横浜市長選・山尾志桜里


横浜市長選において、昨日(7月27日)、桜木町駅前で上のような光景が見られました(写真はネットから拾った画像をモザイク処理しています)。一瞬目を疑う光景ですが、これが民進党の姿なのです。

民進党の山尾志桜里衆院議員は、同党の牧山ひろえ参院議員(神奈川選挙区)とともに林文子候補の選挙カーに乗り、つぎのような応援演説をおこなったそうです。

林さんは「女性だからできない」という世の中を変えてきた先駆者。都知事も女性のリーダー。仙台市長選郡さんは素晴らしい結果を出した。実力のある女性リーダーが多様な市民の声とつながった時本当の意味で社会が動き政治が変わる。横浜も是非!

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山尾志桜里議員は、党内では前原誠司氏に近いと言われていますが、今回の行動は、単に「(スポンサーの)連合に頼まれたから」などという話ではないように思います。

林市政の問題点は、カジノだけではありません。横浜市の市立中学146校の歴史と公民の教科書は、2011年につづき2015年も「愛国心の育成に主眼を置いた」育鵬社の教科書を採択しているのです。日本会議は、「自虐史観」からの脱却を掲げ、全国の自治体に育鵬社の教科書の採択を要請する運動をおこなっていますが、横浜市は、育鵬社のシェアが4~6%と伸び悩むなかでも、その要請に忠実に(!)応えている自治体なのです。

山尾志桜里議員は、「保育園落ちた日本死ね」のブログをきっかけに、待機児童の問題を国会で取り上げた人物として知られていますが、もうひとつ、先の国会で大きな役割を果たした法案があります。それは、共謀罪と抱き合わせで成立した、性犯罪を厳罰化する刑法改正です。以前紹介した写真に見られるように、性犯罪の厳罰化を求める団体と金田勝年法務大臣をつないだのも山尾議員らなのです。

そんな“厳罰化の思想”と(国権主義的な)育鵬社の教科書を採択した林市政を支持する姿勢には、共通したものがあるように思えてなりません。

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一方、民進党では、蓮舫代表が辞意を表明したことに伴い、山尾議員の”親分”の前原誠司氏と枝野幸男氏が代表選に立候補すると言われています。民主党政権が崩壊したあとも、党人事などで出てくるのは当時の“戦犯”ばかりです。

有権者から見れば、野ブタを復権させたことで、蓮舫代表は最初からアウトだったのですが、前原氏も枝野氏もその点を批判することはないのです。自分たちも同じ穴のムジナなのですから、できるわけがないのです。有権者を愚弄しているのは、自民党だけでなく民進党も同じです。代表選に「リベラルか保守か」なんていう図式をあてはめるのも、単なるお笑いでしかありません。

政権崩壊の責任が不問に付されたまま、相も変わらず一部の人間たちで党人事がたらいまわしにされている民進党。支持率が下がれば下がるほど、自民党と一緒になりたい者たちの声が大きくなる民進党。そんな民進党に未来がないのは、誰が見てもあきらかです。「解党的出直し」などではなく、もはや解党するしかないでしょう。


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2017.07.28 Fri l 横浜 l top ▲
来週の日曜日は横浜市長選の投票日です。現職の候補は、もともとは民主党が担いだ落下傘候補(当時は東京日産自動車販売の社長)でした。2009年8月の市長選で初当選したのですが、その前月には民主党政権が誕生しています。擁立には、民主党が政権に就く前まで同党の代表だった小沢一郎氏の意向が大きくはたらいたと言われています。

そのため、民進党(旧民主党)はずっと与党として市政を支えてきました。もちろん、連合神奈川も自治労神奈川も同様です。市議会に民進党所属の東電労組出身の議員を送り込んでいる電力総連も、現職市政を支える強力な支援団体です。

現職候補は今回で三期目ですが、その間自民・公明にも接近し、二期目からは自民・公明・民進が推薦する、実質的な“オール与党体制“が成立しています。

今回の選挙では、民進党内の旧維新の市議が、“市民派”として立候補しました。一方、民進党内の旧民主党系は、現職候補を支援しています。そのため、民進党は自主投票になりました。旧維新の“市民派”候補に対しては、共産党が独自候補の擁立を見送り、実質的な“野党共闘”候補として支援しています。

このように横浜市長選は、さまざまな思惑が絡む複雑な構図になっているのですが、少なくとも民進党内の多数派や連合や市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)は、安倍政権の懐刀である菅義偉官房長官(神奈川二区選出・元横浜市議)が牛耳る自民党と手を組み、カジノ推進や戦前賛美の育鵬社教科書採択の現職市政を支援しているのです。横浜市長選の構図を見る限り、民進党は“野党”なんかではありません。”野党”のふりをしているだけです。

横浜とカジノに関しては、ネットに次のような記事もありました。

デイリー新潮
カジノ利権を狙う「横浜のドン」の影が見え隠れ 総理の椅子が欲しくなった「菅官房長官」(1)
菅官房長官、「横浜カジノ」消滅でメンツ丸つぶれ 地元ドンの一声で

如何にも新潮らしく前と後では書いていることがまったく違っており、一体どっちが本当なんだと突っ込みたくなりますが、横浜市にも「神戸と山口組」と同じように、港湾都市特有のダークな部分がまだ残っているということなのでしょうか。横浜市民の感覚から言えば、とんだ”野党”やとんだ労組がいたものだと言わざるを得ません。

先日、桜木町駅近くの建設予定地で新市庁舎の起工式がおこなれましたが、新市庁舎はに地上32階地下2階高さ155.4mの高層ビルで、2020年6月完成予定だそうです。総工費は、計画段階から133億円増え749億円だとか。

横浜市の財政状況は、前回の市長選のときからいくらか改善されたものの、依然として”危機的状況”であることには変わりがありません。平成26年度は(カッコ内は平成22年度)、歳入が1兆4690億円(1兆3991億円)、歳出1兆4333億円(1兆3796億万円)、市債の発行1509億円(1345億円)です。特別会計も含めた全会計の市債発行残高は、4兆3134億円(4兆5478億円)です。横浜市は、収入の3倍近い借金を抱えた多重債務者なのです。その多重債務者が「災害」や「市民サービス」を口実に、またあらたに借金して、一等地に豪奢な庁舎を新築しているのです。

横浜市・財政局
横浜市の財政状況

市職員の給与は、基本給に諸手当を含めた(期末手当は含まない)「平均給与月額」が、2015年度で442,772円(42.4才)です。これは、全国1788市町村のなかで60位です。言うまでもなく職業に貴賤はありませんが、技能職のなかに職種別の給与も出ていました。清掃職員421,837円(45.5才)、学校給食員410,830円(49.1才)、守衛436,307円(43.8才)、用務員423,330円(50.3才)、バス運転手460,846円(46.9才)。何度も言いますが、これは期末手当(ボーナス)を含まない給与月額の平均です。

給料.com
横浜市(神奈川県)職員の月収・年収を知る(2015年)

よその自治体から転居してきた人は、横浜市の国民健康保険料が高いのにびっくりするはずてす。また、住民税も全国で有数の高さです。私の実感でも、所謂「租税公課」は、もはや収入とのバランスが崩れ、生活を圧迫するほどの高額になっています。一方で、横浜市にはみなとみらいやパシフィコ横浜など37の外郭団体があり、市職員の天下りやワタリの問題が相変わらず指摘されています。

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住民税が最も高い&安い自治体(市&区)はどこ?【2017年版ランキング】

現職候補の優位は変わらないようなので、カジノができればまた山下埠頭がみなとみらいのように開発されるのでしょう。オシャレな街の賢明な市民たち(皮肉ですが)は、地上32階の豪奢な市庁舎や対岸に見えるきらびやかなカジノのネオンサインをどんな思いで見るのだろうかと思いました。「やっぱ、横浜はすごいじゃん」と思うのでしょうか。


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2017.07.24 Mon l 横浜 l top ▲
伊勢佐木町の劣化は目を覆うものがあります。外国人の比率の高さは、歌舞伎町や池袋西口や錦糸町も足元にも及ばないくらいで、一時目立っていた南米系の外国人は少なくなり、今は中国人に席巻されています。そうなると、どうしても中国人の横暴さやマナーの悪さが目に付いてならないのです。

昨日、伊勢佐木町のドンキホーテに行ったときのことです。最近流行りのシルバーワックスを買おうと思って行ったのですが、ヘアケアのコーナーには、試供品のような小分けにされてパックに入ったものが1種類あるだけでした。私は、とりあえずそのパックを持ってレジに行きました。

そして、レジの女の子に、「このワックスで容器に入ったものはありますか?」と尋ねました。すると、女の子は早口でムニャムニャ言いながら、パックを手に取るとさっさとバーコードを読み取る機械にかざしはじめたのでした。

私は、あわてて「エエッ、なに?」と訊き返しました。しかし、ただムニャムニャと言うだけです。私は、再度「エエッ、なに?」と訊き返しました。すると、女の子はやっと手を休め、 半ば不貞腐れたような感じで、「あるだけです」とたどたどしい日本語で答えたのでした。

レジの女の子は、中国人のアルバイトのようです。たしかに、伊勢佐木町のドンキも中国人客が目に付きます。それで、中国語で対応できる同国人を雇っているのかもしれません。

それにしても、その態度はないだろうと思いました。在庫があるかどうか確認しようともせず、つっけんどんに通り一遍のセリフを口にするだけなのです。もしかしたら、在庫の有無を訊かれたら、そう答えればいいと教えられているのかもしれませんが、あまりにもおざりな対応と言わねばなりません。私は、「ちゃんと日本語を喋る人間を雇えよ」などと心のなかで悪態を吐きながら店を出ました。

そのあと、イセザキモールを歩いていたら、空腹を覚えてきました。ふと前を見ると、「〇〇や」という“かつ“で有名なチェーン店の看板が目に入りました。私は、「〇〇や」には今まで入った記憶がほとんどないのですが、看板を見たら急にかつ丼を食べたくなりました。

店に入ると、カウンターの奥に二人の女性のスタッフがいました。ひとりがホールを担当し、もうひとりが調理を担当しているようでした。二人はおしゃべりの最中で、「いらっしゃいませ!」と言って水を置くと、そのままカウンターの奥に入っておしゃべりのつづきをはじめるのでした。またしても中国語です。それも、店内に響き渡るような大きな声でまくし立てるようにしゃべっているのでした。

私は、かつ丼を注文しました。やがて前に置かれたかつ丼を見た私は、一瞬我が目を疑いました。かつの衣が黒く焦げているのです。あきらかに揚げすぎです。そのため、かつも惨めなくらい縮んで小さくなっていました。ご飯も器の半分以下しかなく、見るからにみすぼらしいかつ丼なのです。チューン店の公式サイトには、「サクサク、やわらか、ボリューム満点」と謳っていましたが、まるでそのキャッチフレーズを嘲笑うかのようなシロモノでした。隣の席の男性もかつ丼を頼んでいましたが、サイトの写真とは似ても似つかないみすぼらしいかつ丼に固まっていました。

私は、苦い味のカツ丼を半分残して席を立ちました。レジで伝票を出すと、店員は伝票には目をくれず「500円」と言うのです。しかし、私が頼んだのはかつの量が多いほうだったので、700円のはずです。私が「エッ」と言うと、店員はあわてて伝票に目をやり、「700円」とぶっきらぼうに言い直したのでした。

中国人を雇うなとは言いませんが、雇うなら接客の心得くらい教えろよと言いたくなりました。本人たちにその自覚があるかどうかわかりませんが、まったくお客をなめているのです。ただ人件費が安ければそれでいいと思っているのなら、それこそブラック企業と言うべきでしょう。

外に出ると、中国人のグループが店の看板をバックに記念写真を撮っていました。「〇〇や」も中国人ご用達なのかと思いました。なんだか中国人に翻弄されているような気持になりました。

もちろん、伊勢佐木町の中国人は観光客ばかりではありません。その背後には、メガロポリスを支える3Kの巨大な労働市場があるのです。「研修生」の名のもと、安い給料でこき使われているのでしょう。そんな外国人労働者たちが、まるで吹き寄せられるように伊勢佐木町に集まっているのでしょう。

伊勢佐木町は、デビュー前のゆずが路上ライブをしていた街として有名ですが、今は通りもすっかり荒んだ空気が漂っています。外国人だけでなく、日がな一日中、路上のベンチを占領している、見るからにやさぐれてうらぶれたような老人たち。それは、北関東の街の駅前の光景とよく似ています。

横浜には、「恋する横浜」というその標語を目にするだけで恥ずかしくなるような市公認のキャンペーンがありますが、わざわざ伊勢佐木町でデートするカップルなんていないでしょう。私は最近、横浜を舞台にした小説をよく読んでいるのですが、前も書いたように、馳星周(横浜市立大卒)が伊勢佐木町を舞台にしたピカレスク小説(悪漢小説)を書いたら面白いものができるような気がします。

「いせブラ」も今は昔、高知東生のように、はだけた胸から金のネックレスをちらつかせながら、チンピラが肩で風を切って歩くのなら似合うかもしれませんが、もはやカップルや家族連れがそぞろ歩きをするような街ではなくなっているのです。

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2016.07.11 Mon l 横浜 l top ▲
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最近は野暮用で週の半分は伊勢佐木町に行ってます。そして、天ぷらが好きな私は、関内界隈の天ぷら屋めぐりするのを楽しみにしています。天ぷらのあとは、いつもみなとみらいまで歩いています。

今日も伊勢佐木町に行きました。日曜日とあってさすがに伊勢佐木モールは人出が多く賑わっていました。もちろん、そのかなりの部分は外国人です。今や伊勢佐木町は、周辺の外国人労働者ご用達の街と化しているかのようです。昔は、”銀ブラ”ならぬ”伊勢ブラ”ということばもあったくらい、伊勢佐木町は横浜を代表するおしゃれな街だったのですが、そんな昔の面影を探すのはもはや至難の業です。

誰だったか忘れましたが、街歩きのレポーターをしている芸能人が「昔は東京から元町や伊勢佐木町など横浜に来ると、気後れするくらいおしゃれな雰囲気がありました」と言ってましたが、もちろん、そんなおしゃれな雰囲気を探すのも至難の業です。

この土日は、ちょうど野毛で恒例の大道芸のイベントがおこなわれ、大岡川をはさんで隣接する吉田町でもアート&ジャズフェスティバルが開催されていました。ただ、野毛の大道芸も、当初に比べれば、新鮮味が失われているような気がしないでもありません。最近は、横浜では一年中どこでも大道芸がおこなわれていますので(野毛の大道芸も年に2回おこなわれています)、見飽きた感じがなきにしもあらずなのです。

野毛の飲み屋街は、イベントの相乗効果で、いつもよりお客が多く集まっていました。路地のなかの店は、テーブルや椅子を店の前に出して、即席の”オープンテラス”のようにしていましたが、おそらく昔の野毛はこうだったんだろうと思うくらいどこも酔客で賑わっていました。

一方、吉田町のアート&ジャズフェスティバルでは、路上ライブのバンドが年々減っており、今年はひと組しか見当たりませんでした。そして、いつの間にか、ビアガーデンのようなものが通りの中心を占めるようになっていました。このように、アート&ジャズフェスティバルも、駅前のショッピングビルと同じで、当初のコンセプトから徐々に変質しているのでした。

でも、私はやはり、(何度も書いていますが)週末の夜の「祭りのあとのさみしさ」のような横浜のほうが好きです。繁華街のすぐ近くに、古い民家が連なる路地が幾重にも延びているのが横浜の街の特徴ですが、街灯が薄い影を落とし表通りとは違った空気が流れる、そんな路地を歩くのが私は好きです。

このブログではおなじみ平岡正明の『横浜的』(青土社)から野毛に関する文章を引きます。

 釣銭を受けとりながら、おや、雨だ、とつぶやくと、店のママが「こやみになるまで待ってらっしゃい」といった。うん、そうする。椅子に戻って背もたれごしに町をみているときにかかっていた曲が、ケニー・ドリューの、ピアノのスインギーなやつで、町のテンポよりはやい。さっと一雨きたのに、町のテンポはあんがいのんびりしている。これが港町の雨というものだろう。
 横浜は野毛がいい。このいい方は正確じゃないな、横浜にはいいところが多いが、土地っ子が集まる野毛には野毛のよさがある。場外馬券場があり、立ち呑みの酒屋があり、醤油味の飯屋があり、ベリー・コモの「バラの刺青」を流していたりするコーヒースタンドの近くに、講談の会の連絡所の古本屋があったりする。野毛は「横浜の日本人町」だ。



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アート&ジャズフェスティバル
野毛


2016.04.24 Sun l 横浜 l top ▲
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九州で地震があった朝、多摩川の河原のグランドでは子どもたちがサッカーや野球などの試合をおこなっていました。グランドの脇では、応援に来た父兄たちが我が子に声援を送っていました。また、遊歩道では、ジョギングやウォーキングに励む人たちが引きも切らずに行き交っていました。それはいつもの週末の光景です。九州の地震なんて遠くの出来事にすぎないのです。でも、それは当たり前と言えば当たり前のことなのかもしれません。

私も、午後からいつものように散歩に出かけました。伊勢佐木町に行くと、なにやら人盛りができていました。今日と明日、みなとみらいや伊勢佐木町などで、好例の「ヨコハマ大道芸」が開催されていたのでした。

山下公園も、大勢の人たちが心地よい海風を受けながら散策していました。芝生の上にビニールを敷いて、ピクニック気分でおしゃべりに興じているグループもいました。

赤レンガ倉庫に行くと、広場で「ホーリー横浜」という催しがおこなわれていました。なんでもインドの色かけ祭りだそうで、キャーキャー歓声をあげながら、食紅のようなものをお互いの身体に塗りあっていました。私の田舎の大分にも、かまどの炭を塗りあう祭りがありますが、あれとよく似ていました。

広場に設けられたステージの上では、「踊るマハラジャ」のようなインドの踊りが披露されていました。周辺には、インドの食べ物や雑貨の店なども出ており、広場は故国の文化をなつかしむインドの人たちで埋め尽くされ、彼らが放つ強い香水の匂いがあたりに充満していました。

一方、私は、そんなインド人たちを見ながら、不謹慎にも(?)もっとダイエットしなきゃと思ったのでした。インド人はメタボな人が多いのです。女性も20代の半ばをすぎると、腰回りがえらく大きくなってくるみたいです。たしかにインド料理は、炭水化物のオンパレードなのです。

何事もなかったかのようないつもの週末。みんな笑いが弾け、さも楽しそうでした。私は、バカボンのパパではないですが、「これでいいのだ」と思いました。少なくとも、元気を与えるとか元気をもらったなどとバカなことを言うより余程マシなのです。


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2016.04.16 Sat l 横浜 l top ▲
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夕方から再び大岡川の桜を見に行きました。

桜木町で降りて、桜川橋から宮川橋、長者橋、旭橋、黄金橋、末吉橋、太田橋まで、1キロちょっと大岡川沿いを歩きました。桜はまだ満開に近い状態でした。川沿いの遊歩道は、勤め帰りの人たちでいっぱいでした。屋台で買ったおでんや焼き鳥などを橋の欄干に置き、缶ビールを片手に、花見酒をしている光景があちこちで見られました。

