在日朝鮮人のことを口にするのが、なんだか憚られる空気があります。それは、ありもしない“在日特権”なるものを妄信するネトウヨが街頭にまで進出し、耳を塞ぎたくなるような差別的暴言を垂れ流した反動と言えるのかもしれません。萎縮する(させる)ということと差別を解消するということは、まったく別問題でしょう。むしろ悪質な差別を地下に潜らせる結果にもなりかねないように思います。

ここで言う「在日朝鮮人のこと」というのは、在日の歴史的な経緯や政治的な側面のことではありません。身近にいる在日との付き合い方のことです。「身近にいる在日」というのは、エリートやインテリや、あるいは政治的思想を共有する人たちのことではありません。たとえば、『あんぽん』で描かれていた孫正義の身内のような、私たちと生活圏を共有し社会の基層を形成している、(私たちと同じように)矛盾だらけの人生を生きるごく普通の人たちのことです。

このブログでも書いていますが、私自身、若い頃、在日の女性と8年近く付き合った経験があります。もちろん、二人にとって、在日が置かれた歴史的な経緯や政治的な側面など、まったく関係のないことでした。とは言え、そういった側面が二人の意図とは別に、ときに顔を覗かせることがあったのも事実です。

朝鮮総連に勤める叔父さんから襟首を掴まれ、「お前のような日本人には××(彼女の名前)はやらんからな」と言われたとき(それも招待された親戚の結婚式の席で)、差別というのは、差別する側だけでなく差別されるほうにも深刻な問題をもたらすものだなと思いました。だからと言って、日本人は「朝鮮の人たち」にひどいことをしてきたのだから、「朝鮮の人たち」が言うことは謙虚に受け止め、まず謝ることが大事だ、そして、相手の立場になって話せば許してもらえるはずだ、なんて考えはまったくありませんでした。ただ「なんと礼儀知らずのバカなんだろう」と思っただけです。

「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私はたまたま在日朝鮮人の家庭に生まれた女の子と出会い恋に落ちただけです。歴史や政治と恋をしたわけではないのです。

もちろん、日本人と朝鮮人との違いを感じることは多々ありました。私は、彼女と付き合っている間、ずっとその違いについて考えてきたつもりでした。

前も書きましたが、私はよく彼女に「朝鮮人は勝ったか負けたか、損か得かでしか判断しない」と言ってました。一方、彼女は、「日本人はずるい、表と裏があるのでなにを考えているかわからない」と言ってました。

最近、私は、仕事の関係で在日朝鮮人とトラブルを経験しました。それは、仕事そのものより、人間関係におけるトラブルと言っていいでしょう。そこにも、日本人と朝鮮人との違いがよく出ているように思います。

一緒に仕事をはじめた当初、相手はやたら私にケンカを吹っかけてきました。何かにつけケンカ腰で、すぐ怒鳴りはじめるのです。それで、私も怒鳴り返したりしていましたが、そこには日本人と朝鮮人の他人に対する考え方の違いが出ているように思いました。

朝鮮人にとって、他人は「勝ったか負けたか」の競争相手、ライバルなのです。他人との関係において、まず優位に立つことが大事なのです。それは、霊長類かおこなうマウンティングを想像すればわかりやすいかもしれません。

朝鮮人に協調という観念はあまりありません。日本人の場合、小学校の通知表にも「協調性」の項目があるように、まず協調することが大事とされます。そのためには、本音と建て前を使い分け、みずからを殺して気を使い、空気を読まなければならないのです。それはそれで、とても疲れることです。

では、朝鮮人同士だとどうなるかと言えば、当然、我の強い人間同士がぶつかるわけですからケンカになります。知り合いの韓国人に聞くと、ソウルなどでは夜になるとあちこちでケンカをしているそうですが、朝鮮人がよくケンカをするというのは故なきことではないのです。

相手がケンカを吹っかけてきても、それにひるんでいると益々かさにかかってきます。ひるむと負けになり、優劣が決せられるのです。負けるが勝ちなんて考えはないのです。朝鮮人が体面を重んじるというのも同じです。「ソウル(東京)を火の海にする」「いつでも核戦争の用意はある」などという北朝鮮の大言壮語も同じでしょう。

「勝ったか負けたか、損か得か」で価値判断をする朝鮮人にとって、大事なのは結果です。結果がすべてで、途中の論理的な整合性や倫理的な妥当性などは二の次です。「嘘を付いてでも言い張る」というのはちょっと言いすぎかもしれませんが、とんでもない屁理屈で自己を正当化するのにびっくりすることがあります。朝鮮人が総じて口達者で雄弁なのも、そういった背景が関係しているように思います。

対馬の寺で仏像三体が盗まれた事件で、窃盗団は韓国で逮捕され有罪判決が出ました。しかし、盗まれた仏像は(行方不明の一体を除いて)一体は返却されたものの、もう一体が未だ返ってきていません。韓国の寺が、盗まれた仏像はもともと韓国に所有権があり、日本が不当に略奪したものであるから返還する必要がないと訴え、裁判所もその訴えを正当と認める判決を出したからです。もっとも、その根拠は、神功皇后や豊臣秀吉の時代の話です。

仮に略奪されたものだとしても、被害にあった対馬の寺は法律で言う「善意の第三者」です。不法な手段によって盗まれたものが現状回復されるのは、法律のイロハだと思いますが、韓国の裁判所には近代法の常識さえ通用しないかのようです。そこにも、論理的な整合性や倫理的な妥当性を問わない韓国人特有の屁理屈が表れているように思います。

朝鮮人は、「日本人と付き合うのはめんどうくさい」と言います。なかでも彼らがよく口にするのは、日本人の「お礼の習慣」についてです。協調や協力という観念に乏しい彼らにとって、たとえばものを貰ったり借りたりしたらお礼をしてお返しをするような習慣は、たしかにめんどうくさいものでしょう。

朝鮮人は、みずから進んで仕事をするという意識がやや欠けるところがあります。それを指摘すると、逆に、(仕事をしろと)言わないのが悪いのだという屁理屈が返ってきて唖然としたことがありました。

朝鮮人は、日本人のように細かくなく、おおざっぱなのです。それは、個人だけでなく、社会的な慣習や制度においても同様です。文化の違いは、私たちが想像する以上に大きいのです。それを認識し指摘することは、ときに言い方に粗雑な部分があっても、決してヘイト・スピーチとは言えないでしょう。

通販でものを買うのに、電話口で通販会社の担当者を怒鳴り付けているのを聞いたとき(買った商品についてのクレームではなく、今から注文するのにその説明が悪いと難癖を付けているのです)、「日本人をなめているのか」と言ってケンカになったことがありますが、そんな民族性に還元するようなもの言いも、ヘイト・スピーチになるのだろうかと思いました。一方で、そうやって怒鳴り合いをするくらいでなければ、相互理解の道は拓けてこないのでないか、と思ったりもするのです。


関連記事:
『あんぽん 孫正義伝』
崔実「ジニのパズル」
『帝国の慰安婦』と日韓合意
2017.07.25 Tue l 日常・その他 l top ▲
夕方、突然、外からお囃子のような音が聞こえてきました。カーテンを開け、ベランダに出ると、近所のスーパーの駐車場に、いつの間にかテントが張られ、提灯に囲われたヤグラが組まれていました。日が落ちた住宅街のなかで、その一角だけが灯りに照らし出され、幻想的な雰囲気さえ醸し出していました。そう言えば、商店街の掲示板に、盆踊り大会を告示する貼り紙があったことを思い出しました。

ただ、上京して30年近く経つものの、未だに7月の盆踊りには戸惑いを覚えてなりません。と言うのも、田舎ではお盆は月遅れの8月でしたので、私のなかには、盆踊りは夏の終わりを告げるイメージがあるからです。お盆がすぎると、川に泳ぎに行くことも禁止されました。日中、近所の子どもたちの嬌声が飛び交っていた川べりも人影がなくなり、いつもの風景に戻っていくのでした。お盆がすぎると、そんな祭りのあとのさみしさのような気持になったものです。

表の道路を見ると、浴衣姿の子供たちが、親に手を引かれてスーパーの駐車場に向かっていました。私たちが子どもの頃、浴衣は普段着(寝巻)でした。それが今では、祭りや花火大会や盆踊りなどハレのときに着るものに”出世”し、華やかなイメージさえ付与されています。派手な帯などを見るにつけ、なんだかコスチュームのようで、花火大会の日に、これ見よがしに電車に乗り込んで来る若者たちは言わずもがなですが、私は、子どもたちの浴衣姿にも、どうも違和感を覚えてならないのでした。

昔、夏の夕暮れどきになると、近所の大人たちは外に出て、家の前にある椅子や花壇の端に腰かけ、よくおしゃべりに興じていました。男たちは山下清が着ていたようなランニングシャツにステテコ姿で、話をしながらしきりに団扇で寄って来る蚊を払いのけていました。女たちは、一様に割烹着姿で、頭には手ぬぐいを姉さんかぶりに巻いていました。

私たち子どもは、手足が真っ黒になるまで遊んだものです。遊び疲れて帰ってくると、母親は「さあ、さあ、ご飯にしようかね」「早く手と足を洗いなさい」と言って腰を上げるのでした。家のなかからは、夕餉の匂いとともに裸電球の橙色の灯りが漏れていました。そんな光景を思い出すと、なんだか胸を突き上げるようななつかしさを覚えます。あのとき、家の前で夕涼みをしていた父親も母親も、そして、近所のおいちゃんやおばちゃんも、もう誰もいないのです。

今は田舎でもそんな光景を見ることはなくなりました。せいぜいが外から帰ってきた猫を見つけて、「ミーちゃん、さあ、さあ、ご飯にしようかね」なんて言うくらいでしょう。

ベランダからスマホで盆踊りの様子を撮ったのですが、パソコンに保存する際、操作を間違えて画像を消去してしまい、残念ながら画像はありません。
2017.07.23 Sun l 日常・その他 l top ▲
ときどきこのブログをやめようかと思うことがあります。特に「社会・時事」のカテゴリーに入っている記事をすべて削除したい衝動に駆られるのです。あとで読み返しても、くだらない床屋政談としか思えません。これではネトウヨと変わらないでしょう。

私のブログで「社会・時事」カテゴリーの記事が多くなったのは、3.11以後です。しかも、「社会・時事」カテゴリーの記事が多くなるにつれアクセスも伸びてきました。世の中の人たちも、3.11以後、原発事故などにより政治的な関心が高くなったのでしょう。スマホによるSNSの普及がそれに輪をかけたような気がします。私も、いつの間にか、反原発や反ヘイト・スピーチや反安倍の周辺にいるような人物が発信するTwitterを定期的にチェックするようになっていました。

しかし最近は、その手のTwitterも、所詮は“政治ごっこ”にすぎないのではないかと思うようになりました。ネットによって政治が身近になったと言われますが、しかし、夜郎自大にそう錯覚しているだけのような気がしてなりません。

一方で私は、アナーキストなどが使う“反政治”ということを考えるようになりました。政治なるものに対して徹底的に絶望し、あらゆるものを否定する。今の世の中でいちばん欠けているのは、そういった絶望する思想なのかもしれません。

私が書きたかったのは、下記のようなブログです。ことばの端々に人生が投影されているような、そんな「私語り」のブログ。その技量があるかどうかは別にして、世の中に向けて発信するというような大それた(勘違いした)ものではなく、日々の移ろいを記録する、そんな自分に向けたブログをホントは書きたかったのです。

神戸市公式サイト
「ごろごろ、神戸2」
第7回 私の東京

私たちは、普段政治なるものを考えて生きているわけではありません。私たちにとって、政治なんてどうだっていいのです。それこそ「取るに足らないもの」です。もっとほかに考えなければならないことはいくらでもあります。本末転倒した床屋政談のようなブログが、あとで読み返して自己嫌悪に陥るのは当然と言えば当然かもしれません。


関連記事:
政治なんてものはない
2017.07.14 Fri l 日常・その他 l top ▲
小さき花愛でてかなしき名も知らねば 君の肩に降る六月の雨

このところ体調がすぐれず、家では寝ていることが多いのですが、そうやって床に臥せっていると、やたら昔のことが思い出されてならないのでした。

実家では、子どもの頃、ジョンという名前の犬を飼っていました。私がまだ小学校の低学年のとき、父親が捨てられていた仔犬を拾ってきたのです。雑種の赤毛の犬でした。

最初は、床の下で飼っていたのですが、大きくなると裏の物置小屋のなかで飼っていました。食事は、もちろん残飯でした。私たちが食べ残したご飯に味噌汁をかけたものが多かったように思います。

ずっと繋がれたままなのでストレスがたまっていたのか、人を見るとやたら吠えて飛びかかるような犬でした。それで、よけい繋がれることが多くなりました。

当時は、今のように散歩なんて洒落た習慣はなく、放し飼いの犬も多かった時代です。私たちもよく犬に追いかけられていました。犬に追いかけられ木に登って難を逃れたものの、犬が木の下から退かないので木から降りられなくなり、半べそをかいたなんてこともありました。

発情期になると、オス犬たちが群れをなして通りをうろついていました。通りで犬が交尾をしている光景もよく目にしました。私たちがはやし立てると、恍惚の表情のオス犬はさらに興奮して激しく腰を振るのでした。

近所の大人がやってきて、「子どもが見るもんじゃない」なんて言いながら、交尾をしている犬に水をかけるのでした。すると、臀部がくっついた二匹の犬は、ベーゴマのように通りの真ん中でクルクル回り続けるのでした。

また、馬喰(家畜商)のオイさん(オジサンのことを九州の田舎ではそう言ってました)が、釜を持って交尾した犬を追いかけたこともありました。私たちは、その様子を手を叩いて笑いながら見ていたものです。

あるとき、近所の朝鮮人のオイさんがやってきて、ジョンを見るなり、「こういう赤犬が美味しいんじゃ」と言ったのです。私は、ジョンが食べられるんじゃないかと心配しました。父と母は、「子どもの前であんなことを言って」と怒っていました。私は、そのことを「うちのジョン」という題で作文に書きました。

二十歳の入院したときに、ジョンは亡くなりました。見舞いに来た父親からそう告げられたとき、窓の外を眺めながらしんみりした気持になったのを覚えています。

つぎに我が家に犬が来たのは、もう私が会社勤めをしているときでした。休みで実家に帰ったら、こげ茶色の仔犬がいたのです。姉が知り合いからもらってきたということでした。既に名前もウタと付けられていました。

ウタの食事は、残飯ではなくドッグフードでした。犬や猫も、既にペットと呼ばれるようになっていたのです。ウタは柴犬で、家の土間で飼っていました。もうその頃は、犬を放し飼いする家もなくなっていました。と言っても、今のように街中でトイプードルやチワワを見かけることはめったにありませんでした。小型犬を飼う家はまだ少なかったのです。

ウタは、私が実家に帰ると、私の足にしがみついて離れようとしませんでした。また、私が傍に行くと、すぐゴロンと横になってお腹を見せるのでした。

あるとき、ウタが行方不明になったことがありました。相変わらず犬を散歩する習慣はなかったので、朝と夜、トイレのために外に放していたのですが、そのまま帰って来なったのです。連れ去られたか、あるいは交通事故に遭って死骸を捨てられたのでないかと親たちは話していました。

ところが、それから1週間経った頃、父親が裏山を歩いていたら、竹藪のなかからこちらを伺っているウタに気付いたのだそうです。驚いた父親が近付いて行くと、ウタは逃げるのだとか。それで、父親は名前を呼びながら懸命に追いかけ、やっと捕まえて家に連れて帰ったということでした。

しかし、そのときのウタはガリガリに痩せて、全身がダニだらけで汚れていたそうです。往診に来た獣医(と言っても、日ごろは馬や牛を診るのが専門ですが)は、車かなにかにぶつかってパニックになり、山に逃げ込んだのではないかと言っていたそうです。

ウタが亡くなったのは、私が上京したあとでした。早朝、母親から電話がかかってきて、沈んだ声で「今、ウタが死んだよ」と告げられたのでした。その数年前には、既に父親も亡くなっていました。

