ネットに出ていた上原多香子が不倫相手と交わしたLINEの文章を読んでいたら、ふと柳原白蓮のことを思い出しました。

私は、高校生のとき、持病があり、月に一度かかりつけの病院に通っていたのですが、その際、赤銅御殿の前を通って病院に行ってました。隣にキリスト教系の女子高があり、下校時にそこの生徒たちと遭遇すると、遠慮のない視線を浴びせられ、思春期の真っ只中にあった私は、いつの間にか耳たぶが熱くなっているのがわかるのでした。赤銅御殿は、既に人手に渡り旅館になっていましたが、高い石塀と庭木に囲われた目を見張るような豪邸は、昔のままの姿で残っていました。

成り上がり者の炭鉱王・伊藤伝右衛門は、大正天皇の従妹にあたる25歳下の白蓮のために、贅を尽くした別邸を大分県別府市の海が見渡せる高台に作ったのです。歌人でもあった白蓮は、赤銅御殿に多くの文人や歌人を招き、サロンのように使っていました。白蓮は、赤銅御殿で、脚本の上演許可をもらいに来た7歳年下の東京帝国大生・宮崎龍介(孫文を支援した右翼の巨頭・宮崎滔天の長男)と知り合い、やがて手に手を取り合って出奔するのでした。姦通罪が存在していた時代の、文字通りの“不倫の恋”です。東大の新人会(戦前の学生運動の団体)に属し、進歩的な思想をもっていた宮崎龍介は、男と女が「肉の欲」に負けるのは別に悪いことではないと白蓮に言います。貞淑な上流婦人であった白蓮は、「肉の欲」というあけすけなことばに衝撃を受け、宮崎龍介に惹かれていくのでした。

上原多香子も、不倫相手にLINEでこう書き送っています。

NEWSポストセブン
上原多香子 不倫LINEで「止められなくなる」「そばにいて」

上原《私、結婚ってとっても大きなことで人生の分岐点だったこともあるー だから、離婚するとか浮気は、もうあり得ないって思ってたのね でもさー、トントンに伝えられなかった好きと、やっぱり大好きと、私の一方的やけど肌を合わせて感じるフィット感が今までとはまったく違うの。》


上原《私はそんなに器用じゃなくて、、旦那さんとの生活を続けながら、トントンを想い続けること、トントンに想いがすべて行ってる中、騙し騙し旦那さんと居ることが、やっぱり出来ないです。(中略)今すぐにでも、すべて捨ててトントンの元へ行きたいです。だけど、私ももう大人、、いろんな問題があるし、私だけの想いでトントンに迷惑はかけられません。今すぐは難しいかもしれないけど、私も少し大人になって、ちょっとずつ、旦那さんと別の道を歩めるようにします。こんな気持ちでは絶対に旦那さんに戻れない。》


なんと、ぞくぞくするような愛の告白でしょうか。不謹慎を承知で言えば、これこそが不倫の恋の醍醐味とも言えるのです。上原多香子が不倫相手に送った「2人の子供作ろうね」ということばが、元夫が自殺する決定的な要因になったのではないかと言われていますが、でも、人間というのは自分でもままならないもので、道ならぬ恋だからこそ、よけい燃え上がるというのはあるでしょう。

元夫が自殺した責任を問う人もいますが、それは他人がとやかく言う問題ではないでしょう。自殺しているのを発見した際、彼女はひどく取り乱して、警察の取り調べにも応じられなかったと言われています。また、自殺によって不倫相手とも別れているのです。

柳原白蓮は、世間から「淫乱女」だと指弾され、石を投げつけられたのですが、上原多香子に対する世間の反応も同じです。姦通罪はなくなっても、不倫ということばは生きつづけているのです。でも、不倫なんて誰でもあり得ることです。恋に「良いか悪いか」なんてないのです。

不倫の恋に身を焦がしたのは、上原多香子や柳原白蓮だけではありません。栗原康氏が『村に火をつけ、白痴になれ』で書いていますが、伊藤野枝も「不倫上等」のような人生を送っていました。『美は乱調にあり』で伊藤野枝の伝記を書いた瀬戸内寂聴自身も、大学教員だった夫の教え子と不倫をしています。さらにそのあと井上光晴との不倫もよく知られています。みんな、上からのお仕着せのイデオロギー(道徳)ではない、自前の論理や感性で生きた人たちなのです。

上原多香子のことを「芸能界から追放必至」などと書いていたスポーツ紙がありましたが、芸能界というのは、本来、公序良俗の市民社会の埒外に存在するものです。名女優と呼ばれている人たちも、不倫の恋に身を焦がして女優として羽ばたいた人が多いのです。女優にとって奔放であることは決してマイナスではないはずです。

むしろ、今になって(元夫が盗み見た)LINEのやり取りや遺書を公表したり、4千万円だかの金銭を要求したと言われる元夫の家族こそ、眉に唾して見るべきでしょう。


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2017.08.12 Sat l 芸能 l top ▲
前回の記事のつづきになりますが、その後、ノンフィクションライターの田崎健太氏が、『週刊現代』に連載している「ザ芸能界」で、能年玲奈の問題を取り上げていました。

現代ビジネス
能年玲奈「干されて改名」の全真相 〜国民的アイドルはなぜ消えた?

記事によれば、当初『週刊文春』が伝えた能年の給与が「月5万円」というのは、事実だそうです。所属事務所・レプロの担当者もそれを認めているそうです。担当者に言わせれば、その代わり、高級マンションに住まわせ(と言っても、4~5名の共同生活)、その家賃など「生活全ての面倒を見て、レッスン代、交通費などの関連費用も全部こちらで持った上で、さらに小遣いが5万円ということ」だとか。

でも、駆け出しとは言え、彼女たちはタレントなのです。レッスンだけしているわけではなく、いくらかなりとも報酬(ギャラ)を得ているはずです。事務所はそれをピンハネしているのです。それで、「小遣い」はないだろうと思います。

赤字だろうが、先行投資だろうが、こういったシステム自体が前近代的で、レプロの主張は女郎屋、あるいはタコ部屋の論理と同じです。芸能界というのは、前近代的な、労働基準法も及ばないブラックな論理が、さも当たり前のように未だにまかり通っている世界なのです。

「あまちゃん」で売れたので、これから投資した分を回収しようとした矢先、独立したいと言い出したため、レプロが激怒したのは容易に想像がつきます。芸能マスコミに能年玲奈の「洗脳」記事がいっせいに流れたのは、その頃でした。

記事で注目されるのは、能年の顧問弁護士が初めて口を開いたことです。顧問弁護士の星野隆宏氏は、有名芸能人の顧問を務める弘中惇一郎弁護士などと違い、外資系法律事務所に所属する商事紛争が専門の裁判官出身の弁護士だそうです。今まで芸能界と付き合いのない弁護士だからこそ、その主張は芸能界の問題点を的確に衝いているように思いました。

星野はレプロに限らず、日本の芸能プロダクションの、所属タレントに対する姿勢を問題視する。

「確かに、レプロは彼女にコストを掛けたかもしれない。ただ、それはビジネスだから当然のことです。

事務所に集められた全員が成功するわけではない。本人の努力や運、さまざまな要素がかかわってくる。事務所はそうして成功したタレントをうまく活用すればいい。それがマネジメントです。

しかし現状は、あたかもタレントを事務所の所有物のように扱いコントロールしている。タレントに対し、とにかく逆らうな、言った通り仕事をしろ、という発想がある」

仕事をしたいと主張する能年に対して、レプロは「事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない」と言うのだそうです。

「我々が(代理人として)入ってからは、常に彼女は仕事をやりたがっていました。『仕事をください』という要求を、6回も書面で出しています。するとレプロ側は『事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない』という回答を送ってきた。

『では、その信頼関係はどうやったら作れるんですか』と返すと、『社長との個人的な信頼関係がなければ仕事はあげられない』。

そして、弁護士を介さずに社長と本人の一対一で話し合いをしたいと言う。ただ、代理人がついた事件で、当事者同士が直接交渉するということは、弁護士倫理上も許容できない。到底認められなかった」


芸能界は、まさにヤクザな世界なのです。テレビ局や芸能マスコミがそのヤクザな世界に加担しているのです。彼らは、女郎屋&タコ部屋の論理を追認しているのです。

ただ、そういったテレビ局や芸能マスコミの姿勢に、視聴者や読者から批判的な見方が出ていることもたしかです。”音楽出版利権”に見られるように、芸能界のボスと結託して甘い汁を吸っている彼らの”裏の顔”は、既に多くの視聴者や読者の知るところとなっているのです。
2016.11.08 Tue l 芸能 l top ▲
と言っても、現在、彼女は芸能界では「能年玲奈」という名前を使えないのだそうです。そのために、「のん」などという犬か猫のような芸名を名乗っているのです。

しかも、驚くべきことに、「能年玲奈」というのは本名だそうです。芸能活動するのに、本名の「能年玲奈」を名乗ることができないのです。そんなバカと思いますが、それが芸能界のオキテなのです。そのあたりの事情については、リテラが『週刊文春』の記事をもとに、つぎのように書いていました。

「週刊文春」の記事によると、契約が終了する間近の6月下旬、レプロから能年側に、昨年4月から今年の6月まで彼女が事務所側からの面談に応じなかったため仕事を提供できなかったとして、その15カ月分の契約延長を求める文書が送付されてくるとともに、もう一つ申入れがあったという。

 それは、契約が終了しても「能年玲奈」を芸名として使用する場合には、レプロの許可が必要というものであった。「能年玲奈」は本名であるため、前所属事務所に使用を制限される謂れはないが、「週刊文春」の取材を受けたレプロ側の担当者は「一般論として、その旨の契約がタレントとの間で締結されている場合には、当事者はその契約に拘束されるものと考えます」と答えたと記されている。

 その「契約」とは、いったい何なのか。レプロを含む、バーニング、ホリプロ、ナベプロなどの大手芸能プロは、彼らが加盟する日本音楽事業者協会(音事協)の統一の契約フォーマットを使っているのだが、そこにはこのような文言があると「週刊文春」の記事には記されている。ちなみに、ここでの「乙」は能年玲奈を、「甲」はレプロを指している。

〈乙がこの契約の存続期間中に使用した芸名であって、この契約の存続期間中に命名されたもの(その命名者の如何を問わない。)についての権利は、引き続き甲に帰属する。乙がその芸名をこの契約の終了後も引き続き使用する場合には、あらかじめ甲の書面による承諾を必要とする〉

 レプロ側は、契約書にあるこの一文を根拠に「能年玲奈」という名前の使用に関する権限をもっていると主張しているのだが、芸名ならまだしもこれが本名にも適用されるのかは疑問だ。実際、記事で取材に答えている弁護士も、公序良俗違反でこの契約条項は無効になるのではないかと考えを示している。

 だが、能年側は、レプロのこの要求を呑んだ。「能年玲奈」という名前を使い続けることで、もしも裁判などになれば、今度は一緒に仕事をする相手に迷惑がかかることを危惧したからだ。

リテラ
卑劣! 能年玲奈に「本名使うな」と前事務所から理不尽すぎる圧力が! 能年を完全追放のテレビにクドカンも苦言


音事協の統一の契約フォーマット。それこそが竹中労が言う「奴隷契約書」です。日本の芸能界と、日本の芸能界のノウハウが持ち込まれた韓国の芸能界を支配する「奴隷契約書」にほかなりません。本名すら名乗ることさえできないなんて、まるで中世の世界です。

先月、能年玲奈は、台風10号の豪雨で被害に遭った「あまちゃん」の舞台・岩手県久慈市を訪問し、地元で熱烈な歓迎を受けたのですが、しかし、テレビでこのニュースを伝えたのはNHKだけで、ほかの局はいっさい無視したのでした。新聞も朝日と一部のスポーツ紙が小さく伝えたのみでした。

何度もくり返し言いますが、テレビ局をはじめとする芸能マスコミが芸能界をヤクザな世界にしていると言っても過言ではないでしょう。芸能記者や芸能レポーターたちは、アメリカに尻尾を振るだけのどこかの国の「愛国」政治家と同じで、芸能界を支配するヤクザな人種に媚びを売るだけの”金魚の糞”にすぎないのです。

高江には足を運ばないテレビ局が、高樹沙耶のことになると大挙して石垣島に押しかけ、例によって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の罵言を浴びせていますが、高樹沙耶なんかより能年玲奈のほうがはるかに大きな問題でしょう。誰が見ても重大な人権侵害があることは明らかで、芸能人にとっても看過できない問題のはずです。しかし、「とくダネ!」も、「スッキリ!」も、「モーニングショー」も、「ビビッド」も、「サンデージャポン」も、能年玲奈の問題を取り上げることはありません。テリー伊藤も、マツコデラックスも、坂上忍も、松本人志も、爆笑問題も、デーブスペクターも、加藤浩次も、誰ひとり能年玲奈の名前を口にすることはないのです。私は、彼らがわけ知り顔にこましゃくれたことを言っているのを見るにつけ、ちゃんちゃらおかしくてなりません。

能年玲奈は、来月から公開される長編アニメ映画『この世界の片隅に』の主役の声優をつとめ、これが事実上の芸能界復帰作と言われていますが、NHKを除いて民法各局は同作品のプロモーションもいっさい拒否しているのだとか。能年玲奈がテレビの画面に映ることさえ許されないのです。一方で、TBSはレプロに所属する新垣結衣を新しいドラマの主役に起用しているのです。また、日テレの「ZIP!」の総合司会には、先月からレプロ社長のお気に入りと言われている川島海荷が抜擢されています。これでは、能年玲奈の問題を取り上げるなど夢のまた夢と言えるでしょう。

独立した芸能人が干されるのも、干そうと画策するプロダクションの意向を受けて、テレビ局などがそれに加担するからです。そうやって芸能界をヤクザな世界にしているのです。テレビ局も共犯者なのです。


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2016.11.04 Fri l 芸能 l top ▲
高畑裕太の不起訴&釈放には驚きました。

逮捕された容疑が「強姦致傷」なので、被害者の告訴がなくても捜査は進められ起訴も可能だったはずです。意外な結末と言えるでしょう。示談が成立したことによって、捜査に被害者の協力が得られず、公判の維持が難しいと判断したからではないかという専門家の解説がありましたが、さもありなんと思いました。被害者が、示談でもなんでもして早く事件を忘れたいと思っても、誰も責められないでしょう。

ネットで「高畑裕太」と検索すると、「高畑裕太 被害女性」「高畑裕太 被害女性画像」などと予測候補のキーワードが表示されますが、いちばんゲスなのは善良な仮面をかぶった世間なのです。テレビのワイドショーの視聴者であり、Yahoo!ニュースにアクセスするのを日課にしているネットの利用者であり、週刊文春や週刊新潮の読者です。そんなゲスな世間の目から、被害者のプライバシーを守ることをなにより優先しなければならないのです。逆に言えば、それだけ強姦が卑劣な犯罪だということなのです。肉体的な被害だけでなく、精神的な被害も深刻な問題なのです。まして、加害者が有名人であれば尚更でしょう。

弁護士が、お金にものを言わせて性犯罪被害者の苦悩に付け込み、泣き寝入りするように追い込む。テレビドラマでも見ているような、そんな想像をしました。「ママのおかげだよ」と言って母親の腕にすがり付きながら、陰で薄ら笑いを浮かべている、なんてことがないように願うばかりです。

高畑裕太を担当したのは、「無罪請負人」として有名な弘中惇一郎弁護士の事務所だそうです。弘中弁護士と言えば、ロス疑惑の三浦和義(無罪)、薬害エイズの安倍英(一部無罪)、厚労省村木事件の村木厚子(無罪)などを担当した”辣腕”弁護士です。かつては『噂の真相』の顧問弁護士もしていました。

また、不起訴&釈放に際して、弁護士がコメントを出したことにも驚きました。弁護士がコメントを出すこと自体、異例だそうです。高畑裕太の話しか聞いておらず、「事実関係を解明することはできておりません」と言いながら、まるで事件が”冤罪”であったかのように一方的な主張を述べているのでした。強姦事件では、コメントにもあるように、加害者側の弁護士が「合意だった」とか「被害者にも落ち度があった」と主張するのはよくあることで、被害者は公判でも二次被害を受けることが多いのだそうです。そのため、示談、告訴の取り下げ(不起訴)に至るケースも多く、性犯罪の起訴率は50パーセントにも満たないと言われています。

コメントに対しては、私は、下記の千田有紀氏と同じような感想をもちました。

Yahoo!ニュース
高畑裕太さん釈放後の弁護士コメントは、被害者女性を傷つけてはいないか?

コメントは、被害者がなにも言えないことをいいことに、言いたい放題のことを言っているような感じさえするのでした。コメントを受けて、さっそく「推定無罪」がどうとか、(日刊ゲンダイのように)被害者の女性の素性がどうとかいった話まで出ていますが、弁護士にすれば、「してやったり」という感じなのかもしれません。

通常、こんな一方的なコメントを出すことは考えれないので、コメントを出すことも示談で合意されていたのではないかと言われていますが、仮にそうだとしてもなんだか残酷な気がしてなりません。“不合理な裏事情“を感じてならないのです。
2016.09.11 Sun l 芸能 l top ▲
今日、リテラに下記のような記事が出ていました。

リテラ
上西小百合の太田光代批判は正しい! おかしいのは「『サンジャポ』に出るな」と上西を恫喝した光代のほうだ

私も、最初、下記のYahoo!ニュースの記事を見たとき、リテラと同じような感想を持ちました。

Yahoo!ニュース
ディリースポーツ
上西議員、太田光代氏に謎のかみつき 「文句あるならサンジャポ出るな」と一蹴される

上西小百合議員の言っていることは、至極真っ当です。「テレビの閉塞感の代表」が太田光代とテリー伊藤だというのは、まったくそのとおりでしょう。

太田光代が代表を務める芸能プロ「タイタン」が、大阪府知事になる前から橋下徹氏のマネジメントをしてきたのはよく知られていました。それは今も変わっていません。それどころか、橋下氏は「タイタン」の顧問弁護士でもあるのです。

上西議員は、「タイタン」が政界復帰を目論む橋下氏とタッグを組んで、彼の芸能活動に手を貸していることにチャチを入れたかったのでしょう。ニュースを扱うサンジャポの爆笑問題は、一見“客観”を装いながら、背後では橋下氏の野望に手を貸しているじゃないかと言いたかったのかもしれません。橋下氏にとって、芸能活動が“政治家・橋下徹“の隠れ蓑であることはあきらかなのです。

それに対して、太田光代は、「サンジャポに文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」と言い返したそうです。まるでサンジャポをみずからがプロデュースしているかのような発言です。

私も、その発言を読んで、太田光代は何様のつもりだと思いました。「タイタン」は爆笑問題の威光を笠に、出演者の人事権まで握っているのかと思いました。

「タイタン」は、爆笑問題が太田プロから独立したのに伴い、仲間内で作った事務所だそうです。爆笑問題のマネージャーも、彼らの出身大学である日芸(日本大学芸術学部)の同級生が務めているという話を聞いたことがあります。それが、いつの間にか芸能界のドンまがいの発言をするまでになったのです。それもひとえに、芸能界がアンタッチャブルな世界だからでしょう。

何度も言いますが、芸能界をアンタッチャブルな(ヤクザな)世界にしているテレビ局や芸能マスコミの責任は大きいのです。メーン司会者とは言え、一介の出演者の所属プロダクションの社長に、「文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」などと言わせるサンジャポスタッフのだらしなさを痛感せざるをえません。こういった思い上がりを許しているから、芸能界のドンのような輩が生まれるのです。

ネットでは上西議員に対して批判的な見方が多いようですが、それは常に水は低いほうに流れるネットの特質によるもので、上西議員の発言は、意外にまともなのが多いのです。「炎上」と言っても、上西議員が言うように、せいぜい10人程度が騒いでいるだけで、それをニュース(とも言えないようなニュース)をマネタイズするためにアクセスを稼ぐことに腐心するネットメディアが、大げさに取り上げて煽っているだけなのです。


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人間のおぞましさ
2016.09.06 Tue l 芸能 l top ▲
イニシャルで書いてもバレバレですが、俳優のW・Tが、糖尿病の合併症で人工透析を受けているのはどうやらホントのようです。週刊誌によれば、マネージャーもそれを認めているそうです。

マネージャーは、「症状はそれほど重いものではありません」と答えていたそうですが、しかし、糖尿病で人工透析まで至ったというのは、どう考えても重くないとは言えないでしょう。

糖尿病の末路は悲惨なものです。さまざまな合併症を併発して、徐々に身体が蝕まれていく糖尿病の怖さは、その現実を知らない人にはなかなか理解できないでしょう。糖尿病予備軍やまだ初期の段階にある人たちのなかには、どうにかなるだろうとタカをくくっている人も多いのですが、でも、どうにもならないのです。よほど覚悟を決めて食生活を改善しなければ、悲惨な末路が待っているだけなのです。

旧知の病院で人工透析を担当する老ドクターは、私にこう言いました。

「これは医療ではないんだよ。医療とは言えないんだよ」
「どうしてですか?」
「だって君、医療というのは病気を治すことだろう。彼らは治らないんだよ。治すことができないんだよ。だから、医療とは言えないんだよ」

私は、ドクターの話にショックを受けたのですが、ただ、一概に暴論と片付けられない“真実”を含んでいることもたしかでしょう。

そのW・Tが、今日、テレビに出ていました。番組のタイトルが「W・Tと銀座大人カレー巡り」というものです。文字通り、食べ歩きの番組なのでした。看護師によれば、透析を受けている患者にカリウムは厳禁だそうです。カレーにも当然カリウムを多く含む食材が使われているはずです。まさに「命がけ」と言っていいでしょう。

