朝、横須賀線に乗っているとき、ふと思いついて東戸塚で下車して、隣の保土ヶ谷まで歩きました。最近、運動不足気味なので、このように突然、歩かなければという強迫観念のようなものにおそわれるのです。

残念ながら写真を撮りませんでしたので、証拠(!?)はないのですが、東口の駅前の道路を左に向かって坂道をのぼっていきました。まだ通勤時間帯でしたので、坂の上からは駅に向かう人たちが五月雨式に下ってきます。でも、そんな人の流れに逆らって坂をのぼっていく(やや若づくりの)おっさんに、目にとめる人間なんて誰もいません。みんな、気味が悪いくらい無表情なのでした。

マンションが立ち並ぶ通りをぬけると、境木地蔵尊という小さな祠が石段の上にありました。地蔵尊というからには、昔はこのあたりに墓所でもあったのかもしれません。そういえば、地蔵尊があるあたりはちょうど山の頂になっていて、あの世との境界としてはうってつけの場所のような気がします。

地蔵尊の前から道は急に細くなりました。それで、不安になり、犬の散歩をしていた女性に、「権田坂はどっちの方向ですか?」と尋ねました。

「権田坂の何丁目に行くのですか?」
「いえ、権田坂から国道1号線に出たいのです」
「ああ、だったら、この道をそのまま下って行けば1号線に出ますよ」

というわけで、片側に人がひとり通れるくらいの歩道が付いているだけの細い道路を下りはじめました。おそらく昔は険しい山道だったのでしょう。少し下ると、小学校の前にややひなびた感じの商店街があるのに気づきました。坂道の脇にまっすぐに伸びた路地の両側に個人商店が点々と並んでいて、地形でいえば山の中腹にあたるため、路地の先から風景が大きくひらけているのでした。山を削って宅地開発され、今に至るまでの”記憶の積層”がつまっているような商店街でした。横浜は都内ほど鉄道網が発達してないため、駅から遠い住宅街も多く、そういったところにこのような古い商店街がぽつんと残っているのです。

余談ですが、こうして横浜に暮らすほど、(決して貶めているつもりはありませんが)横浜というのは”地方都市”だなとしみじみ思います。街も人も”偉大なる田舎”なのです。だから、相鉄線沿線で出会った横浜生まれの生粋の「ハマッ子」の老人は、私が住んでいる東横線沿線の街を「東京」と言ったりするのです。彼らの感覚では、東横線や田園都市線は「東京」なのでしょう。一方で、「横浜は東京と同じ都会だ」と勘違いして、横浜から外に出ない若い「ハマッ子」をみると、なぜかすごく反感をおぼえて、おちょくりたくなるのです。そもそも横浜独自の文化なんてもうどこにも残ってない現在、「ハマッ子」という言葉自体も既に死語だと言えます。むしろ、”偉大なる田舎”ならそれはそれでいいじゃないかと思います。そういうところから新しい「横浜らしさ」が生まれるかもしれないのです。

「東京と横浜は同じだから、わざわざ東京まで行く必要もない」なんていうベタな地元志向は所詮、井の中の蛙だなと思います。東京はまったく別格で、横浜と比べようもありません。好きか嫌いかは別にして、東京というオバケのような大都会がもつあのハチャメチャな活力と魅力を素直に受けとめる感受性があるかどうかは、今の時代を生きる上で、「決定的」と言ってもいいくらい大事なことのように思います。いわゆる「郊外論」などもそうですが、東京というのは、それくらい(自分の人生を揺り動かすくらい)大きな存在なのです。

角に家電のコジマが建っている「権田坂上」の交差点で国道1号線に出ると、あとは保土ヶ谷駅まで一本道です。普段、横須賀線の車窓から眺めている見覚えのある風景が沿道につづきました。

保土ヶ谷駅に着いて、万歩計をみたら、7千歩ちょっとでした。時間にしてちょうど1時間でした。少し物足りない気がして、このまま横浜駅まで歩きたい心境でしたが、時間がなかったので、保土ヶ谷から再び横須賀線に乗りました。

>>保土ヶ谷から歩いた
2011.04.15 Fri l 横浜 l top ▲
新横浜3448

うららかな春の陽気に誘われて(ついでに放射能を浴びながら)、太尾緑道から新横浜にかけて鶴見川沿いを散歩しました。

桜は7~8分咲きくらいでした。おそらく今週末が見頃ではないでしょうか。新横浜の川沿いの遊歩道では、やはり春の陽気に誘われた人たちが、三々五々桜並木の下を歩いたりベンチで休憩したりしていました。最近はやたら苛立つことが多いのですが、今日はしばし浮世の憂さを忘れ、ゆったりした気分で午後の時間をすごすことができました。

遊歩道を歩いていると、私が通っている病院を川向うに見ることができます。こうして遠くから眺めると、病院の中のあわただしさがウソのようです。そして、その先には横浜マリノスの本拠地の日産スタジアムがあります。周辺は運動公園になっていて、さまざまな運動場やスポーツ施設などがあり、贅沢な空間が広がっています。ここもまた横浜の郊外なのです。ただ、川があるおかげで、郊外特有の規格化された風景から逃れているのでした。

昔、新横浜に取引先の会社があって、一度だけ来たことがありました。駅を出て高架橋を渡り、ラブホテルが林立する一帯をぬけるとめざす会社のビルがありましたが、今日はさっぱりわかりませんでした。あのときは道に迷うことなくスムーズに行けたのですが、いまひとつ記憶がはっきりしないのです。

あたりに店舗はほとんどなくて、ただ無機質なビルが建っているだけの少し場末感が漂うようなエリアなのですが、よく見ると意外とマンションも多いのです。買物などは不便でしょうが(とはいっても、新横浜駅まで歩いて10分もかかりませんが)、こういうところに住むのもいいかもと思いました。ちょっとさみしい雰囲気が魅力ですね。どうせひとりならさみしい方がいいのです。

吉行淳之介さんのエッセイ「街角の煙草屋までの旅」ではないですが、夕暮れせまる郊外の街を歩きながら、これもまたひとつの旅かもしれないと思いました。

新横浜3446

新横浜3457

新横浜3469
2011.04.06 Wed l 横浜 l top ▲
大倉山梅まつり3375

この週末は大倉山公園で梅まつりが行われていましたので、出かけてみました。と言って、大倉山公園は自宅の裏にあり、いわば裏山のようなものです。近くの路地から行けばすぐなのです。

梅林は公園の窪地にあるため、駅の方から行く場合、駅横の坂道をいったん丘の上までのぼり、頂上にある大倉山記念館の裏手から今度は窪地の方へ下りなければなりません。しかし、自宅からだとコンビニの前の路地を入って、住宅街の中を先に進んで行くと、そのまま窪地に突き当ります。

いつもだと近所の人達が犬の散歩をしているくらいですが、今日は観梅客で賑わっていました。その大半は家族連れかカップルです。梅林の下では野点や日本舞踊などが催され、公園の遊歩道沿いにはずらりと出店も出ていました。

出店は地元の商店街の店もありましたが、プロの香具師(露天商)の人達も多くいました。私はむしろそっちの方が興味がありました。

私は梅まつりは初めてでしたが、それにしても、毎年裏山でこんなに賑やかな催しが行われていたなんてちっとも知りませんでした(ただ興味がないだけだったのですが)。

公園を一周して、そのまま駅横の坂道を下りました。途中のTOTSZEN BAKER'S KITCHENも外まで行列ができていました。駅前の銀行に寄ったあと、今度は新横浜まで歩きました。駅ビルの三省堂書店で本を買って、帰りも歩いて帰りました。帰って万歩計を見たら1万歩ちょっとでした。

大倉山梅まつり3364


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2011.02.20 Sun l 横浜 l top ▲
師岡熊野神社3

最近、天候不順のせいもあって散歩もご無沙汰していましたので、久しぶりに午後から散歩に出かけました。駅の反対側にある熊野神社(師岡熊野神社)に行ってみようと思ったのです。熊野神社は、名前のとおりいわゆる熊野信仰の流れをくむ神社で、このあたり一帯を守る「郷社」です。

熊野神社にはおととし「苦しいときの神頼み」で一度行ったことがあるのですが、その後の不信心で道順を忘れてしまいました。それで、あてずっぽうに環状2号線をトレッサの方に向かっていたのですが、このままでは本当にトレッサに行ってしまいます。それで、前からやってきたお年寄りに、「熊野神社はどっちに行けばいいんですか?」と訊きました。すると、左折して住宅街の中の道に入り、さらに進んで突きあたりをもう一度左折すれば右手にあると言うのです。ということは、綱島街道の方向に戻るということで、どうやら私はえらく遠まわりをしていたみたいです。案の定、教えられた道をしばらく歩いていたら、前から髪を紫色に染めた見覚えのある老女がやってきたのでした。彼女は、先程駅前の銀行のATMでお金をおろした際、私のうしろに並んでいた老女です。私も身体が大きくて特徴があるので、相手も気がついたらしく、怪訝な顔でこっちを見ていました。なんとなくバツが悪かったので、顔をそむけて横を通りすぎました。

熊野神社でお賽銭をあげようと小銭入れを見たら、百円玉がないのです。中は1円と10円玉だけです。かと言って千円札を入れるのはもったいないし、一瞬社務所で両替をしようかと思いました。でも、両替をしてお賽銭をあげるというのも変な話なので、人に見られないように手のひらで隠してそっと10円玉をお賽銭箱に入れました。そして、いつものように「無病息災」「商売繁盛」を交互にお願いしました。

熊野神社のあとはいったん綱島街道に出て(なんだこんなに近かったのかと思いましたが)、かの大倉山ヒルタウンを左手に見ながら綱島の方に進みました。そして、大綱橋の手前から再び右折して駒岡小学校の方に向かいました。先にあるジャスコ(駒岡店)に行ってみようと思ったのです。このあたりはかつては倉庫や工場が立ち並ぶ一帯であったことがわかります。今でもそういった建物がいくらか残っていますが、多くはマンションに変わっています。それにしても、どこまで行ってもマンションか一戸建ての住宅ばかりです。駅からどんどん離れても、いっこうに住宅が途切れることがありません。駅までどうやって行くんだろうと思うような場所でも住宅が立ち並んでいるのでした。

ジャスコに寄ったあと、Uターンして鶴見川の土手を川上の方に戻りました。冬の夕暮れ、土手の上を歩いていると、いろんなことを考えました。その多くは自分の人生のことです。もちろん、悔恨もありますが、それ以上に「思えば遠くに来たもんだ」というような寂寥感があります。今朝、九州の友人から、自分達の高校時代を題材にした映画が撮影されることになったので、一度田舎に帰って来ないかというメールが来ました。以前だったら「くだらない」と一蹴するだけだったでしょうが、なんだか急に郷愁をそそられる自分がいました。

でも、もうあと戻りはできないのです。どこまでも歩いて行くしかない。ときに「どうして、こんなところにいるんだろう?」と思わないこともないけど、しかし、歩いて行くしかない。どんどん遠くなっていくけど、歩いて行くしかないのです。

結局、土手を新羽橋まで歩きました。帰って万歩計を見たら、1万5千歩を超えていました。

師岡熊野神社1

師岡熊野神社2
2011.02.17 Thu l 横浜 l top ▲
午後から散歩を兼ねて新横浜の駅ビルにある三省堂書店に行きました。今日はうららかな小春日和だったので、新横浜に通じる緑道も散歩する人の姿が多く見られました。

途中、横浜アリーナの前に開場を待つ大勢の人がいました。また、新横浜駅からアリーナまでの舗道も人々の行列がつづいていました。誰のコンサートなんだろう?と思って、前からやってきた若い女性(きれいな子を選びましたけど)に訊いたら、「ドリカムで~す」と言ってました。

横浜アリーナでコンサートがあるとき、外に出ると「ワァー」という歓声が聞こえてくることがあります。最初は日産スタジアムから聞こえているのかと思ったのですが、そうではなくアリーナでした。最近で記憶しているのは、EXILEと宇多田ヒカルのときです。

ほしい本が2冊あったのですが、三省堂書店にはどちらも置いていませんでした(いづれも新刊なんですが)。駅前の文教堂にも寄ってみましたが、やはり同じでした。このブログでもいつも嘆いていますが、横浜で本を探すのはホントに苦労します。

それで市営地下鉄に乗って関内に行きました。言うまでもなく、伊勢佐木町の有隣堂に行くためです。イセザキモールも休日ということもあってか、結構にぎわっていました。有隣堂の横では地元の子ども達によるミニコンサートが行われていました。横浜の街もクリスマス一色ですが、やはり場末感は否めません(何度も言いますが、それが横浜のいいところです)。

有隣堂も撃沈でした。そうなればみなとみらいのランドマークプラザのくまざわ書店に行くしかありません。休みの日にみなとみらいに行くのは気が進まないのですが、もうそんなことは言ってられません。こうなったら意地です。

伊勢佐木町から馬車道をぬけて大通りをみなとみらいに向けて歩くと、おなじみの夜景が見えてきました。すっかり日が陰った汽車道も多くの人が行き交っていました。できるだけ人ごみを避けるために、汽車道の入口を通りすぎてロイヤルパークホテルの先の裏口(?)から入ることにしました。ライトアップされた日本丸の前でも多くの家族連れやカップルが記念写真を撮っていました。姉妹なのか、小さな女の子が二人、日本丸をバックにVサインしている姿がほほえましく思いました。ただ、同じVサインでも、最近の子どもは立てる指が違うのですね。私は写真屋の息子なので、そうやって写真を撮っている姿を見ると、いいなぁ~と思います。そういった思い出が人生にとってかけがえのないものだということが、やがてわかるときがくるのではないでしょうか。

くまざわ書店では目当ての本は1冊だけありました。もう1冊はネットで買うしかなさそうです。結局、1冊の本を買うのに半日かかってしまいました。もっとも、歩きまわったおかげで、帰って万歩計を見たら1万5千歩近く歩いていました。何事にも効用はあるというわけです。
2010.12.23 Thu l 横浜 l top ▲
赤煉瓦3179

久しぶりに汽車道から赤煉瓦倉庫を散歩しました。たしかにこのあたりは格好のデートコースです。ロマンティックな夜景をバックに愛をささやけば、思わず彼女も手を握りかえし、あわよくば肩に頭をもたせかけてくるかもしれません。長い黒髪から漂ってくるシャンプーの残り香にうっとり・・・なんて年甲斐もない妄想におそわれました。

実際に汽車道ですれちがうカップルを見ていると、「年甲斐もない」カップルも結構多いのです。泌尿器科の待合室で順番を待っている(くたびれ果てた)中高年男性と、愛と性のオーラを放ちながら汽車道を手をつないで歩いている同年代の男性のこの違いはなんなんだと思いました。友人は「前立腺の耐久性の違いじゃないの」と身も蓋もないことを言ってました。

赤煉瓦倉庫前の広場ではクリスマスのイベントが行われていましたが、人も少なくてやはり場末感は否めませんでした。期間限定のスケートリンクも年々しょぼくなっており、もしかしたらそのうち姿を消すのかもしれません。でも、平岡正明ではないですが、横浜はこういった場末感が魅力なのです。ちょっとさみしくなるような雰囲気が、逆にロマンティックな気分をかきたてるところがあります。だから、(前立腺が丈夫な)老いも若きも愛をささやくために赤煉瓦倉庫にやって来るのでしょう。

赤煉瓦3197

赤煉瓦3175

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赤煉瓦3159

赤煉瓦3189
2010.12.16 Thu l 横浜 l top ▲
民主党代表選で菅再選を見届けてから、いつものように郵便局&散歩に出かけました。「小沢待望論」が盛り上がる現在の日本は、「天皇親政」を実現しよう青年将校が登場した状況と似ている、と書いていた有名ブロガーがいましたが、実際には「小沢待望論」もネットの一部だけで、世間ではそれほどでもなかったということでしょうか。それにしても、小沢一郎のことになると、支持するしないに関わらず、どうしてみんなこのように誇大妄想に陥り、ことさら虚像化したがるのでしょうか。それが不思議でなりません。

そんなことを考えながら、菊名の駅前をとおりすぎて、東横線の踏切を渡りました。駅はよく利用するものの、菊名のことはまったく知らないので、周辺を歩いてみようと思ったからです。ウソかマコトか、菊名には「菊名夫人」という呼び方があるそうです。「菊名夫人」なんていうと、なんだかフランス書院のポルノ小説のタイトルみたいですが、シロガネーゼと同じように、菊名に住んでいるハイソな(古い?)御婦人という意味だそうです。それを聞いたとき、私はどこにそんな人間がいるんだと思いました。菊名のあのゴチャゴチャした駅周辺を思い浮かべると、とてもそんなハイソな御婦人がいるとは思えませんでした。