途中、都橋から宮川橋、長者橋にかけては、ソープやヘルスなど風俗の店が立ち並ぶ通りが並行して走っており、そのコントラストが如何にも横浜らしいなと思います。桜木町駅の反対側に屹立するみなとみらいの近代的でおしゃれなビル群と比べると、風俗街が隣接する大岡川沿いは、謂わば横浜の裏の顔と言えるのかもしれません。ただ、みなとみらいができる前は、こっちのほうが桜木町の中心だったのです。

太田橋からは大岡川を外れ、大通りを南下して坂東橋をとおり横浜橋商店街に行きました。なんだか”橋”ばかり出てきますが、港町の横浜にはかつて運河が縦横に走っていた関係で、公式な住居表示とは別に今も橋が付く”地名”が多いのです。

横浜橋からは伊勢佐木町を通って馬車道まで歩き、馬車道でみなとみらい線に乗って帰ってきました。帰って万歩計を見たら、1万2千歩歩いていました。


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2016.04.06 Wed l 横浜 l top ▲
夕方、鎌倉に行った帰り、所用のため関内で途中下車したら、突然、ジャズの演奏がきこえてきました。昨日と今日の二日間、横浜は恒例のジャズプロムナードが開催され、市役所前で「街角ライブ」がおこなわれていたのです。

このブログでも何度かジャズプロムナードのことを書いていますが、最近はすっかり興味も失せ、開催中だということも知りませんでした。

見ると、照明もない薄暗いコンクリートの壁の前で、決して若いとは言い難いメンバーたちがスローな曲を演奏していました。秋の夕暮れにスローな曲というのは、それはそれで映えるのですが、しかし、私は、照明に汗がキラキラ光っているような激しい演奏を聴きたいなと思いました。今は亡き阿部薫のあの悲鳴のようなアルトサックスがなつかくしく思い出されます。そう言えば、阿部薫のLPを何枚かもっていましたが、あれはどこに行ったんだろうと思いました。

市庁舎の「街角ライブ」のすぐ近くでは、ホームレスの人たちが長い列を作っていました。これも夕刻の市庁舎前ではよく見かける光景ですが、ボランティア団体の炊き出しを待っているのか、あるいは横浜市が支給するドヤ券(宿泊券)やパン券(食事券)をもらうために並んでいるのでしょう。また、横浜スタジアムの前では、路上に空き缶を置き、コンクリートの上に正座して物乞いをしている男性もいました。

平岡正明は、『ヨコハマ浄夜』(愛育社)のなかで、1999年のジャズ・プロムナードの「横浜エリントン週間」について書いていますが、しかし、私が興味をもったのは、デューク・エリントンではなくベートーヴェンについて書かれたつぎの箇所です。

 ラジオから流れるドイツの交響曲を戦場で聴いていたのはドイツ兵だけではない。連合軍の兵も地下抵抗運動家も、市民も農民もだ。ドイツ第三帝国敗色濃厚なヨーロッパに慟哭粛々たる『英雄』第二楽章が流れる。
 「国家のために死んでも、国粋主義のために死んだのでは断じてあるまい。そういう《死》を慰藉してくれるものが『英雄』や『第七』『第九』にあったと思う。あの頃の日本の青春にベートーヴェンの<主としてシンフォニーが>果たしてきた役割を無視して、ぼくらにどんなベートーヴェンが語れようか。」(五味康祐『西方の音』)

平岡正明『横浜浄夜』所収・「ジャズ・プロムナード・横浜エリントン週間」


余談ですが、先の大戦では、日本においても230万人の戦死者が出たと言われています。しかし、その60%は戦闘死ではなく病死で、大半は餓死だったそうです。如何にあの戦争が無謀な戦争であったかということをこの数字は物語っていますが、日本の若者たちは、五味康祐が言うように、「国家のために死んでも、国粋主義のために死んだ」のでは「断じて」ないのです。そんな非業な「日本の青春」とベートーヴェンの交響曲の関係について、戦後生まれの私たちは知る由もないのですが、ただ人生のどんな場所にも音楽はちゃんと存在していたんだなとしみじみ思ったのでした。

高校時代、わけもわからず平岡正明の『ジャズ宣言』や『ジャズよりほかに神はなし』を読み、地元に唯一あったジャズ喫茶に通っていた頃、一方で私は、ジャズとは別に衝撃的な本に出会うのでした。それは、窮民革命論をとなえる竹中労が著した『山谷―都市反乱の原点』という本です。平岡正明は、『ジャズ宣言』のなかで、ジャズと暴力と革命は「腹ちがいの双生児」だと言っていましたが、ジャズや歌謡曲に「プロレタリアートの旋律」(井上光晴)を見るような独自の音楽論や、山谷や寿町や釜ケ崎や、あるいはパレスチナなどに視点を据えた、私たちの小市民的な日常を打ち砕くようなラジカルな革命論に、田舎の高校生は文字通り幻惑されたのでした。

これは、『ジャズ宣言』の冒頭にかかげられた有名な一節です。

 どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、ただしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。感情にとって、これ以下に下劣なものはなく、これ以上に高潔なものはない、という限界はない。(略)
 われわれは感情をこころの毒薬にひたしながらこっそり飼い育てねばならぬ。身もこころも智慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな。他人にあたえるな。

平岡正明『ジャズ宣言』(1979年増補版)


しかし、今やジャズは優雅な(?)老後をすごす団塊の世代の老人たちの手慰みものと化し、市庁舎前の「街角ライブ」のジャズの演奏に耳を傾ける人たちとその日の泊る場所と食べ物を確保するために行列を作る人々とは、まるで別世界の人間のように見えます。

この二日間は、横浜の至るところでジャズのコンサートが開かれており、そのコンサートをどこでも自由に見ることができるフリーパスを購入した人たちは、中国人観光客と同じように、胸に目印のバッチをつけているのですが、バッチをつけて通りを歩いているのは見事なほど老人ばかりでした。彼らは、市庁舎前の行列や寿町のうらぶれた光景は、まったく目に入っていないかのようです。かく言う私も、老後の不安に急きたてられせっせと年金保険料を納めていますが、しかし、「年金」に還元されない生の現実や『ジャズ宣言』が言うやつらに渡せない「感情」というのはあるでしょう。

辺見庸は、「かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども」と書いていましたが、聞けば、かつての全共闘運動の活動家たちも国会前のデモに参加して、SEALDsをさかんに持ち上げていたそうです。全共闘世代の「ジジババども」が40数年前に体験したのはその程度のものだったのかと言いたくなりますが、路上生活者たちの行列を一顧だにせずに、ジャズの演奏に老体をゆらしている「ジジババども」も同じでしょう。 

中上健次は、羽田で肉体労働をしながら小説を書いていた”修行時代”に、新宿のジャズ喫茶「ジャズ・ヴィレッジ」に通っていた頃のことをつぎのように回想しています。60年代後半のジャズが置かれた時代背景がよく出ているように思いますので、ちょっと長くなりますが引用します。

 その日から足を洗うまで五年間の生活の全てにジャズが入っていた。毎日、「ジャズ・ヴィレッジ」に通い、常連のチンピラ達と何をするでもなく一緒だった。めちゃくちゃな生活で、いわゆる今、流行の”限りなく透明に近いブルー”などではなく、ジャズの毎日は精液のように、一タブレットの睡眠薬の錠剤を噛みくだいて水で飲むその色のように白濁していた。私もそうだが、ジャズ・ヴィレッジの連中は、言ってみれば逃亡奴隷のようなもので、、ジャズを創りジャズを支えた黒人の状態に似ている。一世代遅れた埴谷雄高言う”ロックとファック”の時代には、そんなものはない。一つ通りの向こうのモダンジャズ喫茶店に、永山則夫が、ボーイとして働いていた。永山則夫が、連続ピストル射殺事件の犯人として逮捕されて、それを知った。もちろん、そのジャズ・ヴィレッジ界隈にうろつく者すべてが、永山則夫のように、家そのものが壊れ、家族がバラバラになり、貧困にあえいでいたのが、東京の新宿へ流出してきたという訳ではないはずだが、私にも常連にも、その後を振り返っても壊れた家があるだけだという形は、他人事とは思えなかった。(略)
 コルトレーンは、そんな聴き手のリアリティーに支えられて、コード進行から自由になり、音の消えるところまで行く。自由とは、疎外され抑圧され差別されることからの自由であり、ジャズの持つ黒人というアメリカのマイノリティの音楽という特性からの自由である。黒人という特性から出発して、特性から解き放たれる、と私はコルトレーンのジャズを聴きながら思ったのだった。
 特性からの自由、それは机上のものではなく、頭でだけ考えたものではない、切って血が出る自由である。コルトレーンのジャズを聴いて、音とは、文章と同じように肉体であると思った。

中上健次『夢の力』(1982年刊)所収・「路上のジャズ」


B級グルメやゆるキャラと同じようなまちおこしのコンテンツとしてのジャズではない、私たちの魂をゆさぶるような「路上のジャズ」はもう望むべくもないのでしょうか。

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横濱ジャズプロムナード
中音量主義
2015.10.11 Sun l 横浜 l top ▲
身体を売ったらサヨウナラ


昨日の夕方、春節の中華街に行ったのですが、平日だからなのか、思ったほど人出はなく、通りの店を覗いてもどこか手持無沙汰な様子でした。と言っても、食事に行ったわけではありません。近くに用事があったので、ついでに華正樓に肉まんを買いに行っただけです。

人盛りができているのは、テレビの影響なのか、店頭で小籠包を食べることができるような店ばかりでした。観光客たちは、発泡スチロールの器に入った小籠包を箸でつつきながら、頬をすぼめて食べていました。

そのあとは、伊勢佐木町まで歩いて、有隣堂で鈴木涼美著『身体を売ったらサヨウナラ』(幻冬舎)を買いました。この本は売り切れになっている書店が多かったので、やっと買えたという感じでした。

平日の夕方、横浜の街を歩いていると、たしかに、巷間言われるように、横浜はおしゃれな娘(こ)が多いなと思います。どうしてかと言えば(ちょっと身も蓋もない言い方になりますが)、自宅通勤の割合が高いからです。つまり、可処分所得の高い女の子が多いからです。そして、若い女性の可処分所得が高い街は、これは名古屋なども同じですが、”デパート率”=「お買い物はデパート」の意識が高いという特徴があります。横浜の場合も、横浜そごうや業界で「横高」と呼ばれている横浜高島屋の存在は、傍目で見る以上に大きいのです。

『身体を売ったらサヨウナラ』の著者も、典型的な可処分所得の高い女性のひとりです。実家は鎌倉で、両親は大学教員で、明治学院高から慶応、さらに東大の大学院に進んだお嬢様。でも、元キャバ嬢で元AV女優で元新聞記者。

まだ読みはじめたばかりですが、フィールドワークの手法は宮台真司に学び、生き方の基本と文章の書き方は鈴木いづみに学んだようなこの本は、その速射砲のような文体と相まって、ひさびさに面白い本に出会ったという感じです(ただ、幻冬舎の手抜きしたような表紙がこの本を台無しにしていますが)。

『身体を売ったらサヨウナラ』は、つぎのような疾走感のある文章ではじまり、読者は冒頭から一発パンチを食らったような感覚になるのでした。

 広いお家に広い庭、愛情と栄養満点のご飯、愛に疑問を抱かせない家族、静かな午後、夕食後の文化的な会話、リビングにならぶ画集と百科事典、素敵で成功した大人たちとの交流、唇を噛まずに済む経済的な余裕、日舞と乗馬とそこそこのピアノ、学校の授業に不自由しない脳みそ、ぬいぐるみにシルバニアのお家にバービー人形、毎シーズンの海外旅行、世界各国の絵本に質のいい音楽、バレエに芝居にオペラ鑑賞、最新の家電に女らしい肉体、私立の小学校の制服、帰国子女アイデンティティ、特殊なコンプレックスなしでいきられるカオ、そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた。
 シャンパンにシャネルに洒落たレストラン、くいこみ気味の下着とそれに興奮するオトコ、慶應ブランドに東大ブランドに大企業ブランド、ギャル雑誌の街角スナップ、キャバクラのナンバーワン、カルティエのネックレスとエルメスの時計、小脇に抱えるボードリヤール、別れるのが面倒なほど惚れてくる彼氏、やる気のない昼に会える女友達、クラブのインビテーション・カード、好きなことができる週末、Fカップの胸、誰にも干渉されないマンションの一室、一晩30万円のお酒が飲める体質、文句なしの年収のオトコとの合コン・デート、プーケット旅行、高い服を着る自由と着ない自由。それも全部、20代までには手に入れた。
(略)
 でも、全然満たされていない。ワタシはこんなところでは終われないの。1億円のダイヤとか持ってないし、マリリン・モンローとか綾瀬はるかより全然ブスだし、素因数分解とかぶっちゃけよくわかんないし、二重あごで足は太いしむだ毛も生えてくる。
 ワタシたちは、思想だけで熱くなれるほど古くも、合理性だけで安らげるほど新しくもない。狂っていることがファッションになるような世代にも、社会貢献がステータスになるような世代にも生まれおちなかった。それなりに冷めてそれなりにロマンチックで、意味も欲しいけど無意味も欲しかった。カンバセーション自体を目的化する親たちの話を聞き流し、何でも相対化したがる妹たちに頭を抱える。
 何がワタシたちを救ってくれるんだろう、と時々思う。


願わくば、彼女がワイドショーのコメンテーターなんかにならずに、このまま本を書いて貰いたいけど、前歴を考えるとスタジオでしたり顔で”解説”するようになる可能性もなきにしもあらずでしょう(そうなったらもう彼女の本は読まないけど)。

川崎の中学生が多摩川の河川敷でリンチされて殺された事件は、なぜか誰もはっきりと言わないのですが、言うなればあれは可処分所得の低い世界の悲劇とも言えます。隠岐の島からやってきた少年が、”川崎少年”たちの格好の餌食になったのは想像に難くありません。

今話題のピケティが言う「世襲型資本主義」による不平等のスパイラル(格差の世襲化)が、このような悲劇を生み出す遠因になっているのは否定しえない事実でしょう。アイパーとB系ファッション、コンビニの前のうんこ座りと夜の公園の花火、喧嘩上等・夜露死苦・愛羅武勇・愛死天流などバッドセンスなボキャブラリー、EXILEと安室奈美恵、キラキラネームに深夜のドンキ、「劣悪な家庭環境」というリアルな日常、学校に行きたくない、でも働きたくない、でもお金がほしい究極の生活観、「そんなのは全部、生まれて3秒でもう持っていた」ような世界もまた、労働者の街の子どもたちのひとつの現実なのです。

縦に長い川崎は、「川崎の南北問題」と言われるように、ふたつの世界が南武線というバリアによって隔てられているのですが、一方、丘の上と下という線引きはあるものの、ふたつの世界が混在しているのが横浜なのです。
2015.02.25 Wed l 横浜 l top ▲
2014年11月 3日3


夕方、横浜駅前の中央郵便局に行ったついでに、いつものように横浜駅からみなとみらい・関内を歩きました。

やはり、連休の最終日だからなのか、途中、横浜ベイクォーターやコスモワールドは大変な人出でした。そもそも一人で歩いている人間なんてほとんどいません。しかも、なぜか人波に逆らって歩くことが多いため、舗道を通りぬけるのさえひと苦労でした。

コスモワールドは、夜景はきれいなのですが、施設は期間限定の「暫定施設」なので、乗物や施設はショボくて、どことなく場末感が漂っています。ちなみに、みなとみらいにある2階建ての建物などは、ほとんどが期間限定の「暫定施設」です。最近、やたらと外車ディラーのショールームができていますが、それらも期間限定の「暫定施設」にすぎません。そして、そういった「暫定施設」が、なによりみなとみらいが「負の遺産」であることを物語っているのです。

舗道が歩きずらいので、コスモワールドのなかに入ったら、なかはカップルだらけでした。私の前を新垣結衣に似たかわいい娘(こ)が男の子と手をつないで歩いていました。おじさんは、新垣結衣のミニスカートからすらりと伸びた足に目が吸い寄せられ、目まいを起こしそうでした。どうやら二人はお化け屋敷に入るみたいで、お化け屋敷が近づくと、新垣結衣は隣の裾のほつれたズボンをはいた男の子に身を寄せながら、「怖いよォ~」と甘えた声を出していました。すると、サルのような顔をした男の子が、「大丈夫だよ」と言って人さし指と中指で新垣結衣のおでこをつついたのでした。それを見ていたおじさんは、「ふん」と鼻で笑い、二人をガン見すると、そそくさと追い抜いて行ったのでした。

象の鼻パークに行くと、「スマートイルミネーション横浜2014」というイベントの一環で、プロジェクターを使った「野外劇」がおこなわれていました。それは、隣接するビルの壁に映し出された人物が会話劇を演じる、奇妙で薄気味の悪いパフォーマンスでした。

横浜は、このようなアートの催しが多いのが特徴です。でも、どう考えても普段の横浜はアートなんてまったく似合いません。アートはあくまで観光客向けのイベントにすぎないのでしょう。素の横浜は、アートよりマンガ、ジャズよりヒップホップや演歌が似合うヤンキーの産地です。横浜では新垣結衣もヤンキーになるのです。そして、ハリボテの「暫定施設」やおつに済ましたアートなどとは関係ない、そんな素の部分にこそ横浜の魅力があるのです。


2014年11月 3日1


2014年11月 3日2

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横浜の魅力
2014.11.03 Mon l 横浜 l top ▲
最近は散歩に行くのに、カメラをもって出かけることが少なくなりました。あたらしくカメラを買ったものの、ほとんど本の上に置きっぱなしで(私の場合、なんでも本の上に置きっぱなしですが)、数えるほどしか使っていません。

だったらスマホで写真を撮ればいいのにと思うかもしれませんが、写真屋の息子としてはスマホで写真を撮るのはどうも気が進まないのです。やっぱり、写真はカメラを構えてナンボのような観念からぬけ切れないのでした。

昨日の散歩も写真はありませんが、いつものように横浜駅からみなとみらい・馬車道・伊勢佐木町・桜木町・野毛をまわり、再び横浜駅まで戻りました。

私は、日曜日の夕暮れどきの横浜の街を歩くのが好きです。私は、運動会のときにの校舎の裏に行ったり、終着駅のある街や人里離れた山奥にある湖などを訪れるのが好きなのですが、日曜日の夕暮れの横浜の街にもそれらとどこか似た感覚があります。それは、祭りのあとのさみしさと似ています。そして、それが東京の街にない横浜の魅力なのです。

夕暮れの街を歩きながら、いつの間にか感傷的になっている自分がいました。ネオンの灯りに照らされた表通りとその横から薄暗い闇のなかに伸びている路地。そんな路地にいっそう寂寥感をかきたてられるのでした。そして、すれ違う人ひとりひとりに人生の物語があり、それが透けて見えるような気がするのでした。