芸能人でありつづけるためには、週三日透析を受けながらも、努めて明るくふるまい、危険な食べ物でもさも旨そうに食べなければならないのです(実際は、おしゃべりで胡麻化して、あまり口には入れていませんでしたが)。他人様に身をさらす仕事をしていると、当然、そうやって身体を張らなければならない場面も出てくるでしょう。家庭の事情もあるのかもしれませんが、奥さんのS・Iの稼ぎだけではダメなんだろうかと思いました。今後、心筋梗塞や脳梗塞のリスクだって高くなるはずです。いらぬおせっかいかもしれませんが、私は、W・Tに憐れみさえ覚えたのでした。
2016.09.04 Sun l 芸能 l top ▲
私は、夏目三久が好きで、彼女が出る番組はよく見ていました。有吉弘行との熱愛報道が出たとき、「どうして有吉なんだ?」とがっかりしました。どう見ても有吉とは似合わないように思いました。有吉のあのわざとらしい毒舌も嫌いでした。

でも、二人の熱愛が芸能界のドンによって「なきもの」にされようとしているのを見て、逆に、有吉でもなんでもいいから愛を貫いてもらいたいと思うようになりました。熱愛報道をめぐる一連の展開が、あまりにも理不尽に思えたからです。

ところが、夏目三久自身が、SMAP解散騒動のときと同様事務所寄りの報道をおこなっているスポニチの単独取材(と言っても電話インタビュー)に応じて、熱愛報道を「全て事実ではありません」と全面否定するに至っては、さすがにちょっと待てよという気持にならざるをえませんでした。今後、どう展開するのかわかりませんが、もしこのまま熱愛が「なきもの」にされて幕が下ろされるのなら、夏目三久ってとんでもない食わせ者と言われても仕方ないでしょう。

しかも、このスポニチの記事は、電話インタビューなのに、なぜか赤い服を着た夏目三久が涙をぬぐっているような写真まで添付されているのです。

それにしても、芸能界というのは怖い世界だなとあらためて思います。村西とおるが言うように、「カタギのお嬢様にはできないお仕事」だということを痛感させられます。案の定、芸能界のドンの逆鱗に触れた有吉が「芸能界追放の危機」なんて記事が出はじめていますが、芸能界のドンにとって、タレントというのは、犬や猫以下の”もの(商品)”だということなのでしょうか。

身近で二人を見てきた(はずの)マツコ・デラックスも、今回に限ってはひと言も発言してないのです。なんだか彼の(彼女の?)の毒舌のメッキも剥がれた気がします。また、日ごろ口さがない”芸能界のご意見番”たちも、みんな口を噤んでいるのです。所詮、怖い怖いヤクザな世界の住人(ドレイ)ということなのでしょう。

今はテレビを見るにしても、昔と違って、これはヤラセではないかとか、単なる話題作りではないかとか、視聴者がテレビのなかまでのぞき込み、シニカルに見るようになっています。今回も「あるものをなきものにする」カラクリが視聴者の前にさらけ出され、すべてが見え見えなのです。にもかかわらず、芸能界のドンにひれ伏し、旧態依然としたオキテに従って、かん口令を敷いた芸能マスコミやテレビ局の姿勢は、あまりにも時代錯誤と言えるでしょう。何度も言いますが、こういった姿勢が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。
2016.09.03 Sat l 芸能 l top ▲
27日には、「高畑会見 危機管理のプロ評価」などという記事をアップしていたYahoo!トピックスですが、昨日は一転「高畑淳子会見 性被害者の怒り」という記事をアップしていました。これでバランスをとったつもりなのかもしれません。

Yahoo!ニュース
高畑会見 危機管理のプロ評価
高畑淳子会見 性被害者の怒り

高畑淳子の会見の無神経さは、裕太容疑者がやったこととのおぞましさを踏襲するものと言わざるをえません。それが、二次被害=セカンドレイプと言われるものです。もちろん、その無神経さは、高畑淳子の「涙」に同情して、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として彼女の気持がよくわかる」などとインタビューに答えている“街の声”も同じです。

当日、高畑淳子は、ほとんど寝てなくて憔悴していたとメディアは伝えていましたが、しかし、そのわりに、受け答えには多分に計算されたものがありました。たとえば、記者の質問に答える前、必ず「申し訳ございません。よろしくお願いします」とかなんとか謝罪のことばを入れて、へりくだった姿勢を見せる場面などがそれです。

また、一時間ずっと立ちっぱなしで会見をおこなったことについて、「誠実さの表れ」みたいな報道がありましたが、ホントに「憔悴していた」のなら、どうして座って会見をしなかったのかと思いました。会見のあと、ふらふらとよろめいて退場する場面がありましたが、もしあれが演技でなければ、よけい座って会見すればよかったのにと思いました。

結局、「涙」によって、見ている者たちは思考停止に陥り、(メディアや”街の声”のように)情緒的に受け止めることで、事件の本質が隠蔽されるのです。そして、世間的には「情状酌量の余地」をもたらし、仕事復帰のハードルが取り除かれるのです。

しかし、その一方で、被害者は、高畑淳子がメディアに出るたびに二次被害を受け、苦しむことになるのです。メディアも“街の声”もそれがまるでわかってないのではないか。

まして、「親の責任論」の是非を問う下記のような記事は、レイプ事件の二次被害をまったく理解してないトンチンカンなものと言うべきでしょう。高畑淳子が批判されるのは(批判されなければならないのは)、「親の責任論」からではないのです。

The Huffington Post
高畑淳子さんが謝罪 でも「母親叩き」に道義はあるのか?
Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
高畑淳子の長男不祥事謝罪で議論…親の責任どこまで
2016.08.31 Wed l 芸能 l top ▲
高畑淳子に関して、来月から上演される芝居には予定どおり出演するけど、来年以降の活動は未定という報道がありました。これで逆に、高畑淳子に対する芸能人仲間からの同情論や、先日の会見へのメディアの好意的な見方の背景が、なんとなく見えてきたような気がします。

忘れてはならないのは、高畑裕太容疑者がやったことは非道な犯罪だということです。「強姦罪」は被害者の告訴が必要な親告罪ですが、「強姦致傷罪」は告訴が必要ない非親告罪だそうです。怪我は全治一週間の指の打撲だとか言われており、怪我自体はきわめて軽症のようです。それでも、群馬県警があえて非親告罪の「強姦致傷罪」で逮捕したのは、もちろん、加害者が有名人であったということもあるでしょうが、もうひとつは、犯罪自体が悪質だったからではないかと言われています。また、警察官が宿泊している部屋に踏み込んだら、裕太容疑者は犯行直後にもかかわらずぐっすり寝込んでいたそうで、その“ふてぶてしさ“から常習性さえ疑われているのです。

ところが、高畑淳子の会見に対しては、犯罪の悪質性などどこ吹く風で、危機管理上どうだったか、及第点をあげられるかどうかなどという話になっているのでした。そんな反応を見ると、やはり、あの会見は「商品」イメージの低下を食い止め、活動をつづけるために演出されたものだったのかと思ってしまいます。また、会見自体も、仕事関係に迷惑をかけて申し訳ないというような話が多く、二次被害に苦しむ被害者の存在は片隅に追いやられてしまったかのようです。そして、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として高畑淳子さんの気持はよくわかる」などという“街の声”が、被害者不在の会見のカラクリを覆い隠す役割を果たしているように思えてなりません。

極めつけは、会見の際、裕太容疑者の性癖について質問した、フジテレビの番組でフィールドキャスターを務めるフリーアナウンサーに対しての批判です。結局、フリーアナウンサーは謝罪するはめになったのですが、でも、あの質問は別に批判されるべきものとは思いません。性犯罪の背景(性依存症)を考えると、当然出てきておかしくない質問だと思います。

それより、高畑淳子が活動をつづけることに対して、被害者がトラウマで苦しむことになるのではないか、それをどう思っているのか、という質問がなかったことこそ批判されるべきだと思うのです。もしかしたら、フリーアナウンサーの質問は、演出された会見の空気を乱すKYなものだったので、批判されたのかもしれません。

しかも、批判の急先鋒に立っていたのが、一方で、被害者女性のプライバシーを晒すことに躍起になっているネット民であったということも忘れてはならないでしょう。ここにも、リアルとネットの共犯関係によって作り出される、「万人が万人を支配する」「デモクラチック・ファシズム」(竹中労)の構造が垣間見えるような気がしてならないのです。
2016.08.29 Mon l 芸能 l top ▲
高畑裕太容疑者の母親・高畑淳子の会見を見ましたが、私は、どうしても意地の悪い見方をせざるをえませんでした。

私は、高畑敦子の会見を見て、先日の高島礼子や古くは三田佳子の会見を思い出しました。人前で涙を流すことなど女優にとっては朝飯前です。ぶっつけ本番の”涙の謝罪会見”は、文字通り女優としての腕の見せどころでしょう。女優にとって、一世一代の“大舞台”と言っていいのかもしれません。

高畑淳子は、出演する舞台の降板を否定して、「皆さんに演技を見せるのが私の贖罪と思っています」と言ってました。私は、その手前勝手な理屈の意味が理解できませんでした。

被害者は今後半永久的に忌まわしい記憶を抱え、トラウマに苦しむのです。メディアをとおして高畑淳子の名前を目にするたびに、その忌まわしい記憶がよみがえり苦しむことになるでしょう。高畑淳子はそれがわかってないのではないか。

私は、「親も同罪」「子の罪は親の罪」と言いたいのではありません。でも、性犯罪の二次被害を考えるとき、高畑裕太だけでなく、親の高畑淳子もトラウマの対象になるのは明白です。それが有名人の性犯罪が(被害者にとって)より残酷である所以です。

また、高畑淳子は、つぎのようにも言ってました。

「(面会は)もう、ほとんど覚えていないが『一生かけて謝らなければいけないよ』と。こんなことは不謹慎で言ってはいけないが、本当に申し訳ないことをしたねって言った後に、でもどんなことがあってもお母さんだから、姉はどんなことがあっても裕太のお姉ちゃんだからと言っていたように記憶しています」

Yahoo!ニュース
高畑淳子が会見 涙で謝罪「大変なことをしてしまいました」
オリコン


私は、それを見て、高畑裕太は服役して出所したあと、また同じ犯罪を犯すのではないかと思いました。

性犯罪が個人のキャラクターの問題などではなく、一種の嗜癖(依存症)であるというのは、多くの専門家が指摘しています(下記参照)。つまり、心の病気なのです。だからこそ、出所後の治療とケアが大事なのです。親として子どもの心の闇と向き合い、そのなかに分け入り、人格形成に果たした役割をもう一度辿りなおすことが肝要なのです。でないと、何度も同じ犯罪を犯すことになるでしょう。

ダ・ヴィンチニュース
なぜ性犯罪を犯すのか? なぜ繰り返すのか? 「性依存症」について考える
dot.(ドット)
性犯罪の背景に“依存症” 「性的なしらふ」にするための試みも

高畑淳子に対して「女手ひとつで一生懸命育てていた。気の毒だ」というようなコメントが芸能人仲間から出ていますが、少なくとも今回の犯罪においては、そんな同情論はなんの意味もないのです。むしろ、これらの同情論の背景には、高島礼子のときと同じように、芝居の制作会社の意向(降板させられないビジネス上の事情)がはたらいているのではないかと、そんなうがった見方をしたくなるのでした。

一方、有吉弘行と夏目三久の交際&妊娠報道では、昨日まではスクープを放った日刊スポーツ以外、どこも芸能界のドンの意向(怒り)を反映した「否定」のオンパレードで、「法的処置も検討」というような記事さえありました。

テレビが一切無視して、スポーツ新聞がいっせいに「否定」の記事を載せる。この翼賛体制こそが黒を白と言いくるめる(あるものをなきものにする)芸能界のドンの”力”なのです。テレビもスポーツ新聞もそれにひれ伏しているのでした。

ただ、スクープから2日経ち、風向きが微妙に変わりつつあるのも事実です。双方の事務所の「否定」コメントが遅すぎるとか、不自然だとかいった話が出はじめているのでした。これから徐々に「有吉が干される危機」などという、SMAP解散騒動などでも見られた”脅しの記事”が増えてくるのかもしれません。

私は、これらのニュースを見て、あらためて芸能界というのは「特殊××」(吉本隆明)なんだなと思ったのでした。
2016.08.26 Fri l 芸能 l top ▲
SMAPの解散にまつわる報道は、今や完全に情報操作の段階に入っています。それこそなんでもありの状態です。それに一喜一憂するのは、みずから“衆愚”と言っているようなものでしょう。

SMAPが稼ぐ年商250億円の既得権益をできるだけ死守しようとするジャニーズ事務所と、その利権をジャニーズ事務所から奪おうとする大手プロダクションや黒い紳士たちの暗闘。そんな魑魅魍魎たちが陰に陽に跋扈して、腹にイチモツのリーク合戦をおこなっているのが、今、私たちの目の前で繰り広げられている光景です。

キムタクがどうだ、中居がどうだ、香取がどうだという話は、今年の1月の時点では多少意味があったと言えますが、解散が決定した現在、もはや情報操作の道具でしかなく、どっちに正義があるとか、どっちに真実があるとか、そんなものはほとんど意味がなくなったのです。

私は、以前『芸能人はなぜ干されるのか』の記事(下記の関連記事参照)のなかで、つぎのように書きました。記事に多くのアクセスが集まったのに伴い、思ってもみないような反響がありました。なかには本の内容を紹介した部分に対して脅しのようなメールも届きました。それで、記事をアップしたあとに、下記の部分を書き足したのでした。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。


もっともこれは、SMAPだけの話ではありません。肯定と否定が交錯している、有吉と夏目三久の交際&妊娠報道も同じでしょう。芸能界のドンの手にかかれば、黒を白と言いくるめることも可能なのです。

これらの報道であらためて思ったのは、ドレイ契約に縛られている彼ら芸能人は、どこまで行ってもただの「商品」でしかないということです。仮に移籍しても、それはドレイ契約の付け替えでしかないのです。

芸能界の魑魅魍魎たちにいいように転がされているSMAPの5人を見ていると、まるで羊飼いに引かれて行く屠られる羊のようで、憐れみと哀しささえ覚えてならないのです。しかも、それは仔羊ではなく、40すぎのおっさんなのです。キムタクの虚勢が滑稽に見えるのも、故なきことではないのです。


関連記事:
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.24 Wed l 芸能 l top ▲
「SMAP12月31日解散」のニュースを見て、私は「やっぱり」と思いましたが、同じようにそう思った人も多かったのではないでしょうか。

解散に関しては、メンバーの公開謝罪やジャニー喜多川氏の否定発言にも関わらず、キムタクとほかのメンバーとの軋轢が囁かれ、噂は消えることはありませんでした。

一方、ジャニーズ事務所の意を汲んだ芸能マスコミは、バカのひとつ覚えのように、SMAP存続の翼賛記事を垂れ流すだけでした。日本の芸能界がアンタッチャブルな世界になっている要因のひとつに、芸能マスコミの存在があるのは否定できないでしょう。それは、芸能マスコミが芸能界を牛耳る大手プロダクションやテレビ局に隷属しているからです。芸能マスコミの記事だけを読めば、SMAP解散は過去の話になっていたはずです。SMAPはジャニー喜多川氏の庇護の下に戻り、修復しているはずでした。

事務所の発表によれば、メンバーは、既に来年9月までの契約を更改しており、1年間はジャニーズ事務所に籍を置きソロで活動するそうです。おそらくそのあと、キムタクを除いたほかのメンバーは、移籍や引退を選択するのでしょう。

私は、個人的にこの1年の契約にどんな意味があるのか興味があります。お礼奉公なのか、あるいは解散スキャンダルからメンバーを守る親心なのか。芸能界のオキテから言えば、お礼奉公と考えるのが常識でしょう。そうなれば、徹底的に搾取されるのは目に見えています。そして、ボロボロにされて放り出されるのではないか。

いくらとっちゃん坊やとは言え、40すぎたおっさんたちがアイドルを演じるのは、生物学的に見ても無理があるでしょう。そう考えれば、解散は自然の理だったと言えなくもないのです。でも、栄枯盛衰は世の習いで、況や芸能界においてをやです。メンバーたちにとって、これからイバラの道が待っているのは間違いないでしょう。

と、解散のニュースに対しても、このようにありきたりなことしか言えないのです。それくらい解散は、世間的には既定路線で、むしろ今更の感さえあるのでした。


関連記事:
ジャニー喜多川氏の発言の真意
SMAP解散騒動の真相
「SMAP解散」と芸能界の魑魅魍魎
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.14 Sun l 芸能 l top ▲
ジャック&ベティで「FAKE」を観ました。

映画『FAKE』公式サイト
http://www.fakemovie.jp/

レイトショーで観たのですが、館内は立ち見こそ出ていなかったものの、空いている席を探すのも苦労するほど大入りでした。

騒動後の佐村河内守氏のプライベートな日常を追うなかで、作者の森達也監督が描こうとしたのは、ニセモノかホンモノかという善悪二元論の先にある佐村河内夫妻の愛と絆です。と言うと、陳腐な話のように聞こえるかもしれませんが、森達也監督は本気でそういうドキュメンタリーを撮ろうとしていたように思えてなりません。

でも、現実は残酷です。(実際は週刊文春より『新潮45』のほうが先にが書いていたようですが)週刊文春は、差別と排除の力学で仮構された市民社会に、ほれっと佐村河内守という餌を投げ入れたのです。朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂の代わりに、佐村河内守はニセモノだ、FAKEだという噂を発信したのです。それは、ロス疑惑からずっとつづいている週刊文春の手法です。でも、何度も言いますが、文春や新潮は、石原慎太郎はニセモノだ、FAKEだという記事を絶対に書くことはないのです。安倍晋三はバカだ、ニセモノだ、FAKEだという記事を書くこともない。

映画のなかで、佐村河内氏の”ウソ”を告発し、一躍時の人となった新垣隆氏について、「ホントにいい人なのか」という問いかけがなされていましたが、もちろん「いい人」なわけがないのです。新垣隆氏も、記事を書いた神山典士氏も、インタビューの申し出に応えず逃げまわっているという事実が、この騒動の本質をよく表していると言えるでしょう。

映画では、新垣氏がファッション雑誌のグラビアに出ている画面や自著のサイン会で客として訪れた森達也監督とツーショット写真におさまる場面などで失笑が流れていましたが、でも、その失笑がみずからにもはね返っているのだという自覚が、当の観客たちにはないかのようです。

ネットや社会をおおうリゴリズム(厳格主義)。それは、かつて平野謙が『「リンチ共産党事件」の思い出』で指摘していたように、本来共産党のような唯我独尊的なイデオロギーが得意とするものでした。建前としてのリゴリズムが蔓延するというのは、それだけこの社会が全体主義化している証拠なのかもしれません。私は、まるで川崎のヤンキー少年たちのように、集団リンチをエンターテインメントとして享楽する、この社会の病理を考えないわけにはいきませんでした。

映画のパンフレットでは、「衝撃のラスト12分間」というキャッチフレーズがありましたが、そういった発想自体が既に週刊文春と同じ視点に立つものと言えるでしょう。

私は、「FAKE」は「A」などに比べて、どこかもの足りなさを感じてなりませんでした。森達也監督の著書・『ドキュメンタリーは嘘をつく』になぞらえて言えば、「FAKE」では「嘘」が透けて見えるのです。同業者たちが絶賛する”猫”や”ケーキ”への視点の移動も、私にはお定まりの(わざとらしい)手法のようにしか思えませんでした。

竹中労は、35年前(!)の文春の”ロス疑惑”の記事について、当時、「プライバシーを暴き立てて、人間一匹めちゃくちゃ」にする「私刑の季節がやってきた」と批判していました(80年代ジャーナリズム叢書4・『人間を読む』)。既にそのときから「私刑(リンチ)」ということばを使っていたのです。その本質は、万人が万人を支配する」「デモクラティック・ファシズム」だと。そして、芸能レポーターこそが「テレビの本質」であり、「マスコミとは世論に名をかりた全体主義」だと言ってました。

佐村河内守氏の”疑惑”もまた、”ロス疑惑”からつづく文春お得意の「私刑キャンペーン」にほかなりませんが、「FAKE」はそんな「デモクラティック・ファシズム」の構造を照射するような視点があまり見られないのです。それがもの足りない所以です。
2016.06.27 Mon l 芸能 l top ▲
今夜の「ミュージックステーション」で、桑田佳祐がテレビ初披露と称して、新曲の「大河の一滴」を歌っていました。

「大河の一滴」というタイトルは、言うまでもなく五木寛之の本からのパクリですが、桑田の場合、タイトルのパクリはよくあることです。

「大河の一滴」は、UCCの缶コーヒーのCM曲で、映像で公開されていたのは、CMに使われている二番のサビの部分だけでした。そのため、歌詞を検索しても、二番のサビの部分しか見当たりませんでした。

ところが、「大河の一滴」はInterFMとタイアップしているらしく、InterFMで一日に何度も流れていたのです。私は、普段、家で仕事をしているときや電車に乗っているときは、RadikoでInterFMを聴いていますので(おかげでシャウラのファンになりましたが)、毎日「大河の一滴」のフルバージョンを聴くことができました。しかも、電車に乗って渋谷駅にさしかかると、不思議なことに「大河の一滴」が流れてくることが多いのでした。

