日本が売られる


向こう5年間で34万人の外国人労働者を受け入れる出入国管理法(入管法)改正案が衆院本会議で審議入りしましたが、議論の叩き台になるはずの法務省のデータに改ざんが見つかり、審議がストップしたままです。

移民は認めないと公言する日本政府ですが、2015年のOECD外国人移住ランキングでは世界第4位の”移民大国”になっているのです。

以下が、2015年のトップ10です。

1.ドイツ(約201万6千人)
2.米国(約105万1千人)
3.英国(約47万9千人)
4.日本(約39万1千人)
5.韓国(約37万3千人)
6.スペイン(約29万1千人)
7.カナダ(約27万2千人)
8.フランス(約25万3千人)
9.イタリア(約25万人)
10.オーストラリア(約22万4千人)

労働力不足と言っても、要するに、政府が発表した「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)で謳われているように、「介護」「建設」「農業」「宿泊」「造船」など、いわゆる3Kの仕事で、低賃金の若年労働力が不足しているという話なのです。

先日、日立製作所が山口県下松市の笠戸事業所で働くフィリピン人技能実習生40人に解雇を通告した問題で、実習期間の残り2年間分の基本給と生活費として月に2万円を支払うことで実習生と和解したというニュースがありましたが、基本給は14万円だそうです。

別のニュースでは、実習先から失踪して東京の飲食店で働いていた元実習生の話が出ていましたが、彼が得ていた給与は月に20万~25万円だったそうです。

これでは、失踪したくなるのは当然という気がしますが、しかし、20~25万円の給与も(福利厚生がほとんどないことを考えれば)最低レベルの賃金です。技能実習生の給与は、文字通り“最低以下”なのです。

どうして“現代の奴隷制度”とヤユされるような“最低以下”の給与しか貰えないのかと言えば、前に書いたとおり(『ルポ ニッポン絶望工場』)、監理機関や監理団体など官僚の天下り機関による(「会費」や「管理費」などの名目の)ピンハネがあるからです。実習生ひとりにつき10万円近くのピンハネが行われているという話さえあります。

ところが、まだ始まったばかりとは言え、入管法改正をめぐる国会審議や、あるいはメディアの報道においても、このピンハネの問題がいっこうに出て来ないのです。何か不都合でもあるのか、不思議でなりません。

一方で、ホントに人出不足なのかという疑問もあります。仕事がきつくて賃金が安いので敬遠されているだけではないのか。

堤未果氏は、WEBRONZAで、「現在日本には一年以上、職についていない長期失業者が約50万人いる」と書いていました。

WEBRONZA
人間にまで値札 外国人労働者拡大の危うさ

堤氏が書いているように「人材がいないのではない」のです。労働条件が劣悪なので、なり手がいないだけなのです。

 景気を良くするためだ、などと言って金融緩和をしても、永住まで可能な外国人を数十万人規模で受け入れれば、価格競争によって賃金は地盤沈下を起こし、日本人の失業者や単純労働者は、今後入ってくる移民との間で仕事を奪い合うことを余儀なくされるだろう。


外国人労働者の流入が、日本のアンダークラスの賃金を押し下げる要因になるというのは、これまでも指摘されていました。

堤氏は、新著『日本が売られる』(幻冬舎新書)の中でも、次のように書いていました。

 一橋経済研究所の試算でも、単純労働に外国人が100万人入れば、国内の賃金は24%下落するという数字が出ているのだ。
 こうした政府の方針によって、「人・モノ・サービス」はますます自由に国境を越えて売買され、2019年のTPP発効までに、日本に参入してくる外資や投資家が「世界一ビジネスしやすい環境」が着々と作り上げられてゆく。


ネオリベラリズムに拝跪して(国を売り渡して)、何が愛国だ、何が「日本を、取り戻す」だと言いたいですが、一方で、プロレタリアートに国境はないという左翼のインターナショナリズムが、現代に奴隷制度をよみがえらせたネオリベと同床異夢を見ているという救いがたい現実があることも、忘れてはならないでしょう。


関連記事:
『ルポ ニッポン絶望工場』
上野千鶴子氏の発言
2018.11.17 Sat l 社会・メディア l top ▲
先日、朝日新聞に掲載された『新潮45』の休刊に関する記事に対して、次のようなTwitterの書き込みを見つけました。

朝日新聞デジタル
新潮45の休刊、櫻井よしこさんと池上彰さんの評価は


まったくその通りです。ここにも、「言論の自由」を無定見に信奉する朝日新聞のオブスキュランティズムがあるのです。かつて羽仁五郎は、オブスキュランティズムについて、「明日は雨が降るけど天気はいいでしょうと言っているようなものだ」と書いていました。

コメントにあるように、ヘイトに寄生する極右の女神は、従軍慰安婦の問題では嘘を重ねて植村元記者と朝日新聞を攻撃してきたのです。そして、“朝日国賊”のイメージを拡散したのでした。そんな櫻井よしこの嘘は、裁判でも認定されているのです。

「外教」氏の次のような書き込みにも激しく同意します。


『新潮45』休刊に関しても、朝日新聞は、先日、次のような佐伯啓思氏の「感想」を掲載していました。

朝日新聞デジタル
(異論のススメ)「新潮45」問題と休刊 せめて論議の場は寛容に

佐伯氏は言います。

第二に、そもそも結婚や家族(家)とは何か、ということがある。法的な問題以前に、はたして結婚制度は必要なのか、結婚によって家族(家)を作る意味はどこにあるのか。こうした論点である。そして第三に、LGBTは「個人の嗜好(しこう)」の問題なのか、それとも「社会的な制度や価値」の問題なのか、またそれをつなぐ論理はどうなるのか、ということだ。しかし、杉田氏への賛同も批判も、この種の基本的な問題へ向き合うことはなく、差別か否かが独り歩きした。これでは、不毛な批判の応酬になるほかない。


LGBTは、「結婚」や「個人の嗜好」や「社会的な制度や価値」などとはまったく関係がないのです。むしろそういったことと関連付けることによって、差別がはじまるのです。「生産性」発言も、まさにそこから生まれているのです。LGBTは、社会的な制度や規範によって隠蔽されていた(”異常なもの”として抑圧されていた)にすぎないのです。もちろん、社会的な制度や規範に従属する「個人の嗜好」でもないのです。

佐伯氏は、一度だってLGBTの問題を真面目に考えたことさえないのでしょう。これじゃ自称「文芸評論家」と五十歩百歩です。

また、別の日に掲載された三輪さちこ記者による、もうひとりの極右の女神=稲田朋美氏のインタビュー記事は、さらに輪をかけてお粗末でした。

朝日新聞デジタル
稲田朋美氏「多様性尊重が保守の本来 杉田さん議論を」

稲田氏の発言は、どれも「よく言うよ」の類のものでしかありません。しかし、稲田氏の二枚舌に対して、ヘイトを煽った責任をどう考えているのかと質問することさえないのです。杉田水脈に代表されるように、性的少数者への差別と民族排外主義が通底しているのは、論を俟たないでしょう。稲田氏が信仰する生長の家原理主義=日本会議の”国家主義思想”とLGBTはどう相容れるのか、当然、訊くべきでしょう。これじゃジャーナリストではなく、御用聞きと言うべきでしょう。

そう言えば、安倍昭恵氏を「家庭内野党」などと言って持ち上げたのも、朝日の女性記者でした。今になれば、あの記事が如何にデタラメであったということがよくわかります。彼女達は、記者として最低限必要なものが欠落しているのではないか。そう思えてなりません。

朝日新聞は、「異なる」(と思っている)意見をただ機械的に並べるだけです。それでバランスを取っているつもりなのでしょう。両論併記が民主主義のあるべき姿と思っているのかもしれません。多くの人は朝日がリベラルだと思っているみたいですが、リベラルなんて、佐伯氏が言う「寛容さ」と同じで、現実回避の詭弁でしかないのです。
2018.10.15 Mon l 社会・メディア l top ▲
「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という、開き直りとも思える特集を10月号で組んだ月刊誌『新潮45』が批判を浴び、ついに「休刊」することが発表されました。ちなみに、雑誌の場合、新規に取得するのが難しい「雑誌コード」を残すため、事実上の廃刊でもほとんどが「休刊」という届けが出されるそうです。

この“開き直り特集”が如何にひどいシロモノか、たとえば、自称「文芸評論家」の小川榮太郎氏は、特集で次のように書いています。

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAG(編注:サドとマゾとお尻フェチと痴漢を指す小川氏の造語とのこと)の人達もまた生きづらかろう。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。

満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。」
(文芸評論家・小川榮太郎氏「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」より、一部中略)

※「HUFFPOST」より転載。
新潮社公式アカウントが「新潮45」批判を怒涛のリツイート 「中の人がんばって」の声援寄せられる


タイトルは秀逸ですが、書いていることは”危ないオヤジ”の戯言です。これでよくもまあ「文芸評論家」なんて自称できるものだと思います(私は本を読むのが好きですが、小川榮太郎なんて文芸評論家は聞いたことがありません)。

一方、上記の「HUFFPOST」の記事にあるように、10月号が発売され批判が巻き起こると、“中の人”である「新潮社出版部文芸」の公式Twitterが、同号を批判するコメントをリツイート。さらに「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という同社創業者・佐藤義亮氏の言葉もツイートし、話題になりました。「中の人がんばれ!」なんていうコメントも、ネットには多く寄せられました。

これらの声に対して、能町みね子は、次のようにコメントしていました。


要するに、「新潮社出版部文芸」のツイートは、新潮社お抱えの作家・ライター達に「逃げ場を用意した」ものにすぎません。日頃リベラルな発言をしている作家センセイ達にとって、この特集と言うか、この批判は耐え難いものがあるでしょう。ヨーロッパの民主主義の二重底ではないですが、彼らもまた作家・ライターとして二重底の中を生きているのです。そうやってリベラルなボクがヘイト出版社から本を出す矛盾を覆い隠しているのです。

今日のリテラには、『新潮45』の杉田水脈発言が編集長の暴走などではなく、担当役員からお墨付きをもらっていたという記事が出ていましたが、新潮社が昔からヘイト出版社であることは半ば常識でした。何も『新潮45』に限った話ではないのです。私もこのブログで何度も書いていますが、『週刊新潮』の方がもっと悪質です。

リテラ
「新潮45」休刊声明の嘘! 杉田水脈擁護、LGBT差別は「編集部」でなく「取締役」がGOを出していた

リテラの記事によれば、「新潮社出版部文芸」のツイートも、「あまりに常識を逸脱した偏見が見受けられた」という社長声明も、ワイドショーなどにコメンテーターとして出演している中瀬ゆかり氏(文芸担当取締役)主導による「作家対策」なのだとか。

新潮社は、文芸部門と雑誌部門は、同じ会社と思えないほど気風が違っているとか、経営者が編集にいっさい口出しをしない編集権が確立されており、それが新潮社の伝統だなどという記事が出ていましたが、そんな都合のいい話があるわけないでしょう。新潮社から本を出している作家センセイ達の自己弁解のようなものでしょう。

新潮社は筋金入りのヘイト出版社です。「良心」をせせら笑うような出版社なのです。日本の文学は、そんなヘイト出版社によって支えられているのです。大江健三郎も、高橋源一郎も、星野智幸も、二重底の中で“文学を営んでいる”だけです。

『「週刊新潮」の内幕 - 元編集部次長の証言』(第三文明社)という30年以上前に出た本がありますが、その中で著者の亀井惇氏(故人)は、『週刊新潮』のことを「冷笑主義」「韜晦趣味」と表現していました。亀井氏は、新潮社に21年勤めた、文字通り”中の人”ですが、本では、『週刊新潮』の記事が「アカ嫌い」の幹部達の意向に沿って作られていたことを仔細に証言しています。

業界では知られた話ですが、かつての名物コラム「東京情報」の執筆者のヤン・デンマンなる「在日外人記者」も、社内で権勢を振るっていた斉藤十一重役(故人)の立案によるもので、ヤン・デンマンは「在日外人記者」でもなんでもなく、架空の人物だったそうです。同コラムでは、「戦後の日本人は人権を安易につまみ食い的にむさぼった結果、義務を忘れて〈社会を腐らせつつある〉」と主張し、「その”元凶”として憲法をやり玉にあげている」のでした。新潮社の「反人権体質」は、今にはじまったことではないのです。

余談ですが、昔、自宅近くの鎌倉の小町通りの小料理屋で一献を傾けている斉藤十一氏を、『噂の真相』が隠し撮りして誌面に掲載し、新潮社が激怒したという”事件”がありましたが、最近そういった骨のあるメディアがなくなったことも、新潮や文春のような”反人権メディア”がのさばる要因でもあるように思います。『新潮45』の編集長や新潮社の社長を直撃取材したメディアが一社もないのも、不思議でなりません。それがこの国の「言論の自由」なのです。

また、ヘイト本を出すのはビジネスのためだ、売れりゃなんでもいいという考えこそ問題だとか、ヘイト本を批判するあまり出版社を追い込むのは「言論の自由」を侵すことになるという意見があります。

実際にネトウヨなどは、「言論の自由」を逆手に取って、ヘイト本を批判する「ブサヨ」に対して、言うこととやってることが違うじゃないかと批判しています。「僕らの民主主義」(高橋源一郎)に安眠を貪る左派リベラルの痛いところを衝いているように思えなくもありません。

中には、「新潮社は言論機関だから」というような物言いさえありますが、新潮は「言論機関」なんかではありません。新潮社の「言論の自由」なんてどうだっていいのです。

小林よしのりは、BLOGOSで次のように書いていました。

BLOGOS
新潮45は炎上商法として大成功である

問題は「差別したい」という意見表明は許されるのかである。
思想言論の自由として許されるか?
それとも弾圧してしまうべきか?

市場に任せていても悪貨が良貨を駆逐するだけである。
市場の浄化作用なんかない。


「言論の自由」ってなんだ、とあらためて考えざるを得ません。「言論の自由」に寄りかかっている限り、権力を持つ側が「強い」のは当たり前でしょう。百家争鳴、談論風発というのは、民主主義の幻想です。賛否両論(両論併記)というオブスキュランチズムの罠に陥るだけです。

「言論の自由」を盾に、新潮に圧力をかけるのは言論弾圧ではないか、焚書坑儒ではないかというネトウヨの批判に対して、「言論の自由」に差別する自由は含まれない、差別は「言論の自由」の敵だと反論しても、なんだか自家撞着のようにしか思えません。

むしろ、「電通ダイバーシティ・ラボ」などの「市場の浄化作用」の方がよほど効果的な気がします。今回の「休刊」というトカゲの尻尾切りも、ある意味で「市場の浄化作用」が働いたと言えなくもないのです。でも、新潮社のヘイト体質は温存されるでしょう。これからも『週刊新潮』はヘイトな記事を流しつづけるでしょう。

「自由」というのは、かように非力で無力なものなのです。個人的には、(その可能性は低いようですが)今回の「休刊」が新潮社の「経営に深刻な打撃を与える」ことを願うばかりです。不買運動もない。新潮社から本を出している作家センセイを糾弾する声もない。だったら、もう自壊を待つしかないのです。一連の流れを見ても、そういう虚しさと歯がゆさしかありません。


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杉田水脈発言と性の商品化
メディアも大衆も目クソ鼻クソ
2018.09.26 Wed l 社会・メディア l top ▲
10代の終わり頃だったと思いますが、なにかの雑誌で、五木寛之氏と寺山修司が「市民的価値意識批判」というテーマで対談しているのを読んだことがありました。

当時はまだ全共闘運動の余韻が残っていて、論壇もいわゆる“新左翼的な論調”が主流でした。二人の対談のように、「市民的価値意識」を批判するのも半ば常識のような感じでした。今風に言えば、右か左かではなく上か下かの視点が存在していたのです。総評が主導する左派の労働運動も、本工主義だと批判されていました。労働の現場には、本工→下請工→期間工と言った三重の差別構造が存在していると言われていました。当然、左翼の権威の象徴でもあった日本共産党は、徹底的に批判されていました。民青の運動なんて、資本主義的な価値意識を補完する欲望のナチュラリズムにすぎないと批判する文章を読んだ覚えもあります。

しかし、今は「市民的価値意識」が金科玉条のようになっています。それこそ自民党から共産党まで、「市民的価値意識」を批判する政党なんていません。各政党は、「市民的価値意識」にどれだけ貢献できるかを競っているのです。与党も野党も同じ土俵で相撲を取っているだけです。「市民的価値意識」は、至上の価値になっているのです。まさに「市民」は神様なのです。

一方で、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるのです。OECDの加盟国のなかでも飛びぬけた格差社会なのです。労働の現場でも、差別構造は温存されたままです。それどころか、製造派遣が解禁され、益々劣悪になっている現状があります。

この国には、既成政党が用意する土俵に上がれない、「市民」にもなれない人たちが多くいるのです。

同じ土俵で相撲を取っている限り、野党が与党に勝てないのは当然です。有権者にとって、与党も野党も似たもの同士にしか見えないでしょう。だったら、政権与党の方が安心だと考えるでしょう。

「市民的価値意識」に安住し、欲望のナチュラリズムを美徳とする有権者には、”安倍独裁”なんてどうだっていいのです。武蔵小杉のタワマンの住民に向かって、改憲を目論む安倍政治にノーを突き付けましょうなんて演説しているのは、滑稽ですらあります。

弱肉強食を是とする風潮の中で、ものごとの本質が隠蔽されていますが、階級の問題は決して過去の話ではないのです。むしろ、すぐれて今日的な問題でもあるのです。右はもちろん、左もそれに目を向けてないだけです。

ブレンディみか子氏は、左派は経済を語ることをやめてしまったと書いていましたが、左派というのは、言うなればサンクコストの呪縛に囚われた、もうひとつの保守にすぎないのです。そこに、左派が存在感を失った理由があるのだと思います。

何度もくり返しますが、右か左かではなく上か下かなのです。これも既出ですが、以前、ブレンディみか子氏は、ポデモスのイグレシアスの、次のような言葉を紹介していました。

「勝つためには、我々は左翼であることを宗教にするのをやめなければならない。左翼とは、ピープルのツールであることだ。左翼はピープルでならなければならない」


しかし、私は、イグレシアスの言葉をこう言い換えたくなりました。「勝つために、我々は左翼であることをやめなければならない。左翼に代わって、新しいピープルのツールを作らなければならない」と。

左翼こそめぐまれた既得権者だというネトウヨの”放言”も一理あるように思います。国会前デモや排外主義に反対する人たちのSNSなどを見ても、なんだか政権批判ごっこをしているようにしか見えません。”安倍独裁”と言いながら、危機感や絶望感はあまり伺えません。安倍政権と同じように、「やってる感」で自己慰撫しているだけのようにしか見えないのです。

ネトウヨに対して、「オマエたちはオレたちのような『市民』ではないだろう。ざまあみろ」みたいな”批判”が何のためらいもなく行われているのを見るとき、私は、暗澹たる気持にならざるを得ません。

今、必要なのは、左翼と決別することでしょう。左翼のドグマに無頓着な左派リベラルに引導を渡すことでしょう。そして、与党にも野党にも、もっと絶望することでしょう。全てはそこから始まるのだと思います。


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ギリシャ問題と「勝てる左派」
2018.09.13 Thu l 社会・メディア l top ▲
体操の宮川紗江選手のコーチが、練習中に宮川選手に暴力を振るったとして、日本体操協会から無期限登録抹消処分を受けた問題がメディアを賑わせています。一方、処分に反発した宮川選手は、日本体操協会の塚原千恵子女子強化本部長と夫の光男副会長にパワハラを受けたと告発。さらに今日、宮川選手がパワハラを受けたと主張する面談の音声データが塚原氏側から公開されました。

データの公開に際して、塚原氏側は、「私たちの言動で宮川紗江選手の心を深く傷つけてしまったことを本当に申し訳なく思っております」と謝罪し、データの公開も、宮原選手と対決する意図はなく、「高圧的」だという誤解を解くためであるという声明を出していました。

この問題の背景に、メディアの塚原夫妻に対する私刑(リンチ)があるのはたしかでしょう。宮川選手の告発によって、発端となった暴力を伴う指導法の問題は片隅に追いやられたのでした。そして、日本の体操界で大きな力を持つ塚原夫妻を“悪”と裁断する印象操作がメディアを覆うようになったのです。それはあきらかに問題のすり替えです。

宮川選手と速見コーチの関係を「宗教みたい」と言ったのも、(それが適切な表現ではなかったものの)選手とコーチの「共依存」を懸念した発言だったのかもしれません。一部の関係者が指摘するように、アスリートが次のステップに進むためにコーチを変えるのは、フィギュアスケートなどでもよくあることです。塚原氏はそうアドバイスしたかったのかもしれないのです。

テープ自体も、体操協会の強化合宿かなにかで、宮川選手が(速見コーチがいない)合宿を途中で引き上げると言い出したので、そんなことでどうするの、それじゃオリンピックにも出られないわよ、と説得(あるいは説教)していたような感じでした。会話を隠し録りしたのも、宮川選手がスポンサーと契約の問題でトラブルになっているので、念の為に録音したというようなことを言ってました。宮川選手はもともと「面倒くさい」選手だったのかもしれません。

日大アメフト部の悪質タックル問題以降、メディアの私刑(リンチ)はエスカレートするばかりです。メディアは、私刑(リンチ)によって視聴率(部数)が稼げる旨味を知ったのです。メディアは、次から次へと”獲物”を物色している感さえあります。

岐阜の病院の問題でも、テレビはニュースの中で、「病院が死亡診断書の死因を『熱中症』ではなく『病死』と書いていたことが判明しました」と言っていました。私は、最初、何が言いたいのかわかりませんでした。病院は「熱中症」が死因ではないと言っているのですから、「病死」と書くのは当然でしょう。

また、入院患者が死亡したことについても、「病院は警察に届けていませんでした」と言ってました。でも、入院中に病死したのであれば警察に届ける必要はないでしょう。法的になんら問題はないのです。メディアは、病院があたかも何か隠蔽しているかのような印象操作を行っているのでした。

メディアの私刑(リンチ)は、もはや”病的”と言ってもいいくらいです。印象操作によって、”犯罪”をねつ造さえしているのです。そして、思考停止した大衆は、塚原は”悪”だ、病院は患者を殺した、という予断に縛られ、メディアに踊らされるのです。それが彼らにとっての“真実“なのです。

これからも、「ネットとマスメディアの共振」(藤代裕之氏)による、視聴率(部数)稼ぎの私刑(リンチ)は続くことでしょう。 ”獲物”として狙われたら最後、ヤクザの言いがかりのような論理で市中引き回しの刑に処され、社会的に抹殺されるのです。しかも、私刑(リンチ)に異を唱える、気骨のあるメディアさえないのです。まさに、これこそデモクラティック・ファシズム(竹中労)と言うべきでしょう。
2018.08.31 Fri l 社会・メディア l top ▲
岐阜市の病院で、80代の入院患者が相次いで死亡したのは、エアコンが故障していたことによる熱中症が原因ではないかという問題が浮上しています。岐阜県警も、業務上過失致死の疑いで、家宅捜索を行ったというニュースもありました。

テレビのワイドショーでは、「殺人罪」の容疑も視野に入っていると言ってましたが、仮に、エアコンの故障が原因で熱中症で亡くなったにしても、「殺人罪」が適用されるなどあり得ないでしょう。

病院はエアコンが故障したため扇風機を使っていたそうですが、当然、看護婦や介護職員も患者をケアするために部屋に出入りしていたでしょうし、食事も毎日運んでいたでしょう。業務上過失致死だって難しいのではないかと思います。

私は、医療の現場を間近で見た経験から、この問題を自分なりに考えてみました。

件の病院は、「終末期医療」を担う療養型病床が主体の、所謂「老人病院」だったようです。昔と違って、今は医療費を圧縮するために国の方針が細分化され、それに伴って病院も機能別に細かく分かれています。大きく分けて高度急性期・急性期・回復期・慢性期の四つに分かれており、通常、私たちがイメージする病院は、大学病院などの高度急性期と総合病院の急性期の病院でしょう。外来が活発なのも、この二つの病院です。

当然、医療の質も違ってきます。建前上、質に違いはないことになっていますが、ドクターや看護師などの質は全然違います。そもそも医療設備からして違います。「終末期医療」と言えば聞こえはいいですが、それは手厚いケアが行われる大病院の緩和病棟などとは似て非なるものなのです。

私の知っている病院(回復期と慢性期を兼ねる病院)は、開業して10年も経ってないホテルのようなきれいな病院で、他の病院に比べて「患者の(所得)レベルが高い」と言われていますが、それでも入院患者の3割は家族がほとんど面会に来ないそうです。

この問題が浮上したのは、死亡した患者の成年後見人が警察におかしいと訴えたからだそうですが、では、家族からのクレームはどうしてなかったのかと思いました。今の病院は、昔と違って家族からのクレームに敏感です。家族は見舞いにも来てなかったのではないか。あるいは、身寄りのない患者が多かったのかもしれません。

ワイドショーを見ていたら、入院患者が救急車で移送されたとかで、レポーターたちが大騒ぎしていましたが、「老人病院」はあくまで慢性期の療養型病床なので、容態が急変したら、急性期の病院に救急搬送するのはよくあることです。なにか事件でも起きたかのように大騒ぎするような話ではないのです。ワイドショーは全てがこのレベルです。

旧大口病院での「大量殺人」でも、犯人の看護師が稀代の殺人鬼のように報道されていますが、私は、彼女はメンヘラだったように思えてなりません。医療従事者は、仕事の重圧に加えて職場の人間関係にも悩ませられるので、メンヘラになる人間が多いのです。まして「姨捨山」と陰口を叩かれるような「終末期医療」の実態を目にすると、ある種の“衝動”に駆られることがないとは言えないでしょう。「終末期医療」の「老人病院」の場合、「看取り」の確認書や指示書を家族から貰うのが通例ですが、その多くが延命処置を行わず自然に任せるのが希望だと言われています。

看護師はどこの病院も人手不足で(まして「老人病院」はよけいそうです)、みんな疲弊しています。旧大口病院の彼女の場合は、点滴に界面活性剤を混入したと言われていますが、疲弊し情緒不安定になった中で、喉に通した管を抜くだけでこの患者は楽になるのだ、と耳元で悪魔に囁かれることだってあるかもしれません。家族からも見捨てられ、生命維持装置を付けられてただ死を待つだけの患者。そういった現場を日常的に見ていると、人の死に対して、ナイーブな感覚もマヒしていくでしょう。残る砦は、人の命は地球より重いなどという20世紀の人権思想(ヒューマニズム)だけです。子供から「どうして人を殺してはいけないの?」と問われて、しどろもどろになるような思想だけなのです。

社会の片隅に追いやられ、決して恵まれているとは言えない医療環境で人生の終わりを迎える老人たち。一日に4人が亡くなるのも、「老人病院」だったらあり得ない話ではないでしょう。それをとんでもないことのように言うメディア。責任逃れのために、病院に立ち入り検査をする小役人たち。彼らは、法に定められた医療監視を行っているはずなのです。立ち入り検査も、メディア向けのパフォーマンスのようにしか思えません。世間の人間も含めて、みんな、自分たちの無関心や無責任を棚に上げ、カマトトぶって病院を叩いているだけです。


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メディアも大衆も目クソ鼻クソ
福祉」の現場
2018.08.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
8月15日の朝日新聞に、敗戦直後、旧満州に入植した開拓団の女性たちが、当時のソ連兵に対して「性接待」をさせられていたという記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
開拓団の「性接待」告白 「なかったことにできない」
「性接待」証言活動支える家族 母たちの犠牲なければ

