津原泰水氏の『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)を読みながら、ふと、山本太郎のれいわ新選組が6人目の候補者にヒキコモリの人間を擁立したら面白いのにと思いました(フリーターを擁立する可能性はあるように思いますが)。

アンダークラスに依拠する政党として、これ以上のインパクトはないでしょう。そして、ヒキコモリたちが選挙のスタッフに参加すれば、文字通り小説を地で行くような話になり、若者から中高年まで100万人以上いると言われるヒキコモリたち=「忘れられた人々」にとって、大きな希望になるのは間違いないでしょう。

こう書くと、ヤユして書いているように思うかもしれません。ヒキコモリの話をすれば、ややもすればそう誤解されることが多いのも事実で、「ヒッキー」は言わずもがなですが、ヒキコモリということば自体にも、既にヤユするようなイメージが付与されているのです。ヒキコモリが、労働力の再生産という資本主義社会のオキテに反する、それこそ生産性のない存在だからでしょう。

だったら、それを逆手に取ればいいのだと思います。れいわ新選組から立候補した重度障害者の木村英子氏は、立候補の要請が来た際、「障害者を利用している」と山本太郎がバッシングされることを心配したそうです。それに対して、山本太郎は、「上等ですよ。利用して制度を変えていけばいいじゃないですか」と答えたのだとか。彼には、そういう(政治家として必須の)したたかさを持っているのです。

山本太郎は、朝日新聞のウェブサイト「論座」で、れいわ新選組の政策を表明していますが、立憲民主党や国民民主党と一線を画した反緊縮の主張には傾聴に値するものがあると思いました。

論座
山本太郎から自民党を支持してきた皆様へ

ヨーロッパで若者たちをひきつけたポデモスやシリザと同じように、反緊縮を主張する政党が日本にも出てきたことの意味は、私たちが想像する以上に大きいのかもしれません。現に、僅か3カ月で2億円以上の寄付金を集めた、れいわ新選組ブームと言われる現象までおきているのです。私は、(買い被りと言われるかもしれませんが)ユーチューブで山本太郎の辻説法を見るにつけ、シャンタル・ムフの言う「左派ポピュリズム」ということばが連想されてなりませんでした。

ただ、ポデモスやシリザが、「急進左派」と呼ばれ、ラジカルな大衆運動を背景に生まれた政党であるのに対して、れいわ新選組はそういった基盤をもっていません。あくまで議会内の政党にすぎないのです。そのため、ブームがブームで終わる可能性もあるでしょう。選挙が近づけば、マッチポンプがお家芸の朝日新聞が手のひらを返して、れいわ新選組を「落とす」に違いありません。また、ホントにれいわ新選組が脅威になれば、文春や新潮を使ったスキャンダルが仕掛けられるかもしれません。既成政治の洗礼を受けるのはこれからなのです。そういったことも含めて、アンダークラスに依拠し反緊縮の旗を掲げる、このあたらしい政党の行く末を注視する必要があるでしょう。
2019.07.01 Mon l 社会・メディア l top ▲
もうひとつ床屋政談を・・・・。

今回のG20に関しては、日本のメディアの報道を見る限り、何が話し合われ、何がどうなったのか、さっぱりわかりません。なんだか目くらましに遭ったような感じです。

米中首脳会談にしても、竜頭蛇尾のような報道でした。挙げ句の果てには、ホスト役を務めた安倍総理の評価はどうだったかというような、どうでもいいような話ばかりが取り上げられているのでした。

しかし、今回のG20で私たちが見たのは、中国の習近平主席の自信に満ちた態度でした。日本では、トランプによって中国は瀕死の状態に追い詰められているようなイメージがありましたが、実際は怯むことなく堂々とアメリカと渡り合う姿がそこにあったのでした。

それは、G20と関係ありませんが、イランも同じです。トランプから難癖を付けられ、挑発を受けてもなお、トランプの挑発を「子どもじみたふるまい」と一蹴し、イランは毅然とした態度を取り続けたのでした。

一方、28日には、ウィーンで、イラン核合意の参加国であるイギリス・ドイツ・フランス・中国・ロシア・EUがアメリカのイラン制裁再発動に対する対応を協議した結果、イランを経済的に支援することを決定したというニュースがありました。

これらから見えるのは、何度もくり返しますが、アメリカが超大国の座から転落して世界が多極化するという流れです。それに伴い、中国やロシアやイスラム(イラン)などの台頭がより顕著になっているという事実です。

日米安保が片務的だというトランプの不満も、多極化の流れのなかにあるのはあきらかです。明日、板門店でトランプと金正恩の三回目の会談がおこなわれるという観測がありますが、米朝正常化=朝鮮半島の緊張緩和の先にあるのが、在韓・在日米軍の撤退であるのは間違いないでしょう。そして、東アジアの覇権が中国に移行するのも間違いないのです。

田中宇氏は、メルマガでつぎのように書いていました。

田中宇の国際ニュース解説・無料版
板門店で電撃の米朝首脳会談

今後うまくいけば、中露が安保理で北制裁を緩和し、南北の経済交流が始まり、今は裏でやっている中朝間の貿易も表向きに再開する。在韓米軍の撤収が俎上にのぼり、在日米軍の撤収も言及される(すでにトランプは今回、日米安保条約を破棄したいと表明している)。米朝だけでなく、日朝も和解していく。安倍は早く訪朝したいと以前から思っている。日米安保の代わりとして、中国は昨秋、安倍の訪中時に、日本と安保協定を結びたいと提案していたと、先日暴露された。こんな暴露が今の時期に行われた点も興味深い。
(略)
安倍はプーチンとも仲良しで、日露の平和条約も早く結びたい。北方領土は2島返還以外の解決がないと大昔からわかっていた。北朝鮮、中国、ロシアの3か国と平和的な恒久関係が確立したら、日本にとって脅威な外国はなくなる。米軍が日本に駐留する必要もなくなる。ハブ&スポーク的な日韓別々の対米従属を維持するための、子供じみた日韓の相互敵視も、米国の覇権低下とともに下火になり、日韓も安保協定を結ぶ。日本の対米従属の終わりが、すぐそこまできている。
(略)


しかし、日本のメディアに、こういった視点は皆無です。わけのわからない目くらましのような記事でお茶を濁すだけなのです。それは、BSテレビのニュース番組などに(特に顕著に)見られるように、日本のメディアが、対米従属を至上の価値とするネトウヨ的思考に囚われているからでしょう。

さらには、会談後に、ファーウェイに対する禁輸措置を解除するとトランプが表明したのを見て、私は、メディアに煽られて、ファーウェイはヤバいなどと言っていた人間たちはどう言い訳するんだろうと思いました。まさに、彼らのバカさ加減がさらけ出されるオチまで付いたのでした。ファーウェイがヤバいなら、アイフォンだって、グーグルピクセルだってヤバいでしょう。スノーデンが暴露したように、アメリカ政府も似たようなことをやっているのです。

ファーウェイの問題では、先日、グーグルが今後、ファーウェイのスマホに自社のサービスを提供しないと発表して大騒ぎになりましたが、その一方で、アンドロイドの提供をやめれば、ファーウェイが独自のOSを開発するので、その方が安全保障上問題がある(アンドロイドを使わせていた方が安心ですよ)、とグーグルがアメリカ政府を説得したというニュースもありました。今回の禁輸措置の解除も、案外そのあたりに真相があるのかもしれません。

とは言え、ことは単純な話ではなく、多極化が国際政治の思惑と力学のなかで、紆余曲折を経ながら進んでいくのは言うまでもないことです。日本のメディアは、その紆余曲折を針小棒大に取り上げ、多極化という本筋をマトモに伝えようとしないのです。

トランプの対中強硬策に対しては、アメリカ国内では共和党だけでなく民主党の議員たちも党派を越えて支持しているそうです(そうやってトランプ人気に手を貸している)。対中強硬という点では、アメリカは挙国一致で結束しているのです。つまり、それは裏を返せば、アメリカが中国の台頭に怯え、余裕をなくしている表れと見ることができるでしょう。

いづれにしても、今回の米中首脳会談では、坂を上る国と下る国の明暗がはっきり出ていたように思いました。
2019.06.29 Sat l 社会・メディア l top ▲
6月21日の麻生太郎財務相(兼金融相)に対する問責決議案の参院本会議での採決で、れいわ新選組の山本太郎議員が棄権したことに対して、野党支持者たちから批判がおこっているそうです。

中には、消費税廃止や奨学金の返済免除などを掲げる山本議員が、「政策の一部を実現するために、自民党と組む」のもやぶさかではないと発言したという『アエラ』のインタビュー記事を取り上げて、自民党にすり寄り、自民党と「組む」ために棄権したのではないかなどという穿った見方さえあります。しかし、それこそ「負ける」という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ(ブレイディみかこ)リベラル左派の“誇大妄想”と言うべきでしょう。

一方、山本太郎議員は、オフィシャルブログで、つぎのように棄権した理由を述べていました。

山本太郎オフィシャルブログ
棄権について

このタイミングの問責。
何の意味をもつのだろうか?
国会閉会間近の風物詩、以外にその理由は見当たらない。
(略)
事前の戦いが事実上ほぼない中で問責されても痛くも痒くもない。

事前に精一杯の戦いがあっての問責ならば、意味もあろう。

しかし残念ながら、戦っている印象を残すための儀式でしかない。
そんな儀式には参加したくないのだ。


問責決議案が否決されたことを伝えるテレビのニュースは、「否決されるのは野党も織り込み済みで・・・・」と言ってましたが、否決されるのが「織り込み済み」の問責案って、一体なんの意味があるのかと思います。要するに、国会の会期末に提出される問責決議案や内閣不信任案は、山本太郎が言うように、「私たちはこうやって抵抗しています」と野党が国民にアピールするための茶番にすぎないのです。

山本太郎は、野党は本気でケンカをする気がないと野党の姿勢を批判していますが、それは、55年体制のときから指摘されていた“与野党の馴れ合い”です。その“悪しき伝統”が今もつづいているのです。有権者をバカにするのもいい加減にしろという声が出て来てもおかしくないでしょう。国民不在の”与野党の馴れ合い”に与しないという山本太郎の選択は、間違ってないのです。”与野党の馴れ合い”を真に受け、山本太郎を批判する左派リベラルは、愚の骨頂と言うべきでしょう。

何度も何度もくり返しますが、今の格差社会や貧困の現実を考えるとき、大事なのは右か左ではなく上か下かなのです。政治のリアルは、右か左かではなく上か下かにあるのです。上か下かという考えに立てば、反緊縮も重要なテーマになるはずです。しかし、立憲民主党も国民民主党も、基本政策は、(自民党と同じように)財政健全化と持続可能な財政構造の確立を掲げています。本気でケンカするつもりがないのは理の当然なのです。

ブレイディみかこ氏は、『労働者階級の反乱』(光文社新書)で、EU離脱について、次のように書いていました。

(略)2016年のEU離脱投票の後、わたしも離脱派の勝利の背景には緊縮財政があると書いたのだったが、日本の多くの人々は、「欧州の危険な右傾化」と「ポピュリズムの台頭」が原因であるというところで止まってしまい、「緊縮が理由などと書くのは、右傾化した労働者階級を擁護することになり、レイシスト的だ」と苦情のメールも来た。 
 しかし、それまで気にならなかった他者を人々が急に排外し始めるときには、そういう気分にさせてしまう環境があるのであり、右傾化とポピュリズムの台頭を嘆き、労働者たちを愚民と批判するだけではなく、その現象の原因となっている環境を改善しないことには、それを止めることはできない。


さらに、こう書いていました。

 労働者がポピュリストに扇動された結果だ、とか、排外主義に走った愚かな労働者階級の愚行だ、とか、その行動や思想の是非はあるにしろ、それが「労働者階級がエスタブリッシュメントを本気でビビらせた出来事」の一つだったことは誰にも否定できないと思う。
   EU離脱投票の結果を知った朝、わたしが一番最初に思ったのは、「この国の人たちは本当にやってしまう人たちなのだ」ということだった。いいにしろ、悪いにしろ、英国の労働者階級は黙って我慢するような人たちじゃない。必ず反撃の一手に出る。


ブレイディみかこ氏が言うように、「労働者階級の意味を再定義するときが来ている」のはないでしょうか。『新・日本の階級社会』が指摘しているように、階級の問題はすぐれて今日的な問題なのです。「地べたに足をついて暮らしているすべての」人々を、右か左かではなく上か下かで定義し直す必要があるのではないか。左翼的な硬直した”労働者本隊論”ではなく、貧困を強いられ、人生の希望を失くし、人としての尊厳を奪われた下層の人々こそ、労働者階級と呼ぶべきなのです。彼らは、「忘れられた人々」なのです。保守と中道の票争いのなかで(左派が中道化しリベラル化するなかで)、土俵の外に追いやられた人々なのです。

「2千万円問題」も恵まれた人たちの話です。(中道という共通の土俵で)「2千万円」のレベルで年金問題を議論するのは、政治(野党)の欺瞞と怠慢以外のなにものでもありません。この国には、アンダークラスの人々に依拠した”下”の政党がないのです。私たちは、立憲民主党や国民民主党が野党であることの不幸をもっと知るべきでしょう。


関連記事:
山本太郎は間違ってない
『左派ポピュリズムのために』
『新・日本の階級社会』
2019.06.23 Sun l 社会・メディア l top ▲
日頃、ヤフコメに対して悪態ばかり吐いていますが、最近、膝を打つような書き込みが2件ありました。まるでゴミだめに咲いている花を見つけたような気持でした。

ひとつは、講談社の女性雑誌『ViVi』と自民党のコラボのニュースに対してのコメントです。

戦前の翼賛体制下において、戦意高揚のプロパガンダに大衆雑誌が使われた歴史は、大塚英志や早川タダノリ氏の仕事によってあきらかにされていますが、権力者にとって、サブカルチャーが大衆を動員するのに恰好の”装置”であるのは言うまでもないでしょう。今回の『ViVi』のコラボと、安倍首相と吉本芸人たちとの“共演”は地続きでつながっているのです。

いずれにしても、ファッション誌そのものがこういうことをやらないと存続できない時代になっているということです。近年の凋落ぶりを見れば、何が起こっても不思議ではありません。特に『ViVi』や『JJ』『CanCam』といった、かつて大学生をターゲットとしていた雑誌は読者を失い迷走しています。インスタグラムなどのSNSにその座を奪われたファッション誌の存在意義が問われているということでしょう。


Yahoo!ニュース(ハフポスト日本版)
「ViVi」が自民党とコラボした理由は? 講談社が説明「政治的な背景や意図はまったくない」

これは、甲南女子大学教授の米澤泉氏の「オーサーコメント」です。要するに、貧すれば鈍するということなのでしょう。

講談社(大日本雄辯會講談社)は、文藝春秋社と並んで、戦前の天皇制ファシズムに随伴した代表的な戦犯出版社で、文春同様もともと権力と密通する体質(DNA)を持っている会社です。言うなれば、地が出たということなのかもしれません。

もっとも、外野から見れば、今回のコラボは末期症状の悪あがきのようにしか見えません。いづれ『ViVi』が書店の棚から姿を消すのは必至のような気がします。

もうひとつは、今夏、別府市にインターコンチネンタルホテルが開業するというニュースに対する次のようなコメントです。

別府温泉に進出は結構なことだが、集客はこの場所では難しく温泉街からは遠く周りに何も無い所、この地域の宿泊金額は低価格で2食付きがメインで外資系のスタイルでは集客むずかいいだろう、九州方面を甘く見てる、趣味でオーナー様は出店したと思われる。当分赤字続きで日本の旅館オーナーたちを敵に回して潰れると予想されます。日本の温泉地は外資系にとって甘くないです。


Yahoo!ニュース(Impress Watch)
IHG、「ANAインターコンチネンタル別府リゾート&スパ」を説明。マッサリーニ総支配人「別府に身を委ねて」

地元の人間によるコメントだと思いますが、先日も別府に帰って地元の人間たちと会った際、この話題が出ました。中には、観光業に携わる人間や公的な立場にある人間もいましたが、みんな、総じてこのコメントと同じような見解を述べていました。

ホテルができるのは、高校生のとき、耐久遠足で行った山の上です。今は高速道路が走っているので、昔より便利になりましたが、それでも温泉街の情緒とは無縁な場所です。欧米の富裕層をターゲットにしているそうですが、前に紹介した別府市の観光動態調査を見てもわかるとおり、欧米の観光客は、国別で見ると1%にも満たないのです。

外国人観光客の55%は韓国の観光客です。しかも、その多くは格安航空で来る若い観光客なのです。たしかに、外国人観光客は平成29年度を見ても、前年比33%増と増加していますが、大半は韓国をはじめとするアジアからの観光客です。欧米からの観光客は、ほとんど誤差の範囲のような数字にすぎません。しかも、北米はやや増えているものの、ヨーロッパからの観光客はこのインバウンドブームの中でも逆に減少しているのです。

さらに、別府の観光業者に衝撃が走ったという一人当たりの観光客消費額は、日帰り客で日本人が5166円、外国人が3371円。宿泊客は(宿泊料も含めて)日本人が24446円、外国人が13852円です。インターコンチネンタルホテルは、顧客を首都圏から大分までANAで運んで、専用車で空港に迎えに行き、ホテルに滞在させるという構想を描いているようですが、構想を実現させるには、このような「安い国ニッポン」の現実を凌駕する途方もないアイデアと勇気と努力が必要でしょう。

たしかに、別府の老舗ホテルは、改修資金にも事欠き、老朽化して無残な姿をさらしているところが多いのは事実です。そのため、宿泊料金も老舗ホテルほど低価格化が著しいのです。昔から別府には企業の保養所や別荘などがあった関係で、富裕層をターゲットにした高級旅館も数多く存在していました。しかし、それら高級旅館も、日本経済の停滞とともにどこも苦境に陥り、多くは既に廃業したり人出に渡っています。また、別府の代表的な観光ホテルの杉乃井ホテルは2008年オリックスに、城島高原ホテルは1984年後楽園に、亀の井ホテルは紆余曲折を経て20014年にホテルマイステイズ(旧ウィークリーマンション東京)に、それぞれ営業権が譲渡されています。

一方で、そんな間隙をぬって、インバウンド需要を狙い、韓国や中国の資本、あるいはアパや大江戸温泉物語などが買収攻勢をかけ、(看板はそのままですが)既に至るところに進出しています。それは、風俗も然りで、ソープランド事情に詳しい人間の話では、大半は福岡や関西など県外の業者が経営しているそうです。しかも、半分近くはフロント企業だという話さえあります。

地元の人間には、「国際観光温泉文化都市」の幻想なんてとっくにないのです(と言うか、最初からなかった)。別府や湯布院の観光の基を築いたと言われる油屋熊八翁(亀の井ホテルの創業者)もそうですが、もともと別府はよそから来た人間や資本によって開発された観光地であり、県外資本が進出しては撤退して行くのもめずらしい話ではないのです。地元の人間たちが、インターコンチネンタルホテルの壮大な構想を冷めた目で見るのも、ゆえなきことではないのです。


関連記事:
日本は「買われる国」
『誰がアパレルを殺すのか』
2019.06.13 Thu l 社会・メディア l top ▲
今更の感はありますが、田中龍作ジャーナルが、消費税増税に関する立憲・国民民主の姿勢について、次のような辛辣な記事をアップしていました。

田中龍作ジャーナル
立憲と国民民主が「消費税減税」を言えない理由 カギは庶民の生き血啜る連合

 野党第一党の立憲と第二党の国民民主が、経団連の手先となって我々庶民の生き血を啜っていることが、白日の下にさらけ出された。


 立憲と国民民主に投票することは、有権者が自分で自分の首を絞めるに等しい。


このブログでも何度も書いていますが、立憲民主党や国民民主党と自民党にどれほどの違いがあるのか、私にはわかりません。それどころか、旧民主党(民進党)の彼らは、ただ自民党を勝たせるためだけに存在しているようにしか思えません。それほどまでにあの(悪夢のような)民主党政権は、トラウマになっているのです。

国民民主党の玉木雄一郎代表は、先日の夕刊フジの「単独インタビュー」で、次のように語っていました。

「われわれは『中道保守』を目指している。内政では、自由主義や自己責任よりも格差是正に重点を置きつつ、外交・安全保障では現実路線を採用する。例えば、安保法制廃止とセットで、領域警備法案やPKO(国連平和維持活動)法改正案を提出した。これは南西諸島に他国の武装集団が上陸したとき、警察や海上保安庁だけでは対処できないからだ」


zakzak(夕刊フジ)
国民民主党・玉木雄一郎代表インタビュー! 「『中道保守』政党を目指す」「小沢氏は『政権交代実現担当』として不可欠」

これを読むと、国民民主党が安保法制に反対した理由がわからなくなってきます。別に、反対する必要はなかったんじゃないかと思えてきます。一事が万事この調子なのです。「中道」というのは便利なことばで、「保守」と言ったら自民党と同じになってしまうので、「中道」ということばをくっつけて違いを見せているだけなのかもしれません。

先日も都内の地下鉄の駅前で、立憲民主党の幟を立てた参院選の候補予定者が演説をしていました。彼は、消費税増税に際して、この国が貯め込んでいる2千兆円のお金(国民の金融資産と企業の内部留保)を低所得者対策に使うべきだと主張していました。私は、増税の代わりに2千兆円のお金を当てればいいという話なのかと思いましたが、そうではなく、あくまで増税が前提の話なのでした。同じ増税派でも、私たちには”救済策”がありますと言いたいのかもしれませんが、なんだか子供だましのような話で、苦しい言い逃れとしか思えません。それで支持を得ようと本気で思っているのなら、おめでたいと言うしかないでしょう。

憲法改正においても、彼らと自民党にそんなに違いはないのです。立憲民主党も、憲法改正は安倍政権下では認めないと言っているだけで、山尾志桜里議員の発言を見てもわかるとおり、改正自体には反対していないのです。要するに、立憲民主党や国民民主党は、たまたま野党の立場に置かれているので、野党のふりをしているだけなのです。

もちろん、そこには、記事にあるように、スポンサーである連合の意向がはたらいているのは言うまでもありません。連合は、旧総評と旧同盟が合体したナショナルセンターですが、指導部は旧同盟系の活動家たちによって掌握されています。日本会議の”加入戦術”ではないですが、連合には旧同盟(旧民社党)の右派労働運動のエートスが受け継がれ、今回の消費税増税要請に見られるように、労使協調の翼賛運動に換骨奪胎されたのです。それが、連合誕生の際、労働戦線の「右翼的再編」と言われたゆえんです。

一方で、田中龍作ジャーナルは、「だから期待できるのは共産党だけ」と言いたげですが、本当の野党は我が党だけという共産党のプロパガンダもまた、とっくに失効した“古い政治”にすぎません。そういった幻想に寄りかかっている限り、田中龍作ジャーナルは”古い政治”の狂言回しの役割から脱することはできないでしょう。

選挙に行かないやつはバカだ。選挙に行かないのは、自公政権に白紙委任するようなものだ。そんなおなじみの声がありますが、むしろ選挙は茶番ではないのかと思います。私たちの前にあるのは、シャンタル・ムフが言う「中道での合意」によって招来された「ポスト政治的状況」です。選挙は、そのコップのなかの選択にすぎないのです。どこかの誰かが言っていたように、カレーライスが好きか、ライスカレーが好きか、どっちかを選べと言われているようなものです。その欺瞞性を問わずに、「民主主義の危機」なんてお題目(常套句)をいくら唱えても、なにも変わらないでしょう。

小沢一郎氏は、「このままでは野党は全滅だ」と言ってましたが、全滅すればいいのだと思います。もうそこからやり直すしかないのではないか。


関連記事:
民主党政権は悪夢だった
『左派ポピュリズムのために』
積極的投票拒否の思想
2019.06.05 Wed l 社会・メディア l top ▲
トランプ相撲


これは、ネットで拾った画像です。三人(実際は頭にメガネを乗せている左端の男性を入れて四人)のなかのひとりは、ブログで、トランプ大統領と遭遇したのは偶然だったと書いていました。しかし、テレビ中継では、相撲観戦を終えて帰る際、安倍総理がわざわざトランプ大統領を呼び止め、三人に引き合わせたように見えました。

三人は、誰もが知っている親安倍の右派文化人です。自他ともに認める「愛国」者です。しかし、この日の三人は、まるでアイドルに握手を求めるファンのようでした。真ん中の女性に至っては、感極まったような顔をしています。

私は、この画像を見て、『永続敗戦論』の次の文章を思い浮かべたのでした。

(略)第二次安倍内閣において内閣官房参与に任命された元外務事務次官の竹内正太郎に至っては、米日の関係を「騎士と馬」に擬えている。ここまで来ると、彼らの姿はSF小説『家畜人ヤプー』のなかの「ヤプー=日本人」そのものである。


SM雑誌の『奇譚クラブ』に連載された『家畜人ヤプー』は、右翼の反発を受け、出版元へのテロまでひき起こしたのですが、そんななかで、三島由紀夫はこの小説を高く評価したのでした。

トランプに握手を求める三人の表情も、「アメリカを背中に乗せて走る馬になりたい」と考えている倒錯者のそれのようです。彼らには、アメリカなしの日本なんて考えられないのでしょう。

これがこの国の「愛国」者の姿なのです。そこには、見事なまでに「愛国」と「売国」が逆さまになった「戦後の背理」が映し出されているのでした。彼らが依拠するのは、“対米従属「愛国」主義”とも言うべき歪んだ従属思想にすぎないのです。三島由紀夫は、愛国心ということばは(わざとらしくて)嫌いだと言ったのですが、その気持がわかる気がします。

きっこは、今回の”接待外交”について、次のようにツイートしていました。



きっこが言うように、ドナルド・トランプのふるまいは、まるで宗主国の大統領のようでした。トランプ来日で私たちの目に映ったのは、アメリカに対して、哀しいまでに卑屈になって媚びへつらうこの国の姿でした。そして、そこには、犠牲を強いた国民を見捨て、戦争に負けた責任に頬被りして、いち早く”昨日の敵”にすり寄っていった戦争指導者たちの姿が二重写しになっているのです。しかも、トランプの太鼓持ちを演じた宰相は、その戦争指導者の孫なのです。これは決して偶然ではないでしょう。


関連記事:
『永続敗戦論』
『宰相A』
2019.05.28 Tue l 社会・メディア l top ▲
最近の小室圭さんに関する“文春砲”には目に余るものがあります。ネタが枯渇したので、無理してネタにしている感さえあります。反論できないことをいいことに、書きたい放題なのです。

文春オンライン
小室圭さん同級生が初めて語る「父親の死と“おじさん”の登場が彼を変えた」

秋篠宮家の長女・眞子さま(27)との結婚問題が国民的な議論となっている小室圭氏(27)。もし結婚が成立した場合、小室氏は悠仁さまの義兄となり、将来は“天皇の兄”という特別な立場になる。これが令和皇室における重要問題であることは論を俟たない。


フジサンケイグループのFNNニュースや夕刊フジも、女性宮家が創設されたら、小室圭さんには「殿下」の称号が与えられ、年間4500万円の血税(皇族費)が支給されるというような話を流していましたが、まったく悪意ある記事としか言いようがありません。

発端となった小室圭さんのお母さんと元婚約者の400万円だかの”金銭トラブル”も然りです。先日のワイドショーでも、「小室さん側の弁護士は相手の弁護士と接触して、どうして解決しようとしないんですかね?」とコメンテーターたちが首をひねっていましたが(たかが400万円のはした金なのにと言わんばかりに)、彼らはなんにもわかってないんだなと思いました。

相手の元婚約者の「代理人」は、弁護士ではなくフリーライターで、弁護士には依頼してないのです。弁護士に相談したら、返還を求めるのは法的には無理だと言われたという話さえあります(素人考えでもそうでしょう)。接触を避けている(拒んでいる)と言われており、どうやら接触しようにも接触できないのが真相のようです。

デヴィ夫人が言うように、”金銭トラブル”は小室圭さんと眞子さんの婚約が発表されてから表沙汰になったのですが、別に係争案件ではないので、当人たちが口外しない限り公になることはなかったはずです。つまり、”小室バッシング”の発端になった借金問題は、元婚約者がみずからメディアに流して発覚した(わざと表沙汰にした)のです。タイミングから見ても、多分に嫌がらせの側面もあるように思えてなりません。昔から老いらくの恋を七つ下がりの雨などと言いますが、お母さんに対する未練がこういった行為に向かわせているのではないかと勘繰りたくなります。

そもそも元婚約者がどういう人物なのか、不思議なことに一切メディアには出て来ないのです。直撃取材どころか、周辺取材すらないのです。「代理人」のメディア対策が功を奏しているのか、ただ元婚約者の言い分を一方的に伝え、立場上反論できないことをいいことに、小室親子がとんでもなく腹黒い人物のように言い立てるのでした。

また、Yahoo!ニュースも、代替わりに伴い、眞子さんが秋篠宮ご夫妻から引き継いで「みどりの祭典」に出席したなどという、どうでもいいような記事をヤフトピに掲載していました。すると、案の定、「もし本当に小室さんと結婚するのなら持参金辞退は当然と思う」「男を見る目がない」「眞子さんには公務などして欲しくないです。見るのも嫌です」「今の状況で、よく人の前に出て来れるなと思います」「みどりの式典の関係者はこの人が来てくれて喜んだの?」などと“不敬な”書き込みが殺到したのでした。

バズることを狙ったYahoo!ニュースにしてみれば、してやったりという感じなのかもしれません。

Yahoo!ニュース
眞子さま、みどりの式典に 秋篠宮ご夫妻から引き継ぐ

以前、週刊誌に、佳子さんが御所近くのコンビニで、iTunesカードなどを買物したという記事が出ていましたが、皇族と言えども彼女たちが今どきの若い女性であることには変わりがないのです。iPhoneで音楽を聴いたり、SNSをチェックしたりしているのでしょう。もしかしたらエゴサーチしているかもしれません。もちろん、記者会見のときのような、あんな喋り方を普段しているわけがないのです。

小室圭さんと眞子さんが横浜でデートした際、帰りの東横線の車内で、お互いのスマホを見せ合いながら「マーちゃんの写真も見せてよ」「ブスだから嫌だぁ~」というような会話があったという記事がありましたが、それが普通でしょう。

また、佳子さんがダンスを習っていることに対しても、皇族なら他にやることがあるだろうみたいな批判の声が多くありますが、なんだか「税金」「カゴの鳥」」という”不敬”且つ不遜な本音が垣間見えるようです。

しかし、ここまで悪意を持って書かれると、姉妹の間で「もう皇族なんて嫌だ」「なんであんな風に言われなきゃならないの」というような会話が存在しても不思議ではないでしょう。

若い世代になればなるほど、天皇制が時代にそぐわなくなっているのはたしかで、眞子さんや佳子さん本人だけでなく、彼女たちに対する中傷もその表れと見えないこともありません。それは、メディアの世論調査では見えない皇室観です。皇族を見る目が、若い世代ほど(オレたちが税金で‥‥と言わんばかりに)上から目線になっているのです。かように開かれた皇室=象徴天皇制は両刃の剣でもあるのです。だから、保守派は危機感を募らせ戦前回帰を目論むのでしょう。


関連記事:
デヴィ夫人の「提言」
小室さんバッシングのおぞましさ
2019.05.12 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、Yahoo!ニュースに転載されていたデヴィ夫人の「提言」「貧しさは罪悪ではない」には、思わず拍手を送りたくなりました。

Yahoo!ニュース
女性自身
小室圭さん問題にデヴィ夫人が提言「貧しさは罪悪ではない」

デヴィ夫人は言います。

小室さんの母・佳代さんは、ご主人を亡くして母子家庭となっても、洋菓子店などのパートを掛け持ち。圭さんにバイオリンを習わせ、授業料の高いインターナショナルスクールに通わせ、ICU(国際基督教大学)にも入学させました。

そんなけなげな佳代さんを愛して婚約までしたのなら、一人息子である圭さんの留学費用くらい出すのは当然のこと。それなのに匿名で「何月何日にいくら貸した」「何日にいくら銀行に振り込んだ」と409万円の内訳を喋りまくるX氏には、憤りを覚えました。(略)

マスコミはそんなX氏をとがめるどころか、言い分をそのまま連日のように報道する一方で、母子家庭である小室家の貧困さを書き立てました。婚約解消時ではなく、5年後の小室さんの婚約発表後に表沙汰にするとは悪意を感じます。


佳代さんのご主人とその父が自殺している、怪しげな新興宗教を信仰している、などとセンセーショナルに取り上げられましたが、はたしてそれらは責められるべきことでしょうか?