ジョンが死んだときは、死骸を裏山に埋めたのですが、ウタは業者に頼んで火葬して永代供養したそうです。田舎にもいつの間にかペットの時代が訪れていたのです。

ペットロスになったという女性は、姑が死んだときより愛犬が死んだときのほうが数倍悲しかったと言ってましたが、その気持はわからないでもありません。

こうして体調が悪く弱気になっているときに、まるで走馬灯のように昔飼っていた犬の思い出がよみがってくるというのも、自分のなかで彼らがいつまでも変わらない存在としてあるからでしょう。人との関係は、身過ぎ世過ぎによって、ときにその関係が元に戻らないほど変化を来すことがあります。そのたびに私たちは傷付き、それを哀しいものとして受け止めるのです。でも、少なくともペットとの間で私たちは傷付くことはありません。だから、(人間の手前勝手なエゴを慰謝するものであるにせよ)ペットは良い思い出として、いつまでも心に残るのでしょう。
2017.06.03 Sat l 日常・その他 l top ▲
20170521_152619.jpg


知り合いからチケットをもらったので、今日の午後、川崎の等々力陸上競技場でおこなわれた「セイコーゴールデングランプリ陸上2017」を観に行きました。

8月にロンドンでおこなわれる世界陸上の代表選考会も兼ねた、国際陸連公認の大会でしたが、しかし、向かい風が吹いていたということもあって、記録は総じて平凡でした。

大会名を見てもわかるとおり、セイコーが「特別協賛」し、TBSテレビでも中継されたのですが、そのためか、なんだかショーのような要素が強い大会でした。大会を盛り上げ、運営費をねん出するには仕方ない面もあるのもしれませんが、レースを終えた有名選手たちに、メディアの撮影用に、観客席に行って観客たちとハイタッチをするように進行役のスタッフが促すのでした。参加標準を突破できず不本意なレースに終わった福島千里選手も、スタッフから促され、撮影用(?)に設えた観客席に行って、お定まりのハイタッチをしていましたが、なんだかかわいそうな気がしました。

私の隣の席の中年女性は、カメラマニアのようで長尺の望遠レンズが付いたカメラを構えていましたが、隣で長尺のレンズを振り回されると邪魔でなりませんでした。その隣も同じような中年男性で、夫婦かと思ったら全然関係のないカメラマニアのようでした。

また反対側の席や前の席は、真夏日を記録した暑さのなかで、半分抱き合って観戦しているような若いカップルでした。彼らもまた、ケンブリッジ飛鳥やサニブラウンが目当てだったようです。

マニアと言えば、ロイヤルファミリーの婚約者が同じ駅に住んでいるというニュースが流れた途端、駅前通りなどで、カメラやスマホで通りの様子を撮影している人たちを見かけるようになりましたが、心なしかこの週末は、いつもより人通りが多い気がしました。

婚約者が通った幼稚園がすぐ近所にあるのですが、ニュースのあと、幼稚園の駐車場にはテレビ局の中継車が何台も停まっていて、幼稚園も臨時休園したようでした。

たまたまニュースが流れる前日、散歩の途中に、婚約者が住んでいるマンションの前の道路を歩いたのですが、もちろんそのときはいつもの夕暮れの住宅街の光景でした。しかし、近所の人の話によれば、今は道路も交通規制され、マンションの前には常時制服の警察官が立っているそうです。

朝、SPとともに駅に向かう婚約者の姿がテレビに出ていましたが、これからああいったことが毎日つづくのだろうかと思いました。テレビには、「知名度が上がってうれしい」というような商店街の人たちの「喜びの声」も出ていましたが、たしかに青息吐息の商店街にとって、今回のニュースは(ややオーバーに言えば)「天佑」と言えるのかもしれません。ただ一方で、ミーハー相手の商売に明日はあるのだろうかと思ったりもします。個人的には、そんなことより狭い舗道を広げるほうが先決のような気がします。
2017.05.21 Sun l 日常・その他 l top ▲
先日、Yahoo!ニュースに下記のような記事が掲載されました。

Yahoo!ニュース・ビジネス
「もう立っている方がいい」狭すぎてハラハラする都内の“痛勤”電車のイス

記事を書いたのは、西日本新聞の東京支社に勤務する記者のようです。

この記事は、一時、Yahoo!ニュースの「経済総合」のアクセスランキングで1位になっていました。それだけ多くの人たちが共感したのでしょう。

私たちは、日々、この記事に書かれているような日常を生きているのです。そして、わざと咳ばらいをしたり、相手を睨みつけたり、あるいは肩で相手の身体を押しやったりしながら、どこかの総理大臣夫人が言うような「修行」の時間をすごしているのです。それは理屈ではないのです。どんなに高尚な思想を持っている人でも、このようなゲスな感情から自由にはなれないのです。

以前、電車で日本共産党のシンパとして有名な映画監督と遭遇したことがありました。監督は、まだ下車する人がいるのに、待ちきれないかのように人をかき分けて乗り込んで来ると、餌を探しているニワトリのようにキョロキョロと車内を見まわしていました。そして、7人掛けなのに6人しか座ってない座席を見つけると、急いで歩み寄り、わずかに空いたスペースに身体を押し込め、身体を奥にずらすと、上体を反らせ腕組みをして目を瞑ったのでした。

そこでは、反戦平和の主張も、社会的不公平に対する怒りも、抑圧された人々に対する連帯感も、どこかにすっ飛んだかのようでした。ただ、自分が座席にすわればそれでいい、それが当然の権利だとでも言いたげでした。

何度も言いますが、「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私もこの記事の記者と同じで、すわって嫌な思いをするより立っていたほうがいいと考える人間ですが、日々、目の前で繰り広げられる「電車の座席にすわることが人生の目的のような人たち」の暗闘を見るにつけ、政治なんてものはホントは取るに足らないものなんだなと思わざるをえないのです。もし「電車の座席にすわることが人生の目的だ」というような思想があるなら、これほど最強なものはないでしょう。

吉本隆明が言うように「政治なんてものはない」のです。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられたら、もう泥棒でも強盗でもなんでもして生き延びるしかないのです。善か悪かなんて二の次です。それが生きるということでしょう。そこに政治的な考えが介在する余地なんてないのです。

本来、思想とはそういったところから生まれるものではないでしょうか。ドフトエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフが苦悩したのも、そういった場所でした。
2017.04.15 Sat l 日常・その他 l top ▲
昨日は仕事納めで、今年も残すところあと三日となりました。既に学校も休みに入ったので、電車も空いています。車内では、帰省する人たちなのでしょう、旅行バッグを持った乗客も見かけるようになりました。

おととしの年の瀬、私は「母、危篤」の知らせを受け、帰省客に交じって羽田空港行きの電車に乗っていました。それ以来、年の瀬になると、あのときの哀しい感情が思い出されてならないのです。

地元の空港に着くと、あちこちで出迎えの家族と再会を喜ぶ光景が見られました。みんな、笑顔が弾けていました。そんななか、私は、ひとり、母が入院している病院に向かったのでした。

最近は、飛行機のチケットに、「介護帰省割引」というのがあります。親の介護で、定期的に帰省する人も多いのでしょう。

若い頃は、希望に胸をふくらませた「上京物語」しかありませんでした。しかし、年を取ると、介護や見舞いや弔事など、人生の哀しみやせつなさを伴った帰省が主になるのです。まして私の場合、もう帰るべき家もなく、笑顔で迎えてくれる親もいません。ふるさとにあるのは、苔むした墓だけです。

先日、ネットで、ハフポスト日本版の「2016年に亡くなった人々」の「画像集」を見ていました。今年もいろんな人が鬼籍に入ったんだなとしみじみ思いました。なんだか例年になく若い人が多いような気がしました。

The Huffington Post
プリンス、ボウイ、アリ、巨泉...2016年に亡くなった著名人(画像集)

また、年末になると、人身事故で電車が止まるニュースが多くなるのも毎年のことです。

みんな死んでいくんだなと思います。たしかにみんな死んでいくのです。そして、やがて自分の番になるのです。

司馬遼太郎ではないですが、いつまでも「坂の上の雲」を仰ぎながら坂をのぼって行くことはできないのです。思い出を胸に坂をくだって行く人生だってあるのです。

それは、国も同じです。いつまでも成長神話に憑りつかれ、背伸びして世界のリーダーたることに固執しても、それこそ米・中・露の大国の思惑に翻弄され、貧乏くじをひかされるのは目に見えています。先日の安倍・プーチン会談のトンマぶりがそれを象徴しています。

従属思想を「愛国」と言い換え、市場や国民の資産をグローバル資本に売り渡す一方で、中国への対抗意識から世界中にお金をばらまいて歩いて得意顔の「宰相A」を見ていると、ホントにこの国は大丈夫かと思ってしまいます。成長神話に憑りつかれている限り、格差や貧困の問題が二の次になるのは当然でしょう。

個人においても、国家においても、坂を下る思想が必要ではないのか。いつかは坂を下らなければならないのです。哀しみやせつなさを胸にどうやって坂を下るのか。上る希望もあれば下る希望もあるはずです。
2016.12.29 Thu l 日常・その他 l top ▲
朝、駅前のスーパーに行ったときのことです。開店直後のスーパーはお年寄りのお客が多いのですが、今朝はいつになく店内が混雑していました。レジも既に行列ができていました。

レジに並んでいるお客を見ると、なぜかいつもと違ってぎっしり商品が入っているカゴを手にしている人が多いのです。

店内の棚を見ていた私は、ほどなくその理由に合点がいきました。今日は「安売りの日」だったのです。卵の10個入りのパックが98円で売っていました。私がよく買うコーラゼロも1.5リットルのペットボトルが118円でした。気が付いたら私のカゴもいつの間にかいっぱいになっていました。

開店直後のスーパーに来ている人は、年金暮らしのお年寄りも多いのでしょう。そのため、「安売りの日」に押しかけて買いだめしているのだと思います。

やがて買い物を終えた私は、重いカゴを床に置いて行列の最後尾に並びました。前に並んでいる人たちを見ると、ほとんどが年金世代とおぼしきお年寄りばかりでした。

レジで品物のバーコードを読み取っている店員も、初老の女性でした。と、そのとき、急に彼女の手が止まりました。トラブルが発生したみたいです。彼女は慌てて、隣のレジの女性になにか聞こうとするのですが、隣のレジも長蛇の列で混雑しているため、相手にしてくれません。すると、女性は、店内に向かって「すいませ~ん!」と大声で叫びました。でも、誰も反応がありません。レジはずっと止まったままです。なかには、私たちの列を離れて隣の列に並び直す人もいました。

私はイライラしはじめ、心のなかで舌打ちをしました。そして、「どうなってるんだ?」とひとり言ちたのでした。すると、そのとき、「機械が変わったんで大変なんですよ」という声が後ろから聞こえてきたのです。振り返ると、とうに70をすぎているような高齢の男性がニコニコした顔で立っていました。横にはカゴを乗せたカートが置かれていました。

レジのほうを見ると、たしかにバーコードを読む機械の先に銀行のATMを小さくしたような機械が設置されていました。知らないうちに、最初の機械で金額を読み、次の機械でお金を入れて清算するように変更になったみたいです。レジの女性たちは、直接お金のやり取りをすることがなくなったのですが、ただ、システムの変更で読み取る機械も変わり、それで戸惑っているのでしょう。

私のなかでは、いつの間にかイライラする気持が消えていました。後ろの男性のひと言で我に返ったという感じでした。レジが止まった事情がわかると、感情的な気持も消えたのです。

どうやらレジの女性は、割引券の処理の仕方がわからなかったみたいで、やがて若い店員がやってきて、その方法を教えると行列は再び流れ始めました。初老の店員は、あとにつづくお客ひとりひとりに対して、「お待たせして申し訳ございませんでした」と謝罪していました。

やがて私の番になりました。女性の額には汗がびっしょり噴き出していました。私は、「いつから変わったんですか?」と尋ねました。女性は、下を向いて手を動かしながら、「おとといからなんですよ」と言ってました。「慣れるまで大変ですね」と言ったら、「いえ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」とさも恐縮した様子で答えていました。

私自身、さっきまでイライラしていたのがウソのようでした。あのとき、後ろの男性のひと言がなかったら、私はずっとイライラしたままで、もしかしたらそのイライラをレジの女性にぶつけていたかもしれません。

たしかに、年を取ってくるとキレる人が多く、「キレる老人」に遭遇するのもめずらしくありません。私自身、若い頃に比べてイライラすることが多くなったのを自分でも感じます。

香山リカに言わせれば、「キレる老人」というのは、年を取って世の中の流れに付いていけない自分に苛立ち、その苛立ちを他人にぶつけているところがあるのだそうです。そこには、デジタル化して急激に変わる社会や現役を引退して経済的な余裕がなくなったことなど、さまざまな背景があるのでしょう。もっとも、それは、老人に限った話ではないのです。

今の“貧困叩き”にも、似たような背景があるように思えてなりません。長谷川豊の暴論も、彼が金銭トラブルでフジテレビを辞め(辞めざるをえず)、フリーになったことと関係しているのではないかと思ったりするのです。彼にも、単なる炎上商法だけでない、どこか荒んだものがあるのではないか。

朝、駅に行くと、必死の形相で改札口をぬけ、エスカレーターを駆け上っている人を見かけます。寝過ごしたのかなと思うのですが、よく見ると、いつも同じ人物なのです。しかも、別に電車が来ているわけでもないのに、まるで強迫観念に駆られ、なにかに急き立てられるように駆け上っているのです。

資本主義が高度化して経済が金融化し、第三次、四次、五次産業の比率が高くなれば高くなるほど、“資本の回転率”は高くなります。その分、商品のサイクルも短くなり、人々の欲望のサイクルも短くなります。そして、そのサイクルは生活の隅々にまで貫かれるのです。システムが要求するスピードに常に急き立てられ、それに付いて行けるかどうかでその人間の能力が問われるのです。

そんな日常化した強迫観念と、“貧困叩き”や長谷川豊のような荒んだ心とは、背中合わせのような気がしてなりません。些細なことでわけもなくイライラするのも同じでしょう。

貧困や病気は、明日の自分の姿かもしれないのです。でも、彼らは、もはやそういった想像力さえ持てないのです。社会保障費が財政を圧迫しているからと言って、その原因を経済政策や社会構造に求めるのではなく、手っ取り早く個人に求め、自己責任論で他者を攻撃するだけなのです。そこにあるのは、想像力と理知の欠如です。

私たちには、後ろの男性のように、「機械が変わったんで大変なんですよ」と冷静に言ってくれる人がもっと必要なのかもしれません。
2016.10.01 Sat l 日常・その他 l top ▲
昨日、大リーグのファンだという人と話をしていたときです。彼は、イチローが所属するマーリンズのホセ・フェルナンデス投手が事故死したニュースを見たら、ショックで朝までまんじりともできなかったと言うのです。

私は、大リーグなんてまったくと言っていいほど興味がありません。もちろん、イチローやダルビッシュのことは知っていますが、ときに彼らが所属するチーム名も忘れて、野球好きな人と話をしている最中にこっそりスマホで確認することもあるくらいです。

私は、彼の話を聞いて(スマホでそのニュースを確認しながら)、すごいなと思いました。たかが、と言ったら叱られるかもしれませんが、野球選手が急死したくらいで、朝まで眠れなかったなんて、自分にはとても考えられないことだからです。

ファンかどうかという以前に、私には他人の死に対してのナイーブな感覚が失われているのではないかと思うことがあります。そもそも他人対する感覚が鈍磨しているような気さえするのです。

最近は特に、舗道を歩いていても、電車に乗っていても、いつも不機嫌になっている自分を感じます。たしかに他人の迷惑を考えない”自己中”の人間が多いのも事実ですが、そういった人たちに対して、寛容な気持が持てなくなっているのです。さすがに表に出すことはありませんが、心のなかではいつも舌打ちをしています。