記事によれば、 開拓団の女性たちは、開拓団の幹部から「『(夫が)兵隊に行かれた奥さんたちには、頼めん。あんたら娘が犠牲になってくれ』と言われた」そうです。背景には、敗戦になって、彼らが日本軍に置き去りにされたという深刻な事情があったのでした。ただ、日本軍の中でも、下級兵士は同じように置き去りにされ、石原吉郎が書いているように、ソ連軍の捕虜となり過酷な抑留生活を余儀なくされたケースも多くありました。一方、戦争を指導した関東軍の上級将校たちは、いち早く日本に逃げ帰ったのです。

 「白川町誌」などによると、黒川開拓団は1941年以降、600余人が吉林省陶頼昭に入植した。敗戦後、旧日本軍に置き去りにされ、現地住民らによる暴行や略奪を受け、隣の開拓団は集団自決した。

 当事者の証言によると、黒川開拓団は幹部が近くの旧ソ連軍部隊に治安維持を依頼。17~21歳の未婚女性15人前後を「接待」に出した。45年9月から11月ごろまで続いた。一時期、中国兵の相手もさせた。


もちろん、これはホンの一例でしょう。こういった話はほとんど表に出てきていません。当事者たちは、口を噤み、胸の奥深くに秘匿して戦後を生きてきたのです。と言うか、戦後を生きるために、秘匿してきたのでしょう。

このような「性接待」の延長に、従軍慰安婦の問題が存在しているのは言うまでもありません。日本政府は、敗戦後、「性の防波堤」という名目で、特殊慰安施設協会なるものを設立、占領軍向けに国営の慰安所(特殊慰安施設)を設置していますが、これは政府主導の「性接待」と言えます。

(以下に、以前、このブログで書いたことを再掲します)

高見順は、『敗戦日記』(中公文庫)のなかで、この「特殊慰安施設」について、つぎのように書いています。

世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が―。
(略)
戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。


日本政府は占領軍のために、自国の婦女子を「淫売婦」に仕立てて提供したのです。しかも、「特殊慰安施設協会」なる名称からわかるように、そこには戦争中の従軍慰安婦のノウハウが生かされていたのです。

五木寛之は、朝鮮半島から引き揚げる際に、みずから体験したことをエッセイに書いています。しかし、それは例外と言ってもいいほどめずらしいことです。

数十人の日本人グループでトラックを買収して、深夜、南下している途中、ソ連軍の検問にひっかかり、お金を出せ、お金がなければ女を出せと言われたそうです。それも三人出せと。すると、グループのリーダーたちが相談して、三人の女性が指名されたのでした。

 指名された三人は全員の視線に追いつめられたように、トラックの荷台の隅に身をよせあって、顔をひきつらせていた。
「みんなのためだ。たのむよ」
 と、リーダー格の男が頭をさげて言う。言葉はていねいだが、いやなら力ずくでも突きだすぞ、といった感じの威圧的な口調だった。
 しばらく沈黙が続いたあと、その一人が、黙ってたちあがった。あとの二人も、それに続いた。
 運転手に連れられて三人の女性たちはトラックを降りて姿を消した。車内のみんなは黙っていたが、ひとりの男が誰にともなく言った。
「あの女たちは、水商売の連中だからな」
 一時間ほどして三人がボロボロのようになって帰ってくると、みんなは彼女たちをさけるようにして片隅をあけた。
「ソ連兵に悪い病気をうつされているかもしれんから、そばに寄るなよ」
 と、さっきの男が小声で家族にささやいた。やがてトラックが走りだした。
 私たちは、そんなふうにして帰国した。同じ日本人だから、などという言葉を私は信じない。

『みみずくの夜メール』(幻冬舎文庫)


中には、そのまま戻って来なかった女性もいるそうです。

民間人を置き去りにしていち早く逃走した帝国軍人たち。彼らにとって、こういった悲劇はなかったことになっているのです。そして、彼らは、戦後ものうのうと生き延び、自分たちが靖国の”英霊”の代弁者であるかのように振舞い、「戦後はお金や物万能の世の中で、心が疎かになっている」「日本人の誇りを失っている」なんて説教を垂れていたのでした。今はその子供や孫たちが同じことを言っています。なかったことにしている「性接待」を取り上げた朝日新聞は、「反日」「中共の手先」と攻撃されるのです。それがこの国の「愛国」なのです。


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2018.08.17 Fri l 社会・メディア l top ▲
杉田水脈議員のLGBTに対する「生産性がない」発言の何が問題かと言えば、それがナチスの優生思想へつながる“悪魔の思想”だからです。杉田議員は、名うてのレイシストとして、国会議員になる前から知られた存在でした。中には、Yahoo!ニュースのコメント欄に巣食う某カルト宗教との関係を指摘する人もいました。

杉田議員は、みんなの党から日本維新の会に移り、折からの“維新(橋本)ブーム“に乗って当選し
衆議院議員を一期務めたものの、次の選挙で落選。その後・次世代の党・日本のこころと渡り歩き、国政復活をめざしていた際、そのヘイト思想が目に留まったのか、桜井よしこ氏によれば「安倍さんが杉田さんって素晴らしいと言うので、萩生田さんとかが一生懸命になってお誘いして」、昨年の総選挙で自民党の比例中国ブロックの単独候補として公認され、当選、待望の国政復活を果たしたのでした。

名うてのレイシストである彼女が自民党から一本釣りされて再び国会議員になったことに、思わずのけ反った人も多いはずです。彼女のことを知っていれば、今回のような発言も別に驚くことではないのです。

杉田議員は、以前は「待機児童なんて一人もいない」「保育所は、家庭を崩壊させようとするコミンテルの陰謀だ」などと発言し、子育て支援に対しても批判的だったのですが、今回の寄稿では、一転して子育て支援に理解を示していました。子育ては「生産性がある」からでしょうか。

地盤を持たない比例選出の議員の場合、次の選挙で上位に指名されるためには、党内に向けて日頃から自分をアピールする必要があります。杉田議員も、そうやって安倍首相や自民党の大物議員たちに媚を売り、みずからの存在をアピールしているのでしょう。自分に目をかけて国政復活を手助けしてくれた恩人の安倍首相に喜んでもらおうと思ったのかもしれません。

ただ、稲田朋美氏が「多様性を認め、寛容な社会をつくることが『保守』の役割だ」(ツイッター)と批判めいたことを言ったり、安倍首相も「多様性が尊重される社会を目指すのは当然だ。これは政府、与党の方針でもある」と(白々しく)発言するなど、自民党内でも、(「LGBTは趣味みたいなもの」と言った低●議員を除いて)表立って杉田発言を擁護する人がほとんどいないのも事実です。時代はもはや杉田発言を擁護できないほど、LGBTが市民権を得つつあるのです。「多様性」や「ダイバーシティ」という言葉が、当たり前のこととして流通するようになっているのです。

前も書きましたが、電通も、「電通ダイバーシティ・ラボ」という専門組織を立ち上げ、LGBTをビジネスにつなげようとしています。電通のソロバン勘定によれば、LGBT市場は「約5.9兆円」まで拡大しているそうです。

杉田水脈議員の優生思想は論外としても、少なくともLGBTに関しては、日本の社会でも認知されつつあるのは間違いないでしょう。今回の問題で、あらためてそう感じた人も多いのではないでしょうか。

しかし、天の邪鬼な私は、同時に、若い頃に読んだ(と言っても途中で挫折したのですが)フーコーを思い出さざるを得ないのでした。知ってのとおり、フーコーも同性愛者でした。

フーコーによれば、18世紀以降の西欧社会では、性の「言語化」が図られ、それが個人の(主体性)の形成に関わるようになったと言います。つまり、性はただ単に禁忌されるべきもの・排除されるべきものから、医学や教育学や法学など知の対象(フーコーの言う「知への意志」の対象)になったのです。そうやって私たちは、みずからの性的欲望や性的行動を客観的に認識するように仕向けられたのです。もちろん、それは性の「解放」というような単純な話ではありません。むしろ、権力によって性が管理されコントロールされることを意味するのでした。権力は細部に宿り、さらに細部に細部に宿ろうとするものです。そのために、性が「言語化」され、性の拡大(と同時に「分節」)が意図されるのです。

杉田発言を誰も表立って擁護できないほどLGBTが認知されつつあるのも、それだけLGBTが権力によって管理され整序されつつある(されている)からだとも言えます。そうやって権力は私たちの身体の隅々にまで入り込み、「電通ダイバーシティ・ラボ」のように、資本主義のオキテ(=性の商品化)が貫徹されるのです。もとより文化とはそういうものでしょう。強制ではなく自発のように見えるのも、それだけ巧妙にコントロールされているからにほかなりません。それが権力の本来の姿です。こんなに苦しみました、こんなにつらい思いをしました、というような(日本人お得意の)”被害者史観”は、あらかじめ権力によって用意されたテンプレートとも言えるのです。

涙のカミングアウト(「告白」)は、フーコーが喝破した教会の「告解」(赦しの秘跡)と似ているように思えてなりません。「告白」が映し出しているのは、性に纏わる観念(の自明性)が整序され、操作されている私たちの心の風景です。フーコーは、そんな観念の奥に身を潜める権力を発見したのでした。

現代の権力は、杉田水脈議員のように、”逸脱する性”を排除したりタブー視したりすることはありません。もはや"逸脱する性"なんて存在すらしないのです。たとえば、下記のような記事を読むにつけ、涙の「告白」に違和感を抱かざるを得ないのでした。

電通報
今、企業がLGBTに注目する理由とレインボー消費
Sankei Biz
LGBT配慮商品に企業注目 「レインボー消費」販売戦略に取り入れ

今回の杉田発言でLGBTの認知はさらに深まるでしょう。杉田水脈議員は、LGBTを差別することで、逆にLGBTの認知(=広告)に貢献したとも言えるのです。まさにピエロとしか言いようがありません。そして、騒動の中でひとり微笑んでいるのが、LGBTという新たな市場を手に入れた電通なのかもしれません。
2018.08.10 Fri l 社会・メディア l top ▲
オウム真理教の死刑囚たちには、逮捕後もずっと寄り添いケアしていた身内や友人がいました。「知的エリート」であった彼らは、もともと家庭環境や友人関係に恵まれた人間が多かったのです。しかし、それでも、人知れず“生きる意味”について悩み、生きづらさを覚え、自分の居場所を探していたのです。

世間から鬼畜のように指弾される彼らに寄り添ってきた人たちを考えると、ホントに頭の下がる思いがします。そして、ホッとした気持になるのでした。

豊田亨死刑囚にも、大学1年で知り合い、東京大学理学部物理学科、同大学院で共に学んだ親友がいました。その伊東乾氏が、死刑執行を受け、『AERA』に寄稿していました。

AERAdot
オウム豊田亨死刑囚 執行までの3週間に親友が見た苦悩 麻原執行後に筆記具を取り上げられた

伊東氏は、1992年3月、突然行方不明になり、次に豊田死刑囚が「私達の前に現れたときは地下鉄サリン事件の実行犯となっていた」と書いていました。

逮捕後の99年から接見を始め、「最高裁で死刑が確定した2009年以降は特別交通許可者として月に1度程度、接見し、様々な問題を共に考え、責任の所在や予防教育の必要を議論してきた」そうです。執行の当日も、約束通り小菅の東京拘置所に向かった伊東氏は、「書類を窓口に提出すると程なく年配の刑務官から『面会は出来ません』と告げられた」のです。そして、「待合室にいる間に、彼を含む6人のオウム事犯の死刑が執行された」のでした。

豊田死刑囚は、公判でも「『今なお自分が生きていること自体申し訳なく、浅ましい」と語り、深く悔いていた』」そうです。

3月に拘置所内の「収監される階が変わり、昔長らく在房した階に戻った」豊田死刑囚は、死刑執行が間近に迫っている中で、次のようにくり返し言っていたそうです。

「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから断たなければ」


Yahoo!ニュースのコメント欄のように、「当然だ」「遅すぎたくらいだ」「執行しないで生かしつづけるのは税金の無駄使いだ」などと、彼らを「吊し上げて留飲を下げる」だけでは、オウムが私たちに突き付けた問題はなにひとつ解決しないでしょう。オウムの信者たちは、私たちの「親しき隣人」なのです。彼らの過ちは、決して他人事ではないのです。

聡明で真面目であるがゆえに、人生に悩み、苦しみ、挙句の果てにカルトに取り込まれて犯罪者になった彼ら。一方で、”生きる意味”を考える契機すら持たず(そんなことを考えるのはバカだと言わんばかりに)、ただ彼らを「吊し上げて留飲を下げる」だけのヤフコメの住人たち。不条理とはなにも難しい話ではないのです。このように、私たちのすぐ身近にあるものなのです。

また、私は、昨夜、広瀬健一死刑囚の手記を読みました。アゴラの宇佐美典也氏の記事で、手記の存在を知ったからです。

アゴラ
元オウム真理教信者、広瀬健一死刑囚の手記について

真宗大谷派 円光寺
オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記

読み終えたのは朝方でした。窓を開けると、朝もやの中で徐々に輪郭をあらわしてくる街の風景がありました。その風景を眺めながら、私は、なんとも重い気持の中にいました。それが今もつづいています。

麻原が最終解脱を主張したのが1986年8月。翌9月に出家制度が発足しますが、そのときの出家者は15人、会員(信者)は約350人だったそうです。

広瀬死刑囚が、「宗教的回心」によってオウム真理教に入信したのが1年半後の1988年3月です。静岡県富士宮市の富士山総本部道場が完成したのが、1988年8月。そのときの出家者数は約100人、信者数は約2500人でした。広瀬死刑囚が出家したのは、翌年の1989年3月末。入信からちょうど1年後でした。

母親をはじめ、私の田舎の人間たちが、熊本県旧波野村のサティアン建設計画に関する国土利用計画法違反事件で、オウム真理教を知ったのが1990年です。

そして、私が恵比寿の駅前で、選挙運動をするオウムの信者たちを初めて観たのも、同じ1990年です。選挙の惨敗によってオウムは一気に武装化を進め、1994年6月の松本サリン事件、1995年3月の地下鉄サリン事件へと突き進んで行ったのでした。それらは、僅か10年足らずの短い間の話です。

広瀬健一死刑囚は、早稲田の理工学部応用物理学科を首席で卒業、卒業式では卒業生を代表して答辞を述べるなど、将来を嘱望された科学者の卵でした。大学院の修士課程に進み、出家する際は電機メーカーの研究所に就職も決まっていました。大学及び大学院時代は、母親と一緒にメッキ工場でアルバイトをして、学費も自分で賄っていたそうです。

武装化計画のために、理系エリートを勧誘するという方針の元、麻原から直々に出家を求める電話を受けた広瀬死刑囚は、就職の話を断って出家することを決意するのでした。その際も、内定を貰った会社に、わざわざ出向いて詫びを入れているのでした。そんなところにも、彼の誠実な人柄が伺えます。出家に関しても、自分が出家することで家族のカルマを自分が背負い、家族をより幸福な世界に転生させることができると信じていたのでした。

広瀬死刑囚は、科学の専門教育を受けた「知的エリート」です。麻原の空中浮遊についてどう考えていたのか、今どう考えているのか、手記にそのことが出ていました。

(略)「空中浮揚は慣性の法則に反する」という論理では、空中浮揚を否定できません。既知の物理法則を超える法則の存在は、論理によっては、否定できないのです。
つまり物理法則は、それが見かけ上成立する領域(条件)が不明な部分があるのです。ですから、ある領域において現象が未知の法則に支配される可能性は否定できません。言い換えると、物理法則は常に成立するものとして定義できないのです。それは、ニュートンの運動法則を超える相対論、量子力学・場の量子論が発見されて発展してきた物理学の歴史が示すとおりです。
麻原やオウムの教義から離れた今、「空中浮揚はあると思うか」と問われれば、私は「思わない」と答えます。しかし、これは推測――〈外見として日常的な領域で起こることだから、既知の物理法則のみが成立する条件が満たされている可能性が高いだろう〉という――に基づく見解であって、論理によって厳密に導出された結論ではありません。麻原のいう空中浮揚を・・・厳密に否定するには、麻原の空中浮揚を物理的に測定してその誤りを発見する以外に方法はありません。


また、サリンを散布するのにためらいはなかったのかという問いに対して、「ためらいはなく、感情を抑えることもなく、してはいけないことだとも思わなかった」「ヴァジラヤーナの救済のための当然の指示と感じた」と書いていました。

私は第一審時に共犯者の公判で、次の趣旨の供述もしました。
「指示が私の存在していた宗教的世界観に合致していたので、従わなくてはならないと強く思ったということではない。その指示自体が自然に、違和感なく受け入れられる状態になっていた」
「サリン袋を傘で刺すときためらいはなく、感情を抑えることもなく、してはいけないことだとも思わなかった」
前者の供述は、地下鉄サリン事件の指示について、麻原の指示だから自身の意思に反しても従わなければならないと思ったということではなく、ヴァジラヤーナの救済のための当然の指示と感じた、いう意味です。当時、私は教義の世界で生きている状態でした。


くり返しますが、彼らは私たちの「親しき隣人」なのです。彼らの過ちは、決して他人事ではないのです。
2018.08.02 Thu l 社会・メディア l top ▲
昨日処刑された端本悟死刑囚を担当していた弁護士は、早稲田の法学部で同じクラスだった同級生だそうです。端本死刑囚は、オウムに入信した友人を脱会させる目的でセミナーなどに通っているうちに、ミイラ取りがミイラになって入信したのでした。それがカルトの怖さです。他の死刑囚に比べて関与の度合いが低いとされ、死刑判決に疑問の声も多かったのですが、本人は再審請求を拒んでいたそうです。

また、東大卒(実際は大学院中退)で初めて死刑になったと言われた豊田亨死刑囚に出家を勧めたのは、中学・高校・大学の1年先輩であり、しかも学部(物理学部物理学科)も同じだった野田成人氏です。灘高のルートもそうですが、オウムの「知的エリート」たちは、受験名門校出身者の人脈で勧誘されたケースが多いのです。

野田氏もオウムの幹部でしたが、鈍くさいとかいう理由で、麻原によって実行メンバーから外されたと言われています。先日、テレビに出ていた野田氏は、解体業をしているとかで、汚れが付いたままの作業服姿でした。一方で、ホームレス支援の活動も行っていると言ってました。野田氏は、事件後、アレフの代表なども務めましたが、現在は教団を脱会しているそうです。だとしたらよけい豊田死刑囚に出家を勧めた負い目に苛まれているに違いありません。そうやって”自己処罰”しながら生きていくしかないのでしょう。

オウムの悲劇は、信者の多くが善男善女であったということです。それゆえにカルトに取り込まれてしまったという点にあります。カルトが怖いのは、このように善男善女がターゲットになり、彼らの純粋な心が利用されることです。しかも、ネットワークビジネスなどと同じように、学校や職場などの人間関係を通して勧誘が行われるので、二重三重の悲劇が生じることになるのです。

先に紹介したAERAdotの上昌広氏の記事によれば、東大医学部からオウムに入信したのは2人ですが、当時、「大勢が富士の裾野に行った」そうです。上氏は、彼らと2人を「分けたのは偶然だ」と書いていました。

このように、オウム真理教では、ハルマゲドンを演出するために、麻原の命により、高学歴の理系エリートを積極的に勧誘していたのでした。そして、優秀な頭脳を得た教団は、サリンの生成&散布へと突き進んで行ったのでした。

世の中の役に立つ人間になることを夢見て受験勉強に励み、他人が羨むような難関大学に進んだはずが、カルトに遭遇したために、文字通り刑場の露と消えた「知的エリート」の信者たち。本人ならずともどうして?という思いを抱いた人も多いでしょう。それを考えれば、あらためてやりきれない気持にならざるを得ないのでした。
2018.07.27 Fri l 社会・メディア l top ▲
今朝、オウム真理教の残り6名の死刑囚に対して、死刑が執行されたというニュースがありました。これで、ひと月の間に13名の刑が執行されたことになります。まさに前代未聞の出来事です。

否応なく暗い気持にならざるを得ません。人の命が奪われるというのは、犯罪であれ刑罰であれ、殺人であることには変わりがないのです。辺見庸ではないですが、むごいなと思います。信者たちに殺された人間たちも、処刑された信者たちも、みんなむごいなと思います。

私たちは、オウムを前にすると、恐怖と憎しみの感情に支配され、鬼畜を見るような目になるのですが、処刑された信者たちはホントに鬼畜だったのか。

地下鉄サリン事件で娘を殺された遺族は、「これで仇を取ることができました」と言っていたそうですが、一方で、どうしてあんな事件を起こしたのか、そして、今、どう思っているのか、加害者たちの生の声を聞くことが供養になるという考えがあってもおかしくないのです。たしかに、因果応報という仏教の考え方もありますし、江戸時代は仇討ちや切腹の風習もありましたが、しかし、みずからの死を持って罪を償わせるという考えは、本来日本人が持っている死生観や道徳観と必ずしも合致するものではないはずです。

先進国で死刑制度が存続しているのは、今や日本とアメリカくらいですが、死刑を廃止(もしくは停止)している国から、人権後進国の報復主義に基づいた「大量処刑」と見られても仕方ないでしょう。

今回の「大量処刑」は、オウム真理教がそれだけ国家からの憎悪を一身に浴びていたと言えるのかもしれません。かつては社会主義者や無政府主義者が憎悪の対象でしたが、平成の世にあっては、カルト宗教がそれにとって代わったのです。麻原の国選弁護人を務めた安田好弘弁護士は、今回の処刑でオウム真理教事件が“平成の大逆事件”になったと言ってましたが、決してオーバーではないでしょう。

今回の処刑で、麻原彰晃をグル(尊師)と崇め、タントラ・ ヴァジラヤーナを信奉する残存信者にとって、麻原をはじめ死刑囚たちが益々”ヒーロー”になるに違いありません。遺骨がどうのという問題ではないのです。国家から憎悪を浴びせられれば浴びせられるほど、彼らもまた国家に対して憎悪の念を募らせ、死刑囚たちを”ヒーロー”と崇めるのです。

事件の当事者たちの生の声を封印したまま刑を執行したことで、事件をより不可解なものにし、逆にカルトを増殖させる土壌を残したと言えるでしょう。前も書きましたが、「偽史運動」こそがカルトがカルトたる所以です。宗教学者の島田裕巳氏は、麻原の死刑によって、麻原の魂は信者たちの中で「転生」して生き続けることになるだろうと言ってましたが、これから事件や死刑囚たちを神格化する「偽史運動」が始まることでしょう。

平成の大事件だから平成の間にカタをつけたいなどという(小)役人的発想が、カルト宗教の反国家的感情をエスカレートさせるのは間違いないでしょう。

一方、麻原ら7名の死刑が執行された前夜(7月5日)、死刑執行命令を出した上川陽子法相が、「自民党赤坂亭」に出席していたことが判明して物議を醸しています。「衝撃的」と書いていたメディアさえありました。上川法相は、執行後の記者会見で、「磨いて磨いてという心構え」で、「慎重にも慎重な検討を重ねた」上で、死刑執行命令を出したと言っていましたが、執行前夜に酔っぱらってはしゃいでいる様子はとてもそのようには見えません。「自民党赤坂亭」は西日本を襲った集中豪雨の当夜のことでもあったので、その点でも批判を浴びましたが、政治家や役人など権力を持つ人間たちの、人(国民)の命に対する軽さ・無神経さには愕然とします。と同時に、怖いなと思います。それは、オウムの教義にも通底するものと言えるでしょう。
2018.07.26 Thu l 社会・メディア l top ▲
どうして、高学歴の「知的エリート」がオウムに取り込まれたのかを考える上で、下記の記事は非常にリアルで、参考になるように思いました。

AERAdot.
井上死刑囚から勧誘された医師が明かす「オウム真理教事件は受験エリートの末路」

記事を読むと、灘高のような受験名門校の人脈を通して勧誘が行われていたことがわかります。

もちろん、彼らが「取り込まれた」というのは、私たちが外野席で言っているだけです。当然のことですが、彼ら自身は「取り込まれた」なんて思っていません。麻原に「帰依」したのです。

彼らの多くは、理系の「知的エリート」です。専門的な科学教育を受けた科学者(あるいは科学者の卵)なのです。それが、どうして空中浮遊や神秘体験などの“超能力”を信じ、麻原のようないかさま師に「帰依」したのでしょうか。

専門家が指摘するように、ヨガを利用した”修行”やときには薬物まで使ったイニシエーションによって”霊的な幻覚”を体験することで、麻原の虜になったということはあるでしょう。しかし、一方で、「知的エリート」たちは、麻原の俗物性に目を瞑り、能動的に麻原に「帰依」した側面もあるのです。

はっきり言って、熊本の盲学校を出て(しかも、盲学校で飛びぬけて優秀な成績でもなかったのに)、熊本大学の医学部や東大の法学部を受験するというのは、誇大妄想としか思えません。でも、今の“大衆(建前)民主主義”では、そういう言い方は盲学校を見下す(差別する)ことになるのです。言ってはいけないことなのです。オウム真理教は、「信仰の自由」の問題も含めて、そういった“大衆(建前)民主主義”を逆手に取ったと言えないこともないのです。

そもそもオウム真理教自体が、麻原の誇大妄想の産物とでも言えるものです。でも、その誇大妄想が宗教の皮を被ると、神からの啓示=”超能力”のように思えて信仰の対象にすらなるのです。それが「宗教の宗教性」というものです。

私たちのまわりを見ても、無知の強さ、あるいは非常識の強さというのは、たしかに存在します。西欧的理性が木端微塵に打ち砕かれたナチズムの例を出すまでもなく、ものごとを論理的に考える知性というのは、無知や非常識に対して非力な面があるのです。

上昌広氏のつぎのような言葉が、「知的エリート」の“弱さ”を表しているように思います。

 エリートは権威に弱い。権威の名前を出されると、そのことを知らない自分の無知をさらけ出すのが恥ずかしく思い、迎合しようとする。決して「わからない」とは言わない。私を含め当時の東京大学の学生が、オウム真理教に引きずられていたのは、このような背景があるのではなかろうか。挫折を知らない、真面目で優秀な学生だからこそ、引き込まれる。


「決して『わからない』とは言わない」のが「知的エリート」の“弱さ”なのです。「先生と言われるほどのバカでなし」という川柳は、「知的エリート」の本質を衝いているのです。と同時に、大衆(世間)のしたたかさ、狡猾さを表してもいるのです。麻原のようないかさま師が彼らを取り込む(「帰依」させる)のは、そう難しいことではなかったでしょう。

麻原は、弱視でしかも柔道の有段者であることを盾に、熊本の盲学校では、視力障害者の同級生や下級生を相手に番長として君臨したのですが、まったく同じ手法で、無知や非常識に“弱い”「知的エリート」に対してグルとして君臨したのでした。

麻原は、修行をすれば射精しなくてもエクスタシーを得られる(クンダリニーの覚醒)と言いながら、自分は片端から女性信者に手を出して射精しまくっていたのです。しかも、それは射精ではなく「最終解脱者」のエネルギーを注入するイニュシエーションだとうそぶいていたのですが、しかし、”霊的な幻覚”を体験し、この世界には論理的に説明できない部分があること(科学の限界)を知っていた「知的エリート」たちには、もはや麻原の詭弁を疑う”余裕”はなかったのでしょう。

麻原と同じ熊本出身の谷川雁は、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であれ(原文は「ある」)」(『工作者宣言』)と言ったのですが、たとえば、通勤電車の醜悪な風景の中で、「断乎たる知識人」であることは至難の業だし、哀れささえ伴うものです。でも、冗談ではなく、あの通勤電車の醜悪な風景こそがこの社会であり、電車の座席にすわることが人生の目的のような人々が大衆なのです。

