どうして、高学歴の「知的エリート」がオウムに取り込まれたのかを考える上で、下記の記事は非常にリアルで、参考になるように思いました。

AERAdot.
井上死刑囚から勧誘された医師が明かす「オウム真理教事件は受験エリートの末路」

記事を読むと、灘高のような受験エリート校の人脈を通して勧誘が行われていたことがわかります。

もちろん、彼らが「取り込まれた」というのは、私たちが外野席で言っているだけです。当然のことですが、彼ら自身は「取り込まれた」なんて思っていません。麻原に「帰依」したのです。

彼らの多くは、理系の「知的エリート」です。専門的な科学教育を受けた科学者(あるいは科学者の卵)なのです。それが、どうして空中浮遊や神秘体験などの“超能力”を信じ、麻原のようないかさま師に「帰依」したのでしょうか。

専門家が指摘するように、ときには薬物まで使ったイニシエーションによって人工的にもたらされた”霊的な幻覚”を体験することで、麻原の虜になったということはあるでしょう。しかし、一方で、「知的エリート」たちは、麻原の俗物性に目を瞑り、能動的に麻原に「帰依」した側面もあるのです。

はっきり言って、熊本の盲学校を出て(しかも、盲学校で飛びぬけて優秀な成績でもなかったのに)、熊本大学の医学部や東大の法学部を受験するというのは、誇大妄想としか思えません(理系の医学部がダメだったから次は文系の法学部を受験するなんて、発想からしてハチャメチャです)。でも、今の“大衆(建前)民主主義”では、そういう言い方は盲学校を見下す(差別する)ことになるのです。言ってはいけないことなのです。オウム真理教は、「信仰の自由」の問題も含めて、そういった“大衆(建前)民主主義”を逆手に取ったと言えないこともないのです。

そもそもオウム真理教自体が、麻原の誇大妄想の産物でしかないのです。でも、その誇大妄想が宗教の皮を被ると、神からの啓示=”超能力”のように思えて信仰の対象にすらなるのです。それが所謂「宗教の宗教性」と言われるものです。

私たちのまわりを見ても、無知の強さ、あるいは非常識の強さというのは、たしかに存在します。西欧的理性が木端微塵に打ち砕かれたナチズムの例を出すまでもなく、ものごとを論理的に考える知性というのは、無知や非常識に対して非力な面があるのです。

上昌広氏のつぎのような言葉が、「知的エリート」の“弱さ”を表しているように思います。

 エリートは権威に弱い。権威の名前を出されると、そのことを知らない自分の無知をさらけ出すのが恥ずかしく思い、迎合しようとする。決して「わからない」とは言わない。私を含め当時の東京大学の学生が、オウム真理教に引きずられていたのは、このような背景があるのではなかろうか。挫折を知らない、真面目で優秀な学生だからこそ、引き込まれる。


「決して『わからない』とは言わない」のが「知的エリート」の“弱さ”なのです。「先生と言われるほどのバカでなし」という川柳は、「知的エリート」の本質を衝いているのです。と同時に、大衆(世間)のしたたかさ、狡猾さを表してもいるのです。麻原のようないかさま師が彼らを取り込む(「帰依」させる)のは、そう難しいことではなかったでしょう。

麻原は、弱視でしかも柔道の有段者であることを盾に、熊本の盲学校では、視力障害者の同級生や下級生を相手に番長として君臨したのですが、まったく同じ手法で、無知や非常識に“弱い”「知的エリート」に対してグルとして君臨したのでした。

修行をすれば射精しなくてもエクスタシーを得られると言いながら、自分は片端から女性信者に手を出して射精しまくっていたのですが、そのバカバカしさに気付かないのが「知的エリート」の致命的な”弱さ”です。

麻原と同じ熊本出身の谷川雁は、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であれ(原文は「ある」)」(『工作者宣言』)と言ったのですが、たとえば、通勤電車の醜悪な風景の中で、「断乎たる知識人」であることは至難の業だし、哀れささえ伴うものです。でも、冗談ではなく、あの通勤電車の醜悪な風景こそがこの社会であり、電車の座席にすわることが人生の目的のような人々が大衆なのです。

でも、間違っても「こいつらバカだ」とは言えないのです。言ってはならないのです。そんな中で、麻原は、仏教の“裏メニュー”とも言うべき教義を彼らに提示したのでした。それが、「煩悩の海に溺れ悪行を重ねる凡夫は、ポアして救済しなければならない」「それが功徳を積むことになる」という、グルを絶対視する戒律と選民思想で再解釈したタントラ・ ヴァジラヤーナの教義なのでした。

上氏の剣道での挫折もそうですが、麻原に「帰依」した「知的エリート」たちも、いったんは学校を出て就職したもののすぐに会社を辞めた人間が多いのが特徴です。それが挫折感になっているのです。そして、麻原に「帰依」することによって、その挫折感がハルマゲドンのような終末思想にエスカレートして行ったというのは、容易に想像できます。

職場の人間関係だけでなく、日々の生活の中でも、無知の強さや非常識の強さを痛感させられることはいくらでもあります。もちろん、ネットも然りです。しかも、無知の強さや非常識の強さは、“大衆(建前)民主主義”によって補強され、ある意味この社会では「最強」と言ってもいいのです。オウムの「知的エリート」たちがハルマゲドンを欲したのも不思議ではないのです。彼らは、教義以前に、あらゆる価値が(知をも)相対化される現代の民主主義を呪詛していたように思えてなりません。
2018.07.16 Mon l 社会・メディア l top ▲
死刑執行の日に朝日新聞に掲載された、宮台真司氏のインタビュー記事で、宮台氏はつぎのように言ってました。

不全感を解消できれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものどちらでもよい。そうした感受性こそ、昨今の「ポスト真実」の先駆けです。誤解されがちですが、オウムの信徒たちは現実と虚構を取り違え、虚構の世界に生きたわけではない。そんな区別はどうでもよいと考えたことが重要なのです。

朝日新聞デジタル
オウム化している日本、自覚ないままの死刑


宮台氏は、「だから危ない」のだと言います。

現実と虚構の区別なんてどうだっていいというのは、今のネトウヨなどにも言えるように思います。彼らにとって、ネットのフェイクニュースや陰謀史観の真贋なんてどうだっていいのです。みずからの「不全感」(人生や社会に対する負の感情)を「愛国」という排外主義的な主張で埋め合わせればそれでいいのです。それが反知性主義と言われるゆえんです。

どうして「知的エリート」が麻原彰晃のような安っぽいいかさま師に騙されたのか。オウム真理教を論じる場合、必ずと言っていいほど出てくる疑問ですが、私は、以前、大塚英志氏の『物語消費論改』を引用して、つぎのように書いたことがありました。

麻原彰晃は、英雄史観と陰謀史観を梃子に「大きな物語」を「陳腐に、しかし低次元でわかり易く提供して見せた」のでした。それは、「例えば『国を愛する』と言った瞬間、そこに『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」ような安直なものでしかありませんでした。

関連記事:
『物語消費論改』


戦前戦中、多くの左翼知識人=「知的エリート」が「転向」したのは、天皇制権力による思想的転換への強制、屈伏というより、彼らが大衆から孤立したからだ(彼らの思想が”大衆的基盤”をもたない脆弱なものだったからだ)、と言ったのは吉本隆明ですが、「知的」であるということは、ある種の”後ろめたさ”を伴うものでもあるのです。誠実であろうとすればするほど、大衆的日常性(大衆的価値観)から遊離した孤立感を抱くものです。「知的エリート」たちは、安直なもの(=大衆的なもの)であるからこそ、逆に取り込まれたとも言えるのです。

倫理なんて、糞の役にも立たない“文化的幻想”にすぎません。「知的エリート」が全体主義に動員される思想的なメカニズムは、E・フロムやハンナ・アーレントが言うよりもっと単純でもっと「陳腐」なものではないのか。

私は、そのメカニズムを解明するカギになるのが「オタク」だと思っています。オタク化とは、それだけこの社会に”オウム的なもの”が浸透していることを意味しているのです。オタクからネトウヨ、そしてカルトに至る回路こそ解明されるべきだと思います。

大塚英志氏は、『「おたく」の精神史』(講談社現代新書)で、「長山靖生『偽史冒険世界』や小熊英二『単一民族神話の起源』といった仕事において国民国家の形成の過程で起きた偽史運動への注目がなされているのは、オウムを近代史の中に位置づける上で重要な視座を提供しているように思う」と書いていました。

柳田民俗学は「正史」化し得た「偽史」の一つだというのがぼくの考えだが、教科書批判の運動が「オウム」後に保守論壇の枠を超えた大衆的な広がりを見せてしまったことの説明は、「オウム」を「偽史」運動の一つと位置づけることで初めて可能になってくるように思うのだ。教科書批判以降の「日本」や「伝統」の奇怪な再構築のされ方は、偽史運動とナショナリズムの言説が表裏一体のものとしてあることの繰り返しに、ぼくは思える。

『「おたく」の精神史』


『天皇と儒教思想』(小島敦著・光文社新書)によれば、メディアによく取り上げられる「田植え」や「養蚕」など皇室の恒例行事も、明治以後にはじまったものが多いそうです。来年、天皇の生前退位により新しい元号に変わりますが、「一世一元」の原則も明治以後にはじまったのだとか。皇室の宗教も、奈良時代から江戸時代までは仏教だったそうです。皇室=神道という「伝統」も、明治以後に創られたイメージなのです。また、皇室に伝わる祭祀などは、中国の儒教思想から借用された「儒式借用」のものが多いそうです。

要するに、明治維新による近代国家(国民国家)の成立に際して、国民統合のために、皇室を中心とする「日本の伝統」が必要とされたのでしょう。そうやって(偽史運動によって)”国民意識”が創出され、”日本”という「想像の共同体」が仮構されたのです。

もちろん、現在進行形の現代史においても(おいてさえ)、「偽史運動」めいたものは存在します。たとえば、安倍首相に代表される、スーツの襟にブルーリボンのバッチを付けている右派政治家やその支持者の一群が声高に主張する”正しい歴史”などもそうでしょう。

そこでは、「先の戦争は侵略戦争ではない」「南京大虐殺はねつ造だ」「従軍慰安婦なんて存在しない」という”正しい歴史”に目覚めることが「愛国」と直結しているのです。そして、ネトウヨに代表されるように、「『国を愛する』と言った瞬間、『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」メカニズムが準備されているのです。私は、そこにオウム(オウム的なもの)とのアナロジーがあるように思えてなりません。実際にYahoo!ニュースのコメント欄なども、その手の書き込みであふれていますが、彼らの延長上に、「第二のオウム」と言われるようなカルト宗教=「偽史カルト」が存在するというのは、多くの人が指摘しているとおりです。安っぽいいかさま師は、麻原彰晃だけではないのです。


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オウムは終わってない
2018.07.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか


麻原彰晃の遺骨の引き取りに関して、家族間で“綱引き”がはじまっているようです。メディアが言うように、麻原の「神格化」を怖れる公安当局としては、遺骨を妻に引き渡すのを避けたいのが本音でしょう。そのためかどうか、麻原が生前、遺骨の引き渡し先を四女に指名していたという話が出ています。ただ、それは、執行直前に刑務官に伝えたと言われるだけで、証拠はないのです。妻や三女らは、自分たちに遺骨を渡さないための「作り話」だと言うでしょう。

四女は、昨年、自分の相続人から両親を除くよう横浜家裁に申し立て、認められています。それは、実質的に家族と絶縁する意向を示したものと言えます。遺骨の引き渡し先に関しては、法的にはっきりした規定はなく、慣例に従うしかないそうですが、家族と縁を切る意向を示した人間が、父親の遺骨を引き取りたいと申し出るのはどう考えても矛盾しています。故人の妻が引き取りの意向を示しているのですから、慣例から言えば、妻に渡すのが妥当でしょう。だから、そうさせないために、故人の遺志を出してきたとも言えるのです。

四女は、遺骨を引き取る理由について、アレフに渡したくないからと言っているそうです。家族と縁を切るなら、遺骨なんていらない、ほかの家族がどうしようが知ったことではない、自分は自分の道を生きる、と考えるのが普通でしょう。本当にオウムの悪夢から解放されたいと思うなら、遺骨のことなどに関わってないで、知らない土地で新しい人生を歩むのがいちばんでしょう。どうしていつまでもオウムの周辺にいるのだろうと思います。四女は、なんだか公安当局の意向を代弁している(代弁させられている?)ように思えてなりません。

10年前の話ですが、江川紹子氏は、四女の未成年後見人でした。それは、四女からの申し立てによるものでした。しかし、後見人になってわずか4ヶ月後、突然、行方不明になり、その後音信不通にもなったため、職務を果たせないと考え、「辞任許可申立書」を裁判所に提出したそうです。その間の経緯は、下記の江川氏のブログに書かれています。江川氏が辞任したあとに引き受けたのが、現在四女の代理人になっている滝本太郎弁護士なのかもしれません。

Egawa Shoko Journal
未成年後見人の辞任について

江川氏の文章のなかに、つぎのような気になる箇所があります。

(略)様々な形で彼女の自立の準備を支援してきたつもりです。教団以外の人間関係を広げて欲しいと思い、いろいろな働きかけも行いました。 
 しかし、残念ながら彼女の父親を「グル」と崇める気持ちや宗教的な関心は、私が気が付きにくい形で、むしろ深まっていました。彼女の状態が分かるたびに、私はカルト問題の専門家の協力を得ながら長い話し合いを行いましたが、効果はありませんでした。


オウムの奇々怪々は、未だつづいているのです。今度はそれに公安当局が一枚かんでいるのです。

私は、ちょうど8年前、四女の著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』の感想をこのブログに書きました。ご参照ください。

関連記事:
教祖の娘


追記:(7月12日)
三女の松本麗華氏のブログに、長男がネットで滝本弁護士の殺害予告をしたという日テレの報道について、下記のような抗議文が掲載されていました。長男を告発した滝本弁護士も、オウムの奇々怪々と無縁ではないのです。
日テレの虚偽報道に対する抗議声明



2018.07.09 Mon l 社会・メディア l top ▲
今朝、テレビを観ていたら、「麻原彰晃死刑囚の死刑執行」「ほかの数人も執行見込み」という「ニュース速報」が流れたのでびっくりしました。

執行前に「ニュース速報」が流れるなんて前代未聞です。死刑執行が事前にメディアにリークされたのでしょう。まるで死刑が見世物にされたようで、オウムだったらなんでも許されるのかと思いました。

それからほどなく、つぎつぎと残り6名の執行を告げるテロップが流れたのでした。それは、異様な光景でした。一度に7名の人間が”処刑”されるなんて、先進国ではあり得ない話です。

死刑を報じるメディアの論調も、「当然」というニュアンスで溢れていました。被害者の家族だけでなく、長年オウムを取材してきたジャーナリストも、ニュースを解説する識者も、街頭インタビューに答える市民も、みんな一様に「当然」という口調でした。どんな事情であれ、人の命が奪われることを「当然」と考える感覚に、私は違和感を覚えざるをえませんでした。オウム真理教も、タントラ・ヴァジラヤーナという教義では、人の命を奪うことを「ポア」と称して救済=「当然」と考えていたのです。

今日の死刑執行に対して、EU駐日代表部は、EU加盟国、アイスランド、ノルウェー、スイスの各駐日大使とともに、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表したそうです。


声明では、「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない。さらに、どの司法制度でも避けられない、過誤は、極刑の場合は不可逆である」と主張しています。でも、このニュースはほとんど報じられることはありませんでした。

今日の執行には、平成の間に事件の処理を終わらせたいという法務省の意向があると言われています。ニュースを解説する識者の、これでひとつの区切りが付いたというような発言も、それに符合するものでしょう。オウムの死刑囚は13名ですから、あとの6名も、平成の間に執行されるのは間違いないでしょう。「恩赦」や「再審請求」を封じるためという見方もありますが、そうやって人の死を政治的意図で操作する発想にも、違和感を抱かざるを得ません。

宮台真司氏が朝日新聞のインタビューで言っているように、オウムはすぐれて今日的な問題なのです。”オウム的なもの”はますます社会の隅々まで浸透しているのです。決して他人事ではないのです。オウムが私たちに突き付けた問題は、何ひとつ解決してないのです。オウムの事件に区切りを付け、歴史の片隅に追いやろうとする考えこそ反動的と言えるでしょう。


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オウムは終わってない
2018.07.06 Fri l 社会・メディア l top ▲
ワールドカップの「ニッポン、凄い!」キャンペーンは、ますますエスカレートするばかりです。メディアによれば、日本のサッカーは、100均の商品と同じように、世界中から称賛されているそうです。

ハリル解任はサッカー協会がスポンサーの意向を忖度したものだと批判していたサッカーファンは、見事なくらい手のひらを返して、「ニッポン、凄い!」キャンペーンに踊っています。もしかしたら、キャンペーンの背後にも、メディアを支配する電通の存在があるかもしれません。しかし、もはやそういう想像力をはたらかせることさえできないみたいです。

踊っているのは、”痴呆的”なサッカーファンだけではありません。日頃、ヘイト・スピーチに反対し、モリ・カケ問題の「手段を選ばない」隠蔽工作を指弾している某氏は、一方で著名なサッカーファンでもあるのですが、彼は、ポーランド戦のパス回しの時間稼ぎについて、つぎに進むために「手段を選ばない」のは当然だと言ってました。いざとなれば、翼賛的な空気に同調する左派リベラルの正体見たり枯れ尾花と言いたくなりました。

くり返しますが、勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。負け試合で時間稼ぎをしたのです。フェアプレーポイント云々以前に、スポーツとしてあり得ない話でしょう。

ラジオ番組で、やはり西野ジャパンの時間稼ぎに疑問を投げかけた明石家さんまにも、批判が集中しているそうです。さんまはサッカーを知らない「にわか」ファンにすぎないと叩かれているのだとか。上記の著名なサッカーファンの某氏と同じように、「時間稼ぎを批判するのはサッカーを知らない人間だ」と言いたいのでしょう。

livedoor NEWS
サッカー「にわか」を叩く風潮 明石家さんまにも矛先?

「感動」を強要し、「感動」しない者を叩いて排除する空気。異論や異端を排除することによって、「ニッポン、凄い!」という“あるべき現実“が仮構されるのです。

集団心理は、ときにこういう”異常”を招来するものです。”異常”のなかにいる者たちは、自分たちが”異常”なんて露ほど思ってなくて、むしろ自分たちこそが正義を体現していると思い込むのです。

改憲のために「手段を選ばない」安倍政権を批判しながら、サッカーでは「ニッポン、凄い!」キャンペーンに同調して、袋叩きの隊列に加わる左派リベラルのサッカーファン(サッカー通)。やはり、「感動」がほしいのでしょうか。全体主義を志向するファナティックな情念に右も左もないのです。こういう”左のファシスト”は、赤旗と日の丸の小旗を両手にもって、渋谷のスクランブル交差点を行進すればいいのです。
2018.07.04 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
私は、ベルギーが優勝候補の最有力と思っていましたので、日本が2点先制したときは、「まさか」と思いました。ただ、2点先制されるまでのベルギーは、油断していたのか、ナメていたのか、パスミスが多く、動きもチグハグでした。日本のほうがはるかにシステムが機能していました。

アルゼンチンやポルトガルの例を上げるまでもなく、ひとりのスーパースターにボールを集めるようなスタイルのサッカーは、もう終わりつつあるのです。ヨーロッパの5大リーグのようなところでは、客寄せの“ショー”として有効かもしれませんが、ワールドカップでは通用しなくなっているのです。世界の主流が、ヨーロッパスタイルと言われる、連携重視の組織的なサッカーになっているのは、多くの人が指摘するとおりです。

前半のベルギーは、アザールがセンタリングを上げて、ルカクがゴール前に飛び込むというパターンをくり返すだけでした。そういったワンパターンのサッカーには、ルカクをよく知っている吉田麻也ら日本の守備は有効でした。

3対2という得点差を上げて、「日本のサッカーは確実に進化している」「世界との差は縮まっている」などという声がありますが、それはいつもの翼賛的なサッカーメディアのおためごかしな意見にすぎません。4年前も8年前も、同じことが言われました。

日本のサッカーのためには、むしろ3対0で完敗したほうがよかったのではないかと思ったりします。「あと一歩」というような情緒的な総括では、日本のサッカーの課題を見つけることはできないでしょう。偶然の要素が大きいサッカーには番狂わせがつきものですが、とは言え、そう何度も番狂わせがあるわけではないのです。

2点先取したにもかかわらず、後半30分足らずの間に3点取られて逆転されたという事実にこそ、世界との差が表れているのだと思います。しかし、感情を煽るだけのサッカーメディアや、ただサッカーメディアに煽られるだけの単細胞なサッカーファンに、そんな冷静な視点は皆無です。

よその国だったら、むしろ短時間の間に逆転された問題点が指摘されるはずです。敗退したのに、「感動をありがとう!」「元気をもらった!」なんて言われて、敗因を問われることがないのは日本くらいでしょう。

今朝のテレビでも、「日本中が熱狂」「心が震えた」などということばが躍っていますが、そんなに「感動」を求めるなら、「宰相A」に頼んで戦争でもしてもらえばいいのです。戦争なら、サッカーどころではない「熱狂」を得られるでしょうし、もっと大きな「心が震える」感動を味わうこともできるでしょう。スポーツバーならぬ”戦争バー”でも作って、「ニッポン、凄い!」と感動を分かち合えばいいのです。そうすれば、渋谷のスクランブル交差点を日の丸の小旗を打ち振りながら堂々と行進できるでしょう。
2018.07.03 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
渡部直己氏のセクハラ問題は、とうとう新聞各紙が報道するまでに至っています。

最初に渡部氏のセクハラを取り上げたのは、ビジネス誌などを出版するプレジデント社の「プレジデントオンライン」で、既に関連記事も含めて3本の記事をアップしています。

PREDIDENT Online
早大名物教授「過度な求愛」セクハラ疑惑
早大セクハラ疑惑「現役女性教員」の告白
早大セクハラ疑惑"口止め教員"の怠慢授業

1984年に出た渡部氏の『現代口語狂室』(河出書房新社)のなかに、四方田犬彦氏のつぎのような発言がありました。

四方田 「女子大生と記号学には手を出すな」ってタブーがあるの知っている? 日本のアカデミズムにさ。
渡部 知らない(笑)
(われらこそ「制度」である)


今になれば、皮肉のように読めなくもありません。もしかしたら、当時から渡部氏の”性癖”が懸念されていたのかもしれません。

渡部氏のセクハラについて、周辺では「別に驚くことではない」という声が多いそうです。栗原裕一郎氏によれば、女性ライターの間では「超有名」だったそうです。女性記者の間で「超有名」だったどこかの国の財務官僚とよく似ています。

もっとも、1984年当時は、渡部氏もアカデミズムの住人ではありませんでした。高田馬場にあった日本ジャーナリスト専門学校(通称「ジャナ専」)の講師にすぎませんでした。ただ、今回のセクハラの発覚に対して、当時「ジャナ専」に通っていた人間たちからも(もう相当な年のはずですが)、「ざまあみろ」という声が上がっているようです。やはり、当時からそのような風評は流れていたのかもしれません。

プレジデント社との兼ね合いで言えば、『現代口語狂室』のなかで、渡部氏は、『プレジデント』誌の表紙について、つぎのような辛辣な文章を書いています。同誌の表紙は、当時は今と違って、写真と見まごうようなリアルな人物の顔が描かれていたのです。モデルは、もちろん、功成り名を遂げた財界人や歴史上の英雄でした。

(略)『プレジデント』という誌名からしてすでに厚顔に勝ち誇った雑誌の、比類なく扇情的な表紙を視つめることは不可能なのだが、実寸大で掲げてしまえばたちどころに首肯されうるように、中川恵司なる人物が毎号面妖のかぎりをつくして制作するこの表紙は、もはや雑誌の顔などというものではない。それはまさに、「プレジデント」たちのむきだしの下腹部と称する他ない、非凡なまでに醜悪な突起物として、書店の棚に、文字通り身ヲ立テ名ヲ遂ゲヤヨ励ミつつ、にわかに信じられぬほどの異彩を放っているのである。
(『プレジデント』あるいは勝者の愚鈍なる陽根)


まさか30数年後の意趣返しではないでしょうが、どこか因縁めいたものを感じてなりません。

渡部氏の父親は統幕会議議長という自衛隊の大幹部だったのですが、この文章を読むと、もしかしたらその成育過程で、渡部氏のなかに男根至上主義的な刷り込みがあったのかもしれないと思ったりもします。三つ子の魂百までというのは、文学を持ち出すまでもなく、人間存在の真実なのです。

渡部氏は、絓秀実氏との共著『それでも作家になりたい人のためのブックガイド』(太田出版)で、自分は絓氏に感化されて「新左翼」になったというような、冗談ともつかないようなことを話していました。その後、絓氏の引きがあったのかどうか、めでたく近畿大学文学部教授としてアカデミズムの一員になることができたのです。さらに、それを足がかりに、早稲田大学教授の地位まで手に入れたのでした。

それにしても、とんだ「新左翼」がいたものです。”SEALDsラブ”の老人たちと同じような「新左翼」のなれの果てと言うべきかもしれません。(以後、墓場から掘り出した死語を使って「新左翼」風に‥‥)指導教官あるいは『早稲田文学』の実質的な「発行人」という特権的地位を笠に、人民(女子学生)をみずからの性的欲望のはけ口に利用するのは、マルクス・レーニン主義に悖る反革命行為と言うほかありません。ブルショア国家の公的年金がもらえる年になったからといって、これ幸いに辞職するなどという反階級的な策動を断じて許してはならないのであります。人民の名において革命的鉄槌が下されなければなりません。

「おれの女になれ」なんて、どこかで聞いたような台詞です。エロオヤジ的、あまりにエロオヤジ的な台詞です。しかも、渡部氏は、プレジデントオンラインの取材に対して、つぎのように文学的レトリックを使って弁解しているのでした。

「(略)過度な愛着の証明をしたと思います。私はつい、その才能を感じると、目の前にいるのが学生であること忘れてしまう、ということだと思います」


田山花袋でもなったつもりか、と思わずツッコミを入れたくなりました。

「電通文学」というのは、渡部氏の秀逸な造語ですが、渡部氏自身が電通の向こうを張るセクハラオヤジだったのですから、これほどのアイロニーはないでしょう。もっとも、『早稲田文学』も、今や「電通文学」の牙城のようになっているのです。

