。しかし、学習能力のない男性の行為は終わりそうもありません。

すると、そのとき、しびれを切らした私の口からつぎのようなことばが発せられたのでした。

「違うだろ、タコ!」

最近、この「タコ」ということばがよく口をついて出るのです。そのため、相手が怒ってときどきトラブルになることがあります。

男性は、私のことばでやっと自分の勘違いに気付いたようで、隣の改札機に移ったのでした。ただ、改札機を通るとき、「なんだ、こいつは」というような目で私のほうを見ていました。

そのあと、私は、駅前のスーパーに行きました。買い物を終え、レジで精算し、台の上で買った食品を買い物カゴからレジ袋に移そうとしたときです。レジ袋のサイズが小さくて、買ったものがはみ出すほどでした。

そこで、私は、レジ係の女性のもとへ歩み寄り、こう言ったのです。

「ケチらないで、もっと大きな袋をくれないかな」

レジに並んでいたお客たちは、一様にキョトンとした顔で私を見ていました。

とは言え、永井荷風は行きつけの天ぷら屋で、いつも座っている席に他の人間が座っていたら、その後ろに立って、わざと大きな咳払いをして席をのかせたそうで、それに比べれば私などはまだ初心者です。永井荷風の域に達するには、まだまだ修行が足りないのです。


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永井荷風と岸部シロー
2017.12.04 Mon l 日常・その他 l top ▲
大相撲日馬富士の暴行問題。

もし加害者が横綱の日馬富士ではなく一般人だったら、当然逮捕されたはずです。しかし、横綱だと逮捕を免れ、書類送検でことが済まされるのです。

しかも、話は暴行傷害事件という問題の本質を離れ、おかしな方向に行っています。なぜか警察に告訴した貴乃花親方が批判に晒されているのです。

話をおかしな方向にもって行ったのは、テレビやスポーツ新聞など大相撲周辺のメディアです。「相撲ジャーナリスト」や「東京相撲記者クラブ会友」などという手合い(最近はそれに「相撲レポーター」というのが加わっています)のいかがわしさは、もっと指摘されて然るべきでしょう。

今回の問題では、日本相撲協会とメディアとの力関係が如実に表れているように思います。例えばNHK以外の民放のテレビ局は、本場所の取組みをスポーツニュースなどで取り上げる場合でも、すべて日本相撲協会の映画部が撮影した映像を借りるしかないのです。自由に取材できないのです。つまり、メディアは相撲協会から完全に首根っこを押さえられているのです。

相撲協会の隠蔽体質も、こういった力関係が背景にあるのはあきらかでしょう。今回も、貴乃花親方が批判されるのは、内輪で処理しなかった(隠蔽しなかった)からでしょう。

そもそも大相撲はスポーツと言えるのか、あるいは大相撲はホントに「国技」なのかという疑問があります。

ネットを見ていたら、ヤフー知恵袋に「相撲ってフリークショ-みたいなものですか?」という質問がありました。それに対して、つぎのような秀逸な回答がおこなわれていました。

一部を除き、あんな太った体形にするのが有利な種目なんて世界標準からみたら奇形大会みたいなものですもんね。
フリークショーという言葉でも外れていないかもしれない。

大体、朝起きて空きっ腹でけいこして、その後大食して昼寝して脂肪をつけるという、スポーツ医学を真っ向から否定するような競技は、このヘルシーブームに逆行しますよね。

Yahoo!知恵袋
相撲ってフリークショ-みたいなものですか?


私も昔、なにかの雑誌で、大相撲を「小人プロレス」やサーカスの「小人曲芸」などと同じように、フリークショ-として論じている記事を読んだ記憶があります。体形的な特徴(「異形」)を見世物にする残酷な世界が、昔の大衆文化にはあったのです。

取組みで、でぶっちよの力士が土俵に転がったり、土俵下に頭から落ちたりすると、観客は大笑いしながら拍手喝采を送っていますが、それはどう見ても、スポーツ観戦というより見世物を見ている感じです。

「異形」ということで言えば、歌舞伎なども同じ系譜に属すると言ってもいいのかもしれません。江戸時代以降の相撲は、勧進興行としておこなわれていたそうで、歴史的に見ても、相撲は歌舞伎など芸能と重なる部分があるのです。

寺社権力の庇護を外れた芸能は、生き残りのため、不浄の場所である河原で興行を打つことになります。そのために、「河原乞食」などと呼ばれ蔑まされたのでした。それは、相撲も似たようなものでしょう。「日本の伝統文化を継承」と言っても、それは本来マージナルなものだったはずです。

海外では、力士は「スモウレスラー(sumo wrestler)」と呼ばれるそうですが、大相撲もプロレスなどと同じように興行(見世物)なのです。興行である限り、八百長云々は野暮というものでしょう。今回「モンゴル会」の実態が公になったことで、ますますその疑念を深めた人も多いのではないでしょうか。

ただ、話がややこしいのは、同じ興行でも、大相撲は国家に庇護されているため、「国技」などと言われ、権威づけられていることです。もっとも「国技」の根拠も、明治天皇が相撲好きだったからというような話にすぎないのです。なかには、相撲の常設施設を造る際、「国技館」と名付けたので「国技」と呼ばれるようになったという信じ難い(アホらしい)説さえあります。

横綱が神の「依代」と言われるのも、勧進興行の名残なのでしょう。言うなれば、勧進興行の(普請のためにお金を集めるための)セールストークだったのでしょう。そのために、「品格」をもたなければならないと言われても、彼らは単にスモウレスラーのチャンピオンにすぎないのです。チャンピオンになったからと言って、急に「品格」なんかもてるわけがないのです。白鵬などを見ても、無理して「品格」がある風を装っているのがありありと見てとれます。

力士たちの貧しいボキャブラリーが「愛嬌」と見られるのも、見世物ゆえでしょう。彼らが、日本の伝統文化を背負っているなどと言われ裃を付けても、どこかぎこちなく見えるのも、(まるで「騎馬民族征服王朝説」を地で行くように)今やチャンピオンの多くが大陸からやって来た騎馬民族だからという理由だけではないでしょう。

公益財団法人という特段の地位を与えられ、国家に庇護されている今の大相撲は、虚構ではないのか。今回のように、対応がおかしな方向に向かうのも、虚構であるがゆえの弥縫策に走るからではないのか。そんな気がしてなりません。
2017.12.01 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
座間の事件に関して、先日、下記のような記事が出ていました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<座間9遺体>笑顔、もう会えない 全員身元判明

しかし、被害者たちは、記事に出ているような「同級生」や「職場の上司」に心を開くことはなかったのです。それどころか、家族にさえ心を閉じていたのです。学校に通っているときに、いじめに遭ったり、登校拒否になった被害者もいますので、なかには「同級生」が心を閉じる原因になったケースもあるでしょう。

被害者たちは、加害者とのやりとりのなかで、まわりの人間たちはなにもわかってない、ただきれい事を言うだけだ、と訴えていましたが、この記事などもまさにその典型と言えるでしょう。

私たちは常に競争のなかに身を晒されているのです。そのなかで生きることを強いられているのです。それがこの社会のオキテです。だから、電車が来てもないのに、まるで強迫観念にかられるかのようにホームへの階段を駆け降りて行くのでしょう。

電車が来ると、まだ人が降りているのももどかしいかのように、血走った目で乗り込んで来て、我先に座席を確保する人々。それは、実にみっともない姿です。しかし、一方で、そうしなければ生きていけないのだ、そうすることが懸命に生きていることの証しだ、みたいなイデオロギーがこの社会にあります。みっともないなんて思ったら“負け”なのです。落伍者になるのです。座間の事件で犠牲になった女性たちは、そんな座席争いのなかで、むしろ押しのけられ邪魔扱いされるような人たちだったのではないか。

Web2.0の頃、ネットがリアルな社会で居場所のない人たちのあらたな居場所になるのだ、という理想論が喧伝されましたが、しかし、ネットもいつの間にかこの社会のオキテを肯定するイデオロギーに覆われています。犠牲になった女性たちにとって、ネットはホントは居場所なんかではなかったのです。金満な虚業家が英雄視されるネットでは、今や経済合理性こそが唯一の価値基準であるかのようです。「楽して生活したかった 」という”動機”のなかにも、ネットに共通した価値観(荒んだ社会観や人間観)が伏在しているように思えてなりません。女性たちは、ネットの餌食になったと言えなくもないのです。

私たちは、「死にたい」と訴える人間に対して、一体どんなことばを持っているでしょうか。この記事にあるような、まわりの人間たちの「建前」や「きれい事」を超えるようなことばを持っているでしょうか。私たちもまた、知らず知らずのうちに、毎日ホームへの階段を駆け降り、人を押しのけ我先にと座席争いをしているのではないか。せいぜいがそう自問することくらいしかできないのです。


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雨宮まみの死
2017.11.19 Sun l 社会・メディア l top ▲
「衣料品不況」と言われるほど、衣料品が売れてないのだそうです。

『誰がアパレルを殺すのか』(杉原淳一/染原睦美・日経BP社)によれば、「1991年を100とした場合の購入単価指数は、2014年度には60程度まで落ち込んでいる」のだとか。また、「総務省の家計調査によると、1世帯当たりの『被服・履物』への年間支出額は2000年と比べて3割以上、減少した」そうです。

本書では、その要因として、つぎのような”内輪の論理”=「負のサプライチェーン」を上げていました。

 中国で大量に作り、スケールメリットによって単価を下げる。代わりに大量の商品を百貨店や駅ビル、SCやアウトレットモールなど、様々な場所に供給することで何とか商売を成り立たせる。需要に関係なく、単価を下げるためだけに大量生産し、売り場に商品をばらまくビジネスモデルは、極めて非合理的だが、麻薬のように、一度手を染めると簡単にはやめられないものだった。ムダを承知で大量の商品を供給しさえすれば、目先の売り上げが作れるからだ。


その結果、ブランド名は違っても(ブランド名が違うだけで)、似たようなデザインの似たような商品が店頭にあふれるようになったのです。ブランド名も、デパートなどとの取引上の都合のために、メーカーが空手形のように節操もなく生み出したものだとか。

しかし、私は、衣料品が売れなくなったのは、そういった業界の怠慢だけにあるのではないように思います。“内輪の論理”というのは、二義的な要因にすぎないように思います。もっと本質的な要因があるのではないか。デフレで服の原価を消費者が知ってしまったからなどというのも、表層的な要因のようにしか思えません。

私は、本書のなかでは、「メチャカリ」を運営するストライプインターナショナルの石川康晴社長の「アパレル不況の要因の一つは、洋服が生む高揚感が減っていることにある」ということばに、アパレル不況の本質が示されているように思いました。

既出ですが、吉本隆明は、埴谷雄高との間で交わされた「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」である、とブランドの服にあこがれる若い女性たちを肯定的にとらえたのですが、あれから30年が経ち、今の若者たちは、もはやブランドの服を着ることにさえ高揚感を持てなくなったということなのかもしれません。

本書で紹介されていた「アパレル産業の未来」なるものも、とても「未来」があるようには思えませんでした。アパレル業界お得意の「ネット通販」がありきたりな発想にすぎないように、手作りの「別注商品」も、ユーズド商品を扱う「シェアリングエコノミー」も、私には気休めにしか思えませんでした。

モードの時代は終わったのです。資本主義は常に過剰生産恐慌の危機を内包しており、そのためにさまざまなマジックを使って購買意欲を煽るのですが、アパレルの世界ではそのマジックが効かなくなったということなのでしょう。中野香織氏が言う「倫理の物語」の消費もその表れでしょう。

要するに、おしゃれをする”意味”がなくなったのです。おしゃれをすることが”意味”のあることではなくなったのです。それは、街を歩けば一目瞭然でしょう。おしゃれをして街を闊歩する高揚感なんて、もはやどこにもないのです。そうやって文化は変容するのです。

「アパレルを殺す」のは、業界の”内輪の論理”などではなく、時代の流れと言うべきでしょう。コモディティ化もそうですが、アパレルという文化的な最先端の商品に(最先端の商品であるからこそ)、先進資本主義の”宿阿”が端的に表れているということではないでしょうか。


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『モードとエロスと資本』
2017.11.14 Tue l 本・文芸 l top ▲
座間のアパートで9人の遺体が発見された事件。身の毛がよだつとは、こういうことを言うのでしょう。