間違っても「こいつらバカだ」「愚民だ」とは言えないのです。言ってはならないのです。そんな中で、麻原は、仏教の“裏メニュー”とも言うべき教義を彼らに提示したのでした。それが、「煩悩の海に溺れ悪業を積む凡夫は、ポアして救済しなければならない」という、グルを絶対視する戒律と選民思想で”再解釈”したタントラ・ ヴァジラヤーナの教義なのでした。

上氏の剣道での挫折もそうですが、麻原に「帰依」した「知的エリート」たちも、いったんは学校を出て就職したもののすぐに会社を辞めた人間が多いのが特徴です。受験競争では常に勝ち組であった彼らが、社会に出て初めて挫折を味わったのです。そして、麻原に「帰依」することによって、その挫折感がハルマゲドンのような終末思想と出会い、ハルマゲドンを実践する「光の戦士」としてエスカレートして行ったというのは、容易に想像できます。

職場の人間関係だけでなく、日々の生活の中でも、無知の強さや非常識の強さを痛感させられることはいくらでもあります。もちろん、ネットも然りです。しかも、無知の強さや非常識の強さは、“大衆(建前)民主主義”によって補強され、ある意味この社会では「最強」と言ってもいいのです。オウムの「知的エリート」たちがハルマゲドンを欲したのも不思議ではないのです。彼らは、教義以前に、あらゆる価値が(知をも)相対化される現代の民主主義を呪詛していたように思えてなりません。
2018.07.16 Mon l 社会・メディア l top ▲
死刑執行の日に朝日新聞に掲載された、宮台真司氏のインタビュー記事で、宮台氏はつぎのように言ってました。

不全感を解消できれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものどちらでもよい。そうした感受性こそ、昨今の「ポスト真実」の先駆けです。誤解されがちですが、オウムの信徒たちは現実と虚構を取り違え、虚構の世界に生きたわけではない。そんな区別はどうでもよいと考えたことが重要なのです。

朝日新聞デジタル
オウム化している日本、自覚ないままの死刑


宮台氏は、「だから危ない」のだと言います。

現実と虚構の区別なんてどうだっていいというのは、今のネトウヨなどにも言えるように思います。彼らにとって、ネットのフェイクニュースや陰謀史観の真贋なんてどうだっていいのです。みずからの「不全感」(人生や社会に対する負の感情)を「愛国」という排外主義的な主張で埋め合わせればそれでいいのです。それが反知性主義と言われるゆえんです。

どうして「知的エリート」が麻原彰晃のような安っぽいいかさま師に騙されたのか。オウム真理教を論じる場合、必ずと言っていいほど出てくる疑問ですが、私は、以前、大塚英志氏の『物語消費論改』を引用して、つぎのように書いたことがありました。

麻原彰晃は、英雄史観と陰謀史観を梃子に「大きな物語」を「陳腐に、しかし低次元でわかり易く提供して見せた」のでした。それは、「例えば『国を愛する』と言った瞬間、そこに『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」ような安直なものでしかありませんでした。

関連記事:
『物語消費論改』


戦前戦中、多くの左翼知識人=「知的エリート」が「転向」したのは、天皇制権力による思想的転換への強制、屈伏というより、彼らが大衆から孤立したからだ(彼らの思想が”大衆的基盤”をもたない脆弱なものだったからだ)、と言ったのは吉本隆明ですが、「知的」であるということは、ある種の”後ろめたさ”を伴うものでもあるのです。誠実であろうとすればするほど、大衆的日常性(大衆的価値観)から遊離した孤立感を抱くものです。「知的エリート」たちは、安直なもの(=大衆的なもの)であるからこそ、逆に取り込まれたとも言えるのです。

倫理なんて、糞の役にも立たない“文化的幻想”にすぎません。「知的エリート」が全体主義に動員される思想的なメカニズムは、E・フロムやハンナ・アーレントが言うよりもっと単純でもっと「陳腐」なものではないのか。

私は、そのメカニズムを解明するカギになるのが「オタク」だと思っています。オタク化とは、それだけこの社会に”オウム的なもの”が浸透していることを意味しているのです。オタクからネトウヨ、そしてカルトに至る回路こそ解明されるべきだと思います。

大塚英志氏は、『「おたく」の精神史』(講談社現代新書)で、「長山靖生『偽史冒険世界』や小熊英二『単一民族神話の起源』といった仕事において国民国家の形成の過程で起きた偽史運動への注目がなされているのは、オウムを近代史の中に位置づける上で重要な視座を提供しているように思う」と書いていました。

柳田民俗学は「正史」化し得た「偽史」の一つだというのがぼくの考えだが、教科書批判の運動が「オウム」後に保守論壇の枠を超えた大衆的な広がりを見せてしまったことの説明は、「オウム」を「偽史」運動の一つと位置づけることで初めて可能になってくるように思うのだ。教科書批判以降の「日本」や「伝統」の奇怪な再構築のされ方は、偽史運動とナショナリズムの言説が表裏一体のものとしてあることの繰り返しに、ぼくは思える。

『「おたく」の精神史』


『天皇と儒教思想』(小島敦著・光文社新書)によれば、メディアによく取り上げられる「田植え」や「養蚕」など皇室の恒例行事も、明治以後にはじまったものが多いそうです。来年、天皇の生前退位により新しい元号に変わりますが、「一世一元」の原則も明治以後にはじまったのだとか。皇室の宗教も、奈良時代から江戸時代までは仏教だったそうです。皇室=神道という「伝統」も、明治以後に創られたイメージなのです。また、皇室に伝わる祭祀などは、中国の儒教思想から借用された「儒式借用」のものが多いそうです。

要するに、明治維新による近代国家(国民国家)の成立に際して、国民統合のために、皇室を中心とする「日本の伝統」が必要とされたのでしょう。そうやって(偽史運動によって)”国民意識”が創出され、”日本”という「想像の共同体」が仮構されたのです。

もちろん、現在進行形の現代史においても(おいてさえ)、「偽史運動」めいたものは存在します。たとえば、安倍首相に代表される、スーツの襟にブルーリボンのバッチを付けている右派政治家やその支持者の一群が声高に主張する”正しい歴史”などもそうでしょう。

そこでは、「先の戦争は侵略戦争ではない」「南京大虐殺はねつ造だ」「従軍慰安婦なんて存在しない」という”正しい歴史”に目覚めることが「愛国」と直結しているのです。そして、ネトウヨに代表されるように、「『国を愛する』と言った瞬間、『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」メカニズムが準備されているのです。私は、そこにオウム(オウム的なもの)とのアナロジーがあるように思えてなりません。実際にYahoo!ニュースのコメント欄なども、その手の書き込みであふれていますが、彼らの延長上に、「第二のオウム」と言われるようなカルト宗教=「偽史カルト」が存在するというのは、多くの人が指摘しているとおりです。安っぽいいかさま師は、麻原彰晃だけではないのです。


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2018.07.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか


麻原彰晃の遺骨の引き取りに関して、家族間で“綱引き”がはじまっているようです。メディアが言うように、麻原の「神格化」を怖れる公安当局としては、遺骨を妻に引き渡すのを避けたいのが本音でしょう。そのためかどうか、麻原が生前、遺骨の引き渡し先を四女に指名していたという話が出ています。ただ、それは、執行直前に刑務官に伝えたと言われるだけで、証拠はないのです。妻や三女らは、自分たちに遺骨を渡さないための「作り話」だと言うでしょう。

四女は、昨年、自分の相続人から両親を除くよう横浜家裁に申し立て、認められています。それは、実質的に家族と絶縁する意向を示したものです。遺骨の引き渡し先に関しては、法的にはっきりした規定はなく、慣例に従うしかないそうですが、家族と縁を切る意向を示した人間が、父親の遺骨を引き取りたいと申し出るのはどう考えても矛盾しています。故人の妻が引き取りの意向を示しているのですから、慣例から言えば、妻に渡すのが妥当でしょう。だから、そうさせないために、故人の遺志を出してきたとも言えるのです。

四女は、遺骨を引き取る理由について、アレフに渡したくないからと言っているそうです。家族と縁を切るなら、遺骨なんていらない、ほかの家族がどうしようが知ったことではない、自分は自分の道を生きる、と考えるのが普通でしょう。本当にオウムの悪夢から解放されたいと思うなら、遺骨のことなどに関わってないで、知らない土地で新しい人生を歩むのがいちばんでしょう。どうしていつまでもオウムの周辺にいるのだろうと思います。四女は、なんだか公安当局の意向を代弁している(代弁させられている?)ように思えてなりません。

10年前の話ですが、江川紹子氏は、四女の未成年後見人でした。それは、四女からの申し立てによるものでした。しかし、後見人になってわずか4ヶ月後、突然、行方不明になり、その後音信不通にもなったため、職務を果たせないと考え、「辞任許可申立書」を裁判所に提出したそうです。その間の経緯は、下記の江川氏のブログに書かれています。江川氏が辞任したあとに引き受けたのが、現在四女の代理人になっている滝本太郎弁護士なのかもしれません。

Egawa Shoko Journal
未成年後見人の辞任について

江川氏の文章のなかに、つぎのような気になる箇所があります。

(略)様々な形で彼女の自立の準備を支援してきたつもりです。教団以外の人間関係を広げて欲しいと思い、いろいろな働きかけも行いました。 
 しかし、残念ながら彼女の父親を「グル」と崇める気持ちや宗教的な関心は、私が気が付きにくい形で、むしろ深まっていました。彼女の状態が分かるたびに、私はカルト問題の専門家の協力を得ながら長い話し合いを行いましたが、効果はありませんでした。


オウムの奇々怪々は、未だつづいているのです。今度はそれに公安当局が一枚かんでいるのです。

私は、ちょうど8年前、四女の著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』の感想をこのブログに書きました。ご参照ください。

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追記:(7月12日)
三女の松本麗華氏のブログに、長男がネットで滝本弁護士の殺害予告をしたという日テレの報道について、下記のような抗議文が掲載されていました。長男を告発した滝本弁護士も、オウムの奇々怪々と無縁ではないのです。
日テレの虚偽報道に対する抗議声明



2018.07.09 Mon l 社会・メディア l top ▲
今朝、テレビを観ていたら、「麻原彰晃死刑囚の死刑執行」「ほかの数人も執行見込み」という「ニュース速報」が流れたのでびっくりしました。

執行前に「ニュース速報」が流れるなんて前代未聞です。死刑執行が事前にメディアにリークされたのでしょう。まるで死刑が見世物にされたようで、オウムだったらなんでも許されるのかと思いました。

それからほどなく、つぎつぎと残り6名の執行を告げるテロップが流れたのでした。それは、異様な光景でした。一度に7名の人間が”処刑”されるなんて、先進国ではあり得ない話です。

死刑を報じるメディアの論調も、「当然」というニュアンスで溢れていました。被害者の家族だけでなく、長年オウムを取材してきたジャーナリストも、ニュースを解説する識者も、街頭インタビューに答える市民も、みんな一様に「当然」という口調でした。どんな事情であれ、人の命が奪われることを「当然」と考える感覚に、私は違和感を覚えざるをえませんでした。オウム真理教も、タントラ・ヴァジラヤーナという教義では、人の命を奪うことを「ポア」と称して救済=「当然」と考えていたのです。

今日の死刑執行に対して、EU駐日代表部は、EU加盟国、アイスランド、ノルウェー、スイスの各駐日大使とともに、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表したそうです。


声明では、「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない。さらに、どの司法制度でも避けられない、過誤は、極刑の場合は不可逆である」と主張しています。でも、このニュースはほとんど報じられることはありませんでした。

今日の執行には、平成の間に事件の処理を終わらせたいという法務省の意向があると言われています。ニュースを解説する識者の、これでひとつの区切りが付いたというような発言も、それに符合するものでしょう。オウムの死刑囚は13名ですから、あとの6名も、平成の間に執行されるのは間違いないでしょう。「恩赦」や「再審請求」を封じるためという見方もありますが、そうやって人の死を政治的意図で操作する発想にも、違和感を抱かざるを得ません。

宮台真司氏が朝日新聞のインタビューで言っているように、オウムはすぐれて今日的な問題なのです。”オウム的なもの”はますます社会の隅々まで浸透しているのです。決して他人事ではないのです。オウムが私たちに突き付けた問題は、何ひとつ解決してないのです。オウムの事件に区切りを付け、歴史の片隅に追いやろうとする考えこそ反動的と言えるでしょう。


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2018.07.06 Fri l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談に関して、アメリカのニュースサイト・「BUSINESS INSIDER」の日本版に、下記のような記事が掲載されていました。

BUSINESS INSIDER JAPAN 
"世界のリーダー"アメリカの終わりが見えてきた? アメリカの記者が見た、米朝首脳会談

次のリードに、記事の要点が示されています。

•アメリカのトランプ大統領は12日(現地時間)、北朝鮮と和平交渉をしている間は韓国との軍事演習を中止すると述べた。

•そうしている間にも、アメリカは国際社会における支配的な地位を失うかもしれない。

•軍事演習なしでは、在韓米軍は弱体化するだろう。和平交渉が続けば、その存在意義も損なわれるだろう。

•トランプ大統領の望み通り、米軍が韓国から徹底することになれば、中国のアジアひいては国際社会におけるプレゼンスは高まるだろう。

•トランプ大統領と北朝鮮の金正恩氏は12日、世界の新たな未来を語ったが、その新たな未来をリードするのはアメリカではなく中国かもしれない。


日本のメディアではどうしてこういった記事が出て来ないのだろうと思います。どこも揃って、旧宗主国の卑屈な精神で書いたようなネガティブな記事ばかりです。特にひどいのが、テレビ局や新聞社の「解説委員」「編集委員」と言われる人間たちです。彼らは、平日にお定まりのくだらないコメントで顔を売り、週末に講演でお金を稼ぐ、ワイドショーのコメンテーターとどう違うのだろうと思います。日本のメディアの手にかかると、米朝首脳会談も、日大の悪質タックル問題や和歌山のドン・ファン変死事件などと同じレベルで扱われるのです。

節操もなく、慌てて金正恩とのトップ会談を模索しはじめた安倍首相の姿は、もはや滑稽ですらあります。文字通り「宰相A」の醜態を晒していると言っていいでしょう。案の定、北朝鮮から「拉致問題は解決済み」とゆさぶりをかけられ、「(日本は)無謀な北朝鮮強硬政策に執拗にしがみついている」「日本はすでに解決された拉致問題を引き続き持ち出し、自らの利益を得ようと画策した」(15日の平壌放送)などと牽制される始末です。それでも、「宰相A」は拉致被害者の家族を官邸に呼んで、「日朝首脳会談による拉致問題解決を目指す決意を伝えた」そうです。でも、その「決意」の中身は、従来からくり返している空疎な原則論にすぎません。

日本政府が「拉致被害者全員の即時帰国」にこだわっている限り、北朝鮮が「解決済み」の姿勢を崩すことはないでしょう。「全員の即時帰国」というのは、「妥協の余地がない」と言っているも同然です。一方、北朝鮮が「解決済み」とくり返すのは、「(落としどころを)なんとかしろ」というメッセージでもあるのだと思います。しかし、国内向けに「全員の即時帰国」が交渉の前提だと大見得を切った手前、日本政府もおいそれとその旗を降ろすことはできないのでしょう。拉致問題は、勇ましい声とは逆に、このように自縄自縛になっているのです。そもそも、交渉の叩き台となるべき「調査報告書」を受け取ることができない(受け取っても公表できない)状態で、首脳会談を模索すること自体、自家撞着と言われても仕方ないでしょう。

蓮池透氏は、太田昌国氏との対談『拉致対論』(太田出版・20009年刊)で、次のように言っていました。

 私はいつも、拉致問題を北方領土化させて欲しくないと言っています。北方領土は今も物理的に残っていますが、拉致被害者は永遠に残るものではありません。時間の経過によって、当事者も、その家族も、消え去ってしまうかもしれない。日本政府はそれを待っているのではないかという穿った見方さえしてしまいます。


 私は、地村さんが拉致問題には「歴史的な過去の問題が背景にある」と手記に書いておられたのを、あれは北朝鮮で習ったことかもしれませんが、非常に重い言葉だなと思いました。当人が言うのは悲しい話です。拉致されて北朝鮮に連れて行かれたにもかかわらず、こういう発言をさせてしまうというのは、北朝鮮が悪いというよりも、この問題をほったらかしにしてきた日本というのは何なんだと思ってしまいます。


(略)締め上げろ締め上げろでは状況は動かないと思います。感情的な部分ばかりが誇張されて制裁が決議されているように感じます。(略)
 核と拉致とミサイルを包括的に解決するという言い方がありますが、私は核が解決したからといって拉致問題が自動的に解決されるとは思えない。拉致と核は別物だと思っています。包括的と言うと聞こえはいいですが、それはまやかしではないでしょうか。拉致問題は、核が一段落した時点で改めてスタートするのではないかと思っています。


蓮池氏の発言は2009年当時のものですが、この10年間、蓮池氏が言ったとおり、「締め上げろ締め上げろ」という「感情的な部分ばかりが誇張され」て、状況がまったく動かなかったのは事実でしょう。

蛇足を承知で言えば、政府が「全員の即時帰国」は現実的ではない、無理だとはっきり言うべきなのです。それこそ政治の責任で、家族を説得すべきです。その上で、「調査報告書」を叩き台に、文字通り覚悟をもって交渉に当たるべきなのです。メディアと一緒になって荒唐無稽な強硬論を主張し、北朝鮮に対する憎悪の感情を煽るだけでは、一国の政治を預かる者としてきわめて無責任と言わねばなりません。自民党内にも、安倍政権がつづく間は拉致問題の解決は難しいのではないかという声があるそうですが、いちばん現実を直視しなければならない人間がいちばん現実から目を背けているのですから、なにをか況やです。

たとえば、どうして拉致がおこなわれたのかという“初歩的な事実”さえ、国民には知らされてないのです。よけいなことは考えるなと言わんばかりに、いつもただ憎悪の感情を煽られるだけです。また、私たち自身も、「許せない」「かわいそう」という感情に流されるだけで、拉致問題を客観的に冷静に考えることを怠っていたのはたしかでしょう。

『北朝鮮 秘密集会の夜』(1994年刊)の著者・李英和氏は、1992年北朝鮮の朝鮮社会科学院に留学した際、監視兼世話役の教官から、次のような「拉致講義」を受けたそうです。

1.講義の場所は宿舎の部屋の中ではなく、公園で歩きながら。秘密警察の盗聴を嫌ってのこと。拉致は、秘密警察ではなく、工作機関の犯行と管轄なので。

2.工作機関による計画的な日本人拉致作戦は、1976~1987年の間に金正日(キム・ジョンイル)の指示で実施。「それ以前とそれ以降はやっていない」と断言。(当時、後継者候補の金正日が拉致作戦を立案・指揮していた。)

3.背景は経済計画の失敗(71年~「人民経済発展6カ年計画」)。汚名挽回のため、金正日が新機軸の対南(南朝鮮=韓国)テロ作戦を発動。経済破綻で全面戦争ができなくなったので、戦争の代わりにテロを立案。

4.同作戦により急遽、対南潜入工作員の大量養成が必要になり、その訓練の一環で日本人拉致を実施。新米(しんまい)工作員の敵国への潜入訓練の場として、海岸警備の手薄な日本海側を利用。教官は「潜入訓練完遂の証拠品として"日本人"の拉致を要求したので、拉致対象の年齢・性別・職業等は問わなかった」と説明した。そのせいで、近くの浜辺で手当たり次第に拉致。当時まだ女子中学生だった横田めぐみさんが連れ去られることになった。

5.沖合の母船から5人乗りゴムボートで海岸に3人の新米工作員が潜入。空席は2名なので、拉致は最大2名までが限界。アベックの「失踪」が多いのはそのせい。

6.金日成の名前で「拉致した日本人は絶対に殺さず、生かして平壌に連れ帰れ。拉致被害者は平壌近郊で『中の上』の暮らしをさせるから、安心して拉致して連れ帰れ」という厳命が下された。そのこころは、無関係な日本人の民間人を殺害することになれば、新米工作員に戸惑いの心理的動揺をきたし、訓練の失敗につながるおそれがあるから。したがって、拉致被害者は誰も現場で殺害されたり、日本海でサメの餌にされたりすることなく、平壌の工作機関の拠点まで生きて連れ去られた。

7.北到着後も「絶対に死なせるな」という金日成の厳命は生きた。工作機関は管理・監督責任を厳しく負わされるので、事故や病気での死亡を厳格に防いだ。「本人が死にたいと思っても、自殺もできない」という監視下で暮らした。

8.拉致被害者は工作機関の管轄区域内で5~6人一組で隔離生活させる都合上、被害者に与えられる仕事は「共通の特技」である日本語の教育係ぐらいしかなかった。したがって、何らかの特技を狙ったり、日本語教師をさせたりする目的で拉致したのではけっしてない。あくまでも訓練の証拠品。

9.作戦期間が10年余りなので、その間の上陸訓練の実施回数の分(1回最大2名)だけ拉致被害者が存在する計算になる。私はおよその人数を尋ねたが、講師は「正確には知らないが、とにかく大勢」と答えた。

(注1)91年当時は日本人拉致事件の北朝鮮犯行説は「半信半疑」で定説化していなかった。その中で、私に北犯行説を「自供」したのは驚愕の出来事だった。その当時、拉致問題解決を糸口に日朝国交樹立による賠償金狙いの戦略を既に固めていたものと見られる。賠償金獲得の動機は、91年から本格化する北朝鮮の密かな核開発の資金源だった。その目論見が2002年まで延期、ずれ込んだのは北で大飢饉(93~99年)が勃発したからと思われる。

(注2)以上の説明は日本人拉致問題の本筋に関するもので、ヨーロッパを舞台とする「よど号ハイジャック犯」による日本人留学生と旅行客拉致の「番外編」は含まれない。この番外編については、実行犯の「Y」(有本恵子さん拉致犯)から、個人的に全容の説明を聞いたが、あくまでも番外編なので今回は省略。

(注3)拉致作戦が76年に開始されたもうひとつの理由は、ベトナム戦争の終結(75年)。北はベトナム戦争が永遠に泥沼化することを願ったが、その願いに反して75年に北ベトナムの勝利で戦争が終結。米軍が韓国と日本に引き揚げ、朝鮮半島でベトナム戦争敗北の雪辱を期する事態に発展。これに慌てた金父子が非対称の対抗策としてテロ作戦を立案・発動した。

Newsweek日本版
「拉致被害者は生きている!」──北で「拉致講義」を受けた李英和教授が証言


感情を脇に置いて、冷静に考えること(分析すること)も、拉致問題を解決する上で大事なことでしょう。なにより戦争より平和がいいという考えこそ冷静なものはないのです。


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『拉致被害者たちを見殺しにした安部晋三と冷血な面々』
2018.06.16 Sat l 社会・メディア l top ▲
米朝会談に対しては、日本国内でも「期待外れ」という声が多く聞かれます。なにが「期待外れ」なのかと言えば、共同声明にCVIDの道筋が具体的に明記されなかったことがいちばん大きいようです。要するに、政府もメディアも国民も、軍事攻撃の代わりに、今度はCVIDで北朝鮮を無力化することを期待していたからでしょう。

しかし、何度もくり返しているように、CVIDは所詮は「絵に描いた餅」にすぎないのです。非核化も、拉致問題と同じで、外交カードにすぎないのです。落としどころをどこにするかなのです。

今回の首脳会談は、国交がない国の首脳同士が初めて顔を合わせる「異例」の会談です。従来のよくある首脳会談と違って、会談自体はあくまで”出発点”なのです。

いづれにしても、これから長い時間をかけて、非核化や国交正常化の交渉をおこなうことが決定したのです。両首脳によって、その号砲が鳴らされたのです。最初から結論を求めるメディアの論調自体が、ないものねだりのトンチンカンなものであるのは言うまでもありません。

落としどころがどこになるか(双方がどこで妥協するか)、これから注視する必要がありますが、ただ、膨大な時間と費用を要するCVIDなんてそもそも実現不可能だ、という声のほうがホントなのだろうと思います。

むしろ、共同声明を発表できただけでも、大きな成果だと言えるでしょう。共同声明には、戦争の終結、国交正常化、非核化に向けて努力していくことがはっきりと謳われているのです。それだけでもすごいことだと思いました。

私は、会談のあとのトランプの会見も感銘を受けました。日本の政治家だったら、あそこまでオープンな会見はやらないでしょう。安倍や麻生や二階の不遜な態度と比べると、雲泥の差があります。私は、トランプを少し見直しました。

トランプが会見のなかで、グアムから朝鮮半島まで戦闘機を飛ばして訓練するのはお金がかかりすぎる、「戦争ゲーム」をやめれば無駄なお金を使わなくて済むと言ってましたが、まさにそこに、トランプが主張するアメリカ・ファーストの本音が出ていたように思います。

言うまでもなく、トランプのことばの背後にあるのは多極主義です。“世界の警察官”をやめる(やめたい)ということです。そんなアメリカ·ファーストの本音など理解すべくもなく、ただCVIDで北朝鮮を無力化してもらいたいと願う人たちにとって、今回の会談結果が、「アメリカが前のめり」「北朝鮮のペース」と映るのは当然かもしれません。

一方で、米韓軍事演習の凍結まで示唆したトランプの発言に、日本政府が「驚いた」という報道には、逆にこっちが驚きました。防衛省の幹部は「予想外だ」と言ったそうですが、そんな感覚では、これから東アジアの覇権が中国に移るにつれ、ホントに口から泡を吹いて卒倒してもおかしくないような衝撃を何度も受けることになるでしょう。


追記:
米朝首脳会談に対してネガティブな報道がつづくなか、下記にような多極化に関する報道もいくつか出てきました。(6/14)

AFP
米、韓国との主要演習を「無期限停止」 米高官
CNN.co.jp
トランプ米大統領は在韓米軍を朝鮮半島から撤収する可能性も示唆
2018.06.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談を二日後に控え、既にトランプと金正恩の両首脳もシンガポールに入りました。いよいよ掛け値なしの「歴史的な会談」が始まろうとしているのです。

一方で、米朝首脳会談の前にカナダで開かれたG7でも、アメリカ・ファーストを貫き、孤立することをも厭わないアメリカの姿勢に、唯一の超大国の”本心”が示されているように思いました。それは、言うまでもなく、多極主義です。アメリカが唯一の超大国の座からおりるということです。唯一の超大国の座からおりるということは、“世界の警察官”の役目もやめるということです。

田中宇氏は、著書やブログなどで、そのことをずっと言いつづけていました。私が、このブログで、田中氏の主張を借りて、アメリカの多極主義について初めて書いたのは、ちょうど10年前のリーマンショックのときでした。

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世界史的転換

田中宇氏については、特にネットにおいて、キワモノ、トンデモ思想というような誹謗中傷も見られますが、しかし、この10年間の世界の流れを見ていると、田中氏が主張するとおり、世界が多極化の方向に進んでいることは明らかでしょう。

朝鮮半島についても、日本のメディアは、今にもアメリカの軍事攻撃が始まるかのように囃し立てていましたが、現実はまったくの逆でした。日本のメディアは、ここに至っても、金正恩のホテル代がどうのとか、ファーストコンタクトがどうなるか(握手をするのかハグをするのか)、それが会談の成否のカギになるなどと、どうでもいいような話をさも意味ありげにするばかりです。それでは、朝鮮半島に対する日本の世論がトンチンカンなのも当然でしょう。

世界では160ヵ国以上の国が北朝鮮と国交を結んでおり、北朝鮮と国交がないのはごく少数で、むしろ例外と言ってもいいくらいです。北朝鮮は如何にも「国際社会」から孤立しているかのようなイメージがありますが、実際は世界の大部分の国と「友好関係」にあるのです。日本のメディアによってふりまかれるイメージと違って、平壌の街角で出会った人々が意外なほど華やかで開明的(資本主義的)だというのは、ゆえなきことではないのです。

