2017年帰省1


先週、恒例の墓参りのため、九州に帰省しました。今回も、旧交を温める旅でした。

空港から墓のある生まれ故郷の町まで車で90分かかるのですが、町に着くと、外はときならぬ突風と激しい横殴りの雨で、線香をあげることもできませんでした。それが未だに悔やまれてなりません。

墓参りのあと、思い出のある久住高原や阿蘇の大観峰に行こうかと思っていたのですが、雨と濃霧でとても行けるような状態ではありませんでした。それで阿蘇行きをあきらめ、田舎の友人の家を訪ねました。

彼も数年前に離婚し、お母さんは介護施設に入っているため、今は侘しいひとり暮らしです。彼の実家は地元では知られた旧家で、彼も含めた姉弟はいづれも東京の大学に進学しています。東京の叔父さんは、私が以前勤めていた会社の関連会社の社長でした。

九州の田舎から三人の子どもを東京の私立大学にやるのは、経済的には相当な負担だったはずですが、彼の実家はそれだけの財力があったのです。そうやって代々、子どもを東京の大学に学ばせていたのです。

しかし、今は没落し、間口が狭く奥に長い、江戸時代から特徴的な大店の建物も、見るも無残に荒れ果てていました。そこにあるのは、文字通り黄昏の風景でした。没落したあとも田舎に住み続けなければならない、旧家であるがゆえの苦悩を背負っている感じでした。

そのあと時間が余ったので、30年近く会ってない昔の会社の同僚に電話をしました。久しぶりに会わないかと誘ったのですが、あいにく用事があるとかで会うことができませんでした。

電話のあとしばらくして、彼からショートメールが届きました。「実は俺、独身に戻りました」と書いていました。お父さんが昨年亡くなったことは知っていましたが、今はお母さんと二人暮らしだそうです。彼もまた離婚していたのです。職場結婚で奥さんもよく知っていただけに、俄かに信じられない気持でした。聞けば、かつての上司や同僚の何人かも、離婚しているそうです。みんな、どうしたんだろうと思いました。

旧知の人間たちに試練を与えているのは、家庭不和だけではありません。もうひとつ、病気があります。

既にガン治療をおこなっている年上の知人は、去年、別のガンが見つかって手術を受け「大変だった」と言ってました。しかし、それでも精一杯元気にふるまっていました。奥さんと一緒に、ホテルのランチバイキングに行ったのですが、誰よりも食欲旺盛で、数日前は、ソフトバンクのキャンプを観に、宮崎に行ってきたと言っていました。

私は、その人の甥とも仲がよくて、昔はよく一緒に遊んだのですが、その甥のことを聞いたら、彼もまたガンに冒され、余命数か月の宣告を受けているのだそうです。東京にいる娘の、最期は一緒に暮らしたいという申し出を受け、近いうちに大分を引き払って東京に転居する予定だとか。「たぶん、今会っても顔がわからんと思うぞ」と言ってました。

実家が会社を経営していて、その跡取り息子だったので、なに不自由な生活をしていたのですが、会社が倒産したため、人知れぬ苦労をしたようです。挙句の果てに、末期ガンとはなんと浮かばれない人生なんだろうと思いますが、それでも「子どもの教育だけは手をぬかなかった」ので、「今は子どもに救われている」と言っていました。

卒業して以来会ってなかった高校の同級生にも会いました。同級生は、糖尿病が進行し、既に人工透析を受けているそうで、昔の面影はありませんでした。糖尿病の合併症で視力障害もおきているため、「わかるか、オレだよ」と言っても、「誰か、よぉ見えんのじゃ」と言ってました。

それでも話しているうちに昔の同級生の感覚に戻ってきました。彼も私と同じように、学区外の中学の出身で、親戚の家に下宿して学校に通っていました。下宿先の家もすぐ近所でした。もうひとり、やはり山奥の中学からきた同級生がいました。彼は、市内のアパートに、デパートで働いていたお姉さんと一緒に住んでいました。生活の面倒はお姉さんが見ていたようです。

私は若干違いますが、二人は田舎の中学で成績がよかったので、兄弟のなかでひとりだけ一家の期待を背負って街の学校にやってきたのでした。昔は、そんな話がよくあったのです。

その三人で近くの海に泳ぎに行ったことがありました。海とは縁のない山国育ちの三人が海に行ったのです。案の定、私以外の二人が溺れはじめ、それを助けようした私も、彼らにしがみつかれて危うく溺れそうになり、文字通り、九死に一生を得たのでした。

同級生ともそのときの話になりました。「お前は、オレたちの命の恩人だよ」と言われましたが、考えてみれば、山猿三人が海に行くこと自体無謀だったのです。ほかの同級生たちからはそう言われ、しばらく笑いのネタにされたものです。

ところが、高校を卒業したあとの話を聞いて、私は三人になにか因縁のようなものを感じました。

私は、二十歳のとき病気になって東京から帰り、別府の国立病院に一年間入院したのですが、その同級生も同じように東京の大学に進学したあと、精神的なストレスから胃を壊して、やはり別府の病院で胃の切除手術を受け、半年間入院していたそうです。しかも、もうひとりの同級生も、同じ頃、精神を病み、同じように別府に帰って精神科に入院したのだそうです(彼は未だに精神病院に入院していると言ってました)。

あの夏の日、海で溺れた三人は、卒業したあと、いみじくも同じ年に、それぞれ高校時代をすごした街に戻り、入院生活を送っていたのです。私のもとには、夏休みや冬休みのとき、帰省した同級生が見舞いに来ていましたが、あとの二人は同級生たちとは疎遠になっていたので、誰も彼らが別府に帰っていることを知らなかったのです。

「オレたちは、田舎では”秀才”と言われ、街の学校に出てきたけど、街の学校では“タダの人”になった。それで追い詰められたところもあるんじゃないかな」と言ってましたが、なんとなくわかる話です。ほかの兄弟の犠牲の上にわざわざ街の学校に出てきたものの、期待に沿えるような結果にならなかったことで自分を責めた、というのは考えられない話ではありません。

明治の若者たちとは比べようがないけれど、それでもまだささやかながら「坂の上の雲」を眺めていた、眺めることができた、そんな時代があったのです。その延長に「上京物語」も存在したのです。

しかし、もうみんな年を取り、離婚や病気など悩みを抱え、黄昏のなかを生きています。束の間、若い頃の気分に戻ることができたというのは、哀しみだけでなく、いくらかの慰めにもなったかもしれません。そして、私は、あらためて「思えば遠くに来たもんだ」としみじみ思ったのでした。


2017年帰省2

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別府

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別府
2017.02.28 Tue l 故郷 l top ▲
今日の朝日新聞デジタルに、「台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇」という記事が出ていました。記事に添付されていた写真は、阿蘇のミルクロードのすすきが風に揺れる初秋の風景でした。それを見ていたら、中学の頃のある情景がよみがえってきて、胸がふさがれるような気持になりました。