砂に煙る 渋谷の駅の
アイツ(女)と出逢ったバスのロータリー
俺の車線に割り込むバスの
窓際から小バカにした微笑み投げた


これは、冒頭の歌い出しの部分です。「大河の一滴」は、若い頃の渋谷の街と愛欲の日々を追憶する歌です。最初にこの歌を聴いたとき、『33年後のなんとなく、クリスタル』かと思ったくらいです。渋谷駅でこの歌が流れてくると、かつて渋谷に日参していた人間として、(表現がいかにもおっさん風ですが)えも言われぬ感慨を覚えるのでした。

身を削りながら生きることも
忘れ去られながら老いていくのも
やさしい素振りや 愛らしい癖も
世間にとっちゃ 何の意味もない


桑田佳祐が還暦を迎えたからこそ、疾走感のある曲にこんな詩を乗せることができるのでしょう。

今月の29日に発売されるニューシングル「ヨシ子さん」(初回限定盤)に、「大河の一滴」がカップリングされるみたいなので、私もさっそく予約を入れました。

偶然と言えば、栗原康氏の伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読んでいたら、「あとがき」につぎのような記述がありました。

 この本をかいているあいだに、かの女ができた。三年ぶりだ。まだつきあいたてということもあって、ひたすら愛欲にふけっている。
(略)
 しかしおもえば、この数年、わたしはモテたい、恋愛がしたい、セックスがしたいと公言していて、いいなとおもう女性がいたら、がんばってお酒にさそってみたり、デートをかさねてみたりしたのだが、結果はさんざんたるものであった。「オマエ、マジで死ねだ」とさけばれたり、新宿のらんぶるという喫茶店で、土下座させられたりと、完膚なきまでにうちのめされた。


実は、「らんぶる」も、かつて私の新宿の”止まり木”でした。新宿に行くと、いつも「らんぶる」で本を読んだり昼寝をしたりしていました。

私も、女の子と「らんぶる」に行ったことはありますが、土下座なんてとんでもない、「なんか古めかしくて変な店ね」と言われながら、愛を告白した思い出があります。

渋谷の街は、東急文化会館も東急ブラザも既になく、駅ビルの建て替えもはじまり、これから高層ビルが林立する「未来都市」(ホントかよ)に変貌しようとしています。渋谷で働いていた旧知の女の子たちも、「どんどん変わっていくので付いていけない」「もうあたしたちが知っている渋谷ではなくなっている」と言ってましたが、「大河の一滴」が歌うように「時の流れは冷酷」なのです。そうやって街も人も世代交代していくのです。それが東京で生きるということなのです。

もう道玄坂の路地裏で、偽造テレフォンカードを売ってるイラン人や両腕からタトゥーを覗かしているヤンキーのニイチャンやケバい化粧のショップ店員の女の子とすれ違うこともないのです。彼らと目で挨拶を交わすこともないのです。もちろん、「らんぶる」で女の子を口説くことも、「ラケル」で向かい合って食べるオムライスにトキメキを覚えることもない。どうやって老いていけばいいのかわからないけど、でも、容赦なく老いはやってくるのです。黄昏に生きるなんて嫌だな、想像したくもないと思っているうちに、すぐ近くまで黄昏がやってきているのです。

そう考えると、この「大河の一滴」というタイトルも、単なるパクリではなく、なにか深い意味があるような気がしてくるのでした。


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2016.06.18 Sat l 芸能 l top ▲
今日のスポーツ各紙は、ジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川氏が、9月解散説が再び飛びはじめているSMAPについて、「解散をきっぱり否定した」という記事をいっせいに掲載していました。

日刊スポーツ
SMAP解散説否定…ジャニー社長「絶対ないです」

「僕は、命にかけても…。SMAPは、わが子と同じですから。彼らは僕に相談なしで、とかくするはず、絶対ないです。心配は、全然ないです。解散なんて冗談じゃない」


「小学校のころからやっていて、向こうも(ジャニー氏を)親と同じように思っている」(略)「彼らが僕を信じている以上に、僕も彼らを全面的に信じていますから。ピンからキリまで、うそをついていたって、何をしたって、すぐ分かっているんですよ。何かあれば、こっちに来ますよ。もともと、そんな(解散の)気持ちは毛頭ないですよ。みんな含めて」


ジャニー喜多川氏はそう言うのですが、じゃあ、騒動以来今まで沈黙していたのはどうしてなのか?、どうして今になって突然こんな発言をするのか?という疑問はぬぐえないのです。それに、SMAPとしての活動が事実上停止している現状を考えれば、今回の「親心をにじませたような」発言は矛盾しているように思えてならないのです。

ジャニー喜多川氏のこの発言は、世間に対してというよりメンバーに対しておこなったものであって、真意は別にあるように思えてなりません。私には、この発言は、あらためて、解散なんかさせないぞ、解散したら芸能界では生きていけないぞ、というメンバーに対するメッセージのようにしか思えないのです。芸能界のオキテに照らせば、そう解釈するのが自然な気がします。

そもそも今回の騒動は、SMAPにとって、去るも地獄、残るも地獄、解散も地獄だったのです。ジャニー喜多川氏の発言は、文字通りそれにトドメを刺すものと言えるのではないでしょうか。

ジャニー喜多川氏が言うように、小学生のときから芸能界に入っているメンバーたちは、40をすぎたとは言え、それこそ世間知らずのとっちゃん坊やにすぎないのです。芸能界の魑魅魍魎たちが相手では、最初からドン・キホーテになるのは目に見えていたのです。だからと言って、芸能界の外で生きることなんて、とてもできないでしょう。これからもやくざな芸能界で、蛇の生殺しのアイドル人生を生きるしかないのです。中高年になってもなお、アイドルを演じなければならないというのは、考えようによってはこれほど悲惨なことはないでしょう。


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2016.05.05 Thu l 芸能 l top ▲
ヤクザと憲法


横浜のミニシアター・ジャックアンドベティで「ヤクザと憲法」を観ました。

「ヤクザと憲法」公式サイト
http://www.893-kenpou.com/theater/

「ヤクザと憲法」は、東海テレビが制作した番組を映画用に再編集したもので、大阪・西成区の「指定暴力団」の二次団体の実在の事務所にカメラが入り、組員たちの生の日常を追ったドキュメンタリーです。

「ヤクザと憲法」の「憲法」というのは、日本国憲法第14条のことです。それには、つぎのような条文が謳われています。

すべての国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


しかし、1992年から施行された暴対法(改正暴力団対策法。正式には、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)と暴対法につづいて全国の自治体で制定された暴力団排除条例によって、「指定暴力団」の構成員や「指定暴力団」と一定の関係にある者に対して、”利益供与”をおこなったと看做されれば、「一般人」も罰せられることになったのでした。つまり、商行為等において、ヤクザと関わりをもつことが法律的に禁止されたのです。

映画のなかでも、銀行口座を作れないとか子どもが幼稚園に入れないとかクロネコヤマトが荷物を配達してくれないとか葬式をあげたくても葬儀場を貸してくれないとか、そんなヤクザたちの訴えをまとめたアンケート用紙を事務所の会長(組長)がスタッフに示すシーンがありますが、たしかに暴対法や暴排条例によって、「ヤクザに人権なし」という風潮(社会の空気)が醸成されたのは事実でしょう。

映画のパンフレットに書いているように、「『脅威』を排除するならちょっとくらい憲法に触れたって」(構わない)という、どこかで聞いたような考えがあるのでしょう。そのために、9条だけでなく14条もないがしろにされているのです。

映画には賭博や薬物販売を思わせるような怪しげな行動が映っていましたが、そういった犯罪行為が処罰されるのは当然です。しかし、ヤクザというだけで(その属性によって)社会生活が制限される暴対法や暴排条例が、憲法14条を逸脱した法律であるのはあきらかでしょう。でも、誰もそれを指摘しないのです。みんな、「ヤクザならしょうがない」と見て見ぬふりをするだけです。

しかも、その風潮は、ヤクザだけでなく、ヤクザの人権を守る弁護士にも容赦なく襲いかかるのです。映画では、山口組の顧問弁護士をしていた山之内幸夫弁護士にインタビューしていましたが、山之内弁護士は、のちに建造物損壊を教唆した罪で在宅起訴され、懲役刑の有罪判決を受けるのでした。建造物損壊と言っても、被害額がわずか3万円の、従来なら罰金刑で済むような”微罪”なのです。そういった目の上のタンコブの顧問弁護士に対する”締め付け”は、オウム真理教の麻原彰晃被告の主任弁護人を務めた安田好弘弁護士が、顧問をしていた不動産会社への強制執行を妨害した罪で逮捕・拘留されたケースとよく似ています。

似ていると言えば、組の事務所が家宅捜索された際、事務所のなかにいたテレビカメラに向かって、捜査員がそれこそヤクザ顔負けの恫喝をおこなうシーンがあるのですが、森達也氏がオウム真理教を内部から撮ったドキュメンタリー「A」のなかにも似たシーンがありました。それは、ドキュメンタリーにおけるカメラの位置の重要性を示す好例のように思いました。

中年のある組員は、貧乏な家庭に育ち、困っているとき誰も助けてくれなかったけど、ヤクザだけが親身になって面倒を見てくれた、それでヤクザになったと言ってました。ヤクザとは、その語源どおり社会からドロップアウトした人間たちの最後の拠り所=疑似家族なのです。

猪野健治は、『戦後水滸伝』(現代評論社・1985年刊)のなかで、雑誌連載中に「現役のある組の幹部」から届いたつぎのような手紙を紹介していました。

(略)極道には、差別されている人間、不運や不幸のカタマリみたいな人間が圧倒的に多いことはたしかで、この社会がひっくりかえらない限り極道もなくなりはしない。だからといって、極道に正義感や叛骨は期待しても、まず裏切られるのがせきのヤマでしょう。私も、グレて極道になったハナは、正義感らしいものをもっていましたが、小さなシマの小さな利権に複数の組が群がって奪いあうんですから、そんなものが通用する筈もありません。弱肉強食──アタマのきれる奴と腕のたつ奴が生き残れるだけです。
 右翼を気どっている人間もいますが、極道は極道でしかないので、私は極道の道を歩きます。その方がむいているんです。(略)


猪野健治は、同じようにドロップアウトして極道社会に身を投じた人間でも、中産階級からのドロップアウト組には「十分ではないにしても『退転』する余裕がある」が、被差別窮民出身者は、最初から小市民的な郷愁などとは無縁なので、同じ「畳の上では死ねない」覚悟でも、「不退転」の覚悟があると書いていました。

もっとも、最近は、猪野健治が書いていたようなケースとはかなり事情が違ってきているようです。映画に登場する若い「部屋住み」の見習い組員は、どう見ても不良上がりという感じではなく、宮崎学の『突破者』を読んでヤクザを志願したと言ってました。

先日、安保法制に反対して京大の建物の入口をバリケード封鎖したとして、中核派のメンバーが逮捕されたというニュースがありました。ひと昔前の学生運動では考えられないことですが、朝日新聞の記事によれば、京大の学生たちが「マジ迷惑」だとバリケードを撤去したのをきっかけに、中核派への摘発がおこなわれたのだそうです。

ヤクザ・過激派・カルト宗教、あるいは少年Aや在日も然りでしょう。市民社会や市民としての日常性は、そうやって異端や異論や異物をパージ(排除)することによって仮構されているのです。だから、関東大震災の際の朝鮮人虐殺のように、市民社会や市民としての日常性が危機に瀕すると、異端や異論や異物に向かって”テロルとしての日常性”が牙をむくのです。「ヤクザと憲法」は、パージ(排除)されるものの内側にカメラを据えることによって、差別と排除によって仮構された私たちの社会の構造を描き出していると言えるでしょう。

ヤクザや過激派や少年Aなどのことを取り上げると(小保方さんの件もそうですが)、「お前はヤクザや過激派を支持するのか。少年Aの犯罪を容認するのか」というおバカな”反論”が返ってくるのが常です。そうやって全体主義的な問答無用の空気が作られているのです。「ヤクザと憲法」が私たちに問うているのは、表現の問題だけにとどまらず、全体主義の対極にある自由な社会とはどんな社会なのかという根源的な問題です。それは、ヤクザや過激派をパージ(排除)することで仮構される「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)が如何にウソっぽいかということでもあります。
2016.03.07 Mon l 芸能 l top ▲
ベッキーは、ゲスの極み乙女。の川谷との「不倫」によって、契約していた10本のCMが打ち切られ、すべてのレギュラー番組を降板し休養を余儀なくされたのですが、売れっ子タレントとしては、あまりにも「不倫」の代償は大きかったと言えるでしょう。

たしかに、タレントとしてベッキーが売っていたイメージと「不倫」のイメージがそぐわないのは事実で、その意味ではCMが打ち切られるのは仕方ないと言えます。ベッキーのイメージを大金を出して買ったスポンサー企業が、イメージダウンに伴いシビアな判断を下すのは当然でしょう。

ただ、一方で、「不倫」=”ふしだらな行為”として、これでもかと言わんばかりにベッキーを指弾する”お茶の間”の論理には違和感を覚えざるをえません。ネット民たちが、リア充のベッキーに悪罵を浴びせるのはわからないでもありません。ヤフコメなどに見られるように、彼らはネットで人生を勘違いさせられた”ネット廃人”のようなもので、いつもそうやってネットの最底辺で身も蓋もないことをぼざくしか能がないのです。でも、リアル社会で生きる”お茶の間”の人間たちはそうではないでしょう。”ネット廃人”に同調してどうするんだと言いたいのです。

みんな胸に手を当てて考えてみるべきなのです。ホントに「不倫」をしたことがないのか。「不倫」したいと思ったことがないのかと。

コンドームメーカーの相模ゴム工業が働く女性350人を対象に行った調査によれば、なんと58%が「不倫」の経験があるそうです。昔、総理府だかがおこなった調査で、「既婚の有職女性」で「婚外性交渉」の経験がある人が、50%以上もいるというショッキングな結果が発表されて話題になったことがありましたが、相模ゴム工業の調査結果も、その実態を裏付けていると言えるでしょう。もはや、男と女の関係を「不倫」かどうかで分けて考えること自体がナンセンスなのかもしれません。

ましてベッキーは容姿端麗な芸能人なのです。しかも、(いつも言うように)普通のお嬢さまにはできない芸能界という”特殊××”で生きる人間なのです。カタギではないのです。竹中労ではないですが、”芸能の論理”は市民社会の公序良俗とは対極にあるものです。「不倫」だってなんだってあるでしょう。

自分はせっせとセックスをしていながら他人のセックスを”悪”のように指弾するのは、どう考えても倒錯した論理と言うしかありません。ベッキーがテレビに出ただけで抗議の電話をするのは、もはや病理の世界と言うべきでしょう。

どうしてベッキーが指弾されるのか。それは、ベッキーが”ふしだらな女”だからです。でも、みんなセックスをするときは”ふしだら”なのです。”婚内”であれ”婚外”であれ、永遠の恋であれ行きずりの恋であれ、みんな”ふしだら”なのです。にもかかわらず、なぜか女性だけが”ふしだら”として指弾されるのです。

”ネット廃人”たちの負の感情は言わずもがなですが、”ネット廃人”たちに同調し、もはやほとんど意味をなさない「不倫」のモラルを掲げてベッキーを指弾する”お茶の間”の論理も、同じように唾棄すべき対象でしかありません。
2016.02.08 Mon l 芸能 l top ▲
ちょっと前の話ですが、フジテレビの「とくダネ!」で、横浜のマンションの杭打ちデータ改ざん問題が取り上げられた際、なぜか最初に中国でマンションが倒壊した映像が流れたのです。そして、そのあとに横浜のマンションが傾いた問題を伝えたのでした。私はたまたま「どくダネ!」を見ていたのですが、不自然な感じがしてなりませんでした。要するに、(横浜のマンション傾斜問題は)「中国よりまだましだ」と言いたかったみたいで、冒頭の映像はそのための印象操作だったのです。それに対して司会の小倉智昭は、「中国よりましとは言っても、これはこれで大きな問題でしょう」と言ってました。

こういうところに、フジテレビの体質が如実に出ているように思います。韓流番組ばかり垂れ流しているとしてネトウヨたちの標的になり、デモまで起こされたので、フジテレビは”親韓”=”反日”のようなイメージがありますが、もともとはネトウヨまがいのヘイトな「愛国」主義を信奉するフジサンケイグループのテレビ局なのです。ネトウヨの反感を買ったのも、おれたちの味方のはずが裏切りやがってという気持があったからでしょう。

情報番組やニュースにおいても、まるでそれが役目であるかのように、ヘイトな印象操作をおこなうのがフジテレビの特徴です。フジテレビが視聴率で苦戦しているのも、最近特にそういった牽強付会さが鼻につくようになっているからではないでしょうか。視聴者は敏感なのです。「なにか変」「どこか古い」「ちょっとズレている」という”微妙な感覚”は侮れないのです。でも、それはフジサンケイグループである限り、逃れることのできない宿痾のようなものでしょう。

そんなフジテレビですが、先週から放送されている”月9ドラマ”「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(脚本・坂元裕二)は、久々に面白いドラマでした。まだ2回しか放送されていませんが、特に今週、舞台を東京に移してからは、ドラマの内容がより濃いものになったように思います。脚本の質の高さなのでしょう、主人公をとりまく人間たちも、彼らが働くブラックな職場も、とてもリアル感がありました。東京で生きる地方出身の若者たちの等身大の日常がよく描かれているように思いました。いい映画と同じで、ドラマのなかのディテールがすぐれているのです。私のような”元若者”でも引き込まれるところがありますので、同時代的に生きる若者たちは共感する部分が多いのではないでしょうか。

有村架純や高良健吾や高畑充希らのキャスティングもよかったように思います。なんの役をやっても同じ演技しかできないキムタクと比べれば、プロとアマほどの違いがあるでしょう。私は、彼らが演じる登場人物に、昔、親しくしていた取引先の会社で働いていた若者たちを重ねて見ていました。

その会社では、毎年、東北と九州から10名前後の高卒の若者を採用していて、その3分の2は女の子でした。彼女たちは、やがて東京の生活に慣れると、お決まりのように恋をして、そして、多くは失恋し、会社を辞めて田舎に帰ったり、転職したりと、”波乱万丈の人生”を送ることになるのです。彼女たちは、それぞれ夢を掴むために東京に来たのでしょうが、もちろん夢を掴むことなんかできません。今夜の第二話に出てきた「東京は夢を叶えるための場所じゃないよ。東京は夢が叶わなかったことに気づかずにいられる場所だよ」というセリフはとてもよくわかるのでした。ちなみに、その会社も10年近く前から新卒の採用をやめて、派遣やアルバイトを使うようになっています。

フジテレビの現場には、まだこういうドラマを創る感性が残っているのです。それだけにもったいないなと思います。
2016.01.26 Tue l 芸能 l top ▲
いつもリテラの記事ばかり引用して気が引けますが、それは、事務所サイドに立って芸能界の魑魅魍魎たちの情報操作の片棒を担ぐ、スポニチをはじめとするスポーツ紙やテレビのワイドショーなどよりリテラの記事のほうがはるかに真相に迫っていると思うからです。

リテラの最新記事(SMAPは昨日死んだ! そして裏切り者はやっぱりキムタクだった! メリー氏が自ら“木村家にお呼ばれ”を告白)に、つぎのような箇所がありました。今回の騒動は、私たちが抱いていた当初のイメージと違っていたようです。

(略)そもそもSMAPを解散の危機に追いやったのは、飯島三智マネージャーでも中居ら4人でもなく、木村とメリー喜多川副社長のほうだろう。
 
 改めて解説しておくが、今回の独立劇は、いま報道されているように飯島氏が「密かに独立を画策した」というような話ではない。昨年1月、メリー氏が「週刊文春」(文藝春秋)のインタビューに応じた際、飯島氏を呼びつけ、「SMAPを連れて出て行け」と面罵したことが始まりだった。
 
 そこで、飯島氏が独立を考えざるをえなくなり、会社側と正式に交渉。昨年8月時点で飯島氏とともに5人そろって円満独立することになっていた。ジャニーズ事務所側も双方納得のうえ、移籍先もバーニング系のケイダッシュと決まっており、権利関係の配分など、弁護士を立てて細かい条件を詰めている段階だった。

 「SMAP」というグループ名についても、独立したらジャニーズの許可がなければ使えないのに、中居らはそんなこともわかっていなかったなどと盛んに報じられていたが、使えるようにするということで話はついていた。

 キムタクは一貫してジャニーズ残留でブレていないなどと報じられているが、この時点ではキムタクははっきりと意志は表明していなかったものの、独立を前提としたキムタク関連作品の権利配分についても話し合いがなされていた。


ところが、12月になり、突然、キムタクが残留を言い出したのだとか。そして、今日の経緯に至ったのです。

まあ、ゲイダッシュに移籍しても”奴隷契約”から逃れることはできないのですが、なんだかサラリーマンの転職や独立にまつわる人間模様と似てなくもありません。

結局、飯島氏は芸能界から追放、メンバーはジャニーズ事務所に残留ということになったのですが、はたしてこのままスムーズに元の鞘に収まるのか。金の成る木を逃したバーニングがこのまま黙って引き下がるのか。

今回の騒動では、安倍首相が国会でSMAP解散回避を歓迎する答弁をしたという痴呆的なオチまで付いていますが(そう安倍首相に質問した民主党・斎藤嘉隆議員のゴマすりにも目をおおいたくなりますが)、まだひと波乱もふた波乱もありそうな気がします。

2016.01.19 Tue l 芸能 l top ▲
私は、昨夜のフジテレビ「SMAP×SMAP」は見てないのですが、どうやらキムタクを除く4人がジャニーズ事務所に詫びを入れ、解散を回避する結論になったみたいです。シナリオどおりと言えますが、これほど「怖い、怖い、芸能界」を象徴する光景はないでしょう。