当初は、容疑者が自殺サイトを利用して、自殺志願の女性を物色していたと伝えられていましたが、実際に利用していたのは、ツイッターなどSNSのハッシュタグだったそうです。ハッシュタグで「死にたい」と呟いている女性を見つけ、コンタクトを取っていたのです。

容疑者は、実家のある座間に帰る前は、歌舞伎町で風俗関係のスカウトマンをしていたことがわかっています。ただ、今どきのスカウトマンは、路上で声をかけるだけでなく、SNSでわけありの女性を見つけて、風俗店に紹介することもあるのだとか。つまり、ネットで女性を物色するのはお手のものだったのです。

誰しも一度や二度は「死にたい」と思ったことはあるでしょう。「死にたい」と思うことほど孤独な心はありません。「死にたい」と思う心は、本来人に吐露するようなものではないはずです。だから、カウンセラーは、人に相談しなさい、話せば心が楽になりますよ、とアドバイスするのです。

SNSで「死にたい」と呟くのは、もしかしたら「死にたい」のではなく、「死にたくない」からかもしれません。カウンセラーが言うように、誰かに話して心が楽になりたかったのかもしれません。

若者事情に詳しい(と自称する)評論家が、今の若者たちにとって、リアルな日常とネットは別のものではなく、地続きでつながっているのです、と言ってましたが、たしかに今の若者たちは生まれたときからネットが身近にあるのです。ネットに無防備になるのも当然かもしれません。

しかし、街で声をかけてきたら、あんなに短期間のうちに「親しく」なれるでしょうか。お互いを理解し信頼を得るまでには、膨大な時間と労力を要するはずです。でも、ネットだとあっさりその壁を乗り越えてしまうのです。そして、今回のように、「死にたくない」気持を逆手に取られて、みずから死を招いてしまうことにもなるのです。

私は、風俗で働く(容疑者のようなスカウトマンによって風俗に沈められる)女性と「死にたい」と呟く女性には、共通点があるように思えてなりません。そのひとつがメンヘラです。容疑者もそれがよくわかっていたのではないでしょうか。”現代の女衒”にとって、ことば巧みに誠実さや優しさを装い、メンヘラ傾向のある女性の心のなかに入り込み、女性を手玉に取ることなど、赤子の手をひねるくらいたやすいことだったのでしょう。また、そういった女性たちは家族やまわりの人間たちとの関係も希薄で、社会的にも精神的にも孤立しているということも知り尽くしていたのかもしれません。

ネットにあふれるお手軽にデフォルメされた「人間観」や「死生観」。そんなものは嘘っぱちだよと言っても、リアルとバーチャルの境目もない今時の若者には所詮、馬の耳に念仏なのかもしれません。

殺害方法にしても、あきらかに狂気を感じますが、しかし、報道ではその狂気が見えてこないのです。切り刻まれた内臓や身体の部位がゴミとして回収されたというのも、俄に信じがたい話です。背後に臓器売買の闇の組織があるのではないかという陰謀論が出てくるくらい、理解しがたいものがあります。

ネットには、自己肯定の無限ループとも言うべき側面もあります。「克己のない世界」(中川淳一郎氏)であるネットでは、夜郎自大な自分が肥大化するだけです。相模原の事件の”優生思想”もそうですが、”ネットの時代”は、私たちが知らないところで、とんでもない(狂気を内に秘めた)モンスターを生み出しているのかもしれません。でも、もう後戻りはできないのです。


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『女性たちの貧困』
2017.11.05 Sun l ネット l top ▲
遠藤賢司が亡くなったというニュースもあって、久しぶりにYouTubeで高田渡の「夕暮れ」を聴きました。

YouTube
夕暮れ / 高田渡

年を取ると、「夕暮れ」の歌詞がよけい心に染み入ります。

「夕暮れ」は、黒田三郎の詩に高田渡がメロディを付けたものです(ただ、何ケ所か原詩に手が加えられており、原詩より諦念のイメージが強くなっています)。

原詩はつぎのようなものです。

「夕暮れ」 黒田三郎

夕暮れの街で
僕は見る
自分の場所からはみ出てしまった
多くのひとびとを

夕暮れのビヤホールで
彼はひとり
一杯のジョッキをまえに
斜めに座る

彼の目が
この世の誰とも交わらない
彼は自分の場所をえらぶ
そうやってたかだか三十分か一時間

夕暮れのパチンコ屋で
彼はひとり
流行歌と騒音の中で
半身になって立つ

彼の目が
鉄のタマだけ見ておればよい
ひとつの場所を彼はえらぶ
そうやてったかだか三十分か一時間

人生の夕暮れが
その日の夕暮れと
かさなる
ほんのひととき

自分の場所からはみ出てしまった
ひとびとが
そこでようやく
彼の場所を見つけ出す


「その目がこの世の誰とも交わらない」(歌詞)「自分の場所」。孤立無援の思想ではないですが、そういう場所を選んで生きてきた人も多いでしょう。

親も亡くなり帰る場所もなくなった今、仕事帰りの人々が行き交う夕暮れの街をひとりで歩いていると、「遠くに来たもんだな」としみじみと思うことがあります。そのとき自分のなかに溢れてくるのは、慰安と諦念がない交った気持です。

私は、田舎に墓参りに帰るたびに、もうこれを最後にしようと思うのですが、戻って日が経つとまた帰りたいと思うのでした。田舎に帰っても、誰にも会わずに戻って来ようといつも思うのですが、ついつい昔の知り合いを訪ねて行く自分がいます。そして、あとで自己嫌悪に陥るのでした。

駅前の路地の奥にある定食屋で、背を丸め安飯をかきこんでいる老いた自分の姿を想像すると、さすがに気が滅入ってきますが、でも、誰も知らない土地で、孤独に生き、孤独に死ぬ、というのが理想だったはずです。

容赦なく老いはやってきます。どうやって老いるのか。「その目がこの世の誰とも交わらない」「自分の場所」で、どうやって黄昏を迎えるかです。
2017.10.25 Wed l 本・文芸 l top ▲
あの北原みのり氏のツイッターに、つぎのようなツイートがありました。


今更の感がありますが、お粗末、あるいはトンチンカンとしか言いようがありません。

北原氏のなかには、前原氏の主張を「社会主義的政策」「『左』に振り切った政策」だと解釈するような薄っぺらな社会主義像しかなかったのでしょう。そして、彼女は、今度は立憲民主党の主張に、その薄っぺらな社会主義像を映しているのでした。

総選挙では自民党の圧勝が予想されていますが、モリ・カケ問題で苦境に陥っていた「アベ政治」にとって、「北朝鮮の脅威」は文字通り“神風”になったと言えるでしょう。換言すれば、安倍首相は、「北朝鮮の脅威」が“神風”になり得ると踏んだからこそ伝家の宝刀を抜いたとも言えるのです。

自民党から幸福実現党まで「北朝鮮の脅威」を喧伝するあらたな翼賛体制のなかで、リベラル左派は為す術もなく守勢に回らざるを得ない状況にあります。北原みのり氏のお粗末さが示しているように、リベラル左派は存在感さえ示すことができず、せいぜいが立憲民主党の「健闘」を慰めにするしかないのが現状です。

そこにあるのは、60年代後半の「反乱の時代」に否定された“古い政治”の風景です。北原みのり氏のようなリベラル左派は、とっくに終わったはずの“古い政治”に依拠しているにすぎないのです。

政党助成金とセットになった小選挙区比例代表並立制は、民主主義を偽装しながら(二大)保守政党が永遠に政権をたらい回しする(そうやって議会制民主主義を骨抜きにする)制度ですが、リベラル左派はその目論みに踊らされ、前原じゃなければ枝野、希望の党じゃなければ立憲民主党と、二者択一的に「よりましな党」を選んでいるだけです。

60年代後半の「反乱の時代」を支えたのは、日本共産党をスターリニズム=左翼全体主義、ソ連を社会帝国主義=社会主義の名を借りた帝国主義と断罪する「より左の思想」でした。「より左の思想」は、それまで左翼政党ではタブーとされていたトロッキーやローザ・ルクセンブルクやバクーニンなどの思想を援用して、堕落した既成左翼を批判したのでした。

ヨーロッパの若者たちを熱狂させているポデモスやシリザやSNP(スコットランド国民党)などの運動には、あきらかに60年代後半の「反乱の時代」の遺産が継承されています。それが彼らが「新左派」「急進左派」と呼ばれる所以です。

しかし、日本では、その遺産が継承されているとは言えません。それどころか、「反乱の時代」を担った”新左翼の思想”は、連合赤軍事件や内ゲバを生んだ忌々しい思想として総否定されているのが現状です。そのため、北原氏のように“古い政治”に先祖返りするのが当たり前になっているのです。

たしかに”新左翼の思想”が党派政治(セクト)に簒奪され歪められたのは事実ですが、しかし、”新左翼の思想”が提起した社民主義やリベラリズムの限界という問題は未だ手つかずのままなのです。もちろん、戦後のこの国をおおっている「アメリカの影」(加藤典洋)も大きな課題でしょう。

どの党に投票するかではなく、どの党もダメだという既成政党批判も、当然あり得るでしょう。『宰相A』ではないですが、投票することが翼賛体制にお墨付きを与えることになるという考えもアリでしょう。それに、坂口安吾が言うように、私たちは政治という粗い網の目から零れ落ちる存在なのです。支持する政党がないから投票に行かないという考えもひとつの見識と言えるでしょう。

佐藤優氏は、『文藝春秋』(11月号)で、「米朝間で始まるのは『戦争』ではなく『取引』」「米国は、先制攻撃を決断できない」と書いていました。

仮にアメリカが北朝鮮に先制攻撃をしても、北朝鮮を完全に制圧するのに2ヶ月かかるという日米政府のシュミレーションがあるそうです。ソウルはわずか2日で陥落し、制圧までに100万人以上の犠牲者が出ると予想されているのだとか。そのなかには、約4万人の在韓邦人や約20万人の在韓米人も含まれています。

それどころか、韓国経済が壊滅することによる世界経済への影響は計り知れず、1950年の朝鮮戦争のときとはまったく状況が異なるのです。

当時、韓国は、インフラのない貧しい農業国にすぎませんでしたが、今日の韓国の経済力、半導体生産などにおいて国際分業体制の中で占める位置は、当時と比較になりません。韓国経済が崩壊することになれば、東アジア全体が大きなダメージを被り、米国経済もその影響を免れません。
『文藝春秋』11月号・「トランプの『北の核容認』に備えよ」


一方で、核・ミサイル開発する北朝鮮の目的が「金王朝の維持=国体護持」である限り、「経済制裁によって北朝鮮が核・弾道ミサイル開発を放棄することはあり得ない」と言います。問題は、戦争ではなく、やがて始まるであろう米朝二国間交渉による「落としどころ」なのだと。今はそのための鞘当てがおこなわれているというわけです。佐藤氏は、「落としどころ」は「核容認とICBMの凍結になるはずだ」と書いていました。

(略)北朝鮮の核保有を阻止する手段をもたない日米韓は、すでにこの局面では「敗北」しています。しかし、「ゲーム・セット」ではありません。中長期的な視点から、このゲームに最終的な勝利するために、核をめぐる議論以上に、日本にできることが他にあります。
 まず、米朝交渉が始まれば、いづれ米朝国交正常化が進むでしょう。そうなれば、日本も日朝国交正常化を急ぐべきで、今から準備しておくべきです。
(同上)


北朝鮮問題解決のキーパーソンは、習近平ではなくプーチンだという見方がありますが、”対米従属愛国主義”に手足を縛られた日本は、トランプだけでなく、プーチンや金正恩にもいいように振り回されるのがオチでしょう。

この国のリベラル左派は、安倍政権が煽る「北朝鮮の脅威」に煽られているだけです。リベラル左派も「煽られる人」にすぎないのです。北朝鮮情勢が逼迫しているときに選挙などしている場合か、というもの言いなどはその最たるものでしょう。そうやってみんな「動員の思想」にひれ伏しているのです。これでは、いざとなったら(戦前の社会大衆党のように)「この国難に足の引っ張り合いをしている場合ではない。小異を捨てて大同につこう」なんて言い出しかねないでしょう。
2017.10.20 Fri l 社会・メディア l top ▲
昨日、衆院選挙が告示され、22日の投票日に向けて選挙戦が開始されました、と言っても、告示のときはもう大勢は決まっていると言われています。