朝日新聞デジタル
台風一過、秋風にススキ揺れる 熊本・阿蘇

阿蘇の外輪山の大分県側の東の端に位置する私の田舎でも、この季節になると、草原に一面すすきの穂がゆれる風景が見られます。私の心のなかに残っている田舎の風景も、やはり秋から冬にかけてのものが多いのです。阿蘇もそうですが、私の田舎も、九州と言っても標高の高いところにあるので、秋の訪れが早いのでした。

中学二年のときでした。数か月前から私は、身体の不調に見舞われていました。学校では野球部に入っていたのですが、風邪をこじらせて思うように部活もできない状態になっていました。貧血を起こして目の前が真っ白になり、立っていられないことが何度もありました。また、やたら寝汗をかくのでした。

それで、学校を早退して、内科医の伯父が勤務する国立病院で診察を受けることになったのでした。ただ、国立病院がある街までは、バスと電車を乗り継いで3時間くらいかかるので、前日に伯父の家に泊まって翌日受診することになったのです。

伯父からは、ベットの予約をしておくので、入院の準備をして来るようにと言われました。入院したら学校はどうなるんだろうと思いました。私は、不安でいっぱいでした。

学校から私の家まで1キロくらいあり、普段は県道が通学路です。しかし、校門を出た私は、なぜかふと、県道の脇に広がる草原のなかを歩きたいと思ったのでした。

私は、通学路を外れ草原のなかに入りました。草原には牛が放牧されており、地面が踏み固められてできた細い道しかありません。私は、草原のなかの道をひたすら歩きました。前方には小学校のとき遠足で訪れた小高い山がそびえていました。周りは腰くらいの丈のすすきにおおわれ、時折、草原を吹き抜けていく風にすすきがさわさわとゆれると、いっそう孤独感がつのってきました。そして、なんだか自分が田舎に背を向け、みんなと違う方向に歩きはじめているような気持になっていました。

結局、私は、年明けまで三か月間入院し、さらにそのあと再発をくり返して、都合三度入院することになるのでした。また、高校も親戚の家に下宿して、知り合いが誰もいない街の学校に進むことになり、だんだん田舎の友達とも疎遠になっていったのでした。

年甲斐もないと言えば年甲斐もないのですが、今朝、ネットで新聞を見ていたら、あのときの切なくてどこかもの哀しい気持が、私のなかでよみがってきたのでした。


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2016.09.05 Mon l 故郷 l top ▲
地震で打撃を受けた九州の観光地を支援する「九州ふっこう割」の多くは、既に完売になっていますが、一部のフリープランではまだ募集しているものがあります。

大分行きのフリープランも、往復の航空運賃・ホテル・レンタカーのセットで、通常のほぼ半額の金額でした。第一期は9月までなので、「ふっこう割」を利用して帰ろうかと思いましたが、しかし、考えてみれば、帰っても行くところがないのです。墓参りするだけでは時間を持て余すし、だからと言って、行くあてもなく田舎をウロウロしてもわびしくなるばかりです。田舎嫌いで、田舎の人間とのつきあいを避けていましたので、友人や知人も少ないのです。

田舎はたまに帰ると歓迎されますが、しょっちゅう帰ると迷惑がられます。「また帰ってきたのか」と言われるのがオチです。それに、友人たちもそれぞれ年齢相応の人生の苦悩を背負っていますので、風来坊のような人間の里帰りにそうそうつきあっているヒマはないのです。

でも、なかには二十年間年賀状をもらいながら、その間一度も会ってない”元同僚”もいます。二月に帰ったときも車で彼の家の近くを通ったのですが、家には寄らないままでした。この二十年間で電話で話したのが二度か三度あるだけです。

私が会社を辞めて東京に行くと決めたとき、突然、彼から家に電話がかかってきたのでした。彼はその前に会社を辞めて、実家のある町の農協だかに転職していました。会社ではそんなに親しくしていたわけではないのですが、なぜか電話がかかってきて、「辞めたと聞いてびっくりしましたよ。東京に行くなんてすごい決意ですね」と言ってました。それ以来ずっと年賀状の交換をしているのでした。

そう言えば、大学受験に失敗したとき、同じクラスの人間から実家に戻っていた私のもとに電話がかかってきてびっくりしたこともありました。彼も特に親しくしていたわけではありませんでした。私は中学を卒業すると実家を離れて街の高校に通っていましたので、高校の同級生たちは私の実家や田舎を知らないのですが、ただなぜか実家の家業を知っていたらしく、番号案内で調べてかけてきたということでした。

彼は志望の大学に合格したそうですが、私に対して「残念だったな。来年がんばれよ」とさかんに励ましてくれるのでした。そのためだけにわざわざ電話をかけてきたのです。ただ純粋に“善意“で電話してきたようですが、私にはそういう“善意“はありませんので、まるで他人事のようにすごいなと思いました。それで未だに忘れられないエピソードとして自分のなかに残っているのでした。

風の便りによれば、現在、彼は地元の大手企業の代表を務めているそうです。企業のトップになるというのは、その過程において、決してきれいごとではいかないこともあったでしょう。姦計をめぐらすこともあったかもしれません。あの若い頃の“善意“とサラリーマンとしてトップに上り詰める”したたかさ”の間にどう折り合いをつけてきたのか。彼の話を聞いたとき、そんなことを考えました。

やはり、”黄昏”が近づいてきたからなのか、最近はこのように、なにかにつけ過去の出来事やエピソードを思い出すことが多くなっているのでした。

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墓参りに帰省した
2016.07.26 Tue l 故郷 l top ▲
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの


と、謳ったのは室生犀星ですが、つづけて犀星はこう謳っています。

うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

(『抒情小曲集』 「小景異情」その二)

人はふるさとを前にするとみんな詩人になるようです。坂口安吾も然りで、「ふるさとに寄する讃歌」はまるで散文詩のようでした。そして、二人に共通するのは、ふるさとに対する愛憎二筋のアンビバレンツな想い(松永伍一『ふるさと考』)です。

青空文庫
ふるさとに寄する賛歌

 長い間、私はいろいろのものを求めた。何一つ手に握ることができなかった。そして何物も掴まぬうちに、もはや求めるものがなくなっていた。私は悲しかった。しかし、悲しさを掴むためにも、また私は失敗した。悲しみにも、また実感が乏しかった。私は漠然と、拡がりゆく空しさのみを感じつづけた。涯もない空しさの中に、赤い太陽が登り、それが落ちて、夜を運んだ。そういう日が、毎日つづいた。


そんななかで、安吾は「思い出を掘り返し」、「そして或日、思い出の一番奥にたたみこまれた、埃まみれな一つの面影を探り当てた」のです。それは一人の少女の面影でした。

しかし、帰省した彼を待っていたのは、「すでに、エトランジェであった」自分です。少女の面影を追う私は、私自身が「夢のように遠い、茫漠とした風景であるのに気付い」たのでした。まさに、「夢の総量は空気であった」のです。