こういった正論が正論として通用しないのは、メディアや大衆に、身分制の幻影を求めるような特異な皇室観があるからでしょう。言うまでもなく、それは差別と対になったものです。

前の記事で紹介した『感情天皇論』の中で、大塚英志は、近代について、次のように書いていました。

近代とは他人に覗き込むことのできない「心」があることを発見してしまった時代である。だから他者としての殺人者の動機、つまり「心」を説明する探偵小説が近代小説の先駆けとして登場するのだ。このように近代とは、誰かといることの不穏に、誰もが耐えなくてはいけない時代だ。この不穏さが「他者」だと言える。


しかし、天皇には「他者」がいません。大塚英志ならずとも、そこには「近代」が存在しないことは誰が見てもあきらかでしょう。

代替わりについて、メディアで発言していた識者たちも、ただの藩屏でしかないことがよくわかりました。日本政治思想史の研究者で、「近現代の天皇・皇室・神道の研究を専門とする」原武史氏の朝日新聞のインタビュー記事も例外ではありません。本人はそう思ってないようですが、私たちの目には“令和フィーバー”の太鼓持ちのひとりにしか見えませんでした。

朝日新聞デジタル
「ひざまずいた天皇、令和で鍵握るのは?」 原武史教授

そんな中で、4月30日に放送されたNHKスペシャル「日本人と天皇」が、天皇制の「不都合な真実」を伝えていたと評判になっています。私も観ましたが、代替わりに際して天皇制とは何かを考えさせられる番組でした。

Yahoo!ニュース
改元特番でNHKだけが伝えた”不都合な真実”(水島宏明)

小泉内閣のとき、皇室典範に関する有識者会議が発足し、「女性・女系天皇」を容認するかどうか、議論をはじめたのですが、その中で、意外な(というか私たちにはショッキングな)事実がわかったそうです。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち、約半分が「側室」(第2夫人、第3夫人など)の子と見られているという。戦後は「側室」という制度はない。過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇、125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで、側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持は難しいという声が多くの委員が認識したという。


「高貴な血」は、こうして継承されていたのです。古代オリエント史の研究者で、「碩学」と言われた三笠宮崇仁親王(昭和天皇の末弟)は、戦後、華族制度が廃止されたことについて、「天皇制の外堀が埋められた」と言ったそうですが、それは華族制度が男子皇族の正室だけでなく、側室の"供給元"と見なされていたからではないでしょうか。万世一系の幻想に支えられた天皇制が、時代と乖離していくのは当然と言えば当然なのです。

以前、「オウムは生きている」という記事の中で、皇室の「伝統」について、私は次のように書きました。僭越ながら引用します。

『天皇と儒教思想』(小島敦著・光文社新書)によれば、メディアによく取り上げられる「田植え」や「養蚕」など皇室の恒例行事も、明治以後にはじまったものが多いそうです。来年、天皇の生前退位により新しい元号に変わりますが、「一世一元」の原則も明治以後にはじまったのだとか。皇室の宗教も、奈良時代から江戸時代までは仏教だったそうです。皇室=神道という「伝統」も、明治以後に創られたイメージなのです。また、皇室に伝わる祭祀などは、中国の儒教思想から借用された「儒式借用」のものが多いそうです。

要するに、明治維新による近代国家(国民国家)の成立に際して、国民統合のために、皇室を中心とする「日本の伝統」が必要とされたのでしょう。そうやって(偽史運動によって)”国民意識”が創出され、”日本”という「想像の共同体」が仮構されたのです。(引用終わり)

「女性・女系天皇」の容認も、創られた「伝統」にさらに屋上屋を架すようなものでしょう。しかし、そのように指摘する識者は皆無でした。そして、眞子さんの”自由恋愛”こそ、創られた「伝統」の対極にあるものと言えるのです。


関連記事:
オウムは生きている
2019.05.02 Thu l 社会・メディア l top ▲
感情天皇論


天皇の代替わりに伴い、あと四日で元号が「平成」から「令和」に変わりますが、最近は西暦を使用することが定着していますので、個人的には「昭和」から「平成」に変わるときほどの感慨はありません。先日、ラジオを聴いていたら、パーソナリティの女性が「もう平成も残り少なくなりましたので、平成のうちに会いたい人に会いに行きたいと思っています」と言っていましたが、かように改元にまつわるメディアの狂騒はバカバカしいの一語に尽きます。

今回の生前退位について、大塚英志は、最新刊『感情天皇論』(ちくま新書)で、次のように書いていました(以下、引用は全て同書)。

(略)今回の退位に最も問題があったとぼくが考えるのは、「国民の総意」でこれからも天皇を退位させられる前例ができたことだ。今や左派がリベラルな天皇を以て政権の暴挙を牽制しようとしているが、こういう二重権力は、パブリックなものの形成を損なうだけでなく、世論の形を借りて政権の気に入らない天皇を退位させることを可能にする。権力の暴走阻止は三権分立の仕組みと選挙によってのみなされるべきである。天皇という三権の外側に権力の抑止機能を求めてはいけない。
「お気持ち」を世論が忖度しての退位は、天皇の最悪の政権利用の余地をつくってしまった。


また、「お気持ち」についても、次のように書いていました。

 彼の訴えたかったことは、象徴天皇制のあり方の表明とその制度化であった。つまり国事行為以外に「感情労働」が象徴天皇の「機能」であり、そして、その「機能」を高齢となった自分が果たせないなら「機能」の継続性を担保するために、退位を制度化してほしいという、「象徴天皇制の継続性を担保する制度化」が彼の主張だった。


とどのつまりは、「感情による国民統合」(=象徴天皇制)をどう考えるかでしょう。自民党の憲法改正草案が目指す、戦前型の元首化よりまだ「マシ」と考えるのか。

大塚英志も『感情天皇論』の中で指摘していましたが、リテラなどに代表される多くの左派リベラルは「マシ」と考えているようです。彼らは、戦後的価値を保守する現天皇と戦後レジームからの脱却を目論む安倍政権が対立しているかのように主張します。しかし、その”片恋”にどれほどの意味があるというのでしょうか。

 リベラル派はかつて戦争責任を昭和天皇に求めたことを忘れたかのように、今は明仁天皇を戦後憲法的な平和主義の象徴と見なす。しかし、戦後民主主義を天皇に託すことが正しいとはぼくには思えない。(略)戦後憲法について考え、実践し、考えを示すことを天皇に託してしまうことは主権者としての判断停止であると考える。


これは、至極真っ当な意見です。

大塚英志は、「『近代』とは人に等しく『個人たれ』という抑圧としてあり、同時にそのサボタージュの精神史としてある」と書いていましたが、まさに天皇制は、そのサボタージュする装置として存在していると言えるでしょう。

また、いわゆる「不敬文学」なるものが、天皇をはじめとする皇室の人間たちを「個人たれ」と描いている(描こうと試みている)というのは、そのとおりでしょう。

一方で、「感情労働」としての象徴天皇制は、「天皇ってカワイイ」と言う女子高生に象徴されるように、アイドルまがいに消費される対象にすらなっており、天皇制を権威付ける神道由来の「神秘性」は後景に退いています。保守派にはそれが天皇制の危機と映っているのかもしれません。自民党の元首案も、そういった危機意識の表れなのかもしれません。でも、見方によっては、「天皇ってカワイイ」というのは象徴天皇制の”あるべき姿”と言えないこともないのです。

戦争責任という側面でしか天皇制を捉えてこなかった左派リベラルが、戦争犠牲者を慰霊し平和を希求する(そういった「感情労働」をみずからの「務め」とする)今の象徴天皇制の前ではただ現状を追認することしかできないのは、当然と言えば当然です。と言うか、今や左派リベラルが象徴天皇制の最大の擁護者になっていると言っても過言ではないでしょう。山本太郎参院議員が2013年に園遊会に出席した際、天皇に原発事故の現状を訴える手紙(上奏文?)を渡した”事件”がありましたが、左派リベラルこそ誰よりも天皇の政治利用を目論んでいると言えなくもないのです。

戦後74年が経ち、天皇制はここまで「倒錯」した存在になっているのです。でも、それが象徴天皇制の本質なのです。大塚英志風に言えば、そうやって「象徴天皇制の継続性」が担保されるのです。

「天皇が国家の象徴などと言う言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だと言う言い分と同じ笑止で理の通らぬたわごとだと言うことになる、と言うより問題にもされなくなる、と僕は信じる」と大塚英志は書いていましたが、それはあまりに楽観的すぎると言わねばなりません。


関連記事:
昭和天皇崩御の日
感情化する社会と意味不明なナショナリズム
オウムは生きている
2019.04.26 Fri l 社会・メディア l top ▲
12日に行われた東大の入学式で、同大名誉教授の上野千鶴子氏が祝辞を述べたそうですが、その全文が朝日新聞デジタルに掲載されていました。

朝日新聞デジタル
東大生と言えない訳 上野千鶴子氏が新入生に伝えたこと

上野氏は、次のように述べていました。

 あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。

 そして、がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日、「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。

 世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと……たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

 あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶(おとし)めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。


既にいろんなところで指摘されていますが、収入格差がそのまま教育格差につながっている現実があります。フェミニストの上野氏は男女差にウエイトを置いて話したようですが、男女差だけでなく貧富の差においても、「報われない社会」になっているのです。

ネットには次のような表がありました。これは、東大生の家庭の世帯年収の割合(2016年)を表にしたものです。

東大生世帯年収
※出典
年収ガイド
東大生の親の年収データ

表について、記事は次のように書いていました。

パーセンテージのみの数値で、具体的な金額が出ていないため確実な数字とは言えませんが、世帯年収で1000万円以上が平均になることは上の表から間違いないでしょう。
(略)
こちら(世帯の平均年収・所得)のデータでは、「児童のいる世帯」の平均所得は約700万円です。
この数字と比べると東大生の平均が約300万円以上も上回っていることがわかります。
以前から言われていることですが、やはり経済力と学力には相関関係があることが見て取れます。


ちなみに、世帯年収が1000万円以上の家庭の割合は、2016年で13.2%です。巷間言われるように、東大生は裕福な家庭の子弟が多いというのは、否定すべくもない事実なのです。

でも、それは意外な話ではありません。東大に行くには、幼少期から多大な教育投資が必要です。経済的に余裕がなければ、その資金も捻出できないのです。

一方で、日本社会も既に階層の固定化がはじまっており、東大生の親たちも高学歴で、大手企業や官庁の管理職が多いというデータもあります。それが「教育熱心」と「経済的な余裕」の背景なのでしょう。

東大生の出身地の割合を見ると、2018年度では関東出身者が59.7%(東京37.5%)を占めています。もっとも、早稲田や慶応はもっと偏っており、同じ2018年度で、早稲田が76.91%(東京37.99%)、慶応が77.0%(同41.22%)です。

東大研究室
合格者の出身地割合
慶大塾
慶應義塾大学 出身地区別志願者・合格者数
早大塾
早稲田大学 出身地区別志願者・合格者数

全国学力テストの結果などを見ると、義務教育時の学力は「地方の方が上」だそうです。しかし、その後の地域環境や教育投資の多寡によって進学先に差がついてしまうのです。

もとより地方では、今は進学も地元志向が主流になっています。それは、子どもを都会の大学に通わせるほど親の経済的な余裕がなくなったからです。

前も書きましたが、私は九州のそれなりの公立高校に通いましたが(私自身も中学を卒業すると親元を離れ、まちの学校に越境入学したのでした)、当時、東京の大学に進んだ同級生は100名以上いました(今でも50~60名の同級生が関東に居住しています)。しかし、現在、母校で東京の大学に進むのは10名もいません。

教育格差は、上の学校に行くかどうかというレベルだけでなく、こういった(目に見えない)部分でも広がっているのです。”上京物語”も今や昔の話なのです。

上野氏によれば、東大生ひとりに対して4年間で500万円の「国費」が投じられているそうです。こうやって教育においても、格差の世代連鎖が進むのです。

この冷酷な(としか言いようのない)現実を考えるとき、「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください」という上野千鶴子氏のことばも、なんだかむなしく響いてくるような気がしないでもありません。


関連記事:
上野千鶴子氏の発言
『女性たちの貧困』
貧すれば鈍す
2019.04.12 Fri l 社会・メディア l top ▲
昨日、フジテレビの番組で、三十九歳でモデルデビューするために北海道から上京してきた女性のドキュメンタリーをやっていました。

そのなかで、女性が中国のファッション雑誌の専属モデルのオーディションを受けるシーンがありました。オーディションには全国から四千七百人の応募があったそうです。五次審査まであり、女性は三次審査で落ちたのですが、驚いたのは、一次と二次の審査を日本人スタッフが請け負ってやっていたことです(三次審査は中国の審査員も加わり日中合同でやっていた)。

テレビのワイドショーなどでは、相も変わらずデーブ・スペクターの会社などが提供する、中国が如何に野蛮で遅れた国かというような動画を流して優越感に浸っていますが、今や雑誌のモデル募集でも中国が日本に依頼し、日本が下請けになっている現実があるのです。もちろん、モデルやタレントを志す人間にとっても、巨大な中国市場は魅力でしょう。さらにその背後には、汎アジアの市場も控えているのです。

中国は野蛮な遅れた国であると自演乙している間に、既に中国は日本を飲み込むほどの大国になっていたのです。

HUAWEIの問題も、5G (次世代通信システム)をめぐるアメリカと中国の覇権争いが背景にあるのはあきらかで、日本政府の口真似でHUAWEIはヤバいなどと言っているのは、それこそトンチンカンの極みと言うべきでしょう。5Gが巷間言われているように、世界を制するような圧倒的なイノベーションを持つものかどうか、私にはわかりませんが、この米中対立が意味しているのは、世界の覇権を裏付けるものが軍事力から情報技術に代わったということでしょう。ここにもアメリカが超大国の座から転落する(そして、世界が多極化する)あらたな歴史の流れが表れているように思います。

千代田区で不動産関係の仕事をしている知人の話では、番町あたりの高級マンションの三分の一は中国人に買われているそうです。なかでも、最上階や角部屋などの高い部屋は、ほとんど中国人に買い占められていると言っていました。

中国人観光客のマナーが悪いのは事実ですが、ただ、彼らが既に私たちより豊かな生活をしているのもまた事実なのです。でも、多くの日本人はそれを認めようとしません。認めたくないのでしょう。中国は野蛮で遅れた国だと自演乙することで、現実から目を反らしているだけです。

もちろん、中国にも深刻な格差があるのは言うまでもありません。しかし、先進国で最悪の格差社会を招来し、生活保護の基準以下で生活する国民が二千万人もいるような国が、よその国の格差を云々する資格があるのかと思います。生活保護の捕捉率が10%台というのは、OECD加盟国のなかでも際立って低い数字で、日本は社会保障後進国なのです。

中国だけではありません。キャッチアップしたアジアの国々には、(格差という影を背負いながら)既に膨大な中間層が誕生しているのです。

地方の観光地では、そんなアジアからの観光客に依存する傾向がますます強くなっています。「アジアの観光客はマナーが悪くて迷惑だ」と言いながら、心のなかでは揉み手しながら彼らを熱烈歓迎しているのです。

地元の別府市観光課が発表した平成二十九年度の観光動態調査によれば、別府を訪れる外国人観光客の80%以上はアジアからの観光客です。

外国人観光客のベスト10(平成二十九年度)
1 韓国 55.2%(329680人)
2 台湾 15.0%(89664人)
3 香港 10.55%(62598人)
4 中国 8.4%(50447人)
5 タイ3.1%(18778人)
6 シンガポール1.3%(7707人)
7 アメリカ 0.9%(5129人)
8 フランス 0.5%(2696人)
9 オーストラリア 0.4%(2375人)
10 マレーシア 0.4%(2310人)
平成二十九年度別府市観光動態調査要覧に基づいて編集

韓国からの観光客が多いのは、大分とソウルの間に、韓国の格安航空が就航しているからですが(だから若い観光客が多い)、これを見ると、「YOUは何しに日本へ?」の主役である欧米からの観光客は数パーセントにすぎないことがわかります。ちなみに、日本全体でも、アジアからの観光客が70%以上を占め、欧米からの観光客は10%程度です。

一方で、中国などの富裕層は、既に日本に興味を失くしているという話もあります。中国の都市部に住んでいる人たちは、上海や北京などの発展ぶりを知っているので、東京が逆に色あせて見えるのだとか。

今、日本を訪れているのは、経済発展で新しく中間層になった人々ですが(だからマナーが悪いのでしょう)、彼らも、やがて日本に対する興味を失っていく懸念はあるでしょう。日本の観光地は、外国のそれに比べればスケールも小さくショボいところばかりです。それに、なにより”日本的”なるものが、実は中国大陸や朝鮮半島にルーツがあることを彼らがいちばんよく知っているからです。一巡すれば、爆買いの例が示すように、訪日客が下降線を辿りはじめる可能性もないとは言えないでしょう。

今や日本は「買われる国」なのです。テレビ東京の「ニッポン行きたい人応援団」が吹聴するような「あこがれの国」ではありません。中国や韓国の男たちの間では、日本行きの”買春ツアー”が密かなブームだそうです。吉原のソープも、外国人観光客で持っているという話さえあるくらいです(別府のソープもそう言われています)。

秋葉原を訪れる外国人観光客のなかには、欧米に比べて規制が緩い児童ポルノが目当ての人間も多いというのは前から指摘されていました。アイドルやアニメも、ペドフィリア(小児性愛)の対象として見られているのです。それが「クールジャパン」の実態なのです。「YOUは何しに日本へ?」は、そんなペドファイル(小児性愛者)やその予備軍をオモロイ「おたくYOU」として取り上げているのです。

そのうち歌舞伎町のホストクラブも、アジアの国々の有閑マダムたちに占領されるかもしれません。実際に、派遣型風俗店のなかには、外国人観光客に特化した店もあるそうです。なんだかひと昔前の”妓生(キーセン)観光”のようですが、それが訪日客増加のもうひとつの顔でもあるのです。

先日、「東京の二十代の女性に梅毒が急増」というニュースがありましたが、どうして東京だけがと不思議に思いました。ところが、その多くが風俗で働く(それこそ外国人観光客に買われる)女性たちなのだという話を聞いて、さもありなんと思いました。それも訪日客増加の副産物と言えるのかもしれません。

何度もくり返しますが、アメリカが超大国の座から転落して、世界が多極化するのは間違いないのです。トランプ政権の外交政策などを見ても、その流れが一層鮮明になっています。そして、中国がアジアの盟主になるのも避けられない流れです。しかし、ここに至ってもなお、多くの日本人はその現実を見ようとしません。そこには、「日本は侵略などしていない」「南京大虐殺は幻だ」「従軍慰安婦なんて存在しない」などという、”過去の栄光”にすがる歪んだ歴史観が伏在しているからでしょう。現実を直視できなくて、どうして対抗したり競争したりできるでしょうか。これでは、日本が世界に誇るのが百均の商品と児童ポルノとセックス産業だけということにもなりかねないでしょう。


関連記事:
「安くておいしい国」日本
「中間層ビッグバン」
2019.03.11 Mon l 社会・メディア l top ▲
少し前の話ですが、安倍首相が二月十日の自民党大会で、「悪夢のような民主党政権」と発言したことについて、民主党政権時代に副総理や外相などを務めた岡田克也氏(元民主党・元民進党代表)が、衆院予算委の質疑で、発言を撤回するよう求め、撤回を拒否する安倍首相との間で感情的な応酬が行われたと話題になりました。ちなみに、私も、安倍首相とは別の意味で、民主党政権は悪夢だったと思っている人間のひとりです。

安倍首相は、岡田氏の撤回要求に「では、なぜ、民主党という名前を変えたんですか」と“反論”したそうですが、痛いところを突いたと言えるでしょう。名前を変えても中身(顔触れ)は変わらないのです。

政権交代への期待と裏切り。それを考えれば、厚顔無恥ということばしか思い浮かびません。立憲民主党の枝野代表の「政権奪還」宣言なんて、誇大妄想もいいところでしょう。有権者を舐めんなよと言いたくなります。

シャンタル・ムフは、『左派ポピュリズムのために』で、つぎのように書いていました。

政治の対抗モデルと左 ‐ 右の対立を時代遅れだと主張し、中道右派と中道左派の「中道での合意」を歓迎することで、いわゆる「ラジカルな中道」は専門家(引用者:“テクノクラシー”とルビ)支配による政治形態を進めることになった。この考え方によれば、政治とは党派対立ではなく、公共の事柄を中立的にマネジメントすることとされたのだ。
(『左派ポピュリズムのために』)


シャンタル・ムフは、これを「ポスト政治的状況」と呼んでいます。

 結果として、市民がそれを通じて政治決定に影響を与える議会や諸機関の役割は劇的に後退してしまった。選挙はもはや、伝統的な「統治を担う諸政党」を通して、真の代替案(引用者:”オルタナティヴ”とルビ)を選択する機会にはなりえない。ポスト政治的な状況においては、中道右派政党と中道左派政党の二大政党的な政権交代しか起こらない。「中道での合意」や新自由主義的なグローバル化以外に選択肢はないという教義に反対する者はすべて、「過激主義者」と表現するか「ポピュリスト」であるとして、政治にかかわるべきではないとされたのだ。
(同上)


『左派ポピュリズムのために』の帯にある「少数支配(オリガーキー)」とは、こういうことです。

「野党が政権を取ってもなにも変わらない」という巷の声は真実を突いているのです。事実、民主党が政権を取ってもなにも変わりませんでした。自民党政権と五十歩百歩でした。政権交代が可能な二大政党制の導入を旗印に、労働戦線の右翼的再編と軌を一にして誕生した民主党は、文字通りシャンタル・ムフが言う「ポスト政治的状況」を招来する役割を担っていたのです。それが、私にとって、民主党政権が悪夢であった所以です。

シャンタル・ムフは、党派性は政治の本質であり、そのことを再肯定する必要があると言っていました。党派性を否定する政治は、政治ではなく、「少数支配」を前提とした「マネジメント」にすぎないのです。


関連記事:
日本で待ち望まれる急進左派の運動
2019.02.26 Tue l 社会・メディア l top ▲
千葉県野田市の10歳の女児が父親から虐待を受けて死亡した事件では、母親の両親から家庭内暴力の相談を受けていたにもかかわらず、女児から聴取することもなく「虐待はない」と判断して事態を放置した糸満市の教育委員会や、父親の暴力を具体的に記述し「先生、どうにかなりませんか」と訴えた女児のアンケート用紙をあろうことか父親に渡した野田市の教育委員会や、父親に強制的に書かされた女児の書面が嘘だとわかっていながら、それを根拠に一時保護を解除して家に戻す判断をした柏市の児童相談所など、またしても行政のずさんな対応が問題になっています。

こういった事ずさんな対応は、子どもの虐待やいじめによる自殺が起きるたびにくり返し指摘されていたことです。ずさんな対応の背景に、児童相談所の人員不足や行政の縦割り意識があるという識者の意見も、いつものことです。そもそも人が足りないというのは、なにか問題が起きると決まって出てくる役所の常套句です。しかし、そんなことを百万遍くり返しても、虐待事件はなくならないでしょうし、学校や教育委員会や児童相談所のずさんな対応もなくならないでしょう。

たしかに、公権力が個人のプライバシーに介入することのむずかしさはあるでしょう。しかし、結果として子どもの命が奪われたのです。どうして関係機関が機能しないのか、どうして同じことがくり返されるのか、ということをもっと真面目に且つ深刻に考える必要があるでしょう。でも、メディアや識者には、そういった姿勢は皆無です。

メディアや識者の意見には、根本的に欠けているものがあるように思います。それは、公務員の仕事に対する当事者意識の欠如です。当事者意識の欠如は、公務員特有の事なかれ主義によるものです。こういった事件が起きても、肝心な公務員たちはまったく他人事にしかとらえてないのではないか。また、担当した職員たちに対しては、「運が悪かった」「気の毒だ」というような見方しかしてないのではないか。

仕事などを通して公務員の生態を熟知している人たちから見れば、メディアの論調や識者の意見は、ただの気休めにしか思えないでしょう。メディアの論調や識者の意見もまた、公務員と同じ事なかれ主義にしか見えません。

母親も虐待に加担したとして逮捕されましたが、その論法に従えば、女児をさらに窮地に追いやることがわかっていながら、アンケート用紙を渡したり、自宅に帰したりした担当職員も、虐待に加担したと言えなくもないでしょう。

にもかかわらず、記者会見では「今後の課題としなければと思っています」などととぼけたことを言うのでした。ひとりの子どもの命が失われたことに対する痛惜の念など微塵もないかのようです。ただ責任逃れに終始するばかりで、外の人間から見れば信じられない光景です。

一方で、生活保護の申請に来た人間に対しては、小田原市の例が示すように、公務員たちは居丈高な態度で門前払いするのが常です。そのくせ、強面の人間だと途端に弱気になり、ホイホイと申請を通してしまうのです。(極端な例ですが)ベンツに乗りながら生活保護を受けているというような話がときどきやり玉にあがりますが、それは単に窓口で断り切れなかっただけなのです。今回の女児の父親に対する対応と同じです。

税金にしても、取りやすいところから取るというのが”鉄則”だと言われますが、たしかに、私たちには強気な税務署が、ヤクザの事務所に税務調査に入ったなんて話は聞いたことがありません。

メディアや識者が言うように、児童相談所の人員を増やせば、今回のような無責任な対応がホントになくなるのでしょうか。そういった対策案は、(木を見て森を見ないではなく)”木を見ないで森ばかり見る”トンチンカンな議論と言わねばなりません。と言うか、問題の本質を隠蔽する役割さえ果たしていると言えるでしょう。

制度や組織の前に、まず公務員の仕事に対する意識そのものがきびしく問われるべきでしょう。未だに公務員=自治体労働者=自治労=プロレタリアートという噴飯ものの幻想にとらわれているのか、左派リベラルは、ここでも人員不足が原因だみたいな“焼け太り論”に与するのが関の山で、”公務員批判”すらできないのです。

左派リベラルに言わせれば、”公務員批判”は魔女狩りなのだそうです。”公務員批判”を日本維新の会のような安手のファシストに渡し、教条主義的なおためごかしの論理で現実をごまかすことしかできない左派リベラルのテイタラクが、ここでも露呈されているのです。

彼らは、役所は金儲けをするところではない、役所にコスト云々を言うのはお門違いだと言います。でも、公務員にコスト意識がないことが税金の無駄使いにつながっているのは誰が見てもあきらかでしょう。

公務員は、職務上の瑕疵は原則として問われないことになっています。つまり、責任は負わないようになっているのです。国家賠償法では、責任を負うのはあくまで国や地方公共団体です。だから、民間のように業務上過失〇〇という刑事罰は適用されないのです。それが公務員の事なかれ主義、無責任な対応を生む要因になっているように思えてなりません。

児童相談所の人員を増やしても、彼らの当事者能力のなさが解消されることはないでしょう。これからも同じような事件が起きる懸念は拭えません。

テレビのワイドショーでは、ゲストで呼ばれた児童相談所のOBが事件の背景や対応の仕方などを解説していましたが、スポーツ中継じゃないんだから「身内」に解説させてどうするんだと思いました。

そもそもDVというメンヘラに起因する行為に対して、教育委員会や児童相談所が対応すること自体、場違いな気さえします。教育委員会や児童相談所には、DVがメンヘラに起因するという認識さえないのです。記者会見の質疑応答で、担当者が無能に見えるのもゆえなきことではないのです。DVのノウハウを持っているNPO法人などに「民間委託」するほうがまだしも現実的な気がしてなりません。と、公務員の問題を考えると、やはり、ネオリベの誘惑を抑えることはできないのでした。


関連記事:
公務員の思い上がった意識
『ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件』
『ファミリー・シークレット』
2019.02.06 Wed l 社会・メディア l top ▲
小室さん母子がメディアやネットから叩かれているのを見るにつけ、私は違和感を抱かざるを得ません。これこそ「ネットとマスメディアの共振」(藤代裕之氏)で生み出される“私刑”の構造と言えるでしょう。