人生が露出した等身大の街。それは、生き方も生活もなにもかもが規格化された郊外の街にない魅力です。昔、「喜びも悲しみも幾歳月」というタイトルの映画がありましたが、そんな「喜びも悲しみも幾歳月」のような人生の風景がある街に、平岡正明は「場末美」を見たのでしょう。

途中、伊勢佐木町の有隣堂本店に立ち寄りましたが、いつの間にか有隣堂にも「嫌中憎韓本」のコーナーができていました。「有隣堂よ、お前もか」と言いたくなりました。ヘイト・スピーチにも「言論・表現の自由」があると考えているのなら、出版文化(ことばの文化)に携わる者としては失格と言わざるをえません。国連の「勧告」でも示されているように、自由の敵に自由を許すなというような考えも必要なのです。貧すれば鈍するではないですが、今の書店に、その程度の見識を求めることさえ無理な相談なのでしょうか。最低限のモラルとして、「製造者責任」だけでなく「販売者責任」もあるはずです。

帰って万歩計を見たら、1万7千歩を歩いていました。

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野毛
2014.10.27 Mon l 横浜 l top ▲
2014年5月30日 031


ふと海を見たいと思い、夕方から大桟橋に行きました。こういった海辺の風景が身近にあるのが、なんと言っても横浜の魅力です。今日も「夏日」とかで暑い一日でしたが、埠頭に立つと海から吹く風が心地よく感じられました。

大桟橋の”くじらのせなか”でしばし海を眺めて時をすごしました。”くじらのせなか”のあちこちには、同じように飽くことなく海を眺めている人たちがいました。今日はなぜか若い女性のグループが目立ちました。

対岸に向かってカメラを構えていると、「すいません」という声が背後からするのです。うしろを振り返ると、若い女の子が立っていました。

「あのー、シャッターを押してくれませんか?」

見ると、若い女の子ばかりの4人連れです。

「いいですよ」
「じゃあ、これでお願いします」

そう言ってスマホを差し出すと、彼女たちはデッキの端に立ち、夕陽に向かっていっせいに両手を掲げ、そして両手を掲げたまま上半身を左のほうに傾けたのでした。いつもそうやって写真を撮っているのか、まるで申し合わせたかのように統制のとれたポーズでした。私は、彼女たちの背後からやや中腰の姿勢でシャッターのボタンを押しました。

聞けば、所沢から来た高校生のグループだそうです。「ありがとうございました!」とこれまた全員で統制のとれた挨拶をして、笑顔で去って行きました。

「若いっていいなぁ」

私は、その後ろ姿を見ながら、しみじみと思いました。もちろん、彼女たちにも苦悩はあるでしょう。でも、彼女たちには、その苦悩を背負うことのできる若さがあるのです。その若さが羨ましくてなりませんでした。


2014年5月30日 027

2014.05.30 Fri l 横浜 l top ▲

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この季節になると、やはり桜を観に行かなければと思うのです。それは、半ば強迫観念のようなものです。

テレビの天気予報によれば、明日は雨と風が強く、この週末まで花がもつかわからないのだそうです。それで、いてもたってもいられず、夕方から野毛・福富町・長者町にかけての大岡川沿いの桜を観に行きました。目黒川か大岡川か迷ったのですが、目黒川だと帰りは帰宅ラッシュの電車に乗らなければならないので、大岡川のほうに決めたのでした。

途中、屋台でタコ焼きや鶏肉の団子のような揚げ物のなんとか焼きを買って、橋の欄干にそれを置き、飲めないビールを飲みながら、しばし川沿いの桜を眺めてすごしました。まわりでも会社帰りのサラリーマンやOLたちが同じように欄干にツマミを並べてささやかな酒宴をひらいていました。そんな光景を見るにつけ、やはりみんな桜が好きなんだなと思いました。

そのあとは、おなじみ野毛の「萬里」で、海老チャーハンと餃子を食べて帰ってきました。

>> 「萬里」の「19番」


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2014.04.02 Wed l 横浜 l top ▲
2014年1月13日1


連休最後の夜。変な話ですが、食事を兼ねて散歩に出かけました。新横浜まで歩いて、新横浜で中華を食べ、食事のあとは市営地下鉄で桜木町へ。桜木町からはいつものように汽車道、万国橋、海岸通り、関内、伊勢佐木町、坂東橋、黄金町、初音町、日ノ出町をまわって、再び桜木町に戻ってきました。そして、馬車道からみなとみらい線に乗って帰ってきました。都合1万7千歩の散歩でした。

みなとみらいや伊勢佐木町を除くと、休日の夜の横浜の街は人通りも少なく、寂寥感さえ覚えます。平岡正明は、それを「場末感」と呼んだのですが、それが横浜の街の魅力でもあるのです。

今日は成人式だったので、桜木町駅は、色鮮やかな振袖姿の女の子が目に付きました。そんな賑やかな駅を背に、私は繁華街とは逆の方向に歩いて行きました。目の前にまっすぐに伸びている人通りの絶えた舗道を進んでいると、なんだか引き返すことのできない片道切符の道を歩いているような気持になってきます。

田舎の友人から届いた年賀状には、誰々がビルの階段から転落して救急車で運ばれたとか、誰々が脳梗塞で倒れたとか、誰々が腎臓の手術をしたとか、誰々が大腸の手術をしたとかいった、同級生の話が書き記されていました。また、別の友人の年賀状には、只今ガンの治療中だと書いていました。

私の田舎では、「後ろをふり返る」とは言わずに「あとをふり返る」と言うのですが、歩け、歩け、あとをふり返らずに歩け、そう自分に言い聞かせながら歩いているような感じでした。そのうち散歩することさえ苦行になってくるのでしょう。だから、いまのうちにできる限り遠くまで歩いて行きたいと思うのでした。


2014年1月13日2

2014年1月13日3
2014.01.13 Mon l 横浜 l top ▲
2013年11月7日 002


別にラーメン好きというわけではないのですが、なぜか急に大分のラーメンが食べたくなりました。

ネットで調べたら、伊勢佐木町の近くに大分ラーメンの店があるというので、夕方から散歩がてら出かけました。

しかし、残念ながら期待外れでした。やはり違うのです。こっちでホンモノの味を求めるのは無理なのかもと思いました。

道路の反対側では、某有名ラーメン店の開店を待つ人たちの行列ができていました。私は、並んでまでラーメンを食べたいとは思いませんが、あの人たちってホントにラーメンの味がわかっているんだろうかと思いました。

ホテルやデパートの食材偽装の店だって、食通と称する人たちが「やっぱりファミレスとは違うわ」とかなんとか言いながら、歯に挟まった肉の切れはしを爪楊枝でほじくるのを我慢して、さも満足そうに蘊蓄を傾けていたのかもしれませんが、なんのことはないファミレスや牛丼屋と同じだったのです。なかにはミシュランガイドで星を獲得した店もあったそうですから、ミシュランもいい加減なものです。

回転寿司にしても、何千万円も出してマグロを買いつけ、店頭で解体ショーを行ったりして”ホンモノ度”をアピールしていますが、しかし実際に出されているのは、ほとんどが「もどき」の魚ばかりだそうです。「やっぱり今の時期のカンパチはうまいな」なんて言ってるサラリーマンのお父さんは、正確には「やっぱり今の時期のカンパチもどきはうまいな」と言うべきなのです。

ラーメンを食べたあと、日の出町から野毛、そして、みなとみらいに寄り、本などを買って、さらに横浜駅まで歩きました。

季節のせいもあるのでしょうが、夕暮れどきの横浜の街っていいなとしみじみ思いました。街中でも住宅地と接近しているので、食べ物屋に入っていても、近くに住んでいる人が普段着でふらりとやって来る、そんな雰囲気があります。それは、東京の都心では決して味わえない雰囲気です。

そして、それがまた街の雰囲気にもつながっているように思います。東京のように人でごった返していることがないので、歩きながらいつの間にか自分の世界に浸っている自分がいました。そして、なんだかなつかしいようなせつないような気持になっているのでした。年取ってもう一度同じ街を歩いたら、きっと泣くだろうなと思いました。

みなとみらいでは、既にクリスマスツリーが飾られていました。


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2013.11.07 Thu l 横浜 l top ▲
2013年8月12日 009


横浜駅の西口のそごうに買い物に行ったついでに、ベイクォーターからみなとみらいの象の鼻パークまで散歩しました。

ちょうど夕方の5時すぎでしたので、3階のテラスにあるビアガーデンは、勤め帰りのサラリーマンやOLたちで行列ができていました。でも、上の4階や5階のテラスにも似たような飲食の店はあるのですが、にぎわっているのは3階のビアガーデンだけで、あとは閑散としていました。もっとも、盆休みということもあるのか、ベイクォーターのショップはどこも閑古鳥が鳴いていました。

横浜駅からベイクォーターはすぐですが、でも実際に行くとなると非常にわかりにくくて苦労します。これはベイクォーターに限らず、横浜の街自体がそうで、初めて来た人は戸惑うだろうなと思います。実際に途方に暮れた感じで案内板を見ている、観光客とおぼしき人たちをよく見かけます。

たとえばベイクォーターからみなとみらいに行くにはどうすればいいのか。あるいは、みなとみらい線のみなとみらい駅で下りても、そこから赤レンガ倉庫や山下公園に行くにはどうすればいいのか。地元の人ならわかるでしょうが、初めて横浜に来た人は途方に暮れるのではないでしょうか。

みなとみらいや赤レンガや山下公園や中華街や馬車道や伊勢佐木町や桜木町や野毛や元町や山手など、地名は有名なので知っているかもしれませんが、それらをくまなくまわるとなると至難の業です。

前にこのブログでも書きましたが、関内あたりは人も少ないし、それに威圧するような高いビルもないので、なんだかヨーロッパの街に似た雰囲気があり、私はあのあたりをぶらぶらするのが好きです。それは東京の街にはないものです。

そういった雰囲気を押す視点があっていいように思いますが、最近の横浜は、逆にそんな”横浜らしさ”から目をそらそうとしているような感じさえあります。

昨日、横浜市長選挙が告示されましたが、横浜市長選が結局”茶番”になってしまったのは、(私も市民のひとりなのであまり偉そうなことは言えませんが)やはり市民の力が弱いからでしょう。

市議会議員の木下よしひろ氏が、サイトに掲載している「横浜市の借金時計」によれば、平成24年度末の横浜市の一般会計の市債残高は、2兆4495億1127万4千円、特別会計・企業会計を合わせた全会計の市債残高は、4兆4430億6228万3千円だそうです(いづれも見込み額)。

一方、横浜市が発表した平成22年度(確定)の財政収支は、歳入は1兆3992億5100万円、歳出は1兆3796億9900万円で、57億1800万円の黒字ですが、ただこのなかには、1234億3300万円のあらたな市債の発行が含まれているのです。つまり、収入の4倍近くの借金を抱えながら、今なお借金は増えつづけているのです。

にもかかわらず、職員の給与は全国でもトップクラスです。職員数は、人口比から言っても決して多くなく、むしろ少ないくらいです。しかし、給与に関しては、下記の「参考」にあるように、「ラスパイレス指数」で見ると、高いレベルであることは否定できません。そして、2010年度は「ラスパイレス指数」が全国一になったのでした。

参考:
①平成24年度の横浜市の平均月額給与(総務省発表)
指定都市のラスパイレス指数の状況
指定都市別ラスパイレス指数等の状況
②横浜市総務局労務課が公表した平成24年度の平均給与年額
横浜市の給与・定員管理等について

6月の市議会で、7月1日から来年3まで、市長・職員の給与及び議員報酬を減額する条例案(市長・副市長は13%、職員は役職に応じて3.79~8.79%の減額)が可決されましたが、ただそれは、東日本大震災の復興財源にあてるため国家公務員の給与を7.8%引き下げたのに伴ない、政府が地方公務員の給与引き下げを要請したことに応じたものです。あくまで来年3月までの期間限定にすぎず、横浜市独自のものではないのです。

もちろん、市関係4労組(自治労横浜・横浜交通労組・横浜水道労組・横浜市教職員組合)が自分たちの既得権益を守ろうとするのは、労働組合として当然です。給与が高いのも闘いの成果で、彼らにとっては誇るべきことでしょう。また、言うまでもないことですが、”財政危機”の責任は、市職員にあるわけではないのです。市政をつかさどる行政と議会、それに私たち市民にあるのです。

要は、横浜市の現状に対して、納税者である市民がどう考えるかです。市民税や国民健康保険料など、市民への負担ばかりが優先されていますが、ゴミ収集の民間委託や新庁舎の建設や膨大な負債を抱える第三セクターの整理や市職員の天下りやワタリの問題など、課題はいくらでもあります。それは右も左も関係ありません。もっと喧々諤々の議論があっていいはずなのに、市民の声がまったく聞こえてこないのです。その結果が、今の緊張感の欠けた”オール与党体制”になっているのではないでしょうか。横浜は、このように市民の意識もイナカだと言わざるを得ないのです。

帰って万歩計を見たら、1万5千歩を越えていました。


2013年8月12日 012

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>> 関内あたり
2013.08.12 Mon l 横浜 l top ▲
晩秋の横浜201201

横浜駅の西口に用事があったので、そのあと、東口にまわって日産自動車の本社を通り、旧ジャックモールから、みなとみらい、汽車道、山下公園、伊勢佐木町、野毛、桜木町、再びみなとみらいのルートを歩きました。

先週のはじめ、元町に用事があって行ったときは、山下公園のイチョウもまだ青いままでした。ところが、今日行くと、黄色く色づいていました。わずか1週間でこんなに変わるんだと思いました。季節の移り変わりはホントにはやいです。

私は、この季節の横浜がいちばん好きです。平岡正明氏が言うように、やはり横浜は場末感が似合います。クリスマスもそうですが、東京のように華やかではないし、人も多くないので、それが逆に寂寥感漂うロマンチックな雰囲気をかもし出しているように思います。

みなとみらいのランドマークプラザを歩いていたら、「横浜の恋と、ユーミンと。」というポスターが目につきました。しかも、「お買い物を楽しんでください」とかなんとか、ユーミンの声が館内に流れているのです。とうとうユーミンもここまで落ちぶれたのかと一瞬思いましたが、実は今日は、デビュー40周年を記念したベストアルバム「日本の恋と、ユーミンと。」が発売された日だったのです。ランドマークタワーでは、それに関連してユーミンのステージ衣装などが展示された催しも行われているそうです。そして、来週からプロコル・ハルム(なつかしい!)とのツアーもパシフィコ横浜を皮切りにはじまるそうで、どうやらそのキャンペーンだったみたいです。

街路樹が裸になり、舗道から落葉が消えると、いよいよクリスマスの季節です。クリスマスのイルミネーションの時期になると、なんだか街がいっせいに着飾ったようで、いつもとは違うよそ行きの顔になるのです。年をとると、そんなクリスマスからも疎外される感じがありますが、でもいつまでもしがみついていくぞと思っています。グループで街に繰り出して、まわりの目もなんのその、クリスマスムードをわがものにせんとするあの中高年女性たちの強欲なパワーを少しは見習ったほうがいいのかもしれません。

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2012年8月21日01

ダイエットはいっこうに進んでいません。3キロくらい減ったのですが、その後、一進一退をくり返しています。もっとも、以前のように熱が入っていませんので、それも当然ですが。

今日もふと思いついて、夕方から散歩に出かけました。なんと10日ぶりくらいの散歩でした。定番の大桟橋から赤レンガ界隈を歩きました。

大桟橋に向かっていると、海からの風に乗って潮の香りが漂ってきました。なんだか子どもの頃の別府の海を思い出しました。最近、『絵はがきの別府・古城俊秀コレクションより』(松田法子著・左右社)という本を買ったばかりなので、なにかにつけ別府のことが思い出されてならないのです。

この『絵はがきの別府・・・』は感涙ものでした。郷愁をそそられるにはあまりある本です。以下は、Amazonで紹介されている「内容」です。

古城俊秀コレクション…大分萩原郵便局局長を務めた古城俊秀氏による驚くべき絵はがきコレクション。明治末期から昭和初期、絵はがきの黄金時代に発行されたはがきから、大分に関するもの、各種交通機関、干支、こどもの遊びなどのテーマで収集され、総数はおよそ6万枚にもおよぶ。本書では別府の近代をテーマに都市史専門家の手で厳選された、資料的価値、図案の巧みさ、色彩の美しさに優れた600枚をはじめて公開する。ひとつの都市の近代史が、表情豊かな写真絵はがきから甦るさまが驚きとともに感じられるだろう。
(「BOOK」データベースより)


大桟橋では、しばらく夕闇に沈む海を眺めました。「くじらのせなか」には、同じように海を眺める人たちが集まっていました。こういった光景が身近にあるというのが、横浜の魅力です。

夏の夕方、海辺の町に行くと、近所の人たちが防波堤にすわって、おしゃべりに興じながら海を眺めている光景によく出くわしますが、横浜にも似たような光景があるのです。潮の香りとともに、すごくなつかしい気持になりました。

何度も同じことをくり返しますが、思えば遠くに来たものです。こうしてひとりで横浜の海を眺めているのも不思議な気さえします。

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この時期は、テレビの通販番組などでもやたらダイエット商品の特集が多くなりますが、薄着の季節になると、男性でも体形が気になるものです。特に上着を脱いだときの腰まわりが気になって仕方ありません。

久しぶりに体重計に乗ったら、案の定、6キロオーバーでした。6キロならまだ引き返せる。そう自分に言い聞かせて、再び三度、いや六度目か七度目ですが、ダイエットをはじめることにしました。

今回もライティングダイエットをやろうと思います。今までの経験上、いちばん効果があったからです。もしかしたら、ライティングダイエットは私の性格に向いているのかもしれません。

当然、運動も必要ですが、最近、忙しさにかまけて散歩もご無沙汰でした。それで、今日は病院に行ったついでに、定番のみなとみらい界隈を散歩しました。

病院では半年ごとの検査の結果の説明を受けたのですが、数値は正常で、先生も「薬が非常に効いていますね」と言ってました。ただ、月に1回の通院は今後もつづけてください、と釘を刺されました。

ここ数年、病院通いをはじめてからのおなじみのセリフですが、検査の結果が良好だと心も晴れやかです。病院のあとは市営地下鉄で関内に行って、夕暮れの街を山下公園まで歩きました。さらにいつものコースで、山下公園から遊歩道を通って赤レンガ倉庫・汽車道、そして横浜駅まで歩きました。帰って万歩計を見たら、2万歩を超えていました。

最近は都内に出ることが多いのですが、こうして久しぶりにみなとみらい界隈を歩くと、やはり海っていいなと思います。海辺の風景というのは心が落ち着きます。横浜にはいろんな顔がありますし、横浜は間違っても「おしゃれな街」なんかではありませんが、ただ海に近いというのが横浜の魅力であることはたしかです。特に今は潮風を受けながら散歩するにはいい季節です。

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2012.05.14 Mon l 横浜 l top ▲
このあたりは都市計画法で第一種住居地域に指定されていて、商業施設の面積が細かく規制されているのですが、なぜか今月4000平米を超える大型スーパー(スーパーと医療モールとドラッグストアからなる複合施設)がオープンすることになりました。