被害者女性が相談に行ったら逆に口止めされた「教員」が誰なのか、『早稲田文学』の購読者や「王様のブランチ」の視聴者なら簡単に解ける問題でしょう。

今回のセクハラ問題であきからになったのは、渡部氏がいつの間にか文壇村の”小ボス”に鎮座ましまして、早稲田の現代文芸コース(カルチャーセンターかよ)や『早稲田文学』を根城に、文壇政治を司る”権力者”に成り下がっていたということです。若い頃、渡部氏の本を読んで、目からウロコが落ちる思いがした人間にとっては、反吐が出るような話です。

この問題については、私が知る限り、作家の津原泰水氏のツイッター上の発言がいちばん正鵠を射ているように思いました。

津原泰水 (@tsuharayasumi) | Twitter
https://twitter.com/tsuharayasumi








2018.06.29 Fri l 本・文芸 l top ▲
日本が2大会ぶりに決勝トーナメントに進出しましたが、終盤に露骨な時間稼ぎをおこなった日本チームを見て、なんだこりゃと思いました。実況アナウンサーは、「日本の冷静な判断が大きな力になりました」とわけのわからないことを言ってました。

タツゥーだらけの選手がまるで酸欠に陥った鳥のようにバタバタ倒れて、大仰に「ファウルだ」「PKだ」「FKだ」とアピールする南米のチームは見苦しくてうんざりさせられますが(ブラジルなんて負ければいいと思います)、日本の時間稼ぎも同様に見苦しいものでした。

そもそも、今大会から導入されたフェアプレーポイント(Tポイントじゃないんだから)なるものも問題ありです。フェアプレーと言うなら、日本のような時間稼ぎにも積極的にイエローカードを出すべきでしょう。でないと、今回のように、フェアプレーポイントを守るためにフェアプレーを放棄するという矛盾が出てくるのです。

日本は勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。ドローでもない。負け試合なのに、フェアプレーポイントの恩恵を受けるために時間稼ぎをしたのです。スポーツとしては、あり得ない話でしょう。

試合後、選手たちは、アンフェアな時間稼ぎには頬かむりして、「決勝トーナメントでは成し遂げた事のない結果を出したい」「歴史を変えたい」などと言ってましたが、なんだか真珠湾攻撃のときの軍部の口調と似ているように思いました。真珠湾攻撃も、手段を選ばず勝ちに行ったのですが、その結果、身の程知らずの破滅への道を暴走することになったのでした。

あのときも日本人は、「ニッポン、凄い!」と歓喜の声を上げたのです。そして、同じように、試合後の渋谷のスクランブル交差点では、サッカーファンたちが日の丸の小旗を打ち振りながら、「ニッポン、凄い!」と歓喜の声を上げているのです。

日本が決勝トーナメント進出を果たしたのは、一にも二にもコロンビアのお陰です。日本のサッカーファンは、コロンビアに足を向けて寝ることはできないでしょう。コロンビアも、日本戦以後は本来の力を発揮していたように思います。初戦の日本戦の不調はなんだったんだと思わざるを得ません。

たしかに、二戦目のセネガル戦に関しては、日本は健闘したと言っていいでしょう。決勝トーナメント進出は、その健闘が生きたという声もありますが、でも、それも牽強付会と言わざるを得ません。

余談ですが、ワールドカップの会場で、試合後に日本人サポーターたちのゴミ拾いをする様子が話題になっているという報道がありました。これも、日本のメディアの手にかかれば「ニッポン、凄い!」話になるのです。Jリーグでもそういう光景は見られますが、しかし、一方で、渋谷のスクランブル交差点でサポーターが大騒ぎした翌朝の渋谷駅周辺は、散らかし放題でゴミだらけです。商店街の旧知の店主は、「テレビが煽るからだよ」「迷惑だよ」と嘆いていました。これも、ニッポン的な建て前(表向きの顔)と本音(裏の顔)なのかと思いました。

先日、表参道で食事をしていたら、隣の席で若い女の子たちがワールドカップの話をしていました。

「サッカーって大袈裟すぎない?」「だってさ、どう見ても、たまたま目の前に転がってきたボールを蹴ったらゴールに入った感じなのに、解説者は、計算された結果だ、ゴールも必然だ、みたいに興奮して言うのよ。バカみたい」

たしかに、サッカーってただの玉蹴りにすぎないのです。その起源も、イングランドの田舎町でおこなわれていた寒さ凌ぎの玉蹴り合戦だったと言われています。女の子たちが言うように、サッカーは偶然の要素が大きいのも事実です。だから、番狂わせも多いのでしょう。偶然と見るか、必然と見るかによって、サッカーに対する見方も違ってくるでしょうし、サッカーの魅力をどうとらえるかも違ってくるでしょう。

所謂、サッカー通のコアなファンというのは、偶然にすぎないものを、必然と強弁して悦に入る、そうやって思考停止に陥る「バカみたい」な人間たちです。日本の時間稼ぎについても、「あれがサッカーだ」「フェアじゃないと批判するのはサッカーを知らない人間だ」などと言ってますが、彼らは、いつもそうやって現実を追認することで通ぶっている(サッカーを知っているふりをしている)だけです。むしろ、サッカーを巡る熱狂を冷めた目で見る原宿の女の子たちのほうが、サッカーの本質(魅力)を見抜いていると言えるのかもしれません。
2018.06.29 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
19日のコロンビア戦の”歴史的快挙”について、朝日新聞の忠鉢記者がつぎのような記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
日本代表「勝てば官軍」か ハリル解任、正当化は反発も

みんなが論理も倫理もクソもない「風にそよぐ葦」になった今だからこそ、こういう記事は貴重だと思います。

そんな「勝てば官軍」の報道を見るにつけ、坂口安吾ではないですが、戦争に負けた途端に、「生きて虜囚の辱めを受けず」などと言っていた軍人(もののふ)から「天皇の赤子」まで、我先に昨日の敵にすり寄っていったあの光景を想起せざるを得ないのです。まさにあのときからこの国の戦後がはじまったのです。

今回のワールドカップは、PKとカウンターで試合が決まることが多いのですが、そのなかで日本は、「百年に一度の幸運」を得たと言っても過言ではないでしょう。  

「運も実力のうち」なんてのは、屁理屈にすぎません。サッカーに番狂わせはつきものですが、コロンビア戦に関しては、番狂わせと呼ぶのさえおこがましい気がします。明日のセネガル戦で日本の真価が問われるのは、言うまでもないでしょう。

余談ですが、わずか試合開始2分で10人でサッカーをすることを余儀なくされたコロンビアを見て、私は、もしこれがアルゼンチンだったらどうなっていただろうと思いました。10人になったら、メッシを交代させたでしょうか。もちろん、交代させることなんかできるわけがありません。でも、メッシをそのまま使えば、10人ではなく9人で試合するようなものです。”メッシ愛”が半端ねぇ小柳ルミ子には申し訳ないけど、メッシがいるアルゼンチンが相手だったら、5点くらい取れたかもしれません。そうなったらコロンビアどころではなく、日本中が狂乱したことでしょう。人気挽回を狙う「宰相A」が、代表チームに国民栄誉賞を、なんて言い出したかもしれません。

そして、私は、さらに話を飛躍させ、この国に全体主義をもってくるのは容易いことに違いないとあらためて思ったのでした。そんな論理も倫理もクソもないアジテーターがまだ出てきてないだけです。


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2018.06.24 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
米朝首脳会談に関して、アメリカのニュースサイト・「BUSINESS INSIDER」の日本版に、下記のような記事が掲載されていました。

BUSINESS INSIDER JAPAN 
"世界のリーダー"アメリカの終わりが見えてきた? アメリカの記者が見た、米朝首脳会談

次のリードに、記事の要点が示されています。

•アメリカのトランプ大統領は12日(現地時間)、北朝鮮と和平交渉をしている間は韓国との軍事演習を中止すると述べた。

•そうしている間にも、アメリカは国際社会における支配的な地位を失うかもしれない。

•軍事演習なしでは、在韓米軍は弱体化するだろう。和平交渉が続けば、その存在意義も損なわれるだろう。

•トランプ大統領の望み通り、米軍が韓国から徹底することになれば、中国のアジアひいては国際社会におけるプレゼンスは高まるだろう。

•トランプ大統領と北朝鮮の金正恩氏は12日、世界の新たな未来を語ったが、その新たな未来をリードするのはアメリカではなく中国かもしれない。


日本のメディアではどうしてこういった記事が出て来ないのだろうと思います。どこも揃って、旧宗主国の卑屈な精神で書いたようなネガティブな記事ばかりです。特にひどいのが、テレビ局や新聞社の「解説委員」「編集委員」と言われる人間たちです。彼らは、平日にお定まりのくだらないコメントで顔を売り、週末に講演でお金を稼ぐ、ワイドショーのコメンテーターとどう違うのだろうと思います。日本のメディアの手にかかると、米朝首脳会談も、日大の悪質タックル問題や和歌山のドン・ファン変死事件などと同じレベルで扱われるのです。

節操もなく、慌てて金正恩とのトップ会談を模索しはじめた安倍首相の姿は、もはや滑稽ですらあります。文字通り「宰相A」の醜態を晒していると言っていいでしょう。案の定、北朝鮮から「拉致問題は解決済み」とゆさぶりをかけられ、「(日本は)無謀な北朝鮮強硬政策に執拗にしがみついている」「日本はすでに解決された拉致問題を引き続き持ち出し、自らの利益を得ようと画策した」(15日の平壌放送)などと牽制される始末です。それでも、「宰相A」は拉致被害者の家族を官邸に呼んで、「日朝首脳会談による拉致問題解決を目指す決意を伝えた」そうです。でも、その「決意」の中身は、従来からくり返している空疎な原則論にすぎません。

日本政府が「拉致被害者全員の即時帰国」にこだわっている限り、北朝鮮が「解決済み」の姿勢を崩すことはないでしょう。「全員の即時帰国」というのは、「妥協の余地がない」と言っているも同然です。一方、北朝鮮が「解決済み」とくり返すのは、「(落としどころを)なんとかしろ」というメッセージでもあるのだと思います。しかし、国内向けに「全員の即時帰国」が交渉の前提だと大見得を切った手前、日本政府もおいそれとその旗を降ろすことはできないのでしょう。拉致問題は、勇ましい声とは逆に、このように自縄自縛になっているのです。そもそも、交渉の叩き台となるべき「調査報告書」を受け取ることができない(受け取っても公表できない)状態で、首脳会談を模索すること自体、自家撞着と言われても仕方ないでしょう。

蓮池透氏は、太田昌国氏との対談『拉致対論』(太田出版・20009年刊)で、次のように言っていました。

 私はいつも、拉致問題を北方領土化させて欲しくないと言っています。北方領土は今も物理的に残っていますが、拉致被害者は永遠に残るものではありません。時間の経過によって、当事者も、その家族も、消え去ってしまうかもしれない。日本政府はそれを待っているのではないかという穿った見方さえしてしまいます。


 私は、地村さんが拉致問題には「歴史的な過去の問題が背景にある」と手記に書いておられたのを、あれは北朝鮮で習ったことかもしれませんが、非常に重い言葉だなと思いました。当人が言うのは悲しい話です。拉致されて北朝鮮に連れて行かれたにもかかわらず、こういう発言をさせてしまうというのは、北朝鮮が悪いというよりも、この問題をほったらかしにしてきた日本というのは何なんだと思ってしまいます。


(略)締め上げろ締め上げろでは状況は動かないと思います。感情的な部分ばかりが誇張されて制裁が決議されているように感じます。(略)
 核と拉致とミサイルを包括的に解決するという言い方がありますが、私は核が解決したからといって拉致問題が自動的に解決されるとは思えない。拉致と核は別物だと思っています。包括的と言うと聞こえはいいですが、それはまやかしではないでしょうか。拉致問題は、核が一段落した時点で改めてスタートするのではないかと思っています。


蓮池氏の発言は2009年当時のものですが、この10年間、蓮池氏が言ったとおり、「締め上げろ締め上げろ」という「感情的な部分ばかりが誇張され」て、状況がまったく動かなかったのは事実でしょう。

蛇足を承知で言えば、政府が「全員の即時帰国」は現実的ではない、無理だとはっきり言うべきなのです。それこそ政治の責任で、家族を説得すべきです。その上で、「調査報告書」を叩き台に、文字通り覚悟をもって交渉に当たるべきなのです。メディアと一緒になって荒唐無稽な強硬論を主張し、北朝鮮に対する憎悪の感情を煽るだけでは、一国の政治を預かる者としてきわめて無責任と言わねばなりません。自民党内にも、安倍政権がつづく間は拉致問題の解決は難しいのではないかという声があるそうですが、いちばん現実を直視しなければならない人間がいちばん現実から目を背けているのですから、なにをか況やです。

たとえば、どうして拉致がおこなわれたのかという“初歩的な事実”さえ、国民には知らされてないのです。よけいなことは考えるなと言わんばかりに、いつもただ憎悪の感情を煽られるだけです。また、私たち自身も、「許せない」「かわいそう」という感情に流されるだけで、拉致問題を客観的に冷静に考えることを怠っていたのはたしかでしょう。

『北朝鮮 秘密集会の夜』(1994年刊)の著者・李英和氏は、1992年北朝鮮の朝鮮社会科学院に留学した際、監視兼世話役の教官から、次のような「拉致講義」を受けたそうです。

1.講義の場所は宿舎の部屋の中ではなく、公園で歩きながら。秘密警察の盗聴を嫌ってのこと。拉致は、秘密警察ではなく、工作機関の犯行と管轄なので。

2.工作機関による計画的な日本人拉致作戦は、1976~1987年の間に金正日(キム・ジョンイル)の指示で実施。「それ以前とそれ以降はやっていない」と断言。(当時、後継者候補の金正日が拉致作戦を立案・指揮していた。)

3.背景は経済計画の失敗(71年~「人民経済発展6カ年計画」)。汚名挽回のため、金正日が新機軸の対南(南朝鮮=韓国)テロ作戦を発動。経済破綻で全面戦争ができなくなったので、戦争の代わりにテロを立案。

4.同作戦により急遽、対南潜入工作員の大量養成が必要になり、その訓練の一環で日本人拉致を実施。新米(しんまい)工作員の敵国への潜入訓練の場として、海岸警備の手薄な日本海側を利用。教官は「潜入訓練完遂の証拠品として"日本人"の拉致を要求したので、拉致対象の年齢・性別・職業等は問わなかった」と説明した。そのせいで、近くの浜辺で手当たり次第に拉致。当時まだ女子中学生だった横田めぐみさんが連れ去られることになった。

5.沖合の母船から5人乗りゴムボートで海岸に3人の新米工作員が潜入。空席は2名なので、拉致は最大2名までが限界。アベックの「失踪」が多いのはそのせい。

6.金日成の名前で「拉致した日本人は絶対に殺さず、生かして平壌に連れ帰れ。拉致被害者は平壌近郊で『中の上』の暮らしをさせるから、安心して拉致して連れ帰れ」という厳命が下された。そのこころは、無関係な日本人の民間人を殺害することになれば、新米工作員に戸惑いの心理的動揺をきたし、訓練の失敗につながるおそれがあるから。したがって、拉致被害者は誰も現場で殺害されたり、日本海でサメの餌にされたりすることなく、平壌の工作機関の拠点まで生きて連れ去られた。

7.北到着後も「絶対に死なせるな」という金日成の厳命は生きた。工作機関は管理・監督責任を厳しく負わされるので、事故や病気での死亡を厳格に防いだ。「本人が死にたいと思っても、自殺もできない」という監視下で暮らした。

8.拉致被害者は工作機関の管轄区域内で5~6人一組で隔離生活させる都合上、被害者に与えられる仕事は「共通の特技」である日本語の教育係ぐらいしかなかった。したがって、何らかの特技を狙ったり、日本語教師をさせたりする目的で拉致したのではけっしてない。あくまでも訓練の証拠品。

9.作戦期間が10年余りなので、その間の上陸訓練の実施回数の分(1回最大2名)だけ拉致被害者が存在する計算になる。私はおよその人数を尋ねたが、講師は「正確には知らないが、とにかく大勢」と答えた。

(注1)91年当時は日本人拉致事件の北朝鮮犯行説は「半信半疑」で定説化していなかった。その中で、私に北犯行説を「自供」したのは驚愕の出来事だった。その当時、拉致問題解決を糸口に日朝国交樹立による賠償金狙いの戦略を既に固めていたものと見られる。賠償金獲得の動機は、91年から本格化する北朝鮮の密かな核開発の資金源だった。その目論見が2002年まで延期、ずれ込んだのは北で大飢饉(93~99年)が勃発したからと思われる。

(注2)以上の説明は日本人拉致問題の本筋に関するもので、ヨーロッパを舞台とする「よど号ハイジャック犯」による日本人留学生と旅行客拉致の「番外編」は含まれない。この番外編については、実行犯の「Y」(有本恵子さん拉致犯)から、個人的に全容の説明を聞いたが、あくまでも番外編なので今回は省略。

(注3)拉致作戦が76年に開始されたもうひとつの理由は、ベトナム戦争の終結(75年)。北はベトナム戦争が永遠に泥沼化することを願ったが、その願いに反して75年に北ベトナムの勝利で戦争が終結。米軍が韓国と日本に引き揚げ、朝鮮半島でベトナム戦争敗北の雪辱を期する事態に発展。これに慌てた金父子が非対称の対抗策としてテロ作戦を立案・発動した。

Newsweek日本版
「拉致被害者は生きている!」──北で「拉致講義」を受けた李英和教授が証言


感情を脇に置いて、冷静に考えること(分析すること)も、拉致問題を解決する上で大事なことでしょう。なにより戦争より平和がいいという考えこそ冷静なものはないのです。


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2018.06.16 Sat l 社会・メディア l top ▲
米朝会談に対しては、日本国内でも「期待外れ」という声が多く聞かれます。なにが「期待外れ」なのかと言えば、共同声明にCVIDの道筋が具体的に明記されなかったことがいちばん大きいようです。要するに、政府もメディアも国民も、軍事攻撃の代わりに、今度はCVIDで北朝鮮を無力化することを期待していたからでしょう。

しかし、何度もくり返しているように、CVIDは所詮は「絵に描いた餅」にすぎないのです。非核化も、拉致問題と同じで、外交カードにすぎないのです。落としどころをどこにするかなのです。

今回の首脳会談は、国交がない国の首脳同士が初めて顔を合わせる「異例」の会談です。従来のよくある首脳会談と違って、会談自体はあくまで”出発点”なのです。

いづれにしても、これから長い時間をかけて、非核化や国交正常化の交渉をおこなうことが決定したのです。両首脳によって、その号砲が鳴らされたのです。最初から結論を求めるメディアの論調自体が、ないものねだりのトンチンカンなものであるのは言うまでもありません。

落としどころがどこになるか(双方がどこで妥協するか)、これから注視する必要がありますが、ただ、膨大な時間と費用を要するCVIDなんてそもそも実現不可能だ、という声のほうがホントなのだろうと思います。

むしろ、共同声明を発表できただけでも、大きな成果だと言えるでしょう。共同声明には、戦争の終結、国交正常化、非核化に向けて努力していくことがはっきりと謳われているのです。それだけでもすごいことだと思いました。

私は、会談のあとのトランプの会見も感銘を受けました。日本の政治家だったら、あそこまでオープンな会見はやらないでしょう。安倍や麻生や二階の不遜な態度と比べると、雲泥の差があります。私は、トランプを少し見直しました。

トランプが会見のなかで、グアムから朝鮮半島まで戦闘機を飛ばして訓練するのはお金がかかりすぎる、「戦争ゲーム」をやめれば無駄なお金を使わなくて済むと言ってましたが、まさにそこに、トランプが主張するアメリカ・ファーストの本音が出ていたように思います。

言うまでもなく、トランプのことばの背後にあるのは多極主義です。“世界の警察官”をやめる(やめたい)ということです。そんなアメリカ·ファーストの本音など理解すべくもなく、ただCVIDで北朝鮮を無力化してもらいたいと願う人たちにとって、今回の会談結果が、「アメリカが前のめり」「北朝鮮のペース」と映るのは当然かもしれません。

一方で、米韓軍事演習の凍結まで示唆したトランプの発言に、日本政府が「驚いた」という報道には、逆にこっちが驚きました。防衛省の幹部は「予想外だ」と言ったそうですが、そんな感覚では、これから東アジアの覇権が中国に移るにつれ、ホントに口から泡を吹いて卒倒してもおかしくないような衝撃を何度も受けることになるでしょう。


追記:
米朝首脳会談に対してネガティブな報道がつづくなか、下記にような多極化に関する報道もいくつか出てきました。(6/14)

AFP
米、韓国との主要演習を「無期限停止」 米高官
CNN.co.jp
トランプ米大統領は在韓米軍を朝鮮半島から撤収する可能性も示唆
2018.06.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談を二日後に控え、既にトランプと金正恩の両首脳もシンガポールに入りました。いよいよ掛け値なしの「歴史的な会談」が始まろうとしているのです。

一方で、米朝首脳会談の前にカナダで開かれたG7でも、アメリカ・ファーストを貫き、孤立することをも厭わないアメリカの姿勢に、唯一の超大国の”本心”が示されているように思いました。それは、言うまでもなく、多極主義です。アメリカが唯一の超大国の座からおりるということです。唯一の超大国の座からおりるということは、“世界の警察官”の役目もやめるということです。

田中宇氏は、著書やブログなどで、そのことをずっと言いつづけていました。私が、このブログで、田中氏の主張を借りて、アメリカの多極主義について初めて書いたのは、ちょうど10年前のリーマンショックのときでした。

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田中宇氏については、特にネットにおいて、キワモノ、トンデモ思想というような誹謗中傷も見られますが、しかし、この10年間の世界の流れを見ていると、田中氏が主張するとおり、世界が多極化の方向に進んでいることは明らかでしょう。

朝鮮半島についても、日本のメディアは、今にもアメリカの軍事攻撃が始まるかのように囃し立てていましたが、現実はまったくの逆でした。日本のメディアは、ここに至っても、金正恩のホテル代がどうのとか、ファーストコンタクトがどうなるか(握手をするのかハグをするのか)、それが会談の成否のカギになるなどと、どうでもいいような話をさも意味ありげにするばかりです。それでは、朝鮮半島に対する日本の世論がトンチンカンなのも当然でしょう。

世界では160ヵ国以上の国が北朝鮮と国交を結んでおり、北朝鮮と国交がないのはごく少数で、むしろ例外と言ってもいいくらいです。北朝鮮は如何にも「国際社会」から孤立しているかのようなイメージがありますが、実際は世界の大部分の国と「友好関係」にあるのです。日本のメディアによってふりまかれるイメージと違って、平壌の街角で出会った人々が意外なほど華やかで開明的(資本主義的)だというのは、ゆえなきことではないのです。

韓国は当然としても、アメリカと国交がないのは、ひとえに朝鮮戦争が休戦状態にあるからにほかなりません。休戦(戦争)状態が解消されれば、アメリカが自国の利益と照らし合わせながら、大胆な政策転換をおこなう可能性はいくらでもあるでしょう。

12日の首脳会談について、講釈師(専門家)たちはさまざまな「焦点」を並べていますが、会談の焦点は一つに集約されるのだと思います。それは、朝鮮戦争を終わらせるかどうか、その道筋を付けることができるかどうかです。その一点に尽きるのです。戦争を終わらせないことには、国交正常化も非核化もなにもはじまらないのです。

そして、朝鮮戦争の終戦が、単に戦争の終結にとどまらず、東アジアの政治秩序に、文字通り歴史的な転換をもたらすことになるのは間違いないでしょう。田中宇氏が「田中宇の国際ニュース解説」の最新記事で書いているように、朝鮮戦争の終戦宣言がおこなわれると、米軍(法的には国連軍)が韓国に駐留する法的根拠がなくなるのです。そうなれば、当然、米軍が韓国から撤退することになるでしょう。

さらに、韓国から撤退すれば、日本に駐留する意味も小さくなるので、行く行くは日本からも撤退することになるでしょう。こうして東アジア(というかアジア全体)の覇権が中国に移っていくのです。メディアは、本来、そういった会談の本質にあることを伝えるべきなのです。

田中宇の国際ニュース解説
在韓米軍も在日米軍も撤退に向かう

しかも、非核化交渉においても、建て前はともかく、実際は曖昧なまま妥結される可能性が高いと言われています。そうなれば、(何度も書いているように)実質的に核を保有する北朝鮮が、中国に手を引かれ東アジアの政治の表舞台に本格的に登場することになるのです。それは、日本にとって、口から泡を吹いて卒倒してもおかしくないほど衝撃的なものがあると言えるでしょう。

「東アジア共同体」構想や朝鮮半島の融和を求める平和外交を一笑に付し、自衛隊が平壌に侵攻して拉致被害者を奪還すればいいというようなトンデモ強硬論に感化され、アメリカの軍事攻撃をひたすら希求した日本の世論は、痛烈なシッペ返しを受けたと言ってもいいでしょう。北朝鮮の平和攻勢とアメリカの多極主義に翻弄され、その狭間で右往左往しているこの国の総理大臣のみっともない姿が、なによりそれを物語っています。

朝鮮戦争が正式に終われば、北朝鮮の豊富な地下資源をめぐって国際資本の争奪戦がはじまることでしょう。そして、北朝鮮は目を見張るような経済発展を遂げるに違いありません。北朝鮮が経済発展するのは、朝鮮半島の平和にとってもいいことです。それをいいことと思わないのは、日本の世論がトンチンカンだからです。

ただ、その一方で、置き去りにされようとしている問題があることも忘れてはならないでしょう。1980年に初めて拉致事件を紙面で取り上げた産経新聞の元記者・阿部雅美氏の『メディアは死んだ 検証・北朝鮮拉致報道』(産経新聞出版)や、国連の北朝鮮の制裁に関する「捜査」に携わった、国連安保理・北朝鮮制裁委員会の専門家パネル元委員の古川勝久氏の『北朝鮮 核の資金源』(新潮社)などを読むと、「歴史的な会談」が手放しで礼賛されるものではないことを痛感させられるのでした(だからと言って、日本のメディアのように、会談が破談すればいいなんて思いません。戦争より平和がいいに決まっています)。また、2009年に出版された太田昌国氏と蓮池透氏の対談『拉致対論』(太田出版)を読み返すと、あらためて拉致問題の本質を考えないわけにはいかないのでした。矛盾したことを言うようですが、こういった天の邪鬼な視点も大事なのだと思います。ここまできたら、逆に浮かれるのは慎まなければと思うのでした。