まるで文化大革命のときの“反動分子“さながらに、公衆の面前で”自己批判”させられた4人は、今さらながらに芸能界におけるジャニーズ事務所の威力を見せつけられ、恐れ戦いたのではないでしょうか。「やっぱり5人が揃った姿を見たかった」「解散が回避されてよかった」と喜ぶSMAPファンはどこまでアホなんだと思います。

昨夜の”謝罪”は、自分たちの冠番組のなかで生中継するなど前代未聞の出来事でしたが、本来なら記者会見するのが筋でしょう。リテラが言うように、ほかのテレビ局が怒ってもおかしくないのです。でも、どこも批判しない。それは、ジャニーズ帝国のタブーがあるからにほかなりません。

リテラ
飯島マネージャーをひとり悪者にしてSMAP存続、独立撤回! 中居たちもキムタク同様、裏切り者になるのか

リテラが書いているように、これでキムタクを除く4人もジャニーズ事務所の庇護の下に戻るので、彼らに対する報道も再びタブーになり、ジャニーズ帝国のタブーが及ばない人物はひとりだけになったのです。言うまでもなくそれは、今月末でジャニーズ事務所を退社する飯島氏です。シナリオどおり、これから飯島氏ひとりを悪者にした幕引きがおこなわれるのでしょう。

中居らは飯島氏を見捨てるのか。それでいいのか、とリテラは書いていましたが、彼らの義憤はどうなったのかと思います。

考えてみれば、SMAPのメンバーは既に40すぎのおっさんです。そんなおっさんたちが”少年”を演じているのです。10代の初めから芸能界に入りアイドルを演じてきた彼らは、私たちが想像もできないくらい幼く世間知らずなのかもしれません。そう考えれば、最初から芸能界の魑魅魍魎の相手ではなかった。彼らがドン・キ・ホーテになるのは運命付けられていたように思います。

それにしても、私たちは、今回の騒動で、あらためて芸能マスコミのていたらくを見せつけられた気がします。それは、独立した芸能人が干されるタブーだけではありません。故・北公次が『光GENJIへ』(1988年・データハウス)で暴露したようなジャニーズ事務所の”暗部”に対するタブーが、一般紙も含めたマスコミ全体をおおっていることがよくわかりました。本来なら”少年愛”を裏コンセプトとするようなジャニーズ事務所の体質が指摘されてもおかしくないのです。『光GENJIへ』で告白されていた、つぎのような北公次少年とジャニー喜多川氏とのセックスシーンが、今回のスキャンダリズムなき報道の白々しさをよく表わしていると言えるでしょう。

・・・と思ったけど、あまりにも生々しくおぞましいので割愛します。(興味のある方はネットでググッてみてください)

SMAPファンもアホだけど、ジャニーズの横暴を批判できないマスコミもそれに負けず劣らずアホなのです。
2016.01.19 Tue l 芸能 l top ▲
昔、仕事先でスマップをスナップと言って、女の子たちに大笑いされた苦い経験がある私ですが、「SMAP解散」のニュースにはびっくりしました。

ところが、日が経つにつれ、芸能マスコミの報道も風向きが変わりつつあります。マネージャーの飯島三智氏がこのまま芸能界を去ってしまう可能性が高く、そのため飯島氏の後ろ盾を失うメンバー4人が、ジャニーズ事務所を退社することを後悔しはじめたというような記事が出はじめているのです。

きわめつけが今日のヤフトピ(Yahoo!トピックス)に出ていた、中居正広が「SMAPをやめたくない」と親しい人たちに後悔のメールを送っていたというスポニチの記事です。

Yahoo!ニュース
中居正広「SMAPやめたくない」親しい友人らに“後悔メール”(スポニチ)

一連の報道のなかでスポニチの“御用新聞ぶり“が際立っていますが、この記事もジャニーズ事務所や“芸能界のドン“など魑魅魍魎たちの意を汲んだもので、そうなるぞという半分“脅し“みたいなものでしょう。そのうち4人を「そそのかした」飯島氏のバッシングもはじまるはずです。

どうして芸能人が独立すると干されるのか。その芸能界のやくざなオキテが、今回も4人に対する圧力に使われているのです。そして、テレビ局や芸能マスコミがその圧力の片棒を担いでいるのです。スポニチをはじめとするスポーツ新聞も、テレビのワイドショーも、芸能界のやくざなオキテに対してはみんな見て見ぬふりです。誰もおかしいとは言わないのです。プロダクションが独立した芸能人を干すことを画策しても、テレビ局や芸能マスコミなどがそれに協力しなければ、やくざなオキテなど絵に描いた餅にすぎません。テレビ局や芸能マスコミが芸能界の魑魅魍魎に協力するから、やくざなオキテがまかりとおるのです。

リテラが書いているように、むしろ裏切ったのはキムタクのほうで、彼の行動の背後に、芸能界の魑魅魍魎たちの意図が隠されているのはあきらかでしょう。

リテラ
SMAP解散で「新潮」が暴いていた真相! 飯島マネはメリー氏によるパワハラ解雇、裏切ったのはキムタクだった

飯島氏が退社するいきさつにしても、あまりにも理不尽な気がします。キムタクを除く4人の決断には、そんな理不尽さに対する義憤の念もあったのではないでしょうか。

とは言え、今回の騒動が向かう道筋は、既に上記のスポニチの記事で示されているのです。4人が芸能界に残るのなら、詫びを入れてジャニーズ事務所に残るか、ジャニーズ事務所や”芸能界のドン”の息がかかった第三者のプロダクションに移籍するか、どっちしかないでしょう、芸能界では、独立は”足抜け”を意味するのです。”足抜け”に失敗した遊女が遊郭の主から制裁を受けるのと同じように、オキテ破りの飯島氏が芸能界から追放されるのは当然でしょう。年間250億円を売り上げるSMAPが独立なんて許されるはずがないのです。

怖い、怖い、芸能界。今、私たちが見ているのは、”奴隷契約”の存続を目論む芸能界の魑魅魍魎たちが、芸能マスコミを使って4人に圧力をかけている(文字通り謀反を起こした4人を締め上げている)光景なのです。そんな4人に「解散しないで」「元に戻って」と言うのは、それこそ芸能界の魑魅魍魎たちの思うつぼと言えるでしょう。


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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.01.15 Fri l 芸能 l top ▲
今夜、テレビ朝日の「甦る歌謡曲」という番組で、天童よしみが美空ひばりのすごさを語っていました。天童よしみによれば、美空ひばりがすごいのは、低い音から高音へ「しゃくる」ことがなく、最初から高音で歌いはじめるところだそうです。その代表曲が「哀愁波止場」なのだと。

もちろん、私たちにとって、美空ひばりは物心ついたときから”過去の人”でした。私たちが最初に買ったレコードは、ビートルズやローリングストーンズなどで、美空ひばりのレコードを買うなどもはや考えられませんでした。

私は、さっそくYouTubeで「哀愁波止場」を聴いてみました。「哀愁波止場」は、船乗りの愛しい人を待つ女心を唄った歌です。それは、「三月待っても逢うのは一夜」のようなせつない関係です。愛しい人が好んで口ずさんでいたのは、「五木の子守唄」でした。

YouTube
哀愁波止場

高音の裏声で描かれる夜の波止場の情景。それは美空ひばりでなければ描けない世界です。そして、私たちはいっきにその歌の世界に引き込まれていくのでした。

竹中労は、評伝『美空ひばり』(朝日文庫)のなかで、つぎのように書いています。

(略)真に民衆的なるものを戦後史に問うなら、とうぜん我々はページをくりなおさねばならない。そう、「屋根なし市場」から、美空ひばりが民衆とともに歌でひらいた廃墟の一ページを、起点とすることから始めなくてはならぬのである。(略)
 ゲテモノと嘲られ、ものまねと蔑まれながら、『悲しき口笛』『私は街の子』『越後獅子の唄』と、ひばりのうた声は庶民大衆の心の琴線に共鳴して、『リンゴ追分』のせつせつたる絶唱を生み、『哀愁出船』『哀愁波止場』戦後歌謡曲の最高峰へと昇華していくのである。彼女をささえたのは民衆の惜しみない拍手、それ以外になかった。


そこには、今の”邦楽コンテンツ”とはまるで違う、文字通り大衆音楽としての歌謡曲のありし日の姿があるのです。美空ひばりの高音域には、今のデジタル技術では捉えられない大衆の情感が表現されているのです。

でも、もう大衆はいないのです。プロレタリアもいない。竹中労は、60年安保のあと、「党派の神話」に決別してアナーキズムに「回心」する当時の心境について、「哀愁波止場から太平天国へ」という言い方をしていましたが、もちろん左翼もいないのです。右翼もいない。あるのは、コンテンツとして消費される「護憲ビジネス」や「愛国ビジネス」だけです。


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ものみな”選挙の宣伝”で終わる
2016.01.07 Thu l 芸能 l top ▲
昨日、吉田栄作と平子理沙の離婚のニュースがありました。

僭越ながら(!)私は若い頃、吉田栄作に似ていると言われたことがありました。しかし、実際はまったく似ていなかったのです。似ていたのは髪型だけだったということがわかったのです。

というのも、もう10年近く前の話ですが、私は、吉田栄作氏に会ったことがあるからです。しかも、一緒に焼き鳥屋で酒を飲んだことがあるのです。

私の友人が家が近いということで彼と知り合いで、よく飲みに行ってました。それで、たまたま私が友人を訪ねた際、吉田氏と飲みに行く約束をしていたそうで、一緒に出かけたのでした。

実際の吉田氏は文字通り好漢(ナイスガイ)の一語に尽きる人物でした。礼儀正しく言葉遣いも丁寧で、私たちの仕事の話にも熱心に耳を傾けていました。芸能人にありがちな独りよがり・不躾・尊大なところはいっさいありませんでした。

芸能マスコミの手にかかれば、離婚は犯罪みたいな扱いになりますが、人生いろいろです。離婚もまた人生の選択なのです。

彼は、現在も俳優として高い評価を得ていますが、今後ますます俳優としての地位を高めていくのではないでしょうか。芸能界というのは不思議なところなので、この離婚をきっかけにさらにブレイクするような気がします。


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人生の絶対量
2015.12.23 Wed l 芸能 l top ▲
先日の『山口百恵は菩薩である』の記事を書いたあと、ずっとスマホに中森明菜の歌を入れて聴いているのですが、あらためて中森明菜のすごさを実感しています。

最初はレコード会社のキャッチフレーズで「歌姫」と呼ばれていたのですが、やがてそんなレコード会社のよこしまな思惑を越えて、中森明菜は正真正銘の「歌姫」になったのでした。

私が好きなのは、加藤登紀子作詞作曲の「難破船」です。これほど中森明菜の才能を感じさせられる歌はありません。「スローモーション」や「セカンド・ラブ」もすごいけど、「難破船」は文字通り「歌姫」と呼ぶにふさわしい歌だと思います。

それは、加藤登紀子の歌と比べてみると一目瞭然です。同じ「難破船」でも、その描く世界はまるで違うものになっているのです。なにより歌の深さが違います。ことばに陰影があり、聴く者の胸に激しくせまってくるのです。そこに中森明菜の才能があるのだと思います。

若い人にはわからないかもしれませんが、年をとってみずからの人生をふり返ると、中森明菜が「難破船」で歌いあげるような世界は、たしかに私たちのなかにもあるのです。私たちはそのなかで、人知れず生きるかなしみに涙するのです。恋は、メタファにすぎません。中森明菜が「難破船」で描いた世界は、藤枝静男や大庭みな子の小説の世界にも通じるものがあるように思います。

昨夜、夢のなかに亡くなった母親が出てきて、今日は一日中しんみりした気持になったのですが、そんなときはよけい中森明菜の歌が心に染み入るのでした。

平岡正明が言うように、感情をもつことは絶対的に正しいのです。私たちが生きているのは、国家のためでも社会のためでもなく、ほかならぬ私自身のためです。私的な感情がすべてであり、私的な感情から生まれたことばを紡いで私たちは自分を表現し、そして日々生きているのです。中森明菜が描く世界は、そんな私たちのなかにある絶対的な世界に隣接しているのだと思います。

中森明菜が気が強くて感情の起伏が激しく、完全主義者でわがままなのは有名な話です。恋人でもあったマネジャーにも、なにか気に食わないことがあると灰皿を投げつけていたそうです。その感情の起伏の激しさが、自殺未遂を起こしたりするのですが、一方でそれが彼女を「歌姫」にしたとも言えるのです。

中森明菜が本格的にカンバックできないのは、事務所のマネジーメントの弱さだけでなく、彼女の性格も災いしているように思えてなりません。たしかに、「歌姫」の名声をパチンコメーカーに安売りしている今の姿は見るに忍びないものがありますが、でも、彼女が戦後歌謡史に残る「歌姫」であることには変わりはないのです。山口百恵に負けないくらいの「歌姫」の神話を作っているのは、否定すべくもない事実でしょう。

YouTube
難破船 中森明菜
2015.11.16 Mon l 芸能 l top ▲
噂の真相1996年11月号表紙


リテラが、川島なお美死去に関連して、彼女と渡辺淳一の密会をスクープした19年前の『噂の真相』の記事(1996年11月号)を取り上げていましたが、私もなんだかなつかしい気持になり、押し入れの奥から古い『噂の真相』を引っ張り出しました。

リテラ
川島なお美と渡辺淳一の密会をスクープ、「噂の真相」岡留編集長が語る女優・川島なお美の美学と肝っ玉

言うまでもなく渡辺淳一は、ベストセラー作家で「文壇」の大御所でした。週刊新潮や週刊文春も彼のスキャンダルを書くことは絶対のタブーでした。それは、亡くなった今も変わりません。

そんななかで、「タブーなき反権力スキャンダリズム」を標榜する『噂の真相』は、再三にわたって、小説を地でいくような渡辺淳一の女性スキャンダルを記事にしていました。

たとえば、2001年1月号の「体験的告白エッセイでも隠し続けた渡辺淳一の知られざる秘密を剥ぐ!」という記事では、みずから華麗なる(?)女性遍歴を綴った”告白エッセイ”『マイ センチメンタルジャーニー』でも触れていない隠し子の存在について書いていました。

その記事のなかに、つぎのような箇所があります。

 なにしろ渡辺の女優好きは有名な話で、86年に映画化された『化身』のヒロインに当時宝塚を退団したばかりの黒木瞳を抜擢し、関係を持ったのをはじめ、『別れぬ理由』の主役を三田佳子が演じれば今度は三田と、自作が映画化・テレビドラマ化される度に渡辺は必ず出演女優に手を出してきたからである。
(略)
 そのうえ、こんな話もある。ある関係者が渡辺の渋谷の事務所に行った時のこと。渡辺はさまざな女優とのツーショット写真が収められたアルバムを取りだすと、その関係者にこう自慢したというのだ。「ここに写っている女優とは全員やった」と(笑)。
 そして関係者が記憶している限りで名前を挙げると、そこにあったのはこんな顔触れであった。
 ×××××、××××、××××、××××、××××、××××、××××、×××、××××、 そしてもちろん、川島なお美・・・。 (※伏字は引用者の判断)  
 亡き大物女優からフェロモン女優まで、まさに錚々たる面々なのだ。
 なかでもこの女優との「関係」だけでもう一つの『マイ センチメンタルジャーニー』となり得るのが、やはり川島なお美だろう。
 いまさら言うまでもなく、本誌が3度にわたってふたりの「北海道密会旅行」をスクープしたように、渡辺と川島なお美が『失楽園』のヒロイン役をめぐって96年暮れに知り合って以来、少なくとも昨年初めごろまで愛人関係にあったのは紛れもない事実。
 主演女優の座という「利益」のために近づいてきた川島なお美に対し、まんまと引っ掛かり、逆に夢中になってしまった渡辺の「老いらくの恋」──。

『噂の真相』2001年1月号
体験的告白エッセイでも隠し続けた渡辺淳一の知られざる秘密を剥ぐ!


そして、そのスクープ記事のひとつが、リテラが取り上げている1996年11月号の「女優川島なお美との密会劇に見る渡辺淳一文学と好色志向との狭間」です。

私は、渡辺淳一の小説は読んだことはありませんし、「失楽園」にもまったく興味はなく、川島なお美が主演したテレビドラマも、黒木瞳が主演した映画も、どちらも見ていません。当時、私も世間様から指弾されるような道ならぬ恋のまっただ中にありましたが、しかし、「失楽園」なんてバカバカしいと思っていました。

だから、私は、失礼な話ですが、川島なお美を女優として見ることができないのです。私にとって、川島なお美は、ワインのイベントに、お約束のように愛犬を抱いて出てくるあのイメージしかないのです。リテラのように、「女優として生き、最後まで女優をまっとうした」という言い方も、正直言ってピンとこないのです。

渡辺淳一に関しては、現在、某有名男優の奥さんになっている若手の人気女優(当時)が、やはりドラマの主役の座を射止めるために、原作者の渡辺と懇ろになったという知る人ぞ知る話もありますが、このように女優(タレント)というのは、村西とおるが言うように、普通のお嬢さまにはできないやくさなお仕事なのです。それが吉本隆明が言う「特殊××」の住人である所以です。

モデルをしていた知り合いの女の子の話では、ショーのあとカメラマンやプロデューサーから別室に呼ばれ、「グラビアに出る気はない?」「悪いようにはしないよ」と言って、手を握られたり太股を撫でられたりするのはしょっちゅうだったそうです。また地方に行くと、当然のようにホテルの部屋に電話がかかってきたり、部屋のドアをノックされたりするのだそうです。そのことを事務所の女社長に告げたら、「アナタだって子どもじゃないんでしょ」と言われたのだとか。

カタギの社会で言えば、「枕営業」や「セクハラ」が当たり前のこととして存在する世界、それが芸能界なのです。そういう世界でめげずにやっていくには、よほど強靭な精神力がなければやっていけないでしょう。文字通り「肝が据わって」いなければ生き抜いていけないのです。

川島なお美も、したかかにたくましく芸能界を生き抜き、そして病魔に倒れたのです。文字通り”女優魂”ならぬ”芸能人魂”を体現したひとりだったと言えるでしょう。ことばの真正な意味において、芸能人というのはやくざなのです。彼らは、市民社会の公序良俗からドロップアウトした(せざるをえない)人間たちなのです。それは差別ではありません。それが芸能人(芸能の民)の本質なのです。


噂の真相1996年11月号グラビア

噂の真相1996年11月号記事


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酒井法子復帰と芸能界
2015.10.02 Fri l 芸能 l top ▲
テレビで川島なお美の激やせした姿を見たときはびっくりしました。もっとも、肝内胆管ガンの場合、手術の場所によっては、消化器の機能が一時的に失われるので、それが回復するまでは激やせすることもあるそうです。ただ一方で、肝内胆管ガンが他のガンに比べて、予後がきわめて悪い病気であるのもたしかなようです。

そして、案の定と言うべきか、テレビ出演から数日後、公演中のミュージカルと11月から公演が予定されている次回のミュージカルも併せて降板することが発表されたのでした。

川島なお美と言えば、ワイン好きで有名で、ボジョレヌーボーの解禁日のイベントなどに、ミニチュアダックスフントの愛犬を連れて出てくるお約束の人物でした。また、青学出身ということもあって、『なんとなく、クリスタル』の登場人物とオーバーラップするところもあり、そのためか田中康夫とセットでよく出ていた時期もありました。

昔は、ちょっと生意気で高慢ちきなイメージがありましたが、その激やせした姿からはそんなイメージは微塵も伺えず、川島なお美らしさもすっかり消えていました。

今や二人に一人がガンに罹る時代で、早期発見であればガンは怖い病気ではないと言われますが、しかし、そうは言っても、ガンが死を連想する病気であることには変わりはないのです。そんな病気と向き合わねばならない苦悩たるや、私たちの想像を越えるものがあるはずです。

また、今日のワイドショーでは、北斗晶がみずからのブログで、乳ガンを告白したというニュースが大きく扱われていました。報道によれば、北斗晶の場合、ガンの進行が速いらしく、既に脇の下のリンパ節に浸潤(転移)しているそうです。

余談ですが、私は、北斗晶と佐々木健介がまだ結婚する前、原宿の知り合いの店で二人に会ったことがあります。プロレスファンの店のオーナーと顔見知りだったみたいで、私が店で油を売っていたら二人がふらりとやってきたのでした。オーナーから「健介さんにサインをもらったら?」と言われましたが、私はプロレスにまったく興味がなかったので、失礼にも「いいです」と断ったことを覚えています。そのときの二人の印象は、今、テレビで見る印象とまったく同じでした。

昔、入院していたとき、同じ病院に筋ジストロフィーの病棟がありました。当時は、今と違って筋ジストロフィーは不治の病と言われ、患者の多くは20歳前後で亡くなっていました。それでも、子どもたちは”院内学級”で、文字を覚え、計算の仕方を覚え、歌を歌い、絵を描いて、普通の子どもたちと同じように勉強していました。

筋ジフトロフィーの小児病棟を担当するドクターは、「もしかしたら明日になったら画期的な治療法が見つかるかもしれないのです。みんなそう思って治療に当たっているのですよ」と言ってました。私は、それを聞いて、「絶像の虚妄なること亦希望に同じ」という魯迅のことばを思い出したのでした。

決して気休めではなく、絶望の先にも希望はあるのです。

追記:
この記事をアップして1時間半後、川島なお美が亡くなったというニュースが流れました。
2015.09.24 Thu l 芸能 l top ▲
このブログももう10年書いています。光陰矢の如しとはよく言ったもので、時間の経つのははやいものです。10年経ったということは、10才年をとったということです。昔、黒柳徹子だったかが、若い頃は各駅停車の鈍行列車に乗っている感じだったけど、年をとると、急行になり特急になってどんどんはやくなっていく、と言ってましたが、とりわけ黄昏時は時間の経つのがはやく感じるものです。