男女間の問題には、第三者が伺い知れないデリケートなものがあるのは言うまでないことです。ときにお金が絡むことだってあるでしょう。関係が順調なときは「いいよ。いいよ」と言いながら、関係が冷えると「あのときのお金を返せ」と言い出し、トラブルになるのもめずらしい話ではありません。そこからストカーに豹変するケースもあるでしょう。と言うか、「お金を返せ」と言うこと自体、もはやストーカーの心理と言えないこともありません。

借用書が存在しない限り、譲渡と見做されるのは素人でもわかる話です。元交際相手の男性が弁護士に相談したら、「あきらめるしかない」と言われたのは当然です。そういった世間の常識もどこかに吹っ飛んでいるのです。

私は小室さん一家と最寄り駅が同じで(一度駅で小室さんを見かけたことがあります)、小室さんが通っていた幼稚園はすぐ近所ですし、小室さんが学生時代にアルバイトをしていたレストランにも食べに行ったことがあります。もちろん、小室さん一家が住んでいるマンションも知っています。でも、男性のことを聞いても誰も知らないと言います。どういう人物なのか知りたかったのですが、噂にも上らないみたいです。

男性は、法的には不利なためか、フリーライターだかが代理人に就いて、メディアを利用する戦略に切り替えたようで、最近は積極的にインタビューに答えています。しかし、小室さん母子が立場上表だって反論できないことをいいことに、自分に都合のいい情報だけを発信している感は否めません。

別れたあとになって「あのときのお金を返せ」と言うのは、古い言い方をすれば「男の風上にもおけない」のです。右派のマッチョイズムから言っても、むしろ交際相手の男性の方こそ非難されても仕方ないのです。

ところが、なぜかメディアも大衆も、ストカーまがいの男性を被害者に仕立てて、批判の矛先をもっぱら小室さん母子に向けるばかりです。

眞子さんは結婚すれば皇室を離れ「民間人」になるのです。彼女は、今どきの女の子と同じように(皇族のなかでは初めてと言っていい)自由な恋愛を実践したのです。でも、メディアや大衆はそれが気に入らないのでしょう。「品格」なることばを使うのは、皇族をいつまでも(不自由な)カゴのなかに閉じ込めておこうという魂胆さえ感じてなりません。茶道の家元や神社の神官や殿様の末裔や公務員なら「品格」があるとでも言うのでしょうか。「品格」なるものの前には、恋愛の自由も許されないかの如くです。そもそも罪多き人生を送る私たちが、他人(ひと)様の結婚に対して、「品格」なんてことばを使う資格などあるのでしょうか。

小室さんバッシングの裏には、大衆の妬みや嫉みが伏在しているように思えてなりません。そこにあるのは、皇族の恋愛をきっかけに露呈した大衆の負の感情です。生活保護叩きなどと構造は同じです。メディアはネットに同調することで、大衆の心の奥底に潜む負の感情に火を点けたとも言えるのです。

今の状況のまま結婚に至るにはまだ難しい気もしますが、一方で小室さんが開き直っているように見えるのも、眞子さんの小室さんに対する気持が変わらないからでしょう。しかし、大衆はそのようには考えません。小室さん母子は皇室を利用しようとしているなどと陰険で底意地の悪い見方しか持てないのです。なんだかおぞましささえ覚えますが、もとより私たちの(市民としての)日常性は、そういったおぞましさによって仮構されているのだということをゆめゆめ忘れてはならないでしょう。


関連記事:
勝間カミングアウトと日大悪質タックルとジャーナリズムのあり方
私刑の夏
2019.01.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日(1/2)の朝日新聞デジタルに、大塚英志のインタービュー記事・「感情が政権と一体化、近代に失敗しすぎた日本」が掲載されていました。今の私たちが置かれた社会の状況を考える上で、とても示唆に富んだ記事でした。(デジタル記事の場合、時間が経過すると削除されますので、可能な限り引用して紹介します)

朝日新聞デジタル
感情が政権と一体化、近代に失敗しすぎた日本 大塚英志

私は、つぎのような発言に目がとまりました。

 「例えば右派の人たちが大好きな『日本』にしたって、きっともう少し日本の『中身』でつながりようがあるわけですよ。『好き』以外の感情を許さない、感情化された『日本』っていうのか、内実はそれこそ戦時下の劣化版みたいな『日本』でしかない。中身がないから『反日』『親日』のように、隣の国の否定や、反日というファクターを作ることによってしか『日本』を定義できない。あと外国人に『ここがスゴイ』と言ってもらうとか。快・不快で『日本』がかろうじて輪郭を結ぶわけです」


 「だから、今の『保守』の人たちが言う『日本』がぼくには本当にわからないんですよ。種子法が廃止され、『移民』法、水道の民営化が国会を通過し、北方領土は2島返還でいいという空気になっている。ネトウヨはTPPも多くは推進派だった。普通、『米』『水』とか『領土』とか、ぼくは同意できないけど、『反移民』とかは『右』が命かけて守るものでしょう。それが全部、ないがしろにされて、大丈夫なのかなって、左派の方が心配しているくらいでしょう。少なくとも今回は、国会の前を安保法制の時のリベラルのように右翼たちが大挙して囲んでいなくちゃいけない状況だった気がします。でも、そうならないのは、それは多分、安倍政権は、安倍さんと日本と支持者の自我がきれいに重なって一体化している、つまり、感情的共感に支えられた感情化した政権だからでしょう」


こういった中身のない「感情化」(ただ感情のみで共感を求める傾向)は、記事でも触れていますが、とりわけネットにおいて顕著です。

私は、仕事の関係でInstagramを日常的にチェックしていますが、たとえば趣味をテーマにしたインスタなどでは、理解に苦しむような多くの「いいね!」が付いている記事をよく見かけます。

ひとりよがりの雑な写真や個人的な日常を綴った絵日記のようなものに対して、信じられない数の「いいね!」が付けられているのです。どうして人気があるんだろうといくら考えても理解できません。でも、インスタの場合、従来の感覚で理解しようとすること自体、間違っているのかもしれません。「いいね!」は評価ではないのです。

そこにあるのは「空気」です。私は、以前、仕事で知り合った若い女性たちの誘いに乗ってLINEのグループに入り、僅か一週間で「村八分」に遭った苦い経験があるのですが、そのとき感じたのも、グループを支配する「空気」や暗黙のルールでした。私はそれを読むことができなかったのでした。

インスタも同じで、判断停止して「いいね!」を押しているだけなのでしょう。そうやってお互いに「いいね!」を押し合っているのでしょう。

フォローにしても然りで、画像をアップすると瞬間的にフォロワーが増えますが、一日経つとまたもとに戻るのでした。要するに、フォローされたら同じようにフォローを返さなければならないのです。返さないと、フォローが取り消されるのです。中身なんて二の次なのです。そうやってフォロワーを増やすことだけが目的になっているのです。

私などは、バカバカしいとしか思えませんが、それが今様の(ネットの)「つながり」なのです。ネットの時代の若者にとっては、そんな人間関係のほうがむしろリアルなのでしょう。そして、自分が認められたような気になっているのでしょう。「ひとりじゃない」と本気で思っているのかもしれません。

でも、「空気」を読むことは反面とても疲れることです。LINEグループの経験から言えば、本音を言えないストレスもあるでしょう。心にもないお追従のようなコメントばかり書くことに嫌気がさすこともあるでしょう。「SNSに疲れた」という声が出るのもわからないでもありません。

中身のない浅薄な関係は、国家に対しても同様です。大塚英志が言うように、今のナショナリズムのなんといい加減なことでしょう。そこには「主義」と呼べるような論理的な一貫性などありません。思想としての誠実さも皆無です。ただ、グローバル資本主義に拝跪する安倍政権に、盲目的に「いいね!」を押しているだけです。

これではこの国がグローバル資本主義に無力なのは当然でしょう。この国には、SNS的な感情に同化するだけの意味不明なナショナリズムしかないのです。誤解を怖れずに言えば、「日本」が不在なのです。だから、百田某のように、ネットからコピペした「日本」を捏造するしかないのでしょう。

大塚英志も、記事の最後でつぎのように言っていました。

 「中国や北朝鮮が攻めてくる的イメージがずっと繰り返されてきましたが、『攻めてくる』のは、無国籍なグローバルな経済の波です。その意味での『見えない戦争』はとっくに始まっていて、もう負けていますね。さっき言ったように『移民』法は成立、水、固有種の種子といった、いわば国家の基本をなすようものはどんどん外資に譲り渡す流れになっている。日本の中で『勝っている』人は確かにいるけれど、それはグローバルな経済の方に飛び乗った人たちで、私たちの大半はもう『負けて』いる。だからここにあるのは、もう焼け野原なのかもしれない。でも、かつての『戦後』はこの国が『近代』をやり直すチャンスだったわけで、もう一回、『近代』及び『戦後』をやってみるしかないでしょう」


大塚英志が言うように、私たちは既に焼け野原に立っているのかもしれません。格差社会の過酷な現実も、どう考えても焼け野原の風景にしか見えません。薄っぺらな「愛国」も、グローバル資本主義に無条件降伏するための方便のようにしか思えません。


関連記事:
『メディアミックス化する日本』
『物語消費論改』
『愚民社会』
2019.01.02 Wed l 社会・メディア l top ▲
昨日、テレビ東京の「家、ついて行ってイイですか」という番組を観ていたら、都内の風呂無しトイレ共同の古い木造アパートで、ひとり暮らしをする65歳の男性が出ていました。東京出身だそうですが、30代の頃、両親が相次いで病死し、一人っ子だったので天涯孤独で、現在は清掃の仕事をして糊口を凌いでいると言ってました。今のアパートも30年以上住んでいるのだとか。

若い頃は会社勤めをしていたけど、「サラリーマンには向いてない」「自由に生きたい」と思ったので、両親が亡くなったあと、会社を辞め、以後日雇いの仕事をしていたそうです。ただ、年金が少ないので、身体が丈夫な間は働かなければならないと言ってました。

テレビの男性より下の世代ですが、私の知り合いにも似たような生活をしている人間が何人もいます。彼らは、フリーターの第一世代です。学校を出てほぼ大半をフリーターとして生きているのです。そんな彼らも、既に50代の半ばに差し掛かっているのです。親の年金に寄生している中高年ニートが100万人近くいるという話もありますが、それとは別に稼働年齢の終わりに近づきつつある中高年フリーターの問題も深刻なのです。

『新・日本の階級社会』の著者・橋本健二氏によれば、65歳以上の「高齢アンダークラス」の年金の平均受給額は96万円だそうです。

(略)高齢アンダークラス男性の現状は、現在の若年・中年アンダークラス男性が将来どのような生活を送ることになるかについて、示唆するところが多い。年金収入は九六万円だから、基礎年金を満額受け取った場合に比べて二〇万円ほど多いだけである。(略)しかし逆からみれば、基礎年金すら受け取ることができるかどうかわらかない現在の若年・中年アンダークラスに比べれば、わずかとはいえ恵まれているだろう。その意味ではこれらの高齢アンダークラスは、若年・中年アンダークラスの将来の生活の、いわば「上限」を示しているとみていいだろう。

『アンダークラス—新たな下層階級の出現』(ちくま新書)

 
一方で、中高年フリーターがブラック企業のカモにされているという現実もあります。ブラック企業がはびこるのも、膨大なフリーターの労働市場があるからです。しかも、中高年になると、同じブラック企業でも、清掃や警備や配送など仕事も限られるのです。今後外国人労働者が入ってくると、こういった仕事も若い外国人に奪われるでしょう。

中高年フリーターに対して、まわりからは「自由がいいからだよ」「縛られたくないんだよ」というような見方をされ、本人たちも、「家、ついて行ってイイですか」の男性のように、「自由に生きたかった」というような言い方をするのが常です。でも、自由どころか、老いてもなお生活に追われ、いつまでも働きつづけなければならないきびしい現実が待っているのです。

上記の『アンダークラス—新たな下層階級の出現』のなかで、橋本氏もつぎのように書いていました。

NPOを拠点にソーシャルワーカーとして活動する藤田孝典氏は、「生活保護基準相当で暮らす高齢者及びその恐れがある高齢者」を「下流老人」と呼び、その数は推定で六〇〇~七〇〇万人に上がると指摘している。そしてこれらの高齢者は、年金受給額の減少、介護保険料の増加、生活費高騰のため、生きるために働き続けなければならない状況に置かれており、このように日本は「死ぬまで働き続けなければ生きられない社会」になりつつあるのではないか、という(『下流老人』『続・下流老人』)。これら高齢アンダークラス男性は、こうした日本を象徴する存在だということができる。


総務省統計局が2014年の労働力調査に基づいて発表した年代別非正規雇用の割合を見ると、65歳以上がいちばん多くて73.1%、つぎが15~24歳で48.6%、三番目が55~64歳の48.3%、四番目が45~55歳の32.7%です。

総務省統計局
最近の正規・非正規の特徴

55~64歳のなかには、リストラなどで職を奪われ、非正規を余儀なくされた人たちも多くいるのでしょう。そういった人たちも問題ですが、いちばんの問題は、そのあとの45~55歳の32.7%という数字です。45~55歳のなかには、間違いなくフリーターの第一世代がマスとして含まれているからです。年金に未加入の人間も多いはずです。もちろん、そのあとも第二第三とフリーターの世代がつづくのです。

彼らに向かって、「自業自得」「自己責任」ということばを投げつけるのは簡単ですが、しかし、彼らの存在は、私たちにとっても決して他人事ではないのです。

資本主義社会で生きて行くのは大変です。それは私たちの実感でもあります。日本人の7割は、サラリーマンとして人生を終えると言われますが、しかし、みんなが順調に人生を終えるわけではないのです。サラリーマンということばのイメージとはまったくかけ離れたような人生を送っている人も多いのです。

ネット通販で巨万の富を得た間寛平似の成金社長が、恋人だか愛人だかわからないような若い女優や取り巻きのお笑い芸人と麻布の高級店で食事する、その一回の食事代にも及ばないような年収しかない下級労働者が、この国には1千万人近くもいるのです。

そして、間寛平似の成金社長や彼の部下は、おなじみの「自己責任」論で下級労働者を貶め、女優の肩を抱きながら高笑いを放っているのです。

藤田孝典氏は、下級労働者を見下した彼らのSNSの書き込みに対して、つぎのようにTwitterで怒りを表明していました。


間寛平似の社長らの臆面のない成金自慢を見るにつけ、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を持ち出すまでもなく、資本主義が歯止めもなく倫理的に崩壊しているのをひしひしと感じます。ネット社会やグローバル資本主義が、そういった暴走を招いているのです。彼らにとっては、格差社会もまるで勝利の美酒のツマミのようです。これでは、資本主義社会で生きて行くのが益々大変になっているのも当然でしょう。


関連記事:
『新・日本の階級社会』
秋葉原事件
2018.12.31 Mon l 社会・メディア l top ▲
ローラが、インスタグラムで辺野古の新基地建設工事の中止を求める署名を呼びかけて話題になっています。と言うか、“政治的発言”だとしてメディアやネットで叩かれているのです。そうやってローラをCMから降ろすようにスポンサーに圧力をかけている(かけられている)のです。

松本人志や北野武や坂上忍らの”政治的発言”は不問に付され、どうしてローラだけが問題視されるのか。ローラのそれは政権批判につながるものだからでしょう。松本人志や北野武や坂上忍のような、機を見るに敏なポチのおべんちゃらではないからです。

もっともローラは、今までも環境問題やペットの殺処分に関して積極的に発言していますので、辺野古の工事についても、どちらかと言えば、政治的な理由というより環境問題として、埋め立てに懸念を表明したのかもしれません。

また、現在、拠点をアメリカに置いていますので、こういった発言をすることに躊躇いはなかったのでしょう。ローラも所属事務所と契約問題でもめたことがありますが、むしろ、政治的に色が付かないように、見ざる聞かざる言わざるの三猿であることを強いられる日本の芸能界が特殊なのです。その前提にあるのは、言うまでもなく日本の芸能界にはびこる”奴隷契約”(竹中労)です。

ただ一方で、私は個人的には、新基地建設の中止をアメリカ政府にお願いする署名運動には違和感を抱かざるをえません。原発事故で盛り上がった反原発運動を野田首相(当時)との面会に収れんさせ、ものの見事に運動のエネルギーを雲散霧消させたあの”悪夢”が思い出されてならないのです。そこにあるのは、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみかこ)左派リベラル特有のヘタレで自慰的で敗北主義的な発想です。もとより日米軍事同盟は、それほどヤワなものではないでしょう。

去る12月20日、ロシアのプーチン大統領は、恒例の年末記者会見で、日本との平和条約交渉に関連して、つぎのような考えを示したそうです。

(略)日本との平和条約交渉について、締結後の北方領土への米軍展開を含めロシアの懸念を払拭するのが先決との考えを示し、「日本側の回答なしに重要な決定を行うのは難しい」と述べた。また沖縄県で民意に反し米軍基地の整備が進んでいることを例示し、日米同盟下で日本が主権を主体的に行使できているのか疑問を呈した。

共同通信
ロシア、在日米軍展開懸念払拭を


これほどバカにされた発言はないでしょう。ホントに独立国なのか?と言われているようなものです。これでは、平和条約=北方領土返還なんて絵に描いた餅にすぎないでしょう。

ローラの発言について、『ジャパニズム』(青林堂)の元編集長で元ネトウヨの古谷経衡氏は、つぎのように書いていました。

(略)私はローラさんが、辺野古移設工事反対10万筆署名に賛同の意を示したことの、どこが「左傾」「反日」なのか、まったくもって意味が分からない。

 沖縄の先祖代々の土地を、米軍から取り戻したい。沖縄の先祖代々の土地に、これ以上米国の軍隊の基地を創って欲しくない―。これこそが保守であり、真の愛国者の姿勢では無いのか。

Yahoo!ニュース
ローラさんの辺野古工事阻止10万筆署名賛同こそ、真の保守であり愛国者だ


当たり前すぎるほど当たり前の見方と言えるでしょう。当たり前に見えないのは、戦後の日本が当たり前ではないからです。そして、私は、あらためて「愛国」と「売国」が逆さまになった”戦後の背理”を考えないわけにはいかないのでした。私たちはまず、「愛国」を声高に叫ぶ人間たちこそ疑わなければならないのです。


関連記事:
『永続敗戦論』
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2018.12.28 Fri l 社会・メディア l top ▲
南青山に建設予定の児童相談所の住民説明会における一部住民の反対意見が、テレビのワイドショーの恰好のネタになっています。

実際に建設されるのは、児童相談所を含めた4階建ての複合施設だそうで、港区のホームページの「南青山用地での整備の理由」には、つぎのように記載されていました。

港区公式ホームページ
(仮称)港区子ども家庭総合支援センター(児童相談所他2施設・平成33年4月開設予定)

港区は、児童虐待や非行などの児童に関する問題への対応や一時保護などを行う「児童相談所」、子育て中の人を支援する「子ども家庭支援センター」、様々な事情から養育が困難となった母子家庭が入所する「母子生活支援施設」が一体となった複合施設「(仮称)港区子ども家庭総合支援センター」を整備し、児童虐待、非行、障害など、あらゆる児童の問題に対して、区が主体性と責任を持って、切れ目のない一貫した相談・支援体制を作ってまいります。


これに対して土地のブランドにこだわる一部住民は、「一等地の南青山に児童相談所はふさわしくない」と本音丸出しの反対意見を述べ、物議を醸したのでした。

「南青山は自分でしっかりお金を稼いで住むべき土地。土地の価値を下げないでほしい」
「私の場合は、3人子どもがほしいと思ったので、私立に3人入れるよりは意識の高い公立小学校に入れると決め、億を超える南青山の土地を買い、家を建てた。
(略)
もし(施設の)子どもたちがお金ギリギリで(意識の高い)小学校にいらっしゃるとなったときは、とてもついてこられないし、とても辛い思いをされる。むしろかわいそうではないか」

複合施設に対する誤解もあり、不勉強ゆえにただ感情的に反発している気がしないでもないですが、こういった発言をする背景には、土地やマンションを所有することに資産価値を求め、土地にブランド価値を見出す発想があるからでしょう。私は地方出身者ですが、田舎では家をもつことに資産価値を求めるような発想はありません。なぜなら土地が安く、将来転売して利益を得ようという邪な考えがないからです。

もっとも、こういった発想は、南青山の住民だけでなく、マンションコミュニティーサイトの掲示板などを見ると、都心のマンションではどこにでも存在しています。都心のマンションの住民たちで、南青山の住民が“異様な人々“であるという認識をもっている人は、案外少ないのではないでしょうか。

都心のマンションでは、近所に老人福祉施設や病院ができたり、なかには区の図書館ができるというだけで、「資産価値が下がる」と言って差別的な書き込みが並ぶのが常です。学校も離れていればOKですが、すぐ近所だと迷惑施設になるのです。まして児童虐待やDV被害者の施設ができるなどと言われたら発狂するのは当然でしょう。そこにあるのは”土地神話”という病理です。

ただ、昔から住んでいる地の人間は、事情が異なるようです。私は、親の代から六本木や麻布や神楽坂に住んでいる人間を知っていますが、彼らはバブルの頃、地価がウナギのぼりすることに対していつも溜息を吐いていました。なかには、固定資産税を払うためにパートに出ている奥さんもいました。地の人間たちにとって、資産価値が上がっていいことなんてないのです。資産価値が上がって喜んでいるのは、他所から来た人間たちなのです。

“土地神話”が生まれたのはバブル以降ですが、しかし今また、異次元の金融緩和(量的緩和)で不動産業界にお金が流れ、首都圏では異常とも言える土地バブルが再来しています。

バブルの頃、暴力団を使った地上げが社会問題になりましたが、今も同じような地上げが行われています。ただメディアが以前のように取り上げてないだけです。そして、不動産業界に巣食うブラックな紳士たちが再び肩で風を切って歩いているのです。

五反田の旅館跡地をめぐって、地面師たちが積水ハウスから63億円を騙し取った事件も、土地バブルが生んだ事件と言っていいでしょう。騙し取られた積水ハウスも、63億円ごときではビクともしないのです。土地バブルでは、そんなお金ははした金にすぎないのです。私は、あの事件にはむしろ痛快な感想さえもちました。

南青山の住民によって、“土地神話”が人間の心を如何に蝕んでいるかがいみじくも証明されたのでした。「高級住宅地」だからと言って、住んでる人間が「高級」なわけではないのです。南青山の住民たちは、土地バブルに踊る(踊らされる)品性下劣な下等物件(©竹中労)であることをみずから暴露したと言えるでしょう。
2018.12.24 Mon l 社会・メディア l top ▲
カルロス・ゴーンに対する東京地検特捜部の拘留延期申請が却下され、保釈も間近と思われたのもつかの間、まさかの再逮捕(三度目の逮捕)には誰しもが驚いたことでしょう。推定無罪という近代法の基本原則などどこ吹く風の検察の横暴にしか見えませんが、それもゴーン逮捕が”政治案件”だからなのかもしれません。

もともと虚偽記載という“形式犯”で長期間身柄を拘束することには批判がありました。とりわけ海外のメディアからは、”人権後進国”の日本に対して厳しい目が向けられていました。そういった批判が、拘留延期却下という東京地裁の異例の決定(!)に影響を与えたのは間違いないでしょう。だからというわけなのか、東京地検特捜部は、“本丸”の特別背任罪での再逮捕という大博打に打って出たのでした。ただ専門家の間では、特別背任罪による起訴は難しいという見方が多いようです。

このような日本的な「人質司法」も、弁護士の渡辺輝人氏によれば、裁判所の“慣行”にすぎないのだそうです。考えてみれば、裁判官も検察官も同じ公務員です。”身内意識”がはたらいてないと言えばウソになるでしょう。

(略)刑事訴訟法の条文自体は、身体拘束にそれなりに厳しい要件を設けており、本来、簡単に起訴前勾留を認めたり、安易に勾留延長を認めたり、“振り出しに戻る”ルールを安易に許したりするようにはなっていません。このような「人質司法」はひとえに制度を運用する裁判所の慣行です。そして、長期の身体拘束と、被疑者・被告人の取り調べについて弁護人の同席を認めない制度が、無実の人を自白の強要により冤罪に追い込む仕組みになっています。

Yahoo!ニュース
ゴーン再逮捕と身柄拘束手続の仕組み


マフィア化は政治だけでなく、法の番人も例外ではないのです。まさにこの国そのものがマフィア化しているのです。

宮台真司は、週刊読書人ウェブの鼎談のなかで、人類学者の木村忠正氏の『ハイブリッド・エスノグラフィー』(新曜社)を取り上げ、つぎのように言ってました。

木村氏は「政治が自称マイノリティに特権を与え過ぎ、マジョリティが享受すべき利益が喰われた」とする議論がネットで分厚く支持される事実を実証します。ネットユーザーの過半数です。「自称マイノリティ」には広い意味があります。生活保護受給者や在日コリアンやLGBTだけでなく、日本に様々な要求をする中国・韓国・北朝鮮のような国も含まれます。勤勉で正直な自分らマジョリティは弱者を騙るずるい人や国に利益を奪われている──。そんな被害妄想が拡大しています。

氏の議論はフランクフルター(批判理論)と接続がいい。中流が分解し、昭和みたいな経済成長も立身出世もない。そう人々が断念したのに加え、今のポジションより落ちるのではないかとの不安と抑鬱に苛まれる。フランクフルターが問題にした大戦間のワイマール期に似ます。エーリヒ・フロムの分析によれば、貧乏人ではなく、没落中間層が全体主義に向かう。「こんなはずじゃなかった感」に苦しむからです。だから被害妄想を誇大妄想で埋めようとする。

週刊読書人ウェブ
宮台真司・苅部直・渡辺靖鼎談
民主主義は崩壊の過程にあるのか


国民においても、非人道的な「人質司法」や検察の横暴などより、日産=日本の利益を食い物にしたゴーンに対する反感が優先されるのです。そこにあるのも、マフィア化を支えるブラックアウト的感情です。そして、そういった感情を煽る役割を担っているのがメディアです。メディアは、検察からリークされた情報を垂れ流し、まるで裁判がはじまる前から有罪が確定したかのような印象操作をおこなっているのでした。権力を監視するどころか、権力の走狗になっているのです。

(法律に)「やっていいと書いていないことはやらない」のではなく、「法律が禁じていないことはやっていい」という、法律の抜け穴を利用するような政治。安保法制や辺野古をめぐる対応や森友や加計の問題などを見れば、一目瞭然でしょう。これが(この国が)「底がぬけた」と言われる所以です。


関連記事:
ゴーン逮捕と人権後進国
政治のマフィア化
2018.12.22 Sat l 社会・メディア l top ▲
パリの「ジレ・ジョンヌ(黄色のチョッキ)」のデモは、当初の燃料税引き上げに反対するものから反マクロンの政権批判に発展し、デモ自体も全国に拡大しているようです。

しかし、日本のメディアは、デモの「暴徒化」のみにフォーカスを当て、デモの本質を伝えようとしていません。

WEBRONZAに掲載された在フランスのジャーナリスト・山口昌子氏の記事によれば、有名ブランド店などのショーウインドが破壊されたりするのは、デモ隊に紛れた「キャサール(壊し屋)」の仕業だそうです。日本のメディアが伝えるのは、もっぱらそういった現場の映像です。

WEBRONZA
パリは革命前夜? 「黄色いチョッキ」デモの実態

現地で取材する田中龍作氏によれば、グローバル企業の象徴とも言えるスタバの壁には、「打倒、帝国主義」と落書きされていたそうです。と言うと、落書きしたのは左翼のように思うかもしれませんが、実際は、多くの「ジレ・ジョンヌ」がそうであるように、愛国的なドゴール主義者の手によるものなのでしょう。階級闘争も反帝国主義も、今や右派のスローガンになっているのです。

フランスにおいても、「忘れられた人々」が声を上げはじめているのです。自分たちを「忘れられた」存在に追いやるグローバル資本主義に、反撃の矛先を向けはじめているのです。それを主導しているのが極右です。

田中龍作ジャーナル
【パリ発】黄色いベストが襲撃するネオリベ金融機関とスタバ ‘MACRON HARAKIRI’

歴史上初めて市民革命(フランス革命)を成し遂げたフランス人にとって、デモは「遺伝子」みたいなもので、「大小を合わせると、デモの回数は年間3000回という数字もある」(上記山口氏の記事)そうです。

デモ自体も、日本では考えられないような激しさです。今の日本には、あのようなデモをする自由さえありません。ゴーン逮捕で世界に知られることになった「人権後進国」の実態が、デモの自由度においても露呈されているのです。

日本では、反原発や反安保法制の国会前デモに見られるように、「おまわりさんの言うことに従おう」という”檻のなか”のデモしかありません。フランス人から見れば、「あんなのデモではないよ」と言われるでしょう。

日本においては、政権が追い込まれるデモなんて夢のまた夢です。それより選挙に行って野党に投票しようというのが、デモの主催者たちの主張です。だから、選挙に行かないやつが悪い、選挙に行かないやつに政治を語る資格はない、と彼らは言うのです。そのためのデモなのです。それが「僕らの民主主義」(高橋源一郎)なのです。

マクロンが、かつてロスチャイルド系の銀行に勤務し、企業買収などを担当して高額な報酬を得ていたことは知られていますが、ロスチャイルド系の銀行に勤務していたとき、彼はフランス社会党の党員でもありました。その後、政治家に転身して中道政党を立ち上げるのですが、こういったところにも、ネオリベと密通したフランス左派の現状(テイタラク)が示されています。それが、革命が極右に簒奪された主因でもあるのでしょう。

もっとも、2000年代初めアメリカで新保守主義が台頭した際、ネオコンは「”赤いマント”を着ていないトロッキストだ」と喧伝されたように、左翼のインターナショナリズムがグローバリゼーションと思想的に親和性が高いのは否定すべくもない事実でしょう。むしろ右翼民族主義こそがグローバリズムに対峙する思想的な視点をもっているはずなのです。”戦後の背理”に呪縛された日本の民族主義は歪んだものになっているので、日本的な視点で見ると理解できないかもしれませんが、極右がグローバリズムに反対するのは自然な流れとも言えるのです。

デモは、マクロンを徐々に追いつめいています。デモによって、マクロンは、最低賃金の増額や残業代とボーナスの非課税、それに月額2千ユーロ(約26万円)未満の年金受給者に対する社会保障税減税などの妥協案を発表せざるを得なくなったのでした。