ところが、踏切を渡ると、三方に上り坂が延び、それに沿って立派な門構えの一戸建てが並んだ扇状の住宅街が出現したのです。やはり、ここでも”横浜の法則”は生きていたのでした。つまり、成りあがった人間は丘の上に住むという法則です。我々下層貧民は、駅から5分だとか自慢をしていますが、所詮は湿気の多い、昔はレンコン畑だったような低地に住むしかないのです。ただ、地元の事情通によれば、名にし負う「役人天国」の横浜市にふさわしく、今は丘の上の住人は公務員若しくは元公務員が多いそうです。私は坂道を上りながら、こういうところに「菊名夫人」は住んでいたのかと思いました。

しばらく尾根伝い(?)に住宅街の中を歩いたあと、あてもなく坂道を下ると、池のある大きな公園に突きあたりました。そして、その先に妙蓮寺の駅が見えました。かつて妙蓮寺に住んでいた四方田犬彦氏が、『散歩の達人』の中のエッセイで、妙蓮寺のことを書いていたのを読んだ覚えがありますが、妙蓮寺も落ち着いたいい街です。東横線沿線というと、どうしても駅周辺のゴチャゴチャしたイメージが浮かびますが、駅から離れると閑静な住宅街が広がっているところが多く、東横線沿線が住宅地として人気がある理由がなんとなくわかった気がします。この伝でいけば、「妙蓮寺夫人」もいるのかもしれません。

妙蓮寺から横浜方面の電車に乗って、「馬車道」で下車しました。と言って、どこか行くあてがあるわけではありませんので、馬車道から伊勢佐木町をブラブラしました。昔で言う「伊勢ブラ」です。今は「伊勢ブラ」なんて言うと、風俗通いのように思われますが、昔は「銀ブラ」にかけて横浜でも「伊勢ブラ」というのがあったのだそうです。伊勢佐木町は前の記事(伊勢佐木町から横浜橋)のすぐあとに、案の定、神奈川県警の浄化作戦があったみたいで、外国人の姿がめっきり少なくなっていました。彼らにしてみれば、11月のAPECまで息をひそめて嵐がとおりすぎるのを待つしかないのでしょう。

伊勢佐木町の有隣堂に寄ったのですが、ほしい本がなかったので、みなとみらいのくまざわ書店に向かっていたら、途中の万国橋のあたりでときならぬ豪雨に襲われました。それで、ほうほうの体でワールドポーターズに駆け込み、2階の通路にあるベンチで雨が小降りになるのを待ちました。雨に煙る夕暮れの汽車道を眺めていたら、ちょっとせつない気持になりました。隣のベンチでは、ワイシャツ姿の中年の男性が、缶ビールを飲みながら弁当を食べていました。家に帰りたくないんだろうかと思いました。平日でしかも雨ということもあるのか、みなとみらいはどこも閑散としていました。

帰って万歩計を見たら、今日は1万6千歩でした。
2010.09.14 Tue l 横浜 l top ▲
みなとみらい2927

夕方、郵便局に行ったついでに、そのままま電車に乗って「馬車道」で下車。伊勢佐木町から横浜橋、そして横浜橋から黄金町、日ノ出町を経由して桜木町まで戻り、みなとみない、馬車道、横浜駅といういつものコースを散歩しました。

それにしても、伊勢佐木町のディープ化はますます進んでいます。そのうち、神奈川県警の大浄化作戦があるのかもしれません。手ぐすねひいて待っているような気がしないでもありません。

商店街を歩いている人達の半分くらいは外国人です。伊勢佐木町はチンピラまがいのアジア系の青年が多いのが特徴ですが、他に中南米系の白人とアフリカ系の黒人の姿も目立ちます。一種のステータスなのか、アジアのチンピラ青年達は、シルバーのラメで背中に絵や文字がプリントされた黒色のTシャツを着ていることが多いのですが、あの手のTシャツは昔、麻布十番がまだ陸の孤島だった頃、十番の紳士服店のショーウインドでよく見かけたことがあります。持ち手がついたワニ皮もどきのセカンドバックといい、社会学風な言い方をすれば、ヤンキー文化とは別にチンピラ文化というトライブもあるのかもと思いました。

伊勢佐木町の商店街にも、いくつかオープンカフェの店がありますが、表の席に座っているのは見事なくらい外国人ばかりです。彼らはなぜかいつも鋭い視線を通りに放っていて、一種異様な雰囲気をかもしだしていました。伊勢佐木町の食いもの屋に行くと、ホントにお客をなめたような店が多いのですが、それは従業員の多くがアジア系外国人の若者だからです。もちろん、私は排外主義者ではありませんので、外国人を雇うのが悪いと言ってるのではありません。ただ、客商売なのですから、「日本的おもてなし」の一端でも彼らに教えるべきではないかと思うのです。「賃金が安いならなんでもいい」という考え方こそ”外国人差別”と言うべきでしょう。

伊勢佐木町に集まって来る外国人の多くは、いわゆる出稼ぎ外国人労働者がドロップアウトしたものなのでしょう。神奈川県もまた、東京というメガロポリスの周縁域としての役割を担わされ、3Kの職場が集中していますので、伊勢佐木町のように、リストラなどで職を失った彼らが吹きだまり不良化する場所がどうしても生まれるのでしょう。寿町にも外国人の日雇労働者が多いそうですが、彼らもまた同じような事情にあるのでしょう。

また、伊勢佐木町一帯では、夕方になると、派手な格好をした風俗嬢達が香水のにおいをまき散らしながら出勤してくる光景に出くわしますが、彼女達の多くも外国人なのです。いかにもという感じの女の子がヘルスに入って行ったので、「ああ、こういうところで働いているのか?」と中をうかがっていたら、すかさず口髭をはやした男性従業員が出てきて、「旦那さん、どうぞ。いい子いますよ」と手招きされました。「いや、いや、見てただけですから」「見るだけでなく中に入ってくださいよ。サービスしますよ」という男性従業員の声をふり払いその場をあとにしましたが、「どうして、オレが”旦那さん”なんだよ」と思いました。

横浜橋の商店街になると、もっとディープ度が高くなります。考えてみたら、錦糸町や蒲田の一部に似たような雰囲気がありますが、都内でも千葉でも埼玉でもここまでディープ度の高い商店街はほかにないように思います。ただ、前にも書きましたが、横浜橋に関しては、私はこういったアジア的混沌みたいな街は嫌いではありません。

今、たまたま文庫化されたばかりの原武史著『滝山コミューン一九七四』(講談社文庫)を読んでいるのですが、横浜橋のような商店街は、ああいった民主主義幻想を露ほども疑わない”郊外”とは対極にあるものです。余談ですが、最近の若い評論家や学者達の多くが『滝山コミューン』のような郊外型民主主義の環境で育った世代であるという事実は、案外大きいように思います。まるで時計の針が40年も50年も戻ったような彼らの政治オンチぶりや啓蒙主義は、そういった郊外型の戦後民主主義幻想からきているような気がしてならないのです。

この酷暑のせいなのか、途中で胸がドキドキしはじめ、少し息苦しくなりました。熱中症ではないのでしょうが、このまま横になりたいというような気分でした。それで、みなとみらいの横浜みなと博物館の裏の芝生の上で、しばらく仰向けになりました。すると、海から吹いてくる風がとても心地よくて、気分も落ち着いてきました。

帰って万歩計を見たら、2万歩を超えていました。
2010.09.01 Wed l 横浜 l top ▲
茅ヶ崎2907

やっと茅ヶ崎に行きました。新横浜に用事があったので、用事を終えたあと、新横浜から市営地下鉄で横浜に出て、横浜から東海道線で行きました。茅ヶ崎より辻堂の方が街だというのは、どうも”自虐ギャク”だったみたいです。辻堂には駅裏に広大な空地があり、その空地にショッピングセンターかなにかができるという話を聞いたことがありますので、「むしろ辻堂の方が街だ」というのは、そのショッピングセンターができた場合の話なのかもしれません。

茅ヶ崎の駅ビルは、どう見てもルミネに見えますが、ルミネではなくラスカというのだそうです。前はルミネだったそうですが、数年前にラスカに変更になったのだとか。ラスカはJR東日本の子会社の湘南ステーションビルが運営する駅ビルで、茅ヶ崎のほかに平塚・小田原・熱海にあり、いわば地域限定の駅ビルのようです。茅ヶ崎駅の周辺にはイトーヨーカドーもありますし、ヤマダ電機もありました。なんの変哲もないJRの駅と言えば、そう言えないこともありません。

私は反対側の南口(写真上)を出て、駅からまっすぐに伸びている道路をひたすら海に向かって歩きました。さすがに途中で、サーフボードを抱えた若者達とひっきりなしにすれ違いました。しかし、私が目を引いたのは、ガングロの”元若者”達です。マイク真木のような長髪でガングロのおじさんやおばさんがホントに多いのです。皮膚ガンの心配はないんだろうか?といらぬことまで考えてしまいました。

別名「加山雄三通り」とも呼ばれている(らしい)東海岸本通りには、個性的な雑貨を売る店も結構ありました。手作りもあれば輸入物もあり、それぞれこだわりを持った店ばかりでした。

茅ヶ崎2909

既に夕方で、しかも海が多少荒れていたということもあるのか、海岸は思ったより人が少なくて、むしろ、遊歩道を散歩をする人の方が多いくらいでした。考えてみれば、埼玉にいた頃、国道16号線を南下してよく湘南の海に来ました。いつも季節外れの海でしたが、どうしてあんなに海を見に来たんだろうと思いますね。

人々はどうして湘南にあこがれるのでしょうか。もちろん、明治時代に上流階級向けの別荘地の開発によって、湘南という土地がブランド化されたことが大きいのでしょう。また最近では、サーフィンの普及や(”湘南サウンド”なんて言われるとこっちまでこっ恥ずかしくなりますが)加山雄三やユーミンやブレッド&バターや南佳孝らの音楽などによって、湘南=日本のウエスト・コーストのイメージが定着したことも多分に影響しているように思います。今風に言えば、スローライフへのあこがれといった感じなのかもしれません。とにかく、東京近辺で生活をしていると、人々は海の近くに、それも湘南に住むことにあこがれるのです。だから、茅ヶ崎や辻堂に住んでいるというだけで、羨ましがられるのですね。

たしかに、かつて島尾敏雄も住んでいたことがあるという海岸近くの住宅街には、庭木に囲まれた瀟洒な木造住宅も多く、(最近はなんでも老後に結びつけて考えるクセがありますが)こういうところで老後をすごせたらいいだろうなと思いました。実際に生活するとなると、ベランダに砂がたまったり、洗濯物がベトついたり、門柱や手すりがすぐ錆びたり、深夜暴走族がうるさかったりと、いろんな支障もあるみたいですが、ただ、茅ヶ崎あたりに漂っているややローカルな空気の中で、のんびりと「海のある生活」を送りたいという気持はわからないでもないですね。たとえそれが幻想であってもです。

茅ヶ崎2915
2010.08.14 Sat l 横浜 l top ▲
本牧埠頭_2855

新山下のみなと赤十字病院にお見舞いに行ったついでに、本牧埠頭まで歩きました。新山下は電車だと不便で、交通手段としてはバスしかないのですが、私はみなとみらい線の終点「元町・中華街」で降りて、そこから歩いて行きました。

新山下は本牧の東の海側のエリアに位置しており、新山下の突堤がいわゆる本牧埠頭になります。典型的な埋め立て地で、昔、高速に乗るために車で通ったことがありますが、その頃は倉庫や工場ばかりの殺伐としたイメージしかありませんでした。しかし、今は、道路沿いに大型店ができたりおしゃれなマンションが並んでいたりと、ずいぶん通りのイメージも変わっていました。ただ、舗道を歩きながら、ふと山手の方を見上げると、やっぱり丘の上からは豪奢な邸宅が下界を見下ろしているのでした。

病院を出たのは午後5時近くでしたが、そのまま先に進んで埠頭をめざしました。車やバスだとすぐなのでしょうが、歩くとなると結構な時間がかかります。私がめざしたのは、海釣り施設やシンボルタワーがあるD突堤です。新山下をすぎ、イトーヨーカドー本牧店の裏から海側に曲がると、四方は倉庫ばかりになり、道路のあちこちにコンテナが置かれていたりして、すれちがう人もほとんどいなくなりました。ところが、ときどきお母さんらしき女性が幼児用の補助椅子を取りつけた自転車で通りすぎていくのです。なんで?と思ったら、倉庫街の中に突然「本牧ポートハイツ」という団地が出現したのでした。帰って調べると、「横浜港湾福利厚生会」なる港湾関連企業の福利厚生団体が組合員のために建てた団地らしく、昔は「港湾住宅」と呼ばれていたそうです。5階~7階建ての集合住宅が17棟あるそうですから、かなり大きな団地です。「診療所」の看板も出ていましたので、診療所も併設されているのでしょう。ちなみに、敷地内には本牧貨物駅本牧埠頭駅を結ぶ神奈川臨海鉄道の貨物線も走っているそうです。

「本牧ポートハウス」をすぎてさらに突堤に向かって歩くと、やがて堤防沿いの道路に突き当りました。「堤防から海に入るのは禁止します」「発見したらただちに警察に通報します」という看板がやたら出ているのでそんなに危ないのかと思ったら、なんのことはない既に堤防の下は横浜市が運営する本牧海釣り施設の管理エリアで、施設に入るには500円の入場券(見学は100円)が必要なのです。要するに、タダで魚釣りをする不心得者に対する警告なのでした。考えてみれば、本牧埠頭あたりでは一般の人間が海岸に近づくことはほとんど不可能で、唯一海釣り施設で入場券を買って入るしかないのでした。

それで仕方なく私も100円を払って海釣り施設の中に入りました。しかし、魚釣りの施設なので、見学だけの人間なんてほとんどいません。魚釣りをしている人達の中をひとりウロウロしても居心地が悪いだけなので、すぐ出てきました。

それからさらに殺風景な海沿いの道路を歩いてシンボルタワーに行きました。平日の夕方だからなのか、駐車場にも数えるほどしか車はとまってなくて、シンボルタワーの上も人はまばらでした。展望ラウンジでは、どう見ても夫婦には見えない中年のカップルが一組寄り添って海を眺めているだけでした。

シンボルタワーというのは、他にもいくつかありますが、灯台の機能を備えたいわゆる港湾版ハコモノ行政の代表的な施設で、本牧もそのひとつです。駐車場の横には売店などが入った休憩所なるものもありましたが、休日はともかく平日はどうやって営業しているんだろうと納税者のひとりとして心配になりました。

シンボルタワーの営業は、通常は午後7時までですが、8月中は午後8時までとなっていました。夏の夜はカップルのたまり場になって大変だろうと思ったら、その対策のためか、1キロ手前の海釣り施設の駐車場のゲートをくぐらなければ、シンボルタワーまでの道路も通れないようになっているのです。つまり、関門を設けて、時間外はそこから先は一切行けないようになっているのでした。

展望ラウンジでW不倫の(と勝手に決めつけている)中年カップルと一緒に海を眺めていたら、突然、「午後6時半にシンボルタワー発の最終バスが出ます。乗り遅れないようにご注意ください」というアナウンスが流れました。営業時間いっぱいまでバスもあるだろうとタカをくくっていたので、あわてて階段を降りて駐車場の横にあるバス停に向かいました。既にショルダーバックを下げた年配の男性が二人待っていました。二人はバスに乗る際定期券をかざしていましたので、定年退職後の第二の人生でシンボルタワーの警備員かなにかの仕事をしている人達なでしょう。

次の海釣り施設では、釣り道具を抱えた男性が2人乗ってきました。やはり大半の人は車でやってくるみたいです。しかし、さらに次の倉庫街の中のバス停に到着すると、仕事をを終えた人達が行列を作っていて、バスもいっぺんで満員になりました。中にはイスラム系(?)の外国人労働者の姿もありました。それで、なんだか途中で降りるのも面倒くさくなり、終点の横浜駅まで乗ることにしました。30分ちょっとで横浜駅に着きましたが、バスを降りて万歩計を見たら2万歩を越していました。

本牧埠頭2847

本牧埠頭2869

本牧埠頭2875

本牧埠頭2891
2010.08.06 Fri l 横浜 l top ▲
東芝太尾アパート2704

私は東芝には縁もゆかりもありませんし、東芝の社員の方に世話になったとかなにか義理があるわけでもありません。家で使っている電化製品を見ても東芝製はほとんどありません。たまに出先で東芝のエレベーターに乗るくらいです。