当然ながら、米朝会談の次に日朝会談を期待する声も出ており、安倍首相もいつ宗旨替えしたのか、日朝会談の開催を呼び掛けたなんてニュースもありました。しかし、北朝鮮から見れば、日本は主体性のない(チュチェ思想!)アメリカのポチにすぎません。それに、自分たちを植民地支配した国です。北朝鮮はここぞとばかりに強気に出るでしょうから、「拉致被害者全員の即時帰国」が前提の交渉では、成果を得るのは難しいと言わねばならないでしょう。蓮池透氏が言うように、落としどころ(妥協点)を決めないことには交渉のしようがないのです。

北朝鮮が日本のお金をあてにしているなんて話も、如何にも上から目線の旧宗主国の見方にすぎません。そういった上から目線とトンチンカンな世論は表裏一体のものです。日本政府は、拉致問題の解決が国交正常化の前提だと言ってますが、それを言うなら、日本の植民地支配の清算も、同様に国交正常化の前提のはずです。日本人は、そのことを忘れているのです。


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2018.06.10 Sun l 社会・メディア l top ▲
昨日、田舎の高校の同級生から電話がありました。先月、お父さんが亡くなったということでした。

具合が急変し救急車を呼んで病院に運んだことや、病院で延命処置について担当医から説明を受けたことや、息を引き取ったあと病院から斎場の安置所まで運んだことなどを淡々と話していました。

救急車で運ばれた病院は、私の叔父が運ばれた病院と同じでした。叔父もまた、その病院で息を引き取ったのでした。

二月に帰省した折、彼と喫茶店に入ったのですが、その喫茶店の前が家族葬専門の斎場でした。と言っても、外から見ても葬儀場とわからないような、普通の集会所のような建物です。

喫茶店の窓から斎場の様子を見ながら、彼は、何人かの同級生の名前を上げて、何々のお父さんや何々のお母さんの葬儀がここでおこなわれたんだぞと言っていました。

私も彼のお父さんには何度も会っています。彼とは大学受験の際、一緒に上京したのですが、お父さんも駅まで見送りに来ていました。中学校の先生をしていましたが、私たちにとってはちょっと怖い存在でした。

あの頃は、親たちもみんな若かったのです。受験の下見のために、彼と二人でお茶の水の通りを歩いていたら、偶然、やはり受験で上京していた高校の同級生に会ったことがありました。同級生は、付き添いのお父さんと一緒でした。聞けば、その同級生のお父さんも既に亡くなっているそうです。

彼の話を聞いていたら、たまらず田舎に帰りたくなりました。二月に帰ったときも、「お前が高校のときに下宿していた旅館があったろう? あの××旅館が取り壊されて更地になっているぞ」と言って、車で連れて行ってくれたのですが、もう一度、なつかしい場所を訪ねて歩きたいと思いました。

学校から帰る途中、坂の上から見た海の風景。家と家の間を、陽炎に包まれた船が、まるでスローモーションのようにゆっくりと横切って行くのでした。年を取ってくると、生きるよすがとなるのは、そういった記憶なのです。

東日本大震災のときも紹介しましたが、『「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる』(NHKブックス)の著者・竹内静一氏は、死の別れについて、次のように書いていました。

 柳田邦男は、物語を語れ、一人ひとりの物語を創れ、ということを提唱している。とりわけ死という事態を前にしたとき、それまでの人生でバラバラであった出来事を一つのストーリーにまとめて物語にし、「ああ、自分の人生ってこういう人生だった」と思いえたとき、人は、みずからの死を受け入れやすくなるのだというのである。


 「弔う」とは、もともと「問う」ことであり、「訪う」ことである。死者を訪問して、死者の思いを問うことである。さきの柳田邦男の言葉でいえば、死者の「物語」を聴きとめることである。そのようにして死者の「物語」を完結させることが、同時に、こちら側の「悲哀の仕事」をも完遂させていくことになるということであろう。


竹内氏は、「悲哀の仕事」について、「対象喪失をめぐる自然な心のプロセスの完成」という言い方をしていました。「死んでいく者と遺された者は、たがいの『悲しみ』の中で、はじめて死というものに出会う」のです。故人を忍び悲しみに涙することは、遺された人間にとっても、精神的にも大事なことなのでしょう。その意味でも、世事に煩わされず「身内だけで見送る」家族葬や直葬が多くなっているのは、とてもいいことだと思いました。
2018.06.09 Sat l 訃報・死 l top ▲
昨日今日とたてつづけに、朝日新聞に「秋葉原事件」に関連する記事が掲載されていました。どうしてだろうと思ったら、事件が起きたのが2008年6月8日で、ちょうど今日が10年目に当たるのだそうです。

朝日新聞デジタル
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「絶対に忘れない」 秋葉原無差別殺傷事件から10年
秋葉原で重傷の男性、発生時間に献花「10年は通過点」
今なお共鳴、加藤死刑囚の孤独 ネットに書き込み絶えず

私は、以前、加藤智大が書いた『東拘永夜抄』を読んだことがありますが、そこにあるのは、中島岳志氏も指摘しているように、青森県で有数の進学校に入ったものの、周囲が期待する大学に進むことができなかった挫折をいつまでも引き摺るナイーブな心と、たとえ仲のいい友達がいても心を通わせることができない孤独な心でした。そのため、人間関係が原因で何度も会社を辞めているのでした。

そして、行き着いたのが、派遣工として派遣会社を転々とする生活でした。派遣会社が用意したアパートでのかりそめの生活。それは、飯場を渡り歩く昔の労務者(自由労働者)と同じです。ただ、「派遣」や「ワンルームマンション」など、呼び方が現代風に変わっただけです。そんな生活では、ナイーブな心や孤独な心がますます内向していくのは当然でしょう。

秋葉原事件も、大阪教育大学附属池田小学校の事件や土浦の通り魔事件と同じように、自暴自棄な自殺願望が衝動的な犯罪へ向かったと言えるのかもしれません。ただ、その背景には、個人のキャラクターだけでは捉えきれない、社会的な問題も伏在しているように思います。生きづらさを抱く若者をさらに孤立させ追いつめていったものが、この社会にあったのではないか。

手前味噌ですが、私は、事件直後に下記のような記事を書きました。読み返すと、多少の事実誤認はあるものの、リアルなのは右か左ではなく上か下なのだとあらためて思うのでした。

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秋葉原事件
2018.06.08 Fri l 社会・メディア l top ▲
歴史社会学者・小熊英二氏が、朝日新聞の「論壇時評」に興味ある記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)観光客と留学生 「安くておいしい国」の限界

国連世界観光機関(UNWTO)の統計では、2000年から2017年で、国際観光客到着数は2倍に増えたそうです。そのため、世界のどこに行っても、「マナーの悪い観光客に困っている」という話を聞くようになったのだとか。

今は世界的な観光ブームと言ってもいいのかもしれません。そのいちばんの要因は、グローバル資本主義によって、かつて「中進国」と言われた中位の国々が底上げされ豊かになったからでしょう。もちろん、その“豊かさ”が格差とセットであるのは言うまでもありません。

一方、日本は、2016年の国際観光客到着数で世界16位です。ただ、増加率が高く、2012年から2017年で3倍以上になったそうです。

日本の観光客数が急増したのも、中国や韓国や台湾だけでなく、タイ、マレーシア、フィリピン、シンガポール、インドネシアなど、経済成長したアジアの国々から観光客が訪れるようになったからですが、小熊英二氏は、もうひとつ別の理由をあげていました。

日本が「安くておいしい国」になったからだと言うのです。たしかに、「円安」によって観光客が増えたというのは、よく言われることです。

 ここ20年で、世界の物価は上がった。欧米の大都市だと、サンドイッチとコーヒーで約千円は珍しくない。香港やバンコクでもランチ千円が当然になりつつある。だが東京では、その3分の1で牛丼が食べられる。それでも味はおいしく、店はきれいでサービスはよい。ホテルなども同様だ。これなら外国人観光客に人気が出るだろう。1990年代の日本は観光客にとって物価の高い国だったが、今では「安くておいしい国」なのだ。


つづけて、小熊氏は、つぎのように書いていました。

このことは、日本の1人当たりGDPが、95年の世界3位から17年の25位まで落ちたことと関連している。「安くておいしい店」は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう。


「安くておいしい国」というのは、裏返して言えば、それだけ日本が日沈む国になりつつあるいうことなのかもしれません。外国人観光客が増えたからと言って、テレビのように「ニッポン、凄い!」と単純に喜ぶような話ではないのかもしれません。

日本は、観光客だけでなく、留学生も増えています。なぜ非英語圏の日本に(ベトナムやネパールなどから)留学生が押し寄せているのかと言えば、日本は外国に比べて留学生の就労規則が緩く、「就労ビザのない留学生でも週に28時間まで働ける」からです。しかも、その「週28時間」も、ほとんど有名無実化しているのが実情です。その結果、「留学生」と言う名の外国人労働者が日本に押し寄せているのです。

政府は、昨日(5日)、外国人労働者の受け入れ拡大に向けた「骨太の方針」を決定したばかりですが、しかし、忘れてはならないのは、それは日本が「豊かな国」だからではないのです。3Kの単純労働の仕事で、若くて安い労働力が不足しているからです。ただそれだけの理由です。

一方で、低賃金の外国人労働者の流入が、単純労働の仕事を支えている非正規雇用などの「アンダークラス」の賃金を押し下げる要因になっているという指摘もあります。また、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるという、先進国にあるまじき貧困の現実があることも忘れてはならないでしょう。

しかし、日本人は、『ルポ ニッポン絶望工場』の出井康博氏が書いているように、いつまでも自分たちが豊かだという「上から目線」がぬけないのです。二言目にはアジア人観光客は「マナーが悪くて迷惑だ」と言いますが、そんな「マナーが悪い」アジア人観光客が既に自分たちより豊かな生活をしている現実は見ようとしません。と言うか、見たくないのでしょう。(こんなことを言うと発狂する人間がいるかもしれませんが)そのうち北朝鮮だって、日本より豊かになるかもしれません。100円ショップの商品まで持ち出して「ニッポン、凄い!」と自演乙するのも、そんな哀しい現実から目を反らすための、引かれ者の小唄のようにしか思えません。


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『新・日本の階級社会』
『ルポ ニッポン絶望工場』
2018.06.06 Wed l 社会・メディア l top ▲
今日、Yahoo!ニュースが、次のような産経新聞の記事をトピックスに掲載していました。

Yahoo!ニュース(産経新聞)
新潟知事選は総力戦 野党…参院選へ共闘試金石×与党…敗北なら総裁選に影

産経新聞は、与党候補「優勢」という事前予想を受け、陣営の引き締めを狙っているのかと思いましたが、もっと深読みすれば、この選挙で、安倍三選の道筋を付けようとしているのかもしれないと思いました。それくらい与党は”余裕”なのです。

一方、野党側は、下記の田中龍作ジャーナルの記事が示しているように、原発再稼働の問題と沖縄の基地問題を結び付けることで、選挙運動の盛り上げを狙っているかのようです。と言うか、そうやって実質的な野党統一候補を実現させたことを自画自賛しているのです。

田中龍作ジャーナル
【新潟県知事選】「安倍政権はありったけの暴力と権力でやってくる」

しかし、私は、ここにも、相変わらず「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみか子氏)左派の姿があるように思えてなりません。

原発再稼働の問題と沖縄の基地問題がどう関係があるのか。と言うと、左派リベラルの人たちは激怒するかもしれませんが、少なくとも有権者はそんな感覚ではないでしょうか。

そもそも原発再稼働の問題にしても、ホントに選挙の争点になるのか、私は疑問です。原発再稼働の問題は、選挙の争点になるような(争点にするような)問題ではないのではないか。

新潟の知事選に沖縄の基地問題をもってくるやり方が、左派特有の夜郎自大なご都合主義の所産であるのはあきらかでしょう。そうやって「野党共闘」が演出され、大衆運動が政党や党派に引き回されるのです。言うなれば、左派のお家芸のようなものです。

もちろん、左派リベラルと呼ばれる人たちの多くが、マルクス・レーニン主義と無縁であるのは言うまでもありません。彼らを「極左」と呼ぶネトウヨは、よほどの無知蒙昧か誇大妄想としか言いようがありません。ただ一方で、彼らのなかに、「前衛主義」のような発想があるのは否定しえないでしょう。

最近、左派リベラルの一部のグループがカルト化しているという声がありますが、カルト化していると言われるグループのSNSなどを見ると、たしかに(どうでもいい)自己を正当化するために身近なところに敵を見つける、党派政治にありがちな隘路に陥っているように思いました。それもいつか見た風景です。そこにも左翼の悪しき伝統が影を落としているように思えてなりません。

左派リベラルは、今回も、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所」でまどろみ、産経新聞の目論見どおり、安倍三選の道筋を付けることに一役買うことになるのでしょうか。なんだか産経新聞の高笑いが聞こえてくるようです。


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2018.06.04 Mon l 社会・メディア l top ▲
今日、ロシアワールドカップの日本代表の最終メンバーが発表されましたが、これほど盛り上がらないメンバー発表もめずらしいのではないでしょうか。心なしか、メンバーを発表する西野監督の表情も精彩を欠いていたように思います。

それもそのはずで、昨夜のガーナ戦のテイタラクはまさに目を蔽うばかりでした。「それ見たことか」ということばしか見つかりません。「ハリル解任ってなんだったんだ?」という言い方さえカマトトに思えるくらいです。

ガーナはワールドカップ予選に負けたばかりのチームです。あたらしいチーム作りもまだはじまってない状態でしょう。そんなチームが親善試合で招待されて来日したのです。知人は、どうせ吉原に行くのが楽しみで来たようなもんだろうと言ってましたが、どう考えてもボクシングで言う「咬ませ犬」にすぎません。負けるのが仕事のようなものです。

一方、日本はワールドカップの最終メンバーの発表を翌日に控えた、文字通り最後のアピールとなる試合でした。両チームのモチベーションは、天と地の差があったはずです。実際に、ガーナの選手たちは、アマチュアのチームのように、統制の取れてないチグハグな動きをしていました。そんなチームに、FKとPKだったとは言え2対0で完敗して、勝つことが前提の壮行試合を台無しにしたのです。お話にならないとはこのことでしょう。

ヨーロッパのサッカーメディアは、ハリルを解任した日本を今大会の最弱国だと辛辣な評価を下しているそうですが、あながち的外れだとは言えないでしょう。昨夜の試合では、「明日につながる試合だった」「課題が見つかった」などという常套句もさすがに影を潜めていました。

サッカーは、野球や相撲と違って、世界を相手に戦わなければならないのです。常にみずからを世界の基準に晒さなければならないのです。「一国社会主義」では世界に通用しないのです。いくら「ニッポン、凄い!」と自演乙しても、そんなものはクソの役にも立たないのです。サッカー協会の派閥やスポンサーの意向を忖度して世界で戦おうなんて、悪い冗談だとしか思えません。真面目に勝つことを考えているとはとても思えません。

ハリル解任を主張していたセルジオ越後氏や杉山茂樹氏などは、さっそく西野ジャパンの戦術を批判していますが、今更なにを言ってるんだと思いました。批評のレベルも、その国のサッカーのレベルに比例するのでしょう。

そして、グループステージで敗退してロシアから帰ってきたら、翼賛的なサッカーメディアに訓致されたサポーターたちは、「感動をありがとう!」「勇気をもらった」などというおなじみの垂れ幕を掲げて拍手と歓声で迎えるのでしょう。そんな痴呆的な光景が目に浮かぶようです。


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2018.05.31 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
先日、LGBTを告白した勝間和代氏に対して、「芸能界からも温かい声」というような記事がありました。メディアの受け止め方も好意的なものばかりです。

電通は、「電通ダイバーシティ・ラボ」という専門組織を立ち上げ、「LGBT市場規模を約5.9兆円と算出」しているそうです。LGBTも既に美味しいビジネスになりつつあるのです。もちろん、だからと言って、性の多様性を認める社会に異議を唱える者などいようはずもないのです。

と思ったら、久田将義氏が編集長を務めるニュースサイト・TABLOに、勝間氏のカミングアウトに対して、「批判的な声が浴びせられている」という記事が出ていました。

TABLO
LGBTを告白した勝間和代さんに早くも「ビジネスLGBTでは」の声

・じゃあもう少し、弱者やマイノリティに優しい人であってくれ
・おっ今はLGBTブームなんや! それで本でも書いたろ!
・LGBTが流行ってるから一枚かんでおこうという下衆な魂胆
・こいつ大人の発達障害が話題になった時も 自分は「発達障害かもしれない」 とかカミングアウトして すぐに、講演会開いて、イベント開いて、NPOから発達障害の普及大使かなんかに任命されて 執筆したりしてたよな 今度はLGBTか
・この前隠れ巨乳なこともカミングアウトしてたよな
・娘もいい年だろうにそんな母親のカミングアウト聴きたくないだろ
・これ単なる生々しい性癖の告白だからな
・こいつの趣味 PC、バイク、麻雀... 料理もするが、見栄えより効率重視 男性脳は男性脳だわな
・バイクゴルフ麻雀全部飽きたっぽいし同性愛もすぐ飽きるだろ
・ものすごい生き急いでる感は結構好き


私は、2ちゃんねるが5ちゃんねるに変わったのも知らなかったくらいですが、ネットにはまだこういった声が残っているのかと思うと、少し安心したような気持になりました。「じゃあもう少し、弱者やマイノリティに優しい人であってくれ」というのはまさに至言で、今までの勝間氏を見ていると、今回のカミングアウトが、電通がLGBT市場を試算する話とどこか似たものがあるような気がしてならないのです。

しかし、メディアにそういった視点はありません。ただ同調圧力に与するだけです。もちろん、その同調圧力は、視聴率や売上部数やアクセス数など、ニュースをマネタイズするビジネスにつながっているのです。

メディアの同調圧力がもっとも歪なかたちで出ているのが、日大の悪質タックル問題です。先日は、朝日新聞に元日大全共闘の闘士たち(と言っても、SEALDs大好きの70すぎの爺さんたち)まで登場し、日大の体質は、日大闘争のきっかけになった古田体制の頃からなんら変わってないなどとコメントしていました。文字通り坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、今や日大は日本中から袋叩きに遭っているのです。日大生の就職活動にまで影響を及ぼしているなんて、いくらなんでもそれはないだろうと思いますが、メディアは真顔でそういったニュースまで流しているのです。

日本国民を敵にまわすようですが、あれはどう見てもチーム同士で話し合うような問題でしょう。日大の体質云々は言いがかりのようなものです。日大の体質に問題があるとしても、それはタックルとは別の問題でしょう。日大の対応が遅れたと言いますが、遅れたというより戸惑っていたのだと思います。もちろん、記者会見を開くような問題でも、まして(元水泳選手が偉そうな)スポーツ庁が乗り出すような問題でもないでしょう。問答無用の上下関係や空疎な精神論を強いる日本の学生スポーツの”体育会的体質”が根っこにあると言えば、そう言えるのかもしれません。だとしても、それは日大だけの問題ではなく、関学も同じでしょう。

週刊文春が公開した、試合直後に内田監督が記者たちと談笑していたテープでは、内田監督は、日大のタックルがひどいなんてよく言うよ、1年前の関学はもっとひどかったよというようなことを言ってました。そして、その場にいた記者たちも笑っていたのです。ところが、タックルの映像がYouTubeに上げられると、日大に対する批判が沸き起こり、日大は“国賊”のようになって行ったのです。映像をYouTubeに上げた行為の妥当性についても検証されるべきだと思いますが、そういった意見は皆無です。

監督とコーチの記者会見の際に司会を務め、その横柄な仕切りが炎上した、日大広報部顧問のY氏についても、唯一、スポーツ報知が次のような記事を載せていました。

スポーツ報知
“逆ギレ司会者”にも一分の理…アナウンサーは取材者なのか出演者なのか

こういった「一分の理」を書くことも、ジャーナリズムにとって大事なことではないでしょうか。

さらにこじつければ、眞子さまの婚姻をめぐる報道にも、同じような同調圧力が見え隠れしているように思えてなりません。元週刊現代編集長の元木昌彦氏は、プレジデントオンラインに次のような記事を書いていました。

PRESIDENT Online
"眞子さま報道"で問われる元婚約者の品性

たしかに、小室さんのお母さんがあそこまで叩かれるのなら、その情報を提供した(売った?)人物の素性もあきらかにすべきでしょう。プライベートな個人間のトラブルをメディアに提供する行為は、品性だけでなく、その倫理性も問われるべきです。また、そのリスクも、当然みずからで負うべきでしょう。

ものごとには表もあれば裏もあるのです。見る角度(立場)によって、捉え方が違ってくるのは当然です。多事争論ではないですが、さまざまな角度(立場)から報道するのがジャーナリズムのあり方でしょう。でなければ、どこにものごとの本質があり、真実があるかもわからないでしょう。北朝鮮から日大まで、今のメディアは、ただ同調圧力に与するだけで、誰でも書けるような(文章自動作成ツールでも書けるような)記事を書いているだけです。

メディアは、そやって獲物を見つけ、血祭りに上げることで、ニュースをマネタイズしているのです。この手の血祭りは昔からありましたが、最近は「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)によって、報道が増幅されより狂暴になっているように思います。「日大の悪質タックル問題は、いっこうに出口が見えない」などとメディアは言ってますが、メディアが勝手に出口を塞いでいるだけです。そうやってサディスティックになぶり殺すまでやるつもりなのかと思ってしまいます。

メディアにとって、獲物さえ見つかれば、衆愚を煽ることなど赤子の手をひねるくらいたやすいことなのでしょう。しかも、衆愚に右も左もないのです。保守もリベラルも関係ないのです。そして、同調圧力は、まるで集団ヒステリーのように、一切弁明も許さず異論や反論も徹底的に叩く、問答無用なものへとエスカレートして行くのでした。「少し頭を冷やせ」とたしなめる者がいない社会。そんなメディアが主導する同調圧力に、私は全体主義ということばしか思い当たりません。
2018.05.30 Wed l 社会・メディア l top ▲
きのう、南北首脳が、極秘に板門店で二度目の会談をしていたというニュースには驚きました。北朝鮮の朝鮮中央通信もきょう、「金正恩朝鮮労働党委員長が26日に板門店で行われた韓国の文在寅大統領との会談で、『歴史的な朝米首脳会談への確固たる意志』を表明した」と報じたそうです。このすばやい報道も異例です。あらためて金正恩の”本気度”を痛感させられたと同時に、朝鮮半島の融和がもはや後戻りできない段階まで進んでいることを実感させられました。

もろちん、このままスムーズに6月12日を迎えるかどうか、まだ予断を許さないものはあるでしょう。ただ、そのリスクは、金正恩だけでなくトランプにもあるのです。アメリカ側にいる私たちは、ともすれば金正恩のリスクばかりを考えがちですが、トランプのリスクも忘れてはならないのです。

下記のハフポストの記事によれば、平壌などでは、私たちが抱いている全体主義国家の暗いイメージとは違った表情があるそうです。

HUFFPOST
変わる北朝鮮 街中にいちゃこらカップル、そしてセグウェイ…。写真家が見たリアル

記事のなかで、写真家・初沢亜利氏は次のように言ってました。

「(略〉日本人が北朝鮮を仮想敵国として政治利用し、お茶の間で笑いものにしている間に、北朝鮮は粛々と自力更生の道を歩んでいたんですよ」

「『住民を抑圧して食べ物がない国が長く持つわけがない』という過去の妄想を、日本人は捨てきれない。ただ、北朝鮮は明らかに前例のない発展をしています。(略)」


ミサイル発射の現場で、黒ずくめの恰好で眉間に皺を寄せ、煙草を口にくわえて指示している金正恩の姿ばかり流しているこの国のメディアでは、決してわからない「あたらしい流れ」がずっと前からはじまっていたということなのでしょう。

北朝鮮は、2003年にNPTを脱退したときから、本格的な核開発に着手したと言われています。そして、核を取引材料にアメリカと直接交渉して、経済的な発展を目指すロードマップを描いていたという話がありますが、あながち嘘ではなかったのかもしれません。そもそも三代目の跡取りをわざわざ資本主義国(永世中立国)のスイスで教育を受けさせたのも、将来の進むべき道を考えたものだったのかもしれません。

一方、トランプの「中止」表明を受けて、会談そのものが流れたかのように大騒ぎしていたこの国のメディアは、一日経つと180度違うニュースを流しています。彼らはただ米朝の情報戦に踊らされ右往左往しているだけです。そんないい加減なニュースを真に受け、アメリカが北朝鮮を攻撃すると本気で思っていたYahoo!ニュースのネトウヨたちは、このめまぐるしい展開にどうやって正気を保っているのだろうと逆に心配になってきました。

金正恩の一連の言動や行動を見ていると、もしかしたら本気でアメリカ主導のCVIDを受け入れるつもりかもしれないとさえ思えてきます。北朝鮮は、「非核化」を担保に、核開発と経済発展の二本立ての並進路線から経済優先へと舵を切ろうとしているのですが、金正恩の命運がどうなるかは別にして、うまく着地点を見い出せれば、私たちは、やがて中国と同じような改革開放の経済発展した姿を、北朝鮮に見ることになるでしょう。

北朝鮮が、金日成の遺訓で昔から教育に力を入れていたのはよく知られています。北朝鮮は、(皮肉ではなく)もともと短期間で核開発を成し遂げたり、外国の政府機関を標的にしたサイバー攻撃をおこなったりするような”優秀な頭脳”をもっているのです。トランプが言うように、経済による国造りに向かえば、そういった”優秀な頭脳”が「豊かな人的資源」になるのは間違いないでしょう。

北朝鮮には、レアメタルだけでも数百兆円分が埋蔵されていると言われています。そんな豊富な地下資源と「豊かな人的資源」。あと足りないのは、資金だけなのです。

ワイドショーで、デーブ・スペクターの会社(スペクター・コミュニケーションズ)が提供する「中国は遅れた貧しい国」の映像を見て嘲笑っている間に、気が付いたら、私たちよりはるかに豊かな中国人が大挙して観光にやってくるようになっていたのです。そして、卑屈な日本人は、さも迷惑そうな顔をしながらも、陰では揉み手して「熱烈歓迎」するようになっていたのです。資本主義国で教育を受けた独裁者の”英断”によって、北朝鮮もまた中国と同じ道を歩みはじめた(はじめようとしている)と言っていいでしょう。