この10年、なにをしていたんだろうと思います。馬齢を重ねるという言い方がありますが、ただ徒に年をとっただけのような気がして暗澹たる気持になります。

テレビを見てたら、「キラリ!元気人」とか言う青汁のCMに、女優の叶和貴子が出ていました。叶和貴子も既に50代後半になり、すっかり年老いていました。なんでも30代の半ばにリウマチを発病して、以後20年間、芸能界から遠ざかり闘病生活を送っていたそうです。

そう言えば以前も、病気で歩くのもままならず外出も控えていたけど、仔犬を飼いはじめて散歩に出かけるようになり、「元気になったのもこの子のおかげです」と言って膝に乗せたマルチーズだかを撫でているCMがありましたが、あれも青汁のCMだったのか。また、そのCMでは、たまたま通りかかった靴屋で、オーダーメイドの靴を作ったら歩くのが楽になったとかいうエピソードも紹介していました。

現在は、みずからの病気をネタに講演活動をしているようなので、病気をしたのはたしかだとしても、いくらか脚色している部分もあるのかもしれません。芸能人はタダでは起きないのです。

所詮は青汁のCMと言えばそうなのですが、でも、そうはわかっていても、「キラリ!元気人」に出ている叶和貴子に、私はどこかもの哀しさのようなものを感じてならないのです。叶和貴子は結婚もしてないようです。じゃあ、芸能界から遠ざかっていた20年間、どうやって生活していたんだろう?、なんて無粋なことはここでは考えないことにします。

若い頃、誰もが羨むほどの美貌を誇っていた女性が、病気をして悩み苦しみ、そして、人知れず年老いて行く。私は、そこに”孤独”や”生きる哀しみ”を見た気がしたのでした。なんのことはない、中高年向けの青汁のCMにまんまとはまった自分がいたのでした。

年老いていくことは哀しいことなのか。このブログで、たまたま目に付いた「歩いても 歩いても」という映画の感想を書いた記事を読み返していたら、否応なく年老いた自分を感じさせられ、しみじみとした気持になりました。「歩いても 歩いても」を投稿した当時、私はどっちかと言えば、まだ年老いた親を視る子供の立場でした。でも、親もいなくなった今、そのあとには、叶和貴子と同じようにすっかり年老いた自分がいるのです。まるで取り残されたかのように、ひとりぽつんと立っているのです。やはり、この10年は短いようで長いのでした。

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「歩いても 歩いても」
2015.05.08 Fri l 芸能 l top ▲
一部のスポーツ新聞や週刊誌が書いている能年玲奈の「洗脳」騒動。

またかと思いました。芸能人が「独立」すると決まって登場するワンパターンの記事。それは、ときに「洗脳」であったり「借金」であったり「略奪愛」であったりするのですが、必ずバックには「黒幕」がいることになっています。世間知らずの芸能人は、その「黒幕」に騙され操られているというわけです。

今回の能年怜奈も例外ではありません。「洗脳」騒動の裏事情については、下記のリテラの記事に詳しいのですが、今回はめずらしく『週刊文春』が能年サイドに立った記事を書いていました。それだけが今までとは違う点です。

リテラ
洗脳なんかじゃない! 能年怜奈の才能をつぶしているのは所属事務所のほうだ!

『週刊文春』(5月7日・14日号)の記事によれば、「あまちゃん」のオーディションで、所属事務所がプッシュしていたのは、能年ではなく、社長が直々にスカウトした川島海荷で、能年は”当て馬”にすぎなかったそうです。

NHKの朝ドラのヒロインに抜擢されてからも能年の給与は5万円で、担当していたのは要領を得ない新人マネージャーで、普段は車も付かないので、見るに見かねたNHKがタクシーチケットを用意していたのだとか。記事は、つぎのようなエピソードを紹介していました。

 東京に戻り、怒涛のスケジュールで撮影が進行していた。深夜、寮に帰ってから明日の本を読みを始め、睡眠時間は平均三時間。
 スタジオに着ていく服の洗濯も間に合わなくなった。お金もない。月給五万円では経費の精算が追いつかないのだ。 
 撮影が終盤に入り佳境を迎えた四月、ついに能年はパンクした。
 この時、能年が弱音を吐いて頼れるのは、折にふれて演技指導を受けていた滝沢しかいなかった。
 深夜、滝沢に電話した能年は泣いていた。
「寮の洗濯機が壊れて、もう明日のパンツがない」
 コンビニで買えばいいと言う滝沢に能年は訴えた。
「財布には二百円しかない」


その滝沢(充子)こそが現在、能年を「洗脳」して「独立」を画策する”黒幕”と見なされている人物です。

能年は、事務所への態度が悪いという理由で半ば干された状態にあるのですが、そのため能年が「事務所を辞めたい」と不満をもらした途端、「洗脳」「独立」の記事がいっせいに芸能マスコミに出たのでした。怖い、怖い、芸能界。やくざな芸能界を象徴する、わかりすぎるくらいわかりやすい騒動と言えるでしょう。

忘れてはならないのは、芸能マスコミが「奴隷契約」(竹中労)でタレントを縛る”人買い稼業”の使い走りをしている事実です。今回も、東スポや『女性自身』や『アサヒ芸能』などが”能年攻撃”の先兵を演じているのですが、テレビ局も含めて、芸能プロダクションの意を汲んだ低劣な芸能マスコミが、そうやって「足抜けは許さない」「裏切り者はこの世界では生きていけない」という”無言の圧力”を作り出しているのです。

石田純一などが所属するプロダクションで、運転手やマネージャーをやっていた現社長が独立してはじめた所属事務所は、体育会系でパワハラもひどくて人の出入りも激しいそうですが、その稼ぎ頭は新垣結衣なのだそうです。なんだか私のなかでは新垣結衣のイメージまで落ちてしまいました。

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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2015.05.03 Sun l 芸能 l top ▲
中村うさぎがTOKYO MX「5時に夢中!」を降板するというニュースの余波で、私のブログもいつもより多くのアクセスがありました。

もっとも、「降板」と言ってもまだ正式に決まったわけではなく、中村うさぎが自分のブログで、その意向をあきからにしたにすぎないのです。言い方は悪いけど、ことの真偽は別にして、中村うさぎが一人相撲を取っている感じがしないでもありません。

昨日の中村うさぎvsマッド髙梨・ガチBLOG!に、「降板」の理由が書かれていましたが、それを読むにつけ、私には「行き違い」「誤解」というより「被害妄想」ということばしか浮かびませんでした。もっともこの手の「被害妄想」は私たちにもよくある話です。今の中村うさぎは、精神的にかなり弱っている感じで、以前のあの強気な(?)面影は微塵もないのでした。

中村うさぎvsマッド髙梨・ガチBLOG!
5時に夢中!を降板する事に決めたんだけど、この件でまたもや精神的に参っちゃって、本当に生きているのが嫌になったわ。

鬱病になったことのある知人は、診察に行ったら先生から、「入院したらどうですか? 楽になりますよ」と言われたそうですが、中村うさぎも治療を受けて楽になったほうがいいんじゃないか、なんて余計なことまで考えてしまいました。ブログによれば、「もっと家賃の安い部屋に引っ越すつもり」だそうですが、環境を変えて捲土重来を期すのもひとつの方法でしょう。

それにしても、病気というのはむごいものだなとあらためて思います。言うまでもなく、中村うさぎがこうなったのは、病気をして人生や生活が一変したからなのです。

「生きているのが嫌になる」気持もわからないでもありませんが、でも、それでもどこかに生きる希望を見つけて生きてもらいたいし、そして、何度も言うように、そんな「老残」な自分を中村うさぎらしい筆致で書いてもらいたいと思います。

関連情報:
中村うさぎに言いたい
2015.02.05 Thu l 芸能 l top ▲
また出たっ!、芸能界の魑魅魍魎! 

何度も同じことを書きますが、タレントが独立すると、どうしていつもゴシップが流され、「タレント生命の危機」などと言われるのか。先日の安室奈美恵とまったく同じパターンのゴシップ記事です。しかも、それに火を点けたのが、我らが週刊文春です。どこまでもわかりすぎるくらいわかりやすい話です。

江角マキコバッシングの核心は、つぎの文章に集約されています。

日刊サイゾー(2014年09月10日)
「もう叩いちゃっていいから!」各事務所の“お墨付き”で、江角マキコのスキャンダル報道が止まらない!?

 業界からも、江角を擁護する声は皆無だ。江角は今年3月に大手芸能プロ「研音」を辞め、独立。表向きは円満退社ということになっているが「ワガママな江角さんに事務所が業を煮やしたというのが、本当のところ」(芸能プロ幹部)。


背景にある「ママ友いじめ」は、事実関係においても人間関係においても、いろいろと入りくんだ事情があるようですが、朝日の「従軍慰安婦」問題と同じように、ものごとを牽強付会に解釈して、はじめにバッシングありきの悪意ある記事に仕立てているのでした。独立した途端、どうしてこういった記事が出てくるのか、まずそのカタクリを知る必要があるでしょう。

しかし、サイゾーをはじめ芸能マスコミは、まるで“乞食犬”(連中にはこの差別用語こそふさわしいでしょう!)のように、週刊文春がばらまく餌に群がり、我も我もと”江角叩き”の隊列に加わるのでした。そして、週刊文春の言うままに、「見てきたようなウソ」の大合唱をはじめるのです。

これじゃ悪貨が良貨を駆逐し、芸能界に魑魅魍魎が跋扈するのも当然でしょう。陰で高笑いをしている者たちがいることさえわからないのでしょうか。いや、わからないはずはないのです。芸能マスコミは、まさに彼らの走狗でしかないのです。

さらに、その悪意ある記事を真に受けて、「やっぱり江角ってワガママでひどい女だったのネ」とばかりに、”江角叩き”に動員される芸能ファンたち。日頃、マスコミなんてゴミだ、信用できない、なんて言いながら、週刊文春のような“マスゴミ”にいいように踊らされ、これみよがしに江角に罵言を浴びせる情弱なネット住人たち。彼らはいつでも”煽られる人たち”なのです。

その構造は、アベノミクスや特定秘密保護法や集団的自衛権行使などにおいても然りです。

カルトな総理大臣が妄想と現実をとり違え、周辺国を挑発して戦争を煽ると、週刊文春をはじめマスコミがいっせいに“鬼畜中韓”の記事を書き立てて戦争前夜のような”危機感”をふりまく。そして、ネットの情弱者たちが、そんな“マスゴミ”に煽られて「撃ちてし止まん」とばかりにヘイト・スピーチをがなり立てる。ここにも陰で高笑いをしている者たちがいることでしょう。

芸能界も政治も同じ構造のなかにあるのです。空念仏のように「言論・表現の自由」のお題目を唱えるだけで、肝心な”自由な言論”はどこにもないのです。それが今この国をおおいつつある全体主義の空気です。

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『芸能人はなぜ干されるのか?』
江角マキコさんの手紙
2014.09.11 Thu l 芸能 l top ▲
先日の『芸能人はなぜ干されるか?』の記事に対して、某固有名詞の部分をすべて削除するよう要求する正体不明のメールが届きました。それで、会社名と氏名をあきらかにしてくれれば対応を考えると返事しましたが、そのまま音沙汰なしでした。文面から察するに単なるイタズラとは思えず、なんだか芸能界の魑魅魍魎の一端を垣間見た気がしました。

芸能界の魑魅魍魎と言えば、今、たてつづけに大手週刊誌にスキャンダル記事が出ている安室奈美恵の場合も然りです。これほどわかりやすい話はないでしょう。たとえば、下記の記事などはその典型です。

安室奈美恵 懇意のPとToshl洗脳宗教団体トップとの関係
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140822-00000002-pseven-ent

これは、今までもいやになるほどくり返されてきたおなじみの光景です。タレントが独立すると、どうしてプロダクションとの間でトラブルが生じ、そして、芸能マスコミによってタレントのスキャンダルが報じられ、「タレント生命がピンチ」などと言われるのか。

あろうことか、こういったカラクリを熟知しているはずのあのアクセスジャーナルまでもが、ばらまかれたエサに飛びついているのです。アクセスジャーナルには、ご丁寧に2本の記事がアップされていました。

<芸能ミニ情報>第18回 安室奈美恵独立問題の核心(2014.08.17)
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=6982

これが安室奈美恵、“黒幕”、その家族が“同居”する超高級マンション(2014/08/21)
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=6986

愛人であろうがなんだろうが、そんなことはどうでもいいじゃないかと思います。みずから技芸で生きる芸能人であれば、「独立の思想」をもつのは当然です。パートナーがいれば、損得勘定も入れて、その「独立の思想」を共有するでしょう。それがどうして悪いこと、許されざることなのか。

笠井潔氏は、『日本劣化論』のなかで、「独立生産者の気概と誇り」について、つぎのように言ってました。

会社の一員として、組織を挟んで間接にしか市場と接触できない者は、決して自由になれない。会社の上下関係は恣意的で権力的ですが、市場の論理はより客観的です。市場と勝負しながら生き抜いていくところに、独立生産者の気概と誇りがあります。


それは芸能人とて同じです。フリーのジャーナリストであれば、この「独立生産者の気概と誇り」は痛いほどわかるはずです。なのにどうして、独立VSスキャンダルのミエミエな構図に、いともたやすく乗ってしまうのか。そこにあるのは、「俗情との結託」(大西巨人)であり、”劣化”としか言いようのない”おためごかしの常套句”です。

先日、たまたま目にしたある人気ブロガーのブログにも、同じようにこの”劣化”が露呈していました。彼は、例のNHK特集「STAP細胞 不正の深層」に対して、その内容の粗雑さをなんら検証することなく手放しで絶賛しているのでした。小保方氏が共著者の若山照彦山梨大教授の研究室からES細胞を盗んでSTAP幹細胞をデッチ上げたという、ネットでおなじみの窃盗・捏造説がその最大の根拠です。

彼は、小保方氏を擁護するのは「右翼カルト」で、安倍首相や下村文科相によって、小保方氏の不正を隠す工作がおこなわれていると主張します。さらに、STAP騒動の根本にあるのは、小保方氏と笹井氏の”ただならぬ関係”で、笹井氏は小保方氏との関係を問い詰められた結果、自殺に至ったと推理するのでした。小保方氏のプライバシーを暴くような記事に対しても、理研の職員は「準公務員」で、税金を使って研究をしている「公人」なので、プライバシーを暴かれて当然だというような言い方をしていました。

でも、このような彼の見方は、それこそ「右翼カルト」の週刊新潮や週刊文春や2ちゃんねるのネット住人などが言っていることとそっくり同じなのてす。

一方で、彼は、安倍政権の解釈改憲をファシズムだと批判し、原発再稼動にも反対し、反戦平和を訴えているのでした。もともと彼は、左派・リベラルの立ち位置で、多くの読者の支持を集めているブロガーです。

これこそ笠井潔氏が言う「倫理主義的倒錯」と言うべきでしょう。白井聡氏は、「共産党の体質と封建制の体質はそっくりだ」という堤清二氏のことばを紹介していましたが、左翼も右翼も根っこにあるものは同じなのです。それが白井氏が言う「永続敗戦レジーム」たる戦後の言語・思想空間の構造なのです。

安室奈美恵のスキャンダルも小保方問題も、いみじくもその”劣化”の構造を映し出しているような気がしてなりません。それは、決して大げさな話ではありません。
2014.08.22 Fri l 芸能 l top ▲
芸能人はなぜ干されるのか?


『芸能人はなぜ干されるのか?』(星野陽平著・鹿砦社)を読みました。書名は軽いですが、本自体は脱稿まで5年を要したという労作です。ただ、多くは直接取材したものではなく、過去の記事や関連する文献を当たって、それをまとめたものです。そのため、本書で引用されている『噂の真相』や竹中労や沖浦和光氏の本を読んできた人間には、今さらの感はぬぐえません。それに、資料のせいなのか、本書で紹介されている芸能人の事例が古いものが多く、私にはやや興ざめでした。

著者は、こう書きます。

 芸能資本の力の源泉は有名タレントを所有することにある。だが、タレントは「モノを言う商品」であり、放っておけば芸能資本の手から離れてしまう。それを防ぐために必要なのは、①「暴力による拘束」、②「市場の独占」、③「シンジケートの組成」の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ。


今の芸能界がバーニングと吉本興業とジャニーズ事務所に「支配」されているというのは、衆目の一致するところでしょう。それを可能にしているのが、音事協(日本音楽事業者協会)という「シンジケート」による「市場の独占」です。その結果、芸能プロダクションがテレビ番組の制作にまで関わり、「番組が局ではなく、芸能プロダクションを中心に動いている」ような状況まで招来しているのです。

芸能プロダクションというビジネスモデルは、日本と韓国の芸能界にしか存在しないと言われているそうです。もっとも、韓国の芸能プロダクショにしても、最大手のSMエンターテインメント(1995年法人登記)が「芸能ビジネスの手本とした」のは、2010年までSM社の主要株主でもあった日本のエイベックスだそうです。

韓国の芸能界については、東方神起の分裂騒動やKARAの引退騒動、あるいは性的接待による自殺事件など、スキャンダラスなニュースが日本でも話題になりましたが、「韓国芸能界の醜悪さは、日本の芸能界の映し鏡でもある」と著者は書いていました。「日本のマスコミは韓国の芸能界について語る時、その後進性を指摘することがある。だが、韓国に芸能ビジネスを教えたのは日本」なのです。

一方、アメリカの芸能界は、日本や韓国と違って、「タレント本人がエージェントやマネージャー、パブリシスト、アシスタント、弁護士などをそれぞれ雇うことになっている」そうです。しかも、エージェントは、反トラスト法(アメリカ版独占禁止法)やタレント・エージェンシー法という独自の法律によって、その活動がきびしく規制され、タレントの権利が手厚く保護されているのです。もちろん、そういったタレントを保護する体制ができた背景には、タレント(俳優)たちの組合による闘いの歴史があったからにほかなりません。

著者は、「芸能プロダクションにとってタレントは『所有物』だが、エージェントにとってのタレントは『お客様』である」と書いていましたが、それが日本の芸能界とアメリカの芸能界の根本的な違いなのでしょう。そして、その違いのなかに、ある日突然、芸能人がメディアから消える現象(芸能人はなぜ干されるのか?)の解答が示されているのだと思います。

 芸能プロダクションの経営は、タレントを独占的に抱え込むことによって成り立っている。タレントが自分の意志で勝手に移籍や独立をすることは絶対に許されない。そのために、タレントの引き抜き禁止、独立阻止の協定を結ぶ音事協という談合組織が設立された。


竹中労は、音事協の統一契約書について、「タレントはすべての自由を奪われ、義務だけを負わされる」「まことに恐るべき”奴隷契約”」だと批判していたそうですが、まさにそこにあるのはタレントは「商品」「所有物」という思想なのです。

このような日本の芸能界の”前近代性”は、日本の芸能文化の”特殊性”に根ざしているという見方もできるのかもしれません。それは、言うまでもなく、本書でも一章が割かれていた「芸能と差別」の問題です。

芸能者(人)は、律令制の身分制度のなかでは最下層の「巫(ふ)」に属する賤民とされていたそうです。そして、中世から、芸能は「神社や寺院や仏像の建立、修繕のための資金を募って信仰の道を説く『勧進興行』として発達した」のです。

安土桃山時代以降、寺社勢力が衰えていったのに伴い、芸能者は寺社を離れて、信仰とは関係のない娯楽としての興行をはじめたのでした。その際、興行する場所として選ばれたのが、広いスペースのある河原でした。しかし、河原は昔から死者の埋葬地に使われ「穢れ(ケガレ」の場所と考えれていました。そのため、芸能者も不浄の民とされ「河原乞食」として蔑まれてきたのです。

それは近代に入っても然りで、”芸能の街”と言われた東京の浅草や大阪の千日前が、かつて近くに刑場や火葬場や墓場があった「悪所」だったのは偶然ではないのです。

「普通のお嬢さまにはできない」芸能界のお仕事。そんなやくざなお仕事にテレビ局や芸能評論家と称する人間たちが寄生し、裏で支えているのです。著者はこれを「癒着」と書いていましたが、私には「共犯」のようにしか見えません。

90年代前半、WANDS、ZARD(坂井泉水)、DEEN、B'Z、大黒魔希、T‐BOLANといったアーチストをつぎつぎと送り出し、まさに時代をけん引するヒットメーカーだったビーイングの長戸大幸も、ある日突然、耳の病気を理由に芸能界から引退したのですが、実際はその背後に、音楽利権をめぐる暗躍があったのだそうです。

従来の芸能界の音楽利権のシステムに反旗を翻し目障りな存在であった長戸大幸は、坂井泉水のあとに交際したタレントとのトラブルを口実に「潰された」のだとか。これなども「怖い、怖い、芸能界」を物語るエピソードと言えるでしょう。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。たかが芸能界と言うなかれ。芸能記事を眉に唾して読むことも、大事なメディア・リテラシーと言えるのではないでしょうか。

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2014.07.20 Sun l 芸能 l top ▲
映画「アナと雪の女王」の日本語吹き替え版で、ヒロインのエルサを演じる松たか子が作中で歌う「Let It Go」の歌唱力が「すごい」と話題になっているようですが、昔からの松たか子ファンとしては、「してやったり」という思いとともに、やや戸惑う気持があることも事実です。

以前、ミュージカル女優の卵の女の子に、松たか子が好きだと言ったら、彼女は「お父さんは声が通らなくてダメだけど、松たか子は声もよく通るし、歌唱力も演技力もお父さんより全然上だよ」と言ってました。ミュージカル関係者の間では、松たか子の才能は前から定評があったのです。

