ワールドカップの「ニッポン、凄い!」キャンペーンは、ますますエスカレートするばかりです。メディアによれば、日本のサッカーは、100均の商品と同じように、世界中から称賛されているそうです。

ハリル解任はサッカー協会がスポンサーの意向を忖度したものだと批判していたサッカーファンは、見事なくらい手のひらを返して、「ニッポン、凄い!」キャンペーンに踊っています。もしかしたら、キャンペーンの背後にも、メディアを支配する電通の存在があるかもしれません。しかし、もはやそういう想像力をはたらかせることさえできないみたいです。

踊っているのは、”痴呆的”なサッカーファンだけではありません。日頃、ヘイト・スピーチに反対し、モリ・カケ問題の「手段を選ばない」隠蔽工作を指弾している某氏は、一方で著名なサッカーファンでもあるのですが、彼は、ポーランド戦のパス回しの時間稼ぎについて、つぎに進むために「手段を選ばない」のは当然だと言ってました。いざとなれば、翼賛的な空気に同調する左派リベラルの正体見たり枯れ尾花と言いたくなりました。

くり返しますが、勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。負け試合で時間稼ぎをしたのです。フェアプレーポイント云々以前に、スポーツとしてあり得ない話でしょう。

ラジオ番組で、やはり西野ジャパンの時間稼ぎに疑問を投げかけた明石家さんまにも、批判が集中しているそうです。さんまはサッカーを知らない「にわか」ファンにすぎないと叩かれているのだとか。上記の著名なサッカーファンの某氏と同じように、「時間稼ぎを批判するのはサッカーを知らない人間だ」と言いたいのでしょう。

livedoor NEWS
サッカー「にわか」を叩く風潮 明石家さんまにも矛先?

「感動」を強要し、「感動」しない者を叩いて排除する空気。異論や異端を排除することによって、「ニッポン、凄い!」という“あるべき現実“が仮構されるのです。

集団心理は、ときにこういう”異常”を招来するものです。”異常”のなかにいる者たちは、自分たちが”異常”なんて露ほど思ってなくて、むしろ自分たちこそが正義を体現していると思い込むのです。

改憲のために「手段を選ばない」安倍政権を批判しながら、サッカーでは「ニッポン、凄い!」キャンペーンに同調して、袋叩きの隊列に加わる左派リベラルのサッカーファン(サッカー通)。やはり、「感動」がほしいのでしょうか。全体主義を志向するファナティックな情念に右も左もないのです。こういう”左のファシスト”は、赤旗と日の丸の小旗を両手にもって、渋谷のスクランブル交差点を行進すればいいのです。
2018.07.04 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
私は、ベルギーが優勝候補の最有力と思っていましたので、日本が2点先制したときは、「まさか」と思いました。ただ、2点先制されるまでのベルギーは、油断していたのか、ナメていたのか、パスミスが多く、動きもチグハグでした。日本のほうがはるかにシステムが機能していました。

アルゼンチンやポルトガルの例を上げるまでもなく、ひとりのスーパースターにボールを集めるようなスタイルのサッカーは、もう終わりつつあるのです。ヨーロッパの5大リーグのようなところでは、客寄せの“ショー”として有効かもしれませんが、ワールドカップでは通用しなくなっているのです。世界の主流が、ヨーロッパスタイルと言われる、連携重視の組織的なサッカーになっているのは、多くの人が指摘するとおりです。

前半のベルギーは、アザールがセンタリングを上げて、ルカクがゴール前に飛び込むというパターンをくり返すだけでした。そういったワンパターンのサッカーには、ルカクをよく知っている吉田麻也ら日本の守備は有効でした。

3対2という得点差を上げて、「日本のサッカーは確実に進化している」「世界との差は縮まっている」などという声がありますが、それはいつもの翼賛的なサッカーメディアのおためごかしな意見にすぎません。4年前も8年前も、同じことが言われました。

日本のサッカーのためには、むしろ3対0で完敗したほうがよかったのではないかと思ったりします。「あと一歩」というような情緒的な総括では、日本のサッカーの課題を見つけることはできないでしょう。偶然の要素が大きいサッカーには番狂わせがつきものですが、とは言え、そう何度も番狂わせがあるわけではないのです。

2点先取したにもかかわらず、後半30分足らずの間に3点取られて逆転されたという事実にこそ、世界との差が表れているのだと思います。しかし、感情を煽るだけのサッカーメディアや、ただサッカーメディアに煽られるだけの単細胞なサッカーファンに、そんな冷静な視点は皆無です。

よその国だったら、むしろ短時間の間に逆転された問題点が指摘されるはずです。敗退したのに、「感動をありがとう!」「元気をもらった!」なんて言われて、敗因を問われることがないのは日本くらいでしょう。

今朝のテレビでも、「日本中が熱狂」「心が震えた」などということばが躍っていますが、そんなに「感動」を求めるなら、「宰相A」に頼んで戦争でもしてもらえばいいのです。戦争なら、サッカーどころではない「熱狂」を得られるでしょうし、もっと大きな「心が震える」感動を味わうこともできるでしょう。スポーツバーならぬ”戦争バー”でも作って、「ニッポン、凄い!」と感動を分かち合えばいいのです。そうすれば、渋谷のスクランブル交差点を日の丸の小旗を打ち振りながら堂々と行進できるでしょう。
2018.07.03 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
日本が2大会ぶりに決勝トーナメントに進出しましたが、終盤に露骨な時間稼ぎをおこなった日本チームを見て、なんだこりゃと思いました。実況アナウンサーは、「日本の冷静な判断が大きな力になりました」とわけのわからないことを言ってました。

タツゥーだらけの選手がまるで酸欠に陥った鳥のようにバタバタ倒れて、大仰に「ファウルだ」「PKだ」「FKだ」とアピールする南米のチームは見苦しくてうんざりさせられますが(ブラジルなんて負ければいいと思います)、日本の時間稼ぎも同様に見苦しいものでした。

そもそも、今大会から導入されたフェアプレーポイント(Tポイントじゃないんだから)なるものも問題ありです。フェアプレーと言うなら、日本のような時間稼ぎにも積極的にイエローカードを出すべきでしょう。でないと、今回のように、フェアプレーポイントを守るためにフェアプレーを放棄するという矛盾が出てくるのです。

日本は勝ち試合で時間稼ぎをしたのではないのです。ドローでもない。負け試合なのに、フェアプレーポイントの恩恵を受けるために時間稼ぎをしたのです。スポーツとしては、あり得ない話でしょう。

試合後、選手たちは、アンフェアな時間稼ぎには頬かむりして、「決勝トーナメントでは成し遂げた事のない結果を出したい」「歴史を変えたい」などと言ってましたが、なんだか真珠湾攻撃のときの軍部の口調と似ているように思いました。真珠湾攻撃も、手段を選ばず勝ちに行ったのですが、その結果、身の程知らずの破滅への道を暴走することになったのでした。

あのときも日本人は、「ニッポン、凄い!」と歓喜の声を上げたのです。そして、同じように、試合後の渋谷のスクランブル交差点では、サッカーファンたちが日の丸の小旗を打ち振りながら、「ニッポン、凄い!」と歓喜の声を上げているのです。

日本が決勝トーナメント進出を果たしたのは、一にも二にもコロンビアのお陰です。日本のサッカーファンは、コロンビアに足を向けて寝ることはできないでしょう。コロンビアも、日本戦以後は本来の力を発揮していたように思います。初戦の日本戦の不調はなんだったんだと思わざるを得ません。

たしかに、二戦目のセネガル戦に関しては、日本は健闘したと言っていいでしょう。決勝トーナメント進出は、その健闘が生きたという声もありますが、でも、それも牽強付会と言わざるを得ません。

余談ですが、ワールドカップの会場で、試合後に日本人サポーターたちのゴミ拾いをする様子が話題になっているという報道がありました。これも、日本のメディアの手にかかれば「ニッポン、凄い!」話になるのです。Jリーグでもそういう光景は見られますが、しかし、一方で、渋谷のスクランブル交差点でサポーターが大騒ぎした翌朝の渋谷駅周辺は、散らかし放題でゴミだらけです。商店街の旧知の店主は、「テレビが煽るからだよ」「迷惑だよ」と嘆いていました。これも、ニッポン的な建て前(表向きの顔)と本音(裏の顔)なのかと思いました。

先日、表参道で食事をしていたら、隣の席で若い女の子たちがワールドカップの話をしていました。

「サッカーって大袈裟すぎない?」「だってさ、どう見ても、たまたま目の前に転がってきたボールを蹴ったらゴールに入った感じなのに、解説者は、計算された結果だ、ゴールも必然だ、みたいに興奮して言うのよ。バカみたい」

たしかに、サッカーってただの玉蹴りにすぎないのです。その起源も、イングランドの田舎町でおこなわれていた寒さ凌ぎの玉蹴り合戦だったと言われています。女の子たちが言うように、サッカーは偶然の要素が大きいのも事実です。だから、番狂わせも多いのでしょう。偶然と見るか、必然と見るかによって、サッカーに対する見方も違ってくるでしょうし、サッカーの魅力をどうとらえるかも違ってくるでしょう。

所謂、サッカー通のコアなファンというのは、偶然にすぎないものを、必然と強弁して悦に入る、そうやって思考停止に陥る「バカみたい」な人間たちです。日本の時間稼ぎについても、「あれがサッカーだ」「フェアじゃないと批判するのはサッカーを知らない人間だ」などと言ってますが、彼らは、いつもそうやって現実を追認することで通ぶっている(サッカーを知っているふりをしている)だけです。むしろ、サッカーを巡る熱狂を冷めた目で見る原宿の女の子たちのほうが、サッカーの本質(魅力)を見抜いていると言えるのかもしれません。
2018.06.29 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
19日のコロンビア戦の”歴史的快挙”について、朝日新聞の忠鉢記者がつぎのような記事を書いていました。

朝日新聞デジタル
日本代表「勝てば官軍」か ハリル解任、正当化は反発も

みんなが論理も倫理もクソもない「風にそよぐ葦」になった今だからこそ、こういう記事は貴重だと思います。

そんな「勝てば官軍」の報道を見るにつけ、坂口安吾ではないですが、戦争に負けた途端に、「生きて虜囚の辱めを受けず」などと言っていた軍人(もののふ)から「天皇の赤子」まで、我先に昨日の敵にすり寄っていったあの光景を想起せざるを得ないのです。まさにあのときからこの国の戦後がはじまったのです。

今回のワールドカップは、PKとカウンターで試合が決まることが多いのですが、そのなかで日本は、「百年に一度の幸運」を得たと言っても過言ではないでしょう。  

「運も実力のうち」なんてのは、屁理屈にすぎません。サッカーに番狂わせはつきものですが、コロンビア戦に関しては、番狂わせと呼ぶのさえおこがましい気がします。明日のセネガル戦で日本の真価が問われるのは、言うまでもないでしょう。

余談ですが、わずか試合開始2分で10人でサッカーをすることを余儀なくされたコロンビアを見て、私は、もしこれがアルゼンチンだったらどうなっていただろうと思いました。10人になったら、メッシを交代させたでしょうか。もちろん、交代させることなんかできるわけがありません。でも、メッシをそのまま使えば、10人ではなく9人で試合するようなものです。”メッシ愛”が半端ねぇ小柳ルミ子には申し訳ないけど、メッシがいるアルゼンチンが相手だったら、5点くらい取れたかもしれません。そうなったらコロンビアどころではなく、日本中が狂乱したことでしょう。人気挽回を狙う「宰相A」が、代表チームに国民栄誉賞を、なんて言い出したかもしれません。

そして、私は、さらに話を飛躍させ、この国に全体主義をもってくるのは容易いことに違いないとあらためて思ったのでした。そんな論理も倫理もクソもないアジテーターがまだ出てきてないだけです。


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2018.06.24 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、ロシアワールドカップの日本代表の最終メンバーが発表されましたが、これほど盛り上がらないメンバー発表もめずらしいのではないでしょうか。心なしか、メンバーを発表する西野監督の表情も精彩を欠いていたように思います。

それもそのはずで、昨夜のガーナ戦のテイタラクはまさに目を蔽うばかりでした。「それ見たことか」ということばしか見つかりません。「ハリル解任ってなんだったんだ?」という言い方さえカマトトに思えるくらいです。

ガーナはワールドカップ予選に負けたばかりのチームです。あたらしいチーム作りもまだはじまってない状態でしょう。そんなチームが親善試合で招待されて来日したのです。知人は、どうせ吉原に行くのが楽しみで来たようなもんだろうと言ってましたが、どう考えてもボクシングで言う「咬ませ犬」にすぎません。負けるのが仕事のようなものです。

一方、日本はワールドカップの最終メンバーの発表を翌日に控えた、文字通り最後のアピールとなる試合でした。両チームのモチベーションは、天と地の差があったはずです。実際に、ガーナの選手たちは、アマチュアのチームのように、統制の取れてないチグハグな動きをしていました。そんなチームに、FKとPKだったとは言え2対0で完敗して、勝つことが前提の壮行試合を台無しにしたのです。お話にならないとはこのことでしょう。

ヨーロッパのサッカーメディアは、ハリルを解任した日本を今大会の最弱国だと辛辣な評価を下しているそうですが、あながち的外れだとは言えないでしょう。昨夜の試合では、「明日につながる試合だった」「課題が見つかった」などという常套句もさすがに影を潜めていました。

サッカーは、野球や相撲と違って、世界を相手に戦わなければならないのです。常にみずからを世界の基準に晒さなければならないのです。「一国社会主義」では世界に通用しないのです。いくら「ニッポン、凄い!」と自演乙しても、そんなものはクソの役にも立たないのです。サッカー協会の派閥やスポンサーの意向を忖度して世界で戦おうなんて、悪い冗談だとしか思えません。真面目に勝つことを考えているとはとても思えません。

ハリル解任を主張していたセルジオ越後氏や杉山茂樹氏などは、さっそく西野ジャパンの戦術を批判していますが、今更なにを言ってるんだと思いました。批評のレベルも、その国のサッカーのレベルに比例するのでしょう。

そして、グループステージで敗退してロシアから帰ってきたら、翼賛的なサッカーメディアに訓致されたサポーターたちは、「感動をありがとう!」「勇気をもらった」などというおなじみの垂れ幕を掲げて拍手と歓声で迎えるのでしょう。そんな痴呆的な光景が目に浮かぶようです。


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2018.05.31 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
愛しきソナ


今、映画監督のヤン・ヨンヒ氏の小説・『朝鮮大学校物語』(角川書店)を読んでいるのですが、それで思うところがあって、同監督の「愛しきソナ」(2011年)をNetflixで観ました。「愛しきソナ」を観たのは、これで二度目です。

大阪の鶴橋に住む在日朝鮮人の一家。1970年代の初め、18歳・16歳・14歳の息子三人は、当時「地上の楽園」と言われた北朝鮮に帰国します。日本に残ったのは、朝鮮総連の幹部であった父親と母親、それにまだ6歳のひとり娘(ヤン・ヨンヒ監督)でした。

やがて三人の息子はそれぞれ家庭をもち、両親には北朝鮮に八人の孫がいます。三人の息子の生活は、日本からの仕送りで支えられています。母親からの仕送りは、兄たち家族の「生命線」だと映画のなかで言ってました。お金や薬、それに風呂釜まで送られたそうです。

「愛しきソナ」は、次兄の娘・ソナにフォーカスを当て、1995年から10年以上に渡り、北朝鮮と日本に分かれた一家の悲喜こもごもの交流を記録したドキュメンタリー映画です。

ソナが5歳のとき、実母が子宮外妊娠で亡くなります。一周忌のために訪朝した際に撮られた、ソナが母親の墓前で、受験のときに覚えたという「将軍様」を讃える詩を暗唱するシーンは、なんだかせつないものがありました。

ソナの父親にとって、ソナの母親は二度目の妻でした。妻の死から二年後、次兄は三度目の結婚をします。母親は、今回も結婚式の費用はもちろん、花嫁衣装やブーケまで日本からもって行ったのでした。

一方、長男は、日本にいるときはコーヒーとクラシック音楽が好きだったそうですが、北朝鮮に渡ったのち、躁うつ病になります。その薬も日本から送っていました。しかし、薬の催促のためにかかってきた国際電話で、薬事法の改正で患者本人でないと薬を処方してもらえなくなったので、薬を送ることができなくなった、と母親が説明するシーンがありました。

その長男も、息子に音楽家になる夢を託して2009年に亡くなるのでした。同じ2009年11月、脳梗塞で倒れた父親も亡くなります。また、ヤン・ヨンヒ監督も、前作「ディア・ピョンヤン」(2006年)が北朝鮮当局に問題視され、入国禁止を言い渡されるのでした。

どんな国に生まれても、子どもたちの小さな胸には夢がいっぱい詰まっており、子どもたちは天真爛漫に生きているのです。ただ、舞台が北朝鮮だと、どうして天真爛漫さが哀しく映るんだろうと思いました。

ピョンヤンの劇場の前の階段に、小学生のソナと監督の二人が座り、カメラを止め、日本では休日にどんなことをするのかとか、日本の演劇では誰が好きかといったことを話すシーンも(映画のなかでは、黒い画面に会話の文字が映し出されるだけですが)、印象に残りました。ソナは、「わからないけど、聞いているだけで楽しい」と言うのでした。

映画のなかで、「そっちに行くのも難儀でな」「国交が正常化したら行き来しような」と父親が電話で話すシーンがありましたが、今回の融和ムードを祈るような気持で見ている在日朝鮮人も多いことでしょう。

「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。それは、北朝鮮で生きる人たちだって同じでしょう。私たちは、北朝鮮のことを考える上で、その”当たり前の事実”を忘れてはならないのです。

政治に翻弄され、家族がバラバラになった朝鮮人にとって(北朝鮮によって家族が引き裂かれた拉致被害者の家族にとっても)、今回の融和ムードは掛け値なしに喜ぶべきことでしょう。トランプや金正恩の政治的思惑などどうだっていいはずです。戦争より平和のほうがいいに決まっているのです。それがすべての前提でしょう。


YouTube
「愛しきソナ」予告編
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「かぞくのくに」
2018.05.16 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、Yahoo!トピックスに、『女性セブン』が2014年に掲載した安室奈美恵に関する記事について、発行元の小学館が「お詫び」を掲載したという日刊スポーツの記事がアップされていました。

Yahoo!ニュース
安室洗脳記事 女性セブン謝罪

また、朝日新聞デジタルも、同様の記事を掲載していました。

朝日新聞デジタル
女性セブン、安室さん記事でお詫び 男女関係報道など

ちなみに、日刊スポーツは朝日新聞系列のスポーツ紙です。

『女性セブン』は、安室の事務所から事実無根と訴えられていたそうで、おそらく、引退を間近に控え、両者でなんらかの”手打ち”がおこわれたのでしょう。

手前味噌ですが、”洗脳記事”が出た当時、私は、このブログにつぎのような記事を書きました。

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安室スキャンダルと”劣化”の構造
※一部リンク切れあり

芸能人が独立すると、見せしめのために、人格を否定するようなスキャンダルが流されるのはよくある話です。女性週刊誌やスポーツ紙などの芸能マスコミがそのお先棒を担ぎ、さらに、ワイドショーがそれを追いかけて、テレビからも締め出しを食うのです。そうやって独立した芸能人は兵糧攻めに遭うのです。それが怖い怖い芸能界のオキテです。

何度も言いますが、そうやって芸能マスコミやテレビ局が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。

今回、小学館は彼女の引退ビジネスに乗り遅れるのを懸念して、頭を下げたということなのでしょう。小学館は、児童書を手掛ける一方で、『SAPIO』などでもひどいヘイト記事を垂れ流しており、お金のためなら悪魔にでも平気で心を売る出版社です。

私は、件のねつ造記事に関わった記者や編集者(編集長)を、芸能マスコミから永久追放するくらいのきびしい処分が必要ではないかと思いますが、もちろん、彼らは口を拭い、これからも悪徳プロダクションと結託して、ねつ造記事を流しつづけるのでしょう。

一方、”洗脳記事”をなんの見識もなく掲載し、アクセスを稼ぐためにコメント欄に常駐する「バカと暇人」(中川淳一郎)を煽ったYahoo!ニュースは、相変わらず他人事です。しかし、そうやってねつ造記事をマネタイズするYahoo!ニュースも同罪であることは言うまでもありません。


関連記事:
『ネットメディア覇権戦争』
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2018.04.13 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
代表戦しか観ない俄かサッカーファンの私でさえ、ワールドカップ本戦を目前にしたハリル解任には、違和感を禁じ得ませんでした。

ハリルの戦術(あるいは性格?)に問題があったとは言え、この時期に監督を入れ替えて、ホントにワールドカップ本戦に効果があると思っているのでしょうか。どう考えても、混乱や戸惑いしかもたらさないように思います。

日本代表の低迷は、なにも今にはじまったことではないのです。低迷の原因は、ときの代表監督の戦術だけにあるのではないのです。それはむしろ些末な問題です。どんな優秀なドライバーでも、車のエンジンが貧弱ではレースに勝てないのです。杉山茂樹氏は、ハリルホジッチのサッカーは「サッカーの質が悪い」と言ってましたが、それは監督の問題ではなく選手の問題でしょう。