しかし、なぜかしょっちゅう前を通る東芝太尾家族アパートの行く末が気になって仕方ありませんでした。前にたまたまこのブログでアパートのことを書いたら、それ以来ときどき「東芝太尾アパート」のキーワードでアクセスする方がいらっしゃいます。以前、そのアパートに住んだことがある方なのかもしれないと勝手に想像しています。もし子どもの頃、家族で住んだのなら、とりわけ思い出深いのではないでしょうか。

東芝太尾アパート2711

封鎖されてずいぶん経ちますが、先日、前を通りかかったらフェンスに「建築計画」の看板が取り付けられていました。それによれば、跡地には三井不動産が手がける分譲マンションが建つようです。ロケーションは申し分ないので、かなり高価なマンションになるのではないでしょうか。

建物が新しく建つと、「あれっ、前ここはなんだったっけ?」と思うことも多いので、記念にもう一度写真を撮りました。これが最後の東芝太尾家族アパートの姿です。

東芝太尾アパート2700

そのあと隣駅の菊名まで歩いて、菊名から東横線で終点の「元町・中華街」まで行きました。知り合いが週末に山下公園でバンドをやっていると聞いたので、もしやと思って散歩を兼ねて山下公園に行きました。しかし、残念ながらそれらしき姿はありませんでした。その代わりというわけではありませんが、東端の石のステージでは、「踊るマハラジャ」で見たようなインドの踊りが披露されていました。聞けばインドの現地のお祭りを再現するイベントなのだそうです。ステージ前はインド人の家族連れでいっぱいでした。ただ、彼らの強烈な香水(?)のニオイが鼻についてならないので、早々に会場をあとにしました。私はあのニオイは苦手です。

口直しならぬ”鼻直し”で、潮のニオイを嗅ぎながら山下公園を歩いていたら、ときおり吹き抜けていく潮風がとても心地よかったです。身近でこういった時間をすごすことができるのが横浜のいいところですね。水辺の風景は不思議と心が落ち着きます。

山下公園からいったん日本大通りに出て、それから象の鼻公園を通って赤レンガ倉庫に行きました。赤レンガ倉庫前の広場では、メキシコ独立200周年・メキシコ革命100周年を記念したAlegria de Mexico / Verano en Yokohama(アレグリア・デ・メヒコ)というイベントが行われていました。会場はほとんど宴会場と化していて、飲み食いしながらにぎやかに談笑しているかと思えば、ステージの前ではDJのパフォーマンスに合わせて多くの若者達が踊っていました。メキシコ流レイブパーティかと思いましたが。

赤レンガの先の新港埠頭では、薄闇の中で、アマチュアカメラマン(大半は中高年のおっさん)達が埠頭に係留された帆船にレンズを向けていました。ポルトガルの帆船・サグレス号(1940トン)で、今日寄港したばかりだそうです。ちょうど船からはラフな格好をした若い乗組員達がつぎつぎと上陸していましたが、はて、どこに行くんだろうと思いました。新港埠頭から横浜の繁華街までは遠いし、みなとみらいでは飲み食いするにも金がかかるし。と思ったら、すぐ近くの埠頭公園の石段に座ってコーラかなにかを飲みながら談笑していました。ポルトガルもギリシャと同じように経済的な苦境にあえいでいるそうですが、彼らのつつましい姿を見たらなんだかかわいそうな気がしました。

帰宅して万歩計を見たら1万5千歩でした。体重もその後少し落ちて、既に5キロ減量しています。しかし、今回は10キロ減を目標にしていますので、まだ半分です。先は長い。

東芝太尾アパート2706

東芝太尾アパート2716

東芝太尾アパート2719

山下公園_2723

象の鼻公園_2733

赤レンガ2753_edited

ザグレス号2794

インターコンチネンタルホテル2813

>>東芝太尾アパート
2010.07.24 Sat l 横浜 l top ▲
八杉神社

またはじまった神頼み。普段の不信心を棚に上げて、まったく現金なものです。

隣駅の菊名駅の近くに八杉神社というのがあり、案内板に「無病息災」と書いていましたので、さっそくお参りしました。ほかに「商売繁盛」のご利益もあるみたいで、なんだか一石二鳥で得した気分でした。欲をかくと霊験も半減するような気がしないでもありませんが、下衆な私は「病気が治りますように」「商売が繁盛しますように」と交互に願い事を唱えました。

大倉山路地1

日曜日の朝、菊名から大倉山へと住宅街の中の道を歩いていると、人通りも少なくていつもと違うゆったりとした、どこかなつかしい時間が流れているような気がします。大倉山にはけもの道のような狭い路地が縦横に走っていますが、おそらく昔の畔道か野道の名残なのでしょう。

大倉山出身の建築家の隅研吾氏が三浦展氏との対談集『三低主義』(NTT出版)の中で、「隅研吾の原風景」と題して大倉山での少年時代のことを語っていましたが、隅家が大倉山に住むようになったのは、大井で医者をやっていたお祖父さんが戦前に農作業小屋を造ったのがきっかけだったそうです。かの白洲次郎・正子夫妻が町田に武相荘を作ったのとちょうど同じ時期だそうですが、当時の大倉山にはそういった大正モダニズム流の田園生活にふさわしい風景があったのでしょう。路地はその名残なのです。大倉山が「私有主義的郊外」のいやらしさから多少なりとものがれることができているとしたら、それは路地のおかげかもしれません。

大倉山路地2

大倉山路地3

大倉山路地4

大倉山路地5
2010.05.09 Sun l 横浜 l top ▲
夕方、時間ができたので横浜駅から高島町の方へ歩いて、さらに国道1号線(いわゆる旧東海道)沿いを散歩しました。国道沿いはやはりビルやマンションが目立ちますが、そんな中に如何にも野菜炒めやホイコーロー定食が似合いそうな昔ながらの中華食堂も残っていて、ひとり住まいには住みやすい街のように思いました。

戸部署の先で国道を左折して坂道を上り下りすると、桜木町駅の先から伸びている紅葉坂の上に出ました。このまま坂道をさらに上り下りすると野毛や日ノ出町の駅に出るのですが、本通りから脇に入って伊勢町の商店街の中を歩きました。ひなびた商店街の先にはみなとみらいのランドマークタワーが見えました。その新旧のコントラストが面白くて、カメラを持って来なかったことを後悔しました。

途中歩いていたら、「××さん?」と声をかけられてびっくりしました。振りかえると、よく行く病院の顔見知りの看護師さんが立っていました。

「どうしてこんなところにいるのですか?」
「散歩だよ」
「散歩? だって住まいは東横線でしょ?」
「そうだけど、どこでも散歩するわけです。神出鬼没なんです」
「‥‥」
「なに、買物?」
「そうですよ。この先のマンションに住んでいるの」
「そうなんだ? じゃあ、今から遊びに行こうかな?」
「ダメよ。今、旦那がいるから」
「!?」

職業柄なのか、看護師さんには世間オンチで生真面目な人が多いのですが、彼女と別れたあと、信号待ちをしながら、先ほどの「ダメよ、今、旦那がいるから」という言葉を思い出し、吹き出しそうになりました。
2010.04.22 Thu l 横浜 l top ▲
海岸通り20100312

午後、郵便局に行ったついでにそのまま東横線に乗って、終点の「元町・中華街」まで行きました。中華街や山下公園などはいつもの平日に比べて人が多かったように思います。卒業旅行で来ているような若い女の子のグループが目につきました。あとはどこでも出没する中高年のおっさんとおばさん達です。

うららかな日差しのなかを海岸通りや日本大通りや馬車道などをぶらぶら散歩しました。ホントは野毛山公園に行きたかったのですが、出かける時間が遅かったので今日はあきらめていつもの散歩となったのでした。

3月9日の神奈川新聞に、「野毛の"盟友"しのぶ」という平岡正明氏に関する記事が出ていました。平岡氏は、野毛をことのほか愛していて、なかでも野毛の「萬里」の特別中華ランチ「19番」が大好物だったそうです。『横浜的』でも、「秘法19番 一皿に港町の精髄が」と題し、「19番」の味をとおして「異国情緒が坂の途中で艶歌に変わる」港町・横浜の魅力を書いていたくらいです。

 材料は安いものを使っている。安いものは腕で食わせる。これが料理人の誇りだろう。材料は安くでも、油や香辛料や火加減は、南京町の連中も一目置く「萬里」のものだから、一つ皿の上でいい味をかもしだす。野毛は闇市から上ってきたということを示す一皿だ。
(「秘法19番 一皿に港町の精髄が」)


ちなみに、私は『横浜的』の中では、この「秘法19番‥‥」と「シャンソン語り元次郎は野毛のジャン・ジュネである」という文章が好きです。「萬里」の店主・福田豊氏が責任編集した追悼集「アートタイムズ5号・平岡正明葬送パレード」(デラシネ通信社)には、山下洋輔氏・梁石日氏・田中優子氏の弔辞をはじめ、山崎洋子氏や朴慶南氏など平岡氏と交流のあった多くの作家や文化人達が追悼文を寄せていました。

馬車道20100313

馬車道の裏通りに最近お気に入りのジャズバーがあるのですが、私はほとんど酒を飲まないので、よっぽど気合が入ってないとひとりで入るのは勇気がいります。それで、今日は遠慮して散歩に徹することにしました。

馬車道からはいつものようにみなとみらいに行きました。そして、これも恒例のライドマークタワーのくまざわ書店に寄って本を買って帰りました。ふと思いついて、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造(普及版)』(紀伊国屋書店)を買いました。なぜかもう一度、この現代消費社会論のバイブルとも言うべき本を読んでみたいと思ったのです。

>>追悼・平岡正明
>>野毛
2010.03.12 Fri l 横浜 l top ▲
関内あたり1


読みたい本があったので、帰りに横浜駅でみなとみらい線に乗り換えて、みなとみらいに行きました。ランドマークプラザのくまざわ書店に行こうと思ったのです。ところが、電車を降りてエスカレーターに乗ったら、どの店もシャッターが下りて閑散としていました。「休館?そんなことがあるんだ」と思って、そのまま外に出て伊勢佐木町まで歩きました。あとで調べたら、設備点検のために休館していたのは手前のクィーンズスクエアだけで、奥のランドマークタワーは営業していたそうです。なんとも粗忽な人間です。

伊勢佐木町に行ったのは、言うまでもなく有隣堂に行くためです。しかし、イセザキモールは夕方なのに人もまばらで、有隣堂もますます客が少なくなっており、案の定、目当ての本もありませんでした。伊勢佐木町の衰退にはもはや歯止めがかからない感じです。

ただ、途中の関内あたりはなんとも言えない雰囲気があって、日頃横浜の悪口ばかり言っている私もあのあたりに行くと「横浜っていいな~」と思うのです。いわゆる"ハマっ子"の知り合いの女の子も、「横浜らしいのはホンの一部なんだけどね」と言ってましたが、日本大通りから本町、馬車道あたりがその「ホンの一部」なのでしょうか。

関内あたりは人も少なくて、落ち着いた雰囲気があります。威圧するような大きなビルもないので、ゆったりした気持になれます。ときにビルの間から「ボーッ」と汽笛が聞こえてきたりして、そんな暮れなずむ街をひとりで歩いていると、いつの間にかセンチメンタルな気分になっている自分がいます。平岡正明は、野毛の魅力は「場末美」だと言ったのですが、それは横浜そのものにも言えるのかもしれません。つまり、東京から見れば、横浜はある意味で「場末」なのです。

横浜には東京のような華やかさはありません。それが横浜の魅力です。通りに面したレストランでは白いエプロンをしたウエイターがぽつんと人待ち顔で外を眺めていました。横浜の街はひとりの方が似合うように思います。よく手をつないで歩いているカップルを見かけますが、あれは横浜でも渋谷でも新宿でもどこでも同じなのでしょう。

歩き疲れたので、開港資料館前のベンチでしばし休憩しました。そして、今日が2月22日だったことをあらためて思い出しました。私にとって2月22日は忘れたくても忘れられない日なのでした。

自分は自分。仮に人生をやり直したとしても、やはり同じことをくり返すのではないでしょうか。それが自分なのだと思います。舗道を行き交う人達を眺めながら、少しせつない気持になりました。こんなときは石原吉郎の詩が胸に響いて来るのでした。

位置

しずかな肩には声だけがならぶのではない
声より近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備な空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

(現代詩文庫『石原吉郎詩集』より)

2010.02.22 Mon l 横浜 l top ▲
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用事で元町に行ったついでに散歩して帰りました。山下公園から赤煉瓦倉庫、そして、万国橋の手前のいつものベンチで暮れなずむ運河を眺めながらしばし休憩したのち、汽車道を通って横浜駅まで歩きました。

元町は中高年の街です。中高年の成金夫婦がこれ見よがしに高級車に乗ってやって来るのをよく見かけますが、彼らにとって元町はやはり特別な街なのでしょう。ただ、写真のビルも1階の奥や写真に映っていませんが右側のスペースはテナントが撤退したままになっており、元町の今を象徴しているような気がしました。もっとも、元町は、もともと若者の街ではありませんでした。平岡正明は、『横浜的』で元町のことをつぎのように書いていました。

ファッショナブルな街並みにはちがいないが、舶来ブランドを輸入して横文字でダマして法外な値段で売るといった町ではない。オーダーメイドの職人経営者の町だ。外国人の注文に応じて服や家具や食器や靴やらをあつらえたことから始まっているから、作って売るという本来の商人のありかただろう。
(モトマチ「横濱繪看鈑」でメタ都市論を)


過ぎ去りし青春の光と影というわけなのか、元町では未だにハマトラのイメージを追いかけている元祖女子大生の女性達も多く見かけます。また、週末になると、ハマトラに合わせたかのような全身コテコテのアイビールックのおじさんを見ることもできます。そもそも元町に行くのによそいきの格好をすること自体がアナクロだと思いますが、知り合いの若い子に言わせれば、その気持が健気でかわいいのだとか。若い子達にはちょっとおしゃれな巣鴨のように映っているのかもしれません。

山下公園の前の銀杏並木もすっかり色づいていました。公園の中も夕暮れを前にゆったりした時間が流れ、散歩するにはいい季節だなと思いました。

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ホテルニューグランド

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山下公園

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神奈川県庁

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いつものベンチ

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万国橋の上から

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汽車道

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2009.11.26 Thu l 横浜 l top ▲
日本大通り2009年11月

今日もこちらは真冬のような寒い一日でした。夕方から買い物に行ったのですが、キルティングのジャケットにマフラーをして出かけました。

ついでに、日本大通りから象の鼻パークを散歩しましたが、さすがに人どおりは少なく閑散としていました。日本大通りも既にクリスマスのイルミネーションの飾り付けが終わっていましたが、なんだか例年に比べて質素な感じを受けました。象の鼻パークもいつもの休日に比べるとカップルが少なかったうように思います。

そのあと、久しぶりに伊勢佐木町の有隣堂に行きましたが、裏の文具館から文具売場が移ってきたのに伴い、書籍売場はB1~2階と5階に縮小されていました。以前に比べると、明らかに品揃えも悪くなっていて、目当ての本はいづれも在庫がありませんでした。そのためか、休日とはいえ客の姿も少なくなっているように思いました。横浜は品揃えが豊富な書店がホントに少ないのですが、これではやはり都内に行くしかないのかもしれません。そういえば、みなとみらいのランドマークの中にあった有隣堂も既に閉店してくまざわ書店に変わっていました。大型書店の場合、日販トーハンなど大手の取次店による系列化が進んでいますが、有隣堂のような独立系の書店はその分シビアにならざるを得ないのでしょう。創業の地・伊勢佐木町から撤退するのではないかという噂もあながちウソではないのかもしれません。

ところで、有隣堂の入口では制服姿の警備員が立っていて、いかめしい表情で店内を見渡していました。警備員はときどき別の場所に移動したり、さらに吹き抜けになっている2階に上がって、上から1階のフロアを見下ろしたりしていました。客の立場からみると、なんだか監視されているようでいやな感じですが、恐らくそれは万引き対策というより、ホームレスや焼酎の臭いをプンプンさせている日雇い労働者のおっちゃんが店内に入って長居しないように目を光らせているのだと思います。これも伊勢佐木町の没落を象徴する光景かもしれません。