余談ですが、年金受給者向けの減税案を見ても、フランスの年金レベルが日本と比べ高いことがわかります(フランスの年金の平均支給額は22万円強だそうです)。デモで政権を追いつめることができる自由と言い、同じ民主主義を標榜する「先進国」でもこんなに違うのかと思います。それは、市民革命で自由を手に入れた国と、そうではない国の違いでもあるのでしょう。と同時に、「非暴力」という排除の論理で偽装した左の全体主義=「僕らの民主主義」の欺瞞性を今更ながらに痛感せざるを得ないのでした。

栗原康が編纂した『狂い咲け、フリーダム』(ちくま文庫)に、山の手緑氏のつぎのような文章がありました。

メルロ・ポンティがいうように「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」のなら、身体だけその辺に置いて逃げるわけにもいかない。暴力を手放すわけにはいかない。
 貧しい者は幸いである、無力なものには暴力がある。というのが資本主義の現実である。
(略)
 暴力を手放すということは自由を手放すことに等しいことなのだ。
(「暴力、大切」山の手緑)


暴力もまた自由の尺度のひとつなのです。


関連記事:
左の全体主義
2018.12.14 Fri l 社会・メディア l top ▲
今、私が住んでいる街は、横浜では一応人気の住宅地です。私は、10年弱しか住んでない新住民ですが、昔は町工場などが多かったそうです。東横線沿線ということもあって、工場跡地にマンションが建てられ、農地だったところが宅地に整備されて、人気の住宅地に変貌したのでした。

昔の名残なのか、駅近くの路地の奥に、飲み屋ばかり入った”長屋”のような建物があります。2階建ての横に長い木造の建物で、1階に居酒屋や小料理屋などが6軒入っています。昔は、工場で働く人たちが仕事帰りに立ち寄る憩いの場だったのでしょう。もっとも、こういった建物は、背後に工場地帯を控える駅などではよく見かけました。ところが、先日、前を通ったら、既に2軒看板が外され閉店していました。もしかしたら取り壊しになるのかもしれません。

私が来た頃は、駅の周辺の路地には、まだ古い飲み屋やアパートが残っていました。しかし、ここ数年でつぎつぎと取り壊され、新しい建物に代わっています。

前も書きましたが、そんな古い木造の、それこそ「○○荘」などという如何にも昭和っぽい名前が付けられたアパートには、低所得の高齢者たちも多く住んでいました。建物が取り壊される度に、住人たちはどこに行ったのだろうと気になって仕方ありません。

金融緩和やオリンピック景気で、土地バブルが再来していると言われており、銀行による積極的な融資によって、古いアパートがつぎつぎと新しく建て替えられているのです。駅周辺の古いアパートも、あと2~3軒を残すのみとなりました。

今日、別の路地を歩いていたら、やはり古いアパートが壊され、シートに囲われた新しい建物が建築中でした。近所の人に聞くと、新しい建物は県内でチェーン展開する保育園になるそうです。

周辺のマンション住民のために保育園が建てられる。そのために追い立てられる低所得者。オーバーと言われるかもしれませんが、なんだか今の格差社会を象徴するような光景に思えてなりません。

反発されるのを承知で言えば、「日本死ね」も所詮は恵まれた人たちの話にすぎません。待機児童の問題では、母親が働かなければ生活が成り立たないような話がいつも強調されますが、当事者の多くは「中」の階層に属する人たちです。間違っても「弱者」ではないのです。「弱者」を盾にみずからを主張しているだけです。もちろん、2千万人もいると言われる生活保護の基準以下で生活している低所得者なんかではありません。

一方で、彼らは、各政党にとってメインターゲットの有権者でもあります。自民党から共産党まで、彼らの歓心を引こうと競って耳障りのいい政策を掲げています。待機児童問題がこれだけ大きくなったのもそれゆえです。まさにプチブル様々なのです。

左翼の概念が右へ右へとずれ、左派がリベラル化中道化するにつれ、左派は上か下かの視点を失っていったのでした。

ジジェクも、現代は「ファシズムが文字通り左派の革命に取って代わる(代理をする)事態を表している」(『ポストモダンの共産主義)』と書いていましたが、アメリカのトランプ現象やヨーロッパを覆う極右の台頭に見られるように、プチブル様々の社会から置き去りにされた人々のルサンチマンを吸収したのは、左派ではなく極右です。上か下かの視点を持っているのは極右の方で、階級闘争は極右の代名詞にすらなっています。ナチスと同じように、”革命”が極右に簒奪されたのです。リベラル化して現実を見失った左派は、歌を忘れたカナリアになってしまったのです。


関連記事:
「市民的価値意識」批判
『新・日本の階級社会』
2018.12.03 Mon l 社会・メディア l top ▲
ワイドショーでもおなじみ、ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏が、『週刊プレイボーイ』のコラムで、イギリスのガーディアン紙でのスラヴォイ・ジジェクの発言を取り上げていました。

Yahoo!ニュース(週プレNEWS)
左派賢人の過激な問い。"世界のトランプ化"はリベラルのせい?

ロバートソン氏の要約によれば、ジジェクの発言はつぎのようなものです。

〈(略)今、リベラル陣営はグローバル経済の構造自体の欠陥に関する議論よりも、倫理やモラル、多様性、ゲイライツ、人種差別といった"小さな問題"にばかり注目するようになっている。

本筋から逃亡し、"正しい側"の席に座り、"正しいこと"を叫ぶだけでは何も変わらない。左派が本質的な原因に目を向けることなく、本来すべき役割を果たさないからこのような社会になっているのだ〉


つづけて、ジジェクの発言について、ロバートソン氏はつぎのように注釈を加えていました。

ジジェクは、リベラル陣営がトランプら右派政治家の言動ばかりに目を奪われるのは「バカげている」と喝破(かっぱ)します。極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である。

にもかかわらず、右派陣営に煽(あお)られるがままに、反差別や多様性といった"些末(さまつ)なこと"を追いかけても、この社会はよくならない。いや、むしろ右派ポピュリズムは拡大していくだけだ――。

身もふたもない言い方をすれば、ジジェクは「左派はきちんとゼニの話をしろ」と言っているのです。


左派がリベラル化するにつれ、社会の根本にある下部構造の話をしなくなったというのは、そのとおりでしょう。それゆえ、「極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である」という視点すら持てなくなっているのです。成長や繁栄から置き去りにされ、大労組からも見捨てられたアンダークラスの人々こそ、右か左かに関係なくプロレタリアートと呼ぶべきなのです。

また、ジジェクは、つぎにような大胆な発言もしています。

〈混乱した社会の中で左派に惹(ひ)かれる人々は、決まって理想やモラルを叫ぶ。だからこそ、こういうときに一番大事なのは民衆の声を聞かないことだ。民衆はパニックに陥っており、そこには知恵などない。これまでも民の声を聞いた結果、ポピュリズムとファシストしか出てこなかったじゃないか〉


思わず「異議なし!」と叫びたくなりました。

ジジェクは、「はじめは悲劇として、二度目めは笑劇として」というマルクスの有名な箴言が副題に付けられた『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書)でも、つぎのように書いてました。

 じつは進行中の危機の最大の犠牲者は、資本主義ではなく左派なのかもしれない。またしても世界的に実行可能な代案を示せないことが、誰の目にも明らかになったのだから。そう、窮地に陥ったのは左派だ。まるで近年の出来事はそれを実証するために仕組まれた賭けでもあったかのようだ。そうして壊滅的な危機においても、資本主義に代わる実務的なものはないということがわかったのである。
『ポストモダンの共産主義』


ジジュクは、別の章では、構造改革は「詭弁」だとも書いていました。

左派が下部構造=経済の話をしなくなったというのは、ブレイディみかこ氏も常々指摘していることです。ブレイディみかこ氏の発言も、ジジェクと重なるものがあります。

ブレイディ 両極化する世界とか中道の没落とか言われてますけど、それはあくまで地上に見えている枝や葉っぱの部分で、地中の根っこはやっぱり経済だと思います。中道がいつまでも「第三の道」的なものや緊縮にとらわれて前進できずにいるから、人びとがもっと経済的に明るいヴィジョンを感じさせる両端にいっている。

シノドス
「古くて新しい」お金と階級の話――そろそろ左派は〈経済〉を語ろう
ブレイディみかこ×松尾匡×北田暁大


先日、パリのシャンゼリゼ通りのガソリン価格の高騰や燃料税引き上げに抗議するデモで、「一部が暴徒化した」というニュースがありましたが、その街頭行動の背景に、2017年の大統領選挙の第一回投票で、マクロンにつづいて極右・国民連合(国民戦線)のマリーヌ・ル・ペンが2位、そして、ニューレフト(新左翼)の左翼党(不服従のフランス)を率いるジャン=リュック・メランションが3位を獲得したという、フランスにおける「流動的」な政治情勢が伏在しているのは間違いないでしょう。

それは、(このブログでも再三書いていますが)フランスに限った話ではありません。ヨーロッパでは、反グローバリズム・反資本主義において、極左と極右がせめぎあいを演じているのです。そういったせめぎあいは、右か左かでは理解できない状況です。

上記の『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』のなかで、社会学者の北田暁大氏が、“社会学の陥穽”について、「自戒を込めて」つぎのように言ってました。

北田 経済がどうやって発展するとか、社会が安定的に成長していくには具体的にはどうしたらいいのかって発想がなくて、全部制度的な公正性の原理だけで物事を考えているわけですよ。

(略)いまの社会学って、方法はさまざまありますが、やっぱり制度を比較に基づいて分析する学問だから。「その制度は不公正ですよ」「この制度では機能していませんよ」ということは言えるんですけど、どうやったら社会が全体的に「豊か」になるのか、そもそも社会を「豊か」にするとはどういうことなのかって発想が欠落しているんですよね。

(略)イスの数は決まっていて、その分配については不公平がある、その不公平はこのような形で生み出される、という分析は大切ですが、イスの数を増やすという発想は薄い。じゃあ、誰かのイスを取り上げるしかない、ということになりがちです。


これは、社会学の問題だけでなく、リベラルの限界であり、リベラル化した左派の限界でもあるでしょう。もとより私たちも「自戒」とすべき事柄でもあります。
2018.11.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
カルロス・ゴーンの逮捕が、ルノーと日産の経営統合を阻止するための国策捜査であり、国策捜査を誘引したクーデターであることが徐々に明らかになっています。

グローバル資本主義においては、日本の大企業が外国資本に呑み込まれるのはいくらでもあり得るでしょう。日産だってグローバル資本主義のお陰で復活したのです。グローバル資本主義に拝跪するということは、「日本を、取り戻す」ことではなく「日本を売る」ことなのです。裁量労働制の導入も外国人労働者に門戸を開放するのも、グローバル資本主義のためなのです。「助けてもらったのに、恩を仇で返すのか」というルノーの地元の声は当然です。

日本のメディアは、例によって例の如く検察からのリークを垂れ流し、重箱の底をつつくようにカルロス・ゴーンの“悪業”を暴き立ていますが、でも、彼らは昨日までグローバル資本主義の使徒とも言えるカルロス・ゴーンをカリスマ経営者としてヒーロー扱いしていたのです。日産の役員たちに勝るとも劣らない見事な手の平返しと言えるでしょう。こういった寄らば大樹の陰の節操のなさも、日本社会の特質です。

フランス在住の永田公彦氏は、ダイヤモンドオンラインで、ゴーン逮捕について、日本特有の集団的な手のひら返しだと書いていました。

DIAMOND online
ゴーン氏逮捕でフランス社会から見える、日本の「集団手のひら返し」

永田氏が書いているように、サラリーマンの社会でも、ある日突然梯子を外されることはめずらしくありません。永田氏によれば、手の平返しは権威主義を重んじ集団的な和を尊ぶ「アジアやアフリカ諸国に多い」そうですが、たしかに、中国や韓国などでも手の平返しの話はよく聞きます。大統領経験者に対する韓国世論の手の平返しなどは、その最たるものでしょう。

東京地検特捜部の(国策捜査であるがゆえの)荒っぽい手法については、元検事で弁護士の郷原信郎氏が、下記のインタビューで、法律の専門家の立場から疑問を投げかけていますが、しかし、日本のメディアの報道にこういった視点は皆無です。ただ、「検察は正義」の幻想を痴呆的に振りまくばかりです。

VIDEO NEWS(ビデオニュース・ドットコム)
不可解なゴーン逮捕と無理筋の司法取引説

一方で、ゴーン逮捕の“副産物”として、日本が人権後進国であることが世界に知られたのは、誠に慶賀すべきことと言えるでしょう。

朝日のパリ特派員が、フランスのメディアの反応を伝えていました。

朝日新聞デジタル
ゴーン容疑者いる拘置所「地獄だ」 仏メディアが同情?

記事によれば、フィガロ紙は、「『検察の取り調べの際に弁護士も付き添えない。外部との面会は1日15分に制限され、しかも看守が付き添い、看守がわかる言葉(日本語)で話さなければならない』と指摘し、『ゴーン容疑者の悲嘆ぶりが想像できるというものだ』と報じている」そうです。

また、いわゆる日本式「人質司法」についても、つぎのように書いていました。

 フランスでは容疑者が拘束された際、捜査当局による聴取の際に弁護士が同席でき、拘束期間もテロ容疑をのぞき最長4日間(96時間)と定められている。このため、ゴーン容疑者の環境がとりわけ厳しく映ったようだ。


これでは、ニッポン凄い!どころか、日本ヤバい!になりかねないでしょう。

ちなみに、東京地検特捜部と密通して、ゴーン逮捕を事前にスクープしたのが、他ならぬ朝日新聞でした。だから、上記の記事も、どこか斜に構えたような感じになっているのでしょう。
2018.11.24 Sat l 社会・メディア l top ▲
日本が売られる


向こう5年間で34万人の外国人労働者を受け入れる出入国管理法(入管法)改正案が衆院本会議で審議入りしましたが、議論の叩き台になるはずの法務省のデータに改ざんが見つかり、審議がストップしたままです。

移民は認めないと公言する日本政府ですが、2015年のOECD外国人移住ランキングでは、日本はいつの間にか世界第4位の”移民大国”になっているのでした。

以下が、2015年のトップ10です。

1.ドイツ(約201万6千人)
2.米国(約105万1千人)
3.英国(約47万9千人)
4.日本(約39万1千人)
5.韓国(約37万3千人)
6.スペイン(約29万1千人)
7.カナダ(約27万2千人)
8.フランス(約25万3千人)
9.イタリア(約25万人)
10.オーストラリア(約22万4千人)

その結果、日本には既に128万人の外国人が居住しているのです。

労働力不足と言っても、要するに、「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)で謳われているように、「介護」「建設」「農業」「宿泊」「造船」など、いわゆる3Kの仕事で、低賃金の若年労働力が不足しているという話なのです。現在、その部分を弥縫的に担っているのが、”留学生”(資格外活動)29.7万人と技能実習生25.8万人です。

先日、日立製作所が山口県下松市の笠戸事業所で働くフィリピン人技能実習生40人に解雇を通告した問題で、実習期間の残り2年間分の基本給と生活費として月に2万円を支払うことで実習生と和解したというニュースがありましたが、基本給は14万円だそうです。

でも、この給与は技能実習生としては、恵まれた方で、農家に来ている実習生なんて、手取りが5万~10万円もめずらしくないと言われています。別のニュースでは、実習先から失踪して東京の飲食店で働いていた元実習生の話が出ていましたが、彼が得ていた給与は月に20万~25万円だったそうです。

これでは、失踪したくなるのは当然という気がしますが、しかし、20~25万円の給与も(福利厚生がほとんどないことを考えれば)最低レベルの賃金です。技能実習生の給与は、文字通り“最低以下”なのです。

どうして“現代の奴隷制度”とヤユされるような“最低以下”の給与しか貰えないのかと言えば、前に書いたとおり(『ルポ ニッポン絶望工場』)、監理機関や監理団体など官僚の天下り機関による(「会費」や「管理費」などの名目の)ピンハネがあるからです。実習生ひとりにつき10万円近くのピンハネが行われているという話さえあります。また、多くの監理団体には、政治家たちが役員におさまっており、文字通り官民あげて実習生を食い物にしているのです。

ところが、まだ始まったばかりとは言え、入管法改正をめぐる国会審議や、あるいはメディアの報道においても、このピンハネの問題がいっこうに表に出て来ないのです。何か不都合でもあるのか、不思議でなりません。

一方で、ホントに人出不足なのかという声もあります。仕事がきつくて賃金が安いので敬遠されているだけではないのかと。

堤未果氏は、WEBRONZAで、「現在日本には一年以上、職についていない長期失業者が約50万人いる」と書いていました。

WEBRONZA
人間にまで値札 外国人労働者拡大の危うさ

堤氏か書いているように、「人材がいないのではない」のです。労働条件が劣悪で、なり手がいないだけなのです。その「なり手がいない」仕事を、外国人労働者にさせようという話なのです。

 景気を良くするためだ、などと言って金融緩和をしても、永住まで可能な外国人を数十万人規模で受け入れれば、価格競争によって賃金は地盤沈下を起こし、日本人の失業者や単純労働者は、今後入ってくる移民との間で仕事を奪い合うことを余儀なくされるだろう。


外国人労働者の流入が、日本のアンダークラスの賃金を押し下げる要因になるというのは、これまでも指摘されていました。

堤氏は、新著『日本が売られる』(幻冬舎新書)の中でも、次のように書いていました。

 一橋経済研究所の試算でも、単純労働に外国人が100万人入れば、国内の賃金は24%下落するという数字が出ているのだ。
 こうした政府の方針によって、「人・モノ・サービス」はますます自由に国境を越えて売買され、2019年のTPP発効までに、日本に参入してくる外資や投資家が「世界一ビジネスしやすい環境」が着々と作り上げられてゆく。


グローバル資本主義に拝跪して(国を売り渡して)、何が愛国だ、何が「日本を、取り戻す」だと言いたいですが、一方で、プロレタリアートに国境はないという左翼のインターナショナリズムが、現代に奴隷制度をよみがえらせたグローバル資本主義と同床異夢を見ているという「右も左も真っ暗闇」の現実があることも、忘れてはならないでしょう。


関連記事:
『ルポ ニッポン絶望工場』
上野千鶴子氏の発言
2018.11.17 Sat l 社会・メディア l top ▲
先日、朝日新聞に掲載された『新潮45』の休刊に関する記事に対して、次のようなTwitterの書き込みを見つけました。

朝日新聞デジタル
新潮45の休刊、櫻井よしこさんと池上彰さんの評価は


まったくその通りです。ここにも、「言論の自由」を無定見に信奉する朝日新聞のオブスキュランティズムがあるのです。かつて羽仁五郎は、オブスキュランティズムについて、「明日は雨が降るけど天気はいいでしょうと言っているようなものだ」と言っていましたが、まさに言い得て妙です。

コメントにあるように、ヘイトに寄生する極右の女神は、従軍慰安婦の問題では嘘を重ねて植村元記者と朝日新聞を攻撃してきたのです。そして、“朝日国賊”のイメージを拡散したのでした。そんな櫻井よしこの嘘は、裁判でも認定されているのです。

「外教」氏の次のような書き込みにも激しく同意します。


『新潮45』休刊に関しても、朝日新聞は、先日、次のような佐伯啓思氏の「感想」を掲載していました。

朝日新聞デジタル
(異論のススメ)「新潮45」問題と休刊 せめて論議の場は寛容に

佐伯氏は言います。

第二に、そもそも結婚や家族(家)とは何か、ということがある。法的な問題以前に、はたして結婚制度は必要なのか、結婚によって家族(家)を作る意味はどこにあるのか。こうした論点である。そして第三に、LGBTは「個人の嗜好(しこう)」の問題なのか、それとも「社会的な制度や価値」の問題なのか、またそれをつなぐ論理はどうなるのか、ということだ。しかし、杉田氏への賛同も批判も、この種の基本的な問題へ向き合うことはなく、差別か否かが独り歩きした。これでは、不毛な批判の応酬になるほかない。


LGBTは、「結婚」や「個人の嗜好」や「社会的な制度や価値」などとはまったく次元の異なるものです。むしろそういったことと関連付けることから、差別がはじまるのです。「生産性」発言も、まさにそこから生まれているのです。もちろん、社会的な制度や規範に従属する「個人の嗜好」なんかでもないのです。

佐伯氏は、一度だってLGBTの問題を真面目に考えたことさえないのでしょう。これじゃ自称「文芸評論家」と五十歩百歩です。

また、別の日に掲載された三輪さちこ記者による、もうひとりの極右の女神=稲田朋美氏のインタビュー記事は、さらに輪をかけてお粗末でした。

朝日新聞デジタル
稲田朋美氏「多様性尊重が保守の本来 杉田さん議論を」

稲田氏の発言は、どれも「よく言うよ」の類のものでしかありません。しかし、三輪記者は、稲田氏の二枚舌に対して、ヘイトを煽った責任をどう考えているのかと質問することさえないのです。杉田水脈に代表されるように、性的少数者への差別と民族排外主義が通底しているのは、論を俟たないでしょう。稲田氏が信仰する生長の家原理主義=日本会議の”国家主義思想”とLGBTはどう相容れるのか、当然、訊くべきでしょう。これじゃジャーナリストではなく、単なる御用聞きと言わねばなりません。

そう言えば、安倍昭恵氏を「家庭内野党」などと言って持ち上げたのも、朝日の女性記者でした。今になれば、あの記事が如何にデタラメであったということがよくわかります。

朝日新聞は、「異なる」(と思っている)意見をただ機械的に並べ、それでバランスを取っているつもりなのでしょう。両論併記が民主主義のあるべき姿と思っているのかもしれません。多くの人は朝日がリベラルだと思っているみたいですが、朝日のリベラルなんて、佐伯氏が言う「寛容さ」と同じで、現実回避の詭弁でしかありません。
2018.10.15 Mon l 社会・メディア l top ▲
「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」という、開き直りとも思える特集を10月号で組んだ月刊誌『新潮45』が批判を浴び、ついに「休刊」することが発表されました。ちなみに、雑誌の場合、新規に取得するのが難しい「雑誌コード」を残すため、事実上の廃刊でもほとんどが「休刊」という届けが出されるそうです。

この“開き直り特集”が如何にひどいシロモノか、たとえば、自称「文芸評論家」の小川榮太郎氏は、特集で次のように書いています。

LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAG(編注:サドとマゾとお尻フェチと痴漢を指す小川氏の造語とのこと)の人達もまた生きづらかろう。ふざけるなという奴がいたら許さない。LGBTも私のような伝統保守主義者から言わせれば充分ふざけた概念だからである。

満員電車に乗った時に女の匂いを嗅いだら手が自動的に動いてしまう、そういう痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう。彼らの触る権利を社会は保障すべきではないのか。触られる女のショックを思えというか。それならLGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく。」
(文芸評論家・小川榮太郎氏「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」より、一部中略)

※「HUFFPOST」より転載。
新潮社公式アカウントが「新潮45」批判を怒涛のリツイート 「中の人がんばって」の声援寄せられる


タイトルは秀逸ですが、書いていることは”危ないオヤジ”の戯言です。これでよくもまあ「文芸評論家」なんて自称できるものだと思います(私は本を読むのが好きですが、小川榮太郎なんて文芸評論家は聞いたことがありません)。

一方、上記の「HUFFPOST」の記事にあるように、10月号が発売され批判が巻き起こると、“中の人”である「新潮社出版部文芸」の公式Twitterが、同号を批判するコメントをリツイート。さらに「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という同社創業者・佐藤義亮氏の言葉もツイートし、話題になりました。「中の人がんばれ!」なんていうコメントも、ネットには多く寄せられました。

これらの声に対して、能町みね子は、次のようにコメントしていました。


要するに、「新潮社出版部文芸」のツイートは、新潮社お抱えの作家・ライター達に「逃げ場を用意した」ものにすぎません。日頃リベラルな発言をしている作家センセイ達にとって、この特集と言うか、この批判は耐え難いものがあるでしょう。ヨーロッパの民主主義の二重底ではないですが、彼らもまた作家・ライターとして二重底の中を生きているのです。そうやってリベラルなボクがヘイト出版社から本を出す矛盾を覆い隠しているのです。

今日のリテラには、『新潮45』の杉田水脈発言が編集長の暴走などではなく、担当役員からお墨付きをもらっていたという記事が出ていましたが、新潮社が昔からヘイト出版社であることは半ば常識でした。何も『新潮45』に限った話ではないのです。私もこのブログで何度も書いていますが、『週刊新潮』の方がもっと悪質です。

リテラ
「新潮45」休刊声明の嘘! 杉田水脈擁護、LGBT差別は「編集部」でなく「取締役」がGOを出していた

リテラの記事によれば、「新潮社出版部文芸」のツイートも、「あまりに常識を逸脱した偏見が見受けられた」という社長声明も、ワイドショーなどにコメンテーターとして出演している中瀬ゆかり氏(文芸担当取締役)主導による「作家対策」なのだとか。

新潮社は、文芸部門と雑誌部門は、同じ会社と思えないほど気風が違っているとか、経営者が編集にいっさい口出しをしない編集権が確立されており、それが新潮社の伝統だなどという記事が出ていましたが、そんな都合のいい話があるわけないでしょう。新潮社から本を出している作家センセイ達の自己弁解のようなものでしょう。

新潮社は筋金入りのヘイト出版社です。「良心」をせせら笑うような出版社なのです。日本の文学は、そんなヘイト出版社によって支えられているのです。大江健三郎も、高橋源一郎も、星野智幸も、二重底の中で“文学を営んでいる”だけです。

『「週刊新潮」の内幕 - 元編集部次長の証言』(第三文明社)という30年以上前に出た本がありますが、その中で著者の亀井惇氏(故人)は、『週刊新潮』のことを「冷笑主義」「韜晦趣味」と表現していました。亀井氏は、新潮社に21年勤めた、文字通り”中の人”ですが、本では、『週刊新潮』の記事が「アカ嫌い」の幹部達の意向に沿って作られていたことを仔細に証言しています。

業界では知られた話ですが、かつての名物コラム「東京情報」の執筆者のヤン・デンマンなる「在日外人記者」も、社内で権勢を振るっていた斉藤十一重役(故人)の立案によるもので、ヤン・デンマンは「在日外人記者」でもなんでもなく、架空の人物だったそうです。同コラムでは、「戦後の日本人は人権を安易につまみ食い的にむさぼった結果、義務を忘れて〈社会を腐らせつつある〉」と主張し、「その”元凶”として憲法をやり玉にあげている」のでした。新潮社の「反人権体質」は、今にはじまったことではないのです。

余談ですが、昔、自宅近くの鎌倉の小町通りの小料理屋で一献を傾けている斉藤十一氏を、『噂の真相』が隠し撮りして誌面に掲載し、新潮社が激怒したという”事件”がありましたが、最近そういった骨のあるメディアがなくなったことも、新潮や文春のような”反人権メディア”がのさばる要因でもあるように思います。『新潮45』の編集長や新潮社の社長を直撃取材したメディアが一社もないのも、不思議でなりません。それがこの国の「言論の自由」なのです。

また、ヘイト本を出すのはビジネスのためだ、売れりゃなんでもいいという考えこそ問題だとか、ヘイト本を批判するあまり出版社を追い込むのは「言論の自由」を侵すことになるという意見があります。

実際にネトウヨなどは、「言論の自由」を逆手に取って、ヘイト本を批判する「ブサヨ」に対して、言うこととやってることが違うじゃないかと批判しています。「僕らの民主主義」(高橋源一郎)に安眠を貪る左派リベラルの痛いところを衝いているように思えなくもありません。

中には、「新潮社は言論機関だから」というような物言いさえありますが、新潮は「言論機関」なんかではありません。新潮社の「言論の自由」なんてどうだっていいのです。

小林よしのりは、BLOGOSで次のように書いていました。

BLOGOS
新潮45は炎上商法として大成功である

問題は「差別したい」という意見表明は許されるのかである。
思想言論の自由として許されるか?
それとも弾圧してしまうべきか?