※前回の記事(米朝首脳会談と「奴隷の楽園」)の「追記」として書いたものを、一部書き加えて独立した記事にしました。
2018.05.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
首脳会談を来月に控え、米朝双方の駆け引きが激しくなっていますが、「延期」や「中止」を仄めかすのではなく、トランプがいきなり「中止」を表明したのには、さすがにびっくりしました。

びっくりしたのは、北朝鮮も同じだったみたいで、すぐに金桂寛第一外務次官が談話を発表したのですが、それは、メディアがヤユするように、今までの北朝鮮ではあり得ないような低姿勢なものでした。談話では、「我々はトランプ大統領が過去のどの大統領も下せなかった勇断を下して首脳対面という重大な出来事をもたらすために努力したことを依然として内心高く評価してきた」とトランプを持ち上げた上で、「我々は、いつでも、いかなる方式であれ対座して問題を解決する用意があることを米国側に改めて明らかにする」と交渉の継続をアメリカに乞うているのでした。つまり、それだけ金正恩は本気だったということでしょう。

国際ジャーナリストの高橋浩祐氏は、WEBRONZAで、今回の「中止」表明を「メガトン級の『牽制球』」と呼んでいました。言うなれば、”ショック療法”のようなものかもしれません。

WEBRONZA
トランプ氏 メガトン級の「牽制球」のワケ

高橋氏は、トランプの「中止」表明を「『マッドマンセオリー』の使い手らしい一手」と評していました。「マッドマンセオリー」とは、「何をするかわからないと相手に思わせる狂人理論」だそうです。

今後の展開について、高橋氏も、「長年の悲願であった米朝首脳会議を開催するチャンスを、北がやすやすと蹴っ飛ばす可能性は低い」という見方をしていました。

「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、「段階的な非核化」(実質的な核保有)を主張する北朝鮮との交渉が難航するのは最初からわかっていたことです。だからこそ、激しい駆け引きがおこなわれていたのです。もとより、米朝首脳会談は、国交のない国の首脳同士が直接顔を合わせる「歴史的な」会談なのです。予想もつかない展開を見せるのも当然でしょう。

高橋氏は、つぎのように書いていました。

 仮に、米朝首脳会談が6月12日に実施されても、今のままでは評価は分かれるかもしれない。

 北朝鮮の非核化に道筋を付け、朝鮮戦争の終結と朝鮮半島の平和をもたらす貴重な機会を確保したとの理由で、トランプ政権の株は上がるかもしれない。

 しかし、その一方で、準備不足の生煮えのままで米朝首脳会談が決行されれば、成果を急ぐトランプ大統領がノーベル平和賞を脳裏に浮かべながら、北朝鮮に譲歩を重ねて、米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)の放棄だけで合意してしまうかもしれない。「完全な非核化」ではなく、中途半端な合意で北朝鮮に一部の核を温存させてしまう恐れがあるのだ。11月の中間選挙を前に、トランプ大統領が功を焦るあまり、北を核保有国として認めさせる金委員長の術中にはまる懸念は小さくない。

 いずれにせよ、トランプ大統領は今、短い期間で、北朝鮮との合意を形成する難しさを薄氷の上を歩むような思いで痛感しているはずだ。米朝首脳会談の中止の撤回を含め、今後の展開から目が離せない。


米朝の駆け引きがどういった落としどころになるのか、素人なりに考えると、まず思い浮かぶのは、アメリカ主導によるCVIDです。しかし、アメリカ主導のCVIDは、リビアのように「永遠の濡れ衣」(田中宇氏)になりかねないので、北朝鮮もおいそれと妥協はできないでしょう。金正恩のたてつづけの習近平詣では、CVIDを前提に「体制保証」を確約してもらうように中国に仲介を依頼したと見えないこともありませんが、しかし、CVIDで妥協するにはハードルが高すぎるし、交渉の時間もかかりすぎるように思います。早急な「歴史的な成果」を求めているのは、11月の中間選挙を控えたトランプも同じなのです。お互いに折り合いをつけるとなると、上記の高橋氏が懸念するように、CVIDを装いつつ実際は北朝鮮の核保有を黙認するか、あるいは田中宇氏が再三書いているように、CVIDの判定に中国を絡ませることで「永遠の濡れ衣」を回避するか、そのどっちかでしょう。そう考えれば、トランプの「中止」表明は、いかにも彼らしい演技(ハッタリ)と見えなくもないのです。

一方、トランプの「中止」表明を受け、この国のメディアが流しているのは、「それみたことか」と拍手喝采を送り、会談そのものが雲散霧消したかのような、文字通りそうなればいいという希望的観測に基づいた(フェイクな)記事ばかりです。不動産屋であるトランプ一流の交渉術を指摘するような報道は皆無です。まして、トランプが”両刃の剣”であることなど、露ほども思ってないようです。この国のメディアは、対米従属を至上の価値とする恥も外聞もない従属思想に寄りかかることで、見えるものも(見なければならないものも)見えなくなっているのです。

白井聡氏は、新著『国体論』(集英社新書)で、「日本は独立国ではなく、そうありたいという意志すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と書いていましたが、たしかに、どうしてアメリカの核が「正義」で、北朝鮮の核が「悪」なのかという、国際政治の”不条理”に対する疑問は、日本中どこを探しても存在しません。保守もリベラルも、核抑止力というアメリカの論理(詭弁)に、「ごもっともでございます」と雁首を並べて膝を折り頭を垂れているあり様です。

白井氏は、この国の戦後を「奴隷の楽園」と呼んでいました。そして、何度も言うように、「奴隷の楽園」では、「愛国」と「売国」がまったく逆の意味に使われているのです。

 ニーチェや魯迅が喝破したように、本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。
(『国体論 菊と星条旗』)


これでは、日本はアメリカのポチにすぎない(理念のない国だ)、と北朝鮮からバカにされるのも当然でしょう。

多少の紆余曲折はあろうとも、東アジアの「あたらしい流れ」が避けようのない現実(既定路線)であるのはあきらかです。米朝の次は日朝だとか言われていますが、白井氏が言うように、独立国ですらない日本が一筋縄でいかない北朝鮮と交渉するのは、どう考えてもプレイヤーの「格が違いすぎる」と言わざるを得ません。日本のメディアが首脳会談の「中止」表明に拍手喝采を送るのも、できるなら交渉などしたくないというこの国の本音が隠されているのでしょう。

北朝鮮がみずから言うように、ホントに核兵器が完成しているのなら(まだ完成していないという説もありますが)、核を保有する(隠し持つ)北朝鮮が東アジアの政治の表舞台に登場することになるわけで、その衝撃は想像以上に大きいと言えるでしょう。しかも、北朝鮮はレアメタルをはじめ豊富な地下資源をもっており、制裁が解除になって外国資本が入れば経済的に大きく飛躍する可能性があると言われています。そう考えると、会談が「中止」になってほしい、できれば交渉したくない、という”日沈む国”の気持もわからないでもありません。


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愛しきソナ


今、映画監督のヤン・ヨンヒ氏の小説・『朝鮮大学校物語』(角川書店)を読んでいるのですが、それで思うところがあって、同監督の「愛しきソナ」(2011年)をNetflixで観ました。「愛しきソナ」を観たのは、これで二度目です。

大阪の鶴橋に住む在日朝鮮人の一家。1970年代の初め、18歳・16歳・14歳の息子三人は、当時「地上の楽園」と言われた北朝鮮に帰国します。日本に残ったのは、朝鮮総連の幹部であった父親と母親、それにまだ6歳のひとり娘(ヤン・ヨンヒ監督)でした。

やがて三人の息子はそれぞれ家庭をもち、両親には北朝鮮に八人の孫がいます。三人の息子の生活は、日本からの仕送りで支えられています。母親からの仕送りは、兄たち家族の「生命線」だと映画のなかで言ってました。お金や薬、それに風呂釜まで送られたそうです。

「愛しきソナ」は、次兄の娘・ソナにフォーカスを当て、1995年から10年以上に渡り、北朝鮮と日本に分かれた一家の悲喜こもごもの交流を記録したドキュメンタリー映画です。

ソナが5歳のとき、実母が子宮外妊娠で亡くなります。一周忌のために訪朝した際に撮られた、ソナが母親の墓前で、受験のときに覚えたという「将軍様」を讃える詩を暗唱するシーンは、なんだかせつないものがありました。

ソナの父親にとって、ソナの母親は二度目の妻でした。妻の死から二年後、次兄は三度目の結婚をします。母親は、今回も結婚式の費用はもちろん、花嫁衣装やブーケまで日本からもって行ったのでした。

一方、長男は、日本にいるときはコーヒーとクラシック音楽が好きだったそうですが、北朝鮮に渡ったのち、躁うつ病になります。その薬も日本から送っていました。しかし、薬の催促のためにかかってきた国際電話で、薬事法の改正で患者本人でないと薬を処方してもらえなくなったので、薬を送ることができなくなった、と母親が説明するシーンがありました。

その長男も、息子に音楽家になる夢を託して2009年に亡くなるのでした。同じ2009年11月、脳梗塞で倒れた父親も亡くなります。また、ヤン・ヨンヒ監督も、前作「ディア・ピョンヤン」(2006年)が北朝鮮当局に問題視され、入国禁止を言い渡されるのでした。

どんな国に生まれても、子どもたちの小さな胸には夢がいっぱい詰まっており、子どもたちは天真爛漫に生きているのです。ただ、舞台が北朝鮮だと、どうして天真爛漫さが哀しく映るんだろうと思いました。

ピョンヤンの劇場の前の階段に、小学生のソナと監督の二人が座り、カメラを止め、日本では休日にどんなことをするのかとか、日本の演劇では誰が好きかといったことを話すシーンも(映画のなかでは、黒い画面に会話の文字が映し出されるだけですが)、印象に残りました。ソナは、「わからないけど、聞いているだけで楽しい」と言うのでした。

映画のなかで、「そっちに行くのも難儀でな」「国交が正常化したら行き来しような」と父親が電話で話すシーンがありましたが、今回の融和ムードを祈るような気持で見ている在日朝鮮人も多いことでしょう。

「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。それは、北朝鮮で生きる人たちだって同じでしょう。私たちは、北朝鮮のことを考える上で、その”当たり前の事実”を忘れてはならないのです。

政治に翻弄され、家族がバラバラになった朝鮮人にとって(北朝鮮によって家族が引き裂かれた拉致被害者の家族にとっても)、今回の融和ムードは掛け値なしに喜ぶべきことでしょう。トランプや金正恩の政治的思惑などどうだっていいはずです。戦争より平和のほうがいいに決まっているのです。それがすべての前提でしょう。


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「愛しきソナ」予告編
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2018.05.16 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
米朝首脳会談の日程や場所が具体的に決定しても、相変わらずこの国のメディアは、北朝鮮は信用できないので、会談が決裂する可能性があるというような記事ばかり流していますが、じゃあ、トランプは信用できるのか、と突っ込みを入れたくなりました。メディアが流しているのは、会談が決裂すればいいという希望的観測(対米従属の願望)の記事にすぎません。

先日、朝日新聞に出ていた、トランプ政権が金正恩が飲めないようなハードルの高い非核化プログラムを提示するので、会談が合意に達するか予断を許さないという記事なども、そのひとつです。トランプは不動産屋なので、最初は高くふっかけ、それから徐々にハードルを下げて妥協点を探るのが彼の交渉術だと言われます。朝日新聞は、そんなこともわからないのだろうかと思いました。

このように、「いざとなれば大本営」ではないですが、ここにきて政府と歩調を合わせたプロパガンダのような報道が目に付きます。この国の政府やメディアは、今に至ってもなお、トランプに(軍事行動という)一縷の望みを託しているかのようです。

田中宇氏も、「田中宇の国際ニュース解説」でつぎのように書いていました。

(略)今起きていることの全体を見ると、おそらく今年じゅうに朝鮮半島の対立が終わり、半島から米国勢が出て行き、在日米軍の縮小・撤退が取り沙汰されるところまで行く。マスコミや著名評論家たちは「米朝会談が必ず失敗し、トランプが再豹変して北を先制攻撃してくれるはず」といった「トランプ神風」への願掛けをお経のように唱えているが、彼らを信じるのはもうやめた方が良い。

田中宇の国際ニュース解説
朝鮮戦争が終わる(2)


イランの核合意からの離脱でも、アメリカがイランを軍事攻撃する可能性が出てきたとか、これで北朝鮮が震え上がったに違いないなどと妄想めいた記事が出ていましたが、私は、あのニュースを聞いて、アメリカ抜きで進められたTPP交渉を思い浮かべました。イランも、アメリカが離脱しても合意にとどまると表明しており、TPPと同じように、「非核化」のプロセスがアメリカ抜きで進められるのは間違いないでしょう。

アメリカ抜きで進められるTPPやイランの核合意が示しているのは、アメリカが超大国の座から下りて(転落して)世界が多極化する”世界史的転換”です。トランプの「アメリカ第一主義」も、その言い換えにすぎないのです。金正恩は、トランプの「アメリカ第一主義」をチャンスと見て、”賭け”に出たのでしょう。

何度も言いますが、好むと好まざるとにかかわらず、東アジアの覇権が中国に移るのは間違いないのです。それに伴い、いづれアメリカが(軍事的に)東アジアから手を引くのも間違いないのです。それが朝鮮半島の南北融和の先にある、東アジアの「あたらしい流れ」です。それは昨日今日はじまった話ではありません。アメリカの世界戦略にネオコンが影響力をもちはじめた頃から言われていたことです。

にもかかわらず、対米従属が国是のこの国のメディアは、アメリカがいない東アジアなんて想像すらできないみたいで、東アジアの「あたらしい流れ」から目を背け、前にも増して”アメリカ幻想”をふりまいているのでした。米朝首脳会談はトランプ(様)の胸ひとつと言わんばかりの報道などが、その最たるものです。メディアの言うことを真に受けると、Yahoo!ニュースのコメント欄に巣食うネトウヨのように、見えるものも見えなくなるのです。


追記:
 16日に突然、北朝鮮がマックス・サンダー(米韓の航空戦闘訓練)を理由に、南北閣僚級会談の中止を表明、併せて来月の米朝首脳会談の中止も仄めかしたことで、またぞろ会談が中止になってアメリカが軍事オプションを選択するのではないか(選択してほしい)、というような報道が流れていますが、北朝鮮の表明が「非核化」の落としどころをめぐる駆け引きにすぎないことぐらい、冷静に考えれば誰にでもわかる話です。たしかに朝鮮人は、激情に走って後先を考えずにものを言うところがありますが、これは外交なのです。北朝鮮の「強気」が計算されたものであるのは言うまでもないでしょう。日本のメディアは、米朝の情報戦に踊らされているだけです。
 これから会談の当日まで、「延期」や「中止」を仄めかすような瀬戸際の駆け引きが、米朝双方によってくり広げられることでしょう。そのたびに、メディアはネトウヨと一緒になって発狂し大騒ぎすることでしょう。ついでに北朝鮮サイドに立って言えば、圧倒的な軍事力を誇る「超大国」を相手にするには、中国の後ろ盾も必要だし、「瀬戸際外交」と言われるこのような”ゆさぶり”も必要なのです。独裁政権にも三分の理はあるのです。(5/18)


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世界史的転換
2018.05.14 Mon l 社会・メディア l top ▲
安倍晋三沈黙の仮面



森友問題における財務省の佐川宣寿元理財局長の証言もひどかったですが、今回の加計問題での柳瀬唯夫元首相秘書官の答弁も、それに輪をかけてひどいものでした。愛媛県知事が怒るのも当然でしょう。野党や国民はもっと怒るべきでしょう。「官僚いじめ」だと言われたからと言って、怯んでいる場合ではないのです。

昨年の“森友国会”の際、安倍晋三首相は、野党からの追及を受ける佐川宣寿理財局長(当時)に、「もっと強気で行け」とメモを渡したそうですが、木で鼻をくくったような(国会や国民をバカにしたような)彼らの答弁には、たしかに、安倍首相の個人的なキャラクターが影を落としているように見えなくもありません。今になれば、「強気で行け」というのが、「強気で嘘をつけ」という意味だったことがよくわかるのです。

必死に言い逃れようとする二人を見て、「(東大の法学部まで出ていながら)惨めなもんだな」と思いましたが、しかし、当人たちは、逆に心のなかで、安倍首相に向かって「やりましたっ!」とVサインを送っていたのかもしれません。文字通り、「ハイルヒトラー!」の気分だったのかもしれません。彼らにとって、安倍首相を忖度することは、官僚としてのレーゾンデートルと言ってもいいくらい大事なことなのかもしれないのです。一方で、東大出に対して学歴コンプレックスを抱いている(後述の野上忠興氏)安倍首相にとっては、東大法学部を出たエリート官僚をまるで飼い犬のようにかしずかせるのは、これ以上ない快感に違いありません。

菅野完氏は、国会を騙す安倍政権のやり方は、「授権法なき授権法体制」だと言ってましたが、生殺与奪の人事権を握って官僚を徹底的に平伏させるのも、「ナチスのやり方を学んだ」(麻生太郎副総理)のかもしれません。

元共同通信社の記者で、(旧)安倍派の番記者を務めた野上忠興氏の『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)に、安倍晋三氏の乳母・久保ウメさんが語ったつぎのようなエピソードがあります。

 夏休みの最終日、兄弟の行動は対照的だった。兄は宿題が終わっていないと涙顔になった。だが、晋三は違った。
「『宿題みんな済んだね?』と聞くと、晋ちゃんは『うん、済んだ』と言う。寝たあとに確かめると、ノートは真っ白。それでも次の日は『行ってきま~す』と元気よく出ます。それが安倍晋三です。たいした度胸だった。(略)」
 ウメは「たいした度胸」と評したが、小学校時代の級友達に聞いて回っても、宿題を忘れたり遅刻をしたりして「またか」と先生から叱られたとき、安倍は「へこむ」ことはなかったという。


「愛に飢えた」少年時代ゆえか、平然と嘘をつくのは、子どもの頃からの”得意技”だったのです。

久保ウメさんは、安倍晋三氏が2歳5か月のときから岸・安倍両家に40年使え、「安倍家のすべてを知る生き字引」と呼ばれている女性です。彼女は、本のなかで、安倍晋三氏について、「強情で芯の強い子ども」「泣かない子」「自己主張・自我が人一倍強い」と評していました。

あるとき、父親(安倍晋太郎)の大事なものがなくなり、居合わせた兄弟が詰問された際、父親の「怒気を含んだ声」に気圧されて半べそをかいていた兄の傍らで、弟の晋三は、「真っ白なハイハイ人形みたいな顔をして、ほっぺをプーッと膨らませてパパをにらみ返し、パパとにらみ合いが続いた」そうです。そして、とうどう父親は、「晋三、お前はしぶとい!」と「白旗を揚げた」のだとか。

平然と嘘をつく、そして、しぶとい。なんだか今の安倍政権を象徴しているようなエピソードです。支持率も下がり追いつめられているようなイメージがありますが、安倍総理にその意識はあまりないのかもしれません。これからも、誰からなんと言われようと、嘘に嘘を重ねてしぶとく居座るのではないでしょうか。

ウメさんも、つぎのような示唆に富んだ言い方をしていました。

「私はパパとのケンカで最後まで屈しなかった姿が頭に残っているから、政治家になったあの子(晋三)が、自分のしたいことから逃げない、自分が思わないこと、駄目だと思ったことには一切妥協しない特性がいつ出るかと思っているの。ただね、何でも我を通すことがいいことにはならないでしょう。とことん突っ張る分、反動が出たときはそれだけ大きいことを覚悟しなくてはいけないのよ。(略)」


著者も「あとがき」で、同じようなことを書いていました(一部既出です)。

(略)安倍氏は「気が強くわがまま」(養育係の久保ウメ)で、「反対意見に瞬間的に反発するジコチュー(自己中心的)タイプ」(学友)だ。それが、父・晋太郎が懸念した「政治家として必要な情がない」一面につながっている。
 気にくわない場面や意見に出くわすことは誰にでもある。いちいち過剰反応しては神経がもたない。ちょっと頭を巡らせ、ちょっと感情を抑え、つまり臨機応変に知と徳を働かせて言動を工夫する。そうして「懐が深くなった」と印象づけるだけでも、ずいぶん政治家として熟した姿を示せるはずだ。でも長年取材してきた安倍親子において、父にあって子に足りないのは、今もってそこだと感じる。


安倍晋三氏は、能力はともかく気質においては、独裁者になる条件を充分備えている(いた?)と言っていいでしょう。


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2018.05.12 Sat l 本・文芸 l top ▲
月山


森敦の「月山」(文春文庫『月山・鳥海山』所収)を読みました。

最初に「月山」を読んだのは、二十歳のときでした。私は、当時、九州の実家に蟄居していました。東京の予備校に通っていたのですが、持病が再発したため帰省して、高校時代をすごした別府の国立病院で入院生活を送ったあと、退院して実家に戻っていたのです。実家は、別府から70キロ以上離れた、熊本県に近い山間の町にありました。

入院したのは三度目でした。つまり、持病が再々発したのです。さすがに三度目となると深刻で、周りが慌てているのがよくわかりました。担当した先生は、「寿命の短い患者を引き受けたな」「若いのに可哀そうだな」と思ったそうです。実際に、最初の数か月はほとんど寝たきりでした。

しかし、若かったということもあって、一年間の長期入院になったものの、なんとか退院することができたのでした。当分は通院しなければならないので、実家にいるしかなかったのですが、そのあとどうするか、もう一度上京して受験するか、志半ばで宙ぶらりんな状態に置かれた私は、思案に暮れていました。同級生たちはみんな、都会の大学に行ってましたので、なんだかひとりぽつんと田舎に取り残されたような感じでした。

私は、毎日、実家の二階の部屋で本を読んですごしていました。月に一度、バスと電車を乗り継ぎ片道3時間以上かけて病院に行くのが、唯一の外出でした。今のようにネット通販もありませんでしたので、そのときにひと月分の本を買い込んできました。

そのなかに、芥川賞を取ったばかりの「月山」があったのです。

「月山」は不思議な小説でした。仕事もせずに文学を志して放浪する「わたし」が、山形の鶴岡の寺の紹介で、十王峠を越えた先の、月山の「山ふところ」の集落にある寺を訪ね、そこでひと冬をすごす話です。

寺には、寺男の「じさま」がひとりいるだけでした。「じさま」が作る大根が入った味噌汁が毎日の食事でした。しかも、大根は、趣向を凝らすためか、扇や千本や賽の目などのかたちに切られているのでした。

冬が近づいてくると、「わたし」は、寒さを凌ぐために、寝起きしていた二階の広間の奥に、物置で見つけた祈祷簿で蚊帳を作ります。

雪に閉ざされた山奥の寺で、祈祷簿で作った蚊帳のなかで冬をすごす主人公。当時の私は、その姿に自分を重ねたようなところがありました。文字通り、世間から隔絶され、人生を諦観したような感じがしたのです。

「わたしは」こう独白します。

こうしてここにいてみれば、わたしはいよいよこの世から忘れられ、どこに行きようもなく、ここに来たような気がせずにはいられなくなって来たのです。


それも、当時の私の心境と重なるものがありました。

「寺のじさま」は、暇があると、「暗い台所の煤けた電球の下で割り箸を割っている」のでした。その姿に、「わたし」はつぎのように自問します。

寺のじさま、、、もそうして割り箸を割ることがまさに祈りであり、その祈りはただいま、、に耐えるというだけの願いなのに、その祈りによってもなおいま、、すら耐えられるものがあるのでしょう。


また、鉢のなかに落ちたカメ虫が、底から縁に何度も這い上がっては落ち、落ちては這い上がる様子を観察しながら、つぎのように思う場面も印象に残りました。

ああして飛んで行けるなら、なにも縁まで這い上がることはない。そのバカさ加減がたまらなくおかしくなったのですが、たとえ這い上がっても飛び立って行くところがないために、這い上がろうともしない自分を思って、わたしはなにか空恐ろしくなって来ました。


しかし、40年近く経って再び読み返すと、「月山」はまた違ったイメージがありました。今の私のなかに浮かんだのは、生と死のイメージです。

十王峠を越えて、寺のある集落の七五三掛(しめかけ)へ向かう途中、「死の象徴」である月山を眺めながら、「わたし」は、つぎのように思うのでした。

月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそ私たちにとってまさにある、、べき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死のたくらみ、、、、めいたものを感じさせるためかもしれません。


そして、つぎのような冬の夕焼けの情景にも、死と浄土のイメージが呼び起こされる気がするのでした。

(略)渓越しの雪山は、夕焼けとともに徐々に遠のき、更に向こうの雪山の頂を赤黒く燃え立たせるのです。燃え立たせると、まるでその火を移すために動いたように、渓越しの雪山はもとのところに戻っているが、雪山とも思えぬほど黒ずんで暗くなっています。こうして、その夕焼けは雪の山々を動かしては戻しして、彼方へ彼方へと退いて行き、すべての雪の山々が黒ずんでしまった薄闇の中に、臥した牛さながらの月山がひとり燃え立っているのです。かすかに雪の雪崩れるらしい音がする。わたしは言いようのない寂寥にほとんど叫びださずにいられなくなりながら、どこかで唄われてでもいるように、あの念仏の御詠歌が思いだされて来ました。

    〽彼の岸に願いをかけて大網の
     〽曳く手に漏るる人はあるじな

 それにしても、なにものもとらえて漏らさぬ大網を曳く手とはなんなのか。それほど仏の慈悲が広大だというなら、広大なることによって慈悲ほど残忍な様相を帯びて来るものはないであろう。‥‥‥


年を取ると、否応なく死というものを考えざるを得ません。それは、上の文章で言えば、「言いようのない寂寥」です。断念した果てに現在(いま)があるのだとしみじみ思い知らされます。しかし、大悲は「倦きことなくして常に我が身を照らしたまう」(『往生要集』)のです。そう信じてただ手を合わせ祈るだけです。

このように「月山」は、年を取って読むと、若い頃とはまた違った景色が見えてくる小説です。それが帯にあるように、名作たるゆえんでしょう。
2018.05.10 Thu l 本・文芸 l top ▲
新・日本の階級社会