オープンに至る経緯については、「ライフ大倉山店建築計画を解剖する」という秀逸なサイトに詳しく書かれていますが、たしかに、近所にスーパーができれば、わざわざ駅の近くに行かなくて済むので便利です。それに、食品スーパーが必要だというのも理解できないわけではありません。しかし、周辺の道路事情を考えると、駐車場付きの大型スーパーなんてホントに大丈夫なんだろうか、「無謀」じゃないか、と思わざるを得ません。

それに、最初に計画したスーパーは却下されたのに、どうして今のスーパーがOKだったのかという疑問もあります。さまざまな噂も流れていますが、過酷な競争のなかにある企業が、生き残りをかけて新しい市場を開拓するのはある意味で当然で、そのためにはどんな手段だって(どんな政治力だって!)使うでしょう。要は、それに対して、地元がどういう姿勢で臨むかではないでしょうか。

何度も同じことを言いますが、大倉山にはいい素材があるのに、どうしてわざわざこのような「ファスト風土化」を選択しなければならなかったのかと思います。この件では、横浜市の事なかれ主義もさることながら、まちづくりに対する商店街や住民たちのポリシーのなさが、はからずも露呈したように思えてなりません。大倉山出身の建築家・隅研吾氏は、清野由美氏との対談『新・ムラ論TOKYO』(集英社新書)のなかで、「二十一世紀に町を再開発するなら、まず道路を『敵』にする発想が絶対に必要です」と言ってましたが、どうしてそんな発想が生まれなかったのでしょうか。近隣のほかのスーパーでも問題になっているようですが、どこにでも車で行かなければ気が済まないような”イタい人”たちに迎合して、どんなまちづくりができるんだと思います。

同じ東横線沿線でも元住吉などは、個人商店ががんばっていて、すごく魅力のある商店街になっています。地元の食品スーパーが大手のスーパーに伍してがんばっている姿を元住吉では見ることができます。隣の日吉からも買物に来るそうですが、それもよくわかります。そのいちばんの要因は、駅前の道路を日中通行止めにして買物客を優先しているからです。それこそ「道路を『敵』にする発想」と言うべきでしょう。

「便利になるからいいじゃないか」「反対するやつはなんでも反対するんだ」と言うのは、原発と同じで、(宮台真司の受け売りですが)丸山真男が言う「作為の契機の不在」です。水は低いほうに流れるではないですが、悲しいかな、そうやってほとんどなにも考えなくても済むような(考えようともしないような)、自明性や二者択一論のわかりやすさや長いものに巻かれろの事大主義といった「作為の契機の不在」の空気に流されるのが現実なんだな、としみじみ思いました。
2012.03.06 Tue l 横浜 l top ▲
春節20124

今日は旧暦の元日だそうです。祖父母がまだ健在だった子どもの頃、祖父母の家では旧正月の前に餅つきをしていました。私の田舎では大晦日に「年取り」といって、一家が揃ってご馳走食べる風習があるのですが、旧暦の大晦日も祖父母の家では「年取り」をやっていました。子どもの私は正月が二度あるのが不思議でなりませんでした。また、祖父母は「数え年」で、実際より1つか2つ多く年齢を数えるので、それも混乱するばかりでした。

中国では旧正月のことを春節と言うのだそうです。それで、病院に診察に行ったついでに、中華街まで足をのばしました。さすがに旧正月の中華街は人も多く賑わっていました。首都圏の中国人たちも春節を祝うためにやってきているようで、いたるところで中国語が飛び交っていました。キンキラキンの成り金趣味の中国人は別ですが、一般の中国人は、ちょっとあか抜けない身なりや特徴ある髪型で、ひと目で中国人だとわかります。(余談ですが、中国人旅行客はどうしてみんなスポーツウェアなのでしょうか? この時期は決まってダウンジャケットだし)

そんなふるさとの正月情緒を求めてやってきた中国人の家族が、年に一度奮発して豪華な卓料理を囲んでいるのをみるにつけ、別に中国人に借りも義理もないけれど、なんだか胸が熱くなるものがありました。広島刑務所を脱獄した李国林受刑者の原点は、中国残留孤児二世らが江東区で結成した不良グループ「怒羅権(ドラゴン)」だそうですが、たしかに歌舞伎町や池袋西口などでは、金のブレスレットをチャラチャラいわせながら肩で風をきってのし歩き、青龍刀をふりまわすような、どうしようもない中国人がいるのも事実です。しかし、多くは異国の地でハンディを背負いながら、ささやかな夢と希望を胸に、歯を食いしばってがんばって生きているのだと思います。中華街に響き渡る春節のドラの音は、そんな中国人たちを励ましているようにも聞こえました。

今日は中華街では、「採青(さいちん)」という正月行事がおこなわれていました。要するに、日本で言う獅子舞のようなものです。詳細はつぎのサイトをご覧ください。http://www.chinatown.or.jp/agenda/event/984

「採青」がおこなわれている店の周辺は大変な人ざかりで、写真を撮るのも苦労するほどでした。ちょうど横ではNHKの腕章をつけたカメラマンが脚立の上に乗ってカメラをまわしていました。

春節20122

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2012.01.23 Mon l 横浜 l top ▲
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サラリーマンではなくてもたまには日曜日らしいことをしようと、夕方から桜木町に食事に行きました。そして、ついでにいつものようにみなとみらい界隈を散歩しました。最近は忙しくて散歩もご無沙汰していましたので、帰ったらくたくたでした。ちなみに万歩計は1万5千歩を超えました。

最近、デジカメを流行りのミラーレスの一眼レフに買い換えたものの、まだ一度も使っていませんでしたので、試し撮りも兼ねて写真を撮りまくりました。しかし、カメラは変われど写真は同じで、いつも同じような写真ばかりで芸がないなと自分でも思います。

休日の横浜は、カップルと家族連ればかりですが、カップルを見てもうらやましいと思うような女の子はひとりもいませんでした。先日発表された電通の調査結果では、23才~49才の独身女性のうち7割は彼氏がいないそうですが、別に恋なんてしなくてもいいのではないでしょうか。私のまわりでもそうですが、今は「いい女」ほど恋をしないのです。

先日の『週刊新潮』(12/8号)のインタビュー記事では、新潮社の作家タブーをいいことに、阿部和重と川上未映子が思い切りバカップルぶりを発揮していましたが、あれじゃ『すべて真夜中の恋人たち』のような薄っぺらな恋愛小説しか書けないわけだと納得できました。

休日の横浜で愛を語るカップルや芸能人気取りの芥川賞カップルなんかより、私は、深夜の寝静まった病室の薄明かりの下で、一心に藤枝静男の『悲しいだけ』を読んでいた老人や、目尻から一筋の涙を流しながら、病床でふるさとの思い出を語っていた老人のほうが興味があります。

クリスマスムードに彩られたみなとみらいのなかを歩きながら、私は、”生きる哀しみ”ということを考えました。もし神様がいるなら、せめてクリスマスのときだけでも、神様はそんな哀しみに寄り添いともに涙を流し慰めてもらいたいなと思います。切にそう思います。

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2011.12.18 Sun l 横浜 l top ▲
横浜ジャズプロムナード3872

今、横浜では三年に一度の現代美術の祭典「横浜トリエンナーレ2011」が開催中です。また、昨日と今日は恒例の「横濱ジャズプロムナード2011」も開かれていました。

”素顔の横浜”からみれば、こういった文化的な催しはとても似あいませんし、実際に横浜市民のほとんどは無関心です。これらはあくまで観光客目当ての催し物なのです。

私たちが抱く”素顔の横浜”は、相鉄線沿線や京急沿線のブルーカラーの色彩の濃いイメージのなかにあります。言うなれば、現代美術よりマンガ、ジャズよりヒップホップ、ジモトとヤンキーといったイメージです。私は「それでいいのだ」と思いますし、個人的にはそっちの方が興味があります。そういった横浜がもっているディープ感は、前に住んでいた埼玉にもないものです。いわば、ホンモノの(年季の入った)ディープな街といったイメージが横浜にはあるのです。にもかかわらず、どうしてあんなにお上品ぶりたがるのでしょうか。

平岡正明氏は、横浜はジャズが似あう街だと常々言ってました。「横濱ジャズプロムナード」も野毛の大道芸などと同じように、平岡さんのプロパガンダの賜物なのかもしれません。しかし、そこにあるのは、あくまで外ズラの(営業用の)横浜なのです。

本町の港郵便局に行ったついでに、馬車道とイセザキモールで行われていた街角ライブをみました。正直言って、アマチュアの演奏には興味がありませんので、アマチュアだったらパスしようと思っていたのですが、馬車道では学生とプロのセッションが行われていましたし、イセザキモールはプロのフュージョンのバンドが演奏していました。ただ、途中、近所の店から音が高すぎるとクレームが出たらしく、バンドのメンバーも「やりくにいですね」と嘆いていました。街をあげての催しじゃないのかと言いたかったけど、一方で、ホントはジャズなんかには関心のない横浜(商店街)の本音を垣間見たような気がしました。

聴衆は圧倒的に中高年の人たちでした。団体客なのか、あるいは通し券をもった目印なのか、胸にワッペンをつけている人を多くみかけましたが、ひとりの例外もなく中高年のおっさんとおばさんでした。そのうちジャズも敬老会の演目になるのかもしれません。

ただ、連休ということもあってか、人出は多く、関内あたりもいつになく賑わっていました。そのあと、みなとみらいのランドマークプラザのくまざわ書店に行ったのですが、みなとみらい周辺も人でいっぱいでした。クィーンズスクエアでも、ジャズの演奏が行われていましたが、アマチュアのバンドだったので写真だけ撮って帰ってきました。

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関内ホール前(馬車道)

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イセザキモール

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汽車道

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大道芸(グランモール公園)

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スヌーピー(クイーンズスクエア)

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クイーンズスクエア

>>中音量主義
2011.10.09 Sun l 横浜 l top ▲
郵便局に行かなければならない用事があったのですが、ついでに散歩をしようと思って、電車に乗って本町の横浜港郵便局に行きました。みなとみらい線の「日本大通り」で下車すると、港郵便局はすぐ近くです。このあたりは、県庁をはじめ地方裁判所や県警本部やハローワークや日銀などが集まった、いわば横浜の官庁街であり中心地です。もっとも地図でみると意外に狭くて、せいぜい300~400メートル四方くらいで、そのなかに本町・北仲通り・海岸通り・元浜町・大田町・相生町などの地名が入っているのです。そして、まわりを桜木町や伊勢佐木町や元町(石川町)などに囲まれていて、これがいわゆる「関内」と呼ばれる地域です。

関内は、このように住居表示が非常に細かく町の数が多いので、逆にわかりにくい面があります。しかも、目印になるような道路や建物がないため、ときに方向感覚を失うことがあり、休日などは、観光に来たとおぼしき人たちが、道に迷って戸惑っている姿をよくみることがあります。

郵便局で用件を済ませたあと、関内周辺を目的もなく歩きました。今日は山下公園や赤煉瓦倉庫やみなとみらいはあえて外しました。日曜日は人が多くて歩きにくいからです。中華街や元町をぬけるときも、人の通りが少ない裏道を選んで歩きました。

歩いていると、やたら若いカップルとすれ違うのですが、それも横浜の特徴です。「横浜」というイメージに、やはり若いカップルはあこがれるのでしょうか。

途中、寿町も通りました。そこは、若いカップルとはまるで違う世界がありました。寿町で目に付くのは、路上駐車の車とゴミの山とドヤ(簡易宿所)の前の自転車です。昼間から酔っぱらって通りをウロついている人がいるのも相変わらずですが、しかし、昔と比べたら通りに出ている人は少なく、しかも高齢の人が目立つようになりました。それになんといっても、殺気立った雰囲気がなくなりました。周辺にはマンションやテナントビルが押し寄せていますので、寿町もますます肩身が狭くなりたそがれていくのだろうと思います。

しかし、もちろんドロップアウトする人たちが減るわけではありません。ただ、寿町のような簡易宿所が自然発生的に一ヶ所に集まるような街(ドヤ街)の形態がなくなるというだけです。そうやってドロップアウトした人たちは街に拡散して行き、私たちの目から見えなくなるのです。

先日、生活保護の受給者が200万人を超えるようになったことで、財政負担の増大に悲鳴をあげている地方自治体と厚労省が、生活保護制度の抜本的な見直しに向けて協議をはじめたという記事がありました。そして、そこでも医療費などと同じように、「総額抑制」論が前面に出ているのです。都市部では、最低賃金や基礎年金との”逆転現象”が出ていることをあげて、如何にも生活保護が「めぐまれている」かのような言い方がされるのですが、それはただ最低賃金や基礎年金がもともと生活できないくらい低いからにほかならなりません。また、働く意欲のない人間は3~5年で給付を打ち切るという案も出ているようですが、そういった”裁量”を役所に与えると、それこそ血も涙もないお役所仕事に転化するのは目にみえています。その記事には、「働かざる者食うべらからず」という見出しが付いていましたが、「食うべからず」ということは「死ね」ということなのか、と言いたくなりました。

先日も寿町近くで生活している受給者の住まいを尋ねて話を聞く機会がありましたが、こんなところがあったのかと思うようなタコ部屋のようなアパートで、正直言って、「みじめ」と言ってもいいような生活ぶりでした。陰でベンツに乗っているような人間が、なぜか公営住宅に住み生活保護を受給している極端な例を持ち出して、生活保護は「不労所得」「怠け者の巣」のように言う人もいますが、それは「強いものには下手に出て、弱いものには居丈高な態度に出る」小役人の習性で、強面の要求を断ることができなかった窓口に問題があるだけの話です。

今の世の中をみるとき、生き方が下手な人や身体が弱い人や知的障害のある人や家庭的にめぐまれず満足に学校に行けなかった人などにとって、かなりしんどい社会であることは事実でしょう。また、失業や離婚や病気など人生のアクシデントによって、経済的に困窮する状態に陥る人だっているでしょう。そんな人たちが最低限の生活を維持するために制度を利用するのは、憲法で保障されている国民の権利なのです。にもかかわらず、制度を利用する人が多くなったので締め付けをして制限すればいいというのは、まさに本末転倒した話だと思います。それこそいちばん政治や行政の手が必要な部分ではないでしょうか。だったら、行政・議会・組合がタッグを組んで、地方自治を食いものにしている現状をどうかする方が先ではないか、と言いたくなります。

相互扶助の精神ではなく、いたずらに損得勘定や嫉妬心や差別心などの俗情を煽るような政治というのは、宮台真司風に言えば、「依存と統制」の政治の最たるものだと言えます。彼らが親しき隣人であり、明日はわが身かもしれないという想像力が、今の世相には決定的に欠けているように思います。だから、こんなタチの悪い政治が跋扈することになるのでしょう。

そんなことを考えながら、たそがれていく寿町のなかを歩きました。

>>ワーキングプア
2011.08.07 Sun l 横浜 l top ▲
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郵便局に行ったついでに、菊名から新横浜の篠原口まで歩きました。菊名駅の南側の錦が丘という住宅街をのぼっていくと、丘の上から篠原北町という住居表示に変わります。そして、丘を越え迷路のように入り組んだ道を下ると新横浜駅の篠原口に出るのです。もっとも、遠くに見える新横浜のビル群を目印に下っていけばいいので、方向さえ間違わなければそう道に迷うことはありません。

横浜はどこもそうですが、丘が連なるこのあたり一帯も、見事なほど宅地造成され住宅地が広がっています。丘の上にはアパートもありますが、駅からだと15分も20分も坂道をのぼらなければならないし、近所には店もないし、夜道は物騒な感じだし、よく借りる人がいるなと思いますが、なぜか結構人気があるのだそうです。月極めの駐車場も1万5千円くらいするそうで、そんなに安くはないのです。

丘のちょうど突き当りに、鎮守の森の名残のような木々に囲われた篠原八幡神社がありました。境内では作業着姿の年老いた男性がひとり草むしりをしているだけで、ほかに人の姿はありませんでした。

篠原八幡神社は、無病息災の霊検あらたかな神社だそうで、私も一度お参りしたいと思っていましたので、やっと念願が叶った感じでした。静謐な空気が流れるなかで、パンパンと柏手を打つと、やはり凛とした気持になるものです。

今、NHKブックスの『「かなしみ」の哲学-日本精神史の源をさぐる』(竹内誠一著)という本を読んでいるのですが、そのなかで、綱島梁川の「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」(『病間録』)という言葉が紹介されていました。また、源信の『往生要集』に出てくる「悲の器」という言葉も紹介されていましたが、私は高校の頃、高橋和己の『悲の器』という小説が好きでした。「悲の器」である人間にとって、神や仏が「まず悲哀の姿をして我らに来たる」のだと思えば、なんだか救われる気持になります。この年になると、神や仏はいてほしいと思います。

余談ですが、『「かなしみ」の哲学』では、つぎのような哲学者の西田幾太郎の文章も紹介されていました。私はそれを読んだとき、石巻の大川小学校をはじめ、今回の震災で我が子を亡くした親たちのことが連想されてなりませんでした。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれは親にとっては耐え難き苦痛である。・・・何としても忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。・・・おりにふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』)

著者の竹内誠一氏は、「それがいかに苦痛であろうと、そうした生者の『いたみ(いたましさ・いたわり)』を通してしか死者はその存在をこちら側に現わすことはできない。『悼む』とは、そうした営みである」と書いていましたが、それはもはや宗教的な営みと言ってもいいのではないでしょうか。教義や教団なんてどうでもいいけど、じっと目を瞑って手を合わせる気持というのは、やはり大事じゃないかと思います。

神社の石段をおりようとしたら、前の道を学校帰りとおぼしき女子中学生たちがキャーキャー嬌声をあげながらとおりすぎて行きました。丘の上に突然現れた女子中学生たちに思わずびっくりしましたが、道を下って行くと途中に中学校がありました。彼女たちにとっては、丘の上のこの迷路のような道は通学路なのです。

道を下りきると、目の前に新横浜駅の白い建物がそびえてきました。その建物をめざして昔の農道のような曲がりくねった細い道をひたすら進んで行くのでした。やがてたどり着いた駅前には小さなロータリーがありましたが、表口と比べると、同じ新横浜駅の駅前とは思えないほどのどかな雰囲気が漂っていました。


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2011.07.16 Sat l 横浜 l top ▲
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石原吉郎ではないけど、ふと海をみたいと思いました。それで、朝、横須賀線の反対側の電車に乗って、横須賀に行きました。

私も昔、横須賀には仕事で来ていましたが、取引先はもっぱら京急の「横須賀中央」駅の方にありました。都内から来るのも京急の方が便利なので、横須賀線を利用したことは一度もありません。「横須賀」駅におりたのも今日が初めてでした。ちなみに、横須賀線の「横須賀」駅のすぐ近くには、京急の「汐入」駅があり、「横須賀中央」は隣の駅になります。