さっそく朝日新聞に序盤の「情勢調査」が出ていますが、それによれば、自民党は「堅調」で単独過半数233議席を大きく上回る見込み、希望の党は伸び悩み現有57議席を上回る程度、立憲民主党は勢いがあり現有15議席の倍増も可能、公明共産は現状維持だそうです。

「選挙は蓋を開けて見なければわからない」「無党派層の動向如何では結果が変わる可能性がある」なんてもの言いも所詮、気休めにすぎないのです。実際に、今までも事前の予想を大きく裏切ることはありませんでした。

なんのことはない、安倍一強はゆるぎもしないのです。それどころか、逆に希望の党が加わるので、改憲派は今より大幅に議席を増やすことになるのです。

そんななか、選挙権が18歳に引き下げられたということもあって、いつになく若者たちの「選挙に行こう」キャンペーンが盛んです。「選挙に行かないのは、政治家に白紙委任するようなもの」「選挙は、自分たちの意思を国政に反映させる絶好のチャンス」「選挙に行かない人間に政治を語る資格はない」などという、おなじみの“選挙幻想”がふりまかれているのでした。

私などは、朝のワイドショーはどこも選挙の話題ばかりなので、今朝はとうとうテレビ東京の子ども向け番組「おはスタ」で、にゃんこスターの笑えないギャクを見ていました。

一方、メディアでは、「入口に立つあなたが好き」というキャッチフレーズを掲げ、若者の投票率の向上を目指してさまざまなイベントを開催している学生団体がもてはやされています。

学生だったら今のおかしな選挙制度や政党助成金に対して問題提起すべきではないかと思いますが、彼らにそんな問題意識はないようです。選挙で世の中は変えられない、という昔の学生のような不埒な考えなんて想像すらできないのでしょう。

政治的なスタンス以前の問題として、あの麻生太郎や二階俊博の有権者をバカにしたような尊大な態度に、少しは怒ってもいいように思いますが、もちろん、彼らにそんな視点はありません。どこまでも「いい子」なのです。彼らは、腹黒な役人や老獪な政治家に頭を撫でられることだけが目的のような「いい子」にすぎないのです。

「劇場型」と言われた小泉政権の登場によって、衆愚政治のタガが外れたと言われていますが、問題意識をもてない有権者は、文字通りタガの外れた衆愚政治のターゲットになるだけでしょう。無定見に「選挙に行こう」キャンペーンをおこなっている彼らは、若者たちにB層=衆愚になれと言っているようなものです。

もちろん、それは若者だけではありません。戦争が起こると本気で思っている(そのわりに呑気に酒を飲んでいる)新橋のサラリーマンたちも然りです。B層というのは、そのように常に「煽られる人」でもあるのです。

僭越ですが、私は、以前、鈴木邦男氏が雑誌のコラムで紹介していた戦争前のエピソードについて、つぎのように書いたことがありました。

一水会の鈴木邦男氏は、雑誌『創(9・10月号)のコラム(「言論の覚悟」真の愛国心とは何か)で、戦争前、東條英機のもとに、一般国民から「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような「攻撃・脅迫」めいた手紙が段ボール箱に何箱も届いたというお孫さんの話を紹介していましたが、そうやって国民もマスコミもみんな一緒になって戦争を煽っていたのです。東條英機らは、そんな声に押されるように、「人間たまには清水の舞台から飛び降りるのも必要だ」という有名なセリフを残して、無謀な戦争へと突き進んでいったのでした。でも、戦争が終わったら、いつの間にか国民は、軍部に騙された「被害者」になっていたのです。

「愛国」と「文学のことば」
http://zakkan.org/blog-entry-986html


選挙が終わったら、「禊を終え」勢いを増した改憲派が、「北朝鮮の脅威」を盾に、いっきに改憲へギアアップしていくことでしょう。そして、森友・加計の問題は人々の記憶から消えていくに違いありません。永井荷風ではないけれど、「選挙に行こう」というのは、あの戦意高揚の標語と同じで、「まことにこれ駄句駄字といふべし」なのです。


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積極的投票拒否の思想
選挙は茶番
2017.10.11 Wed l 社会・メディア l top ▲
最近体調がよくなくて、本も読まず、テレビばかり見ていますので、もう少し床屋政談をつづけます。

民進党が事実上「解体」したことは慶賀すべきことです。(何度も言っているように)「民進党が野党第一党であることの不幸」から解放されるなら、まずは歓迎すべきでしょう。

「アベ政治を許さない」と言っている人たちがホントに「アベ政治を許さない」と思っているのなら、希望の党に行ったとか新党を立ち上げたとか無所属で行くとかに関係なく、旧民進党の議員全員の落選運動をやるべきでしょう。

希望の党との合流が発表された当初、合流はアベ政権を倒すための次善の策だというようなことを書いていた田中龍作ジャーナルに代表されるような左派リベラルのお粗末さや、枝野氏ら「排除」された「リベラル」派が新党を立ち上げたら、今度は新党に希望を託すようなことを言っている左派リベラルの御目出度さを考えるべきなのです。

阿部知子氏の「新しい独裁者はいらない」ということばは秀逸だと思いますが、しかし、阿部氏自身、代表選では前原氏を支持していたのです。しかも、28日の両院議員総会では、前原氏の提案に対して疑義すら申し立てなかったのです。それは、阿部氏だけではありません。疑義を申し立てる人間は誰もおらず、僅か30分で前原氏に一任することを決定し閉会しているのです。前原氏の提案に席を蹴ることすらできなかったヘタレな「リベラル」になにを期待すると言うのでしょうか。

「リベラル」派は所詮、「緑のたぬき」から「排除」された”負け犬”にすぎません。同情するなら票をくれとでも言わんばかりに新党を立ち上げても、マスコミによって刷り込まれた“負け犬”のイメージを払拭することはできないでしょう。

新党を立ち上げる前、枝野氏は前原氏と会談し、話が違う、と抗議したところ、前原氏は、「排除」するなんて聞いてない、小池氏に確認する、明日まで待ってくれ、と言ったそうです。すると、枝野氏は、一縷の望みを託して(?)前原氏の返事を待っていたのです。

しかし、メディアの報道によれば、前原氏は、「排除」や「分裂」はすべて想定内だったと言っているそうです。前原氏の思想的な立ち位置を考えれば、前原氏が「(小池氏に)騙された」なんてあり得ないでしょう。枝野氏は、未だに民進党議員全員を受け入れるという合意は、小池氏によって(一方的に)反故にされたようなことを言っていますが、二人の間では「排除」することが最初から合意されていたのです。小池氏も、「排除」については、当初から前原氏に申し上げていると言っているのです。

それどころか、9月26日の会談には連合の神津会長も同席していたそうです。前原氏自身も、希望の党との合流は、連合と相談しながら進めていたと証言しています。「排除」は神津会長も同意していたと考えて間違いないでしょう。連合が「排除」の方針を打ち出した小池氏に「激怒」と書いていた夕刊紙がありましたが、それはトンチンカンな左派リベラルの”希望的観測”と言うべきでしょう。

こういう細かいことは案外重要です。なぜなら民進党議員たちの(特に「リベラル」派の)カマトト=建前と本音を映し出しているからです。要するに、「保守」であれ「リベラル」であれ、「右派」であれ「左派」であれ、民進党の議員たちは、みんな希望の党に行きたかったのです。「トロイの木馬」発言もそうですが、28日の両院議員総会までは、希望の党に行くという“甘い夢”を見ていたのです。

山尾志桜里氏は、朝日新聞の取材に対して、「無所属で本当によかった。リベラルの価値を葛藤なしに語れることが幸せだ」と言ったそうですが、よく言うよと思います。言うまでもなく、山尾氏は前原氏に近い人物でした。スキャンダルがなければ、前原氏と行動を共にしたのは目に見えているのです。

今回の合流劇では、民進党の100億円を超すと言われる内部留保のお金の行方に関心が集っていますが、政界が金の論理で動くようになった(それをマスコミは「政界再編」と呼んでいるのですが)政党助成金の問題も考えないわけにはいかないでしょう。政党助成金というのは、既成政党が税金によって既得権益を得、議会政治を独占し、未来永劫に政権をたらい回しする制度なのです。そういった視点で今回の合流劇を見れば、見えてくるものがあるでしょう。

希望の党の若狭勝氏は、今日の第一次公認候補者発表の席で、選挙後の首班指名について、自民党議員を指名することに含みをもたせたそうです。彼らが目指しているのが保守大連立であることが徐々にあきらかになっています。

スペインのカタルーニャ独立の投票をめぐる運動を見るにつけ、日本との違いを痛感せざるを得ません。彼方の政党は、左右を問わず、どこも街頭の運動のなかから生まれたのです。そして、常にあのような街頭の運動によって政党の活動も支えられているのです。同じ左派リベラルでも日本のそれとは似て非なるものです。

先日の安倍退陣(お前が「国難」)デモで、枝野氏が姿を見せると、いっせいに枝野コールがおこったそうですが、私にはそれもトンマな光景にしか思えませんでした。
2017.10.03 Tue l 社会・メディア l top ▲
さらにもう一度、床屋政談を。

希望の党との合流を「悪魔との握手だ」と批判していた有田芳生議員は、昨日の両院議員総会後、一転して、合流は安倍政権を倒すための「国共合作」だとツイートしていました。

参院議員は当面選挙がないし、それに有田議員の場合、次回の選挙には立候補しないことを既に表明しています。だったら、恐れるものはないのだから筋を通せばいいじゃないかと思いますが、一度赤絨毯の上を歩いた人間に、もはや普通の感覚は通用しないのかもしれません。

民進党の両院議員総会は、前原代表の提案に対して、満場一致で受入れることを決定し、僅か30分で閉会したのだそうです。これも驚くべきことです。連合が合流にお墨付きを与えたこともあってか、”リベラル派”からも反対の声は出なかったそうです。そして、民進党の衆院議員たちは、「大審問官」の審問を受けるべく、希望の党の扉の前に列を作ることになったのです。彼らはみずから進んでファシストの軍門に下ったのです。

希望の党には、日本のこころのような極右勢力も合流しています。小池百合子氏の父親は、”スメラ哲学”を信奉する国粋主義者で、氏自身も核武装論者です。先日も、歴代の都知事がおこなっていた関東大震災における朝鮮人虐殺の犠牲者の追悼を拒否して、物議を醸したばかりです。

有田議員は、希望の党との合流と反ヘイトの姿勢にどう折り合いをつけるのでしょうか。常人にはとても理解の外です。

「安倍政権を倒す」というのも、野合のための方便のようにしか思えません。政権云々より、いざとなったら、改憲の旗印の下に、自民党との連立や合流だってあるでしょう。仮に安倍晋三氏が政権を去ったとしても、「アベ政治」は残るのです。

戦前もみんなこうやって大政翼賛会になびいて行ったのでしょう。転向というのは、なにも特高警察によって暴力的に強制されたケースだけではないのです。中野重治が『村の家』などで書いているように、社会から孤立する“恐怖”からみずから進んで合理的な理由を見つけて転向するケースだって多かったのです。無産政党の社会大衆党が大政翼賛会に合流したのもそうでした。

私たちが現在(いま)見ているのも同じ光景です。
2017.09.29 Fri l 社会・メディア l top ▲
不本意ながら、もう少し床屋政談を。

今日の午前、テレビ東京の「Mプラス11」を見ていたら、「民進党の前原代表が希望の党に対して、民進党の解党や分党を視野に入れた合流を検討していると伝えていたことが関係者への取材で分かりました」というニュースが流れ、「やっぱり」と思いました。

そして、午後になって、ほかのテレビ局も「合流」のニュースを伝えはじめ、新聞各紙も夕刊でいっせいに記事にしたのでした。

まさに獅子身中の虫の面目躍如という気がします。民進党の保守派が希望の党と「合流」するというのは、前原氏周辺では既定路線だったのでしょう。前原氏が代表になってもならなくても、いづれ自分たちを「高く売る」つもりだったのでしょう。まさに「だから言わないこっちゃない」という感じです。

一方、同党の有田芳生議員は、代表選の前からツイッターで、前原氏は小沢一郎氏の薫陶を受けて変わった、代表選も保守対リベラルという構図では捉えられない、などと新生・前原氏を盛んにアピールしていました。前原氏が野党共闘に否定的だというのは皮相的な見方で、時間が経てばそうじゃないことがわかるはずだとさえ言ってました。