電車のなかのベビーカーに対しても同じです。あれはベビーカーがどうとかいうより、ベビーカーを押している親たちが問題だと思うのです。週末の自由が丘の駅のホームで傍若無人に行き交うベビーカーに遭遇すると、とても寛容な気持にはなれないのです。「乳幼児をお連れの方」という表示をいいことに、ベビーカーで通路をふさいで、家族でシルバーシートを占領している光景を見ると、やはり心のなかで舌打ちをしている自分がいます。

ホセ・フェルナンデスの死にショックを受けてまんじりともできなかったという人は、離婚して子どもとも別れ、既に親も亡くなり、身寄りもない天涯孤独な人です。しかも、爆弾のような病気も抱えており、いつ死んでもいいというのが口癖です。それでも、他人の死にショックを受けるようなナイーブな感覚を失ってないのです。それに比べると、自分はなんと独りよがりで冷たい人間なんだろうと思ってしまいます。
2016.09.28 Wed l 日常・その他 l top ▲
私は、「とと姉ちゃん」は病院の待合室で一度見たことがあるだけですが、主題歌の「花束を君に」はとてもいい曲で、何度もくり返し聴いています。宇多田ヒカルが亡き母親にあてて歌った歌であるのは、歌詞からも容易に想像されます。

いい音楽というのは、聴く人間の感性を激しくゆさぶり、いろんな思いや考えを誘うものです。「花束を君に」を聴きながら、ふと自分の帰る場所はどこなんだろうと考えました。既に親も亡くなった現在、もう帰る場所はどこにもないように思います。母親の死を機に本籍も横浜に移しましたので、田舎は本籍地でさえないのです。書類に書くとき、間違えないように本籍地の番地を暗記していましたが、もうその必要もなくなったのです。

帰る場所はどこなのか。どこに帰ればいいのか。そう考えたとき、やはり、頭に浮かぶのは、藤枝静男の「一家団欒」でした。今や故郷に残る唯一のよすが(縁)になってしまった菩提寺の墓。そこに眠る祖父母や父母のもとに帰るしかないのではないか。そう思うのでした。両親が生きているときは散々不義理したくせに、勝手なものです。「一家団欒」の章と同じように、泣いて懺悔するしかないでしょう。

先日の記事で紹介した吉本隆明の「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである」ということばや、どんな人生を生きたかよりどんな人生でも最後まで生きぬいた、ただそれだけですごいことなんです、と言った五木寛之のことばが示しているのは、仏教の思想です。「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)存在として私たちがいるのです。

今、私ができることは、できる限り田舎に帰って、父母らが眠る墓に手を合わせることでしょう。もう私はそんなことしかできないのです。


関連記事:
墓参りに帰省した
宇多田ヒカル
2016.09.16 Fri l 日常・その他 l top ▲
昨日の夜遅く、喉が渇いたので冷たいものでも飲もうとキッチンに行ったら、キッチン全体が熱気におおわれ、サウナ風呂のようになっていました。

なんとキッチンに置いていた卓上電気グリルのコンセントをさしたままになっていたのでした。そのためにグリルが過熱して、異常な熱を発していたのです。

夕食に電気グリルで塩サバを焼いたのですが、そのままコンセントをぬくのを忘れていたのです。電気グリルにはガラス製の蓋が付いていますが、蓋の取っ手も素手では持てないくらい熱くなっていました。

前も書きましたが、味噌汁を温めようと電子レンジの戸を開けたら、前に温めたまま取り出すのを忘れていた味噌汁が出てきたなんてことはよくあります。それどころか、一度などは温め終えた味噌汁を取り出そうとしたら、中から味噌汁が二つ出てきて、狐に摘ままれたような気持になりました。前に取り忘れた味噌汁が入っているのに気付かないまま、またあらたな味噌汁を入れていたのです。年をとると、このように毎日がハリーポッターの世界です。

先日のことです。部屋にいると、ピンポーンとチャイムが鳴りました。モニターで見ると、白いワイシャツ姿の男性が立っていました。私は、どうせ怪しいセールスだろうと思ってそのまま無視しました。チャイムは何度か鳴ったのち、鳴りやみました。

ところが、それからしばらくして、再びチャイムが鳴ったのです。モニターで見ると、前と同じ男性が立っていました。私は、「うるさいな」と思いました。文句を言ってやろうかと思いましたが、我慢しました。そんなとき、出ていくと、大概怒鳴り合いになるからです。年も年なので、無用なトラブルを避けるのが賢明でしょう。

チャイムが止んだあと、ふとベランダの窓越しに外を見ました。すると、道路をはさんだ反対側の駐車場に数人の男性が立ってこちらを見ているのに気付きました。上着を着ているのはひとりだけで、あとは白いワイシャツ姿でした。私は、一瞬「警察?」と思いました。刑事たちが犯人宅を遠くから監視するテレビドラマのシーンによく似ていたからです。上着を着ているのは宅麻伸演じる「係長」なのか。

と思ったら、またピンポーンとチャイムが鳴ったのでした。でも、私は、やはり無視しました。チャイムが鳴り終えたあと、気持が悪くなったので玄関のドアの確認に行きました。するとびっくり。ドアにカギがかかってなかったのです。カギもドアチェーンも外れたままになっていたのです。

私は、またしても狐に摘ままれたような気持になりました。毎日がハリーポッターであることを考えれば、ドアのカギをかけ忘れたということは充分考えられます。彼らはそのために何度もチャイムを鳴らしたのか。

あの駐車場に立っていた男性たちは誰だったのか。ドアが開いていることを誰かが通報して警察が来たのか。でも、制服の警官ではなく、私服の刑事というのもちょっと解せません。それも、ドアが開いているだけで、まるで殺人事件のように何人も来るでしょうか。

やはり、新聞の勧誘員かなにかセールスの人間だったのか。彼らは、“絨毯爆撃”のように、その地域をグループでいっせいに飛び込みセールスするのはよくあることです。

「あの部屋、ドアにカギがかかってないぞ」
「部屋に誰かいるのか?」
「わからん」

そう話していたのかもしれません。「もう一回確認して来い」と言われて、チャイムを鳴らしたのかもしれません。あのまま部屋に入って来られたら、もう怒鳴り合いどころではなかったでしょう。

毎日がハリーポッターも一歩間違えば、笑い話では済まされないことになるのです。

2016.08.03 Wed l 日常・その他 l top ▲
一昨日、私は、紙の爆弾2016年7月号増刊『ヘイトと暴力の連鎖』(鹿砦社)と笠井潔・野間易道『3.11後の叛乱』(集英社新書)の二冊の本を買いました。二冊の本の副題には、それぞれ「反原連・SEALDs・しばき隊・カウンター」「反原連・しばき隊・SEALDs」と同じ文言が並んでいます。

言うまでもなく、これらの本は、反原発の官邸前デモを主導した反原連(首都圏反原発連合)と反安保法制デモで脚光を浴びたSEALDs、それにヘイト・スピーチへの抗議活動で名を馳せた「しばき隊」を論じたものです。しかし、その姿勢は正反対です。

鹿砦社は福島第一原発の事故以後、『NONUKES』という「脱原発情報マガジン」を発行している関係もあって、反原連に対して2015年だけで300万円のカンパをしていたそうです。しかし、反原連がおこなった中核派・革マル派・顕正会排除宣言に対する松岡利康社長の苦言が反原連の逆鱗に触れ、絶縁状を突き付けられて訣別したのだとか。

松岡利康社長と作家の笠井潔氏は、全共闘運動の闘士として知る人ぞ知る有名な人物ですが、いみじくも「反原連・しばき隊・SEALDs」に対しては、まったく正反対の立場に立っているのでした。

まだ途中までしか読んでいませんので、この二冊の本を読んだ感想は後日あらためて書きたいと思いますが、それとは別に、私は、『ヘイトと暴力の連鎖』のなかで、つぎのような文章が目にとまったのでした。

それは、「しばき隊」内部の「リンチ事件」に関連するものです。記事によれば、「リンチ事件」の被害者に対して、相談者として接触してきた在日の「歌手」がいたのですが、彼は被害者に会ったあと、「リンチ事件」の現場にいて(本人は途中から帰ったと主張)、被害者に事件の「謝罪文」も送っている在日の女性ライターと「会談」した途端、事件は被害者の「嘘と誇張」によるものだと百八十度違うことを言い出したのだそうです。記事では、「一夜にして寝返った」と書いていました。ちなみに、「リンチ事件」では、刑事告発された実行犯三名に罰金刑が言い渡され(上記の女性ライターは無罪)、現在は民事訴訟が進行中です。

(略)録音データはじめリンチ事件の実態が一目瞭然の数々の証拠資料、特に事件直後の凄惨な顔写真を趙(引用者:「歌手」の姓)は見ているのに、たった一時間の会談で、人間こうも変わるのか!? 何かあったとしか思えない。弱みを握られ、これを突きつけられたのか? あるいは、甘い蜜を与えられたのか? 私の信頼する在日の人は「私は最初からこうなると判っていましたよ」と私に言った。この言葉の意味するところがまだ理解できないが、彼には在日同士の心の中の襞のようなものが実感できるのだろうか。
(「急展開した『しばき隊リンチ事件』の真相究明」松岡利康)


在日の人間と身近に関わってきた人間のひとりとして(今も身近に在日の人間がいますが)、「私は最初からこうなると判っていましたよ」ということばの意味がなんとなくわかる気がするのです。一見、在日同士は信用できる、日本人は信用できないみたいな話に聞こえますが、それだけではないように思います。

私は、身近な在日の人間に対して、「(朝鮮人は)勝ったか負けたか、得か損かでしか判断しない」と言って、いつも反発を受けていました。もちろん、そういった損得勘定は誰にもあります。でも、在日とつきあっていると、ときに呆気にとられるほど(人間同士の信義を越えるほど)露骨な場合があるのもたしかなのです。

私も、在日の人間とトラブルを経験したばかりで、それまで親しくしていた人間がまるでヤクザのように豹変する姿を見たとき、ふと上のことばを思い出したのでした。「一夜にして寝返る」どころではなく、一瞬で手の平を返して、ヤクザ口調で「ぶっ殺してやる!」なんて怒鳴りはじめる姿を前にすると(もっとも、それは、どこかの放送局がソウルや東京を「火の海にしてやる!」と叫ぶのと同じオーバーアクションなのですが)、「朝鮮人はうっとしくて嫌だな」と思います。

もちろん、日本人が相手だと「日本人はうっとうしくて嫌だな」とは思わないのです。その個人を嫌悪するだけです。そこに嫌悪と差別の分かれ道があるのかもしれません。私が「朝鮮人はうっとしくて嫌だな」と思うのは、考えようによっては既に差別していることになるのかもしれないのです。

でも、在日の”多様性”みたいなものももっと考える必要があるように思います。在日の問題を考えるとき、もちろん戦争責任や植民地支配の歴史的な背景をぬきにすることはできませんし、ヘイト・スピーチをあげるまでもなく、日本の社会に差別が存在するのは否定しようのない事実です。しかし、一方で、そういった視点からだけでは捉えられない在日の姿というのも当然ながらあるのです。

『韓国人を愛せますか?』((講談社+α新書)や『韓国人は好きですか?』((講談社+α新書)の著者・法政大学教授のパク チョンヒョン(朴倧玄)氏は、韓国人の世間や他人に対する考え方について、著書でつぎのように書いているそうです。

※下記のブログからの孫引きです。

☆ひなくま☆
韓国人の身内意識

外でケンカしてきた子供に対して、日本人の親は「相手を殴るより殴られてくるほうがいい」なんて言う人も多いようだが、韓国人の親は「どうせケンカするなら、殴られるより殴るほうがいい」と思う人が多い。人を殴るという行為を、日本人は「相手に迷惑をかける行為だ」と解釈するかもしれないが、韓国人は「勝負に勝った、男らしい」と解釈するからだ。


韓国人の親が子供に望むのは、他人に迷惑をかけないことではなく、他人に対して肩身が狭くならないこと、他人に対して臆さないこと、自信のある態度を取れること、遠慮ばかりしないことだ。それは、負けず嫌いの韓国人の性格を表すものかもしれない。


在日の男性がどうしてあんなに虚勢を張り、強面に振る舞うのかと言えば、日本人には負けたくない、バカにされたくないと意識過剰になっているからだと思っていましたが、実はそれだけではなくて、世間や他人に対する朝鮮人特有の考え方が根底にあるからなのでしょう。

上の文章で言う、在日同士の「心の中の襞」というのは、そういうことではないかと思います。


関連記事:
「在日」嫌い
2016.07.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
散歩の途中、いつものように山下公園のベンチにすわって本を読んでいるときでした。なんだか臭いのです。ケモノ臭がするのです。それで目を上げて周囲に見ると、いつの間にか隣のベンチに犬を連れた女性がすわっていました。スマホを操作している女性の足元には、黒の柴犬が前足を揃えて行儀よくすわっていました。

山下公園は犬を散歩する人が多いので、植え込みの周辺はいつもケモノ臭が漂っていますが、ベンチがあるあたりは海に面しているのでそうでもありません。私は、思わず顎に下げていたマスクをひっぱり上げて鼻を覆いました。

実家ではジョンという雑種とウタという柴犬を二代つづけて飼っていました。小学校の低学年から30すぎまで、ずっと犬とともに暮らしていたのです(と言っても、実家にいたのは中学まででしたので、そのあとはときどき帰るだけでしたが)。

犬のかわいいところもよくわかります。今でも散歩している犬を見ると、かわいいなと思います。もちろん、犬が放つケモノ臭も昔は身近にあったのです。それは当然のこととして日常のなかにありました。だから、このケモノ臭に対する拒否反応に自分でも驚きました。

そう言えば、2月に帰省した折、サルで有名な高崎山に行ったのですが、そのときも餌場全体に漂うケモノ臭と糞の臭いに閉口したものです。高崎山に行ったのは小学校のとき以来だったのですが、もう二度と行きたくないと思ったくらいです。

私も経験がありますが、人間というのは現金なもので、煙草をやめた途端、他人の煙草の臭いが気になり、へたすれば顔をしかめるようになるのです。あれと同じなのでしょう。

若い頃と比べて、自分が変わったことと言えば、時間を厳守するようになったことと予備がないと不安症候群になったこととこの臭いに敏感になったことです。若い頃は自他ともに認める遅刻魔だった人間が、今では時間厳守の権化のようになっているのです。年を取ると不思議なことが起きるものです。

隣の柴犬は、柴犬にしてはめずらしく人懐っこい性格のようで、ときどき尻尾を振りながら媚びるような目で私のほうを見ていました。しかし、今や立派な偏屈オヤジになった私は、そんな視線を無視して、心のなかで「臭い、臭い」と呟きながらベンチを立ったのでした。
2016.06.08 Wed l 日常・その他 l top ▲
先日、突然、見覚えのある名前でメールが届きました。それは、以前取引していた雑貨店で働いていた女の子の名前でした。びっくりしてメールを送ると、当時働いていた仲間で、最近LINEのグループを作ったので入りませんかという、LINEへの招待でした。

私が彼女たちの店に行っていたのは、もうかれこれ15年くらい前です。店は都内のターミナル駅の商業ビルのなかにあったのですが、しょっちゅう顔を出し、おしゃべりをしたり、ときには店の手伝いもしていました。ビルにあるほかの店の人たちから、エリアマネージャーだと間違われるくらい親しくしていました。

単なる取引業者であったにも関わらず、職場の飲み会にも出席していましたし、クリスマスやバレンタインなど忙しいときは応援に駆り出されたりしていました。店の性格上、店長以外働いているのは若い女の子ばかりでしたが、それほど違和感もなく溶け込んでいたのです。

彼女たちの何人かは既に結婚し、LINEで子どもに作った弁当の画像を見せ合ったりしていました。そんな様子を見ていると、みんな確実に人生を前に進めているんだなとしみじみ思いました。