ただ、軍港として発展した横須賀の歴史上の中心は、やはり横須賀線の「横須賀」なのでしょう。「横須賀」駅をおりると、すぐ目の前は海です。ほかに目立つのは、ダイエーやシネコンが入ったショッピングビルのショッパーズプラザ横須賀がありますが、開店間際だったからなのか、あまり繁盛している雰囲気はなく、「オープン20周年」の垂れ幕がさみしげに風にゆれていました。それ以外は、ただ海があり、海に浮かんでいる軍艦があるだけです。

ところが、そんな海を朝からボーッと眺めている人たちが結構いるのでした(私もそのひとりでしたが)。ホントにボーッと眺めているだけです。それも、ほとんどが中高年の男性で、しかも、ひとりでやってきたような人たちばかりでした。横顔に憂いをたたえている・・・というほどカッコよくはないけれど、それでもどこか孤独の影をひきずっている感じがしないでもありません。やはり、みんな「海をみたい」と思ったのかもしれません。

高校生のとき、とある事件に連座して警察の取り調べを受けたことがありました(といって、窃盗や暴力や痴漢のような破廉恥な事件ではありません)。あのときも、ふと海をみたいと思いました。それで、取り調べを終え警察署を出ると、海の方に歩いて、テトラポットの上に座り、ずっと海を眺めていたました。おそらく4~5時間くらい眺めていたのではないかと思います。夕方になり、あたりが暗くなりはじめたので帰ったのですが、帰ったら家では親たちが大騒ぎしていました。取り調べが終わったあと、警察署から「今、帰りました」という連絡があったものの、いっこうに帰ってこないので、よからぬことでも考えたのではないかと心配したらしいのです。

海を眺めながら、学校をやめて東京にでも行こうかと思いました。なんだかこの街にいることも、この高校にいることも、ひどくめんどうくさい気がしました。やはり事件に連座して、一緒に学校を謹慎になったクラスメートがいたのですが、最近、彼が地元の銀行で役員になっているという話を聞きました。でも、私の場合は未だに当時の心情をどこかでひきずっているようなところがあります。それは性格なのですね。だから、今もまだふと海をみたいなんて思ったりするのでしょう。

シベリア抑留生活での思索をつづった『望郷と海』の冒頭で、石原吉郎はつぎのように書いていました。

海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。



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2011.06.09 Thu l 横浜 l top ▲
朝、横須賀線に乗っているとき、ふと思いついて東戸塚で下車して、隣の保土ヶ谷まで歩きました。最近、運動不足気味なので、このように突然、歩かなければという強迫観念のようなものにおそわれるのです。

残念ながら写真を撮りませんでしたので、証拠(!?)はないのですが、東口の駅前の道路を左に向かって坂道をのぼっていきました。まだ通勤時間帯でしたので、坂の上からは駅に向かう人たちが五月雨式に下ってきます。でも、そんな人の流れに逆らって坂をのぼっていく(やや若づくりの)おっさんに、目にとめる人間なんて誰もいません。みんな、気味が悪いくらい無表情なのでした。

マンションが立ち並ぶ通りをぬけると、境木地蔵尊という小さな祠が石段の上にありました。地蔵尊というからには、昔はこのあたりに墓所でもあったのかもしれません。そういえば、地蔵尊があるあたりはちょうど山の頂になっていて、あの世との境界としてはうってつけの場所のような気がします。

地蔵尊の前から道は急に細くなりました。それで、不安になり、犬の散歩をしていた女性に、「権田坂はどっちの方向ですか?」と尋ねました。

「権田坂の何丁目に行くのですか?」
「いえ、権田坂から国道1号線に出たいのです」
「ああ、だったら、この道をそのまま下って行けば1号線に出ますよ」

というわけで、片側に人がひとり通れるくらいの歩道が付いているだけの細い道路を下りはじめました。おそらく昔は険しい山道だったのでしょう。少し下ると、小学校の前にややひなびた感じの商店街があるのに気づきました。坂道の脇にまっすぐに伸びた路地の両側に個人商店が点々と並んでいて、地形でいえば山の中腹にあたるため、路地の先から風景が大きくひらけているのでした。山を削って宅地開発され、今に至るまでの”記憶の積層”がつまっているような商店街でした。横浜は都内ほど鉄道網が発達してないため、駅から遠い住宅街も多く、そういったところにこのような古い商店街がぽつんと残っているのです。

余談ですが、こうして横浜に暮らすほど、(決して貶めているつもりはありませんが)横浜というのは”地方都市”だなとしみじみ思います。街も人も”偉大なる田舎”なのです。だから、相鉄線沿線で出会った横浜生まれの生粋の「ハマッ子」の老人は、私が住んでいる東横線沿線の街を「東京」と言ったりするのです。彼らの感覚では、東横線や田園都市線は「東京」なのでしょう。一方で、「横浜は東京と同じ都会だ」と勘違いして、横浜から外に出ない若い「ハマッ子」をみると、なぜかすごく反感をおぼえて、おちょくりたくなるのです。そもそも横浜独自の文化なんてもうどこにも残ってない現在、「ハマッ子」という言葉自体も既に死語だと言えます。むしろ、”偉大なる田舎”ならそれはそれでいいじゃないかと思います。そういうところから新しい「横浜らしさ」が生まれるかもしれないのです。

「東京と横浜は同じだから、わざわざ東京まで行く必要もない」なんていうベタな地元志向は所詮、井の中の蛙だなと思います。東京はまったく別格で、横浜と比べようもありません。好きか嫌いかは別にして、東京というオバケのような大都会がもつあのハチャメチャな活力と魅力を素直に受けとめる感受性があるかどうかは、今の時代を生きる上で、「決定的」と言ってもいいくらい大事なことのように思います。いわゆる「郊外論」などもそうですが、東京というのは、それくらい(自分の人生を揺り動かすくらい)大きな存在なのです。

角に家電のコジマが建っている「権田坂上」の交差点で国道1号線に出ると、あとは保土ヶ谷駅まで一本道です。普段、横須賀線の車窓から眺めている見覚えのある風景が沿道につづきました。

保土ヶ谷駅に着いて、万歩計をみたら、7千歩ちょっとでした。時間にしてちょうど1時間でした。少し物足りない気がして、このまま横浜駅まで歩きたい心境でしたが、時間がなかったので、保土ヶ谷から再び横須賀線に乗りました。

>>保土ヶ谷から歩いた
2011.04.15 Fri l 横浜 l top ▲
新横浜3448

うららかな春の陽気に誘われて(ついでに放射能を浴びながら)、太尾緑道から新横浜にかけて鶴見川沿いを散歩しました。

桜は7~8分咲きくらいでした。おそらく今週末が見頃ではないでしょうか。新横浜の川沿いの遊歩道では、やはり春の陽気に誘われた人たちが、三々五々桜並木の下を歩いたりベンチで休憩したりしていました。最近はやたら苛立つことが多いのですが、今日はしばし浮世の憂さを忘れ、ゆったりした気分で午後の時間をすごすことができました。

遊歩道を歩いていると、私が通っている病院を川向うに見ることができます。こうして遠くから眺めると、病院の中のあわただしさがウソのようです。そして、その先には横浜マリノスの本拠地の日産スタジアムがあります。周辺は運動公園になっていて、さまざまな運動場やスポーツ施設などがあり、贅沢な空間が広がっています。ここもまた横浜の郊外なのです。ただ、川があるおかげで、郊外特有の規格化された風景から逃れているのでした。

昔、新横浜に取引先の会社があって、一度だけ来たことがありました。駅を出て高架橋を渡り、ラブホテルが林立する一帯をぬけるとめざす会社のビルがありましたが、今日はさっぱりわかりませんでした。あのときは道に迷うことなくスムーズに行けたのですが、いまひとつ記憶がはっきりしないのです。

あたりに店舗はほとんどなくて、ただ無機質なビルが建っているだけの少し場末感が漂うようなエリアなのですが、よく見ると意外とマンションも多いのです。買物などは不便でしょうが(とはいっても、新横浜駅まで歩いて10分もかかりませんが)、こういうところに住むのもいいかもと思いました。ちょっとさみしい雰囲気が魅力ですね。どうせひとりならさみしい方がいいのです。

吉行淳之介さんのエッセイ「街角の煙草屋までの旅」ではないですが、夕暮れせまる郊外の街を歩きながら、これもまたひとつの旅かもしれないと思いました。

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2011.04.06 Wed l 横浜 l top ▲
大倉山梅まつり3375

この週末は大倉山公園で梅まつりが行われていましたので、出かけてみました。と言って、大倉山公園は自宅の裏にあり、いわば裏山のようなものです。近くの路地から行けばすぐなのです。

梅林は公園の窪地にあるため、駅の方から行く場合、駅横の坂道をいったん丘の上までのぼり、頂上にある大倉山記念館の裏手から今度は窪地の方へ下りなければなりません。しかし、自宅からだとコンビニの前の路地を入って、住宅街の中を先に進んで行くと、そのまま窪地に突き当ります。

いつもだと近所の人達が犬の散歩をしているくらいですが、今日は観梅客で賑わっていました。その大半は家族連れかカップルです。梅林の下では野点や日本舞踊などが催され、公園の遊歩道沿いにはずらりと出店も出ていました。

出店は地元の商店街の店もありましたが、プロの香具師(露天商)の人達も多くいました。私はむしろそっちの方が興味がありました。

私は梅まつりは初めてでしたが、それにしても、毎年裏山でこんなに賑やかな催しが行われていたなんてちっとも知りませんでした(ただ興味がないだけだったのですが)。

公園を一周して、そのまま駅横の坂道を下りました。途中のTOTSZEN BAKER'S KITCHENも外まで行列ができていました。駅前の銀行に寄ったあと、今度は新横浜まで歩きました。駅ビルの三省堂書店で本を買って、帰りも歩いて帰りました。帰って万歩計を見たら1万歩ちょっとでした。

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2011.02.20 Sun l 横浜 l top ▲
師岡熊野神社3

最近、天候不順のせいもあって散歩もご無沙汰していましたので、久しぶりに午後から散歩に出かけました。駅の反対側にある熊野神社(師岡熊野神社)に行ってみようと思ったのです。熊野神社は、名前のとおりいわゆる熊野信仰の流れをくむ神社で、このあたり一帯を守る「郷社」です。

熊野神社にはおととし「苦しいときの神頼み」で一度行ったことがあるのですが、その後の不信心で道順を忘れてしまいました。それで、あてずっぽうに環状2号線をトレッサの方に向かっていたのですが、このままでは本当にトレッサに行ってしまいます。それで、前からやってきたお年寄りに、「熊野神社はどっちに行けばいいんですか?」と訊きました。すると、左折して住宅街の中の道に入り、さらに進んで突きあたりをもう一度左折すれば右手にあると言うのです。ということは、綱島街道の方向に戻るということで、どうやら私はえらく遠まわりをしていたみたいです。案の定、教えられた道をしばらく歩いていたら、前から髪を紫色に染めた見覚えのある老女がやってきたのでした。彼女は、先程駅前の銀行のATMでお金をおろした際、私のうしろに並んでいた老女です。私も身体が大きくて特徴があるので、相手も気がついたらしく、怪訝な顔でこっちを見ていました。なんとなくバツが悪かったので、顔をそむけて横を通りすぎました。

熊野神社でお賽銭をあげようと小銭入れを見たら、百円玉がないのです。中は1円と10円玉だけです。かと言って千円札を入れるのはもったいないし、一瞬社務所で両替をしようかと思いました。でも、両替をしてお賽銭をあげるというのも変な話なので、人に見られないように手のひらで隠してそっと10円玉をお賽銭箱に入れました。そして、いつものように「無病息災」「商売繁盛」を交互にお願いしました。

熊野神社のあとはいったん綱島街道に出て(なんだこんなに近かったのかと思いましたが)、かの大倉山ヒルタウンを左手に見ながら綱島の方に進みました。そして、大綱橋の手前から再び右折して駒岡小学校の方に向かいました。先にあるジャスコ(駒岡店)に行ってみようと思ったのです。このあたりはかつては倉庫や工場が立ち並ぶ一帯であったことがわかります。今でもそういった建物がいくらか残っていますが、多くはマンションに変わっています。それにしても、どこまで行ってもマンションか一戸建ての住宅ばかりです。駅からどんどん離れても、いっこうに住宅が途切れることがありません。駅までどうやって行くんだろうと思うような場所でも住宅が立ち並んでいるのでした。

ジャスコに寄ったあと、Uターンして鶴見川の土手を川上の方に戻りました。冬の夕暮れ、土手の上を歩いていると、いろんなことを考えました。その多くは自分の人生のことです。もちろん、悔恨もありますが、それ以上に「思えば遠くに来たもんだ」というような寂寥感があります。今朝、九州の友人から、自分達の高校時代を題材にした映画が撮影されることになったので、一度田舎に帰って来ないかというメールが来ました。以前だったら「くだらない」と一蹴するだけだったでしょうが、なんだか急に郷愁をそそられる自分がいました。

でも、もうあと戻りはできないのです。どこまでも歩いて行くしかない。ときに「どうして、こんなところにいるんだろう?」と思わないこともないけど、しかし、歩いて行くしかない。どんどん遠くなっていくけど、歩いて行くしかないのです。

結局、土手を新羽橋まで歩きました。帰って万歩計を見たら、1万5千歩を超えていました。

師岡熊野神社1

師岡熊野神社2
2011.02.17 Thu l 横浜 l top ▲
午後から散歩を兼ねて新横浜の駅ビルにある三省堂書店に行きました。今日はうららかな小春日和だったので、新横浜に通じる緑道も散歩する人の姿が多く見られました。

途中、横浜アリーナの前に開場を待つ大勢の人がいました。また、新横浜駅からアリーナまでの舗道も人々の行列がつづいていました。誰のコンサートなんだろう?と思って、前からやってきた若い女性(きれいな子を選びましたけど)に訊いたら、「ドリカムで~す」と言ってました。

横浜アリーナでコンサートがあるとき、外に出ると「ワァー」という歓声が聞こえてくることがあります。最初は日産スタジアムから聞こえているのかと思ったのですが、そうではなくアリーナでした。最近で記憶しているのは、EXILEと宇多田ヒカルのときです。

ほしい本が2冊あったのですが、三省堂書店にはどちらも置いていませんでした(いづれも新刊なんですが)。駅前の文教堂にも寄ってみましたが、やはり同じでした。このブログでもいつも嘆いていますが、横浜で本を探すのはホントに苦労します。

それで市営地下鉄に乗って関内に行きました。言うまでもなく、伊勢佐木町の有隣堂に行くためです。イセザキモールも休日ということもあってか、結構にぎわっていました。有隣堂の横では地元の子ども達によるミニコンサートが行われていました。横浜の街もクリスマス一色ですが、やはり場末感は否めません(何度も言いますが、それが横浜のいいところです)。

有隣堂も撃沈でした。そうなればみなとみらいのランドマークプラザのくまざわ書店に行くしかありません。休みの日にみなとみらいに行くのは気が進まないのですが、もうそんなことは言ってられません。こうなったら意地です。

伊勢佐木町から馬車道をぬけて大通りをみなとみらいに向けて歩くと、おなじみの夜景が見えてきました。すっかり日が陰った汽車道も多くの人が行き交っていました。できるだけ人ごみを避けるために、汽車道の入口を通りすぎてロイヤルパークホテルの先の裏口(?)から入ることにしました。ライトアップされた日本丸の前でも多くの家族連れやカップルが記念写真を撮っていました。姉妹なのか、小さな女の子が二人、日本丸をバックにVサインしている姿がほほえましく思いました。ただ、同じVサインでも、最近の子どもは立てる指が違うのですね。私は写真屋の息子なので、そうやって写真を撮っている姿を見ると、いいなぁ~と思います。そういった思い出が人生にとってかけがえのないものだということが、やがてわかるときがくるのではないでしょうか。

くまざわ書店では目当ての本は1冊だけありました。もう1冊はネットで買うしかなさそうです。結局、1冊の本を買うのに半日かかってしまいました。もっとも、歩きまわったおかげで、帰って万歩計を見たら1万5千歩近く歩いていました。何事にも効用はあるというわけです。
2010.12.23 Thu l 横浜 l top ▲
赤煉瓦3179

久しぶりに汽車道から赤煉瓦倉庫を散歩しました。たしかにこのあたりは格好のデートコースです。ロマンティックな夜景をバックに愛をささやけば、思わず彼女も手を握りかえし、あわよくば肩に頭をもたせかけてくるかもしれません。長い黒髪から漂ってくるシャンプーの残り香にうっとり・・・なんて年甲斐もない妄想におそわれました。

実際に汽車道ですれちがうカップルを見ていると、「年甲斐もない」カップルも結構多いのです。泌尿器科の待合室で順番を待っている(くたびれ果てた)中高年男性と、愛と性のオーラを放ちながら汽車道を手をつないで歩いている同年代の男性のこの違いはなんなんだと思いました。友人は「前立腺の耐久性の違いじゃないの」と身も蓋もないことを言ってました。

赤煉瓦倉庫前の広場ではクリスマスのイベントが行われていましたが、人も少なくてやはり場末感は否めませんでした。期間限定のスケートリンクも年々しょぼくなっており、もしかしたらそのうち姿を消すのかもしれません。でも、平岡正明ではないですが、横浜はこういった場末感が魅力なのです。ちょっとさみしくなるような雰囲気が、逆にロマンティックな気分をかきたてるところがあります。だから、(前立腺が丈夫な)老いも若きも愛をささやくために赤煉瓦倉庫にやって来るのでしょう。

赤煉瓦3197

赤煉瓦3175

赤煉瓦3167

赤煉瓦3159

赤煉瓦3189
2010.12.16 Thu l 横浜 l top ▲
民主党代表選で菅再選を見届けてから、いつものように郵便局&散歩に出かけました。「小沢待望論」が盛り上がる現在の日本は、「天皇親政」を実現しよう青年将校が登場した状況と似ている、と書いていた有名ブロガーがいましたが、実際には「小沢待望論」もネットの一部だけで、世間ではそれほどでもなかったということでしょうか。それにしても、小沢一郎のことになると、支持するしないに関わらず、どうしてみんなこのように誇大妄想に陥り、ことさら虚像化したがるのでしょうか。それが不思議でなりません。

個人的には、菅か小沢かという二者択一論なんてまったくナンセンスだと思いますが、今回もマスコミの”小沢憎し”の情報操作は尋常ではありませんでした。この国では明治以来の官僚統治システムに楯突く政治家は、常に”金権政治家”として葬り去られる運命にあるそうですが、霞ヶ関の意向を受けて検察が仕掛けた「政治とカネ」の問題は、ここでも大きな役割を果たしたのです。自民党の新しい幹事長の石原伸晃氏は、菅再選なら協力すべきところは協力するが、小沢政権なら徹底して対決する、と言ってましたが、自民党やマスコミや官僚の援護射撃で再選された菅政権に、一体なにを期待しろというのでしょうか。ヤワラちゃんが応援する小沢一郎も悪い冗談ですが、自民党が応援する菅政権も悪い冗談です。この先に待っているのが、哀しいほどの対米従属と財政再建に名を借りた増税翼賛体制であるのは明白です。どうも「政治とカネ」がそのための目くらましになっているように思えてなりません。マスコミの罪は大きいのです。