不治の病で町の病院に入院している姉。彼女は既に年内に死ぬことを知っています。そんな姉を病院に見舞い、枕を並べ一夜をともにする私。その朝の別れはどんなに悲しいものであったとしても、私は、やはり東京に戻らねばならないと強く思うのでした。

 東京の空がみえた。置き忘れてきた私の影が、東京の雑沓に揉まれ、蹂みしだかれ、粉砕されて喘えいでいた。限りないその傷に、無言の影がふくれ顔をした。私は其処へ戻ろうと思った。無言の影に言葉を与え、無数の傷に血を与えようと思った。虚偽の泪を流す暇はもう私には与えられない。全てが切実に切迫していた。私は生き生きと悲しもう。私は塋墳へ帰らなければならない。と。


先日、帰省した折、昔会社で一緒だった人の家に行きました。同じ部署で仕事をしたことはありませんが、私より10歳年上で、会社の先輩でした。彼の家は、大分市内から車で1時間離れた町にあります。その町は、昔、私が勤務していた会社の営業所があったところです。私が営業所に転勤になったとき、彼は既に会社を退職して、その町で家業を継いでいました。営業所があった町は、私にとってはまったく見知らぬ土地で、彼が唯一の知り合いでした。それで急速に親しくなったのです。そして、私はその町に、5年間住むことになったのでした。

ホテルから電話したら、「誰か会いたい人間はいるか? いるなら呼んでおくぞ」と言われました。しかし、私は、「面倒くさいので、誰にも会いたくない」と言いました。

家に行くと、奥さんと二人で出迎えてくれました。あとは「子どものようにかわいがっている」というネコが一匹いました。そのあと三人で町内に唯一あるレストランに昼食を食べに行きました。

彼はガンの治療中で、既に転移していると言ってました。家の前で別れるとき、「また帰ってきたら電話くれよな。ただ、そのときはもうおらんかも知れんけど」と言って、笑って手を振っていました。その姿が小さくなるまで車のルームミラーに映っていました。

そのとき、私も安吾と同じように、東京に戻らねばならないとしみじみ思ったのです。そして、ふるさとというのは、なんでこんなに悲しいんだろうと思いました。私は、いつもそんなふるさとから逃げてばかりいたのです。
2016.02.26 Fri l 故郷 l top ▲
先日、帰省した折、久しぶりに湯布院に行ったのですが、平日の午後にもかかわらず湯布院の街中は観光客でごった返していました。昔だったら車で簡単に行けた金鱗湖も、もはや車で近づくことは難しい状態でした。

昔はデートで湯布院に行けば、金鱗湖周辺を散策し亀の井別荘の天井桟敷でお茶するのが定番でしたが、今は国道沿いの有料駐車場に車を預けて歩いて行くしかないのです。しかも、途中の路地は、夏の軽井沢と同じで、”ミニ竹下通り”と化しているのでした。

このように湯布院は、もはや完全に”箱庭”になっています。すべてが”如何にも”といった感じの作り物になっているのです。私のように温泉の町で生まれ育った人間から見ると、そんな湯布院のどこがいいんだろうと思います。湯布院に来ているのは、外国人観光客とスノッブばかりです。むしろ隣の湯平温泉のほうが伊香保に似ていて情緒があり、私は好きです。

一方、別府は、湯布院と比べるとどこも閑散としていました。もちろん、湯布院に比べて街が大きいということもありますが、しかし、やはり場末感は否めません。昔は、湯布院は別府の奥座敷と言われていたのですが、今や主客転倒した感じです。

ただ別府は、”別府八湯”と言われ、もともと八つの温泉場に分かれているのです。八つの温泉場はそれぞれ特徴があり、湯布院のような都会的に規格化された温泉場とは違って、まだ昔ながらの素朴な雰囲気が残っている温泉場も多いのです。横浜と同じように、場末感がむしろ別府の魅力のひとつでもあるのです。湯布院に行くより、別府の堀田(ほった)や鉄輪(かんなわ)や柴石(しばせき)や明礬(みょうばん)などに行ったほうが、よほど温泉情緒が味わえます。

黒川も然りです。黒川温泉も、私たちが子どもの頃は枕芸者がいるような温泉場で、近所のスケベェなおっさんたちがよく行っていました。それが今や完全に”如何にも”と化しています。湯布院よりはまだましですが、それでも昔の素朴さは失われています。素朴さが失われ、”箱庭”っぽくなった分、宿泊料金は跳ね上っているのです。そうやってリゾート会社の戦略にまんまとはまっているのです。

知り合いの女性は、離婚した際、九州に一人旅したと言ってました。人にはそんな旅もあるのです。しかし、今の湯布院や黒川に行っても、はたして傷ついた心が癒されるでしょうか。そこにあるのは、傷心旅行とはまったく異質なリゾート会社のお仕着せの旅しかないような気がします。
2016.02.24 Wed l 故郷 l top ▲
藤枝静男の小説に「一家団欒」という短編があります。

主人公の章は、三月中旬のある日曜日の午後、市営バスに乗り、終点で降りると、その先にある大きな湖に向かって歩きはじめたのでした。章がめざしていたのは、湖の対岸の松林の奥にある”ある場所”でした。

そこにある「四角いコンクリートの空間」のなかには、「父を中心に三人の姉兄が座って」いました。また、「かたわらの小さな蒲団」には、二人の弟妹が寝かされていました。

 「とうとう来た。とうとう来た」
 と彼は思った。すると急に、安堵とも悲しみともつかぬ情が、彼の胸を湖のように満たした。彼は、父が自分で「累代の墓」と書いて彫りつけた墓石に手をかけて、その下にもぐって行った。


章は死別した肉親を前にすると、なつかしさとともに欲望に溺れ身勝手な所業をくり返したみずからの人生に後悔の涙を流すのでした。それを姉兄たちは「章の二時間泣き」と呼んでいるのでした。

 「それ、また章の二時間泣きがはじまったによ」
 ハルが気を引きたてるように云った。
 「お前も、はあ死んじゃっただで、それでええじゃんか」
 「死んでも消えない」
 と彼は呟いた。しかし一方では「そうか、そうか」と思い、すこしは気が晴れるようでもあった。
 「な、それでええにおしな」
 とナツが云った。なるほど、これで本当にいいのかも知れない、と彼は思った。もう肉体がないのだから、自分は悪いことをしなくてすむだろう。──それから世の中にたいする不平不満のようなものからも、そこから生ずる責任感みたいなものからも、それに対して自分が一指を加えることもできないという焦慮と無力感からも、そういうすべてのものから、自分は否応なしに解放された。それも相手の方から解除してくれたのだ。
 ──ああ何てここは暖いだろう、と彼は溜息をつくように思った。これからは、もう父や兄や姉の云うことを何でもよく聞いて、素直に、永久にここで暮らせばいいのだ。


