昨日、田舎の高校の同級生から電話がありました。先月、お父さんが亡くなったということでした。

具合が急変し救急車を呼んで病院に運んだことや、病院で延命処置について担当医から説明を受けたことや、息を引き取ったあと病院から斎場の安置所まで運んだことなどを淡々と話していました。

救急車で運ばれた病院は、私の叔父が運ばれた病院と同じでした。叔父もまた、その病院で息を引き取ったのでした。

二月に帰省した折、彼と喫茶店に入ったのですが、その喫茶店の前が家族葬専門の斎場でした。と言っても、外から見ても葬儀場とわからないような、普通の集会所のような建物です。

喫茶店の窓から斎場の様子を見ながら、彼は、何人かの同級生の名前を上げて、何々のお父さんや何々のお母さんの葬儀がここでおこなわれたんだぞと言っていました。

私も彼のお父さんには何度も会っています。彼とは大学受験の際、一緒に上京したのですが、お父さんも駅まで見送りに来ていました。中学校の先生をしていましたが、私たちにとってはちょっと怖い存在でした。

あの頃は、親たちもみんな若かったのです。受験の下見のために、彼と二人でお茶の水の通りを歩いていたら、偶然、やはり受験で上京していた高校の同級生に会ったことがありました。同級生は、付き添いのお父さんと一緒でした。聞けば、その同級生のお父さんも既に亡くなっているそうです。

彼の話を聞いていたら、たまらず田舎に帰りたくなりました。二月に帰ったときも、「お前が高校のときに下宿していた旅館があったろう? あの××旅館が取り壊されて更地になっているぞ」と言って、車で連れて行ってくれたのですが、もう一度、なつかしい場所を訪ねて歩きたいと思いました。

学校から帰る途中、坂の上から見た海の風景。家と家の間を、陽炎に包まれた船が、まるでスローモーションのようにゆっくりと横切って行くのでした。年を取ってくると、生きるよすがとなるのは、そういった記憶なのです。

東日本大震災のときも紹介しましたが、『「かなしみ」の哲学 日本精神史の源をさぐる』(NHKブックス)の著者・竹内静一氏は、死の別れについて、次のように書いていました。

 柳田邦男は、物語を語れ、一人ひとりの物語を創れ、ということを提唱している。とりわけ死という事態を前にしたとき、それまでの人生でバラバラであった出来事を一つのストーリーにまとめて物語にし、「ああ、自分の人生ってこういう人生だった」と思いえたとき、人は、みずからの死を受け入れやすくなるのだというのである。


 「弔う」とは、もともと「問う」ことであり、「訪う」ことである。死者を訪問して、死者の思いを問うことである。さきの柳田邦男の言葉でいえば、死者の「物語」を聴きとめることである。そのようにして死者の「物語」を完結させることが、同時に、こちら側の「悲哀の仕事」をも完遂させていくことになるということであろう。


竹内氏は、「悲哀の仕事」について、「対象喪失をめぐる自然な心のプロセスの完成」という言い方をしていました。「死んでいく者と遺された者は、たがいの『悲しみ』の中で、はじめて死というものに出会う」のです。故人を忍び悲しみに涙することは、遺された人間にとっても、精神的にも大事なことなのでしょう。その意味でも、世事に煩わされず「身内だけで見送る」家族葬や直葬が多くなっているのは、とてもいいことだと思いました。
2018.06.09 Sat l 訃報・死 l top ▲
最近、体調がよくないということもあって、私も、自分の死について考えることが多くなりました。

先日、椅子から立ち上がったら、まっすぐに歩けないほどフラフラするのでした。洗面所に行こうと廊下を歩くのに、千鳥足のようになり左右の壁に身体がぶつかるのでした。さらに歯を磨こうとコップを手にしたら、うまく持つことができず、コップを床に落とす始末です。

私は、すかさず目の前の鏡に映っている自分の顔を見ました。しかし、表情に歪みはありません。また、両手を肩まで持ち上げて左右に広げました。しかし、片一方が下がるということもありません。自分の名前と住所を口に出してみましたが、別に呂律がまわらないということもありません。

私は、ふらつく足で居室に戻り、ベットに仰向けになりました。すると、徐々に頭のほうから逆さまに落ちていくような感覚に襲われました。遊園地に行くと、横一列に座って後ろ向きに回転するアトラクションがありますが、あんな感じです。私は、ボーッとした(それでいてどこか快感でもあるような)意識のなかで、「このまま死ねたらいいなあ」と思いました。このまま意識が遠のいて死ねたら最高だなあと。

ところが、しばらく経つと、意識が遠のくどころか、逆に覚醒して落ち着いてきました。そして、結局、何事もなかったかのように気分はもとに戻ったのでした。

自分の死を考えるなかで、有賀さつきの「孤独死」のニュースは、少なからずショックでした。以来、西部邁氏の「自裁死」と有賀さつきの「孤独死」について、ずっと考えています。

二人には、余人が入り込めない覚悟があったのです。「自裁死」はとても無理ですが、有賀さつきの「孤独死」だったら私もできそうな気がします。

家族がいながら、病名を伏せ、臨終に立ち会うことも拒否するというのは相当な覚悟ですが、私の場合、家族がいませんので、そこまで覚悟を背負う必要もないのです。

このブログでも再三書いていますが、私は孤独に生き孤独に死ぬ人生を選択していますので、あとは具体的に死の過程に覚悟を持てばいいだけの話です。

有賀さつきは、死を悟り、入院する前に銀行口座なども解約していたそうで、父親が言うとおり「すごい精神力」だな思います。

鈴木いづみは、「老衰したい。ジタバタみぐるしくあばれて『死にたくない』とわめきつつ死にたい」と言っていたにもかかわらず、36歳で(しかも、娘の目の前で)自死したのですが、それもまたみずからの死に対して覚悟することを選んだと言えるのかもしれません。

前に、自分の死について心配事はなにかという葬儀会社のアンケートがネットに出ていましたが、お金がないとかお墓がないとか残される家族が心配とかいった回答に混ざって、「看取ってくれる人がいない」という回答がありました。それも10%近くの人がそう回答していました。

「孤独死」は、他人事ではないのです。有賀さつきと違って、(私もそうですが)最初から独り身の人間も多いのです。誰にも看取られずに死ぬというのは、もう特別なことではないのです。

いつもの朝が来て、いつもの一日がはじまる。そんな日常のなかで誰にも知られることなく息を引き取る。それは願ってもない死に方です。そう死ねたらいいなあと思います。


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ある女性の死
『101年目の孤独』
2018.02.06 Tue l 訃報・死 l top ▲
松方弘樹の死に対しての梅宮辰夫のコメントに胸がしめつけられるような気持になりました。老いて先に逝く友人を見送る(見送らなければならない)悲しみがよく出ているように思いました。

Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
梅宮辰夫、盟友松方さんの死に「寂しいし、悲しい」

松方弘樹が脳リンパ腫で入院したのは、昨年の3月だそうですから、約10か月間の闘病生活を送ったことになります。その間、定期的に見舞いに行っていた梅宮辰夫が話す闘病の様子は、老いの哀しみやせつなさがしみじみと伝わってきます。それにしても、死に行く人たちというのは、どうしてみんな立派なんだろうと思います。「病と戦う」とか「死と戦う」という言い方がありますが、「戦う」姿は立派なのです。

ごく身内の人間だけで見送られる最期。これも“家族葬”や“直葬“が主流になりつつある現在ではよくある光景でしょう。そのなかに親しくしていた友人がいたら、どんなにうれしいでしょう。

人生の最期は、やはり悲しみで幕を閉じるのです。人間は、泣きながら生まれてきて、泣きながら死んでいくのです。悲しみを悲しみとしてとらえる、人生に対する謙虚な考えがなにより大事なのだと思います。

先日、同年代の知り合いと話をしていたら、親の話になりました。正月に父親が倒れて救急車で大学病院に運ばれたそうですが、近いうちにリハビリを受けるために転院しなければならないけど、リハビリの病院も、いわゆる“90日ルール”で短期しか入院できないので、そのあとどうするか、頭を悩ましていると言ってました。

お母さんが数年前に亡くなったことは知っていましたが、お母さんが亡くなったあと、お父さんは実家でひとり暮らしをしていたのだそうです。しかも、奥さんの実家も老々介護の両親が二人で暮らしており、そのため、夫婦の間で、お互いの親について干渉しないという取り決めになっているのだとか。

亡くなったお母さんは末期がんだったそうで、最後のほうは認知もはじまり、実家に行っても「何しに来たんだ」「帰れ」などと言われてつらかったと言ってました。当時は、そんな様子は微塵も見せずに、いつも冗談を言って明るく振舞っていましたので、その話を聞いてびっくりしました。

親の姿は、明日の自分の姿でもあります。病院に勤め多くの患者を見てきた知人は、親孝行な子ども(特にひとり娘)ほど過剰な負担を抱え苦労すると言ってました。そのために共倒れしたら元も子もないので、ある程度の“親不孝“は仕方ないのではないかと言うのです。私がその話をしたら、やはり子どもが娘ひとりしかいない彼は、「だから、老後は世界を放浪して旅先で死ぬのが理想だよ」と言ってました。趣味が音楽なので、路上演奏で旅費を稼ぎながら世界を放浪してそのまま死ぬのが理想なのだと。

私は、その話を聞いて、五木寛之が書いていた「林住期」という古代インドの考えを思い出しました。彼の理想には、単に荒唐無稽とは言えない、彼なりの人生に対する考えがあるように思いました。
2017.01.26 Thu l 訃報・死 l top ▲
先日、ある女性が亡くなりました。私は、仕事で一度しか会ったことがなく、名前さえ忘れていたのですが、小林麻央と同じ乳がんだったそうです。まだ40代半ばの若さでした。

自治体のがん検診で異常が見つかったとき、既にがんはリンパ腺を通って骨に転移していたそうです。

詳しい事情はわかりませんが、彼女は身寄りもない孤独の身でした。若い頃結婚していたとかいう話もありますが、近い親戚もいないそうです。それでも、東京の片隅で、小さな会社の事務員をしながら懸命に生きてきたのです。

手の施しようもない末期のガン。自宅療養するにしても、ひとり暮らしのアパートでは充分なケアができません。仕事を辞めれば収入もなくなります。それで、受診した病院のはたらきかけで、医療扶助を受けて、入院して緩和治療を受けることになったそうです。そして、数か月後、誰に看取られることなく、息を引き取ったのでした。

残された荷物は、身の回りのものが入ったバッグと紙袋がひとつだけだったそうです。紙袋のなかにはパンプスが入っていました。入院の日、彼女はめいっぱいオシャレをして、二度と戻ることはないアパートをあとに病院に向かったのでしょうか。また、バッグのなかには手帳型のケースに入れられたiPhoneも入っていたそうです。

初めてiPhoneを買ったとき、心を弾ませながら夜遅くまでアプリを入れたりしていたのかもしれません。会社の行き帰りも、iPhoneでどうでもいい芸能ニュースをチェックしていたのかもしれません。彼女は、そこらにいる人たちと同じように、普通に喜怒哀楽のなかを生きてきたのでしょう。孤独のなかにあっても、おしゃれをしてネットで情報を得て、ささやかな希望を糧に、懸命に生きてきたのでしょう。

私は、彼女の死を聞いたとき、無性にやりきれない気持になりました。小林麻央と比べて、(末期がんの苦しみは同じかもしれませんが)その境遇はなんと違うんだろうと思いました。

彼女だって、もっとおしゃれをして、もっと恋愛をして、もっと夢を見たかったに違いないのです。もっと笑って、もっと怒って、もっと泣きたかったに違いないのです。

がんを告知された日、ひとり暮らしのアパートの部屋に戻った彼女は、どうやって夜を過ごしたのだろうと思いました。泣きながら朝を迎えたのでしょうか。また、バッグを手にひとりで病院に向かっていたとき、どんな気持だったのだろうと思いました。車窓から見える東京の風景は、彼女の目にどのように映っていたのでしょうか。

夜明け前、彼女の亡骸は病院の裏口から看護師に見送られ、業者の手によって運ばれて行ったそうです。そして、数日後、立ち会う人もなくひっそりと荼毘に付されたのでした。遺骨は無縁仏として合祀されるそうです。

孤独に生き、孤独に死を迎える。これは他人事ではありません。「わてらひとり者(もん)は孤独死の予備軍でっせ」と明石家さんまが言ってましたが、それは私も同じです。明石家さんまが死んだら大きなニュースになるでしょうが、私たちの死は、誰の記憶に残ることもないのです。孤独に生き、孤独に死を迎えるというのは、その覚悟をもつということなのです。