伊勢佐木町は外国人の比率も年々高くなっている気がします。もしかしたらイセザキモールを歩いているのは、外国人の方が多いんじゃないかと思うくらいです。たまたま警察官が無届営業の露店に注意をしていましたが、横を通りすぎていく外国人達が何度もうしろを振り返りやたら警察官を気にしていたのが印象的でした。私は以前は埼玉に住んでいましたので、池袋の西口もよく知っていますが、池袋と比べても伊勢佐木町の外国人はガラが悪く荒んでいる気がします。なんだか馳星周の小説に出てきそうな感じですが、このまま”暗黒街化”がすすめば、(横浜市立大を出ている馳星周は横浜のことをよく知っているはずなので)ホントに伊勢佐木町や黄金町を舞台にした作品が登場するかもしれませんね。ピカレスク小説が似合う街、それはそれで横浜らしいといえなくもありません。

ジャックの塔2009年11月

クィーンの塔2009年11月

象の鼻公園2009年11月
2009.11.22 Sun l 横浜 l top ▲
秋はどうして人をメランコリックな気分にするのでしょうか。若い頃はこの季節になるとよく胸がキュンとしたものです。胸がキュンとするのは、主にフェニルエチルアミンという脳内物質が分泌するからだそうですが、では、そういった脳内物質の分泌と気温や湿度はなにか関連があるのだろうかと、身もふたもないことを考えてしまいました。

日頃は、横浜なんてただの地方都市で、お行儀の悪いブルーカラーの街じゃないかなんて悪態ばかり吐いているくせに、この季節、夕暮れの横浜の街を歩いていると、「横浜っていいな~」と思ったりするのです。人生は思い出ですから、こうして秋の夕暮れに横浜の街を歩いたことも、やがてどこかの老人介護施設のベットの上で思い出すことがあるのかもしれません。

2009馬車道まつり1

2009馬車道まつり2

ちょうど今日から「馬車道まつり」で、関内ホールの前に人だかりができていました。なんだろうと思ったら、10月31日は「ガスの日」とかで、日本で最初にガス灯がともったこの日を記念して、ガス灯の点灯式が行われていたのでした。そのあと、泰地虔郎とトワイライトセッションという地元のおじさんグループの街角ライブが行われていましたが、MCの中で、当時はプロパンもなかっただろうし、ガス灯のガスはどうしてたんだろう?と言ってました。たしかに言われてみればそうですね。それで、帰ってネットで調べたら、既にガス管が通っていてそれでガスを送っていたのだとか。ちなみに、1870年(明治5年)9月に日本で最初のガス工場を造ったのは、あの「高島易断」で有名な高島嘉右衛門です。伊勢山の下の石炭倉庫跡(現在の中区花咲町の本町小学校)にガス工場があり、そこからガスを送っていたそうです。

みなとみらい1.20091031

みなとみらい2・20091031

そのあとはいつものように、みなとみらいを通って横浜駅まで歩きました。週末のみなとみらいはどこもカップルばかりです。みんな手をつないだりして仲がよさそうです。でも、そうやってまだ人の心が移ろいやすいものだということを知らないうちが華かも、なんて意地の悪いことを考えながら汽車道の入口に立ったら、薄明かりの中からこれでもかと言わんばかりにカップルが歩いてくるのです。まるでどこからか湧いて出てくる蟻の大群みたいでした。さすがのおじさんもその不気味さに気圧され、汽車道を歩くのをやめてそそくさと帰ってきました。
2009.10.31 Sat l 横浜 l top ▲
午後から日本大通りの横浜簡易裁判所に行きました。訴訟の申し立てをするためです。商売をしていると、ときにいやな役目も引き受けなければなりません。裁判員制度の影響なのか、民事の受付の担当者の方は恐縮するくらい親切でした。30分近く申立書の書き方など懇切丁寧に説明していただきました。そう言えば、その前に県警本部にも行ったのですが、そこでも皆さん親切でした。

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用件を終え、裁判所から外に出たら、前の日本大通りが大変な騒ぎになっていました。道路も封鎖され、赤色灯を点滅させた消防車や救急車が集まり、舗道も大勢のヤジ馬で埋まっていました。よく見ると、ハシゴ車まで出動していました。最初、出初め式かなと思ったのですが、この季節に出初め式はないだろうと思って、近くの人に訊いたら、通りに面したビルでボヤ騒ぎがあったのだそうです。三脚を立ててカメラを構えているテレビ局までいました。

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ボヤ騒ぎのあと、いつものように海沿いを散歩することにしました。象の鼻公園から大桟橋、そして、赤レンガから汽車道を通ってみなとみらいまで歩きました。夕暮れまでは少し早かったのですが、埠頭を渡る風にも秋の気配が感じられました。夏休みの間は人が多いので、どうしても足が遠のいてしまいますが、これからは散歩にいい季節になりますね。私は、どちらかと言えば、「よこはま・たそがれ」(五木ひろし)より「横浜暮色」という言い方のほうが好きです。平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズに『横浜慕情』というのがありますが、「横浜慕情」というと、ちょっと重すぎて現実感がなくなりますね。

いつもながら、故・平岡正明さんの『横浜的』にもこんな「横浜暮色」を描写した文章がありました。

 花火は風のある日がいい。硝煙が吹き払われるからだ。今年の夏は快晴の日がなく、七月中旬の市主催の花火も、八月初めの神奈川新聞社主催の大会もぼんやりした夜空だったが、九時前終了してレンガ倉庫の間を引きあげてゆく人々の影がよかった。電灯の数がすくなく、ふだんは見回り用に使っている警備員の懐中電燈で足下を照らされてデコボコ道を家路につく市民の影絵が清親の明治浮世絵の雰囲気に近かった。赤煉瓦倉庫と花火の残照。日露戦争期の輸出主力、絹製品をさばくために建てられた倉庫が、旧字の「横濱」を描出する一夜だった。
(「赤煉瓦倉庫で見る花火」)


少し陽が陰ってきた大桟橋に立ったら、ふと、五木寛之さんの『青年を荒野をめざす』を思い出しました。主人公のジュンもたしか大桟橋からバイカル号でナホトカに向かったのです。高校時代、この小説を読んで、自分も遠くへ行きたいと思ったものです。もっとも、九州の片田舎の高校生にとって「遠くへ行く」と言っても、せいぜいが東京で、海を渡るなんてまったく想像の埒外でしたが。そう言えば、同じ五木さんの『海を見ていたジョニー』でも、ジョニーが最後に身を投げたのも山下公園でした。ベトナム帰りのジョニーが見ていたのも横浜の海だったのです。


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2009.08.26 Wed l 横浜 l top ▲
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用事で元町に行ったついでに、石川町の駅の先から地蔵坂をのぼって、港の見える丘公園まで山手を歩きました。今日は蒸し暑くて汗びっしょりになりましたが、気持のいい汗でした。

山手本通りの両側は目を見張るような豪邸ばかりです。どうすればそんなに金持ちになれるんだろうなんて思いながら歩きました。私達のような下層貧民から見れば、もはや羨望をとおりこして不思議な気さえします。

湿気の多い低地は庶民が住み、風通しのいい丘の上は上流階級が住むというのは欧米流なのかもしれません。横浜が開港し、山手が外国人居留地となってから高級住宅地たる山手の歴史がはじまったのです。

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山手の丘からは眺めがいいですね。私も九州にいた頃、丘(山?)の上のアパートに住んでいたことがありますが、地震のときが大変でした。寝ている上に本棚が倒れかかって危うく下敷きになりそうになったこともありました。翌朝、会社に出勤して「いや~、昨夜の地震は大変でしたね。死ぬかと思いましたよ」と言ったら、「オーバーだよ」とみんなから笑われました。”下界”は大したことがなかったのです。関東大震災の際、山手の洋館はほとんど倒壊するなど、とりわけ被害が甚大だったというのもわかります。

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上の写真は、ご存知ユーミンも結婚式をあげた山手教会(正式にはカトリック山手教会)です。横浜の若者達のあこがれの教会です。そう言えば、近くの庭付きの洋館(レストラン?)ではパーティがひらかれていました。私は、披露宴かと思ったのですが、もしかしたら婚活パーティだったのかもしれません。

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山手教会の斜め前はフェリス女学院です。写真を撮っていたら、警備員が遠くからじっとこちらを見ていました。このあたりは名門女子高も多いので、普段から制服フェチのカメラ小僧やカメラおやじが多く出没するのかもしれません。でも、今は夏休みなので、校内は閑散としていました。

>>山手
2009.08.08 Sat l 横浜 l top ▲
有隣堂本店
      「本やタウン」有隣堂本店より

埼玉にいた頃、川越のブックオフに行ったことがありますが、あまりほしい本がなくてずっと足が遠のいていました。しかし、横浜に来て、伊勢佐木町の有隣堂本店の近くにあるブックオフにたまたま入ったら、ひと月前に出たばかりの文庫や新書が半額くらいで売っているのです。それで、有隣堂に行ったついでにときどき行くようになりました。昨日も新書や文庫を10冊以上買って、おかげで(と言うべきか)有隣堂では何も買わずに帰ってきました。

ただ、ブックオフでズラリと並んだ柳美里の単行本がいづれも105円で販売されているのを見たときは、さすがに複雑な心境になりましたね。私の前では初老の男性が年代ものの井伏鱒二全集を105円で買っていました。

一方、「本やタウン」のサイトを見たら、来月の3日で有隣堂本店の「本やタウン」のサービスが終了になる旨の告知が出ていました。私は買いたい本があった場合、「本やタウン」で店内在庫の確認をして、それから出かけていたのですが、「本やタウン」のサービスがなくなると店内在庫の検索もできなくなるのです。かと言って、ジュンク堂や紀伊国屋のように自社のウェブサイトにオリジナルの検索を設ける予定もないみたいなので、不便になります。

有隣堂本店に関しては最近、前と違って品揃えが悪くなったなと思っていたら、案の定、来月、文具館の売場が本店の書籍売場に移動するのだそうです。やはりこの不景気の影響なのかなと思いますが、もうひとつは、伊勢佐木町という立地がネックになりつつあるのかもしれません。イセザキモールを歩いている人達を見ても、とても書店が成り立つような土地柄でなくなったのは事実です。ブックオフにしても、マンガとゲームソフトでもっている感じです。

地元の人に話を聞くと、昔は”銀ブラ”ならぬ”伊勢ブラ”という言葉もあったそうで、親に連れられて伊勢佐木町に買物に行くのが何よりの楽しみだったとか。それを思えば、松坂屋(旧野澤屋)が閉店した現在、当時の名残をとどめているのは有隣堂だけになったと言えなくもありません。

追記:
その後、有隣堂書店は独自で「在庫検索」を設置しました。下記のページで検索が可能です。

http://book.yurindo.co.jp/
2009.07.28 Tue l 横浜 l top ▲
マイカル本牧1

マイカル本牧へ10数年ぶりに行ってみました。かつて私は仕事だけでなくプライベートでもデートで行ったこともあるし、何よりマイカル本牧のベンチで当時つき合っていた彼女に別れの手紙を書いた苦い思い出もあります。しかし、今のマイカル本牧にデートで出かけるカップルなんていないでしょう。

メイン道路の角に閉鎖されたまま醜態を晒している5番館の建物がなんだかこの間のマイカルの歩みを物語っているようでした。かつてはスペインだったかの港町をイメージした業界では画期的なショッピングセンターでしたが、今は見る影もありません。

昔のイメージがあったので、どこがマイカル本牧なのか、さっぱりわからず最初は戸惑いました。犬を散歩しているご婦人に「マイカル本牧ってどこですか?」と聞いたくらいです。それもそのはずで、ウィキペディアによれば、当時は1~12番館まで建物があったそうですが、現在残っているのは、サティと横浜銀行が入る3番館とマイカルシネマズ(MOVIX本牧)が入る6番館だけで、残りは既に閉鎖されたり解体されたりしているそうです。もちろん、彼女に別れの手紙を書いたベンチなど跡形もありません。

マイカル本牧2

ただ、周辺は人どおりも多く、住宅街としてそれなりに活気がありました。交通手段がバスだけという不便さはあるものの、なにせ1980年代まで米軍に接収されていた土地ですので、横浜ではめずらしい平らな土地で、住宅地としてはめぐまれた環境にあり、マイカル本牧の凋落を尻目に宅地開発は順調にすすめられたようです。ただ、道路沿いの建物に「テナント募集中」の看板がやたら多かったのが気になりました。

メイン道路沿いはマンションが目立ちますが、一歩中に入ると瀟洒な一戸建ての住宅が立ち並ぶ住宅街もありました。それにしても、ウィキペディアではないですが、ニュータウンの中に屹立する廃墟というのはまさにシュールな光景です。

マイカル本牧3

マイカル本牧4

帰りは山手トンネルを越えて元町まで歩きましたが、途中の本牧の商店街も昔ながらのいい味は出しているものの、やはりシャッターが下りた店舗が目立ちました。

そもそもみなとみらい線を本牧まで伸ばす計画があったにもかかわらず、地元商店街の反対でとん挫したのだそうで、それを考えれば今日の廃れた光景は自業自得と言えなくもありません。余談ですが、横浜というのは、こういった住民エゴの影をいろんなところで見ることができます。かつての飛鳥田市政・長洲県政の負の遺産だという声もありますが、横浜市は依然として”役人天国”の側面がありますので、住民エゴをタテに事なかれ主義が蔓延している気がしてなりません。

マイカル本牧ができたとき、文字通り業界では衝撃をもって受け止められましたが、今考えれば、「大丈夫なの?」という冷静な声は皆無でした。みんな「すごい」「すごい」と言っていたのです。これもバブルのなせる業だったのかもしれません。

そう言えば、当時、私も会社から専用のクレジットカードをもたされ、給料とは別に月に30万円まで自由に使っていいとお墨付きをもらっていましたし、営業車もベンツをあてがわれ、月に9万円の駐車場(車1台分が9万円!)を借りていました。「いい時代」と言うより、どう考えても「おかしな時代」だったのです。マイカル本牧の今日の無残な姿も「おかしな時代」のなれの果てと言うべきかもしれません。みんな狂っていたのです。


2009.07.03 Fri l 横浜 l top ▲
もしこのまま横浜に住みつづけるとしたら、次に住んでみたい街は根岸です。根岸の駅前は東横線沿線のようにゴチャゴチャしてなくて舗道も広いし、住んでいる人のレベルも比較的高そうです。と、こんな言い方は嫌味に聞こえるかもしれませんが、横浜の場合、こういったことは案外重要です。

横浜は常に「住みたい街」の上位に位置して、「オシャレな街」だとかいったイメージがありますが、実際は”東京型市民”と言われる「エリートサラリーマン」や「あざみネーゼ」や「山手のお嬢様」がいる一方で、”横浜型市民”の典型である「おっちゃん労働者」や「古典的なヤンキー」なども多く、いろんな階層の人間が混在するバラエティ豊かな街なのです(マイクロマガジン社『これでいいのか横浜市』)。地域にもよりますが、決してガラがいいとは言い難いし、車や電車のマナーもよくありません。「オシャレな街」には似つかわしくないJRAの場外馬券場が多いのもゆえなきことではないのです。

そのため、横浜には「どこに住むか?」「どこに住んでいるか?」といった土地のヒエラルキーみたいなものが隠然と存在します。また、黒澤映画の「天国と地獄」が象徴的ですが、平坦な土地が少なくて坂が多いため、どうしても坂の上と下という明確な区分けがしやすいという側面もあるように思います。五木寛之も沢田研二も萩原健一も北原照久もみんな丘の上に住んでいます。かつての”歌う不動産王”千昌夫も山手の丘の上に住んでいたそうです。もちろん、成功した華僑達も丘の上に住んでいます。成り上がったら丘の上へというのが横浜のパターンなのです。

根岸1

横浜にはいくつかの「高級住宅地」と呼ばれる丘の上の土地がありますが、根岸の根岸旭台や根岸台もそのひとつでしょう。そして、その丘はかの最強の高級住宅地である山手の丘へとつながっているのです。根岸の駅前に立ったら、誰しも「あの丘の上に住みたい」とあこがれの眼差しで緑におおわれた丘の上を見上げるのではないでしょうか。

ドルフィン」の前を通り丘の上にのぼると、やたらヒルトップやヒルサイドという名称が付けられた低層のマンションが建っており、なんだか威厳さえ覚えるような高級感を漂わせています。坂をのぼりきったところには、”FIRE STATION”と赤い文字で書かれた米軍の消防署があり、サンディライオンのシールでおなじみの消防車がずらりと並んでいました。もともとこのあたり一帯は米軍に接収されていたそうで、今でも消防署の先は贅沢なスペースの中に米軍住宅が広がっています。隣接する根岸森林公園ではフィリピン人のメイドさんがベビーカーに乗った金髪の子供を散歩させていましたが、如何にも昔のユーミンが好みそうな光景です。