しかし、このあり様です。要は、前原氏が獅子身中の虫であることがまるでわかってなかったのでしょう。今更「悪魔との握手だ」などと批判しても、白々しく聞こえるばかりです。あまりにもお粗末と言わねばなりません。それはまた、(何度もくり返しますが)この国のリベラル左派のお粗末さでもあります。

(追記:余談ですが、有田議員は28日の朝のツイートで、「俗情との結託」ということばを埴谷雄高のことばとして紹介していましたが、「俗情との結託」は埴谷雄高ではなく大西巨人です。元民青の付け焼刃な知識なのでしょう)

前から書いているように、そもそも野党共闘自体が現実を糊塗するだけの“不毛な政治“にすぎません。民進党内のリベラル派なるものも、リベラルだなんて片腹痛いのです。単にこの国の労働運動を食い物にする労働貴族の代弁者にすぎないのです。

今回の「再編劇」で示されているのは、”保守の余裕”です。言うなればこれは、“第二自民党”の再編とでも言うべきものです。もちろん、希望の党がこのまま順調に行くとは思えませんので、いづれ自民党と合流ということも充分あり得るでしょう。はっきりしているのは、今回の「再編劇」によって、国会は保守一色に染められ、改憲も盤石になるということです。文字通り野党が消滅した翼賛体制が成立するのです。

リベラル左派は、昨日まで民進党にはまだ希望があり、野党共闘も現実味を増しているようなことを言っていました。なんのことはない、勝手にそんな幻影を抱いていただけだったのです。

しかも、ここに至ってもなお、希望の党は安倍政権より”まだまし”だみたいな話が出ているのですから、なにをか況やです。一体、どんな思考回路を辿れば、こんな状況判断ができるのでしょうか。

彼らは、いつもこのように、ただ徒に(二者択一的に)”希望”をねつ造し現実を糊塗するだけなのです。


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2017.09.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
不本意ながら、床屋政談を。

突然降って沸いた解散風。どうやら28日召集予定の臨時国会での冒頭解散が濃厚のようです。

野党は、「大義なき解散」などと批判していますが、結果は最初から見えている気がします。野党の批判は、どこかの知事が言っていたように、「負け犬の遠吠え」のようにしか聞こえません。

自民党は、再来年の10月に予定されている消費税の増税分を、国の借金の穴埋めではなく幼児教育や保育等の無償化に充てるという、使途の変更を選挙公約に掲げるそうです。それに対して民進党の前原代表は、自分が主張していたことと同じで、パクリだと批判しています。

自衛隊の存在を9条に明記する憲法改正案も、安倍首相と前原代表の考えは同じです。どっちが先に主張したかと本家争いをしているにすぎないのです。

北朝鮮情勢についても、与野党に違いはありません。トランプの国連演説は、北朝鮮に対する宣戦布告のようなもので、どう考えても、アメリカがやっていることは圧力ではなく挑発です。しかし、その危険性を指摘する声は皆無なのです。

今更ながらに、民進党が野党第一党である不幸を痛感せざるを得ません。民進党は護憲の党ではありませんし、反原発の党でもありません。民進党と自民党は、政策的には相違する部分より共通した部分がはるかに多いのです。

民進党(旧民主党)は自民党を勝たせるためだけに存在していると言うのは、笑えない冗談です。今回の解散総選挙も、細野某など離党組がそのお膳立てをしたようなものでしょう。自民党が追い詰められると、なぜか民進党(旧民主党)がみずからずっこけて、自民党に助け舟を出すのがいつものパターンです。

前原代表の発言も、「(どうせ同じなんだから)どうぞ自民党に投票してください」と言っているようなものです。少なくとも、多くの有権者はそう受け止めているでしょう。私には、彼らがどうして野党にいるのか不思議でなりません。

(現実的にはあり得ない話ですが)仮に民進党が大きく議席を増やすことがあったら、消費税のときと同じように、今度は憲法や原発など重要政策で、「堂々と議論する」(前原代表)などと言いながら自民党にすり寄っていく(そうやって自分たちを高く売る)のは目に見えています。民進党が議席を増やすことは、必ずしも政治がよくなることを意味するのではないのです。むしろ、反動に加速がつくことになりかねないのです。民進党というのは、もはやそういう存在なのです。

にもかかわらず思考停止したこの国の左派リベラルは、野党共闘に人民戦線の妄想でも抱いているのか、相も変わらぬ”まだまし論”に依拠して”民進党=リベラル幻想”をふりまき、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみかこ)しか能がないのです。
2017.09.20 Wed l 社会・メディア l top ▲
朝日新聞に月に一度連載されている「寂聴 残された日々」というエッセイで、瀬戸内寂聴が山尾志桜里議員のスキャンダルについて書いていました。

朝日新聞デジタル
(寂聴 残された日々:27)山尾さん、孤独の出発に自信を 恋は理性の外、人生は続く

エッセイは、つぎのような文章ではじまっていました。

 何気(なにげ)なくつけたテレビの画面いっぱいに、端正な美貌(びぼう)の女性が、涙のたまった両目をしっかりと見開き、正面を向いてしきりに言葉を発している。その表情がまれに見る美しさだったのと、しゃべる言葉がしっかりしているのに驚かされ、テレビから目が離せなくなってしまった。


そして、つぎのような文章で終わっていました。

 不倫も恋の一種である。恋は理性の外のもので、突然、雷のように天から降ってくる。雷を避けることはできない。当たったものが宿命である。

 山尾さんはまだまだ若い。これからの人生をきっと新しく切り開いて見事な花を咲かせるだろう。それを95の私は、もう見られないのが残念。


坂口安吾ではないですが、「恋は人生の花」です。山尾議員だけでなく、斉藤由貴も上原多香子も、自分の人生を恥じる必要はないのです。他人の色恋を妬んだり嫉んだりする人間ほど、心の貧しい者はいません。「不倫上等」でいいじゃないか。不倫を詰るような輩(カス)には唾を吐きかければいいのです。

山尾議員の場合、「仕事と子育てにがんばるお母さんの味方」というようなスタンスをとっていたので、不倫に対する反発がよけい大きかったのでしょう。文春の記者が朝帰りの山尾議員に向かって、「先生、お子さんはどうしたんですか?」「先生、お子さんの面倒は見なくていいんですか?」とわざとらしく叫んでいたのは、そんな山尾議員に対する当てつけだったのでしょう。

そこで振りかざされているのは、「仕事と子育てにがんばるお母さん」は貞操観念もしっかりしていなければならないという、女性を結婚(家庭)と母性に縛るおなじみの良妻賢母のイデオロギーです。山尾志桜里議員はジャンヌダルクなんかではなかったのです。古い女性のイデオロギーに迎合する、ただのポピュリストにすぎなかったのです。だから「ざまあみろ」という声に反論すらできなかったのでしょう。

私は、政治家としての山尾志桜里議員にはまったく興味もありませんし、期待もしていません。ただ、瀬戸内寂聴も書いているように、ひとりの女性として、(みずから墓穴を掘ったとは言え)古い女性のイデオロギーを押し付ける下劣な報道に負けずに、顔を上げて前に進んでもらいたいと思うだけです。

それより私は、「先生、お子さんはどうしたんですか?」「先生、お子さんの面倒は見なくていいんですか?」と叫んでいた文春のアホ丸出しの記者のほうが興味があります。彼らだって不倫をしているはずなのです。誰か、文春や新潮の社員たちのスキャンダルを書く人間はいないのかと思います。『噂の真相』がなくなったのが、かえすがえすも残念でなりません。


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上原多香子と柳原白蓮
2017.09.15 Fri l 社会・メディア l top ▲
さる9月1日に開かれた民進党の臨時党大会で、あたらしい代表に選出された前原誠司氏は、あいさつのなかで「政権交代」ということばを何度もくり返したのだとか。私は、それを聞いて、前原氏はパラノイアではないのかと思いました。通常の感覚であれば、「政権交代」なんてとてもあり得ない話でしょう。

もっとも、前原氏自身も、つぎのように述べていたそうです。

 新代表あいさつで前原氏は「今この場で『政権交代」』と言っても、国民は『何を言ってるんだ』という状態になる。しかし自民党しか選べない、こんな政治状況は我々の手で変えなくてはならない」と決意を述べた。それに向け「国民のためにすべて捧げて働く」「決意と覚悟持って、難しい局面を国民のために切り開く」と続けた。

Yahoo!ニュース(J-CASTニュース)
「政権交代」連呼の前原新代表、過去の「負の経験」生かせるか 挙党体制の方針には「これから考える」


しかし、改憲においては、各メディアが書いているように、前原氏の考えと安倍首相の考えは同じです。改憲論議が深まれば、維新と同様、民進党が安倍政権とタッグを組むのは目に見えています。

早くもそれを裏付けるように、つぎのようなニュースも出ています。

朝日新聞デジタル
前原代表、野党4党合意見直しへ 改憲反対「話通らぬ」

前原氏自身も、「政権交代」が夢物語だということはよくわかっているはずです。要は、自分たちを如何に高く自民党に売るかということなのでしょう。前原氏を代表に選んだ民進党議員の多くも、同じ考えなのでしょう。

山尾志桜里議員のスキャンダルを文春にリークしたのは、政権周辺の公安関係者ではなく、民進党内部の人間ではないかという話もありますが、だとしたらいよいよ民進党は収拾のつかない崩壊過程に入ったと言えるのかもしれません。

前原体制がいつまでつづくかわかりませんが、前原氏が代表の座を追われたら、前原グループがここぞとばかりに離党して、党が一気に崩壊する可能性すらあるでしょう。前原氏を代表に選んだのは、言うなれば、獅子身中の虫に党の命運を委ねたようなものと言ってもいいかもしれません。もっとも、民進党は、もともとそういう運命にあったと言えなくもないのです。

民進党はリベラルなんかではないし、野党でもないのです。ただ野党のふりをしているだけです。それは、旧民主党の成立時からあきらかでした。旧民主党に与えられた役割は、“第二自民党”になることでした。自民党の一党独裁体制(としての55年体制)がゆらぎはじめたことで、安心して政権交代ができる二大政党制をこの国に根付かせる必要があったのです。その要請に応えるかたちで、労働戦線の右翼的再編(連合の誕生)と軌を一にして旧民主党が誕生したのでした。

民進党に随伴して「アベ政治を許さない」と叫んでいた人々も同じ穴のムジナです。民進党が野党第一党であることの不幸を理会(©竹中労)できずに、今になって、民進党に絶望したなんて言っているのはお粗末の極みと言うべきでしょう。民進党が死んでも誰も困らないのと同じように、彼らのような「リベラル左派」がいなくなっても誰も困らないのです。

山尾志桜里議員のスキャンダルにしても、今まで民進党やその周辺は、文春砲に我が意を得たりとばかりに踊っていたのです。文春砲がいつ自分たちに向かってくるのかなんて、ゆめゆめ考えてなかったのでしょう。だからあんなに(アホみたいに)踊っていたのでしょう。そして、案の定、今度は自分たちが足を掬われたのです。

民進党の有田芳生参院議員は、文藝春秋の松井清人社長が『週刊文春』の編集長だった頃から親しい関係にあることを公言していました。文春が自民党議員のスキャンダルを取り上げているときは、文春の編集方針は変わったみたいなことを言って、そのスキャンダルを政治的な攻撃材料に使っていました。ところが、山尾議員のスキャンダルが出た途端、沈黙を決め込んだのでした。そして、山尾議員の離党が囁かれはじめると、「悪質な情報操作」だとツイッターに書いていましたが、ほどなく離党届が提出されました。すると今度は、「離党はご自身で判断した出所進退の結論です」と書いていました。しかし、メディアが書いているように、離党は本人の意思というより、来月におこなわれる衆院補選への悪影響を考えた執行部の判断であることは誰が見てもあきらかです。とりあえず辞職まで行かなかったのは、民進党の党内事情による判断だったのでしょう。

有田芳生 (@aritayoshifu) | Twitter

都合が悪くなると、黙りを決め込んだり、知らばっくれたりする、民進党の劣化は個々の議員にまで及んでいるのです。

それにつけても、このヒステリックな不倫叩きの風潮は、一体なんなのかと思います。私は、このブログでも書いているように、山尾志桜里議員には批判的ですが、しかし、彼女が不倫で政治生命を奪われることには違和感を抱かざるを得ません。不倫なんてみんなやっているじゃないか、そんなことはどうだっていいじゃないか、と言いたいのです。他人がとやかく言う問題ではないでしょう。