日本代表の低迷の原因は、スポンサーの関係で海外に移籍する選手は多いものの、実際に世界に通用する選手が少ない、そういった選手が育ってないということでしょう。それは、日本のサッカー文化や選手の育成の問題です。強いて言うならば日本サッカー協会の問題でしょう。

直近のベルギー遠征の結果に危機感を抱いたと言ってますが、それは、日本代表の”真の実力”が見えたにすぎないのです。まるでボクシングの「咬ませ犬」のような海外のチームをホームに招待しておこなわれる、スポンサー主催の親善試合だけでは”真の実力”ははかれないのです。ハリル自身がこの時期の海外遠征を切望したと言われていますが、そうやって日本代表の”真の実力”を知る必要を感じたからでしょう。

セルジオ越後氏は、西野監督になったら通訳が必要ないので、選手とのコミュニケーションもよくなるだろうと言ってましたが、もしそれが本当ならあまりにレベルの低い話で呆れるばかりです。選手の意見を聞かないハリルの独裁的な姿勢が、選手との信頼関係を損なったなどという報道がありますが、ナショナルチームはサッカー同好会ではないのです。常にきびしい結果を求められる代表チームの指揮官が、妥協を排し独裁的にならざるを得ないのは当然でしょう。それに、出場機会の減った選手が不平不満を漏らすのは、スポーツの世界ではよくある話です。一方で、香川や岡崎や本田などスター選手の起用法をめぐって、スポンサーの不評を買っていたという話もあります。解任の本当の理由は案外、そのへんにあるのかもしれません。

代表監督の交代劇のたびに、協会の任命責任や協会内部の派閥の問題が指摘されていますが、協会の役員たちは責任を取らず、いつも現場に責任を押し付けるだけです。

不都合の責任を外国人監督ひとりに押し付けるだけの日本サッカー。そんな協会を忖度するだけのスポーツメディア。なんと夜郎自大な国の夜郎自大な対応なんだろうと思います。そうやって日本サッカーの”真の実力”という現実から、いつまでも目を背けつづけるつもりなのでしょう。


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日本サッカーとゼロ年代の批評家たち
日本的な光景
ブラジルの大敗と自由なサッカー
マラドーナ
2018.04.09 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ビートたけしの“独立騒動”に関して、リテラが『噂の真相』の記事を引用して、さらにつぎのような記事をアップしていました。

リテラ
愛人問題を森社長の責任にスリカエ、たけし軍団の声明文がネグるオフィス北野“株問題”の真相とたけしのタブー

たけし軍団の声明文に書かれた「デタラメな主張」。水道橋博士は、「たけし軍団は徒弟制度の中にある。いわゆる芸能事務所と違う。師匠が言うことは絶対」とテレビで言ってましたが、だからと言って、デタラメを言っていいということにはならないはずです。

リテラが書いているように、たけしだけでなく軍団の古参メンバーも、たけしが太田プロから独立してオフィス北野を設立した経緯や、26年前(!)に森社長がオフィス北野の筆頭株主になった経緯などは当然知悉しているはずです。にもかかわらず、森社長が「裏切った」「いつの間にか筆頭株主になっていた」などと主張するのは、極めてタチが悪い言いがかりと言うべきでしょう。

また、オフィス北野の従業員の給与の問題やたけしが軍団のために持ち株を売却したという話も、彼らが言っていることは嘘ばかりだとか。そもそも愛人を「ビジネスパートナー」と呼んでいることからして、彼らの主張は眉に唾して聞く必要があるでしょう。それは、森友文書の改ざん問題で、改ざんを「書き換え」と呼んでいるのと同じようなものです。

まして、水道橋博士やガダルカナル・タカは、ワイドショーでコメンテーターを務めているのです。それを考えれば、悪い冗談だとしか思えません(たけしがニュース番組のキャスターを務めているのは、悪夢を見ているような話ですが)。

たけし軍団が今のお笑いの世界からズレており、お笑い芸人として終わっているのは誰の目にもあきらかです。たけしの後ろ盾を失ったら、芸能界で生き残るのは難しいでしょう。だから、あれほど必死なのかもしれません。

今回の”独立騒動”に対して、芸能マスコミは相変わらず及び腰です。たけしの番組のカラミもあるのでしょう、テレビのワイドショーも、たけしを”善人”あるいは“被害者”と見るスタンスを崩していません。たけしのいかがわしさを指摘する声は皆無なのです。

もっとも、たけしを登用している限り、テレビがたけしに肩入れするのは当然と言えば当然かもしれません。そのため、Yahoo!ニュースのコメント欄なども、テレビ報道を真に受けた情弱なコメントで溢れています。

私は、森昌行社長がたけしと決別して、北野映画の「影の監督」であったみずからの役割について”衝撃の告白”をすることを期待していますが、ただ、芸能界に跋扈する魑魅魍魎の存在を考えれば、それはとても無理な相談かもしれません。

何度も言いますが、芸能マスコミやテレビ局が、芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。今回の“独立騒動”でも、その一端が垣間見えているように思えてなりません。
2018.04.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
噂の真相2002年5月号


ビートたけしが「オフィス北野」から独立して、愛人と一緒に設立した新事務所に移籍するというニュースが話題になっています。ちなみに、(俄かに信じがたいけど)事務所名の「T.Nゴン」というのは、「T」がたけし、「N」が愛人の頭文字で、「ゴン」が二人の愛犬の名前だとか。もしこれが本当なら「色ボケ」と言われても仕方ないでしょう。

ただ、私が興味があるのは、たけしの「色ボケ」より、「世界の北野」などと言われた映画監督・北野武の虚像が、これでようやく白日のもとに暴かれるのではないかということです。

リテラも、今回の“独立騒動”に関して、下記のような記事を掲載していました。

リテラ
ビートたけし「恩人を切り捨て愛人と独立」の報い…“陰の共同監督”を切り捨てて北野映画は撮れるのか

リテラは、休刊した『噂の真相』の旧スタッフたちが中心になって運営されているそうですが、私が知る限り、かつて北野武の虚像を記事にしたのは『噂の真相』だけです。

それで、私は、本棚の奥から『噂の真相』のバッグナンバーを引っぱり出して、関連する記事を読み返してみました。たけしは、独立について、「軍団を含め、これまで背負ってきたものをいったん下ろしたい」と言ったそうですが、記事を読むと、そのことばの意味もなんとなくわかるような気がするのでした。

フライデー事件(1986年)以降、たけしのまわりでは右翼や闇社会の人間たちが見え隠れするようになりました。それは、芸能界復帰に関する右翼団体とのトラブルに、広域暴力団の組長に仲介を頼んだためと言われています。事件をきっかけに、太田プロから独立したのも、そのカラミだったそうです。1992年、新右翼の大物が参院選挙に出馬した際、たけしが横山やすしらとともに記者会見の席に座っていたのも、そういった裏事情があったからなのでしょう。しかし、その手の人間たちも徐々に離れていったと言います。

以下、長くなりますが、記事から引用します。

 愛娘、北野井子の売り出しの際、大物右翼の同席の記事が潰される一件があったように、『フライデー』事件以降、たけしの周辺には常に闇人脈が群がっていたのは周知の事実だろう。ところが、いまやその闇人脈でさえたけしから離れていっているのである。(略)
 こうした厳しい状況は、たけし本人が一番理解しているだろう。「映画を撮るために、テレビで金を稼いでいる」と虚勢をはるが、本音はわずらわしいテレビの仕事を離れ、映画に集中したいのではないか。
 だが、たけしはそれでもなおテレビから離れられないのだ。たけし軍団や前述した愛人たちの存在があるからである。
「今やオフィス北野は完全な映画製作会社で、芸能部門は放し飼いですからね。古株のダンカンやガナル・タカあたりはまだしも井出らっきょあたりは、まだまだたけしの庇護が無ければやっていけない。実際、食い詰めた大森うたえもんが独立したけどすぐに潰れてしまった。軍団を養っていくためにも、たけしは自分の番組を無くすわけにはいかないんだ」(前出・事務所関係者)
 そしてもうひとつ。最大の理由が、数々の愛人スキャンダルを乗り切ったことで、今や”マザコン”たけしの母親代わりとして確固たるポジションを得た幹子夫人の存在だ。
 たけしのギャラは、基本的にはオフィス北野からたけしの個人事務所である北野企画に支払われているが、この金は幹子夫人がいっさい管理しているという。(略)
 妻や弟子たち、さらに愛人たちへの責任をも背負い、どれだけ落ち目になったとしても、たけしはブラウン管でその醜態を晒し続けなければならない事情があるのだ。
(『噂の真相』2002年5月号・『フライデー』スクープで判明した北野武「権威」の残像と凋落との因果)


また、ほかの号では、北野映画について、つぎのような記事を掲載していました。北野映画では、「沈黙」や「無表情」が絶賛されると沈黙や無表情のシーンをやたら増やしたり、青色のトーンが「キタノ・ブルー」と評価を受けると、今度は青色を多用するようになったのだとか。もっとも「キタノ・ブルー」にしても、撮影監督の柳島克己氏が『ソナチネ』でたまたま「そういった色彩で撮っただけ」だそうです。

そして、北野映画において「影の監督」と言われたのが、オフィス北野の社長で、北野映画のプロデューサーを務めた森昌行氏なのです。

「もともとたけしさんは、映画監督としては信じられないくらい無責任な人で、ロケハンも自分はいかず他人まかせ。とくにプロデューサーの森さんにはオンブにダッコで、キャスティングやスタッフの選定も全部決めてもらっていた。今や北野映画に不可欠といわれている久石護の音楽だって、起用を決めたのはたけしさんじゃなく、森さんだしね。ただ、そんなたけしさんも、演出と編集だけは絶対に人に口をはさませなかったんです。(略)ところが、『HANA-BI』から、その演出と編集まで森さんに頼り、ほとんどいいなりになって作ったんです」(前出・元スタッフ)
 実際、『HANA-BI』における森の姿はまさに「影の監督」といってもいいものだった。撮影中はたけしにぴったり張りつき、ワンカット撮るたびにたけしとひそひそ話し合い、撮影が終わればラッシュを見て、たけしの相談に乗る――。(略)
 しかも、この傾向は作品を重ねるごとに強くなり、「BROTHER」にいたっては、撮影現場にたけしが不在で森がメガホンをとっている光景までが一部で目撃されている。
(『噂の真相2001年3月号・映画「BROTHER」』で絶賛された北野武の映画監督手腕と辛口両断!)


そうやって「世界の北野」が作られていったのです。

既出ですが、ビートたけしは、東日本大震災の前年、『新潮45』に掲載された電事連のパブ記事のなかで、つぎのように発言しています。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


これもまた、ビートたけしの虚像を表していると言えるでしょう。たけしがイタいのは、滑舌や笑いのセンスや事務所のネーミングだけでなく、その知性や見識においても然りなのです。芸能マスコミは、そんなたけしを持ち上げ、批判を封印し、タブー視していたのです。


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「官邸にキタノ」
水道橋博士
2018.03.31 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
手前味噌になりますが、文春砲とそれに煽られる“お茶の間の論理”や、大塚英志が言う「旧メディア のネット世論への迎合」によって文春砲が増幅される“私刑の構造”について、私はこのブログで一貫して批判してきたつもりです。

ただ、今回の小室哲哉に関する文春砲については、文春砲に煽られる“お茶の間の論理”だけでなく、一転して文春砲を批判する世論に対しても、違和感を抱かざるを得ません。

今回の文春砲について、いろんな人が発言していますが、そのなかで目にとまったのは、ゲスの極み乙女。の川谷絵音の「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間。」という発言と、新潮社の出版部部長でもある中瀬ゆかり氏の「二元論でものを考える人は怖い」という発言です。

デイリースポーツ
川谷絵音「病的なのは週刊誌でなく世間」

デイリースポーツ
中瀬ゆかり氏、文春批判にひそむ危険性を警告「二元論でものを考える人は怖い」

中瀬氏はつづけて、つぎのように言ってます。

「私の好きな言葉に『知性っていうのは、思ったことを極限までに突き進めないことだ』っていう。知性っていうのは、あるところで歩留まりというか、そこで止められることが一種の知性だと思っているので。一方的に、感情だけでカッとして、『だから廃刊にしろ』とか『不買運動だ』みたいになっている人たちは、また今度、何かあった時には手のひらを返すんだろうなって気はしてみてますね。


川谷絵音の発言に対して、ネットでは「お前が言うな」と批判が起きているそうですが、私はむしろ中瀬氏の発言のほうに、「お前が言うな」と言いたくなりました。

世間も週刊誌もメディアも「病的」なのです。そうやって“異端”や”異物”を排除することで、”市民としての日常性”が仮構されるのです。”市民としての日常性”は、そんな差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないのです。

それにしても、中瀬氏の“知性論”は噴飯ものです。「留保」ということを言いたかったのかもしれませんが、そうやって他人の不幸を飯のタネにする自分たちのゲス記事をただ弁解しているとしか思えません。そもそも新潮社の中瀬氏がテレビのワイドショーに出て、したり顔でコメントしている光景にこそ、”私刑の構造”の一端が垣間見えるのです。

今回、文春砲を批判し炎上させている人間たちは、小室の場合はやりすぎだけど、山尾志桜里や上原多香子やベッキーは別だというスタンスが多いようです。男の不倫には理由があるが、女の不倫はどんな理由も許されないとでも言いたげです。そこにあるのは、文春や新潮と同じ男根主義的な”オヤジ目線”です。また、日頃不倫に眉をしかめる世間の人間たちも、妻の介護によるストレスや欲望のはけ口を身近な女性に求めたことには、なぜか理解を示すのでした。

前も書いたことがありますが、小室哲哉に関しては、みずからが手を付けたB級アイドル(華原朋美)をデビューさせた公私混同ぶりや、絶頂期の目をおおいたくなるようなバブリーな振舞いに、私は当時から違和感を抱いていました。

絶頂期の彼には、今のような如何にも「誠実そうな」姿とは真逆な一面がありました。常にクスリやオンナの噂が付き纏っていたのは事実です。詐欺事件で逮捕されたときも、事件に登場する人物たちにどこかいかがわしい人間たちが多かったのも事実でしょう。

芸能人である限り、「不倫なんてどうだっていいじゃないか」「どこが悪いんだ」「お前たちだって不倫したいと思っているだろう」と口が裂けても言えないのです。そのため、小室哲哉は、よりによって妻の介護と不倫を結び付け弁解しているのです。小室哲哉が虚像であることは言うまでもないでしょう。文春砲に対してどっちの立場をとるにせよ、その当たり前の前提がすっぽりとぬけ落ちているのです。それが違和感を抱く所以です。


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2018.01.25 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
大相撲日馬富士の暴行問題。

もし加害者が横綱の日馬富士ではなく一般人だったら、当然逮捕されたはずです。しかし、横綱だと逮捕を免れ、書類送検でことが済まされるのです。

しかも、話は暴行傷害事件という問題の本質を離れ、おかしな方向に行っています。なぜか警察に告訴した貴乃花親方が批判に晒されているのです。

話をおかしな方向にもって行ったのは、テレビやスポーツ新聞など大相撲周辺のメディアです。「相撲ジャーナリスト」や「東京相撲記者クラブ会友」などという手合い(最近はそれに「相撲レポーター」というのが加わっています)のいかがわしさは、もっと指摘されて然るべきでしょう。

今回の問題では、日本相撲協会とメディアとの力関係が如実に表れているように思います。例えばNHK以外の民放のテレビ局は、本場所の取組みをスポーツニュースなどで取り上げる場合でも、すべて日本相撲協会の映画部が撮影した映像を借りるしかないのです。自由に取材できないのです。つまり、メディアは相撲協会から完全に首根っこを押さえられているのです。

相撲協会の隠蔽体質も、こういった力関係が背景にあるのはあきらかでしょう。今回も、貴乃花親方が批判されるのは、内輪で処理しなかった(隠蔽しなかった)からでしょう。

そもそも大相撲はスポーツと言えるのか、あるいは大相撲はホントに「国技」なのかという疑問があります。

ネットを見ていたら、ヤフー知恵袋に「相撲ってフリークショ-みたいなものですか?」という質問がありました。それに対して、つぎのような秀逸な回答がおこなわれていました。

一部を除き、あんな太った体形にするのが有利な種目なんて世界標準からみたら奇形大会みたいなものですもんね。
フリークショーという言葉でも外れていないかもしれない。

大体、朝起きて空きっ腹でけいこして、その後大食して昼寝して脂肪をつけるという、スポーツ医学を真っ向から否定するような競技は、このヘルシーブームに逆行しますよね。

Yahoo!知恵袋
相撲ってフリークショ-みたいなものですか?


私も昔、なにかの雑誌で、大相撲を「小人プロレス」やサーカスの「小人曲芸」などと同じように、フリークショ-として論じている記事を読んだ記憶があります。体形的な特徴(「異形」)を見世物にする残酷な世界が、昔の大衆文化にはあったのです。

取組みで、でぶっちよの力士が土俵に転がったり、土俵下に頭から落ちたりすると、観客は大笑いしながら拍手喝采を送っていますが、それはどう見ても、スポーツ観戦というより見世物を見ている感じです。

「異形」ということで言えば、歌舞伎なども同じ系譜に属すると言ってもいいのかもしれません。江戸時代以降の相撲は、勧進興行としておこなわれていたそうで、歴史的に見ても、相撲は歌舞伎など芸能と重なる部分があるのです。

寺社権力の庇護を外れた芸能は、生き残りのため、不浄の場所である河原で興行を打つことになります。そのために、「河原乞食」などと呼ばれ蔑まされたのでした。それは、相撲も似たようなものでしょう。「日本の伝統文化を継承」と言っても、それは本来マージナルなものだったはずです。

海外では、力士は「スモウレスラー(sumo wrestler)」と呼ばれるそうですが、大相撲もプロレスなどと同じように興行(見世物)なのです。興行である限り、八百長云々は野暮というものでしょう。今回「モンゴル会」の実態が公になったことで、ますますその疑念を深めた人も多いのではないでしょうか。

ただ、話がややこしいのは、同じ興行でも、大相撲は国家に庇護されているため、「国技」などと言われ、権威づけられていることです。もっとも「国技」の根拠も、明治天皇が相撲好きだったからというような話にすぎないのです。なかには、相撲の常設施設を造る際、「国技館」と名付けたので「国技」と呼ばれるようになったという信じ難い(アホらしい)説さえあります。

横綱が神の「依代」と言われるのも、勧進興行の名残なのでしょう。言うなれば、勧進興行の(普請のためにお金を集めるための)セールストークだったのでしょう。そのために、「品格」をもたなければならないと言われても、彼らは単にスモウレスラーのチャンピオンにすぎないのです。チャンピオンになったからと言って、急に「品格」なんかもてるわけがないのです。白鵬などを見ても、無理して「品格」がある風を装っているのがありありと見てとれます。

力士たちの貧しいボキャブラリーが「愛嬌」と見られるのも、見世物ゆえでしょう。彼らが、日本の伝統文化を背負っているなどと言われ裃を付けても、どこかぎこちなく見えるのも、(まるで「騎馬民族征服王朝説」を地で行くように)今やチャンピオンの多くが大陸からやって来た騎馬民族だからという理由だけではないでしょう。

公益財団法人という特段の地位を与えられ、国家に庇護されている今の大相撲は、虚構ではないのか。今回のように、対応がおかしな方向に向かうのも、虚構であるがゆえの弥縫策に走るからではないのか。そんな気がしてなりません。
2017.12.01 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
ネットに出ていた上原多香子が不倫相手と交わしたLINEの文章を読んでいたら、ふと柳原白蓮のことを思い出しました。

私は、高校生のとき、持病があり、月に一度かかりつけの病院に通っていたのですが、その際、赤銅御殿の前を通って病院に行ってました。隣にキリスト教系の女子高があり、下校時にそこの生徒たちと遭遇すると、遠慮のない視線を浴びせられ、思春期の真っ只中にあった私は、いつの間にか耳たぶが熱くなっているのがわかるのでした。赤銅御殿は、既に人手に渡り旅館になっていましたが、高い石塀と庭木に囲われた目を見張るような豪邸は、昔のままの姿で残っていました。

成り上がり者の炭鉱王・伊藤伝右衛門は、大正天皇の従妹にあたる25歳下の白蓮のために、贅を尽くした別邸を大分県別府市の海が見渡せる高台に作ったのです。歌人でもあった白蓮は、赤銅御殿に多くの文人や歌人を招き、サロンのように使っていました。白蓮は、赤銅御殿で、脚本の上演許可をもらいに来た7歳年下の東京帝国大生・宮崎龍介(孫文を支援した右翼の巨頭・宮崎滔天の長男)と知り合い、やがて手に手を取り合って出奔するのでした。姦通罪が存在していた時代の、文字通りの“不倫の恋”です。東大の新人会(戦前の学生運動の団体)に属し、進歩的な思想をもっていた宮崎龍介は、男と女が「肉の欲」に負けるのは別に悪いことではないと白蓮に言います。貞淑な上流婦人であった白蓮は、「肉の欲」というあけすけなことばに衝撃を受け、宮崎龍介に惹かれていくのでした。