そんなことを考えながら、菊名の駅前をとおりすぎて、東横線の踏切を渡りました。駅はよく利用するものの、菊名のことはまったく知らないので、周辺を歩いてみようと思ったからです。ウソかマコトか、菊名には「菊名夫人」という呼び方があるそうです。「菊名夫人」なんていうと、なんだかフランス書院のポルノ小説のタイトルみたいですが、シロガネーゼと同じように、菊名に住んでいるハイソな(古い?)御婦人という意味だそうです。それを聞いたとき、私はどこにそんな人間がいるんだと思いました。菊名のあのゴチャゴチャした駅周辺を思い浮かべると、とてもそんなハイソな御婦人がいるとは思えませんでした。

ところが、踏切を渡ると、三方に上り坂が延び、それに沿って立派な門構えの一戸建てが並んだ扇状の住宅街が出現したのです。やはり、ここでも”横浜の法則”は生きていたのでした。つまり、成りあがった人間は丘の上に住むという法則です。我々下層貧民は、駅から5分だとか自慢をしていますが、所詮は湿気の多い、昔はレンコン畑だったような低地に住むしかないのです。ただ、地元の事情通によれば、名にし負う「役人天国」の横浜市にふさわしく、今は丘の上の住人は公務員若しくは元公務員が多いそうです。私は坂道を上りながら、こういうところに「菊名夫人」は住んでいたのかと思いました。

しばらく尾根伝い(?)に住宅街の中を歩いたあと、あてもなく坂道を下ると、池のある大きな公園に突きあたりました。そして、その先に妙蓮寺の駅が見えました。かつて妙蓮寺に住んでいた四方田犬彦さんが、『散歩の達人』の中のエッセイで、妙蓮寺のことを書いていたのを読んだ覚えがありますが、妙蓮寺も落ち着いたいい街ですね。東横線沿線というと、どうしても駅周辺のゴチャゴチャしたイメージが浮かびますが、駅から離れると閑静な住宅街が広がっているところが多く、東横線沿線が住宅地として人気がある理由がなんとなくわかった気がします。この伝でいけば、「妙蓮寺夫人」もいるのかもしれません。

妙蓮寺から横浜方面の電車に乗って、「馬車道」で下車しました。と言って、どこか行くあてがあるわけではありませんので、馬車道から伊勢佐木町をブラブラしました。昔で言う「伊勢ブラ」ですね。今は「伊勢ブラ」なんて言うと、風俗通いのように思われますが、昔は「銀ブラ」にかけて横浜でも「伊勢ブラ」というのがあったのだそうです。伊勢佐木町は前の記事(伊勢佐木町から横浜橋)のすぐあとに、案の定、神奈川県警の浄化作戦があったみたいで、外国人の姿がめっきり少なくなっていました。彼らにしてみれば、11月のAPECまで息をひそめて嵐がとおりすぎるのを待つしかないのでしょう。

伊勢佐木町の有隣堂に寄ったのですが、ほしい本がなかったので、みなとみらいのくまざわ書店に向かっていたら、途中の万国橋のあたりでときならぬ豪雨に襲われました。それで、ほうほうの体でワールドポーターズに駆け込み、2階の通路にあるベンチで雨が小降りになるのを待ちました。雨に煙る夕暮れの汽車道を眺めていたら、ちょっとせつない気持になりました。隣のベンチでは、ワイシャツ姿の中年の男性が、缶ビールを飲みながら弁当を食べていました。家に帰りたくなんだろうかと思いました。

平日でしかも雨ということもあるのか、みなとみらいはどこも閑散としていました。クィーンズスクエアでは、みなとみらい線の改札口の前にあったブックファーストもいつの間にか撤退していて、シャッターがおりていました。さもありなんという感じですが、くまざわ書店にしても事情は同じなのでしょう。

帰って万歩計を見たら、今日は1万6千歩でした。
2010.09.14 Tue l 横浜 l top ▲
みなとみらい2927

夕方、郵便局に行ったついでに、そのままま電車に乗って「馬車道」で下車。伊勢佐木町から横浜橋、そして横浜橋から黄金町、日ノ出町を経由して桜木町まで戻り、みなとみない、馬車道、横浜駅といういつものコースを散歩しました。

それにしても、伊勢佐木町のディープ化はますます進んでいます。そのうち、神奈川県警の大浄化作戦があるのかもしれません。手ぐすねひいて待っているような気がしないでもありません。

商店街を歩いている人達の半分くらいは外国人です。伊勢佐木町はチンピラまがいのアジア系の青年が多いのが特徴ですが、他に中南米系の白人とアフリカ系の黒人の姿も目立ちます。一種のステータスなのか、アジアのチンピラ青年達は、シルバーのラメで背中に絵や文字がプリントされた黒色のTシャツを着ていることが多いのですが、あの手のTシャツは昔、麻布十番がまだ陸の孤島だった頃、十番の紳士服店のショーウインドでよく見かけたことがあります。持ち手がついたワニ皮もどきのセカンドバックといい、社会学風な言い方をすれば、ヤンキー文化とは別にチンピラ文化というトライブもあるのかもと思いました。

伊勢佐木町の商店街にも、いくつかオープンカフェの店がありますが、表の席に座っているのは見事なくらい外国人ばかりです。彼らはなぜかいつも鋭い視線を通りに放っていて、一種異様な雰囲気をかもしだしていました。伊勢佐木町の食いもの屋に行くと、ホントにお客をなめたような店が多いのですが、それは従業員の多くがアジア系外国人の若者だからです。もちろん、私は排外主義者ではありませんので、外国人を雇うのが悪いと言ってるのではありません。ただ、客商売なのですから、「日本的おもてなし」の一端でも彼らに教えるべきではないかと思うのです。「賃金が安いならなんでもいい」という考え方こそ”外国人差別”と言うべきでしょう。

伊勢佐木町に集まって来る外国人の多くは、いわゆる出稼ぎ外国人労働者がドロップアウトしたものなのでしょう。神奈川県もまた、東京というメガロポリスの周縁域としての役割を担わされ、3Kの職場が集中していますので、伊勢佐木町のように、リストラなどで職を失った彼らが吹きだまり不良化する場所がどうしても出てくるのですね。寿町にも外国人の日雇労働者が多いそうですが、彼らもまた同じような事情にあるのでしょう。

また、伊勢佐木町一帯では、夕方になると、派手な格好をした風俗嬢達が香水のにおいをまき散らしながら出勤してくる光景に出くわしますが、彼女達の多くも外国人なのです。いかにもという感じの女の子がヘルスに入って行ったので、「ああ、こういうところで働いているのか?」と中をうかがっていたら、すかさず口髭をはやした男性従業員が出てきて、「旦那さん、どうぞ。いい子いますよ」と手招きされました。「いや、いや、見てただけですから」「見るだけでなく中に入ってくださいよ。サービスしますよ」という男性従業員の声をふり払いその場をあとにしましたが、「どうして、オレが”旦那さん”なんだよ」と思いました。

横浜橋の商店街になると、もっとディープ度が高くなります。考えてみたら、錦糸町や蒲田の一部に似たような雰囲気がありますが、都内でも千葉でも埼玉でもここまでディープ度の高い商店街はほかにないように思います。ただ、前にも書きましたが、横浜橋に関しては、私はこういった「アジア的混沌」みたいな街は嫌いではありません。

今、たまたま文庫化されたばかりの原武史著『滝山コミューン一九七四』(講談社文庫)を読んでいるのですが、横浜橋のような商店街は、ああいった民主主義幻想を露ほども疑わない”郊外”とは対極にあるものです。余談ですが、最近の若い評論家や学者達の多くが『滝山コミューン』のような郊外型民主主義の環境で育った世代であるという事実は、案外大きいように思います。まるで時計の針が40年も50年も戻ったような彼らの政治オンチぶりや啓蒙主義は、そういった郊外型の戦後民主主義幻想からきているような気がしてならないのです。

この酷暑のせいなのか、途中で胸がドキドキしはじめ、少し息苦しくなりました。熱中症ではないのでしょうが、このまま横になりたいというような気分でした。それで、みなとみらいの横浜みなと博物館の裏の芝生の上で、しばらく仰向けになりました。すると、海から吹いてくる風がとても心地よくて、気分も落ち着いてきました。

帰って万歩計を見たら、2万歩を超えていました。
2010.09.01 Wed l 横浜 l top ▲
茅ヶ崎2907

やっと茅ヶ崎に行きました。新横浜に用事があったので、用事を終えたあと、新横浜から市営地下鉄で横浜に出て、横浜から東海道線で行きました。茅ヶ崎より辻堂の方が街だというのは、どうも”自虐ギャク”だったみたいです。辻堂には駅裏に広大な空地があり、その空地にショッピングセンターかなにかができるという話を聞いたことがありますので、「むしろ辻堂の方が街だ」というのは、そのショッピングセンターができた場合の話なのかもしれません。

茅ヶ崎の駅ビルは、どう見てもルミネに見えますが、ルミネではなくラスカというのだそうです。前はルミネだったそうですが、数年前にラスカに変更になったのだとか。ラスカはJR東日本の子会社の湘南ステーションビルが運営する駅ビルで、茅ヶ崎のほかに平塚・小田原・熱海にあり、いわば地域限定の駅ビルのようです。茅ヶ崎駅の周辺にはイトーヨーカドーもありますし、ヤマダ電機もありました。なんの変哲もないJRの駅と言えば、そう言えないこともありません。

私は反対側の南口(写真上)を出て、駅からまっすぐに伸びている道路をひたすら海に向かって歩きました。さすがに途中で、サーフボードを抱えた若者達とひっきりなしにすれ違いました。しかし、私が目を引いたのは、ガングロの”元若者”達です。マイク真木のような長髪でガングロのおじさんやおばさんがホントに多いのです。皮膚ガンの心配はないんだろうか?といらぬことまで考えてしまいました。

別名「加山雄三通り」とも呼ばれている(らしい)東海岸本通りには、個性的な雑貨を売る店も結構ありました。手作りもあれば輸入物もあり、それぞれこだわりを持った店ばかりでした。

茅ヶ崎2909

既に夕方で、しかも海が多少荒れていたということもあるのか、海岸は思ったより人が少なくて、むしろ、遊歩道を散歩をする人の方が多いくらいでした。考えてみれば、埼玉にいた頃、国道16号線を南下してよく湘南の海に来ました。いつも季節外れの海でしたが、どうしてあんなに海を見に来たんだろうと思いますね。

人々はどうして湘南にあこがれるのでしょうか。もちろん、明治時代に上流階級向けの別荘地の開発によって、湘南という土地がブランド化されたことが大きいのでしょう。また最近では、サーフィンの普及や(”湘南サウンド”なんて言われるとこっちまでこっ恥ずかしくなりますが)加山雄三やユーミンやブレッド&バターや南佳孝らの音楽などによって、湘南=日本のウエスト・コーストのイメージが定着したことも多分に影響しているように思います。今風に言えば、スローライフへのあこがれといった感じなのかもしれません。とにかく、東京近辺で生活をしていると、人々は海の近くに、それも湘南に住むことにあこがれるのです。だから、茅ヶ崎や辻堂に住んでいるというだけで、羨ましがられるのですね。

たしかに、かつて島尾敏雄も住んでいたことがあるという海岸近くの住宅街には、庭木に囲まれた瀟洒な木造住宅も多く、(最近はなんでも老後に結びつけて考えるクセがありますが)こういうところで老後をすごせたらいいだろうなと思いました。実際に生活するとなると、ベランダに砂がたまったり、洗濯物がベトついたり、門柱や手すりがすぐ錆びたり、深夜暴走族がうるさかったりと、いろんな支障もあるみたいですが、ただ、茅ヶ崎あたりに漂っているややローカルな空気の中で、のんびりと「海のある生活」を送りたいという気持はわからないでもないですね。たとえそれが幻想であってもです。

茅ヶ崎2915
2010.08.14 Sat l 横浜 l top ▲
本牧埠頭_2855

新山下のみなと赤十字病院にお見舞いに行ったついでに、本牧埠頭まで歩きました。新山下は電車だと不便で、交通手段としてはバスしかないのですが、私はみなとみらい線の終点「元町・中華街」で降りて、そこから歩いて行きました。

新山下は本牧の東の海側のエリアに位置しており、新山下の突堤がいわゆる本牧埠頭になります。典型的な埋め立て地で、昔、高速に乗るために車で通ったことがありますが、その頃は倉庫や工場ばかりの殺伐としたイメージしかありませんでした。しかし、今は、道路沿いに大型店ができたりおしゃれなマンションが並んでいたりと、ずいぶん通りのイメージも変わっていました。ただ、舗道を歩きながら、ふと山手の方を見上げると、やっぱり丘の上からは豪奢な邸宅が下界を見下ろしているのでした。

病院を出たのは午後5時近くでしたが、そのまま先に進んで埠頭をめざしました。車やバスだとすぐなのでしょうが、歩くとなると結構な時間がかかります。私がめざしたのは、海釣り施設やシンボルタワーがあるD突堤です。新山下をすぎ、イトーヨーカドー本牧店の裏から海側に曲がると、四方は倉庫ばかりになり、道路のあちこちにコンテナが置かれていたりして、すれちがう人もほとんどいなくなりました。ところが、ときどきお母さんらしき女性が幼児用の補助椅子を取りつけた自転車で通りすぎていくのです。なんで?と思ったら、倉庫街の中に突然「本牧ポートハイツ」という団地が出現したのでした。帰って調べると、「横浜港湾福利厚生会」なる港湾関連企業の福利厚生団体が組合員のために建てた団地らしく、昔は「港湾住宅」と呼ばれていたそうです。5階~7階建ての集合住宅が17棟あるそうですから、かなり大きな団地です。「診療所」の看板も出ていましたので、診療所も併設されているのでしょう。ちなみに、敷地内には本牧貨物駅本牧埠頭駅を結ぶ神奈川臨海鉄道の貨物線も走っているそうです。

「本牧ポートハウス」をすぎてさらに突堤に向かって歩くと、やがて堤防沿いの道路に突き当りました。「堤防から海に入るのは禁止します」「発見したらただちに警察に通報します」という看板がやたら出ているのでそんなに危ないのかと思ったら、なんのことはない既に堤防の下は横浜市が運営する本牧海釣り施設の管理エリアで、施設に入るには500円の入場券(見学は100円)が必要なのです。要するに、タダで魚釣りをする不心得者に対する警告なのでした。考えてみれば、本牧埠頭あたりでは一般の人間が海岸に近づくことはほとんど不可能で、唯一海釣り施設で入場券を買って入るしかないのでした。

それで仕方なく私も100円を払って海釣り施設の中に入りました。しかし、魚釣りの施設なので、見学だけの人間なんてほとんどいません。魚釣りをしている人達の中をひとりウロウロしても居心地が悪いだけなので、すぐ出てきました。

それからさらに殺風景な海沿いの道路を歩いてシンボルタワーに行きました。平日の夕方だからなのか、駐車場にも数えるほどしか車はとまってなくて、シンボルタワーの上も人はまばらでした。展望ラウンジでは、どう見ても夫婦には見えない中年のカップルが一組寄り添って海を眺めているだけでした。

シンボルタワーというのは、他にもいくつかありますが、灯台の機能を備えたいわゆる港湾版ハコモノ行政の代表的な施設で、本牧もそのひとつです。駐車場の横には売店などが入った休憩所なるものもありましたが、休日はともかく平日はどうやって営業しているんだろうと納税者のひとりとして心配になりました。

シンボルタワーの営業は、通常は午後7時までですが、8月中は午後8時までとなっていました。夏の夜はカップルのたまり場になって大変だろうと思ったら、その対策のためか、1キロ手前の海釣り施設の駐車場のゲートをくぐらなければ、シンボルタワーまでの道路も通れないようになっているのです。つまり、関門を設けて、時間外はそこから先は一切行けないようになっているのでした。

展望ラウンジでW不倫の(と勝手に決めつけている)中年カップルと一緒に海を眺めていたら、突然、「午後6時半にシンボルタワー発の最終バスが出ます。乗り遅れないようにご注意ください」というアナウンスが流れました。営業時間いっぱいまでバスもあるだろうとタカをくくっていたので、あわてて階段を降りて駐車場の横にあるバス停に向かいました。既にショルダーバックを下げた年配の男性が二人待っていました。二人はバスに乗る際定期券をかざしていましたので、定年退職後の第二の人生でシンボルタワーの警備員かなにかの仕事をしている人達なでしょう。

次の海釣り施設では、釣り道具を抱えた男性が2人乗ってきました。やはり大半の人は車でやってくるみたいです。しかし、さらに次の倉庫街の中のバス停に到着すると、仕事をを終えた人達が行列を作っていて、バスもいっぺんで満員になりました。中にはイスラム系(?)の外国人労働者の姿もありました。それで、なんだか途中で降りるのも面倒くさくなり、終点の横浜駅まで乗ることにしました。30分ちょっとで横浜駅に着きましたが、バスを降りて万歩計を見たら2万歩を越していました。

本牧埠頭2847

本牧埠頭2869

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2010.08.06 Fri l 横浜 l top ▲
東芝太尾アパート2704

私は東芝には縁もゆかりもありませんし、東芝の社員の方に世話になったとかなにか義理があるわけでもありません。家で使っている電化製品を見ても東芝製はほとんどありません。たまに出先で東芝のエレベーターに乗るくらいです。

しかし、なぜかしょっちゅう前を通る東芝太尾家族アパートの行く末が気になって仕方ありませんでした。前にたまたまこのブログでアパートのことを書いたら、それ以来ときどき「東芝太尾アパート」のキーワードでアクセスする方がいらっしゃいます。以前、そのアパートに住んだことがある方なのかもしれないと勝手に想像しています。もし子どもの頃、家族で住んだのなら、とりわけ思い出深いのではないでしょうか。

東芝太尾アパート2711

封鎖されてずいぶん経ちますが、先日、前を通りかかったらフェンスに「建築計画」の看板が取り付けられていました。それによれば、跡地には三井不動産が手がける分譲マンションが建つようです。ロケーションは申し分ないので、かなり高価なマンションになるのではないでしょうか。

建物が新しく建つと、「あれっ、前ここはなんだったっけ?」と思うことも多いので、記念にもう一度写真を撮りました。これが最後の東芝太尾家族アパートの姿です。

東芝太尾アパート2700

そのあと隣駅の菊名まで歩いて、菊名から東横線で終点の「元町・中華街」まで行きました。知り合いが週末に山下公園でバンドをやっていると聞いたので、もしやと思って散歩を兼ねて山下公園に行きました。しかし、残念ながらそれらしき姿はありませんでした。その代わりというわけではありませんが、東端の石のステージでは、「踊るマハラジャ」で見たようなインドの踊りが披露されていました。聞けばインドの現地のお祭りを再現するイベントなのだそうです。ステージ前はインド人の家族連れでいっぱいでした。ただ、彼らの強烈な香水(?)のニオイが鼻についてならないので、早々に会場をあとにしました。私はあのニオイは苦手です。