韓国は当然としても、アメリカと国交がないのは、ひとえに朝鮮戦争が休戦状態にあるからにほかなりません。休戦(戦争)状態が解消されれば、アメリカが自国の利益と照らし合わせながら、大胆な政策転換をおこなう可能性はいくらでもあるでしょう。

12日の首脳会談について、講釈師(専門家)たちはさまざまな「焦点」を並べていますが、会談の焦点は一つに集約されるのだと思います。それは、朝鮮戦争を終わらせるかどうか、その道筋を付けることができるかどうかです。その一点に尽きるのです。戦争を終わらせないことには、国交正常化も非核化もなにもはじまらないのです。

そして、朝鮮戦争の終戦が、単に戦争の終結にとどまらず、東アジアの政治秩序に、文字通り歴史的な転換をもたらすことになるのは間違いないでしょう。田中宇氏が「田中宇の国際ニュース解説」の最新記事で書いているように、朝鮮戦争の終戦宣言がおこなわれると、米軍(法的には国連軍)が韓国に駐留する法的根拠がなくなるのです。そうなれば、当然、米軍が韓国から撤退することになるでしょう。

さらに、韓国から撤退すれば、日本に駐留する意味も小さくなるので、行く行くは日本からも撤退することになるでしょう。こうして東アジア(というかアジア全体)の覇権が中国に移っていくのです。メディアは、本来、そういった会談の本質にあることを伝えるべきなのです。

田中宇の国際ニュース解説
在韓米軍も在日米軍も撤退に向かう

しかも、非核化交渉においても、建て前はともかく、実際は曖昧なまま妥結される可能性が高いと言われています。そうなれば、(何度も書いているように)実質的に核を保有する北朝鮮が、中国に手を引かれ東アジアの政治の表舞台に本格的に登場することになるのです。それは、日本にとって、口から泡を吹いて卒倒してもおかしくないほど衝撃的なものがあると言えるでしょう。

「東アジア共同体」構想や朝鮮半島の融和を求める平和外交を一笑に付し、自衛隊が平壌に侵攻して拉致被害者を奪還すればいいというようなトンデモ強硬論に感化され、アメリカの軍事攻撃をひたすら希求した日本の世論は、痛烈なシッペ返しを受けたと言ってもいいでしょう。北朝鮮の平和攻勢とアメリカの多極主義に翻弄され、その狭間で右往左往しているこの国の総理大臣のみっともない姿が、なによりそれを物語っています。

朝鮮戦争が正式に終われば、北朝鮮の豊富な地下資源をめぐって国際資本の争奪戦がはじまることでしょう。そして、北朝鮮は目を見張るような経済発展を遂げるに違いありません。北朝鮮が経済発展するのは、朝鮮半島の平和にとってもいいことです。それをいいことと思わないのは、日本の世論がトンチンカンだからです。

ただ、その一方で、置き去りにされようとしている問題があることも忘れてはならないでしょう。1980年に初めて拉致事件を紙面で取り上げた産経新聞の元記者・阿部雅美氏の『メディアは死んだ 検証・北朝鮮拉致報道』(産経新聞出版)や、国連の北朝鮮の制裁に関する「捜査」に携わった、国連安保理・北朝鮮制裁委員会の専門家パネル元委員の古川勝久氏の『北朝鮮 核の資金源』(新潮社)などを読むと、「歴史的な会談」が手放しで礼賛されるものではないことを痛感させられるのでした(だからと言って、日本のメディアのように、会談が破談すればいいなんて思いません。戦争より平和がいいに決まっています)。また、2009年に出版された太田昌国氏と蓮池透氏の対談『拉致対論』(太田出版)を読み返すと、あらためて拉致問題の本質を考えないわけにはいかないのでした。矛盾したことを言うようですが、こういった天の邪鬼な視点も大事なのだと思います。ここまできたら、逆に浮かれるのは慎まなければと思うのでした。

当然ながら、米朝会談の次に日朝会談を期待する声も出ており、安倍首相もいつ宗旨替えしたのか、日朝会談の開催を呼び掛けたなんてニュースもありました。しかし、北朝鮮から見れば、日本は主体性のない(チュチェ思想!)アメリカのポチにすぎません。それに、自分たちを植民地支配した国です。北朝鮮はここぞとばかりに強気に出るでしょうから、「拉致被害者全員の即時帰国」が前提の交渉では、成果を得るのは難しいと言わねばならないでしょう。蓮池透氏が言うように、落としどころ(妥協点)を決めないことには交渉のしようがないのです。

北朝鮮が日本のお金をあてにしているなんて話も、如何にも上から目線の旧宗主国の見方にすぎません。そういった上から目線とトンチンカンな世論は表裏一体のものです。日本政府は、拉致問題の解決が国交正常化の前提だと言ってますが、それを言うなら、日本の植民地支配の清算も、同様に国交正常化の前提のはずです。日本人は、そのことを忘れているのです。


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2018.06.10 Sun l 社会・メディア l top ▲
昨日今日とたてつづけに、朝日新聞に「秋葉原事件」に関連する記事が掲載されていました。どうしてだろうと思ったら、事件が起きたのが2008年6月8日で、ちょうど今日が10年目に当たるのだそうです。

朝日新聞デジタル
秋葉原事件10年、死刑囚の父は今 明かりともさず生活
秋葉原で重傷、「なぜ」追い求め10年 死刑囚との手紙
「絶対に忘れない」 秋葉原無差別殺傷事件から10年
秋葉原で重傷の男性、発生時間に献花「10年は通過点」
今なお共鳴、加藤死刑囚の孤独 ネットに書き込み絶えず

私は、以前、加藤智大が書いた『東拘永夜抄』を読んだことがありますが、そこにあるのは、中島岳志氏も指摘しているように、青森県で有数の進学校に入ったものの、周囲が期待する大学に進むことができなかった挫折をいつまでも引き摺るナイーブな心と、たとえ仲のいい友達がいても心を通わせることができない孤独な心でした。そのため、人間関係が原因で何度も会社を辞めているのでした。

そして、行き着いたのが、派遣工として派遣会社を転々とする生活でした。派遣会社が用意したアパートでのかりそめの生活。それは、飯場を渡り歩く昔の労務者(自由労働者)と同じです。ただ、「派遣」や「ワンルームマンション」など、呼び方が現代風に変わっただけです。そんな生活では、ナイーブな心や孤独な心がますます内向していくのは当然でしょう。

秋葉原事件も、大阪教育大学附属池田小学校の事件や土浦の通り魔事件と同じように、自暴自棄な自殺願望が衝動的な犯罪へ向かったと言えるのかもしれません。ただ、その背景には、個人のキャラクターだけでは捉えきれない、社会的な問題も伏在しているように思います。生きづらさを抱く若者をさらに孤立させ追いつめていったものが、この社会にあったのではないか。

手前味噌ですが、私は、事件直後に下記のような記事を書きました。読み返すと、多少の事実誤認はあるものの、リアルなのは右か左ではなく上か下なのだとあらためて思うのでした。

関連記事:
秋葉原事件
2018.06.08 Fri l 社会・メディア l top ▲
歴史社会学者・小熊英二氏が、朝日新聞の「論壇時評」に興味ある記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)観光客と留学生 「安くておいしい国」の限界

国連世界観光機関(UNWTO)の統計では、2000年から2017年で、国際観光客到着数は2倍に増えたそうです。そのため、世界のどこに行っても、「マナーの悪い観光客に困っている」という話を聞くようになったのだとか。

今は世界的な観光ブームと言ってもいいのかもしれません。そのいちばんの要因は、グローバル資本主義によって、かつて「中進国」と言われた中位の国々が底上げされ豊かになったからでしょう。もちろん、その“豊かさ”が格差とセットであるのは言うまでもありません。

一方、日本は、2016年の国際観光客到着数で世界16位です。ただ、増加率が高く、2012年から2017年で3倍以上になったそうです。

日本の観光客数が急増したのも、中国や韓国や台湾だけでなく、タイ、マレーシア、フィリピン、シンガポール、インドネシアなど、経済成長したアジアの国々から観光客が訪れるようになったからですが、小熊英二氏は、もうひとつ別の理由をあげていました。

日本が「安くておいしい国」になったからだと言うのです。たしかに、「円安」によって観光客が増えたというのは、よく言われることです。

 ここ20年で、世界の物価は上がった。欧米の大都市だと、サンドイッチとコーヒーで約千円は珍しくない。香港やバンコクでもランチ千円が当然になりつつある。だが東京では、その3分の1で牛丼が食べられる。それでも味はおいしく、店はきれいでサービスはよい。ホテルなども同様だ。これなら外国人観光客に人気が出るだろう。1990年代の日本は観光客にとって物価の高い国だったが、今では「安くておいしい国」なのだ。


つづけて、小熊氏は、つぎのように書いていました。

このことは、日本の1人当たりGDPが、95年の世界3位から17年の25位まで落ちたことと関連している。「安くておいしい店」は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう。


「安くておいしい国」というのは、裏返して言えば、それだけ日本が日沈む国になりつつあるいうことなのかもしれません。外国人観光客が増えたからと言って、テレビのように「ニッポン、凄い!」と単純に喜ぶような話ではないのかもしれません。

日本は、観光客だけでなく、留学生も増えています。なぜ非英語圏の日本に(ベトナムやネパールなどから)留学生が押し寄せているのかと言えば、日本は外国に比べて留学生の就労規則が緩く、「就労ビザのない留学生でも週に28時間まで働ける」からです。しかも、その「週28時間」も、ほとんど有名無実化しているのが実情です。その結果、「留学生」と言う名の外国人労働者が日本に押し寄せているのです。

政府は、昨日(5日)、外国人労働者の受け入れ拡大に向けた「骨太の方針」を決定したばかりですが、しかし、忘れてはならないのは、それは日本が「豊かな国」だからではないのです。3Kの単純労働の仕事で、若くて安い労働力が不足しているからです。ただそれだけの理由です。

一方で、低賃金の外国人労働者の流入が、単純労働の仕事を支えている非正規雇用などの「アンダークラス」の賃金を押し下げる要因になっているという指摘もあります。また、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるという、先進国にあるまじき貧困の現実があることも忘れてはならないでしょう。

しかし、日本人は、『ルポ ニッポン絶望工場』の出井康博氏が書いているように、いつまでも自分たちが豊かだという「上から目線」がぬけないのです。二言目にはアジア人観光客は「マナーが悪くて迷惑だ」と言いますが、そんな「マナーが悪い」アジア人観光客が既に自分たちより豊かな生活をしている現実は見ようとしません。と言うか、見たくないのでしょう。(こんなことを言うと発狂する人間がいるかもしれませんが)そのうち北朝鮮だって、日本より豊かになるかもしれません。100円ショップの商品まで持ち出して「ニッポン、凄い!」と自演乙するのも、そんな哀しい現実から目を反らすための、引かれ者の小唄のようにしか思えません。


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2018.06.06 Wed l 社会・メディア l top ▲
今日、Yahoo!ニュースが、次のような産経新聞の記事をトピックスに掲載していました。

Yahoo!ニュース(産経新聞)
新潟知事選は総力戦 野党…参院選へ共闘試金石×与党…敗北なら総裁選に影

産経新聞は、与党候補「優勢」という事前予想を受け、陣営の引き締めを狙っているのかと思いましたが、もっと深読みすれば、この選挙で、安倍三選の道筋を付けようとしているのかもしれないと思いました。それくらい与党は”余裕”なのです。

一方、野党側は、下記の田中龍作ジャーナルの記事が示しているように、原発再稼働の問題と沖縄の基地問題を結び付けることで、選挙運動の盛り上げを狙っているかのようです。と言うか、そうやって実質的な野党統一候補を実現させたことを自画自賛しているのです。

田中龍作ジャーナル
【新潟県知事選】「安倍政権はありったけの暴力と権力でやってくる」

しかし、私は、ここにも、相変わらず「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみか子氏)左派の姿があるように思えてなりません。

原発再稼働の問題と沖縄の基地問題がどう関係があるのか。と言うと、左派リベラルの人たちは激怒するかもしれませんが、少なくとも有権者はそんな感覚ではないでしょうか。

そもそも原発再稼働の問題にしても、ホントに選挙の争点になるのか、私は疑問です。原発再稼働の問題は、選挙の争点になるような(争点にするような)問題ではないのではないか。

新潟の知事選に沖縄の基地問題をもってくるやり方が、左派特有の夜郎自大なご都合主義の所産であるのはあきらかでしょう。そうやって「野党共闘」が演出され、大衆運動が政党や党派に引き回されるのです。言うなれば、左派のお家芸のようなものです。

もちろん、左派リベラルと呼ばれる人たちの多くが、マルクス・レーニン主義と無縁であるのは言うまでもありません。彼らを「極左」と呼ぶネトウヨは、よほどの無知蒙昧か誇大妄想としか言いようがありません。ただ一方で、彼らのなかに、「前衛主義」のような発想があるのは否定しえないでしょう。

最近、左派リベラルの一部のグループがカルト化しているという声がありますが、カルト化していると言われるグループのSNSなどを見ると、たしかに(どうでもいい)自己を正当化するために身近なところに敵を見つける、党派政治にありがちな隘路に陥っているように思いました。それもいつか見た風景です。そこにも左翼の悪しき伝統が影を落としているように思えてなりません。

左派リベラルは、今回も、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所」でまどろみ、産経新聞の目論見どおり、安倍三選の道筋を付けることに一役買うことになるのでしょうか。なんだか産経新聞の高笑いが聞こえてくるようです。


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2018.06.04 Mon l 社会・メディア l top ▲
先日、LGBTを告白した勝間和代氏に対して、「芸能界からも温かい声」というような記事がありました。メディアの受け止め方も好意的なものばかりです。

電通は、「電通ダイバーシティ・ラボ」という専門組織を立ち上げ、「LGBT市場規模を約5.9兆円と算出」しているそうです。LGBTも既に美味しいビジネスになりつつあるのです。もちろん、だからと言って、性の多様性を認める社会に異議を唱える者などいようはずもないのです。

と思ったら、久田将義氏が編集長を務めるニュースサイト・TABLOに、勝間氏のカミングアウトに対して、「批判的な声が浴びせられている」という記事が出ていました。

TABLO
LGBTを告白した勝間和代さんに早くも「ビジネスLGBTでは」の声

・じゃあもう少し、弱者やマイノリティに優しい人であってくれ
・おっ今はLGBTブームなんや! それで本でも書いたろ!
・LGBTが流行ってるから一枚かんでおこうという下衆な魂胆
・こいつ大人の発達障害が話題になった時も 自分は「発達障害かもしれない」 とかカミングアウトして すぐに、講演会開いて、イベント開いて、NPOから発達障害の普及大使かなんかに任命されて 執筆したりしてたよな 今度はLGBTか
・この前隠れ巨乳なこともカミングアウトしてたよな
・娘もいい年だろうにそんな母親のカミングアウト聴きたくないだろ
・これ単なる生々しい性癖の告白だからな
・こいつの趣味 PC、バイク、麻雀... 料理もするが、見栄えより効率重視 男性脳は男性脳だわな
・バイクゴルフ麻雀全部飽きたっぽいし同性愛もすぐ飽きるだろ
・ものすごい生き急いでる感は結構好き


私は、2ちゃんねるが5ちゃんねるに変わったのも知らなかったくらいですが、ネットにはまだこういった声が残っているのかと思うと、少し安心したような気持になりました。「じゃあもう少し、弱者やマイノリティに優しい人であってくれ」というのはまさに至言で、今までの勝間氏を見ていると、今回のカミングアウトが、電通がLGBT市場を試算する話とどこか似たものがあるような気がしてならないのです。

しかし、メディアにそういった視点はありません。ただ同調圧力に与するだけです。もちろん、その同調圧力は、視聴率や売上部数やアクセス数など、ニュースをマネタイズするビジネスにつながっているのです。

メディアの同調圧力がもっとも歪なかたちで出ているのが、日大の悪質タックル問題です。先日は、朝日新聞に元日大全共闘の闘士たち(と言っても、SEALDs大好きの70すぎの爺さんたち)まで登場し、日大の体質は、日大闘争のきっかけになった古田体制の頃からなんら変わってないなどとコメントしていました。文字通り坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、今や日大は日本中から袋叩きに遭っているのです。日大生の就職活動にまで影響を及ぼしているなんて、いくらなんでもそれはないだろうと思いますが、メディアは真顔でそういったニュースまで流しているのです。

日本国民を敵にまわすようですが、あれはどう見てもチーム同士で話し合うような問題でしょう。日大の体質云々は言いがかりのようなものです。日大の体質に問題があるとしても、それはタックルとは別の問題でしょう。日大の対応が遅れたと言いますが、遅れたというより戸惑っていたのだと思います。もちろん、記者会見を開くような問題でも、まして(元水泳選手が偉そうな)スポーツ庁が乗り出すような問題でもないでしょう。問答無用の上下関係や空疎な精神論を強いる日本の学生スポーツの”体育会的体質”が根っこにあると言えば、そう言えるのかもしれません。だとしても、それは日大だけの問題ではなく、関学も同じでしょう。

週刊文春が公開した、試合直後に内田監督が記者たちと談笑していたテープでは、内田監督は、日大のタックルがひどいなんてよく言うよ、1年前の関学はもっとひどかったよというようなことを言ってました。そして、その場にいた記者たちも笑っていたのです。ところが、タックルの映像がYouTubeに上げられると、日大に対する批判が沸き起こり、日大は“国賊”のようになって行ったのです。映像をYouTubeに上げた行為の妥当性についても検証されるべきだと思いますが、そういった意見は皆無です。

監督とコーチの記者会見の際に司会を務め、その横柄な仕切りが炎上した、日大広報部顧問のY氏についても、唯一、スポーツ報知が次のような記事を載せていました。

スポーツ報知
“逆ギレ司会者”にも一分の理…アナウンサーは取材者なのか出演者なのか

こういった「一分の理」を書くことも、ジャーナリズムにとって大事なことではないでしょうか。

さらにこじつければ、眞子さまの婚姻をめぐる報道にも、同じような同調圧力が見え隠れしているように思えてなりません。元週刊現代編集長の元木昌彦氏は、プレジデントオンラインに次のような記事を書いていました。

PRESIDENT Online
"眞子さま報道"で問われる元婚約者の品性

たしかに、小室さんのお母さんがあそこまで叩かれるのなら、その情報を提供した(売った?)人物の素性もあきらかにすべきでしょう。プライベートな個人間のトラブルをメディアに提供する行為は、品性だけでなく、その倫理性も問われるべきです。また、そのリスクも、当然みずからで負うべきでしょう。

ものごとには表もあれば裏もあるのです。見る角度(立場)によって、捉え方が違ってくるのは当然です。多事争論ではないですが、さまざまな角度(立場)から報道するのがジャーナリズムのあり方でしょう。でなければ、どこにものごとの本質があり、真実があるかもわからないでしょう。北朝鮮から日大まで、今のメディアは、ただ同調圧力に与するだけで、誰でも書けるような(文章自動作成ツールでも書けるような)記事を書いているだけです。

メディアは、そやって獲物を見つけ、血祭りに上げることで、ニュースをマネタイズしているのです。この手の血祭りは昔からありましたが、最近は「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)によって、報道が増幅されより狂暴になっているように思います。「日大の悪質タックル問題は、いっこうに出口が見えない」などとメディアは言ってますが、メディアが勝手に出口を塞いでいるだけです。そうやってサディスティックになぶり殺すまでやるつもりなのかと思ってしまいます。

メディアにとって、獲物さえ見つかれば、衆愚を煽ることなど赤子の手をひねるくらいたやすいことなのでしょう。しかも、衆愚に右も左もないのです。保守もリベラルも関係ないのです。そして、同調圧力は、まるで集団ヒステリーのように、一切弁明も許さず異論や反論も徹底的に叩く、問答無用なものへとエスカレートして行くのでした。「少し頭を冷やせ」とたしなめる者がいない社会。そんなメディアが主導する同調圧力に、私は全体主義ということばしか思い当たりません。
2018.05.30 Wed l 社会・メディア l top ▲
きのう、南北首脳が、極秘に板門店で二度目の会談をしていたというニュースには驚きました。北朝鮮の朝鮮中央通信もきょう、「金正恩朝鮮労働党委員長が26日に板門店で行われた韓国の文在寅大統領との会談で、『歴史的な朝米首脳会談への確固たる意志』を表明した」と報じたそうです。このすばやい報道も異例です。あらためて金正恩の”本気度”を痛感させられたと同時に、朝鮮半島の融和がもはや後戻りできない段階まで進んでいることを実感させられました。

もろちん、このままスムーズに6月12日を迎えるかどうか、まだ予断を許さないものはあるでしょう。ただ、そのリスクは、金正恩だけでなくトランプにもあるのです。アメリカ側にいる私たちは、ともすれば金正恩のリスクばかりを考えがちですが、トランプのリスクも忘れてはならないのです。

下記のハフポストの記事によれば、平壌などでは、私たちが抱いている全体主義国家の暗いイメージとは違った表情があるそうです。

HUFFPOST
変わる北朝鮮 街中にいちゃこらカップル、そしてセグウェイ…。写真家が見たリアル

記事のなかで、写真家・初沢亜利氏は次のように言ってました。

「(略〉日本人が北朝鮮を仮想敵国として政治利用し、お茶の間で笑いものにしている間に、北朝鮮は粛々と自力更生の道を歩んでいたんですよ」

「『住民を抑圧して食べ物がない国が長く持つわけがない』という過去の妄想を、日本人は捨てきれない。ただ、北朝鮮は明らかに前例のない発展をしています。(略)」


ミサイル発射の現場で、黒ずくめの恰好で眉間に皺を寄せ、煙草を口にくわえて指示している金正恩の姿ばかり流しているこの国のメディアでは、決してわからない「あたらしい流れ」がずっと前からはじまっていたということなのでしょう。

北朝鮮は、2003年にNPTを脱退したときから、本格的な核開発に着手したと言われています。そして、核を取引材料にアメリカと直接交渉して、経済的な発展を目指すロードマップを描いていたという話がありますが、あながち嘘ではなかったのかもしれません。そもそも三代目の跡取りをわざわざ資本主義国(永世中立国)のスイスで教育を受けさせたのも、将来の進むべき道を考えたものだったのかもしれません。

一方、トランプの「中止」表明を受けて、会談そのものが流れたかのように大騒ぎしていたこの国のメディアは、一日経つと180度違うニュースを流しています。彼らはただ米朝の情報戦に踊らされ右往左往しているだけです。そんないい加減なニュースを真に受け、アメリカが北朝鮮を攻撃すると本気で思っていたYahoo!ニュースのネトウヨたちは、このめまぐるしい展開にどうやって正気を保っているのだろうと逆に心配になってきました。

金正恩の一連の言動や行動を見ていると、もしかしたら本気でアメリカ主導のCVIDを受け入れるつもりかもしれないとさえ思えてきます。北朝鮮は、「非核化」を担保に、核開発と経済発展の二本立ての並進路線から経済優先へと舵を切ろうとしているのですが、金正恩の命運がどうなるかは別にして、うまく着地点を見い出せれば、私たちは、やがて中国と同じような改革開放の経済発展した姿を、北朝鮮に見ることになるでしょう。

北朝鮮が、金日成の遺訓で昔から教育に力を入れていたのはよく知られています。北朝鮮は、(皮肉ではなく)もともと短期間で核開発を成し遂げたり、外国の政府機関を標的にしたサイバー攻撃をおこなったりするような”優秀な頭脳”をもっているのです。トランプが言うように、経済による国造りに向かえば、そういった”優秀な頭脳”が「豊かな人的資源」になるのは間違いないでしょう。

北朝鮮には、レアメタルだけでも数百兆円分が埋蔵されていると言われています。そんな豊富な地下資源と「豊かな人的資源」。あと足りないのは、資金だけなのです。

ワイドショーで、デーブ・スペクターの会社(スペクター・コミュニケーションズ)が提供する「中国は遅れた貧しい国」の映像を見て嘲笑っている間に、気が付いたら、私たちよりはるかに豊かな中国人が大挙して観光にやってくるようになっていたのです。そして、卑屈な日本人は、さも迷惑そうな顔をしながらも、陰では揉み手して「熱烈歓迎」するようになっていたのです。資本主義国で教育を受けた独裁者の”英断”によって、北朝鮮もまた中国と同じ道を歩みはじめた(はじめようとしている)と言っていいでしょう。


※前回の記事(米朝首脳会談と「奴隷の楽園」)の「追記」として書いたものを、一部書き加えて独立した記事にしました。
2018.05.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
首脳会談を来月に控え、米朝双方の駆け引きが激しくなっていますが、「延期」や「中止」を仄めかすのではなく、トランプがいきなり「中止」を表明したのには、さすがにびっくりしました。

びっくりしたのは、北朝鮮も同じだったみたいで、すぐに金桂寛第一外務次官が談話を発表したのですが、それは、メディアがヤユするように、今までの北朝鮮ではあり得ないような低姿勢なものでした。談話では、「我々はトランプ大統領が過去のどの大統領も下せなかった勇断を下して首脳対面という重大な出来事をもたらすために努力したことを依然として内心高く評価してきた」とトランプを持ち上げた上で、「我々は、いつでも、いかなる方式であれ対座して問題を解決する用意があることを米国側に改めて明らかにする」と交渉の継続をアメリカに乞うているのでした。つまり、それだけ金正恩は本気だったということでしょう。

国際ジャーナリストの高橋浩祐氏は、WEBRONZAで、今回の「中止」表明を「メガトン級の『牽制球』」と呼んでいました。言うなれば、”ショック療法”のようなものかもしれません。

WEBRONZA
トランプ氏 メガトン級の「牽制球」のワケ

高橋氏は、トランプの「中止」表明を「『マッドマンセオリー』の使い手らしい一手」と評していました。「マッドマンセオリー」とは、「何をするかわからないと相手に思わせる狂人理論」だそうです。

今後の展開について、高橋氏も、「長年の悲願であった米朝首脳会議を開催するチャンスを、北がやすやすと蹴っ飛ばす可能性は低い」という見方をしていました。

「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、「段階的な非核化」(実質的な核保有)を主張する北朝鮮との交渉が難航するのは最初からわかっていたことです。だからこそ、激しい駆け引きがおこなわれていたのです。もとより、米朝首脳会談は、国交のない国の首脳同士が直接顔を合わせる「歴史的な」会談なのです。予想もつかない展開を見せるのも当然でしょう。

高橋氏は、つぎのように書いていました。

 仮に、米朝首脳会談が6月12日に実施されても、今のままでは評価は分かれるかもしれない。

 北朝鮮の非核化に道筋を付け、朝鮮戦争の終結と朝鮮半島の平和をもたらす貴重な機会を確保したとの理由で、トランプ政権の株は上がるかもしれない。

 しかし、その一方で、準備不足の生煮えのままで米朝首脳会談が決行されれば、成果を急ぐトランプ大統領がノーベル平和賞を脳裏に浮かべながら、北朝鮮に譲歩を重ねて、米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)の放棄だけで合意してしまうかもしれない。「完全な非核化」ではなく、中途半端な合意で北朝鮮に一部の核を温存させてしまう恐れがあるのだ。11月の中間選挙を前に、トランプ大統領が功を焦るあまり、北を核保有国として認めさせる金委員長の術中にはまる懸念は小さくない。

 いずれにせよ、トランプ大統領は今、短い期間で、北朝鮮との合意を形成する難しさを薄氷の上を歩むような思いで痛感しているはずだ。米朝首脳会談の中止の撤回を含め、今後の展開から目が離せない。