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「福祉」の現場
2016.11.27 Sun l 訃報・死 l top ▲
雨宮まみが急逝したというニュースにはびっくりしました。大和書房のサイトによれば、15日の朝、心肺停止の状態で床に倒れているところを警察に発見されたそうです。17日に近親者のみでお別れ会がおこなわれると書いていましたので、もうお別れ会も終わり、遺骨は東京を離れ故郷の福岡に帰ったのでしょう。

今日の朝、久しぶりに通勤時間帯の東横線に乗って渋谷に行ったのですが、車内で通勤客にもまれながら、ふと、ワニブックスのサイトに掲載されていた雨宮まみと栗原康の対談を思い出しました。そして、スマホを取り出して、その対談を読み返したのでした。

WANI BOOKOUT
雨宮まみさん+栗原康さん対談「はたらかないで、素敵な暮らし!?」【前編】
「結婚を意識した途端、恋愛がうまくいかなくなるのはなぜ?」雨宮まみさん+栗原康さん対談【後編】

雨宮 ちゃんとした大人として生活していくということは人間性を失っていくということとほとんど同じなんじゃないのか、なんでみんな我慢して暮らしていかなければならないのか、というのが栗原さんの考えていることで。たとえば、いま私たちはフリーの立場だから満員電車って乗らなくていいじゃないですか。満員電車に乗らなくていいということを私はうれしく思っているんですけど、そのことをSNSで言えないんですよ。私は書けない。

それを書いたことによって、「へ~いいなーお気楽で。だったらお前ちゃんとした社会人として扱われなくてもしょうがないよ。辛い思いしていないんだから」と言われるのが怖くて仕方なくて。この前仕事でAV女優さんにインタビューしていて、「この仕事してて良かったことってあります?」と聞いたら、「満員電車乗らなくて良いことですかね~」って言われて。「だよね~!」ってなりました。

栗原 ですよね~!

雨宮 みんな乗らないほうがいいと思っているはずなんですけど、なかなかそういう方向にはいかないじゃないですか。ずっといかないということは、もうそういうことなんだろう。しょうがないことなんだろうなって思うし、なんとなく自分の中でそこに逆らう気力がはぎとられていってたんですけど、それを鼓舞するような力が栗原さんの文章にはあって。別にいいじゃん、乗らない方向に努力したほうがみんな幸せになるのに。って。やっぱり満員電車の中で人間的な優しさを保つのって無理じゃないですか。


この「満員電車に乗らなくていい」幸せは、もう20年以上フリーで生活している私にも、非常によくわかる話です。もちろん、その幸せは世俗的な”幸せ”とは別です。

一方で、人間はみんな、そうやって我慢してがんばっているんだ、それが生きるということなんだ、そうやってささやかでつつましやかな人生の幸せを掴むことができるんだ、そんな声が聞こえてきそうです。

サリーマンやOLがそんなに偉いのか、なんて口が裂けても言えないのです。サラリーマンやOLになって社会に適応することは、セコい人間になってセコく生きることではないか、なんて言えるわけがないのです。

まるで電車の座席に座ることが人生の目的のような人たち。電車が来てもいないのに、急かされるように、ホームに向かう下りのエスカレーターを駆け足で降りていくサラリーマンやOLたち。条件反射のようにそんな日常をくり返す人生。

「人間的な優しさを保つのって無理」なのは満員電車のなかだけではありません。この社会そのものがそうです。私たちは、そんな生き方の規範を常に強いられているのです。

その時間は、だいたい夜にやってくる。涙が止まらなくなったり、虚無感や疲労感に襲われているのに寝付けなかったりする。一人暮らしが長ければ、こういうときの対処も、それなりに慣れた。とりあえず朝が来れば楽になることはわかっているのだから、睡眠薬に頼るときもあるし、それでもだめなときは、多少気力があれば録画しておいた映画を観たり、本を読んだりする。こういうときのために「何度読んでも勇気づけられる本」が何冊か置いてある。
単純作業に没頭するのもいい。細かい拭き掃除をするとか、服を全部出してたたみなおしたり、アイロンがけしたり。手を動かしている間は、考えに集中できない。裁縫や小物の整理なんかもいいし、靴などの革製品の手入れもいい。
でも、ほとんどの場合、動く気力もなく、自分を励ますことも思いつかない。ただ、苦しい夜をじっと過ごすだけになることが多い。それでもそういうときに少しでも楽になるヒントとして、知っておいてほしいのだ。苦しい夜に、苦しさを味わえば味わうほど解決に近づけるということは、ない。その苦しさを味わっていいことなんかない。一歩間違えば死んでしまう。だから、どんなにくだらないと思っても、そんなことに効果はないと思ってもいいから、やってみてほしいと思うのだ。
何かをしている間だけ、私たちは死の方向に引っ張られるのを止めることができる。

モモイエ女子web
理想の部屋まで何マイル?
孤独に襲われるとき


でも、この文章が掲載されていたのは、三井不動産レジデンシャルが運営する、独身女性をターゲットにしたサイトです。サイトでは、マンション購入で手にすることができる「できる女」のイメージと「素敵な生活」の幻想がこれでもかと言わんばかりにふりまかれているのでした。資本の論理はどこまでも私たちを追いかけてくるのです。「満員電車に乗らなくていい」ことがどんなに幸せかなんて、とても言えるわけがないのです。雨宮まみは、女性性に対してだけでなく、この社会に生きることそのものをこじらせていたのではないか。

栗原康ではないですが、吐き気を催すのは、電車のなかのセコい光景だけではありません。そんなセコい光景を真摯な生き方だと言い換えるこの社会のイデオロギーが吐き気を催すのです。そうやって人間を馴致していく社会(フーコーの言う規律訓練型権力)が吐き気を催すのです。そして、私のなかには、雨宮まみの死に対しても、「死にたいやつは死なしておけ」とは言えない自分がいるのでした。


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2016.11.19 Sat l 訃報・死 l top ▲
昨日、作家の野坂昭如氏が亡くなったというニュースがありました。野坂昭如氏は、私たちより上の世代にとって、五木寛之氏と人気を二分をした文壇のスタア(!)でした。当時の若者たちにとって、それくらい娯楽小説は文化的に大きな存在だったのです。

私たちより上の世代は、経済的な理由で上の学校に行ってない人も多いのですが、しかし、文字を読む習慣を身につけている人が多くいました。当時は、そんな文字の文化がリスペクトされる時代(教養の時代)でもあったのです。

もう20年以上も前の話ですが、末期ガンにおかされたガールフレンドのお父さんを入院している病院に見舞ったことがありました。お父さんは貧しい母子家庭に育ち、中学を出ると横浜の中華街で修業してコックとしての腕を磨き、やがて自分の店をもった苦労人でした。

ガールフレンドは、お父さんはろくに学校にも行ってないのに、私なんかより漢字を知っているのでびっくりすると言ってました。昔の人は、学校に行ってなくても、そうやって自分で漢字を覚え本を読む楽しみを見つけていたのです。最近の若者は、スマホで検索するときも、文字ではなく画像や動画で検索するのが主流だそうですが、そんな”痴的”なネット文化からは考えられない時代がかつてあったのです。

病室に行くと、ベットの脇のテーブルの上に、『オール読物』と文庫本が何冊か置かれていました。私が、「作家は誰が好きですか?」と訊いたら、「最近じゃ、野坂昭如だな」「あいつの文章が好きや。夫婦善哉の織田作之助に似ているやろ」と言ってました。

野坂昭如氏は、世間からは“焼け跡闇市派“と呼ばれ、終戦直後、餓死した幼い妹の亡き骸を抱え、焼け野原に立ち尽くした戦災孤児の自分が原点だと常々言っていました。参院選に出馬したときのスローガンは、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」というものでした。

それに対して、五木寛之氏は、みずからの引き揚げ体験から「二度と飢えた親の顔を見たくない」と言ってました。食べ物がないとき、自分が食べなくても子どもに食べさせるというのは平時の発想で、極限状況になると、親は子どもの食べ物を横取りしてでも生き残ろうとするものだそうです。中国残留孤児も、終戦の混乱ではぐれたということになっていますが、多くは置き去りにされたり売られたりしたのだと言われています。

折しも今、私は、韓国の検察当局から訴追された朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)を読んでいるのですが、中学1年のときピョンヤンで終戦を迎えた五木寛之氏は、引揚げの際、みずからが体験したつぎのようなエピソードをエッセイに書いていました。

数十人の日本人グループでトラックを買収して、深夜、南下している途中、ソ連軍の検問にひっかかり、お金を出せ、お金がなければ女を出せと言われたそうです。それも三人出せと。すると、グループのリーダーたちが相談して、三人の女性が指名されたのでした。

 指名された三人は全員の視線に追いつめられたように、トラックの荷台の隅に身をよせあって、顔をひきつらせていた。
「みんなのためだ。たのむよ」
 と、リーダー格の男が頭をさげて言う。言葉はていねいだが、いやなら力ずくでも突きだすぞ、といった感じの威圧的な口調だった。
 しばらく沈黙が続いたあと、その一人が、黙ってたちあがった。あとの二人も、それに続いた。
 運転手に連れられて三人の女性たちはトラックを降りて姿を消した。車内のみんなは黙っていたが、ひとりの男が誰にともなく言った。
「あの女たちは、水商売の連中だからな」
 一時間ほどして三人がボロボロのようになって帰ってくると、みんなは彼女たちをさけるようにして片隅をあけた。
「ソ連兵に悪い病気をうつされているかもしれんから、そばに寄るなよ」
 と、さっきの男が小声で家族にささやいた。やがてトラックが走りだした。
 私たちは、そんなふうにして帰国した。同じ日本人だから、などという言葉を私は信じない。

『みみずくの夜メール』(幻冬舎文庫)


慰安婦問題が典型ですが、そういった赤裸々な体験について、みんな口を噤んで「戦後」を仮構してきたのです。五木寛之氏は、戦後の私たちはそういった犠牲の上に成り立っている、常にそんな後ろめたさのなかにいる、というようなことを書いていましたが、野坂昭如氏にとって、その犠牲や後ろめたさに象徴されるのが、餓死した幼い妹なのでしょう。

野坂昭如氏は享年85歳でした。五木寛之氏は83歳です。子どもの頃戦争を体験した世代も、既に80を越え鬼籍に入る時代になったのです。そして今、「戦争を知らない」世代が再び戦争を煽っているのです。

野坂氏も五木氏もともに、早稲田を「横に出た」あと、黎明期のマスコミの周辺で、放送作家や作詞家やコピーライターなどをやって糊口を凌いでいました。彼らは、わずか10数年前の餓死した幼い妹や過酷な引揚体験の記憶を抱えて、東京で”マスコミ無頼”のような生活を送っていたのです。そして、小説家として華々しくデビューして、文字の文化の時代のスタアになったのでした。

成田空港反対運動のシンボル的存在でもあった反対同盟委員長の戸村一作氏が、「革命の斥候を国会へ!」というスローガンを掲げて参院選の全国区に出馬したとき、東京地方区で出馬していたのが野坂昭如氏でした。高田馬場の予備校に入るために上京したばかりの私は、新宿の駅頭で、二人が揃って演説しているのを見ていました。すぐ傍では、新左翼系の学生が民青の学生と殴り合いをしていました。私の周辺では、「どうして野坂なの」とみんな嘲笑していました。そのときも野坂氏は、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」と言っていました。

私は、野坂昭如氏と言えば、あのとき、アルタのネオンサインをバックに、選挙カーの上で、演説のあとに「黒の舟歌」を唄っていた姿をなぜか真っ先に思い出すのです。

野坂氏について、世間では無頼派のようなイメージがありましたが、しかし、私のなかでは、みずから進んでピエロ役を引き受けたような、そんなイメージがありました。


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2015.12.11 Fri l 訃報・死 l top ▲
一昨日、女優の原節子が9月に亡くなっていたというニュースがありました。もちろん、私は、原節子は小津映画でしか知りません。私たちにとって、原節子は最初から”過去の人”でしたので、亡くなったというニュースを聞いて少なからず驚きました。95歳だったそうです。

原節子は、42歳で女優を引退し、以後、マスコミといっさい接触を断って、鎌倉の浄妙寺の近くで、甥夫婦と暮らしていたそうです。今回公表が遅れたのも故人の意志だったとか。そんなみずからの美学を貫いた生き方があの”原節子伝説”を創ったと言えるでしょう。