上原多香子も、不倫相手にLINEでこう書き送っています。

NEWSポストセブン
上原多香子 不倫LINEで「止められなくなる」「そばにいて」

上原《私、結婚ってとっても大きなことで人生の分岐点だったこともあるー だから、離婚するとか浮気は、もうあり得ないって思ってたのね でもさー、トントンに伝えられなかった好きと、やっぱり大好きと、私の一方的やけど肌を合わせて感じるフィット感が今までとはまったく違うの。》


上原《私はそんなに器用じゃなくて、、旦那さんとの生活を続けながら、トントンを想い続けること、トントンに想いがすべて行ってる中、騙し騙し旦那さんと居ることが、やっぱり出来ないです。(中略)今すぐにでも、すべて捨ててトントンの元へ行きたいです。だけど、私ももう大人、、いろんな問題があるし、私だけの想いでトントンに迷惑はかけられません。今すぐは難しいかもしれないけど、私も少し大人になって、ちょっとずつ、旦那さんと別の道を歩めるようにします。こんな気持ちでは絶対に旦那さんに戻れない。》


なんと、ぞくぞくするような愛の告白でしょうか。不謹慎を承知で言えば、これこそが不倫の恋の醍醐味とも言えるのです。上原多香子が不倫相手に送った「2人の子供作ろうね」ということばが、元夫が自殺する決定的な要因になったのではないかと言われていますが、でも、人間というのは自分でもままならないもので、道ならぬ恋だからこそ、よけい燃え上がるというのはあるでしょう。

元夫が自殺した責任を問う人もいますが、それは他人がとやかく言う問題ではないでしょう。自殺しているのを発見した際、彼女はひどく取り乱して、警察の取り調べにも応じられなかったと言われています。また、自殺によって不倫相手とも別れているのです。

柳原白蓮は、世間から「淫乱女」だと指弾され、石を投げつけられたのですが、上原多香子に対する世間の反応も同じです。姦通罪はなくなっても、不倫ということばは生きつづけているのです。でも、不倫なんて誰でもあり得ることです。恋に「良いか悪いか」なんてないのです。

不倫の恋に身を焦がしたのは、上原多香子や柳原白蓮だけではありません。栗原康氏が『村に火をつけ、白痴になれ』で書いていますが、伊藤野枝も「不倫上等」のような人生を送っていました。『美は乱調にあり』で伊藤野枝の伝記を書いた瀬戸内寂聴自身も、大学教員だった夫の教え子と不倫をしています。さらにそのあと井上光晴との不倫もよく知られています。みんな、上からのお仕着せのイデオロギー(道徳)ではない、自前の論理や感性で生きた人たちなのです。

上原多香子のことを「芸能界から追放必至」などと書いていたスポーツ紙がありましたが、芸能界というのは、本来、公序良俗の市民社会の埒外に存在するものです。名女優と呼ばれている人たちも、不倫の恋に身を焦がして女優として羽ばたいた人が多いのです。女優にとって奔放であることは決してマイナスではないはずです。

むしろ、今になって(元夫が盗み見た)LINEのやり取りや遺書を公表したり、4千万円だかの金銭を要求したと言われる元夫の家族こそ、眉に唾して見るべきでしょう。


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2017.08.12 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
前回の記事のつづきになりますが、その後、ノンフィクションライターの田崎健太氏が、『週刊現代』に連載している「ザ芸能界」で、能年玲奈の問題を取り上げていました。

現代ビジネス
能年玲奈「干されて改名」の全真相 〜国民的アイドルはなぜ消えた?

記事によれば、当初『週刊文春』が伝えた能年の給与が「月5万円」というのは、事実だそうです。所属事務所・レプロの担当者もそれを認めているそうです。担当者に言わせれば、その代わり、高級マンションに住まわせ(と言っても、4~5名の共同生活)、その家賃など「生活全ての面倒を見て、レッスン代、交通費などの関連費用も全部こちらで持った上で、さらに小遣いが5万円ということ」だとか。

でも、駆け出しとは言え、彼女たちはタレントなのです。レッスンだけしているわけではなく、いくらかなりとも報酬(ギャラ)を得ているはずです。事務所はそれをピンハネしているのです。それで、「小遣い」はないだろうと思います。

赤字だろうが、先行投資だろうが、こういったシステム自体が前近代的で、レプロの主張は女郎屋、あるいはタコ部屋の論理と同じです。芸能界というのは、前近代的な、労働基準法も及ばないブラックな論理が、さも当たり前のように未だにまかり通っている世界なのです。

「あまちゃん」で売れたので、これから投資した分を回収しようとした矢先、独立したいと言い出したため、レプロが激怒したのは容易に想像がつきます。芸能マスコミに能年玲奈の「洗脳」記事がいっせいに流れたのは、その頃でした。

記事で注目されるのは、能年の顧問弁護士が初めて口を開いたことです。顧問弁護士の星野隆宏氏は、有名芸能人の顧問を務める弘中惇一郎弁護士などと違い、外資系法律事務所に所属する商事紛争が専門の裁判官出身の弁護士だそうです。今まで芸能界と付き合いのない弁護士だからこそ、その主張は芸能界の問題点を的確に衝いているように思いました。

星野はレプロに限らず、日本の芸能プロダクションの、所属タレントに対する姿勢を問題視する。

「確かに、レプロは彼女にコストを掛けたかもしれない。ただ、それはビジネスだから当然のことです。

事務所に集められた全員が成功するわけではない。本人の努力や運、さまざまな要素がかかわってくる。事務所はそうして成功したタレントをうまく活用すればいい。それがマネジメントです。

しかし現状は、あたかもタレントを事務所の所有物のように扱いコントロールしている。タレントに対し、とにかく逆らうな、言った通り仕事をしろ、という発想がある」

仕事をしたいと主張する能年に対して、レプロは「事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない」と言うのだそうです。

「我々が(代理人として)入ってからは、常に彼女は仕事をやりたがっていました。『仕事をください』という要求を、6回も書面で出しています。するとレプロ側は『事務所との信頼関係がない限り、仕事は与えられない』という回答を送ってきた。

『では、その信頼関係はどうやったら作れるんですか』と返すと、『社長との個人的な信頼関係がなければ仕事はあげられない』。

そして、弁護士を介さずに社長と本人の一対一で話し合いをしたいと言う。ただ、代理人がついた事件で、当事者同士が直接交渉するということは、弁護士倫理上も許容できない。到底認められなかった」


芸能界は、まさにヤクザな世界なのです。テレビ局や芸能マスコミがそのヤクザな世界に加担しているのです。彼らは、女郎屋&タコ部屋の論理を追認しているのです。

ただ、そういったテレビ局や芸能マスコミの姿勢に、視聴者や読者から批判的な見方が出ていることもたしかです。”音楽出版利権”に見られるように、芸能界のボスと結託して甘い汁を吸っている彼らの”裏の顔”は、既に多くの視聴者や読者の知るところとなっているのです。
2016.11.08 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
と言っても、現在、彼女は芸能界では「能年玲奈」という名前を使えないのだそうです。そのために、「のん」などという犬か猫のような芸名を名乗っているのです。

しかも、驚くべきことに、「能年玲奈」というのは本名だそうです。芸能活動するのに、本名の「能年玲奈」を名乗ることができないのです。そんなバカと思いますが、それが芸能界のオキテなのです。そのあたりの事情については、リテラが『週刊文春』の記事をもとに、つぎのように書いていました。

「週刊文春」の記事によると、契約が終了する間近の6月下旬、レプロから能年側に、昨年4月から今年の6月まで彼女が事務所側からの面談に応じなかったため仕事を提供できなかったとして、その15カ月分の契約延長を求める文書が送付されてくるとともに、もう一つ申入れがあったという。

 それは、契約が終了しても「能年玲奈」を芸名として使用する場合には、レプロの許可が必要というものであった。「能年玲奈」は本名であるため、前所属事務所に使用を制限される謂れはないが、「週刊文春」の取材を受けたレプロ側の担当者は「一般論として、その旨の契約がタレントとの間で締結されている場合には、当事者はその契約に拘束されるものと考えます」と答えたと記されている。

 その「契約」とは、いったい何なのか。レプロを含む、バーニング、ホリプロ、ナベプロなどの大手芸能プロは、彼らが加盟する日本音楽事業者協会(音事協)の統一の契約フォーマットを使っているのだが、そこにはこのような文言があると「週刊文春」の記事には記されている。ちなみに、ここでの「乙」は能年玲奈を、「甲」はレプロを指している。

〈乙がこの契約の存続期間中に使用した芸名であって、この契約の存続期間中に命名されたもの(その命名者の如何を問わない。)についての権利は、引き続き甲に帰属する。乙がその芸名をこの契約の終了後も引き続き使用する場合には、あらかじめ甲の書面による承諾を必要とする〉

 レプロ側は、契約書にあるこの一文を根拠に「能年玲奈」という名前の使用に関する権限をもっていると主張しているのだが、芸名ならまだしもこれが本名にも適用されるのかは疑問だ。実際、記事で取材に答えている弁護士も、公序良俗違反でこの契約条項は無効になるのではないかと考えを示している。

 だが、能年側は、レプロのこの要求を呑んだ。「能年玲奈」という名前を使い続けることで、もしも裁判などになれば、今度は一緒に仕事をする相手に迷惑がかかることを危惧したからだ。

リテラ
卑劣! 能年玲奈に「本名使うな」と前事務所から理不尽すぎる圧力が! 能年を完全追放のテレビにクドカンも苦言


音事協の統一の契約フォーマット。それこそが竹中労が言う「奴隷契約書」です。日本の芸能界と、日本の芸能界のノウハウが持ち込まれた韓国の芸能界を支配する「奴隷契約書」にほかなりません。本名すら名乗ることさえできないなんて、まるで中世の世界です。

先月、能年玲奈は、台風10号の豪雨で被害に遭った「あまちゃん」の舞台・岩手県久慈市を訪問し、地元で熱烈な歓迎を受けたのですが、しかし、テレビでこのニュースを伝えたのはNHKだけで、ほかの局はいっさい無視したのでした。新聞も朝日と一部のスポーツ紙が小さく伝えたのみでした。

何度もくり返し言いますが、テレビ局をはじめとする芸能マスコミが芸能界をヤクザな世界にしていると言っても過言ではないでしょう。芸能記者や芸能レポーターたちは、アメリカに尻尾を振るだけのどこかの国の「愛国」政治家と同じで、芸能界を支配するヤクザな人種に媚びを売るだけの”金魚の糞”にすぎないのです。

高江には足を運ばないテレビ局が、高樹沙耶のことになると大挙して石垣島に押しかけ、例によって坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式の罵言を浴びせていますが、高樹沙耶なんかより能年玲奈のほうがはるかに大きな問題でしょう。誰が見ても重大な人権侵害があることは明らかで、芸能人にとっても看過できない問題のはずです。しかし、「とくダネ!」も、「スッキリ!」も、「モーニングショー」も、「ビビッド」も、「サンデージャポン」も、能年玲奈の問題を取り上げることはありません。テリー伊藤も、マツコデラックスも、坂上忍も、松本人志も、爆笑問題も、デーブスペクターも、加藤浩次も、誰ひとり能年玲奈の名前を口にすることはないのです。私は、彼らがわけ知り顔にこましゃくれたことを言っているのを見るにつけ、ちゃんちゃらおかしくてなりません。

能年玲奈は、来月から公開される長編アニメ映画『この世界の片隅に』の主役の声優をつとめ、これが事実上の芸能界復帰作と言われていますが、NHKを除いて民法各局は同作品のプロモーションもいっさい拒否しているのだとか。能年玲奈がテレビの画面に映ることさえ許されないのです。一方で、TBSはレプロに所属する新垣結衣を新しいドラマの主役に起用しているのです。また、日テレの「ZIP!」の総合司会には、先月からレプロ社長のお気に入りと言われている川島海荷が抜擢されています。これでは、能年玲奈の問題を取り上げるなど夢のまた夢と言えるでしょう。

独立した芸能人が干されるのも、干そうと画策するプロダクションの意向を受けて、テレビ局などがそれに加担するからです。そうやって芸能界をヤクザな世界にしているのです。テレビ局も共犯者なのです。


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2016.11.04 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
高畑裕太の不起訴&釈放には驚きました。

逮捕された容疑が「強姦致傷」なので、被害者の告訴がなくても捜査は進められ起訴も可能だったはずです。意外な結末と言えるでしょう。示談が成立したことによって、捜査に被害者の協力が得られず、公判の維持が難しいと判断したからではないかという専門家の解説がありましたが、さもありなんと思いました。被害者が、示談でもなんでもして早く事件を忘れたいと思っても、誰も責められないでしょう。

ネットで「高畑裕太」と検索すると、「高畑裕太 被害女性」「高畑裕太 被害女性画像」などと予測候補のキーワードが表示されますが、いちばんゲスなのは善良な仮面をかぶった世間なのです。テレビのワイドショーの視聴者であり、Yahoo!ニュースにアクセスするのを日課にしているネットの利用者であり、週刊文春や週刊新潮の読者です。そんなゲスな世間の目から、被害者のプライバシーを守ることをなにより優先しなければならないのです。逆に言えば、それだけ強姦が卑劣な犯罪だということなのです。肉体的な被害だけでなく、精神的な被害も深刻な問題なのです。まして、加害者が有名人であれば尚更でしょう。

弁護士が、お金にものを言わせて性犯罪被害者の苦悩に付け込み、泣き寝入りするように追い込む。テレビドラマでも見ているような、そんな想像をしました。「ママのおかげだよ」と言って母親の腕にすがり付きながら、陰で薄ら笑いを浮かべている、なんてことがないように願うばかりです。

高畑裕太を担当したのは、「無罪請負人」として有名な弘中惇一郎弁護士の事務所だそうです。弘中弁護士と言えば、ロス疑惑の三浦和義(無罪)、薬害エイズの安倍英(一部無罪)、厚労省村木事件の村木厚子(無罪)などを担当した”辣腕”弁護士です。かつては『噂の真相』の顧問弁護士もしていました。

また、不起訴&釈放に際して、弁護士がコメントを出したことにも驚きました。弁護士がコメントを出すこと自体、異例だそうです。高畑裕太の話しか聞いておらず、「事実関係を解明することはできておりません」と言いながら、まるで事件が”冤罪”であったかのように一方的な主張を述べているのでした。強姦事件では、コメントにもあるように、加害者側の弁護士が「合意だった」とか「被害者にも落ち度があった」と主張するのはよくあることで、被害者は公判でも二次被害を受けることが多いのだそうです。そのため、示談、告訴の取り下げ(不起訴)に至るケースも多く、性犯罪の起訴率は50パーセントにも満たないと言われています。

コメントに対しては、私は、下記の千田有紀氏と同じような感想をもちました。

Yahoo!ニュース
高畑裕太さん釈放後の弁護士コメントは、被害者女性を傷つけてはいないか?

コメントは、被害者がなにも言えないことをいいことに、言いたい放題のことを言っているような感じさえするのでした。コメントを受けて、さっそく「推定無罪」がどうとか、(日刊ゲンダイのように)被害者の女性の素性がどうとかいった話まで出ていますが、弁護士にすれば、「してやったり」という感じなのかもしれません。

通常、こんな一方的なコメントを出すことは考えれないので、コメントを出すことも示談で合意されていたのではないかと言われていますが、仮にそうだとしてもなんだか残酷な気がしてなりません。“不合理な裏事情“を感じてならないのです。
2016.09.11 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
今日、リテラに下記のような記事が出ていました。

リテラ
上西小百合の太田光代批判は正しい! おかしいのは「『サンジャポ』に出るな」と上西を恫喝した光代のほうだ

私も、最初、下記のYahoo!ニュースの記事を見たとき、リテラと同じような感想を持ちました。

Yahoo!ニュース
ディリースポーツ
上西議員、太田光代氏に謎のかみつき 「文句あるならサンジャポ出るな」と一蹴される

上西小百合議員の言っていることは、至極真っ当です。「テレビの閉塞感の代表」が太田光代とテリー伊藤だというのは、まったくそのとおりでしょう。

太田光代が代表を務める芸能プロ「タイタン」が、大阪府知事になる前から橋下徹氏のマネジメントをしてきたのはよく知られていました。それは今も変わっていません。それどころか、橋下氏は「タイタン」の顧問弁護士でもあるのです。

上西議員は、「タイタン」が政界復帰を目論む橋下氏とタッグを組んで、彼の芸能活動に手を貸していることにチャチを入れたかったのでしょう。ニュースを扱うサンジャポの爆笑問題は、一見“客観”を装いながら、背後では橋下氏の野望に手を貸しているじゃないかと言いたかったのかもしれません。橋下氏にとって、芸能活動が“政治家・橋下徹“の隠れ蓑であることはあきらかなのです。

それに対して、太田光代は、「サンジャポに文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」と言い返したそうです。まるでサンジャポをみずからがプロデュースしているかのような発言です。

私も、その発言を読んで、太田光代は何様のつもりだと思いました。「タイタン」は爆笑問題の威光を笠に、出演者の人事権まで握っているのかと思いました。

「タイタン」は、爆笑問題が太田プロから独立したのに伴い、仲間内で作った事務所だそうです。爆笑問題のマネージャーも、彼らの出身大学である日芸(日本大学芸術学部)の同級生が務めているという話を聞いたことがあります。それが、いつの間にか芸能界のドンまがいの発言をするまでになったのです。それもひとえに、芸能界がアンタッチャブルな世界だからでしょう。

何度も言いますが、芸能界をアンタッチャブルな(ヤクザな)世界にしているテレビ局や芸能マスコミの責任は大きいのです。メーン司会者とは言え、一介の出演者の所属プロダクションの社長に、「文句があるなら出演頂かなくて結構ですよ」などと言わせるサンジャポスタッフのだらしなさを痛感せざるをえません。こういった思い上がりを許しているから、芸能界のドンのような輩が生まれるのです。

ネットでは上西議員に対して批判的な見方が多いようですが、上西議員の発言は、意外にまともなのが多いのです。「炎上」と言っても、上西議員が言うように、せいぜい10人程度が騒いでいるだけで、それをニュース(とも言えないようなニュース)をマネタイズするためにアクセスを稼ぐことに腐心するネットメディアが、大げさに取り上げて煽っているだけなのです。


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人間のおぞましさ
2016.09.06 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
イニシャルで書いてもバレバレですが、俳優のW・Tが、糖尿病の合併症で人工透析を受けているのはどうやらホントのようです。週刊誌によれば、マネージャーもそれを認めているそうです。

マネージャーは、「症状はそれほど重いものではありません」と答えていたそうですが、しかし、糖尿病で人工透析まで至ったというのは、どう考えても重くないとは言えないでしょう。

糖尿病の末路は悲惨なものです。さまざまな合併症を併発して、徐々に身体が蝕まれていく糖尿病の怖さは、その現実を知らない人にはなかなか理解できないでしょう。糖尿病予備軍やまだ初期の段階にある人たちのなかには、どうにかなるだろうとタカをくくっている人も多いのですが、でも、どうにもならないのです。よほど覚悟を決めて食生活を改善しなければ、悲惨な末路が待っているだけなのです。

旧知の病院で人工透析を担当する老ドクターは、私にこう言いました。

「これは医療ではないんだよ。医療とは言えないんだよ」
「どうしてですか?」
「だって君、医療というのは病気を治すことだろう。彼らは治らないんだよ。治すことができないんだよ。だから、医療とは言えないんだよ」

私は、ドクターの話にショックを受けたのですが、ただ、一概に暴論と片付けられない“真実”を含んでいることもたしかでしょう。

そのW・Tが、今日、テレビに出ていました。番組のタイトルが「W・Tと銀座大人カレー巡り」というものです。文字通り、食べ歩きの番組なのでした。看護師によれば、透析を受けている患者にカリウムは厳禁だそうです。カレーにも当然カリウムを多く含む食材が使われているはずです。まさに「命がけ」と言っていいでしょう。

芸能人でありつづけるためには、週三日透析を受けながらも、努めて明るくふるまい、危険な食べ物でもさも旨そうに食べなければならないのです(実際は、おしゃべりで胡麻化して、あまり口には入れていませんでしたが)。他人様に身をさらす仕事をしていると、当然、そうやって身体を張らなければならない場面も出てくるでしょう。家庭の事情もあるのかもしれませんが、奥さんのS・Iの稼ぎだけではダメなんだろうかと思いました。今後、心筋梗塞や脳梗塞のリスクだって高くなるはずです。いらぬおせっかいかもしれませんが、私は、W・Tに憐れみさえ覚えたのでした。
2016.09.04 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
私は、夏目三久が好きで、彼女が出る番組はよく見ていました。有吉弘行との熱愛報道が出たとき、「どうして有吉なんだ?」とがっかりしました。どう見ても有吉とは似合わないように思いました。有吉のあのわざとらしい毒舌も嫌いでした。