米朝の駆け引きがどういった落としどころになるのか、素人なりに考えると、まず思い浮かぶのは、アメリカ主導によるCVIDです。しかし、アメリカ主導のCVIDは、リビアのように「永遠の濡れ衣」(田中宇氏)になりかねないので、北朝鮮もおいそれと妥協はできないでしょう。金正恩のたてつづけの習近平詣では、CVIDを前提に「体制保証」を確約してもらうように中国に仲介を依頼したと見えないこともありませんが、しかし、CVIDで妥協するにはハードルが高すぎるし、交渉の時間もかかりすぎるように思います。早急な「歴史的な成果」を求めているのは、11月の中間選挙を控えたトランプも同じなのです。お互いに折り合いをつけるとなると、上記の高橋氏が懸念するように、CVIDを装いつつ実際は北朝鮮の核保有を黙認するか、あるいは田中宇氏が再三書いているように、CVIDの判定に中国を絡ませることで「永遠の濡れ衣」を回避するか、そのどっちかでしょう。そう考えれば、トランプの「中止」表明は、いかにも彼らしい演技(ハッタリ)と見えなくもないのです。

一方、トランプの「中止」表明を受け、この国のメディアが流しているのは、「それみたことか」と拍手喝采を送り、会談そのものが雲散霧消したかのような、文字通りそうなればいいという希望的観測に基づいた(フェイクな)記事ばかりです。不動産屋であるトランプ一流の交渉術を指摘するような報道は皆無です。まして、トランプが”両刃の剣”であることなど、露ほども思ってないようです。この国のメディアは、対米従属を至上の価値とする恥も外聞もない従属思想に寄りかかることで、見えるものも(見なければならないものも)見えなくなっているのです。

白井聡氏は、新著『国体論』(集英社新書)で、「日本は独立国ではなく、そうありたいという意志すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と書いていましたが、たしかに、どうしてアメリカの核が「正義」で、北朝鮮の核が「悪」なのかという、国際政治の”不条理”に対する疑問は、日本中どこを探しても存在しません。保守もリベラルも、核抑止力というアメリカの論理(詭弁)に、「ごもっともでございます」と雁首を並べて膝を折り頭を垂れているあり様です。

白井氏は、この国の戦後を「奴隷の楽園」と呼んでいました。そして、何度も言うように、「奴隷の楽園」では、「愛国」と「売国」がまったく逆の意味に使われているのです。

 ニーチェや魯迅が喝破したように、本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。
(『国体論 菊と星条旗』)


これでは、日本はアメリカのポチにすぎない(理念のない国だ)、と北朝鮮からバカにされるのも当然でしょう。

多少の紆余曲折はあろうとも、東アジアの「あたらしい流れ」が避けようのない現実(既定路線)であるのはあきらかです。米朝の次は日朝だとか言われていますが、白井氏が言うように、独立国ですらない日本が一筋縄でいかない北朝鮮と交渉するのは、どう考えてもプレイヤーの「格が違いすぎる」と言わざるを得ません。日本のメディアが首脳会談の「中止」表明に拍手喝采を送るのも、できるなら交渉などしたくないというこの国の本音が隠されているのでしょう。

北朝鮮がみずから言うように、ホントに核兵器が完成しているのなら(まだ完成していないという説もありますが)、核を保有する(隠し持つ)北朝鮮が東アジアの政治の表舞台に登場することになるわけで、その衝撃は想像以上に大きいと言えるでしょう。しかも、北朝鮮はレアメタルをはじめ豊富な地下資源をもっており、制裁が解除になって外国資本が入れば経済的に大きく飛躍する可能性があると言われています。そう考えると、会談が「中止」になってほしい、できれば交渉したくない、という”日沈む国”の気持もわからないでもありません。


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米朝首脳会談とこの国のメディア
南北首脳会談とこの国の「専門家」
夜郎自大な国と南北首脳会談
2018.05.25 Fri l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談の日程や場所が具体的に決定しても、相変わらずこの国のメディアは、北朝鮮は信用できないので、会談が決裂する可能性があるというような記事ばかり流していますが、じゃあ、トランプは信用できるのか、と突っ込みを入れたくなりました。メディアが流しているのは、会談が決裂すればいいという希望的観測(対米従属の願望)の記事にすぎません。

先日、朝日新聞に出ていた、トランプ政権が金正恩が飲めないようなハードルの高い非核化プログラムを提示するので、会談が合意に達するか予断を許さないという記事なども、そのひとつです。トランプは不動産屋なので、最初は高くふっかけ、それから徐々にハードルを下げて妥協点を探るのが彼の交渉術だと言われます。朝日新聞は、そんなこともわからないのだろうかと思いました。

このように、「いざとなれば大本営」ではないですが、ここにきて政府と歩調を合わせたプロパガンダのような報道が目に付きます。この国の政府やメディアは、今に至ってもなお、トランプに(軍事行動という)一縷の望みを託しているかのようです。

田中宇氏も、「田中宇の国際ニュース解説」でつぎのように書いていました。

(略)今起きていることの全体を見ると、おそらく今年じゅうに朝鮮半島の対立が終わり、半島から米国勢が出て行き、在日米軍の縮小・撤退が取り沙汰されるところまで行く。マスコミや著名評論家たちは「米朝会談が必ず失敗し、トランプが再豹変して北を先制攻撃してくれるはず」といった「トランプ神風」への願掛けをお経のように唱えているが、彼らを信じるのはもうやめた方が良い。

田中宇の国際ニュース解説
朝鮮戦争が終わる(2)


イランの核合意からの離脱でも、アメリカがイランを軍事攻撃する可能性が出てきたとか、これで北朝鮮が震え上がったに違いないなどと妄想めいた記事が出ていましたが、私は、あのニュースを聞いて、アメリカ抜きで進められたTPP交渉を思い浮かべました。イランも、アメリカが離脱しても合意にとどまると表明しており、TPPと同じように、「非核化」のプロセスがアメリカ抜きで進められるのは間違いないでしょう。

アメリカ抜きで進められるTPPやイランの核合意が示しているのは、アメリカが超大国の座から下りて(転落して)世界が多極化する”世界史的転換”です。トランプの「アメリカ第一主義」も、その言い換えにすぎないのです。金正恩は、トランプの「アメリカ第一主義」をチャンスと見て、”賭け”に出たのでしょう。

何度も言いますが、好むと好まざるとにかかわらず、東アジアの覇権が中国に移るのは間違いないのです。それに伴い、いづれアメリカが(軍事的に)東アジアから手を引くのも間違いないのです。それが朝鮮半島の南北融和の先にある、東アジアの「あたらしい流れ」です。それは昨日今日はじまった話ではありません。アメリカの世界戦略にネオコンが影響力をもちはじめた頃から言われていたことです。

にもかかわらず、対米従属が国是のこの国のメディアは、アメリカがいない東アジアなんて想像すらできないみたいで、東アジアの「あたらしい流れ」から目を背け、前にも増して”アメリカ幻想”をふりまいているのでした。米朝首脳会談はトランプ(様)の胸ひとつと言わんばかりの報道などが、その最たるものです。メディアの言うことを真に受けると、Yahoo!ニュースのコメント欄に巣食うネトウヨのように、見えるものも見えなくなるのです。


追記:
 16日に突然、北朝鮮がマックス・サンダー(米韓の航空戦闘訓練)を理由に、南北閣僚級会談の中止を表明、併せて来月の米朝首脳会談の中止も仄めかしたことで、またぞろ会談が中止になってアメリカが軍事オプションを選択するのではないか(選択してほしい)、というような報道が流れていますが、北朝鮮の表明が「非核化」の落としどころをめぐる駆け引きにすぎないことぐらい、冷静に考えれば誰にでもわかる話です。たしかに朝鮮人は、激情に走って後先を考えずにものを言うところがありますが、これは外交なのです。北朝鮮の「強気」が計算されたものであるのは言うまでもないでしょう。日本のメディアは、米朝の情報戦に踊らされているだけです。
 これから会談の当日まで、「延期」や「中止」を仄めかすような瀬戸際の駆け引きが、米朝双方によってくり広げられることでしょう。そのたびに、メディアはネトウヨと一緒になって発狂し大騒ぎすることでしょう。ついでに北朝鮮サイドに立って言えば、圧倒的な軍事力を誇る「超大国」を相手にするには、中国の後ろ盾も必要だし、「瀬戸際外交」と言われるこのような”ゆさぶり”も必要なのです。独裁政権にも三分の理はあるのです。(5/18)


関連記事:
世界史的転換
2018.05.14 Mon l 社会・メディア l top ▲
新・日本の階級社会


橋本健二氏(早稲田大学教授)の『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)がベストセラーになっているそうです。

本自体は、如何にも大学の先生が書いた本らしく数字のデータが多いので、ややわかりにくくて退屈するきらいがあります。それで、というわけではないでしょうが、『週刊ダイヤモンド』(2018年4月7日号)が、特集(「新・階級社会」)を組んで、同書をわかりやすく解説していました。

日本で格差拡大がはじまったのは1980年前後で、既に40年近く格差拡大がつづいているそうです。その結果、日本の社会に、「生まれた家庭や就職時期の経済状況によって決まる『現代版カースト』ともいえる世界」が現出したのです。

「新・階級社会」は、以下の五つに分かれるそうです。

1.「企業規模5人以上の経営者・役員」で構成される「資本家階級」。
人口の4.1%・254万人。個人の平均年収(2015年)604万円。世帯の平均年収(同)1060万円。

2.「管理職・専門職」で構成される「新中間階級」。
人口の20.6%・1285万人。個人の平均年収(同)499万円。世帯の平均年収(同)798万円。

3.「単純事務職・販売職・サービス職・その他マニュアル労働者」で構成される「労働者階級」。
人口の35.1%・2192万人。個人の平均年収(同)370万円。世帯の平均年収(同)630万円。

4.「自営業者・家族従事者」で構成される「旧中間階級」。
人口12.9%・806万人。個人の平均年収(同)303万円。世帯の平均年収(同)587万円。

5.「非正規労働者(パート・アルバイト・派遣労働者)」で構成される「アンダークラス」。
人口14.9%・929万人。個人の平均年収(同)186万円。世帯の平均年収(同)343万円。

しかも、このなかで、2005年と比べて2015年の個人及び世帯の平均年収がアップしているのは、「労働者階級」だけです。そのため、ほかの階級に属する人たちは、上のクラスに上がるどころか、下のクラスに転落するリスクのほうが大きいのです。

でも、下に転落するクラスがあるだけまだマシかもしれません。最下層の「アンダークラス」は、転落することさえままならず、貧困率や未婚率が上がるだけです。

しかも、「アンダークラス」にとって、外国人労働者の存在も無視できなくなっているのです。外国人労働者は、過去5年間で60万人増えて120万になっているそうです。外国人の低賃金労働者の増加が、「アンダークラス」の賃金が上がらない要因になっているのです。

橋本健二氏は、『新・日本の階級社会』で、「アンダークラス」について、つぎのように書いています。

 収入はきわめて低く、貧困率は三八・七%、女性に限れば四八・五%にも達している。彼ら・彼女らは、安定した家族が形成・維持できない状態にある。男性の有配偶率はわずか二五・七%で、六六・四%が結婚の経験をもたない。女性では離死別者が多く、これら離死別者の貧困率はきわだって高い。


また、『週刊ダイヤモンド』の対談でも、つぎのように言っていました。

橋本 (略)近現代の日本で、初めて貧困であるが故に結婚して家族を構成して子どもを産み育てることができないという、構造的な位置に置かれた人が数百万単位で出現した事実は非常に重いです。
 しかも、上の世代がまだ50歳ですから、あと20年くらい働き続けるかもしれない。その下の世代まで含めると、最終的にはアンダークラスが1000万人を超えると思っています。そのとき、よくやく一番上の人が70歳になり生活保護を受けるようになって、定常状態に達するというのが私が予想する近未来の日本です。
(河野龍太郎氏との対談「再分配の機能不全で”日本沈没”」)


一方で、富が偏在している現状があります。

 野村総合研究所の推計によると、家計のもつ金融資産総額は一四〇二兆円である。しかしこの分布は著しく偏っており、五億円以上をもつ七・三万世帯の超富裕層が七五兆円、一億円以上五億円未満の一一四・四万世帯の富裕層が一九七兆円、五〇〇〇万円以上一億円未満の準富裕層三一四・九万世帯が二四五兆円の金融資産を所有している。合計四三六・六万世帯、全体の八・三%を占めるに過ぎないこれらの世帯の金融資産が、五一七兆円、全体の三六・九%を占めるのである(野村総合研究所「日本の富裕層は一二二万世帯、純金融資産総額は二七二兆円」)。
『新・日本の階級社会』


橋本氏は、この格差を縮小する方法として、階級そのものをなくす社会主義革命は「ひとまず措」くと書いていました。そして、政策的に実現可能な方法として、①賃金格差の縮小、②所得の再分配、③所得格差を生む原因の解消をあげていました。そのためには「リベラル派の結集」が必要なのだと。

なんだか竜頭蛇尾のような話で興ざめせざるを得ません。「リベラル派」って何?と突っ込みを入れたくなりました。社会の構造を根本から変えない限り、格差が解消できないのは論を待たないでしょう。

もっとも、橋本氏も、『現代の理論』(ウェブ版)の論考においては、ルンペンプロレタリアートによる革命(竹中労の言う「窮民革命」)を主張する永山則夫の「驚産党宣言」を引き合いに出して、つぎのように書いていました。

現代の理論(第15号)
「新しい階級社会」とアンダークラス

 アンダークラスの絶望は、しばしば犯罪として噴出する。アンダークラスの全体が犯罪予備軍であるかのような偏見は、慎まなければならない。しかし秋葉原大量殺傷事件を思い出すまでもなく、無差別殺傷事件、サイバー犯罪、振り込め詐欺、野宿者襲撃などで逮捕された若者たちの多くが無職や非正規労働者である。切羽詰まったあげくに、犯罪へと追いやられやすい若者たちが、ある程度の数いるのは否定できまい。

 永山則夫は獄中から、ルンペンプロレタリアートたちに「地下生活者の魂を発起し(原文のまま)、あくまでも地下組織を通じてドブネズミの如く都市を動揺せしめよ。……。強盗よし、暗殺よし、敵権力機構の破壊よし、あらゆる手段・方法を自由に用いて闘わなければならない」と呼びかけた。それが現実のものになっているのかもしれないのである。


犯罪もまた、ある種の”大衆叛乱”と言えなくもないのです。水野和夫氏は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)のなかで、グローバリゼーションにとっては、資本が主人で国家は使用人のようなものだ、と書いていましたが、実体経済の数倍の200兆円とも300兆円とも言われるバーチャルなマネーが、金融工学で編み出されたシステムを使い、瞬時の利益を求めて日々世界中を徘徊している金融資本主義にとって、たしかに国民国家なんて足手まといでしかないのかもしれません。株式市場がマネーゲームの賭場と化し、実体経済とかけ離れたものになっているというのは、誰しもが認める現実でしょう。私は、その話を聞いたとき、「資本主義の臨界点としての社会主義」(鷲田小彌太氏)ということばを思い浮かべました。

社会主義や革命なんて、もはや終わった歴史のように考えがちですが、一方で、このようなあらたな階級社会が出現している現実を考えると、(それが悪魔のささやきであることはわかっていても)社会主義や革命の”理想”がよみがえってくるような気がするのでした。


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2018.05.07 Mon l 社会・メディア l top ▲
27日に板門店でおこなわれた文在寅韓国大統領と金正恩朝鮮労働党委員長による南北首脳会談は、「予想」をも裏切るほど画期的なものでした。まさに「歴史的」な会談になったと言ってもいいでしょう。一連の流れが中国(あるいは中朝)主導でおこなわれ、韓国にアメリカとの橋渡しを要請したのは中朝のほうだ、という話は本当ではないかと思いました。いづれにしても、北朝鮮の”本気度”をひしひしと感じました。

同日に発表された「板門店宣言」は、つぎのように謳っています。

The Korean Politics(コリアン・ポリティクス)
[全訳] 「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」【2018南北首脳会談】

3.南と北は朝鮮半島の恒久的で強固な平和体制構築のために積極的に協力していく。

朝鮮半島での非正常的な現在の停戦状態を終息させ、確固とした平和体制を樹立することは、これ以上、先延ばしすることができない歴史的な課題だ。

(1)南と北はいかなる形態の武力も互いに使わないという不可侵合意を再確認し、これを厳格に遵守する。

(2)南と北は軍事的な緊張が解消し、互いの軍事的な信頼が実質的に構築されることにより、段階的に軍縮を実現していくことにした。

(3)南と北は停戦協定締結から65年になる今年に、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制の構築のための南北米3者、南北米中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした。

(4)南と北は、完全な非核化を通じ、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した。

南と北は、北側が行っている主動的な措置が朝鮮半島の非核化のために大きな意義を持ち、重大な措置だという認識を共にし、今後、各々が自己の責任と役割を果たすことにした。

南と北は朝鮮半島の非核化のため、国際社会の支持と協力のために積極的に努力することにした。


当事国の国民ならずとも(同じ東アジアに生きる人間として)、感動を覚える宣言です。

同時に、戦争を回避するために、政治生命を賭けて北朝鮮とアメリカの橋渡しをおこなった文在寅と、排外主義的な「愛国」主義を掲げ、旧宗主国の尊大な態度でネトウヨ的言動をまき散らす安倍や麻生を対比すると、政治家の器の違い、それも大人と子どもほどの違いを痛感させられるのでした。同じ対米従属でも、「愛国」者としての矜持に雲泥の差があるのです。ここにも、「愛国」と「売国」が逆さまになったこの国の戦後の”背理”が示されているように思えてなりません。「愛国心という言葉は嫌いだ」と言った三島由紀夫ではないですが、私たちはまず、この国の「愛国」者こそ疑わなければならないのかもしれません。彼らはホントに「愛国」者なのかと。

韓国の大統領府によれば、金正恩は会談の席上、「『いつでも日本と対話を行う用意がある』と述べた」そうです。

TXNNEWS(テレビ東京)
金正恩氏、日朝対話に意欲表明

これに対し、安倍総理は、「日本も北朝鮮と対話する機会を設け、必要ならば文大統領に助けを求める」と表明し、文在寅も日朝間の対話の橋渡しを「喜んで引き受ける」と述べたそうです。また、安倍総理は、文在寅が会談の席で拉致問題を提起したことに対して、「文大統領の誠意に感謝申し上げたい」と述べたのだとか。

昨日まで、嫌中憎韓を煽っていた「宰相A」が、韓国の大統領に「助けを求める」とは開いた口が塞がりません。これがこの国の「愛国」者なのです。

何度も言っているように、私たちは、民主党→民進党→立憲民主党(+国民民主党)が野党第一党である不幸と同時に、安倍晋三や麻生太郎のような「幼稚な老人」がこの国の指導者である不幸も、併せて痛感せざるを得ないのです。

しかし、それは政治家だけではありません。

私は、首脳会談の中継をテレビ朝日の「ワイド!スクランブル」で観ましたが、スタジオには、辺真一、金恵京、末延吉正、鈴木琢磨、デーブ・スペクターがコメンテーターとして出演していました。

辺真一は、「コリア・レポート」の発行人で、朝鮮問題の専門家。金恵京は、日本大学危機管理学部准教授。末延吉正は、元テレビ朝日政治部部長で現在は東海大学教授。安倍晋三とは同郷で親しく、ブレーンのひとりと言われています。鈴木琢磨は、毎日新聞の編集委員(元『サンデー毎日』記者)で、やはり北朝鮮問題の専門家です。

画面は、板門店の軍事境界線を挟んで両首脳が握手をしているシーンを中継していました。そして、金正恩がまず軍事境界線を跨いで南側に行き、それから金正恩が文在寅を誘って、二人で手を取りながら、今度は北の方に跨いで行ったのでした。

そのとき、鈴木琢磨や辺真一は、我が意を得たとばかりに、「これは北朝鮮の演出ですよ」と興奮気味に言ってました。このシーンが、偉大な首領様が南の指導者を北側に呼び寄せたということになり、北の国民向けのプロパガンダに使われるのだと。そのために、金正恩が文在寅を誘って北側に軍事境界線を跨がせたのだと。文在寅が北側に行った際、金正恩が両手を重ねて文在寅と握手をしていたシーンに、辺真一は、「手を重ねるのは迎える側の礼儀だから、国内向けにわざとそうしているのだ」というような解説まで加えていました。

しかし、翌日の朝鮮中央テレビでは、なんのことはない、軍事境界線を挟んだ一連の行為がノーカットで放送されたのでした。彼らが言うように、北側で両手を重ねて握手するシーンだけが放送されたわけではなく、朝鮮中央テレビになんの演出もなかったのです。

こういったところにも、北朝鮮問題の「専門家」や「識者」のお粗末さがよく表れています。彼らは、北朝鮮について、非情・横暴・嘘八百の独裁国家というありきたりな認識しかなく、「専門家」ズラしながら、近所のおっさんでも言えるようなことをただ言っているだけです。金正恩には深謀遠慮があるから信用できないと言いますが、外交交渉に深謀遠慮があるのは当たり前でしょう。金正恩だけでなく、文在寅にもトランプにも深慮遠謀はあるでしょう。

「核放棄」は金王朝を守るためためなどという論評も、独裁国家という一面しか見てないように思います。アメリカが主張する「完全な非核化」は、田中宇氏が言うように、イラクの「大量破壊兵器」やイランの「核合意」やシリアの「化学兵器」や、あるいは「リビア方式」と呼ばれるリビアの「核廃棄」の例をあげるまでもなく、ともすれば国を潰すための「永遠の濡れ衣」になりかねないのです。それがアメリカの深慮遠謀です。だからこそ、よけい「体制保証」に固執せざるを得ないのでしょう。「体制保証」=金王朝を守るためというのは(その一面はあるにしても)、あまりにも短絡的な見方と言わざるを得ません。それに、金正恩だって、空腹に喘ぐ国民に少しでも食料を配給したいという為政者の顔も当然もっているでしょう。

言うまでもなく、朝鮮戦争は今だ休戦状態にあり、しかも、北朝鮮にとって、戦争終結の交渉相手は韓国ではなくアメリカ(国連軍)です。戦争によって分断された小国が、国家の存亡を賭け、超大国相手に外交戦をおこなわなければならない(ならなかった)のです。それを考えれば、「瀬戸際外交」にも”三分の理”はある(あった)と言えるでしょう。

「核放棄」の問題も、どうして大国が核をもつことは許され、小国が核をもつことは許されないのかという、誰しもが抱く(はずの)素朴な疑問もあって然るべきでしょう。どうして大国の核は「正義」で、小国の核は「悪」なのか。小国が核をもつと、「ならず者国家」と言われるのか。

トランプが”大審問官”のように「正義」を体現して、北朝鮮の「非核化」を裁可し、北朝鮮の国家の命運を決めるというのは、どう考えてもおかしな話です(だから、北朝鮮は中国やロシアに、「体制保証」の後ろ盾になってもらうことを求めたのでしょう)。このように、日本のメディアでは、”裸の王様”がいつの間にか”大審問官”になっているのです。

もうひとつ忘れてはならないのは、独裁国家の中枢における”開明派”の存在です。今回の南北首脳会談で、その存在がはっきりしたことです。彼らは文字通り命を賭けて独裁者に進言したはずです。その際、金正恩が永世中立国のスイスに留学し、少年時代の多感な時期に、”西側”の教育を受けていたということも無視するわけにはいかないでしょう。

しかし、この国の「専門家」や「識者」たちは、国交がなく言いたい放題のことが言えるのをいいことに、「血も涙もない」独裁者を誹謗し、そう印象操作することしか念頭にないかのようです。これでは、櫻井よしこの後釜を狙う三浦瑠麗のスリーパーセル発言や当日もやらかしたデーブ・スペクターのトンチンカンな発言を誰も笑えないでしょう。ガナルカナル・タカや立川志らくの木を見て森を見ない痴呆的なコメントと、たいして違いはないのです。

要するに、「専門家」や「識者」たちは、日本政府の”敵視政策”の枠内で、(「ならず者国家」という)予定調和の発言をしているにすぎないのです。だから、いつもあのように、上から目線なのでしょう。「板門店宣言」についても、日本のメディアはおしなべて懐疑的冷笑的で、朝日から産経まで大きな違いはありません。旧宗主国のバイアスがかかった夜郎自大な国のメディアでは所詮、朝鮮半島の「新しい流れ」を理解することはできないのかもしれません。蚊帳の外に置かれているのは、政府だけでなく、メディアも同じなのです。
2018.04.29 Sun l 社会・メディア l top ▲
安倍政権にとって、「北朝鮮の脅威」は神風ならぬ「北風」と言われているそうです。北朝鮮がミサイルを発射すると、まるで空襲警報のようにJアラートが鳴り響き、メディアは戦争前夜のようにセンセーショナルに報道します。すると、支持率が下落した安倍政権は、待ってましたとばかりに「北朝鮮の脅威」を煽り、再び支持率を回復してきたのです。それを「北風が吹いた」と言うのだとか。

その典型が昨年10月の衆議院選挙でした。安倍政権は、野党(民進党)の”敵失”があったとは言え、「逼迫」する北朝鮮情勢を前面に出し、この選挙は「国難突破」の選挙だとアピールして、自公で憲法改正の発議に必要な三分の二を超える313議席を獲得、大勝したのでした。

また、野党も、「北朝鮮情勢が逼迫しているときに選挙などしている場合か」などというもの言いに終始し、結果的に「国難」を共有したのでした。

それから半年。明後日(27日)、板門店で開かれる南北首脳会談では、朝鮮戦争の「終戦」を確認する平和宣言が出される見通しで、その最終調整がおこなわれているそうです。今回は、北朝鮮も核開発を凍結する姿勢を見せており、南北融和の”本気度”を感じてなりません。

となると、あの「国難」って一体なんだったのかと思わざるを得ません。「国難」だと大騒ぎして、気が付いたら、日本は蚊帳の外に置かれていたのです。安倍政権の「最重要課題」である拉致問題も、トランプや文在寅にお願いするしかないようなあり様です。

ところが、ここに至ってもなお、日本政府は、「非核化が約束されてない」「それまでは最大限の圧力をかけつづけるべきだ」、とまるで負け犬の遠吠えのように「圧力」を強調し、融和ムードに水を差すことに躍起となっています。メディアも(特に産経新聞などは)、そんな政府に歩調を合わせ、非核化の履行を巡り米朝が決裂する可能性もあるかのような(そうなることを願っているような)、ヨタ記事を流しています。これが「国難」のあられもない姿です。

田中宇氏が言うように、「完全な非核化」なんて口先だけで、誰もそんなことを期待してないのでしょう。韓国もアメリカも中国もロシアも、「北朝鮮が核を持ったままの恒久和平」という現実的な和解の道を模索しているというのは、その通りなのでしょう。要は「核保有」(=戦争)と「恒久和平」(=平和)のどちらに重きを置くかで、それを判断するのが政治でしょう。もとより私たちにとっても、(ファシストやネトウヨではない限り)戦争を挑発する政治より、平和を希求する政治のほうがいいに決まっているのです。

田中宇の国際ニュース解説
北朝鮮が核を持ったまま恒久和平(有料配信)

一方、日本政府は、拉致問題においても、他力本願で米韓にお願いし、あとは「圧力」をかけつづければ北朝鮮がひれ伏して拉致被害者を差し出してくるなどと主張して、傍観するだけです。拉致したのは北朝鮮なんだから、そうするのが当然だとでも言いたげですが、無為無策を荒唐無稽な”原則論”で誤魔化しているだけです。そのくせ外務省は、両首脳が座る椅子の背や食後に出されるデザートのチョコレートに描かれた朝鮮半島の絵に、竹島が含まれていることを取り上げて、韓国政府に抗議したのだそうです。外務官僚たちは、よほど目を凝らしてテレビの画面をチェックしていたのでしょう。もしかしたら、虫眼鏡でも使っていたのかもしれません。