根岸2

根岸森林公園は、日本で初めての西洋式の競馬場の跡で、米軍に接収されていたときはゴルフ場だったとか。この公園があるだけでも根岸の丘は高級住宅地の要素を充分かなえている気がします。ウーン、こんなところに階級社会が残っていたのか、そんなオーバーなことさえ考えさせられました。そう言えば、某中央官庁の職員住宅もしっかり建っていましたが、なんだか官尊民卑を象徴するような光景だと思いました。

しかし、丘の上を貫く車道から脇に入ると、光景が一変します。まるで斜面にへばりつくように庶民的な家が密集しており、ケモノ道のような細い道が家々の間をぬうように蛇行しています。そんな坂道を適当に下ったら、山手トンネルの先に出ました。そして、山手トンネルをぬけて元町から中華街を通って帰ったのですが、金融危機の影響なのか、元町の通りにもシャッターの下りた店がいくつかありました。

>>ユーミンを聴く
2009.06.24 Wed l 横浜 l top ▲
東芝太尾アパート1

以前、「東芝太尾アパート」のキーワードでアクセスしてきた方がいらっしゃいました。どうしてこのキーワードでヒットしたのか不思議ですが、大倉山から菊名に向かう途中の裏道にこの東芝太尾アパート(正確には”東芝太尾家族アパート”)があります。

ところが、先日、前を通ったら、既に建物は無人と化し入口が板で封鎖されていました。以前、山本哲士さんが、ご自身のブログ「ホスピタリティの場所」で「日常にしみこむ金融危機の波及」と題して、「スイスもついにおつりをごまかしはじめた」話を書いていましたが、このアパートの封鎖もやはり金融危機と関係があるのでしょうか。

東芝太尾アパート2

実際に住んでいる人間から言えば、その理由がいまひとつわかりませんが、住宅地として人気のある大倉山には昔は社宅も多くあったようです。友達の話では、全日空の女子寮があったのだそうで、ウソかホントか「よく車で迎えに行ったよ」と言ってました。また、別の知人も、以前勤めていた中央官庁の外郭団体の職員住宅があったとかでなつかしそうに話していました。東芝の社宅もそのなごりだったのかもしれません。

駅近辺は昔からの細い路地が縦横に走っており、人気の住宅地(!?)にあるまじき歩行者と自転車のトラブルが絶えませんが、その中に古い木造のアパートが建っている一角がありました。駅から数分の場所にもかかわらず、まるでそこだけは時代から取り残されたようにノスタルジックな雰囲気を漂わせていました。ところが、そのアパートもいつの間にか取り壊されて更地になっていました。あのアパートには何人かのひとり暮らしのお年寄りが住んでいたはずですが、皆さんどうしたのでしょうか。
2009.06.15 Mon l 横浜 l top ▲
開港150周年の横浜。開国博Y150のベイサイドエリア、新港パーク近辺を歩きました。それにしても、平日とは言え、ご覧のとおりおせいじにも盛り上がっているとは言い難い状況です。どう見てもフジテレビのお台場冒険王(?)に負けています。

地元紙や情報誌はいつものように提灯記事ばかりですが、好きな人とだったらどこへ行っても楽しいでしょうから、好きな人と一緒ならいいかもしれません。実際にその手のカップルが多かったように思います。ちなみに、横浜市は市内の小学生の3年生以上を強制的に学校単位で見学させているそうです。

ところで、開港50周年のときは森鴎外作詞による「横浜市歌」が作られ、開港100周年のときはマリンタワーが建てられたのですが、さて、150周年の目玉は何なのでしょうか? まさか、あの巨大クモとか? 

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今月オープンした象の鼻パーク。

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クイーンの塔(横浜税関庁舎)

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キングの塔(神奈川県庁)

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記憶の積層・1

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記憶の積層・2

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記憶の積層・3

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記憶の積層・4

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ワールドポーターズ

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汽車道・1

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汽車道・2
2009.06.08 Mon l 横浜 l top ▲
称名寺

横浜出身のモデル・小泉里子さんが、ラジオ番組の中で、地元のオススメスポットとして、金沢区の称名寺をあげていましたので行ってみました。

シーサイドラインの「海の公園柴口」で下車して、海の公園とは反対の坂道を上り、住宅街の中を5~6分歩くと、称名寺の赤門が見えてきました。ちなみに、「海の公園柴口」の隣が「八景島」で、私が生涯でいちばん恐怖を味わったジェットコースターのある八景島シーパラダイスは海の公園の対岸にあります。

赤門をくぐると参道が伸びており、両隣は昔からの民家が軒を並べていました。中には参拝客相手に食べ物屋を営んでいる家もありましたが、平日でしたので、どこも店は閉まっていました。参道の先には仁王門があり、現在は通りぬけることができません。仁王門と言うからには当然、中から阿吽像(金剛力士像)が睨みをきかせていました。

仁王門の横から境内に入ると、まず、阿字(あじ)池と朱塗りの反橋が目に飛び込んできました。反橋と言えば、個人的には川端康成の小説を思い出しますが、川端康成の小説の舞台は大阪の住吉大社なのです。阿字池は、思ったより大きな池ではありませんでしたが、昔はもっと小さくて、これでも整備されて大きくなったのだそうです。庭園は「浄土式庭園」という平安末期の様式で、きれいに整備されており、年に数回ライトアップされるそうです。平日の午後でしたので、境内は人もまばらで、ほとんどが犬の散歩をしている近所の人達でした。

称名寺の背後は市民の森となっており、緑豊かな山林がつづいていました。昔は称名寺は山の中腹にあったのでしょう。しかし、今は駅からつづく坂道のまわりは典型的な新興住宅地になっています。隣には称名寺と縁の深い金沢文庫がありますが、残念ながら時間がなかったので、今回はパスせざるを得ませんでした。

小泉さんは、称名寺にはなんとも言えない空気感があると言ってましたが、それにはやはり、人の少ない平日がおすすめです。木陰のベンチに座って、静謐な時間が流れる境内の風景を眺めていると、しばし日常の些事も忘れ肩から力がぬけていくような気がします。

帰りは、来たときとは逆の坂道を下って京浜急行の「金沢文庫」駅を利用しました。やはり、京急の方が古いので、京急側の住宅地は年季が入った建物が多く、私はふと、『歩いても 歩いても』の風景を思い出しました。もっとも、金沢文庫の住宅地は海とは反対側なので、坂道を下ると海が見えてくる『歩いても 歩いても』の舞台は、隣の金沢八景あたりではないかと言われていますが。

坂道を下っていると、私の前をひとりの老人が歩いていました。白い開襟シャツに綿のズボンをはいて、やや背中が丸まった白髪の紳士でした。しばらく歩くと、老人は生垣に囲まれた古い家の門の中に入って行ったのです。その門の上には文字もほとんど消えかかった板の看板が掲げられいました。門の中では、やはり年老いた男性が中腰になって花樹の手入れをしていました。前を通りすぎるとき、「先生、どうもすいません」「いえ、いいんですよ」といった会話が耳に入りました。年老いて廃業した町医者とそこにやってきた昔からのなじみの患者。私は、(やや強引ですが)なんだか『歩いても 歩いても』のシーンが再現されているような錯覚さえ覚えました。

こういった古い住宅地を歩いていると、子供の頃を思い出します。もうこういったほのぼのとした生活は望むべくもないのです。そう思うと、なんだかさみしい気持になりました。

帰って駅の近くのスーパーでレジに並んでいたら、うしろの主婦が何度もカートを私にぶつけるのです。ぶつかっているのはわかっているはずですが、知らんぷりなのです。スーパーのレジや駅の券売機などでやけに前の人間をせかせる、この手の人間はよくいますが(そのくせ自分のときはゆっくり財布にお金を戻したりしてまったく気を使わないけど)、いい加減頭にきたので、「ぶつかってますよ!」と言ったら、「この人、なに?」みたいな顔をしてむくれていました。道を歩いていて自分からぶつかっても、相手を睨みつけるようなタイプの人なのでしょうが、今日はよけい「ああ、(まだ人々にデリカシーがあった)昔がなつかしいな~」なんて思ったりして、いつの間にか回顧主義者になっている自分がいました。


称名寺1

称名寺2

称名寺3

称名寺4

称名寺5

称名寺6
2009.05.26 Tue l 横浜 l top ▲
伊勢佐木町と野毛の間に吉田町という小さな街があります。わずか250メートルの通りなのですが、そこに画材屋やギャラリーなどが集まっており、真偽のほどはわかりませんが、地元では“横浜のモンマルトル”と呼ばれているのだそうです(どこが?という感じですが)。その吉田町で土日に「アート&ジャズフェスティバル」が開催されるというので、午後から出かけました。すでに10回目だそうですが、例年もそうなのか、「ヨコハマ大道芸2009」の一環として催されていました。

みなとみらい線の馬車道駅で下車したのですが、表に出ると馬車道も大変な人で、いたるところで大道芸が行われていました。また、松坂屋が閉店してややさびれた感のあった伊勢佐木町もいつになく人で埋まっていました。他に、みなとみらいでも大道芸が行われたそうです。

アート&ジャズフェスティバル1

アート&ジャズフェスティバル2

吉田町の通りは歩行者天国になっており、路上ではアート作品の販売やジャズのライブが行われていました。今日は永井隆雄グループ・竹内直グループ・渡辺典保グループが演奏していました。観客の年齢層がやや高いのが気になりましたが、やはり、ジャズの生演奏はいいですね。出演しているミュージシャンの中で二人見覚えのある顔がありました。彼らのアドリブを交えた巧みな演奏を聴いていると、ジャズミュージシャンというのは職人なんだなと今更ながらに思います。それが、横浜の古い街に残る下町的な気質と合うのかもしれませんね。彼らもときどき缶ビールを飲みながらいつになく楽しんで演奏しているように思いました。

永井隆雄グループ

竹内直グループ

渡辺典保グループ

ところで、横浜では今月の28日から9月27日まで、開港150周年を記念する開国博Y150が開かれます。私のまわりではその話題を耳にすることはほとんどありませんが、「横浜はオシャレだ」と思っている(勘違いしている)ような人達には大きなイベントなのかもしれません。「博覧会」と謳ってはいますが、内容はフジテレビがお台場でやっているイベントとたいして変わらないように思います。そう言えば、今日もテントの下でペラペラのパンフレットを500円で売っていました。私は無料かと思って、勝手に取ろうとしたら、「Y+150」のスタッフジャンパーを着た係員があわてて両手でパンフレットを押え、「500円ですっ!」と叫んでいました。

大道芸2009・2

大道芸2009・1

大道芸2009・3
2009.04.19 Sun l 横浜 l top ▲
太尾隊道桜

うららかな春の陽気に誘われて、散歩がてら花見に行きました。

まず、最寄駅とは反対側の太尾新道沿いの桜を見ながら新横浜まで歩きました。新横浜からは市営地下鉄で桜木町に行きました。

野毛を横切り、都橋から長者橋までの大岡川沿いを歩きました。平日の昼間にもかかわらず、結構人は多かったです。日本人が3分の2で、残りは中国や韓国、フィリピンなどの外国人でした。

大岡川桜1

以前このあたりは外国人の街娼達のメッカだったそうです。しかし、開港150周年を前にした浄化作戦でほとんど姿を消したのだとか。もっとも、この花見のシーズンは例年開店休業だったのでしょう。

大岡川桜2

大岡川桜3

川沿いの道路は福富町西通りと呼ばれ、その奥はソープランドと韓国料理店が林立する横浜の暗所とも言うべき福富町です。道路沿いにもソープランドが並んでいますが、黒のスーツを着た呼び込みの男性達が手持ち無沙汰な様子で花見客を見ていました。

川の歩道沿いにはビニールのテントを張った屋台が出ていましたが、スペインやベトナムやブラジルなど、実に国際色豊かでした。ただ、なんとなく胡散臭い感じがなきにしもあらずでしたが。

山下公園大道芸1

山下公園大道芸2

花見のあとは伊勢佐木町~寿町~石川町駅のルートで山下公園に行きました。山下公園では若い大道芸人のパフォーマンスに観客達が歓声をあげていました。

さらに山下公園から遊歩道を歩き、万国橋の運河沿いのいつものベンチでしばらく休憩して帰ってきました。帰って万歩計を見たら、1万8千歩歩いていました。満足、満足。
2009.04.03 Fri l 横浜 l top ▲
新港埠頭の船


別に「海を見ていた午後」を気取ったわけではありませんが、新港埠頭で港を行きかう船を見ていたら、ふと、ゴールデン・カップスのデイヴ平尾が昨年亡くなったことを思い出しました。ゴールデン・カップスについては、(以前に紹介しましたが)山崎洋子が『天使はブルースを歌う』(毎日新聞社)で詳しく書いています。また、同書の中でも長編小説『ハートに火をつけて!』が取り上げられていますが、鈴木いづみもゴールデン・カップスのファンでした。小説だけでなくエッセイなどでもよくカップスのことを書いていたのを覚えています。

本牧の米軍住宅が返還されたのが1982年だそうですが、戦後の横浜はアメリカの占領地としての側面もあったのです。そして、そんなアメリカ文化の影響を直に受けて育った横浜の少年達。その代表としてゴールデン・カップスがいたのでしょう。「長い髪の少女」はゴールデン・カップスのヒット曲として有名ですが、彼らは普段のステージではこの曲を歌わなかったのだとか。「長い髪の少女」はあくまでテレビ用の歌で、自分達が歌いたい歌ではないからというのがその理由でした。

そういった先進的な音楽性は、当時のグループ・サウンズにも影響を与えたようで、新山下の「タイクーン」で行われた追悼ライブには、沢田研二や岸部一徳やギタリストのCharなども駆けつけたそうです。そこには私達が知らないもうひとつ別の横浜の顔があるように思いました。

今年の元日の朝日新聞・神奈川版に、「還暦ジュリーは止まらない~横浜に20年」というインタビュー記事が出ていました。沢田研二が横浜に住むようになったのもデイヴ平尾からすすめられたからだそうです。沢田研二は、その中で、横浜について次のように語っていました。

■人情深い街で空が広い■

東京にいたころ、「本牧にすごいバンドがいる」って聞いて、テレビ出演の後、車を飛ばして見に行きました。
それがザ・ゴールデン・カップス。彼らはお客さんとすぐ近い所にいて、メンバーの1人はアンプの上に腰掛けながらやってた。「何なのこれ。カッコええ」って思いましたね。
カップスのデイヴ平尾さんらに「ジュリー、横浜に住めばいいじゃん」「みんなジュリーのこと大好きだしさ」とか言われて。そうやって住むようになって20年くらいになります。
横浜に暮らして思うのは、人情深い街で、空が広いなあ、ってこと。
最近、よく歩くようになって、発見も多いんです。谷戸坂からマリンタワーが一番よく見えるってことに気づきました。
地元では買い物にも行きますよ。本牧のつるかめランドからイトーヨーカドー、それからグルッペ本牧--。
ニューグランドのバーにもよく行きました。ダイスのうまい名物バーテンダーがいてね、サイコロ高く積み上げる技を何度も見せてもらいました。
横浜の歌もたくさん作ったなあ。ランドマークタワーとか、本牧ふ頭とかが歌詞に出てくる。本牧ふ頭あたりからは昔はしょっちゅう霧が出てたけど、最近は気候が変わったのかなあ。本牧通りを上がってくると、夜空に映える独特なハーバーライトのオレンジ色が見えるんですよね。
伊勢佐木、野毛、馬車道、長者町通り……。何回歩いても、よくわからないごちゃごちゃした通りって好きなんです。中華街もまだ隅々行けてない。

大みそかの夜はいつも、日付が変わる瞬間に「はい」って家の窓を開けるんです。中華街の爆竹の音、港の汽笛の音、近くの寺のちょっと高い鐘の音……。みんな聞こえてくる。遠くには八景島の花火も見えます。
もうどこに引っ越そうって思わない。横浜ですね。横浜でお墓を探さないとなあ、なんて思ってます。

(朝日新聞・2009年1月1日)


横浜に対する思いがよく出た記事だと思いました。横浜というのは、必ずしも巷間言われるような「おしゃれな街」などではないのです。平岡正明が言うように、場末感も含めてそれが横浜の魅力なのです。俄か市民の私には、正直言って、こういった横浜の魅力が充分わかっているとは言い難く、まだよそ者の意識で横浜を見ているところがあります。やはり、横浜というのは一歩踏み込んで中に入り、時間をかけないとわからないところがあるのかもしれません。少なくともみなとみらいのような皮相なイメージで見ていたら、見えるものも見えないような気がします。それが東京と違うところなのです。
2009.03.14 Sat l 横浜 l top ▲
関内の銀杏並木

横浜の官庁街ともいうべき関内の表通りは銀杏並木で有名ですが、時間ができたのであたりを散策しました。黄色く色づいた通りを歩いていると、移ろいゆく季節の刹那さのようなものをしみじみと感じます。