でも、二人の熱愛が芸能界のドンによって「なきもの」にされようとしているのを見て、逆に、有吉でもなんでもいいから愛を貫いてもらいたいと思うようになりました。熱愛報道をめぐる一連の展開が、あまりにも理不尽に思えたからです。

ところが、夏目三久自身が、SMAP解散騒動のときと同様事務所寄りの報道をおこなっているスポニチの単独取材(と言っても電話インタビュー)に応じて、熱愛報道を「全て事実ではありません」と全面否定するに至っては、さすがにちょっと待てよという気持にならざるをえませんでした。今後、どう展開するのかわかりませんが、もしこのまま熱愛が「なきもの」にされて幕が下ろされるのなら、夏目三久ってとんでもない食わせ者と言われても仕方ないでしょう。

しかも、このスポニチの記事は、電話インタビューなのに、なぜか赤い服を着た夏目三久が涙をぬぐっているような写真まで添付されているのです。

それにしても、芸能界というのは怖い世界だなとあらためて思います。村西とおるが言うように、「カタギのお嬢様にはできないお仕事」だということを痛感させられます。案の定、芸能界のドンの逆鱗に触れた有吉が「芸能界追放の危機」なんて記事が出はじめていますが、芸能界のドンにとって、タレントというのは、犬や猫以下の”もの(商品)”だということなのでしょうか。

身近で二人を見てきた(はずの)マツコ・デラックスも、今回に限ってはひと言も発言してないのです。なんだか彼の(彼女の?)の毒舌のメッキも剥がれた気がします。また、日ごろ口さがない”芸能界のご意見番”たちも、みんな口を噤んでいるのです。所詮、怖い怖いヤクザな世界の住人(ドレイ)ということなのでしょう。

今はテレビを見るにしても、昔と違って、これはヤラセではないかとか、単なる話題作りではないかとか、視聴者がテレビのなかまでのぞき込み、シニカルに見るようになっています。今回も「あるものをなきものにする」カラクリが視聴者の前にさらけ出され、すべてが見え見えなのです。にもかかわらず、芸能界のドンにひれ伏し、旧態依然としたオキテに従って、かん口令を敷いた芸能マスコミやテレビ局の姿勢は、あまりにも時代錯誤と言えるでしょう。何度も言いますが、こういった姿勢が芸能界をアンタッチャブルなものにしているのです。
2016.09.03 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
27日には、「高畑会見 危機管理のプロ評価」などという記事をアップしていたYahoo!トピックスですが、昨日は一転「高畑淳子会見 性被害者の怒り」という記事をアップしていました。これでバランスをとったつもりなのかもしれません。

Yahoo!ニュース
高畑会見 危機管理のプロ評価
高畑淳子会見 性被害者の怒り

高畑淳子の会見の無神経さは、裕太容疑者がやったこととのおぞましさを踏襲するものと言わざるをえません。それが、二次被害=セカンドレイプと言われるものです。もちろん、その無神経さは、高畑淳子の「涙」に同情して、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として彼女の気持がよくわかる」などとインタビューに答えている“街の声”も同じです。

当日、高畑淳子は、ほとんど寝てなくて憔悴していたとメディアは伝えていましたが、しかし、そのわりに、受け答えには多分に計算されたものがありました。たとえば、記者の質問に答える前、必ず「申し訳ございません。よろしくお願いします」とかなんとか謝罪のことばを入れて、へりくだった姿勢を見せる場面などがそれです。

また、一時間ずっと立ちっぱなしで会見をおこなったことについて、「誠実さの表れ」みたいな報道がありましたが、ホントに「憔悴していた」のなら、どうして座って会見をしなかったのかと思いました。会見のあと、ふらふらとよろめいて退場する場面がありましたが、もしあれが演技でなければ、よけい座って会見すればよかったのにと思いました。

結局、「涙」によって、見ている者たちは思考停止に陥り、(メディアや”街の声”のように)情緒的に受け止めることで、事件の本質が隠蔽されるのです。そして、世間的には「情状酌量の余地」をもたらし、仕事復帰のハードルが取り除かれるのです。

しかし、その一方で、被害者は、高畑淳子がメディアに出るたびに二次被害を受け、苦しむことになるのです。メディアも“街の声”もそれがまるでわかってないのではないか。

まして、「親の責任論」の是非を問う下記のような記事は、レイプ事件の二次被害をまったく理解してないトンチンカンなものと言うべきでしょう。高畑淳子が批判されるのは(批判されなければならないのは)、「親の責任論」からではないのです。

The Huffington Post
高畑淳子さんが謝罪 でも「母親叩き」に道義はあるのか?
Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
高畑淳子の長男不祥事謝罪で議論…親の責任どこまで
2016.08.31 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
高畑淳子に関して、来月から上演される芝居には予定どおり出演するけど、来年以降の活動は未定という報道がありました。これで逆に、高畑淳子に対する芸能人仲間からの同情論や、先日の会見へのメディアの好意的な見方の背景が、なんとなく見えてきたような気がします。

忘れてはならないのは、高畑裕太容疑者がやったことは非道な犯罪だということです。「強姦罪」は被害者の告訴が必要な親告罪ですが、「強姦致傷罪」は告訴が必要ない非親告罪だそうです。怪我は全治一週間の指の打撲だとか言われており、怪我自体はきわめて軽症のようです。それでも、群馬県警があえて非親告罪の「強姦致傷罪」で逮捕したのは、もちろん、加害者が有名人であったということもあるでしょうが、もうひとつは、犯罪自体が悪質だったからではないかと言われています。また、警察官が宿泊している部屋に踏み込んだら、裕太容疑者は犯行直後にもかかわらずぐっすり寝込んでいたそうで、その“ふてぶてしさ“から常習性さえ疑われているのです。

ところが、高畑淳子の会見に対しては、犯罪の悪質性などどこ吹く風で、危機管理上どうだったか、及第点をあげられるかどうかなどという話になっているのでした。そんな反応を見ると、やはり、あの会見は「商品」イメージの低下を食い止め、活動をつづけるために演出されたものだったのかと思ってしまいます。また、会見自体も、仕事関係に迷惑をかけて申し訳ないというような話が多く、二次被害に苦しむ被害者の存在は片隅に追いやられてしまったかのようです。そして、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として高畑淳子さんの気持はよくわかる」などという“街の声”が、被害者不在の会見のカラクリを覆い隠す役割を果たしているように思えてなりません。

極めつけは、会見の際、裕太容疑者の性癖について質問した、フジテレビの番組でフィールドキャスターを務めるフリーアナウンサーに対しての批判です。結局、フリーアナウンサーは謝罪するはめになったのですが、でも、あの質問は別に批判されるべきものとは思いません。性犯罪の背景(性依存症)を考えると、当然出てきておかしくない質問だと思います。

それより、高畑淳子が活動をつづけることに対して、被害者がトラウマで苦しむことになるのではないか、それをどう思っているのか、という質問がなかったことこそ批判されるべきだと思うのです。もしかしたら、フリーアナウンサーの質問は、演出された会見の空気を乱すKYなものだったので、批判されたのかもしれません。

しかも、批判の急先鋒に立っていたのが、一方で、被害者女性のプライバシーを晒すことに躍起になっているネット民であったということも忘れてはならないでしょう。ここにも、リアルとネットの共犯関係によって作り出される、「万人が万人を支配する」「デモクラチック・ファシズム」(竹中労)の構造が垣間見えるような気がしてならないのです。
2016.08.29 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
高畑裕太容疑者の母親・高畑淳子の会見を見ましたが、私は、どうしても意地の悪い見方をせざるをえませんでした。

私は、高畑敦子の会見を見て、先日の高島礼子や古くは三田佳子の会見を思い出しました。人前で涙を流すことなど女優にとっては朝飯前です。ぶっつけ本番の”涙の謝罪会見”は、文字通り女優としての腕の見せどころでしょう。女優にとって、一世一代の“大舞台”と言っていいのかもしれません。

高畑淳子は、出演する舞台の降板を否定して、「皆さんに演技を見せるのが私の贖罪と思っています」と言ってました。私は、その手前勝手な理屈の意味が理解できませんでした。

被害者は今後半永久的に忌まわしい記憶を抱え、トラウマに苦しむのです。メディアをとおして高畑淳子の名前を目にするたびに、その忌まわしい記憶がよみがえり苦しむことになるでしょう。高畑淳子はそれがわかってないのではないか。

私は、「親も同罪」「子の罪は親の罪」と言いたいのではありません。でも、性犯罪の二次被害を考えるとき、高畑裕太だけでなく、親の高畑淳子もトラウマの対象になるのは明白です。それが有名人の性犯罪が(被害者にとって)より残酷である所以です。

また、高畑淳子は、つぎのようにも言ってました。

「(面会は)もう、ほとんど覚えていないが『一生かけて謝らなければいけないよ』と。こんなことは不謹慎で言ってはいけないが、本当に申し訳ないことをしたねって言った後に、でもどんなことがあってもお母さんだから、姉はどんなことがあっても裕太のお姉ちゃんだからと言っていたように記憶しています」

Yahoo!ニュース
高畑淳子が会見 涙で謝罪「大変なことをしてしまいました」
オリコン


私は、それを見て、高畑裕太は服役して出所したあと、また同じ犯罪を犯すのではないかと思いました。

性犯罪が個人のキャラクターの問題などではなく、一種の嗜癖(依存症)であるというのは、多くの専門家が指摘しています(下記参照)。つまり、心の病気なのです。だからこそ、出所後の治療とケアが大事なのです。親として子どもの心の闇と向き合い、そのなかに分け入り、人格形成に果たした役割をもう一度辿りなおすことが肝要なのです。でないと、何度も同じ犯罪を犯すことになるでしょう。

ダ・ヴィンチニュース
なぜ性犯罪を犯すのか? なぜ繰り返すのか? 「性依存症」について考える
dot.(ドット)
性犯罪の背景に“依存症” 「性的なしらふ」にするための試みも

高畑淳子に対して「女手ひとつで一生懸命育てていた。気の毒だ」というようなコメントが芸能人仲間から出ていますが、少なくとも今回の犯罪においては、そんな同情論はなんの意味もないのです。むしろ、これらの同情論の背景には、高島礼子のときと同じように、芝居の制作会社の意向(降板させられないビジネス上の事情)がはたらいているのではないかと、そんなうがった見方をしたくなるのでした。

一方、有吉弘行と夏目三久の交際&妊娠報道では、昨日まではスクープを放った日刊スポーツ以外、どこも芸能界のドンの意向(怒り)を反映した「否定」のオンパレードで、「法的処置も検討」というような記事さえありました。

テレビが一切無視して、スポーツ新聞がいっせいに「否定」の記事を載せる。この翼賛体制こそが黒を白と言いくるめる(あるものをなきものにする)芸能界のドンの”力”なのです。テレビもスポーツ新聞もそれにひれ伏しているのでした。

ただ、スクープから2日経ち、風向きが微妙に変わりつつあるのも事実です。双方の事務所の「否定」コメントが遅すぎるとか、不自然だとかいった話が出はじめているのでした。これから徐々に「有吉が干される危機」などという、SMAP解散騒動などでも見られた”脅しの記事”が増えてくるのかもしれません。

私は、これらのニュースを見て、あらためて芸能界というのは「特殊××」(吉本隆明)なんだなと思ったのでした。
2016.08.26 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
SMAPの解散にまつわる報道は、今や完全に情報操作の段階に入っています。それこそなんでもありの状態です。それに一喜一憂するのは、みずから“衆愚”と言っているようなものでしょう。

SMAPが稼ぐ年商250億円の既得権益をできるだけ死守しようとするジャニーズ事務所と、その利権をジャニーズ事務所から奪おうとする大手プロダクションや黒い紳士たちの暗闘。そんな魑魅魍魎たちが陰に陽に跋扈して、腹にイチモツのリーク合戦をおこなっているのが、今、私たちの目の前で繰り広げられている光景です。

キムタクがどうだ、中居がどうだ、香取がどうだという話は、今年の1月の時点では多少意味があったと言えますが、解散が決定した現在、もはや情報操作の道具でしかなく、どっちに正義があるとか、どっちに真実があるとか、そんなものはほとんど意味がなくなったのです。

私は、以前『芸能人はなぜ干されるのか』の記事(下記の関連記事参照)のなかで、つぎのように書きました。記事に多くのアクセスが集まったのに伴い、思ってもみないような反響がありました。なかには本の内容を紹介した部分に対して脅しのようなメールも届きました。それで、記事をアップしたあとに、下記の部分を書き足したのでした。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。


もっともこれは、SMAPだけの話ではありません。肯定と否定が交錯している、有吉と夏目三久の交際&妊娠報道も同じでしょう。芸能界のドンの手にかかれば、黒を白と言いくるめることも可能なのです。

これらの報道であらためて思ったのは、ドレイ契約に縛られている彼ら芸能人は、どこまで行ってもただの「商品」でしかないということです。仮に移籍しても、それはドレイ契約の付け替えでしかないのです。

芸能界の魑魅魍魎たちにいいように転がされているSMAPの5人を見ていると、まるで羊飼いに引かれて行く屠られる羊のようで、憐れみと哀しささえ覚えてならないのです。しかも、それは仔羊ではなく、40すぎのおっさんなのです。キムタクの虚勢が滑稽に見えるのも、故なきことではないのです。


関連記事:
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.24 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
「SMAP12月31日解散」のニュースを見て、私は「やっぱり」と思いましたが、同じようにそう思った人も多かったのではないでしょうか。

解散に関しては、メンバーの公開謝罪やジャニー喜多川氏の否定発言にも関わらず、キムタクとほかのメンバーとの軋轢が囁かれ、噂は消えることはありませんでした。

一方、ジャニーズ事務所の意を汲んだ芸能マスコミは、バカのひとつ覚えのように、SMAP存続の翼賛記事を垂れ流すだけでした。日本の芸能界がアンタッチャブルな世界になっている要因のひとつに、芸能マスコミの存在があるのは否定できないでしょう。それは、芸能マスコミが芸能界を牛耳る大手プロダクションやテレビ局に隷属しているからです。芸能マスコミの記事だけを読めば、SMAP解散は過去の話になっていたはずです。SMAPはジャニー喜多川氏の庇護の下に戻り、修復しているはずでした。

事務所の発表によれば、メンバーは、既に来年9月までの契約を更改しており、1年間はジャニーズ事務所に籍を置きソロで活動するそうです。おそらくそのあと、キムタクを除いたほかのメンバーは、移籍や引退を選択するのでしょう。

私は、個人的にこの1年の契約にどんな意味があるのか興味があります。お礼奉公なのか、あるいは解散スキャンダルからメンバーを守る親心なのか。芸能界のオキテから言えば、お礼奉公と考えるのが常識でしょう。そうなれば、徹底的に搾取されるのは目に見えています。そして、ボロボロにされて放り出されるのではないか。

いくらとっちゃん坊やとは言え、40すぎたおっさんたちがアイドルを演じるのは、生物学的に見ても無理があるでしょう。そう考えれば、解散は自然の理だったと言えなくもないのです。でも、栄枯盛衰は世の習いで、況や芸能界においてをやです。メンバーたちにとって、これからイバラの道が待っているのは間違いないでしょう。

と、解散のニュースに対しても、このようにありきたりなことしか言えないのです。それくらい解散は、世間的には既定路線で、むしろ今更の感さえあるのでした。


関連記事:
ジャニー喜多川氏の発言の真意
SMAP解散騒動の真相
「SMAP解散」と芸能界の魑魅魍魎
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.14 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
ジャック&ベティで「FAKE」を観ました。

映画『FAKE』公式サイト
http://www.fakemovie.jp/

レイトショーで観たのですが、館内は立ち見こそ出ていなかったものの、空いている席を探すのも苦労するほど大入りでした。

騒動後の佐村河内守氏のプライベートな日常を追うなかで、作者の森達也監督が描こうとしたのは、ニセモノかホンモノかという善悪二元論の先にある佐村河内夫妻の愛と絆です。と言うと、陳腐な話のように聞こえるかもしれませんが、森達也監督は本気でそういうドキュメンタリーを撮ろうとしていたように思えてなりません。

でも、現実は残酷です。(実際は週刊文春より『新潮45』のほうが先にが書いていたようですが)週刊文春は、差別と排除の力学で仮構された市民社会に、ほれっと佐村河内守という餌を投げ入れたのです。朝鮮人が井戸に毒を入れたという噂の代わりに、佐村河内守はニセモノだ、FAKEだという噂を発信したのです。それは、ロス疑惑からずっとつづいている週刊文春の手法です。でも、何度も言いますが、文春や新潮は、石原慎太郎はニセモノだ、FAKEだという記事を絶対に書くことはないのです。安倍晋三はバカだ、ニセモノだ、FAKEだという記事を書くこともない。

映画のなかで、佐村河内氏の”ウソ”を告発し、一躍時の人となった新垣隆氏について、「ホントにいい人なのか」という問いかけがなされていましたが、もちろん「いい人」なわけがないのです。新垣隆氏も、記事を書いた神山典士氏も、インタビューの申し出に応えず逃げまわっているという事実が、この騒動の本質をよく表していると言えるでしょう。

映画では、新垣氏がファッション雑誌のグラビアに出ている画面や自著のサイン会で客として訪れた森達也監督とツーショット写真におさまる場面などで失笑が流れていましたが、でも、その失笑がみずからにもはね返っているのだという自覚が、当の観客たちにはないかのようです。

ネットや社会をおおうリゴリズム(厳格主義)。それは、かつて平野謙が『「リンチ共産党事件」の思い出』で指摘していたように、本来共産党のような唯我独尊的なイデオロギーが得意とするものでした。建前としてのリゴリズムが蔓延するというのは、それだけこの社会が全体主義化している証拠なのかもしれません。私は、まるで川崎のヤンキー少年たちのように、集団リンチをエンターテインメントとして享楽する、この社会の病理を考えないわけにはいきませんでした。

映画のパンフレットでは、「衝撃のラスト12分間」というキャッチフレーズがありましたが、そういった発想自体が既に週刊文春と同じ視点に立つものと言えるでしょう。

私は、「FAKE」は「A」などに比べて、どこかもの足りなさを感じてなりませんでした。森達也監督の著書・『ドキュメンタリーは嘘をつく』になぞらえて言えば、「FAKE」では「嘘」が透けて見えるのです。同業者たちが絶賛する”猫”や”ケーキ”への視点の移動も、私にはお定まりの(わざとらしい)手法のようにしか思えませんでした。

竹中労は、35年前(!)の文春の”ロス疑惑”の記事について、当時、「プライバシーを暴き立てて、人間一匹めちゃくちゃ」にする「私刑の季節がやってきた」と批判していました(80年代ジャーナリズム叢書4・『人間を読む』)。既にそのときから「私刑(リンチ)」ということばを使っていたのです。その本質は、万人が万人を支配する」「デモクラティック・ファシズム」だと。そして、芸能レポーターこそが「テレビの本質」であり、「マスコミとは世論に名をかりた全体主義」だと言ってました。

佐村河内守氏の”疑惑”もまた、”ロス疑惑”からつづく文春お得意の「私刑キャンペーン」にほかなりませんが、「FAKE」はそんな「デモクラティック・ファシズム」の構造を照射するような視点があまり見られないのです。それがもの足りない所以です。
2016.06.27 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
今夜の「ミュージックステーション」で、桑田佳祐がテレビ初披露と称して、新曲の「大河の一滴」を歌っていました。

「大河の一滴」というタイトルは、言うまでもなく五木寛之の本からのパクリですが、桑田の場合、タイトルのパクリはよくあることです。

「大河の一滴」は、UCCの缶コーヒーのCM曲で、映像で公開されていたのは、CMに使われている二番のサビの部分だけでした。そのため、歌詞を検索しても、二番のサビの部分しか見当たりませんでした。

ところが、「大河の一滴」はInterFMとタイアップしているらしく、InterFMで一日に何度も流れていたのです。私は、普段、家で仕事をしているときや電車に乗っているときは、RadikoでInterFMを聴いていますので(おかげでシャウラのファンになりましたが)、毎日「大河の一滴」のフルバージョンを聴くことができました。しかも、電車に乗って渋谷駅にさしかかると、不思議なことに「大河の一滴」が流れてくることが多いのでした。

砂に煙る 渋谷の駅の
アイツ(女)と出逢ったバスのロータリー
俺の車線に割り込むバスの
窓際から小バカにした微笑み投げた


これは、冒頭の歌い出しの部分です。「大河の一滴」は、若い頃の渋谷の街と愛欲の日々を追憶する歌です。最初にこの歌を聴いたとき、『33年後のなんとなく、クリスタル』かと思ったくらいです。渋谷駅でこの歌が流れてくると、かつて渋谷に日参していた人間として、(表現がいかにもおっさん風ですが)えも言われぬ感慨を覚えるのでした。