ブレイディみか子氏は、男女間の賃金格差や公共セクターで働く人たちと下層の人たちとの賃金格差に関連して(それは、レーニンが『国家と革命』で主張したことの今日的問題なのですが)、「セックスよりマネーがスキャンダルになる時代が来た」と書いていましたが、日本では未だにマネーよりセックスがスキャンダルになる時代の真っ只中にあるかのようです。国会議員も芸能人も、そして国民も、みんなセックススキャンダルに踊らされているのです。恥ずかしげもなく他人のセックスに嫉妬する、なんとセックス好きな国民なんだろうと思います。

晶文社スクラックブック
UK地べた外電


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ベッキー降板で思った


2017.09.07 Thu l 社会・メディア l top ▲
先月発売された丹野未雪の『あたらしい無職』(タバブックス)という本を読みたいと思い、新横浜の三省堂や新宿の紀伊国屋や池袋の三省堂やジュンク堂などをまわったのですが、小出版社の本だからなのか、どこにも在庫がありませんでした。

同書には電子書籍もありますが、私は、新刊本はできるなら紙の本で読みたいと思っている古いタイプの人間なので、今度はネットで購入しようと、通販サイトをチェックしました。

仕事の関係で、Tポイントが結構貯まるため、まずTポイントが使えるヤフーショッピングで検索してみました。しかし、ヤフーショッピングに出店している店も、いづれも在庫はなく、取り寄せるのに1週間から10日かかると表示されました。

つぎに、ジュンク堂と丸善と文教堂が共同で立ち上げたhontoという通販サイトにアクセスしてみました。在庫はあったのですが、お急ぎ便は送料が260円か350円かかります。

結局、プライム会員になっているアマゾンで注文しました。プライム会員だと送料無料の上、当日便で届きます。しかも、アマゾンでは、同書が「残り11点」となっていました。

最初からアマゾンにすればよかったと思いました。アマゾンは、当日便など宅配業者への負担が問題となっていますが、しかし、ユーザ-の立場からすると、掛け値なしに便利なのです。文字通り、アマゾン最強なのです。

当日便や時間指定の問題では、ユーザーも便利さだけを求めるのではなく、その裏にある労働問題などへも目を向けるべきだという声がありますが、しかし、それは資本主義社会において、ないものねだりの意見のように思えてなりません。

クロネコヤマトや佐川急便が”強気な”背景には、彼らが業界で圧倒的なシェアを占めているからにほかなりません。通販では如何にも赤字だみたいな話がありますが、しかし、巨額な利益を得ている独占企業であることには代わりがないのです。労働問題にしても、サービス残業で摘発されたことからもわかるように、アマゾン云々よりクロネコヤマトのブラックな体質こそが問題なのです。アマゾンのせいにするのは本末転倒です。人手不足なら、人材が集まるように労働条件を改善すればいいだけの話です。彼らは、莫大な内部留保をもたらす利潤率をそのままにして、人手不足を嘆いているにすぎないのです。

ここにも資本のウソ、ご都合主義が表れているように思えてなりません。的場昭弘氏が『「革命」再考』で書いていた、「資本は儲けるときはコスモポリタンで博愛的」だけど、「儲からなくなると、途端に国家にすがり国家主義的」になるのと同じです。

以前から言われていたことですが、アマゾンや楽天は、いづれ自前の宅配ネットワークをもつようになるでしょう。その動きは今後益々加速されるでしょう。そして、やがてアマゾンや楽天が、ヤマトや佐川のライバルになるのだろうと思います。

資本主義社会において、競争は当然で、それは決して悪いことではないのです。ヤマトや佐川の“殿様商売”のほうが不健全なのです。

そもそも翌日配達や時間指定など、今のような個人向けのサービスをはじめたのは、ほかならぬクロネコヤマトなのです。ところが、今度はそのサービスを値上げの口実にしているのです。ヤマトのやり方は、無料で顧客を囲い、シェアを占めると一転有料化して利益を回収する、ヤフーなどネット企業の手口とよく似ています。

若い頃に読んだ『都市の論理』という本で、著者の羽仁五郎が、公社・公団などは資本主義に社会主義的な要素を持ち込もうとする発想で、資本主義の良いところと社会主義の良いところを合体させようと思っているのかもしれないけど、それは両方の悪い面が出るだけだ、と書いていたのを思い出します。資本主義社会において、競争原理を否定するような論理こそ反動だということを、ゆめゆめ忘れてはならないでしょう。


2017.08.19 Sat l ネット l top ▲
ネットに出ていた上原多香子が不倫相手と交わしたLINEの文章を読んでいたら、ふと柳原白蓮のことを思い出しました。

私は、高校生のとき、持病があり、月に一度かかりつけの病院に通っていたのですが、その際、赤銅御殿の前を通って病院に行ってました。隣にキリスト教系の女子高があり、下校時にそこの生徒たちと遭遇すると、遠慮のない視線を浴びせられ、思春期の真っ只中にあった私は、いつの間にか耳たぶが熱くなっているのがわかるのでした。赤銅御殿は、既に人手に渡り旅館になっていましたが、高い石塀と庭木に囲われた目を見張るような豪邸は、昔のままの姿で残っていました。

成り上がり者の炭鉱王・伊藤伝右衛門は、大正天皇の従妹にあたる25歳下の白蓮のために、贅を尽くした別邸を大分県別府市の海が見渡せる高台に作ったのです。歌人でもあった白蓮は、赤銅御殿に多くの文人や歌人を招き、サロンのように使っていました。白蓮は、赤銅御殿で、脚本の上演許可をもらいに来た7歳年下の東京帝国大生・宮崎龍介(孫文を支援した右翼の巨頭・宮崎滔天の長男)と知り合い、やがて手に手を取り合って出奔するのでした。姦通罪が存在していた時代の、文字通りの“不倫の恋”です。東大の新人会(戦前の学生運動の団体)に属し、進歩的な思想をもっていた宮崎龍介は、男と女が「肉の欲」に負けるのは別に悪いことではないと白蓮に言います。貞淑な上流婦人であった白蓮は、「肉の欲」というあけすけなことばに衝撃を受け、宮崎龍介に惹かれていくのでした。

上原多香子も、不倫相手にLINEでこう書き送っています。

NEWSポストセブン
上原多香子 不倫LINEで「止められなくなる」「そばにいて」

上原《私、結婚ってとっても大きなことで人生の分岐点だったこともあるー だから、離婚するとか浮気は、もうあり得ないって思ってたのね でもさー、トントンに伝えられなかった好きと、やっぱり大好きと、私の一方的やけど肌を合わせて感じるフィット感が今までとはまったく違うの。》


上原《私はそんなに器用じゃなくて、、旦那さんとの生活を続けながら、トントンを想い続けること、トントンに想いがすべて行ってる中、騙し騙し旦那さんと居ることが、やっぱり出来ないです。(中略)今すぐにでも、すべて捨ててトントンの元へ行きたいです。だけど、私ももう大人、、いろんな問題があるし、私だけの想いでトントンに迷惑はかけられません。今すぐは難しいかもしれないけど、私も少し大人になって、ちょっとずつ、旦那さんと別の道を歩めるようにします。こんな気持ちでは絶対に旦那さんに戻れない。》


なんと、ぞくぞくするような愛の告白でしょうか。不謹慎を承知で言えば、これこそが不倫の恋の醍醐味とも言えるのです。上原多香子が不倫相手に送った「2人の子供作ろうね」ということばが、元夫が自殺する決定的な要因になったのではないかと言われていますが、でも、人間というのは自分でもままならないもので、道ならぬ恋だからこそ、よけい燃え上がるというのはあるでしょう。

元夫が自殺した責任を問う人もいますが、それは他人がとやかく言う問題ではないでしょう。自殺しているのを発見した際、彼女はひどく取り乱して、警察の取り調べにも応じられなかったと言われています。また、自殺によって不倫相手とも別れているのです。

柳原白蓮は、世間から「淫乱女」だと指弾され、石を投げつけられたのですが、上原多香子に対する世間の反応も同じです。姦通罪はなくなっても、不倫ということばは生きつづけているのです。でも、不倫なんて誰でもあり得ることです。恋に「良いか悪いか」なんてないのです。

不倫の恋に身を焦がしたのは、上原多香子や柳原白蓮だけではありません。栗原康氏が『村に火をつけ、白痴になれ』で書いていますが、伊藤野枝も「不倫上等」のような人生を送っていました。『美は乱調にあり』で伊藤野枝の伝記を書いた瀬戸内寂聴自身も、大学教員だった夫の教え子と不倫をしています。さらにそのあと井上光晴との不倫もよく知られています。みんな、上からのお仕着せのイデオロギー(道徳)ではない、自前の論理や感性で生きた人たちなのです。

上原多香子のことを「芸能界から追放必至」などと書いていたスポーツ紙がありましたが、芸能界というのは、本来、公序良俗の市民社会の埒外に存在するものです。名女優と呼ばれている人たちも、不倫の恋に身を焦がして女優として羽ばたいた人が多いのです。女優にとって奔放であることは決してマイナスではないはずです。

むしろ、今になって(元夫が盗み見た)LINEのやり取りや遺書を公表したり、4千万円だかの金銭を要求したと言われる元夫の家族こそ、眉に唾して見るべきでしょう。


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2017.08.12 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
今朝、テレビを観ていたら、今日は群馬県御巣鷹山に日航機が墜落した事故から32年になるというニュースをやっていました。今年は節目の三十三回忌にあたるそうです。

もうあれから32年が経ったのかと思いました。当時、私は、九州で地元の会社に勤めていました。実家とは別にアパートを借りてひとり暮らしをしてましたが、盆休みにもかかわらず、実家には帰らずに、行きつけの喫茶店のママの家で花札をしていたのでした。ママとその妹、それに、喫茶店の常連客が来ていました。みんな、独身でした。

咥え煙草に立て膝、ではなかったけど、座布団の上に札を叩きつけ、それこそ「猪鹿蝶だ」「青短だ」「松桐坊主だ」とやりあっていました。そんなとき、テレビから日航機が墜落したというニュースが流れたのです。

私たちは、しばし花札の手を休め、テレビの画面に釘付けになりました。画面には乗客の名前が映し出されていました。氏名のほかに、年齢や住所も書かれていました。それを観ていた私たちは、徐々に口数も少なくなっていました。

32年経った現在、喫茶店のママは、ある日突然店を閉め、誰にも告げずに引越して、今はどこか他県の老人施設に入っているそうです。ママの妹は、持病の心臓病が再発して30代の若さで亡くなったそうです。

喫茶店の常連たちも、そろそろ定年を迎える年齢です。なかには、その後、お見合いをして九州から栃木県だかに嫁いだ女の子もいます。もう孫がいてもおかしくない年齢になっているはずです。

当時、私がつき合っていた女の子も、結婚して大阪に行ってしまいました。彼女とは、一度だけ、実家に里帰りしていたときに会ったことがあります。実家の近くのスーパーの駐車場で待っていると、彼女は、ピンクの着ぐるみに包まれた赤ちゃんを抱いてやってきました。そして、悪戯っぽく笑いながら「どう、びっくりしたでしょ?」と言ってました。すっかりお母さんの顔になっていて、なんだか自分が置いてきぼりを食らったような気持になりました。

その数年後、私は、会社を辞め再び上京したのでした。考えてみれば、毎日のように喫茶店に通い、みんなと遊んだのも、わずか2~3年のことだったのです。今となっては名前すら思い出せない者もいます。

昨年、帰省して、当時の会社の同僚だった人間に会った際、私が会社を辞めたときの話になりました。会社では私が辞めた理由が理解できなかったらしく、「サラリーマンに向いてないなって、あとでみんなで話したんだよ」と言ってました。

あの頃の私は、田舎の生活に行き詰まりのようなものを感じていました。このまま田舎で一生を送ることが耐えられず、「ここではないどこか」を求める気持を抑えることができなかったのです。私はものごとを引き摺る性格なので、そうやって引き摺っているものを一端空っぽにしたかったのかもしれません。

あの夏の日に抱いていた、悲しいような切ないような、そして、ちょっと苦い気分。それは、今でも忘れずに残っているのでした。


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2017.08.12 Sat l 故郷 l top ▲
横浜市長選・山尾志桜里


横浜市長選において、昨日(7月27日)、桜木町駅前で上のような光景が見られました(写真はネットから拾った画像をモザイク処理しています)。一瞬目を疑う光景ですが、これが民進党の姿なのです。