最近、老人介護施設に行く機会が多いのですが、そこで出会うお年寄り達はまぎれもなく将来の自分の姿なんですね。人間というのはこうして人生の終わりを迎えるのかと切実に感じます。

お年寄りを見ていると、人生で何が大事かというのがわかる気がします。お年寄りは自分が一生懸命生きてきたということに対して、それぞれ心の中に小さな誇りを持っているのです。その小さな誇りが老後を生きる心のよすがとなっているのですね。五木寛之さんも常々言っているように、どんな人生であれどんな生き方であれ、生きてきた、生きぬいてきたという、ただそれだけでもすごいことだし立派なことだと思いますね。銀杏並木の下を歩きながらそんなことを考えました。

そのあと、本を買うために伊勢佐木町の有隣堂本店に行きました。有隣堂の真向かいの先日閉店した松坂屋のビルは白い囲いにおおわれていました。また、周辺も急に空き店舗が目立つようになり、あらためて伊勢佐木町の置かれているきびしい現実を見せつけられた気がしました。開港150周年を前にして、このようにいたるところで横浜の”記憶の積層”が消えているのは皮肉なものです。
2008.12.01 Mon l 横浜 l top ▲
朝、鎌倉から横須賀線に乗ったら、大きな楽器ケースを持った人達がずらりと座席に座っていました。年齢は10代から70代くらいまで幅広く、どうやらアマチュアの演奏家の人達のようでした。残念ながら私は行けなかったのですが、横浜では11日~12日に好例の横濱ジャズプロムナードが開催されていましたので、それに参加する人達ではないかと思います。『ジャズ宣言』&『ジャズよりほかに神はなし』の著者として、私達にはむしろジャズ評論家のイメージが強い平岡正明氏は、『横浜的』の中で横浜のジャズについて次のように書いていました。

横浜はジャズがさりげなく豊富な町だ。福富町のコーヒー屋にベリー・コモの「バラの刺青」が流れていたり、野毛の古本屋の店先にウィントン・ケリーが流れていて、こちらはサンダル履いて50CCバイクに乗って町に出てきているのだが、思わず聞きほれたこともあった。(「ヨコハマでは後ろ向きにジャズを」)


最初にジャズが入ってきた港町といっても、客船の時代はおわり、1950年代の「モカンボ」も「ゼブラクラブ」も今は伝説。いいものはみんな東京にとられてしまう。
ええい、歯がゆいが、横浜はこれでいいのだ。音楽が土地にしみこんでいる。さりげなく豊富な町だ。東京のように、おれが今だ、おれが新しいと他を斥けて、外国から入ってくるものを情報として処理したとたん、すり減るようなことはしない。ジャズが港の気配を消さない中音量で鳴っていて、そんな特別のものじゃないよ、という顔をしているのがいいのだ。(「中音量主義でいこう」)


とは言っても、これが書かれたのが20年近く前で、今の横浜にもこんな“中音量主義”のような地に足の付いた、懐の深い文化は残っているのでしょうか。一方で、横浜は単なる東京のベットタウンあるいは東京の植民地のような顔もあり、そういった視点から横浜を見れば、俗に言う”ヨコハマの異国情緒”なんてのももはや作りものじみた見世物くらいにしか見えないのかもしれません。

携帯電話が突然、通話不能になりました。相手の声は聞こえるものの、こっちの声が相手に通じないのです。「もし、もし、もしも~し」「おーい、おーい」という相手の苛立つ声を聞くのはそれはそれで面白いのですが、これでは電話の用がなさないので急遽、新しい機種に買い替えました。

それにしても、バリューコースとベーシックコース(ドコモの料金プラン)の違いが何度聞いても理解できませんでした。係員も最初からわかってもらおうとは思ってないみたいで、「ほとんどの方がバリューコースを選ばれています」と言ってましたが、ただそれが言いたいだけなのかも、と思いました。でも、新しい携帯電話を手にするとオジサンでも心は弾むものです。

>>野毛
2008.10.12 Sun l 横浜 l top ▲
万葉倶楽部前観覧車

一気に秋めいてきて散歩するにもいい季節になりました。いつものように時間ができたので、夕方、新港界隈を散歩しました。みなとみらいをぬけて、新港パークの入口にある万葉倶楽部の前でうしろを振り返ったら、視界いっぱいにイルミネーションで縁取られた観覧車が飛び込んできました。

それにしても、どうしていつもみなとみらいばかりなんだろうと思います。横浜にはそれしかないのかと思ってしまいます。もっとも、地元の人によれば、真偽のほどはわかりませんが、真向かいの横浜ワールドポーターズも一時撤退の噂があったそうです。なんとなくわかる気がします。

今、横浜では現代芸術の国際展・横浜トリエンナーレ2008が開催されています。ということは、先日の汽車道のモニュメントの工事も開港150周年のものではなく、その展示だったのかもしれません。馬車道の駅にもモニュメントが展示されていましたが、私にはどうということもない作品にしか見えませんでした。私は現代芸術にはどうもいまひとつ馴染めないところがあります。なんというか、どこぞのラーメン屋と同じでやたら講釈が多いからです。どうしてあんなに屋上屋に言葉を重ねなければならないのかと思ってしまいます。

ところで、この横浜トリエンナーレは、あまり話題にもならず、いまひとつ盛り上がりに欠けている気がしてなりません。10月4日~5日には野毛の大道芸大会(野毛大道芸 2008 オータムフェスティバル)がありますが、やはり、美空ひばりを生んだ横浜には、芸術より芸能の方が似合っているのかもしれません。
2008.09.28 Sun l 横浜 l top ▲
汽車道対岸1

汽車道対岸2_edited

赤レンガ倉庫正面の空地にいつの間にかトタンの囲いができていました。施主が広告代理店になっていましたので、開港150周年関連の工事でもはじまるのかもしれません。山下公園に向かう遊歩道沿いも整備が進んでいますし、汽車道でもモニュメント(?)の設置工事が行われていました。

写真は汽車道から対岸の風景を撮ったものですが、ご覧のとおり古いアパートも取り壊されています。それに伴い手前の屋形船も撤去される予定だそうです。開港150周年を前に逆に横浜らしさがどんどん失われている感じで、なんだかさみしい気がします。そのうちどこもみなとみらいのようになるのかもしれません。

行政に民間の経営手法を取り入れるという発想では無駄なものは必要ないのかもしれません。しかし、都市には無駄なものや古いものや、あるいは汚いものも必要なのです。それは人が生きている証しだからです。そして、そういった無駄なところにこそ都市の個性があるのではないでしょうか。そう考えると、横浜らしさが失われていくのも当然という気がします。
2008.09.11 Thu l 横浜 l top ▲
万国橋上

今日も馬車道から万国橋に行きました。私は、この“万国橋”という名前が好きです。如何にも横浜にふさわしい名前のような気がします。だからと言って、橋桁に万国旗がはためているわけではなく、実際は地味なごく普通のコンクリートの橋です。ただ、橋の上から見えるみなとみらいの夜景は横浜随一と言われており、テレビドラマにもよく登場したりして、名前だけは有名のようです。しかし、私のお気に入りは、みなとみらいとは反対側の運河沿いの遊歩道にあるベンチです。ベンチに座っていると、水面を渡る風に乗っていろんな思いも運ばれて来るような気がします。ときにはこの人生の来し方行く末に思いを馳せ、もっと遠くへ行きたいと思うこともあります。

横浜は来年が開港150周年ということでいろんな記念行事が予定されていますが、江戸時代の横浜は、戸数90戸弱の半農半漁の寒村(横浜村)だったそうです。それが、ペリー艦隊の来航により、世界に開かれた日本の窓口として、あるいは西欧文化を直接吸収できる最先端の国際都市として、人々のあこがれの街となり、今日の横浜のイメージが形作られてきたわけで、考えてみれば、今の横浜はわずか150年の歴史しかないのです。

横浜開港資料館編『横浜・歴史の街かど』(神奈川新聞社)にも、「その発展には目を見張るものがあり、有名な横浜市歌には『むかし思えば苫屋(とまや)の煙、ちらりほらりとたてりしところ』と、粗末な小屋(苫屋)しか建っていなかった村が大都市に発展したと誇らしげに歌っています。」と書かれてありました。ちなみに、横浜市歌というのは、今から100年前の開港50年を記念して作られた、生粋の横浜市民であれば誰でも知っている(?)市民の愛唱歌だそうです(いわば、ハマっ子の踏み絵みたいなものかもしれません)。このように、横浜は、ほかの都市に比べて急激な発展を遂げたことによって、今でも近代化(西欧化)の痕跡をいろんなところで見ることができるのでしょう。

横浜に住むようになってからというもの、横浜に関連する本をかなりまめに読んできたつもりですが、中でも平岡正明『横浜的』(青土社)、同『ヨコハマ浄夜』(愛育社)、山崎洋子『天使はブルースを歌う』(毎日新聞社)、松葉好市/小田豊二『聞き書き 横濱物語』(集英社)などで描かれている横浜に興味をもちました。それは普段私達が見ているものとは別の横浜です。

『ヨコハマ浄夜』や『天使はブルースを歌う』でも紹介されていますが、毎年終戦記念日前後に赤レンガ倉庫でひとり芝居「横浜ローザ」を上演されている横浜出身の女優・五代路子さんが、ご自身のオフィシャルサイトの中で、“「メリーさん」そして「ローザ」への思い”と題して次のような文章を書かれているのが目にとまりました。

メリーさんと握手をしたのは平成6年12月の寒い夜でした。
その時、その白い小さな手から、熱いものが激しく私に流れ込んで来たような気がしました。あれは一体何だったのでしょう・・・。

その時メリーさんは私たちが何気なく見ていた風景の中に、切り絵のように立っていました。私はその姿を見るうち、いつのまにか時代を超えて、風景の向こうにもう一つの横浜の顔を見たような気がしました。それは昭和という時代の顔 --- 伊勢佐木町にあった米軍の飛行場、カマボコ兵舎、PX、MP、米兵・・・。

メリーさんから商店街の方達へ届けられるタオルに添えられた名前は「雪子」だったと聞きました。「想い出の指輪を盗まれた」と化粧品屋・柳屋のおかみさんに訴え、泣きじゃくる子供のような顔。美術展や音楽会に出かけ、ふりまく笑顔のひとつ、ふたつ。好奇の目に向かいつつも、無表情と強い意志を持つまなざしのひと光・・・。色々な顔を持っていたメリーさん。ただ立ちつづけるその白塗りの姿を私たちの心に残してメリーさんは何も言わず、この横浜を去って行きました。

戦争が私たちの街を、時代を襲い、ただ「生きよう!」という気持ちを燃やし続けたメリーさんを決して忘れてはならないと思います。
(http://www.with.if.tv/michiko-sonota/maryrosa.htm)


こんなところに、私達のようなよそ者にはわからない横浜の歴史があるし、ハマの人間の横浜に寄せる思いがあるように思いました。横浜市歌を歌うことのできない俄か市民の私には、ちょっと羨ましい気もしました。
2008.08.01 Fri l 横浜 l top ▲
万歩計を買って、毎日1万歩を目標になるべく歩くように心がけているのですが、いっこうに効果は表れません。今回はリバウンドを避けるために、食事に関しては間食をしない程度でほとんど制限をしてないのですが、やはり、そのせいなのでしょうか。怖いので体重計には乗っていませんが、逆に増えているような気がします。クワバタオハラのクワバタのように、コアリズムで腰を振らないとダメなのでしょうか。

おかげで、スニーカーを先月は2足、今月も1足買いました。と言って、履きつぶしたわけではありません。最近は、年のせいなのか、このように何事も予備を用意しておかないと不安で仕方ないのです。ちなみに、トイレットペーパーやティッシュなど生活用品は勿論、下着や靴下なども少なくとも数ヶ月分くらいの予備があります。仕事に関するものでも、たとえばコピー用紙やプリンターのインクなどは2年分くらい買い置きしてあります。また、最近は、パソコンで使っているソフトも次々とバージョンアップの最新版に買い替えています。ボールペンやタックなど文房具も山ほど買い置きがありますし、レターケースも箱に入ったままの新品が3つもあります。こうして書くと、さすがに自分でも別の不安が頭をかすめますが‥‥。

桜木町高架下1

桜木町高架下2

桜木町高架下3

今日も時間ができたので、夕方から散歩に出かけました。横浜駅の西口から国道1号線を南下して桜木町駅、さらに汽車道を通って山下公園まで歩きました。

写真はおなじみの桜木町の高架下の落書きです。こういうのを巷ではストリートアートとか壁画アートとか呼ばれているようですが、おしなべてアメリカンコミックのコピーが多くて、哀しいかなここにもニッポン人の国民性が出ているように思いました。

山下公園7

山下公園の芝生の上では外人のゲイのカップルが抱き合うように二人の世界に入っていました。そして、立ち止まって見ていたら、矢庭にキスをしたのです。私は思わずカメラを向け、その瞬間を見事シャッターにおさめることができました。ちょっと睨まれましたが、してやったりという感じでした。ところが、人様の恋路を邪魔した天罰が下ったのか、モニターで写真の出来を確認していたら、うっかり消去してしまったのです。まさに魔がさしたとしか思えません。デジカメにはPCのように「元に戻す」機能がないので、涙を飲むしかありませんでした。
2008.07.30 Wed l 横浜 l top ▲
横浜や鎌倉など地元の人達と話をしていたら、みんなが口を揃えて「横浜って田舎だよね~」「横浜は地方都市だよ」と言うので私は面食らってしまいました。だって世間では横浜はオシャレな街だというイメージがありますし、地元の人達も同じような認識を持っているはずだと思っていたからです。地方出身者の必読書『東京人のしきたり』(KAWADE夢文庫)という本にも以下のような記述がありました。

 (東京人が)実はかっこいいなぁとひそかに憧れを抱いているのが、横浜の人です。
 東京人は一応自らを都会的だと思っているわけですが、なぜか横浜には頭が上がりません。その昔、ハマトラなる清潔感あふれるお嬢様スタイルが流行ったときは、タツノオトシゴのマークの刺繍が右胸に入ったフクゾーの服と、ぺったんこなミハマの靴、Kのロゴが付いたキタムラのバックを求めて東京から女子大生が大挙して横浜の元町に押し寄せました。フェリス女学院の学生は全員美人だと思っていた東京人もいました。
 それ以来、東京人は横浜には一目置くようになったのです。それを知ってか知らぬか、横浜の通称ハマっ子も、「どこに住んでいるの?」と聞かれて、「神奈川」とけっして言いません。さりげなく、「ヨコハマ」と言います。たとえ家が横浜市の端っこのほうであってもです。


しかし、現実には地元の人達は横浜がオシャレだとはちっとも思ってなくて、むしろ東京に行くとその都会ぶりに圧倒されるのだそうです。たしかに、東京は日本中のお金の半分以上が集まっているお化けのような大都会ですが、しかし、お金があることとオシャレだということは別問題です。そう反論しようと思ったものの、ふと、彼らの言うことも一理あるかもしれないと思いました。

横浜に来て常々思っていたことなのですが、横浜の人達は歩くのがとてものろいのです。そのため、万年工事中の横浜駅の人ごみの中を歩くたびにいつもイライラします。それに、エスカレーターに乗る際も横からどんどん割り込んで来るので、律儀に列の一番後ろに並んだ人はいつまで経ってもエスカレーターに乗れなくてバカを見るはめになります。地元の人間に言わせれば、それはマナーが悪いのではなく、マナーを知らないだけなのだそうです。そう言えば、横浜駅周辺を見るにつけ、たしかに周辺の郡部から買物などで中心部の繁華街に出て来る、ひと昔前の(”ファスト風土化”する前の)地方都市の光景と似てなくもありません。

ところが、そんな横浜の中にあって山手だけは別格なのです。彼らも「あそこは特別だよ」と言ってました。ある意味で、我々が求める横浜らしさが残っている唯一の場所と言ってもいいかもしれません。「山手って田園調布より高級かもしれませんね?」とおべんちゃらを言ったら、「当たり前だよ!」と語気を強めて言い返されました。

山手洋館

今でもフランス山やイタリア山という名前が残っているように、開港当時、山手は欧米人を中心とした外国人の居留地だったところです。かつてこの日本も欧米列強に植民地支配されていた時代があったんじゃないかと思うほど、当時、山手が別世界だったことは容易に想像できます。文字通り丘の上にはお屋敷(それも洋館の)が建ち並んでいたのですね。(もっとも洋館の大半は関東大震災で倒壊し、現存する建物は震災後建て直されたり保存のために移築されたものだそうです)