身を削りながら生きることも
忘れ去られながら老いていくのも
やさしい素振りや 愛らしい癖も
世間にとっちゃ 何の意味もない


桑田佳祐が還暦を迎えたからこそ、疾走感のある曲にこんな詩を乗せることができるのでしょう。

今月の29日に発売されるニューシングル「ヨシ子さん」(初回限定盤)に、「大河の一滴」がカップリングされるみたいなので、私もさっそく予約を入れました。

偶然と言えば、栗原康氏の伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)を読んでいたら、「あとがき」につぎのような記述がありました。

 この本をかいているあいだに、かの女ができた。三年ぶりだ。まだつきあいたてということもあって、ひたすら愛欲にふけっている。
(略)
 しかしおもえば、この数年、わたしはモテたい、恋愛がしたい、セックスがしたいと公言していて、いいなとおもう女性がいたら、がんばってお酒にさそってみたり、デートをかさねてみたりしたのだが、結果はさんざんたるものであった。「オマエ、マジで死ねだ」とさけばれたり、新宿のらんぶるという喫茶店で、土下座させられたりと、完膚なきまでにうちのめされた。


実は、「らんぶる」も、かつて私の新宿の”止まり木”でした。新宿に行くと、いつも「らんぶる」で本を読んだり昼寝をしたりしていました。

私も、女の子と「らんぶる」に行ったことはありますが、土下座なんてとんでもない、「なんか古めかしくて変な店ね」と言われながら、愛を告白した思い出があります。

渋谷の街は、東急文化会館も東急ブラザも既になく、駅ビルの建て替えもはじまり、これから高層ビルが林立する「未来都市」(ホントかよ)に変貌しようとしています。渋谷で働いていた旧知の女の子たちも、「どんどん変わっていくので付いていけない」「もうあたしたちが知っている渋谷ではなくなっている」と言ってましたが、「大河の一滴」が歌うように「時の流れは冷酷」なのです。そうやって街も人も世代交代していくのです。それが東京で生きるということなのです。

もう道玄坂の路地裏で、偽造テレフォンカードを売ってるイラン人や両腕からタトゥーを覗かしているヤンキーのニイチャンやケバい化粧のショップ店員の女の子とすれ違うこともないのです。彼らと目で挨拶を交わすこともないのです。もちろん、「らんぶる」で女の子を口説くことも、「ラケル」で向かい合って食べるオムライスにトキメキを覚えることもない。どうやって老いていけばいいのかわからないけど、でも、容赦なく老いはやってくるのです。黄昏に生きるなんて嫌だな、想像したくもないと思っているうちに、すぐ近くまで黄昏がやってきているのです。

そう考えると、この「大河の一滴」というタイトルも、単なるパクリではなく、なにか深い意味があるような気がしてくるのでした。


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2016.06.18 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
今日のスポーツ各紙は、ジャニーズ事務所の社長・ジャニー喜多川氏が、9月解散説が再び飛びはじめているSMAPについて、「解散をきっぱり否定した」という記事をいっせいに掲載していました。

日刊スポーツ
SMAP解散説否定…ジャニー社長「絶対ないです」

「僕は、命にかけても…。SMAPは、わが子と同じですから。彼らは僕に相談なしで、とかくするはず、絶対ないです。心配は、全然ないです。解散なんて冗談じゃない」


「小学校のころからやっていて、向こうも(ジャニー氏を)親と同じように思っている」(略)「彼らが僕を信じている以上に、僕も彼らを全面的に信じていますから。ピンからキリまで、うそをついていたって、何をしたって、すぐ分かっているんですよ。何かあれば、こっちに来ますよ。もともと、そんな(解散の)気持ちは毛頭ないですよ。みんな含めて」


ジャニー喜多川氏はそう言うのですが、じゃあ、騒動以来今まで沈黙していたのはどうしてなのか?、どうして今になって突然こんな発言をするのか?という疑問はぬぐえないのです。それに、SMAPとしての活動が事実上停止している現状を考えれば、今回の「親心をにじませたような」発言は矛盾しているように思えてならないのです。

ジャニー喜多川氏のこの発言は、世間に対してというよりメンバーに対しておこなったものであって、真意は別にあるように思えてなりません。私には、この発言は、あらためて、解散なんかさせないぞ、解散したら芸能界では生きていけないぞ、というメンバーに対するメッセージのようにしか思えないのです。芸能界のオキテに照らせば、そう解釈するのが自然な気がします。

そもそも今回の騒動は、SMAPにとって、去るも地獄、残るも地獄、解散も地獄だったのです。ジャニー喜多川氏の発言は、文字通りそれにトドメを刺すものと言えるのではないでしょうか。

ジャニー喜多川氏が言うように、小学生のときから芸能界に入っているメンバーたちは、40をすぎたとは言え、それこそ世間知らずのとっちゃん坊やにすぎないのです。芸能界の魑魅魍魎たちが相手では、最初からドン・キホーテになるのは目に見えていたのです。だからと言って、芸能界の外で生きることなんて、とてもできないでしょう。これからもやくざな芸能界で、蛇の生殺しのアイドル人生を生きるしかないのです。中高年になってもなお、アイドルを演じなければならないというのは、考えようによってはこれほど悲惨なことはないでしょう。


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2016.05.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
ヤクザと憲法


横浜のミニシアター・ジャックアンドベティで「ヤクザと憲法」を観ました。

「ヤクザと憲法」公式サイト
http://www.893-kenpou.com/theater/

「ヤクザと憲法」は、東海テレビが制作した番組を映画用に再編集したもので、大阪・西成区の「指定暴力団」の二次団体の実在の事務所にカメラが入り、組員たちの生の日常を追ったドキュメンタリーです。

「ヤクザと憲法」の「憲法」というのは、日本国憲法第14条のことです。それには、つぎのような条文が謳われています。

すべての国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。


しかし、1992年から施行された暴対法(改正暴力団対策法。正式には、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)と暴対法につづいて全国の自治体で制定された暴力団排除条例によって、「指定暴力団」の構成員や「指定暴力団」と一定の関係にある者に対して、”利益供与”をおこなったと看做されれば、「一般人」も罰せられることになったのでした。つまり、商行為等において、ヤクザと関わりをもつことが法律的に禁止されたのです。

映画のなかでも、銀行口座を作れないとか子どもが幼稚園に入れないとかクロネコヤマトが荷物を配達してくれないとか葬式をあげたくても葬儀場を貸してくれないとか、そんなヤクザたちの訴えをまとめたアンケート用紙を事務所の会長(組長)がスタッフに示すシーンがありますが、たしかに暴対法や暴排条例によって、「ヤクザに人権なし」という風潮(社会の空気)が醸成されたのは事実でしょう。

映画のパンフレットに書いているように、「『脅威』を排除するならちょっとくらい憲法に触れたって」(構わない)という、どこかで聞いたような考えがあるのでしょう。そのために、9条だけでなく14条もないがしろにされているのです。

映画には賭博や薬物販売を思わせるような怪しげな行動が映っていましたが、そういった犯罪行為が処罰されるのは当然です。しかし、ヤクザというだけで(その属性によって)社会生活が制限される暴対法や暴排条例が、憲法14条を逸脱した法律であるのはあきらかでしょう。でも、誰もそれを指摘しないのです。みんな、「ヤクザならしょうがない」と見て見ぬふりをするだけです。

しかも、その風潮は、ヤクザだけでなく、ヤクザの人権を守る弁護士にも容赦なく襲いかかるのです。映画では、山口組の顧問弁護士をしていた山之内幸夫弁護士にインタビューしていましたが、山之内弁護士は、のちに建造物損壊を教唆した罪で在宅起訴され、懲役刑の有罪判決を受けるのでした。建造物損壊と言っても、被害額がわずか3万円の、従来なら罰金刑で済むような”微罪”なのです。そういった目の上のタンコブの顧問弁護士に対する”締め付け”は、オウム真理教の麻原彰晃被告の主任弁護人を務めた安田好弘弁護士が、顧問をしていた不動産会社への強制執行を妨害した罪で逮捕・拘留されたケースとよく似ています。

似ていると言えば、組の事務所が家宅捜索された際、事務所のなかにいたテレビカメラに向かって、捜査員がそれこそヤクザ顔負けの恫喝をおこなうシーンがあるのですが、森達也氏がオウム真理教を内部から撮ったドキュメンタリー「A」のなかにも似たシーンがありました。それは、ドキュメンタリーにおけるカメラの位置の重要性を示す好例のように思いました。

中年のある組員は、貧乏な家庭に育ち、困っているとき誰も助けてくれなかったけど、ヤクザだけが親身になって面倒を見てくれた、それでヤクザになったと言ってました。ヤクザとは、その語源どおり社会からドロップアウトした人間たちの最後の拠り所=疑似家族なのです。

猪野健治は、『戦後水滸伝』(現代評論社・1985年刊)のなかで、雑誌連載中に「現役のある組の幹部」から届いたつぎのような手紙を紹介していました。

(略)極道には、差別されている人間、不運や不幸のカタマリみたいな人間が圧倒的に多いことはたしかで、この社会がひっくりかえらない限り極道もなくなりはしない。だからといって、極道に正義感や叛骨は期待しても、まず裏切られるのがせきのヤマでしょう。私も、グレて極道になったハナは、正義感らしいものをもっていましたが、小さなシマの小さな利権に複数の組が群がって奪いあうんですから、そんなものが通用する筈もありません。弱肉強食──アタマのきれる奴と腕のたつ奴が生き残れるだけです。
 右翼を気どっている人間もいますが、極道は極道でしかないので、私は極道の道を歩きます。その方がむいているんです。(略)


猪野健治は、同じようにドロップアウトして極道社会に身を投じた人間でも、中産階級からのドロップアウト組には「十分ではないにしても『退転』する余裕がある」が、被差別窮民出身者は、最初から小市民的な郷愁などとは無縁なので、「畳の上では死ねない」「不退転」の覚悟があると書いていました。

もっとも、最近は、猪野健治が書いていたようなケースとはかなり事情が違ってきているようです。映画に登場する若い「部屋住み」の見習い組員は、どう見ても不良上がりという感じではなく、宮崎学の『突破者』を読んでヤクザを志願したと言ってました。

先日、安保法制に反対して京大の建物の入口をバリケード封鎖したとして、中核派のメンバーが逮捕されたというニュースがありました。ひと昔前の学生運動では考えられないことですが、朝日新聞の記事によれば、京大の学生たちが「マジ迷惑」だとバリケードを撤去したのをきっかけに、中核派への摘発がおこなわれたのだそうです。

ヤクザ・過激派・カルト宗教、あるいは少年Aや在日も然りでしょう。市民社会や市民としての日常性は、そうやって異端や異論や異物をパージ(排除)することによって仮構されているのです。だから、関東大震災の際の朝鮮人虐殺のように、市民社会や市民としての日常性が危機に瀕すると、異端や異論や異物に向かって”テロルとしての日常性”が牙をむくのです。「ヤクザと憲法」は、パージ(排除)されるものの内側にカメラを据えることによって、差別と排除によって仮構された私たちの社会の構造を描き出していると言えるでしょう。

ヤクザや過激派や少年Aなどのことを取り上げると(小保方さんの件もそうですが)、「お前はヤクザや過激派を支持するのか。少年Aの犯罪を容認するのか」というおバカな”反論”が返ってくるのが常です。そうやって全体主義的な問答無用の空気が作られているのです。「ヤクザと憲法」が私たちに問うているのは、表現の問題だけにとどまらず、全体主義の対極にある自由な社会とはどんな社会なのかという根源的な問題です。それは、ヤクザや過激派をパージ(排除)することで仮構される「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)が如何にウソっぽいかということでもあります。
2016.03.07 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ベッキーは、ゲスの極み乙女。の川谷との「不倫」によって、契約していた10本のCMが打ち切られ、すべてのレギュラー番組を降板し休養を余儀なくされたのですが、売れっ子タレントとしては、あまりにも「不倫」の代償は大きかったと言えるでしょう。

たしかに、タレントとしてベッキーが売っていたイメージと「不倫」のイメージがそぐわないのは事実で、その意味ではCMが打ち切られるのは仕方ないと言えます。ベッキーのイメージを大金を出して買ったスポンサー企業が、イメージダウンに伴いシビアな判断を下すのは当然でしょう。

ただ、一方で、「不倫」=”ふしだらな行為”として、これでもかと言わんばかりにベッキーを指弾する”お茶の間”の論理には違和感を覚えざるをえません。ネット民たちが、リア充のベッキーに悪罵を浴びせるのはわからないでもありません。ヤフコメなどに見られるように、彼らはネットで人生を勘違いさせられた”ネット廃人”のようなもので、いつもそうやってネットの最底辺で身も蓋もないことをぼざくしか能がないのです。でも、リアル社会で生きる”お茶の間”の人間たちはそうではないでしょう。”ネット廃人”に同調してどうするんだと言いたいのです。

みんな胸に手を当てて考えてみるべきなのです。ホントに「不倫」をしたことがないのか。「不倫」したいと思ったことがないのかと。

コンドームメーカーの相模ゴム工業が働く女性350人を対象に行った調査によれば、なんと58%が「不倫」の経験があるそうです。昔、総理府だかがおこなった調査で、「既婚の有職女性」で「婚外性交渉」の経験がある人が、50%以上もいるというショッキングな結果が発表されて話題になったことがありましたが、相模ゴム工業の調査結果も、その実態を裏付けていると言えるでしょう。もはや、男と女の関係を「不倫」かどうかで分けて考えること自体がナンセンスなのかもしれません。

ましてベッキーは容姿端麗な芸能人なのです。しかも、(いつも言うように)普通のお嬢さまにはできない芸能界という”特殊××”で生きる人間なのです。カタギではないのです。竹中労ではないですが、”芸能の論理”は市民社会の公序良俗とは対極にあるものです。「不倫」だってなんだってあるでしょう。

自分はせっせとセックスをしていながら他人のセックスを”悪”のように指弾するのは、どう考えても倒錯した論理と言うしかありません。ベッキーがテレビに出ただけで抗議の電話をするのは、もはや病理の世界と言うべきでしょう。

どうしてベッキーが指弾されるのか。それは、ベッキーが”ふしだらな女”だからです。でも、みんなセックスをするときは”ふしだら”なのです。”婚内”であれ”婚外”であれ、永遠の恋であれ行きずりの恋であれ、みんな”ふしだら”なのです。にもかかわらず、なぜか女性だけが”ふしだら”として指弾されるのです。

”ネット廃人”たちの負の感情は言わずもがなですが、”ネット廃人”たちに同調し、もはやほとんど意味をなさない「不倫」のモラルを掲げてベッキーを指弾する”お茶の間”の論理も、同じように唾棄すべき対象でしかありません。
2016.02.08 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ちょっと前の話ですが、フジテレビの「とくダネ!」で、横浜のマンションの杭打ちデータ改ざん問題が取り上げられた際、なぜか最初に中国でマンションが倒壊した映像が流れたのです。そして、そのあとに横浜のマンションが傾いた問題を伝えたのでした。私はたまたま「どくダネ!」を見ていたのですが、不自然な感じがしてなりませんでした。要するに、(横浜のマンション傾斜問題は)「中国よりまだましだ」と言いたかったみたいで、冒頭の映像はそのための印象操作だったのです。それに対して司会の小倉智昭は、「中国よりましとは言っても、これはこれで大きな問題でしょう」と言ってました。

こういうところに、フジテレビの体質が如実に出ているように思います。韓流番組ばかり垂れ流しているとしてネトウヨたちの標的になり、デモまで起こされたので、フジテレビは”親韓”=”反日”のようなイメージがありますが、もともとはネトウヨまがいのヘイトな「愛国」主義を信奉するフジサンケイグループのテレビ局なのです。ネトウヨの反感を買ったのも、おれたちの味方のはずが裏切りやがってという気持があったからでしょう。

情報番組やニュースにおいても、まるでそれが役目であるかのように、ヘイトな印象操作をおこなうのがフジテレビの特徴です。フジテレビが視聴率で苦戦しているのも、最近特にそういった牽強付会さが鼻につくようになっているからではないでしょうか。視聴者は敏感なのです。「なにか変」「どこか古い」「ちょっとズレている」という”微妙な感覚”は侮れないのです。でも、それはフジサンケイグループである限り、逃れることのできない宿痾のようなものでしょう。

そんなフジテレビですが、先週から放送されている”月9ドラマ”「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(脚本・坂元裕二)は、久々に面白いドラマでした。まだ2回しか放送されていませんが、特に今週、舞台を東京に移してからは、ドラマの内容がより濃いものになったように思います。脚本の質の高さなのでしょう、主人公をとりまく人間たちも、彼らが働くブラックな職場も、とてもリアル感がありました。東京で生きる地方出身の若者たちの等身大の日常がよく描かれているように思いました。いい映画と同じで、ドラマのなかのディテールがすぐれているのです。私のような”元若者”でも引き込まれるところがありますので、同時代的に生きる若者たちは共感する部分が多いのではないでしょうか。

有村架純や高良健吾や高畑充希らのキャスティングもよかったように思います。なんの役をやっても同じ演技しかできないキムタクと比べれば、プロとアマほどの違いがあるでしょう。私は、彼らが演じる登場人物に、昔、親しくしていた取引先の会社で働いていた若者たちを重ねて見ていました。

その会社では、毎年、東北と九州から10名前後の高卒の若者を採用していて、その3分の2は女の子でした。彼女たちは、やがて東京の生活に慣れると、お決まりのように恋をして、そして、多くは失恋し、会社を辞めて田舎に帰ったり、転職したりと、”波乱万丈の人生”を送ることになるのです。彼女たちは、それぞれ夢を掴むために東京に来たのでしょうが、もちろん夢を掴むことなんかできません。今夜の第二話に出てきた「東京は夢を叶えるための場所じゃないよ。東京は夢が叶わなかったことに気づかずにいられる場所だよ」というセリフはとてもよくわかるのでした。ちなみに、その会社も10年近く前から新卒の採用をやめて、派遣やアルバイトを使うようになっています。

フジテレビの現場には、まだこういうドラマを創る感性が残っているのです。それだけにもったいないなと思います。
2016.01.26 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
いつもリテラの記事ばかり引用して気が引けますが、それは、事務所サイドに立って芸能界の魑魅魍魎たちの情報操作の片棒を担ぐ、スポニチをはじめとするスポーツ紙やテレビのワイドショーなどよりリテラの記事のほうがはるかに真相に迫っていると思うからです。

リテラの最新記事(SMAPは昨日死んだ! そして裏切り者はやっぱりキムタクだった! メリー氏が自ら“木村家にお呼ばれ”を告白)に、つぎのような箇所がありました。今回の騒動は、私たちが抱いていた当初のイメージと違っていたようです。

(略)そもそもSMAPを解散の危機に追いやったのは、飯島三智マネージャーでも中居ら4人でもなく、木村とメリー喜多川副社長のほうだろう。
 
 改めて解説しておくが、今回の独立劇は、いま報道されているように飯島氏が「密かに独立を画策した」というような話ではない。昨年1月、メリー氏が「週刊文春」(文藝春秋)のインタビューに応じた際、飯島氏を呼びつけ、「SMAPを連れて出て行け」と面罵したことが始まりだった。
 
 そこで、飯島氏が独立を考えざるをえなくなり、会社側と正式に交渉。昨年8月時点で飯島氏とともに5人そろって円満独立することになっていた。ジャニーズ事務所側も双方納得のうえ、移籍先もバーニング系のケイダッシュと決まっており、権利関係の配分など、弁護士を立てて細かい条件を詰めている段階だった。

 「SMAP」というグループ名についても、独立したらジャニーズの許可がなければ使えないのに、中居らはそんなこともわかっていなかったなどと盛んに報じられていたが、使えるようにするということで話はついていた。

 キムタクは一貫してジャニーズ残留でブレていないなどと報じられているが、この時点ではキムタクははっきりと意志は表明していなかったものの、独立を前提としたキムタク関連作品の権利配分についても話し合いがなされていた。


ところが、12月になり、突然、キムタクが残留を言い出したのだとか。そして、今日の経緯に至ったのです。

まあ、ゲイダッシュに移籍しても”奴隷契約”から逃れることはできないのですが、なんだかサラリーマンの転職や独立にまつわる人間模様と似てなくもありません。

結局、飯島氏は芸能界から追放、メンバーはジャニーズ事務所に残留ということになったのですが、はたしてこのままスムーズに元の鞘に収まるのか。金の成る木を逃したバーニングがこのまま黙って引き下がるのか。

今回の騒動では、安倍首相が国会でSMAP解散回避を歓迎する答弁をしたという痴呆的なオチまで付いていますが(そう安倍首相に質問した民主党・斎藤嘉隆議員のゴマすりにも目をおおいたくなりますが)、まだひと波乱もふた波乱もありそうな気がします。

2016.01.19 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
私は、昨夜のフジテレビ「SMAP×SMAP」は見てないのですが、どうやらキムタクを除く4人がジャニーズ事務所に詫びを入れ、解散を回避する結論になったみたいです。シナリオどおりと言えますが、これほど「怖い、怖い、芸能界」を象徴する光景はないでしょう。