あの頃はみんな若かったのです。私だけがあの頃からおっさんでしたが、それでも、今よりずっと若い感覚のなかで生きていました。LINEで「あの頃はいつも楽しそうにしていましたね」と言われましたが、実際はそうでもなかったのです。10年近くつづいた恋愛に破れ、親友と仲たがいし、借金も抱え、結構深刻ななかにいました。

しかし、それでも傍目に楽しそうに見えたというのは、まだどこかに”余裕”があったのかもしれません。それだけ若かったということなのでしょう。今から考えれば、なにより身体が元気だったことが救いだったように思います。元気であれば、バイタリティもわいてくるのです。

長い間会ってないということもあるのでしょうが、LINEをやっていると、今のほうがなんだかわけもなく疎外感のようなものを覚えるのでした。自分のメッセージがどこかトンチンカンのように覚えてならないのです。LINE特有の空気を読むことができないのです。

団塊の世代の橋本治は、『いつまでも若いと思うなよ』(新潮社新書)という本のなかで、人間は自分という「アク」がたまって大人になるんだと書いていました。

 アクが溜まって大人になる。大人になるということは、そのように「自分」が蓄積して行くことで、「自分」が溜まってしまうと、そう簡単に身動きが出来なくなる。体が重くなるし、思考もまた重くなる。
 山菜や野草と同じで、人間も若い時にはアクが出ない。でも年と共に「鍋の中にそんなに安い肉入れるなよ、アクばっかりだ」状態になる。「アク」というのは短絡して「老い」と錯覚されるが、「アク」は「老い」ではない。「アク」は、自分の中から生まれる自分で、それが生まれなければ老いることも出来ない。
(略)
 かく言う私だって、四十を過ぎてアクだらけになる前に、「自分の体にアクが出ている、もう若くはない」ということは承知している。別に見る気もないのに、鏡や窓ガラスに映った自分を見ると、「今までに見たことないような自分」がいる。つまり、アクが出たということなのだが、そんな事実を突然突きつけられたって、どうしたらいいのかは分からない。だから、「もうアクは出ているけど、なかったことにしよう。まだごまかせるから」と思って、ないことにする。


でも、自分のことを考えると、もはやなかったことにしたり誤魔化したりできないほど「アク」だらけなのです。LINEにうまく乗れないのも、「アク」だらけだからでしょう。

言うまでもなく、昔はなつかしいのです。ただ、年を取ってくると、なつかしいだけではなく、せつないとか哀しいとか、そんな別の感情が付随してくるようになるのです。

私は、彼女たちがまぶしくてなりませんでした。昔は年は離れていても、そんな気持を抱くことはありませんでした。私だって同じように恋愛をしていたし、同じようにいろんなものに関心をもっていたからです。仕事柄、今流行っているものはなにかとか、これから流行るものはなにかなんてよく話していましたし、そういった最先端の若者の風俗にも興味をもっていました。逆に同年代のおっさんたちと話をするのが退屈なくらいでした。

金原ひとみが『蛇とピアス』で出てきたときも、かつて私が扱っていた商品が小説のなかに出ていたということもあって、世代は違っても、私がいた場所の近くで書かれた小説だという認識をもつことができました。でも、金原ひとみも年を取ったけど、私も年を取ったのです。

たしかに、誰かも言ってましたが、あの頃は若かったと思うことほど痛ましいことはないのです。
2016.05.07 Sat l 日常・その他 l top ▲
今日、都内に出た際、ふと思い付いて高校時代の同級生に電話して、一緒に昼食を食べました。会ったのは10年ぶりくらいでした。

彼とは高校時代からずっと仲がよくて、東京に出てきてからも、一時彼のアパートに居候していたこともあったくらいです。彼は、大学の空手部出身で、学生時代はパンチパーマにいつも学ランを着ていました。一方、私は、肩までかかるような長髪に無情ヒゲのまったく逆のタイプの人間でした。

当時はまだシゴキなどもありましたので、「1年坊」(彼らはそう呼んでいたように思います)の頃は、シゴキで怪我をして入院したこともありました。彼が空手をはじめたのは、大学に入ってからで、どうして空手なんかはじめたんだと訊いたら、心身を鍛えて心技体の充実した強い人間になりたいんだとかなんとか、どこかで聞いたようなセリフを口にしていました。彼をとおして空手部の連中とも顔見知りになりましたが、彼らは一見強面でしたが、ひとりひとりはとても気のいい連中でした。

私が病気をして九州に帰り入院生活を送っていたとき、彼に頼んで本を買って病院に送ってもらっていたのですが、「お前から頼まれた本って左っぽいのが多いので、学ランを着たおれらが買いに行くと変な目で見られるんだよな」と嘆いていました。

大学を出ると、彼は公益法人の政治連盟なるものに勤めたのですが、やがてそのときの同僚たちと会社を興して、イベントや出版の仕事をはじめました。頭はパンチパーマで体重は100キロ近くあり、しかも大きな声で押しの強い喋り方をするので、傍目にはいかにも”危ない人”に見えるのでした。あるとき一緒に街を歩いていたら、たまたまそれを取引先の女の子が見たみたいで、後日、店に行ったら、「あんな人と知り合いなんですか?」と言われたことがありました。「そうだよ、彼は××組だよ」と言ったら、「ウソ―」と叫んでいました。

東京にいるので、会おうと思えばいつでも会えるのですが、なぜかなかなか会う機会がありませんでした。最近は、九州の友達から彼の近況を聞くほどでした。

久し振りに会った彼はさらに体重が増え、120キロになったと言ってました。家族の写真ももってきてましたが、子どもたちも見違えるほど変わっていて、「これじゃ道で会ってもわからないな」と言ったら、「お前がわからなくても向こうはわかるんじゃないの」と言ってました。

それから、お互いの近況を延々と話しました。知らない間にいろいろ苦労もあったみたいで、そんな話を他人にしてもいいのかというような、結構深刻な話もありました。彼のことばには重みがありました。それは、なにより体験に裏打ちされているからでしょう。体験から得たことばは、実にシンプルなのです。むずかしい言い回しは必要ないのです。リアルというのは、そういうことではないかと思いました。

彼は、「お前とこんなに話をしたのは久し振りだな。話ができてよかったよ」「電話をくれてうれしかったよ」としみじみ言ってました。「他人は信用できない」「特に東京の人間は信用できない」と何度も言ってました。そして、「子どもたちが片付いたら、女房と二人で九州に帰るつもりだ」と言っていました。

駅で別れるとき、体重120キロの坊主頭の強面のおっさんが、改札口に入った私に向かっていつまでも手を振りつづけるのです。その姿を見たら、なんだか胸にこみあげてくるものがありました。そして、こういうのを旧交を温めるというんだなと思いました。
2016.04.08 Fri l 日常・その他 l top ▲
知り合いの若者が、明日(1/11)成人式なんですと言うので、私は、「エエッ、成人の日って15日じゃないの?」って言ったら、彼は怪訝な顔をしていました。最近、若者とあまり接触がなかったので、成人の日が資源ゴミの日と同じ1月の第二月曜日に変ったことをすっかり忘れていたのです。

もっとも私の田舎では、成人式は夏のお盆休みにおこなわれていました。自分の成人式のとき、私は、東京のアパートで、体調を崩して学校にも行かず床に伏せることの多い毎日を送っていました。そんな私を見るに見かねた友人が、たまたま通学する途中のバスのなかで見たという、渋谷の山手通り沿いの病院に連れて行ってくれたのです。

診察した結果は、持病の再発でした。既に私は、中学のときと高校のときに二度入院していたのです。先生から「かなり悪いですね。まだ若いんだから田舎に帰って、もう一度身体を直してやり直したほうがいいですよ」と言われ、レントゲン写真などを渡してくれました。しかし、私は田舎に帰ることをまだためらっていました。すると、友人が私に内緒で田舎の親に連絡して、父親が東京まで迎えに来たのでした。

そのとき、父親がもってきたのが成人式の写真でした。と言うのも、写真館をやっていた父親は、毎年役場に頼まれて成人式の集合写真を撮っていたからです。私は、父親に説得されて東京の生活を引き払い、結局、九州の国立病院に1年間入院することになったのですが、そんななかで手にした成人式の写真には、卒業以来会ってない中学時代の同級生たちのちょっと大人になったなつかしい顔が映っていました。

また、翌年の1月15日の成人の日には、病院から記念のアルバムをもらいました。その頃は病状が芳しくなく、ほとんど寝たきりの状態でした。主治医の先生や婦長さんたちが病室にやってきて、「ご成人、おめでとうございます!」と言われて、のし紙に「祝成人」と書かれた記念品のアルバムをもらったのでした。そのとき、私は、成人の日というのは、社会的にも特別な日なんだなとしみじみ思ったことを覚えています。

今のコスプレまがいの奇抜な格好や”荒れた成人式”などを見ると、成人式もハロウィンなどと同じように、ただのイベントにすぎなくなった気がします。もし私の時代に今のような成人式だったら、あのような感慨を抱くことはなかったと思うのです。
2016.01.11 Mon l 日常・その他 l top ▲
夕方、本を買うために、散歩がてら新横浜まで歩いて行きました。

途中、横浜アリーナの周辺は、若い女の子たちであふれていました。コンサートかなにかの入場待ちなのでしょう。近くの公園には、京都や大阪や豊橋ナンバーの貸切バスが停まっていました。

公園の片隅では、人の輪から離れ、ひとりでベンチに座ってパンを食べている女の子がいました。好きなアーティストのライブを見るために、遠くからやってきたのでしょう。私は、その姿がまぶしく見えてなりませんでした(帰ってネットで調べたら、flumpoolのライブがあったみたいです)。

駅ビルに行くと、いつもに比べて人が多く混雑していました。なかでも、これから新幹線に乗って帰省するのでしょう、キャッリーバックを引いた家族連れの姿が目立ちました。

思えば、1年前、私は、死の間際の母に会うために、そんな帰省客に混ざって大分行きの飛行機に乗っていたのです。それは、とてもさみしいものでした。まわりの光景から自分ひとり隔絶されているような感じでした。

空港に着いたら、出迎えの家族と笑顔で対面しているような光景があちこちで見られましたが、私は、病院に直行しなければなりません。空港から大分市街までバスで1時間近くかかるのですが、窓外に流れるふるさとの風景を眺めていたら、胸がしめつけられるような気持になりました。

本を買ったあと、階下の食品売り場に行くと、おせち料理を売っていました。どうしようか迷ったのですが、ひとりで食べるおせち料理ほどわびしいものはありません。それで、この正月は焼肉とカレーにすることにしました。

私の田舎では、「歳取り」と言って、大晦日におせち料理を食べる風習があります。そういった「歳取り」の風習は、北海道・東北・長野・新潟の一部と、鹿児島・熊本・大分・宮崎など九州に残っているのだそうです。

そのため、帰省する場合、大晦日の「歳取り」までに帰るようにするのが一般的です。「歳取り」に間に合ったとか間に合わないとか、よくそんな言い方がされるのです。

私の場合、もう家族で「歳取り」をすることはないのです。「歳取り」は、子どもの頃のなつかしい思い出になってしまったのです。若い頃はそんなものはどうだっていいと思っていましたが、こうして年を取ってくると、「歳取り」のない大晦日がいつにも増してさみしいものに感じられるのでした。
2015.12.31 Thu l 日常・その他 l top ▲
今日、日本郵便の「お客様サービス相談センター」に、つぎのようなメールを送信しました(一部プライベートに関する部分などの表現を変更しています)。

*****************

本日、代金引換郵便を渋谷郵便局の窓口に出した際のやりとりについて、確認したくメールを差し上げました。

私は、仕事(ネット通販)の関係で、よく代金引換(普通郵便とゆうパック)を利用させていただいており、ラベルの印字も近くの郵便局にお願いしています。

通常は近くの郵便局を利用することが多いのですが、今朝は所用で渋谷に行ったついでに、渋谷郵便局に伺いました。渋谷郵便局は今までも何度も利用させていただいたことがあります。

窓口で郵便物を出すと、「身元を確認できるものがありますか?」と言われたので、健康保険証を出しました。すると、窓口の担当者(若い女性)は、保険証だけでなく、「口座(振替口座)の名義を証明するものがありますか?」と言うのです。

ちなみに、振替口座の名義は屋号で、差出人名は、屋号と名字(個人名)が併記されています。もちろん、住所は保険証と同じです。

しかし、いきなり振替口座の証明と言われてもなにもありません。ご存知のとおり振替口座の場合、通帳もキャッシュカードもありませんので、証明するものなんて普段もっていません。

私は、「そんなこと言われたのは初めてです。いつも保険証や免許証で確認をしていますが、それじゃダメなんですか?」と言いました。すると、彼女は、少しふて腐れたような感じで、「でも、それじゃ受け付けることはできません」と言うのです。それで、私は、「今まで何百通も出したけど、いつも保険証か免許証で確認するだけですよ」と再度強い口調で言いました。

窓口の女性は、ふくれっ面をして「上司に相談します」と言って、奥の席に行きました。そして、上司とおぼしき男性職員が出てきて、今まで何度も見た「代金引換郵便の身元確認の厳格化」を説明した紙を差し出し、「住所は確認できましたが、この口座が本人のものか確認する必要があるのです」と言うのです。

それで、私は、「たしかに窓口での確認が厳格化されたのは知っていますが、口座を確認するものまで必要だと言われたのは初めてですよ」と言いました。すると、「いつもどこの郵便局に出しているのですか?」と訊かれたました。

「港北郵便局や大倉山の郵便局や横浜中央郵便局などです」
「それじゃ、そんな郵便局が間違っていますね」
「エエッ、全部、間違っているのですか?」
「そうです」

上記にあげた郵便局以外にも、横浜や都内のさまざまな郵便局で代金引換郵便を出しましたが、どこも保険証や免許証の確認だけで済みました。

「じゃあ、何を出せばいいのですか?」
「たとえば、口座の名義が書かれた通知票か名刺などです」

受払通知票(註:入金や出金や送金があった場合、その都度郵送されてくる入出金を記録した葉書大の用紙)なんて普段持ち歩いているはずがありませんし、あんな単なる印刷物がホントに証明になるのでしょうか。それに、私は入金確認や送金などはもっぱらネットでおこなっているのですが、最近、ゆうちょ銀行は通知票に代わりネットで確認できるようにぺーパーレスをすすめており、もしペーパーレスに切り替えたら、もはや「口座を確認するもの」がなくなってしまいます。まして、名刺など、いくらでも偽造が可能で、口座を確認するための証明にはとてもなり得ないと思います。

結局、たまたま財布のなかに、前回送った際のラベルの控えがありましたので、「これじゃダメですか?」と言ったら、しぶしぶ(文字通りしぶしぶ)、それと保険証をコピーして「今日はこれで手続きしますが、もしお客様に迷惑がかかってもいっさいの責任はもちません」というようなことを言われました。そして、「今後は口座を証明するものを持ってきてください」と念を押されました。

保険証や免許証など以外に、口座を証明するものがホントに必要なのですか? 担当者が言うように、他の郵便局はすべて「間違っている」「手抜きしている」のですか? 臨機応変に対応するという現場の判断も認めず、全て住所氏名以外に口座を証明するものの提出を「義務付けている」のでしょうか? 身元確認をするという趣旨は充分理解できますが、あまりにも杓子定規で、通知票の問題ひとつとっても、きわめて非現実的で対応に苦慮します。

もし今日の渋谷郵便局のように(同じ渋谷郵便局でも他の方の場合は、保険証や免許証で済みましたが)、口座を証明するものの提出を求められた場合、どうすればいいのでしょうか?