口直しならぬ”鼻直し”で、潮のニオイを嗅ぎながら山下公園を歩いていたら、ときおり吹き抜けていく潮風がとても心地よかったです。身近でこういった時間をすごすことができるのが横浜のいいところですね。水辺の風景は不思議と心が落ち着きます。

山下公園からいったん日本大通りに出て、それから象の鼻公園を通って赤レンガ倉庫に行きました。赤レンガ倉庫前の広場では、メキシコ独立200周年・メキシコ革命100周年を記念したAlegria de Mexico / Verano en Yokohama(アレグリア・デ・メヒコ)というイベントが行われていました。会場はほとんど宴会場と化していて、飲み食いしながらにぎやかに談笑しているかと思えば、ステージの前ではDJのパフォーマンスに合わせて多くの若者達が踊っていました。メキシコ流レイブパーティかと思いましたが。

赤レンガの先の新港埠頭では、薄闇の中で、アマチュアカメラマン(大半は中高年のおっさん)達が埠頭に係留された帆船にレンズを向けていました。ポルトガルの帆船・サグレス号(1940トン)で、今日寄港したばかりだそうです。ちょうど船からはラフな格好をした若い乗組員達がつぎつぎと上陸していましたが、はて、どこに行くんだろうと思いました。新港埠頭から横浜の繁華街までは遠いし、みなとみらいでは飲み食いするにも金がかかるし。と思ったら、すぐ近くの埠頭公園の石段に座ってコーラかなにかを飲みながら談笑していました。ポルトガルもギリシャと同じように経済的な苦境にあえいでいるそうですが、彼らのつつましい姿を見たらなんだかかわいそうな気がしました。

帰宅して万歩計を見たら1万5千歩でした。体重もその後少し落ちて、既に5キロ減量しています。しかし、今回は10キロ減を目標にしていますので、まだ半分です。先は長い。

東芝太尾アパート2706

東芝太尾アパート2716

東芝太尾アパート2719

山下公園_2723

象の鼻公園_2733

赤レンガ2753_edited

ザグレス号2794

インターコンチネンタルホテル2813

>>東芝太尾アパート
2010.07.24 Sat l 横浜 l top ▲
八杉神社

またはじまった神頼み。普段の不信心を棚に上げて、まったく現金なものです。

隣駅の菊名駅の近くに八杉神社というのがあり、案内板に「無病息災」と書いていましたので、さっそくお参りしました。ほかに「商売繁盛」のご利益もあるみたいで、なんだか一石二鳥で得した気分でした。欲をかくと霊験も半減するような気がしないでもありませんが、下衆な私は「病気が治りますように」「商売が繁盛しますように」と交互に願い事を唱えました。

大倉山路地1

日曜日の朝、菊名から大倉山へと住宅街の中の道を歩いていると、人通りも少なくていつもと違うゆったりとした、どこかなつかしい時間が流れているような気がします。大倉山にはけもの道のような狭い路地が縦横に走っていますが、おそらく昔の畔道か野道の名残なのでしょう。

大倉山出身の建築家の隅研吾氏が三浦展氏との対談集『三低主義』(NTT出版)の中で、「隅研吾の原風景」と題して大倉山での少年時代のことを語っていましたが、隅家が大倉山に住むようになったのは、大井で医者をやっていたお祖父さんが戦前に農作業小屋を造ったのがきっかけだったそうです。かの白洲次郎・正子夫妻が町田に武相荘を作ったのとちょうど同じ時期だそうですが、当時の大倉山にはそういった大正モダニズム流の田園生活にふさわしい風景があったのでしょう。路地はその名残なのです。大倉山が「私有主義的郊外」のいやらしさから多少なりとものがれることができているとしたら、それは路地のおかげかもしれません。

大倉山路地2

大倉山路地3

大倉山路地4

大倉山路地5
2010.05.09 Sun l 横浜 l top ▲
夕方、時間ができたので横浜駅から高島町の方へ歩いて、さらに国道1号線(いわゆる旧東海道)沿いを散歩しました。国道沿いはやはりビルやマンションが目立ちますが、そんな中に如何にも野菜炒めやホイコーロー定食が似合いそうな昔ながらの中華食堂も残っていて、ひとり住まいには住みやすい街のように思いました。

戸部署の先で国道を左折して坂道を上り下りすると、桜木町駅の先から伸びている紅葉坂の上に出ました。このまま坂道をさらに上り下りすると野毛や日ノ出町の駅に出るのですが、本通りから脇に入って伊勢町の商店街の中を歩きました。ひなびた商店街の先にはみなとみらいのランドマークタワーが見えました。その新旧のコントラストが面白くて、カメラを持って来なかったことを後悔しました。

途中歩いていたら、「××さん?」と声をかけられてびっくりしました。振りかえると、よく行く病院の顔見知りの看護師さんが立っていました。

「どうしてこんなところにいるのですか?」
「散歩だよ」
「散歩? だって住まいは東横線でしょ?」
「そうだけど、どこでも散歩するわけです。神出鬼没なんです」
「‥‥」
「なに、買物?」
「そうですよ。この先のマンションに住んでいるの」
「そうなんだ? じゃあ、今から遊びに行こうかな?」
「ダメよ。今、旦那がいるから」
「!?」

職業柄なのか、看護師さんには世間オンチで生真面目な人が多いのですが、彼女と別れたあと、信号待ちをしながら、先ほどの「ダメよ、今、旦那がいるから」という言葉を思い出し、吹き出しそうになりました。
2010.04.22 Thu l 横浜 l top ▲
海岸通り20100312

午後、郵便局に行ったついでにそのまま東横線に乗って、終点の「元町・中華街」まで行きました。中華街や山下公園などはいつもの平日に比べて人が多かったように思います。卒業旅行で来ているような若い女の子のグループが目につきました。あとはどこでも出没する中高年のおっさんとおばさん達です。

うららかな日差しのなかを海岸通りや日本大通りや馬車道などをぶらぶら散歩しました。ホントは野毛山公園に行きたかったのですが、出かける時間が遅かったので今日はあきらめていつもの散歩となったのでした。

3月9日の神奈川新聞に、「野毛の"盟友"しのぶ」という平岡正明氏に関する記事が出ていました。平岡氏は、野毛をことのほか愛していて、なかでも野毛の「萬里」の特別中華ランチ「19番」が大好物だったそうです。『横浜的』でも、「秘法19番 一皿に港町の精髄が」と題し、「19番」の味をとおして「異国情緒が坂の途中で艶歌に変わる」港町・横浜の魅力を書いていたくらいです。

 材料は安いものを使っている。安いものは腕で食わせる。これが料理人の誇りだろう。材料は安くでも、油や香辛料や火加減は、南京町の連中も一目置く「萬里」のものだから、一つ皿の上でいい味をかもしだす。野毛は闇市から上ってきたということを示す一皿だ。
(「秘法19番 一皿に港町の精髄が」)


ちなみに、私は『横浜的』の中では、この「秘法19番‥‥」と「シャンソン語り元次郎は野毛のジャン・ジュネである」という文章が好きです。「萬里」の店主・福田豊氏が責任編集した追悼集「アートタイムズ5号・平岡正明葬送パレード」(デラシネ通信社)には、山下洋輔氏・梁石日氏・田中優子氏の弔辞をはじめ、山崎洋子氏や朴慶南氏など平岡氏と交流のあった多くの作家や文化人達が追悼文を寄せていました。

馬車道20100313

馬車道の裏通りに最近お気に入りのジャズバーがあるのですが、私はほとんど酒を飲まないので、よっぽど気合が入ってないとひとりで入るのは勇気がいります。それで、今日は遠慮して散歩に徹することにしました。

馬車道からはいつものようにみなとみらいに行きました。そして、これも恒例のライドマークタワーのくまざわ書店に寄って本を買って帰りました。ふと思いついて、ボードリヤールの『消費社会の神話と構造(普及版)』(紀伊国屋書店)を買いました。なぜかもう一度、この現代消費社会論のバイブルとも言うべき本を読んでみたいと思ったのです。

>>追悼・平岡正明
>>野毛
2010.03.12 Fri l 横浜 l top ▲
関内あたり1

読みたい本があったので、帰りに横浜駅でみなとみらい線に乗り換えて、みなとみらいに行きました。ランドマークプラザのくまざわ書店に行こうと思ったのです。ところが、電車を降りてエスカレーターに乗ったら、どの店もシャッターが下りて閑散としていました。「休館?そんなことがあるんだ」と思って、そのまま外に出て伊勢佐木町まで歩きました。あとで調べたら、設備点検のために休館していたのは手前のクィーンズスクエアだけで、奥のランドマークタワーは営業していたそうです。なんとも粗忽な人間です。

伊勢佐木町に行ったのは、言うまでもなく有隣堂に行くためです。しかし、イセザキモールは夕方なのに人もまばらで、有隣堂もますます客が少なくなっており、案の定、目当ての本もありませんでした。伊勢佐木町の衰退にはもはや歯止めがかからない感じです。

ただ、途中の関内あたりはなんとも言えない雰囲気があって、日頃横浜の悪口ばかり言っている私もあのあたりに行くと「横浜っていいな~」と思うのです。いわゆる"ハマっ子"の知り合いの女の子も、「横浜らしいのはホンの一部なんだけどね」と言ってましたが、日本大通りから本町、馬車道あたりがその「ホンの一部」なのでしょうか。

関内あたりは人も少なくて、落ち着いた雰囲気があります。威圧するような大きなビルもないので、ゆったりした気持になれます。ときにビルの間から「ボーッ」と汽笛が聞こえてきたりして、そんな暮れなずむ街をひとりで歩いていると、いつの間にかセンチメンタルな気分になっている自分がいます。平岡正明氏は、野毛の魅力は「場末美」だと言ったのですが、それは横浜そのものにも言えるのかもしれません。つまり、東京から見れば、横浜はある意味で「場末」なのです。

横浜には東京のような華やかさはありません。それが横浜の魅力です。通りに面したレストランでは白いエプロンをしたウエイターがぽつんと人待ち顔で外を眺めていました。横浜の街はひとりの方が似合うように思います。よく手をつないで歩いているカップルを見かけますが、あれは横浜でも渋谷でも新宿でもどこでも同じなのでしょう。

歩き疲れたので、開港資料館前のベンチでしばし休憩しました。そして、今日が2月22日だったことをあらためて思い出しました。私にとって2月22日は忘れたくても忘れられない日なのでした。

自分は自分。仮に人生をやり直したとしても、やはり同じことをくり返すのではないでしょうか。それが自分なのだと思います。舗道を行き交う人達を眺めながら、少しせつない気持になりました。こんなときは石原吉郎の詩が胸に響きます。

位置

しずかな肩には声だけがならぶのではない
声より近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備な空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

(現代詩文庫『石原吉郎詩集』より)

2010.02.22 Mon l 横浜 l top ▲
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用事で元町に行ったついでに散歩して帰りました。山下公園から赤煉瓦倉庫、そして、万国橋の手前のいつものベンチで暮れなずむ運河を眺めながらしばし休憩したのち、汽車道を通って横浜駅まで歩きました。

元町は中高年の街です。中高年の成金夫婦がこれ見よがしに高級車に乗ってやって来るのをよく見かけますが、彼らにとって元町はやはり特別な街なのでしょう。ただ、写真のビルも1階の奥や写真に映っていませんが右側のスペースはテナントが撤退したままになっており、元町の今を象徴しているような気がしました。もっとも、元町は、もともと若者の街ではありませんでした。平岡正明は、『横浜的』で元町のことをつぎのように書いていました。

ファッショナブルな街並みにはちがいないが、舶来ブランドを輸入して横文字でダマして法外な値段で売るといった町ではない。オーダーメイドの職人経営者の町だ。外国人の注文に応じて服や家具や食器や靴やらをあつらえたことから始まっているから、作って売るという本来の商人のありかただろう。
(モトマチ「横濱繪看鈑」でメタ都市論を)


過ぎ去りし青春の光と影というわけなのか、元町では未だにハマトラのイメージを追いかけている元祖女子大生の女性達も多く見かけます。また、週末になると、ハマトラに合わせたかのような全身コテコテのアイビールックのおじさんを見ることもできます。そもそも元町に行くのによそいきの格好をすること自体がアナクロだと思いますが、知り合いの若い子に言わせれば、その気持が健気でかわいいのだとか。若い子達にはちょっとおしゃれな巣鴨のように映っているのかもしれません。

山下公園の前の銀杏並木もすっかり色づいていました。公園の中も夕暮れを前にゆったりした時間が流れ、散歩するにはいい季節だなと思いました。

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ホテルニューグランド

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山下公園

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神奈川県庁

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いつものベンチ

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万国橋の上から

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汽車道

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2009.11.26 Thu l 横浜 l top ▲
日本大通り2009年11月

今日もこちらは真冬のような寒い一日でした。夕方から買い物に行ったのですが、キルティングのジャケットにマフラーをして出かけました。

ついでに、日本大通りから象の鼻パークを散歩しましたが、さすがに人どおりは少なく閑散としていました。日本大通りも既にクリスマスのイルミネーションの飾り付けが終わっていましたが、なんだか例年に比べて質素な感じを受けました。象の鼻パークもいつもの休日に比べるとカップルが少なかったうように思います。

そのあと、久しぶりに伊勢佐木町の有隣堂に行きましたが、裏の文具館から文具売場が移ってきたのに伴い、書籍売場はB1~2階と5階に縮小されていました。以前に比べると、明らかに品揃えも悪くなっていて、目当ての本はいづれも在庫がありませんでした。そのためか、休日とはいえ客の姿も少なくなっているように思いました。横浜は品揃えが豊富な書店がホントに少ないのですが、これではやはり都内に行くしかないのかもしれません。そういえば、みなとみらいのランドマークの中にあった有隣堂も既に閉店してくまざわ書店に変わっていました。大型書店の場合、日販トーハンなど大手の取次店による系列化が進んでいますが、有隣堂のような独立系の書店はその分シビアにならざるを得ないのでしょう。創業の地・伊勢佐木町から撤退するのではないかという噂もあながちウソではないのかもしれません。

ところで、有隣堂の入口では制服姿の警備員が立っていて、いかめしい表情で店内を見渡していました。警備員はときどき別の場所に移動したり、さらに吹き抜けになっている2階に上がって、上から1階のフロアを見下ろしたりしていました。客の立場からみると、なんだか監視されているようでいやな感じですが、恐らくそれは万引き対策というより、ホームレスや焼酎の臭いをプンプンさせている日雇い労働者のおっちゃんが店内に入って長居しないように目を光らせているのだと思います。これも伊勢佐木町の没落を象徴する光景かもしれません。

伊勢佐木町は外国人の比率も年々高くなっている気がします。もしかしたらイセザキモールを歩いているのは、外国人の方が多いんじゃないかと思うくらいです。たまたま警察官が無届営業の露店に注意をしていましたが、横を通りすぎていく外国人達が何度もうしろを振り返りやたら警察官を気にしていたのが印象的でした。私は以前は埼玉に住んでいましたので、池袋の西口もよく知っていますが、池袋と比べても伊勢佐木町の外国人はガラが悪く荒んでいる気がします。なんだか馳星周の小説に出てきそうな感じですが、このまま”暗黒街化”がすすめば、(横浜市立大を出ている馳星周は横浜のことをよく知っているはずなので)ホントに伊勢佐木町や黄金町を舞台にした作品が登場するかもしれませんね。ピカレスク小説が似合う街、それはそれで横浜らしいといえなくもありません。

ジャックの塔2009年11月

クィーンの塔2009年11月

象の鼻公園2009年11月
2009.11.22 Sun l 横浜 l top ▲
秋はどうして人をメランコリックな気分にするのでしょうか。若い頃はこの季節になるとよく胸がキュンとしたものです。胸がキュンとするのは、主にフェニルエチルアミンという脳内物質が分泌するからだそうですが、では、そういった脳内物質の分泌と気温や湿度はなにか関連があるのだろうかと、身もふたもないことを考えてしまいました。

日頃は、横浜なんてただの地方都市で、お行儀の悪いブルーカラーの街じゃないかなんて悪態ばかり吐いているくせに、この季節、夕暮れの横浜の街を歩いていると、「横浜っていいな~」と思ったりするのです。人生は思い出ですから、こうして秋の夕暮れに横浜の街を歩いたことも、やがてどこかの老人介護施設のベットの上で思い出すことがあるのかもしれません。

2009馬車道まつり1

2009馬車道まつり2

ちょうど今日から「馬車道まつり」で、関内ホールの前に人だかりができていました。なんだろうと思ったら、10月31日は「ガスの日」とかで、日本で最初にガス灯がともったこの日を記念して、ガス灯の点灯式が行われていたのでした。そのあと、泰地虔郎とトワイライトセッションという地元のおじさんグループの街角ライブが行われていましたが、MCの中で、当時はプロパンもなかっただろうし、ガス灯のガスはどうしてたんだろう?と言ってました。たしかに言われてみればそうですね。それで、帰ってネットで調べたら、既にガス管が通っていてそれでガスを送っていたのだとか。ちなみに、1870年(明治5年)9月に日本で最初のガス工場を造ったのは、あの「高島易断」で有名な高島嘉右衛門です。伊勢山の下の石炭倉庫跡(現在の中区花咲町の本町小学校)にガス工場があり、そこからガスを送っていたそうです。

みなとみらい1.20091031

みなとみらい2・20091031

そのあとはいつものように、みなとみらいを通って横浜駅まで歩きました。週末のみなとみらいはどこもカップルばかりです。みんな手をつないだりして仲がよさそうです。でも、そうやってまだ人の心が移ろいやすいものだということを知らないうちが華かも、なんて意地の悪いことを考えながら汽車道の入口に立ったら、薄明かりの中からこれでもかと言わんばかりにカップルが歩いてくるのです。まるでどこからか湧いて出てくる蟻の大群みたいでした。さすがのおじさんもその不気味さに気圧され、汽車道を歩くのをやめてそそくさと帰ってきました。
2009.10.31 Sat l 横浜 l top ▲
TOTSZEN BAKERS KITCHEN
     (http://area.rehouse.co.jp/r-toyoko2/24より)

朝、目がさめたらお囃子が聞えてきました。それで初めてこの土日がお祭りだったことを思い出しました。お祭りにはやはり和菓子なのか、近所の和菓子屋さんもいつになく賑わっていました。また、すれ違う人達で手にススキをもっている人が目につきました。どこかでススキを配っていたのかもしれません。

しかし、私は、和菓子ではなく、駅の近くにある「TOTSZEN BAKER'S KITCHEN」(写真)でクロッカンと大分アンバターを買ってきて、昼食を兼ねた遅い朝食にしました。 「TOTSZEN BAKER'S KITCHEN」は知る人ぞ知るパンの名店です。

初めて店に入ったとき、「大分アンバター」や「大分えんどあん」などパンの名前に「大分」という地名が入っているのでびっくりしました。聞けば、大分の「なな瀬」という和菓子屋さんの餡を使っているからだそうです。しかし、私は「なな瀬」という和菓子屋さんを知りませんでした。大分の友達に聞いても「知らない」と言うのです。どこなんだろう、ずっと気になっています。