私は、この「一家団欒」を読んだら、たまらず墓参りがしたくなったのです。それで、先日、2泊3日で田舎に帰ったのでした。と言っても、もう田舎には実家もないので、別府のホテルに2泊しました。

空港に着くと、そのままレンタカーを借りて、熊本県境に近い故郷の町に向けて車を走らせました。空港から墓がある町までは車で2時間近くかかります。

菩提寺の境内にある墓の前に立つと、さすがに神妙な気持になりました。若い頃は、墓参りなんて考えられませんでした。田舎なんかどうだっていいと思っていました。私は田舎が嫌で嫌でならなかったので、帰省しても、途中の別府や大分(市)で友人や知人に会うだけで、実家に帰ることはほとんどなかったのです。

墓所には、長年参拝されることもなく放置された墓があちこちにありました。松永伍一が『ふるさと考』で書いていたように、ふるさとというのは、求心力のようであって実は遠心力でもあるのです。松永伍一は、そんなふるさとに対する屈折した思いを「愛憎二筋のアンビバレンツな思い」と言ってましたが、私のふるさとに対する思いも似たような感じです。にもかかわらず、年を取ると、やはり、ふるさとにある墓が自分の帰るべきところではないかと思うようになるのでした。

私が生まれたのは、山間のひなびた温泉町で、谷底に流れる川沿いに温泉旅館が並んでいます。菩提寺は川向うの坂の途中にあります。実家は、旅館街の上を走る県道沿いにありました。しかし、今はもう跡かたもありません。

考えてみれば、私は、実家には中学までしかいなかったので、生まれ故郷とは言え、田舎のことはまったく知らないのでした。むしろ高校時代をすごした別府のほうが詳しいくらいです。そもそも田舎なんて興味もありませんでした。そのため、今は故郷の町でつき合いのある人間は誰ひとりいないのでした。

ところが最近、田舎のことがやけに気になって仕方ないのです。私の実家は中心地の温泉街のなかにありましたが、小中学校の同級生たちの多くは山の奥の集落に家がありました。しかし、私は彼らが住んでいるところに行ったことがありません。今になって、どんなところに住んでいたんだろうと思ったりするのです。不思議なもので、年を取ると、そんなことが妙に気になって仕方ないのでした。

それで、帰りは県道から外れ、県道の奥にある集落を訪ねてみることにしました。街外れにダムがあるのですが、そのダムから奥にも行ったことがありません。ダムの奥の集落には、中学の頃仲がよかった同級生がいましたが、彼の家に遊びに行ったこともありません。実際に行ってみると、わずか10分足らずでその集落に着きました。

集落のなかの道路を暫く進むと、前方に大きな鳥居が現れました。私は、そこに樹齢800年~1千年と言われる大ひのきを神木とする神社があることを思い出したのでした。

緑色の苔に覆われた急な石段を上って行くと、県の天然記念物に指定されている大ひのきがありました。大ひのきは、文字通りこの山奥にあって悠久な時を刻んでいるのです。そう思うと、あたりにほかとは違った荘厳な空気が流れているような気がしました。同じ町内にこんな場所があったなんて、あらためてびっくりしました。ふるさとの神社でありながら、私は行ったことすらなかったのです。

大ひのきの横をさらに石段を上っていくとお社(やしろ)がありました。誰もいない、静寂につつまれた午後の境内。同級生たちはここから毎日学校に通っていたのです。そう思うと、なんだか感慨深いものがありました。

そのあと私は整備された農道をさらに奥へ奥へと車を走らせました。私の前には初めて見るふるさとの風景がつぎつぎと現れました。聞き覚えのある集落をいくつも通りすぎると、やがて町の背後にそびえる山の登山口に出ました。

すると、私は小学生のとき、父親と一緒に九州本土で最高峰のその山に登ったときのことを思い出したのでした。そのときもこの登山口から山に入ったのかもしれません。あの頃の父親はまだ若く、父親と腰ひもを結んで、何度も転びながら頂上をめざしたことを覚えています。

車を降りて小雪が舞う草原に立つと、昨日まで横浜にいたのが不思議なくらいでした。なんだかいっきに過去にタイムスリップしたような気分でした。

今回の帰省は、いつもと違って、あちこちの観光名所を訪ねたり、別府だけでなく、長湯、七里田、黒川、湯布院などの温泉に入ったりしました。また、人間嫌いの私にはめずらしく、旧知の人を訪ねたりもしました。なかには30年ぶりに会った人もいました。

なんだか「一家団欒」の章と同じように、近いうちに死ぬんじゃないかと思ったくらいですが、こんな帰省をするようになったというのも、それだけ年を取ったということなのかもしれません。


①2016年2月帰省 長湯ダム

②2016年2月帰省 籾山神社1

③2016年2月帰省 籾山神社2

④2016年2月帰省 籾山神社3

⑤2016年2月帰省 高崎山2
高崎山

⑥2016年2月帰省 高崎山3
高崎山

⑦2016年2月帰省 高崎山4
高崎山

⑧2016年2月帰省 湯布院
湯布院

⑨2016年2月帰省 由布岳
由布岳

⑩2016年2月帰省 鶴見岳山頂
鶴見岳山頂
2016.02.22 Mon l 故郷 l top ▲
2015年2月帰省 116


3泊4日で九州に帰省していたのですが、どうやら風邪を持ち帰ったみたいで体調がすぐれません。

今回は、四十九日の法事のために帰省したのですが、時間的にも余裕がありましたので、田舎の旧友たちと会うこともできました。

みんな、仕事や家庭などにそれぞれ事情を抱えて生きています。特に田舎特有の人間関係に苦悩している様子でした。以前は、「東京に行ってどうするんだ?」と言っていた彼らが、今は逆に「お前が羨ましいよ」「田舎を出て正解だったよ」なんて言う始末でした。要は、田舎のわずらわしい人間関係のなかで生きていくか、都会で孤独に生きていくか、どっちかなのです。

「田舎に帰るつもりはないのか?」と聞かれたので「帰るつもりはない」と答えましたが、だからと言って私にも今の生活に明確なビジョンや思いがあるわけではないのです。むしろ「田舎が嫌だから」という消去法で、「帰るつもりはない」と言っているにすぎないのです。

菩提寺の境内にある実家の墓がかなり傷んでいるので、修復することになったのですが、私はこの墓に入ることはないかもしれないと思いました。修復のために、墓のなかから祖父母と父の骨壷を取り出した際、中の遺骨を手に取って、これで思い残すことはないなと思いました。

法事の翌日もレンタカーを借りて、なつかしい場所やなつかしい人たちを訪ねてまわりました。田舎には滝廉太郎の「荒城の月」の舞台になった有名な城跡があるのですが、久しぶりに石垣に囲まれた山城の跡に上りました。

平日の午後でしたので、ほかに観光客の姿はなく、私はハーハー息を吐きながら石の階段を上りました。考えてみれば、小中学校の頃、「滝廉太郎音楽祭」という催し物には毎年参加していたものの、こうしてゆかりの城跡に上ったのは1度か2度あるくらいです。