まるで文化大革命のときの“反動分子“さながらに、公衆の面前で”自己批判”させられた4人は、今さらながらに芸能界におけるジャニーズ事務所の威力を見せつけられ、恐れ戦いたのではないでしょうか。「やっぱり5人が揃った姿を見たかった」「解散が回避されてよかった」と喜ぶSMAPファンはどこまでアホなんだと思います。

昨夜の”謝罪”は、自分たちの冠番組のなかで生中継するなど前代未聞の出来事でしたが、本来なら記者会見するのが筋でしょう。リテラが言うように、ほかのテレビ局が怒ってもおかしくないのです。でも、どこも批判しない。それは、ジャニーズ帝国のタブーがあるからにほかなりません。

リテラ
飯島マネージャーをひとり悪者にしてSMAP存続、独立撤回! 中居たちもキムタク同様、裏切り者になるのか

リテラが書いているように、これでキムタクを除く4人もジャニーズ事務所の庇護の下に戻るので、彼らに対する報道も再びタブーになり、ジャニーズ帝国のタブーが及ばない人物はひとりだけになったのです。言うまでもなくそれは、今月末でジャニーズ事務所を退社する飯島氏です。シナリオどおり、これから飯島氏ひとりを悪者にした幕引きがおこなわれるのでしょう。

中居らは飯島氏を見捨てるのか。それでいいのか、とリテラは書いていましたが、彼らの義憤はどうなったのかと思います。

考えてみれば、SMAPのメンバーは既に40すぎのおっさんです。そんなおっさんたちが”少年”を演じているのです。10代の初めから芸能界に入りアイドルを演じてきた彼らは、私たちが想像もできないくらい幼く世間知らずなのかもしれません。そう考えれば、最初から芸能界の魑魅魍魎の相手ではなかった。彼らがドン・キ・ホーテになるのは運命付けられていたように思います。

それにしても、私たちは、今回の騒動で、あらためて芸能マスコミのていたらくを見せつけられた気がします。それは、独立した芸能人が干されるタブーだけではありません。故・北公次が『光GENJIへ』(1988年・データハウス)で暴露したようなジャニーズ事務所の”暗部”に対するタブーが、一般紙も含めたマスコミ全体をおおっていることがよくわかりました。本来なら”少年愛”を裏コンセプトとするようなジャニーズ事務所の体質が指摘されてもおかしくないのです。『光GENJIへ』で告白されていた、つぎのような北公次少年とジャニー喜多川氏とのセックスシーンが、今回のスキャンダリズムなき報道の白々しさをよく表わしていると言えるでしょう。

・・・と思ったけど、あまりにも生々しくおぞましいので割愛します。(興味のある方はネットでググッてみてください)

SMAPファンもアホだけど、ジャニーズの横暴を批判できないマスコミもそれに負けず劣らずアホなのです。
2016.01.19 Tue l 芸能・スポーツ l top ▲
昔、仕事先でスマップをスナップと言って、女の子たちに大笑いされた苦い経験がある私ですが、「SMAP解散」のニュースにはびっくりしました。

ところが、日が経つにつれ、芸能マスコミの報道も風向きが変わりつつあります。マネージャーの飯島三智氏がこのまま芸能界を去ってしまう可能性が高く、そのため飯島氏の後ろ盾を失うメンバー4人が、ジャニーズ事務所を退社することを後悔しはじめたというような記事が出はじめているのです。

きわめつけが今日のヤフトピ(Yahoo!トピックス)に出ていた、中居正広が「SMAPをやめたくない」と親しい人たちに後悔のメールを送っていたというスポニチの記事です。

Yahoo!ニュース
中居正広「SMAPやめたくない」親しい友人らに“後悔メール”(スポニチ)

一連の報道のなかでスポニチの“御用新聞ぶり“が際立っていますが、この記事もジャニーズ事務所や“芸能界のドン“など魑魅魍魎たちの意を汲んだもので、そうなるぞという半分“脅し“みたいなものでしょう。そのうち4人を「そそのかした」飯島氏のバッシングもはじまるはずです。

どうして芸能人が独立すると干されるのか。その芸能界のやくざなオキテが、今回も4人に対する圧力に使われているのです。そして、テレビ局や芸能マスコミがその圧力の片棒を担いでいるのです。スポニチをはじめとするスポーツ新聞も、テレビのワイドショーも、芸能界のやくざなオキテに対してはみんな見て見ぬふりです。誰もおかしいとは言わないのです。プロダクションが独立した芸能人を干すことを画策しても、テレビ局や芸能マスコミなどがそれに協力しなければ、やくざなオキテなど絵に描いた餅にすぎません。テレビ局や芸能マスコミが芸能界の魑魅魍魎に協力するから、やくざなオキテがまかりとおるのです。

リテラが書いているように、むしろ裏切ったのはキムタクのほうで、彼の行動の背後に、芸能界の魑魅魍魎たちの意図が隠されているのはあきらかでしょう。

リテラ
SMAP解散で「新潮」が暴いていた真相! 飯島マネはメリー氏によるパワハラ解雇、裏切ったのはキムタクだった

飯島氏が退社するいきさつにしても、あまりにも理不尽な気がします。キムタクを除く4人の決断には、そんな理不尽さに対する義憤の念もあったのではないでしょうか。

とは言え、今回の騒動が向かう道筋は、既に上記のスポニチの記事で示されているのです。4人が芸能界に残るのなら、詫びを入れてジャニーズ事務所に残るか、ジャニーズ事務所や”芸能界のドン”の息がかかった第三者のプロダクションに移籍するか、どっちしかないでしょう、芸能界では、独立は”足抜け”を意味するのです。”足抜け”に失敗した遊女が遊郭の主から制裁を受けるのと同じように、オキテ破りの飯島氏が芸能界から追放されるのは当然でしょう。年間250億円を売り上げるSMAPが独立なんて許されるはずがないのです。

怖い、怖い、芸能界。今、私たちが見ているのは、”奴隷契約”の存続を目論む芸能界の魑魅魍魎たちが、芸能マスコミを使って4人に圧力をかけている(文字通り謀反を起こした4人を締め上げている)光景なのです。そんな4人に「解散しないで」「元に戻って」と言うのは、それこそ芸能界の魑魅魍魎たちの思うつぼと言えるでしょう。


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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.01.15 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
今夜、テレビ朝日の「甦る歌謡曲」という番組で、天童よしみが美空ひばりのすごさを語っていました。天童よしみによれば、美空ひばりがすごいのは、低い音から高音へ「しゃくる」ことがなく、最初から高音で歌いはじめるところだそうです。その代表曲が「哀愁波止場」なのだと。

もちろん、私たちにとって、美空ひばりは物心ついたときから”過去の人”でした。私たちが最初に買ったレコードは、ビートルズやローリングストーンズなどで、美空ひばりのレコードを買うなどもはや考えられませんでした。

私は、さっそくYouTubeで「哀愁波止場」を聴いてみました。「哀愁波止場」は、船乗りの愛しい人を待つ女心を唄った歌です。それは、「三月待っても逢うのは一夜」のようなせつない関係です。愛しい人が好んで口ずさんでいたのは、「五木の子守唄」でした。

YouTube
哀愁波止場

高音の裏声で描かれる夜の波止場の情景。それは美空ひばりでなければ描けない世界です。そして、私たちはいっきにその歌の世界に引き込まれていくのでした。

竹中労は、評伝『美空ひばり』(朝日文庫)のなかで、つぎのように書いています。

(略)真に民衆的なるものを戦後史に問うなら、とうぜん我々はページをくりなおさねばならない。そう、「屋根なし市場」から、美空ひばりが民衆とともに歌でひらいた廃墟の一ページを、起点とすることから始めなくてはならぬのである。(略)
 ゲテモノと嘲られ、ものまねと蔑まれながら、『悲しき口笛』『私は街の子』『越後獅子の唄』と、ひばりのうた声は庶民大衆の心の琴線に共鳴して、『リンゴ追分』のせつせつたる絶唱を生み、『哀愁出船』『哀愁波止場』戦後歌謡曲の最高峰へと昇華していくのである。彼女をささえたのは民衆の惜しみない拍手、それ以外になかった。


そこには、今の”邦楽コンテンツ”とはまるで違う、文字通り大衆音楽としての歌謡曲のありし日の姿があるのです。美空ひばりの高音域には、今のデジタル技術では捉えられない大衆の情感が表現されているのです。

でも、もう大衆はいないのです。プロレタリアもいない。竹中労は、60年安保のあと、「党派の神話」に決別してアナーキズムに「回心」する当時の心境について、「哀愁波止場から太平天国へ」という言い方をしていましたが、もちろん左翼もいないのです。右翼もいない。あるのは、コンテンツとして消費される「護憲ビジネス」や「愛国ビジネス」だけです。


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ものみな”選挙の宣伝”で終わる
2016.01.07 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
昨日、吉田栄作と平子理沙の離婚のニュースがありました。

僭越ながら(!)私は若い頃、吉田栄作に似ていると言われたことがありました。しかし、実際はまったく似ていなかったのです。似ていたのは髪型だけだったということがわかったのです。

というのも、もう10年近く前の話ですが、私は、吉田栄作氏に会ったことがあるからです。しかも、一緒に焼き鳥屋で酒を飲んだことがあるのです。

私の友人が家が近いということで彼と知り合いで、よく飲みに行ってました。それで、たまたま私が友人を訪ねた際、吉田氏と飲みに行く約束をしていたそうで、一緒に出かけたのでした。

実際の吉田氏は文字通り好漢(ナイスガイ)の一語に尽きる人物でした。礼儀正しく言葉遣いも丁寧で、私たちの仕事の話にも熱心に耳を傾けていました。芸能人にありがちな独りよがり・不躾・尊大なところはいっさいありませんでした。

芸能マスコミの手にかかれば、離婚は犯罪みたいな扱いになりますが、人生いろいろです。離婚もまた人生の選択なのです。

彼は、現在も俳優として高い評価を得ていますが、今後ますます俳優としての地位を高めていくのではないでしょうか。芸能界というのは不思議なところなので、この離婚をきっかけにさらにブレイクするような気がします。


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人生の絶対量
2015.12.23 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
先日の『山口百恵は菩薩である』の記事を書いたあと、ずっとスマホに中森明菜の歌を入れて聴いているのですが、あらためて中森明菜のすごさを実感しています。

最初はレコード会社のキャッチフレーズで「歌姫」と呼ばれていたのですが、やがてそんなレコード会社のよこしまな思惑を越えて、中森明菜は正真正銘の「歌姫」になったのでした。

私が好きなのは、加藤登紀子作詞作曲の「難破船」です。これほど中森明菜の才能を感じさせられる歌はありません。「スローモーション」や「セカンド・ラブ」もすごいけど、「難破船」は文字通り「歌姫」と呼ぶにふさわしい歌だと思います。

それは、加藤登紀子の歌と比べてみると一目瞭然です。同じ「難破船」でも、その描く世界はまるで違うものになっているのです。なにより歌の深さが違います。ことばに陰影があり、聴く者の胸に激しくせまってくるのです。そこに中森明菜の才能があるのだと思います。

若い人にはわからないかもしれませんが、年をとってみずからの人生をふり返ると、中森明菜が「難破船」で歌いあげるような世界は、たしかに私たちのなかにもあるのです。私たちはそのなかで、人知れず生きるかなしみに涙するのです。恋は、メタファにすぎません。中森明菜が「難破船」で描いた世界は、藤枝静男や大庭みな子の小説の世界にも通じるものがあるように思います。

昨夜、夢のなかに亡くなった母親が出てきて、今日は一日中しんみりした気持になったのですが、そんなときはよけい中森明菜の歌が心に染み入るのでした。

平岡正明が言うように、感情をもつことは絶対的に正しいのです。私たちが生きているのは、国家のためでも社会のためでもなく、ほかならぬ私自身のためです。私的な感情がすべてであり、私的な感情から生まれたことばを紡いで私たちは自分を表現し、そして日々生きているのです。中森明菜が描く世界は、そんな私たちのなかにある絶対的な世界に隣接しているのだと思います。

中森明菜が気が強くて感情の起伏が激しく、完全主義者でわがままなのは有名な話です。恋人でもあったマネジャーにも、なにか気に食わないことがあると灰皿を投げつけていたそうです。その感情の起伏の激しさが、自殺未遂を起こしたりするのですが、一方でそれが彼女を「歌姫」にしたとも言えるのです。

中森明菜が本格的にカンバックできないのは、事務所のマネジーメントの弱さだけでなく、彼女の性格も災いしているように思えてなりません。たしかに、「歌姫」の名声をパチンコメーカーに安売りしている今の姿は見るに忍びないものがありますが、でも、彼女が戦後歌謡史に残る「歌姫」であることには変わりはないのです。山口百恵に負けないくらいの「歌姫」の神話を作っているのは、否定すべくもない事実でしょう。

YouTube
難破船 中森明菜
2015.11.16 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
噂の真相1996年11月号表紙


リテラが、川島なお美死去に関連して、彼女と渡辺淳一の密会をスクープした19年前の『噂の真相』の記事(1996年11月号)を取り上げていましたが、私もなんだかなつかしい気持になり、押し入れの奥から古い『噂の真相』を引っ張り出しました。

リテラ
川島なお美と渡辺淳一の密会をスクープ、「噂の真相」岡留編集長が語る女優・川島なお美の美学と肝っ玉

言うまでもなく渡辺淳一は、ベストセラー作家で「文壇」の大御所でした。週刊新潮や週刊文春も彼のスキャンダルを書くことは絶対のタブーでした。それは、亡くなった今も変わりません。

そんななかで、「タブーなき反権力スキャンダリズム」を標榜する『噂の真相』は、再三にわたって、小説を地でいくような渡辺淳一の女性スキャンダルを記事にしていました。

たとえば、2001年1月号の「体験的告白エッセイでも隠し続けた渡辺淳一の知られざる秘密を剥ぐ!」という記事では、みずから華麗なる(?)女性遍歴を綴った”告白エッセイ”『マイ センチメンタルジャーニー』でも触れていない隠し子の存在について書いていました。

その記事のなかに、つぎのような箇所があります。

 なにしろ渡辺の女優好きは有名な話で、86年に映画化された『化身』のヒロインに当時宝塚を退団したばかりの黒木瞳を抜擢し、関係を持ったのをはじめ、『別れぬ理由』の主役を三田佳子が演じれば今度は三田と、自作が映画化・テレビドラマ化される度に渡辺は必ず出演女優に手を出してきたからである。
(略)
 そのうえ、こんな話もある。ある関係者が渡辺の渋谷の事務所に行った時のこと。渡辺はさまざな女優とのツーショット写真が収められたアルバムを取りだすと、その関係者にこう自慢したというのだ。「ここに写っている女優とは全員やった」と(笑)。
 そして関係者が記憶している限りで名前を挙げると、そこにあったのはこんな顔触れであった。
 ×××××、××××、××××、××××、××××、××××、××××、×××、××××、 そしてもちろん、川島なお美・・・。 (※伏字は引用者の判断)  
 亡き大物女優からフェロモン女優まで、まさに錚々たる面々なのだ。
 なかでもこの女優との「関係」だけでもう一つの『マイ センチメンタルジャーニー』となり得るのが、やはり川島なお美だろう。
 いまさら言うまでもなく、本誌が3度にわたってふたりの「北海道密会旅行」をスクープしたように、渡辺と川島なお美が『失楽園』のヒロイン役をめぐって96年暮れに知り合って以来、少なくとも昨年初めごろまで愛人関係にあったのは紛れもない事実。
 主演女優の座という「利益」のために近づいてきた川島なお美に対し、まんまと引っ掛かり、逆に夢中になってしまった渡辺の「老いらくの恋」──。

『噂の真相』2001年1月号
体験的告白エッセイでも隠し続けた渡辺淳一の知られざる秘密を剥ぐ!


そして、そのスクープ記事のひとつが、リテラが取り上げている1996年11月号の「女優川島なお美との密会劇に見る渡辺淳一文学と好色志向との狭間」です。

私は、渡辺淳一の小説は読んだことはありませんし、「失楽園」にもまったく興味はなく、川島なお美が主演したテレビドラマも、黒木瞳が主演した映画も、どちらも見ていません。当時、私も世間様から指弾されるような道ならぬ恋のまっただ中にありましたが、しかし、「失楽園」なんてバカバカしいと思っていました。

だから、私は、失礼な話ですが、川島なお美を女優として見ることができないのです。私にとって、川島なお美は、ワインのイベントに、お約束のように愛犬を抱いて出てくるあのイメージしかないのです。リテラのように、「女優として生き、最後まで女優をまっとうした」という言い方も、正直言ってピンとこないのです。

渡辺淳一に関しては、現在、某有名男優の奥さんになっている若手の人気女優(当時)が、やはりドラマの主役の座を射止めるために、原作者の渡辺と懇ろになったという知る人ぞ知る話もありますが、このように女優(タレント)というのは、村西とおるが言うように、普通のお嬢さまにはできないやくさなお仕事なのです。それが吉本隆明が言う「特殊××」の住人である所以です。

モデルをしていた知り合いの女の子の話では、ショーのあとカメラマンやプロデューサーから別室に呼ばれ、「グラビアに出る気はない?」「悪いようにはしないよ」と言って、手を握られたり太股を撫でられたりするのはしょっちゅうだったそうです。また地方に行くと、当然のようにホテルの部屋に電話がかかってきたり、部屋のドアをノックされたりするのだそうです。そのことを事務所の女社長に告げたら、「アナタだって子どもじゃないんでしょ」と言われたのだとか。

カタギの社会で言えば、「枕営業」や「セクハラ」が当たり前のこととして存在する世界、それが芸能界なのです。そういう世界でめげずにやっていくには、よほど強靭な精神力がなければやっていけないでしょう。文字通り「肝が据わって」いなければ生き抜いていけないのです。

川島なお美も、したかかにたくましく芸能界を生き抜き、そして病魔に倒れたのです。文字通り”女優魂”ならぬ”芸能人魂”を体現したひとりだったと言えるでしょう。ことばの真正な意味において、芸能人というのはやくざなのです。彼らは、市民社会の公序良俗からドロップアウトした(せざるをえない)人間たちなのです。それは差別ではありません。それが芸能人(芸能の民)の本質なのです。


噂の真相1996年11月号グラビア

噂の真相1996年11月号記事


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酒井法子復帰と芸能界
2015.10.02 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
テレビで川島なお美の激やせした姿を見たときはびっくりしました。もっとも、肝内胆管ガンの場合、手術の場所によっては、消化器の機能が一時的に失われるので、それが回復するまでは激やせすることもあるそうです。ただ一方で、肝内胆管ガンが他のガンに比べて、予後がきわめて悪い病気であるのもたしかなようです。

そして、案の定と言うべきか、テレビ出演から数日後、公演中のミュージカルと11月から公演が予定されている次回のミュージカルも併せて降板することが発表されたのでした。

川島なお美と言えば、ワイン好きで有名で、ボジョレヌーボーの解禁日のイベントなどに、ミニチュアダックスフントの愛犬を連れて出てくるお約束の人物でした。また、青学出身ということもあって、『なんとなく、クリスタル』の登場人物とオーバーラップするところもあり、そのためか田中康夫とセットでよく出ていた時期もありました。

昔は、ちょっと生意気で高慢ちきなイメージがありましたが、その激やせした姿からはそんなイメージは微塵も伺えず、川島なお美らしさもすっかり消えていました。

今や二人に一人がガンに罹る時代で、早期発見であればガンは怖い病気ではないと言われますが、しかし、そうは言っても、ガンが死を連想する病気であることには変わりはないのです。そんな病気と向き合わねばならない苦悩たるや、私たちの想像を越えるものがあるはずです。

また、今日のワイドショーでは、北斗晶がみずからのブログで、乳ガンを告白したというニュースが大きく扱われていました。報道によれば、北斗晶の場合、ガンの進行が速いらしく、既に脇の下のリンパ節に浸潤(転移)しているそうです。

余談ですが、私は、北斗晶と佐々木健介がまだ結婚する前、原宿の知り合いの店で二人に会ったことがあります。プロレスファンの店のオーナーと顔見知りだったみたいで、私が店で油を売っていたら二人がふらりとやってきたのでした。オーナーから「健介さんにサインをもらったら?」と言われましたが、私はプロレスにまったく興味がなかったので、失礼にも「いいです」と断ったことを覚えています。そのときの二人の印象は、今、テレビで見る印象とまったく同じでした。

昔、入院していたとき、同じ病院に筋ジストロフィーの病棟がありました。当時は、今と違って筋ジストロフィーは不治の病と言われ、患者の多くは20歳前後で亡くなっていました。それでも、子どもたちは”院内学級”で、文字を覚え、計算の仕方を覚え、歌を歌い、絵を描いて、普通の子どもたちと同じように勉強していました。

筋ジフトロフィーの小児病棟を担当するドクターは、「もしかしたら明日になったら画期的な治療法が見つかるかもしれないのです。みんなそう思って治療に当たっているのですよ」と言ってました。私は、それを聞いて、「絶像の虚妄なること亦希望に同じ」という魯迅のことばを思い出したのでした。