長くなりまして申し訳ございませんが、今後のこともありますので、今日の対応についてご見解をお聞かせいただき、今後どうすればいいのか、ご教示いただけないでしょうか。

ご回答をよろしくお願いいたします。

*****************

代金引換郵便を利用した犯罪(送り付け詐欺や薬物売買)に対応するために、去年から郵便局が発送時の身元確認を厳格化したのですが、しかし、それこそ何百通も出したなかで口座の証明まで求められたのは初めてでした。もちろん、通帳やキャッシュカードがあればことは簡単ですが、振替口座(当座口座)にはそれがないのです。

言うまでもなく、口座の身元確認はゆうちょ内部でできるはずです。それをお客に証明しろというのは、本末転倒しているようにしか思えません。そもそも代金引換で問題になったのは、代金を口座に入金するケースではなく、為替で送金するケース(郵便為替をゆうちょ銀行の窓口で現金化する方法)です。それだと、口座がないため、発送時の確認はできるけど、入金時の確認ができないからです。そのため、代金引換における為替送金は、禁止になりました。

身元確認の厳格化は、郵便局の「内規」だそうです。おそらく警察当局の要請で、そういった「内規」を設けたのでしょう。

一連のやりとりのなかでつくづく感じたのは、有無を言わせない杓子定規な対応です。それは、どう見ても官尊民卑の旧体質をひきずった公務員のものです。厳格化という「内規」がいつの間にか(役所特有の)事なかれ主義に転化しているのです。私たちに対する姿勢も、「お客様」ではなくあくまで「利用者」のそれなのです。

渋谷郵便局の窓口は5つありましたが、今朝、稼働しているのは2つしかありませんでした。あとの3つは、年配の職員が担当していましたが、なにやらラベルにスタンプを押したりとほかの作業をしていて(しかも、おせいじにもテキパキとは言い難いペースで)、窓口を一時的に閉じていました。そのため、開いている2つの窓口の担当者(いづれも女性)があきらかに苛立っているのが見て取れました。それで、嫌な予感がしたのですが、案の定、途方に暮れるような”厳格な対応”に遭遇することになったのでした。

個人情報保護法が成立して、たとえば病院で知人が入院しているか尋ねても、「個人情報」を盾に回答を拒否されたり、学校の保護者会で連絡網を作ろうとしても、やはり「個人情報」を盾に作れないなどの現実がある一方で、一民間会社(!)が警察に協力するために、サービスの前提として「個人情報」の提出を「内規」で設け、窓口でさも当然のことのように「個人情報」の提出を求め、さらにそれを(照合するだけでなく)当然のことのようにコピーするという現実があるのです。しかも、そんな風潮は、ますますエスカレートするばかりです。コピーした「個人情報」は、ラベルの控えにホッチキスで止められて背後の箱に無造作に入れられていましたが、その後どのように管理されるのか私たちは知る由もないのです。
2015.12.28 Mon l 日常・その他 l top ▲
一昨日、女優の原節子が9月に亡くなっていたというニュースがありました。もちろん、私は、原節子は小津映画でしか知りません。私たちにとって、原節子は最初から”過去の人”でしたので、亡くなったというニュースを聞いて少なからず驚きました。95歳だったそうです。

原節子は、42歳で女優を引退し、以後、マスコミといっさい接触を断って、鎌倉の浄妙寺の近くで、甥夫婦と暮らしていたそうです。今回公表が遅れたのも故人の意志だったとか。そんなみずからの美学を貫いた生き方があの”原節子伝説”を創ったと言えるでしょう。

また、先週は、NHKスペシャルで、「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」というドキュメンタリーをやっていました。93歳になった瀬戸内寂聴の日常を追ったドキュメンタリーでしたが、番組を見ているうちに、いつの間にか瀬戸内寂聴に母の面影を重ねている自分がいました。

年齢も1歳違いということもありますが、瀬戸内寂聴を見ていると、(縁起でもないと言われるかもしれませんが)病院のベットに寝ていた死の間際の母の顔がオーバーラップしてくるのでした。

老いの現実。それは、やがて私たちにも容赦なくやってくるのです。黄昏を生きるというのは、なんとせつなくてなんと物悲しいものなんだろうと思います。

私は、認知症は”死の苦悩”から解放してくれる神様からの贈り物だと思っていますので、まわりには迷惑をかけるかもしれませんが、認知症になって死ねたらいいなと思っています。

母は認知症になることもなく、末期ガンが発見されるまで一人暮らしをしていました。ドクターは、「認知症を患うこともなく、ずっと自分のことを自分でやってきたお母さんは幸せな老後だったと思いますよ」と言ってましたが、私はホントにそうだろうかと思いました。

不肖の息子は、月に一度電話で話をするくらいでしたが、母はいつも「もういつ死んでもいいと思っちょるけど、なかなか死なせてくれないんよ」と言っていました。私も母と同じくらいの年齢まで生きたら、やはり同じようなことを思うのかもしれません。そうやって”死の苦悩”を抱いて残りの日々をすごすくらいなら、認知症になったほうが余程いいと思うのです。

私は、今、民俗学者の六車由実氏が書いた『介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語』(新潮社)という本を読んでいます。六車氏は、大学教員から介護ヘルパーに転職し、さらにグループホームの施設責任者になった方ですが、この本は、民俗学の手法を使ってホームのお年寄りに「聞き書き」したものです。

柳田国男は、ひとりひとりが「物語を語れ」「物語を創れ」と言ったのですが、「すまいるほーむ」の物語のなんと豊穣で感動的なことか。「聞き書き」のなかから、ひとりひとりのお年寄りの人生の物語が光芒を伴って浮かび上がってくるのでした。昔、生きるってすばらしいという歌がありましたが、「聞き書き」を読んでいるとホントにそう思えるのです。そして、みんな、そうやって自分の物語を抱いて旅立って行くのだなとしみじみ思うのでした。


関連記事:
母の死
2015.11.27 Fri l 日常・その他 l top ▲
若い頃、私は、いわゆる「在日」の女の子とつきあっていたことがありました。つきあい出してしばらくしてから、突然、「あたし、日本人じゃないの」と言うのでびっくりしました。

「エッ、じゃあ、何人?」
「朝鮮人なの」
「ああ、そうなんだ」

彼女は、そんな私の軽い反応が意外だったそうです。妄想癖のある私は、最初「日本人じゃないの」と言われたとき、(冗談ではなくホントに)宇宙人かと思ったのです。

彼女もまた本を読むのが好きで、妄想癖がある女の子でした。学校の成績はあまりよくなかったと言うので、頭はよさそうなのにどうして?と訊いたら、「授業中外を見て物思いに耽ってばかりいたから」と言ってました。

ただ、つきあっているうちに、一見似ているけど実は微妙に似てない面があることに気付きました。わかりやすく言えば、日本人がこだわる部分を朝鮮人はこだわらなくて、朝鮮人がこだわる部分を日本人はこだわないのです。その違いは、似ているだけによけい際立つところがあり、ときに「根本的な」違いのように思えるのでした。

私はよく朝鮮人は勝ったか負けたか得か損かでしかものを見ないと「悪口」を言ってました。すると、彼女は、日本人は冷たくてずる賢くてなにを考えているかわからないと「悪口」を言い返してきました。その損得勘定と狡猾さというのは、たしかに似ているようで似てないのです。「アジア的」な生産様式のなかで生きてきた日本人と朝鮮人のなかには、どちらも”人情味”という共通した共同体意識はあります。しかし、その”人情味”にしても、当事者にしかわからないような微妙な違いがあるのです。それは、儒教の影響の濃淡だけでなく、大陸に連なる半島と島国の精神風土の違いも関連しているように思います。

私は、お姉さんの結婚式にも招待されて出席しました。朝鮮人の披露宴は、日本人の披露宴のような席次表がありません。親戚のテーブル以外は、基本的にどこに座ってもいいのです。聞けば、招待されなくてもやってくる人がいるそうです。それで、戸惑って立っていたら、彼女のお父さんがやってきて、おばさんが多く座っているテーブルに案内してくれました。そこは、お父さんとお母さんの友達が座っているテーブルでした。

おばさんたちは驚くほどきさくで、新郎新婦とどんな関係なのか訊くでもなしに、「お兄ちゃん、どんどん食べなさいよ」「なにが好きなん?」と言って料理を皿に取ってくれるのでした。

披露宴の途中、彼女がやってきて「大丈夫?」「まわりはバリバリの朝鮮人ばかりだよ」「お父さんに、なんであんな朝鮮人のテーブルに連れて行ったの?って文句を言ったの」と言ってました。

ところが、トイレに行った際、叔父だという人から呼び止められ、「××(彼女の名前)は、お前のような日本人にはやらないからな」とドスのきいた声で言われたのです。披露宴のあと、「あのやくざみたいな叔父さんは、なんなんだ?」と文句を言ったら、彼女は泣いていました。お母さんの弟で金融業をやっているということでした。

たしかに、普通の披露宴と違って、妙にコワモテの人間が多かったのは事実です。駐車場にベンツが多く停まっていたので、「親戚や友達にそんなに金持ちが多いの?」と訊いたら、「なに言ってるのよ、みんな朝鮮人よ。あれが朝鮮人なのよ」と言っていました。

最近、知り合いが仕事の関係で「在日」の人間とトラブルになって困っていると言うので、私も相手に会いに行きました。ひと言で言って、”年取ったチンピラ”でした。如何にもという感じで両足を外に向けて座り、威圧するように鋭い目でこっちを睨みつけながら、分厚い胸から野太い声を出して、感情を露わにまくしたてるのでした。

知り合いは、「だから『在日』は嫌なんだよ」と言ってました。それを聞いて、私は彼の気持はわからないでもないけど、でもそれは短絡すぎるのではないかと思いました。

たしかに、朝鮮人特有の気質と呼べるようなものはあるし、日本人との違いはあります。日本人だけには負けたくない、バカにされたくないという、日本人に対する対抗心のようなものも感じることはあります。だからあのように虚勢を張るのでしょう。それは、私たちから見ると、あまりにも意識過剰でうっとうしく感じることも事実です(もちろん、その背景に差別の歴史があるのは言うまでもありませんが)。

ただ、よく考えてみれば、日本人のなかにもやくざっぽい人間はいるし、トラブルになるとやっかいな人間はいくらでもいるのです。庇を貸して母屋を取られるような気持になるのは、なにも「在日」に限った話ではないでしょう。それをすべて「民族性」とか「国民性」などということばで括るのは、やはり短絡的だし予断と偏見に満ちていると言わねばならないでしょう。

「古本屋の覚え書き 」というブログにつぎのような「抜き書き」がありました。私は、どちらの本も読んでいませんが、「民族」という概念の薄っぺらさをよく言い表しているように思います。薄っぺらな概念だがらこそ、排外主義のような暴力的な感情に訴えなければならないのかもしれません。

古本屋の覚書
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/

 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。(以下略)

【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100309/p1


 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム』岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。

【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20091101/p2


月並みな言い方をすれば、日本人だって、朝鮮人だって、中国人だって、ロシア人だって、アラブ人だって、フランス人だって、みんな五十歩百歩なのです。相手の醜さは自分の醜さでもあるのです。私たちの前にはいつもそういった合わせ鏡があるのだということを忘れてはならないでしょう。


関連記事:
『ハンサラン 愛する人びと』
「かぞくのくに」
2015.11.24 Tue l 日常・その他 l top ▲
久しぶりに高校時代の同級生にメールしたら、入院しているお母さんの容態が悪くて、病院から何度も呼び出しを受け、仕事も休んで待機している、と返事がきました。私は、なんと返信していいかわからず、そのままにしています。

また、昨日は突然、田舎の姉から電話がありました。妹の携帯がつながらなくなっているけど、妹からなにか連絡があったかという問い合わせでした。でも、家の電話はつながるそうなので、ただ、携帯を換えただけなのでしょう。

どうしてわざわざそんな電話をかけてきたのかよくわかりません。母親の一周忌のことで姉妹の間で意見の相違があるらしく、私にはさっぱり事情が掴めない愚痴をこぼしていましたが、そんな姉の声がいつになく年寄りじみて聞こえました。私は、電話の内容よりその声になんだかひどく気が沈んだのでした。

もちろん自分も含めてですが、みんなすっかり年老いてしまったのです。文字通り、黄昏の時間を迎えているのです。年をとればとるほど自分でままならないことが多くなり、そうやってひとり気をもんで取り越し苦労をするのでしょう。

電話を切ったあと、テレビから流れてくるワイドショーのキャスターの甲高い声が耳触りでなりませんでした。それに、彼らがもっともらしく喋っていることもなんだかいかがわしく聞こえて、嫌悪感すら覚えるのでした。

藤枝静男が61歳のときに書いた「厭離穢土」(1969年)という小説に、こんな場面があります。入院している「私」のもとに姪が見舞いにきて、83歳になる母親の、金銭や性に執着する「耄碌ぶり」についてひとしきり愚痴をこぼして帰ったあと、「私」はこう思います。

 姪が立ち去ったあとで夕食が来たが、食べる気にならなかった。肉親の叔母が、いま抑圧のとれた痴呆の世界に入ってやっと本来の自分に帰り、そして何十年のあいだ胸中にヘシ曲げられていた彼女の厭わしい欲望がぞろそろと正体を白日のもとに現しはじめたと思うと、何だか眼の前の膳のうえの魚がきたなく見えた。そしてやはりこの魚が結局は自分自身の姿であることを思い、厭世的な気分がゆっくり自分の胸を閉ざして行くのを感じた。


さらにその夜、「消灯してから眠れぬままに叔母のことをいろいろ考え」ます。さまざまなしがらみや因習のなかで農家の嫁を全うした叔母の人生。叔母も近いうちに小学生の頃通学路の脇にあったあの共同墓地に行くのだなと思います。そして、同時にみずからの死についても考えるのでした。

(略)来るべき死に対する恐怖の内容は、自分自身の硬直した死体とか、死臭とか、腐敗とか、焼亡とかいうような厭わしい肉体の崩壊を空想する生理的恐怖と、それに伴って永遠の闇黒世界に消え去って無に帰する自分への執着から生まれる恐怖である。
 私は、自分がどう理屈をつけようと、感覚的には到底この恐怖にうち克つ見込みのないことを観念している。「諦めきれると諦め」ている。結局、私はせめて死をEkelに満ちた自己から脱却し得る手段と考え、いくらかでもそれをバネにして最期の時を迎える他ないのであろう。


どう自分に死を納得させるのかと言っても、とても納得なんかできないでしょう。医師として医学的に死を熟知している藤枝静男にしても、みずからの死に対しては恐怖と苦悩を抱くのでした。そんな彼が思い出したのが、学生時代に学んだdas Ekel(嫌悪)というドイツ語の単語だったのです。それはトーマス・マンの「道化者」という短編小説に出てきた単語でした。

定期的に通っている病院のシャトルバスの運転手のおじさんが、70歳になり派遣会社から「雇い止め」されたと聞いたので、「お世話になりました」と挨拶したら、「定年になってからそのあとが長いんだよなあ」としみじみ言ってました。年金が少ないので、今度は牛乳配達のアルバイトをするのだそうです。

黄昏を生きると言っても人さまざまですが、でも、生活のために働かなければならないというのは、(もちろんそれはそれで大変でしょうが)かえって幸せなことではないかと思いました。


関連記事:
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2015.11.04 Wed l 日常・その他 l top ▲
昨日、用事で隣県のある街に行きました。そこは、若い頃10年近く付き合った彼女(今風の言い方をすれば「元カノ」)が住んでいた街でした。私は、休みになると、当時住んでいた埼玉から100キロ近く離れたその街に、いつも車で彼女を迎えに行っていました。

高速道路のインターを降りると、さすがにまわりの風景は変わっていたものの、街中に向かう道路は昔のままでした。私は、「このカーブはなつかしいな」「この交差点もなつかしいな」などと心のなかで呟きながら運転していました。

見覚えのある駅前の通りを走っていると、今でも舗道を歩いている彼女にばったり出くわすような気がしました。しかも、歩いているのは、20数年前の彼女なのです。

別れる前年、彼女のお父さんがガンで亡くなったのですが、亡くなる半月くらい前に病院にお見舞いに行って、病室で二人きりになったとき、お父さんから「××(彼女の名前)のことを頼みますね」と絞り出すような声で言われました。私はそのお父さんの気持も裏切ってしまったのです。