橋本健二氏(早稲田大学教授)の『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)がベストセラーになっているそうです。

本自体は、如何にも大学の先生が書いた本らしく数字のデータが多いので、ややわかりにくくて退屈するきらいがあります。それで、というわけではないでしょうが、『週刊ダイヤモンド』(2018年4月7日号)が、特集(「新・階級社会」)を組んで、同書をわかりやすく解説していました。

日本で格差拡大がはじまったのは1980年前後で、既に40年近く格差拡大がつづいているそうです。その結果、日本の社会に、「生まれた家庭や就職時期の経済状況によって決まる『現代版カースト』ともいえる世界」が現出したのです。

「新・階級社会」は、以下の五つに分かれるそうです。

1.「企業規模5人以上の経営者・役員」で構成される「資本家階級」。
人口の4.1%・254万人。個人の平均年収(2015年)604万円。世帯の平均年収(同)1060万円。

2.「管理職・専門職」で構成される「新中間階級」。
人口の20.6%・1285万人。個人の平均年収(同)499万円。世帯の平均年収(同)798万円。

3.「単純事務職・販売職・サービス職・その他マニュアル労働者」で構成される「労働者階級」。
人口の35.1%・2192万人。個人の平均年収(同)370万円。世帯の平均年収(同)630万円。

4.「自営業者・家族従事者」で構成される「旧中間階級」。
人口12.9%・806万人。個人の平均年収(同)303万円。世帯の平均年収(同)587万円。

5.「非正規労働者(パート・アルバイト・派遣労働者)」で構成される「アンダークラス」。
人口14.9%・929万人。個人の平均年収(同)186万円。世帯の平均年収(同)343万円。

しかも、このなかで、2005年と比べて2015年の個人及び世帯の平均年収がアップしているのは、「労働者階級」だけです。そのため、ほかの階級に属する人たちは、上のクラスに上がるどころか、下のクラスに転落するリスクのほうが大きいのです。

でも、下に転落するクラスがあるだけまだマシかもしれません。最下層の「アンダークラス」は、転落することさえままならず、貧困率や未婚率が上がるだけです。

しかも、「アンダークラス」にとって、外国人労働者の存在も無視できなくなっているのです。外国人労働者は、過去5年間で60万人増えて120万になっているそうです。外国人の低賃金労働者の増加が、「アンダークラス」の賃金が上がらない要因になっているのです。

橋本健二氏は、『新・日本の階級社会』で、「アンダークラス」について、つぎのように書いています。

 収入はきわめて低く、貧困率は三八・七%、女性に限れば四八・五%にも達している。彼ら・彼女らは、安定した家族が形成・維持できない状態にある。男性の有配偶率はわずか二五・七%で、六六・四%が結婚の経験をもたない。女性では離死別者が多く、これら離死別者の貧困率はきわだって高い。


また、『週刊ダイヤモンド』の対談でも、つぎのように言っていました。

橋本 (略)近現代の日本で、初めて貧困であるが故に結婚して家族を構成して子どもを産み育てることができないという、構造的な位置に置かれた人が数百万単位で出現した事実は非常に重いです。
 しかも、上の世代がまだ50歳ですから、あと20年くらい働き続けるかもしれない。その下の世代まで含めると、最終的にはアンダークラスが1000万人を超えると思っています。そのとき、よくやく一番上の人が70歳になり生活保護を受けるようになって、定常状態に達するというのが私が予想する近未来の日本です。
(河野龍太郎氏との対談「再分配の機能不全で”日本沈没”」)


一方で、富が偏在している現状があります。

 野村総合研究所の推計によると、家計のもつ金融資産総額は一四〇二兆円である。しかしこの分布は著しく偏っており、五億円以上をもつ七・三万世帯の超富裕層が七五兆円、一億円以上五億円未満の一一四・四万世帯の富裕層が一九七兆円、五〇〇〇万円以上一億円未満の準富裕層三一四・九万世帯が二四五兆円の金融資産を所有している。合計四三六・六万世帯、全体の八・三%を占めるに過ぎないこれらの世帯の金融資産が、五一七兆円、全体の三六・九%を占めるのである(野村総合研究所「日本の富裕層は一二二万世帯、純金融資産総額は二七二兆円」)。
『新・日本の階級社会』


橋本氏は、この格差を縮小する方法として、階級そのものをなくす社会主義革命は「ひとまず措」くと書いていました。そして、政策的に実現可能な方法として、①賃金格差の縮小、②所得の再分配、③所得格差を生む原因の解消をあげていました。そのためには「リベラル派の結集」が必要なのだと。

なんだか竜頭蛇尾のような話で興ざめせざるを得ません。「リベラル派」って何?と突っ込みを入れたくなりました。社会の構造を根本から変えない限り、格差が解消できないのは論を待たないでしょう。

もっとも、橋本氏も、『現代の理論』(ウェブ版)の論考においては、ルンペンプロレタリアートによる革命(竹中労の言う「窮民革命」)を主張する永山則夫の「驚産党宣言」を引き合いに出して、つぎのように書いていました。

現代の理論(第15号)
「新しい階級社会」とアンダークラス

 アンダークラスの絶望は、しばしば犯罪として噴出する。アンダークラスの全体が犯罪予備軍であるかのような偏見は、慎まなければならない。しかし秋葉原大量殺傷事件を思い出すまでもなく、無差別殺傷事件、サイバー犯罪、振り込め詐欺、野宿者襲撃などで逮捕された若者たちの多くが無職や非正規労働者である。切羽詰まったあげくに、犯罪へと追いやられやすい若者たちが、ある程度の数いるのは否定できまい。

 永山則夫は獄中から、ルンペンプロレタリアートたちに「地下生活者の魂を発起し(原文のまま)、あくまでも地下組織を通じてドブネズミの如く都市を動揺せしめよ。……。強盗よし、暗殺よし、敵権力機構の破壊よし、あらゆる手段・方法を自由に用いて闘わなければならない」と呼びかけた。それが現実のものになっているのかもしれないのである。


犯罪もまた、ある種の”大衆叛乱”と言えなくもないのです。水野和夫氏は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)のなかで、グローバリゼーションにとっては、資本が主人で国家は使用人のようなものだ、と書いていましたが、実体経済の数倍の200兆円とも300兆円とも言われるバーチャルなマネーが、金融工学で編み出されたシステムを使い、瞬時の利益を求めて日々世界中を徘徊している金融資本主義にとって、たしかに国民国家なんて足手まといでしかないのかもしれません。株式市場がマネーゲームの賭場と化し、実体経済とかけ離れたものになっているというのは、誰しもが認める現実でしょう。私は、その話を聞いたとき、「資本主義の臨界点としての社会主義」(鷲田小彌太氏)ということばを思い浮かべました。

社会主義や革命なんて、もはや終わった歴史のように考えがちですが、一方で、このようなあらたな階級社会が出現している現実を考えると、(それが悪魔のささやきであることはわかっていても)社会主義や革命の”理想”がよみがえってくるような気がするのでした。


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2018.05.07 Mon l 社会・メディア l top ▲
27日に板門店でおこなわれた文在寅韓国大統領と金正恩朝鮮労働党委員長による南北首脳会談は、「予想」をも裏切るほど画期的なものでした。まさに「歴史的」な会談になったと言ってもいいでしょう。一連の流れが中国(あるいは中朝)主導でおこなわれ、韓国にアメリカとの橋渡しを要請したのは中朝のほうだ、という話は本当ではないかと思いました。いづれにしても、北朝鮮の”本気度”をひしひしと感じました。

同日に発表された「板門店宣言」は、つぎのように謳っています。

The Korean Politics(コリアン・ポリティクス)
[全訳] 「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」【2018南北首脳会談】

3.南と北は朝鮮半島の恒久的で強固な平和体制構築のために積極的に協力していく。

朝鮮半島での非正常的な現在の停戦状態を終息させ、確固とした平和体制を樹立することは、これ以上、先延ばしすることができない歴史的な課題だ。

(1)南と北はいかなる形態の武力も互いに使わないという不可侵合意を再確認し、これを厳格に遵守する。

(2)南と北は軍事的な緊張が解消し、互いの軍事的な信頼が実質的に構築されることにより、段階的に軍縮を実現していくことにした。

(3)南と北は停戦協定締結から65年になる今年に、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制の構築のための南北米3者、南北米中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした。

(4)南と北は、完全な非核化を通じ、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した。

南と北は、北側が行っている主動的な措置が朝鮮半島の非核化のために大きな意義を持ち、重大な措置だという認識を共にし、今後、各々が自己の責任と役割を果たすことにした。

南と北は朝鮮半島の非核化のため、国際社会の支持と協力のために積極的に努力することにした。


当事国の国民ならずとも(同じ東アジアに生きる人間として)、感動を覚える宣言です。

同時に、戦争を回避するために、政治生命を賭けて北朝鮮とアメリカの橋渡しをおこなった文在寅と、排外主義的な「愛国」主義を掲げ、旧宗主国の尊大な態度でネトウヨ的言動をまき散らす安倍や麻生を対比すると、政治家の器の違い、それも大人と子どもほどの違いを痛感させられるのでした。同じ対米従属でも、「愛国」者としての矜持に雲泥の差があるのです。ここにも、「愛国」と「売国」が逆さまになったこの国の戦後の”背理”が示されているように思えてなりません。「愛国心という言葉は嫌いだ」と言った三島由紀夫ではないですが、私たちはまず、この国の「愛国」者こそ疑わなければならないのかもしれません。彼らはホントに「愛国」者なのかと。

韓国の大統領府によれば、金正恩は会談の席上、「『いつでも日本と対話を行う用意がある』と述べた」そうです。

TXNNEWS(テレビ東京)
金正恩氏、日朝対話に意欲表明

これに対し、安倍総理は、「日本も北朝鮮と対話する機会を設け、必要ならば文大統領に助けを求める」と表明し、文在寅も日朝間の対話の橋渡しを「喜んで引き受ける」と述べたそうです。また、安倍総理は、文在寅が会談の席で拉致問題を提起したことに対して、「文大統領の誠意に感謝申し上げたい」と述べたのだとか。

昨日まで、嫌中憎韓を煽っていた「宰相A」が、韓国の大統領に「助けを求める」とは開いた口が塞がりません。これがこの国の「愛国」者なのです。

何度も言っているように、私たちは、民主党→民進党→立憲民主党(+国民民主党)が野党第一党である不幸と同時に、安倍晋三や麻生太郎のような「幼稚な老人」がこの国の指導者である不幸も、併せて痛感せざるを得ないのです。

しかし、それは政治家だけではありません。

私は、首脳会談の中継をテレビ朝日の「ワイド!スクランブル」で観ましたが、スタジオには、辺真一、金恵京、末延吉正、鈴木琢磨、デーブ・スペクターがコメンテーターとして出演していました。

辺真一は、「コリア・レポート」の発行人で、朝鮮問題の専門家。金恵京は、日本大学危機管理学部准教授。末延吉正は、元テレビ朝日政治部部長で現在は東海大学教授。安倍晋三とは同郷で親しく、ブレーンのひとりと言われています。鈴木琢磨は、毎日新聞の編集委員(元『サンデー毎日』記者)で、やはり北朝鮮問題の専門家です。

画面は、板門店の軍事境界線を挟んで両首脳が握手をしているシーンを中継していました。そして、金正恩がまず軍事境界線を跨いで南側に行き、それから金正恩が文在寅を誘って、二人で手を取りながら、今度は北の方に跨いで行ったのでした。

そのとき、鈴木琢磨や辺真一は、我が意を得たとばかりに、「これは北朝鮮の演出ですよ」と興奮気味に言ってました。このシーンが、偉大な首領様が南の指導者を北側に呼び寄せたということになり、北の国民向けのプロパガンダに使われるのだと。そのために、金正恩が文在寅を誘って北側に軍事境界線を跨がせたのだと。文在寅が北側に行った際、金正恩が両手を重ねて文在寅と握手をしていたシーンに、辺真一は、「手を重ねるのは迎える側の礼儀だから、国内向けにわざとそうしているのだ」というような解説まで加えていました。

しかし、翌日の朝鮮中央テレビでは、なんのことはない、軍事境界線を挟んだ一連の行為がノーカットで放送されたのでした。彼らが言うように、北側で両手を重ねて握手するシーンだけが放送されたわけではなく、朝鮮中央テレビになんの演出もなかったのです。

こういったところにも、北朝鮮問題の「専門家」や「識者」のお粗末さがよく表れています。彼らは、北朝鮮について、非情・横暴・嘘八百の独裁国家というありきたりな認識しかなく、「専門家」ズラしながら、近所のおっさんでも言えるようなことをただ言っているだけです。金正恩には深謀遠慮があるから信用できないと言いますが、外交交渉に深謀遠慮があるのは当たり前でしょう。金正恩だけでなく、文在寅にもトランプにも深慮遠謀はあるでしょう。

「核放棄」は金王朝を守るためためなどという論評も、独裁国家という一面しか見てないように思います。アメリカが主張する「完全な非核化」は、田中宇氏が言うように、イラクの「大量破壊兵器」やイランの「核合意」やシリアの「化学兵器」や、あるいは「リビア方式」と呼ばれるリビアの「核廃棄」の例をあげるまでもなく、ともすれば国を潰すための「永遠の濡れ衣」になりかねないのです。それがアメリカの深慮遠謀です。だからこそ、よけい「体制保証」に固執せざるを得ないのでしょう。「体制保証」=金王朝を守るためというのは(その一面はあるにしても)、あまりにも短絡的な見方と言わざるを得ません。それに、金正恩だって、空腹に喘ぐ国民に少しでも食料を配給したいという為政者の顔も当然もっているでしょう。

言うまでもなく、朝鮮戦争は今だ休戦状態にあり、しかも、北朝鮮にとって、戦争終結の交渉相手は韓国ではなくアメリカ(国連軍)です。戦争によって分断された小国が、国家の存亡を賭け、超大国相手に外交戦をおこなわなければならない(ならなかった)のです。それを考えれば、「瀬戸際外交」にも”三分の理”はある(あった)と言えるでしょう。

「核放棄」の問題も、どうして大国が核をもつことは許され、小国が核をもつことは許されないのかという、誰しもが抱く(はずの)素朴な疑問もあって然るべきでしょう。どうして大国の核は「正義」で、小国の核は「悪」なのか。小国が核をもつと、「ならず者国家」と言われるのか。

トランプが”大審問官”のように「正義」を体現して、北朝鮮の「非核化」を裁可し、北朝鮮の国家の命運を決めるというのは、どう考えてもおかしな話です(だから、北朝鮮は中国やロシアに、「体制保証」の後ろ盾になってもらうことを求めたのでしょう)。このように、日本のメディアでは、”裸の王様”がいつの間にか”大審問官”になっているのです。

もうひとつ忘れてはならないのは、独裁国家の中枢における”開明派”の存在です。今回の南北首脳会談で、その存在がはっきりしたことです。彼らは文字通り命を賭けて独裁者に進言したはずです。その際、金正恩が永世中立国のスイスに留学し、少年時代の多感な時期に、”西側”の教育を受けていたということも無視するわけにはいかないでしょう。

しかし、この国の「専門家」や「識者」たちは、国交がなく言いたい放題のことが言えるのをいいことに、「血も涙もない」独裁者を誹謗し、そう印象操作することしか念頭にないかのようです。これでは、櫻井よしこの後釜を狙う三浦瑠麗のスリーパーセル発言や当日もやらかしたデーブ・スペクターのトンチンカンな発言を誰も笑えないでしょう。ガナルカナル・タカや立川志らくの木を見て森を見ない痴呆的なコメントと、たいして違いはないのです。

要するに、「専門家」や「識者」たちは、日本政府の”敵視政策”の枠内で、(「ならず者国家」という)予定調和の発言をしているにすぎないのです。だから、いつもあのように、上から目線なのでしょう。「板門店宣言」についても、日本のメディアはおしなべて懐疑的冷笑的で、朝日から産経まで大きな違いはありません。旧宗主国のバイアスがかかった夜郎自大な国のメディアでは所詮、朝鮮半島の「新しい流れ」を理解することはできないのかもしれません。蚊帳の外に置かれているのは、政府だけでなく、メディアも同じなのです。
2018.04.29 Sun l 社会・メディア l top ▲
安倍政権にとって、「北朝鮮の脅威」は神風ならぬ「北風」と言われているそうです。北朝鮮がミサイルを発射すると、まるで空襲警報のようにJアラートが鳴り響き、メディアは戦争前夜のようにセンセーショナルに報道します。すると、支持率が下落した安倍政権は、待ってましたとばかりに「北朝鮮の脅威」を煽り、再び支持率を回復してきたのです。それを「北風が吹いた」と言うのだとか。

その典型が昨年10月の衆議院選挙でした。安倍政権は、野党(民進党)の”敵失”があったとは言え、「逼迫」する北朝鮮情勢を前面に出し、この選挙は「国難突破」の選挙だとアピールして、自公で憲法改正の発議に必要な三分の二を超える313議席を獲得、大勝したのでした。

また、野党も、「北朝鮮情勢が逼迫しているときに選挙などしている場合か」などというもの言いに終始し、結果的に「国難」を共有したのでした。

それから半年。明後日(27日)、板門店で開かれる南北首脳会談では、朝鮮戦争の「終戦」を確認する平和宣言が出される見通しで、その最終調整がおこなわれているそうです。今回は、北朝鮮も核開発を凍結する姿勢を見せており、南北融和の”本気度”を感じてなりません。

となると、あの「国難」って一体なんだったのかと思わざるを得ません。「国難」だと大騒ぎして、気が付いたら、日本は蚊帳の外に置かれていたのです。安倍政権の「最重要課題」である拉致問題も、トランプや文在寅にお願いするしかないようなあり様です。

ところが、ここに至ってもなお、日本政府は、「非核化が約束されてない」「それまでは最大限の圧力をかけつづけるべきだ」、とまるで負け犬の遠吠えのように「圧力」を強調し、融和ムードに水を差すことに躍起となっています。メディアも(特に産経新聞などは)、そんな政府に歩調を合わせ、非核化の履行を巡り米朝が決裂する可能性もあるかのような(そうなることを願っているような)、ヨタ記事を流しています。これが「国難」のあられもない姿です。

田中宇氏が言うように、「完全な非核化」なんて口先だけで、誰もそんなことを期待してないのでしょう。韓国もアメリカも中国もロシアも、「北朝鮮が核を持ったままの恒久和平」という現実的な和解の道を模索しているというのは、その通りなのでしょう。要は「核保有」(=戦争)と「恒久和平」(=平和)のどちらに重きを置くかで、それを判断するのが政治でしょう。もとより私たちにとっても、(ファシストやネトウヨではない限り)戦争を挑発する政治より、平和を希求する政治のほうがいいに決まっているのです。

田中宇の国際ニュース解説
北朝鮮が核を持ったまま恒久和平(有料配信)

一方、日本政府は、拉致問題においても、他力本願で米韓にお願いし、あとは「圧力」をかけつづければ北朝鮮がひれ伏して拉致被害者を差し出してくるなどと主張して、傍観するだけです。拉致したのは北朝鮮なんだから、そうするのが当然だとでも言いたげですが、無為無策を荒唐無稽な”原則論”で誤魔化しているだけです。そのくせ外務省は、両首脳が座る椅子の背や食後に出されるデザートのチョコレートに描かれた朝鮮半島の絵に、竹島が含まれていることを取り上げて、韓国政府に抗議したのだそうです。外務官僚たちは、よほど目を凝らしてテレビの画面をチェックしていたのでしょう。もしかしたら、虫眼鏡でも使っていたのかもしれません。

何度も言っているように、世界は間違いなく多極化するのです。朝鮮半島の緊張緩和もその流れのなかにあり、東アジアの覇権が中国に移るのは間違いないのです。ただ、そのなかに、(表向きには”非核化”だが、実際には)「核を保有する」北朝鮮が入ってくることの意味は、想像以上に大きいと言えるでしょう。だからこそ、「恒久和平」の道をさぐり、あらたな秩序を構築する必要があるわけで、そういった関係国の平和外交の真価が問われているのだと思います。しかし、東アジアの旧宗主国の夜郎自大な国は、メディアも含めて、硬直した敵視政策から抜け出せずに、ひとり茶々を入れ流れに棹差すだけです。これでは蚊帳の外に置かれるのも当然でしょう。


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2018.04.25 Wed l 社会・メディア l top ▲
さる16日の夜、民進党の小西洋之参院議員が、国会近くの路上で、防衛省統合幕僚監部の三等空佐から「お前は国民の敵だ」と暴言を浴びせられた問題について、東京新聞は社説でつぎのように書いていました。

このニュースを聞いて、戦前・戦中の旧日本軍の横暴を思い浮かべた人も多かったのではないか。

 一九三八年、衆院での国家総動員法案の審議中、説明に立った佐藤賢了陸軍中佐(当時)が、発言の中止を求める議員に「黙っておれ」と一喝した事件は代表例だ。

 佐藤中佐は発言を取り消したものの、軍部は政治への関与を徐々に強め、やがて軍部独裁の下、破滅的な戦争へと突入する。


東京新聞・社説(東京新聞TOKYO Web)
幹部自衛官暴言 旧軍の横暴想起させる

これは、シビリアンコントロールという民主国家のイロハから言っても、とうてい看過できない問題でしょう。田母神の例をあげるまでもなく、自衛隊内部でも、既にネトウヨ思想が蔓延している証左と言えるのかもしれません。

一方、つぎの画像は、この事件を伝えたYahoo!トピックスのコメント欄のスクリーンショットです。

Yahoo!ニュース
「お前は国民の敵だ」 現役幹部自衛官が野党議員に暴言

自衛官暴言ヤフコメ1
自衛官暴言ヤフコメ2

まさに水は低いほうに流れるを地で行くようなコメントのオンパレードです。シビリアンコントロールなんてことばも、彼らには馬の耳に念仏なのでしょう。政治関連のニュースのコメント欄には、排外主義的な主張をしている某カルト宗教の信者たちが常駐していると言われていますが、これでは、Yahoo!ニュースはカルト宗教の信者たちを使って記事をマネタイズしている、と言われても仕方ないでしょう。誰であれ、記事がバズれば、その何倍にもなってアクセスが返ってくるからです。Yahoo!ニュースの政治関連の記事に、ネトウヨと親和性が高い産経新聞の記事が多いのも、それゆえでしょう。

Yahoo!ニュースは、いつまでこのようなコメント欄を放置しつづけるつもりなのでしょうか。記事を書いた記者たちに対してこれほどの侮辱はないでしょう。それは、ジャーナリズムに対する侮辱でもあります。私は、新聞やテレビがYahoo!への配信をやめればいいのに、とさえ思います。前も書きましたが、Yahoo!ニュースの編集者には、新聞社からの転職組も多いのですが、ジャーナリズムをどのように考えているのか、彼らに問いただしたい気がします。

『サイゾー』の今月号(5月号)に掲載されていたウェブ編集者と雑誌編集者の匿名座談会によれば、同じYahoo!JAPAN系列のニュースサイト・BUZZFeed(Japan)は、高給をエサに新聞社などから若手の記者を引き抜いている一方で、社員の流出も止まらないそうです。たしかに、BUZZFeedを見ると、ニュースサイトを謳いながら、まるでテレビのワイドショーみたいに、YouTubeやInstagramなどから拾ってきた動画や写真を面白おかしく紹介したり、コンビニのコスメが「神」だとか、どこどこのお菓子が「無敵」だとか、そんな記事ばかりが目に付きます。また、犬猫の動画や身近な素材をテーマにしたクイズや性格診断は、もはや定番になっています。そうやってなりふり構わずアクセスを稼ぐことを強いられているのかもしれません。

先日も、ソフトバンクの939億円の所得逃れ(申告漏れ)のニュースがありましたが、たしかに”ネットの守銭奴”のもとでニュースサイトを運営する苦労もわからないでもありません。しかし、だからといって、ネトウヨやカルト宗教の信者に魂を売ってどうするんだと言いたいのです。そうやってニュースを台無しにしているという認識はないのかと思います。

これも既出ですが、藤代裕之氏も、『ネットメディア覇権戦争』のなかで、コメント欄にいくら問題があっても、Yahoo!は閉鎖する気なんてなく、「理由は単純で、コメント欄がアクセスを稼いでいるから」だと書いていました。

再度、同書のなかから、Yahoo!ニュースに対する、まさに箴言と言うべき藤代氏の批判を引用しておきます。

言論に責任を持たず、社会を惑わす企業は、ニセモノのメディアに過ぎない。


 組織的にリスクを回避する仕組みがなく、体制も整わない中で、新聞記者に憧れたトップがいくら旗を振っても、ニセモノのジャーナリズムは本物にならない。



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2018.04.21 Sat l ネット l top ▲
日本テレビ系のNNNの最新世論調査によれば、安倍内閣の支持率は、とうとう“危険水域”と呼ばれる30%を切って26.7%にまで下落したそうです。

livedoor NEWS
内閣支持率26.7%“発足以来”最低に

また、朝日新聞がこの週末におこなった世論調査でも、安倍政権の支持率は“危険水域”目前の31%に「低迷」しているそうです。

朝日新聞デジタル
安倍内閣支持、低迷31% 不支持52% 朝日世論調査

安倍政権もいよいよ断末魔を迎えつつあるのかもしれません。

安倍総理と麻生副総理には、幼い頃乳母がいたそうですが、なんの苦労もせずに、小さい頃からおだてられて年を取ると、あんな不遜だけが取り柄のような「幼稚な老人」になるんだろうなとしみじみ思います。彼らは、漢字が読めないだけでなく、おそろしく世間や人間のことも知らないのでしょう。そして、そんな自分を対象化することもないのでしょう。

そんな「幼稚な老人」がこの国の最高権力者として権勢を振い、官僚を平伏させ、国のかじ取りをしているのですから、おぞましいとか言いようがありません。しかも、彼らは「愛国」者を自認しているのです。

しかし、それでもなお、私は、顰蹙を買うのを承知の上で、二人の「幼稚な老人」に対して、塚本幼稚園の園児たちと同じように、「安倍ガンバレ!」「麻生ガンバレ!」と言いたい気持があります。そう易々とやめてもらっては困るのです。もっと悪あがきをしてもらいたいのです。