市場に任せていても悪貨が良貨を駆逐するだけである。
市場の浄化作用なんかない。


「言論の自由」ってなんだ、とあらためて考えざるを得ません。「言論の自由」に寄りかかっている限り、権力を持つ側が「強い」のは当たり前でしょう。百家争鳴、談論風発というのは、民主主義の幻想です。賛否両論(両論併記)というオブスキュランチズムの罠に陥るだけです。

「言論の自由」を盾に、新潮に圧力をかけるのは言論弾圧ではないか、焚書坑儒ではないかというネトウヨの批判に対して、「言論の自由」に差別する自由は含まれない、差別は「言論の自由」の敵だと反論しても、なんだか自家撞着のようにしか思えません。

むしろ、「電通ダイバーシティ・ラボ」などの「市場の浄化作用」の方がよほど効果的な気がします。今回の「休刊」というトカゲの尻尾切りも、ある意味で「市場の浄化作用」が働いたと言えなくもないのです。でも、新潮社のヘイト体質は温存されるでしょう。これからも『週刊新潮』はヘイトな記事を流しつづけるでしょう。

「自由」というのは、かように非力で無力なものなのです。個人的には、(その可能性は低いようですが)今回の「休刊」が新潮社の「経営に深刻な打撃を与える」ことを願うばかりです。不買運動もない。新潮社から本を出している作家センセイを糾弾する声もない。だったら、もう自壊を待つしかないのです。一連の流れを見ても、そういう虚しさと歯がゆさを覚えてなりません。


関連記事:
杉田水脈発言と性の商品化
メディアも大衆も目クソ鼻クソ
2018.09.26 Wed l 社会・メディア l top ▲
10代の終わり頃だったと思いますが、なにかの雑誌で、五木寛之氏と寺山修司が「市民的価値意識批判」というテーマで対談しているのを読んだことがありました。

当時はまだ全共闘運動の余韻が残っていて、論壇もいわゆる“新左翼的な論調”が主流でした。二人の対談のように、「市民的価値意識」を批判するのも半ば常識のような感じでした。今風に言えば、右か左かではなく上か下かの視点が存在していたのです。総評が主導する左派の労働運動も、本工主義だと批判されていました。労働の現場には、本工→下請工→期間工と言った三重の差別構造が存在していると言われていました。当然、左翼の権威の象徴でもあった日本共産党は、徹底的に批判されていました。民青の運動なんて、資本主義的な価値意識を補完する欲望のナチュラリズムにすぎないと批判する文章を読んだ覚えもあります。

しかし、今は「市民的価値意識」が金科玉条のようになっています。それこそ自民党から共産党まで、「市民的価値意識」を批判する政党なんていません。各政党は、「市民的価値意識」にどれだけ貢献できるかを競っているのです。与党も野党も同じ土俵で相撲を取っているだけです。まさに「市民」は神様なのです。

一方で、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるのです。OECDの加盟国のなかでも飛びぬけた格差社会なのです。労働の現場でも、差別構造は温存されたままです。それどころか、製造派遣が解禁され、益々劣悪になっている現状があります。

この国には、既成政党が用意する土俵に上がれない、「市民」にもなれない人たちが多くいるのです。

同じ土俵で相撲を取っている限り、野党が与党に勝てないのは当然です。有権者にとって、与党も野党も似たもの同士にしか見えないでしょう。だったら、与党の方が安心だと考えるでしょう。

「市民的価値意識」に安住し、欲望のナチュラリズムを美徳とする有権者には、”安倍独裁”なんてどうだっていいのです。武蔵小杉のタワマンの住民に向かって、改憲を目論む安倍政治にノーを突き付けましょうなんて演説しているのは、滑稽ですらあります。

階級の問題は決して過去の話ではないのです。弱肉強食を是とする風潮の中では、むしろ、すぐれて今日的な問題であると言えます。ただ、それに目を向けてないだけです。

ブレンディみか子氏は、左派は経済を語ることをやめてしまったと書いていましたが、左派というのは、言うなればサンクコストの呪縛に囚われた、もうひとつの保守にすぎないのです。そこに、左派が存在感を失った理由があるのだと思います。

何度もくり返しますが、右か左かではなく上か下かなのです。これも既出ですが、以前、ブレンディみか子氏は、ポデモスのイグレシアスの、次のような言葉を紹介していました。

「勝つためには、我々は左翼であることを宗教にするのをやめなければならない。左翼とは、ピープルのツールであることだ。左翼はピープルでならなければならない」


しかし、私は、イグレシアスの言葉をこう言い換えたくなりました。「勝つために、我々は左翼であることをやめなければならない。左翼に代わって、新しいピープルのツールを作らなければならない」と。

左翼こそめぐまれた既得権者だというネトウヨの”パヨク批判”も一理あるように思います。国会前デモや排外主義に反対する人たちのSNSなどを見ても、なんだか政権批判ごっこをしているようにしか見えません。危機感や絶望感はあまり伺えません。安倍政権と同じように、「やってる感」で自己慰撫しているだけのようにしか見えないのです。

ネトウヨに対して、「オマエたちはオレたちのような『市民』ではないだろう。ざまあみろ」みたいな”批判”が何のためらいもなく行われているのを見るとき、私は、暗澹たる気持にならざるを得ません。

今、必要なのは、左翼と決別することでしょう。左翼のドグマに無頓着な左派リベラルに引導を渡すことでしょう。そして、与党にも野党にも、もっと絶望することでしょう。全てはそこから始まるのだと思います。


関連記事:
ギリシャ問題と「勝てる左派」
2018.09.13 Thu l 社会・メディア l top ▲
体操の宮川紗江選手のコーチが、練習中に宮川選手に暴力を振るったとして、日本体操協会から無期限登録抹消処分を受けた問題がメディアを賑わせています。一方、処分に反発した宮川選手は、日本体操協会の塚原千恵子女子強化本部長と夫の光男副会長にパワハラを受けたと告発。さらに今日、宮川選手がパワハラを受けたと主張する面談の音声データが塚原氏側から公開されました。

データの公開に際して、塚原氏側は、「私たちの言動で宮川紗江選手の心を深く傷つけてしまったことを本当に申し訳なく思っております」と謝罪し、データの公開も、宮原選手と対決する意図はなく、「高圧的」だという誤解を解くためであるという声明を出していました。

この問題の背景に、メディアの塚原夫妻に対する私刑(リンチ)があるのはたしかでしょう。宮川選手の告発によって、発端となった暴力を伴う指導法の問題は片隅に追いやられたのでした。そして、日本の体操界で大きな力を持つ塚原夫妻を“悪”と裁断する印象操作がメディアを覆うようになったのです。それはあきらかに問題のすり替えです。

宮川選手と速見コーチの関係を「宗教みたい」と言ったのも、(それが適切な表現ではなかったものの)選手とコーチの「共依存」を懸念した発言だったのかもしれません。一部の関係者が指摘するように、アスリートが次のステップに進むためにコーチを変えるのは、フィギュアスケートなどでもよくあることです。塚原氏はそうアドバイスしたかったのかもしれないのです。

テープ自体も、体操協会の強化合宿かなにかで、宮川選手が(速見コーチがいない)合宿を途中で引き上げると言い出したので、そんなことでどうするの、それじゃオリンピックにも出られないわよ、と説得(あるいは説教)していたような感じでした。会話を隠し録りしたのも、宮川選手がスポンサーと契約の問題でトラブルになっているので、念の為に録音したというようなことを言ってました。宮川選手はもともと「面倒くさい」選手だったのかもしれません。

日大アメフト部の悪質タックル問題以降、メディアの私刑(リンチ)はエスカレートするばかりです。メディアは、私刑(リンチ)によって視聴率(部数)が稼げる旨味を知ったのです。メディアは、次から次へと”獲物”を物色している感さえあります。

岐阜の病院の問題でも、テレビはニュースの中で、「病院が死亡診断書の死因を『熱中症』ではなく『病死』と書いていたことが判明しました」と言っていました。私は、最初、何が言いたいのかわかりませんでした。病院は「熱中症」が死因ではないと言っているのですから、「病死」と書くのは当然でしょう。

また、入院患者が死亡したことについても、「病院は警察に届けていませんでした」と言ってました。でも、入院中に病死したのであれば警察に届ける必要はないでしょう。法的になんら問題はないのです。メディアは、病院があたかも何か隠蔽しているかのような印象操作を行っているのでした。

メディアの私刑(リンチ)は、もはや”病的”と言ってもいいくらいです。印象操作によって、”犯罪”をねつ造さえしているのです。そして、思考停止した大衆は、塚原は”悪”だ、病院は患者を殺した、という予断に縛られ、メディアに踊らされるのです。それが彼らにとっての“真実“なのです。

これからも、「ネットとマスメディアの共振」(藤代裕之氏)による、視聴率(部数)稼ぎの私刑(リンチ)は続くことでしょう。 ”獲物”として狙われたら最後、ヤクザの言いがかりのような論理で市中引き回しの刑に処され、社会的に抹殺されるのです。しかも、私刑(リンチ)に異を唱える、気骨のあるメディアさえないのです。まさに、これこそデモクラティック・ファシズム(竹中労)と言うべきでしょう。
2018.08.31 Fri l 社会・メディア l top ▲
岐阜市の病院で、80代の入院患者が相次いで死亡したのは、エアコンが故障していたことによる熱中症が原因ではないかという問題が浮上しています。岐阜県警も、業務上過失致死の疑いで、家宅捜索を行ったというニュースもありました。

テレビのワイドショーでは、「殺人罪」の容疑も視野に入っていると言ってましたが、仮に、エアコンの故障が原因で熱中症で亡くなったにしても、「殺人罪」が適用されるなどあり得ないでしょう。

病院はエアコンが故障したため扇風機を使っていたそうですが、当然、看護婦や介護職員も患者をケアするために部屋に出入りしていたでしょうし、食事も毎日運んでいたでしょう。業務上過失致死だって難しいのではないかと思います。

私は、医療の現場を間近で見た経験から、この問題を自分なりに考えてみました。

件の病院は、「終末期医療」を担う療養型病床が主体の、所謂「老人病院」だったようです。昔と違って、今は医療費を圧縮するために国の方針が細分化され、それに伴って病院も機能別に細かく分かれています。大きく分けて高度急性期・急性期・回復期・慢性期の四つに分かれており、通常、私たちがイメージする病院は、大学病院などの高度急性期と総合病院の急性期の病院でしょう。外来が活発なのも、この二つの病院です。

当然、医療の質も違ってきます。建前上、質に違いはないことになっていますが、ドクターや看護師などの質は全然違います。そもそも医療設備からして違います。「終末期医療」と言えば聞こえはいいですが、それは手厚いケアが行われる大病院の緩和病棟などとは似て非なるものなのです。

私の知っている病院(回復期と慢性期を兼ねる病院)は、開業して10年も経ってないホテルのようなきれいな病院で、他の病院に比べて「患者の(所得)レベルが高い」と言われていますが、それでも入院患者の3割は家族がほとんど面会に来ないそうです。

この問題が浮上したのは、死亡した患者の成年後見人が警察におかしいと訴えたからだそうですが、では、家族からのクレームはどうしてなかったのかと思いました。今の病院は、昔と違って家族からのクレームに敏感です。家族は見舞いにも来てなかったのではないか。あるいは、身寄りのない患者が多かったのかもしれません。

ワイドショーを見ていたら、入院患者が救急車で移送されたとかで、レポーターたちが大騒ぎしていましたが、「老人病院」はあくまで慢性期の療養型病床なので、容態が急変したら、急性期の病院に救急搬送するのはよくあることです。なにか事件でも起きたかのように大騒ぎするような話ではないのです。ワイドショーは全てがこのレベルです。

旧大口病院での「大量殺人」でも、犯人の看護師が稀代の殺人鬼のように報道されていますが、私は、彼女はメンヘラだったように思えてなりません。医療従事者は、仕事の重圧に加えて職場の人間関係にも悩ませられるので、メンヘラになる人間が多いのです。まして「姨捨山」と陰口を叩かれるような「終末期医療」の実態を目にすると、ある種の“衝動”に駆られることがないとは言えないでしょう。「終末期医療」の「老人病院」の場合、「看取り」の確認書や指示書を家族から貰うのが通例ですが、その多くが延命処置を行わず自然に任せるのが希望だと言われています。

看護師はどこの病院も人手不足で(まして「老人病院」はよけいそうです)、みんな疲弊しています。旧大口病院の彼女の場合は、点滴に界面活性剤を混入したと言われていますが、疲弊し情緒不安定になった中で、喉に通した管を抜くだけでこの患者は楽になるのだ、と耳元で悪魔に囁かれることだってあるかもしれません。家族からも見捨てられ、生命維持装置を付けられてただ死を待つだけの患者。そういった現場を日常的に見ていると、人の死に対して、ナイーブな感覚もマヒしていくでしょう。残る砦は、人の命は地球より重いなどという20世紀の人権思想(ヒューマニズム)だけです。子供から「どうして人を殺してはいけないの?」と問われて、しどろもどろになるような思想だけなのです。

社会の片隅に追いやられ、決して恵まれているとは言えない医療環境で人生の終わりを迎える老人たち。一日に4人が亡くなるのも、「老人病院」だったらあり得ない話ではないでしょう。それをとんでもないことのように言うメディア。責任逃れのために、病院に立ち入り検査をする小役人たち。彼らは、法に定められた医療監視を行っているはずなのです。立ち入り検査も、メディア向けのパフォーマンスのようにしか思えません。世間の人間も含めて、みんな、自分たちの無関心や無責任を棚に上げ、カマトトぶって病院を叩いているだけです。


関連記事:
メディアも大衆も目クソ鼻クソ
福祉」の現場
2018.08.29 Wed l 社会・メディア l top ▲
8月15日の朝日新聞に、敗戦直後、旧満州に入植した開拓団の女性たちが、当時のソ連兵に対して「性接待」をさせられていたという記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
開拓団の「性接待」告白 「なかったことにできない」
「性接待」証言活動支える家族 母たちの犠牲なければ

記事によれば、 開拓団の女性たちは、開拓団の幹部から「『(夫が)兵隊に行かれた奥さんたちには、頼めん。あんたら娘が犠牲になってくれ』と言われた」そうです。背景には、敗戦になって、彼らが日本軍に置き去りにされたという深刻な事情があったのでした。ただ、日本軍の中でも、下級兵士は同じように置き去りにされ、石原吉郎が書いているように、ソ連軍の捕虜となり過酷な抑留生活を余儀なくされたケースも多くありました。一方、戦争を指導した関東軍の上級将校たちは、いち早く日本に逃げ帰ったのです。

 「白川町誌」などによると、黒川開拓団は1941年以降、600余人が吉林省陶頼昭に入植した。敗戦後、旧日本軍に置き去りにされ、現地住民らによる暴行や略奪を受け、隣の開拓団は集団自決した。

 当事者の証言によると、黒川開拓団は幹部が近くの旧ソ連軍部隊に治安維持を依頼。17~21歳の未婚女性15人前後を「接待」に出した。45年9月から11月ごろまで続いた。一時期、中国兵の相手もさせた。


もちろん、これはホンの一例でしょう。こういった話はほとんど表に出てきていません。当事者たちは、口を噤み、胸の奥深くに秘匿して戦後を生きてきたのです。と言うか、戦後を生きるために、秘匿してきたのでしょう。

このような「性接待」の延長に、従軍慰安婦の問題が存在しているのは言うまでもありません。日本政府は、敗戦後、「性の防波堤」という名目で、特殊慰安施設協会なるものを設立、占領軍向けに国営の慰安所(特殊慰安施設)を設置していますが、これは政府主導の「性接待」と言えます。

(以下に、以前、このブログで書いたことを再掲します)

高見順は、『敗戦日記』(中公文庫)のなかで、この「特殊慰安施設」について、つぎのように書いています。

世界に一体こういう例があるのだろうか。占領軍のために被占領地の人間が自らいちはやく婦女子を集めて淫売屋を作るというような例が―。
(略)
戦争は終った。しかしやはり「愛国」の名の下に、婦女子を駆り立てて進駐軍御用の淫売婦にしたてている。無垢の処女をだまして戦線へ連れ出し、淫売を強いたその残虐が、今日、形を変えて特殊慰安云々となっている。


日本政府は占領軍のために、自国の婦女子を「淫売婦」に仕立てて提供したのです。しかも、「特殊慰安施設協会」なる名称からわかるように、そこには戦争中の従軍慰安婦のノウハウが生かされていたのです。

五木寛之は、朝鮮半島から引き揚げる際に、みずから体験したことをエッセイに書いています。しかし、それは例外と言ってもいいほどめずらしいことです。

数十人の日本人グループでトラックを買収して、深夜、南下している途中、ソ連軍の検問にひっかかり、お金を出せ、お金がなければ女を出せと言われたそうです。それも三人出せと。すると、グループのリーダーたちが相談して、三人の女性が指名されたのでした。

 指名された三人は全員の視線に追いつめられたように、トラックの荷台の隅に身をよせあって、顔をひきつらせていた。
「みんなのためだ。たのむよ」
 と、リーダー格の男が頭をさげて言う。言葉はていねいだが、いやなら力ずくでも突きだすぞ、といった感じの威圧的な口調だった。
 しばらく沈黙が続いたあと、その一人が、黙ってたちあがった。あとの二人も、それに続いた。
 運転手に連れられて三人の女性たちはトラックを降りて姿を消した。車内のみんなは黙っていたが、ひとりの男が誰にともなく言った。
「あの女たちは、水商売の連中だからな」
 一時間ほどして三人がボロボロのようになって帰ってくると、みんなは彼女たちをさけるようにして片隅をあけた。
「ソ連兵に悪い病気をうつされているかもしれんから、そばに寄るなよ」
 と、さっきの男が小声で家族にささやいた。やがてトラックが走りだした。
 私たちは、そんなふうにして帰国した。同じ日本人だから、などという言葉を私は信じない。

『みみずくの夜メール』(幻冬舎文庫)


中には、そのまま戻って来なかった女性もいるそうです。

民間人を置き去りにしていち早く逃走した帝国軍人たち。彼らにとって、こういった悲劇はなかったことになっているのです。そして、彼らは、戦後ものうのうと生き延び、自分たちが靖国の”英霊”の代弁者であるかのように振舞い、「戦後はお金や物万能の世の中で、心が疎かになっている」「日本人の誇りを失っている」なんて説教を垂れていたのでした。今はその子供や孫たちが同じことを言っています。なかったことにしている「性接待」を取り上げた朝日新聞は、「反日」「中共の手先」と攻撃されるのです。それがこの国の「愛国」なのです。


関連記事:
石原吉郎と「愛国」
『帝国の慰安婦』と日韓合意
訃報 野坂昭如
人間のおぞましさ
2018.08.17 Fri l 社会・メディア l top ▲
杉田水脈議員のLGBTに対する「生産性がない」発言の何が問題かと言えば、それがナチスの優生思想へつながる“悪魔の思想”だからです。杉田議員は、名うてのレイシストとして、国会議員になる前から知られた存在でした。中には、Yahoo!ニュースのコメント欄に巣食う某カルト宗教との関係を指摘する人もいました。

杉田議員は、みんなの党から日本維新の会に移り、折からの“維新(橋本)ブーム“に乗って当選、衆議院議員を一期務めたものの次の選挙で落選。その後・次世代の党・日本のこころと渡り歩き、国政復活をめざしていた際、そのヘイト思想が目に留まったのか、桜井よしこ氏によれば「安倍さんが杉田さんって素晴らしいと言うので、萩生田さんとかが一生懸命になってお誘いして」、昨年の総選挙で自民党の比例中国ブロックの単独候補として公認され、当選、待望の国政復活を果たしたのでした。

名うてのレイシストである彼女が自民党から一本釣りされて再び国会議員になったことに、思わずのけ反った人も多いはずです。彼女のことを知っていれば、今回のような発言も別に驚くことではないのです。

杉田議員は、以前は「待機児童なんて一人もいない」「保育所は、家庭を崩壊させようとするコミンテルの陰謀だ」などと発言し、子育て支援に対しても批判的だったのですが、今回の寄稿では、一転して子育て支援に理解を示していました。子育ては「生産性がある」からでしょうか。

地盤を持たない比例選出の議員の場合、次の選挙で上位に指名されるためには、党内に向けて日頃から自分をアピールする必要があります。杉田議員も、そうやって安倍首相や自民党の大物議員たちに媚を売り、みずからの存在をアピールしているのでしょう。自分に目をかけて国政復活を手助けしてくれた恩人の安倍首相に喜んでもらおうと思ったのかもしれません。

ただ、稲田朋美氏が「多様性を認め、寛容な社会をつくることが『保守』の役割だ」(ツイッター)と批判めいたことを言ったり、安倍首相も「多様性が尊重される社会を目指すのは当然だ。これは政府、与党の方針でもある」と(白々しく)発言するなど、自民党内でも、(「LGBTは趣味みたいなもの」と言った低●議員を除いて)表立って杉田発言を擁護する人がほとんどいないのも事実です。時代はもはや杉田発言を擁護できないほど、LGBTが市民権を得つつあるのです。「多様性」や「ダイバーシティ」という言葉が、当たり前のこととして流通するようになっているのです。

前も書きましたが、電通も、「電通ダイバーシティ・ラボ」という専門組織を立ち上げ、LGBTをビジネスにつなげようとしています。電通のソロバン勘定によれば、LGBT市場は「約5.9兆円」まで拡大しているそうです。

杉田水脈議員の優生思想は論外としても、少なくともLGBTに関しては、日本の社会でも認知されつつあるのは間違いないでしょう。今回の問題で、あらためてそう感じた人も多いのではないでしょうか。

しかし、天の邪鬼な私は、同時に、若い頃に読んだ(と言っても途中で挫折したのですが)フーコーを思い出さざるを得ないのでした。知ってのとおり、フーコーも同性愛者でした。

フーコーによれば、18世紀以降の西欧社会では、性の「言語化」が図られ、それが個人の(主体性)の形成に関わるようになったと言います。つまり、性はただ単に禁忌されるべきもの・排除されるべきものから、医学や教育学や法学など知の対象(フーコーの言う「知への意志」の対象)になったのです。そうやって私たちは、みずからの性的欲望や性的行動を客観的に認識するように仕向けられたのです。もちろん、それは性の「解放」というような単純な話ではありません。むしろ、権力によって性が管理されコントロールされることを意味するのでした。権力は細部に宿り、さらに細部に細部に宿ろうとするものです。そのために、性が「言語化」され、性の拡大(と同時に「分節」)が意図されるのです。

杉田発言を誰も表立って擁護できないほどLGBTが認知されつつあるのも、それだけLGBTが権力によって管理され整序されつつある(されている)からだとも言えます。そうやって権力は私たちの身体の隅々にまで入り込み、「電通ダイバーシティ・ラボ」のように、資本主義のオキテ(=性の商品化)が貫徹されるのです。もとより文化とはそういうものでしょう。強制ではなく自発のように見えるのも、それだけ巧妙にコントロールされているからにほかなりません。それが権力の本来の姿です。こんなに苦しみました、こんなにつらい思いをしました、というような(日本人お得意の)”被害者史観”は、あらかじめ権力によって用意されたテンプレートとも言えるのです。

涙のカミングアウト(「告白」)は、フーコーが喝破した教会の「告解」(赦しの秘跡)と似ているように思えてなりません。「告白」が映し出しているのは、性に纏わる観念(の自明性)が整序され、操作されている私たちの心の風景です。フーコーは、そんな観念の奥に身を潜める権力を発見したのでした。

現代の権力は、杉田水脈議員のように、”逸脱する性”を排除したりタブー視したりすることはありません。もはや"逸脱する性"なんて存在すらしないのです。たとえば、下記のような記事を読むにつけ、涙の「告白」に違和感を抱かざるを得ないのでした。

電通報
今、企業がLGBTに注目する理由とレインボー消費
Sankei Biz
LGBT配慮商品に企業注目 「レインボー消費」販売戦略に取り入れ

今回の杉田発言でLGBTの認知はさらに深まるでしょう。杉田水脈議員は、LGBTを差別することで、逆にLGBTの認知(=広告)に貢献したとも言えるのです。まさにピエロとしか言いようがありません。そして、騒動の中でひとり微笑んでいるのが、LGBTという新たな市場を手に入れた電通なのかもしれません。
2018.08.10 Fri l 社会・メディア l top ▲
オウム真理教の死刑囚たちには、逮捕後もずっと寄り添いケアしていた身内や友人がいました。「知的エリート」であった彼らは、もともと家庭環境や友人関係に恵まれた人間が多かったのです。しかし、それでも、人知れず“生きる意味”について悩み、生きづらさを覚え、自分の居場所を探していたのです。

世間から鬼畜のように指弾される彼らに寄り添ってきた人たちを考えると、ホントに頭の下がる思いがします。そして、ホッとした気持になるのでした。

豊田亨死刑囚にも、大学1年で知り合い、東京大学理学部物理学科、同大学院で共に学んだ親友がいました。その伊東乾氏が、死刑執行を受け、『AERA』に寄稿していました。

AERAdot
オウム豊田亨死刑囚 執行までの3週間に親友が見た苦悩 麻原執行後に筆記具を取り上げられた

伊東氏は、1992年3月、突然行方不明になり、次に豊田死刑囚が「私達の前に現れたときは地下鉄サリン事件の実行犯となっていた」と書いていました。

逮捕後の99年から接見を始め、「最高裁で死刑が確定した2009年以降は特別交通許可者として月に1度程度、接見し、様々な問題を共に考え、責任の所在や予防教育の必要を議論してきた」そうです。執行の当日も、約束通り小菅の東京拘置所に向かった伊東氏は、「書類を窓口に提出すると程なく年配の刑務官から『面会は出来ません』と告げられた」のです。そして、「待合室にいる間に、彼を含む6人のオウム事犯の死刑が執行された」のでした。

豊田死刑囚は、公判でも「『今なお自分が生きていること自体申し訳なく、浅ましい』と語り、深く悔いていた」そうです。

3月に拘置所内の「収監される階が変わり、昔長らく在房した階に戻った」豊田死刑囚は、死刑執行が間近に迫っている中で、次のようにくり返し言っていたそうです。

「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから断たなければ」


Yahoo!ニュースのコメント欄のように、「当然だ」「遅すぎたくらいだ」「執行しないで生かしつづけるのは税金の無駄使いだ」などと、彼らを「吊し上げて留飲を下げる」だけでは、オウムが私たちに突き付けた問題はなにひとつ解決しないでしょう。オウムの信者たちは、私たちの「親しき隣人」なのです。彼らの過ちは、決して他人事ではないのです。

聡明で真面目であるがゆえに、人生に悩み、苦しみ、挙句の果てにカルトに取り込まれて犯罪者になった彼ら。一方で、”生きる意味”を考える契機すら持たず(そんなことを考えるのはバカだと言わんばかりに)、ただ彼らを「吊し上げて留飲を下げる」だけのヤフコメの住人たち。不条理とはなにも難しい話ではないのです。このように、私たちのすぐ身近にあるものなのです。

また、私は、昨夜、広瀬健一死刑囚の手記を読みました。アゴラの宇佐美典也氏の記事で、手記の存在を知ったからです。

アゴラ
元オウム真理教信者、広瀬健一死刑囚の手記について

真宗大谷派 円光寺
オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記

読み終えたのは朝方でした。窓を開けると、朝もやの中で徐々に輪郭をあらわしてくる街の風景がありました。その風景を眺めながら、私は、なんとも重い気持の中にいました。それが今もつづいています。

麻原が最終解脱を主張したのが1986年8月。翌9月に出家制度が発足しますが、そのときの出家者は15人、会員(信者)は約350人だったそうです。

広瀬死刑囚が、「宗教的回心」によってオウム真理教に入信したのが1年半後の1988年3月です。静岡県富士宮市の富士山総本部道場が完成したのが、1988年8月。そのときの出家者数は約100人、信者数は約2500人でした。広瀬死刑囚が出家したのは、翌年の1989年3月末。入信からちょうど1年後でした。

母親をはじめ、私の田舎の人間たちが、熊本県旧波野村のサティアン建設計画に関する国土利用計画法違反事件で、オウム真理教を知ったのが1990年です。

そして、私が恵比寿の駅前で、選挙運動をするオウムの信者たちを初めて観たのも、同じ1990年です。選挙の惨敗によってオウムは一気に武装化を進め、1994年6月の松本サリン事件、1995年3月の地下鉄サリン事件へと突き進んで行ったのでした。それらは、僅か10年足らずの短い間の話です。

広瀬健一死刑囚は、早稲田の理工学部応用物理学科を首席で卒業、卒業式では卒業生を代表して答辞を述べるなど、将来を嘱望された科学者の卵でした。大学院の修士課程に進み、出家する際は電機メーカーの研究所に就職も決まっていました。大学及び大学院時代は、母親と一緒にメッキ工場でアルバイトをして、学費も自分で賄っていたそうです。

武装化計画のために、理系エリートを勧誘するという方針の元、麻原から直々に出家を求める電話を受けた広瀬死刑囚は、就職の話を断って出家することを決意するのでした。その際も、内定を貰った会社に、わざわざ出向いて詫びを入れているのでした。そんなところにも、彼の誠実な人柄が伺えます。出家に関しても、自分が出家することで家族のカルマを自分が背負い、家族をより幸福な世界に転生させることができると信じていたのでした。

広瀬死刑囚は、科学の専門教育を受けた「知的エリート」です。麻原の空中浮遊についてどう考えていたのか、今どう考えているのか、手記にそのことが出ていました。

(略)「空中浮揚は慣性の法則に反する」という論理では、空中浮揚を否定できません。既知の物理法則を超える法則の存在は、論理によっては、否定できないのです。
つまり物理法則は、それが見かけ上成立する領域(条件)が不明な部分があるのです。ですから、ある領域において現象が未知の法則に支配される可能性は否定できません。言い換えると、物理法則は常に成立するものとして定義できないのです。それは、ニュートンの運動法則を超える相対論、量子力学・場の量子論が発見されて発展してきた物理学の歴史が示すとおりです。
麻原やオウムの教義から離れた今、「空中浮揚はあると思うか」と問われれば、私は「思わない」と答えます。しかし、これは推測――〈外見として日常的な領域で起こることだから、既知の物理法則のみが成立する条件が満たされている可能性が高いだろう〉という――に基づく見解であって、論理によって厳密に導出された結論ではありません。麻原のいう空中浮揚を・・・厳密に否定するには、麻原の空中浮揚を物理的に測定してその誤りを発見する以外に方法はありません。


また、サリンを散布するのにためらいはなかったのかという問いに対して、「ためらいはなく、感情を抑えることもなく、してはいけないことだとも思わなかった」「ヴァジラヤーナの救済のための当然の指示と感じた」と書いていました。

私は第一審時に共犯者の公判で、次の趣旨の供述もしました。
「指示が私の存在していた宗教的世界観に合致していたので、従わなくてはならないと強く思ったということではない。その指示自体が自然に、違和感なく受け入れられる状態になっていた」
「サリン袋を傘で刺すときためらいはなく、感情を抑えることもなく、してはいけないことだとも思わなかった」
前者の供述は、地下鉄サリン事件の指示について、麻原の指示だから自身の意思に反しても従わなければならないと思ったということではなく、ヴァジラヤーナの救済のための当然の指示と感じた、いう意味です。当時、私は教義の世界で生きている状態でした。


くり返しますが、彼らは私たちの「親しき隣人」なのです。彼らの過ちは、決して他人事ではないのです。
2018.08.02 Thu l 社会・メディア l top ▲
昨日処刑された端本悟死刑囚を担当していた弁護士は、早稲田の法学部で同じクラスだった同級生だそうです。端本死刑囚は、オウムに入信した友人を脱会させる目的でセミナーなどに通っているうちに、ミイラ取りがミイラになって入信したのでした。それがカルトの怖さです。他の死刑囚に比べて関与の度合いが低いとされ、死刑判決に疑問の声も多かったのですが、本人は再審請求を拒んでいたそうです。

また、東大卒(実際は大学院中退)で初めて死刑になったと言われた豊田亨死刑囚に出家を勧めたのは、中学・高校・大学の1年先輩であり、しかも学部(物理学部物理学科)も同じだった野田成人氏です。灘高のルートもそうですが、オウムの「知的エリート」たちは、受験名門校出身者の人脈で勧誘されたケースが多いのです。

野田氏もオウムの幹部でしたが、鈍くさいとかいう理由で、麻原によって実行メンバーから外されたと言われています。先日、テレビに出ていた野田氏は、解体業をしているとかで、汚れが付いたままの作業服姿でした。一方で、ホームレス支援の活動も行っていると言ってました。野田氏は、事件後、アレフの代表なども務めましたが、現在は教団を脱会しているそうです。だとしたらよけい豊田死刑囚に出家を勧めた負い目に苛まれているに違いありません。そうやって”自己処罰”しながら生きていくしかないのでしょう。