終わった恋愛に対して、女性はわりと切り替えが早く、男性はいつまでも引きずる傾向があると言われますが、私もやはり未だ引きずっている部分があるのかもしれません。

車を運転しながら、私はなんだか胸が締め付けられるような気持になりました。と同時に、もうあの頃に戻ることはないんだなと感傷的な気分になっている自分もいました。もちろん、そのなかには多分に悔恨の念が混ざっているのでした。

恋愛に限らず他人から見ればどこにでもあるような話でも、当人にとっては、唯一無二の特別なものです。それが私を私たらしめているのです。

世の中の人たちは、なにか利害がない限り自分に関心などもってくれないけど、そのなかで利害もなく自分に関心をもってくれる相手を見つけるのが結婚だ、と言った人がいましたが、恋愛も同じでしょう。

どこにでもあるようなありきたりな話でも、それを特別なものとして共有できる相手を見つけるのが恋愛なのです。坂口安吾は、「恋愛は人生の花である」と言ったのですが、その「花」はときにつらさや切なさやかなしみをもたらすものでもあるのです。

用事を終え、再びインターに向かって国道を走っていると、前方の空が夕陽に赤く染まっていました。その風景も昔何度も見たような気がしました。

思い出と言えばそう言えますが、年を取ると、このように何ごとにおいても悔恨ばかりが募るのでした。そして、そんな悔恨を抱えて、これから黄昏の時間を生きていかねばならないのだなとしみじみ思いました。


関連記事
『33年後のなんとなく、クリスタル』
2015.09.23 Wed l 日常・その他 l top ▲
他人にはどうでもいい「私語り」の記事ばかり書いていると、よけい昔のことが思い出されるのでした。何度もくり返しますが、思えば遠くに来たもんだとしみじみ思います。

これも既出ですが、私も最近は、「夜中、忽然(コツゼン)として座す。無言にして空しく涕洟(テイイ)す」(夜中に突然起きて座り、ただ黙って泣きじゃくる)という森鴎外と似たような心境になることがあります。

ネットには、年寄りを生かしつづけるのは税金の無駄使いだ、とでも言いたげな書き込みが多くありますが、年を取るのは自分の責任ではないのです。そんな若者たちだって、年を取れば「無言にして空しく涕洟」することもあるはずです。そんな想像力さえはたらかないのだろうかと思います。

先日、帰省した折、前回の記事に書いた、昔の勤務地の山間の町を訪ねました。私は、20代の頃、その町に5年近く住み、そして、その町で恋もしました。

当時、商店街のなかに「H」という名前の喫茶店がありました。「H」は、その町の若者たちのたまり場になっていました。当然、「H」は出会いの場でもあり、その際、いつも仲をとりもっていたのが「H」の「ママ」でした。「ママ」は当時、40代の半ばで独身でした。

人の話では、同じ町内に住む男性と不倫関係にあり、それは「ママ」が20代の頃からつづいているということでした。私も何度か、店にやってきた不倫相手の男性を見たことがあります。既に70近くの背の高い老人でした。「あの人がそうよ」と「H」で知り合ったピアノ教師の彼女から耳元でささやかれたこともありました。

相手の男性の評判は、「ママ」の周辺では最悪でした。みんな口をそろえて「嫌なやつだ」と言ってました。「店の売上げもつぎ込んでいるらしいよ」「あれじゃだたのヒモだよ」「ママもバカだよ」と言ってました。しかし、私たちはまだ若かったので、そこまで現実的な見方をすることはできませんでした。一途に愛を貫いている、そういう風に考えていました。狭い町内に男性の奥さんや子どもがいるのに、それでも関係をつづけているというのは、”すごいこと”だと思っていたのです。

私は、レンタカーで、商店街のなかをゆっくり進みました。商店街の光景もずいぶん変わっていましたが、見覚えのある店もいくつか残っていました。しかし、銀行の隣にある「H」までやってくると様子がおかしいのです。外観は残っているものの、なかはもぬけの殻になっていたのでした。閉店していたのです。それも閉店してまだ間がないみたいです。

そのあと、やはり当時よく通っていた居酒屋に行って、「H」のことを聞きました。居酒屋の主人の話では、相手の男性はとっくに亡くなり、「H」の「ママ」も、去年、店を閉じると、誰にも告げずに町を出て行ったそうです。町内に住んでいる弟に聞いても、「県外に行った」としか言わないのだとか。もういい年なので、どこかの老人福祉施設か病院にでも入ったんじゃないか、と言ってました。居酒屋の経営者夫婦も昔は「ママ」と仲がよかったのですが、最近は付き合いもなくなっていたと言ってました。

「愛を貫いた」と言えばそう言えないこともありませんが、下賤な言い方をすれば、愛人のまま一生を終えたのです。愛人と言っても、生活の面倒を見てもらっていたわけではありませんので(逆にお金を渡していた?)、経済的にはちゃんと自立していたことになります。生まれ育った町でそんな生き方をするには、当然肩身の狭い思いをしたこともあったでしょう。それでも、町に住みつづけ、結婚もしないで「愛を貫いた」のです。

今思えば、私たちが「H」に通っていた頃が、「ママ」にとっても、「H」にとっても、いちばんいい時期だったのかもしれません。みんな、若くて、みんな元気で、みんな明日がありました。「ママ」は、そんな常連客たちといつも楽しそうにおしゃべりをして、夏山のシーズンになると、一緒に山登りなどもしていました。

私が会社を辞めて再度上京すると決めたとき、多くの人たちは「どうして?」「もったいない」と言ってましたが、「ママ」は「やっぱりね」「そんな気がしていたわ」と言ってました。そして、「二度と大分に戻るなんて思わないで、がんばりなさいよ」と言われました。最後に訪れた日、店の前で笑顔で手を振って見送ってくれたのを今でも覚えています。

おそらく「ママ」は、このまま県外の見知らぬ土地で、一生を終えるのでしょう。年老いて生まれ故郷を離れた今、どんな思いで自分の人生をふり返っているのでしょうか。その術はありませんが、聞いてみたい気がします。やはり、眠れぬ夜の底で、「無言にして空しく涕洟」しているのかもしれません。人生いろいろですが、こんな「女の一生」もあるのです。

Yahoo!ニュースを見て政治に目覚め、ネトウヨになるような若者なんてどうだっていいのです。「シルバー民主主義の弊害」とかなんとか、国家のあり様や人の生き様を経済合理性で語ることしかできない、ゼロ年代の批評家や拝金亡者の経済アナリストなんてどうだっていいのです。私は、年寄りの「私語り」を聞きたいと思います。そんな人生の奥にある”生きる哀しみ”のなかにこそ、私たちの人生にも通じるリアルなことばがあると思うからです。
2015.06.09 Tue l 日常・その他 l top ▲
私は、朝日新聞デジタルに連載されている「花のない花屋」というシリーズが好きなのですが、そのなかの「定年退職を迎える、男手ひとつで育ててくれた父へ」(2013年2月21日)という記事に、つぎのような記述がありました。

父はよく「自分以上の生活を子どもにさせたい」と言っていました。「できるだけいい大学へ入って、いい企業に入りなさい。そうすれば人生の自由度が高くなるから」と。

朝日新聞デジタル
定年退職を迎える、男手ひとつで育ててくれた父へ


身も蓋もない言い方ですが、しかし、案外真実を衝いているとも言えるのです。もちろん、「いい大学」だけが人生ではないし、「いい会社」だけが人生ではないのは言うまでもありません。でも、身近な例を見ても、「いい大学」に行って「いい会社」に入ると、「人生の自由度が高くなる」という”世間智”は、あながち否定できないように思うのです。

大学だけでなく高校もそうで、「いい学校」というのは、校則もゆるくて自由で、友人関係も含めて「いい環境」にめぐまれるものです。まわりの環境に影響を受けやすい思春期においては、それは大事なことです。

もちろん、「いい大学」や「いい会社」に入っても、挫折や失敗もあります。「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」というのは井上靖のことばですが、要は、努力すること、努力する大切さを忘れないということでしょう。資本主義社会では、努力する目的が「いい学校」や「いい会社」や「お金(経済的余裕)」というような現世的な身も蓋もないものになりがちです。だからと言って、努力をしなくていいいということにはならないはずです。努力をする大切さまで否定してはならないのです。

関連記事:
『野心のすすめ』林真理子
『下流志向』
2015.05.31 Sun l 日常・その他 l top ▲
部屋にちょっとした工事が入ることになったので、部屋中に積み重ねていた本を整理しようと本棚を買いました。全部で5本買いました。廊下の壁にずらりと本棚が並んだ光景は、(自分で言うのもなんですが)なかなか壮観です。それでも、本は半分も収まっていません。もうこれ以上、本棚を入れるスペースがないのです。

一応、転倒防止用の伸縮棒で固定しましたが、大きな地震が来たら、本も散乱するでしょうから、玄関から脱出するのはとても無理でしょう。ベランダから脱出するしかありません。ベランダには避難梯子がありますが、それだけでは不安なので、別に脱出用のロープも買って用意しました(でも、ホントにレンジャー部隊のようなことができるか不安ですが)。

雑誌類は資源ゴミに出すことにして紐で束ねましたが、10数個ありました。これでは、両手に持っても、部屋と回収場所まで5回以上往復しなければならず、考えただけでもうんざりです。

柳美里が、本を捨てられないので、引っ越すときが大変だ、とブログに書いていましたが、それは私も同じです。どうしても捨てることができないのです。ただ、25年前、九州から東京に出てくるときは、引っ越し費用の関係で、泣く泣く処分しましたので、今あるのは25年分ということになります。

若い頃から、どんなにお金がなくても本を買うのを優先してきました。不思議と、本代が惜しいと思ったことはありません。入院しているときは、病院の近所の本屋さんがわざわざ御用聞きにきていたくらいです。また、九州にいた頃、人口2万あまりの小さな町の営業所に勤務したことがあるのですが、そのときも町に唯一ある本屋さんがやはり会社に御用聞きに来ていました。お金は月末にまとめて払っていました。その当時、月に3~4万円は使っていました。でも、今はその半分くらいです。年をとると、食欲も●欲も落ちますが、読書量も落ちるのです。

将来、乏しい年金から(もしかしたら生活扶助費から)本代をねん出するのは無理かもしれませんので、そのときは今ある本を読み返して老後をすごすつもりです。私の場合、孤独死の可能性が高いと思いますが、今の状態では本に埋もれて死んでいた(腐ったバナナのように、本の間で腐乱していた)ということになるのかもしれません。でも、それはそれで本望と言うべきでしょう。
2015.05.20 Wed l 日常・その他 l top ▲
やはり年のせいなのか、最近わけもなく悲しい気持になることがあるのですが、深夜、たまたまYouTubeで、「きたやまおさむ 九州大学定年退職記念 さよならコンサート」の映像を見ていたら、なんだか昔が思い出されて、また悲しい気持になりました。

これは、九大で教授を務めていた北山修氏が定年で退職するのを記念して、2010年3月21日に九大医学部の百年講堂でおこなわれたコンサートの映像です。北山氏のほかにアルフィの坂崎幸之助が出演し、ゲストに杉田二郎と南こうせつ、それに作詞家の松山猛氏が出ていました。

私がフォーク・クルセダーズの歌を聴いたのは、坂崎幸之助と同じように、中学生のときでした。当時、私が通っていた田舎の中学では、まだ同級生の3分の1くらいが集団就職する時代でしたので(私たちがその最後の世代だったと思います)、そんな塾もなにもないような田舎の中学から都会(まち)の普通科の高校に進むのは、結構大変でした。それで、親と先生が話し合って、私は、年が明けると学校に行かずに、家で受験勉強することになったのでした。

私は、祖父母の家の二階で、終日、ひとりで受験勉強をしていました。その際、窓際に置いたラジオからよく流れていたのが、フォークルの歌でした。

ある日のことです。外から聞き覚えのある声が聞こえてきたのです。窓から見ると、同級生たちが、前の道をおしゃべりをしながら楽しそうに歩いていました。わずかな間会わなかっただけなのに、なんだかすごくなつかしい気がしました。しかし、私は、彼らに声をかけることができなかったのです。なぜか声をかけるのがためらわれたのでした。それが自分でもショックでした。そして、私は、中学を卒業すると田舎を離れ、同じ中学の出身者が誰もいない遠くの街の高校に進学して、中学の同級生たちとも徐々に疎遠になっていったのでした。

フォークルの歌を聴くと、2ヶ月間寝起きした祖父母の家の部屋の様子とあのときの悲しくせつない気持が思い出されるのでした。

北山氏によれば、「さよならコンサート」は、加藤和彦の家で二人で話し合って決めたのだそうです。にもかかわらず、加藤和彦はコンサートを迎えることなく自死したのでした。北山氏は、コンサートのなかで、「加藤と作った歌は、喪失と悲しみの歌が多い」と言ってました。

映像のなかで、私が好きなのは「イムジン河」です。今の北への制裁や嫌韓の風潮からは想像もできませんが、まだこのように素朴に感傷的に南北に引き裂かれた朝鮮半島の人々を思う時代があったのです。その思いは、今もいくらか私のなかに残っています。

YouTube
イムジン河 悲しくてやりきれない きたやまおさむ 坂崎幸之助 南こうせつ

北山氏のことばを借りれば、人生は「喪失と悲しみ」の過程にあるのだと思います。もしかしたら青春とは、その「喪失と悲しみ」を初めて垣間見る時期なのかもしれません。

余談ですが、このYouTubeの映像の合間に流れるAdobeのCMがすごくカッコよかったです。

関連記事:
加藤和彦さんの死
2015.05.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
今日の夜、新横浜のとあるホテルの喫茶店・・・じゃなくてカフェテリアで、オシャレに(?)お茶しているときでした。

突然、若い女の子たちがドドドッとホテルのロビーになだれ込んできたのです。私はびっくりして、ロビーのほうに目をやりました。すると、女の子たちは我先にフロントのカウンターの前に並んで、チェックインの手続きをはじめたのでした。どうやら彼女たちは、今宵のホテルの宿泊客みたいです。

窓の外を見ると、向かいの舗道がいつの間にか若い女性で埋まっていました。そして、その群れは、上下にうねりながら駅の方に向かって進んでいました。もっとも、若い女性たちが舗道を埋め尽くす光景は、新横浜ではめずらしいことではありません。横浜アリーナでイベントがあったときのおなじみの光景です。

ただ、ホテルまで彼女たちに占領されているとは思いませんでした。サラリーマンのおじさんたちは会社のお金で宿泊するのですが、彼女たちは自腹でホテルに泊っているのです。こういうのをイベントマーケティングとでも言うのか、周辺のホテルにも思わぬ波及効果を生んでいるのでした。

騒々しくなってきたので、私はホテルを出ました。そして、遅くまでやっている駅前の本屋に行こうと、女の子たちの後ろに付いて舗道を進んで行きました。みんな口々に、「よかったね」「チョー感動したよ」なんて言ってます。「今日の席は自慢できるよ」と言っている子もいました。よほどいい席が当たったのでしょう。

しばらく歩くと、「只今サービス券を配っています! 今だけの特典です!」と呼び込みをしている声が聞こえてきました。マクドナルドでした。売上の低迷で赤字に転落したマクドナルドは、イベント帰りの女の子たち目当てに必死の営業をしているのでした。これも便乗商法と言えるでしょう。

呼び込みが功を奏したのか、マクドの店内も若い女の子たちであふれていました。私は、そんなマクドを横目に、二軒先にある本屋に行きました。ところが、本屋の前にも女の子たちの人盛りができていたのです。

店頭のワゴンに写真集を並べて売っていたのです。おそらくコンサートの出演者たちの写真集なのでしょう。私は、女の子たちの脇をすりぬけて店内に入りました。そして、しばらく本を物色したのち、1冊の新書を手に取るとレジに向かいました。すると、びっくり、レジはいつの間にか写真集を手にした女の子たちで列ができていたのです。

仕方なく、私も列の最後に並びました。でも、並んだことをすぐに後悔しはじめました。精算にえらく時間がかかって、いっこうに前に進まないのでした。写真集を買うと、特典で生写真(?)をプレゼントするみたいなのですが、6種類あるサンプルのなかから1枚選ぶのに、とんでもなく時間がかかるのでした。「どうしよう」「迷っちゃう」とかなんとか言いながらなかなか決まらないのでした。