また、旧知の会社が原宿で経営していた居酒屋があり、その店は業界関係者がよく集まる店として有名だったのですが、私も一度だけ松たか子が来ているのに遭遇したことがありました。ちょうどその頃、週刊誌に某スタイリストとのロマンスの記事が出たことがありましたが、その店には件のスタイリストもよく来ていましたので、そういった関係で噂が出たのかもしれません。

スタイリストをよく知る業界関係者の知り合いなどは、「いくらなんでもそれはないだろう」「もしそれがホントなら松たか子にはがっかりだな」と言ってました。のちに松たか子がギタリストの佐橋佳幸氏と結婚したと聞いて、私も含めて周辺の松たか子ファンはみんな、ホッと胸をなでおろしたものです。

私は、「明日、春が来たら」にしても、「桜の雨、いつか」にしても、「コイシイヒト」にしても、どっちかと言えば、素朴で素人っぽい歌い方がいいなと思っていましたので、「歌唱力がすごい」とか「海外で絶賛されている」なんて書き込みを目にすると、どうしても戸惑う気持が先に立つのです。私は、その素朴で素人っぽい歌い方に、どこかなつかしさのようなものを感じていました。いつまでも心の片隅に残っている青春の甘酸っぱさのようなものを感じていたのです。

そんな個人的な感覚からすると、「Let It Go」の松たか子はちょっと違います。もし「海外で絶賛されている」(と言っても、You Tubeの書き込みで絶賛されているとかいった話のようですが)から「すごいのだ」と言うのなら、それはやはりニッポン人お得意の「自演乙」と言わざるをえません。

私は、「Let It Go」よりも、やはり、「明日、春が来たら」や「桜の雨、いつか」や「コイシイヒト」の松たか子のほうが好きです。
2014.06.09 Mon l 芸能 l top ▲
ASKAの覚せい剤事件ですが、その後、気になる展開を示しています。ASKAは、既に覚せい剤の使用も認めているそうですが、一緒に覚せい剤を使用したとして逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者は、未だに否認しているのだとか。そして、栩内容疑者に関して、つぎのような報道も出てきているのです。

警視庁によると、ASKA容疑者は覚せい剤所持の容疑を認めた上、「覚醒剤を使ったことがある」と供述している。これに対し、知人の栩内香澄美容疑者は否認を続けているが、その後の捜査関係者への取材で、「覚醒剤は使っていない」と供述していることが分かった。栩内容疑者の尿と毛髪からは覚醒剤の成分が検出されおり、警視庁は、ASKA容疑者が覚醒剤とは明確に伝えずに、栩内容疑者と覚醒剤を使用していた可能性もあるとみて、慎重に調べている。
ASKA容疑者の知人、覚醒剤知らず使用か
日テレNEWS24( 2014年5月26日 12:02)


もしこれがホントなら、ASKAは栩内容疑者をジャブ漬けにしたということになります。ヤクザ顔負けの鬼畜な所業と言わざるをえません。栩内容疑者は、ASKAによって地獄に落とされたとも言えるのです。

その筋に詳しい人間に聞くと、最初は「女性用のバイアグラ」だとかなんとか言って、覚せい剤入りの飲み物などを与え、徐々にシャブ漬けにしていくのだそうです。そういった誘惑は、私たちのすぐ近くにいくらでもあるのです。

ホテルの関係者に聞くと、部屋に1日も2日も閉じこもっている怪しいカップルがいて、カップルがチェックアウトしたあと、部屋の清掃に入ると、案の定、床などに白い粉がこぼれていることがあるそうです。しかし、警察に届けると、半日も1日も事情聴取を受け仕事にならないので、そのまま拭き取って終わりにするケースが大半なのだそうです。

そのように覚せい剤が私たちの日常にも浸透している現実があるのですが、にもかかわらず不思議なのは、今まで「入手ルート」が解明されたという話をほとんど聞いたことがないということです。「警察は入手ルートなどを詳しく調べることにしている」と決まり文句のように言うのですが、しかし、曖昧なまま捜査が終了するのが常です。酒井法子の場合も然りでした。

いつも摘発されるのは、シャブ漬けになった末端の人間ばかりで、売人やその元締めが摘発されることはめったにないのです。おそらく今回も「入手ルート」は曖昧なまま終わるのかもしれません。覚せい剤事件には、そんな不可解な部分がいつもつきまとうのです。そして、暴力団関係者でない限り、初犯で反省のポーズを示せば、執行猶予付きの判決で社会復帰して一件落着です。

ASKAの作品が出荷停止・回収の処置になったことに対して、疑問を呈する意見がありますが、たしかに出荷停止・回収こそ典型的な日本式建前主義と言うべきで、ややもすればそれが禊になる可能性だってありえます。それに、裁判では出荷停止・回収が「社会的制裁」を受けたと看做され、「情状酌量の余地がある」と判断される可能性は大です。極端なことを言えば(過去の事例から言えば)、出荷停止・回収の先に芸能界復帰が予定されているのかもしれないのです。「才能がもったいない」という言い方も、「金の成る木なのにもったいない」という意味に読めないこともありません。実際に、チャゲアスの利権を狙う芸能界のドンが、既に「復帰」を視野に裏工作をはじめたという噂さえあるのです。

でも、事件の一連の経緯を見ても、ASKAの罪はきわめて大きいのです。ASKAの芸能界復帰なんてとんでもない話です。
2014.05.28 Wed l 芸能 l top ▲
ASKAの覚せい剤事件は、安倍政権がすすめる「解釈改憲による集団的自衛権の行使容認」への批判を避けるための”目くらまし”ではないかという見方が一部にありますが、そういった”妄想”を前提で言えば、私はむしろ逆のような気がしてなりません。

なぜなら、既にネットなどにも書かれていますが、ASKA と一緒に逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者をたどっていくと、アベノミクスの「成長戦略」を仕切る人脈に行き当たるからです。成り行き次第では、規制緩和を利権にする政商たちのスキャンダルが暴きだされる可能性さえあるのです。

栩内容疑者は、青森の高校を卒業後上京して職を転々とし、パソナグループの医療系人材派遣会社に勤務したのをきっかけに(逮捕時は別の関連会社に在籍)、パソナの創業者・南部康之氏の目にとまり、同グループが政財界のVIPを接待する際の「接待要員」に抜擢されたと言われています。

パソナグループは、現在、港区元麻布に「仁風林」という専用の迎賓館をもっていますが、「仁風林」には安倍首相や森喜朗元首相や前原誠司元民主党代表など、多くの政治家も訪れて「接待」を受けていたそうです。ちなみに、前原元代表の奥さんも、南部代表の「元秘書」と言われていますが、実際は「接待要員」で、パーティで知り合い結婚したという噂がもっぱらです(栩内容疑者も逮捕時の報道では「社長秘書」となっていました)。そして、ASKAと栩内容疑者が知り合ったのも、パソナのパーティだったのです。「接待要員」というのは、言わば北朝鮮の「喜び組」のようなものなのかもしれません。

現在、パソナグループの会長は、小泉政権で製造業派遣の解禁や郵政民営化で辣腕をふるった竹中平蔵氏ですが、竹中氏は安部首相とも親しく、アベノミクスの成長戦略を担う産業競争力会議のメンバー(民間議員)でもあります。同会議は、地域限定で大幅な規制緩和をおこなう「国家戦略特区」を提唱しており、そして、特区における「解雇ルール」「労働時間規制」「有期雇用制度」の見直しを提言しています。つまり、自由に解雇できて、残業手当は廃止して、派遣の期限も廃止するというものです。もちろん、そこには、「日本を、取り戻す!」(自民党のポスター)ならぬ「日本を、売り渡す!」TPPの受け皿作りという側面があることは間違いないでしょう。これが絶望的な格差社会をもたらすグローバル資本主義の本質であり、「愛国」を隠れ蓑にグローバル資本主義に拝跪して「国を売る」安倍政権の実態なのです。

マスコミは、ユニクロが1万6千人のアルバイトを正社員化するという話を大々的に報道して、あたかも安倍政権の経済政策によって正社員化が進んでいる(景気が回復している)かのような幻想をふりまいていますが、実際は、総務省が発表した労働力調査(基本集計)の2013年の平均でも、非正規雇用の割合は36.5%(正規労働3302万人、非正規労働1906万人)で、前年(2012年)より93万人増加し過去最高を更新しているのです(正規雇用は46万人減少)。

また、給与の面でも労働分配率は一貫して下がりつづけており、国税庁が発表した直近の民間給与実態統計調査(平成24年度)によれば、年収200万円以下の給与所得者は5年連続で1千万人を超えています(非正規雇用の平均年収は168万円)。特に女性が深刻で、200万円以下の割合は42.7%にのぼるそうです。

パソナの南部代表は、「派遣こそ終身雇用だ」とうそぶいていたそうですが、若い女の子を脇にはべらせ美酒に酔い痴れる私的なパーティで築かれた人脈を中心に、実際に(「成長戦略」の名のもとに)終身派遣(!)が現実になるような政策がすすめられているのです。

一方、昼のテレビでは、栩内容疑者が高校時代まですごした地元の青森を取材した模様が放送されていました。それによれば、栩内容疑者の一家は、お母さんが白血病にかかったため家計は苦しく、市営住宅で質素な生活を送っていたそうです。そして、高校生のときにお母さんが亡くなり、高校を卒業すると誰にも告げずにひとりで上京したということでした。

東京に出てきた栩内容疑者は、この生き馬の目をぬくような大都会で、みずからが如何に非力な存在かということを思い知らされたのではないでしょうか。そんななかで、コネも学歴もなんにもない自分が、東京でのし上がっていくには(つまり、階層上昇を果たすには)、唯一のとりえである容姿を武器にするしかないという考えにたどり着いたとしても、誰も非難できないでしょう。

私も似たような女性を知っていますが、しかし、哀しいかな、若いときはまだしも、年を取ると往々にしてみじめな末路が待っていることが多いのも事実です。なぜなら、女を武器にする生き方は、所詮男社会を前提にした生き方にすぎないからです。容姿(美醜)が女性性の大きな要素であることは否定できませんが、世の中は残酷なもので、ときにそれが躓きの石になることもあるのです。

先日、都心の住宅街を車で走っていたら、前からベンツやBMWなど高級車がつぎつぎとやってくるのでした。しかも、運転しているのは、見るからに「女性偏差値」の高そうな女性が多いのです。まわりを見れば、家賃が何十万円もするような「高級マンション」ばかりです。私たちのような下層貧民からすると、どうしてあんな車に乗ることができるのか、なんの仕事をしているのか、不思議でなりません。普通の仕事では、とてもそんな生活はできないでしょう。でも、それが東京という街なのです。

栩内容疑者も、そんな東京という街に翻弄され、政財界のお歴々や芸能人と知り合うなかで、徐々に現実感覚を失っていったのかもしれません。ただ、ひとつだけ言えるのは、栩内容疑者が美人でなかったなら(南部代表の寵愛を受けていなかったら)、彼女もまた、年収200万以下の生活を余儀なくされた可能性が高いということです。それがコネも学歴もなんにもない多くの女性の現実なのです。

ASKAについては、早くも「才能がもったいない」とかなんとか言われていますので、ご多分に漏れず禊をすませたらまた芸能界に復帰するのでしょう。しかし、栩内容疑者は、南部代表が今後も面倒を見てくれるわけではないでしょうから(既に逮捕の翌日に会社は解雇されたようですし)、前科者として社会の底辺にいっきに落ちていくのは避けられないように思います。そして、ワルたちにボロボロにされて、「波乱万丈の女の一生」を終えるのではないでしょうか。そう思うと、自業自得とは言え、なんだかせつない気持にならざるをえません。

※下記は、この記事のあとにアップされたおすすめの「関連情報」です(5/29)。
参照
パソナ南部代表、女性スキャンダル&セクハラ疑惑 秘書の覚せい剤逮捕生む企業体質
栩内容疑者“学校1の美女”が覚せい剤に溺れるまで…
2014.05.23 Fri l 芸能 l top ▲
今月3日放送のフジテレビ「めちゃ2イケてるッ!」で、小保方さんのパロディが見送られた件に関して、ナインティナインの岡村隆史は、ニッポン放送「ナインティナインのオールナイトニッポン」のなかで、つぎのように語っていたそうです。

 「オンエアしていない状態でダメやというのはちょっと」と納得できない様子の岡村。実際の内容については「ただのクイズコーナーだった」と説明し「おそらく小保方さんがこのコーナーを観たら多分笑ったと思う。放送されないなら(小保方さんが入院している)病院に持って行ったら笑顔も戻るのではないか」と小保方氏を元気づける内容であったことを強調した。
ナイナイ岡村 「阿呆方」見たら「小保方さん笑ったと思う」 スポニチアネックス 2014年5月9日)


「めちゃイケ」のサイトには、タレントの重盛さと美が扮する「小保方さん」が会見の場で「あります!」と言った瞬間、頭をスリッパで思い切り叩かれる次回の予告の映像がアップされていて、その映像には「阿呆方さんが緊急会見涙目で○○はあります」というスーパーが付けられていたそうです。

これがどうして小保方さんが見たら「笑ったと思う」のか。どうして(この映像を)「病院に持って行ったら笑顔も戻る」と言えるのか。もし、自分がメンヘラで休業していたとき、同じようなことをされたらどう思ったか。ホントに「笑った」か。

そもそもあの休業についても、業界で絶大な権力をもつ吉本興業の圧力で、芸能マスコミはどこも病気のことを書きませんでした。小保方さんと違って、岡村は手厚く保護されていたのです。メンヘラになるのは繊細な心の持ち主のようなイメージがありますが、岡村はデリカシーの欠片もない傲岸な人間のように見えて仕方ありません。岡村の発言は、思い上がりもはなはだしい詭弁だと言っていいでしょう。

小保方さんは、一般人です。権力をもつ政治家や官僚でもなく、プライバシーを切り売りする芸能人でもないのです。「めちゃイケ」の発想は、どう考えてもイジメのそれと同じでしょう。ここにも”小保方叩き”の本質が出ているように思います。

岡村には何様のつもりなんだと言いたい。たかが芸能人の分際で、なにを偉ぶっているんだと言いたい。そこにあるのは、テレビ局に揉み手して低劣な俗情に媚びを売る卑しい心根だけです。芸能人の風上にもおけないのです。

芸能人は、芸能人であると言うだけで差別される存在です。誤解を怖れずに言えば、世間に身を晒し自分のプライバシーを切り売りするような人間が差別されないわけがないのです。だから芸能人は芸能人たり得るのです。だからその差別を逆手にとって技芸に生きることができるのです。芸能人があこがれられたり拍手喝さいを浴びたりするのは、あくまでその技芸に対してなのです。

芸能人は、市民社会の公序良俗の論理とは異なる論理で生きている「特殊××」の人間たちです。彼らには市民社会の埒外で生きる「河原乞食」としての矜持と覚悟があるはずです。芸能人に「在日」が多いのもヤンキー(不良)が多いのも家庭的に恵まれない人間が多いのもそれゆえです。

岡村隆史は勘違いをしているのではないか。それは、岡村が立命館大学(?)出身の”高学歴芸人”であることと関係があるのかもしれません。その高慢ちきな意識は、ビートたけしや爆笑問題の太田光などにも共通していますが、なにか出世して社会的な名声を得たつもりにでもなっているのではないか。

岡村もまた、「分をわきまえず偉ぶる芸人」(竹中労)と言うべきでしょう。

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「官邸にキタノ」
酒井法子復帰と芸能界
2014.05.10 Sat l 芸能 l top ▲
先日、東京新聞に、「『全生園は私の支え』 宮崎駿氏、『人権の森』構想を全面支援」という見出しで、つぎのような記事が掲載されていました。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014012090100115.html

多摩全生園を囲っている柊の垣根ひとつとっても、そこには筆舌に尽くしがたい入所者の悲惨な歴史とこの国の医療行政が犯した暗黒の歴史が刻印されているのです。宮崎駿氏の多摩全生園に寄せる思いに共鳴する人も多いでしょう。もちろん、私もそのひとりです。

ただ、その一方で、宮崎駿氏をはじめとするスタジオジブリの姿勢について、違和感を覚える部分があることも事実です。それは、ヘイトスピーチの巣窟になっているニコニコ動画との関係についてです。

ニコニコ動画を運営する株式会社ドワンゴの川上量生会長は、スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーと意気投合して、会長職のまま「プロデューサー見習い」としてスタジオジブリに入社、週に1回出社して同社で「修行」しているのだそうです。

川上会長は、スタジオジブリとの関係について、「ジブリで学んだことをドワンゴで練習してジブリの仕事に活かす戦略です」(ニコ動とジブリは「サブカル界の正反対」 ドワンゴ川上会長、2足のわらじで見つめる未来)と言ってました。

一方、スタジオジブリは、同社が発行する小冊子『熱風』では護憲の立場を明確にしており、宮崎駿氏らは日本共産党の選挙パンフレットにも「推薦人」として名前を連ねるくらい、同党のシンパとしても知られています。そんなスタジオジブリがもっているリベラルでヒューマンなイメージと川上氏との関係を考えると、戸惑いを禁じえません。

ニコ動は、言うまでもなくヘイトスピーチにとって欠かすことのできないプロパガンダの拠点です。ニコ動とヘイトスピーチの「親密な関係」を指摘する人もいるくらいで、ニコ動があったからこそ、ヘイトスピーチが街頭に進出することになったと言っても過言ではないでしょう。お金のためならヘイトスピートでも利用する川上氏の姿勢は、ネットの守銭奴の面目躍如たるものがあります。あれはただ自分たちが預り知らぬところでユーザーが勝手にやっているだけだと言うなら、それこそ「凡庸な悪」(ハンナ・アーレント)と言うべきでしょう。

ハンセン病とヘイトスピーチ。文字通り「正反対」のこの問題について、スタジオジブリはどう折り合いをつけているのか。そう問い質したい気持があります。川上会長のように、「言霊」の問題として片付けるのでしょうか。あるいは、ヘイトスピーチにも「言論の自由」があるとでも言うのでしょうか。

私は、こういったところにもスタジオジブリの「きれい事」があるように思えてなりません。スタジオジブリの作品が体現する平和や人権や共生ややさしさや思いやり、あるいはせつなさや哀しみといったものは、純粋培養された恣意的な場所でしか成立しえない「きれい事」、夜郎自大な自己完結のセカイにすぎないのではないか。

ハンセン病の悲惨な歴史を思う気持と「朝鮮人を殺せ!」というヘイトスピーチを見て見ぬふりするスタジオジブリの姿勢には、どう考えても合点がいかないのです。

>> 『差別とハンセン病』
>> インディーズ文化の精神
2014.01.25 Sat l 芸能 l top ▲

照實氏らと一緒に棺を霊きゅう車に運び、助手席に乗り込んだ。膝上に白い菊の花束を乗せ、火葬場のある品川区の桐ケ谷斎場に向かった。潤んだ目が、うつろに宙を見つめていた。
(スポニチアネックス 2013年8月28日06:00 配信記事)


追悼の空気に水を差すようですが、私は、この場面をテレビで見て、ちょっと引っかかるものを感じました。

聞けば、撮影しやすいように、霊柩車の運転席と助手席の窓は開けられていたそうです。事前にどんなやり取りがあったのか知りませんが、そうやってマスコミに「サービス」していたのです。

悲しみにうち沈んでいたのは事実なのでしょう。「潤んだ目が、うつろに宙を見つめていた」のも事実かもしれません。しかし、それでも、マスコミ向けの「サービス」は忘れなかったのです。その結果、私たちが目にするのは、上の記事のイメージに合致したような宇多田ヒカルの写真です。案の定、翌日のスポーツ新聞は、どこも似たような「うつろに宙を見つめて」いる宇多田ヒカルの写真が掲載されたのでした。そうやって永遠にメディアで使いまわされる(であろう)写真が「撮影された」のです。

また、スポーツ新聞やテレビのワイドショーなどの報道も、その日を境に、前日に宇多田ヒカルが公式サイトにアップしたコメントに沿った、「家族の愛情が溢れている」「胸を打たれる」というようなトーンに変わったのでした。写真とコメントがワンセットになったのです。

たしかに、母親を失った宇多田ヒカルの気持を思うとき、コメントに記されたことばにウソはないのでしょう。

ただ、コメントを出すタイミングといい、コメントの文面といい、あまりにも「できすぎている」気がしないでもないのです。そして、それまでの報道がすべてコメントに収れんされるようなマスコミの変わり身のはやさには、逆に首をひねらざるをえないのです。

それじゃ、ペニオク詐欺ではないですが、芸能人のブログになんの留保もなく、「すてき!」「感動しました!」「私もほしい!」「がんばってください!」とコメントを書き込むファンと同じです。

どうして医療施設ではなく新宿のマンションだったのか。身の回りの世話をするのに、どうして女性ではなく男性だったのか。宇多田ヒカルは、本当に母親の居場所を知らなかったのか。

悲しみにうちひしがれているなかで、さりげなく行われた”演出”に、私のようなひねくれ者は、いろいろと勘繰ってしまうのですが、まして芸能マスコミは、”下衆の勘繰り”が売りのはずです。みんなでバンザイしてどうするんだ、と言いたいのです。
2013.08.29 Thu l 芸能 l top ▲
昨日の「情熱大陸」(TBS系列)は、「芸能界復帰から8か月。アラフォーとなった『朋ちゃん』のリ・スタート舞台裏に密着取材!」と銘打ち、華原朋美をとり上げていました。