また、先週は、NHKスペシャルで、「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」というドキュメンタリーをやっていました。93歳になった瀬戸内寂聴の日常を追ったドキュメンタリーでしたが、番組を見ているうちに、いつの間にか瀬戸内寂聴に母の面影を重ねている自分がいました。

年齢も1歳違いということもありますが、瀬戸内寂聴を見ていると、(縁起でもないと言われるかもしれませんが)病院のベットに寝ていた死の間際の母の顔がオーバーラップしてくるのでした。

老いの現実。それは、やがて私たちにも容赦なくやってくるのです。黄昏を生きるというのは、なんとせつなくてなんと物悲しいものなんだろうと思います。

私は、認知症は”死の苦悩”から解放してくれる神様からの贈り物だと思っていますので、まわりには迷惑をかけるかもしれませんが、認知症になって死ねたらいいなと思っています。

母は認知症になることもなく、末期ガンが発見されるまで一人暮らしをしていました。ドクターは、「認知症を患うこともなく、ずっと自分のことを自分でやってきたお母さんは幸せな老後だったと思いますよ」と言ってましたが、私はホントにそうだろうかと思いました。

不肖の息子は、月に一度電話で話をするくらいでしたが、母はいつも「もういつ死んでもいいと思っちょるけど、なかなか死なせてくれないんよ」と言っていました。私も母と同じくらいの年齢まで生きたら、やはり同じようなことを思うのかもしれません。そうやって”死の苦悩”を抱いて残りの日々をすごすくらいなら、認知症になったほうが余程いいと思うのです。

私は、今、民俗学者の六車由実氏が書いた『介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語』(新潮社)という本を読んでいます。六車氏は、大学教員から介護ヘルパーに転職し、さらにグループホームの施設責任者になった方ですが、この本は、民俗学の手法を使ってホームのお年寄りに「聞き書き」したものです。

柳田国男は、ひとりひとりが「物語を語れ」「物語を創れ」と言ったのですが、「すまいるほーむ」の物語のなんと豊穣で感動的なことか。「聞き書き」のなかから、ひとりひとりのお年寄りの人生の物語が光芒を伴って浮かび上がってくるのでした。昔、生きるってすばらしいという歌がありましたが、「聞き書き」を読んでいるとホントにそう思えるのです。そして、みんな、そうやって自分の物語を抱いて旅立って行くのだなとしみじみ思うのでした。


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2015.11.27 Fri l 訃報・死 l top ▲
縁の切り方


親の死は、ボディブローのように徐々に効いてくるものです。母が亡くなったとき、友人から「今はそうでもないかもしれないけど、時間が経つと徐々にさみしくなってくるぞ」と言われたのですが、たしかにそのとおりで、生前は親不幸でめったに会うことがなかったにもかかわらず、親がいるのといないのとでは気持の上で全然違います。物理的な意味だけでなく、精神的な意味においても、もう帰る場所がなくなったという感じです。みなしごハッチではないけれど、文字通り天涯孤独になった感じです。

中川淳一郎氏は、『縁の切り方』(小学館新書)で、「かけがえのない人」との死別について書いていましたが、「かけがえのない人」との死別こそ、ある意味で究極の「縁の切り方」と言えるのかもしれません。

中川氏は、同書のなかで、人間関係に「諦念」を抱くに至ったきっかけとして、思春期のアメリカ生活と最愛の人の死をあげていました。

一緒に暮らしていた婚約者が、ある日、「お友達に会うの」と言って出掛けたまま戻って来なくて、3日後、家の近くの大学のキャンパスのなかにある朽ちた小屋で、首を吊っているのをみずから発見したのだそうです。これほど深い「孤独」と「諦観」をもたらす衝撃的な体験はないでしょう。

中川氏ほど衝撃的ではありませんが、私にも似たような体験があり、そのとき私は、「もう結婚することはないだろうな」と思いました。それから何度か、渋谷の雑踏や山手線の車内などで、「かけがえのない人」の幻影を見ました。

 この経験から分かったことは、「大事な人間はあまりいない」ということである。一人のとんでもなく大事な人がいなくなることに比べ、それ以外の人がいなくなることは大して悲しくもないのだ。それは同時に、一番大事な人は徹底的に今、大事にしてあげなさい、ということを意味する。


たしかに、「諦念」を抱くほど心の傷になるような「大事な人」なんてそんなにいるものではないのです。

一方で、この年になると、「みんな、死んでいく」のだということをしみじみ感じます。そして、やがて自分も死んでいく。

帰省した際も姉や妹たちから、幼馴染の誰々が死んだというような話を聞きました。隣の家のAちゃんも野球部で一緒だったBちゃんも、坂東三津五郎さんと同じように、若くしてガンで亡くなったということでした。私よりひとつ年上だった菩提寺の三代目の住職も、病気で亡くなっていました。また、私のことを「麻呂さん」と呼んでいた行きつけの喫茶店の女の子も、心臓病で亡くなっていました。

このブログにも書いていますが、病院に入院しているときも、顔見知りの患者の死を何度も見てきました。多感な時期でしたので、そのときの情景は今でも心のなかに残っています。

私たちは、このように多くの死に囲まれて生きているのです。その死ひとつひとつに「大事な人」が存在するはずなのです。「福祉専門」の病院で、段ボール箱ひとつだけ残して、誰にも看取られずにひとりさみしく死んでいく老人だって、「大事な人」がいたはずです。

いくら人間嫌いであっても、「大事な人」はいるでしょう。「大事な人」がいるから、死はこんなに悲しくこんなにつらく、そして、こんなに喪失感を伴うのでしょう。私は、孤独に生きたいと思っていますが、でも、孤独に生きるなんてホントはできっこないのかもしれません。
2015.02.24 Tue l 訃報・死 l top ▲
芸能プロダクション・石井光三オフィス会長の石井光三氏が、今月6日、肝内胆管ガンで亡くなっていたことがあきらかになりましたが、私は石井社長とは一時よく顔を合わせていた時期がありました。

と言うのも、以前、私の取引先の店が渋谷の東急プラザのなかにあったのですが、近所に事務所があった石井社長もその店にしょっちゅう来ていて、店で会っているうちにいつの間にか顔なじみになったのでした。

店の女の子たちは、石井社長のことをそのまま「石井社長」と呼んでいました。石井社長は、テレビと同じように、関西弁の大きな声で冗談を言ってはよく女の子たちを笑わせていました。ちょうど常盤貴子とドラマで共演していたときで、女の子たちに頼まれて常盤貴子のサインをもらってきたりしてました。

「今度シモキタの本多劇場でコント赤信号の公演があるんで、来て~な」と言ってチケットをくれたこともありました。私はあいにく都合が悪くて行けなかったのですが、店の女の子たちは差し入れを持って行ったそうです。

石井社長の訃報に際して、渡辺正行は、「俺たち以上に良くしゃべり、良く動き、取引先に行っては、『赤信号よろしくお願いします!』と、俺たちが恥ずかしくなるような大声で営業し、仕事で出た弁当は、必ず持って帰る。帰る時、楽屋の台本・ごみは、必ず持って帰る…いろいろな事を教えてくれた」(日刊スポーツ 渡辺正行「家族のように」石井氏悼む)と言ってましたが、石井社長の人となりをよく表したコメントだと思いました。

ある日の夕方、渋谷駅から東急プラザのほうへ横断歩道を渡っていると、前方から聞き覚えのある関西なまりの声が聞こえてきました。石井社長が東急プラザの前の舗道で、通行人にチラシを配っていたのでした。冬の寒い日でしたが、石井社長は白い息を吐きながら、「コント赤信号の公演があります。観に来てください。よろしくお願いします!」と声を張り上げて道行く人にチラシを手渡していました。それこそ渋谷の人ごみのなかでは「恥ずかしくなるような大声」でした。

私は、それを見て「すごい人だな」と思いました。ラサール石井も「絶対に超えられない人です」とコメントしていましたが、その気持はよくわかります。魑魅魍魎が跋扈するやくざな世界で生きていくのは大変だったでししょうが、そんななかで純粋さと信念を失うことなく持ちつづけていたと言っていいのかもしれません。それだけでも「すごい人」なのです。
2015.01.20 Tue l 訃報・死 l top ▲
母親の容態が悪化したというので、朝いちばんの飛行機で九州に帰りました。

母親は、末期ガンのためホスピス専門の病院で緩和ケアを受けていました。その病院は、街外れの丘の上の1500坪の敷地のなかにある24床の小さな病院で、とても静かな時間が流れている病院らしくない病院でした。入るとすぐラウンジがあり、そこにはピアノが置かれていました。壁にはフジ子ヘミングの版画が何点か掛けられていました。

病院は全室個室で、板張りの広い廊下の途中に母の病室がありました。病室に入ると、酸素吸入のマスクが装着された母が寝ていました。私は、その姿を見て一瞬立ち止りました。あまりの変わりように戸惑ったのでした。私のなかには、張りのある声でおしゃべりをし元気に動き回っていた若い頃の母の姿しかないのでした。

母に近づき、頬に手を当て声をかけると、「ウー、ウー」とうめき声をあげました。妹が私の名前を告げて「帰ってきたよ」と言うと、再び「ウー、ウー」とうめき声をあげていました。

母の担当の看護師さんがやってきて、「お帰りなさい、お母さんが待ってましたよ」と言われました。そして、「あとで先生からお話がありますのでお待ちください」と言われました。

それぞれの病室にはベランダが付いているのですが、ふと、ベランダのほうに目をやると、レースのカーテン越しに板塀に囲われた庭が見渡せ、冬の弱い日差しのなかで小さな白い花が風にゆれていました。母は病室から眺めるこの景色が好きだといつも言っていたそうです。

姉や妹たちは、母は「幸せよ」と言ってました。認知症を患うこともなく、末期ガンが発見されるまで元気に独り暮らしをしていたのです。ホスピスに入ったのも、たまたまベットが空いていたので「とてもラッキーだった」と言ってました。知り合いやタクシーの運転手さんからも「いいところに入りましたね」と言われたというのです。そして、看護師さんたちがホントに親身になってケアしてくれ、自分たちが如何に感謝しているかということを私に切々と話すのでした。私は、彼女たちの話を聞いて、「よかったな」と思いました。

しばらくすると、エプロンをした女性の方が病室にやってきて、「お茶の用意ができましたので、ラウンジのほうへどうぞ」と言うのです。なんでも「お茶の時間」というのがあって、患者や家族のためにお茶を用意してくれるらしいのです。

ラウンジに行くと、ボランティアの人たちなのでしょう、数人のエプロンをした女性の方がいて、「なにがよろしいでしょうか?」と注文を取りにきました。私は、コーヒーを頼みました。

ラウンジには、車椅子に座った40~50代くらいの若い患者さんも来ていました。聞けば、末期ガンだけでなく、難病など不治の病におされた方たちも残された時間をそこで過ごしているのだそうです。

死を前にした時間。それはとても清冽で、そして静謐な時間です。ひとつひとつの物事がゆっくりとその意味と意義を語っているかのようです。私たちは、そんな時間のなかに生きているんだということをしみじみと感じました。

もしかしたら経営的には困難を伴うかもしれない「独立型ホスピス」という終末期医療の”あるべき姿”を実践している病院の院長は、50代半ばのいつも笑みをたたえた温和な表情のドクターでした。

「お母さんはとても上品な方で礼儀正しくて私たちが恐縮するくらいです」「最初、『ポータブル便器を使ってください』と言っても遠慮してなかなか使ってくれなくて、自分でトイレに行ってました」

横に座った担当の看護師さんと二人で、そんな母に関するエピソードを話してくれました。そして、「ホントによくがんばっていましたが、ご家族がそろったので安心したのか、血圧も下がってきました」「おそらく今夜か明日が山場だと思います」と言われました。

姉や妹たちは涙を流して先生の話を聞いていました。でも、私は不思議と涙が出てきませんでした。自分でも驚くくらい冷静に先生の話を聞いていました。

「おそらくこのまま痛みも苦しみもなく自然に息をひきとることができると思います」「それまで皆さんでお母さんを見守ってあげてください」と言われました。背後からは姉や妹たちのすすり泣く声が聞こえていました。