世論調査を見ると、安倍内閣の支持率は下落しているものの、かと言って野党の支持率が伸びているわけではありません。すべての野党の支持率を足しても自民党一党の支持率に及ばない、いわゆる「一強多弱」の状態であることには変わりはないのです。「安倍やめろ!」と言っても、安倍がやめたら、自衛隊を「国防軍」に格上げすることを主張する石破内閣(?)が生まれるだけでしょう。

これでは、ソ連が崩壊して喜んだのもつかの間、今度はプーチンの独裁政権にとって代わられたのと同じです。ソ連共産党であれ、統一ロシアであれ、全体主義に身を委ねるロシア国民の意識は変わってないのです。

森友文書の改ざんやPKOの日報隠蔽は、なにも中央の高級官僚や自衛隊の幹部だけの問題ではないでしょう。たしかに、人事権を官邸に握られた高級官僚たちが、ときの政権に忖度したという側面はあるのかもしれません。しかし、その根底には、「存在が意識を決定する」(マルクス)ではないのですが、国家を食い物にし国民を見下す公務員の思い上がった意識があまねく伏在しているのは間違いないでしょう。

先日、田舎に帰ったら、田舎の病院の事務長に役場の職員が天下りしていたのでびっくりしました。昔はそんなことはありませんでした。聞けば、事務長の席は退職する職員の指定席になっているそうです。当の役場の職員たちは、「これは天下りではなく、ただの再就職だ。天下りというのは、中央の官僚が関連団体に就職を斡旋されることを言うので、自分たちは違う」と嘯いていました。このように天下りも、今や市町村の職員にまで常態化しているのです。財務省の事務次官のセクハラ問題にしても、公務員の驕りをひしひしと感じます。驕っているのは、政治家だけではないのです。

要は、国民=有権者=納税者がいいようになめられているからでしょう。しかし、街頭インタビューなどを見ても、多くの国民が言っていることは、テレビのワイドショーが言っていることのオウム返しにすぎません。これではなめられるのも当然でしょう。

たしかに政治は、個々人の生活や人生にとって二義的なものです。彼らに高い政治意識をもつべきだと言っても、政治党派の党員ではないのですから、それは無理な相談でしょう。吉本隆明が言うように、私たちにとって「政治なんてない」のです。政治なんてどうだっていいのです。

ハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』のなかで、ナチズムの時代を振り返り、「政治的に中立の立場をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」「アトム化」した大衆が、不況や戦争で生活や人生が脅かされると、一転して全体主義運動に組織される政治の怖さを指摘したのですが、しかし、哀しいかな、そういった政治の怖さを経験しないと骨身に染みないのも大衆なのです。

だからこそ(と言うべきか)、「幼稚な老人」が偉そうにふんぞり返り、支持率が”危険水域”に入るような内閣は、国民=有権者=納税者にとって、これ以上ない”反面教師”と言えるでしょう。安部政権によって「政治の底がぬけた」と言った人がいましたが、「政治の底がぬけた」おかげで、国家を食い物にするこの国の政治の構造が私たちの目にも見えるようになったのです。この手の政治に対しては、無用な希望をもつより、絶望するほうがまだしも”健全”と言えるでしょう。なによりこんな「幼稚な老人」を支持し、彼らをふんぞり返らせたのは、私たち国民なのです。国民はみずからの民度に合わせた政治家を選ぶ、と言われますが、今になって他人事のように迷惑がるのはおかしいでしょう。


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2018.04.15 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、Yahoo!トピックスに、『女性セブン』が2014年に掲載した安室奈美恵に関する記事について、発行元の小学館が「お詫び」を掲載したという日刊スポーツの記事がアップされていました。

Yahoo!ニュース
安室洗脳記事 女性セブン謝罪

また、朝日新聞デジタルも、同様の記事を掲載していました。

朝日新聞デジタル
女性セブン、安室さん記事でお詫び 男女関係報道など

ちなみに、日刊スポーツは朝日新聞系列のスポーツ紙です。

『女性セブン』は、安室の事務所から事実無根と訴えられていたそうで、おそらく、引退を間近に控え、両者でなんらかの”手打ち”がおこわれたのでしょう。

手前味噌ですが、”洗脳記事”が出た当時、私は、このブログにつぎのような記事を書きました。

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※一部リンク切れあり

芸能人が独立すると、見せしめのために、人格を否定するようなスキャンダルが流されるのはよくある話です。女性週刊誌やスポーツ紙などの芸能マスコミがそのお先棒を担ぎ、さらに、ワイドショーがそれを追いかけて、テレビからも締め出しを食うのです。そうやって独立した芸能人は兵糧攻めに遭うのです。それが怖い怖い芸能界のオキテです。

何度も言いますが、そうやって芸能マスコミやテレビ局が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。

今回、小学館は彼女の引退ビジネスに乗り遅れるのを懸念して、頭を下げたということなのでしょう。小学館は、児童書を手掛ける一方で、『SAPIO』などでもひどいヘイト記事を垂れ流しており、お金のためなら悪魔にでも平気で心を売る出版社です。

私は、件のねつ造記事に関わった記者や編集者(編集長)を、芸能マスコミから永久追放するくらいのきびしい処分が必要ではないかと思いますが、もちろん、彼らは口を拭い、これからも悪徳プロダクションと結託して、ねつ造記事を流しつづけるのでしょう。

一方、”洗脳記事”をなんの見識もなく掲載し、アクセスを稼ぐためにコメント欄に常駐する「バカと暇人」(中川淳一郎)を煽ったYahoo!ニュースは、相変わらず他人事です。しかし、そうやってねつ造記事をマネタイズするYahoo!ニュースも同罪であることは言うまでもありません。


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2018.04.13 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
代表戦しか観ない俄かサッカーファンの私でさえ、ワールドカップ本戦を目前にしたハリル解任には、違和感を禁じ得ませんでした。

ハリルの戦術(あるいは性格?)に問題があったとは言え、この時期に監督を入れ替えて、ホントにワールドカップ本戦に効果があると思っているのでしょうか。どう考えても、混乱や戸惑いしかもたらさないように思います。

日本代表の低迷は、なにも今にはじまったことではないのです。低迷の原因は、ときの代表監督の戦術だけにあるのではないのです。それはむしろ些末な問題です。どんな優秀なドライバーでも、車のエンジンが貧弱ではレースに勝てないのです。杉山茂樹氏は、ハリルホジッチのサッカーは「サッカーの質が悪い」と言ってましたが、それは監督の問題ではなく選手の問題でしょう。

日本代表の低迷の原因は、スポンサーの関係で海外に移籍する選手は多いものの、実際に世界に通用する選手が少ない、そういった選手が育ってないということでしょう。それは、日本のサッカー文化や選手の育成の問題です。強いて言うならば日本サッカー協会の問題でしょう。

直近のベルギー遠征の結果に危機感を抱いたと言ってますが、それは、日本代表の”真の実力”が見えたにすぎないのです。まるでボクシングの「咬ませ犬」のような海外のチームをホームに招待しておこなわれる、スポンサー主催の親善試合だけでは”真の実力”ははかれないのです。ハリル自身がこの時期の海外遠征を切望したと言われていますが、そうやって日本代表の”真の実力”を知る必要を感じたからでしょう。

セルジオ越後氏は、西野監督になったら通訳が必要ないので、選手とのコミュニケーションもよくなるだろうと言ってましたが、もしそれが本当ならあまりにレベルの低い話で呆れるばかりです。選手の意見を聞かないハリルの独裁的な姿勢が、選手との信頼関係を損なったなどという報道がありますが、ナショナルチームはサッカー同好会ではないのです。常にきびしい結果を求められる代表チームの指揮官が、妥協を排し独裁的にならざるを得ないのは当然でしょう。それに、出場機会の減った選手が不平不満を漏らすのは、スポーツの世界ではよくある話です。一方で、香川や岡崎や本田などスター選手の起用法をめぐって、スポンサーの不評を買っていたという話もあります。解任の本当の理由は案外、そのへんにあるのかもしれません。

代表監督の交代劇のたびに、協会の任命責任や協会内部の派閥の問題が指摘されていますが、協会の役員たちは責任を取らず、いつも現場に責任を押し付けるだけです。

不都合の責任を外国人監督ひとりに押し付けるだけの日本サッカー。そんな協会を忖度するだけのスポーツメディア。なんと夜郎自大な国の夜郎自大な対応なんだろうと思います。そうやって日本サッカーの”真の実力”という現実から、いつまでも目を背けつづけるつもりなのでしょう。


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2018.04.09 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ビートたけしの“独立騒動”に関して、リテラが『噂の真相』の記事を引用して、さらにつぎのような記事をアップしていました。

リテラ
愛人問題を森社長の責任にスリカエ、たけし軍団の声明文がネグるオフィス北野“株問題”の真相とたけしのタブー

たけし軍団の声明文に書かれた「デタラメな主張」。水道橋博士は、「たけし軍団は徒弟制度の中にある。いわゆる芸能事務所と違う。師匠が言うことは絶対」とテレビで言ってましたが、だからと言って、デタラメを言っていいということにはならないはずです。

リテラが書いているように、たけしだけでなく軍団の古参メンバーも、たけしが太田プロから独立してオフィス北野を設立した経緯や、26年前(!)に森社長がオフィス北野の筆頭株主になった経緯などは当然知悉しているはずです。にもかかわらず、森社長が「裏切った」「いつの間にか筆頭株主になっていた」などと主張するのは、極めてタチが悪い言いがかりと言うべきでしょう。

また、オフィス北野の従業員の給与の問題やたけしが軍団のために持ち株を売却したという話も、彼らが言っていることは嘘ばかりだとか。そもそも愛人を「ビジネスパートナー」と呼んでいることからして、彼らの主張は眉に唾して聞く必要があるでしょう。それは、森友文書の改ざん問題で、改ざんを「書き換え」と呼んでいるのと同じようなものです。

まして、水道橋博士やガダルカナル・タカは、ワイドショーでコメンテーターを務めているのです。それを考えれば、悪い冗談だとしか思えません(たけしがニュース番組のキャスターを務めているのは、悪夢を見ているような話ですが)。

たけし軍団が今のお笑いの世界からズレており、お笑い芸人として終わっているのは誰の目にもあきらかです。たけしの後ろ盾を失ったら、芸能界で生き残るのは難しいでしょう。だから、あれほど必死なのかもしれません。

今回の”独立騒動”に対して、芸能マスコミは相変わらず及び腰です。たけしの番組のカラミもあるのでしょう、テレビのワイドショーも、たけしを”善人”あるいは“被害者”と見るスタンスを崩していません。たけしのいかがわしさを指摘する声は皆無なのです。

もっとも、たけしを登用している限り、テレビがたけしに肩入れするのは当然と言えば当然かもしれません。そのため、Yahoo!ニュースのコメント欄なども、テレビ報道を真に受けた情弱なコメントで溢れています。

私は、森昌行社長がたけしと決別して、北野映画の「影の監督」であったみずからの役割について”衝撃の告白”をすることを期待していますが、ただ、芸能界に跋扈する魑魅魍魎の存在を考えれば、それはとても無理な相談かもしれません。

何度も言いますが、芸能マスコミやテレビ局が、芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。今回の“独立騒動”でも、その一端が垣間見えているように思えてなりません。
2018.04.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
噂の真相2002年5月号


ビートたけしが「オフィス北野」から独立して、愛人と一緒に設立した新事務所に移籍するというニュースが話題になっています。ちなみに、(俄かに信じがたいけど)事務所名の「T.Nゴン」というのは、「T」がたけし、「N」が愛人の頭文字で、「ゴン」が二人の愛犬の名前だとか。もしこれが本当なら「色ボケ」と言われても仕方ないでしょう。

ただ、私が興味があるのは、たけしの「色ボケ」より、「世界の北野」などと言われた映画監督・北野武の虚像が、これでようやく白日のもとに暴かれるのではないかということです。

リテラも、今回の“独立騒動”に関して、下記のような記事を掲載していました。

リテラ
ビートたけし「恩人を切り捨て愛人と独立」の報い…“陰の共同監督”を切り捨てて北野映画は撮れるのか

リテラは、休刊した『噂の真相』の旧スタッフたちが中心になって運営されているそうですが、私が知る限り、かつて北野武の虚像を記事にしたのは『噂の真相』だけです。

それで、私は、本棚の奥から『噂の真相』のバッグナンバーを引っぱり出して、関連する記事を読み返してみました。たけしは、独立について、「軍団を含め、これまで背負ってきたものをいったん下ろしたい」と言ったそうですが、記事を読むと、そのことばの意味もなんとなくわかるような気がするのでした。

フライデー事件(1986年)以降、たけしのまわりでは右翼や闇社会の人間たちが見え隠れするようになりました。それは、芸能界復帰に関する右翼団体とのトラブルに、広域暴力団の組長に仲介を頼んだためと言われています。事件をきっかけに、太田プロから独立したのも、そのカラミだったそうです。1992年、新右翼の大物が参院選挙に出馬した際、たけしが横山やすしらとともに記者会見の席に座っていたのも、そういった裏事情があったからなのでしょう。しかし、その手の人間たちも徐々に離れていったと言います。

以下、長くなりますが、記事から引用します。

 愛娘、北野井子の売り出しの際、大物右翼の同席の記事が潰される一件があったように、『フライデー』事件以降、たけしの周辺には常に闇人脈が群がっていたのは周知の事実だろう。ところが、いまやその闇人脈でさえたけしから離れていっているのである。(略)
 こうした厳しい状況は、たけし本人が一番理解しているだろう。「映画を撮るために、テレビで金を稼いでいる」と虚勢をはるが、本音はわずらわしいテレビの仕事を離れ、映画に集中したいのではないか。
 だが、たけしはそれでもなおテレビから離れられないのだ。たけし軍団や前述した愛人たちの存在があるからである。
「今やオフィス北野は完全な映画製作会社で、芸能部門は放し飼いですからね。古株のダンカンやガナル・タカあたりはまだしも井出らっきょあたりは、まだまだたけしの庇護が無ければやっていけない。実際、食い詰めた大森うたえもんが独立したけどすぐに潰れてしまった。軍団を養っていくためにも、たけしは自分の番組を無くすわけにはいかないんだ」(前出・事務所関係者)
 そしてもうひとつ。最大の理由が、数々の愛人スキャンダルを乗り切ったことで、今や”マザコン”たけしの母親代わりとして確固たるポジションを得た幹子夫人の存在だ。
 たけしのギャラは、基本的にはオフィス北野からたけしの個人事務所である北野企画に支払われているが、この金は幹子夫人がいっさい管理しているという。(略)
 妻や弟子たち、さらに愛人たちへの責任をも背負い、どれだけ落ち目になったとしても、たけしはブラウン管でその醜態を晒し続けなければならない事情があるのだ。
(『噂の真相』2002年5月号・『フライデー』スクープで判明した北野武「権威」の残像と凋落との因果)


また、ほかの号では、北野映画について、つぎのような記事を掲載していました。北野映画では、「沈黙」や「無表情」が絶賛されると沈黙や無表情のシーンをやたら増やしたり、青色のトーンが「キタノ・ブルー」と評価を受けると、今度は青色を多用するようになったのだとか。もっとも「キタノ・ブルー」にしても、撮影監督の柳島克己氏が『ソナチネ』でたまたま「そういった色彩で撮っただけ」だそうです。

そして、北野映画において「影の監督」と言われたのが、オフィス北野の社長で、北野映画のプロデューサーを務めた森昌行氏なのです。

「もともとたけしさんは、映画監督としては信じられないくらい無責任な人で、ロケハンも自分はいかず他人まかせ。とくにプロデューサーの森さんにはオンブにダッコで、キャスティングやスタッフの選定も全部決めてもらっていた。今や北野映画に不可欠といわれている久石護の音楽だって、起用を決めたのはたけしさんじゃなく、森さんだしね。ただ、そんなたけしさんも、演出と編集だけは絶対に人に口をはさませなかったんです。(略)ところが、『HANA-BI』から、その演出と編集まで森さんに頼り、ほとんどいいなりになって作ったんです」(前出・元スタッフ)
 実際、『HANA-BI』における森の姿はまさに「影の監督」といってもいいものだった。撮影中はたけしにぴったり張りつき、ワンカット撮るたびにたけしとひそひそ話し合い、撮影が終わればラッシュを見て、たけしの相談に乗る――。(略)
 しかも、この傾向は作品を重ねるごとに強くなり、「BROTHER」にいたっては、撮影現場にたけしが不在で森がメガホンをとっている光景までが一部で目撃されている。
(『噂の真相2001年3月号・映画「BROTHER」』で絶賛された北野武の映画監督手腕と辛口両断!)


そうやって「世界の北野」が作られていったのです。

既出ですが、ビートたけしは、東日本大震災の前年、『新潮45』に掲載された電事連のパブ記事のなかで、つぎのように発言しています。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


これもまた、ビートたけしの虚像を表していると言えるでしょう。たけしがイタいのは、滑舌や笑いのセンスや事務所のネーミングだけでなく、その知性や見識においても然りなのです。芸能マスコミは、そんなたけしを持ち上げ、批判を封印し、タブー視していたのです。


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「官邸にキタノ」
水道橋博士
2018.03.31 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
このところ体調がすぐれず、ずっと寝てすごしていました。先日、病院に行ったら、また一つ薬が増えました。これで毎日4種類の薬を飲まなければなりません。

田舎に帰って高校時代の同級生と食事に行ったときのことです。食べ終えると、向かいの席の同級生は、やにわにカバンから「内服薬」と書かれた袋を出して、テーブルの上に薬を並べたのでした。私は、それを見て思わず苦笑しましたが、もちろん、私とて例外ではありません。私たちの年代になると、食後と就寝前の薬が日課になってくるのです。

年を取ってくると、身近なことに思い煩わされるようになります。所謂「大状況」より「小状況」が切実な問題になってくるのです。言うまでもなく、その先にあるのは「死」です。しかし、死に至るまでにも、身過ぎ世過ぎの苦悩はつづくのです。

体調がすぐれないと、ひどく弱気になっている自分がいます。深夜、ひとり湯船に浸かり、水滴のついた天井を見上げながら、無性に悲しい気持になることがあります。人生に対して後悔の念に襲われ、いたたまれない気持になるのです。「夜中、忽然として座す。無言にして空しく涕洟す」という森鴎外の気持が痛いほどわかるのです。

「ナマポ老人」などと自嘲しながら、本や政治などについて精力的に記事を書いていた高齢者のブロガーがいました。昨日、久しぶりにブログにアクセスしたら、昨年の11月から更新が途絶えていました。しかも、昨年は3本の記事しかアップされていません。本や政治などの発言はすっかり影を潜め、生活苦を訴える書き込みが並んでいるだけです。

低年金のために生活扶助を受けている人間は、「生活保護」ではなく「年金生活者(生活保護併用)」と呼ぶべきだと書いていました。「ナマポ老人」などという、世間の顰蹙をものともしないような“開き直り”も影を潜めていました。

吉本隆明が言うように、ホントに困ったら強盗でもなんでもするしかないのです。生活するのに切実な状況に陥ったら、本や政治などの話をしている余裕はなくなるのです。「大状況」なんて衣食足りた上での話です。

そう考えれば、森友文書改ざん問題に関する参院予算委員会の集中審議を見て、「自民党はどうして青山某や和田某のような下等物件(©竹中労)を質問に立たせたんだろう?」「自爆しようとしたのか?」などと憤慨したり呆れたりするのも、まだまだ若い証拠なのかもしれません。政治に悪態を吐いているうちが華かもしれないのです。


2018.03.20 Tue l 日常・その他 l top ▲
週刊ダイヤモンド7月26日号

アベ経済マフィア


上のイラストは、2014年、『週刊ダイヤモンド』(7月28日号)がアベノミクスを特集した際の、表紙と特集ページに掲載されていたイラストです。特集については、当時、私は下記のような感想を書きました。

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アベ経済マフィア

週刊ダイヤモンド』では「アベ“経済”マフィア」となっていましたが、今や政治までがマフィア化しているように思えてなりません。麻生太郎財務大臣は、12日に決裁文書の改ざんを認める会見をおこなった際、「佐川が」「佐川が」と佐川宣寿前理財局長の名前を何度も挙げ、改ざんは財務省及び佐川宣寿氏の責任だと強調する一方で、みずからは「進退を考えてない」と厚顔無恥に開き直ったのでした。

フジテレビの「グッディ!」で麻生氏の会見を取り上げた際、コメンテーターの長谷川聖子氏が麻生氏を「悪代官」とコメントしたことが話題になっていますが、当日、たまたま「グッディ!」を観ていた私も、「悪代官」は言い得て妙だなと感心したものです。そして、上のイラストを思い出したのでした。

安倍晋三氏には『美しい国へ』(文春新書)、麻生太郎氏には『とてつもない日本』(新潮新書)という著書があります。二人とも自他ともに認める「愛国」者で、「ニッポン凄い!」の元祖のような人物です。また、安倍氏は「云々」と「でんでん」、麻生氏は「有無」を「ゆうむ」と読み間違うなど、(「愛国」者のわりには)日本語に不自由なところもよく似ています。もちろん、二人ともおぼっちゃまの三世議員です。

安倍夫妻が疑惑を追及されても、「バカげた質問」とせせら笑ってやりすごす一方で、極右思想を共有しメール交換するほどの親しい関係にあった籠池夫妻は、大阪拘置所の「独居房」に半年以上も勾留され、接見や手紙のやり取りも禁止されているそうです。既に拘禁症状が出はじめているという話さえあります。口封じのために、精神に変調を来すまで勾留するつもりなのかもしれません。

財務省が決裁文書を改ざんしたのも、司法当局が籠池夫妻を長期勾留しているのも、安倍政権がマフィア化している証拠のように思えてなりません。

北朝鮮問題においても、韓国政府は米朝首脳会談をお膳立てして国際的に高く評価されています。一方、蚊帳の外に置かれた日本政府は、メディアを使って「会談なんて成功するはずがない」「トランプが騙されているだけだ」と負け惜しみを言うのが関の山です。経済だけでなく、政治までもが、韓国の後塵を拝するまでになっているのです。

報道によれば、米朝首脳会談では、朝鮮戦争の終戦宣言や休戦協定に代わる平和協定が議題に上る可能性さえあるそうです。ついこの前までの戦争前夜のような応酬を考えると、あまりの変わりように驚くばかりですが、これが外交というものなのでしょう。

拉致問題が置き去りにされることを怖れる日本政府は、会談前に安倍総理が訪米し、拉致問題を取り上げてもらうようトランプ大統領に懇願するそうです。しかし、日本政府は、昨日まで、圧力をかければ困窮した北朝鮮が拉致被害者を差し出してくるなどという荒唐無稽な強硬論をとっていたのです。しかも、被害者家族や世論の反発を恐れ、北朝鮮の調査報告書の受け取りも拒否しているのです。交渉の叩き台さえないのです。それでは、北朝鮮も「解決済み」の姿勢は変えず、交渉のテーブルに上がることはないでしょう。

こう見てくると、「ニッポン凄い!」の自演乙も、なんだか滑稽にすら思えてきます。この国のかじ取りをする二人のおぼっちゃま政治家の尊大な態度が示すように、日本自体がますます夜郎自大でトンチンカンな国になっているように思えてなりません。


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森友学園問題の思想的背景
薄っぺらな夫婦 青木理『安倍三代』
2018.03.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
ルポ川崎


磯部涼『ルポ川崎』(CYZO)を読んだ流れで、ヒップホップグループBAD HOPのドキュメンタリーをYouTubeで観ました。

YouTube
MADE IN KAWASAKI 工業地帯が生んだヒップホップクルー BAD HOP

もう20年以上前ですが、川崎の桜本にある病院にお見舞いに行ったことがありました。そのとき、ちょうどロビーで赤ちゃんを抱いた若い夫婦に遭遇しました。出産した妻が退院するので夫が迎えにきたみたいです。

ただ、二人はどう見てもまだ10代の少年少女でした。しかも、髪はアイパーを当て剃り込みを入れた、見るからにヤンキーといった感じでした。一緒に行った友人は、「ああいった光景はここらではめずらしくないよ」と言ってました。

お見舞いのあと、車を病院の駐車場に置いて、友人が「朝鮮部落」と呼ぶ桜本や池上町を歩きました。友人もまた在日朝鮮人で、実家は都外にあるのですが、桜本や、多摩川をはさんだ対岸の大田区に親戚がいると言ってました。親戚の多くは、もともと鉄くずなどの回収業や土建業をやっていたそうです。

大きな通りから一歩なかに入ると、粗末な造りの家が密集した一帯がありました。しかも、路上に車がずらりと停められているのです。なかには、廃車にされたまま打ち捨てられているのでしょう、原形をとどめないほどボロボロになった車もありました。友人は「みんな、違法駐車だよ」「車庫なんてないよ」と言ってました。

BAD HOPのドキュメンタリーを観ていたら、ふとそのときのことを思い出したのでした。

ドキュメンタリーのなかで、「いちばん好きなライムってありますか?」と質問されて、リーダーのYZERRが答えたのは、つぎのような「Stay」のライム(韻)です。

14でSmoke Weed
15で刺青
16で部屋住み


「部屋住み」というのは、ヤクザの事務所に住み込んで見習いになることです。

「Stay」のBarkのパートには、つぎのようなリリック(歌詞)があります。

オレの生まれた街 朝鮮人 ヤクザが多い
幼い少女がチャーリー 絶えぬレイプ、飛び降り
金のために子どもたちも売人か娼婦へ
生きるために子どもたち罪を犯す罪人かホームレス
こんなところで真面目なんて難しい
積み重なる空き巣に暴行、毎夜の悪さは普通だし
15の頃には数十人まとめて逮捕
それでも一度のことじゃないから反省ない態度
とって繰り返し 気づけば暗がり 切れないつながり黒いつながり
進路は極道かハスラー なるようになったお似合いのカップル
(『ルポ川崎』より転載)


「チャーリー」はコカイン、「ハスラー」はクスリの売人という意味のスラングです。

言うまでもなく、ヒップホップは、70年代にアメリカの黒人やヒスパニックなどマイノリティの社会で生まれたアンダーカルチャーで、人種差別や貧困や犯罪などが背景にあります。川崎の少年たちが、ヒップホップに惹かれていったのは当然でしょう。BAD HOPのラップが体現しているのは、彼らの実体験に基づいた不良文化です。そして、そこで歌われているのは、都市最深部の風景です。