大倉山の駅の近辺は昔ながらの路地が入り組んでいて、そういった路地の奥にはパン屋さんだけでなく、おいしいケーキ屋さんやレストランなども点在しています。また、建築家の隅研吾氏の出身地だからというわけでもないのでしょうが、大倉山には専門家も注目するような建築物も多くあります。いちばん有名なのは、なんといっても大倉山ヒルタウンでしょう。築30年以上経つにもかかわらず、未だに5千万円以上の値が付き、物件が出るのを待っている買い手が大勢いるそうです。それくらいあこがれのマンションなのです。

また、最近では駅の近くに、世界的に著名な建築家・妹島和世氏が設計した「大倉山の集合住宅」というのができました。完成したときから、建築家の卵なのか、若い人達が入れかわり立ちかわりやってきて写真を撮っていました。建物は極力装飾を排したコンクリートの曲面でおおわれ、敷地内は土がむき出しになったままなので、私はまだ未完成なのかと思っていたら、それで完成でした。ちなみに、家賃は18万5千円だとか。でも、どう見ても実用性とは程遠いデザインなので、実際は住みにくそうです。既に住んでいる人もいるようで、窓にカーテンをしていますが、これほどカーテンが似合わない建物はありません。はたから見ると生活感はまるで感じられず、不思議な建物です。

このように大倉山は立地条件から言っても、(決してオーバーではなく)自由が丘のような個性的な店が集まる魅力的な(その意味ではおしゃれな)街になる要素は充分備えているように思います。それだけに「もったいないな」といつも思います。なんといっても駅前のバス通りの舗道の狭さが致命的なのです。これは、バス通りが中央線を引けないほど狭いにもかかわらず、無理して交互通行にしているからです。そのために舗道が犠牲になっているのです。三浦展氏も書いていましたが、いい商店街というのは、まず舗道が広いこと、これが第一条件です。”歩行者優先”の考え方がなければ、商店街として発展が望めないのは当たり前です。

しかも、人がすれ違うのもやっとの狭い舗道であるにもかかわらず、前から来る人間をせき止めるように横に並んで歩いている無神経な人も多いため、私のように毎日舗道を利用しなければならない人間はいつもイライラさせられます。そんな状態では立ち止まって買物などする気になるはずもなく、うっとうしい舗道をすりぬけるのに神経はいっぱいなのです。バス通りではコンビニさえ生き残れないというのもよくわかります。

商店街の振興のためには、プレ・ヘレニズム様式なる建物で表通りを統一するより、まずバス通りを終日一方通行にして舗道を広げるほうが肝要だと思いますが、しかし、肝心な商店街があまり熱心ではないようです。実際に商店街の人と話をしたこともありますが、「めっそうもない」という感じでした。
2009.10.03 Sat l 横浜 l top ▲
午後から日本大通りの横浜簡易裁判所に行きました。訴訟の申し立てをするためです。商売をしていると、ときにいやな役目も引き受けなければなりません。裁判員制度の影響なのか、民事の受付の担当者の方は恐縮するくらい親切でした。30分近く申立書の書き方など懇切丁寧に説明していただきました。そう言えば、その前に県警本部にも行ったのですが、そこでも皆さん親切でした。

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用件を終え、裁判所から外に出たら、前の日本大通りが大変な騒ぎになっていました。道路も封鎖され、赤色灯を点滅させた消防車や救急車が集まり、舗道も大勢のヤジ馬で埋まっていました。よく見ると、ハシゴ車まで出動していました。最初、出初め式かなと思ったのですが、この季節に出初め式はないだろうと思って、近くの人に訊いたら、通りに面したビルでボヤ騒ぎがあったのだそうです。三脚を立ててカメラを構えているテレビ局までいました。

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ボヤ騒ぎのあと、いつものように海沿いを散歩することにしました。象の鼻公園から大桟橋、そして、赤レンガから汽車道を通ってみなとみらいまで歩きました。夕暮れまでは少し早かったのですが、埠頭を渡る風にも秋の気配が感じられました。夏休みの間は人が多いので、どうしても足が遠のいてしまいますが、これからは散歩にいい季節になりますね。私は、どちらかと言えば、「よこはま・たそがれ」(五木ひろし)より「横浜暮色」という言い方のほうが好きです。平岩弓枝の「御宿かわせみ」シリーズに『横浜慕情』というのがありますが、「横浜慕情」というと、ちょっと重すぎて現実感がなくなりますね。

いつもながら、故・平岡正明さんの『横浜的』にもこんな「横浜暮色」を描写した文章がありました。

 花火は風のある日がいい。硝煙が吹き払われるからだ。今年の夏は快晴の日がなく、七月中旬の市主催の花火も、八月初めの神奈川新聞社主催の大会もぼんやりした夜空だったが、九時前終了してレンガ倉庫の間を引きあげてゆく人々の影がよかった。電灯の数がすくなく、ふだんは見回り用に使っている警備員の懐中電燈で足下を照らされてデコボコ道を家路につく市民の影絵が清親の明治浮世絵の雰囲気に近かった。赤煉瓦倉庫と花火の残照。日露戦争期の輸出主力、絹製品をさばくために建てられた倉庫が、旧字の「横濱」を描出する一夜だった。
(「赤煉瓦倉庫で見る花火」)


少し陽が陰ってきた大桟橋に立ったら、ふと、五木寛之さんの『青年を荒野をめざす』を思い出しました。主人公のジュンもたしか大桟橋からバイカル号でナホトカに向かったのです。高校時代、この小説を読んで、自分も遠くへ行きたいと思ったものです。もっとも、九州の片田舎の高校生にとって「遠くへ行く」と言っても、せいぜいが東京で、海を渡るなんてまったく想像の埒外でしたが。そう言えば、同じ五木さんの『海を見ていたジョニー』でも、ジョニーが最後に身を投げたのも山下公園でした。ベトナム帰りのジョニーが見ていたのも横浜の海だったのです。


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2009.08.26 Wed l 横浜 l top ▲
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用事で元町に行ったついでに、石川町の駅の先から地蔵坂をのぼって、港の見える丘公園まで山手を歩きました。今日は蒸し暑くて汗びっしょりになりましたが、気持のいい汗でした。

山手本通りの両側は目を見張るような豪邸ばかりです。どうすればそんなに金持ちになれるんだろうなんて思いながら歩きました。私達のような下層貧民から見れば、もはや羨望をとおりこして不思議な気さえします。

湿気の多い低地は庶民が住み、風通しのいい丘の上は上流階級が住むというのは欧米流なのかもしれません。横浜が開港し、山手が外国人居留地となってから高級住宅地たる山手の歴史がはじまったのです。

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山手の丘からは眺めがいいですね。私も九州にいた頃、丘(山?)の上のアパートに住んでいたことがありますが、地震のときが大変でした。寝ている上に本棚が倒れかかって危うく下敷きになりそうになったこともありました。翌朝、会社に出勤して「いや~、昨夜の地震は大変でしたね。死ぬかと思いましたよ」と言ったら、「オーバーだよ」とみんなから笑われました。”下界”は大したことがなかったのです。関東大震災の際、山手の洋館はほとんど倒壊するなど、とりわけ被害が甚大だったというのもわかります。

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上の写真は、ご存知ユーミンも結婚式をあげた山手教会(正式にはカトリック山手教会)です。横浜の若者達のあこがれの教会です。そう言えば、近くの庭付きの洋館(レストラン?)ではパーティがひらかれていました。私は、披露宴かと思ったのですが、もしかしたら婚活パーティだったのかもしれません。

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山手教会の斜め前はフェリス女学院です。写真を撮っていたら、警備員が遠くからじっとこちらを見ていました。このあたりは名門女子高も多いので、普段から制服フェチのカメラ小僧やカメラおやじが多く出没するのかもしれません。でも、今は夏休みなので、校内は閑散としていました。

>>山手
2009.08.08 Sat l 横浜 l top ▲
有隣堂本店
      「本やタウン」有隣堂本店より

埼玉にいた頃、川越のブックオフに行ったことがありますが、あまりほしい本がなくてずっと足が遠のいていました。しかし、横浜に来て、伊勢佐木町の有隣堂本店の近くにあるブックオフにたまたま入ったら、ひと月前に出たばかりの文庫や新書が半額くらいで売っているのです。それで、有隣堂に行ったついでにときどき行くようになりました。昨日も新書や文庫を10冊以上買って、おかげで(と言うべきか)有隣堂では何も買わずに帰ってきました。

ただ、ブックオフでズラリと並んだ柳美里の単行本がいづれも105円で販売されているのを見たときは、さすがに複雑な心境になりましたね。私の前では初老の男性が年代ものの井伏鱒二全集を105円で買っていました。

一方、「本やタウン」のサイトを見たら、来月の3日で有隣堂本店の「本やタウン」のサービスが終了になる旨の告知が出ていました。私は買いたい本があった場合、「本やタウン」で店内在庫の確認をして、それから出かけていたのですが、「本やタウン」のサービスがなくなると店内在庫の検索もできなくなるのです。かと言って、ジュンク堂や紀伊国屋のように自社のウェブサイトにオリジナルの検索を設ける予定もないみたいなので、不便になります。

有隣堂本店に関しては最近、前と違って品揃えが悪くなったなと思っていたら、案の定、来月、文具館の売場が本店の書籍売場に移動するのだそうです。やはりこの不景気の影響なのかなと思いますが、もうひとつは、伊勢佐木町という立地がネックになりつつあるのかもしれません。イセザキモールを歩いている人達を見ても、とても書店が成り立つような土地柄でなくなったのは事実です。ブックオフにしても、マンガとゲームソフトでもっている感じです。

地元の人に話を聞くと、昔は”銀ブラ”ならぬ”伊勢ブラ”という言葉もあったそうで、親に連れられて伊勢佐木町に買物に行くのが何よりの楽しみだったとか。それを思えば、松坂屋(旧野澤屋)が閉店した現在、当時の名残をとどめているのは有隣堂だけになったと言えなくもありません。

追記:
その後、有隣堂書店は独自で「在庫検索」を設置しました。下記のページで検索が可能です。

http://book.yurindo.co.jp/
2009.07.28 Tue l 横浜 l top ▲
マイカル本牧1

マイカル本牧へ10数年ぶりに行ってみました。かつて私は仕事だけでなくプライベートでもデートで行ったこともあるし、何よりマイカル本牧のベンチで当時つき合っていた彼女に別れの手紙を書いた苦い思い出もあります。しかし、今のマイカル本牧にデートで出かけるカップルなんていないでしょう。

メイン道路の角に閉鎖されたまま醜態を晒している5番館の建物がなんだかこの間のマイカルの歩みを物語っているようでした。かつてはスペインだったかの港町をイメージした業界では画期的なショッピングセンターでしたが、今は見る影もありません。

昔のイメージがあったので、どこがマイカル本牧なのか、さっぱりわからず最初は戸惑いました。犬を散歩しているご婦人に「マイカル本牧ってどこですか?」と聞いたくらいです。それもそのはずで、ウィキペディアによれば、当時は1~12番館まで建物があったそうですが、現在残っているのは、サティと横浜銀行が入る3番館とマイカルシネマズ(MOVIX本牧)が入る6番館だけで、残りは既に閉鎖されたり解体されたりしているそうです。もちろん、彼女に別れの手紙を書いたベンチなど跡形もありません。

マイカル本牧2

ただ、周辺は人どおりも多く、住宅街としてそれなりに活気がありました。交通手段がバスだけという不便さはあるものの、なにせ1980年代まで米軍に接収されていた土地ですので、横浜ではめずらしい平らな土地で、住宅地としてはめぐまれた環境にあり、マイカル本牧の凋落を尻目に宅地開発は順調にすすめられたようです。ただ、道路沿いの建物に「テナント募集中」の看板がやたら多かったのが気になりました。

メイン道路沿いはマンションが目立ちますが、一歩中に入ると瀟洒な一戸建ての住宅が立ち並ぶ住宅街もありました。それにしても、ウィキペディアではないですが、ニュータウンの中に屹立する廃墟というのはまさにシュールな光景です。

マイカル本牧3

マイカル本牧4

帰りは山手トンネルを越えて元町まで歩きましたが、途中の本牧の商店街も昔ながらのいい味は出しているものの、やはりシャッターが下りた店舗が目立ちました。

そもそもみなとみらい線を本牧まで伸ばす計画があったにもかかわらず、地元商店街の反対でとん挫したのだそうで、それを考えれば今日の廃れた光景は自業自得と言えなくもありません。余談ですが、横浜というのは、こういった住民エゴの影をいろんなところで見ることができます。かつての飛鳥田市政・長洲県政の負の遺産だという声もありますが、横浜市は依然として”役人天国”の側面がありますので、住民エゴをタテに事なかれ主義が蔓延している気がしてなりません。

マイカル本牧ができたとき、文字通り業界では衝撃をもって受け止められましたが、今考えれば、「大丈夫なの?」という冷静な声は皆無でした。みんな「すごい」「すごい」と言っていたのです。これもバブルのなせる業だったのかもしれません。

そう言えば、当時、私も会社から専用のクレジットカードをもたされ、給料とは別に月に30万円まで自由に使っていいとお墨付きをもらっていましたし、営業車もベンツをあてがわれ、月に9万円の駐車場(車1台分が9万円!)を借りていました。「いい時代」と言うより、どう考えても「おかしな時代」だったのです。マイカル本牧の今日の無残な姿も「おかしな時代」のなれの果てと言うべきかもしれません。みんな狂っていたのです。
2009.07.03 Fri l 横浜 l top ▲
もしこのまま横浜に住みつづけるとしたら、次に住んでみたい街は根岸です。根岸の駅前は東横線沿線のようにゴチャゴチャしてなくて舗道も広いし、住んでいる人のレベルも比較的高そうです。と、こんな言い方は嫌味に聞こえるかもしれませんが、横浜の場合、こういったことは案外重要です。

横浜は常に「住みたい街」の上位に位置して、「オシャレな街」だとかいったイメージがありますが、実際は”東京型市民”と言われる「エリートサラリーマン」や「あざみネーゼ」や「山手のお嬢様」(半分は”横浜型市民”ですが)がいる一方で、”横浜型市民”の典型である「おっちゃん労働者」や「古典的なヤンキー」なども多く、いろんな階層の人間が混在するバラエティ豊かな街なのです(マイクロマガジン社『これでいいのか横浜市』)。地域にもよりますが、決してガラがいいとは言い難いし、車や電車のマナーもよくありません。「オシャレな街」には似つかわしくないJRAの場外馬券場が多いのもゆえなきことではないのです。

そのため、横浜には「どこに住むか?」「どこに住んでいるか?」といった土地のヒエラルキーみたいなものが隠然と存在します。また、黒澤映画の「天国と地獄」が象徴的ですが、平坦な土地が少なくて坂が多いため、どうしても坂の上と下という明確な区分け(棲み分け)がしやすいという側面もあるように思います。五木寛之も沢田研二も萩原健一も北原照久もみんな丘の上に住んでいます。かつての”歌う不動産王”千昌夫も山手の丘の上に住んでいたそうです。もちろん、成功した華僑達も丘の上に住んでいます。成り上がったら丘の上へというのが横浜のパターンなのです。

根岸1

横浜にはいくつかの「高級住宅地」と呼ばれる丘の上の土地がありますが、根岸の根岸旭台や根岸台もそのひとつでしょう。そして、その丘はかの最強の高級住宅地である山手の丘へとつながっているのです。根岸の駅前に立ったら、誰しも「あの丘の上に住みたい」とあこがれの眼差しで緑におおわれた丘の上を見上げるのではないでしょうか。

ドルフィン」の前を通り丘の上にのぼると、やたらヒルトップやヒルサイドという名称が付けられた低層のマンションが建っており、なんだか威厳さえ覚えるような高級感を漂わせています。坂をのぼりきったところには、”FIRE STATION”と赤い文字で書かれた米軍の消防署があり、サンディライオンのシールでおなじみのややレトロな消防車がずらりと並んでいました。もともとこのあたり一帯は米軍に接収されていたそうで、今でも消防署の先は贅沢なスペースの中に米軍住宅が広がっています。隣接する根岸森林公園ではフィリピン人のメイドさんがベビーカーに乗った金髪の子供を散歩させていましたが、如何にも昔のユーミンが好みそうな光景ですね。

根岸2

根岸森林公園は、日本で初めての西洋式の競馬場の跡で、米軍に接収されていたときはゴルフ場だったとか。この公園があるだけでも根岸の丘は高級住宅地の要素を充分かなえている気がします。ウーン、こんなところに階級社会が残っていたのか、そんなオーバーなことさえ考えさせられました。そう言えば、某中央官庁の職員住宅もしっかり建っていましたが、なんだか官尊民卑を象徴するような光景だと思いました。

しかし、丘の上を貫く車道から脇に入ると、光景が一変します。まるで斜面にへばりつくように庶民的な家が密集しており、ケモノ道のような細い道が家々の間をぬうように蛇行しています。そんな坂道を適当に下ったら、山手トンネルの先に出ました。そして、山手トンネルをぬけて元町から中華街を通って帰ったのですが、金融危機の影響なのか、元町の通りにもシャッターの下りた店がいくつかありました。

>>ユーミンを聴く
2009.06.24 Wed l 横浜 l top ▲
東芝太尾アパート1

以前、「東芝太尾アパート」のキーワードでアクセスしてきた方がいらっしゃいました。どうしてこのキーワードでヒットしたのか不思議ですが、大倉山から菊名に向かう途中の裏道にこの東芝太尾アパート(正確には”東芝太尾家族アパート”)があります。

ところが、先日、前を通ったら、既に建物は無人と化し入口が板で封鎖されていました。以前、山本哲士さんが、ご自身のブログ「ホスピタリティの場所」で「日常にしみこむ金融危機の波及」と題して、「スイスもついにおつりをごまかしはじめた」話を書いていましたが、このアパートの封鎖もやはり金融危機と関係があるのでしょうか。

東芝太尾アパート2

実際に住んでいる人間から言えば、その理由がいまひとつわかりませんが、住宅地として人気のある大倉山には昔は社宅も多くあったようです。友達の話では、全日空の女子寮があったのだそうで、ウソかホントか「よく車で迎えに行ったよ」と言ってました。また、別の知人も、以前勤めていた中央官庁の外郭団体の職員住宅があったとかでなつかしそうに話していました。東芝の社宅もそのなごりだったのかもしれません。

駅近辺は昔からの細い路地が縦横に走っており、人気の住宅地(!?)にあるまじき歩行者と自転車のトラブルが絶えませんが、その中に古い木造のアパートが建っている一角がありました。駅から数分の場所にもかかわらず、まるでそこだけは時代から取り残されたようにノスタルジックな雰囲気を漂わせていました。ところが、そのアパートもいつの間にか取り壊されて更地になっていました。あのアパートには何人かのひとり暮らしのお年寄りが住んでいたはずですが、皆さんどうしたのでしょうか。
2009.06.15 Mon l 横浜 l top ▲