決して気休めではなく、絶望の先にも希望はあるのです。

追記:
この記事をアップして1時間半後、川島なお美が亡くなったというニュースが流れました。
2015.09.24 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
今日の早朝5時から放送されたフジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」を見ていたら、「批評対談」と称して、今年5月にFIFAの理事に選出された田嶋幸三日本サッカー協会副会長と、サッカーファンでもあるライターの速水健朗氏が対談していました。

日本サッカーの現状について、田嶋氏は、女子は「この4年間で成熟している」、男子は「本来日本がめざしていたものを具現化しつつある」「国際標準に近づいている」と自画自賛していました。私たちの目には、女子も男子も、世代交代に失敗しているようにしか見えませんが、JFA内部の評価はまったく違うようです。

ハリル監督についても、「個人のレベルが上がってきているなかに、優秀な監督がきて、ワクワク感がもてる」と言ってました。アギーレ招聘の責任などどこ吹く風とばかりにこれまた自画自賛していました。

また、会長選挙で、JFAがブラッター氏を支持した理由についても、田嶋氏は、「噂だけで判断したくなかった」「(ブラッター支持は)AFC(アジアサッカー連盟)の決議があったから」と弁解していました。

一方、田嶋氏に対する速水健朗氏の質問は、突っ込みどころ満載であるにも関わらず、あっけないほど当たり障りのないものに終始していました。これでは、協会批判を封印する翼賛的なサッカージャーナリズムとなんら変わらないのです。

挙句の果てには、FIFAの混乱に乗じて、ワールドカップの開催地を(2018年のロシアや2022年のカタールから)日本に変更できるチャンスがあるのではないかと、如何にも日本らしい火事場泥棒的な願望まで披歴するあり様でした。

たしかに、速水氏の発言は、この国の平均的なサッカーファンの声を代弁していると言えるでしょう。でも、それだったら別に速水氏でなくてもいいのです。

ここにも、権威や権力にからきし弱い(と言うより、阿ることに達者な)「ゼロ年代の批評家」たちの特徴がよく出ているように思います。彼らは、そんな”世間知”だけは長けているのです。もちろん、彼らのロールモデルが、東浩紀であるのは言うまでもないでしょう。東浩紀は、東日本大震災の際、「ひとつになろうニッポン」を称賛し、日本人は、自分たちの「公共的で愛国的な人格」に目覚め、「日本人であることを誇りに感じ始めている。自分たちの国家と政府を支えたいと感じている。」と言い、批評の世界における”テレビ東京的慰撫史観”の先鞭をつけたのでした(For a change, Proud to be Japanese : original version)。

日本のサッカーが停滞しているのはあきらかでしょう。でも、JFAやサッカーファンたちは、その事実すら認めようとしないのです。

対談のなかで、渡辺和洋アナウンサーが指摘していたように、男子のU-20に至っては、2011年以降ずっとアジア予選で敗退しているのです。それでも、田嶋氏は、「若手は確実に育っている」と強弁するのでした。柴崎岳しても、武藤嘉紀にしても、とても世界で通用するとは思えません。しかし、そんなことを言おうものなら、サッカーファンたちから「反日」だと袋叩きに遭うのがオチです。速水健朗氏もまた、そんなネトウヨ化したサッカーファンのひとりにすぎず、批評の欠片さえないのでした。

「ゼロ年代の批評家」たちはスカだった、と言った人がいましたが、私は、あらためてそのことばを想起せざるを得ませんでした。
2015.06.13 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
このブログももう10年書いています。光陰矢の如しとはよく言ったもので、時間の経つのははやいものです。10年経ったということは、10才年をとったということです。昔、黒柳徹子だったかが、若い頃は各駅停車の鈍行列車に乗っている感じだったけど、年をとると、急行になり特急になってどんどんはやくなっていく、と言ってましたが、とりわけ黄昏時は時間の経つのがはやく感じるものです。

この10年、なにをしていたんだろうと思います。馬齢を重ねるという言い方がありますが、ただ徒に年をとっただけのような気がして暗澹たる気持になります。

テレビを見てたら、「キラリ!元気人」とか言う青汁のCMに、女優の叶和貴子が出ていました。叶和貴子も既に50代後半になり、すっかり年老いていました。なんでも30代の半ばにリウマチを発病して、以後20年間、芸能界から遠ざかり闘病生活を送っていたそうです。

そう言えば以前も、病気で歩くのもままならず外出も控えていたけど、仔犬を飼いはじめて散歩に出かけるようになり、「元気になったのもこの子のおかげです」と言って膝に乗せたマルチーズだかを撫でているCMがありましたが、あれも青汁のCMだったのか。また、そのCMでは、たまたま通りかかった靴屋で、オーダーメイドの靴を作ったら歩くのが楽になったとかいうエピソードも紹介していました。

現在は、みずからの病気をネタに講演活動をしているようなので、病気をしたのはたしかだとしても、いくらか脚色している部分もあるのかもしれません。芸能人はタダでは起きないのです。

所詮は青汁のCMと言えばそうなのですが、でも、そうはわかっていても、「キラリ!元気人」に出ている叶和貴子に、私はどこかもの哀しさのようなものを感じてならないのです。叶和貴子は結婚もしてないようです。じゃあ、芸能界から遠ざかっていた20年間、どうやって生活していたんだろう?、なんて無粋なことはここでは考えないことにします。

若い頃、誰もが羨むほどの美貌を誇っていた女性が、病気をして悩み苦しみ、そして、人知れず年老いて行く。私は、そこに”孤独”や”生きる哀しみ”を見た気がしたのでした。なんのことはない、中高年向けの青汁のCMにまんまとはまった自分がいたのでした。

年老いていくことは哀しいことなのか。このブログで、たまたま目に付いた「歩いても 歩いても」という映画の感想を書いた記事を読み返していたら、否応なく年老いた自分を感じさせられ、しみじみとした気持になりました。「歩いても 歩いても」を投稿した当時、私はどっちかと言えば、まだ年老いた親を視る子供の立場でした。でも、親もいなくなった今、そのあとには、叶和貴子と同じようにすっかり年老いた自分がいるのです。まるで取り残されたかのように、ひとりぽつんと立っているのです。やはり、この10年は短いようで長いのでした。

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「歩いても 歩いても」
2015.05.08 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
一部のスポーツ新聞や週刊誌が書いている能年玲奈の「洗脳」騒動。

またかと思いました。芸能人が「独立」すると決まって登場するワンパターンの記事。それは、ときに「洗脳」であったり「借金」であったり「略奪愛」であったりするのですが、必ずバックには「黒幕」がいることになっています。世間知らずの芸能人は、その「黒幕」に騙され操られているというわけです。

今回の能年怜奈も例外ではありません。「洗脳」騒動の裏事情については、下記のリテラの記事に詳しいのですが、今回はめずらしく『週刊文春』が能年サイドに立った記事を書いていました。それだけが今までとは違う点です。

リテラ
洗脳なんかじゃない! 能年怜奈の才能をつぶしているのは所属事務所のほうだ!

『週刊文春』(5月7日・14日号)の記事によれば、「あまちゃん」のオーディションで、所属事務所がプッシュしていたのは、能年ではなく、社長が直々にスカウトした川島海荷で、能年は”当て馬”にすぎなかったそうです。

NHKの朝ドラのヒロインに抜擢されてからも能年の給与は5万円で、担当していたのは要領を得ない新人マネージャーで、普段は車も付かないので、見るに見かねたNHKがタクシーチケットを用意していたのだとか。記事は、つぎのようなエピソードを紹介していました。

 東京に戻り、怒涛のスケジュールで撮影が進行していた。深夜、寮に帰ってから明日の本を読みを始め、睡眠時間は平均三時間。
 スタジオに着ていく服の洗濯も間に合わなくなった。お金もない。月給五万円では経費の精算が追いつかないのだ。 
 撮影が終盤に入り佳境を迎えた四月、ついに能年はパンクした。
 この時、能年が弱音を吐いて頼れるのは、折にふれて演技指導を受けていた滝沢しかいなかった。
 深夜、滝沢に電話した能年は泣いていた。
「寮の洗濯機が壊れて、もう明日のパンツがない」
 コンビニで買えばいいと言う滝沢に能年は訴えた。
「財布には二百円しかない」


その滝沢(充子)こそが現在、能年を「洗脳」して「独立」を画策する”黒幕”と見なされている人物です。

能年は、事務所への態度が悪いという理由で半ば干された状態にあるのですが、そのため能年が「事務所を辞めたい」と不満をもらした途端、「洗脳」「独立」の記事がいっせいに芸能マスコミに出たのでした。怖い、怖い、芸能界。やくざな芸能界を象徴する、わかりすぎるくらいわかりやすい騒動と言えるでしょう。

忘れてはならないのは、芸能マスコミが「奴隷契約」(竹中労)でタレントを縛る”人買い稼業”の使い走りをしている事実です。今回も、東スポや『女性自身』や『アサヒ芸能』などが”能年攻撃”の先兵を演じているのですが、テレビ局も含めて、芸能プロダクションの意を汲んだ低劣な芸能マスコミが、そうやって「足抜けは許さない」「裏切り者はこの世界では生きていけない」という”無言の圧力”を作り出しているのです。

石田純一などが所属するプロダクションで、運転手やマネージャーをやっていた現社長が独立してはじめた所属事務所は、体育会系でパワハラもひどくて人の出入りも激しいそうですが、その稼ぎ頭は新垣結衣なのだそうです。なんだか私のなかでは新垣結衣のイメージまで落ちてしまいました。

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『芸能人はなぜ干されるのか?』
2015.05.03 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
中村うさぎがTOKYO MX「5時に夢中!」を降板するというニュースの余波で、私のブログもいつもより多くのアクセスがありました。

もっとも、「降板」と言ってもまだ正式に決まったわけではなく、中村うさぎが自分のブログで、その意向をあきからにしたにすぎないのです。言い方は悪いけど、ことの真偽は別にして、中村うさぎが一人相撲を取っている感じがしないでもありません。

昨日の中村うさぎvsマッド髙梨・ガチBLOG!に、「降板」の理由が書かれていましたが、それを読むにつけ、私には「行き違い」「誤解」というより「被害妄想」ということばしか浮かびませんでした。もっともこの手の「被害妄想」は私たちにもよくある話です。今の中村うさぎは、精神的にかなり弱っている感じで、以前のあの強気な(?)面影は微塵もないのでした。

中村うさぎvsマッド髙梨・ガチBLOG!
5時に夢中!を降板する事に決めたんだけど、この件でまたもや精神的に参っちゃって、本当に生きているのが嫌になったわ。

鬱病になったことのある知人は、診察に行ったら先生から、「入院したらどうですか? 楽になりますよ」と言われたそうですが、中村うさぎも治療を受けて楽になったほうがいいんじゃないか、なんて余計なことまで考えてしまいました。ブログによれば、「もっと家賃の安い部屋に引っ越すつもり」だそうですが、環境を変えて捲土重来を期すのもひとつの方法でしょう。

それにしても、病気というのはむごいものだなとあらためて思います。言うまでもなく、中村うさぎがこうなったのは、病気をして人生や生活が一変したからなのです。

「生きているのが嫌になる」気持もわからないでもありませんが、でも、それでもどこかに生きる希望を見つけて生きてもらいたいし、そして、何度も言うように、そんな「老残」な自分を中村うさぎらしい筆致で書いてもらいたいと思います。

関連情報:
中村うさぎに言いたい
2015.02.05 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
また出たっ!、芸能界の魑魅魍魎! 

何度も同じことを書きますが、タレントが独立すると、どうしていつもゴシップが流され、「タレント生命の危機」などと言われるのか。先日の安室奈美恵とまったく同じパターンのゴシップ記事です。しかも、それに火を点けたのが、我らが週刊文春です。どこまでもわかりすぎるくらいわかりやすい話です。

江角マキコバッシングの核心は、つぎの文章に集約されています。

日刊サイゾー(2014年09月10日)
「もう叩いちゃっていいから!」各事務所の“お墨付き”で、江角マキコのスキャンダル報道が止まらない!?

 業界からも、江角を擁護する声は皆無だ。江角は今年3月に大手芸能プロ「研音」を辞め、独立。表向きは円満退社ということになっているが「ワガママな江角さんに事務所が業を煮やしたというのが、本当のところ」(芸能プロ幹部)。


背景にある「ママ友いじめ」は、事実関係においても人間関係においても、いろいろと入りくんだ事情があるようですが、朝日の「従軍慰安婦」問題と同じように、ものごとを牽強付会に解釈して、はじめにバッシングありきの悪意ある記事に仕立てているのでした。独立した途端、どうしてこういった記事が出てくるのか、まずそのカタクリを知る必要があるでしょう。

しかし、サイゾーをはじめ芸能マスコミは、まるで“乞食犬”(連中にはこの差別用語こそふさわしいでしょう!)のように、週刊文春がばらまく餌に群がり、我も我もと”江角叩き”の隊列に加わるのでした。そして、週刊文春の言うままに、「見てきたようなウソ」の大合唱をはじめるのです。

これじゃ悪貨が良貨を駆逐し、芸能界に魑魅魍魎が跋扈するのも当然でしょう。陰で高笑いをしている者たちがいることさえわからないのでしょうか。いや、わからないはずはないのです。芸能マスコミは、まさに彼らの走狗でしかないのです。

さらに、その悪意ある記事を真に受けて、「やっぱり江角ってワガママでひどい女だったのネ」とばかりに、”江角叩き”に動員される芸能ファンたち。日頃、マスコミなんてゴミだ、信用できない、なんて言いながら、週刊文春のような“マスゴミ”にいいように踊らされ、これみよがしに江角に罵言を浴びせる情弱なネット住人たち。彼らはいつでも”煽られる人たち”なのです。

その構造は、アベノミクスや特定秘密保護法や集団的自衛権行使などにおいても然りです。

カルトな総理大臣が妄想と現実をとり違え、周辺国を挑発して戦争を煽ると、週刊文春をはじめマスコミがいっせいに“鬼畜中韓”の記事を書き立てて戦争前夜のような”危機感”をふりまく。そして、ネットの情弱者たちが、そんな“マスゴミ”に煽られて「撃ちてし止まん」とばかりにヘイト・スピーチをがなり立てる。ここにも陰で高笑いをしている者たちがいることでしょう。

芸能界も政治も同じ構造のなかにあるのです。空念仏のように「言論・表現の自由」のお題目を唱えるだけで、肝心な”自由な言論”はどこにもないのです。それが今この国をおおいつつある全体主義の空気です。

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『芸能人はなぜ干されるのか?』
江角マキコさんの手紙
2014.09.11 Thu l 芸能・スポーツ l top ▲
安室奈美恵の独立をきっかけに、彼女のスキャンダル記事が週刊誌にいっせいに出ています。これほどわかりやすい話はないでしょう。たとえば、下記の記事などはその典型です。

安室奈美恵 懇意のPとToshl洗脳宗教団体トップとの関係
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140822-00000002-pseven-ent

これは、今までもいやになるほどくり返されてきたおなじみの光景です。タレントが独立すると、どうしてプロダクションとの間でトラブルが生じ、そして、芸能マスコミによってタレントのスキャンダルが報じられ、「タレント生命がピンチ」などと言われるのか。

あろうことか、こういったカラクリを熟知しているはずのあのアクセスジャーナルまでもが、ばらまかれたエサに飛びついているのです。アクセスジャーナルには、ご丁寧に2本の記事がアップされていました。

<芸能ミニ情報>第18回 安室奈美恵独立問題の核心(2014.08.17)
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=6982

これが安室奈美恵、“黒幕”、その家族が“同居”する超高級マンション(2014/08/21)
http://www.accessjournal.jp/modules/weblog/details.php?blog_id=6986

愛人であろうがなんだろうが、そんなことはどうでもいいじゃないかと思います。みずから技芸で生きる芸能人であれば、「独立の思想」をもつのは当然です。パートナーがいれば、損得勘定も入れて、その「独立の思想」を共有するでしょう。それがどうして悪いこと、許されざることなのか。

笠井潔氏は、『日本劣化論』のなかで、「独立生産者の気概と誇り」について、つぎのように言ってました。

会社の一員として、組織を挟んで間接にしか市場と接触できない者は、決して自由になれない。会社の上下関係は恣意的で権力的ですが、市場の論理はより客観的です。市場と勝負しながら生き抜いていくところに、独立生産者の気概と誇りがあります。


それは芸能人とて同じです。フリーのジャーナリストであれば、この「独立生産者の気概と誇り」は痛いほどわかるはずです。なのにどうして、独立VSスキャンダルのミエミエな構図に、いともたやすく乗ってしまうのか。そこにあるのは、「俗情との結託」(大西巨人)であり、”劣化”としか言いようのない”おためごかしの常套句”です。

先日、たまたま目にしたある人気ブロガーのブログにも、同じようにこの”劣化”が露呈していました。彼は、例のNHK特集「STAP細胞 不正の深層」に対して、その内容の粗雑さをなんら検証することなく手放しで絶賛しているのでした。小保方氏が共著者の若山照彦山梨大教授の研究室からES細胞を盗んでSTAP幹細胞をデッチ上げたという、ネットでおなじみの窃盗・捏造説がその最大の根拠です。

彼は、小保方氏を擁護するのは「右翼カルト」で、安倍首相や下村文科相によって、小保方氏の不正を隠す工作がおこなわれていると主張します。さらに、STAP騒動の根本にあるのは、小保方氏と笹井氏の”ただならぬ関係”で、笹井氏は小保方氏との関係を問い詰められた結果、自殺に至ったと推理するのでした。小保方氏のプライバシーを暴くような記事に対しても、理研の職員は「準公務員」で、税金を使って研究をしている「公人」なので、プライバシーを暴かれて当然だというような言い方をしていました。

でも、このような彼の見方は、それこそ「右翼カルト」の週刊新潮や週刊文春や2ちゃんねるのネット住人などが言っていることとそっくり同じなのてす。

一方で、彼は、安倍政権の解釈改憲をファシズムだと批判し、原発再稼動にも反対し、反戦平和を訴えているのでした。もともと彼は、左派・リベラルの立ち位置で、多くの読者の支持を集めているブロガーです。

これこそ笠井潔氏が言う「倫理主義的倒錯」と言うべきでしょう。白井聡氏は、「共産党の体質と封建制の体質はそっくりだ」という堤清二氏のことばを紹介していましたが、左翼も右翼も根っこにあるものは同じなのです。それが白井氏が言う「永続敗戦レジーム」たる戦後の言語・思想空間の構造なのです。

安室奈美恵のスキャンダルも小保方問題も、いみじくもその”劣化”の構造を映し出しているような気がしてなりません。それは、決して大げさな話ではありません。


2014.08.22 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲
芸能人はなぜ干されるのか?