山手中央通り

山手電話ボックス_edited

今でも山手の通りを歩くと、丘の下の喧騒が嘘のように静かで落ち着いた雰囲気を漂わせています(ただ週末は観光客が押し寄せるので騒がしくなるようですが‥‥)。そんな中に、フェリス女学院や横浜雙葉や横浜共立学園や横浜女学院など偏差値の高いお嬢様学校が点在しているのです。

今流行りのセレブという言葉にはどこか”成金(それも趣味の悪い!)”というニュアンスが含まれている気がしないでもないですが、山手のお屋敷にはセレブではないホンモノの上流階級が住んでいるような錯覚さえ覚えます。三島由紀夫が『午後の曳航』の舞台に山手を選んだのはなんとなくわかる気がしますね。

外人墓地

大昔の学生時代、後楽園球場で弁当売りのアルバイトをしていたとき、やはりアルバイトに来ていたフェリスの女の子と親しくなったことがありました。当時は今ほどお嬢様学校というイメージはありませんでしたが、そうか、あの子は石川町の駅から毎日坂道を上りここに通っていたんだな~と思ったら、柄にもなくちょっとセンチメンタルな気分になりました。

夏が近づいたある日、突然、「夏休みになったら軽井沢に遊びに行かない?」と言われて、九州の片田舎から出て来てアルバイトに明け暮れる毎日を送っていた私は、その軽井沢という言葉にめまいを起こしそうになりましたが、日常の中に山手や元町があった彼女にしてみれば、それは特別なことではなかったのかもしれませんね。げに環境とは恐ろしきかな。

山手坂道

丘の上と下はいくつもの坂道でつながっているのですが、帰りはケモノ道のような細い坂を下ることにしました。下界が近づいて来るにつれ何だか現実に戻っていくような気がしました。坂の途中、朽ちたまま野ざらしにされている廃屋がありました。そして、坂を下ると山手トンネルの手前に出ました。

麓の元町商店街はもともと居留地の外人向けの商店が発展してできたのだそうで、だから昔はあこがれの欧米文化を直接吸収できるオシャレな場所だったわけです。元町を歩いていると、犬を散歩している人を時折見かけました。そうやってわざわざ元町の商店街の中を散歩させていると、あたかも丘の上の住人であるかのように思ってしまいますが、しかし、私には彼らは絶対に違うだろうという妙な確信のようなものがありました。
2008.03.25 Tue l 横浜 l top ▲
大船商店街01

大船と言えば、かつて松竹の大船撮影所があった場所として有名で、俳優の笠智衆さんによる『大船日記―小津安二郎先生の思い出』という本もあるくらいです。

しかし、実際の大船は、一般的な鎌倉のイメージとは違ってきわめて庶民的な街です。特に東口の仲通り商店街は活気に満ちあふれています。地元の人に聞くと値段も安いそうです。大船駅でもご多分にもれずJRがエキナカなるものを作り利用客の囲い込みを行っていますが、エキナカなんてクソ食らえ!と言ってるようで頼もしい限りです。その意味では大船にはまだ街が残っている(街が殺されていない!)と言ってもいいかもしれません。

大船の商店街では買い物カゴを下げたお年寄りをよく見かけますが、やはり、それだけ歴史の古い住宅地だからなのでしょう。特に女性が元気な街のような気がします。撮影所の跡地に女子大ができたということもあって、街を歩いている若者も女の子の方が溌剌としています。一方で、意外にも大船は大手メーカーの工場なども多く、そういった関係で一番街のような渋い飲み屋街も健在です。

大船のような等身大の街を歩いていると、やっぱり街はいいもんだな~とあらためて思いますね。それは、「楽しい生活」だの「おしゃれな生活」だのといった、それ自体ほとんど意味のないお仕着せのイメージで塗り固められた駅ビルやショッピングセンターでは絶対に味わえない感覚です。

大船大仏01

西口にはご存知、観音さまが鎮座ましましています。と言っても、胸から下は土に埋まっており、木立の間からひょっこりと上半身を現しているその姿は異様な感じがしないでもありません。私などは不謹慎にも東京タワーの背後に屹立するモスラを連想してしまいます。しかし、ネットで調べたところ、この大船観音は意外と歴史が古く、(信仰する人達には失礼な話ですが)思っていたほどいい加減なシロモノではないことがわかりました。特にアジアからの参拝客が多いというのは面白いなと思いました。夜になるとライトアップされるためいっそうその異様さが増し、個人的には夜の方が一見の価値ありだと思います。
2008.03.14 Fri l 横浜 l top ▲
新港埠頭0306


このブログでもお馴染みになりましたが、最近は自宅の近くより横浜港界隈を散歩することが多くなりました。

既定のコースは、横浜駅東口のスカイビルの横から地上に出て築地橋を渡り、みなとみらいの未整備地区→マリノスタウン新港パークパシフィコ横浜→新港埠頭(赤レンガ)です。さらに新港埠頭からは山下臨港線プロムナードという遊歩道を通って山下公園に行くか、汽車道を通って桜木町駅に行くか、二つに分かれるのですが、最近は遊歩道が改良工事で閉鎖中ということもあって、もっぱら汽車道の方を歩いています。さらに時間があれば桜木町駅から野毛を通って伊勢佐木町まで足を延ばします。

新港看板0306

横浜港界隈は平日だとそんなに人が多くなく、しかも、カセットレコーダーで音楽をかけダンスの練習をしているようなガキ‥‥、いや、失礼、アーティスト志向の少年少女達もいないので、のんびりと落ち着いた時間を満喫できます。ひとりでベンチに座り海を眺めて過ごしているような人もチラホラ見かけます。ただ、夕方以降になると、やけに息遣いの荒い若いカップルがどこからともなくやって来て、あたりかまわず抱擁をはじめるので、それが要注意ですが‥‥。

帰りに、馬車道のとある洋食屋で夕飯を食べました。B級グルメのサイトでは評判の店です。某ミステリー作家も贔屓にしている店だそうで、オフィシャルサイトを見るとたしかにベタ褒めでした。

ハンバーグ定食を食べましたが、正直言って”がっかり”でした。不味くはないけれど、ネットで言うほど美味しくはありません。私がいちばんがっかりしたのはご飯でした。ご飯が不味いのです。これはある意味で致命的だと思いました。

私の知っている洋食屋の若いオーナーは、独立して店を出すとき、師匠から「米だけは絶対にいいものを使え」と懇々と言われたのだそうです。ご飯が不味いと全てが台無しになる。これは鉄則ではないでしょうか。

ネットで書かれていることは鵜呑みにできないなとあらためて思いました。
2008.03.06 Thu l 横浜 l top ▲
春節2

春節(旧正月)で賑わう中華街に行きました。

例の毒入り餃子事件もどこ吹く風、大通りはまともに歩けないほどの大変な人出でした。最近、中華街も食べ放題の店が多くなりましたが、行列ができていたのもその手の店が多かったように思います。私は、むしろそういった店こそ敬遠されているのではないかと思っていましたので、意外でした。大衆の心はわからない(笑)。

昔、祖父母が健在だった頃、我が家でも旧正月には餅をついていました。祖父母から「今日は大晦日だよ」と言われて、子供心に不思議に思ったものです。ついこの前大晦日があったばかりなのに、どうしてまた大晦日があるんだろうと思いました。それに、紅白歌合戦のない大晦日なんてなんだかニセモノっぽい気がしたものです。

春節1

中華街の中の山下町公園では中国舞踊が披露されていました(左下の頭にリボンを乗せた女の子がかわいかったのでアップにしました)。まわりを見るとやはり、在日華僑の人達が多かったように思います。
2008.02.10 Sun l 横浜 l top ▲
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

ふと、海が見たくなり夕方、新港埠頭に行きました。遠くに見えるみなとみらいの夜景がまるで別世界のように夜の海はひっそりと静まりかえり、孤愁を漂わせているかのようでした。埠頭に立つと、若い頃好きだった寺山修司の歌を思い出しました。

マッチ擦るつかの間の海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや

アートリンク

リンク照明

ライトアップされた赤レンガ前のスケートリンクは、昼間とは見違えるほどにロマンティックな夜を演出していました。手を取り合いおぼつかない足取りで滑っている若い恋人達がまぶしく見えて仕方ありませんでした。みんな、笑顔がはじけ楽しそうでした。

山下臨港線プロムナード夜景

遊歩道を山下公園の方に向かう途中、後を振り返ると、みなとみらいの夜景を見渡すことができました。そう言えば、稲垣潤一の歌に「ロマンティックは似合わない」という歌詞があったなと思いました。

大桟橋旅客船

大桟橋に行くと、大きな客船が接岸されていました。船旅を終えたばかりなのか、乗客の姿は見えず、時折、デッキを行き来する船員の姿があるだけでした。

みなとみらい夜景

山下公園も人影は少なく、ベンチにぽつんぽつんとカップルが肩を寄せ合って座っているだけでした。植え込みの外灯の下では、空き缶が詰められたビニール袋を抱えたホームレスの男性が、水道の蛇口に覆いかぶさるようにして水を飲んでいました。
2008.02.02 Sat l 横浜 l top ▲
野毛


1872年(明治5年)、日本初の鉄道が新橋~横浜間を走ったとき、当時の横浜駅というのは今の桜木町駅だったそうです。名著!『横浜的ー芸能都市創成論』(青土社)の中で、著者の平岡正明氏は「野毛こそ横浜のヘソである」と書いていましたが、文字通り野毛は当時の横浜駅前に発展した、横浜を代表する歓楽街だったのです。そして、以後、「桜木町」に駅名が変わっても、少なくともみなとみらいが開発されるまでは、桜木町の中心が西口の野毛であったことには変わりがありませんでした。磯子生まれの美空ひばりが歌手デビューしたのも当時野毛にあった横浜国際劇場(現在のJRA場外馬券場=ウィンズ)だったそうです。

それが、今では桜木町駅に下車する多くの乗客達が向かう先は反対側のみなとみらいになってしまいました。平岡氏はまた、野毛の魅力について、「場末美」という言い方をしていましたが、たしかに今の野毛に「場末」の趣がないわけではありません。しかし、だからこそ、野毛にも横浜橋などと同じように、港町特有の風土がつちかった街の温かさが残っていると言えるのではないでしょうか。いろんな人がいて、いろんな生き方がある、まさにこれほど人生が露出した街はないように思います。

私が横浜を担当していた頃、東急東横線の終点は桜木町駅でした。桜木町駅に降り立った私はまず、16号線の信号を渡って野毛で腹ごしらえをするのが楽しみでした。そして、そのあと、路地をぬけて大岡川を渡り、福富町の風俗街とその先の韓国料理店が立ち並ぶ通りを通って伊勢佐木町に出るのがいつものコースでした。そこには表通りの横浜とは違った別の横浜の顔がありました。

 場末美とは何か? 自由だ!
 通りに風が吹く。スモッグを吹きはらう具体的な風でもあり、時代が疲労する前にシャワーのように体力を賦活してくれる舶来の風でもあって、谷戸がいりくみ、よく発達した路地が舶来物の日本生活への変換を調節し、みがく。横浜は路地と横丁があつい。エネルギー変換装置であり、フィルターでもある。路地へ入りこんで市民が町人と変わるあたりにいい店があり、いい商人がいるものだ。(『横浜的』あとがき)


私の知人に「港北区や青葉区なんて横浜じゃねぇ~よ」と嘯く根岸生まれの生粋のハマっ子がいますが、彼の話を聞いていると、横浜というのは「渋くていいバー」が点在する街でもあるのだということがよくわかります。地元の人間だからこそ知り得る、野毛や馬車道や本牧などにあるそんな「渋くていいバー」の話を聞いていると、如何にも「横浜的」だなと思います。

しかし、一方で彼は、「古い店がどんどんなくなっているんでさみしいですよ」と言ってました。そんな彼はまだ40前なのです。それくらい横浜のミニ東京化(東京のベットタウン化)が急速に進んでいるということなのかもしれません。元町の商店街にしても、いつの間にかかつての個性はすっかり失われ、どこにでもあるようなチェーン店ばかりが目立つようになりました。

しかし、それでも横浜の海がお台場の海と違って見えるとしたら、そこに私達は「横浜的」な幻影を見ているからではないでしょうか。そして、それは、場末にあって「横浜的」な心意気を持ちつづけてきた野毛など「個人商店の街」のおかげだと言えないこともないように思います。
2007.12.24 Mon l 横浜 l top ▲
赤レンガ倉庫


ふと海を見たくなり、横浜港(新港埠頭)に行きました。赤レンガ倉庫は今やみなとみらいの代表的な観光地になっているのだそうですが、平日の昼間だからなのか、建物の中はそれなりに入っていたものの外は人もまばらで閑散としていました。

それに、赤レンガの倉庫といっても2棟しかありません。しかも、周辺はきれいに整備されているので、トレンチコートに葉巻を咥えた宍戸錠が突然建物の影から姿を現す、そんな往年の日活無国籍映画に出てくるような倉庫街をイメージしていたらがっかりするかもしれません。

広場には期間限定でスケートリンクが造られているのですが、正直言って、如何にも俄か造りといった感じのしょぼいリンクでした。

ところが、これが夜になるとライトアップされ、恋人達も酔い痴れるロマンチックな風景に一変するのだそうです。やはり、陽が高いうちに来たのが間違っていたのかもしれないと思いました。

リンク上では齢70に届こうかというようなニット帽を被った老人がひとり異彩を放っていました。そのテクニックは群をぬいており、子供達が嬌声を上げる中、まるで何かにとり憑かれたかのように、赤いマフラーを風になびかせながらリンク上を周回していました。

その場にいた人達はやや引いた感じで彼を見ていました。そして、そんなまわりの目を意識したのか、突然、彼は安藤ミキティばりに両手を前に突き出し左足を後に上げて、右足だけで滑りはじめたのです。私は、そのうちトリプルアクセルでもやるんじゃないかと密かに期待しながら見ていたのですが、さすがにそこまでのテクニックはなかったようです。

横浜大桟橋診療所

大桟橋に行く途中、ぽつんと昔の風景が残っている一角がありました。背後の白い建物には「横浜大桟橋診療所」という文字が見えました。こういった風景を目の前にするとホッとすると同時に何だか胸がつまるような気持になります。でも、まわりは鉄柵に囲われた空地が目立ち、この風景も風前の灯火といった感じでした。

九州では子供の頃、路面電車が走っていて、街中から国道沿いの海岸線に電車がさしかかると、車内に潮の香りが漂ってきたものです。そんな思い出を追憶したい気持もあったのですが、季節のせいなのか、横浜の海は何故かあの潮の香りがしませんでした。それがちょっと残念でした。
2007.12.12 Wed l 横浜 l top ▲
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夕方、ほしい本があったので伊勢佐木町の有隣堂本店に行きました。途中、「馬車道」で下車して伊勢佐木町まで歩いて行きました。

横浜駅周辺は渋谷や新宿などと変わらないくらい混雑していますが、関内あたりになると人も少なく、ビルの灯りに照らし出された黄金色の銀杏並木の下を歩いていたら、しばし感傷的な気分になりました。

昔、馬車道に有隣堂の文具館があったのですが、仕事で通っていた頃のことを思い出しました。生香園も「あそこは美味しくて有名なんだよ」と地元の人から教えてもらったことを覚えています。ただ、今のように周富輝さんの写真は表に出してなかったような‥‥(笑)。

またあるとき、馬車道の舗道のベンチに、真っ白な化粧をしてまばゆいばかりの派手な衣装を着た老女が所在なげに座っているのに遭遇したことがありました。のちに彼女が伝説の娼婦・ヨコハマメリーであることを知りました。(彼女については昨年ドキュメンタリー映画が公開されました)

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馬車道を歩きながら、やっぱり、ひとりがいいな~、としみじみ思いました。どうしてみんな、孤独であることをそんなに呪詛するのでしょうか。「哀しみは人生の親戚」と言いますが、哀しみだけなく淋しさも切なさも、みんな人生の親戚のように思います。

サラリーマンの頃、お世話になった方の実家も伊勢佐木町だったことを思い出しました。華僑の方で、実家もやはり中華料理店をやっていると言ってました。だからなのか、六本木の中国飯店のスタッフとも顔見知りのようで、よく中国飯店でご馳走になりました。

あるとき、私が、「民族意識というのは国籍がどうかなんて関係なくて、要は、生きていく上での文化的な基盤がどこにあるかということでしょう。自分が中国人だと思えばそれだけで充分なんじゃないですか」と言ったら、「そうだよね~」と言ったきり黙ってしまったことがありました。