写真集も高価で、客単価は優に5千円を越えていました。みんな、気前よく万札で支払っていました。そんななか、800円の新書を手に、如何にもイラついた様子で、何度も首を伸ばして前をうかがっているおっさんは、あきらかに場違いでした。

AKBの人形使いではないですが、こんなところにも私たちが知らない市場があったのです。そこでは想像できないくらいの大金が使われているのです。 それは、衣食住とは関係のない消費です。

それにしても、彼女たちはなんと楽しげなんでしょう。みんな、笑顔がはじけ、口々に今日体験した感動を語り合っているのでした。月並みな言い方をすれば、そこにあるのは、間違いなく”消費する喜び”です。たとえそれが仕掛けられた”感動”であっても、彼女たちは、会社に勤めたりアルバイトをしたりして貯めたお金で、その”感動”を買い、みずからを解放しているのです。

吉本隆明は、かつて埴谷雄高との間で交わされたいわゆる「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」であると言ったのですが(1985年刊『重層的な非決定へ』)、私は、あらためてそのことばが思い出されてなりませんでした。

帰ってネットで調べたら、今日、横浜アリーナでおこなわれたコンサートは、「Kiramune Music Festival 2015」というアニメの声優たちが出演するコンサートだったようです。しかし、出演者を見ても、誰ひとり知っている名前はありませんでした。コンサートは、今日明日と2日間おこなわれるみたいで、ホテルが若い女性たちに占領されていたのも合点がいきました。それより驚いたのは、チケット料金が全席指定で1万円もするということです。それを見て、ラーメンが何杯食えるんだ?と思った私は、未だ「理念神話」に呪縛された”反動オヤジ”と言うべきなのかもしれません。
2015.05.09 Sat l 日常・その他 l top ▲
Yahoo!の「ネタりか」に、「メンタルが強い人の特徴」という記事が紹介されていましたが、それを読んで妙に納得する自分がいました。

ネタりか
知らなきゃ負け組に?ぜひ真似したい「メンタルが強い人」の特徴6個

■1:いつもメンタルが安定している

メンタルの強い人は、どんな状態であっても、情緒不安定になりません。いつ、チャレンジしなければいけない事態になっても、冷静な判断ができるように、常に気持ちを平穏にし、頭を明快にしています。


■2:常に幸せでいようとは思わない

過度に幸せになろうとはしません。メンタルが強い人は、自分の否定的な感情に関して、それを避けることはせず、ポジティブとネガティブな感情を両方とも、受け止めます。


■3:楽観的である

失敗すると、誰もが自信を失ったり、反省したりします。ただ、メンタルの強い人は、転んでも、失敗しても、すぐに立ち上がります。反省する代わりに、問題の解決法を見出す方に力をいれます。クヨクヨ悩まないのです。メンタルの強い人は、とても楽観的なのです。


■4:今を生きようとしている

メンタルの強い人は、過去を振り返って悩んだり、未来に不安を抱いたりせず、今を生きようとします。そして、世界の動きに注意深い傾向にあるそうです。世界の動きに注目していると、情緒不安定な状態が緩和され、ストレスや不安を減らしてくれるといいます。


■5:夢に対しての粘り強さがある

心理学者が出した研究結果で、挫折を何度も繰り返しながらも、夢をかなえた人が優れていたポイントは、IQでも美貌でも、健康でも、感情指数でも、強運でもなく、“粘り強さ”だったと明らかになりました。


■6:人生が好き

人生には必ず障害や壁があります。メンタルの強い人は、それをわかっていて、壁が立ちはだかっても、それにより気付かなかった幸せを知ったり、壁を乗り越えることで得る幸せを楽しもうとします。つまり、人生の障害すらも楽しんで生きようとしているのです。


別に人生に成功したいとは思いませんし、第一そんなことを思ってももう手遅れなのですが、ただ、人一倍メンタルの弱い人間としては、メンタルが強かったらどんなに人生が楽だったろうと思うことがあります。

私は、ここであげられている6項目すべてにおいて、真逆の人間です。ちょっとしたことでも動揺して冷静な判断ができず、何事にも悲観的でクヨクヨして、いつも過去を振り返って悩んだり、未来に不安を抱いているし、一度挫折すると立ち直れず、当然、こんな人生が嫌いです。

寺山修司だったかが、人生のかなりの部分は性格に規定されているというようなことを書いていましたが、たしかに自分の人生をつらつら考えるに、性格の要素は大きいように思います。しかし、性格は変えられないのです。そう言うと、「いや、性格は変えられますよ」と言う人が必ず出てきます。でも、そう言う人は、大概、自己啓発や自己発見のセミナーや宗教系の人です。

「僕は精神が好きだ」と言ったのは、大杉栄ですが、大杉栄が言う「精神」とここで言う「精神」とは別のものです。でも、大杉の言う「精神」も大事だけど、ここで言う「精神」も案外バカにできないように思います。お手軽な自己啓発や自己発見の本が売れるのもわからないでもないのです。だからと言って、自分は精神を自己啓発や自己発見で盛って暗示がかけられるほど素直ではありません。

老後を生きる上でもメンタルが強いほうが楽なんだろうかと思います。年金が少なくても、そんなにクヨクヨしないで日々をすごせるのか。足腰が立たなくなり、糞尿の臭いが漂う老人病院の大部屋に入れられても、嘆かずに平気でいられるのか。死を前にしても、ジタバタせずに冷静に死を迎い入れることができるのか。

そんなことをあれこれ考えました。そして、この6項目を書き写して、机の前の壁に貼っておこうかと思いました。
2015.03.16 Mon l 日常・その他 l top ▲
縁の切り方


親の死は、ボディブローのように徐々に効いてくるものです。母が亡くなったとき、友人から「今はそうでもないかもしれないけど、時間が経つと徐々にさみしくなってくるぞ」と言われたのですが、たしかにそのとおりで、生前は親不幸でめったに会うことがなかったにもかかわらず、親がいるのといないのとでは気持の上で全然違います。物理的な意味だけでなく、精神的な意味においても、もう帰る場所がなくなったという感じです。みなしごハッチではないけれど、文字通り天涯孤独になった感じです。

中川淳一郎氏は、『縁の切り方』(小学館新書)で、「かけがえのない人」との死別について書いていましたが、「かけがえのない人」との死別こそ、ある意味で究極の「縁の切り方」と言えるのかもしれません。

中川氏は、同書のなかで、人間関係に「諦念」を抱くに至ったきっかけとして、思春期のアメリカ生活と最愛の人の死をあげていました。

一緒に暮らしていた婚約者が、ある日、「お友達に会うの」と言って出掛けたまま戻って来なくて、3日後、家の近くの大学のキャンパスのなかにある朽ちた小屋で、首を吊っているのをみずから発見したのだそうです。これほど深い「孤独」と「諦観」をもたらす衝撃的な体験はないでしょう。

中川氏ほど衝撃的ではありませんが、私にも似たような体験があり、そのとき私は、「もう結婚することはないだろうな」と思いました。それから何度か、渋谷の雑踏や山手線の車内などで、「かけがえのない人」の幻影を見ました。

 この経験から分かったことは、「大事な人間はあまりいない」ということである。一人のとんでもなく大事な人がいなくなることに比べ、それ以外の人がいなくなることは大して悲しくもないのだ。それは同時に、一番大事な人は徹底的に今、大事にしてあげなさい、ということを意味する。


たしかに、「諦念」を抱くほど心の傷になるような「大事な人」なんてそんなにいるものではないのです。

一方で、この年になると、「みんな、死んでいく」のだということをしみじみ感じます。そして、やがて自分も死んでいく。

帰省した際も姉や妹たちから、幼馴染の誰々が死んだというような話を聞きました。隣の家のAちゃんも野球部で一緒だったBちゃんも、坂東三津五郎さんと同じように、若くしてガンで亡くなったということでした。私よりひとつ年上だった菩提寺の三代目の住職も、病気で亡くなっていました。また、私のことを「麻呂さん」と呼んでいた行きつけの喫茶店の女の子も、心臓病で亡くなっていました。

このブログにも書いていますが、病院に入院しているときも、顔見知りの患者の死を何度も見てきました。多感な時期でしたので、そのときの情景は今でも心のなかに残っています。

私たちは、このように多くの死に囲まれて生きているのです。その死ひとつひとつに「大事な人」が存在するはずなのです。「福祉専門」の病院で、段ボール箱ひとつだけ残して、誰にも看取られずにひとりさみしく死んでいく老人だって、「大事な人」がいたはずです。

いくら人間嫌いであっても、「大事な人」はいるでしょう。「大事な人」がいるから、死はこんなに悲しくこんなにつらく、そして、こんなに喪失感を伴うのでしょう。私は、孤独に生きたいと思っていますが、でも、孤独に生きるなんてホントはできっこないのかもしれません。
2015.02.24 Tue l 日常・その他 l top ▲
新年あけましておめでとうございます。

今年の正月は、ちょっと暗い気分ですごしています。昨日の大晦日も、年越しのイベントがおこなわれている赤レンガ倉庫や大桟橋に行こうかと思ったのですが、やはり気分が乗らず、結局、家で紅白歌合戦を観てすごしました。でも、紅白歌合戦はぜんぜんつまらなかったです。中森明菜も松田聖子も期待外れでした。

唯一、サザンの「ピースとハイライト」が痛快だったくらいです。

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は…狂気(Insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?


案の定、「ピースとハイライト」によって、桑田佳祐はネトウヨたちから「在日」認定され、「反日」だ「極左」だとさんざんの叩かようですが、まさに今、私たちの前にあるのは、そんな「狂気」の時代なのです。

そういえば、天皇陛下も「新年の感想」のなかで、今年が戦後70年の節目に当たることをあげて、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」と述べていましたが、これもまた「裸の王様が牛耳る世」を念頭においた発言であるのはあきらかでしょう。ナチスの例をあげるまでもなく、”カルト化するニッポン”というのは、「狂気」の時代の謂いでもあるのです。

私は、死の淵をさまよっている母の顔が未だ瞼の裏に焼き付いたまま離れません。スー、スーと大きな呼吸をくり返しているものの、それがいつピタリと止むかもしれないのです。それはなんの予告もなしに突然やってくるのです。私たち家族は、まるでその一瞬を見逃すまいとするかのように、一心に母の顔を見つめていました。

そこにあるのは、”絶望”です。でも、その”絶望”のなかに、まぎれもなく人生の真実があるのでした。

私たちは、母の顔を見つめながら、いつの間にか母に関する思い出話をしていました。それは、母に関する思い出であると同時に、私たち家族の思い出話でもあります。なんだか死の間際にいる母を前にして、私たちはホンの一時子どもの頃に戻ったかのようでした。

何度も同じことをくり返しますが、私たちは、生きる哀しみやせつなさをしっかり見つめることが大事なのだと思います。戦地にいる弟に、「君死にたまふことなかれ」と詠った与謝野晶子のように、「狂気」の時代に対置できるのは、生きる哀しみやせつなさを見つめる(人として当たり前の心のあり様である)個の論理だけなのです。私たちに必要なのは、「狂気」に動員される”政治のことば”ではなく、自分自身の胸の奥にある”私のことば”なのです。
2015.01.01 Thu l 日常・その他 l top ▲
2014年12月18日 070


『33年後のなんとなく、クリスタル』では、『なんとなく、クリスタル』で暗示された高齢化社会の現実が登場人物たちの会話のなかにも出てきますが、私のまわりでも、みんな大なり小なり親の高齢化や介護の問題を抱えています。老人福祉施設に入っている親も多く、親が亡くなったという話もよく聞くようになりました。

友人のなかには、老いた親の面倒を見るために仕事を辞めて田舎に帰った者もいます。施設に面会に行っても、認知症になった母親はもう自分のことがわからなくなっていて、そんな親の顔を見るのがつらいよというような話を聞くと、昔、友人の家に遊びに行ったらいつも笑顔で歓待してくれたお母さんの顔が思い出されて、せつない気持になります。あの頃、私たちの親はみんな若くて元気でした。

かく言う私の母親も末期ガンのためホスピス病棟に入院しているのですが、いよいよ危ないという連絡がありました。話すことはできないけどまだ意識はあるというので、意識があるうちに最後に声をかけておきたいと思い、近日中に帰省する予定です。

これはよくある人生の風景(出来事)です。でも、ひとりひとりにとっては、切実な個別具体的な出来事なのです。それは、死だけでなく仕事も恋愛も結婚も同じでしょう。私たちが生きている場所は、きわめて凡庸な場所です。しかし、その凡庸さのなかにひとりひとりの個別具体性があるのです。凡庸を凡庸で終わらせるのではなく、そういった凡庸な場所に、個別具体性をどれだけ浮かび上がらせることができるかが(私にとっての)”いい小説”の条件です。それは、手法や技術の問題ではなく、作者の問題意識と想像力の問題でしょう。

陳腐な言い方ですが、人生はなんと哀しくてせつないんだろうと思います。私たちは、黄昏のなかで、生きる哀しみやせつなさとしっかり向き合うことが大事なのだとしみじみ思います。私たちの苦悩は、そんな凡庸な場所にしかないのですから。しょうがない。そう自分に言い聞かせている自分がいます。

関連記事:
泣きたくなるような気持
しょうがない
2014.12.18 Thu l 日常・その他 l top ▲
私は、仕事の関係で、夜遅く隣駅との間にある郵便局(本局)の「ゆうゆう窓口」(時間外窓口)を利用することが多いのですが、半年前くらいから行く途中に、台車に犬を乗せて散歩している人を見かけるようになりました。はじめてその光景を見たときはびっくりしました。と言うのも、犬は、台車の上で横になってベタッと寝ているだけなのです。私は、死体を運んでいるのかと思いました。

実は、年老いて立つことさえままならない愛犬を散歩させていたのでした。台車を押している人も、もう70を越したような老齢の男性です。昼間は他人(ひと)の目があるので、そうやって深夜に散歩させているのでしょう。

あるとき、脇道の外灯の下に台車が止められ、男性が前かがみになって、犬の胴体を持ち上げようとしているのに出くわしたことがありました。男性は、犬を歩かせようとしていたのです。しかし、犬は自力では一歩も歩けないほど弱っていました。でも、男性は何度も犬の胴体を持ち上げて、懸命に歩かせようとしていました。そんな二人の影が深夜のアスファルトの上でゆれていました。立ち止まってその光景を眺めていた私は、今にも涙があふれそうになりました。

子どもの頃、わが家でも犬を飼っていました。小学校のとき、作文に「ジョン」(最初の犬の名前)のことを書いて、みんなの前で発表した思い出があります。そのあとは「ウタ」という名前の犬も飼っていました。「ウタ」は、今から20年くらい前に亡くなりましたが、早朝、田舎の母親から「今、ウタが死んだよ」と涙声で電話がかかってきたことを覚えています。私は、深夜に台車に乗せられた犬を見るたびに、「ジョン」と「ウタ」のことが思い出されてならないのでした。

一方で私は、そんなペットのいる光景とネットの殺伐とした光景をどうしても対比したくなるのでした。ネットはどうしてあんな畜生のようなもの言いにあふれているのか。「水は低いほうに流れる」ネットの同調圧力は、もはや最低限の人間性さえ奪っててしまったかのようです。宮台真司は、ネトウヨは「知性の劣化ではなく感情の劣化だ」と言ってましたが、まさに感情の暴走がはじまっていると言うべきかもしれません。

でも、「政治なんてない」(吉本隆明)のです。ネトウヨは、ただの”煽られるバカ”、いや、”煽られる人”にすぎません。私たちにとって大事なのは、”鬼畜中韓”の妄想にとりつかれ、寝ても覚めても「嘘つきの」中国や韓国のことを考えることより、深夜に年老いた愛犬を台車に乗せて散歩させるような気持を忘れずにもちつづけることなのです。そっちのほうが人として大事なのだという思想をもつことなのです。
2014.11.07 Fri l 日常・その他 l top ▲
2014年4月7日 017