誰もいない、ホントに寂寥とした風景のなかに私はいました。途中の石段に、結婚する前なのか結婚直後なのか、若い母がひとりで立って遠くを見つめている写真が我が家にありました。それは、趣味が高じて写真館をはじめた父が撮った写真でした。私は、その写真を思い浮かべながら同じ場所でシャッターを押しました。

城跡の上に行くと、滝廉太郎の銅像がありました。銅像の背後には、子どもの頃からずっと見つづけていたなつかしい山の風景がありました。我が家の裏庭からも同じ風景が見渡せ、子どもの頃、私たちはいつもその風景に抱かれながら過ごしていたのです。

私はふと思いついて、城跡の上から地元に残っている旧友に電話をしました。彼は、「エエッ!」と素っ頓狂な声をあげていました。「家に来いよ」と言われたのですが、記憶が曖昧な上に道路も新しくなっていたりと、いまひとつ道順がわかりません。それで、彼が城跡の下の駐車場まで迎えに来てくれることになりました。

山を下ると、既に旧友は駐車場で待っていました。駐車場には、私と彼の車しかなく、車の横にぽつんと立っていた彼の影が、午後の日差しを受けてアスファルトの上に長く伸びていました。そのときも、私は、彼とこうして会うのもこれが最後かもしれないと思ったのでした。実は、その前に私は、市役所に寄って、自分の本籍を今の住所に移すための「分籍」の手続きをしていたのでした。

こうして田舎の風景のなかにいても、私はどこか田舎から疎外されている自分を感じていました。私は、田舎が嫌で嫌でしょうがなかったし、今もその思いに変わりはありません。だから、なつかしい風景やなつかしい人たちは、よけい哀しいようなせつないような存在として私のなかに映るのでした。


2015年2月帰省 130

2015年2月帰省 138

2015年2月帰省 180

2015年2月帰省 228

2015年2月帰省 195

2015年2月帰省 023

2015年2月帰省 012

2015年2月帰省 109
2015.02.12 Thu l 故郷 l top ▲
母親の容態が悪化したというので、朝いちばんの飛行機で九州に帰りました。

母親は、末期ガンのためホスピス専門の病院で緩和ケアを受けていました。その病院は、街外れの丘の上の1500坪の敷地のなかにある24床の小さな病院で、とても静かな時間が流れている病院らしくない病院でした。入るとすぐラウンジがあり、そこにはピアノが置かれていました。壁にはフジ子ヘミングの版画が何点か掛けられていました。

病院は全室個室で、板張りの広い廊下の途中に母の病室がありました。病室に入ると、酸素吸入のマスクが装着された母が寝ていました。私は、その姿を見て一瞬立ち止りました。あまりの変わりように戸惑ったのでした。私のなかには、張りのある声でおしゃべりをし元気に動き回っていた若い頃の母の姿しかないのでした。

母に近づき、頬に手を当て声をかけると、「ウー、ウー」とうめき声をあげました。妹が私の名前を告げて「帰ってきたよ」と言うと、再び「ウー、ウー」とうめき声をあげていました。

母の担当の看護師さんがやってきて、「お帰りなさい、お母さんが待ってましたよ」と言われました。そして、「あとで先生からお話がありますのでお待ちください」と言われました。

それぞれの病室にはベランダが付いているのですが、ふと、ベランダのほうに目をやると、レースのカーテン越しに板塀に囲われた庭が見渡せ、冬の弱い日差しのなかで小さな白い花が風にゆれていました。母は病室から眺めるこの景色が好きだといつも言っていたそうです。

姉や妹たちは、母は「幸せよ」と言ってました。認知症を患うこともなく、末期ガンが発見されるまで元気に独り暮らしをしていたのです。ホスピスに入ったのも、たまたまベットが空いていたので「とてもラッキーだった」と言ってました。知り合いやタクシーの運転手さんからも「いいところに入りましたね」と言われたというのです。そして、看護師さんたちがホントに親身になってケアしてくれ、自分たちが如何に感謝しているかということを私に切々と話すのでした。私は、彼女たちの話を聞いて、「よかったな」と思いました。

しばらくすると、エプロンをした女性の方が病室にやってきて、「お茶の用意ができましたので、ラウンジのほうへどうぞ」と言うのです。なんでも「お茶の時間」というのがあって、患者や家族のためにお茶を用意してくれるらしいのです。

ラウンジに行くと、ボランティアの人たちなのでしょう、数人のエプロンをした女性の方がいて、「なにがよろしいでしょうか?」と注文を取りにきました。私は、コーヒーを頼みました。

ラウンジには、車椅子に座った40~50代くらいの若い患者さんも来ていました。聞けば、末期ガンだけでなく、難病など不治の病におされた方たちも残された時間をそこで過ごしているのだそうです。

死を前にした時間。それはとても清冽で、そして静謐な時間です。ひとつひとつの物事がゆっくりとその意味と意義を語っているかのようです。私たちは、そんな時間のなかに生きているんだということをしみじみと感じました。

もしかしたら経営的には困難を伴うかもしれない「独立型ホスピス」という終末期医療の”あるべき姿”を実践している病院の院長は、50代半ばのいつも笑みをたたえた温和な表情のドクターでした。

「お母さんはとても上品な方で礼儀正しくて私たちが恐縮するくらいです」「最初、『ポータブル便器を使ってください』と言っても遠慮してなかなか使ってくれなくて、自分でトイレに行ってました」

横に座った担当の看護師さんと二人で、そんな母に関するエピソードを話してくれました。そして、「ホントによくがんばっていましたが、ご家族がそろったので安心したのか、血圧も下がってきました」「おそらく今夜か明日が山場だと思います」と言われました。

姉や妹たちは涙を流して先生の話を聞いていました。でも、私は不思議と涙が出てきませんでした。自分でも驚くくらい冷静に先生の話を聞いていました。

「おそらくこのまま痛みも苦しみもなく自然に息をひきとることができると思います」「それまで皆さんでお母さんを見守ってあげてください」と言われました。背後からは姉や妹たちのすすり泣く声が聞こえていました。

そのあと、担当の看護師さんから、死の間際にはどんな症状を示すかという説明がありました。

私は、先生の話を聞いたあと、仮眠をとるために、2階にある「家族部屋」に行きました。しかし、ひとりになるとたまらず悲しみに襲われ、涙があふれてきました。

一方で私は、悲しみを打ち消すかのように、病院に来て「感動」したことを反芻していました。まず、妹のことです。妹がこんなに献身的に母親の面倒を見ていたとは知りませんでした。それは、想像以上でした。そもそもきょうだいでありながら、妹にそんな一面があることすら知らなかったのです。もうひとつは、ホスピスのことです。前も書きましたが、誰にも看取られずに「福祉専門」の病院で亡くなっていく人も多いなか、手厚い看護が施され人間の尊厳が保たれて最期を迎えることができるというのは、たしかに姉や妹たちが言うように、なんと「幸せ」なんだろうと思いました。私は、先生が口にした「自然に」ということばをあらためて思い浮かべました。