桜本のコミュニティセンター「ふれあい館」の職員であり、みずからも在日コリアンである鈴木健は、“川崎的なるもの”という「ドツボの連鎖」から抜け出すためにも、「BAP HOPの存在は大きい」と言います。

「(略)だからこそ、成功してほしい。これまでも川崎からはラッパーは出てきていますけど、“川崎なるもの”にとらわれて挫折してしまった人もいる。BAD HOPが起こしたムーブメントが大きくなって、どこに行っても彼らにあこがれた子どもたちがラップをしているような現在、仮に彼らが挫折してしまったら、ダメージを受ける子どもたちは多いだろうから」
(同上)


それは、なによりBAD HOPのメンバー自身がわかっていることでしょう。小学生が「将来の夢」の欄に、「ヤクザ」と書くような環境。ヤクザになることが、「普通に育ったヤツが高校に行くのと同じ感覚」のような人生。ヤクザになれないヤツは、クスリの売人か職人になるしかない現実。「そこにもうひとつ、ラッパーという選択肢をつくれたかも」と彼らは言います。自分たちは、ラップによって変われたのだと。先の「Stay」のなかで、Barkもつぎのように歌っています。

この街抜け出すためなら欲望も殺すぜ
ガキの頃と変わらない仲間と目にするShinin
We Are BAD HOP ERA 今じゃドラッグより夢見る売人


また、下記の「Mobb Life」でも、成り上がることを夢見るほとばしるような心情が表現されていました。

掃き溜めからFly
この街抜け出し勝つ俺らが
まだまだ足りない
数えきれんほど手に札束
誰にも見れない
景色を拝みに行くここから
収まらないくらい
俺ら仲間達と稼ぐMoney


YouTube
BAD HOP / Mobb Life feat. YZERR, Benjazzy & T-Pablow (Official Video)

『ルポ川崎』では、川崎を標的にしたヘイト・デモに対してカウンター活動をおこなっているC.R.A.C.KAWASAKIなども取り上げられているのですが、著者は川崎の若者たちで交わされるつぎのようなジョークを紹介していました。

 川崎の若者たちと話していると、いわゆるエスニック・ジョークのようなものが盛んに飛び交う。
「お前の親は北朝鮮だろ?」
「ふざけんな、韓国だよ」
「北朝鮮っぽい顔しているんだけどな」
「どっちも同じようなもんだろ。なんなら日本人も」
 端で聞いているとぎょっとするが、そのポリティカル・コレクトネスなど知ったことではないというような遠慮のなさは、外国人市民との交流のなさから生まれる被害妄想めいたヘイトとは真逆のものである。


今、読んでいる桐野夏生の新作『路上のX』は渋谷が舞台ですが、やはり都市最深部の風景を描いた小説と言っていいでしょう。『ルポ川崎』のなかに、「自由は尊いが、同時に過酷だ」ということばがありましたが、けだし資本主義(社会)は自由だけど、同時に過酷なのです。都市最深部の風景が映し出しているのは、差別や貧困や犯罪と共棲する(せざるをえない)過酷な現実です。私はあらためて、リアルなのは右か左かではなく上か下かなのだと思いました。


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2018.03.10 Sat l 本・文芸 l top ▲
2018春節01


中華街の春節のイベントも、昨日(3月2日)が最終日で、夕方から媽祖廟で「元宵節燈籠祭」という奉納舞がおこなわれるというので、中華街に行きました。

しかし、行ってがっかりでした。媽祖廟は改装中で、入口の通路が工事の囲いで覆われていました。しかも、通路が見物客で溢れているため、中でおこなわれている奉納舞がまったく見えないのです。

もっとも中国の旧正月である春節は、2月15日~2月21日だそうです。「元宵節燈籠祭」も、観光用に引き伸ばされた春節のイベントのひとつにすぎないのでしょう。

「元宵節燈籠祭」の見学をあきらめ、江戸清で豚まんを買い、伊勢佐木町で蕎麦を食べて帰りました。

中華街は言わずもがなですが、伊勢佐木町も歩いていると、至るところから中国語が耳に飛び込んできます。若い中国人のチンピラも相変わらず目につきます。一方、隣の福富町に行くと、途端にコリアンの店が多くなるのです。これこそアジア的混沌と言うべきかもしれません。

前も書きましたが、横浜市立大卒で横浜の事情に通暁している馳星周あたりが、伊勢佐木町や福富町を舞台にしたピカレスク小説を書いたら、きっと面白いものが書けるのに、とあらためて思いました。


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2018.03.03 Sat l 横浜 l top ▲
昨日、ネットで、つぎのようなツイッターのつぶやきを目にしました。



まったく同感です。このブログでも書いたことがありますが、私も、えげつないヘイト本が本屋の平台を占領するようになって、本屋に行くのが嫌になり、前より足が遠のいています。

昔は本屋に行くのが楽しみでした。ワクワクしました。本屋で知らない本に出会うのが楽しみだったのです。本屋には知性がありました。こんな本があるよと教えてくれたのです。でも、今はそんな出会いは望むべくもありません。本屋大賞なんて片腹痛いのです。

ヘイトな発言で有名な某作家は、講演料が200万円だそうです。前も書きましたが、元ニュースキャスターの”ネトウヨの女神”も、港区の数億円とも言われる白亜の豪邸に住んでいるそうです。彼らは愛国者なんかではないのです。ただのヘイトビジネスの商売人にすぎないのです。貧すれば鈍する書店は、そんなヘイトビジネスに便乗しておこぼれを頂戴しようとしているのでしょう。

出版文化に対する気概も見識もない書店なんて潰れればいいのだと思います。潰れてもざまあみろと思うだけです。

それは、テレビも同じです。最近は、100円ショップの商品を海外に持って行って、外国人に「ニッポン、凄い!」と言わせる番組がありますが、日本の「凄さ」はそんなところにしかないのかと思うと、なんだか情けなくなります。しかも、それらの商品の多くは中国製なのですから、もはや笑えない冗談です。



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2018.02.28 Wed l 本・文芸 l top ▲
20日から2泊3日で、墓参りに九州に帰りました。

大分空港は、大分県の北東に位置する国東半島にあるのですが、空港に着くと、そのままレンタカーで国東半島の両子寺・文殊仙寺・富貴寺をまわりました。

いづれも国東半島を代表する天台宗の名刹です。国東半島の仏教文化については、下記のウィキペディアにわかりやすく書いています。

ウィキペディア
国東半島

奈良時代から平安時代にかけて、仏教(天台宗)に宇佐八幡の八幡信仰(神道)を取り入れた「六郷満山」と呼ばれる仏教文化が形成され、山岳地域の険しい山道を歩く「峰入り」と呼ばれる難行が行われるようになった。「六郷」とは、来縄(くなわ、現・豊後高田市)・田染(たしぶ、豊後高田市)・伊美(いみ、国東市国見町)・国東(国東市国東町)・安岐(あき、国東市安岐町)・武蔵(むさし、国東市武蔵町)の6つの地域を指しているといわれる。


両子寺は国東市安岐町両子、文殊仙寺は国東市国東町大恩寺、富貴寺は豊後高田市田染蕗にあります。

ウィキペディアに書いているとおり、「六郷満山」は、当時、荘園領主として権勢を誇った宇佐神宮の影響を受け、仏教と神道が習合したこの地域特有の宗教文化です。そのため、お寺のなかに鳥居があったり、お寺が「商売繁盛」や「安産祈願」のお札を売っていたりしているのです。それは、とても奇妙な光景でした。

2月の平日でしたので訪れる人も少なくて、それがかえってお寺巡りを印象深いものにしてくれました。ナビに従って車を走らせると、途中離合する(九州の方言で「車がすれ違う」の意)のも難儀するような山奥の道を行ったり来たりしました。でも、そうやって山道を走るのも、なんだかなつかしい気がするのでした。

二日目は、熊本県境に近い生まれ故郷の菩提寺に行きました。

初日も富貴寺の前にある食堂で、大分名物のだんご汁を食べたのですが、二日目も墓参りに行く途中、山間の県道沿いにある食堂で、だんご汁を食べました。その食堂は、近所のおばさんたちが共同で営む、文字通り田舎のおふくろの味が味わえる店です。だんご汁のほかに、お稲荷さんもなつかしい味がしました。

墓に行くと、誰かお参りにきたのか、新しい花が供えられていました。私は、それと一緒に持参した花を供えました。我が家の墓は、墓地のなかでいちばん古いのですが、花立からあふれるように多くの花で彩られ、いっきに華やかになった気がしました。

私は、これが最後になるかもしれないなと思いながら手を合わせ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えました。すると、いつの間にか涙があふれてきました。『歎異抄』によれば、親鸞は、父母の孝養のために一度も念仏を唱えたことはないそうですが、私は墓に眠る父母や祖父母の供養のために、念仏を唱えました。

墓地も、冬の午後の静けさに包まれていました。墓地の端からは、私が生まれた街が見渡せます。昔の面影が残る家並みを眺めていると、近所の幼馴染と嬌声を上げながら通りを走り回っていた子どもの頃が思い出されました。年を取って、昔を追憶することほどつらいものはありません。もう私のなかのふるさとは、追憶の対象でしかないのです。

私は、ふと隣町の高原にある高台に行ってみようと思いました。そこは、子どもの頃、家族でピクニックに行った思い出がある場所です。10月21日という日にちまで覚えています。とても肌寒くて早々に弁当を食べ、帰ってきたのでした。

熊本との県境に向けて高原のなかを車を走らせると、道路にはまだ至るところに雪が残っていました。まわりの木々にもうっすらと雪が残っており、それが午後の日差しを浴びてキラキラ輝いていました。県境の近くは、チェーンを装着した車しか通れない交通規制がおこなわれていました。私がめざす高原の高台はその手前にあります。ところが、麓に着くと、高台に上る道路が鉄柵で封鎖されていたのでした。残念ながら、入口で引き返すしかありません。

途中、小学生のときに父親と九州の最高峰の山に登った際に利用した登山口を再び訪れ、記念に写真に撮ったのですが、うっかりしてSDカードから削除してしまいました。初日の富貴寺を訪れたときから、二日目の墓参りや若い頃仕事で住んでいた町を訪れたときの写真などをことごとく消去してしまったのです。まったくついてません。「六郷満山」のお寺参りをしたにもかかわらず、霊験あらたかとはいかなかったのです。

そのあと、60キロ離れた街まで、知人に会いに行きました。知人は、二つの癌と闘っています。しかし、笑顔を絶やさず明るく振る舞っていました。会うたびに、「また帰って来いよ。でも、オレはそれまで生きているかわからないけどな」と言うのですが、今回はそう言われないように淡々と別れました。

親しい人間たちはみんな、田舎に帰っています。もう東京に残っている人間は、ひとりもいません。会う人間会う人間から「帰って来いよ」と言われるのですが、私は、(別に格好を付けるわけではありませんが)知らない土地でひとりで生き、ひとりで死ぬことを決めたのです。

運動会のとき、校舎の裏をこっそり訪れることが好きだった子どもの頃。やはり、今でもひとりがいいなと思います。私にとって、淋しさこそが人生の親戚なのです。いくら年を取ってもそれは変わらないのでした。


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別府タワー

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ディープな別府タワー

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別府タワー 窓ガラスの至るところにヒビが入っています。


2018.02.23 Fri l 故郷 l top ▲
平昌オリンピックをめぐる日本国内の報道には、なにがなんでもオリンピックを貶めようとする底意地の悪さが垣間見えて仕方ありません。国内では相変わらず、「ニッポン凄い!」の自演乙が盛んですが、「凄い!」国のわりには、”スポーツの祭典”を偽善的にでも祝い楽しむ余裕さえないのです。

とりわけひどいのが、南北対話に対してです。そもそも韓国が北の「ほほ笑み外交」に乗ったのは、なんとしてでも戦争を回避したいという切実な事情があるからでしょう。戦争になれば、韓国は国家存亡の危機に直面するのです。もちろん、日本も他人事ではないはずです。

田中宇氏は、平昌オリンピックの南北対話について、つぎのように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説
北朝鮮の核保有を許容する南北対話

(略)今回の北の五輪参加をめぐる南北対話の再開や米韓軍事演習の延期が、ロシアのプーチン提案、中国のダブル凍結和平案、韓国の文在寅の対北融和策という、露中韓の三位一体の北核問題の解決策のシナリオに北朝鮮が乗ってきたものであるとわかる。(略)

 だが、米日のマスコミなどでは、露中韓のシナリオがまともに報じられず、ほとんど論じられず、けなされる対象として存在している。米日では、北が核兵器を全廃することが「北核問題の解決」であると考えられている。北に核廃絶を求めず、北の核保有を黙認している露中韓のシナリオは、北核問題の解決策ではないと、特に(中韓嫌悪の)日本で思われている。(略)


韓国が北の「ほほ笑み外交」に翻弄されているように見えるのも、現実的な戦争回避のシナリオがあるからなのでしょう。

 露中韓のシナリオは、北に核やミサイルの廃絶でなく開発凍結を求めているが、それすら北に凍結宣言を出せと求めるものでなく、北が不言実行で静かに開発を凍結し続けてくれればそれで良い。目指しているのは東アジア的な「あうんの呼吸」「(北の)メンツ重視」の方式だ。露中韓は、北が核兵器を持ったままでも、周辺諸国との緊張関係が緩和されれば、それで事態が安定すると考えているようだ。

 
戦争ありきのような日本のメディアの報道だけを見ていると「あり得ない」と思うかも知れませんが、オリンピックの南北対話をきっかけに緊張緩和へ進む可能性もなきにしもあらずでしょう。いづれにしても、オリンピック明けの米韓軍事演習や南北首脳会談に対して、露中韓と米の間で激しい駆け引きがおこなわれるに違いありません。

もとよりトランプ政権の“圧力外交”には、軍事ビジネスの側面があることも忘れてはならないのです。朝鮮半島や東シナ海の緊張が高まれば高まるほど、国策でもある軍需産業が繁栄する寸法です。なかでも日本に対しては、武器が言い値で売れるので、これほど美味しい商売はないのです。

今の日本は、中国や北朝鮮の影に怯えるばかりです。それは、もはや「病的」と言ってもいいほどです。しかも、中国も北朝鮮も、かつての植民地です。だから、よけい神経症的に怯えるのかもしれません。

東アジアにおいて、政治的にも経済的にも日本の存在感が低下しているのは、誰が見ても明らかで、そういった“日沈む国”の卑屈な精神が、「ニッポン凄い!」の自演乙につながっているのは間違いないでしょう。もちろん、卑屈な精神は、『永続敗戦論』が喝破したような“対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムを支える心性でもあります。そして、そこに露わになっているのが、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理なのです。


関連記事:
リベラル左派と「北朝鮮の脅威」
『永続敗戦論』


2018.02.11 Sun l 社会・メディア l top ▲
最近、体調がよくないということもあって、私も、自分の死について考えることが多くなりました。

先日、椅子から立ち上がったら、まっすぐに歩けないほどフラフラするのでした。洗面所に行こうと廊下を歩くのに、千鳥足のようになり左右の壁に身体がぶつかるのでした。さらに歯を磨こうとコップを手にしたら、うまく持つことができず、コップを床に落とす始末です。

私は、すかさず目の前の鏡に映っている自分の顔を見ました。しかし、表情に歪みはありません。また、両手を肩まで持ち上げて左右に広げました。しかし、片一方が下がるということもありません。自分の名前と住所を口に出してみましたが、別に呂律がまわらないということもありません。

私は、ふらつく足で居室に戻り、ベットに仰向けになりました。すると、徐々に頭のほうから逆さまに落ちていくような感覚に襲われました。遊園地に行くと、横一列に座って後ろ向きに回転するアトラクションがありますが、あんな感じです。私は、ボーッとした(それでいてどこか快感でもあるような)意識のなかで、「このまま死ねたらいいなあ」と思いました。このまま意識が遠のいて死ねたら最高だなあと。

ところが、しばらく経つと、意識が遠のくどころか、逆に覚醒して落ち着いてきました。そして、結局、何事もなかったかのように気分はもとに戻ったのでした。

自分の死を考えるなかで、有賀さつきの「孤独死」のニュースは、少なからずショックでした。以来、西部邁氏の「自裁死」と有賀さつきの「孤独死」について、ずっと考えています。

二人には、余人が入り込めない覚悟があったのです。「自裁死」はとても無理ですが、有賀さつきの「孤独死」だったら私もできそうな気がします。

家族がいながら、病名を伏せ、臨終に立ち会うことも拒否するというのは相当な覚悟ですが、私の場合、家族がいませんので、そこまで覚悟を背負う必要もないのです。

このブログでも再三書いていますが、私は孤独に生き孤独に死ぬ人生を選択していますので、あとは具体的に死の過程に覚悟を持てばいいだけの話です。

有賀さつきは、死を悟り、入院する前に銀行口座なども既に解約していたそうで、父親が言うとおり「すごい精神力」だな思います。

鈴木いづみは、「老衰したい。ジタバタみぐるしくあばれて『死にたくない』とわめきつつ死にたい」と言っていたにもかかわらず、36歳で(しかも、娘の目の前で)自死したのですが、それもまたみずからの死に対して覚悟することを選んだと言えるのかもしれません。

前に、自分の死について心配事はなにかという葬儀会社のアンケートがネットに出ていましたが、お金がないとかお墓がないとか残される家族が心配とかいった回答に混ざって、「看取ってくれる人がいない」という回答がありました。それも10%近くの人がそう回答していました。

「孤独死」は、他人事ではないのです。有賀さつきと違って、(私もそうですが)最初から独り身の人間も多いのです。誰にも看取られずに死ぬというのは、もう特別なことではないのです。

いつもの朝が来て、いつもの一日がはじまる。そんな日常のなかで誰にも知られることなく息を引き取る。それは願ってもない死に方です。そう死ねたらいいなあと思います。


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ある女性の死
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2018.02.06 Tue l 訃報・死 l top ▲
出川哲郎のCMでおなじみの仮想通貨取引所コインチェックにおいて、顧客から預かっていた580億円相当の仮想通貨NEMが流出した事件で、真っ先に思い浮かべたのは、先日、朝日新聞に載っていた下記の岩井克人氏のインタビュー記事です。すべては、この記事に尽きるように思います。

朝日新聞デジタル
(インタビュー)デジタル通貨の行方 経済学者・岩井克人さん

そもそも「通貨」という呼び方が間違っていると言った人がいましたが、仮想通貨(デジタル通貨)は、あくまで貨幣という幻想、貨幣になるであろうという幻想で成り立っているものにすぎないのです。

しかし、岩井氏は、投機の対象になった仮想通貨は、貨幣になるためには「過剰な価値」を持ちすぎたと言います。

 「(略)あるモノが貨幣として使われるのは、それ自体にモノとしての価値があるからではありません。だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』と予想するからだれもが受け取る、という予想の自己循環論法によるものです。実際、もしモノとしての価値が貨幣としての価値を上回れば、それをモノとして使うために手放そうとしませんから、貨幣としては流通しなくなります」


貨幣は、価値が安定していることが大前提なのです。それが「だれもが『他人も貨幣として受け取ってくれる』」という安心(信用)につながるのです。

――一方、使える店やサービスは増えており、日本も資金決済法を改正して通貨に準ずる扱いにしました。この動きのギャップは、どう考えればよいですか。

 「値上がりしているので事業者が受け入れを始める一方、人々は値上がり益を期待して貨幣としてはあまり使わない、という矛盾が起きています。もちろん、価値が下がると思い始めたら人々は急いで貨幣として使おうとするでしょうが、その時、事業者は受け入れを続ければ損をするので、受け入れをやめるはずです。ただ、投機家はこうした動きのタイムラグを見越し、だれかがババをつかんでくれると思って投機をしているのかもしれない。現実に多少なりとも支払い手段として使われている以上、対応した法整備は必要ですが、それが貨幣になることを保証しているわけではありません」


仮想通貨が投機のババ抜きゲームの対象になるのは必然かもしれません。しかも、百歩譲って投機=投資の対象として見ても、インサイダー取引きやノミ行為がやりたい放題の”仮想通貨市場”は、最低限のマネーゲームの体も成してないとさえ言えるのです。

また、デジタル技術で支えられた「匿名性」や「自由放任主義」が、ジョージ・オーウェルが描いた超管理社会と紙一重だというのは、慧眼と言うべきでしょう。

コインチェックの社長も20代ですが、流出の報道を受けて、渋谷のコインチェックの本社に押しかけてきた顧客も、ネットで不労所得を得ようとする若者たちが大半でした。

ネットには、「できれば汗を流して働きたくない」と思っている人間が、働かなくても金儲けができるような幻想を抱く(抱かせる)一面があります。そういった情弱な人間たちに幻想を抱かせて金儲けをする仕掛けがあるのです。しかし、そこにあるのは、金を掘る人間より金を掘る道具を売る人間のほうが儲かる(山本一郎)身も蓋もない現実です。

金を掘る道具を売る人間は、宝探しの犬のように、「ここに金があるぞ」「早く掘らないと他人に先を越されるぞ」とワンワン吠えて煽るのです。ネットで一攫千金を夢見る人間たちは、所詮「煽られる人」にすぎないのです。
2018.01.28 Sun l ネット l top ▲
手前味噌になりますが、文春砲とそれに煽られる“お茶の間の論理”や、大塚英志が言う「旧メディア のネット世論への迎合」によって文春砲が増幅される“私刑の構造”について、私はこのブログで一貫して批判してきたつもりです。

ただ、今回の小室哲哉に関する文春砲については、文春砲に煽られる“お茶の間の論理”だけでなく、一転して文春砲を批判する世論に対しても、違和感を抱かざるを得ません。

今回の文春砲について、いろんな人が発言していますが、そのなかで目にとまったのは、ゲスの極み乙女。の川谷絵音の「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間。」という発言と、新潮社の出版部部長でもある中瀬ゆかり氏の「二元論でものを考える人は怖い」という発言です。

デイリースポーツ
川谷絵音「病的なのは週刊誌でなく世間」

デイリースポーツ
中瀬ゆかり氏、文春批判にひそむ危険性を警告「二元論でものを考える人は怖い」

中瀬氏はつづけて、つぎのように言ってます。

「私の好きな言葉に『知性っていうのは、思ったことを極限までに突き進めないことだ』っていう。知性っていうのは、あるところで歩留まりというか、そこで止められることが一種の知性だと思っているので。一方的に、感情だけでカッとして、『だから廃刊にしろ』とか『不買運動だ』みたいになっている人たちは、また今度、何かあった時には手のひらを返すんだろうなって気はしてみてますね。


川谷絵音の発言に対して、ネットでは「お前が言うな」と批判が起きているそうですが、私はむしろ中瀬氏の発言のほうに、「お前が言うな」と言いたくなりました。

世間も週刊誌もメディアも「病的」なのです。そうやって“異端”や”異物”を排除することで、”市民としての日常性”が仮構されるのです。”市民としての日常性”は、そんな差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないのです。

それにしても、中瀬氏の“知性論”は噴飯ものです。「留保」ということを言いたかったのかもしれませんが、そうやって他人の不幸を飯のタネにする自分たちのゲス記事をただ弁解しているとしか思えません。そもそも新潮社の中瀬氏がテレビのワイドショーに出て、したり顔でコメントしている光景にこそ、”私刑の構造”の一端が垣間見えるのです。

今回、文春砲を批判し炎上させている人間たちは、小室の場合はやりすぎだけど、山尾志桜里や上原多香子やベッキーは別だというスタンスが多いようです。男の不倫には理由があるが、女の不倫はどんな理由も許されないとでも言いたげです。そこにあるのは、文春や新潮と同じ男根主義的な”オヤジ目線”です。また、日頃不倫に眉をしかめる世間の人間たちも、妻の介護によるストレスや欲望のはけ口を身近な女性に求めたことには、なぜか理解を示すのでした。

前も書いたことがありますが、小室哲哉に関しては、みずからが手を付けたB級アイドル(華原朋美)をデビューさせた公私混同ぶりや、絶頂期の目をおおいたくなるようなバブリーな振舞いに、私は当時から違和感を抱いていました。

絶頂期の彼には、今のような如何にも「誠実そうな」姿とは真逆な一面がありました。常にクスリやオンナの噂が付き纏っていたのは事実です。詐欺事件で逮捕されたときも、事件に登場する人物たちにどこかいかがわしい人間たちが多かったのも事実でしょう。

芸能人である限り、「不倫なんてどうだっていいじゃないか」「どこが悪いんだ」「お前たちだって不倫したいと思っているだろう」と口が裂けても言えないのです。そのため、小室哲哉は、よりによって妻の介護と不倫を結び付け弁解しているのです。小室哲哉が虚像であることは言うまでもないでしょう。文春砲に対してどっちの立場をとるにせよ、その当たり前の前提がすっぽりとぬけ落ちているのです。それが違和感を抱く所以です。


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2018.01.25 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
二階堂


遅くなりましたが、鎌倉に初詣に行きました。日曜日だったので、鎌倉駅も小町通りも若宮大路の段葛も人でごった返していました。

ただ今日は、鶴岡八幡宮を素通りして、金沢街道を東に進み、二階堂に行きました。鶴岡八幡から5分くらい歩くと、その名もずばり「岐れ道」という標識が見えてきます。その「岐れ道」を左折すると二階堂です。昔は「二階堂大路」とか呼ばれていたみたいですが、角には「お宮通り」という表示がありました。

二階堂は、大きな邸宅が並ぶ閑静な住宅街で、昔から作家や画家などが居を構えていました。私も鎌倉では好きな場所です。下記のウィキペディア以外にも、久米正雄や川端康成も一時住んでいたそうです。また、高橋和己や神西清や高橋源一郎も住んでいたという話を聞いたことがあります。

Wikipedia
二階堂(鎌倉市)

ただ、最近は、屋敷跡にマンションや建売住宅が建てられて、昔の面影を失いつつあります。もっとも、今日行ったのは、二階堂のほんの入口にすぎません。鎌倉はどこもそうですが、同じ地名でも、表のバス通りから昔ながらの狭い道(大概一方通行になっている)をずっと奥に入って行ったところに住宅地が広がっているのが特徴です。鎌倉で暮らすなんて言ったら、優雅で素敵なイメージがありますが、実際は田舎で生活するのと同じで、通勤や通学はむろん、日常の買い物も不便を我慢しなければならないのです。そのため、私の知っている鎌倉出身の人間たちは、みんな高校卒業と同時に親元を離れ東京に出ています。地方出身者と同じなのです。