民進党の山尾志桜里衆院議員は、同党の牧山ひろえ参院議員(神奈川選挙区)とともに林文子候補の選挙カーに乗り、つぎのような応援演説をおこなったそうです。

林さんは「女性だからできない」という世の中を変えてきた先駆者。都知事も女性のリーダー。仙台市長選郡さんは素晴らしい結果を出した。実力のある女性リーダーが多様な市民の声とつながった時本当の意味で社会が動き政治が変わる。横浜も是非!

https://twitter.com/fumipoohchan/status
/890827485545283584


山尾志桜里議員は、党内では前原誠司氏に近いと言われていますが、今回の行動は、単に「(スポンサーの)連合に頼まれたから」などという話ではないように思います。

林市政の問題点は、カジノだけではありません。横浜市の市立中学146校の歴史と公民の教科書は、2011年につづき2015年も「愛国心の育成に主眼を置いた」育鵬社の教科書を採択しているのです。日本会議は、「自虐史観」からの脱却を掲げ、全国の自治体に育鵬社の教科書の採択を要請する運動をおこなっていますが、横浜市は、育鵬社のシェアが4~6%と伸び悩むなかでも、その要請に忠実に(!)応えている自治体なのです。

山尾志桜里議員は、「保育園落ちた日本死ね」のブログをきっかけに、待機児童の問題を国会で取り上げた人物として知られていますが、もうひとつ、先の国会で大きな役割を果たした法案があります。それは、共謀罪と抱き合わせで成立した、性犯罪を厳罰化する刑法改正です。以前紹介した写真に見られるように、性犯罪の厳罰化を求める団体と金田勝年法務大臣をつないだのも山尾議員らなのです。

そんな“厳罰化の思想”と(国権主義的な)育鵬社の教科書を採択した林市政を支持する姿勢には、共通したものがあるように思えてなりません。

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一方、民進党では、蓮舫代表が辞意を表明したことに伴い、山尾議員の”親分”の前原誠司氏と枝野幸男氏が代表選に立候補すると言われています。民主党政権が崩壊したあとも、党人事などで出てくるのは当時の“戦犯”ばかりです。

有権者から見れば、野ブタを復権させたことで、蓮舫代表は最初からアウトだったのですが、前原氏も枝野氏もその点を批判することはないのです。自分たちも同じ穴のムジナなのですから、できるわけがないのです。有権者を愚弄しているのは、自民党だけでなく民進党も同じです。代表選に「リベラルか保守か」なんていう図式をあてはめるのも、単なるお笑いでしかありません。

政権崩壊の責任が不問に付されたまま、相も変わらず一部の人間たちで党人事がたらいまわしにされている民進党。支持率が下がれば下がるほど、自民党と一緒になりたい者たちの声が大きくなる民進党。そんな民進党に未来がないのは、誰が見てもあきらかです。「解党的出直し」などではなく、もはや解党するしかないでしょう。


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森友学園問題の思想的背景
2017.07.28 Fri l 横浜 l top ▲
在日朝鮮人のことを口にするのが、なんだか憚られる空気があります。それは、ありもしない“在日特権”なるものを妄信するネトウヨが街頭にまで進出し、耳を塞ぎたくなるような差別的暴言を垂れ流した反動と言えるのかもしれません。萎縮する(させる)ということと差別を解消するということは、まったく別問題でしょう。むしろ悪質な差別を地下に潜らせる結果にもなりかねないように思います。

ここで言う「在日朝鮮人のこと」というのは、在日の歴史的な経緯や政治的な側面のことではありません。身近にいる在日との付き合い方のことです。「身近にいる在日」というのは、エリートやインテリや、あるいは政治的思想を共有する人たちのことではありません。たとえば、『あんぽん』で描かれていた孫正義の身内のような、私たちと生活圏を共有し社会の基層を形成している、(私たちと同じように)矛盾だらけの人生を生きるごく普通の人たちのことです。

このブログでも書いていますが、私自身、若い頃、在日の女性と8年近く付き合った経験があります。もちろん、二人にとって、在日が置かれた歴史的な経緯や政治的な側面など、まったく関係のないことでした。とは言え、そういった側面が二人の意図とは別に、ときに顔を覗かせることがあったのも事実です。

朝鮮総連に勤める叔父さんから襟首を掴まれ、「お前のような日本人には××(彼女の名前)はやらんからな」と言われたとき(それも招待された親戚の結婚式の席で)、差別というのは、差別する側だけでなく差別されるほうにも深刻な問題をもたらすものだなと思いました。だからと言って、日本人は「朝鮮の人たち」にひどいことをしてきたのだから、「朝鮮の人たち」が言うことは謙虚に受け止め、まず謝ることが大事だ、そして、相手の立場になって話せば許してもらえるはずだ、なんて考えはまったくありませんでした。ただ「なんと礼儀知らずのバカなんだろう」と思っただけです。

「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私はたまたま在日朝鮮人の家庭に生まれた女の子と出会い恋に落ちただけです。歴史や政治と恋をしたわけではないのです。

もちろん、日本人と朝鮮人との違いを感じることは多々ありました。私は、彼女と付き合っている間、ずっとその違いについて考えてきたつもりでした。

前も書きましたが、私はよく彼女に「朝鮮人は勝ったか負けたか、損か得かでしか判断しない」と言ってました。一方、彼女は、「日本人はずるい、表と裏があるのでなにを考えているかわからない」と言ってました。

最近、私は、仕事の関係で在日朝鮮人とトラブルを経験しました。それは、仕事そのものより、人間関係におけるトラブルと言っていいでしょう。そこにも、日本人と朝鮮人との違いがよく出ているように思います。

一緒に仕事をはじめた当初、相手はやたら私にケンカを吹っかけてきました。何かにつけケンカ腰で、すぐ怒鳴りはじめるのです。それで、私も怒鳴り返したりしていましたが、そこには日本人と朝鮮人の他人に対する考え方の違いが出ているように思いました。

朝鮮人にとって、他人は「勝ったか負けたか」の競争相手、ライバルなのです。他人との関係において、まず優位に立つことが大事なのです。それは、霊長類かおこなうマウンティングを想像すればわかりやすいかもしれません。

朝鮮人に協調という観念はあまりありません。日本人の場合、小学校の通知表にも「協調性」の項目があるように、まず協調することが大事とされます。そのためには、本音と建て前を使い分け、みずからを殺して気を使い、空気を読まなければならないのです。それはそれで、とても疲れることです。でも、朝鮮人にはそういった屈折した感情はありません。

そのため、朝鮮人同士だと、我の強い人間がお互い(直情的に)自己主張するわけですから、当然ケンカになります。知り合いの韓国人に聞くと、ソウルなどでは夜になるとあちこちでケンカをしているそうですが、朝鮮人がよくケンカをするというのは故なきことではないのです。

相手がケンカを吹っかけてきても、それにひるんでいると益々かさにかかってきます。ひるむと負けになり、優劣が決せられるのです。負けるが勝ちなんて考えはないのです。朝鮮人が体面を重んじるというのも同じです。「ソウル(東京)を火の海にする」「いつでも核戦争の用意はある」などという北朝鮮の大言壮語も同じでしょう。

「勝ったか負けたか、損か得か」で価値判断をする朝鮮人にとって、大事なのは結果です。結果がすべてで、途中の論理的な整合性や倫理的な妥当性などは二の次です。「嘘を付いてでも言い張る」というのはちょっと言いすぎかもしれませんが、とんでもない屁理屈で自己を正当化するのにびっくりすることがあります。朝鮮人が総じて口達者で雄弁なのも、そういった背景が関係しているように思います。

対馬の寺で仏像三体が盗まれた事件で、窃盗団は韓国で逮捕され有罪判決が出ました。しかし、盗まれた仏像は(行方不明の一体を除いて)一体は返却されたものの、もう一体が未だ返ってきていません。韓国の寺が、盗まれた仏像はもともと韓国に所有権があり、日本が不当に略奪したものであるから返還する必要がないと訴え、裁判所もその訴えを正当と認める判決を出したからです。もっとも、その根拠は、神功皇后や豊臣秀吉の時代の話です。

仮に略奪されたものだとしても、被害にあった対馬の寺は法律で言う「善意の第三者」です。不法な手段によって盗まれたものが現状回復されるのは、法律のイロハだと思いますが、韓国の裁判所には近代法の常識さえ通用しないかのようです。そこにも、論理的な整合性や倫理的な妥当性を問わない韓国人特有の屁理屈が表れているように思います。

朝鮮人は、「日本人と付き合うのはめんどうくさい」と言います。なかでも彼らがよく口にするのは、日本人の「お礼の習慣」についてです。協調や協力という観念に乏しい彼らにとって、たとえばものを貰ったり借りたりしたらお礼をしてお返しをするような習慣は、たしかにめんどうくさいものでしょう。

朝鮮人は、みずから進んで仕事をするという意識がやや欠けるところがあります。それを指摘すると、逆に、(仕事をしろと)言わないのが悪いのだという屁理屈が返ってきて唖然としたことがありました。

朝鮮人は、日本人のように細かくなく、おおざっぱなのです。それは、個人だけでなく、社会的な慣習や制度においても同様です。文化の違いは、私たちが想像する以上に大きいのです。それを認識し指摘することは、ときに言い方に粗雑な部分があっても、決してヘイト・スピーチとは言えないでしょう。

通販でものを買うのに、電話口で通販会社の担当者を怒鳴り付けているのを聞いたとき(買った商品についてのクレームではなく、今から注文するのにその説明が悪いと難癖を付けているのです)、「日本人をなめているのか」と言ってケンカになったことがありますが、そんな民族性に還元するようなもの言いも、ヘイト・スピーチになるのだろうかと思いました。一方で、そうやって怒鳴り合いをするくらいでなければ、相互理解の道は拓けてこないのでないか、と思ったりもするのです。


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2017.07.25 Tue l 日常・その他 l top ▲
来週の日曜日は横浜市長選の投票日です。現職の候補は、もともとは民主党が担いだ落下傘候補(当時は東京日産自動車販売の社長)でした。2009年8月の市長選で初当選したのですが、その前月には民主党政権が誕生しています。擁立には、民主党が政権に就く前まで同党の代表だった小沢一郎氏の意向が大きくはたらいたと言われています。

そのため、民進党(旧民主党)はずっと与党として市政を支えてきました。もちろん、連合神奈川も自治労神奈川も同様です。市議会に民進党所属の東電労組出身の議員を送り込んでいる電力総連も、現職市政を支える強力な支援団体です。

現職候補は今回で三期目ですが、その間自民・公明にも接近し、二期目からは自民・公明・民進が推薦する、実質的な“オール与党体制“が成立しています。

今回の選挙では、民進党内の旧維新の市議が、“市民派”として立候補しました。一方、民進党内の旧民主党系は、現職候補を支援しています。そのため、民進党は自主投票になりました。旧維新の“市民派”候補に対しては、共産党が独自候補の擁立を見送り、実質的な“野党共闘”候補として支援しています。

このように横浜市長選は、さまざまな思惑が絡む複雑な構図になっているのですが、少なくとも民進党内の多数派や連合や市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)は、安倍政権の懐刀である菅義偉官房長官(神奈川二区選出・元横浜市議)が牛耳る自民党と手を組み、カジノ推進や戦前賛美の育鵬社教科書採択の現職市政を支援しているのです。横浜市長選の構図を見る限り、民進党は“野党”なんかではありません。”野党”のふりをしているだけです。

横浜とカジノに関しては、ネットに次のような記事もありました。

デイリー新潮
カジノ利権を狙う「横浜のドン」の影が見え隠れ 総理の椅子が欲しくなった「菅官房長官」(1)
菅官房長官、「横浜カジノ」消滅でメンツ丸つぶれ 地元ドンの一声で

如何にも新潮らしく前と後では書いていることがまったく違っており、一体どっちが本当なんだと突っ込みたくなりますが、横浜市にも「神戸と山口組」と同じように、港湾都市特有のダークな部分がまだ残っているということなのでしょうか。横浜市民の感覚から言えば、とんだ”野党”やとんだ労組がいたものだと言わざるを得ません。

先日、桜木町駅近くの建設予定地で新市庁舎の起工式がおこなれましたが、新市庁舎はに地上32階地下2階高さ155.4mの高層ビルで、2020年6月完成予定だそうです。総工費は、計画段階から133億円増え749億円だとか。