「家族部屋」の窓から外を見ると、そこには冬の午後の山里の風景がありました。以前はこのあたりはみかん畑だったそうです。そのため、病院の下の道路からは、私たちが隣町の高校に通っていた頃、坂道の途中からいつも見ていた同じ海が見渡せるのでした。私は、この風景を見るのもこれが最初で最後なんだなと思いました。

翌日、母は文字通り眠るように静かに息を引き取りました。



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2014.12.28 Sun l 故郷 l top ▲
最近、朝だけでなく夕方も歩いています。散歩なんてひと昔前までは考えられなかったことです。それだけ年を取ったということなのでしょう。

父親は70才で亡くなったのですが、それまでは近所の人たちと毎朝ウォーキングをしていました。どうも「歩け歩け」運動の世話人のようなこともやっていたようでした。

たまに実家に帰って朝まで起きていると、朝の5時すぎに「ウタ」(実家で飼っていた柴犬)の鳴き声が聞こえるのです。毎日ウォーキングに連れて行っていたので、「朝だよ。はやく行こうよ」という催促なのでしょう。

そして、父親がごそごそ起き出し身支度をして、「ウタ」と一緒に家を出るのでした。その様子を2階の窓から見ていると、朝もやのなかで「ウタ」が如何にも嬉しそうに飛び跳ねているのが見えました。父親はそんな「ウタ」に先導されるように、町外れに向かって黙々と歩いて行くのでした。私はそんな父親のうしろ姿を見ながら、年老いていくことのせつさなやかなしみのようなものをしみじみ感じたものです。

しかし、気が付いたら、いつも間にか私自身が同じようなことをしていたというわけです。

夕方の散歩は朝と違って、なるべく今まで通ったことのない道を歩くようにしています。今日はゲリラ雷雨の予報が出ていましたので中止にしましたが、昨日は、大倉山から新横浜、新横浜から上麻生道路を通って白楽駅まで歩きました。地元の人以外にはわからない話でしょうが、都合7~8キロくらい歩いたのではないかと思います。そして、帰ってからGoogle やYahooの地図でおさらいをするのも楽しみです。

地図を見ているときもそうですが、歩いているときも、いろんな想像力をはたらせている自分がいます。「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできない」と寺山修司は言ったのですが、家でパソコンの前に座っているより、散歩などをしているときのほうが、はるかに想像力が解き放されているような気がします。それが「身体的」ということではないでしょうか。大事なのは、観念ではなく「身体」なのです。ちなみに、ネトウヨがパソコンの前でふくらませているのは、想像力ではなくただの妄想です。

ところで昨日、夕暮れの街を歩きながら、ずっと私の頭のなかを占領していたのは、「年をとっていいことなんかなにもないよ。はやく死にたいけど、なかなか迎えが来んのよ」という母親の声でした。

”財政危機”にある横浜市は、最近やたら重箱の底をつつくようにあれこれ言ってくるのですが、先日も市役所から問い合わせがあったので、その件で田舎の母親に電話をしたのでした。しかし、90才近くの母親は益々トンチンカンになっていました。半年前まであんなにしっかりした会話ができていたのに、何度も同じことをくり返さないとまともな答えが返って来ないようになっていました。

「預金通帳は今ないよ。××(妹の名)が預かると言っち持って行った」
「なに言ってるの、預金通帳の話なんかしてないよ」

まったく人聞きが悪いのです。知らない人が聞いたら、振り込め詐欺の電話のように思われるかもしれません。もっとも、電話は最初から不用心でした。

「オレだけど」
「エッ」
「オレ」
「ああ、××(私の名)ね」
「そう、元気?」

考えてみれば、これって典型的な「オレオレ詐欺」のパターンです。それから母親は、私が半分も理解できないような田舎の出来事を延々と話しはじめるのでした。

でも、冗談なんか言えるような心境ではないのです。親不孝な息子は、母親のことばになんだかひどく責められているような気がするのでした。そして、なんだかバチ当たりな人間のように思えてきたのでした。

まだ若かった頃、女の子とデートをしていると、ふと田舎でひとり暮らししている母親のことを思い出し、おれだけがこんな楽しい時間をすごしていていいんだろうかと、うしろめたい気持になることがありましたが、最近はそんな気持すら忘れていたのです。これじゃバチが当たっても仕方ないなと思います。
2013.08.21 Wed l 故郷 l top ▲
武蔵野稲荷神社1

九州の友人から電話があり、同級生たちの近況を聞きました。親が認知症になり施設に入っているとかいった話が多く、おれたちももうそういう年になったのかとしみじみ思いました。そして、以前「哀しい」という記事で紹介した、作家の盛田隆二さんの「子どものように泣く父」というエッセイを思い出しました。

糖尿病のために視力も弱り、既に人工透析もはじまったある同級生は、最近子供が登校拒否になり、苦悩しているそうです。しかも、彼のお母さんも認知症で施設に入っているのですが、面会に行っても息子の顔もわからず、ただ虚ろな目で一点を見つめているだけなのだとか。電話がかかってきて、「生きていてもなにもいいことなんてない。おふくろが逝ったら、おれも死にたいよ」と嘆いていたそうです。

その話を聞いて、高校生の頃、彼と海に行ったことを思い出しました。ちょうど今時分でしたが、あのときのはじけるような笑顔はもう戻ってこないのだろうか、と思いました。

私たちが出た高校は一応普通科の進学校でしたので、親たちも総じて教育熱心でした。東京の大学を受験するときも、わざわざ付き添いで来る親もいたくらいです。あの頃、親たちはみんなバイタリティにあふれ、「勉強しろ。勉強しろ」と子どもの尻を叩いていたのです。でも、もうそんな元気な親の姿はありません。

もちろん我が家とて例外ではありません。しかし、私はこうして現実から目をそむけ、逃げているだけです。

今日、用事で練馬のとある街に行きました。駅の近くを歩いていたら、線路沿いに神社があるのに気付きました。鳥居をくぐり朱色の幟旗に囲まれた参道を進むと、瀟洒な社殿がありました。あたりはひっそりとして、私以外、参拝者は誰もいませんでした。柏手を打って手を合わせていると、襟首から汗がたらりと滴っているのがわかりました。そして、なんだか泣きたくなるような気持になりました。

この年になると、ホントに神や仏がいてほしいと思いますね。たとえ<空虚>であってもです。

武蔵野稲荷神社2

武蔵野稲荷神社3
2012.07.25 Wed l 故郷 l top ▲
同じ田舎の人間で、すごく仲のいい友達がいました。年齢はひとつ上だったのですが、中学のとき、同じ野球部に入って急に親しくなりました。