そのあと、担当の看護師さんから、死の間際にはどんな症状を示すかという説明がありました。

私は、先生の話を聞いたあと、仮眠をとるために、2階にある「家族部屋」に行きました。しかし、ひとりになるとたまらず悲しみに襲われ、涙があふれてきました。

一方で私は、悲しみを打ち消すかのように、病院に来て「感動」したことを反芻していました。まず、妹のことです。妹がこんなに献身的に母親の面倒を見ていたとは知りませんでした。それは、想像以上でした。そもそもきょうだいでありながら、妹にそんな一面があることすら知らなかったのです。もうひとつは、ホスピスのことです。前も書きましたが、誰にも看取られずに「福祉専門」の病院で亡くなっていく人も多いなか、手厚い看護が施され人間の尊厳が保たれて最期を迎えることができるというのは、たしかに姉や妹たちが言うように、なんと「幸せ」なんだろうと思いました。私は、先生が口にした「自然に」ということばをあらためて思い浮かべました。

「家族部屋」の窓から外を見ると、そこには冬の午後の山里の風景がありました。以前はこのあたりはみかん畑だったそうです。そのため、病院の下の道路からは、私たちが隣町の高校に通っていた頃、坂道の途中からいつも見ていた同じ海が見渡せるのでした。私は、この風景を見るのもこれが最初で最後なんだなと思いました。

翌日、母は文字通り眠るように静かに息を引き取りました。



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高橋源一郎のルポルタージュ『101年目の孤独』(岩波書店)を読みました。「弱者」と呼ばれる、さまざまなハンディを背負って生きている人たちのもとを訪ね、作家のナイーブな感性で、彼らとの出会いを語り、そして、彼らの存在に光を当てる、そのことばはとても静謐でやさしさに満ちているのでした。それは、かつて失語症を経験した著者らしいことばだと思いました。

 ダウン症の子どもたちのアトリエ、クラスも試験も宿題もない学校、身体障害者ばかりの劇団。それから、重度の障害者を育ててきた親たちが、そんな彼らのために国や県を動かして作った施設、あるいは、平均年齢が六十歳を超える過疎の島で原発建設に反対する人たち、認知症の老人たちと共に暮らし最期まで看取ろうとしている人たち。あるいはまた、夜になると公園や駅の近くを歩き回り、病気のホームレスたちを探し、施設に入れ、あるいは彼の行く末を考えている人たち。
 ひとつの単語にすれば「弱者」ということになってしまうだろう、彼らのいる場所を訪ねるようになった理由の一つに、好奇心があることは否定しない。
 けれど、もっと大きな理由は、別にある。いや、大きな理由が他にあったことに、わたしは、途中で気づいた。それは、その「弱者」といわれる人たちの世界が、わたしがもっとも大切にしてきた、「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、ひどく似ていることだ。


著者は、「彼らがわたしたちを必要としているのではない。わたしたちが彼らを必要としているのではないか」と言います。そして、つぎのようにつづけるのでした。

 彼ら「弱者」と呼ばれる人びとは、静かに、彼らを包む世界に耳をかたむけながら生きている。彼らには、決められたスケジュールはない。彼らは、弱いので、ゆっくりとしか生きられない。ゆっくりと生きていると、目に入ってくるものがある。耳から聞こえてくるものがある。それらはすべて、わたしたち、「ふつう」の人たちが、見えなくなっているもの、聞こえなくなっているものだ。また、彼らは、自然に抵抗しない。まるで、彼ら自身が自然の一部のようになる。わたしたちは、そんな彼らを見て、疲れて座っているのだ、とか、病気で何も感じることができなくなって寝ているのだ、という。そうではないのだ。彼らこそ、「生きている」のである。
 「文学」や「小説」もまた、目を凝らし、耳を澄まさなければ、ほんとうは、そこで何が起こっているのか、わからない世界なのだ。


次男が急性脳炎で国立成育医療センターに運ばれ、2か月の間、同センターに通っているうちに、著者は、同じように重い病にかかって入院している子どものもとに通ってくる母親たちの表情がとても明るいことに気づいたのでした。それで、著者は、3つの難病を抱え、もう何年も自宅に帰ってない6歳の子どもをもつ母親に、どうしてそんなに明るくなれるのか、病気の子どもの傍にいることは苦痛ではないのか、訊ねたのでした。すると、母親はこう答えたそうです。「だって、可愛いんですもの」

この当たり前のことば。この母親のことばは、なんと私たちの胸に響いてくるでしょう。人間や世の中というのは、私たちが考える以上に簡潔で素朴なものではないでしょうか。だからこそ、そこから生まれることばは私たちの胸に響くのではないか。

著者は、イギリスにあるマーチン・ハウスという「子どもホスピス」をNHKのスタッフとともに訪ねます。そこで出会ったベアトリスという4歳の女の子。彼女のその深いブルーの瞳によって射抜くように見つめられているのを感じながら、こう思うのでした。

(略)いままで味わったことのない感情が、わたしのなかで動いていた。
 それは、マーチン・ハウスの中を歩きながら、その中で、人びとと話しながら、感じたものでもあった。いや、次男が、医者から宣告を受け、そして、いろんな場所を訪ねるようになってから、いつも、少しずつ感じていたものでもあった。
 わたしは、まだ、それをうまく説明することができない。すぐにことばにすることができない。でも、それは、「ある」のだ。
 それは、わたしが、小説とか、文学というものを書いている時、感じるなにかでもあるような気がした。


ベアトリスは、父親のアンドリューに「わたし、死ぬの?」と訊ねたそうです。「子どもホスピス」の子どもたちは、よくその質問をするそうです。しかし、それはみんな一度だけです。その理由を訊いたら、スタッフはこう答えたそうです。「知りたいことは一度でわかるのです。そして、それ以上、訊ねることが親を苦しめることを、よく知っているからです」と。

マーチン・ハウスのチャプレン(聖職者)は、「ここは悲しみの場所ではない」と言います。それは、悲しみだけの場所ではないという意味なのでしょう。死は悲しみだけではないのです。著者もつぎのように書いていました。

(略)こんなにも夥しい死に囲まれているのに、ここは,なんと清冽で、なんと明るい場所なのだろうか。ここで、人びとは、たくさんの話をする。それも、ゆっくりと、それから、同時に、たくさんの沈黙を味わう。そして、静かに、また考える。ここでしか感じることができない時間が流れている。


私は、以前、東京郊外のキリスト教系の病院のホスピス病棟を訪ねたことがありました。その病棟は、木々に囲まれ、チャペルの横にありました。長い廊下を歩いていくと、ほかの病棟とは違った静かでゆったりとした時間が流れているような気がしました。

ちょうどひとりの患者さんが息をひきとったところでした。家族も病棟のスタッフたちも、とても落ち着いてそのときを受けとめている感じでした。

ふと見ると、隣の病室では、年老いた男性の患者がベットの端に腰かけて朝刊を広げていました。音声が消された枕元のテレビでは、ミニスカートの女性キャスターが口をパクパクさせて今日の天気を伝えていました。また、廊下の向こうでは、清掃スタッフのおばさんがゴミ袋を手に、リネン室や看護師の詰所のゴミを回収していました。モップを手にした別のおばさんもいました。

死を前にしても、そうやっていつもの朝が来ていつもと変わらない一日がはじまる。その光景を目にした私は、感動すら覚えたのでした。深い悲しみのなかにある家族にとって、いつもの日常がすぐそばにあるというだけで、どんなに救いになるでしょう。死は特別なものではないのです。むしろ当たり前のこととして私たちの前にあるのです。

愚劣な政治とそれに随伴する愚劣な文学。その背後で進軍ラッパのように鳴らされる『永遠のゼロ』のような動員のことば。そこにあるのは、国家の名のもとに、死を特別なものに祭り上げる政治の(偽善の)ことばです。

著者は、重症心身障害児の通所施設で、重症心身障害をもって生まれた赤ん坊を抱かせてもらったときのことをこう書いていました。腕のなかの赤ん坊は、たじろぐほど強い視線で自分を見つめていたと言うのです。

 わたしが生涯を捧げようとしている「文学」というものが何に似ているか、と訊ねられたら、わたしは、あの時、抱いていた赤ん坊のことを思い出すのである。


私たちが求めることばは、このような文学のことばです。どこまでもナイーブでどこまでも静謐でどこまでもやさしいことば。当たり前とかいつもの日常というものがかけがえのないものであることを、教えてくれるようなことばです。そんな私たちの胸深くに降りてくることばなのです。


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母の死
2014.01.05 Sun l 訃報・死 l top ▲
先月25日、セゾングループ代表だった堤清二(辻井喬)氏が亡くなりました。

私が西武百貨店を担当するようになったのは、渋谷にロフトができる3年前の1984年からです。1985年には、「西武流通グループ」から「セゾングループ」へと名称を変更するなど、西武が絶頂期にあったイケイケドンドンの頃です。もちろん、名称変更の裏には、グループから「西武」の名前を消したいという堤氏の意向があったのは間違いないでしょう。

のちに、ロフトの3周年記念だったかのパーティが、公園通りにある東武ホテルで行われたことがありました。会費が政治家の政治資金パーティ並みにバカ高かったことを覚えていますが、でも、出入り業者の間で話題になったのは、会費のことではなく、会場が東武ホテルだったということでした。言うまでもなくそれは、異母弟(西武鉄道の堤義明氏)との確執を物語るかっこうのネタだったからです。

また、「堤清二は離婚パーティをおこなった」とか西武百貨店のなかにあるラッピングの店は「愛人がやっている」とかいった噂もありました。堤清二氏には、そういった”奇人変人”のイメージがありましたが、おそらくそれは、辻井喬という詩人のイメージと重なっていたからではないでしょうか。

「セゾングループ」への名称変更をきっかけに、西武は「生活提案型マーケティング」から「生活総合産業」へと脱皮をはかることになります。その頃の考えを堤清二氏は、セゾンの社史編纂をおこなった上野千鶴子氏との対談『ポスト消費社会のゆくえ』(文春新書・2008年)のなかで、つぎのように語っていました(以下、引用はすべて同書)。

辻井 その頃の私の考え方として、消費者として自立することは、社会を構成する人間として自立することにつながる。そういう思想があったことは事実ですね。


いわゆる「自立した消費者であれ」という考え方です。

池袋西武のなかにあった西武美術館(のちのセゾン美術館)で「美術と革命展」が開催されたのが、池袋西武を担当する前の1982年ですが、私はそれを観たときの衝撃を今でも忘れることはできません。池袋西武の担当の女の子に、「あれはすごかったね」と言ったら、「ああ、あれは会長の個人的な趣味でしょ」と言ってました。堤氏は、西武美術館が他の美術館と違ってコンテンポラリーアート(現代美術)にこだわったことについて、「自分は死んでも応接間に飾るような装飾的絵画は手を出さない」という「固い決意のようなもの」があったからだと言ってました。今あらためて聞いても、デパートの経営者のことばとは思えませんが、それがセゾンがセゾンたりえた理由なのだと思います。ちなみに、その前年には、マルセル・デュシャンの回顧展を日本で最初に開催しているのでした。

私は、海外のポスターやポストカードを卸す出入り業者にすぎませんでしたが、渋谷のパルコや池袋の西武百貨店に行くと、とにかく刺激に満ちていて、楽しくてなりませんでした。それは、地方出身の私にとって、都会の(東京の)最先端の消費文化がもたらす刺激でもありました。そして、その消費文化のなかには、美術や文学など感性的なものも多分に含まれていたのです。なにより感性が大事だと言われているような気がしたものです。

上野千鶴子氏は、西武(セゾン)は「低賃金女性労働力の活用策としてすば抜けていた」と皮肉を言ってましたが、たしかに仕事で接する女の子たちは、みんな売り場の担当を任されて生き生きと仕事をしていたように思います。仕事をとおして彼女たちの感性が私たちにもダイレクトに伝わってくるのでした。私はほかのデパートも担当していましたが、それはほかのデパートにはないものでした。そういったところにも、セゾングループのDNAであるベンチャー・スピリッツが生きていたように思います。

でも、私が担当した頃から、既に渋谷の街が変質しはじめていたのです。それは、渋谷の街が体現する東京の消費文化の変質でもありました。堤氏は、つぎのように言ってました。

明らかに八〇年代に入ってから、渋谷の街が汚くなってきた。渋谷センター街にファーストフード店が進出してきて、若者が道端にベタッと座り込んでそこで夜を明かすようになった。
(略)
これは予想外だった。自分がやりたかったことと、まったく違うことが起こっているという感じでしたね。