横浜市の財政状況は、前回の市長選のときからいくらか改善されたものの、依然として”危機的状況”であることには変わりがありません。平成26年度は(カッコ内は平成22年度)、歳入が1兆4690億円(1兆3991億円)、歳出1兆4333億円(1兆3796億万円)、市債の発行1509億円(1345億円)です。特別会計も含めた全会計の市債発行残高は、4兆3134億円(4兆5478億円)です。横浜市は、収入の3倍近い借金を抱えた多重債務者なのです。その多重債務者が「災害」や「市民サービス」を口実に、またあらたに借金して、一等地に豪奢な庁舎を新築しているのです。

横浜市・財政局
横浜市の財政状況

市職員の給与は、基本給に諸手当を含めた(期末手当は含まない)「平均給与月額」が、2015年度で442,772円(42.4才)です。これは、全国1788市町村のなかで60位です。言うまでもなく職業に貴賤はありませんが、技能職のなかに職種別の給与も出ていました。清掃職員421,837円(45.5才)、学校給食員410,830円(49.1才)、守衛436,307円(43.8才)、用務員423,330円(50.3才)、バス運転手460,846円(46.9才)。何度も言いますが、これは期末手当(ボーナス)を含まない給与月額の平均です。

給料.com
横浜市(神奈川県)職員の月収・年収を知る(2015年)

よその自治体から転居してきた人は、横浜市の国民健康保険料が高いのにびっくりするはずてす。また、住民税も全国で有数の高さです。私の実感でも、所謂「租税公課」は、もはや収入とのバランスが崩れ、生活を圧迫するほどの高額になっています。一方で、横浜市にはみなとみらいやパシフィコ横浜など37の外郭団体があり、市職員の天下りやワタリの問題が相変わらず指摘されています。

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現職候補の優位は変わらないようなので、カジノができればまた山下埠頭がみなとみらいのように開発されるのでしょう。オシャレな街の賢明な市民たち(皮肉ですが)は、地上32階の豪奢な市庁舎や対岸に見えるきらびやかなカジノのネオンサインをどんな思いで見るのでしょうか。「やっぱ、横浜はすごいじゃん」と思うのでしょうか。


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横浜はイナカ
2017.07.24 Mon l 横浜 l top ▲
夕方、突然、外からお囃子のような音が聞こえてきました。カーテンを開け、ベランダに出ると、近所のスーパーの駐車場に、いつの間にかテントが張られ、提灯に囲われたヤグラが組まれていました。日が落ちた住宅街のなかで、その一角だけが灯りに照らし出され、幻想的な雰囲気さえ醸し出していました。そう言えば、商店街の掲示板に、盆踊り大会を告示する貼り紙があったことを思い出しました。

ただ、上京して30年近く経つものの、未だに7月の盆踊りには戸惑いを覚えてなりません。と言うのも、田舎ではお盆は月遅れの8月におこなわれるのが普通だからです。私のなかには、盆踊りは夏の終わりを告げるイメージがあるのでした。お盆がすぎると、川に泳ぎに行くことも禁止されました。日中、近所の子どもたちの嬌声が飛び交っていた川べりも人影がなくなり、いつもの風景に戻っていくのでした。お盆がすぎると、そんな祭りのあとのさみしさのような気持になったものです。

表の道路を見ると、浴衣姿の子供たちが、親に手を引かれてスーパーの駐車場に向かっていました。私たちが子どもの頃、浴衣は普段着(寝巻)でした。それが今では、祭りや花火大会や盆踊りなどハレのときに着るものに”出世”し、華やかなイメージさえ付与されています。派手な帯などを見るにつけ、なんだかコスチュームのようで、花火大会の日に、これ見よがしに電車に乗り込んで来る若者たちは言わずもがなですが、私は、子どもたちの浴衣姿にも、違和感を覚えてならないのでした。

昔、夏の夕暮れどきになると、近所の大人たちは外に出て、家の前にある椅子や花壇の端に腰かけ、よくおしゃべりに興じていました。男たちは山下清が着ていたようなランニングシャツにステテコ姿で、話をしながらしきりに団扇で寄って来る蚊を払いのけていました。女たちは、一様に割烹着姿で、頭には手ぬぐいを姉さんかぶりに巻いていました。

私たち子どもは、手足が真っ黒になるまで遊んだものです。遊び疲れて帰ってくると、母親は「さあ、さあ、ご飯にしようかね」「早く手と足を洗いなさい」と言って腰を上げるのでした。家のなかからは、夕餉の匂いとともに裸電球の橙色の灯りが漏れていました。そんな光景を思い出すと、なんだか胸を突き上げるようななつかしさを覚えます。あのとき、家の前で夕涼みをしていた父親も母親も、そして、近所のおいちゃんやおばちゃんも、もう誰もいないのです。

今は田舎でもそんな光景を見ることはなくなりました。せいぜいが外から帰ってきた猫を見つけて、「ミーちゃん、さあ、さあ、ご飯にしようかね」なんて言うくらいでしょう。

ベランダからスマホで盆踊りの様子を撮ったのですが、パソコンに保存する際、操作を間違えて画像を消去してしまい、残念ながら画像はありません。
2017.07.23 Sun l 日常・その他 l top ▲
ときどきこのブログをやめようかと思うことがあります。特に「社会・時事」のカテゴリーに入っている記事をすべて削除したい衝動に駆られるのです。あとで読み返しても、くだらない床屋政談としか思えません。これではネトウヨと変わらないでしょう。

私のブログで「社会・時事」カテゴリーの記事が多くなったのは、3.11以後です。しかも、「社会・時事」カテゴリーの記事が多くなるにつれアクセスも伸びてきました。世の中の人たちも、3.11以後、原発事故などにより政治的な関心が高くなったのでしょう。スマホによるSNSの普及がそれに輪をかけたような気がします。私も、いつの間にか、反原発や反ヘイト・スピーチや反安倍の周辺にいるような人物が発信するTwitterを定期的にチェックするようになっていました。

しかし最近は、その手のTwitterも、所詮は“政治ごっこ”にすぎないのではないかと思うようになりました。ネットによって政治が身近になったと言われますが、しかし、夜郎自大にそう錯覚しているだけのような気がしてなりません。

一方で私は、アナーキストなどが使う“反政治”ということを考えるようになりました。政治なるものに対して徹底的に絶望し、あらゆるものを否定する。今の世の中でいちばん欠けているのは、そういった絶望する思想なのかもしれません。

私が書きたかったのは、下記のようなブログです。ことばの端々に人生が投影されているような、そんな「私語り」のブログ。その技量があるかどうかは別にして、世の中に向けて発信するというような大それた(勘違いした)ものではなく、日々の移ろいを記録する、そんな自分に向けたブログをホントは書きたかったのです。

神戸市公式サイト
「ごろごろ、神戸2」
第7回 私の東京

私たちは、普段政治なるものを考えて生きているわけではありません。私たちにとって、政治なんてどうだっていいのです。それこそ「取るに足らないもの」です。もっとほかに考えなければならないことはいくらでもあります。本末転倒した床屋政談のようなブログが、あとで読み返して自己嫌悪に陥るのは当然と言えば当然かもしれません。


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政治なんてものはない
2017.07.14 Fri l 日常・その他 l top ▲
先日、朝日新聞デジタルに、つぎのような内田樹氏のインタビュー記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
内田樹さん、「天皇主義者」宣言 「変心」の真意語る

記事を読むと、内田氏は、「護憲派」で「平和主義者」のイメージが強い現天皇を安倍政治への対抗軸として捉えているかのようです。そのために、国事行為だけでない「鎮魂と慰藉の旅」も天皇の務めだと「解釈」し、国民の間にある「皇室への素朴な崇敬の念」を牽強付会に評価しているのでした。でも、それは、朝日新聞などマスメディアが作り上げた天皇像を踏襲しているにすぎないのです。国民の間にある「皇室への素朴な崇敬の念」も、天皇制タブーとパラレルな関係にあることくらい、少しでも考えればわかるはずです。

これも一種の「天皇の政治利用」、それもきわめてご都合主義的な「政治利用」ではないかと思いました。

まして「天皇制が高い統合力を持つ一因はそれが持つスピリチュアル(霊的)な性格にある」と言うに至っては、何をかいわんやです。アッキーと同じじゃないか。そんな皮肉のひとつも言いたくなりました。あるいは、小池百合子都知事の父親が心酔していた、スメラ哲学の焼き直しと言ってもいいのかもしれません。

BLOGOS
「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー

内田氏の「天皇主義者」宣言については、『現代ニッポンの論壇事情 社会批評の30年史』(イースト新書)のなかで、栗原裕一郎がつぎのように批判していました。

栗原 安倍批判もカードが尽きてきたのか、最近、内田樹は、「天皇vs安倍」という構図を出してきていますね。リベラルが支持を得られないのは霊的ポジションが低いからだ、極右のほうが死者を呼び出す能力が高く熱狂を招くことができるが、でも天皇のほうが死者を多く背負っていて霊的ポジションが高い、天皇に勝てないことをわかっている安倍は、だから天皇を骨抜きにすることを企むのである、みたいな。まあ、無茶苦茶です。


宮台真司の「天皇主義者」宣言も似たようなものでしょう。

北田暁大は、同書のなかで、今の「左翼」は「生活保守と妙なレッセフェールの自由主義がミックスしたようなもの」になっていると言ってましたが、まさにその点において右も左も(安倍政治もリベラル左派も)違いがないのです。少なくとも反体制(対抗軸)としてのリベラル左派の思想は、とっくに失効していると言っていいでしょう。

何度も繰り返しますが、リベラル左派が称揚する旧SEALDs(SEALDs的なもの)や野党共闘が、時代を領導するダイナミズムも批評性も保持してないことは、もはや自明なのです。SEALDs的なものや野党共闘が、一方で、この(如何にも日本的な)翼賛体制を支えていると言っても言い過ぎではないでしょう。と言うか、高橋源一郎の「ぼくらの民主主義」が象徴するように、とっくに彼らは翼賛体制に組み込まれているとさえ言えるのです。

いつの間にか安倍政治は青息吐息になってしまいましたが、しかし、時代は確実に反動の方向へ進んでいるのです。安倍政治の末路に浮かれている場合ではないのです。
2017.07.11 Tue l 社会・メディア l top ▲
今日、車で埼玉の新座市を通ったのですが、道路沿いの至るところに、「このハゲ~!!」でおなじみの自称「豊田真由子サマ」のポスターが貼ってありました。ポスターを目にすると、いつの間にかあのヒステリックな声がよみがえってきて、ポスターさえもギャグの小道具のように思えてくるのでした。

夫も経産省のキャリア官僚だそうですが、エリート夫婦の歪んだ内面なんて考えると、なんだか土曜ワイド劇場の呪われた一家のように思えてきます。聞けば、「豊田真由子サマ」の父親も、母親に対するDVがひどかったのだとか。私は、DVの世代連鎖ということばを思い出さざるをえませんでした。そして、彼女の子どもたちは大丈夫なんだろうかと思いました。

この「豊田真由子サマ」も、加計学園からのヤミ献金の問題が浮上している下村博文氏も(下村氏は文科大臣のときに、「日本人としての誇りをもつ」”愛国”教育の必要性を説きながら、一方で、自分の小学生の子どもはイギリスで教育させていたという建前と本音の人でもあります)、大臣としての資質に疑問をもたれながら、“ともちんラブ”で安倍首相に溺愛される稲田朋美氏も、いづれも安倍首相の出身派閥である旧清話会の所属議員です。

そう言えば、「マスコミを懲らしめる」「(ガン患者は)働かなければいい」発言の大西英男氏や、「アル中代議士」としてスキャンダルの渦中にある橋本英教氏も、旧清話会の所属です。

なんだか旧清話会の議員に対して、集中的にスキャンダルが仕掛けられている感がなきにしもあらずです。野党が我が意を得たりとばかりにハシャギまくるのもいつもの光景ですが、そんな単純な話ではないのかもしれません。

新潮や文春の記事に悪ノリしている野党にしても、今度はいつその矛先が自分たちに向かってくるかもしれないのです。「安部政権に激震」と言うのも、与党内部の権力争いで、野党が外野席で使い走りに使われているだけのような気がしてなりません。

都議会議員選挙では、都民ファーストが大勝、自民党が大敗するという予想が出ていますが、だからと言って、野党の議席が伸びるわけではないのです。驚くべきことに、都民ファ・自民・公明で全議席の85%以上を占めるという予想さえ出ています。結局、保守は、以前にもましてその支持を広げることになるのです。そこには、どこまでもダメな野党の姿しかないのです。