オウムの悲劇は、信者の多くが善男善女であったということです。それゆえにカルトに取り込まれてしまったという点にあります。カルトが怖いのは、このように善男善女がターゲットになり、彼らの純粋な心が利用されることです。しかも、ネットワークビジネスなどと同じように、学校や職場などの人間関係を通して勧誘が行われるので、二重三重の悲劇が生じることになるのです。

先に紹介したAERAdotの上昌広氏の記事によれば、東大医学部からオウムに入信したのは2人ですが、当時、「大勢が富士の裾野に行った」そうです。上氏は、彼らと2人を「分けたのは偶然だ」と書いていました。

このように、オウム真理教では、ハルマゲドンを演出するために、麻原の命により、高学歴の理系エリートを積極的に勧誘していたのでした。そして、優秀な頭脳を得た教団は、サリンの生成&散布へと突き進んで行ったのでした。

世の中の役に立つ人間になることを夢見て受験勉強に励み、他人が羨むような難関大学に進んだはずが、カルトに遭遇したために、文字通り刑場の露と消えた「知的エリート」の信者たち。本人ならずともどうして?という思いを抱いた人も多いでしょう。それを考えれば、あらためてやりきれない気持にならざるを得ないのでした。
2018.07.27 Fri l 社会・メディア l top ▲
今朝、オウム真理教の残り6名の死刑囚に対して、死刑が執行されたというニュースがありました。これで、ひと月の間に13名の刑が執行されたことになります。まさに前代未聞の出来事です。

否応なく暗い気持にならざるを得ません。人の命が奪われるというのは、犯罪であれ刑罰であれ、殺人であることには変わりがないのです。辺見庸ではないですが、むごいなと思います。信者たちに殺された人間たちも、処刑された信者たちも、みんなむごいなと思います。

私たちは、オウムを前にすると、恐怖と憎しみの感情に支配され、鬼畜を見るような目になるのですが、処刑された信者たちはホントに鬼畜だったのか。

地下鉄サリン事件で娘を殺された遺族は、「これで仇を取ることができました」と言っていたそうですが、一方で、どうしてあんな事件を起こしたのか、そして、今、どう思っているのか、加害者たちの生の声を聞くことが供養になるという考えがあってもおかしくないのです。たしかに、因果応報という仏教の考え方もありますし、江戸時代は仇討ちや切腹の風習もありましたが、しかし、みずからの死を持って罪を償わせるという考えは、本来日本人が持っている死生観や道徳観と必ずしも合致するものではないはずです。

先進国で死刑制度が存続しているのは、今や日本とアメリカくらいですが、死刑を廃止(もしくは停止)している国から、人権後進国の報復主義に基づいた「大量処刑」と見られても仕方ないでしょう。

今回の「大量処刑」は、オウム真理教がそれだけ国家からの憎悪を一身に浴びていたと言えるのかもしれません。かつては社会主義者や無政府主義者が憎悪の対象でしたが、平成の世にあっては、カルト宗教がそれにとって代わったのです。麻原の国選弁護人を務めた安田好弘弁護士は、今回の処刑でオウム真理教事件が“平成の大逆事件”になったと言ってましたが、決してオーバーではないでしょう。

今回の処刑で、麻原彰晃をグル(尊師)と崇め、タントラ・ ヴァジラヤーナを信奉する残存信者にとって、麻原をはじめ死刑囚たちが益々”ヒーロー”になるに違いありません。遺骨がどうのという問題ではないのです。国家から憎悪を浴びせられれば浴びせられるほど、彼らもまた国家に対して憎悪の念を募らせ、死刑囚たちを”ヒーロー”と崇めるのです。

事件の当事者たちの生の声を封印したまま刑を執行したことで、事件をより不可解なものにし、逆にカルトを増殖させる土壌を残したと言えるでしょう。前も書きましたが、「偽史運動」こそがカルトがカルトたる所以です。宗教学者の島田裕巳氏は、麻原の死刑によって、麻原の魂は信者たちの中で「転生」して生き続けることになるだろうと言ってましたが、これから事件や死刑囚たちを神格化する「偽史運動」が始まることでしょう。

平成の大事件だから平成の間にカタをつけたいなどという(小)役人的発想が、カルト宗教の反国家的感情をエスカレートさせるのは間違いないでしょう。

一方、麻原ら7名の死刑が執行された前夜(7月5日)、死刑執行命令を出した上川陽子法相が、「自民党赤坂亭」に出席していたことが判明して物議を醸しています。「衝撃的」と書いていたメディアさえありました。上川法相は、執行後の記者会見で、「磨いて磨いてという心構え」で、「慎重にも慎重な検討を重ねた」上で、死刑執行命令を出したと言っていましたが、執行前夜に酔っぱらってはしゃいでいる様子はとてもそのようには見えません。「自民党赤坂亭」は西日本を襲った集中豪雨の当夜のことでもあったので、その点でも批判を浴びましたが、政治家や役人など権力を持つ人間たちの、人(国民)の命に対する軽さ・無神経さには愕然とします。と同時に、怖いなと思います。それは、オウムの教義にも通底するものと言えるでしょう。
2018.07.26 Thu l 社会・メディア l top ▲
どうして、高学歴の「知的エリート」がオウムに取り込まれたのかを考える上で、下記の記事は非常にリアルで、参考になるように思いました。

AERAdot.
井上死刑囚から勧誘された医師が明かす「オウム真理教事件は受験エリートの末路」

記事を読むと、灘高のような受験名門校の人脈を通して勧誘が行われていたことがわかります。

もちろん、彼らが「取り込まれた」というのは、私たちが外野席で言っているだけです。当然のことですが、彼ら自身は「取り込まれた」なんて思っていません。麻原に「帰依」したのです。

彼らの多くは、理系の「知的エリート」です。専門的な科学教育を受けた科学者(あるいは科学者の卵)なのです。それが、どうして空中浮遊や神秘体験などの“超能力”を信じ、麻原のようないかさま師に「帰依」したのでしょうか。

専門家が指摘するように、ヨガを利用した”修行”やときには薬物まで使ったイニシエーションによって”霊的な幻覚”を体験することで、麻原の虜になったということはあるでしょう。しかし、一方で、「知的エリート」たちは、麻原の俗物性に目を瞑り、能動的に麻原に「帰依」した側面もあるのです。

はっきり言って、熊本の盲学校を出て(しかも、盲学校で飛びぬけて優秀な成績でもなかったのに)、熊本大学の医学部や東大の法学部を受験するというのは、誇大妄想としか思えません。でも、今の“大衆(建前)民主主義”では、そういう言い方は盲学校を見下す(差別する)ことになるのです。言ってはいけないことなのです。オウム真理教は、「信仰の自由」の問題も含めて、そういった“大衆(建前)民主主義”を逆手に取ったと言えないこともないのです。

そもそもオウム真理教自体が、麻原の誇大妄想の産物とも言えるものです。でも、その誇大妄想が宗教の皮を被ると、神からの啓示=”超能力”のように思えて信仰の対象にすらなるのです。それが「宗教の宗教性」というものです。

私たちのまわりを見ても、無知の強さ、あるいは非常識の強さというのは、たしかに存在します。西欧的理性が木端微塵に打ち砕かれたナチズムの例を出すまでもなく、ものごとを論理的に考える知性というのは、無知や非常識に対して非力な面があるのです。

上昌広氏のつぎのような言葉が、「知的エリート」の“弱さ”を表しているように思います。

 エリートは権威に弱い。権威の名前を出されると、そのことを知らない自分の無知をさらけ出すのが恥ずかしく思い、迎合しようとする。決して「わからない」とは言わない。私を含め当時の東京大学の学生が、オウム真理教に引きずられていたのは、このような背景があるのではなかろうか。挫折を知らない、真面目で優秀な学生だからこそ、引き込まれる。


「決して『わからない』とは言わない」のが「知的エリート」の“弱さ”なのです。「先生と言われるほどのバカでなし」という川柳は、「知的エリート」の本質を衝いているのです。と同時に、大衆(世間)のしたたかさ、狡猾さを表してもいるのです。麻原のようないかさま師が彼らを取り込む(「帰依」させる)のは、そう難しいことではなかったでしょう。

麻原は、弱視でしかも柔道の有段者であることを盾に、熊本の盲学校では、視力障害者の同級生や下級生を相手に番長として君臨したのですが、まったく同じ手法で、無知や非常識に“弱い”「知的エリート」に対してグルとして君臨したのでした。

麻原は、修行をすれば射精しなくてもエクスタシーを得られる(クンダリニーの覚醒)と言いながら、自分は片端から女性信者に手を出して射精しまくっていたのです。しかも、それは射精ではなく「最終解脱者」のエネルギーを注入するイニュシエーションだとうそぶいていたのですが、しかし、”霊的な幻覚”を体験し、この世界には論理的に説明できない部分があること(科学の限界)を知っていた「知的エリート」たちには、もはや麻原の詭弁を疑う”余裕”はなかったのでしょう。

麻原と同じ熊本出身の谷川雁は、「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆であれ(原文は「ある」)」(『工作者宣言』)と言ったのですが、たとえば、通勤電車の醜悪な風景の中で、「断乎たる知識人」であることは至難の業だし、哀れささえ伴うものです。でも、冗談ではなく、あの通勤電車の醜悪な風景こそがこの社会であり、電車の座席にすわることが人生の目的のような人々が大衆なのです。

間違っても「こいつらバカだ」「愚民だ」とは言えないのです。言ってはならないのです。そんな中で、麻原は、仏教の“裏メニュー”とも言うべき教義を彼らに提示したのでした。それが、「煩悩の海に溺れ悪業を積む凡夫は、ポアして救済しなければならない」という、グルを絶対視する戒律と選民思想で”再解釈”したタントラ・ ヴァジラヤーナの教義なのでした。

上氏の剣道での挫折もそうですが、麻原に「帰依」した「知的エリート」たちも、いったんは学校を出て就職したもののすぐに会社を辞めた人間が多いのが特徴です。受験競争では常に勝ち組であった彼らが、社会に出て初めて挫折を味わったのです。そして、麻原に「帰依」することによって、その挫折感がハルマゲドンのような終末思想と出会い、ハルマゲドンを実践する「光の戦士」としてエスカレートして行ったというのは、容易に想像できます。

職場の人間関係だけでなく、日々の生活の中でも、無知の強さや非常識の強さを痛感させられることはいくらでもあります。もちろん、ネットも然りです。しかも、無知の強さや非常識の強さは、“大衆(建前)民主主義”によって補強され、ある意味この社会では「最強」と言ってもいいのです。オウムの「知的エリート」たちがハルマゲドンを欲したのも不思議ではないのです。彼らは、教義以前に、あらゆる価値が(知をも)相対化される現代の民主主義を呪詛していたように思えてなりません。
2018.07.16 Mon l 社会・メディア l top ▲
死刑執行の日に朝日新聞に掲載された、宮台真司氏のインタビュー記事で、宮台氏はつぎのように言ってました。

不全感を解消できれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものどちらでもよい。そうした感受性こそ、昨今の「ポスト真実」の先駆けです。誤解されがちですが、オウムの信徒たちは現実と虚構を取り違え、虚構の世界に生きたわけではない。そんな区別はどうでもよいと考えたことが重要なのです。

朝日新聞デジタル
オウム化している日本、自覚ないままの死刑


宮台氏は、「だから危ない」のだと言います。

現実と虚構の区別なんてどうだっていいというのは、今のネトウヨなどにも言えるように思います。彼らにとって、ネットのフェイクニュースや陰謀史観の真贋なんてどうだっていいのです。みずからの「不全感」(人生や社会に対する負の感情)を「愛国」という排外主義的な主張で埋め合わせればそれでいいのです。それが反知性主義と言われるゆえんです。

どうして「知的エリート」が麻原彰晃のような安っぽいいかさま師に騙されたのか。オウム真理教を論じる場合、必ずと言っていいほど出てくる疑問ですが、私は、以前、大塚英志氏の『物語消費論改』を引用して、つぎのように書いたことがありました。

麻原彰晃は、英雄史観と陰謀史観を梃子に「大きな物語」を「陳腐に、しかし低次元でわかり易く提供して見せた」のでした。それは、「例えば『国を愛する』と言った瞬間、そこに『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」ような安直なものでしかありませんでした。

関連記事:
『物語消費論改』


戦前戦中、多くの左翼知識人=「知的エリート」が「転向」したのは、天皇制権力による思想的転換への強制、屈伏というより、彼らが大衆から孤立したからだ(彼らの思想が”大衆的基盤”をもたない脆弱なものだったからだ)、と言ったのは吉本隆明ですが、「知的」であるということは、ある種の”後ろめたさ”を伴うものでもあるのです。誠実であろうとすればするほど、大衆的日常性(大衆的価値観)から遊離した孤立感を抱くものです。「知的エリート」たちは、安直なもの(=大衆的なもの)であるからこそ、逆に取り込まれたとも言えるのです。

倫理なんて、糞の役にも立たない“文化的幻想”にすぎません。「知的エリート」が全体主義に動員される思想的なメカニズムは、エーリヒ・フロムやハンナ・アーレントが言うよりもっと単純でもっと「陳腐」なものではないのか。

私は、そのメカニズムを解明するカギになるのが「オタク」だと思っています。オタク化とは、それだけこの社会に”オウム的なもの”が浸透していることを意味しているのです。オタクからネトウヨ、そしてカルトに至る回路こそ解明されるべきだと思います。

大塚英志氏は、『「おたく」の精神史』(講談社現代新書)で、「長山靖生『偽史冒険世界』や小熊英二『単一民族神話の起源』といった仕事において国民国家の形成の過程で起きた偽史運動への注目がなされているのは、オウムを近代史の中に位置づける上で重要な視座を提供しているように思う」と書いていました。

柳田民俗学は「正史」化し得た「偽史」の一つだというのがぼくの考えだが、教科書批判の運動が「オウム」後に保守論壇の枠を超えた大衆的な広がりを見せてしまったことの説明は、「オウム」を「偽史」運動の一つと位置づけることで初めて可能になってくるように思うのだ。教科書批判以降の「日本」や「伝統」の奇怪な再構築のされ方は、偽史運動とナショナリズムの言説が表裏一体のものとしてあることの繰り返しに、ぼくは思える。
『「おたく」の精神史』


『天皇と儒教思想』(小島敦著・光文社新書)によれば、メディアによく取り上げられる「田植え」や「養蚕」など皇室の恒例行事も、明治以後にはじまったものが多いそうです。来年、天皇の生前退位により新しい元号に変わりますが、「一世一元」の原則も明治以後にはじまったのだとか。皇室の宗教も、奈良時代から江戸時代までは仏教だったそうです。皇室=神道という「伝統」も、明治以後に創られたイメージなのです。また、皇室に伝わる祭祀などは、中国の儒教思想から借用された「儒式借用」のものが多いそうです。

要するに、明治維新による近代国家(国民国家)の成立に際して、国民統合のために、皇室を中心とする「日本の伝統」が必要とされたのでしょう。そうやって(偽史運動によって)”国民意識”が創出され、”日本”という「想像の共同体」が仮構されたのです。

もちろん、現在進行形の現代史においても(おいてさえ)、「偽史運動」めいたものは存在します。たとえば、安倍首相に代表される、スーツの襟にブルーリボンのバッチを付けている右派政治家やその支持者の一群が声高に主張する”正しい歴史”などもそうでしょう。

そこでは、「先の戦争は侵略戦争ではない」「南京大虐殺はねつ造だ」「従軍慰安婦なんて存在しない」という”正しい歴史”に目覚めることが「愛国」と直結しているのです。そして、ネトウヨに代表されるように、「『国を愛する』と言った瞬間、『大きな物語の中の私』が至って容易に立ち上がる」メカニズムが準備されているのです。私は、そこにオウム(オウム的なもの)とのアナロジーがあるように思えてなりません。実際にYahoo!ニュースのコメント欄なども、その手の書き込みであふれていますが、彼らの延長上に、「第二のオウム」と言われるようなカルト宗教=「偽史カルト」が存在するというのは、多くの人が指摘しているとおりです。安っぽいいかさま師は、麻原彰晃だけではないのです。


関連記事:
オウムは終わってない
2018.07.10 Tue l 社会・メディア l top ▲
私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか


麻原彰晃の遺骨の引き取りに関して、家族間で“綱引き”がはじまっているようです。メディアが言うように、麻原の「神格化」を怖れる公安当局としては、遺骨を妻に引き渡すのを避けたいのが本音でしょう。そのためかどうか、麻原が生前、遺骨の引き渡し先を四女に指名していたという話が出ています。ただ、それは、執行直前に刑務官に伝えたと言われるだけで、証拠はないのです。妻や三女らは、自分たちに遺骨を渡さないための「作り話」だと言うでしょう。

四女は、昨年、自分の相続人から両親を除くよう横浜家裁に申し立て、認められています。それは、実質的に家族と絶縁する意向を示したものです。遺骨の引き渡し先に関しては、法的にはっきりした規定はなく、慣例に従うしかないそうですが、家族と縁を切る意向を示した人間が、父親の遺骨を引き取りたいと申し出るのはどう考えても矛盾しています。故人の妻が引き取りの意向を示しているのですから、慣例から言えば、妻に渡すのが妥当でしょう。だから、そうさせないために、故人の遺志を出してきたとも言えるのです。

四女は、遺骨を引き取る理由について、アレフに渡したくないからと言っているそうです。家族と縁を切るなら、遺骨なんていらない、ほかの家族がどうしようが知ったことではない、自分は自分の道を生きる、と考えるのが普通でしょう。本当にオウムの悪夢から解放されたいと思うなら、遺骨のことなどに関わってないで、知らない土地で新しい人生を歩むのがいちばんでしょう。どうしていつまでもオウムの周辺にいるのだろうと思います。四女は、なんだか公安当局の意向を代弁している(代弁させられている?)ように思えてなりません。

10年前の話ですが、江川紹子氏は、四女の未成年後見人でした。それは、四女からの申し立てによるものでした。しかし、後見人になってわずか4ヶ月後、突然、行方不明になり、その後音信不通にもなったため、職務を果たせないと考え、「辞任許可申立書」を裁判所に提出したそうです。その間の経緯は、下記の江川氏のブログに書かれています。江川氏が辞任したあとに引き受けたのが、現在四女の代理人になっている滝本太郎弁護士なのかもしれません。

Egawa Shoko Journal
未成年後見人の辞任について

江川氏の文章のなかに、つぎのような気になる箇所があります。

(略)様々な形で彼女の自立の準備を支援してきたつもりです。教団以外の人間関係を広げて欲しいと思い、いろいろな働きかけも行いました。 
 しかし、残念ながら彼女の父親を「グル」と崇める気持ちや宗教的な関心は、私が気が付きにくい形で、むしろ深まっていました。彼女の状態が分かるたびに、私はカルト問題の専門家の協力を得ながら長い話し合いを行いましたが、効果はありませんでした。


オウムの奇々怪々は、未だつづいているのです。今度はそれに公安当局が一枚かんでいるのです。

私は、ちょうど8年前、四女の著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』の感想をこのブログに書きました。ご参照ください。

関連記事:
教祖の娘


追記:(7月12日)
三女の松本麗華氏のブログに、長男がネットで滝本弁護士の殺害予告をしたという日テレの報道について、下記のような抗議文が掲載されていました。長男を告発した滝本弁護士も、オウムの奇々怪々と無縁ではないのです。
日テレの虚偽報道に対する抗議声明



2018.07.09 Mon l 社会・メディア l top ▲
今朝、テレビを観ていたら、「麻原彰晃死刑囚の死刑執行」「ほかの数人も執行見込み」という「ニュース速報」が流れたのでびっくりしました。

執行前に「ニュース速報」が流れるなんて前代未聞です。死刑執行が事前にメディアにリークされたのでしょう。まるで死刑が見世物にされたようで、オウムだったらなんでも許されるのかと思いました。

それからほどなく、つぎつぎと残り6名の執行を告げるテロップが流れたのでした。それは、異様な光景でした。一度に7名の人間が”処刑”されるなんて、先進国ではあり得ない話です。

死刑を報じるメディアの論調も、「当然」というニュアンスで溢れていました。被害者の家族だけでなく、長年オウムを取材してきたジャーナリストも、ニュースを解説する識者も、街頭インタビューに答える市民も、みんな一様に「当然」という口調でした。どんな事情であれ、人の命が奪われることを「当然」と考える感覚に、私は違和感を覚えざるをえませんでした。オウム真理教も、タントラ・ヴァジラヤーナという教義では、人の命を奪うことを「ポア」と称して救済=「当然」と考えていたのです。

今日の死刑執行に対して、EU駐日代表部は、EU加盟国、アイスランド、ノルウェー、スイスの各駐日大使とともに、日本政府に執行停止の導入を訴える共同声明を発表したそうです。


声明では、「死刑は残忍で冷酷であり、犯罪抑止効果がない。さらに、どの司法制度でも避けられない、過誤は、極刑の場合は不可逆である」と主張しています。でも、このニュースはほとんど報じられることはありませんでした。

今日の執行には、平成の間に事件の処理を終わらせたいという法務省の意向があると言われています。ニュースを解説する識者の、これでひとつの区切りが付いたというような発言も、それに符合するものでしょう。オウムの死刑囚は13名ですから、あとの6名も、平成の間に執行されるのは間違いないでしょう。「恩赦」や「再審請求」を封じるためという見方もありますが、そうやって人の死を政治的意図で操作する発想にも、違和感を抱かざるを得ません。

宮台真司氏が朝日新聞のインタビューで言っているように、オウムはすぐれて今日的な問題なのです。”オウム的なもの”はますます社会の隅々まで浸透しているのです。決して他人事ではないのです。オウムが私たちに突き付けた問題は、何ひとつ解決してないのです。オウムの事件に区切りを付け、歴史の片隅に追いやろうとする考えこそ反動的と言えるでしょう。


関連記事:
オウムは終わってない
2018.07.06 Fri l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談に関して、アメリカのニュースサイト・「BUSINESS INSIDER」の日本版に、下記のような記事が掲載されていました。

BUSINESS INSIDER JAPAN 
"世界のリーダー"アメリカの終わりが見えてきた? アメリカの記者が見た、米朝首脳会談

次のリードに、記事の要点が示されています。

•アメリカのトランプ大統領は12日(現地時間)、北朝鮮と和平交渉をしている間は韓国との軍事演習を中止すると述べた。

•そうしている間にも、アメリカは国際社会における支配的な地位を失うかもしれない。

•軍事演習なしでは、在韓米軍は弱体化するだろう。和平交渉が続けば、その存在意義も損なわれるだろう。

•トランプ大統領の望み通り、米軍が韓国から徹底することになれば、中国のアジアひいては国際社会におけるプレゼンスは高まるだろう。

•トランプ大統領と北朝鮮の金正恩氏は12日、世界の新たな未来を語ったが、その新たな未来をリードするのはアメリカではなく中国かもしれない。


日本のメディアではどうしてこういった記事が出て来ないのだろうと思います。どこも揃って、旧宗主国の卑屈な精神で書いたようなネガティブな記事ばかりです。特にひどいのが、テレビ局や新聞社の「解説委員」「編集委員」と言われる人間たちです。彼らは、平日にお定まりのくだらないコメントで顔を売り、週末に講演でお金を稼ぐ、ワイドショーのコメンテーターとどう違うのだろうと思います。日本のメディアの手にかかると、米朝首脳会談も、日大の悪質タックル問題や和歌山のドン・ファン変死事件などと同じレベルで扱われるのです。

節操もなく、慌てて金正恩とのトップ会談を模索しはじめた安倍首相の姿は、もはや滑稽ですらあります。文字通り「宰相A」の醜態を晒していると言っていいでしょう。案の定、北朝鮮から「拉致問題は解決済み」とゆさぶりをかけられ、「(日本は)無謀な北朝鮮強硬政策に執拗にしがみついている」「日本はすでに解決された拉致問題を引き続き持ち出し、自らの利益を得ようと画策した」(15日の平壌放送)などと牽制される始末です。それでも、「宰相A」は拉致被害者の家族を官邸に呼んで、「日朝首脳会談による拉致問題解決を目指す決意を伝えた」そうです。でも、その「決意」の中身は、従来からくり返している空疎な原則論にすぎません。

日本政府が「拉致被害者全員の即時帰国」にこだわっている限り、北朝鮮が「解決済み」の姿勢を崩すことはないでしょう。「全員の即時帰国」というのは、「妥協の余地がない」と言っているも同然です。一方、北朝鮮が「解決済み」とくり返すのは、「(落としどころを)なんとかしろ」というメッセージでもあるのだと思います。しかし、国内向けに「全員の即時帰国」が交渉の前提だと大見得を切った手前、日本政府もおいそれとその旗を降ろすことはできないのでしょう。拉致問題は、勇ましい声とは逆に、このように自縄自縛になっているのです。そもそも、交渉の叩き台となるべき「調査報告書」を受け取ることができない(受け取っても公表できない)状態で、首脳会談を模索すること自体、自家撞着と言われても仕方ないでしょう。

蓮池透氏は、太田昌国氏との対談『拉致対論』(太田出版・20009年刊)で、次のように言っていました。

 私はいつも、拉致問題を北方領土化させて欲しくないと言っています。北方領土は今も物理的に残っていますが、拉致被害者は永遠に残るものではありません。時間の経過によって、当事者も、その家族も、消え去ってしまうかもしれない。日本政府はそれを待っているのではないかという穿った見方さえしてしまいます。


 私は、地村さんが拉致問題には「歴史的な過去の問題が背景にある」と手記に書いておられたのを、あれは北朝鮮で習ったことかもしれませんが、非常に重い言葉だなと思いました。当人が言うのは悲しい話です。拉致されて北朝鮮に連れて行かれたにもかかわらず、こういう発言をさせてしまうというのは、北朝鮮が悪いというよりも、この問題をほったらかしにしてきた日本というのは何なんだと思ってしまいます。


(略)締め上げろ締め上げろでは状況は動かないと思います。感情的な部分ばかりが誇張されて制裁が決議されているように感じます。(略)
 核と拉致とミサイルを包括的に解決するという言い方がありますが、私は核が解決したからといって拉致問題が自動的に解決されるとは思えない。拉致と核は別物だと思っています。包括的と言うと聞こえはいいですが、それはまやかしではないでしょうか。拉致問題は、核が一段落した時点で改めてスタートするのではないかと思っています。


蓮池氏の発言は2009年当時のものですが、この10年間、蓮池氏が言ったとおり、「締め上げろ締め上げろ」という「感情的な部分ばかりが誇張され」て、状況がまったく動かなかったのは事実でしょう。

蛇足を承知で言えば、政府が「全員の即時帰国」は現実的ではない、無理だとはっきり言うべきなのです。それこそ政治の責任で、家族を説得すべきです。その上で、「調査報告書」を叩き台に、文字通り覚悟をもって交渉に当たるべきなのです。メディアと一緒になって荒唐無稽な強硬論を主張し、北朝鮮に対する憎悪の感情を煽るだけでは、一国の政治を預かる者としてきわめて無責任と言わねばなりません。自民党内にも、安倍政権がつづく間は拉致問題の解決は難しいのではないかという声があるそうですが、いちばん現実を直視しなければならない人間がいちばん現実から目を背けているのですから、なにをか況やです。

たとえば、どうして拉致がおこなわれたのかという“初歩的な事実”さえ、国民には知らされてないのです。よけいなことは考えるなと言わんばかりに、いつもただ憎悪の感情を煽られるだけです。また、私たち自身も、「許せない」「かわいそう」という感情に流されるだけで、拉致問題を客観的に冷静に考えることを怠っていたのはたしかでしょう。

『北朝鮮 秘密集会の夜』(1994年刊)の著者・李英和氏は、1992年北朝鮮の朝鮮社会科学院に留学した際、監視兼世話役の教官から、次のような「拉致講義」を受けたそうです。

1.講義の場所は宿舎の部屋の中ではなく、公園で歩きながら。秘密警察の盗聴を嫌ってのこと。拉致は、秘密警察ではなく、工作機関の犯行と管轄なので。

2.工作機関による計画的な日本人拉致作戦は、1976~1987年の間に金正日(キム・ジョンイル)の指示で実施。「それ以前とそれ以降はやっていない」と断言。(当時、後継者候補の金正日が拉致作戦を立案・指揮していた。)

3.背景は経済計画の失敗(71年~「人民経済発展6カ年計画」)。汚名挽回のため、金正日が新機軸の対南(南朝鮮=韓国)テロ作戦を発動。経済破綻で全面戦争ができなくなったので、戦争の代わりにテロを立案。

4.同作戦により急遽、対南潜入工作員の大量養成が必要になり、その訓練の一環で日本人拉致を実施。新米(しんまい)工作員の敵国への潜入訓練の場として、海岸警備の手薄な日本海側を利用。教官は「潜入訓練完遂の証拠品として"日本人"の拉致を要求したので、拉致対象の年齢・性別・職業等は問わなかった」と説明した。そのせいで、近くの浜辺で手当たり次第に拉致。当時まだ女子中学生だった横田めぐみさんが連れ去られることになった。

5.沖合の母船から5人乗りゴムボートで海岸に3人の新米工作員が潜入。空席は2名なので、拉致は最大2名までが限界。アベックの「失踪」が多いのはそのせい。

6.金日成の名前で「拉致した日本人は絶対に殺さず、生かして平壌に連れ帰れ。拉致被害者は平壌近郊で『中の上』の暮らしをさせるから、安心して拉致して連れ帰れ」という厳命が下された。そのこころは、無関係な日本人の民間人を殺害することになれば、新米工作員に戸惑いの心理的動揺をきたし、訓練の失敗につながるおそれがあるから。したがって、拉致被害者は誰も現場で殺害されたり、日本海でサメの餌にされたりすることなく、平壌の工作機関の拠点まで生きて連れ去られた。

7.北到着後も「絶対に死なせるな」という金日成の厳命は生きた。工作機関は管理・監督責任を厳しく負わされるので、事故や病気での死亡を厳格に防いだ。「本人が死にたいと思っても、自殺もできない」という監視下で暮らした。

8.拉致被害者は工作機関の管轄区域内で5~6人一組で隔離生活させる都合上、被害者に与えられる仕事は「共通の特技」である日本語の教育係ぐらいしかなかった。したがって、何らかの特技を狙ったり、日本語教師をさせたりする目的で拉致したのではけっしてない。あくまでも訓練の証拠品。