それは、上野氏が言うように、消費が「横並び消費」から「ステータス消費」という垂直分解に向かう、その兆候だったのです。つまり、「消費が金持ちと貧乏人の二極」に分解していることを示したものでした。いわば、今の格差社会の前兆でもあったのです。

そして、それは同時に、社会的なコミュニケーションモードの変化を促すものであり、百貨店の基盤そのものが消滅することを意味していたのでした。

上野 今日、百貨店が成り立たなくなっている状況は、新聞や総合雑誌の凋落現象と同じ。コミュニケーション媒体それ自体のセグメンテーションが起きていて、偶発性の高いノイズはシャットアウトする。つまり、人は自分が聞きたい情報しか聞かなくなっているのです。この現象はアメリカが先行し、日本が追随しています。そうなると、ますます「万人のための」とか、「総中流社会の」という百貨店の社会的な基盤そのものが、急速に消滅してくると思えます。


堤清二氏は、従来の前近代的な百貨店のシステムを壊して、法人資本主義的な百貨店経営の合理化を図った(上野千鶴子氏)のですが、その百貨店の歴史的な使命の終わりを見届けるなかで氏自身も人生の幕を閉じたと言えるのかもしれません。かつての堤ファン(セゾンファン)のひとりとしては、(月並みな言い方ですが)やはり、ひとつの時代が終わったんだなという感慨を抱かざるをえません。

>> 『セゾン文化は何を夢みた』
>> 『無印ニッポン』
>> 渋谷と西武
2013.12.14 Sat l 訃報・死 l top ▲
一般にはほとんど知られてない名前でしょうが、フリーライターの日名子暁氏が今月24日に亡くなったというニュースがありました。

日名子暁氏については、『日本の路地を旅する』の上原善広氏が、みずからのブログ「全身ノンフィクション作家」で、「『最後の雑誌屋』の死」と題して追悼文を書いていました。以下は、上原氏のブログに掲載されていた日名子暁氏のプロフィールです。

1942年、大分生まれ。中央大学法学部中退。週刊誌記者を経て、ルポライターとして活躍中。ヤクザ、外国人労働者、パチンコ、詐欺、金融など“裏の世界”を舞台とした領域を得意とする。主な著書に『マニラ通』『新宿歌舞伎町アンダーワールド』『不良中年の風俗漂流』『ストリップ血風録』など多数。


日名子氏の訃報に対しては、上原氏だけでなく、多くのフリーのライターや編集者たちが、ブログやTwitterでそれぞれ追悼のことばをアップしていました。「最後のルポライター」という言い方をしていた人もいましたが、たしかに朝倉喬司氏や日名子氏もいなくなり、「ルポライター」と呼べるような生きざまと志をもっている人はホントに少なくなったなと思います。

日名子氏は私と同郷で、しかも日名子という苗字はめずらしく、別府には昔「日名子ホテル」というのがありました。それでもしかしたら高校の先輩ではないかと思っていたのですが、どうやら私たちの高校ではなく、大分市にある別の高校の名門ラグビー部の出身のようです。

ルポライターの元祖・竹中労は、『ルポライター事始』(ちくま文庫)で、「車夫・馬丁・ルポライター」という言い方をしていました。もちろんそれは、自分を卑下して言っているわけではなく、週刊誌ジャーナリズムの「特権的編集者(労働貴族)」と「非良心的売文屋(下請ボス)」が牛耳る分業システム(差別の構造)からはみ出した、「えんぴつ無頼」の一匹狼たるルポライターの矜持と覚悟を示したことばなのです。

 つまりは、労務者渡世なのだ。トビも荷役も土方もヨイトマケも、時と場合と注文に応じてやってのけなければならない。ルポライターとは、そういう職業なのである。


私も先日、某大手出版社が出している週刊誌の記者と会いましたが、やってきたのは如何にも育ちのよさそうな若くてきれいな女性の記者でした。どうしてこんな女の子があんなえげつない差別的な記事を書くのか、不思議でなりませんでしたが、要するに彼女は、単に「責任のない文章をベルトコンベアーに乗せるように、マスプロしていく体制」のひとつの駒でしかないのでしょう。竹中労の言うルポライターとは真逆の存在なのです。

「芸能と芸能者に対する理解、愛着がなくてどうして芸能記事が書けるのか」と竹中労は書いていましたが、このことばも「私刑」をスキャンダリズムと勘違いしている『週刊新潮』や『週刊文春』のような「特権的編集者」や「非良心的売文屋」には、所詮馬の耳に念仏なのでしょう。

安倍政権が今秋の国会に提出を予定している「特定秘密保全法」にしても、罰則対象から「報道目的」を除外するというアメ(裏取引)によって、新聞・テレビの大手メディアはいっせいに腰砕けになりましたが、それに対していちばん敏感に反応しているのは、フリーランスの記者や編集者たちです。なんの後ろ盾もない彼らにとっては、この法律は文字通り死活問題なのです。

 人間を制度が支配するかぎり(むろん共産制であろうと)どこに”言論の自由”など存在しよう。しかし、いかなる時代・社会・国家においても、断乎として”自由な言論”はある。とうぜんそれを行使する者の勇気と、犠牲の上にである。


竹中労は、このように、”言論の自由”なんてない、あるのは”自由な言論”だけだ、と常々言ってました。

日名子暁氏のようなルポライターがいなくなるというのは、”自由な言論”がなくなるということでもあります。そういった「勇気」と「犠牲」もいとわない一匹狼の矜持も志も姿を消すということでもあります。それはまた、「特定秘密保全法」に示されるような、相互監視の息苦しい社会の到来を象徴していると言えるのかもしれません。
2013.08.27 Tue l 訃報・死 l top ▲
今日、このブログに、「怨嗟の連鎖? 藤圭子(宇多田ヒカルも)が母(祖母)の葬儀に出なかった理由」という長いキーワードでアクセスした方がいました。アクセスジャーナルの渡辺正次郎氏のブログに、同じタイトルの記事がありますので、おそらくそれに関連してヒットしたのだろうと思います。

藤圭子が母親や恩師の石坂まさを氏の葬儀に参列しなかったのは、どうやら事実のようで、しかも母親や石坂まさを氏を恨んでいたという週刊誌の記事さえあります。もしかしたら、そういった軋轢も、彼女の心に暗い影を落としていたのかもしれません。

藤圭子は、北海道旭川の浪曲師の父親と三味線弾きの母親のもとに生まれ(出生地は岩手県)、極貧のなかで育ち、中学卒業と同時に一家で東京にやってきたと言われています。寒風吹きすさぶなかをゼニコもらうために、瞽女の母親に手を引かれ、門付してまわる。そんな幼い頃の記憶は、消したくても消えないものでしょう。

藤圭子の歌を「怨歌」だと言ったのは五木寛之ですが、五木寛之は、藤圭子死亡の報に際して、朝日新聞につぎのようなコメントを寄せていました。

 「浅川マキ、藤圭子。時代のうつり変わりを思わずにはいられない。1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。ブルースも、ファドも『怨歌』である。当時の人びとの心に宿ったルサンチマン(負の心情)から発した歌だ。このような歌をうたう人は、金子みすゞと同じように、生きづらいのではないか。時代の流れは残酷だとしみじみ思う。日本の歌謡史に流星のように光って消えた歌い手だった。その記憶は長く残るだろう」
(朝日新聞デジタル 8月22日23時20分配信)


五木寛之が「艶歌」や「海峡物語」や「涙の河をふり返れ」などで描いた非情な流行歌の世界をまるで地で行くように(小説を参考にしたかのように)、藤圭子は、その消したくても消えない記憶をセールスポイントにして、”不幸”や”運命”を背負った「怨歌」歌手としてデビューしたのでした。それをプロデュースしたのが、作詞家の石坂まさを氏でした。

五木寛之は、そのあたりの経緯を、「怨歌の誕生」(文春文庫『四月の海賊たち』所収)という実名小説で描いています。

「怨歌の誕生」は、「私」が連載している毎日新聞のエッセイに書いた、つぎのような文章からはじまります。

 藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを夜中に聴いた。彼女はこのレコードを一枚残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。
(略)日本の流行歌などと馬鹿にしている向きは、このLPをためしに買って、深夜、灯りを消して聴いてみることだ。おそらく、ぞっとして、暗い気分になって、それでも、どうしてももう一度この歌を聴かずにはいられない気持になってしまうだろう。
 ここにあるのは、<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。
(毎日新聞社刊『ゴキブリの歌』所収)


しかし、このエッセイが、藤圭子を売り出すレコード会社やプロダクションのパブリシティに利用され、ジャーナリズムの喧騒に巻き込まれることになるのでした。なかでも、テレビ番組の打ち合わせの席に現れた、「藤圭子の歌の歌詞からプランニングまでを一手に行っている」「沢ノ井氏」(石坂まさを氏の本名)の”独演”に、その場に居合わせた「私」たちが戸惑う場面が印象的でした。

 彼ははっきりした音声で、力を込めて情熱的に語るタイプの人間だった。体を乗り出し、目をすえて、体ごと喋るような口調で喋った。そこには一種の強く昂揚した熱っぽさがギラギラ光っており、徒手空拳でマスコミを騒がせたスター歌手のプロモーターとなった青年の自信と過剰なエネルギーがあふれていた。
(略)
「ぼくも藤圭子を愛している。五木さんも藤圭子を愛してくださる。この共通の愛情にもとづいて作られる番組なら、ぼくはすべてをおまかせしていい、そういう気持です」
(「怨歌の誕生」)


そして、「沢ノ井氏」はつぎのような気になるセリフを残し、「私」たちを煙に巻いて去って行ったのでした。

「できるだけ暗く暗く持って行こうとしているんですがね。ちょっと目を離すとすぐ明るくなっちゃう」
(同上)


井上光晴の小説の題名を借用すれば、「怨歌」に「プロレタリアートの旋律」を見ることができた時代。そんなロマンが成立した時代。藤圭子はそんな時代を代表する歌い手でした。しかし、それは、彼女にとっても、私たちにとっても、”虚構”でしかなかったのです。

心の底に錘のように残っている消したくても消えない記憶。それと現実とが乖離すればするほど、そして、聡明でナイーブであればあるだけ、人は「記憶」と現実の間に引き裂かれ苦悩しなければならないのでしょう。

今日のJ-POPシーンを代表するシンガーソングライター・宇多田ヒカルの母親という顔をもちながら、一方で藤圭子は、母親に手を引かれ門付して歩いたあの日の記憶をずっと心に抱え、孤独に生きてきたのではないか。

>> 宇多田ヒカル賛
2013.08.23 Fri l 訃報・死 l top ▲
昨日、俳優の三國連太郎が亡くなったというニュースがありました。

もちろん、私ははるかにあとの世代(というか子どもの世代)ですので、私が三國連太郎の映画を同時代的に観たのは、足尾鉱毒事件を扱った「襤褸の旗」(吉村公三郎監督)が初めてでした。それ以来、田中正造翁の「辛酸亦佳境に入る」ということばが私の座右の銘になったのでした。

また、そのあと名画座で観た「戒厳令」(吉田喜重監督)での北一輝役の彼の凛としたたたずまいも印象に残っています。ちょうどその頃、松本健一氏の『北一輝論』を読んだばかりだったので、その北一輝のイメージと彼が演じる北一輝のイメージが重なって見えたことを覚えています。

ただ、私にとって三國連太郎は、やはり親鸞思想の研究家としてのイメージのほうが強くあります。そういった顔をとおして、私は、俳優・三國連太郎にずっと興味を持っていました。

三國連太郎は、死に際して、「戒名はいらない」「骨は散骨してくれ」と言ったそうですが、もしかしたら「葬式も必要ない」と言っていたのかもしれません。実際に、娘さんだったか誰だったかが亡くなったとき、葬儀なんてどうでもいいと言って葬式に出なかったとかいった話を聞いた記憶があります。

今手元に2009年、三國さんが86才のときにNHK教育テレビに出演して、インタビューを受けたときのテキスト(『NHK 知るを楽しむ「人生の歩き方」・三國連太郎 虚と実を生きる』日本放送出版協会)があるのですが、そのなかで彼は、鎌倉仏教についてつぎのように語っていました。