それにしても、世間は移り気で、芸能マスコミはいい加減です。あれだけ叩いていた「朋ちゃん」ですが、今度は一転「朋ちゃん、がんばって!」に変わっているのです。特に女性誌にその傾向が強く、握手会などでは、「朋ちゃん」の顔を見て涙ぐむ女性ファンも多いのだとか。

ただ、この番組はドキュメンタリーというよりは、再デビュー&セルフカバーアルバム発売のパブ企画のような感じでした。さすが尾木プロダクション(正確には、プロダクション尾木)。過去のマイナスイメージを逆手にとって「朋ちゃん、がんばって!」に持っていく”力技”は見事というしかありません。

彼女をプロデュースした小室哲哉は、「アーティストに手をつけたのではない。恋人に曲を書いてデビューさせただけだ」(Wikより)とうそぶいていたそうですが、「遠峯ありさ」というB級アイドルが、当代の売れっ子プロデューサーと寝んごろになり、一躍トップアイドルの座を射止めたのですから、「シンデレラストーリー」と言われたのも当然でしょう。一方で、「公私混同だ」という批判もありましたが、しかし、芸能界は売れてなんぼの世界ですから、売れりゃそんなの関係ねぇ、逆に女王様のようにチヤホヤされるのです。私も実際に、当時小室が仕切っていた深夜のテレビ番組で、やたらチヤホヤされている彼女を見て嫌な感じがしたことを覚えています。

しかし、栄光も長くはつづきませんでした。小室に棄てられた彼女は、睡眠導入剤などのクスリに依存、救急搬送やドタキャンなど度重なるスキャンダルを演じ、ついに所属事務所のプロダクション尾木から解雇され、芸能界から姿を消したのでした。

恋人を失った心の痛みだったのか、それとも仕事の後ろ盾を失った絶望感だったのか、いづれにしてもクスリに溺れていた頃の彼女には、たしかにアイドルではないひとりの女性としての素の部分がさらけ出されていたように思います。だから、ファンたちは、今の「がんばっている」彼女を見て応援したくなるのでしょう。ファンというのは、芸能界はなんでもありだなんてひねくれた見方はしないのです。

でも、”同情”だけでやっていけるほど、芸能界が甘い世界でないことは言うまでありません。再デビューに際しての彼女の姿勢にも、危なっかしいところがないわけではありません。芸能界から身を引いたあとは、二十歳の頃から疎遠になっていたフィリピンに永住している父親のもとに行き、現地でめぐまれない子どもたちをサポートしている父親の活動を手伝ったりしていたそうですが、なのにどうしてまた生き馬の目をぬく(クスリに溺れるほど痛い目にあった)芸能界に戻ってきたのか。私は、「歌が好き」とかいう以前に、一度華やかなスポットライトを浴びた人間がもっている”哀しい性”のようなものを感じてならないのです。彼女が、再びお人好しなファンを裏切らないことを願うばかりです。

そして、再デビュー曲の「夢やぶれて」のようなお涙頂戴ではなく、過去の栄光に負けないようなオリジナル曲で勝負するのを待ちたいと思いました。
2013.08.20 Tue l 芸能 l top ▲
先日、新聞各紙につぎのような記事が出ていました。

週刊文春:上原多香子さんの記事 名誉毀損で賠償命令
 
 週刊文春の記事で暴力団関係者と交際しているかのように書かれ、名誉毀損されたとして、「SPEED」のメンバー上原多香子さんが発行元の文芸春秋側に計3000円の損害賠償などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は24日、110万円の支払いを命じた。
 問題となったのは、2011年9月15日号の「暴力団排除条例に狙われる『黒い芸能人』」とする記事の見出しと中づり広告。上原さんが、暴力団関係者が訪れる東京・西麻布の飲食店に出入りしている、という内容。
 畠山稔裁判長は「上原さんはテレビでこの飲食店を紹介した際に一度訪れただけで、暴力団と関わりがあるとはいえない」と指摘。(共同)
(毎日新聞 2013年07月24日 18時21分)


高級ラウンジ「西麻布迎賓館」のオーナーは、いわゆる闇社会とつながりが深いと言われる一方で、芸能界にも幅広い人脈をもっていた不動産会社社長(のちに競売妨害で逮捕・有罪判決)でした。それで、『週刊文春』が、日本テレビの「ヒルナンデス」で「西麻布迎賓館」をレポートした上原多香子をとりあげ、普段から「西麻布迎賓館」に出入りしていて、あたかも暴力団関係者と付き合いがあり、東京都でも施行された暴力団排除条例に抵触しているかのような記事を書いたのでした。

『文春』の記事に対しては、アクセスジャーナルの山岡俊介氏も、当初からなんの根拠もないただの憶測記事(人身攻撃)だと批判していました。たしかに、とかく噂のあった「西麻布迎賓館」を紹介するコーナーを企画した日本テレビがやり玉にあがるのならわかりますが、どうして日テレではなく上原多香子だったのかという疑問は残ります。

問題は『文春』だけではありません。こういった記事が出ると、それがJ-CASTニュースのようなミドルメディアに思わせぶりに紹介され、さらにネットのまとめサイトなどに転載、拡散されるのが常です。そして、「ネットこそ真実」と信じて疑わないネット住人がブログや掲示板などにコピペすることで、ターゲットにされた人間の負のイメージがネットでひとり歩きをはじめるのです。しかも、いったんネットにアップされると、Google でいつでも検索可能になり、永遠にネットで晒されることになるのです。

これがマスコミとネットの共犯によって生み出される”私刑”の構図です。現在はなんでも関東連合と関係があるかのように書く”関東連合ネタ”が盛んです。

オヤジ週刊誌が生み出すネットネタというのはお笑いでしかなく、なによりネット言論なるもののお粗末さを象徴していると思いますが、しかし、そこには笑って済まされない問題が存在していることもたしかです。

もっとも、『文春』にしても所詮は、団塊の世代とともに消えていくメディアにすぎません。こういうメディアは一日もはやく消えてもらうのが「世のため人のため」かもしれません。『文春』が消えたら、林真理子や小林信彦や伊集院静や中村うさぎやミドルメディアの編集者やまとめサイトの管理人や2ちゃんねるの住人は困るかもしれませんが、私たちはちっとも困らないのです。

それに忘れてはならないのは、『文春』は上原多香子や安藤美姫のスキャンダルはこれ見よがしに(でっち上げてでも)書くけど、林真理子や小林信彦や伊集院静や中村うさぎのスキャンダルや、「横田めぐみさんは誰か偉い人のお妾にされているに違いない」と放言した石原慎太郎氏の「お妾」スキャンダルを書くことは絶対にない、ということです。

いつもの『週刊文春』なら、石原発言に対して、<石原慎太郎「横田めぐみさん」「お妾」発言の裏でささやかれる 「銀座ホステス」「劇団女優」を「お妾」の過去>(やや週刊新潮風ですが)なんていうスカートの裾をめくるような記事が出てもおかしくないのですが、絶対に出ることはないのです。
2013.07.26 Fri l 芸能 l top ▲
さる6月8日、「第5回AKB選抜総選挙」の開票イベントが、日産スタジアムで大々的に行われました。テレビでも生中継していましたが、私がなにより驚いたのは、朝日新聞の入れ込みようでした。

朝日新聞デジタルでは、次々と発表される順位を速報で掲載していて、まるでホンモノの総選挙の開票速報のようでした。しかも総選挙のあとは、選挙結果について、濱野智史氏(『前田敦子はキリストを超えた―<宗教>としてのAKB48』の著者)が、池上彰のように「総評」する熱の入れようでした。

また、総選挙の当日付けのWEBRONZAでは、佐藤優氏が「宗教現象としてのAKB48――「センター」に神を求め続けて」という文章を書いていて、そのなかで佐藤氏は、「吉本隆明氏の『マチウ書試論』のキリスト理解を導きの糸にして、AKB48を宗教現象として理解する」濱野智史氏の視点を、「神学的にとてもよいセンスをしている」と高く評価しているのでした。

しかし、佐藤氏の文章は、何事も「宗教(性)」ということばで解釈すれば、もっともらしく説明がつくという氏お得意の”手慰みの論理”でしかありません。佐藤氏の言う「貨幣の宗教性」とマルクス経済学が言う「貨幣の物神性」は、ことばの概念においてまったく異なる(似て非なる)ものですが、そういった初歩的な概念さえ混同する、実に粗雑で頓珍漢な文章です。AKBのことなんて何もわかってないのに、なんだか無理してAKBを語っているような感じです。

(略)前田敦子さんの「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という発言も、AKB48という宗教教団の集合的無意識を言語化したものだ。AKB48には、商業主義の中にこの利他性が埋め込まれている。それが他の芸能集団とAKB48を区別する重要な差異と思う。


「集合的無意識」とは、あのユングの集合的無意識? こういう文章には、「バカバカしい」ということばしか思い浮かびません。

一方、肝心なオタクたちは、今回の総選挙に対しては多分に冷めているのでした。数年前までは秋葉原のAKB劇場に通っていたような知り合いの(中年の)オタクたちに今回の総選挙のことを聞いても、気のない返事しか返ってこず、あまり関心がない様子でした。そりゃそうでしょう。数々のスキャンダルと露骨な炎上商法、そして河西智美や篠田麻理子らと運営会社の社長との「不適切な関係」疑惑(文春との裁判で、同じマンションに住んでいることや、混浴に行けば「一緒に入浴する仲」であることを、当の社長自身が証言しているそうです)をあれだけ見せつけられれば、冷めるなと言うほうが無理というものです。AKBブームが終わりつつあるのは、もはや誰の目にも明らかなのです。

にもかかわらず、この朝日新聞のはしゃぎっぷりはなんなのでしょうか。なんだか無理して若づくりしている周回遅れのオヤジのようです。フジテレビの軟弱路線を真似た挙句、気持の悪いカマトト女子アナばかり輩出して、視聴率競争でテレビ東京にも追い抜かれるほど凋落した”お堅いTBS”とよく似ています。

まさかこれで朝日新聞のイメージが向上して部数減に歯止めがかかり、あらたな購読者を獲得できると思っているわけではないでしょうが、総選挙がどうたらこうたらではなく、せめてAKBブームの裏にある芸能界の魑魅魍魎や児童ポルノとの関連を記事にするくらいの気概と見識をもってもらいたいものです。それがメディアのあるべき姿でしょう。AKBだけでなくアベノミクスでも(二大超大国が世界の覇権について話し合った歴史的な)米中首脳会談でも同じです。

貧すれば鈍するなのか、朝日新聞は部数減に浮足立ち、メディアとしての本来の役割を忘れているように思えてなりません。
2013.06.16 Sun l 芸能 l top ▲
今日の朝日新聞に「官邸にキタノ」という見出しで、北野武が安倍首相と並んで映っている写真が掲載されていました。

それは、「世界のたけし」が安部首相の肝入りで設置された「アジア文化交流懇談会」のメンバーに任命され、その第一回会合に出席した写真でした。排外主義的なネトウヨとの関係が取りださされる安倍首相が「アジア文化交流」とは悪い冗談だとしか思えませんが、それ以上に北野武が「有識者」として「政府委員」に任命されるなんて、まさに悪貨が良貨を駆逐する今の時代を象徴する光景のように思えてなりません。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


前にも紹介しましたが、これは福島第一原発事故の前年に行われた原子力委員会委員長(当時)・近藤俊介氏との対談における、北野武の発言です。

彼は同じ対談で、「新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて自動車に乗るのを止めましょうとは言わない」などと言って、原発を懸念する声をヤユしていました。このように北野武は、弟子の浅草キッドなどとともに、電事連ご用達の”原発芸人”と言ってもいいくらい、原発に関しては確信犯でした。

もとより彼の”毒舌”も、このような事大主義と背中合わせなものでしかありません。ベネチア映画祭など海外の映画賞にあれほど執心するのも(たけしが照れ笑いを浮かべながら映画祭から帰ってくる映像は、毎年の恒例行事のようになっていますが)、ひとえに自分の映画を権威づけたいからなのでしょう。そうやって「世界のたけし」の虚像がつくられたのでした。強いもの・大きなものにはヘラコラして、弱いもの・マイナーなものには”毒舌”を吐きこきおろす、それが彼の芸風にほかならないのです。

三國連太郎さんと被差別民の研究で有名な沖浦和光氏との対談集『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)のなかで、「支配文化」に対する「反文化」、「上層文化」に対する「下層文化」、「中央文化」に対する「周辺文化」の担い手であった芸能が、国家の庇護のもとに入ることについて、二人はつぎのように語っていました。

沖浦 権力のヒモが付いて国家の庇護下に入って、お上から勲章やゼニカネを貰って喜んでいると、そこから芸能の堕落が始まるのが世界の芸能史の通例ですね。
三國 やはり時代を主導する精神に疑問を抱き、既成の支配体制の矛盾を批判して、時代のあり方や人間の生き方を、飽くことなく追及していこうとする意欲 ― それをどう表現していくかという貪欲な意欲が、その時代を生きようとする芸人にとって本当に大事なんですね。
沖浦 そうです。地位が安定しフトコロ具合が良くなると、想像力や構想力もしだいに自由奔放性を失って、芸能表現の生命力が枯渇してしまうんですね。(略)
(「ヒモ付き芸能の堕落」)


たけしも浅草フランス座の「寄席的見世物」(沖浦和光氏)の出身です。だから逆に上昇志向が強いのかもしれませんが、あえて言えば、「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思います。そんなに権力や権威にすり寄って偉ぶりたいのかと思います。偉ぶることが芸人にとってなにほどの意味があるのかと思います。技芸に生きる人間の、「河原乞食」としての矜持はないのかと言いたいのです。

ネットでは、フライデー事件で彼が干された際、志村けんがたけし軍団を援助したという”美談”(嘘八百)が信じられていたそうですが、実際は逆で、当時、「たけしが(闇社会に食い物にされて)かわいそうだ」という同情論さえあったのです(『噂の真相』にも同様の記事が出ていました)。先述した『大阪府警暴力団担当刑事』にもたけしの名前が出てきますが、事件をきっかけに右翼の街宣のターゲットになったたけしに対して、その筋のある人物(故人)が”後見人”になり、ことを収めたという噂があったのです。右翼の高名な活動家が参院選に出馬した際、会見の場に横山やすしとともにたけしが同席しているのを見て、私も奇妙に思ったことを覚えています。

たけしの任命が自民党のマスコミ対策であることは明白ですが、「TVタックル」のような”時事討論番組”の司会者が「政府委員」に任命されてもなお、彼を司会者として登用しつづけるテレビ局の見識も問われて然るべきでしょう。

「官邸にキタノ」なんて、能天気にオヤジギャクを言ってる場合じゃないのです。

>> 酒井法子の復帰と芸能界
2013.04.20 Sat l 芸能 l top ▲
昨日、たまたまテレビを観ていたら、オセロの中島知子がテレビ朝日の番組に出演していて、一連の騒動の”真相”をみずからの口で語っていました。

彼女によれば、マインドコントロールなんてまったくの絵空事であって、家賃滞納は世間知らずのわがままと浪費癖が原因で、その背景には相方(松嶋尚美)や会社(松竹芸能)との確執があったと言うのです。

もちろん騒動の当事者の発言ですから、ある程度割引いて考える必要はあるでしょうが、私自身もちょうど1年前に、マインドコントロールに疑問を投げかける記事を書いていましたので、放送を観てやっぱりと思うところはありました。

それにしても(彼女の話を割り引いても)、報道と今回の「激白」の間にはあまりにも落差がありすぎるのです。もしマインドコントロールが絵空事であったなら、芸能マスコミの”暴走”などといったレベルを越えて、もはや2ちゃんねるなどと同質の”言論の犯罪”と言われても仕方ないでしょう。

この国が総理大臣を先頭にカルト化している現実が、ここにも表れているように思います。既存のマスコミとネットは、一見対立しているかのように見えますが、実はカルト化する現実のもとでは見事なくらい共犯関係にあるのです。生活保護叩きや尖閣や竹島問題など、マスコミとネットの結託はいろんなところで見られますが、この騒動もそのひとつと言ってもいいでしょう。ネットとマスコミによる”捏造される真相”のカラクリを知る上でも、この騒動は格好のサンプルになるように思います。

もちろん、これで中島知子も無事芸能界復帰というわけにはいかないでしょう。むしろ逆に、芸能マスコミによる中島知子叩きはエスカレートしていくのではないでしょうか。なぜなら芸能マスコミは、”捏造される真相”をこれからも糊塗しつづけなければならないからであり、さらにそこに芸能界のオキテを破った中島に対して制裁を科す松竹芸能の意向もはたらくからです。哀しいかな、中島知子も「言ってることが変だ」「辻褄が合わない」とかなんとか難癖をつけられて、”狂人”扱いされるのがオチでしょう。

怖い、怖い、芸能界。所詮やくざな人買い稼業でしかない芸能界。芸能界は、カタギが足を踏み入れてはいけない”特殊な”世界だということをあらためて痛感させられます。

>> マインドコントロール
2013.03.30 Sat l 芸能 l top ▲
先日、若い子に「あのきゃりーぱみぱみだけどさぁ~」と言ったら、「きゃりーぱみぱみではなく、きゃりーぱみゅぱみゅですっ」と訂正されました。

このように未だ正確に名前も言えないおじさんですが、テレビできゃりーぱみゅぱみゅ(この部分はコピーして貼り付けています)を見るにつけ、なんだか痛ましささえ覚えてならないのです。きゃりーぱみゅぱみゅは、文字通り”お人形さん”という感じですが、しかし、それを演じているのは、(年齢にサバを読んでないのなら)れっきとした二十歳前の多感な年代にある女の子なのです。

さすがに最近は、その奇抜なファッションと大人になりつつある容姿の間にギャップが生じはじめているような気がしないでもありませんが、それより私が気になるのは、彼女のあのどこか悲しげな目です。

AKBもそうですが、きゃりーぱみゅぱみゅも、売れている間に仕事を選ばずとことん稼がさせようという事務所の思惑がミエミエで、ホントにいろんなところで見かけます。ケーブルテレビのマイナーな番組にレギュラー出演しているのを見て、こんなところにも出ているのかとびっくりしたことがあります。

きゃりーぱみゅぱみゅも、AKBの大島優子と同じように、12歳のときにロリコン向けDVDにスクール水着で出演した”過去”があるそうです。「ジュニアアイドル」と言えば聞こえはいいですが、その手のDVDが、建前はともかく本音では、小児性愛の特殊な大人たちをターゲットにして制作されていることは間違いないのです。

つまり、お金のために(?)、まだ物心もつかない小学生の彼女を、ロリコンたちの舌舐めずりするような淫靡な視線にさらした保護者や業界関係者が彼女の後ろにいたということです。おそらくそれは今も変わらないのでしょう。勝手な想像ですが、そのこととあの悲しげな目は本当に関係がないのだろうかと思います。

児童ポルノの規制に関しては、表現の自由との兼ね合いでさまざまな意見がありますが、同性愛者向けの男児のビデオも含めて、背景に変態、いや、”特殊な性癖”をもつ人間たちの市場があり、そのために子どもたちが犠牲になっている現実があるということを忘れてはならないでしょう。

もとより芸能界も「特殊な」世界で、カタギにはとてもできない仕事です。それはAKBも「ジュニアアイドル」もきゃりーぱみゅぱみゅも例外ではないのです。そして、なによりAKBに代表されるようなアイドル商法が、児童ポルノと背中合わせであるということも忘れてはならないでしょう。

>> 峯岸みなみの丸刈り謝罪
2013.03.14 Thu l 芸能 l top ▲
かぞくのくに


新宿のテアトル新宿で、「かぞくのくに」(ヤン・ヨンヒ監督)を観ました。

ウェブサイトに「2012年インディペンデント映画を代表する一作」というキャッチコピーがありましたが、そのコピーどおり、第86回キネマ旬報ベスト・テンにおいて日本映画ベスト・テン第1位に選出され、同時に主演女優賞(安藤サクラ)を受賞した作品です。その他、第55回ブルーリボン賞(作品賞、主演女優賞、助演男優賞)、第67回毎日映画コンクール(脚本賞)、「映画芸術」2012年日本映画ベストテン第1位、第62回ベルリン国際映画祭(国際アートシアター連盟賞)など数々の映画賞を受賞。文字通り2012年の日本映画を代表する作品と言ってもいいでしょう。また、受賞は映画賞だけにとどまらず、第64回読売文学賞でも 戯曲・シナリオ賞が与えられ、文学的な視点においてもヤン・ヨンヒ監督の脚本が高く評価されたのでした。

映画は昨夏に公開されたのですが、あいにく私は見逃していたので、今回受賞記念のアンコール上映を機に観に行ったのでした。平日の午前でしかも再上映にもかかわらず、上映前から受付に行列ができるほど多くの観客がつめかけていました。

ストーリーの大半は、ヤン・ヨンヒ監督の家族の実話に基づいているそうです。そのあたりの経緯については、アジアプレスのウェブサイトに掲載されているヤン・ヨンヒ監督のインタビューで詳しく語られています。

ヤン・ヨンヒ監督はもともとドキュメンタリー映画出身で、帰還事業で北朝鮮に帰国した3人の兄とその家族を撮った「ディア・ピョンヤン」や「愛しきソナ」で知られていますが、この「かぞくのくに」は、そんな生涯のテーマをフィクションの手法をとることでさらに飛躍させ、「ついにやったか!」と言いたくなるような、生まれるべくして生まれた映画だと言えます。

隣に座っていた若い女性の観客も、上映中しきりに涙をぬぐっていましたが、「政治に翻弄された」という常套句で言い表せないような、悲しくてやりきれない映画です。この映画が低予算のため、わずか2週間で撮られたというのは驚きですが、名作というのは、予算や期間に関係なく生まれるべくして生まれるもんだなとあらためて思いました。