高校はそれぞれ親元を離れて別の学校に行ったのですが、休みで実家に帰ったときは、毎日家に遊びに来て、他愛のないおしゃべりをして時間を潰したりしていました。また、彼が東京の大学に進学してからも、休みになり帰省すると、やはり毎日家にやって来ました。

私の大学受験のときも、試験の前夜は彼の下宿に泊まって、試験会場まで付き添ってくれました。あいにく受験には失敗したのですが、そのときも、合格発表をみに行った彼から「サクラチル、ムネン」という電報が届いたのを覚えています。

どうして急に友達のことを思い出したのかと言えば、たまたま仕事先の知り合いの方と話をしていたら、渋谷の富ヶ谷にある某病院の話が出たからです。知り合いの方はその病院に入院していたそうですが、実は私も予備校に通っていた頃、その病院に受診したことがあったのです。

検査の結果がよくなくて、先生から「このままでは取り返しのつかないことになるので、いったん田舎に帰って、身体を直してから再挑戦したほうがいいんじゃないか」と説得されました。そして、九州から父親が迎えにきて、東京を引き上げることになったのでした。

そのとき一緒に病院に行ってくれたのも彼でした。私は既に体重が20キロ近く減って、大泉学園に借りていたアパートでほとんど寝たっきりの毎日を送っていました。上京する前に、その大泉学園のアパートを探してくれたのも彼でした。私の予算で探したら大泉学園まで行ってしまった、と言っていました。

そんななか、突然彼がアパートにやってきたのです。連絡がないので心配して、目黒からわざわざ訪ねてきたのでした。そして、私の様子をみた彼は、びっくりして、「とにかく病院に行こう」と言いました。しかし、どこの病院に行っていいのか、あてもありません。それに、病院に行くお金もありません。すると、彼が、「学校に行く途中に病院があったけど、あそこがいいんじゃないか」と言うのです。彼は通学のバスのなかから、山手通り沿いにあるその病院をいつもみていたらしいのです。お金は彼が親しくしている近所のパン屋さんから借りることになりました。そして、二人で電車とバスを乗り継いで富ヶ谷の病院に行ったのでした。

彼は大学を卒業すると、そのまま東京の会社に就職しました。そして、近所のパン屋さんで働いていた女性と結婚しました。その後、私も再び上京しました。しかし、いつの間にか会うこともなくなりました。もう20年近く前、新宿駅近くの路上でばったり会って、一緒に食事をしたのが最後です。年賀状も途絶え、連絡先もわからなくなりました。新宿で会ったとき、彼が「もう帰る家がなくなった」とさみしそうに言っていたのを覚えています。田舎の両親も亡くなり、実家も既に人手に渡っていたからです。

昔の恋人に会いたいかと言えば、私の場合、ひとりを除いてそんなに会いたいとは思いません。でも、友達はいつかは会いたいと思います。恋人はいつまでも恋人ではないけれど、友達はいつまで経っても友達なのです。「ピカピカの1年生、友達何人できるかな?」というのも、案外、人生の深いところを衝いているのではないか、と冗談ではなく思うことがあります。武者小路実篤もむげにバカにできない気分です。

商業的には「恋愛」のほうがお金になるので、恋愛至上主義と言われるように、世間やマスコミではやたら「恋愛」がもてはやされますが、しかし、やっぱり「恋人より友達」なのだと思います。特に同性の友達は大事です。年をとればとるほどそれを痛感させられます。
2012.04.19 Thu l 故郷 l top ▲
ラジオから流れてきた森山直太朗の「さくら」を聴いていたら、いろんな思いが頭の中をかけめぐり、しみじみとした気持になりました。この時期になると、「春歌(はるうた)」などと称して、やたら卒業シーズンにあわせた歌が発売されますが、やはりこの歌を超えるものは出てないように思います。

昨日、久しぶりに田舎の母に電話しました。

「あんた、身体はどうな? いつも仏様にお参りするときはあんたの身体のこともお祈りしちょるんよ」

そんな母の声を聞くと、やはり胸にこみあげてくるものがあります。

吉本隆明氏は、「母の型式は子どもの運命を決めてしまう。この概念は存在するときは不在というもの、たぶん死にとても似たものだ」(「母型論」)と書いていましたが、哀しいときやつらいとき、やはり、知らず知らずのうちに母を恋うる歌を奏でたくなる自分がいます。余談ですが、日本人がもっている抒情というのは、こういった心性から生まれるのかもしれません。

桜の花もいっせいに咲き始めました。都心の地下鉄の駅では真新しいスーツに身をつつんだ若者のグループも目につくようになりました。そんな光景が今年はいつになくまぶしく見えて仕方ありません。
2010.04.01 Thu l 故郷 l top ▲
竹田市・町並み
           おおいた見ちょくれアルバム 竹田市より

人生には忘れられない風景というのがあります。と言っても、それは旅行かなにかで行った特別な風景とかではなく、日常で遭遇したなんでもない風景なのです。でも、それがいつまでも心の中に残っていることがあるのです。

私は、子どもの頃、運動会の途中にそっと抜け出して、ひとりで校舎の裏に行くのが好きでした。遠くから歓声やアナウンスの声が聞こえる中、まるでそこだけ置き去りにされたかのようにひっそりと静まりかえり、えも言われぬ寂寥感につつまれているのでした。それはいつもと違う風景でした。と言って、別に暗い性格の子どもだったわけではなく、むしろ逆だったと思いますが、それは誰にも知られたくないヒミツとして自分のなかにありました。

そういった心性は、たとえば、終着駅のある街が好きだとか、横浜の場末っぽいところが好きだとか、大人になった今も残っているように思います。

若い頃、九州の地元の会社に勤めていたことがありました。そのときのことですが、ある夜、竹田市にいる友人に会いに行ったのです。商店街の中にある友人の家を尋ねたところ、友人は不在で、帰るまで時間を潰すことになりました。それで、まち外れにあるパチンコ屋に入りました。小一時間、客もまばらなその店で時間を潰して、再び友人の家に行きました。

そして、既に帰宅していた友人と近くの小料理屋に行きました。古い城下町の通りは人っ子ひとり歩いてなく、まるでゴーストタウンのようでした。土塀が連なる路地に入ると、いっそう夜が濃くなっていく気がしました。小料理屋でなにを話したのか、まったく覚えていませんが、それから間もなく私は再び上京することになったのでした。もしかしたら、東京に行くことを相談に行ったのかもしれません。小料理屋を出たとき、路地をふきぬける風がやけに肌寒く感じたのを覚えています。

たったこれだけの話ですが、でも、今でもその風景が忘れずに残っているのです。と言うか、そのときの寂寥感のようなものが忘れられないのです。あれ以来、竹田にも行ってませんが、その後、友人は家庭を築き、しっかり地域に根付いた人生を送っています。一方、私は、相変わらず行きあたりばったりの風来坊のような生き方をつづけています。今思えば、あのとき私は、二度と田舎には戻らないということも含めて、あの風景の中にひとつの覚悟を決めたような気がするのです。
2010.03.03 Wed l 故郷 l top ▲
九州うまかもん市