調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、日本の仏教というものには大きな落とし穴があるようで、今の日本の仏教の中心になっているのは鎌倉期に発生した宗派ですが、そのお寺の存在とか、葬式仏教とか、功徳の話とか、何となくみんな嘘っぽく感じちゃったわけなのです。(略)
 本当は親鸞さんも、日蓮さんも、道元さんも含めて、乱暴な言い方ですが、つまり鎌倉仏教の祖師さんたちは、民衆という一切の人々を救いたい、なんとかしたいと思って、天台仏教や真言仏教を抜け出て新しい教えを開いたのじゃないか。


そして、そんな仏教観のもとに生まれたのが、ご自身が監督をして制作した「白い道」でした。三國さんは、この映画が三國連太郎という役者をもう一度再構築させてくれたと言ってました。

また、三國連太郎は、家でもなんでも所有という普通の考えが自分にはできない、本来借り物であるものを所有することは、人間として冒涜的なことではないか、と言ってましたが、彼が主演した「ひかりごけ」(熊井啓監督)の原作者の武田泰淳氏も同じように、物にこだることは恥とすべしと言ってました。こういった考えの根底にあるのは、言うまでもなく仏教思想です。私生活では息子の佐藤浩市と確執があったとか言われていますが、私は、その奔放な生き方にも、どこかに仏教的(親鸞的)なものを感じてなりませんでした。

(略)僕はダメな人間ですけれども、今まで真剣に生きてきたし、これからも真剣に生き抜いていこうと思っています。生意気な言い方かもしれませんが、よくぞこの人生を生き抜いてきたと、自分で思えるような最期にしたいのです。


NHKのインタビューの最後に三國連太郎はそう言ってましたが、彼に限らず、死に際しては皆さんホントに立派です。どんな人生であれ「生き抜いてきた」というだけでもすごいことなのです。本来仏教が言わんとすることも、葬式とか戒名ではなく、そういうことではないでしょうか。
2013.04.16 Tue l 訃報・死 l top ▲
若松孝二監督の死去に対して、宮台真司がブログにつぎのような追悼文をアップしていました。

この文章を書きながらも、悲しくて涙がとまりません。監督がいなければ、本当に今の僕はいないのです。監督がいなければ松田政男さんの本も読まなかったし、松田さんの本を読まなかったら廣松渉さんの本も読まなかったし、そうしたら社会学に学問的な興味を抱くこともなく、社会学者になんてなっていなかった。
MIYADAI.com Blog


高校生のとき、泊り込みで勉強すると行ってでかけた同級生の家で、洋服箪笥からお父さんのブレザーをこっそり借りて、別府の裏通りにある映画館のオールナイトで観た「天使の恍惚」が、私にとって初めての監督の映画でした。そして、受験に失敗。予備校に行くために上京して、アテネフランセの映画講座で、当時映画ファンの間で「赤P」と呼ばれていた「赤軍-PFLP・世界戦争宣言」を観ました。「赤P」は、全共闘以後の世代の人間にとって、文字通り上の世代を仰ぎ見るような政治的プロパガンダの映画でしたが、ピンク映画の若松孝二監督と「銀河系」の足立正生監督がこんな映画を作るなんて、なんだか「映画なんてどうでもいい」と言ってるようで、すごいショックでした。それからほどなく足立正生監督はメガホンを置いて、パレスチナに飛び立ったのでした。

宮城県の農業高校を中退して、親の金700円だかを盗んで上京。以後、職を転々としたその経歴は、永山則夫を彷彿とさせるものがありますが、当時はそんな若者はめずらしくなかったのでしょう。宮台真司がブログに書いているように、若者たちが不幸なのは経済的に貧しいからではないのです。「ここではないどこか」がなくなったからです。「赤P」もある意味では「ここではないどこか」の映画だったと言えなくもないし、足立正生監督がパレスチナに行ったのも、「ここではないどこか」を求めたのかもしれません。しかし、結局、「ここではないどこか」はどこにもなかったのです。

谷川雁の『工作者宣言』になぞらえば、若松孝二監督の映画は、知識人に対して鋭い大衆のことばを突きつける、そんな側面もあったように思います。だから、戦後民主主義とそれを支える”進歩的知識人”の欺瞞を告発していた若者たちから支持されたのでしょう。それにしても、あの時代の若者たちはなんとナイーブだったんだろうと思います。若松孝二監督の映画に出てくる若者たちもみんなナイーブでした。

あとづけでものを言うのは簡単です。当時の若者たちは、今の若者と違って、切実に「ここではないどこか」を希求していたし、そういった自分の人生や時代に対するナイーブな感性をもっていたのは間違いありません。そして、若松映画の性と暴力が、そんな感性や時代の空気感を共有していたのも間違いないのです。

「常に弱いものの味方だった」「弱いものの視点から描いていた」などというもの言いは、いかにも「戦後民主主義的」な解釈で、最近の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」や「キャタピラー」は別にして、少なくとも初期のピンク映画に関しては、もっとも遠いところにある解釈だと言わねばなりません。若松映画は、そんな”戦後的価値”と結託したヘタレな映画なんかではなかったのです。
2012.10.19 Fri l 訃報・死 l top ▲
去る16日、吉本隆明が亡くなったというニュースがありました。私は全共闘世代のように、強烈な“吉本体験”があるわけではありません。むしろ私たちの世代では既に“吉本神話”は終焉していて、批判的な見方のほうが強かったように思います。ただ、私たちも全共闘世代の人たちと同じように、吉本隆明を「ヨシモトリュウメイ」と呼んでいました。

最近も反原発の風潮に対して、かつての「反核異論」と同じ口調で、原発をやめることはできない、原発をやめろというのは人間をやめろということだ、反原発は思想的な退廃だみたいなことを言ってましたが、たしかに吉本のなかには、多くの人が指摘するように、科学信仰に代表されるような近代主義的な進歩史観に囚われた部分がなきにしもあらずでした。それがときに、時事的な問題ではトンチンカンな発言になり、「耄碌した」とヤユされたのでした。

しかし、私にとって吉本隆明は、親鸞に関心をもつきっかけを作ってくれた”恩人”として存在しています。

まだ20代のフリーターだった頃、私は、吉本隆明の『最後の親鸞』が読みたくてなりませんでした。しかし、住所不定無職の私には、それを買うお金さえありませんでした。当時は浅草橋でアルバイトをしていたのですが、私は帰りに神保町のとある古本屋に寄るのが日課になっていました。というのも、その古本屋に春秋社の『最後の親鸞』の古本が出ているのを見つけたからです。そうやって毎日、『最後の親鸞』がまだ売れてないことをたしかめていたのです。そして、アルバイトの給料が出ると真っ先に買い求め、電車のなかでむさぼるように読んだことを覚えています。

親鸞の思想のキーワードは「業縁」と「還相」である、と教えてくれたのも吉本隆明です。

「何ごとでも心に納得することであったら、往生のために千人殺せと云われれば、そのとおりに殺すだろう。けれど一人でも殺すべき機縁がないからこそ殺すことをしないのだ。これはじぶんの心が善だから殺さないのではない。また逆に、殺害などすまいとおもっても、百人千人ころすこともありうるはずだ」(「歎異抄」吉本隆明私訳)という親鸞のことばについて、吉本隆明は、『最後の親鸞』でつぎのように書いています。

人間は、必然の〈契機〉があれば、意志とかかわりなく、千人、百人を殺すほどのことがありうるし、〈契機〉がなければ、たとえ意志しても一人だに殺すことはできない、そういう存在だと云っているのだ。それならば親鸞のいう〈契機〉(「業縁」)とは、どんな構造をもつものなのか。ひとくちに云ってしまえば、人間はただ、〈不可避〉にうながされて生きるものだ、と云っていることになる。もちろん個々人の生涯は、偶然の出来事と必然の出来事と、意志して選択した出来事にぶつかりながら決定されていく。しかし、偶然の出来事と、意志によって選択できた出来事とは、いずれも大したものではない。


人間というのは、自分ではどうすることもできない、みずからのはからいを越えたところで生きているのです。人を好きになるのが理屈ではなく、どうして好きになったかわからない、ただ好きだから好きだとしか言えないのと同じように、生きていくのも理屈ではないのです。

真に弁証法的な〈契機〉は、このいずれ(ブログ主注:偶然の出来事と意志によって選択できた出来事)からもやってくるはずはなく、ただそうするよりほかすべがなかったという〈不可避〉的なものからしかやってこない。一見するとこの考え方は、受身にしかすぎないとみえるかもしれない。しかし、人が勝手に選択できるようにみえるのは、ただかれが観念的に行為しているときだけだ。ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ〈不可避〉の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。そして、その道を辛うじてたどるのである。


また、「還相」について、つぎのように書いています。

念仏によって浄土を志向したものは、仏になって浄土から還ってこなければならない。そのとき相対的な慈悲は、絶対的な慈悲に変容している。なぜなら、往相が自然的な上昇であるのに、還相は自覚的な下降だからである。(略)
自覚的な還相過程では、慈悲をさし出すものは、慈悲を受けとるものと同一化される。慈悲をさし出すことは、慈悲を受けとることであり、慈悲をさし出さないことは、慈悲を受けとらないことである。衆生でないことが、衆生であることである。そして、この慈悲が絶対的であるうるのは、さし出すこと受けとることの同一化とともに、還相の過程が弥陀の第十八願の〈摂取不捨〉に接触したのちの過程だからである。


「大悲は常に我を照らし給う」のです。「摂取不捨の利益にあずけしめたもう」存在として私たちは在るのです。そう思うとどんなに救われるでしょう。

絓秀実氏は、『吉本隆明の時代』(2008年・作品社)という本で、吉本隆明をとおして全共闘世代の思想史(それは新左翼の思想史と言い換えてもいいかもしれません)を敷衍していましたが、冒頭につぎのように書いていました。

「吉本隆明の時代」と呼ぶべき時代があった(あるいは、その時代は今なお続いているというべきだろうか)。誰もが吉本隆明の発言に注目し、その発言は世界を的確に解読しているかに思われた。そのパフォーマティヴな言葉は、多くの者の指針でもあった。実際、吉本も単に発言するだけでなく、世界の矛盾が露呈する闘争の場におもむいて行動もした。その発言や行動に賛同しない者も、その言葉の鋭さと影響力は認めざるをえなかった。


しかし、絓秀実氏は、吉本の親鸞に関する「発言」については一行も触れていません。文字通り、私たちは、絓秀実氏らとは違う全共闘以後の世代の人間なのです。「吉本隆明の時代」を知らない私たちにとって、吉本隆明は親鸞の思想とともに生き続けていると言っていいでしょう。
2012.03.19 Mon l 訃報・死 l top ▲
何年か前にも同じことを書きましたが、年の瀬も押しせまると、いつにもまして「人身事故」で電車がとまることが多くなります。そのニュースが流れない日はないくらいです。

ニュースも、あくまで「事故」によって電車がとまり、何万人の乗客に影響が出た(要するに「迷惑した」)という内容です。今や自殺は電車に飛び込んだときだけ「事故」扱いで、あとは誰にも見向きもされないのでしょうか。自殺者が年間3万人を超えるようになった頃から、練炭自殺がまれに記事になるくらいで、新聞から自殺の記事も消えてしまいました。

専門家によれば、自殺者の背後には、その10倍の自殺未遂者がいると言われているそうです。ということは、年間三十数万人の人間がみずから命を断とうとしていることになります。こんなすごい現実が私たちのみえないところに存在するのですね。

私も昔、多くの自殺の事例を真近でみたことがありますが、言うまでもなくひとりひとりの死の背後には、それぞれの人生の軌跡があり、また、それにまつわるさまざまな事情が伏在しているのです。死というのは、きわめて個別具体的なものなのです。でもそれも、自殺という現実とともに、人々の目に触れないように隠されてしまうのです。

石原吉郎は、『望郷と海』に所収の「確認されない死のなかで」という文章で、つぎのような強制収容所での体験を書いていました。

(略)ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。


しかし、戦後60年以上経った現在、私たちのまわりにもこのような多くの「確認されない死」が存在しているのです。前に、ビルの屋上から飛び降りた女の子は、夜明け前、屋上への階段をどんな思いでのぼって行ったんだろう、泣きながらのぼって行ったんだろうか、と書いたことがありましたが、今このときにも、同じように泣きながら死への階段をのぼっている人間がいるかもしれないのです。しかし、それは、想像も及ばないくらい私たちの日常と遠く隔たっているかのように思えます。

石原吉郎は、「死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちになんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう」と書いていましたが、まぎれもなく私たちは、そんな「頽廃」した生のなかにいると言うべきかもしれません。