「お宮通り」の突き当りに鎌倉八幡宮(大塔宮)があります。鎌倉八幡宮は、鶴岡八幡宮のミニチュア版のような感じです。観光ルートから外れているからなのか、外国人観光客の姿はまったくありませんでした。その代わり、(鎌倉ではおなじみの)歴史散歩の中高年のグループが目に付きました。リュックを背負った彼らが、神社横の道からぞくぞくと出てくるのでした。おそらく二階堂の奥にある瑞泉寺をまわってきたのでしょう。

鎌倉宮のあとは、「お宮通り」を引き返し、途中の荏柄天神社に寄りました。来るとき、鎌倉駅に到着して改札口に向かっていると、前を歩いていた若い女の子たちが、「荏柄天神社は学問の神様だからさ‥‥」と言っているのが聞こえてきました。受験シーズンの真っ只中なので、菅原道真を祭っている荏柄天神社は合格祈願の受験生でいっぱいなのではないかと思ったのですが、参拝の列は思ったほど長くはなく、10分くらい並ぶと順番がきました。

Wikipedia
荏柄天神社

菅原道真を祭る「学問の神様」と言えば、九州の人間が思い出すのは福岡の大宰府天満宮ですが、荏柄天神社は大宰府天満宮とは比べようもないくらい小さな神社でした。やはり、受験生と思しき子供を連れた親子の姿が目立ちました。境内には、大宰府天満宮と同じように梅の木が植えられ、既に枝には赤い蕾が付いていました。

昔、年を取って二階堂あたりに住めたらいいなあと思ったことがありましたが、それも叶わぬ夢に終わりました。それだけによけい、合格祈願をする若者が眩しく見えて仕方ありませんでした。


鎌倉宮1
鎌倉宮

鎌倉宮2
鎌倉宮

荏柄天神社1
荏柄天神社

荏柄天神社2
荏柄天神社

荏柄天神社3P
荏柄天神社
2018.01.21 Sun l 鎌倉 l top ▲
ドッグヤード1月3日


正月休みの間、文字通り食っちゃ寝てのプチ引きこもり生活をしていましたので、夕方から散歩に出かけました。

横浜駅で降りて、馬車道・伊勢佐木町・長者町を歩き、帰りも日出町から桜木町、みなとみらいをまわって横浜駅まで歩きました。

途中、温かい蕎麦を食べたいと思いましたが、まだ正月の3日なので目当ての店はどこも休みでした。それで、仕方なくラーメンを食べて帰りました。

何度も同じことを書きますが、私は、休日の夜の横浜の街が好きです。祭りのあとのさみしさのようなものを覚えるからです。平岡正明の言う“場末感”が漂っているからです。

横浜は決してオシャレな街などではありません。文明開化の足音がする時代には、西欧文化の入口だった横浜はオシャレな街だったのかもしれませんが、今はどちらかと言えば、時代に取り残されたようなレトロな街になっています。

めまぐるしく変わる東京と比べれば、その違いは一目瞭然でしょう。みなとみらいや、あるいは青葉区や都筑区や港北区のような郊外のベットタウンは別にして、古い横浜の街にはまだ個人商店が残っているところも多いのです。アイパーをあてた古典的なヤンキーなども未だ生息しています。

私は、当時勤めていた会社で横浜を担当していましたので、白塗りのメリーさんが馬車道のベンチに座っている姿を見ることもできました。ちょうど横浜博覧会が催された頃です。その頃の馬車道は、今と違って人通りも多く賑わっていました。伊勢佐木町も、“伊勢ブラ”の時代には及ばないものの、まだ繁華街の華やかさが残っていました(だからゆずも路上ライブをやったのでしょう)。

一方で、都内と比べれば横浜はどこか地方都市のような雰囲気がありました。それが横浜の個性だったのです。そして、それからほどなく横浜の旧市街は、みなとみらいの開発と引き換えに、日増しに”場末感”を増していくのでした。

横浜市庁舎の建設に合わせるように、近くの北仲では高層マンションなどの建設がはじまっています。また、みなとみらいの空地も、いくつか建築中のビルがありました。

横浜の場合、街中のビジネスビルが建つ表通りから一歩なかに入ると、古い住宅街が広がっているのが特徴です。そんな路地の奥にひっそりと佇む家々が、街灯の仄かな灯りに照らし出される夕暮れの風景が私は好きです。それこそ、美空ひばりの「哀愁波止場」が聞こえてくるような感じがするのです。繁華街の路地にも、裏町のような雰囲気のところが多く残っています。そのコントラストが横浜の魅力なのです。

カメラをあたらしく買ったので、久しぶりにカメラをもって散歩に出かけたのですが、とは言え、写真を撮るとなると、やはりみなとみらいの風景になるのでした。みなとみらいは、謂わば表の顔です。横浜の人たちにとって、たしかにみなとみらいは”自慢”ではあるのですが、でも、愛着があるのは”場末感”が漂う旧市街なのです。


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野毛
2018.01.03 Wed l 横浜 l top ▲
元日は大手のスーパーは休みなので、夜、近所の食品だけを扱っているミニスーパーに行きました。

店内に入ると、数人の先客がいました。いづれも中年の男性ばかりでした。レジにはアルバイトと思しき若い男の子と女の子が立っていました。

奥の飲み物などを置いている棚のところに行くと、そこにも一人の男性が商品を物色していました。ところが、私の姿を見ると、ヨーグルトをひとつだけ手に持って売り場を離れ、入口の脇にあるレジに向かったのでした。棚のあるところはレジから死角になっています。私は何気に男性の後ろ姿を目で追いました。

すると、男性はレジを通り抜けてそのまま外に出たのでした。たしかに手にはヨーグルトのカップを持っていたはずです。

私は、レジに行って、「今の人万引きだよ」と言いました。「手にヨーグルトを持っていたはずだよ」。

しかし、レジの若者は、「そうですか」「わかりませんでした」と言うだけで慌てる様子はありません。「こらっ!」と叫びながら追いかける場面を想像していたので、なんだか拍子抜けしました。アルバイトの彼らには、どうだっていいことなのでしょう。私は、この店は万引きし放題だなと思いました。万引き犯も、それを知ってやったのかもしれません。

万引き犯は、40~50歳くらいで、ジャンパーを着た見るからにさえない感じの男性でした。バックを肩から下げていましたので、もしかしたら仕事帰りなのかもしれません。

元日に、ヨーグルトを1個万引きする中年男性。なにが哀しくてそんなことをしなければならないんだろうと思いました。吉本隆明は、お金を借りにきた友人に、「人間ほんとうに食うに困った時は、強盗でも何でもやるんだな」と言ったそうです。たしかに、強盗だったらまだしも納得ができます。どうしてヨーグルト1個だけなのか。

メンヘラで万引きをするケースも多いそうですが、男性はそんなふうには見えませんでした。もちろん、腹を空かした子どもが家で待っているようにも思えません。おそらく浅慮なだけなのでしょう。捕まったら「レジでお金を払うのが面倒くさかったから」なんて言い訳をするのかもしれません。カギのかかってない自転車を拝借したり、目の前の忘れ物をこっそり懐に入れたりするのも同じでしょう。もっと飛躍すれば、人を押しのけて座席に座る人や、歩きタバコや歩きスマホをする人も似たようなものかもしれません。

そんな人たちをどう考えるかというのも、大事な思想です。ヒューマニズムでは、あんなやつはゴミだと切り捨てることはできないのです。もとより「ゴミ」なんてことばは使ってはならないのです。

抑圧された人民。そんなステロタイプな考えだけでは捉えられない現実が私たちのまわりには存在します。政治などより、そんな日常にある現実のほうがホントは切実なのです。モリ・カケに対する怒りより、駅のホームで列に割り込まれたときの怒りのほうが、私たちにとっては大きなことなのです。

平岡正明のように「あらゆる犯罪は革命的である」と考えれば、そう言えないこともありません。でも、私はやはり、情けないという思いしかもてないのでした。

このようにヒューマニズムの思想は、私たちの日常やそこにある個人的な感情の前では無力、とは言わないまでも非力なのです。だから、見ないことにしたり(見て見ぬふりをしたり)、取るに足らないことだと無視を決め込んだりするのかもしれません。それが現実をかすらない所以のように思います。


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2018.01.01 Mon l 日常・その他 l top ▲
先日、朝日新聞デジタルに、つぎのような宮台真司氏のインタビュー記事が載っていました。

朝日新聞デジタル
「制服少女」の告白、実はショックだった 宮台真司さん

この記事にあるように、社会学者の宮台氏が、援交をしたり、ブルセラショップに下着や制服を売ったりして小遣いを稼いでいる女子高生たちをフィールドワークして、『制服少女たちの選択』(講談社のちに朝日文庫)を書いたのが1994年です。それは、このブログで何度も書いていますが、私が仕事で渋谷に日参していた時期と重なります。

私は、女子高生など若い女性向けの商品を扱う仕事をしていましたので、「女子高生が流行を作る」などというメディアのもの言いを嘲笑しながら、宮台氏が言う「制服少女」たちを身近で見ていました。

暗さを押しつける前者(引用者:「彼女たちを「道徳の崩壊」の象徴として批判」する言説)と違い、彼女たちは「うそ社会」を軽やかに飛び越えていると感じました。「うそ社会」に適応するといっても、染まるのではなく、なりすます。内面の夢や希望は捨てない。断念と夢を併せ持つ明るい存在。僕は自分を重ねて共感したのです。


それは、私も同じでした。

要するに、「制服少女」たちのほうが一枚も二枚も上手だったのです。センター街に行くと、通りを行ったり来たりしている彼女たちに、背広姿のオヤジが「二万でどう?」などと声をかけている光景を当たり前のことのように目にすることができました。

そうやってテレクラや街頭で声をかけてくるオヤジのなかに、教師や役人や警察官やマスコミの人間がいることを彼女たちは知っていたのです。また、そんなオヤジたちが、一方で「道徳然」とした説教を垂れ、若者たちの性の乱れを嘆いていることもよく知っていたのです。

「論壇的ないし新聞の論説的な道徳然とした言説が、現実をかすりもして来なかったことが暴露された」というのは、そのとおりでしょう。

「現実をかすりもしない」「道徳然とした言説」は、今の左派リベラルの言説も例外ではありません。

菊地直子元被告の無罪確定について、マルチ商法やカルト宗教の被害者救済で知られる弁護士の紀藤正樹氏が、みずからのブログでつぎのように書いていました。

17年の逃亡生活は何だったのだろうか?無罪なら逃亡する必要はなかった。

無罪は、とても後味の悪い結末となった。それは被害者にとっても、社会にとっても、そして菊地さんにとっても。

菊地さんは、逃亡のために多くの人に迷惑をかけた。

逃亡のために多くの税金が投入された。

無罪と言っても、菊地さんが、殺人集団であるオウム真理教に所属していた事実は、変わらない。

今回の無罪を教訓に、菊地さんには、オウム真理教の犯罪性の語り部になってほしい。

弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS
17年の逃亡生活は何だったのか?オウム・菊地直子の無罪確定


菊地直子元被告は、無罪が確定したのです。「17年間の逃亡」は、警察が指名手配したからです。手記にあるように、警察に捕まれば無罪でも有罪にさせられるのではないかという恐怖から逃げたのです(実際に一審では有罪判決が下され、無罪なのに有罪にさせられそうになったのでした)。

「多くの税金が投入された」などと言うのは、菊地元被告に対してではなく、無罪の人間を容疑者として指名手配した警察に言うべきことでしょう。

これが法律の専門家の言うことなのかと驚くばかりです。無罪が確定し、これから一般人として社会復帰しなければならない人間が、どうして「オウム真理教の犯罪性の語り部」にならなければならないのでしょうか。

マルチ商法やカルト宗教の被害者救済の弁護をするというのは、リベラルな人なのでしょう。でも、このように、紀藤弁護士のリベラルなるものは、いつでも全体主義に転化できるようなリゴリズムで固められたそれでしかありません。

市民社会や市民としての日常性を所与のものとし、その安寧と秩序を保守することを一義とするような思想には、左派も右派もリベラルも違いはないのです。いざとなれば、みんなで翼賛の旗を振りはじめるに違いありません。
2017.12.31 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、オウム真理教による東京都庁爆発物事件で殺人未遂ほう助罪に問われた菊地直子被告の上告審で、最高裁が検察側の上告を棄却する決定をし、同被告の無罪が確定したというニュースがありました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<元オウム信者>菊地直子被告の無罪確定へ 検察の上告棄却

では、検察側の証人で出廷した井上嘉浩死刑囚の偽証があったとは言え、一審の裁判員裁判で下された判決はなんだったんだ、と思わざるをえません。裁判員裁判での判決は、上級審で減刑されたり破棄されたりするケースが多いのですが、裁判員裁判に往々にして見られる俗情におもねる感情的な厳罰主義には大きな問題があると言えるでしょう。裁判員裁判は、審理や量刑に市民感覚を反映させる目的で導入されたのですが、そもそも市民はそんなに賢明なのかという疑問があります。『大衆の反逆』を書いたオルテガが現代に生きていたら、間違いなく裁判員裁判には反対したでしょう。

市民裁判員たちに、オウムの信者だったら罪を犯しているに違いない、だったら厳罰に処すのは当然だ、という先入観がなかったとは言えないでしょう。もしかしたら、市民感覚なるものは、その程度のものかもしれないのです。

一方、菊地元被告のことを「走る爆弾娘」などとレッテルを貼り、あたかも爆弾テロをおこなう危険人物であるかのように書いていたメディアの罪も看過してはならないでしょう。無罪が確定してもなお、「時間の壁」「関係者無念」などと、ホントは有罪だけど、(逃亡で)時間が経ったので無罪になったのだと言わんばかりの報道が目に付きます。

17年間も逃亡したのは、「警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられる」という恐怖を抱いていたからだと、彼女は手記に書いています。裕福な家庭に育ち、大学に進学してすぐに出家したために、文字通りの世間知らずだったのでしょう。身に覚えがなかったらどうして17年間も逃亡したんだというもの言いも、メディアお得意の(推定有罪!の)印象操作と言えるでしょう。


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せつない 菊地直子
2017.12.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
毎年書いていることですが、年の瀬はどうしてこんなに淋しい気持になるんだろうと思います。年を取ると、よけいその気持が強くなります。しかも、そこには少なからず侘しさも伴っているのです。

クリスマスの時期になると、最近はどこもイルミネーションばやりですが、カップルや家族連れなどがさも楽し気に嬌声をあげている前を通るのは、苦痛で仕方ありません。そのため、気が付いたら、いつの間にかイルミネーションを避け、遠回りして歩くようになっている自分がいました。

イブの日、野暮用で渋谷へ行ったら、革命的非モテ同盟という集団(と言っても十数人)のデモに遭遇しました。

革命的非モテ同盟
https://kakuhidou.fumizuki.net/

「クリスマス粉砕!」「恋愛資本主義反対!」「街中でイチャつくのはテロ行為。テロとの戦いを貫徹するぞ!」「セックスの回数で人間を差別するな!」「セックスなんかいくらやったって無駄だ!」(サイトより)などというスローガンを掲げてデモをしていましたが、立ち止まってデモが通り過ぎるのを見遣りながら、心のなかで拍手喝さいを送っている自分がいました。

でも、考えてみたら、「非モテ」も若い人の話なのです。年を取るのは、「非モテ」以前の話です。

私たちが若い頃はちょうどバブルの真っ只中でしたので、クリスマスは恋人とディナーを楽しみ、都心のホテルで一夜をすごすのが定番でした。

当時、私は六本木にある会社に勤めていたのですが、イブの夜、仕事を終え駅へ向かう途中、あるレストランの前を通りかかった際に目にした光景を今でもよく覚えています。その店は半地下になっていて、通りから店内が見渡せるのですが、見ると、壁際の席に女性が、反対の通路側に男性がお行儀よく一列に並んで座っているのでした。まるでおやつの前に勢ぞろいさせられた幼稚園児のようでした。しかし、当時の私もまた同じようなことをしていたのです。

赤坂プリンスホテルは「赤プリ」なんて呼ばれ、イブの夜をすごすカップルにとってはあこがれのホテルでしたが、煌々と灯る客室の明かりを見上げながら、あのそれぞれの部屋でみんないっせいにセックスをしているのかと思うと、なんだかホテルの灯りも妖しげに見えたものです。

でも、今は昔、私は背を丸め、白髪交じりの頭をうつむけて、これからイブの夜を楽しむカップルや家族連れとは逆方向に家路を急いでいるのでした。

クリスマスが終わると、学校も冬休みになり、電車もいっきに空いてきます。それにつれ、キャリーバックを持った乗客の姿も目に付くようになりました。

一方で(これも毎年書いていることですが)、人身事故で電車が遅れることも多くなります。

おせっかいなテレビが、年末年始を一人ですごしている人間のアパートをアポなし訪問して、どうして一人ですごしているのか事情を訊く番組がありますが(私だったら水をかけて追い払うけど)、私もいつの間にか、そんな「一人正月」の人間になっていたのです。

でも、今、イルミネーションの前で嬌声をあげている若者たちも、そのうちイルミネーションを避けて歩くようになるでしょう。そうやって時はめぐって行くのです。

年は取りたくないものだと思います。しかし、容赦なく年は取って行くのです。それもあとで考えれば、あっという間なのでした。
2017.12.26 Tue l 日常・その他 l top ▲
ルポ ニッポン絶望工場


日本は公式には「移民労働者」を認めていません。しかし、下記の毎日新聞の記事によれば、2016年末の在留外国人数は238万2822人で、そのうち永住資格を持つ「永住者」が72万7111人もいるそうです。

在留資格のなかでは、「永住者」がもっとも多く、つぎに在日韓国・朝鮮人などの特別永住者(33万8950人)、留学生(27万7331人)、技能実習生(22万8588人)の順になっています。「永住者」は「1996年の約7万2000人から約10倍と大幅に増加」しているのです。

首都大学東京の丹野教授が言うように、「在留資格の更新が不要で職業制限もない『永住者』は実質的に移民」なのです。これが日本が「隠れ移民大国」と言われるゆえんです。

毎日新聞
在留外国人 最多238万人…永住者、20年で10倍

一方、「移民労働者」を認めない政府が、「国際貢献」や「技能移転」という建て前のもとに、外国人労働者の期限付きの受け入れをおこなっている「技能実習生制度」には、過重労働や低賃金など多くの問題が指摘されています。“現代の奴隷制度”だと指摘する人さえいるくらいです。

実習生の失踪も問題になっていますが、その主因になっているのが低賃金です。

実習制度を統括する公益財団法人「国際研修協力機構」(JITCO)が公表している2009年9月に「基本給が最も低い技能実習生」の平均給与額は、14.3万円です(なぜか2009年以降公表されてない)。しかし、そのなかからさまざまな名目で経費が引かれるため、実際に手にするのは10万円くらいだと言われています。

昨年度の大宅賞の候補になった『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α文庫)の著者・出井康博氏は、外国人労働者が置かれている実態について、「日本が国ぐるみで『ブラック企業』をやっているも同然だ」と書いていました。

どうして低賃金になるのかと言えば、背後にピンハネの構造が存在するからです。つまり、実習生たちが受け取るべき労働の対価の一部が、「会費」や「管理費」の名目で、監理団体や監理機関の「天下り役員たちの報酬に回されている」からです。

『ルポ ニッポン絶望工場』では、その「”ピンハネ”のピラミッド構造」について、具体的につぎのように書いていました。

 実習生の受け入れ先では、「監理団体」と呼ばれる斡旋団体を通すのが決まりだ。受け入れ先の企業は、監理団体に対して紹介料を支払うことになる。(略)一人につき約50万円の支払いが生じる。(略)
 実習制度には、民間の人材派遣会社などは関与できない。監理団体も表面上は「公的な機関」ということになっていて、実習生の斡旋だけを目的につくることは許されていない。しかし、そんな規制はまったく形骸化してしまっている。
 監理団体には一応、「協同組合」や「事業組合」といったもっともらしい名前がついている。だが、実際は人材派遣業者と何ら変わらない。しかも、実習生の斡旋を専業とする団体がほとんどだ。監理団体は業界に幅広い人脈を持つ関係者が設立するケースが多い。運営には、官僚に顔のきく元国会議員なども関わっている。
(略)
 受け入れ側の日本と同様、送り出し国でも公的な機関しか関われない決まりだ。しかし、それも建て前に過ぎず、実際には現地の人材派遣会社が送り出しを担っている。政府や自治体の関係者が送り出し機関を設立し、仲介料を収入源にしていることもよくある。
 送り出し機関にとっても、実習生は”金ヅル”なのである。一人でも多く日本へと送り出せば、毎月入っている「管理費」も増える。だが、実習生が失踪すれば管理費も途絶えてしまう。そこで失踪を防ごうと、実習生から「保証金」と称して大金を預かり、3年間の仕事を終えるまで「身代金」にしているような機関もある。
 一方、日本の監理団体は、実習生が仕事を始めると、受けれ先から「管理費」を毎月徴収する。送り出し機関と山分けするためのものだ。金額は団体によって差があるが、月5万円前後が相場である。だからといって、監理団体が実習生を「管理」してくれるわけではない。
 受け入れ先は、監理団体に年10万円程度の「組合費」も支払わなくてはならない。あの手この手で、監理団体が受け入れ先からカネを取っているわけだ。

 
こうしたピンハネ構造には官僚機構も加わっています。「国際研修協力機構」(JITCO)は、法務・外務・厚生労働・経済産業・国土交通の5つの官庁が所轄し、役員には各官庁のOBが天下りしています。しかも、JITCOは、監理団体や受け入れ先から年13億円の会費収入を得ているのです。

 受け入れ企業の上には監理団体と送り出し機関があって、さらに制度を統括するJITCOが存在する。このピラミッド構造を通じ、実習生の受け入れが一部の業界関係者と官僚機構の収入源となっている。そして陰では、官僚や政治家たちが利権を貪っているわけだ。その結果、実習生の賃金は不当に抑えられてしまう。


しかし、話はこれだけにとどまりません。実習制度の問題点が指摘されると、その「改善」と制度の拡充を目的に、あらたな法律(技能実習適正化法)が作られたのでした。そして、同法の成立に伴い、今年1月、JITCOとは別に、厚労省と経産省によって外国人技能実習機構(OTIT)という監理機関が設立されたのでした。しかし、OTITも受け入れ先企業や監理団体からの「会費」を収入源としており、またひとつピンハネ先と天下り先が増えたと言っても言いすぎではないでしょう。「転んでもタダでは起きない」如何にも官僚らしいやり方ですが、出井康博氏もあたらしい監理機関の設立について、「官僚利権」の「焼け太り」だと批判していました。

そのOTITのサイトに、先日、つぎのような「重要なお知らせ」が掲載されていました。

外国人技能実習機構(OTIT)
送出機関との不適切な関係についての注意喚起

でも、これがみずからを棚にあげたきれい事にすぎないことは誰が見てもあきらかでしょう。諸悪の根源は、国が主導する「”ピンハネ”のピラミッド構造」にあるのです。

しかし、“現代の奴隷制度”は、実習制度だけではありません。技能実習生の”悲惨な実態”を取り上げる新聞社に対しても、出井氏は批判の矛先を向けています。新聞社も決して他人事ではないのです。

今や都市部の新聞配達は外国人(特にベトナム人)留学生なしでは成り立たないと言われています。彼らは、留学ビザで来日していますので、就労は「週28時間以内」に制限されています。しかし、彼らの目的は勉学ではなく就労(出稼ぎ)です。日本語学校のなかには、手数料を取ってアルバイトを斡旋しているところもあるそうです。

人手不足に悩む新聞販売店は、(なにがあっても泣き寝入りするしかない)彼らの”弱み”に付け込み、「週28時間以内」の制限はおろか、法定賃金や法定休日を無視した違法就労を強いているのです。出井氏は、「外国人労働者で今、最もひどい状況に置かれているのは実習生ではなく、留学生」で、その典型が「新聞配達の現場」であると書いていました。

 朝日新聞本社社員の平均年収は約1237万円(2015年3月末)にも達する。そんな高給も販売所、そして配達現場で違法就労を強いられている外国人たちのおかげなのである。


まったくどこに正義や良心があるんだと言いたくなります。テレビやネットでは、相変わらず「ニッポン、凄い!」の自演乙が満開ですが、(大手企業の検査データ改ざんなどもそうですが)どこが「凄い!」のだろうと思ってしまいます。ホントに日本は世界の人々があこがれる「凄い!」国なのか。出井氏もつぎのように書いていました。

 シリア内戦で難民が欧州に押し寄せた際、日本も彼らを受け入れるべきだという声が出た。確かに日本は、欧米の先進国と比べて難民の受け入れ数は少ない。だが、難民にとっては日本は魅力的な国なのだろうか。事実、400万人にも達したシリア難民のうち、日本への亡命を希望した人はわずか60人程度と見られる。命がけで国を逃れたシリア人にとってすら、日本は「住みたい国」ではないのである。
 今、日本でも移民の受け入れをめぐっての議論が始まっている。だが、私から見れば、受入れ賛成派、そして反対派にも大きな勘違いがある。それは、「国を開けば、いくらでも外国人がやってくる」という前提で議論を進めていることだ。日本が「経済大国」と呼ばれ、世界から羨望の眼差しを注がれた時代は今や昔なのである。にもかかわらず日本人は、昔ながらの「上から目線」が抜けない。


外国人労働者の主流は、中国人や日系ブラジル人からベトナム人やネパール人に変わりつつあるそうです。中国人やブラジル人が少なくなっているのは、母国が経済発展して、もはや日本でお金を稼ぐ必要がなくなったからです。それは裏を返せば、出井氏が書いているように、日本が彼らに「見捨てられた」と言えなくもないのです。彼らにとって、日本はもはやお金を稼ぐ国ではなくなったのです。その魅力も必要性もなくなったのです。もちろん、そのうち、ベトナム人やネパール人からも「見捨てられる」ときがくるでしょう。

国家を食い物にすることしか能のない政治家や官僚たち。自分たちが坂道を下っているという自覚さえない国民。そこには、移民受け入れ是か非か以前の問題があるように思えてなりません。「ニッポン、凄い!」と自演乙しているのも、なんだか滑稽にすら思えてくるのです。


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上野千鶴子氏の発言
2017.12.20 Wed l 本・文芸 l top ▲