何度も言っているように、世界は間違いなく多極化するのです。朝鮮半島の緊張緩和もその流れのなかにあり、東アジアの覇権が中国に移るのは間違いないのです。ただ、そのなかに、(表向きには”非核化”だが、実際には)「核を保有する」北朝鮮が入ってくることの意味は、想像以上に大きいと言えるでしょう。だからこそ、「恒久和平」の道をさぐり、あらたな秩序を構築する必要があるわけで、そういった関係国の平和外交の真価が問われているのだと思います。しかし、東アジアの旧宗主国の夜郎自大な国は、メディアも含めて、硬直した敵視政策から抜け出せずに、ひとり茶々を入れ流れに棹差すだけです。これでは蚊帳の外に置かれるのも当然でしょう。


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2018.04.25 Wed l 社会・メディア l top ▲
日本テレビ系のNNNの最新世論調査によれば、安倍内閣の支持率は、とうとう“危険水域”と呼ばれる30%を切って26.7%にまで下落したそうです。

livedoor NEWS
内閣支持率26.7%“発足以来”最低に

また、朝日新聞がこの週末におこなった世論調査でも、安倍政権の支持率は“危険水域”目前の31%に「低迷」しているそうです。

朝日新聞デジタル
安倍内閣支持、低迷31% 不支持52% 朝日世論調査

安倍政権もいよいよ断末魔を迎えつつあるのかもしれません。

安倍総理と麻生副総理には、幼い頃乳母がいたそうですが、なんの苦労もせずに、小さい頃からおだてられて年を取ると、あんな不遜だけが取り柄のような「幼稚な老人」になるんだろうなとしみじみ思います。彼らは、漢字が読めないだけでなく、おそろしく世間や人間のことも知らないのでしょう。そして、そんな自分を対象化することもないのでしょう。

そんな「幼稚な老人」がこの国の最高権力者として権勢を振い、官僚を平伏させ、国のかじ取りをしているのですから、おぞましいとか言いようがありません。しかも、彼らは「愛国」者を自認しているのです。

しかし、それでもなお、私は、顰蹙を買うのを承知の上で、二人の「幼稚な老人」に対して、塚本幼稚園の園児たちと同じように、「安倍ガンバレ!」「麻生ガンバレ!」と言いたい気持があります。そう易々とやめてもらっては困るのです。もっと悪あがきをしてもらいたいのです。

世論調査を見ると、安倍内閣の支持率は下落しているものの、かと言って野党の支持率が伸びているわけではありません。すべての野党の支持率を足しても自民党一党の支持率に及ばない、いわゆる「一強多弱」の状態であることには変わりはないのです。「安倍やめろ!」と言っても、安倍がやめたら、自衛隊を「国防軍」に格上げすることを主張する石破内閣(?)が生まれるだけでしょう。

これでは、ソ連が崩壊して喜んだのもつかの間、今度はプーチンの独裁政権にとって代わられたのと同じです。ソ連共産党であれ、統一ロシアであれ、全体主義に身を委ねるロシア国民の意識は変わってないのです。

森友文書の改ざんやPKOの日報隠蔽は、なにも中央の高級官僚や自衛隊の幹部だけの問題ではないでしょう。たしかに、人事権を官邸に握られた高級官僚たちが、ときの政権に忖度したという側面はあるのかもしれません。しかし、その根底には、「存在が意識を決定する」(マルクス)ではないのですが、国家を食い物にし国民を見下す公務員の思い上がった意識があまねく伏在しているのは間違いないでしょう。

先日、田舎に帰ったら、田舎の病院の事務長に役場の職員が天下りしていたのでびっくりしました。昔はそんなことはありませんでした。聞けば、事務長の席は退職する職員の指定席になっているそうです。当の役場の職員たちは、「これは天下りではなく、ただの再就職だ。天下りというのは、中央の官僚が関連団体に就職を斡旋されることを言うので、自分たちは違う」と嘯いていました。このように天下りも、今や市町村の職員にまで常態化しているのです。財務省の事務次官のセクハラ問題にしても、公務員の驕りをひしひしと感じます。驕っているのは、政治家だけではないのです。

要は、国民=有権者=納税者がいいようになめられているからでしょう。しかし、街頭インタビューなどを見ても、多くの国民が言っていることは、テレビのワイドショーが言っていることのオウム返しにすぎません。これではなめられるのも当然でしょう。

たしかに政治は、個々人の生活や人生にとって二義的なものです。彼らに高い政治意識をもつべきだと言っても、政治党派の党員ではないのですから、それは無理な相談でしょう。吉本隆明が言うように、私たちにとって「政治なんてない」のです。政治なんてどうだっていいのです。

ハンナ・アーレントは、『全体主義の起源』のなかで、ナチズムの時代を振り返り、「政治的に中立の立場をとり、投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している」「アトム化」した大衆が、不況や戦争で生活や人生が脅かされると、一転して全体主義運動に組織される政治の怖さを指摘したのですが、しかし、哀しいかな、そういった政治の怖さを経験しないと骨身に染みないのも大衆なのです。

だからこそ(と言うべきか)、「幼稚な老人」が偉そうにふんぞり返り、支持率が”危険水域”に入るような内閣は、国民=有権者=納税者にとって、これ以上ない”反面教師”と言えるでしょう。安部政権によって「政治の底がぬけた」と言った人がいましたが、「政治の底がぬけた」おかげで、国家を食い物にするこの国の政治の構造が私たちの目にも見えるようになったのです。この手の政治に対しては、無用な希望をもつより、絶望するほうがまだしも”健全”と言えるでしょう。なによりこんな「幼稚な老人」を支持し、彼らをふんぞり返らせたのは、私たち国民なのです。国民はみずからの民度に合わせた政治家を選ぶ、と言われますが、今になって他人事のように迷惑がるのはおかしいでしょう。


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2018.04.15 Sun l 社会・メディア l top ▲
週刊ダイヤモンド7月26日号

アベ経済マフィア


上のイラストは、2014年、『週刊ダイヤモンド』(7月28日号)がアベノミクスを特集した際の、表紙と特集ページに掲載されていたイラストです。特集については、当時、私は下記のような感想を書きました。

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週刊ダイヤモンド』では「アベ“経済”マフィア」となっていましたが、今や政治までがマフィア化しているように思えてなりません。麻生太郎財務大臣は、12日に決裁文書の改ざんを認める会見をおこなった際、「佐川が」「佐川が」と佐川宣寿前理財局長の名前を何度も挙げ、改ざんは財務省及び佐川宣寿氏の責任だと強調する一方で、みずからは「進退を考えてない」と厚顔無恥に開き直ったのでした。

フジテレビの「グッディ!」で麻生氏の会見を取り上げた際、コメンテーターの長谷川聖子氏が麻生氏を「悪代官」とコメントしたことが話題になっていますが、当日、たまたま「グッディ!」を観ていた私も、「悪代官」は言い得て妙だなと感心したものです。そして、上のイラストを思い出したのでした。

安倍晋三氏には『美しい国へ』(文春新書)、麻生太郎氏には『とてつもない日本』(新潮新書)という著書があります。二人とも自他ともに認める「愛国」者で、「ニッポン凄い!」の元祖のような人物です。また、安倍氏は「云々」と「でんでん」、麻生氏は「有無」を「ゆうむ」と読み間違うなど、(「愛国」者のわりには)日本語に不自由なところもよく似ています。もちろん、二人ともおぼっちゃまの三世議員です。

安倍夫妻が疑惑を追及されても、「バカげた質問」とせせら笑ってやりすごす一方で、極右思想を共有しメール交換するほどの親しい関係にあった籠池夫妻は、大阪拘置所の「独居房」に半年以上も勾留され、接見や手紙のやり取りも禁止されているそうです。既に拘禁症状が出はじめているという話さえあります。口封じのために、精神に変調を来すまで勾留するつもりなのかもしれません。

財務省が決裁文書を改ざんしたのも、司法当局が籠池夫妻を長期勾留しているのも、安倍政権がマフィア化している証拠のように思えてなりません。

北朝鮮問題においても、韓国政府は米朝首脳会談をお膳立てして国際的に高く評価されています。一方、蚊帳の外に置かれた日本政府は、メディアを使って「会談なんて成功するはずがない」「トランプが騙されているだけだ」と負け惜しみを言うのが関の山です。経済だけでなく、政治までもが、韓国の後塵を拝するまでになっているのです。

報道によれば、米朝首脳会談では、朝鮮戦争の終戦宣言や休戦協定に代わる平和協定が議題に上る可能性さえあるそうです。ついこの前までの戦争前夜のような応酬を考えると、あまりの変わりように驚くばかりですが、これが外交というものなのでしょう。

拉致問題が置き去りにされることを怖れる日本政府は、会談前に安倍総理が訪米し、拉致問題を取り上げてもらうようトランプ大統領に懇願するそうです。しかし、日本政府は、昨日まで、圧力をかければ困窮した北朝鮮が拉致被害者を差し出してくるなどという荒唐無稽な強硬論をとっていたのです。しかも、被害者家族や世論の反発を恐れ、北朝鮮の調査報告書の受け取りも拒否しているのです。交渉の叩き台さえないのです。それでは、北朝鮮も「解決済み」の姿勢は変えず、交渉のテーブルに上がることはないでしょう。

こう見てくると、「ニッポン凄い!」の自演乙も、なんだか滑稽にすら思えてきます。この国のかじ取りをする二人のおぼっちゃま政治家の尊大な態度が示すように、日本自体がますます夜郎自大でトンチンカンな国になっているように思えてなりません。


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2018.03.15 Thu l 社会・メディア l top ▲
平昌オリンピックをめぐる日本国内の報道には、なにがなんでもオリンピックを貶めようとする底意地の悪さが垣間見えて仕方ありません。国内では相変わらず、「ニッポン凄い!」の自演乙が盛んですが、「凄い!」国のわりには、”スポーツの祭典”を偽善的にでも祝い楽しむ余裕さえないのです。

とりわけひどいのが、南北対話に対してです。そもそも韓国が北の「ほほ笑み外交」に乗ったのは、なんとしてでも戦争を回避したいという切実な事情があるからでしょう。戦争になれば、韓国は国家存亡の危機に直面するのです。もちろん、日本も他人事ではないはずです。

田中宇氏は、平昌オリンピックの南北対話について、つぎのように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説
北朝鮮の核保有を許容する南北対話

(略)今回の北の五輪参加をめぐる南北対話の再開や米韓軍事演習の延期が、ロシアのプーチン提案、中国のダブル凍結和平案、韓国の文在寅の対北融和策という、露中韓の三位一体の北核問題の解決策のシナリオに北朝鮮が乗ってきたものであるとわかる。(略)

 だが、米日のマスコミなどでは、露中韓のシナリオがまともに報じられず、ほとんど論じられず、けなされる対象として存在している。米日では、北が核兵器を全廃することが「北核問題の解決」であると考えられている。北に核廃絶を求めず、北の核保有を黙認している露中韓のシナリオは、北核問題の解決策ではないと、特に(中韓嫌悪の)日本で思われている。(略)


韓国が北の「ほほ笑み外交」に翻弄されているように見えるのも、現実的な戦争回避のシナリオがあるからなのでしょう。

 露中韓のシナリオは、北に核やミサイルの廃絶でなく開発凍結を求めているが、それすら北に凍結宣言を出せと求めるものでなく、北が不言実行で静かに開発を凍結し続けてくれればそれで良い。目指しているのは東アジア的な「あうんの呼吸」「(北の)メンツ重視」の方式だ。露中韓は、北が核兵器を持ったままでも、周辺諸国との緊張関係が緩和されれば、それで事態が安定すると考えているようだ。

 
戦争ありきのような日本のメディアの報道だけを見ていると「あり得ない」と思うかも知れませんが、オリンピックの南北対話をきっかけに緊張緩和へ進む可能性もなきにしもあらずでしょう。いづれにしても、オリンピック明けの米韓軍事演習や南北首脳会談に対して、露中韓と米の間で激しい駆け引きがおこなわれるに違いありません。

もとよりトランプ政権の“圧力外交”には、軍事ビジネスの側面があることも忘れてはならないのです。朝鮮半島や東シナ海の緊張が高まれば高まるほど、国策でもある軍需産業が繁栄する寸法です。なかでも日本に対しては、武器が言い値で売れるので、これほど美味しい商売はないのです。

今の日本は、中国や北朝鮮の影に怯えるばかりです。それは、もはや「病的」と言ってもいいほどです。しかも、中国も北朝鮮も、かつての植民地です。だから、よけい神経症的に怯えるのかもしれません。

東アジアにおいて、政治的にも経済的にも日本の存在感が低下しているのは、誰が見ても明らかで、そういった“日沈む国”の卑屈な精神が、「ニッポン凄い!」の自演乙につながっているのは間違いないでしょう。もちろん、卑屈な精神は、『永続敗戦論』が喝破したような“対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムを支える心性でもあります。そして、そこに露わになっているのが、「愛国」と「売国」が逆さまになった戦後という時代の背理なのです。


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2018.02.11 Sun l 社会・メディア l top ▲
先日、朝日新聞デジタルに、つぎのような宮台真司氏のインタビュー記事が載っていました。

朝日新聞デジタル
「制服少女」の告白、実はショックだった 宮台真司さん

この記事にあるように、社会学者の宮台氏が、援交をしたり、ブルセラショップに下着や制服を売ったりして小遣いを稼いでいる女子高生たちをフィールドワークして、『制服少女たちの選択』(講談社のちに朝日文庫)を書いたのが1994年です。それは、このブログで何度も書いていますが、私が仕事で渋谷に日参していた時期と重なります。

私は、女子高生など若い女性向けの商品を扱う仕事をしていましたので、「女子高生が流行を作る」などというメディアのもの言いを嘲笑しながら、宮台氏が言う「制服少女」たちを身近で見ていました。

暗さを押しつける前者(引用者:「彼女たちを「道徳の崩壊」の象徴として批判」する言説)と違い、彼女たちは「うそ社会」を軽やかに飛び越えていると感じました。「うそ社会」に適応するといっても、染まるのではなく、なりすます。内面の夢や希望は捨てない。断念と夢を併せ持つ明るい存在。僕は自分を重ねて共感したのです。


それは、私も同じでした。

要するに、「制服少女」たちのほうが一枚も二枚も上手だったのです。センター街に行くと、通りを行ったり来たりしている彼女たちに、背広姿のオヤジが「二万でどう?」などと声をかけている光景を当たり前のことのように目にすることができました。

そうやってテレクラや街頭で声をかけてくるオヤジのなかに、教師や役人や警察官やマスコミの人間がいることを彼女たちは知っていたのです。また、そんなオヤジたちが、一方で「道徳然」とした説教を垂れ、若者たちの性の乱れを嘆いていることもよく知っていたのです。

「論壇的ないし新聞の論説的な道徳然とした言説が、現実をかすりもして来なかったことが暴露された」というのは、そのとおりでしょう。

「現実をかすりもしない」「道徳然とした言説」は、今の左派リベラルの言説も例外ではありません。

菊地直子元被告の無罪確定について、マルチ商法やカルト宗教の被害者救済で知られる弁護士の紀藤正樹氏が、みずからのブログでつぎのように書いていました。

17年の逃亡生活は何だったのだろうか?無罪なら逃亡する必要はなかった。

無罪は、とても後味の悪い結末となった。それは被害者にとっても、社会にとっても、そして菊地さんにとっても。

菊地さんは、逃亡のために多くの人に迷惑をかけた。

逃亡のために多くの税金が投入された。

無罪と言っても、菊地さんが、殺人集団であるオウム真理教に所属していた事実は、変わらない。

今回の無罪を教訓に、菊地さんには、オウム真理教の犯罪性の語り部になってほしい。

弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS
17年の逃亡生活は何だったのか?オウム・菊地直子の無罪確定


菊地直子元被告は、無罪が確定したのです。「17年間の逃亡」は、警察が指名手配したからです。手記にあるように、警察に捕まれば無罪でも有罪にさせられるのではないかという恐怖から逃げたのです(実際に一審では有罪判決が下され、無罪なのに有罪にさせられそうになったのでした)。

「多くの税金が投入された」などと言うのは、菊地元被告に対してではなく、無罪の人間を容疑者として指名手配した警察に言うべきことでしょう。

これが法律の専門家の言うことなのかと驚くばかりです。無罪が確定し、これから一般人として社会復帰しなければならない人間が、どうして「オウム真理教の犯罪性の語り部」にならなければならないのでしょうか。

マルチ商法やカルト宗教の被害者救済の弁護をするというのは、リベラルな人なのでしょう。でも、このように、紀藤弁護士のリベラルなるものは、いつでも全体主義に転化できるようなリゴリズムで固められたそれでしかありません。

市民社会や市民としての日常性を所与のものとし、その安寧と秩序を保守することを一義とするような思想には、左派も右派もリベラルも違いはないのです。いざとなれば、みんなで翼賛の旗を振りはじめるに違いありません。
2017.12.31 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、オウム真理教による東京都庁爆発物事件で殺人未遂ほう助罪に問われた菊地直子被告の上告審で、最高裁が検察側の上告を棄却する決定をし、同被告の無罪が確定したというニュースがありました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<元オウム信者>菊地直子被告の無罪確定へ 検察の上告棄却

では、検察側の証人で出廷した井上嘉浩死刑囚の偽証があったとは言え、一審の裁判員裁判で下された判決はなんだったんだ、と思わざるをえません。裁判員裁判での判決は、上級審で減刑されたり破棄されたりするケースが多いのですが、裁判員裁判に往々にして見られる俗情におもねる感情的な厳罰主義には大きな問題があると言えるでしょう。裁判員裁判は、審理や量刑に市民感覚を反映させる目的で導入されたのですが、そもそも市民はそんなに賢明なのかという疑問があります。『大衆の反逆』を書いたオルテガが現代に生きていたら、間違いなく裁判員裁判には反対したでしょう。

市民裁判員たちに、オウムの信者だったら罪を犯しているに違いない、だったら厳罰に処すのは当然だ、という先入観がなかったとは言えないでしょう。もしかしたら、市民感覚なるものは、その程度のものかもしれないのです。

一方、菊地元被告のことを「走る爆弾娘」などとレッテルを貼り、あたかも爆弾テロをおこなう危険人物であるかのように書いていたメディアの罪も看過してはならないでしょう。無罪が確定してもなお、「時間の壁」「関係者無念」などと、ホントは有罪だけど、(逃亡で)時間が経ったので無罪になったのだと言わんばかりの報道が目に付きます。

17年間も逃亡したのは、「警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられる」という恐怖を抱いていたからだと、彼女は手記に書いています。裕福な家庭に育ち、大学に進学してすぐに出家したために、文字通りの世間知らずだったのでしょう。身に覚えがなかったらどうして17年間も逃亡したんだというもの言いも、メディアお得意の(推定有罪!の)印象操作と言えるでしょう。


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2017.12.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
座間の事件に関して、先日、下記のような記事が出ていました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<座間9遺体>笑顔、もう会えない 全員身元判明

しかし、被害者たちは、記事に出ているような「同級生」や「職場の上司」に心を開くことはなかったのです。それどころか、家族にさえ心を閉じていたのです。学校に通っているときに、いじめに遭ったり、登校拒否になった被害者もいますので、なかには「同級生」が心を閉じる原因になったケースもあるでしょう。

被害者たちは、加害者とのやりとりのなかで、まわりの人間たちはなにもわかってない、ただきれい事を言うだけだ、と訴えていましたが、この記事などもまさにその典型と言えるでしょう。

私たちは常に競争のなかに身を晒されているのです。そのなかで生きることを強いられているのです。それがこの社会のオキテです。だから、電車が来てもないのに、まるで強迫観念にかられるかのようにホームへの階段を駆け降りて行くのでしょう。

電車が来ると、まだ人が降りているのももどかしいかのように、血走った目で乗り込んで来て、我先に座席を確保する人々。それは、実にみっともない姿です。しかし、一方で、そうしなければ生きていけないのだ、そうすることが懸命に生きていることの証しだ、みたいなイデオロギーがこの社会にあります。みっともないなんて思ったら“負け”なのです。落伍者になるのです。座間の事件で犠牲になった女性たちは、そんな座席争いのなかで、むしろ押しのけられ邪魔扱いされるような人たちだったのではないか。

Web2.0の頃、ネットがリアルな社会で居場所のない人たちのあらたな居場所になるのだ、という理想論が喧伝されましたが、しかし、ネットもいつの間にかこの社会のオキテを肯定するイデオロギーに覆われています。犠牲になった女性たちにとって、ネットはホントは居場所なんかではなかったのです。金満な虚業家が英雄視されるネットでは、今や経済合理性こそが唯一の価値基準であるかのようです。犯人の「楽して生活したかった 」という”動機”のなかにも、ネットに共通した価値観(荒んだ社会観や人間観)が伏在しているように思えてなりません。女性たちは、ネットの餌食になったと言えなくもないのです。

私たちは、「死にたい」と訴える人間に対して、一体どんなことばを持っているでしょうか。この記事にあるような、まわりの人間たちの「建前」や「きれい事」を超えるようなことばを持っているでしょうか。私たちもまた、知らず知らずのうちに、毎日ホームへの階段を駆け降り、人を押しのけ我先にと座席争いをしているのではないか。せいぜいがそう自問することくらいしかできないのです。


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2017.11.19 Sun l 社会・メディア l top ▲
あの北原みのり氏のツイッターに、つぎのようなツイートがありました。


今更の感がありますが、お粗末、あるいはトンチンカンとしか言いようがありません。

北原氏のなかには、前原氏の主張を「社会主義的政策」「『左』に振り切った政策」だと解釈するような薄っぺらな社会主義像しかなかったのでしょう。そして、彼女は、今度は立憲民主党の主張に、その薄っぺらな社会主義像を映しているのでした。

総選挙では自民党の圧勝が予想されていますが、モリ・カケ問題で苦境に陥っていた「アベ政治」にとって、「北朝鮮の脅威」は文字通り“神風”になったと言えるでしょう。換言すれば、安倍首相は、「北朝鮮の脅威」が“神風”になり得ると踏んだからこそ伝家の宝刀を抜いたとも言えるのです。

自民党から幸福実現党まで「北朝鮮の脅威」を喧伝するあらたな翼賛体制のなかで、リベラル左派は為す術もなく守勢に回らざるを得ない状況にあります。北原みのり氏のお粗末さが示しているように、リベラル左派は存在感さえ示すことができず、せいぜいが立憲民主党の「健闘」を慰めにするしかないのが現状です。

そこにあるのは、60年代後半の「反乱の時代」に否定された“古い政治”の風景です。北原みのり氏のようなリベラル左派は、とっくに終わったはずの“古い政治”に依拠しているにすぎないのです。

政党助成金とセットになった小選挙区比例代表並立制は、民主主義を偽装しながら(二大)保守政党が永遠に政権をたらい回しする(そうやって議会制民主主義を骨抜きにする)制度ですが、リベラル左派はその目論みに踊らされ、前原じゃなければ枝野、希望の党じゃなければ立憲民主党と、二者択一的に「よりましな党」を選んでいるだけです。

60年代後半の「反乱の時代」を支えたのは、日本共産党をスターリニズム=左翼全体主義、ソ連を社会帝国主義=社会主義の名を借りた帝国主義と断罪する「より左の思想」でした。「より左の思想」は、それまで左翼政党ではタブーとされていたトロッキーやローザ・ルクセンブルクやバクーニンなどの思想を援用して、堕落した既成左翼を批判したのでした。

ヨーロッパの若者たちを熱狂させているポデモスやシリザやSNP(スコットランド国民党)などの運動には、あきらかに60年代後半の「反乱の時代」の遺産が継承されています。それが彼らが「新左派」「急進左派」と呼ばれる所以です。

しかし、日本では、その遺産が継承されているとは言えません。それどころか、「反乱の時代」を担った”新左翼の思想”は、連合赤軍事件や内ゲバを生んだ忌々しい思想として総否定されているのが現状です。そのため、北原氏のように“古い政治”に先祖返りするのが当たり前になっているのです。

たしかに”新左翼の思想”が党派政治(セクト)に簒奪され歪められたのは事実ですが、しかし、”新左翼の思想”が提起した社民主義やリベラリズムの限界という問題は未だ手つかずのままなのです。もちろん、戦後のこの国をおおっている「アメリカの影」(加藤典洋)も大きな課題でしょう。

どの党に投票するかではなく、どの党もダメだという既成政党批判も、当然あり得るでしょう。『宰相A』ではないですが、投票することが翼賛体制にお墨付きを与えることになるという考えもアリでしょう。それに、坂口安吾が言うように、私たちは政治という粗い網の目から零れ落ちる存在なのです。支持する政党がないから投票に行かないという考えもひとつの見識と言えるでしょう。

佐藤優氏は、『文藝春秋』(11月号)で、「米朝間で始まるのは『戦争』ではなく『取引』」「米国は、先制攻撃を決断できない」と書いていました。

仮にアメリカが北朝鮮に先制攻撃をしても、北朝鮮を完全に制圧するのに2ヶ月かかるという日米政府のシュミレーションがあるそうです。ソウルはわずか2日で陥落し、制圧までに100万人以上の犠牲者が出ると予想されているのだとか。そのなかには、約4万人の在韓邦人や約20万人の在韓米人も含まれています。

それどころか、韓国経済が壊滅することによる世界経済への影響は計り知れず、1950年の朝鮮戦争のときとはまったく状況が異なるのです。

当時、韓国は、インフラのない貧しい農業国にすぎませんでしたが、今日の韓国の経済力、半導体生産などにおいて国際分業体制の中で占める位置は、当時と比較になりません。韓国経済が崩壊することになれば、東アジア全体が大きなダメージを被り、米国経済もその影響を免れません。
『文藝春秋』11月号・「トランプの『北の核容認』に備えよ」


一方で、核・ミサイル開発する北朝鮮の目的が「金王朝の維持=国体護持」である限り、「経済制裁によって北朝鮮が核・弾道ミサイル開発を放棄することはあり得ない」と言います。問題は、戦争ではなく、やがて始まるであろう米朝二国間交渉による「落としどころ」なのだと。今はそのための鞘当てがおこなわれているというわけです。佐藤氏は、「落としどころ」は「核容認とICBMの凍結になるはずだ」と書いていました。

(略)北朝鮮の核保有を阻止する手段をもたない日米韓は、すでにこの局面では「敗北」しています。しかし、「ゲーム・セット」ではありません。中長期的な視点から、このゲームに最終的な勝利するために、核をめぐる議論以上に、日本にできることが他にあります。
 まず、米朝交渉が始まれば、いづれ米朝国交正常化が進むでしょう。そうなれば、日本も日朝国交正常化を急ぐべきで、今から準備しておくべきです。
(同上)


この国のリベラル左派は、安倍政権が煽る「北朝鮮の脅威」に煽られているだけです。リベラル左派も「煽られる人」にすぎないのです。北朝鮮情勢が逼迫しているときに選挙などしている場合か、というもの言いなどはその最たるものでしょう。そうやってみんな「動員の思想」にひれ伏しているのです。これでは、いざとなったら(戦前の社会大衆党のように)「この国難に足の引っ張り合いをしている場合ではない。小異を捨てて大同につこう」なんて言い出しかねないでしょう。
2017.10.20 Fri l 社会・メディア l top ▲
昨日、衆院選挙が告示され、22日の投票日に向けて選挙戦が開始されました、と言っても、告示のときはもう大勢は決まっていると言われています。

さっそく朝日新聞に序盤の「情勢調査」が出ていますが、それによれば、自民党は「堅調」で単独過半数233議席を大きく上回る見込み、希望の党は伸び悩み現有57議席を上回る程度、立憲民主党は勢いがあり現有15議席の倍増も可能、公明共産は現状維持だそうです。