スーパーに行ったら、「春を先どり!九州うまかもん市」というのをやっていて、パンフレットの中に「九州ご当地人気グルメ」がレシピ付きで紹介されていました。大分からは「とり天」と「ぶりのあつめし」が紹介されていましたが、どちらもなつかしい味です。

私は、別に啄木のように石もて追われたわけではないのですが、田舎(ふるさと)はあまり好きではなく、たとえ野垂れ死にしても田舎には帰らないと思っているくらいです。私にとってふるさとは”遠心力”ですが、食べ物だけは別です。

「とり天」は言うまでもなく鶏肉の天ぷら、要するに大分版フライドチキンです。「ぶりのあつめし」というのはぶりの切り身を醤油とみりんのタレに漬けたもので、これをアツアツのご飯の上に乗せてお茶漬けで食べるのです。ただ、「ぶりのあつめし」という言い方は初耳で、私達は「りゅうきゅう」と言ってました。ちなみに、ウィキペディアで調べたら、「あつめし」という言い方は県南の方で使われているようです。ぶりの刺身を買ってきたのですが、食べたあと、「しまった、『りゅうきゅう』にすればよかった!」と思いました。

もちろん、こちらでも大分や九州の味をウリにしている店はありますが、とにかく高いのです。私達には家庭料理のイメージしかありませんので、よけいそう感じます。同じ郷土料理のかしわ飯(鶏肉=かしわ入りのご飯)の店にも行ったことがありますが、都心のビルの中にあるお上品な店で、なんだか大分の味って感じがしませんでした。銀座には大分県のアンテナショップ(?)の大分料理の店がありますが、行ったことのある同郷の知人達は口をそろえて「高すぎる」と言ってました。坊主憎けりゃではないですが、なんだかこういったところにも田舎のいやらしさ(狡猾さ)が垣間見えるような気がしてなりません。
2010.02.05 Fri l 故郷 l top ▲
今日、田舎の母から小包が届きました。送り状に「ピオーネ」と書いていましたので、ブドウのようです。ふがいない息子は小包を開ける勇気さえなくそのままにしています。老いた母のことを考えると、すごく責められているような気がしてつらい気持になります。

財産をひとり占めした身勝手な永井荷風は、実家を継いだ弟から絶縁状態におかれていました。そのため、実家に帰ることもままなりませんでした。母親の病状が悪いと告げられた日、荷風は『断腸亭日乗』にこう記しています。

昭和十二年四月三十日。 くもりにて南風つよし。午後村瀬綾次郎来りて母上の病す々みたる由を告ぐ。されど余は威三郎が家のしきみを跨ぐことを願はざれば、出で々浅草を歩み、日の暮る々を待ち銀座に飯(注:原文は旧字)し富士地下室に思ふ


そして、母親が亡くなったときも、臨終に立ち会うこともなく葬儀にも出なかったそうです。しかし、次のような句を詠んで、ひとり夜を泣きあかしたのでした。

泣きあかす夜は来にけり秋の雨
秋風の今年は母を奪いけり

以後、荷風は、母親の形見である裁縫セットを生涯大事にして、戦争で疎開するときも肌身離さず持ち歩いたのだそうです。

荷風のこの気持は痛いほどわかります。
2009.09.08 Tue l 故郷 l top ▲
今日、田舎の母親から突然、ぶどうが届いたのでびっくりしました。実家はぶどう農家でもないし、近所にぶどう農園があるわけでもなく、どうしてぶどうなんだと思い、母親に電話をしました。すると、聞いたこともない名前をあげて、その人が「ぶどうで成功した」ので、毎年親戚などにぶどうを贈っているのだと言ってました(私の元に届いたのは今年が初めてでしたが‥‥)。

そして、突然、「あんたは自民党?民主党?どっちなんね?」と訊いてくるのでした。なんでも今度の総選挙がどうなるか、今一番の楽しみなのだとか。

「どっちでもないよ」
「あんたは民主党じゃないの?」「あたしは民主党は組合が支持しちょるけん、民主党が勝ってもあんまり良くはならん気がするんよ」
「じゃあ、自民党支持なん?」
「うーん、でもなあ、田舎は介護保険が高こうてな。年金から6千円も引かれるからたまらんのよ。それで今、迷っちょるとこ」

なんだかある意味で国民の声を代弁している気がして、妙に感心しました。「政治の幅は生活の幅より狭い」と言ったのは埴谷雄高氏ですが、しかし、介護保険や後期高齢者医療制度などは、田舎で雀の涙ほどの年金を支えに老後を送る母親にとっては切実な政治の問題でもあるのしょう。「ふがいない息子」としては、そんな母親にいくらかでも希望を与えてくれるような政治が出現することを願うばかりです。

それにしても、年老いた母親の声を聞くといつもせつない気持になります。電話を切ったあとも母親の声がずっと耳元に残っていました。そして、母親が喋ったことを何度も反芻している自分がいました。
2008.09.13 Sat l 故郷 l top ▲
昨日、帰宅したら留守電に九州の母親からメッセージが入っていました。

「大分の××××(氏名)と言います。ゆうべ、夢を見て、気になり電話しました。元気にしてますか?」

私は、それを聞きながら、胸が塞がれるような気持になりました。すぐに電話しようかと思いましたが、どうしても電話することができませんでした。電話して母親の声を聞くといっそう哀しくなると思ったからです。

そして、先日、日本経済新聞に載っていた作家の盛田隆二さんの「幼児のように泣く父」というエッセイを思い出しました。

80才を越えてボケの症状がひどくなってきたお父さんを介護老人施設に入居させることを決意し、施設に連れて行って、盛田さんが帰ろうとすると、お父さんが突然、幼児のように泣き出したのだそうです。

そのときの盛田さんの胸中は察してあまりあるものがあります。

人間は誰しも老いから逃れることはできません。でも、親の老いた姿はどうしてこんなに哀しいんだろうと思います。

10数年前、入院していた父親の容態が急変したという連絡をもらって九州に帰ったときのことでした。母親は既に父親に付添って毎日病院で寝泊りしていました。

容態が持ち直したので再び東京に戻る日、「じゃあ、ぼつぼつ帰るよ」と言って病室をあとにした私を母親は階段のところまで見送りに来ました。

「じゃあ、また」

そう言って階段を下り、途中の踊り場でふと階段の上を振り返ったときでした。母親が両手で顔を覆って泣いていたのです。

私は見てはいけないものを見たような気がして、急ぎ足で階段を下りて行きました。

「哀しみは人生の親戚」と言いますが、その言葉は私の中ではあのときの母親の姿と重なっています。

結局、人生というのは、最後は「哀しい」という言葉でしか表現できないものなのでしょうか。
2007.05.10 Thu l 故郷 l top ▲