その後、私が会社を辞めたこともあって会う機会もなくなったのですが、数年前に六本木に行った折、ふと思い付いてその方の会社を訪ねたのです。すると、平日なのにカーテンが閉められ、しかも軒先のプランターが倒れたままで、明らかに尋常ではない様子でした。

近所の旧知の喫茶店に行って事情を訊くと、「4~5日くらい前から急に姿が見えなくなったけど、どうも倒産したみたいだよ」と言われました。帰ってすぐ自宅に電話したのですが、「只今お客様の都合により電話が通じません」という電話局のアナウンスが流れるばかりでした。

それ以来、音信不通になっていますが、もう会うことはないのかもしれません。実家は「甥っ子が跡を継いでやっている」と言ってましたが、実家の連絡先でも聞いたおけばよかったと思いました。

結局、目当ての本は有隣堂には置いてなくて、わさわざ出向いたのに徒労に終わりました。事前にネットで在庫を調べてから来るべきだったなと思いましたが、あとの祭りでした。
2007.12.04 Tue l 横浜 l top ▲
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ビックカメラに用事があったので、自転車で新横浜に行きました。最寄駅は東急東横線なのですが、自転車だと新横浜まで10~15分くらいで行けます。電車でも隣駅でJRに乗換えてひとつ目なのですが、駅まで歩く時間や乗換えの時間等を入れると、自転車の方がかえってはやいくらいです。

途中、横浜アリーナの前を通ったら、入口の前には茹だるような暑さの中、タオルで汗を拭きながら若者達が列を作って並んでいました。大半は男の子で、よく見ると、やや小太りで肩からショルダーバックを下げたオタクタイプと、ストリートファッションに無精髭を生やしシルバーアクセを身に付けたヤンキータイプに大別できる感じでした。なんだろうと思ってポスターを見たら、某格闘技のイベントでした。

写真は建築中の新横浜の駅ビルです。来年完成予定で、家主はJR東海だそうです。現在の新横浜駅は、JR東日本とJR東海の二つの会社によって区分けされており、たとえば、(利用者にとってはどうでもいい話ですが)北口(駅の表口)と篠原口(裏口)は管理する会社が違うのだとか。分割民営化の際、借金は国民に押し付けて、自分たちは、俺はこっちお前はあっちと、お互いの領分を話し合って決めたのでしょうか。でも、それはもともとは国民の財産だったわけですから、いわば国民の財産を山分けしたと言えないこともないのです。これも”民営化”のひとつの側面なのです。

それにしても、JRの鼻息は荒くなるばかりです。新横浜にしても、現在駅の高架下にASTYというショッピングモールがあるのですが、駅ビル完成のあかつきにはビックカメラをはじめほとんどが新しい駅ビルに移転するみたいです。となれば、高架下はどうなるのでしょうか。

また、今の駅をはさんで駅ビルが反対側にできることになるプリンスホテルやぺぺが、益々きびしい状況におかれるのは目に見えており、新横浜における西武の行く末が気になります。

民営化で「国有」と「負債」の頚木(くびき)から解放され、本業そっちのけで駅ビル開発にのめり込んでいる最近のJRの姿勢は、ときに横暴にさえ映ることがあります。三浦展氏の言う”ファスト風土化(郊外化)”とはまた違った意味で、JRによって街が壊されているような気がしてなりません。
2007.09.18 Tue l 横浜 l top ▲
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今年の春オープンしたばかりのノースポートに行きました。

ノースポートは横浜の市営地下鉄・センター北駅(写真)に隣接したショッピングモールで、ららぽーと横浜と同じ都筑区にあります。

最近、いろんなところで、「横浜の港北はすごいことになっている」という声を耳にしますが、たしかに、現在、港北地区では大規模ショッピンセンターの建設が目白押しです。

イケア港北ららぽーと横浜・ノースポートにつづいて、今秋にはトヨタ自動車が手がけるショッピングモール・トレッサ横浜がオープンしますし、来年には新横浜の駅ビルも完成予定です。

「本当に大丈夫なんだろうか?」とネットにも書込みがありましたが、たしかに他人事ながら心配になってきます。

ノースポートは、エイアイ・アセットサービスというアセットマネジメントの会社がパルコと組んで開発しためずらしいケースで、パンフレットによれば、延床面積約141,400㎡の地下2階地上9階の建物に110の店舗が入っているそうです。

センター北駅には決して順風満帆には見えない阪急百貨店(モザイクモール港北)が隣接していますし、隣のセンター南駅には港北東急百貨店もあり、ネットの書込みならずとも大きな賭けであることは誰の目にも明らかです。

また、駅からノースポートに行く途中には「ららぽーと横浜行きのバスはこちらです」という看板を持った女性が立っていました。センター北駅からはららぽーと横浜への無料の送迎バスも出ているのです。余談ですが、私が住んでいる最寄駅を通る市営バスもいつの間にか「ららぽーと横浜行き」に変わっていました。ららぽーと横浜恐るべしです。

ただ、ノースポートの場合、来春、東急東横線の日吉駅に接続される新しい市営地下鉄の路線が開通するので、そういった将来性を見込んでの計画でもあるのかもしれません。

それにしても、かつては郊外など一顧だにしなかったパルコもとうとう宗旨替えしなければならなくなったのかと思うと、やはり、時代の流れを感じないわけにはいきません。

一方で、平日とは言えちょっとさみしいノースポートの店内を歩きながら、私は、先日訪ねた横浜橋の商店街を思い出しました。

横浜橋は「庶民的」という言葉がぴったり来るような下町情緒の残った、いわばノースポートとは対極に位置する商店街です。特に食品関係の店が多く、惣菜などを売っている屋台が並んだアーケードの両側からは、昔ながらの元気な掛け声が飛び交っていました。また、アーケードから横に入った通りには韓国や中国系の飲食店も多くて、店の前では若い女性が携帯電話を片手に韓国語でまくし立てているような光景も見られました。

その1週間前、私は、鎌倉の大船の商店街を訪ねたのですが、その際、商店街の外れにある飲み屋街で、まだ日が高いうちからあがた森魚の「赤色エレジー」を熱唱しているおじさんと知り合ったのです。

「あんた、ここで何やってるんや?」
「いや、大船には昔ながらの商店街がまだ残っていると聞いたので見に来たんですよ」と言ったら、「だったら、横浜橋に行ってみな。あそこも味がある街やで」と言われたのです。

大船もそうですが、横浜橋の商店街を歩いていると、なんだかホッとする自分がいます。それは郊外の街にはない感覚です。

去年まで住んでいた埼玉の街もやはり典型的なベットタウンだったのでよくわかるのですが、こうして横浜の郊外の街をまわっていると、同じような家族構成の同じような生活レベルの人達が集まる郊外の生活というのは、孤独感や疎外感と常に背中合わせのような気がします。だから、ちょっとした挫折や失敗でも精神的に行き詰ってしまうようなところがあるのではないでしょうか。

その点、長い時間をかけその土地の風土がつちかって出来た街には、ありきたりな表現ですが、やはり、人の温もりがあるような気がします。それがホッとする所以なのでしょう。いろんな人がいて、いろんな生き方がある、それがわかるだけでもどんなに気が楽になるでしょう。もとより人間というのは、郊外のような規格化された生活から常にはみ出す存在でもあるのではないでしょうか。

最近、郊外ばかりが脚光を浴びて横浜橋のような昔ながらの商店街が衰退していると言われますが、それは、おしゃれで便利な生活の代償として、ひとつの決まった生き方を強いられるような息苦しさを感じないでもありません。
2007.08.06 Mon l 横浜 l top ▲
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ラゾーナ川崎(正確にはラゾーナ川崎プラザ)に行きました。

ここのウリはなんといっても川崎駅から直結した立地のよさです。首都圏のターミナル駅の横にこれほど広大な土地が残っていたとは驚きですが、といっても別に空き地だったわけではなく、東芝の工場跡地だそうです。

私も以前はよく川崎に行ってましたが、たしかに反対側の東口しか記憶になく、そもそも西口なんてあったのという感じでした。ちなみに、私が川崎に通っていたときにちょうど駅ビルの川崎BEがオープンしたのですから、やはり、昔日の感があります。

ところで、この建物の構造はどこかと似ているなと思ったら、先日紹介した横浜ららぽーととそっくりなのです。それもそのはずで、こっちの方が半年早かったようですが、運営しているのが同じ三井不動産です。

ただ、ラゾーナ川崎の場合、地権者である東芝不動産と共同開発だそうです。そのため、建物内のエレベーターは、みずからの負担で取り付けたビックカメラを除いて、全て東芝製になっているという鋭い指摘がウィキペディアにありました。

ということは、屋上に鎮座ましましているミニ出雲大社(!)も東芝がらみなのでしょうか。縁結びの神様であるにもかかわらず、若いカップルから「なに、これ?」「出雲大社だって」と一笑に付されていました。

ラゾーナ川崎もターゲットはファミリー層だそうですが、そのためか、テナントもむしろリーズナブルなショップが目に付きました。

ユニクロもあるしロフトもあるしプラザ(旧ソニプラ)もあるしビックカメラもあるしサザビーもあるしアカチャンホンポもあるしディズニーストアもあるし‥‥、ホントになんでもあるって感じです。

また、飲食のテナントが多いのもここの特徴です。それも、やはり、ファミリー層を意識してラーメン屋だとか鯛焼き屋だとかいった、どちらかと言えば庶民派の店が多く見られました。

私が行ったのは土曜日の午後だったのですが、たしかにどこを見ても家族連ればかりで、その中にカップルが混じっているという感じでした。その意味では狙い通りかもしれません。

そんな中、夜勤の仕事に出かける途中に立ち寄ったとおぼしき、ショルダーバックを肩から下げた初老の男性が、明らかに戸惑った様子でショップの案内図を見上げていたのが印象的でした。

開店当初、アルバイトをしている青年がみずからのブログに、「ここは原宿か」と興奮気味に書いていたのを読んだ記憶がありますが(笑)、半年が経ち開店景気がすぎつつある今、正面の広場に集う家族連れを見るにつけ、意外にショップの袋を持っている人が少ないのがちょっと気になりました。

屋上では父子がキャッチボールをしているほほえましい光景が見られましたが、住宅棟も併設しているので、そういった日常に隣接したショッピングセンターというのがラゾーナ川崎のもうひとつの特徴と言えるのかもしれません。つまり、よそ行き(ハレ)の場所ではないのです。

もっとも、同じ川崎市民でも東京(渋谷)や横浜への親近感が強い中原区や高津区や宮前区の住人達が、週末になると”ギャンブル路線”などとヤユされるあの南部線に乗ってわざわざやって来る(南下して来る)とはとても思えません。

それに、これからの季節、広場が茶髪にストリートファッションの川崎少年達の溜まり場と化すのではないか、と私はひそかに心配しています。広場のオブジェがスプレーで落書きだらけなんてことになったら目も当てられません。

とは言え、ターミナル駅に直結するという立地条件が最大の強みであることはたしかなのですから、これからパターン化された店舗構成が徐々に修正され、川崎という土地にふさわしいショッピングセンターに変わっていくのではないでしょうか。それが適者生存の法則というものでしょう。
2007.05.15 Tue l 横浜 l top ▲
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ローカルな話題がつづきますが、今日はオープンしたばかりのららぽーと横浜に行きました。(写真はなんだか廃墟みたいに見えますが‥‥)

電車の場合、横浜線で新横浜から3つ目の鴨居という駅で下車して徒歩7分のところにあります。

鴨居駅は緑区なのですが、ららぽーとは鶴見川を渡った対岸の都筑区にあります。まわりは流通センターや工場ばかりでしたが、それもそのはずで、旧NECの工場跡地なのだそうです。

駅を出て歩行者専用の橋を渡ると、その先は町工場の軒先を通る片側通行の細い道しかありません。そのため、至るところでスタッフジャンパーを着た若者が、メガホン片手に、「車が通りますので左端を歩いてください」と呼びかけていました。

ららぽーとは三井不動産が管理運営する郊外型ショッピングセンターですが、関東近辺では千葉の船橋(ららぽーとTOKYO-BAY)と埼玉の志木(2005年3月閉店)以来、新規オープンの声を久しく耳にすることはありませんでした。

しかし、昨年、豊洲(東京都江東区)と柏の葉(千葉県柏市)が相次いでオープンするなど、規制緩和と景気の回復を追い風に再び巨像が息を吹き返した感があります。

226,611.31㎡(68,549.92坪)という広大な敷地に370のテナントが軒を並べるその光景は壮観の一語に尽きます。それだけでも一見の価値があると思いました。また、テナントの充実度においても、第三セクターが運営するみなとみらいなどと比べると、商業施設としての性格の違いがあるとはいえ、やはり、一日の長があると思いました。

もっとも、バブル期にオープンして、親会社の経営破綻とともにわずか10数年で廃墟と化した、あのマイカル本牧が出現したときのような衝撃はありません。(ちなみに、このハマゲソクラブは、掲載されている写真にブログ主の批評眼がよく表れていてとってもいいブログだと思いました)

現在、首都圏ではバブル期を凌ぐほどの再開発ラッシュですが、ただ、どこのショッピングセンターやテナントビルも同じように見えるのは私だけでしょうか。バブルで痛い目に遭って学習能力を身につけたディベロッパーに、かつてのあのわくわくするような遊び心はもはや望むべくもないのかもしれません。

それにしても、地域間競争は益々激しさを増すばかりです。それはとりもなおさず巨大ショッピングセンターの生き残りを賭けたサバイバルゲームでもあります。

言うまでもないことですが、問題は、開店景気のあと、どれだけの顧客が残るかでしょう。私の知る限り、開店から半年も経つと売上げが半減したなんて話はザラですからね。決して皮肉ではなく、2年後3年後どうなっているか、非常に興味があります。
2007.03.24 Sat l 横浜 l top ▲
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所要で横浜駅に行きました。

10数年前に横浜を担当していた頃と比べても駅周辺はそんなに変わっていません。新しくできた大型店はドンキホーテとヨドバシカメラとビックカメラくらいでしょうか。

業界では”横高(ヨコタカ)”と呼ばれていた老舗の横浜高島屋も相変わらず多くのお客さんで賑わっていました。

横浜駅周辺を行き交う人達を見ると、圧倒的に女性の比率が高いように思います。それが界隈にファッションビルが多い所以なのでしょう。

駅ビルのシャルで遅い昼食をとったのですが、若い女性の2人連れが多く、なんだか韓国のソウルみたいだなと思いました。

ビブレ(写真)の近くの橋の上ではカモメに餌を与えている人達もいました。

写真の左下に写っている看板は、夜になると看板の下の道路沿いにずらりと屋台が軒を連ねるのですが、その屋台に対する警告文です。

都内ではこういった光景をほとんど見かけることがなくなりました。それだけ横浜はまだ行政の規制がゆるく”自由”だということなのかもしれません。

ただ、一方で、駅周辺では歩きタバコの人が非常に多く、私はすれ違うたびに気が気ではなりませんでした。横浜市は「歩きタバコ禁止条例」を制定していないようですが、あの人ごみで歩きタバコというのはどうみても危険です。

ついでにみなとみらいのイルミネーションを見に行こうかと思ったのですが、今夜はあの亀田興毅とランダエタのタイトルマッチがあるので早々に帰って来ました。
2006.12.20 Wed l 横浜 l top ▲
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横浜の友人と中華街で食事をするため待ち合わせたのですが、約束の時間より早めに出かけて山下公園や元町を探索しました。

特に、山下公園の氷川丸とマリンタワーが今月の25日で営業を終えるというので、最後に見ておきたいという気持もありました。マリンタワーには「45年間ありがとうございました」という大きな垂れ幕が下がっていました。

ポストカードの会社に勤めていた頃、私は横浜を担当していましたので、毎週横浜に通っていました。仕事の合間、山下公園のベンチでよく昼寝をした思い出があります。

当時はプライベートでもよく横浜に行ってました。中華街や元町に行くときは山下公園の前の通りに路上駐車していましたが、今は路上駐車の車もほとんど見かけませんでした。

元町も中華街も久しぶりでしたが、平日だったからなのか、昔に比べてやや精彩を欠いているような印象を受けました。東急東横線でも乗り換えなしで行けるようになったので、もっと活況を呈しているのではないかと思っていたのですが意外でした。中華街も呼び込みと占い師と肉まん売りばかりが目立ちました。

近くにみなとみらいもできたし、横浜もまたご多分に漏れず激しい地域間競争に晒されているのかもしれません。時代のサイクルは益々速くなっており、いろんなところで地殻変動が起きていますからね。老舗の横浜も例外ではないということなのでしょうか。
2006.12.05 Tue l 横浜 l top ▲