今年の紅白歌合戦は、「パワーをもらった」「勇気を与えた」「がんばろう」なんていう空疎なことばが飛び交い、如何にもといった感じの歌い手たちによる”便乗商法”のオンパレードになるだろうことは想像に難くありません(そして、彼らはそのあとはいつものように、ブランドの服で着飾ってハワイへ休暇に出かけるのでしょう)。私はそんな紅白歌合戦はみたくありません。それこそそれは、多くの自殺者と同じように、震災の犠牲者を「確認されない死」に追いやる傲慢不遜な行為だとしか思えません。

では、良いお年をお迎えください。
2011.12.30 Fri l 訃報・死 l top ▲
朝、寝ていたら九州の母親からの電話で起こされました。叔父が亡くなったというのです。ここ数年、手術をしたりして体調はよくなかったそうですが、昨夜急に具合が悪くなり、救急車で運ばれてそのまま亡くなったのだそうです。

「おいちゃんが、ゆうべ死んだんよ」
「あっ、そう。しょうがないよ」
「しょうがないって・・・、あんたはいつも冷たい言い方をするんやね」
と母親は言ってました。

叔父には子どもの頃、よくかわいがってもらった思い出があります。でも、不思議と驚きもしなかったし、悲しい気持もありませんでした。みんなこうして死んでいくんだなと思っただけです。

最近、友人と話をしていても、親が入院したとかおじさんやおばさんが亡くなったとか、そういった話が多くなりました。それは明日の自分の姿でもあります。私たちもまた、やがて同じ運命をたどるのです。

前述した『「かなしみ」の哲学』にも書いているように、鳥の鳴き声や花びらが落ちていくさまを眺めては、人生のはかなさを詠嘆する心情(悲しみの心情)は、万葉集の大伴家持の時代からあったのですが、それは身近な人の死に対しても同じなのです(ただ、ヒューマニズムの考え方はなかったので、そのわりには平気で人を殺していたのですが)。

万葉の時代から千年以上も(いやそれ以前から)人間はそうやって身近な人や愛する人の死を悲しみ悼んできたのです。さらに歌に詠んだり日記に書き記したりすることで、悲しみは文学的な表現を帯び、よりいっそう深くなり多様なものになっていったのでした。

もちろん、ネットの時代になりTwitterのように140字で自己表現する時代になっても、身近な人や愛する人の死が私たちの胸を塞ぐ出来事であることには変わりがありません。ただ、悲しみの表現が変わっただけです。

小学校の3~4年の頃だったと思いますが、春休みに初めて叔父の家にひとりで遊びに行ったとき、少しヨレヨレのステンカラーのコートに弁当箱を包んだ風呂敷を小脇抱えた叔父が、駅の改札口に立っていて、私に向かって「おう」と右手をあげたときの姿が、なぜか今でも私のなかに残っています。あのときの叔父は、たしかに若かったなと思います。

弔電を頼むとき、オリジナルの電文を送ろうかと思いましたが、NTTの「おすすめメッセージ」の「いつまでも、いつまでもお元気で長生きしてくださるものと思っておりました。在りし日のお姿を偲び、心からご冥福をお祈りいたします」という電文がふと目にとまったので、それを選んで送りました。

何度も同じことをくり返しますが、私にとって身近な人間の死は、「倶会一処」の言葉とともにあります。だから、しょうがない。
2011.07.20 Wed l 訃報・死 l top ▲
上原美優自殺のニュースをみていたら、見覚えのある建物が出てきたのでびっくりしました。芸能レポーターが「1階にコンビニが入っている」と言ってましたので、以前知人が住んでいたマンションに間違いありません。東横線の「学芸大学」の近くにあるマンションで、私も一度だけ行ったことがありますが、家賃は10万円もしないワンルームの部屋でした。かけ出しのバラエティタレントとはいえ、芸能人にしてはずいぶん質素な生活をしていたんだなと思いました。海老蔵事件との接点もとりだたされていますが、一方で、待遇面の不満をもっていたという記事もありましたので、芸能界の派手な仕事と現実の生活とのギャップもあったのかもしれません。

もっとも、彼女は二度リストカットした過去があるそうですから、メンヘルの傾向があったのは間違いないでしょう。テレビから受ける印象も、どこか危うい感じがありました。彼女のなかでは「家族」や「母親」の存在が大きかったようですが、それはそれだけ家族の愛情に飢えていたことの裏返しだったのかもしれません。

早朝、マンションの屋上から身を投げた女の子がいましたが、夜明け前にひとりで屋上への階段を上って行くとき、どんな気持だったんだろう、泣きながら上って行ったんだろうかと思ったことがあります。そこにある孤独は、とてつもなく大きなもので、もはや誰もその内面にまで踏み込むことはできないように思いました。よく自殺する人間は「助けてもらいたい」というシグナルを発していると言いますが、結局、誰も止めることはできないのだと思います。生きていればいいこともあるなんて言っても、彼らはもう既にそんな言葉のはるか先を行っているのですね。「止める」なんて考えること自体、生きている人間の傲慢のようにさえ思います。

自殺のニュースを聞くと、いつも「死にたいやつは死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」という言葉が頭に浮かびますが、そういう悲しみとやり切れなさのなかで、私たちはただ手を合わせて見送るしかないのです。
2011.05.13 Fri l 訃報・死 l top ▲
田中好子

あのキャンディーズのスーちゃんこと田中好子が亡くなったというニュースにはびっくりしました。しかも、20年間も乳ガンの治療をしていたなんてさらにびっくりでした。

今は二人に一人がガンにかかる時代なので、私のまわりでもガンの闘病をしている人が何人かいますが、ホントにみなさん立派です。田中好子も病気のことを微塵も見せなかったので、まわりの人たちも病気のことは誰も知らなかったのだとか。私の知り合いもガンの手術するために入院していたら、たまたま他の人のお見舞いにきていた近所の人と廊下でばったり会って、ガンのことがバレたと言ってましたが、そうやって内緒にするケースが多いのです。

今日、私は半年に1回のガンの定期健診に行ったのですが、病院ではちょうど乳ガンの医学講座がひらかれていました。乳ガンの場合、治癒率が高いイメージがありますが、20年間も再発をくり返していたというのは、精神的なストレスだけでも相当なものがあったはずです。それでもまわりにさとられずに、明るく仕事をこなしていたというのは、何度もくり返しますが、ホントに立派ですね。それは、精神的に強いというだけでなく、やはりしっかりした死生観をもっていたからではないでしょうか。

たまたま今、ホリスティック医学を実践している川越市の帯津三敬記念病院の帯津良一医師(名誉院長)と作家の五木寛之氏の対談集『生死問答』(平凡社ライブラリー)を読んでいるのですが、最近、私も自分の死についてやたら考えるようになりました。最期をどういうふうに迎えるか、というのはすごく切実な問題です。お二人が口をそろえて言っているように、いわゆる老人病院のベットの上で、体中に管を通され、経菅栄養でかろうじて生きながらえているような、そんな最期は私も嫌だなと思います。しかし、自分ではどうにもならないこともありますので、成り行きでそうなるかもしれません。その場合、どうやって自分の死を受け入れればいいんだろうと思ったりします。

理想はやはり、孤独死です。いつもの朝がきていつもの夜がくるいつもの日常のなかで、誰にも知られずにひっそりと、そして苦しまずに死ねたらいいなと思います。『生死問答』でも言ってましたが、野生の動物が死期が近づくと群れから離れて姿を消す習性は、人間のなかにもあるような気がします。むしろ家族に看取られて死ぬのは、この世に未練を残すことになるので、苦しいのではないでしょうか。

死は永遠の別れではありません。いっときの別れにすぎないのです。愛しい人とはきっといつか再び巡り会うことができるはずです。それを仏教では「倶会一処」というのですが、(前も同じことを書きましたが)これからも何度も何度もこの言葉を胸の内でくり返しながら、やがて自分の順番がくるのを待つことになるのでしょう。それが人生なのです。
2011.04.22 Fri l 訃報・死 l top ▲
井上ひさし

私が本を読みはじめた頃、五木寛之と野坂昭如と井上ひさしは三大スターでした。みんな若くて、旺盛な創作活動をされており、新刊が出るのが楽しみでした。特に、野坂さんと井上さんは社会問題についても積極的に発言していました。世の中も今では考えられないくらいリ自由な言論であふれていました。

でも、最近の五木寛之は仏教の伝道師のようですし、野坂昭如は脳梗塞で倒れてリハビリ中で、そして、昨日、井上ひさしが亡くなったというニュースがありました。その分自分が年をとるのも当然ですね。個人的には野坂昭如に「リハビリ小説」を書いてもらいたいと思っていますが、今の状況ではとても叶わぬ話のようです。

やはり、文学というのは若いときのものなのかと思います。介護されている老人で小説を書くような人は出てこないのでしょうか。多少認知が入っていても、それはそれで文学的な意味はあると思います。私は、大庭みな子のご主人の大庭利雄氏が書いた『終わりの蜜月-大庭みな子の介護日誌』(新潮社)と大西成明氏の写真集『ロマンティック・リハビリテーション』(ランダムハウス講談社)にすごく感銘を受けたのですが、それを「受ける」側の視点で書いた本が出てこないかなといつも思っています。

井上ひさしは、子ども頃生活苦から児童養護施設に入っていたこともあったそうで、やはり親戚の家に預けられた寺山修司の境遇と似ています。そういう生活の中で、子どもを東京の大学にやったお母さんは、学歴がどうのという問題を超えてホントに偉いなと思います。それが寺山修司や井上ひさしを生んだのです。ただ、井上さんの場合、子どもの頃、義父から受けた暴力がのちのご自身のDVへとつながっており、幼児体験がそういった暗い影も落としていたようです。

井上ひさしの人となりについては、マガジン9条の「鈴木邦男の愛国問答」で、鈴木邦男氏が「井上ひさしとクニオ」という文章を書いていましたが、いかにも井上ひさしらしいエピソードだなと思いました。
2010.04.11 Sun l 訃報・死 l top ▲
前も書きましたが、先月は非常に忙しかったので、今月はゆっくりできるかなと思っていました。久しぶりに九州に帰ろうかなんて考えていたくらいです。

ところが、ありがたいことなのですが、「特別企画」で大変多くのご注文をいただき、今月も寝る間もないような忙しい毎日がつづいています。細切れの睡眠しかとれないので、当然身体もきついのですが、それより精神的にしんどくてなりません。終日、パソコンの前にすわって仕事をしていると、それこそ頭がおかしくなるんじゃないかと思うときがあります。特に深夜にひとりで起きていると、精神的に追い込まれていく感じで、朝になって新聞配達のバイクの音がするとホッとするのです。

仕事でも2度大きなミスをおかして、お客様にご迷惑をおかけすることになりました。それでよけい自己嫌悪に陥っています。

ところで、今日、作家の立松和平氏が亡くなったというニュースがありました。田舎にいた若い頃、立松氏の小説に田舎に蟄居する自分を重ねてよく読んでいました。ある日、テレビを見ていたら、田んぼか何かの中に立っている彼が沈痛な表情で謝罪している姿がありました。なんだろうと思ったら、それが『光の雨』の盗作事件でした。私はリゴリストではありませんが、でもそのときなぜか「裏切られた」と思いました。それ以来、立松和平氏の書いたものを手にすることはありませんでした。

全共闘世代を代表する文芸評論家で、立松和平氏のよき理解者であった黒古一夫氏が、その後筑波大学大学院の教授になっていて、ブログを書いているのを最近知りました。しかし、黒古氏のブログを読むにつけ、正直「こんなもんか」という感想しか持てませんでした。後発の世代から見ると、全共闘体験を特権化した時点で、既に今日の”退行”がはじまっていたような気がします。今の若い人達は、団塊の世代=全共闘世代なんて単なる食い逃げ世代で、いい気なもんだくらいにしか思っていませんが、もう彼らにはそんな若者達の呪詛の声を受け止めるデリカシーさえ残ってないのかもしれません。「優しい」「誠実」「実直」「素朴」というのが作家としてどれだけの価値があるのかわかりませんが、たしかに62歳というのは早すぎる気がします。
2010.02.09 Tue l 訃報・死 l top ▲
加藤和彦

加藤和彦の自殺はショックでした。もちろん、加藤和彦は私達より上の世代なので、「帰ってきたヨッパライ」も必ずしも同時代的に聴いていたわけではありません。しかし、フォークル(フォーク・クルセダーズ)の音楽が内包する社会性やその自由なスタイルをたどることで、来るべき大学生活に思いを馳せ、少し社会の窓がひらかれたような気がしたものです。フォークルが解散して、北山修が大学に戻り精神科医をめざしたというのもなんだか「カッコいいな」と思いました。