もはや、与党か野党かという(既成政党を所与のものとする)発想自体がダメなのではないか。「アベ政治を許さない」というボードを掲げ、野党議員に拍手喝采を送るのも、翼賛体制に与するトンマな姿にしか見えません。
2017.06.30 Fri l 社会・メディア l top ▲
(ヤフー系列の)BuzzFeedに、Yahoo!ニュースがヤフコメについてアンケートを実施したという記事がありました。

BuzzFeed News
「ヘイトの温床」の厳しい声も ヤフコメに期待することは?ユーザーから意見募る

私も何度も書いていますが、ヤフコメが「ヘイトの温床」であることは、もはや誰もが認める事実でしょう。Yahoo!ニュースがやっと(!)重い腰を上げようとしているという声がありますが、しかし、今までのヤフーの対応を見ていると、それも甘い見方のような気がします。

これほど厳しい指摘があるにもかかわらず、どうしてヤフーはコメント欄を閉鎖しないのか。その理由は、以前に紹介した藤代裕之氏の『ネットメディア覇権戦争』のつぎの一文に集約されています。

 ヤフーは、メディアとプラットフォームの部分をうまく使い分けてきた。
 差別発言や誹謗中傷が溢れ、ヤフー自身も極端なレッテル貼りや、差別意識を助長するような投稿があったと認めているニュースのコメント欄も同様だ。このコメント欄はプラットフォーム部分とされ、プロ責対応となる。つまり、事後対応でよいため、無秩序な状態が放置されてしまうのだ。
 ヤフーは、専門チームが24時間365日体制でパトロールを行い、悪質なコメントをするユーザーのアカウント停止措置、不適切コメントの削除といった対応を行っているというが、コメント欄を閉鎖する気はないようだ。理由は単純で、コメント欄がアクセス数を稼いているからだ。
(藤代裕之『ネットメディア覇権戦争』・光文社新書)


ニュースをマネタイズするためには、バズるのがいちばん手っ取り早い方法です。謂わば故意に「炎上させる」のです。そうやって倍々ゲームでアクセスを稼ぐのです。そのためには、ヘイトコメントはなくてはならないものです。

通常のニュースメディアのように、編集権が確立していないYahoo!ニュースにとって、ニュースも所詮はアクセスを稼ぎマネタイズするためのアイテムにすぎないのでしょう。Yahoo!ニュースの編集者たちに、ジャーナリストとしての自覚や矜持は必要ないのです。むしろそんなものは邪魔なのでしょう。それが、Yahoo!ニュースがニュースサイトというより、どちらかと言えばまとめサイトに近い存在だと言われる所以です。

Yahoo!ニュースが2年前に行った調査によれば、コメント欄を利用しているのは80%以上が男性で、そのうち30~50代の男性が50%を占め、なかでも40代が突出して多いのだそうです。



不惑の年のいい年こいたおっさんたちが毎日飽くことなくあんな低レベルなコメントを投稿している姿を想像すると、なんだかおぞましささえ覚えますが、彼らは一体どんな人間たちなのか、普通のサラリーマンなのか、そのあたりの属性がいまひとつはっきりしません。

排外主義的な主張をしているカルト宗教の信者たちが、コメント欄に常駐しているという話があります。また、自民党が組織した自民党サポーターズクラブの存在を指摘する人もいます。ネトウヨには、そういった紐付きの人間たちが多いのも事実でしょう。

Yahoo!ニュースには、コメント欄が特定の人間たちに占領される懸念などまったく頭にないかのようです。Yahoo!ニュースがカルト宗教の信者たちの書き込みを利用しているとしたら、Yahoo!ニュースと統一教会で集団結婚した日本人花嫁を「世界ナゼそこに?日本人」で紹介するテレビ東京は、同じ穴のムジナと言うべきかもしれません。

BuzzFeedの記事では、下記のツイートが紹介されていましたが、こういうまともな声がもっと広がるべきでしょう。



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『ウェブニュース 一億総バカ時代』
2017.06.23 Fri l ネット l top ▲

これは、「共謀罪」が成立した直後の中川淳一郎氏のツイートです。中川氏はその前に、同じ失敗を繰り返すより、「次の自民党総裁選で安倍氏の対抗馬になるような自民党議員にすり寄るぐらいのしたたかさを見せろ」とツイートしていました。中川氏の政治音痴ぶりは相変わらずですが、ただ私は、“無能な野党”という一点において、中川氏のツイートに「いいね」をあげたくなりました。

民進党は本気で「共謀罪」に反対したのか。ネットではつぎのような話も出ています。


もし仮に民進党が政権に就いたら(ほとんど空想の世界ですが)、「共謀罪」を廃止するのでしょうか。とてもあり得ない話のように思います。私たちは、かつての民主党政権のときに、それを嫌というほど見せつけられたのです。

あらゆる手段を使って成立を阻止する、議会政治の死だ、なんて言っていたのもつかの間、「共謀罪」が成立した途端、まるで何事もなかったかのように馴れ合いの議場に戻った野党。

先述した性犯罪を厳罰化する刑法改正案も、日弁連が懸念する点などについてほとんど審議は行われず、参院法務委員会はわずか一日で採決し、翌日、本会議で「全会一致」で成立したのでした。

 与党は慣例に反し、改正刑法より二週間遅く国会に提出された「共謀罪」法を先に審議入りさせたため、改正刑法が衆院本会議で審議入りしたのは今月二日。参考人質疑は参院法務委員会でしか実施されず、審議時間は計十二時間四十分。十八日の会期末をにらみ、駆け足での成立となった。

東京新聞・TOKYO Web
性犯罪、法定刑引き上げ 改正刑法が成立 厳罰化へ、


慣例無視の「横暴」があったとは言え、「共謀罪」ではあれほど審議時間が足りないと言っていたのに、性犯罪の厳罰化は少なくてもなんら問題はないとでも言いたげです。参院法務委員会での審議も、どう見ても形式的なものとしか思えません。これで、委員会採決をすっ飛ばす禁じ手を使った与党のやり方を批判する資格があるのだろうかと思いました。と言うか、昨年のヘイト・スピーチ対策法のときと同じように、「共謀罪」が成立したら刑法改正案も会期内に成立させるという、”暗黙の了解”があったのではないかと穿った見方さえしたくなりました。

形式的な審議、「全会一致」。これこそ「議会政治の死」を意味するのではないか。「共謀罪」は、こういった「全会一致」の思想の上に成り立っているのです。
2017.06.21 Wed l 社会・メディア l top ▲
http://blog.canpan.info/shiawasenamida/img/
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上は、性暴力(性犯罪)の被害者を支援している特定非営利活動法人しあわせなみだのブログに掲載されていた写真です。この写真は、性犯罪に関連する刑法の改正を求める団体が、6月77日、3万筆のオンライン署名と改正の要望書を法務大臣に提出した際に撮影されたものだそうです。真ん中でハートマーク(愛のマーク)を作っているのが、あの金田勝年法務大臣です。

改正案は、この翌日(8日)、衆院で可決され、参院に送られました。報道によれば、明日(15日)、「共謀罪」(組織犯罪処罰法改正案)が成立すれば、18日の会期末までに同案も成立する可能性があるそうです。改正案の成立を求める人たちは、「共謀罪」が早く成立して改正案の審議に入ってくれというのが本音かもしれません。

今回の改正案は、「①強姦罪を『強制性交等罪』とあらため、被害者を女性だけでなく男性も含める。②法定刑の下限を懲役3年から5年に引き上げる。③親告が不要な非親告罪にする」などが主な柱となっています。

一方、この改正案に対して、日弁連が「一部反対」の意見書を出したため、被害者支援を行っている団体が反発、57の団体が共同で抗議声明を出す事態になりました。

Yahoo!ニュース
性犯罪の厳罰化に日弁連が一部反対の意見書 被害者支援57団体が抗議へ

日弁連の意見書には、法律の専門家の立場から、犯罪規定の曖昧さや「厳罰ありき」=安易な制裁主義に対する懸念があるように思います。

下記は、その代表的な反対意見です。

Mixi( Aさんの日記)
性犯罪厳罰化反対

日記の主の「Aさん」は、改正(特に厳罰化)に疑問を投げかける人権派(?)弁護士を叩くために、産経新聞の記事を引用しているのですが、私は、この弁護士の意見には首肯すべき点があるように思いました。

厳罰化の背後にあるのは、捜査当局の裁量の拡大です。犯罪規定の曖昧さは、警察にフリーハンドを与えることを意味するのです。それは、「共謀罪」と共通するものです。また、冤罪の歯止めがなくなる懸念もあります。

被害者の心と身体に将来に渡って深刻な被害をもたらす性犯罪は、文字通り憎むべき犯罪で、それを擁護する人間なんて誰もいないでしょう。もちろん、110年前に作られた法律を時代の流れに合わせて改正するのも必要でしょう。しかし、厳罰化に反対する弁護士の意見にあるように、性犯罪というのが、厳罰化が抑止になるような犯罪ではないこともまたたしかでしょう。

性犯罪には、その根底に、性的対象者、とりわけ女性をモノと見る考えがあるように思います。また、性的依存症の側面もあります。そういった文化的社会的背景も無視できないのです。

資本主義社会では、ありとあらゆるものが商品化され、金儲けの対象になります。性も例外ではありません。私たちのまわりを見ても、性的な欲望をかきたてる広告があふれています。一方で、資本の効率化に伴う高度にシステム化された社会において、私たちはさまざまなストレスを抱えて生きることを余儀なくされているのです。

電車が来てもいないのに、ホームへのエスカレーターを駆け足で降りていくサリーマンやOLたち。いつもなにかに急き立てられるような強迫観念のなかで生きている人々。そういった日常と依存症は背中合わせと言えるでしょう。

先日、BuzzFeedの記事のなかで、芸能人の薬物報道に疑問をもつ当事者や医師たちが提唱した「ガイドライン」が紹介されていました。

BuzzFeed
これでいいのか? 芸能人と薬物報道 専門家からあがる疑問の声

犯罪の質は違いますが、同じ依存症という側面から考えた場合、薬物使用も性犯罪も、問題の本質は同じではないかと思います。

刑期を終えればまた犯罪を繰り返すのも、性犯罪の本質を正しく捉えた有効な矯正プログラムが採られてないからでしょう。しかし、厳罰化を求める多くの人たちはそうは考えません。だったら(何度も犯罪を繰り返すのなら)、体内にGPSのチップを埋め込めばいいという発想になるのです。

日弁連に対する抗議声明のなかで、被害者団体は、「裁判員裁判では、裁判官のみでの裁判より性犯罪に関する犯罪の量刑が重くなっている。性犯罪を重刑化することは市民の賛同を得ている」(上記「性犯罪の厳罰化に日弁連が一部反対の意見書 被害者支援57団体が抗議へ」より)と主張しているそうですが、シロウト裁判員の「市民感覚」が、被害者と同じ応報刑主義的な感情に走るのは当然と言えば当然かもしれません。裁判員裁判が、厳罰化の風潮を作り出しているとも言えるのです。

誰もが反対できないような「絶対的な正しさ」を盾に、厳罰化と警察権限の拡大が謀られるのです。たとえば、暴力団を取り締まるために導入された凶器準備集合罪が、やがて反体制運動を取り締まるために使われたのはよく知られた話です。性というのは、きわめてパーソナルでデリケートなものです。性犯罪は、支援団体が上げるような「明確な」ケースだけとは限りません。どこまでが犯罪でどこまでが犯罪ではないのか、なにが真実でなにが真実でないのか、曖昧な部分が多いのも事実でしょう。その曖昧な部分の判断を警察に委ねる今回の改正案は、姦通罪などと同じように、私たちの性に対して、いつでも警察(=国家)が介入してくる道を開くものと言っても過言ではないでしょう。

「共謀罪」も性犯罪の厳罰化も同じです。それらは、地続きでつながっているのです。監視社会化と厳罰化(制裁主義)は表裏一体なのです。そうやって全体主義への道が掃き清められていくのです。昨年、ヘイト・スピーチ対策法が盗聴法の拡大や司法取引を導入する刑法改正とバーターで成立したのと同じ光景が、再びくり返されているように思えてなりません。

この風潮に対して、竹中労が生きていたら”デモクラティック・ファシズム”と言ったに違いありません。一方、私は、”善意のファシズム”ということばを思い浮かべたのでした。
2017.06.14 Wed l 社会・メディア l top ▲