『芸能人はなぜ干されるのか?』(星野陽平著・鹿砦社)を読みました。書名は軽いですが、本自体は脱稿まで5年を要したという労作です。ただ、多くは直接取材したものではなく、過去の記事や関連する文献を当たって、それをまとめたものです。そのため、本書で引用されている『噂の真相』や竹中労や沖浦和光氏の本を読んできた人間には、今さらの感はぬぐえません。それに、資料のせいなのか、本書で紹介されている芸能人の事例が古いものが多く、私にはやや興ざめでした。

著者は、こう書きます。

 芸能資本の力の源泉は有名タレントを所有することにある。だが、タレントは「モノを言う商品」であり、放っておけば芸能資本の手から離れてしまう。それを防ぐために必要なのは、①「暴力による拘束」、②「市場の独占」、③「シンジケートの組成」の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ。


今の芸能界がバーニングと吉本興業とジャニーズ事務所に「支配」されているというのは、衆目の一致するところでしょう。それを可能にしているのが、音事協(日本音楽事業者協会)という「シンジケート」による「市場の独占」です。その結果、芸能プロダクションがテレビ番組の制作にまで関わり、「番組が局ではなく、芸能プロダクションを中心に動いている」ような状況まで招来しているのです。

芸能プロダクションというビジネスモデルは、日本と韓国の芸能界にしか存在しないと言われているそうです。もっとも、韓国の芸能プロダクショにしても、最大手のSMエンターテインメント(1995年法人登記)が「芸能ビジネスの手本とした」のは、2010年までSM社の主要株主でもあった日本のエイベックスだそうです。

韓国の芸能界については、東方神起の分裂騒動やKARAの引退騒動、あるいは性的接待による自殺事件など、スキャンダラスなニュースが日本でも話題になりましたが、「韓国芸能界の醜悪さは、日本の芸能界の映し鏡でもある」と著者は書いていました。「日本のマスコミは韓国の芸能界について語る時、その後進性を指摘することがある。だが、韓国に芸能ビジネスを教えたのは日本」なのです。

一方、アメリカの芸能界は、日本や韓国と違って、「タレント本人がエージェントやマネージャー、パブリシスト、アシスタント、弁護士などをそれぞれ雇うことになっている」そうです。しかも、エージェントは、反トラスト法(アメリカ版独占禁止法)やタレント・エージェンシー法という独自の法律によって、その活動がきびしく規制され、タレントの権利が手厚く保護されているのです。もちろん、そういったタレントを保護する体制ができた背景には、タレント(俳優)たちの組合による闘いの歴史があったからにほかなりません。

著者は、「芸能プロダクションにとってタレントは『所有物』だが、エージェントにとってのタレントは『お客様』である」と書いていましたが、それが日本の芸能界とアメリカの芸能界の根本的な違いなのでしょう。そして、その違いのなかに、ある日突然、芸能人がメディアから消える現象(芸能人はなぜ干されるのか?)の解答が示されているのだと思います。

 芸能プロダクションの経営は、タレントを独占的に抱え込むことによって成り立っている。タレントが自分の意志で勝手に移籍や独立をすることは絶対に許されない。そのために、タレントの引き抜き禁止、独立阻止の協定を結ぶ音事協という談合組織が設立された。


竹中労は、音事協の統一契約書について、「タレントはすべての自由を奪われ、義務だけを負わされる」「まことに恐るべき”奴隷契約”」だと批判していたそうですが、まさにそこにあるのはタレントは「商品」「所有物」という思想なのです。

このような日本の芸能界の”前近代性”は、日本の芸能文化の”特殊性”に根ざしているという見方もできるのかもしれません。それは、言うまでもなく、本書でも一章が割かれていた「芸能と差別」の問題です。

芸能者(人)は、律令制の身分制度のなかでは最下層の「巫(ふ)」に属する賤民とされていたそうです。そして、中世から、芸能は「神社や寺院や仏像の建立、修繕のための資金を募って信仰の道を説く『勧進興行』として発達した」のです。

安土桃山時代以降、寺社勢力が衰えていったのに伴い、芸能者は寺社を離れて、信仰とは関係のない娯楽としての興行をはじめたのでした。その際、興行する場所として選ばれたのが、広いスペースのある河原でした。しかし、河原は昔から死者の埋葬地に使われ「穢れ(ケガレ」の場所と考えれていました。そのため、芸能者も不浄の民とされ「河原乞食」として蔑まれてきたのです。

それは近代に入っても然りで、”芸能の街”と言われた東京の浅草や大阪の千日前が、かつて近くに刑場や火葬場や墓場があった「悪所」だったのは偶然ではないのです。

「普通のお嬢さまにはできない」芸能界のお仕事。そんなやくざなお仕事にテレビ局や芸能評論家と称する人間たちが寄生し、裏で支えているのです。著者はこれを「癒着」と書いていましたが、私には「共犯」のようにしか見えません。

90年代前半、WANDS、ZARD(坂井泉水)、DEEN、B'Z、大黒魔希、T‐BOLANといったアーチストをつぎつぎと送り出し、まさに時代をけん引するヒットメーカーだったビーイングの長戸大幸も、ある日突然、耳の病気を理由に芸能界から引退したのですが、実際はその背後に、音楽利権をめぐる暗躍があったのだそうです。

従来の芸能界の音楽利権のシステムに反旗を翻し目障りな存在であった長戸大幸は、坂井泉水のあとに交際したタレントとのトラブルを口実に「潰された」のだとか。これなども「怖い、怖い、芸能界」を物語るエピソードと言えるでしょう。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。たかが芸能界と言うなかれ。芸能記事を眉に唾して読むことも、大事なメディア・リテラシーと言えるのではないでしょうか。

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2014.07.20 Sun l 芸能・スポーツ l top ▲
ワールドカップの準決勝、ブラジルVSドイツ戦には、文字通り目を覆いたくなりました。私は、眠い目をこすりながら見ていましたが、試合開始から20分で既に勝負の興味は失せてしまいました。茫然と立ちすくむブラジルの選手たちを見ながら、どうしてサッカーにコールドゲームがないんだろう?と思いました。

ブラジルは個人の能力に頼りすぎた、そのため、ネイマールとチアゴ・シウヴァを欠いたことで、ブラジルらしいサッカーができなかった、それが敗因だ、と言われていますが、でも、南米らしい個人技のサッカーこそサッカーの醍醐味です。それだけに、ブラジルの大敗は、4年に一度の俄かサッカーファンの私にもショックでした。

それにしても、ワールドカップを見るにつけ、日本や韓国などアジアの国とヨーロッパや南米の国のサッカーに対する考え方の違いが痛感されてなりません。

ブラジルと言えば、サッカー王国で、「サッカーは絶対!」というイメージがありますが、ワールドカップの前には開催に反対する大規模なストやデモがくり広げられたことは記憶にあたらしいところです。私たちはストやデモの映像を見て意外に思ったものですが、それはサッカーに対する考え方が日本や韓国のそれと違っているからではないでしょうか。

ヨーロッパや南米では、日本や韓国のように、サッカーにおける”熱狂”が国粋主義的なナショナリズムと必ずしも結びついているわけではないのです。ヨーロッパは言わずもがなですが、南米も多くの国は移民による多民族国家ですし、それに二重国籍を認めている国も多いので、いくら国旗を掲げ国名を連呼していても、そこにあるのは日本や韓国のようなナショナリズムとは質的に違うものです。

特に南米では、サッカーは民衆のエネルギーを代弁するスポーツになっていると言えます。4年前のワールドカップのときも書きましたが、マラドーナがどうして南米の下層の民衆から熱狂的に支持されているのか、その理由を考えればよくわかります。

ブラジルが大敗した際、ダビド・ルイスは、涙ながらにこう言ったそうです。

「みんなが笑っているところが見たかった。大切な試合だということはチームの誰もが分かっていた。少なくともサッカーでは、ブラジルのみんなを幸せにしたかった」
Yahoo!ニュース
涙のダビド・ルイス、ブラジル大敗で「国民に謝る」


また、会場近くに住む医師も、こう呟いたそうです。

「言葉もない。ブラジルは楽しみが少ない国で、サッカーが数少ない楽しみなのに……」。
朝日新聞デジタル
ブラジルぼうぜん「王国の恥」 ファン同士で殴り合いも


こういったことばに、ブラジルでのサッカーの存在がよく示されているように思います。

南米のサッカーには、集団や統制(国家や民族)を一義的に考える「専制的」なアジアのサッカーからは決して生まれない自由なスタイルがあるのです。同じ”熱狂”でも、国粋主義的なそれとは違う”熱狂”があるのです。言うなれば、サッカーに国家や民族を投影する人たちと、サッカーに自分の人生を投影する人たちの違いと言えば、そう言えるのかもしれません。

サッカーは貧しい国のスポーツだと言った人がいましたが、それは言い得て妙で、貧しい小国が金持ちの大国をコテンパに打ちのめすというのは、サッカーならではです。親に車で送り迎えしてもらって練習場に通ってくるような日本の子どもが、マッチ売りの少女のように貧困から抜け出すことを夢見みながら、破れたシューズでボールを蹴っている南米の子どもたちに勝つわけがないと言った人がいましたが、そこにサッカーというスポーツの魅力があるのではないでしょうか。

その原点にあるのが、南米流の自由なスタイルのサッカーなのだと思います。だからこそ、ブラジルの大敗は残念でなりませんでした。

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マラドーナ
2014.07.09 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲
サムライブルー


ワールドカップは、ベスト8の戦いに入っていますが、日本では既にザッケローニがイタリアに帰国して、次の監督もほぼ決定というような報道がなされています。でも、これでホントにいいのか?と思うのは、私だけではないでしょう。

今朝のブラジルVSコロンビア戦を観てしみじみ思ったのは、日本代表との途方もない力の差です。たとえば、ネイマールとロドリゲスはともに22才ですが、日本サッカーの次の時代を担うと言われている柿谷・清武・大迫の24才トリオと比べても、その差は歴然でしょう。

しかし、日本の24才トリオは、国内ではスターです。セルジオ越後氏が言うように、代表戦は「コンサート会場のような雰囲気」になり、黄色い歓声に包まれるのでした。試合に負けても渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるようなイタいサッカーファンたちを生み出したのは、日本サッカー協会とそれにぶら下がるマスメディでしょう。

1勝もあげることもなく帰国した日本代表を迎えたのは、「力をもらった」「勇気をもらった」「感動をありがとう」というような、大震災以後常套句となった意味不明の感嘆詞と、あたたかい1千人のサッカーファンたちでした。それが「ひとつになろう! 日本」を象徴する光景なのでしょう。

一方、同じように1勝もあげることなく帰国した韓国代表を迎えたのは、「韓国サッカーは死んだ」という横断幕とアメ玉の洗礼でした。

これは、常に世界基準を意識せざるをえない彼の国と、「パラダイス鎖国」のなかでガラパゴスに生きることが可能な「自演乙」の国の違いなのではないでしょうか。もちろん、これはサッカーに限った話ではありません。政治も経済も同じです。

それにしても、柿谷や清武や大迫のような選手が、どうしてヨーロッパのクラブに高額な契約金で招聘されるのか。素人の私には疑問でした。他国の選手と比べると、買い被られているようにしか思えないのです。それで、その疑問をサッカーに詳しい知人にぶつけてみました。

「お金ですよ」
「お金?」
「そう、スポンサーが付くからですよ」
「スポンサー?」
「彼らが加入することによって、スカパー!のような衛星放送などが高額な放映料を払うからです」
「日本向けの客寄せパンダ?」
「そうです。サッカービジネスにとって日本は美味しい市場なのです。放映料だけでなく、選手と一緒にいろんなスポンサーも付いてくるので、充分元は取れるのです」

サッカーが巨額なビジネスに動かされているというのは、ワールドカップを見るまでもありません。セルジオ越後氏が言う「(日本代表は)興行的な親善試合ばかりが多い」というのも同じ理由なのでしょう。

私のような素人が見ても、サッカー協会に巣食う獅子身中の虫をなんとかしない限り、いくら監督を交代させても同じではないかと思うのですが、そういった視点から日本サッカーの問題点を指摘するメディアはほとんどありません。なぜなら、メディアもまた、”サッカームラ”の一員だからです。サッカー協会や選手たちと”お仲間”だからです。勝村某や矢部某や加藤某などサッカー好きな芸能人が、Jリーグ関係者とくだらないおしゃべりをするだけのサッカー番組なども然りです。

サッカーに見られるのも、日本的な「自演乙」の光景と言うべきでしょう。
2014.07.05 Sat l 芸能・スポーツ l top ▲
ワールドカップですが、案の定、日本の決勝トーナメント進出はほぼ絶望的な状況になっています。このままでは1勝もできない可能性も大です。

グループリーグ最終戦のコロンビア戦を前に、主力選手たちは、記者会見で、「奇跡を信じている」(本田)「信じて戦うしかない」(長友)「無心でやるしかない」(岡崎)などと、およそスポーツ選手とも思えないような意味不明なことばを並べていますが、それは選手だけでなくマスコミも同様です。「前を向いて戦うしかない」「どれだけ心をひとつにできるかだ」「最後まであきらめない気持が大切だ」「選手たちを信じるしかない」などとこれまた言語明瞭意味不明な精神論のオンパレードです。

あの戦争のときもそうでしたが、戦況が不利になるとこのように精神論で現実から目をそらすのがこの国の特徴です。そして、竹槍で本土決戦に備えるなどという、カルトの妄想のような荒唐無稽な発想に対しても、誰も異をとなえることができず唯々諾々と従っていくのです。なかには竹槍でB29を撃ち落とすと本気で信じていた人もいたそうで、それが「愛国心」だと称賛されたのです。

この国ではサッカーファンも、ネトウヨと同じです。実際に、サッカーファンとネトウヨは重なる部分が大きく、前に触れた杉山茂樹氏に対しても、ネットでは「頭がおかしい」「反日スポーツライター」などとくそ散々な言われようでした。そして、案の定、「在日」認定までされる始末です。

杉山茂樹氏は、今大会の日本代表について、ブログで、つぎのように書いていました。

 メディアの商法として、手っ取り早いのは「がんばれ、ニッポン!」を煽ることだ。応援報道というヤツである。これを成立させるためには、日本がある程度、強い存在に見える必要がある。メディアのそうした願い、思惑と、日本サッカー協会の親善試合の組み方(ホーム戦過多)は実に相性がいい。それには負けにくい設定が施されている。
 しかもアジアの本大会出場枠は4.5。アジアの世界的なレベルを考えれば、緩すぎる設定だ。日本が予選落ちする可能性は10%程度。本当に接戦が期待できる試合は、せいぜい2試合ぐらいだ。他は楽勝して当たり前。平素の試合を通して問題点は露呈しにくいのだ。

 こうした環境の中に置かれていると、世界が狭く見えてくる。サッカー観戦に不可欠な世界観も生まれにくい。コートジボワール? ギリシャ? 馴染みのない集団に対して、畏敬の念を払えなくなる。相手をリスペクトする習慣が芽生えにくくなる。サッカーの試合を戦う上で、これは好ましくないスタンスだ。研究を怠り、毎度「我々のサッカーをすれば」と言っている国に、幸は訪れにくい。

杉山茂樹のBLOGマガジン
日本のサッカーを見ているのは、日本人だけではない」(2014 6/22)


杉山氏が言わんとすることも同じでしょう。「自演乙」して現実を直視しないメディアとサポーターのお粗末さ。

日本はすばらしい、日本は世界中からリスペクトされている、などいくら「自演乙」しようとも、サッカーの場合、相撲や野球と違って、世界の舞台で戦うことを宿命づけられているのです。そこで示される結果はごまかしようがない(「自演乙」のしようがない)のです。

テレビ解説者のなかで、杉山氏と同じように、この当然の結果(!)を事前に予想した人間がいるでしょうか。テレビ解説者の大半はJリーグ関係者で、ただ無用な期待を抱かせるためだけに存在している”茶坊主”と言っても過言ではありません。

私の知る限り、杉山氏以外では、あのセルジオ越後氏が辛辣なコメントを残していました。

「これが実力だ。結果は驚きでもなんでもない。今大会の他の試合を見れば一目瞭然だ。日本はどの国よりも未熟で、どの国よりも走っていないし、迫力がない。にも関わらず、一番期待されている国だ。海外組ブランドが喧伝され、選手たちは大スターのように扱われてきた。ヌルい親善試合と、本当のことを言おうとしないメディア。強化よりも興行に気を取られてきた結果、自分たちの実力が実態以上に大きく見えるようになってしまった。しかし、現実は隠せないということだ」
「『自分たちのサッカー』がどうこうというフレーズが騒がれているけど、一つ答えを出すとすれば、今日のこの試合で見せたプレーが、まさに『自分たちのサッカー』だよ。本来の力を出せていないのではなくて、これが世界における我々の本来の力なんだ。そこを見誤っては成長がない。他の試合をよく見てほしい」

サッカーキング
ギリシャ戦ドローにセルジオ越後氏『“自分たちのサッカー”とはこの程度。日本はどの国よりも未熟』


コロンビアは、ラテンアメリカの人間特有の気質から、既に決勝リーグ進出が決まっているので、日本戦は気を抜くのではないかとか、決勝トーナメントではイタリアよりコスタリカと戦いたいので、日本戦では負け試合をして2位通過を狙うのではないかなどという見方が一部にありますが、いづれにしても日本にはもうコロンビア頼みの「奇跡」しか残ってないのです。これがイタいサッカーファンやスポーツメディアが目をそむけている現実なのです。

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「自演乙」とカルトな指導者
2014.06.23 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
映画「アナと雪の女王」の日本語吹き替え版で、ヒロインのエルサを演じる松たか子が作中で歌う「Let It Go」の歌唱力が「すごい」と話題になっているようですが、昔からの松たか子ファンとしては、「してやったり」という思いとともに、やや戸惑う気持があることも事実です。

以前、ミュージカル女優の卵の女の子に、松たか子が好きだと言ったら、彼女は「お父さんは声が通らなくてダメだけど、松たか子は声もよく通るし、歌唱力も演技力もお父さんより全然上だよ」と言ってました。ミュージカル関係者の間では、松たか子の才能は前から定評があったのです。

また、旧知の会社が原宿で経営していた居酒屋があり、その店は業界関係者がよく集まる店として有名だったのですが、私も一度だけ松たか子が来ているのに遭遇したことがありました。ちょうどその頃、週刊誌に某スタイリストとのロマンスの記事が出たことがありましたが、その店には件のスタイリストもよく来ていましたので、そういった関係で噂が出たのかもしれません。

スタイリストをよく知る業界関係者の知り合いなどは、「いくらなんでもそれはないだろう」「もしそれがホントなら松たか子にはがっかりだな」と言ってました。のちに松たか子がギタリストの佐橋佳幸氏と結婚したと聞いて、私も含めて周辺の松たか子ファンはみんな、ホッと胸をなでおろしたものです。

私は、「明日、春が来たら」にしても、「桜の雨、いつか」にしても、「コイシイヒト」にしても、どっちかと言えば、素朴で素人っぽい歌い方がいいなと思っていましたので、「歌唱力がすごい」とか「海外で絶賛されている」なんて書き込みを目にすると、どうしても戸惑う気持が先に立つのです。私は、その素朴で素人っぽい歌い方に、どこかなつかしさのようなものを感じていました。いつまでも心の片隅に残っている青春の甘酸っぱさのようなものを感じていたのです。

そんな個人的な感覚からすると、「Let It Go」の松たか子はちょっと違います。もし「海外で絶賛されている」(と言っても、You Tubeの書き込みで絶賛されているとかいった話のようですが)から「すごいのだ」と言うのなら、それはやはりニッポン人お得意の「自演乙」と言わざるをえません。

私は、「Let It Go」よりも、やはり、「明日、春が来たら」や「桜の雨、いつか」や「コイシイヒト」の松たか子のほうが好きです。
2014.06.09 Mon l 芸能・スポーツ l top ▲
ASKAの覚せい剤事件ですが、その後、気になる展開を示しています。ASKAは、既に覚せい剤の使用も認めているそうですが、一緒に覚せい剤を使用したとして逮捕された栩内(とちない)香澄美容疑者は、未だに否認しているのだとか。そして、栩内容疑者に関して、つぎのような報道も出てきているのです。

警視庁によると、ASKA容疑者は覚せい剤所持の容疑を認めた上、「覚醒剤を使ったことがある」と供述している。これに対し、知人の栩内香澄美容疑者は否認を続けているが、その後の捜査関係者への取材で、「覚醒剤は使っていない」と供述していることが分かった。栩内容疑者の尿と毛髪からは覚醒剤の成分が検出されおり、警視庁は、ASKA容疑者が覚醒剤とは明確に伝えずに、栩内容疑者と覚醒剤を使用していた可能性もあるとみて、慎重に調べている。
ASKA容疑者の知人、覚醒剤知らず使用か
日テレNEWS24( 2014年5月26日 12:02)


もしこれがホントなら、ASKAは栩内容疑者をジャブ漬けにしたということになります。ヤクザ顔負けの鬼畜な所業と言わざるをえません。栩内容疑者は、ASKAによって地獄に落とされたとも言えるのです。

その筋に詳しい人間に聞くと、最初は「女性用のバイアグラ」だとかなんとか言って、覚せい剤入りの飲み物などを与え、徐々にシャブ漬けにしていくのだそうです。そういった誘惑は、私たちのすぐ近くにいくらでもあるのです。

ホテルの関係者に聞くと、部屋に1日も2日も閉じこもっている怪しいカップルがいて、カップルがチェックアウトしたあと、部屋の清掃に入ると、案の定、床などに白い粉がこぼれていることがあるそうです。しかし、警察に届けると、半日も1日も事情聴取を受け仕事にならないので、そのまま拭き取って終わりにするケースが大半なのだそうです。

そのように覚せい剤が私たちの日常にも浸透している現実があるのですが、にもかかわらず不思議なのは、今まで「入手ルート」が解明されたという話をほとんど聞いたことがないということです。「警察は入手ルートなどを詳しく調べることにしている」と決まり文句のように言うのですが、しかし、曖昧なまま捜査が終了するのが常です。酒井法子の場合も然りでした。

いつも摘発されるのは、シャブ漬けになった末端の人間ばかりで、売人やその元締めが摘発されることはめったにないのです。おそらく今回も「入手ルート」は曖昧なまま終わるのかもしれません。覚せい剤事件には、そんな不可解な部分がいつもつきまとうのです。そして、暴力団関係者でない限り、初犯で反省のポーズを示せば、執行猶予付きの判決で社会復帰して一件落着です。

ASKAの作品が出荷停止・回収の処置になったことに対して、疑問を呈する意見がありますが、たしかに出荷停止・回収こそ典型的な日本式建前主義と言うべきで、ややもすればそれが禊になる可能性だってありえます。それに、裁判では出荷停止・回収が「社会的制裁」を受けたと看做され、「情状酌量の余地がある」と判断される可能性は大です。極端なことを言えば(過去の事例から言えば)、出荷停止・回収の先に芸能界復帰が予定されているのかもしれないのです。「才能がもったいない」という言い方も、「金の成る木なのにもったいない」という意味に読めないこともありません。実際に、チャゲアスの利権を狙う芸能界のドンが、既に「復帰」を視野に裏工作をはじめたという噂さえあるのです。

でも、事件の一連の経緯を見ても、ASKAの罪はきわめて大きいのです。ASKAの芸能界復帰なんてとんでもない話です。
2014.05.28 Wed l 芸能・スポーツ l top ▲