「選挙は蓋を開けて見なければわからない」「無党派層の動向如何では結果が変わる可能性がある」なんてもの言いも所詮、気休めにすぎないのです。実際に、今までも事前の予想を大きく裏切ることはありませんでした。

なんのことはない、安倍一強はゆるぎもしないのです。それどころか、逆に希望の党が加わるので、改憲派は今より大幅に議席を増やすことになるのです。

そんななか、選挙権が18歳に引き下げられたということもあって、いつになく若者たちの「選挙に行こう」キャンペーンが盛んです。「選挙に行かないのは、政治家に白紙委任するようなもの」「選挙は、自分たちの意思を国政に反映させる絶好のチャンス」「選挙に行かない人間に政治を語る資格はない」などという、おなじみの“選挙幻想”がふりまかれているのでした。

私などは、朝のワイドショーはどこも選挙の話題ばかりなので、今朝はとうとうテレビ東京の子ども向け番組「おはスタ」で、にゃんこスターの笑えないギャクを見ていました。

一方、メディアでは、「入口に立つあなたが好き」というキャッチフレーズを掲げ、若者の投票率の向上を目指してさまざまなイベントを開催している学生団体がもてはやされています。

学生だったら今のおかしな選挙制度や政党助成金に対して問題提起すべきではないかと思いますが、彼らにそんな問題意識はないようです。選挙で世の中は変えられない、という昔の学生のような不埒な考えなんて想像すらできないのでしょう。

政治的なスタンス以前の問題として、あの麻生太郎や二階俊博の有権者をバカにしたような尊大な態度に、少しは怒ってもいいように思いますが、もちろん、彼らにそんな視点はありません。どこまでも「いい子」なのです。彼らは、腹黒な役人や老獪な政治家に頭を撫でられることだけが目的のような「いい子」にすぎないのです。

「劇場型」と言われた小泉政権の登場によって、衆愚政治のタガが外れたと言われていますが、問題意識をもてない有権者は、文字通りタガの外れた衆愚政治のターゲットになるだけでしょう。無定見に「選挙に行こう」キャンペーンをおこなっている彼らは、若者たちにB層=衆愚になれと言っているようなものです。

もちろん、それは若者だけではありません。戦争が起こると本気で思っている(そのわりに呑気に酒を飲んでいる)新橋のサラリーマンたちも然りです。B層というのは、そのように常に「煽られる人」でもあるのです。

僭越ですが、私は、以前、鈴木邦男氏が雑誌のコラムで紹介していた戦争前のエピソードについて、つぎのように書いたことがありました。

一水会の鈴木邦男氏は、雑誌『創(9・10月号)のコラム(「言論の覚悟」真の愛国心とは何か)で、戦争前、東條英機のもとに、一般国民から「早く戦争をやれ!」「戦争が恐いのか」「卑怯者!」「非国民め!」というような「攻撃・脅迫」めいた手紙が段ボール箱に何箱も届いたというお孫さんの話を紹介していましたが、そうやって国民もマスコミもみんな一緒になって戦争を煽っていたのです。東條英機らは、そんな声に押されるように、「人間たまには清水の舞台から飛び降りるのも必要だ」という有名なセリフを残して、無謀な戦争へと突き進んでいったのでした。でも、戦争が終わったら、いつの間にか国民は、軍部に騙された「被害者」になっていたのです。

「愛国」と「文学のことば」
http://zakkan.org/blog-entry-986html


選挙が終わったら、「禊を終え」勢いを増した改憲派が、「北朝鮮の脅威」を盾に、いっきに改憲へギアアップしていくことでしょう。そして、森友・加計の問題は人々の記憶から消えていくに違いありません。永井荷風ではないけれど、「選挙に行こう」というのは、あの戦意高揚の標語と同じで、「まことにこれ駄句駄字といふべし」なのです。


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2017.10.11 Wed l 社会・メディア l top ▲
最近体調がよくなくて、本も読まず、テレビばかり見ていますので、もう少し床屋政談をつづけます。

民進党が事実上「解体」したことは慶賀すべきことです。(何度も言っているように)「民進党が野党第一党であることの不幸」から解放されるなら、まずは歓迎すべきでしょう。

「アベ政治を許さない」と言っている人たちがホントに「アベ政治を許さない」と思っているのなら、希望の党に行ったとか新党を立ち上げたとか無所属で行くとかに関係なく、旧民進党の議員全員の落選運動をやるべきでしょう。

希望の党との合流が発表された当初、合流はアベ政権を倒すための次善の策だというようなことを書いていた田中龍作ジャーナルに代表されるような左派リベラルのお粗末さや、枝野氏ら「排除」された「リベラル」派が新党を立ち上げたら、今度は新党に希望を託すようなことを言っている左派リベラルの御目出度さを考えるべきなのです。

阿部知子氏の「新しい独裁者はいらない」ということばは秀逸だと思いますが、しかし、阿部氏自身、代表選では前原氏を支持していたのです。しかも、28日の両院議員総会では、前原氏の提案に対して疑義すら申し立てなかったのです。それは、阿部氏だけではありません。疑義を申し立てる人間は誰もおらず、僅か30分で前原氏に一任することを決定し閉会しているのです。前原氏の提案に席を蹴ることすらできなかったヘタレな「リベラル」になにを期待すると言うのでしょうか。

「リベラル」派は所詮、「緑のたぬき」から「排除」された”負け犬”にすぎません。同情するなら票をくれとでも言わんばかりに新党を立ち上げても、マスコミによって刷り込まれた“負け犬”のイメージを払拭することはできないでしょう。

新党を立ち上げる前、枝野氏は前原氏と会談し、話が違う、と抗議したところ、前原氏は、「排除」するなんて聞いてない、小池氏に確認する、明日まで待ってくれ、と言ったそうです。すると、枝野氏は、一縷の望みを託して(?)前原氏の返事を待っていたのです。

しかし、メディアの報道によれば、前原氏は、「排除」や「分裂」はすべて想定内だったと言っているそうです。前原氏の思想的な立ち位置を考えれば、前原氏が「(小池氏に)騙された」なんてあり得ないでしょう。枝野氏は、未だに民進党議員全員を受け入れるという合意は、小池氏によって(一方的に)反故にされたようなことを言っていますが、二人の間では「排除」することが最初から合意されていたのです。小池氏も、「排除」については、当初から前原氏に申し上げていると言っているのです。

それどころか、9月26日の会談には連合の神津会長も同席していたそうです。前原氏自身も、希望の党との合流は、連合と相談しながら進めていたと証言しています。「排除」は神津会長も同意していたと考えて間違いないでしょう。連合が「排除」の方針を打ち出した小池氏に「激怒」と書いていた夕刊紙がありましたが、それはトンチンカンな左派リベラルの”希望的観測”と言うべきでしょう。

こういう細かいことは案外重要です。なぜなら民進党議員たちの(特に「リベラル」派の)カマトト=建前と本音を映し出しているからです。要するに、「保守」であれ「リベラル」であれ、「右派」であれ「左派」であれ、民進党の議員たちは、みんな希望の党に行きたかったのです。「トロイの木馬」発言もそうですが、28日の両院議員総会までは、希望の党に行くという“甘い夢”を見ていたのです。

山尾志桜里氏は、朝日新聞の取材に対して、「無所属で本当によかった。リベラルの価値を葛藤なしに語れることが幸せだ」と言ったそうですが、よく言うよと思います。言うまでもなく、山尾氏は前原氏に近い人物でした。スキャンダルがなければ、前原氏と行動を共にしたのは目に見えているのです。

今回の合流劇では、民進党の100億円を超すと言われる内部留保のお金の行方に関心が集っていますが、政界が金の論理で動くようになった(それをマスコミは「政界再編」と呼んでいるのですが)政党助成金の問題も考えないわけにはいかないでしょう。政党助成金というのは、既成政党が税金によって既得権益を得、議会政治を独占し、未来永劫に政権をたらい回しする制度なのです。そういった視点で今回の合流劇を見れば、見えてくるものがあるでしょう。

希望の党の若狭勝氏は、今日の第一次公認候補者発表の席で、選挙後の首班指名について、自民党議員を指名することに含みをもたせたそうです。彼らが目指しているのが保守大連立であることが徐々にあきらかになっています。

スペインのカタルーニャ独立の投票をめぐる運動を見るにつけ、日本との違いを痛感せざるを得ません。彼方の政党は、左右を問わず、どこも街頭の運動のなかから生まれたのです。そして、常にあのような街頭の運動によって政党の活動も支えられているのです。同じ左派リベラルでも日本のそれとは似て非なるものです。

先日の安倍退陣(お前が「国難」)デモで、枝野氏が姿を見せると、いっせいに枝野コールがおこったそうですが、私にはそれもトンマな光景にしか思えませんでした。
2017.10.03 Tue l 社会・メディア l top ▲
さらにもう一度、床屋政談を。

希望の党との合流を「悪魔との握手だ」と批判していた有田芳生議員は、昨日の両院議員総会後、一転して、合流は安倍政権を倒すための「国共合作」だとツイートしていました。

参院議員は当面選挙がないし、それに有田議員の場合、次回の選挙には立候補しないことを既に表明しています。だったら、恐れるものはないのだから筋を通せばいいじゃないかと思いますが、一度赤絨毯の上を歩いた人間に、もはや普通の感覚は通用しないのかもしれません。

民進党の両院議員総会は、前原代表の提案に対して、満場一致で受入れることを決定し、僅か30分で閉会したのだそうです。これも驚くべきことです。連合が合流にお墨付きを与えたこともあってか、”リベラル派”からも反対の声は出なかったそうです。そして、民進党の衆院議員たちは、「大審問官」の審問を受けるべく、希望の党の扉の前に列を作ることになったのです。彼らはみずから進んでファシストの軍門に下ったのです。

希望の党には、日本のこころのような極右勢力も合流しています。小池百合子氏の父親は、”スメラ哲学”を信奉する国粋主義者で、氏自身も核武装論者です。先日も、歴代の都知事がおこなっていた関東大震災における朝鮮人虐殺の犠牲者の追悼を拒否して、物議を醸したばかりです。

有田議員は、希望の党との合流と反ヘイトの姿勢にどう折り合いをつけるのでしょうか。常人にはとても理解の外です。

「安倍政権を倒す」というのも、野合のための方便のようにしか思えません。政権云々より、いざとなったら、改憲の旗印の下に、自民党との連立や合流だってあるでしょう。仮に安倍晋三氏が政権を去ったとしても、「アベ政治」は残るのです。

戦前もみんなこうやって大政翼賛会になびいて行ったのでしょう。転向というのは、なにも特高警察によって暴力的に強制されたケースだけではないのです。中野重治が『村の家』などで書いているように、社会から孤立する“恐怖”からみずから進んで合理的な理由を見つけて転向するケースだって多かったのです。無産政党の社会大衆党が大政翼賛会に合流したのもそうでした。

私たちが現在(いま)見ているのも同じ光景です。
2017.09.29 Fri l 社会・メディア l top ▲
不本意ながら、もう少し床屋政談を。

今日の午前、テレビ東京の「Mプラス11」を見ていたら、「民進党の前原代表が希望の党に対して、民進党の解党や分党を視野に入れた合流を検討していると伝えていたことが関係者への取材で分かりました」というニュースが流れ、「やっぱり」と思いました。

そして、午後になって、ほかのテレビ局も「合流」のニュースを伝えはじめ、新聞各紙も夕刊でいっせいに記事にしたのでした。

まさに獅子身中の虫の面目躍如という気がします。民進党の保守派が希望の党と「合流」するというのは、前原氏周辺では既定路線だったのでしょう。前原氏が代表になってもならなくても、いづれ自分たちを「高く売る」つもりだったのでしょう。まさに「だから言わないこっちゃない」という感じです。

一方、同党の有田芳生議員は、代表選の前からツイッターで、前原氏は小沢一郎氏の薫陶を受けて変わった、代表選も保守対リベラルという構図では捉えられない、などと新生・前原氏を盛んにアピールしていました。前原氏が野党共闘に否定的だというのは皮相的な見方で、時間が経てばそうじゃないことがわかるはずだとさえ言ってました。

しかし、このあり様です。要は、前原氏が獅子身中の虫であることがまるでわかってなかったのでしょう。今更「悪魔との握手だ」などと批判しても、白々しく聞こえるばかりです。あまりにもお粗末と言わねばなりません。それはまた、(何度もくり返しますが)この国のリベラル左派のお粗末さでもあります。

(追記:余談ですが、有田議員は28日の朝のツイートで、「俗情との結託」ということばを埴谷雄高のことばとして紹介していましたが、「俗情との結託」は埴谷雄高ではなく大西巨人です。元民青の付け焼刃な知識なのでしょう)

前から書いているように、そもそも野党共闘自体が現実を糊塗するだけの“不毛な政治“にすぎません。民進党内のリベラル派なるものも、リベラルだなんて片腹痛いのです。単にこの国の労働運動を食い物にする労働貴族の代弁者にすぎないのです。

今回の「再編劇」で示されているのは、”保守の余裕”です。言うなればこれは、“第二自民党”の再編とでも言うべきものです。もちろん、希望の党がこのまま順調に行くとは思えませんので、いづれ自民党と合流ということも充分あり得るでしょう。はっきりしているのは、今回の「再編劇」によって、国会は保守一色に染められ、改憲も盤石になるということです。文字通り野党が消滅した翼賛体制が成立するのです。

リベラル左派は、昨日まで民進党にはまだ希望があり、野党共闘も現実味を増しているようなことを言っていました。なんのことはない、勝手にそんな幻影を抱いていただけだったのです。

しかも、ここに至ってもなお、希望の党は安倍政権より”まだまし”だみたいな話が出ているのですから、なにをか況やです。一体、どんな思考回路を辿れば、こんな状況判断ができるのでしょうか。

彼らは、いつもこのように、ただ徒に(二者択一的に)”希望”をねつ造し現実を糊塗するだけなのです。


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民進党、死ね
民進党の「ブーメラン」と保守の”余裕”
2017.09.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
不本意ながら、床屋政談を。

突然降って沸いた解散風。どうやら28日召集予定の臨時国会での冒頭解散が濃厚のようです。

野党は、「大義なき解散」などと批判していますが、結果は最初から見えている気がします。野党の批判は、どこかの知事が言っていたように、「負け犬の遠吠え」のようにしか聞こえません。

自民党は、再来年の10月に予定されている消費税の増税分を、国の借金の穴埋めではなく幼児教育や保育等の無償化に充てるという、使途の変更を選挙公約に掲げるそうです。それに対して民進党の前原代表は、自分が主張していたことと同じで、パクリだと批判しています。

自衛隊の存在を9条に明記する憲法改正案も、安倍首相と前原代表の考えは同じです。どっちが先に主張したかと本家争いをしているにすぎないのです。

北朝鮮情勢についても、与野党に違いはありません。トランプの国連演説は、北朝鮮に対する宣戦布告のようなもので、どう考えても、アメリカがやっていることは圧力ではなく挑発です。しかし、その危険性を指摘する声は皆無なのです。

今更ながらに、民進党が野党第一党である不幸を痛感せざるを得ません。民進党は護憲の党ではありませんし、反原発の党でもありません。民進党と自民党は、政策的には相違する部分より共通した部分がはるかに多いのです。

民進党(旧民主党)は自民党を勝たせるためだけに存在していると言うのは、笑えない冗談です。今回の解散総選挙も、細野某など離党組がそのお膳立てをしたようなものでしょう。自民党が追い詰められると、なぜか民進党(旧民主党)がみずからずっこけて、自民党に助け舟を出すのがいつものパターンです。

前原代表の発言も、「(どうせ同じなんだから)どうぞ自民党に投票してください」と言っているようなものです。少なくとも、多くの有権者はそう受け止めているでしょう。私には、彼らがどうして野党にいるのか不思議でなりません。

(現実的にはあり得ない話ですが)仮に民進党が大きく議席を増やすことがあったら、消費税のときと同じように、今度は憲法や原発など重要政策で、「堂々と議論する」(前原代表)などと言いながら自民党にすり寄っていく(そうやって自分たちを高く売る)のは目に見えています。民進党が議席を増やすことは、必ずしも政治がよくなることを意味するのではないのです。むしろ、反動に加速がつくことになりかねないのです。民進党というのは、もはやそういう存在なのです。

にもかかわらず思考停止したこの国の左派リベラルは、野党共闘に人民戦線の妄想でも抱いているのか、相も変わらぬ”まだまし論”に依拠して”民進党=リベラル幻想”をふりまき、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみかこ)しか能がないのです。
2017.09.20 Wed l 社会・メディア l top ▲
朝日新聞に月に一度連載されている「寂聴 残された日々」というエッセイで、瀬戸内寂聴が山尾志桜里議員のスキャンダルについて書いていました。

朝日新聞デジタル
(寂聴 残された日々:27)山尾さん、孤独の出発に自信を 恋は理性の外、人生は続く

エッセイは、つぎのような文章ではじまっていました。

 何気(なにげ)なくつけたテレビの画面いっぱいに、端正な美貌(びぼう)の女性が、涙のたまった両目をしっかりと見開き、正面を向いてしきりに言葉を発している。その表情がまれに見る美しさだったのと、しゃべる言葉がしっかりしているのに驚かされ、テレビから目が離せなくなってしまった。


そして、つぎのような文章で終わっていました。

 不倫も恋の一種である。恋は理性の外のもので、突然、雷のように天から降ってくる。雷を避けることはできない。当たったものが宿命である。

 山尾さんはまだまだ若い。これからの人生をきっと新しく切り開いて見事な花を咲かせるだろう。それを95の私は、もう見られないのが残念。


坂口安吾ではないですが、「恋は人生の花」です。山尾議員だけでなく、斉藤由貴も上原多香子も、自分の人生を恥じる必要はないのです。他人の色恋を妬んだり嫉んだりする人間ほど、心の貧しい者はいません。「不倫上等」でいいじゃないか。不倫を詰るような輩(カス)には唾を吐きかければいいのです。

山尾議員の場合、「仕事と子育てにがんばるお母さんの味方」というようなスタンスをとっていたので、不倫に対する反発がよけい大きかったのでしょう。文春の記者が朝帰りの山尾議員に向かって、「先生、お子さんはどうしたんですか?」「先生、お子さんの面倒は見なくていいんですか?」とわざとらしく叫んでいたのは、そんな山尾議員に対する当てつけだったのでしょう。

そこで振りかざされているのは、「仕事と子育てにがんばるお母さん」は貞操観念もしっかりしていなければならないという、女性を結婚(家庭)と母性に縛るおなじみの良妻賢母のイデオロギーです。山尾志桜里議員はジャンヌダルクなんかではなかったのです。古い女性のイデオロギーに迎合する、ただのポピュリストにすぎなかったのです。だから「ざまあみろ」という声に反論すらできなかったのでしょう。

私は、政治家としての山尾志桜里議員にはまったく興味もありませんし、期待もしていません。ただ、瀬戸内寂聴も書いているように、ひとりの女性として、(みずから墓穴を掘ったとは言え)古い女性のイデオロギーを押し付ける下劣な報道に負けずに、顔を上げて前に進んでもらいたいと思うだけです。

それより私は、「先生、お子さんはどうしたんですか?」「先生、お子さんの面倒は見なくていいんですか?」と叫んでいた文春のアホ丸出しの記者のほうが興味があります。彼らだって不倫をしているはずなのです。誰か、文春や新潮の社員たちのスキャンダルを書く人間はいないのかと思います。『噂の真相』がなくなったのが、かえすがえすも残念でなりません。


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2017.09.15 Fri l 社会・メディア l top ▲
さる9月1日に開かれた民進党の臨時党大会で、あたらしい代表に選出された前原誠司氏は、あいさつのなかで「政権交代」ということばを何度もくり返したのだとか。私は、それを聞いて、前原氏はパラノイアではないのかと思いました。通常の感覚であれば、「政権交代」なんてとてもあり得ない話でしょう。

もっとも、前原氏自身も、つぎのように述べていたそうです。

 新代表あいさつで前原氏は「今この場で『政権交代」』と言っても、国民は『何を言ってるんだ』という状態になる。しかし自民党しか選べない、こんな政治状況は我々の手で変えなくてはならない」と決意を述べた。それに向け「国民のためにすべて捧げて働く」「決意と覚悟持って、難しい局面を国民のために切り開く」と続けた。

Yahoo!ニュース(J-CASTニュース)
「政権交代」連呼の前原新代表、過去の「負の経験」生かせるか 挙党体制の方針には「これから考える」


しかし、改憲においては、各メディアが書いているように、前原氏の考えと安倍首相の考えは同じです。改憲論議が深まれば、維新と同様、民進党が安倍政権とタッグを組むのは目に見えています。

早くもそれを裏付けるように、つぎのようなニュースも出ています。

朝日新聞デジタル
前原代表、野党4党合意見直しへ 改憲反対「話通らぬ」

前原氏自身も、「政権交代」が夢物語だということはよくわかっているはずです。要は、自分たちを如何に高く自民党に売るかということなのでしょう。前原氏を代表に選んだ民進党議員の多くも、同じ考えなのでしょう。

山尾志桜里議員のスキャンダルを文春にリークしたのは、政権周辺の公安関係者ではなく、民進党内部の人間ではないかという話もありますが、だとしたらいよいよ民進党は収拾のつかない崩壊過程に入ったと言えるのかもしれません。

前原体制がいつまでつづくかわかりませんが、前原氏が代表の座を追われたら、前原グループがここぞとばかりに離党して、党が一気に崩壊する可能性すらあるでしょう。前原氏を代表に選んだのは、言うなれば、獅子身中の虫に党の命運を委ねたようなものと言ってもいいかもしれません。もっとも、民進党は、もともとそういう運命にあったと言えなくもないのです。

民進党はリベラルなんかではないし、野党でもないのです。ただ野党のふりをしているだけです。それは、旧民主党の成立時からあきらかでした。旧民主党に与えられた役割は、“第二自民党”になることでした。自民党の一党独裁体制(としての55年体制)がゆらぎはじめたことで、安心して政権交代ができる二大政党制をこの国に根付かせる必要があったのです。その要請に応えるかたちで、労働戦線の右翼的再編(連合の誕生)と軌を一にして旧民主党が誕生したのでした。

民進党に随伴して「アベ政治を許さない」と叫んでいた人々も同じ穴のムジナです。民進党が野党第一党であることの不幸を理会(©竹中労)できずに、今になって、民進党に絶望したなんて言っているのはお粗末の極みと言うべきでしょう。民進党が死んでも誰も困らないのと同じように、彼らのような「リベラル左派」がいなくなっても誰も困らないのです。

山尾志桜里議員のスキャンダルにしても、今まで民進党やその周辺は、文春砲に我が意を得たりとばかりに踊っていたのです。文春砲がいつ自分たちに向かってくるのかなんて、ゆめゆめ考えてなかったのでしょう。だからあんなに(アホみたいに)踊っていたのでしょう。そして、案の定、今度は自分たちが足を掬われたのです。

民進党の有田芳生参院議員は、文藝春秋の松井清人社長が『週刊文春』の編集長だった頃から親しい関係にあることを公言していました。文春が自民党議員のスキャンダルを取り上げているときは、文春の編集方針は変わったみたいなことを言って、そのスキャンダルを政治的な攻撃材料に使っていました。ところが、山尾議員のスキャンダルが出た途端、沈黙を決め込んだのでした。そして、山尾議員の離党が囁かれはじめると、「悪質な情報操作」だとツイッターに書いていましたが、ほどなく離党届が提出されました。すると今度は、「離党はご自身で判断した出所進退の結論です」と書いていました。しかし、メディアが書いているように、離党は本人の意思というより、来月におこなわれる衆院補選への悪影響を考えた執行部の判断であることは誰が見てもあきらかです。とりあえず辞職まで行かなかったのは、民進党の党内事情による判断だったのでしょう。

有田芳生 (@aritayoshifu) | Twitter

都合が悪くなると、黙りを決め込んだり、知らばっくれたりする、民進党の劣化は個々の議員にまで及んでいるのです。

それにつけても、このヒステリックな不倫叩きの風潮は、一体なんなのかと思います。私は、このブログでも書いているように、山尾志桜里議員には批判的ですが、しかし、彼女が不倫で政治生命を奪われることには違和感を抱かざるを得ません。不倫なんてみんなやっているじゃないか、そんなことはどうだっていいじゃないか、と言いたいのです。他人がとやかく言う問題ではないでしょう。

ブレイディみか子氏は、男女間の賃金格差や公共セクターで働く人たちと下層の人たちとの賃金格差に関連して(それは、レーニンが『国家と革命』で主張したことの今日的問題なのですが)、「セックスよりマネーがスキャンダルになる時代が来た」と書いていましたが、日本では未だにマネーよりセックスがスキャンダルになる時代の真っ只中にあるかのようです。国会議員も芸能人も、そして国民も、みんなセックススキャンダルに踊らされているのです。恥ずかしげもなく他人のセックスに嫉妬する、なんとセックス好きな国民なんだろうと思います。

晶文社スクラックブック
UK地べた外電


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ベッキー降板で思った


2017.09.07 Thu l 社会・メディア l top ▲
先日、朝日新聞デジタルに、つぎのような内田樹氏のインタビュー記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
内田樹さん、「天皇主義者」宣言 「変心」の真意語る

記事を読むと、内田氏は、「護憲派」で「平和主義者」のイメージが強い現天皇を安倍政治への対抗軸として捉えているかのようです。そのために、国事行為だけでない「鎮魂と慰藉の旅」も天皇の務めだと「解釈」し、国民の間にある「皇室への素朴な崇敬の念」を牽強付会に評価しているのでした。でも、それは、朝日新聞などマスメディアが作り上げた天皇像を踏襲しているにすぎないのです。国民の間にある「皇室への素朴な崇敬の念」も、天皇制タブーとパラレルな関係にあることくらい、少しでも考えればわかるはずです。

これも一種の「天皇の政治利用」、それもきわめてご都合主義的な「政治利用」ではないかと思いました。

まして「天皇制が高い統合力を持つ一因はそれが持つスピリチュアル(霊的)な性格にある」と言うに至っては、何をかいわんやです。アッキーと同じじゃないか。そんな皮肉のひとつも言いたくなりました。あるいは、小池百合子都知事の父親が心酔していた、スメラ哲学の焼き直しと言ってもいいのかもしれません。

BLOGOS
「日本の精神性が世界をリードしていかないと地球が終わる」 安倍昭恵氏インタビュー

内田氏の「天皇主義者」宣言については、『現代ニッポンの論壇事情 社会批評の30年史』(イースト新書)のなかで、栗原裕一郎がつぎのように批判していました。

栗原 安倍批判もカードが尽きてきたのか、最近、内田樹は、「天皇vs安倍」という構図を出してきていますね。リベラルが支持を得られないのは霊的ポジションが低いからだ、極右のほうが死者を呼び出す能力が高く熱狂を招くことができるが、でも天皇のほうが死者を多く背負っていて霊的ポジションが高い、天皇に勝てないことをわかっている安倍は、だから天皇を骨抜きにすることを企むのである、みたいな。まあ、無茶苦茶です。


宮台真司の「天皇主義者」宣言も似たようなものでしょう。

北田暁大は、同書のなかで、今の「左翼」は「生活保守と妙なレッセフェールの自由主義がミックスしたようなもの」になっていると言ってましたが、まさにその点において右も左も(安倍政治もリベラル左派も)違いがないのです。少なくとも反体制(対抗軸)としてのリベラル左派の思想は、とっくに失効していると言っていいでしょう。

何度も繰り返しますが、リベラル左派が称揚する旧SEALDs(SEALDs的なもの)や野党共闘が、時代を領導するダイナミズムも批評性も保持してないことは、もはや自明なのです。SEALDs的なものや野党共闘が、一方で、この(如何にも日本的な)翼賛体制を支えていると言っても言い過ぎではないでしょう。と言うか、高橋源一郎の「ぼくらの民主主義」が象徴するように、とっくに彼らは翼賛体制に組み込まれているとさえ言えるのです。