9.作戦期間が10年余りなので、その間の上陸訓練の実施回数の分(1回最大2名)だけ拉致被害者が存在する計算になる。私はおよその人数を尋ねたが、講師は「正確には知らないが、とにかく大勢」と答えた。

(注1)91年当時は日本人拉致事件の北朝鮮犯行説は「半信半疑」で定説化していなかった。その中で、私に北犯行説を「自供」したのは驚愕の出来事だった。その当時、拉致問題解決を糸口に日朝国交樹立による賠償金狙いの戦略を既に固めていたものと見られる。賠償金獲得の動機は、91年から本格化する北朝鮮の密かな核開発の資金源だった。その目論見が2002年まで延期、ずれ込んだのは北で大飢饉(93~99年)が勃発したからと思われる。

(注2)以上の説明は日本人拉致問題の本筋に関するもので、ヨーロッパを舞台とする「よど号ハイジャック犯」による日本人留学生と旅行客拉致の「番外編」は含まれない。この番外編については、実行犯の「Y」(有本恵子さん拉致犯)から、個人的に全容の説明を聞いたが、あくまでも番外編なので今回は省略。

(注3)拉致作戦が76年に開始されたもうひとつの理由は、ベトナム戦争の終結(75年)。北はベトナム戦争が永遠に泥沼化することを願ったが、その願いに反して75年に北ベトナムの勝利で戦争が終結。米軍が韓国と日本に引き揚げ、朝鮮半島でベトナム戦争敗北の雪辱を期する事態に発展。これに慌てた金父子が非対称の対抗策としてテロ作戦を立案・発動した。

Newsweek日本版
「拉致被害者は生きている!」──北で「拉致講義」を受けた李英和教授が証言


感情を脇に置いて、冷静に考えること(分析すること)も、拉致問題を解決する上で大事なことでしょう。なにより戦争より平和がいいという考えこそ冷静なものはないのです。


関連記事:
『拉致被害者たちを見殺しにした安部晋三と冷血な面々』
2018.06.16 Sat l 社会・メディア l top ▲
米朝会談に対しては、日本国内でも「期待外れ」という声が多く聞かれます。なにが「期待外れ」なのかと言えば、共同声明にCVIDの道筋が具体的に明記されなかったことがいちばん大きいようです。要するに、政府もメディアも国民も、軍事攻撃の代わりに、今度はCVIDで北朝鮮を無力化することを期待していたからでしょう。

しかし、何度もくり返しているように、CVIDは所詮は「絵に描いた餅」にすぎないのです。非核化も、拉致問題と同じで、外交カードにすぎないのです。落としどころをどこにするかなのです。

今回の首脳会談は、国交がない国の首脳同士が初めて顔を合わせる「異例」の会談です。従来のよくある首脳会談と違って、会談自体はあくまで”出発点”なのです。

いづれにしても、これから長い時間をかけて、非核化や国交正常化の交渉をおこなうことが決定したのです。両首脳によって、その号砲が鳴らされたのです。最初から結論を求めるメディアの論調自体が、ないものねだりのトンチンカンなものであるのは言うまでもありません。

落としどころがどこになるか(双方がどこで妥協するか)、これから注視する必要がありますが、ただ、膨大な時間と費用を要するCVIDなんてそもそも実現不可能だ、という声のほうがホントなのだろうと思います。

むしろ、共同声明を発表できただけでも、大きな成果だと言えるでしょう。共同声明には、戦争の終結、国交正常化、非核化に向けて努力していくことがはっきりと謳われているのです。それだけでもすごいことだと思いました。

私は、会談のあとのトランプの会見も感銘を受けました。日本の政治家だったら、あそこまでオープンな会見はやらないでしょう。安倍や麻生や二階の不遜な態度と比べると、雲泥の差があります。私は、トランプを少し見直しました。

トランプが会見のなかで、グアムから朝鮮半島まで戦闘機を飛ばして訓練するのはお金がかかりすぎる、「戦争ゲーム」をやめれば無駄なお金を使わなくて済むと言ってましたが、まさにそこに、トランプが主張するアメリカ・ファーストの本音が出ていたように思います。

言うまでもなく、トランプのことばの背後にあるのは多極主義です。“世界の警察官”をやめる(やめたい)ということです。そんなアメリカ·ファーストの本音など理解すべくもなく、ただCVIDで北朝鮮を無力化してもらいたいと願う人たちにとって、今回の会談結果が、「アメリカが前のめり」「北朝鮮のペース」と映るのは当然かもしれません。

一方で、米韓軍事演習の凍結まで示唆したトランプの発言に、日本政府が「驚いた」という報道には、逆にこっちが驚きました。防衛省の幹部は「予想外だ」と言ったそうですが、そんな感覚では、これから東アジアの覇権が中国に移るにつれ、ホントに口から泡を吹いて卒倒してもおかしくないような衝撃を何度も受けることになるでしょう。


追記:
米朝首脳会談に対してネガティブな報道がつづくなか、下記にような多極化に関する報道もいくつか出てきました。(6/14)

AFP
米、韓国との主要演習を「無期限停止」 米高官
CNN.co.jp
トランプ米大統領は在韓米軍を朝鮮半島から撤収する可能性も示唆
2018.06.13 Wed l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談を二日後に控え、既にトランプと金正恩の両首脳もシンガポールに入りました。いよいよ掛け値なしの「歴史的な会談」が始まろうとしているのです。

一方で、米朝首脳会談の前にカナダで開かれたG7でも、アメリカ・ファーストを貫き、孤立することをも厭わないアメリカの姿勢に、唯一の超大国の”本心”が示されているように思いました。それは、言うまでもなく、多極主義です。アメリカが唯一の超大国の座からおりるということです。唯一の超大国の座からおりるということは、“世界の警察官”の役目もやめるということです。

田中宇氏は、著書やブログなどで、そのことをずっと言いつづけていました。私が、このブログで、田中氏の主張を借りて、アメリカの多極主義について初めて書いたのは、ちょうど10年前のリーマンショックのときでした。

関連記事:
世界史的転換

田中宇氏については、特にネットにおいて、キワモノ、トンデモ思想というような誹謗中傷も見られますが、しかし、この10年間の世界の流れを見ていると、田中氏が主張するとおり、世界が多極化の方向に進んでいることは明らかでしょう。

朝鮮半島についても、日本のメディアは、今にもアメリカの軍事攻撃が始まるかのように囃し立てていましたが、現実はまったくの逆でした。日本のメディアは、ここに至っても、金正恩のホテル代がどうのとか、ファーストコンタクトがどうなるか(握手をするのかハグをするのか)、それが会談の成否のカギになるなどと、どうでもいいような話をさも意味ありげにするばかりです。それでは、朝鮮半島に対する日本の世論がトンチンカンなのも当然でしょう。

世界では160ヵ国以上の国が北朝鮮と国交を結んでおり、北朝鮮と国交がないのはごく少数で、むしろ例外と言ってもいいくらいです。北朝鮮は如何にも「国際社会」から孤立しているかのようなイメージがありますが、実際は世界の大部分の国と「友好関係」にあるのです。日本のメディアによってふりまかれるイメージと違って、平壌の街角で出会った人々が意外なほど華やかで開明的(資本主義的)だというのは、ゆえなきことではないのです。

韓国は当然としても、アメリカと国交がないのは、ひとえに朝鮮戦争が休戦状態にあるからにほかなりません。休戦(戦争)状態が解消されれば、アメリカが自国の利益と照らし合わせながら、大胆な政策転換をおこなう可能性はいくらでもあるでしょう。

12日の首脳会談について、講釈師(専門家)たちはさまざまな「焦点」を並べていますが、会談の焦点は一つに集約されるのだと思います。それは、朝鮮戦争を終わらせるかどうか、その道筋を付けることができるかどうかです。その一点に尽きるのです。戦争を終わらせないことには、国交正常化も非核化もなにもはじまらないのです。

そして、朝鮮戦争の終戦が、単に戦争の終結にとどまらず、東アジアの政治秩序に、文字通り歴史的な転換をもたらすことになるのは間違いないでしょう。田中宇氏が「田中宇の国際ニュース解説」の最新記事で書いているように、朝鮮戦争の終戦宣言がおこなわれると、米軍(法的には国連軍)が韓国に駐留する法的根拠がなくなるのです。そうなれば、当然、米軍が韓国から撤退することになるでしょう。

さらに、韓国から撤退すれば、日本に駐留する意味も小さくなるので、行く行くは日本からも撤退することになるでしょう。こうして東アジア(というかアジア全体)の覇権が中国に移っていくのです。メディアは、本来、そういった会談の本質にあることを伝えるべきなのです。

田中宇の国際ニュース解説
在韓米軍も在日米軍も撤退に向かう

しかも、非核化交渉においても、建て前はともかく、実際は曖昧なまま妥結される可能性が高いと言われています。そうなれば、(何度も書いているように)実質的に核を保有する北朝鮮が、中国に手を引かれ東アジアの政治の表舞台に本格的に登場することになるのです。それは、日本にとって、口から泡を吹いて卒倒してもおかしくないほど衝撃的なものがあると言えるでしょう。

「東アジア共同体」構想や朝鮮半島の融和を求める平和外交を一笑に付し、自衛隊が平壌に侵攻して拉致被害者を奪還すればいいというようなトンデモ強硬論に感化され、アメリカの軍事攻撃をひたすら希求した日本の世論は、痛烈なシッペ返しを受けたと言ってもいいでしょう。北朝鮮の平和攻勢とアメリカの多極主義に翻弄され、その狭間で右往左往しているこの国の総理大臣のみっともない姿が、なによりそれを物語っています。

朝鮮戦争が正式に終われば、北朝鮮の豊富な地下資源をめぐって国際資本の争奪戦がはじまることでしょう。そして、北朝鮮は目を見張るような経済発展を遂げるに違いありません。北朝鮮が経済発展するのは、朝鮮半島の平和にとってもいいことです。それをいいことと思わないのは、日本の世論がトンチンカンだからです。

ただ、その一方で、置き去りにされようとしている問題があることも忘れてはならないでしょう。1980年に初めて拉致事件を紙面で取り上げた産経新聞の元記者・阿部雅美氏の『メディアは死んだ 検証・北朝鮮拉致報道』(産経新聞出版)や、国連の北朝鮮の制裁に関する「捜査」に携わった、国連安保理・北朝鮮制裁委員会の専門家パネル元委員の古川勝久氏の『北朝鮮 核の資金源』(新潮社)などを読むと、「歴史的な会談」が手放しで礼賛されるものではないことを痛感させられるのでした(だからと言って、日本のメディアのように、会談が破談すればいいなんて思いません。戦争より平和がいいに決まっています)。また、2009年に出版された太田昌国氏と蓮池透氏の対談『拉致対論』(太田出版)を読み返すと、あらためて拉致問題の本質を考えないわけにはいかないのでした。矛盾したことを言うようですが、こういった天の邪鬼な視点も大事なのだと思います。ここまできたら、逆に浮かれるのは慎まなければと思うのでした。

当然ながら、米朝会談の次に日朝会談を期待する声も出ており、安倍首相もいつ宗旨替えしたのか、日朝会談の開催を呼び掛けたなんてニュースもありました。しかし、北朝鮮から見れば、日本は主体性のない(チュチェ思想!)アメリカのポチにすぎません。それに、自分たちを植民地支配した国です。北朝鮮はここぞとばかりに強気に出るでしょうから、「拉致被害者全員の即時帰国」が前提の交渉では、成果を得るのは難しいと言わねばならないでしょう。蓮池透氏が言うように、落としどころ(妥協点)を決めないことには交渉のしようがないのです。

北朝鮮が日本のお金をあてにしているなんて話も、如何にも上から目線の旧宗主国の見方にすぎません。そういった上から目線とトンチンカンな世論は表裏一体のものです。日本政府は、拉致問題の解決が国交正常化の前提だと言ってますが、それを言うなら、日本の植民地支配の清算も、同様に国交正常化の前提のはずです。日本人は、そのことを忘れているのです。


関連記事:
北朝鮮の改革開放
米朝首脳会談と「奴隷の楽園」
米朝首脳会談とこの国のメディア
南北首脳会談とこの国の「専門家」
夜郎自大な国と南北首脳会談
2018.06.10 Sun l 社会・メディア l top ▲
昨日今日とたてつづけに、朝日新聞に「秋葉原事件」に関連する記事が掲載されていました。どうしてだろうと思ったら、事件が起きたのが2008年6月8日で、ちょうど今日が10年目に当たるのだそうです。

朝日新聞デジタル
秋葉原事件10年、死刑囚の父は今 明かりともさず生活
秋葉原で重傷、「なぜ」追い求め10年 死刑囚との手紙
「絶対に忘れない」 秋葉原無差別殺傷事件から10年
秋葉原で重傷の男性、発生時間に献花「10年は通過点」
今なお共鳴、加藤死刑囚の孤独 ネットに書き込み絶えず

私は、以前、加藤智大が書いた『東拘永夜抄』を読んだことがありますが、そこにあるのは、中島岳志氏も指摘しているように、青森県で有数の進学校に入ったものの、周囲が期待する大学に進むことができなかった挫折をいつまでも引き摺るナイーブな心と、たとえ仲のいい友達がいても心を通わせることができない孤独な心でした。そのため、人間関係が原因で何度も会社を辞めているのでした。

そして、行き着いたのが、派遣工として派遣会社を転々とする生活でした。派遣会社が用意したアパートでのかりそめの生活。それは、飯場を渡り歩く昔の労務者(自由労働者)と同じです。ただ、「派遣」や「ワンルームマンション」など、呼び方が現代風に変わっただけです。そんな生活では、ナイーブな心や孤独な心がますます内向していくのは当然でしょう。

秋葉原事件も、大阪教育大学附属池田小学校の事件や土浦の通り魔事件と同じように、自暴自棄な自殺願望が衝動的な犯罪へ向かったと言えるのかもしれません。ただ、その背景には、個人のキャラクターだけでは捉えきれない、社会的な問題も伏在しているように思います。生きづらさを抱く若者をさらに孤立させ追いつめていったものが、この社会にあったのではないか。

手前味噌ですが、私は、事件直後に下記のような記事を書きました。読み返すと、多少の事実誤認はあるものの、リアルなのは右か左ではなく上か下なのだとあらためて思うのでした。

関連記事:
秋葉原事件
2018.06.08 Fri l 社会・メディア l top ▲
歴史社会学者・小熊英二氏が、朝日新聞の「論壇時評」に興味ある記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)観光客と留学生 「安くておいしい国」の限界

国連世界観光機関(UNWTO)の統計では、2000年から2017年で、国際観光客到着数は2倍に増えたそうです。そのため、世界のどこに行っても、「マナーの悪い観光客に困っている」という話を聞くようになったのだとか。

今は世界的な観光ブームと言ってもいいのかもしれません。そのいちばんの要因は、グローバル資本主義によって、かつて「中進国」と言われた中位の国々が底上げされ豊かになったからでしょう。もちろん、その“豊かさ”が格差とセットであるのは言うまでもありません。

一方、日本は、2016年の国際観光客到着数で世界16位です。ただ、増加率が高く、2012年から2017年で3倍以上になったそうです。

日本の観光客数が急増したのも、中国や韓国や台湾だけでなく、タイ、マレーシア、フィリピン、シンガポール、インドネシアなど、経済成長したアジアの国々から観光客が訪れるようになったからですが、小熊英二氏は、もうひとつ別の理由をあげていました。

日本が「安くておいしい国」になったからだと言うのです。たしかに、「円安」によって観光客が増えたというのは、よく言われることです。

 ここ20年で、世界の物価は上がった。欧米の大都市だと、サンドイッチとコーヒーで約千円は珍しくない。香港やバンコクでもランチ千円が当然になりつつある。だが東京では、その3分の1で牛丼が食べられる。それでも味はおいしく、店はきれいでサービスはよい。ホテルなども同様だ。これなら外国人観光客に人気が出るだろう。1990年代の日本は観光客にとって物価の高い国だったが、今では「安くておいしい国」なのだ。


つづけて、小熊氏は、つぎのように書いていました。

このことは、日本の1人当たりGDPが、95年の世界3位から17年の25位まで落ちたことと関連している。「安くておいしい店」は、千客万来で忙しいだろうが、利益や賃金はあまり上がらない。観光客や消費者には天国かもしれないが、労働者にとっては地獄だろう。


「安くておいしい国」というのは、裏返して言えば、それだけ日本が日沈む国になりつつあるいうことなのかもしれません。外国人観光客が増えたからと言って、テレビのように「ニッポン、凄い!」と単純に喜ぶような話ではないのかもしれません。

日本は、観光客だけでなく、留学生も増えています。なぜ非英語圏の日本に(ベトナムやネパールなどから)留学生が押し寄せているのかと言えば、日本は外国に比べて留学生の就労規則が緩く、「就労ビザのない留学生でも週に28時間まで働ける」からです。しかも、その「週28時間」も、ほとんど有名無実化しているのが実情です。その結果、「留学生」と言う名の外国人労働者が日本に押し寄せているのです。

政府は、昨日(5日)、外国人労働者の受け入れ拡大に向けた「骨太の方針」を決定したばかりですが、しかし、忘れてはならないのは、それは日本が「豊かな国」だからではないのです。3Kの単純労働の仕事で、若くて安い労働力が不足しているからです。ただそれだけの理由です。

一方で、低賃金の外国人労働者の流入が、単純労働の仕事を支えている非正規雇用などの「アンダークラス」の賃金を押し下げる要因になっているという指摘もあります。また、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるという、先進国にあるまじき貧困の現実があることも忘れてはならないでしょう。

しかし、日本人は、『ルポ ニッポン絶望工場』の出井康博氏が書いているように、いつまでも自分たちが豊かだという「上から目線」がぬけないのです。二言目にはアジア人観光客は「マナーが悪くて迷惑だ」と言いますが、そんな「マナーが悪い」アジア人観光客が既に自分たちより豊かな生活をしている現実は見ようとしません。と言うか、見たくないのでしょう。(こんなことを言うと発狂する人間がいるかもしれませんが)そのうち北朝鮮だって、日本より豊かになるかもしれません。100円ショップの商品まで持ち出して「ニッポン、凄い!」と自演乙するのも、そんな哀しい現実から目を反らすための、引かれ者の小唄のようにしか思えません。


関連記事:
『新・日本の階級社会』
『ルポ ニッポン絶望工場』
2018.06.06 Wed l 社会・メディア l top ▲
今日、Yahoo!ニュースが、次のような産経新聞の記事をトピックスに掲載していました。

Yahoo!ニュース(産経新聞)
新潟知事選は総力戦 野党…参院選へ共闘試金石×与党…敗北なら総裁選に影

産経新聞は、与党候補「優勢」という事前予想を受け、陣営の引き締めを狙っているのかと思いましたが、もっと深読みすれば、この選挙で、安倍三選の道筋を付けようとしているのかもしれないと思いました。それくらい与党は”余裕”なのです。

一方、野党側は、下記の田中龍作ジャーナルの記事が示しているように、原発再稼働の問題と沖縄の基地問題を結び付けることで、選挙運動の盛り上げを狙っているかのようです。と言うか、そうやって実質的な野党統一候補を実現させたことを自画自賛しているのです。

田中龍作ジャーナル
【新潟県知事選】「安倍政権はありったけの暴力と権力でやってくる」

しかし、私は、ここにも、相変わらず「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」(ブレイディみか子氏)左派の姿があるように思えてなりません。

原発再稼働の問題と沖縄の基地問題がどう関係があるのか。と言うと、左派リベラルの人たちは激怒するかもしれませんが、少なくとも有権者はそんな感覚ではないでしょうか。

そもそも原発再稼働の問題にしても、ホントに選挙の争点になるのか、私は疑問です。原発再稼働の問題は、選挙の争点になるような(争点にするような)問題ではないのではないか。

新潟の知事選に沖縄の基地問題をもってくるやり方が、左派特有の夜郎自大なご都合主義の所産であるのはあきらかでしょう。そうやって「野党共闘」が演出され、大衆運動が政党や党派に引き回されるのです。言うなれば、左派のお家芸のようなものです。

もちろん、左派リベラルと呼ばれる人たちの多くが、マルクス・レーニン主義と無縁であるのは言うまでもありません。彼らを「極左」と呼ぶネトウヨは、よほどの無知蒙昧か誇大妄想としか言いようがありません。ただ一方で、彼らのなかに、「前衛主義」のような発想があるのは否定しえないでしょう。

最近、左派リベラルの一部のグループがカルト化しているという声がありますが、カルト化していると言われるグループのSNSなどを見ると、たしかに(どうでもいい)自己を正当化するために身近なところに敵を見つける、党派政治にありがちな隘路に陥っているように思いました。それもいつか見た風景です。そこにも左翼の悪しき伝統が影を落としているように思えてなりません。

左派リベラルは、今回も、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所」でまどろみ、産経新聞の目論見どおり、安倍三選の道筋を付けることに一役買うことになるのでしょうか。なんだか産経新聞の高笑いが聞こえてくるようです。


関連記事:
ものみな”選挙の宣伝”で終わる
2018.06.04 Mon l 社会・メディア l top ▲
先日、LGBTを告白した勝間和代氏に対して、「芸能界からも温かい声」というような記事がありました。メディアの受け止め方も好意的なものばかりです。

電通は、「電通ダイバーシティ・ラボ」という専門組織を立ち上げ、「LGBT市場規模を約5.9兆円と算出」しているそうです。LGBTも既に美味しいビジネスになりつつあるのです。もちろん、だからと言って、性の多様性を認める社会に異議を唱える者などいようはずもないのです。

と思ったら、久田将義氏が編集長を務めるニュースサイト・TABLOに、勝間氏のカミングアウトに対して、「批判的な声が浴びせられている」という記事が出ていました。

TABLO
LGBTを告白した勝間和代さんに早くも「ビジネスLGBTでは」の声

・じゃあもう少し、弱者やマイノリティに優しい人であってくれ
・おっ今はLGBTブームなんや! それで本でも書いたろ!
・LGBTが流行ってるから一枚かんでおこうという下衆な魂胆
・こいつ大人の発達障害が話題になった時も 自分は「発達障害かもしれない」 とかカミングアウトして すぐに、講演会開いて、イベント開いて、NPOから発達障害の普及大使かなんかに任命されて 執筆したりしてたよな 今度はLGBTか
・この前隠れ巨乳なこともカミングアウトしてたよな
・娘もいい年だろうにそんな母親のカミングアウト聴きたくないだろ
・これ単なる生々しい性癖の告白だからな
・こいつの趣味 PC、バイク、麻雀... 料理もするが、見栄えより効率重視 男性脳は男性脳だわな
・バイクゴルフ麻雀全部飽きたっぽいし同性愛もすぐ飽きるだろ
・ものすごい生き急いでる感は結構好き


私は、2ちゃんねるが5ちゃんねるに変わったのも知らなかったくらいですが、ネットにはまだこういった声が残っているのかと思うと、少し安心したような気持になりました。「じゃあもう少し、弱者やマイノリティに優しい人であってくれ」というのはまさに至言で、今までの勝間氏を見ていると、今回のカミングアウトが、電通がLGBT市場を試算する話とどこか似たものがあるような気がしてならないのです。

しかし、メディアにそういった視点はありません。ただ同調圧力に与するだけです。もちろん、その同調圧力は、視聴率や売上部数やアクセス数など、ニュースをマネタイズするビジネスにつながっているのです。

メディアの同調圧力がもっとも歪なかたちで出ているのが、日大の悪質タックル問題です。先日は、朝日新聞に元日大全共闘の闘士たち(と言っても、SEALDs大好きの70すぎの爺さんたち)まで登場し、日大の体質は、日大闘争のきっかけになった古田体制の頃からなんら変わってないなどとコメントしていました。文字通り坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、今や日大は日本中から袋叩きに遭っているのです。日大生の就職活動にまで影響を及ぼしているなんて、いくらなんでもそれはないだろうと思いますが、メディアは真顔でそういったニュースまで流しているのです。

日本国民を敵にまわすようですが、あれはどう見てもチーム同士で話し合うような問題でしょう。日大の体質云々は言いがかりのようなものです。日大の体質に問題があるとしても、それはタックルとは別の問題でしょう。日大の対応が遅れたと言いますが、遅れたというより戸惑っていたのだと思います。もちろん、記者会見を開くような問題でも、まして(元水泳選手が偉そうな)スポーツ庁が乗り出すような問題でもないでしょう。問答無用の上下関係や空疎な精神論を強いる日本の学生スポーツの”体育会的体質”が根っこにあると言えば、そう言えるのかもしれません。だとしても、それは日大だけの問題ではなく、関学も同じでしょう。

週刊文春が公開した、試合直後に内田監督が記者たちと談笑していたテープでは、内田監督は、日大のタックルがひどいなんてよく言うよ、1年前の関学はもっとひどかったよというようなことを言ってました。そして、その場にいた記者たちも笑っていたのです。ところが、タックルの映像がYouTubeに上げられると、日大に対する批判が沸き起こり、日大は“国賊”のようになって行ったのです。映像をYouTubeに上げた行為の妥当性についても検証されるべきだと思いますが、そういった意見は皆無です。

監督とコーチの記者会見の際に司会を務め、その横柄な仕切りが炎上した、日大広報部顧問のY氏についても、唯一、スポーツ報知が次のような記事を載せていました。

スポーツ報知
“逆ギレ司会者”にも一分の理…アナウンサーは取材者なのか出演者なのか

こういった「一分の理」を書くことも、ジャーナリズムにとって大事なことではないでしょうか。

さらにこじつければ、眞子さまの婚姻をめぐる報道にも、同じような同調圧力が見え隠れしているように思えてなりません。元週刊現代編集長の元木昌彦氏は、プレジデントオンラインに次のような記事を書いていました。

PRESIDENT Online
"眞子さま報道"で問われる元婚約者の品性

たしかに、小室さんのお母さんがあそこまで叩かれるのなら、その情報を提供した(売った?)人物の素性もあきらかにすべきでしょう。プライベートな個人間のトラブルをメディアに提供する行為は、品性だけでなく、その倫理性も問われるべきです。また、そのリスクも、当然みずからで負うべきでしょう。

ものごとには表もあれば裏もあるのです。見る角度(立場)によって、捉え方が違ってくるのは当然です。多事争論ではないですが、さまざまな角度(立場)から報道するのがジャーナリズムのあり方でしょう。でなければ、どこにものごとの本質があり、真実があるかもわからないでしょう。北朝鮮から日大まで、今のメディアは、ただ同調圧力に与するだけで、誰でも書けるような(文章自動作成ツールでも書けるような)記事を書いているだけです。

メディアは、そやって獲物を見つけ、血祭りに上げることで、ニュースをマネタイズしているのです。この手の血祭りは昔からありましたが、最近は「旧メディアのネット世論への迎合」(大塚英志)によって、報道が増幅されより狂暴になっているように思います。「日大の悪質タックル問題は、いっこうに出口が見えない」などとメディアは言ってますが、メディアが勝手に出口を塞いでいるだけです。そうやってサディスティックになぶり殺すまでやるつもりなのかと思ってしまいます。

メディアにとって、獲物さえ見つかれば、衆愚を煽ることなど赤子の手をひねるくらいたやすいことなのでしょう。しかも、衆愚に右も左もないのです。保守もリベラルも関係ないのです。そして、同調圧力は、まるで集団ヒステリーのように、一切弁明も許さず異論や反論も徹底的に叩く、問答無用なものへとエスカレートして行くのでした。「少し頭を冷やせ」とたしなめる者がいない社会。そんなメディアが主導する同調圧力に、私は全体主義ということばしか思い当たりません。
2018.05.30 Wed l 社会・メディア l top ▲
きのう、南北首脳が、極秘に板門店で二度目の会談をしていたというニュースには驚きました。北朝鮮の朝鮮中央通信もきょう、「金正恩朝鮮労働党委員長が26日に板門店で行われた韓国の文在寅大統領との会談で、『歴史的な朝米首脳会談への確固たる意志』を表明した」と報じたそうです。このすばやい報道も異例です。あらためて金正恩の”本気度”を痛感させられたと同時に、朝鮮半島の融和がもはや後戻りできない段階まで進んでいることを実感させられました。

もろちん、このままスムーズに6月12日を迎えるかどうか、まだ予断を許さないものはあるでしょう。ただ、そのリスクは、金正恩だけでなくトランプにもあるのです。アメリカ側にいる私たちは、ともすれば金正恩のリスクばかりを考えがちですが、トランプのリスクも忘れてはならないのです。

下記のハフポストの記事によれば、平壌などでは、私たちが抱いている全体主義国家の暗いイメージとは違った表情があるそうです。

HUFFPOST
変わる北朝鮮 街中にいちゃこらカップル、そしてセグウェイ…。写真家が見たリアル

記事のなかで、写真家・初沢亜利氏は次のように言ってました。

「(略〉日本人が北朝鮮を仮想敵国として政治利用し、お茶の間で笑いものにしている間に、北朝鮮は粛々と自力更生の道を歩んでいたんですよ」

「『住民を抑圧して食べ物がない国が長く持つわけがない』という過去の妄想を、日本人は捨てきれない。ただ、北朝鮮は明らかに前例のない発展をしています。(略)」


ミサイル発射の現場で、黒ずくめの恰好で眉間に皺を寄せ、煙草を口にくわえて指示している金正恩の姿ばかり流しているこの国のメディアでは、決してわからない「あたらしい流れ」がずっと前からはじまっていたということなのでしょう。

北朝鮮は、2003年にNPTを脱退したときから、本格的な核開発に着手したと言われています。そして、核を取引材料にアメリカと直接交渉して、経済的な発展を目指すロードマップを描いていたという話がありますが、あながち嘘ではなかったのかもしれません。そもそも三代目の跡取りをわざわざ資本主義国(永世中立国)のスイスで教育を受けさせたのも、将来の進むべき道を考えたものだったのかもしれません。

一方、トランプの「中止」表明を受けて、会談そのものが流れたかのように大騒ぎしていたこの国のメディアは、一日経つと180度違うニュースを流しています。彼らはただ米朝の情報戦に踊らされ右往左往しているだけです。そんないい加減なニュースを真に受け、アメリカが北朝鮮を攻撃すると本気で思っていたYahoo!ニュースのネトウヨたちは、このめまぐるしい展開にどうやって正気を保っているのだろうと逆に心配になってきました。