なにより主演の井浦新(兄ソンホ)と安藤サクラ(妹リエ)の演技が光っており、この映画の質をより高めているように思いました。特に安藤サクラの個性が際立っていました。安藤サクラは、昨年度の各映画賞で主演女優賞と助演女優賞を総ナメして、一気に女優としての評価を高めましたが、おそらく「かぞくのくに」は彼女にとっても記念碑的な作品になるのではないでしょうか。その意味では、安藤サクラに対しても、「ついにやったか!」と言いたくなるような映画なのです。

北朝鮮に帰国していた兄ソンホが25年ぶりに帰ってきた。それは頭にできた腫瘍を治療するためでした。「総連」(映画では「同胞協会」)の活動家である父親と喫茶店をやって家計を支える母親が、5年かけて働きかけやっと実現した「一時帰国」でした。しかし、その帰国には監視役のヤン同志が同行し、帰国中も常にソンホの行動に目を光らすのでした。

滞在予定は3ヶ月でした。それでも診察した医師からは、3ヶ月では責任を持てないと手術を断られます。両親は本国にかけあえば6ヶ月くらい延ばせるのではないかと考えるのですが、そんな淡い期待を打ち砕くように、突然「明日帰国するように」という命令が下されるのでした。6ヶ月どころか3ヶ月の予定がわずか2週間で打ち切りになり、怒り悲嘆する家族たち。でも、ソンホだけは「こういうのはよくあるんだよ」と淡々とそれを受け入れます。「理由は?」と問う妹に、ソンホは「理由なんてない。あの国に理由なんて何の意味もない」と答えます。

通りかかった店でシルバーのスーツケースをみつけて、妹に「お前は、そういうのを持って、色んな国に行けよ」という兄。この映画には、こういった胸をしめつけられるようなセリフが至るところに出てきます。

「考えずにただ従うだけだ。考えると頭がおかしくなる」
「考えるのはどう生き抜くかだけだ」
「あとは思考停止。楽だぞ~、思考停止は」

こんなセリフに込められたソンホの現実。私たちは、同じようなセリフを拉致被害者の蓮池薫さんからも聞いた覚えがあります。それは、「あなたもあの国も大っ嫌い!」と監視をなじる妹に対して、ヤン同志が放った次のセリフにも重なるものでした。

「私にも家族がいますし、お兄さんにも家族がいます」「あの国で、私もあなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きていくんです」

16才で単身北朝鮮に渡ったソンホは、帰国船に乗る寸前、新潟の赤十字センターで見送りにきた叔父に、「ここで行くのをやめたらアボジに迷惑がかかるだろうか」と言ったそうです。その話を初めて聞かされ、父親はもちろん母親も妹も、ただ首をうなだれて涙を流すしかないのでした。

朝鮮人である限り、日本では差別され仕事もなく希望もない。子供の将来のためには、祖国に帰るのがいちばんだと親が考えたとしても、誰も非難はできないでしょう。ただ一方で、帰国者が「社会主義建設」という美名のもとに、一種の”人身御供”のように扱われたこともたしかです。そうやって彼らの受難の人生に、祖国が独裁国家であったという悲劇がさらに追い打ちをかけたのでした。

そのソンホにも北朝鮮に家族がいます。家族のためにも、さまざまな思いを胸の奥にしまい、口を閉ざすしかないのです。妹に工作員(スパイ)にならないかと誘ったのも、そう言わせられる(言わなければならない)祖国のむごい現実があります。そうやってすべてを諦観し、「凍土の共和国」での過酷な人生をこれからも生きていくしかないのです。

やせ細った息子の写真を見て以来、喫茶店の売上から小銭をためてはそれを北朝鮮の息子に送金する母親。一方、「地上の楽園と言われた国の人間が、栄養失調だったなんてね」と皮肉を言う娘。これは多くの在日が見聞きし実際に経験している現実でしょう。でも、ヤン・ヨンヒ監督が言うように、一方でそれを日本人から言われたくないという気持も朝鮮人のなかにはあるのです。

「じゃあ公の場で自分で先に言えってことですよ。でも、飲み屋で愚痴ってるだけ」「総連が情けないんですよ、はっきり言うて」というヤン・ヨンヒ監督のことばは、今の若い在日の多くが共有する気持でもあるのかもしれません。

個人的な話になりますが、私は、このインタビューを読んで、昔親しくしていた女性とヤン・ヨンヒ監督が重なって見えて仕方ありませんでした。そして、やはり同じような視点で在日の本音を描いた「月はどっちに出ている」(崔洋一監督)を彼女と一緒に観たことを思い出しました。

拉致問題がまだ公になる前でしたが、当時、私もこの映画の背景にあるような話を聞いたことがあります。ただ、金日成の誕生日の「プレゼント」として(!)、朝鮮総連が指名した朝鮮大学の学生たちが半ば強制的に帰国させられた話や、自分の進路を総連に委ねる「組織委託」の強要が朝鮮学校で行われていたという話は初耳でした。まったくヤン・ヨンヒ監督ならずとも「ヒットラー顔負けやん」と言いたくなるような蛮行と言わねばなりません。朝鮮総連や朝鮮学校が指弾されるのも当然でしょう。

ただ(と言うべきか、「だからこそ」と言うべきか)私たちは、(北朝鮮に限った話ではないですが)その国が好きだ嫌いだとかいう前に、まずその国で生きる(生きていかざるをえない)人間を見るべきで、そういった政治と一線を引いた視点をもつことがなにより大切ではないかと思います。何度も同じことをくり返しますが、坂口安吾が言うように、人間というのは政治という粗い網の目からこぼれおちる存在なのです。それは、北朝鮮の国民であれ在日であれ日本人であれみんな同じなのです。

ヤン・ヨンヒ監督は、北朝鮮にいる姪のソナに焦点を当てた「愛しのソナ」で、北朝鮮当局の逆鱗に触れ入国禁止になっているのですが、それでも映画を撮りつづける”覚悟”について、次のように語っていました。

(前略)昔はとてもじゃないけど、「兄貴たちに迷惑がかからないように考慮して作ってます」としか言えなかったけど、最近は変わりました。申し訳ないけど、家族に迷惑かかっても作ります。オッパ(=お兄ちゃん)たちが収容所に入れられますけど、どないしますか?って言われたとしても、やっぱり、私、やめますって言わないと思う。だってそこでやめたら、オモニらと一緒になるんですよ。もうええやんそれは、そんな時代は終わりにしようって本当に言いたい。そのためには、まだ何人犠牲になるか分からないけど。


兄がお気に入りだったリモアのスーツケースを引いて交差点を渡る最後のシーンにも、ヤン・ヨンヒ監督の”覚悟”が表現されているように思いました。映画でも文学でも”覚悟”が必要なのです。そして、そういう”覚悟”があるからこそ、この映画が私たちの胸を打つのでしょう。
2013.02.28 Thu l 芸能 l top ▲
自宅軟禁でヒマなので、再びAKBネタを。

今週発売の『週刊文春』(2月14日号)に、今度は柏木由紀の「深夜に合コン」の記事が掲載されるのだとか。オヤジ週刊誌の『文春』がこうやってつぎつぎとAKBを狙い撃ちしているのは、なにか裏があるのだろうかと勘繰りたくなります。

個人的にはAKBのなかでは柏木由紀がいちばんのお気に入りでしたので、「ブルータス、お前もか」という心境ですが、ただ、若いオスとメスがお互いを求め合うのは、動物としては自然な欲望であり当然の行為です。まして彼女たちは、「シロウトのお嬢さま」ではないのです。

「恋愛禁止」なんてオキテを作ったがために、逆に合コンしただけで「スクープ記事」になるような状況を招来したわけで、これでは痛し痒しではないのか。

・・・と考えるのは、既にAKBの術中にはまっているのかもしれません。お泊りデート発覚、移籍や降格、といった一連の「処分」もすべて計算されたものかもしれないのです。「炎上商法」という言い方があるそうですが、記事にインパクトがなくなって騒がれなくなるのをいちばん恐れているのは、ほかでもなくAKBの背後にいる「人形使い」たちかもしれません。

そう考えれば考えるほど、「ショックだ」「裏切られた」とか言って騒いでいるファンはキモいし”異常”だと言わざるをえません。妄想と現実をはき違えて、「ぼくたちのユキリン」なんて本気で思っているのだとしたら、それはもはやカルトと呼ぶしかないでしょう。

オウム真理教事件から20年、「オウムは怖い」などとオウムを特別視する見方とは裏腹に、カルトと一般社会の融合は進み、今やカルト(的要素)がビジネスにまでも利用されるようになったのです。その先端にいるのがネットとオタクです。

そして、その背後には『物語消費論改』で大塚英志が指摘した「旧メディアのネット世論への迎合」、つまり「マスゴミ」とネットの結託とも言うべき状況があるのです。それは、AKBだけでなく、「尖閣」でも「竹島」でも「ナマポ」でも同じです。「カルト化するニッポン」というのは、決してオーバーな話ではないのです。その象徴としてAKBがあるのかもしれません。
2013.02.05 Tue l 芸能 l top ▲
AKB48の峯岸みなみの丸刈り謝罪について、「識者」と称する人たちが「恋愛禁止は人権侵害だ」なんてのたまっているのを見るにつけ、思わず目をおおいたくなりました。相手の白濱亜嵐に「丸刈りにしないんですか?」と問いかけた東スポの記者同様、AKBをめぐる話題になると、なぜかみんな醜態をさらしてしまうようです。『前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48』(ちくま新書)なんて本を書いた濱野智史も然りです。そこには時流におもねる能天気であざとい心根しか感じられません。それがいわゆる「ゼロ年代批評」の特徴でもあります。

AKBはアイドル商法だと言われますが、それを言うならむしろオタク商法と言うべきでしょう。

女性に縁のないオタク相手に商売をするのですから、表向き恋愛をご法度にせざるをえないのは、営業上当然かもしれません。非モテのオタクたちにひとりで100枚も200枚もCDを買わせるには、それは最低限のオキテなのでしょう。私には、そのオタク商法の”異常さ”を誰も指摘しないのが不思議でなりません。丸刈りが異様に見えるのは、なによりそれがオタク商法だからです。

一方で、以前『週刊新潮』が、AKBの活動資金には振り込め詐欺のお金が使われていたというような記事を掲載して、秋元康から抗議を受けましたが、そういった芸能界の裏人脈からこの問題を考えることも無駄ではないかもしれません。

AKBというのは、気をもたせてお金を巻き上げる、キャバクラみたいなものです。AKB加入前の大島優子が、ロリコン向けの”ジュニアアイドル”として、ブルマーやスクール水着でマニア雑誌のグラビアに出ていたのは有名な話ですが、AKBの「恋愛禁止」も、そうやってオタクたちの”ゆがんだ劣情”を商売に利用していると言えなくもないのです。「恋愛禁止」を重要なコードとして機能させるには、カルト的要素は不可欠で、それがオタク商法の”異常さ”につながっているのだと思います。

ヤンキーとロリコンは、芸能界にとって不滅のキャラクターです。女子高生を買春したりスカートのなかを盗撮すればただの犯罪ですが、ロリコンのアイドルに妄想の世界で”疑似恋愛”するのは、巨万の富を生むビジネスになるのです。その違いは紙一重と言ってもいいでしょう。そう考えれば、この騒動から見えてくるものがあるのではないでしょうか。
2013.02.03 Sun l 芸能 l top ▲
中村勘三郎さんの葬儀には1万2千人が参列して別れを惜しんだそうです。また、平成中村座の公演を行ったゆかりの地・浅草では、三社祭りのお神輿が出て、葬列を見送ったのだとか。

葬儀の会場では、家族と旅行した際のプライベート映像も流れていたそうですが、そう言えば、数日前に特番で放送されたドキュメンタリー番組でも、湯布院に旅行したシーンが出ていました。

歌舞伎という伝統芸の継承を義務づけられた梨園の御曹司たちも、それはそれで苦悩はあるのかもしれませんが、しかし、生まれついて仕事は保障されているし、生活の心配もないし、プライベートではおもしろおかしく生きることも可能で、はたからみるとうらやましくもあります。

元来、歌舞伎者というのは、「河原乞食」と蔑まれ、天下の往来では編笠をかぶって歩かなければならないような被差別の存在でした。住居も、一般庶民から「暗所」とみられていたようなマージナルな区域に限られていました。でも、今はまったく逆に、梨園はセレブの代名詞のようになっています。

一方で、誰にも看取られることもなく、郊外の福祉専門のような病院でひっそりと息をひきとる老人たちもいます。もちろん、葬儀なんて望むべくもありません。

病院に入院して、もう二度と娑婆に戻ることが叶わないとわかれば、アパートも解約され、そのあとは福祉専門の病院を転々としながら死を待つことになるそうです。

「亡くなったとき、持ち物が紙袋や段ボール箱がひとつかふたつしかないケースが多く、それをみるとよけい悲しくなりますよ」と言っていた医療関係者がいました。故人が眠るベットの横に、全財産が入った紙袋や段ボール箱がぽつんと置かれた病室を想像すると、なんと悲しい光景なんだろうと思います。1万2千人のなかでひとりでもいいから、涙を流してくれる人はいないのかと思います。

築地本願寺で盛大に葬儀が執り行われる梨園の御曹司でも、段ボール箱ひとつを残して亡くなっていく老人でも、同じ日本人です。日本を愛するというのは、みんな同じ日本人じゃないかという気持を共有することではないでしょうか。

新しい政権が言う「日本」や、ネットで飛び交っている「日本」には、福祉専門の病院で人知れず亡くなっていく老人たちは入ってないかのようです。それどころか、そういった老人たちのために使われる医療費は「無駄金」みたいな考えすらあるように思えてなりません。

どうしてこんなに冷たい国になったんだろうと思います。しかも、「愛国」の声が大きくなればなるほど、冷たい国になっていくような気がしてならないのです。
2012.12.28 Fri l 芸能 l top ▲
Crossfire Hurricane

夜中にふと目が覚めたら、つけっぱなしになっていたテレビ(フジテレビ)で、ローリング・ストーンズ結成50周年記念の公式ドキュメンタリー映画「Crossfire Hurricane(クロスファイアー・ハリケーン)」をやっていたので、いっぺんに目が覚めてしまいました。

「Crossfire Hurricane」は、先月、1週間限定で全国で上映されたばかりなのに、もうテレビで放映されるとはびっくりですが、これも来週のDVD発売に合せた企画なのかもしれません。

映画では、主に60年代から70年代のストーンズの活動を丹念に追っていましたが、ただあくまで「公式」のドキュメンタリー映画なので、たとえば、コアなストーンズファンが指摘しているように、ブライアン・ジョーンズの脱退についても、メンバーの口からは当たり障りのない”公式な発言”しか出てこないなど、やや物足りない部分もありました。

ローリング・ストーンズと言えば、どうしてもクスリと暴力のイメージがつきまといます。ビル・ワイマンはバンドを脱退する理由として、「クスリから家族を守りたかった」と発言していましたが、この映画でもその場面がふんだんに出てきます。なかでもキース・リチャードのヤク中ぶりが際立っていましたが、それは、ミック・ジャガーが「キースが車を運転するのはやめてほしいと思っていた」「家に帰っても事故の電話があるんじゃないかといつもビクビクしていた」と言うほどです。やがてキースは、大量のヘロインを持ち込んだ罪で、カナダの警察当局に逮捕・拘留され、それを機に精神療法によってヤク中から脱出する決意をするのですが、映像は逮捕のシーンからいっきに2006年の「Shine a Light(シャイン・ア・ライト)」のコンサートシーンに飛んで、好々爺になったかのような60代の彼らが登場して終わるのでした。

1969年、サンフランシスコ郊外のオルタモントでのコンサート(このコンサートでは4名が死亡したと言われています)で発生した刺殺事件、いわゆる「オルタモントの悲劇」に至る会場の殺気立った異様な雰囲気からは、60年代後半のヒッピー文化に代表される時代の緊張感(ハチャメチャぶり)がひしひしと伝わってきます。私は、それをみて、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』が『群像』新人賞を受賞した際の選評で、埴谷雄高が言っていた「ロックとファックの時代の汚なさの美学」ということばを思い出しました。60~70年代初頭にかけてのローリング・ストーンズは、まさに存在自体がスキャンダラスだったのです。

私は、この映画をみているうちに、もしかしたらネットのない時代のほうが自由だったのかもしれない、なんて思ったりしました。折しも愚劣な政治の八百長ゲームがはじまりましたが、どうして現代の若者は、あんなにみずからすすんで愚劣な政治や国家に拝跪したがるのでしょうか。そして、どうしてわざわざ自分で自分の生き方を窮屈なものにしなければならないのかと思います。それが「ヘタレ」と言われるゆえんですが、まるでネットに囲い込まれることによって、ただ国家に愛されたいだけのいじましくも哀しい飼い猫になったかのようです。

この映画には、ストーンズのメンバーだけでなく、当時のファンの若者たちも含めて、私たちが久しく忘れていた、国家や時代を逸脱する(逸脱せざるをえない)魂が描かれているように思いました。年寄りじみた言い方になりますが、若者というのはもともとそういう逸脱する存在だったはずです。そこからあたらしい文化や風俗も生まれたのです。その意味では、若者が若者でなくなった今の時代のほうが”異常”だと言えるのかもしれません。

>> 「シャイン・ア・ライト」
>> ローリング・ストーンズ
2012.12.05 Wed l 芸能 l top ▲
今日、渋谷の本屋に行ったら、朝日文庫の『松田聖子論』が復刊されていて、ちょっとびっくりしました。著者の小倉千加子氏が、『文藝春秋』の2012年8月号に書いた文章(第4章・あなたに逢いたくてー東アジアの女系家族)があらたに追加され、「増補版」となっていました。

文庫の発売から23年(単行本の発売から25年)、『松田聖子論』が復刊されるほど、今また松田聖子に関心が寄せられているというわけなのでしょうか。

『文藝春秋』の文章もそうですが、やはり三度目の結婚というニュースが大きいのかもしれません。ただ、私自身は、前の記事(『松田聖子論』)でも書いたように、木嶋佳苗被告の事件も無関係ではないように思うのです。

木嶋佳苗被告に関しては、前の記事のくり返しになりますので、言及するのは避けますが、次のような文章を読むにつけ、私は、木嶋佳苗被告が、バッシングされる松田聖子を「好きだ」と言った理由がよくわかるのです。(以下、引用はすべて第4章からです)

 度重なる不倫騒動、そして神田正輝との離婚という激動の三十代を経て、本人は辛かったでしょうが、聖子はますます輝いていきました。現在ではスキャンダルを超越した存在にまで到達したといってもいいでしょう。
 これだけのスキャンダルにまみれても、彼女が潰れなかったのは、女性という生き物が他人の視線の数で自己の存在を確認する生き物だということをよく理解しているからです。バッシングによって一時、雲隠れしても、しばらくするとフラッシュを浴びたくなる自らの性質を自分で分かっているのです。
 男性は、社会的地位、家柄など自己確認できるものはありますが、現代の女性は他人の視線なしに自信を持つことが難しいのです。まして芸能界にいる女性なら尚更です。


小倉千加子氏は、松田聖子は美空ひばりのような国民的歌手になっていくのではないかと書いていましたが、美空ひばりの頃と違って、もはや「国民的歌手」なんて存在する時代ではありませんので、いくらなんでもそれは買い被りというものでしょう。

それよりも、やはり、現代の母娘関係における松田聖子の存在のほうがよりリアルな気がします。それは、次のようなものです。

 今の日本の母親たちの最大の問題点は、娘に依存しないと生きられないということです。これが娘の晩婚化の最大の原因になっているといってもよい。だから娘の自立を恐れるという感情が強い。夫に何も期待できない五十歳前後の母親にとって、幸せになるために必要なのは自立するための経済力と娘の自立です。
(中略)
 多くの母親は、娘に恋人ができて結婚が近づくと、「しなくていいわよ」と本能的に動いてしまう。しかし聖子の場合、娘の自立=結婚を妨げようとする必要はない。なぜから彼女はワーキングウーマンとして経済的に自立しており、女性としての資源を身に付けているからです。


「身体は嫁いでも心は実家に置く」娘。「将来は介護士にもなりうる」娘。そういう娘にとっても、あるいは、そうやって娘に頼って(娘を縛って)生きていかざるをえない母親にとっても、松田聖子は自分たちができないことをやってのけるあこがれの存在なのでしょう。ポイントは単に経済的な自立だけのような気もしますが、女性の人生にとって、それがいかに大変かをいちばんよくわかっているのも女性なのです。

同時代的に松田聖子に喝采を送った世代の女性たちの関心が、最近、韓流スターに向いているのがやや気になりますが、ワンレン・ボディコンを謳歌した女性たちにとって、でも、日本的土着性から自由になれなかった女性たちにとって、女性性を逆手に自分の手で時代を切りひらいていった松田聖子が、いつの時代も輝いて見えるのは当然でしょう。

ただ、小倉千加子氏も書いているように、今回の(三度目の)結婚にいくらか守りが入っている感はなきしもあらずで、結婚でどう変わるのか、今までどおり輝きつづけることができるのか、ファンならずとも興味があります。「ただのおばさんになりたい」なんて言い出さないことを願うばかりですが、いづれにしても、これほどまでに時代と世代を越えて女性たちに影響を与えつづけてきた松田聖子が、日本のアイドルのなかで傑出した存在であることは間違いないでしょう。

>> 『松田聖子論』
>> 松田聖子という存在
2012.09.22 Sat l 芸能 l top ▲