私達は全共闘運動に乗り遅れた世代なので、鴻上尚史の『ヘルメットをかぶった君に会いたい』(集英社)ではないですが、この一大ムーブメントから生まれた「旧来の文化的・思想的規範に対する、新たな対抗文化」(絓秀美著『1968』)によけいあこがれる気持がありました。自前のスタイルにこだわるというのは、既成の権威を否定し、与えられたレールには乗らないということで、それはそれで、当時としてはすごくラジカルなことだったのです。

そのあとのサディスティック・ミカ・バンドもカッコよかったし、また、二番目の奥さんの安井かずみが亡くなったとき、いかにも加藤さんらしい穏やかな語り口で、クリスチャンだった亡き妻のことを話していた姿が今でも印象に残っています。

私達にとっても、”うつ”も含めて加藤和彦が直面した問題は決して他人事ではありません。むしろ、ついにそこまできたかという感じさえあります。なんだか今までのように「死にたいやつは死なせておけ、俺はこれから朝飯だ」と言えない自分がいるのです。
2009.10.19 Mon l 訃報・死 l top ▲
永井荷風は、誰にも世話にならずに、ある日突然ひとりでこの世を去ることをひたすら願い、実際に願いどおりに「孤独死」ができたのですが、私も同じように、誰にも世話にならずにひとりでひっそりと死ねたらどんなにいいだろうといつも思っています。

大原麗子さんの「孤独死」について、あまりにもさみしい最期だというような言い方がありますが、もしかしたら大原さんも同じようにひとりでひっそりこの世を去ることを願っていたのかもしれません。

こんな言い方は不謹慎かもしれませんが、私は、大原麗子さんの「孤独死」を羨ましく思いました。まして苦しんだ様子もないそうで、理想的な最期だったように思えてならないのです。

荷風の日記『断腸亭日乗』(岩波文庫)は死の前日まで書き記されていますが、最後(昭和33年4月29日)は次のような一行で終わっていました。

四月廿九日。祭日。陰。


たったこれだけの文字の中にも底なしの孤独感と好き勝手に生きてきた満足感と、そんな人生に対する諦観が垣間見える気がします。それをどうして「あまりにもさみしい最期だ」と決めつけることができるのでしょうか。それは生きている人間の傲岸のように思えてならないのです。もしかしたら荷風も大原麗子さんも、草葉の陰で「同情無用」と言っているのもしれないのです。
2009.08.10 Mon l 訃報・死 l top ▲
平岡正明

遅ればせながら、平岡正明氏が今月の9日、脳梗塞のため亡くなったことを知りました。よく横須賀線を利用するのですが、保土ヶ谷を通るとき、ときどき平岡正明氏のことを思い出したりしていました。野毛には千回通ったと書いていましたが、保土ヶ谷から愛用のバイクに乗って野毛や伊勢佐木町や福富町などに通う中で、あの名著『横浜的』(青土社)が生まれたのです。

高校時代、図書室にあった日本読書新聞で、当時「世界革命浪人」などと名乗っていた平岡正明(ヒラオカセイメイ)氏の犯罪とジャズに関する文章を読んで以来、文字通りジャズのアドリブを地で行くような平岡氏の文章のファンになりました。『韃靼人宣言』・『ジャズ宣言』・『ジャズより他に神はなし 』・『あらゆる犯罪は革命的である』・『闇市水滸伝 』・『マリリン・モンローはプロパガンダである』etc、なんだか見てはいけないものを覗き見るような感じで、心臓を高鳴らしながら読んだ覚えがあります。

平岡正明氏には、五木寛之氏や山下洋輔氏や筒井康隆氏やタモリなどにつながる”人脈”がありますが、それをつなぐのは言うまでもなくジャズです。山下洋輔トリオの復活のステージを見ずして亡くなられたのはかえすがえすも残念でなりません。今から25年以上前に書かれた『おい、友よ』(PHP新書)という本で、あまりに過激な内容のために発売禁止になったタモリの「戦後日本歌謡史」を高く評価し、「タモリを応援せよ」と言った平岡正明氏に、今の「いい人」タモリを見てどう思っているか、一度聞いてみたかった気がします。

横浜に関して言えば、野毛の大道芸やジャズ祭などとの関わりを見てもわかるとおり、アジテーター&オーガナイザーとして面目躍如といった感じがありました。

0時0分0秒、停泊中の巨船の咆哮を合図に大小の船が競って汽笛を鳴らした。隣のフォルクスワーゲンの男は、日本人だと思うが、フィリッピンあたりの人かな、手をひろげて「オー・イエース」と言いやがった。空冷エンジン、うるさいんだよ。でも横浜だからゆるしちゃう。
 シルクホテルは、消防法基準に合致していないとかで、ホテル・ニュージャパンの火災のあと自主的に営業中止しているはずだが、その五階の暗い窓を開けて、ハラリとフランス国旗がたれ下がった。拍手するドライバーがいる。フランス人よ、なにもフランスを支持しているわけではないのだぜ。われわれ日本人はお祭り好きなんだよ。
 海面を渡ってきた汽笛が海岸通りの建物の列でドッブラー効果をおこし、町全体がオルガンのように鳴り響いた。その音はたしかに除夜の鐘に似ていた。(「港ヨコハマ・除夜の汽笛」)


こういった文章を読むと、やはり横浜が好きだったんだなと思います。
2009.07.21 Tue l 訃報・死 l top ▲
緒形拳は肝臓ガンだったことをまわりには内緒にしていたようですが、病院で最後を看取った津川雅彦は、緒形拳のことを「最後の最後まできちんと生きた」と言ってました。先日亡くなった深浦さんにしても緒形拳にしても、ホントに立派だなと思います。

私のまわりにも二人、やはりガンと闘っている人がいますが、いづれも手術したあと仕事に復帰して前向きに生きています。一人は余命半年と言われたので、自分で経営していた会社も畳んで手術に臨んだのだそうです。幸い手術に成功し、今は新しい就職先を見つけて元気に仕事をしています。ただ、常に再発や転移におびえていると言ってました。

もう一人もやはり手術して仕事に復帰していますが、今年は2週間も夏休みを取るというので、「どこかに行くのですか?」と訊いたら、「ちょっと旅行に行こうと思って」と言うのです。それで、「羨ましいですね~」と言ったのですが、あとで聞いたら検診で転移が見つかったので手術をしたのだそうです。

もしかしたら二人とも5年後の生存率が40%とか50%というような中で生きているのかもしれませんが、そんな心の内は微塵も見せずいつも元気で前向きです。自分もいつかは同じような状況に遭遇するかもしれませんが、そのときは皆さんのように最後まできちんと生きることができるだろうかと考えたりします。

>>人生の絶対量
2008.10.08 Wed l 訃報・死 l top ▲
女優の深浦加奈子さんが亡くなったというニュースを聞いてびっくりしました。深浦さんとは以前、友人がやっていた店で何度かお目にかかったことがあります。とても気さくで明るい方でした。ちょうど「たそがれ清兵衛」が公開されたあとだったので、その話をした覚えがあります。新聞記事によれば、5年前にS状結腸ガンを発病され、闘病しながら仕事をされていたそうです。ということは、あの頃はもう既にガンを発病されていたのでしょうか。あの明るい笑顔からはとてもそうは見えませんでした。

速度が問題なのだ。人生の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。細く長くか太く短くか、いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかにない。どのくらいのはやさで生きるか?
『いつだってティータイム』


これは、若い頃好きだった作家の鈴木いづみの言葉です。最初にこの言葉と出会ったのは、まだ高校生のときでしたが、九州の片田舎の高校生には衝撃的な言葉でした。五木寛之は鈴木いづみのことを「一周速すぎるトップランナーだ」と言ってました。よく考えれば、この言葉には日本の仏教の死生観と通じるものがあるように思います。

人生だけでなく、愛情の絶対量も苦しみの絶対量もはじめから決まっているのかもしれません。この宇宙の時間の中で見れば、私達の一生なんてそれこそ瞬きするほどの一瞬のことでしかありません。そう考えると、なんだかこんな人生でもいとおしく感じられるものです。煩悩具足の凡夫たる私達はそう思ってこの生を全うするしかないのでしょう。
2008.08.26 Tue l 訃報・死 l top ▲
3月3日、詩人の松永伍一氏が亡くなったという記事をネットで見ました。

私は若い頃、松永氏の本を愛読していた時期がありましたので、またひとり人生の先達がいなくなったのかと思うと、やはりさみしさを覚えてなりません。松永氏のことは、松永氏と同郷の五木寛之の本を通して知りました。

私は、松永氏に二つのことを教えられた気がします。

ひとつは、ふるさとというものについてです。当時、田舎に蟄居していた私にとって、ふるさととはなんだろうという疑問がいつもつきまとって離れませんでした。ふるさとはいいものだとは言えないし、だからといってふるさとはくだらないとも言えない、そんな相反する二つの気持が私の中にありました。そんな中、松永さんの『ふるさと考』(講談社現代新書)という本の中に、「愛憎二筋のアンビバレンツな思い」という言葉を見つけて、文字通り自分の気持を言い当てられたような気がしました。松永氏は、ふるさとというのは求心力のようであって実は遠心力でもあるのだ、と書いていました。

もうひとつは、ナショナルリズムについてです。それはご自身が影響を受けた谷川雁の考えを源流とするものかもしれませんが、松永さんは、ナショナルなものを掘り下げていくとインターナショナルなものに行き着くと常々言ってました。五木寛之が『戒厳令の夜』で描いたのもそういった土俗的なナショナリズムが反転した先にある、汎アジアからヨーロッパへと連なる壮大なインターナショナリズムの世界でした。実際、九州の歴史や習俗などを辿っていくと半島や大陸や南島に行く着くのはよく知られているとおりです。もとよりかつて九州には渡来人もいたし熊襲もいたし隼人もいたのです。私達九州の人間の中にはそんないろんな民族の血が混じっているのはたしかでしょう。

ちなみに、松永氏と親交のあった俳優の西郷輝彦は、危篤の知らせを受けて病院に駆けつけ臨終に立ち会ったそうで、ご自身の西郷輝彦のつぶやきblogの中で松永さんに寄せる思いを綴っていました。
2008.03.05 Wed l 訃報・死 l top ▲
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早朝、郵便局に行く途中、しばし橋の上から落ち葉がたゆたう川面を眺めながら、前日、学生時代の友人から届いた手紙のことを考えていました。

それは、同級生の女の子の訃報を知らせる手紙でした。癌だったそうです。

その手紙には、手術して一旦元気を取り戻したとき、一緒に上野の美術館に行って楽しいひとときをすごしたのがいい思い出です、と書いていました。

別の友人にその話をしたら、「運命だよ」と言ってました。冷たい言い方に聞こえますが、しかし、私達はもはやそんな言い方をするしかないのかもしれません。

死にたいやつは死なしておけ、俺はこれから朝飯だ

これは、昔、作家の吉行淳之介さんのエッセイの中で紹介されていた詩の一節です。作者の名前も詩の題名も覚えていないけど、このフレーズだけが何故か頭に残っている、と吉行さんは書いていました。

この作者の気持はすごくわかりますね。「運命だよ」と言った友人の気持も同じだったのではないでしょうか。

このところ、以前親しくしていた人の悲しい知らせがつづいています。いづれも鬼籍に入るにはまだ早すぎる年齢の人達ばかりです。

先日も仕事で親しくさせていただいた方が亡くなりました。

別に胸騒ぎがしたわけでもないのですが、ふと思いついて、その方の仕事先を訪ねたところ、事務の女性から「エッ、知らなかったんですか? 昨日、葬儀だったんですよ」と言われてびっくりしました。仕事を終えて職場を出た途端倒れて、そのまま還らぬ人となったのだそうです。

お宅に伺うと、奥さんから「連絡しなくてすいませんでした」と言われました。急に亡くなったので、住所録もどこに仕舞ってあるかわからなかったのだそうです。

その方からもらったメールが今も受信フォルダに残ったままです。そのメールを読み返すたびに悲しくもあるけれどなんだか不思議な気持になります。

「倶会一処」

人生は出会いと別れのくり返しと言いますが、これからも何度も何度もこの言葉を胸の内でくり返さなければならないのでしょうか。
2007.04.18 Wed l 訃報・死 l top ▲