いつの間にか安倍政治は青息吐息になってしまいましたが、しかし、時代は確実に反動の方向へ進んでいるのです。安倍政治の末路に浮かれている場合ではないのです。
2017.07.11 Tue l 社会・メディア l top ▲
今日、車で埼玉の新座市を通ったのですが、道路沿いの至るところに、「このハゲ~!!」でおなじみの自称「豊田真由子サマ」のポスターが貼ってありました。ポスターを目にすると、いつの間にかあのヒステリックな声がよみがえってきて、ポスターさえもギャグの小道具のように思えてくるのでした。

夫も経産省のキャリア官僚だそうですが、エリート夫婦の歪んだ内面なんて考えると、なんだか土曜ワイド劇場の呪われた一家のように思えてきます。聞けば、「豊田真由子サマ」の父親も、母親に対するDVがひどかったのだとか。私は、DVの世代連鎖ということばを思い出さざるをえませんでした。そして、彼女の子どもたちは大丈夫なんだろうかと思いました。

この「豊田真由子サマ」も、加計学園からのヤミ献金の問題が浮上している下村博文氏も(下村氏は文科大臣のときに、「日本人としての誇りをもつ」”愛国”教育の必要性を説きながら、一方で、自分の小学生の子どもはイギリスで教育させていたという建前と本音の人でもあります)、大臣としての資質に疑問をもたれながら、“ともちんラブ”で安倍首相に溺愛される稲田朋美氏も、いづれも安倍首相の出身派閥である旧清話会の所属議員です。

そう言えば、「マスコミを懲らしめる」「(ガン患者は)働かなければいい」発言の大西英男氏や、「アル中代議士」としてスキャンダルの渦中にある橋本英教氏も、旧清話会の所属です。

なんだか旧清話会の議員に対して、集中的にスキャンダルが仕掛けられている感がなきにしもあらずです。野党が我が意を得たりとばかりにハシャギまくるのもいつもの光景ですが、そんな単純な話ではないのかもしれません。

新潮や文春の記事に悪ノリしている野党にしても、今度はいつその矛先が自分たちに向かってくるかもしれないのです。「安部政権に激震」と言うのも、与党内部の権力争いで、野党が外野席で使い走りに使われているだけのような気がしてなりません。

都議会議員選挙では、都民ファーストが大勝、自民党が大敗するという予想が出ていますが、だからと言って、野党の議席が伸びるわけではないのです。驚くべきことに、都民ファ・自民・公明で全議席の85%以上を占めるという予想さえ出ています。結局、保守は、以前にもましてその支持を広げることになるのです。そこには、どこまでもダメな野党の姿しかないのです。

もはや、与党か野党かという(既成政党を所与のものとする)発想自体がダメなのではないか。「アベ政治を許さない」というボードを掲げ、野党議員に拍手喝采を送るのも、翼賛体制に与するトンマな姿にしか見えません。
2017.06.30 Fri l 社会・メディア l top ▲

これは、「共謀罪」が成立した直後の中川淳一郎氏のツイートです。中川氏はその前に、同じ失敗を繰り返すより、「次の自民党総裁選で安倍氏の対抗馬になるような自民党議員にすり寄るぐらいのしたたかさを見せろ」とツイートしていました。中川氏の政治音痴ぶりは相変わらずですが、ただ私は、“無能な野党”という一点において、中川氏のツイートに「いいね」をあげたくなりました。

民進党は本気で「共謀罪」に反対したのか。ネットではつぎのような話も出ています。


もし仮に民進党が政権に就いたら(ほとんど空想の世界ですが)、「共謀罪」を廃止するのでしょうか。とてもあり得ない話のように思います。私たちは、かつての民主党政権のときに、それを嫌というほど見せつけられたのです。

あらゆる手段を使って成立を阻止する、議会政治の死だ、なんて言っていたのもつかの間、「共謀罪」が成立した途端、まるで何事もなかったかのように馴れ合いの議場に戻った野党。

先述した性犯罪を厳罰化する刑法改正案も、日弁連が懸念する点などについてほとんど審議は行われず、参院法務委員会はわずか一日で採決し、翌日、本会議で「全会一致」で成立したのでした。

 与党は慣例に反し、改正刑法より二週間遅く国会に提出された「共謀罪」法を先に審議入りさせたため、改正刑法が衆院本会議で審議入りしたのは今月二日。参考人質疑は参院法務委員会でしか実施されず、審議時間は計十二時間四十分。十八日の会期末をにらみ、駆け足での成立となった。

東京新聞・TOKYO Web
性犯罪、法定刑引き上げ 改正刑法が成立 厳罰化へ、


慣例無視の「横暴」があったとは言え、「共謀罪」ではあれほど審議時間が足りないと言っていたのに、性犯罪の厳罰化は少なくてもなんら問題はないとでも言いたげです。参院法務委員会での審議も、どう見ても形式的なものとしか思えません。これで、委員会採決をすっ飛ばす禁じ手を使った与党のやり方を批判する資格があるのだろうかと思いました。と言うか、昨年のヘイト・スピーチ対策法のときと同じように、「共謀罪」が成立したら刑法改正案も会期内に成立させるという、”暗黙の了解”があったのではないかと穿った見方さえしたくなりました。

形式的な審議、「全会一致」。これこそ「議会政治の死」を意味するのではないか。「共謀罪」は、こういった「全会一致」の思想の上に成り立っているのです。
2017.06.21 Wed l 社会・メディア l top ▲
http://blog.canpan.info/shiawasenamida/img/
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上は、性暴力(性犯罪)の被害者を支援している特定非営利活動法人しあわせなみだのブログに掲載されていた写真です。この写真は、性犯罪に関連する刑法の改正を求める団体が、6月77日、3万筆のオンライン署名と改正の要望書を法務大臣に提出した際に撮影されたものだそうです。真ん中でハートマーク(愛のマーク)を作っているのが、あの金田勝年法務大臣です。

改正案は、この翌日(8日)、衆院で可決され、参院に送られました。報道によれば、明日(15日)、「共謀罪」(組織犯罪処罰法改正案)が成立すれば、18日の会期末までに同案も成立する可能性があるそうです。改正案の成立を求める人たちは、「共謀罪」が早く成立して改正案の審議に入ってくれというのが本音かもしれません。

今回の改正案は、「①強姦罪を『強制性交等罪』とあらため、被害者を女性だけでなく男性も含める。②法定刑の下限を懲役3年から5年に引き上げる。③親告が不要な非親告罪にする」などが主な柱となっています。

一方、この改正案に対して、日弁連が「一部反対」の意見書を出したため、被害者支援を行っている団体が反発、57の団体が共同で抗議声明を出す事態になりました。

Yahoo!ニュース
性犯罪の厳罰化に日弁連が一部反対の意見書 被害者支援57団体が抗議へ

日弁連の意見書には、法律の専門家の立場から、犯罪規定の曖昧さや「厳罰ありき」=安易な制裁主義に対する懸念があるように思います。

下記は、その代表的な反対意見です。

Mixi( Aさんの日記)
性犯罪厳罰化反対

日記の主の「Aさん」は、改正(特に厳罰化)に疑問を投げかける人権派(?)弁護士を叩くために、産経新聞の記事を引用しているのですが、私は、この弁護士の意見には首肯すべき点があるように思いました。

厳罰化の背後にあるのは、捜査当局の裁量の拡大です。犯罪規定の曖昧さは、警察にフリーハンドを与えることを意味するのです。それは、「共謀罪」と共通するものです。また、冤罪の歯止めがなくなる懸念もあります。

被害者の心と身体に将来に渡って深刻な被害をもたらす性犯罪は、文字通り憎むべき犯罪で、それを擁護する人間なんて誰もいないでしょう。もちろん、110年前に作られた法律を時代の流れに合わせて改正するのも必要でしょう。しかし、厳罰化に反対する弁護士の意見にあるように、性犯罪というのが、厳罰化が抑止になるような犯罪ではないこともまたたしかでしょう。

性犯罪には、その根底に、性的対象者、とりわけ女性をモノと見る考えがあるように思います。また、性的依存症の側面もあります。そういった文化的社会的背景も無視できないのです。

資本主義社会では、ありとあらゆるものが商品化され、金儲けの対象になります。性も例外ではありません。私たちのまわりを見ても、性的な欲望をかきたてる広告があふれています。一方で、資本の効率化に伴う高度にシステム化された社会において、私たちはさまざまなストレスを抱えて生きることを余儀なくされているのです。

電車が来てもいないのに、ホームへのエスカレーターを駆け足で降りていくサリーマンやOLたち。いつもなにかに急き立てられるような強迫観念のなかで生きている人々。そういった日常と依存症は背中合わせと言えるでしょう。

先日、BuzzFeedの記事のなかで、芸能人の薬物報道に疑問をもつ当事者や医師たちが提唱した「ガイドライン」が紹介されていました。

BuzzFeed
これでいいのか? 芸能人と薬物報道 専門家からあがる疑問の声

犯罪の質は違いますが、同じ依存症という側面から考えた場合、薬物使用も性犯罪も、問題の本質は同じではないかと思います。

刑期を終えればまた犯罪を繰り返すのも、性犯罪の本質を正しく捉えた有効な矯正プログラムが採られてないからでしょう。しかし、厳罰化を求める多くの人たちはそうは考えません。だったら(何度も犯罪を繰り返すのなら)、体内にGPSのチップを埋め込めばいいという発想になるのです。

日弁連に対する抗議声明のなかで、被害者団体は、「裁判員裁判では、裁判官のみでの裁判より性犯罪に関する犯罪の量刑が重くなっている。性犯罪を重刑化することは市民の賛同を得ている」(上記「性犯罪の厳罰化に日弁連が一部反対の意見書 被害者支援57団体が抗議へ」より)と主張しているそうですが、シロウト裁判員の「市民感覚」が、被害者と同じ応報刑主義的な感情に走るのは当然と言えば当然かもしれません。裁判員裁判が、厳罰化の風潮を作り出しているとも言えるのです。

誰もが反対できないような「絶対的な正しさ」を盾に、厳罰化と警察権限の拡大が謀られるのです。たとえば、暴力団を取り締まるために導入された凶器準備集合罪が、やがて反体制運動を取り締まるために使われたのはよく知られた話です。性というのは、きわめてパーソナルでデリケートなものです。性犯罪は、支援団体が上げるような「明確な」ケースだけとは限りません。どこまでが犯罪でどこまでが犯罪ではないのか、なにが真実でなにが真実でないのか、曖昧な部分が多いのも事実でしょう。その曖昧な部分の判断を警察に委ねる今回の改正案は、姦通罪などと同じように、私たちの性に対して、いつでも警察(=国家)が介入してくる道を開くものと言っても過言ではないでしょう。

「共謀罪」も性犯罪の厳罰化も同じです。それらは、地続きでつながっているのです。監視社会化と厳罰化(制裁主義)は表裏一体なのです。そうやって全体主義への道が掃き清められていくのです。昨年、ヘイト・スピーチ対策法が盗聴法の拡大や司法取引を導入する刑法改正とバーターで成立したのと同じ光景が、再びくり返されているように思えてなりません。

この風潮に対して、竹中労が生きていたら”デモクラティック・ファシズム”と言ったに違いありません。一方、私は、”善意のファシズム”ということばを思い浮かべたのでした。
2017.06.14 Wed l 社会・メディア l top ▲
「アベ政治を許さない」人たちが言うように、安倍首相が「追い詰められている」のかどうかはわかりませんが、自民党内には、森友や加計学園の問題は「氷山の一角」で、これから似たような話がもっと出てくるだろう、という声もあるそうです。実際に、昭恵夫人が「後援会長」をしていた渋谷区広尾の社会福祉法人に対して、国有地がタダで払い下げられた問題も出てきています。「愛国」を隠れ蓑にした国家の私物化は、とどまるところを知らないのです。

安倍政権の政策は、政治的には(戦前回帰を目論む)日本会議=「生長の家原理主義」の路線を踏襲した、きわめてアナクロで国粋主義的なものです。一方、経済政策では、TPPに代表されるように、市場原理主義的なグローバル資本主義を推進しているのです。そういった相矛盾したものが同居しているのが特徴です。

パン屋を和菓子屋と言い換えるよう「指導」した文科省の教科書検定に象徴されるように、国民には日本酒を強制しながら、資本家にはワインやシャンパンを推奨する、そんな二面性があるのです。

私は、「アベ政治」の二面性について、ムッソリーニの「国際主義は上流階級のみが得られる贅沢であり、庶民は望みもなく彼らの故郷に縛り付けられている」ということばを思い浮べました。グローバル資本主義によって格差が広がる一方のこの国にあって、文字通り「庶民(国民)は望みもなく彼らの故郷(愛国心)に縛りつけられている」のです。ここに「アベ政治」の本質があるように思います。

もっとも、グローバル資本主義を推進するという点では、民進党も変わりがありません。むしろ、民進党は、自民党以上にネオリベであると言ってもいいくらいです。自民党を批判しているのも、ただ野党だからにすぎないのです。福島瑞穂ではないですが、カレーライスかライスカレーかの違いしかないのです。これではいくら自民党を批判しても、民進党の支持率が上がないのは当然でしょう。民進党(旧民主党)は、民主党政権が崩壊した時点で、既にオワコンなのです。

今日の昼間、たまたまフジテレビの「直撃LIVEグッディ!」を観ていたら、加計学園の問題を取り上げていました。言うまでもなく、フジテレビはフジサンケイグループなので、産経新聞や夕刊フジと同じように、安倍政権に対してネトウヨ的な擁護論を展開するのだろうと思っていました。ところが、それは冒頭から裏切られたのでした。

国会での質疑が終わったとき、安倍首相が「くだらない質問で終わっちゃったね。また」とヤジを飛ばしたことを取り上げ、キャスターの安藤優子が「くだらないなんてひどいと思いますよ。くだらないことはないですよ」と言ってました。そして、「加計学園の問題なんかより国会ではもっと大事なことがあるだろうと言う人がいますが、加計学園の問題は大事なことですよ。これをウヤムヤにしてはならないと思いますよ」と言ってました。

また、「政治アナリスト」の伊藤惇夫氏が、「安倍首相や菅官房長官の態度は、国民を愚弄していると言われても仕方ないでしょう」と発言すると、安藤優子は、「ホントにそう思いますね」と言ってました。番組では、前川前文科事務次官は(天下り問題での)引責辞任を最初は拒否していたという、菅官房長官の発言に対しても、当時の動きを時系列で記したボードを使って疑問を呈していました。

安倍政権の太鼓持ちであるフジサンケイグループのなかにあって、「グッディ!」はこのように独自の姿勢を保持しているのです。「グッディ!」には、あの山口敬之氏をはじめ、田崎史郎氏や竹田恒泰氏など、とんでもない人物がコメンテーターとして登場することもありますが、今日の「グッディ!」を観る限り、ジャーナリストの“矜持”はまだ残っているのではないかと思いました。もちろん、「グッディ!」は低視聴率に喘いでいるので、安倍批判で視聴率を上げようという魂胆もあるのかもしれませんが、少なくともフジサンケイグループのなかにあって、このような報道をすること自体、勇気のいることだというのは理解すべきでしょう。
2017.06.06 Tue l 社会・メディア l top ▲
森友学園問題は(実質的に)終わった。と言うと、そんな考えこそ幕引きに手を貸すものだ、という批判が返ってくるのが常でしょう。しかし、それこそ「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」「勝てない左派」(ブレイディみかこ)の常套句とも言うべきものです。

桜井よしこ氏は、港区にある神社の敷地に、数億円とも言われる白亜の豪邸を建て、”女神”にふさわしい優雅な生活を送っているそうですが(そうやってネトウヨを煽って巨万の富を得ているのですが)、たしかに右翼業界は、今や我が世の春を謳歌しており、美味しいビジネスと言えるのかも知れません。

かつて左翼業界も美味しいビジネスでした。そのカラクリを理解できなかった私たちは、所謂“進歩的知識人”にいいように煽られ騙されたのです。それは、今のネトウヨと同じです。ネトウヨのことは笑えないのです。

富の偏在を告発し、資本主義社会の不条理を訴える“進歩的知識人”のなかには、桜井よしこ氏のような豪邸に住んだり、海外に別荘を持ったり、ポルシェやベンツに乗ったりしている者がいました。当時、上野千鶴子氏は、愛車のBMWだかポルシェだかで首都高を走るのが趣味だという話を聞いたことがあります。

昔日の勢いはなくなったとは言え、それは、今も同じです。左派リベラル(と言われる)知識人たちのツイッターなどを見ても、みずからの著書の宣伝のためにSNSをやっているような、ドッチラケなものが多いのも事実です。安倍政権を批判するのも、所詮はビジネスなのではないかと思ってしまいます。

森友学園問題も、今やビジネスに堕した感があります。昭恵夫人を告発する行為に対して、あれほど口を極めて罵るのも、問題をできる限り引き延ばし(そのために情報を小出しにして)、ビジネスとして延命させたいという思惑があるからではないのかと思ってしまいます。

国会での民進党の「矛先」は、既に森友学園から加計学園の問題に移っていますが、加計学園も森友と同様、竜頭蛇尾に終わるのは目に見えている気がします。私は、あらためて「民進党が野党第一党である不幸」を痛感せざるをえないのです。

「共謀罪」にしても、安保法制(周辺事態法)にしても、憲法改正にしても、民進党も過去に似たような主張をしています。これが産経新聞やネトウヨがヤユする民進党の「ブーメラン」と言われるもので.す。民進党は、与党案とは似て非なるものだと言ってますが、でも似ているような主張はしているのです。

言うまでもなく旧民主党は、日本に欧米のような二大政党制を定着させ、「政権交代ができる」政党が必要だという小沢一郎らの遠謀によって、「政界再編」の名のもとに、小選挙区比例代表並立制とセットで生まれた政党です。もちろん、「政権交代」とは、”体制転覆”ではなく、二大政党の間で政権をたらい回しするということです。言うなれば、安心して政権をたらい回しすることができる”第二自民党”のような政党が求められたのです。民進党の「ブーメラン」は当然なのです。


上記は、上西小百合議員のツイッターに転載されていた、安保法制に反対する弁護士のツイートですが、このような思考停止したベタな考えこそが、むしろ逆に「安倍政権の暴走を許している」と言えるのかも知れません。ポデモスやシリザやSNPは、(日本流に言えば)「民主はだめだ」「共産は嫌い」という考えから生まれたあたらしい左派政党だということを忘れてはならないでしょう。

加計学園の問題は、安倍政権による子飼いのメディアを使った露骨な疑惑潰しによって、泥沼化の様相を呈していますが、しかし、野党は、蚊帳の外に置かれ、ただケンカの使い走りに使われているようにしか見えません。

「小池新党」をめぐる東京都の問題も然りです。保守の内輪もめは、それだけ保守の”余裕”を示しているとも言えるのです。財産が多いと家族内で財産争いが起こるのと同じで、それを貧すれば鈍する民進党などが取り上げて、外野で騒いでいるだけなのです。

民進党がいくら騒いでも民進党の支持率が上がらない現実。そこに民進党の自己撞着、つまり「ブーメラン」があることを国民がよく知っているからでしょう。

「民主はだめだ」「共産は嫌い」と言っているから一強体制が進んだのではないのです。「民主はだめだ」「共産は嫌い」という現状認識を持てないから左派リベラルは凋落し、一強体制を許したのです。それがポデモスやシリザやSNPと日本の野党共闘&国会前デモの根本的な違いです。
2017.05.24 Wed l 社会・メディア l top ▲
今日、たまたまネットで、つぎのようなツイッターの書き込みを見つけました。


悪いけど、こういうリベラル左派に未来はあるのだろうかと思いました。「アベ政治を許さない」というボードを掲げる彼らが、実は安倍政治を許しているのだというパラドックスさえ考えてしまいます。

彼らは、かつて朝日新聞の「家庭内野党」報道を真に受けて、原発再稼働をしないように安倍首相を説得してください、昭恵夫人お願いします、と言っていたのです。今日の政治状況(一強体制)の下地を作ったと言っていい、小沢一郎や小泉純一郎に対する大甘な姿勢も同じです。

一方で、運動周辺に対しては、スターリニズムまがいの「排除の論理」が行使されるのです。そういった党派政治=”悪しき左翼性”だけは頑迷に固守しているのです。

野党共闘という”崇高な”理念のために、「普通の市民」ではない極左や極右はいらない、ビラ配りも署名集めも許さないというわけなのでしょう。もしその現場を見つけたら、原発や安保法制のデモのときと同じように、暴力的に排除するつもりなのでしょう。これが、高橋源一郎たちが自画自賛する「ぼくらの民主主義」なるものです。

彼らが墨守するリベラル左派の理念は、とっくに終わったそれでしかありません。それは、彼らが随伴する民進党や共産党を見れば一目瞭然でしょう。彼らは、トランプやマリーヌ・ル・ペンの台頭に、既成政党に対する人々の失望があるという、最低限の現状認識さえ持てないのでしょう。

むしろ、問題はその先にあるのです。前述した『「革命」再考』のなかで、的場昭弘氏は、つぎのように書いていました。

 資本主義はマルクスが予想したとおり、国境なき資本主義へと変貌していきます。ただし、マルクスも述べていることなのですが、資本は儲けるときはコスモポリタンで博愛的なのですが、儲からなくなると、途端に国家にすがり国家主義的になります。


自由貿易と保護主義、グローバリズムとナショナリズム、左翼的なものと右翼的なもの、もしかしたらそれらは表裏一体のものかもしれないのです。

大事なのは、右か左かではなく、上か下かなのです。上か下かに、右も左もないのです。

マリーヌ・ル・ペンが言うinvisibles=「見えざるものたち」も、リベラル左派の彼らには文字通り「見えざる」存在なのかもしれません。

 革命という言葉が意味するのは、現に見えているものを変革するということではなく、見えないものをくみ取り、それを変えていくということです。およそこれまでの革命、そして革命家の思想というものは、まさにそうした目に見えないものをいかに理解し、変えるかであったといってもいいものでした。変化が簡単にわかるものは、実は革命でもなんでもなく、たんに現状の追認にすぎなかった場合が多かったわけです。
(『「革命」再考』



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2017.05.09 Tue l 社会・メディア l top ▲
先日、朝日新聞デジタルのインタービュー記事で、米山隆一新潟県知事がつぎのように言ってました。

 保守的な空気が非常に先鋭化しているのは、仕方ない部分はある。ただ、なぜそうなったかを考えると、リベラル系の人たちがちゃんと意見を言わないからだと思う。リベラルの人は優等生になろうとする。何かを発言して、ブーメランで批判が返ってくるとシュンとする。保守系の人はバシバシ言うから、結局そちらが発言権を持ってしまう。

朝日新聞デジタル
つぶやく知事に聞いた「保守的な空気、リベラルのせい」


私は、この発言は、米山知事の意図とは別に、今のリベラル左派の痛い点を衝いているように思いました。そして、これが日本の左派とヨーロッパで台頭している急進左派との根本的な違いでもあるように思います。

何度も同じことを言いますが、ギリシャのシリザも、スペインのポデモスも、イギリスのスコットランド国民党(SNP)も、貧困や独立をテーマにした広場占拠や街頭闘争の直接行動から生まれたあたらしい政党です。有閑マダムのホームパーティのように、仲間内でおしゃべりに興じるだけの日本のリベラル左派とは似て非なるものです。上か下かの視点を失くしたリベラル左派に対して、「左翼はめぐまれた既得権者だ。おれたちがやっているのは階級闘争だ」と在特会など極右の団体が嘯くのも、故なきことではないのです。

マルクス研究者の的場昭弘氏は、『「革命」再考』(角川新書)で、現在、先進国を席捲している「国家再帰現象」は、「民衆の自由意志による反発であると捉えることも」できると書いていました。「ポピュリズム」「大衆デマゴギー」などと批判される「国家再帰現象」ですが、見方を変えれば、民衆のなかに「既成の政党政治に飽きたらない」現象が起きていることを意味しているのではないかと言うのです。そして、そんな「民衆の声を吸収できているのは皮肉にも極右と極左だ」と言います。フランス大統領選挙でも、共和党や社会党の候補が大敗し、極右のマリーヌ・ル・ペンと極左・左翼党のジャン・リュック・メランションが人気を集めたのは周知のとおりです。

的場氏は、マリーヌ・ル・ペンについて、つぎのように書いていました。

 フランス極右の候補者マリーヌ・ル・ペンは、支持層拡大のために「見えざるものたち」(invisibles)という言葉を、二〇一二年の大統領選挙で使っていました。見えざるものたちとは、存在しているが人々が見逃している人々ということです。具体的にいえば、移民労働者や郊外に住む貧困層のことです。二〇〇七年の大統領選挙ではプレカリテ(prècaritè)、不安という言葉が議論になりました。
 極右の候補がこれを取り上げたことは、現代社会の抱える問題が、もはやたんなる人権の問題ではないことを意味しています。生きる権利、働く権利という基本的な権利が守られていないことへの怒り、それは現在の資本主義システムそのものへの疑問となって表れています。これまでのような機会の平等、自由な競争などと能天気なことをいっていられない時代になったともいえます。
(『「革命」再考』)


「見えざるものたち」の生きる権利、働く権利を奪還する。このようなことはかつては左の「革命派」が言っていたことです。極右と言えば、どうしても排外主義ばかりに目が行きがちですが、今やこういった「上か下か」も極右のスローガンになっているのです。

(何度も僭越ですが)私も、トランプ当選の際、ブログにつぎのように書きました。

トランプ当選には、イギリスのEU離脱と同じように、そんな「上か下か」の背景があることも忘れてはならないでしょう。「革命」の条件が、ナチス台頭のときと同じように、ファシストに簒奪されてしまったのです。社会主義者のバーニー・サンダースが予備選で健闘したのは、その「せめぎあい」を示していると言えるでしょう。
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日本のリベラル左派は、そういった「せめぎあい」さえ回避しているのです。

ブレイディみかこ氏は、連載している晶文社のサイトで、イギリス労働党の低迷に関して、シリザ政権で財務相を務めたヤニス・ヴァルファキスのつぎのようなことばを紹介していました。

 過去30年間、我々はプログレッシヴな価値観の寸断を許してきた。LGBTの運動、フェミニストの運動、市民権運動という風に。フェミニストがもっと多くの女性を役員室に入れることは、その一方で移民の女性が最低賃金以下の賃金で家事を引き受けて働いているということを意味する。フェミニズムとヒューマニズムの関係性が失われてしまったのだ。ゲイ・ムーヴメントが、偏見や警察との闘いに代わって、「Shop Till You Drop(ぶっ倒れるまで買いまくれ)」のようなスローガンをマントラにして消費主義を受け入れた時、それはリベラル・エリートの一部になり過ぎてしまった。プログレッシヴなムーヴメントに残された解決法は、インターナショナルであるだけでなく、ヒューマニストにもなることだ。それは難しいことだ。が、リベラルなエスタブリッシュメントとトランプの両方に反対するにはそれが必要だ。彼らは敵対しているふりをしているが、実際には共犯者であり、互いを利用している。
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日本のリベラル左派は、既得権を守ることに汲々とし、「55年体制」のノスタルジーに耽るだけの「エスタブリッシュメント」でしかないのです。だから一方で、(リベラルなんて言いながら)あのようなスターリニズムと紙一重の「排除の論理」が幅をきかせているのでしょう。今、求められているのは、「リベラルなエスタブリッシュメントとトランプの両方に反対する」、謂わば「左派ポピュリズム」のような視点と見識なのです。
2017.05.02 Tue l 社会・メディア l top ▲