金正恩の一連の言動や行動を見ていると、もしかしたら本気でアメリカ主導のCVIDを受け入れるつもりかもしれないとさえ思えてきます。北朝鮮は、「非核化」を担保に、核開発と経済発展の二本立ての並進路線から経済優先へと舵を切ろうとしているのですが、金正恩の命運がどうなるかは別にして、うまく着地点を見い出せれば、私たちは、やがて中国と同じような改革開放の経済発展した姿を、北朝鮮に見ることになるでしょう。

北朝鮮が、金日成の遺訓で昔から教育に力を入れていたのはよく知られています。北朝鮮は、(皮肉ではなく)もともと短期間で核開発を成し遂げたり、外国の政府機関を標的にしたサイバー攻撃をおこなったりするような”優秀な頭脳”をもっているのです。トランプが言うように、経済による国造りに向かえば、そういった”優秀な頭脳”が「豊かな人的資源」になるのは間違いないでしょう。

北朝鮮には、レアメタルだけでも数百兆円分が埋蔵されていると言われています。そんな豊富な地下資源と「豊かな人的資源」。あと足りないのは、資金だけなのです。

ワイドショーで、デーブ・スペクターの会社(スペクター・コミュニケーションズ)が提供する「中国は遅れた貧しい国」の映像を見て嘲笑っている間に、気が付いたら、私たちよりはるかに豊かな中国人が大挙して観光にやってくるようになっていたのです。そして、卑屈な日本人は、さも迷惑そうな顔をしながらも、陰では揉み手して「熱烈歓迎」するようになっていたのです。資本主義国で教育を受けた独裁者の”英断”によって、北朝鮮もまた中国と同じ道を歩みはじめた(はじめようとしている)と言っていいでしょう。


※前回の記事(米朝首脳会談と「奴隷の楽園」)の「追記」として書いたものを、一部書き加えて独立した記事にしました。
2018.05.27 Sun l 社会・メディア l top ▲
首脳会談を来月に控え、米朝双方の駆け引きが激しくなっていますが、「延期」や「中止」を仄めかすのではなく、トランプがいきなり「中止」を表明したのには、さすがにびっくりしました。

びっくりしたのは、北朝鮮も同じだったみたいで、すぐに金桂寛第一外務次官が談話を発表したのですが、それは、メディアがヤユするように、今までの北朝鮮ではあり得ないような低姿勢なものでした。談話では、「我々はトランプ大統領が過去のどの大統領も下せなかった勇断を下して首脳対面という重大な出来事をもたらすために努力したことを依然として内心高く評価してきた」とトランプを持ち上げた上で、「我々は、いつでも、いかなる方式であれ対座して問題を解決する用意があることを米国側に改めて明らかにする」と交渉の継続をアメリカに乞うているのでした。つまり、それだけ金正恩は本気だったということでしょう。

国際ジャーナリストの高橋浩祐氏は、WEBRONZAで、今回の「中止」表明を「メガトン級の『牽制球』」と呼んでいました。言うなれば、”ショック療法”のようなものかもしれません。

WEBRONZA
トランプ氏 メガトン級の「牽制球」のワケ

高橋氏は、トランプの「中止」表明を「『マッドマンセオリー』の使い手らしい一手」と評していました。「マッドマンセオリー」とは、「何をするかわからないと相手に思わせる狂人理論」だそうです。

今後の展開について、高橋氏も、「長年の悲願であった米朝首脳会議を開催するチャンスを、北がやすやすと蹴っ飛ばす可能性は低い」という見方をしていました。

「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」を求めるアメリカと、「段階的な非核化」(実質的な核保有)を主張する北朝鮮との交渉が難航するのは最初からわかっていたことです。だからこそ、激しい駆け引きがおこなわれていたのです。もとより、米朝首脳会談は、国交のない国の首脳同士が直接顔を合わせる「歴史的な」会談なのです。予想もつかない展開を見せるのも当然でしょう。

高橋氏は、つぎのように書いていました。

 仮に、米朝首脳会談が6月12日に実施されても、今のままでは評価は分かれるかもしれない。

 北朝鮮の非核化に道筋を付け、朝鮮戦争の終結と朝鮮半島の平和をもたらす貴重な機会を確保したとの理由で、トランプ政権の株は上がるかもしれない。

 しかし、その一方で、準備不足の生煮えのままで米朝首脳会談が決行されれば、成果を急ぐトランプ大統領がノーベル平和賞を脳裏に浮かべながら、北朝鮮に譲歩を重ねて、米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)の放棄だけで合意してしまうかもしれない。「完全な非核化」ではなく、中途半端な合意で北朝鮮に一部の核を温存させてしまう恐れがあるのだ。11月の中間選挙を前に、トランプ大統領が功を焦るあまり、北を核保有国として認めさせる金委員長の術中にはまる懸念は小さくない。

 いずれにせよ、トランプ大統領は今、短い期間で、北朝鮮との合意を形成する難しさを薄氷の上を歩むような思いで痛感しているはずだ。米朝首脳会談の中止の撤回を含め、今後の展開から目が離せない。


米朝の駆け引きがどういった落としどころになるのか、素人なりに考えると、まず思い浮かぶのは、アメリカ主導によるCVIDです。しかし、アメリカ主導のCVIDは、リビアのように「永遠の濡れ衣」(田中宇氏)になりかねないので、北朝鮮もおいそれと妥協はできないでしょう。金正恩のたてつづけの習近平詣では、CVIDを前提に「体制保証」を確約してもらうように中国に仲介を依頼したと見えないこともありませんが、しかし、CVIDで妥協するにはハードルが高すぎるし、交渉の時間もかかりすぎるように思います。早急な「歴史的な成果」を求めているのは、11月の中間選挙を控えたトランプも同じなのです。お互いに折り合いをつけるとなると、上記の高橋氏が懸念するように、CVIDを装いつつ実際は北朝鮮の核保有を黙認するか、あるいは田中宇氏が再三書いているように、CVIDの判定に中国を絡ませることで「永遠の濡れ衣」を回避するか、そのどっちかでしょう。そう考えれば、トランプの「中止」表明は、いかにも彼らしい演技(ハッタリ)と見えなくもないのです。

一方、トランプの「中止」表明を受け、この国のメディアが流しているのは、「それみたことか」と拍手喝采を送り、会談そのものが雲散霧消したかのような、文字通りそうなればいいという希望的観測に基づいた(フェイクな)記事ばかりです。不動産屋であるトランプ一流の交渉術を指摘するような報道は皆無です。まして、トランプが”両刃の剣”であることなど、露ほども思ってないようです。この国のメディアは、対米従属を至上の価値とする恥も外聞もない従属思想に寄りかかることで、見えるものも(見なければならないものも)見えなくなっているのです。

白井聡氏は、新著『国体論』(集英社新書)で、「日本は独立国ではなく、そうありたいという意志すら持っておらず、かつそのような現状を否認している」と書いていましたが、たしかに、どうしてアメリカの核が「正義」で、北朝鮮の核が「悪」なのかという、国際政治の”不条理”に対する疑問は、日本中どこを探しても存在しません。保守もリベラルも、核抑止力というアメリカの論理(詭弁)に、「ごもっともでございます」と雁首を並べて膝を折り頭を垂れているあり様です。

白井氏は、この国の戦後を「奴隷の楽園」と呼んでいました。そして、何度も言うように、「奴隷の楽園」では、「愛国」と「売国」がまったく逆の意味に使われているのです。

 ニーチェや魯迅が喝破したように、本物の奴隷とは、奴隷である状態をこの上なく素晴らしいものと考え、自らが奴隷であることを否認する奴隷である。さらにこの奴隷が完璧な奴隷である所以は、どれほど否認しようが、奴隷は奴隷にすぎないという不愉快な事実を思い起こさせる自由人を非難し誹謗中傷する点にある。本物の奴隷は、自分自身が哀れな存在にとどまり続けるだけでなく、その惨めな境涯を他者に対しても強要するのである。
(『国体論 菊と星条旗』)


これでは、日本はアメリカのポチにすぎない(理念のない国だ)、と北朝鮮からバカにされるのも当然でしょう。

多少の紆余曲折はあろうとも、東アジアの「あたらしい流れ」が避けようのない現実(既定路線)であるのはあきらかです。米朝の次は日朝だとか言われていますが、白井氏が言うように、独立国ですらない日本が一筋縄でいかない北朝鮮と交渉するのは、どう考えてもプレイヤーの「格が違いすぎる」と言わざるを得ません。日本のメディアが首脳会談の「中止」表明に拍手喝采を送るのも、できるなら交渉などしたくないというこの国の本音が隠されているのでしょう。

北朝鮮がみずから言うように、ホントに核兵器が完成しているのなら(まだ完成していないという説もありますが)、核を保有する(隠し持つ)北朝鮮が東アジアの政治の表舞台に登場することになるわけで、その衝撃は想像以上に大きいと言えるでしょう。しかも、北朝鮮はレアメタルをはじめ豊富な地下資源をもっており、制裁が解除になって外国資本が入れば経済的に大きく飛躍する可能性があると言われています。そう考えると、会談が「中止」になってほしい、できれば交渉したくない、という”日沈む国”の気持もわからないでもありません。


関連記事:
米朝首脳会談とこの国のメディア
南北首脳会談とこの国の「専門家」
夜郎自大な国と南北首脳会談
2018.05.25 Fri l 社会・メディア l top ▲
米朝首脳会談の日程や場所が具体的に決定しても、相変わらずこの国のメディアは、北朝鮮は信用できないので、会談が決裂する可能性があるというような記事ばかり流していますが、じゃあ、トランプは信用できるのか、と突っ込みを入れたくなりました。メディアが流しているのは、会談が決裂すればいいという希望的観測(対米従属の願望)の記事にすぎません。

先日、朝日新聞に出ていた、トランプ政権が金正恩が飲めないようなハードルの高い非核化プログラムを提示するので、会談が合意に達するか予断を許さないという記事なども、そのひとつです。トランプは不動産屋なので、最初は高くふっかけ、それから徐々にハードルを下げて妥協点を探るのが彼の交渉術だと言われます。朝日新聞は、そんなこともわからないのだろうかと思いました。

このように、「いざとなれば大本営」ではないですが、ここにきて政府と歩調を合わせたプロパガンダのような報道が目に付きます。この国の政府やメディアは、今に至ってもなお、トランプに(軍事行動という)一縷の望みを託しているかのようです。

田中宇氏も、「田中宇の国際ニュース解説」でつぎのように書いていました。

(略)今起きていることの全体を見ると、おそらく今年じゅうに朝鮮半島の対立が終わり、半島から米国勢が出て行き、在日米軍の縮小・撤退が取り沙汰されるところまで行く。マスコミや著名評論家たちは「米朝会談が必ず失敗し、トランプが再豹変して北を先制攻撃してくれるはず」といった「トランプ神風」への願掛けをお経のように唱えているが、彼らを信じるのはもうやめた方が良い。

田中宇の国際ニュース解説
朝鮮戦争が終わる(2)


イランの核合意からの離脱でも、アメリカがイランを軍事攻撃する可能性が出てきたとか、これで北朝鮮が震え上がったに違いないなどと妄想めいた記事が出ていましたが、私は、あのニュースを聞いて、アメリカ抜きで進められたTPP交渉を思い浮かべました。イランも、アメリカが離脱しても合意にとどまると表明しており、TPPと同じように、「非核化」のプロセスがアメリカ抜きで進められるのは間違いないでしょう。

アメリカ抜きで進められるTPPやイランの核合意が示しているのは、アメリカが超大国の座から下りて(転落して)世界が多極化する”世界史的転換”です。トランプの「アメリカ第一主義」も、その言い換えにすぎないのです。金正恩は、トランプの「アメリカ第一主義」をチャンスと見て、”賭け”に出たのでしょう。

何度も言いますが、好むと好まざるとにかかわらず、東アジアの覇権が中国に移るのは間違いないのです。それに伴い、いづれアメリカが(軍事的に)東アジアから手を引くのも間違いないのです。それが朝鮮半島の南北融和の先にある、東アジアの「あたらしい流れ」です。それは昨日今日はじまった話ではありません。アメリカの世界戦略にネオコンが影響力をもちはじめた頃から言われていたことです。

にもかかわらず、対米従属が国是のこの国のメディアは、アメリカがいない東アジアなんて想像すらできないみたいで、東アジアの「あたらしい流れ」から目を背け、前にも増して”アメリカ幻想”をふりまいているのでした。米朝首脳会談はトランプ(様)の胸ひとつと言わんばかりの報道などが、その最たるものです。メディアの言うことを真に受けると、Yahoo!ニュースのコメント欄に巣食うネトウヨのように、見えるものも見えなくなるのです。


追記:
 16日に突然、北朝鮮がマックス・サンダー(米韓の航空戦闘訓練)を理由に、南北閣僚級会談の中止を表明、併せて来月の米朝首脳会談の中止も仄めかしたことで、またぞろ会談が中止になってアメリカが軍事オプションを選択するのではないか(選択してほしい)、というような報道が流れていますが、北朝鮮の表明が「非核化」の落としどころをめぐる駆け引きにすぎないことぐらい、冷静に考えれば誰にでもわかる話です。たしかに朝鮮人は、激情に走って後先を考えずにものを言うところがありますが、これは外交なのです。北朝鮮の「強気」が計算されたものであるのは言うまでもないでしょう。日本のメディアは、米朝の情報戦に踊らされているだけです。
 これから会談の当日まで、「延期」や「中止」を仄めかすような瀬戸際の駆け引きが、米朝双方によってくり広げられることでしょう。そのたびに、メディアはネトウヨと一緒になって発狂し大騒ぎすることでしょう。ついでに北朝鮮サイドに立って言えば、圧倒的な軍事力を誇る「超大国」を相手にするには、中国の後ろ盾も必要だし、「瀬戸際外交」と言われるこのような”ゆさぶり”も必要なのです。独裁政権にも三分の理はあるのです。(5/18)


関連記事:
世界史的転換
2018.05.14 Mon l 社会・メディア l top ▲
新・日本の階級社会


橋本健二氏(早稲田大学教授)の『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)がベストセラーになっているそうです。

本自体は、如何にも大学の先生が書いた本らしく数字のデータが多いので、ややわかりにくくて退屈するきらいがあります。それで、というわけではないでしょうが、『週刊ダイヤモンド』(2018年4月7日号)が、特集(「新・階級社会」)を組んで、同書をわかりやすく解説していました。

日本で格差拡大がはじまったのは1980年前後で、既に40年近く格差拡大がつづいているそうです。その結果、日本の社会に、「生まれた家庭や就職時期の経済状況によって決まる『現代版カースト』ともいえる世界」が現出したのです。

「新・階級社会」は、以下の五つに分かれるそうです。

1.「企業規模5人以上の経営者・役員」で構成される「資本家階級」。
人口の4.1%・254万人。個人の平均年収(2015年)604万円。世帯の平均年収(同)1060万円。

2.「管理職・専門職」で構成される「新中間階級」。
人口の20.6%・1285万人。個人の平均年収(同)499万円。世帯の平均年収(同)798万円。

3.「単純事務職・販売職・サービス職・その他マニュアル労働者」で構成される「労働者階級」。
人口の35.1%・2192万人。個人の平均年収(同)370万円。世帯の平均年収(同)630万円。

4.「自営業者・家族従事者」で構成される「旧中間階級」。
人口12.9%・806万人。個人の平均年収(同)303万円。世帯の平均年収(同)587万円。

5.「非正規労働者(パート・アルバイト・派遣労働者)」で構成される「アンダークラス」。
人口14.9%・929万人。個人の平均年収(同)186万円。世帯の平均年収(同)343万円。

しかも、このなかで、2005年と比べて2015年の個人及び世帯の平均年収がアップしているのは、「労働者階級」だけです。そのため、ほかの階級に属する人たちは、上のクラスに上がるどころか、下のクラスに転落するリスクのほうが大きいのです。

でも、下に転落するクラスがあるだけまだマシかもしれません。最下層の「アンダークラス」は、転落することさえままならず、貧困率や未婚率が上がるだけです。

しかも、「アンダークラス」にとって、外国人労働者の存在も無視できなくなっているのです。外国人労働者は、過去5年間で60万人増えて120万になっているそうです。外国人の低賃金労働者の増加が、「アンダークラス」の賃金が上がらない要因になっているのです。

橋本健二氏は、『新・日本の階級社会』で、「アンダークラス」について、つぎのように書いています。

 収入はきわめて低く、貧困率は三八・七%、女性に限れば四八・五%にも達している。彼ら・彼女らは、安定した家族が形成・維持できない状態にある。男性の有配偶率はわずか二五・七%で、六六・四%が結婚の経験をもたない。女性では離死別者が多く、これら離死別者の貧困率はきわだって高い。


また、『週刊ダイヤモンド』の対談でも、つぎのように言っていました。

橋本 (略)近現代の日本で、初めて貧困であるが故に結婚して家族を構成して子どもを産み育てることができないという、構造的な位置に置かれた人が数百万単位で出現した事実は非常に重いです。
 しかも、上の世代がまだ50歳ですから、あと20年くらい働き続けるかもしれない。その下の世代まで含めると、最終的にはアンダークラスが1000万人を超えると思っています。そのとき、よくやく一番上の人が70歳になり生活保護を受けるようになって、定常状態に達するというのが私が予想する近未来の日本です。
(河野龍太郎氏との対談「再分配の機能不全で”日本沈没”」)


一方で、富が偏在している現状があります。

 野村総合研究所の推計によると、家計のもつ金融資産総額は一四〇二兆円である。しかしこの分布は著しく偏っており、五億円以上をもつ七・三万世帯の超富裕層が七五兆円、一億円以上五億円未満の一一四・四万世帯の富裕層が一九七兆円、五〇〇〇万円以上一億円未満の準富裕層三一四・九万世帯が二四五兆円の金融資産を所有している。合計四三六・六万世帯、全体の八・三%を占めるに過ぎないこれらの世帯の金融資産が、五一七兆円、全体の三六・九%を占めるのである(野村総合研究所「日本の富裕層は一二二万世帯、純金融資産総額は二七二兆円」)。
『新・日本の階級社会』


橋本氏は、この格差を縮小する方法として、階級そのものをなくす社会主義革命は「ひとまず措」くと書いていました。そして、政策的に実現可能な方法として、①賃金格差の縮小、②所得の再分配、③所得格差を生む原因の解消をあげていました。そのためには「リベラル派の結集」が必要なのだと。

なんだか竜頭蛇尾のような話で興ざめせざるを得ません。「リベラル派」って何?と突っ込みを入れたくなりました。社会の構造を根本から変えない限り、格差が解消できないのは論を待たないでしょう。

もっとも、橋本氏も、『現代の理論』(ウェブ版)の論考においては、ルンペンプロレタリアートによる革命(竹中労の言う「窮民革命」)を主張する永山則夫の「驚産党宣言」を引き合いに出して、つぎのように書いていました。

現代の理論(第15号)
「新しい階級社会」とアンダークラス

 アンダークラスの絶望は、しばしば犯罪として噴出する。アンダークラスの全体が犯罪予備軍であるかのような偏見は、慎まなければならない。しかし秋葉原大量殺傷事件を思い出すまでもなく、無差別殺傷事件、サイバー犯罪、振り込め詐欺、野宿者襲撃などで逮捕された若者たちの多くが無職や非正規労働者である。切羽詰まったあげくに、犯罪へと追いやられやすい若者たちが、ある程度の数いるのは否定できまい。

 永山則夫は獄中から、ルンペンプロレタリアートたちに「地下生活者の魂を発起し(原文のまま)、あくまでも地下組織を通じてドブネズミの如く都市を動揺せしめよ。……。強盗よし、暗殺よし、敵権力機構の破壊よし、あらゆる手段・方法を自由に用いて闘わなければならない」と呼びかけた。それが現実のものになっているのかもしれないのである。


犯罪もまた、ある種の”大衆叛乱”と言えなくもないのです。水野和夫氏は、『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)のなかで、グローバリゼーションにとっては、資本が主人で国家は使用人のようなものだ、と書いていましたが、実体経済の数倍の200兆円とも300兆円とも言われるバーチャルなマネーが、金融工学で編み出されたシステムを使い、瞬時の利益を求めて日々世界中を徘徊している金融資本主義にとって、たしかに国民国家なんて足手まといでしかないのかもしれません。株式市場がマネーゲームの賭場と化し、実体経済とかけ離れたものになっているというのは、誰しもが認める現実でしょう。私は、その話を聞いたとき、「資本主義の臨界点としての社会主義」(鷲田小彌太氏)ということばを思い浮かべました。

社会主義や革命なんて、もはや終わった歴史のように考えがちですが、一方で、このようなあらたな階級社会が出現している現実を考えると、(それが悪魔のささやきであることはわかっていても)社会主義や革命の”理想”がよみがえってくるような気がするのでした。「起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し」(「インターナショナル」)という歌詞を再び口ずさむが日が訪れるかもしれません。


関連記事:
「隠れ貧困層の実態」
『女性たちの貧困』
『資本主義という謎』
2018.05.07 Mon l 社会・メディア l top ▲
27日に板門店でおこなわれた文在寅韓国大統領と金正恩朝鮮労働党委員長による南北首脳会談は、「予想」をも裏切るほど画期的なものでした。まさに「歴史的」な会談になったと言ってもいいでしょう。一連の流れが中国(あるいは中朝)主導でおこなわれ、韓国にアメリカとの橋渡しを要請したのは中朝のほうだ、という話は本当ではないかと思いました。いづれにしても、北朝鮮の”本気度”をひしひしと感じました。

同日に発表された「板門店宣言」は、つぎのように謳っています。

The Korean Politics(コリアン・ポリティクス)
[全訳] 「朝鮮半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」【2018南北首脳会談】

3.南と北は朝鮮半島の恒久的で強固な平和体制構築のために積極的に協力していく。

朝鮮半島での非正常的な現在の停戦状態を終息させ、確固とした平和体制を樹立することは、これ以上、先延ばしすることができない歴史的な課題だ。

(1)南と北はいかなる形態の武力も互いに使わないという不可侵合意を再確認し、これを厳格に遵守する。

(2)南と北は軍事的な緊張が解消し、互いの軍事的な信頼が実質的に構築されることにより、段階的に軍縮を実現していくことにした。

(3)南と北は停戦協定締結から65年になる今年に、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制の構築のための南北米3者、南北米中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした。

(4)南と北は、完全な非核化を通じ、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した。

南と北は、北側が行っている主動的な措置が朝鮮半島の非核化のために大きな意義を持ち、重大な措置だという認識を共にし、今後、各々が自己の責任と役割を果たすことにした。

南と北は朝鮮半島の非核化のため、国際社会の支持と協力のために積極的に努力することにした。


当事国の国民ならずとも(同じ東アジアに生きる人間として)、感動を覚える宣言です。

同時に、戦争を回避するために、政治生命を賭けて北朝鮮とアメリカの橋渡しをおこなった文在寅と、排外主義的な「愛国」主義を掲げ、旧宗主国の尊大な態度でネトウヨ的言動をまき散らす安倍や麻生を対比すると、政治家の器の違い、それも大人と子どもほどの違いを痛感させられるのでした。同じ対米従属でも、「愛国」者としての矜持に雲泥の差があるのです。ここにも、「愛国」と「売国」が逆さまになったこの国の戦後の”背理”が示されているように思えてなりません。「愛国心という言葉は嫌いだ」と言った三島由紀夫ではないですが、私たちはまず、この国の「愛国」者こそ疑わなければならないのかもしれません。彼らはホントに「愛国」者なのかと。

韓国の大統領府によれば、金正恩は会談の席上、「『いつでも日本と対話を行う用意がある』と述べた」そうです。

TXNNEWS(テレビ東京)
金正恩氏、日朝対話に意欲表明

これに対し、安倍総理は、「日本も北朝鮮と対話する機会を設け、必要ならば文大統領に助けを求める」と表明し、文在寅も日朝間の対話の橋渡しを「喜んで引き受ける」と述べたそうです。また、安倍総理は、文在寅が会談の席で拉致問題を提起したことに対して、「文大統領の誠意に感謝申し上げたい」と述べたのだとか。

昨日まで、嫌中憎韓を煽っていた「宰相A」が、韓国の大統領に「助けを求める」とは開いた口が塞がりません。これがこの国の「愛国」者なのです。

何度も言っているように、私たちは、民主党→民進党→立憲民主党(+国民民主党)が野党第一党である不幸と同時に、安倍晋三や麻生太郎のような「幼稚な老人」がこの国の指導者である不幸も、併せて痛感せざるを得ないのです。

しかし、それは政治家だけではありません。

私は、首脳会談の中継をテレビ朝日の「ワイド!スクランブル」で観ましたが、スタジオには、辺真一、金恵京、末延吉正、鈴木琢磨、デーブ・スペクターがコメンテーターとして出演していました。

辺真一は、「コリア・レポート」の発行人で、朝鮮問題の専門家。金恵京は、日本大学危機管理学部准教授。末延吉正は、元テレビ朝日政治部部長で現在は東海大学教授。安倍晋三とは同郷で親しく、ブレーンのひとりと言われています。鈴木琢磨は、毎日新聞の編集委員(元『サンデー毎日』記者)で、やはり北朝鮮問題の専門家です。

画面は、板門店の軍事境界線を挟んで両首脳が握手をしているシーンを中継していました。そして、金正恩がまず軍事境界線を跨いで南側に行き、それから金正恩が文在寅を誘って、二人で手を取りながら、今度は北の方に跨いで行ったのでした。

そのとき、鈴木琢磨や辺真一は、我が意を得たとばかりに、「これは北朝鮮の演出ですよ」と興奮気味に言ってました。このシーンが、偉大な首領様が南の指導者を北側に呼び寄せたということになり、北の国民向けのプロパガンダに使われるのだと。そのために、金正恩が文在寅を誘って北側に軍事境界線を跨がせたのだと。文在寅が北側に行った際、金正恩が両手を重ねて文在寅と握手をしていたシーンに、辺真一は、「手を重ねるのは迎える側の礼儀だから、国内向けにわざとそうしているのだ」というような解説まで加えていました。

しかし、翌日の朝鮮中央テレビでは、なんのことはない、軍事境界線を挟んだ一連の行為がノーカットで放送されたのでした。彼らが言うように、北側で両手を重ねて握手するシーンだけが放送されたわけではなく、朝鮮中央テレビになんの演出もなかったのです。

こういったところにも、北朝鮮問題の「専門家」や「識者」のお粗末さがよく表れています。彼らは、北朝鮮について、非情・横暴・嘘八百の独裁国家というありきたりな認識しかなく、「専門家」ズラしながら、近所のおっさんでも言えるようなことをただ言っているだけです。金正恩には深謀遠慮があるから信用できないと言いますが、外交交渉に深謀遠慮があるのは当たり前でしょう。金正恩だけでなく、文在寅にもトランプにも深慮遠謀はあるでしょう。

「核放棄」は金王朝を守るためためなどという論評も、独裁国家という一面しか見てないように思います。アメリカが主張する「完全な非核化」は、田中宇氏が言うように、イラクの「大量破壊兵器」やイランの「核合意」やシリアの「化学兵器」や、あるいは「リビア方式」と呼ばれるリビアの「核廃棄」の例をあげるまでもなく、ともすれば国を潰すための「永遠の濡れ衣」になりかねないのです。それがアメリカの深慮遠謀です。だからこそ、よけい「体制保証」に固執せざるを得ないのでしょう。「体制保証」=金王朝を守るためというのは(その一面はあるにしても)、あまりにも短絡的な見方と言わざるを得ません。それに、金正恩だって、空腹に喘ぐ国民に少しでも食料を配給したいという為政者の顔も当然もっているでしょう。

言うまでもなく、朝鮮戦争は今だ休戦状態にあり、しかも、北朝鮮にとって、戦争終結の交渉相手は韓国ではなくアメリカ(国連軍)です。戦争によって分断された小国が、国家の存亡を賭け、超大国相手に外交戦をおこなわなければならない(ならなかった)のです。それを考えれば、「瀬戸際外交」にも”三分の理”はある(あった)と言えるでしょう。

「核放棄」の問題も、どうして大国が核をもつことは許され、小国が核をもつことは許されないのかという、誰しもが抱く(はずの)素朴な疑問もあって然るべきでしょう。どうして大国の核は「正義」で、小国の核は「悪」なのか。小国が核をもつと、「ならず者国家」と言われるのか。

トランプが”大審問官”のように「正義」を体現して、北朝鮮の「非核化」を裁可し、北朝鮮の国家の命運を決めるというのは、どう考えてもおかしな話です(だから、北朝鮮は中国やロシアに、「体制保証」の後ろ盾になってもらうことを求めたのでしょう)。このように、日本のメディアでは、”裸の王様”がいつの間にか”大審問官”になっているのです。

もうひとつ忘れてはならないのは、独裁国家の中枢における”開明派”の存在です。今回の南北首脳会談で、その存在がはっきりしたことです。彼らは文字通り命を賭けて独裁者に進言したはずです。その際、金正恩が永世中立国のスイスに留学し、少年時代の多感な時期に、”西側”の教育を受けていたということも無視するわけにはいかないでしょう。

しかし、この国の「専門家」や「識者」たちは、国交がなく言いたい放題のことが言えるのをいいことに、「血も涙もない」独裁者を誹謗し、そう印象操作することしか念頭にないかのようです。これでは、櫻井よしこの後釜を狙う三浦瑠麗のスリーパーセル発言や当日もやらかしたデーブ・スペクターのトンチンカンな発言を誰も笑えないでしょう。ガナルカナル・タカや立川志らくの木を見て森を見ない痴呆的なコメントと、たいして違いはないのです。

要するに、「専門家」や「識者」たちは、日本政府の”敵視政策”の枠内で、(「ならず者国家」という)予定調和の発言をしているにすぎないのです。だから、いつもあのように、上から目線なのでしょう。「板門店宣言」についても、日本のメディアはおしなべて懐疑的冷笑的で、朝日から産経まで大きな違いはありません。旧宗主国のバイアスがかかった夜郎自大な国のメディアでは所詮、朝鮮半島の「新しい流れ」を理解することはできないのかもしれません。蚊帳の外に置かれているのは、政府だけでなく、メディアも同じなのです。
2018.04.29 Sun l 社会・メディア l top ▲