別に桜を追いかけたわけではありませんが、栃木の温泉に行きました。都内や横浜では既に葉桜になりかけているところが多いのですが、東北自動車道から北関東自動車道に入って、さらに走りつづけると、満開の桜並木が目に飛び込んできました。

私は、九州の山間の町で育ちましたので、特に山のなかでピンクの花を咲かせている桜が好きです。子どもの頃の田舎の風景を思い出しました。

私は、生まれたのが温泉の町で、高校も別府でしたので、高校を卒業して九州を離れるまで、ほとんど温泉しか入ったことがありませんでした。温泉が当たり前だったのです。だから、こうしてたまに温泉に来て、頭にタオルを乗せ足を延ばして湯船に浸かると、「やっぱり、温泉っていいな」としみじみ思うのでした。

東京の人たちは、とにかく休みになると東京を脱出して、外へ外へと行きたがるのですが(「休みはどっかに行くの?」というのが常套句のようになっていますが)、その気持はよくわかります。たまにそうやって”命の洗濯”をしないと、資本主義末期の超過密都市で会社勤めなどつづけられないのでしょう。また、「人生の楽園」ではないですが、リタイアしたら田舎に住みたいという気持もわからないでもないのです。

途中、道の駅の脇の土手に、タンポポと桜が並んで咲いている場所がありました。こういった風景もなつかしいなと思いました。なんだかなつかしさばかりを追い求めるような一泊二日のささやかな旅でした。
2014.04.09 Wed l 日常・その他 l top ▲
ずっと欲しくてたまらなかった某老舗ブランドのステンカラーのコートを、清水の舞台から飛び降りるつもりで(ちょっとオーバーか)買いました。これでステンカラーのコートは、スプリングコートを入れると6着目です。年を取ると、なぜかステンカラーのコートがほしくなるのでした。

でも、私がホントに欲しかったのは、ツイードのステンカラーのコートです。と言うのも、父親がずっとツイードのステンカラーのコートを着ていたからです。

父親が着ていたのは、ややグリーンがかったヘリンボーンの柄で、比翼仕立てにラグラン袖のベーシックなロングコートでした。家ではコートと言わずにオーバーと言ってました。

父親は自営業(写真屋)でしたので、普段はコートを着ることはありませんでした。それこそ年に何度か余所行きのときに着るくらいでした。そのためか、私が物心ついたときから亡くなるまで、ずっと同じコートを着ていました。洋服ダンスを開けると、白元の虫よけ剤の臭いが漂うなかにいつもそのコートが掛けられていたのを覚えています。

若い頃、ステンカラーのコートなんてダサくて爺臭いイメージがありました。でも、不思議なことに年を取るとステンカラーのコートがいいなあと思うようになったのでした。そして、それとともに、父親のあのコートが思い出されてならないのでした。

余談ですが、小林秀雄や中野重治も、なぜか私のなかでは暗い色のステンカラーのコートを着ているイメージがあります。やはり、ツイードのコートは存在感があるからでしょうか。なによりクラシカルなツイードのコートには、白髪が似合うような気がします。

最近は、年齢を問わずみんな同じような恰好をしています。サラリーマンは、ボンディング加工で両脇にタブベルトが付いたショート丈のコート。カジュアルな場合は、猫も杓子もダウンです。でも、あえてトラディショナルでベーシックなものを着て、それで個性を出すという方法もあるのではないでしょうか。

政治の世界では、ネトウヨやアベノミクスの新自由主義者たちが「保守」を名乗っていますので、「保守」というと、小狡い(決して賢くはない)差別主義者か拝金亡者のイメージがありますが、本来「保守」には”差別”や”お金”とは真逆の高い倫理性に裏打ちされた孤高の精神があり、そういった矜持とダンディズムがあるはずなのです。それは、トラディショナルなおしゃれにも通じるものがあるように思います。

何着も持つより、父親のように一生もののコートを仕立てて、その一着のコートをずっと大事に着るのも逆におしゃれかなと思ったりします。でも、コートをオーダーメイドで仕立てるとなると、かなり高価になりますし、普段着るには、別の意味でもちょっと重すぎるような気がしないでもありません。

それで、今回もツイードのコートを仕立るのは見送ったのでした。でも、もう少し白髪が増えたら着たいなと思っています。そして、ほかのコートを処分して、一張羅のコートで残りの人生をすごすのもいいなあと思っています。
2013.12.08 Sun l 日常・その他 l top ▲
西野カナの新曲「さよなら」の「10年後も逢えるよ」というサビの部分を聴いているうちに、「おれたちにとって10年後ってただのじいさんとばあさんじゃないか。そんなヨボヨボな姿で逢ってどうするんだ?」なんて思ったりして暗い気分になりました。へたすればあの世で逢うことにもなりかねません。私たちにとって「10年後」はもう”未来”なんかではないのです。

外国人パブだかに入れ込んでいた知り合いと久しぶりに会ったら、最近はまったく足が遠のいていると言うのです。

「どうして?」
「頭だよ」
「頭? 病気かなにか?」
「違うよ。髪の毛だよ」
「髪の毛?」
「見てわからないか? 頭頂部がハゲてきたんだよ。そんな頭では行く気がしない。行ってもしようがないよ」

見るとそんなにハゲているようにも見えないのですが、本人は非常に気にしている様子です。そう言えば、以前、ネットで買った増毛クリームを塗ったら、逆に髪の毛が抜けたとか言って大騒ぎしていたことがありました。

それで、今では釣りや散歩が趣味になったそうです。それはそれでよかったんじゃないかと思いますが、一方で、ここにも老いが忍び寄ってるのかと思いました。

先日観た「ヨコハマ物語」という映画では、金妻(「金曜日の妻たち」)で人妻と恋に落ちた奥田瑛二が、定年退職した65歳の男性を演じていました。当時、私にも鶏冠(トサカ)のような前髪をした「跳んでる」人妻の知り合いがいましたので、65歳の孤独な老人を演じる奥田瑛二を見たときは少なからぬショックを受けました。余談ですが、あの頃、男性はみんな、髪はテクノカットで、ノーベントのダブダブのスーツを着て、セカンドバッグを小脇に抱えていたものです。一方、女性は、アメフトの選手のような肩パットが入った、やたら金のボタンが付いたスーツを着ていて、金のボタンが怒り肩の部分にまで付いていたことを覚えています。

と実は先日、そんな80年代の知り合いを偶然街で見かけたのでした。当時彼女は、”ネコ科の女”なんて言われて、熱をあげる男もいるくらい「燃えろいい女」(世良正則とツイスト)を地で行ってました。

都心のとある舗道を歩いていると、ビルの脇で煙草を吸っているグループがいました。ふと目をやると、そのなかにどこか見たことのあるような女性が煙草を咥えて立っていたのです。まさかと思いましたが、間違いなくそれは”ネコ科の女”の彼女でした。そして、そのとき、私は初めて彼女が転職した輸入雑貨の会社がここだったことを思い出したのでした。

見ると昔の面影は残っているものの、すっかり貫禄ある女性に変貌していました。長い黒髪は茶髪の短髪に変わり、かつての子猫のような小顔も煙草屋の店頭で居眠りするお××ちゃん猫のような貫禄ある顔になっていました。米米クラブの「浪漫飛行」の軽快なメロディをバックに、あの鶏冠のような前髪で跳ねるように街を闊歩していた“ネコ科の女”はどこに行ったんだという感じでした。

彼女は私のことに気付いてないようなので、私はとっさに顔を車道のほうに向けその場を通りすぎました。私とて彼女に勝るとも劣らぬくらい変貌しているので、彼女に声をかける勇気がなかったのです。

現実はこんなものです。「10年後も逢えるよ」なんて言わないほうがお互い身のためでしょう。
2013.11.21 Thu l 日常・その他 l top ▲
おとといの日曜日の夜9時すぎでした。安部首相と同じ相模湖の別荘に行くために(ウソです)、4号線を高井戸のほうに向かって走っていたときでした。やけに渋滞しているのです。「また工事なのか」とため息を吐き、ノロノロ走っていると、突然、前方に人影が現れたのです。なんと、振袖姿の女性でした。

女性は中央分離帯のガードレールに沿って歩いていました。私は一瞬なんのことやらわけがわからず「エエッ」と声をあげ、あわてて横を通り過ぎて行く女性のほうに目をやりました。女性は、まるで夢遊病者のように無表情でした。

どうしてこんなところに人が歩いているのか。しばらく走ると、今度は左手の壁沿いに、スーツ姿の男性が歩いているのが目に入りました。男性のほうはあきらかにあわてている様子でした。

首都高にはもちろん路肩なんてありません。中央分離帯と言っても、ガードレールがあるだけで、歩くスペースなんてどこにもないのです。事故に遭わなかったのが不思議なくらいです。

それからしばらく走ると、車の退避場所に、ヘッドランプを点けたままの車が停まっているのに気付きました。恐らく件のカップルが乗っていた車なのでしょう。しかし、見た感じでは故障や事故でもなさそうです。まるで緊急事態が発生して、その場に乗り捨てたといった感じでした。

仮に事故や故障であれば、携帯電話でレスキュー隊を呼べばいいだけの話です。車道を歩く必要なんかないでしょう。しかも、振袖姿の女性は、車道を渡って中央分離帯を歩いているのです。よくもまあ車と接触しなかったものだと思います。

なにがあったのか。喧嘩をして頭に来た女性が車から降りたのか。それにしては、あまりに無謀すぎます。

あのままどこに行くつもりだったんだろう。首都高から降りるには料金所まで歩くしかないのです。緊急の降り口があるとかいう話も聞きますが、女性は中央分離帯を歩いているので、降り口を探しているとも思えません。

私は、翌日の新聞に、「振袖姿の女性が首都高を徒歩」とか「振袖姿の女性、首都高ではねられる」とか言った記事が出てないか探しましたが、そういった記事はありませんでした。

私も昔、車のなかで喧嘩をして、たこ焼きを投げつけられたことがありますが、車から飛び出すなんてよほどのことでしょう。まして、首都高の上なのです。振袖姿にムラムラしてイタズラをしかけたら、女性が逃げ出したのか(実は、私はそう妄想したのですが)。

ツイッターに「首都高なう。振袖の女性が歩いてる。びっくりしてブレーキを踏んだ」などと書き込んだ人はいないのだろうかと思いました。まさか幻影だったわけではないでしょう。あの日あの時間に高井戸手前の下り線を走っていた人は、間違いなくその姿を見たはずです。

追記:
その後、ツイッターの検索で調べたら2件、書き込みがありました。位置は「高井戸の手前」ではなく「永福町の手前」だったみたいです。幻影じゃなくてよかった。
https://twitter.com/otakos/status/401684161016000512
https://twitter.com/pumoriyama/status/401691938073501696
2013.11.19 Tue l 日常・その他 l top ▲
昨日(18日)は、私の誕生日でした。

17日に25回目の誕生日だったAKB48の大島優子は、ディズニーランドのホテルに泊まった際、ミッキーとミニーから「お誕生日おめでとう」というメッセージが留守電に入っていて感激したそうですが、私には1件の留守電も入っていませんでした。

昨日かかってきたのは、墓地のセールスの電話だけです。誕生日のお祝いは、通販会社からポイントサービスのハガキが来ただけです。それどころか、昨日は、病院で実に恥ずかしい(屈辱的な)検査を受けるはめになったのでした。

ズボンとパンツを下げ、下半身をむき出しにして、ベットに仰向けに寝るように指示されました。そして、「両手で膝を抱えるようにしてください」と言われました。

「上体はそのままにして、お尻を大きく持ち上げるようにしてください」「そうです。そうです」「じゅあ、いいですか。楽にしてください。入れますよ」と先生の声。

「エエッ、入れるって、何を?」と思う間もなく、いきなり冷たい感触の器具がお尻の穴に挿入されたのです。

「もっと膝を手前に引いてお尻を大きく持ち上げてください」
私は唸りながら、両手に力を入れました。すると、今度は「楽にしてください」と言うのです。「おい、どっちなんだ」と言いたい気持でした。

先生は容赦なく、お尻のなかで器具をぐりぐりまわしています。そのたびに私は、口から声が漏れそうになるのを必死で堪えていました。

一方、肛門を刺激されたせいか、徐々に便意をもよおしている自分がいました。「このままではウ×コが漏れる」 そう思うと、いっそう危機感におそわれました。でも、堪えなければならない。額に汗が滲んできたのがわかりました。私は放心したように、膝を抱えたまま、目を見開いて天井を見つめていました。

検査の結果は、現状維持、つまり、このまま経過を見ることになりました。つぎの段階に進まなくてホッとしました。

処方箋をもらって病院の階段を降りるとき、まだお尻に異物が残っている感覚があって、心なしか内股で歩いている自分がいました。ホモってこんな感じなんだろうか、そのうちこれが快感になるんだろうか、なんてつい余計なことまで考えてしまいました。

まったくよりによってという感じですが、これが大島優子とは似ても似つかない私の誕生日でした。
2013.10.19 Sat l 日常・その他 l top ▲
私は空いていればシルバーシートでも座りますが、先日も、シルバーシートに座ってウトウトしているときでした(決してタヌキ寝入りしていたわけではありません)。

突然、「まったく今の若い人はなにを考えているんだか」「そんなもんだよ」という男女の甲高い声が聞こえてきたのです。

ハッ!と思って目を開けると、斜め前に初老の女性が立っていました。私は三人掛けの一番奥の席に座っていたのですが、いつの間にか隣にも女性と同じ年恰好の男性が座っていました。わざとらしい会話をしていたのはその二人でした。二人はどうやら夫婦のようでした。

私は、とっさに私に対する当てつけだと思いました。「若い者がシルバーシートに座って。年寄りが前に立っているのにタヌキ寝入りして知らんぷりしているのか」と。

でも、よく見ると、立っているのはまだ60代の半ばくらいの元気な女性なのです。私は、逆に反発を覚えました。その手の人間は、普段、「年寄り扱いなんかされたくないわ」なんて言っているくせに、都合のいいときだけ「年寄り」のふりをするのです。普段は平気で人を裏切り差別しているくせに、人を指弾するときだけ善良ぶる市民社会の住人たちと同じです。

「だったら意地でも変わらないぞ」と私は思いました。電車のなかでいちばんマナーが悪いのは高校生とヤンキーで、そのつぎにマナーが悪いのが、シルバーシートに座っている俄か「年寄り」たちです。まるでおれたちの特権とでも言わんばかりに、他の席がギューギュー詰めで混んでいても、平気で横の座席に荷物を置いて座っているし、なかには足を組んでふんぞり返って座っている「年寄り」さえいます。実際にシルバーシートが必要な年寄りなんて、10人のうち1人いるかいないかでしょう。あとは特権を我が物にせんとする俄か「年寄り」ばかりです。

私は、「当てつけみたいな言い方をしないで堂々と言えよ」と思って、女性と男性を睨みつけました。しかし、彼らは私の視線にはまったく気付かず、反対側のほうをチラチラと見ているのでした。

あれっ?と思って横を見ると、私と反対側の端の席(つまりドア側の席)には、若い男の子が、タヌキ寝入りなのか、目をつむって座っていました。どうやら夫婦が当てつけに言っていたのは、私ではなく隣の男の子のほうだったのです。

現状を把握した私は、少なからぬショックを覚えました。「エッ、おれじゃないんだ?」「どうしておれじゃないの?」と言いたいような気持でした。もし「変わりましょうか」と席を立っても、「あなたはいいのよ。お互い様でしょ」と言われて制止されるかもしれません。「まったく今の若いもんは気がきかないですな」と隣の男性から同意を求められるんじゃないかと思って、私はあわてて目をつむりました。

あてつけの夫婦が降りたあと、正面の窓ガラスに映った自分を顔をまじまじと見つめている自分がいました。そこに映っていたのは、老いたコッカースパニエルのようなくたびれたおっさんの顔です。いつまでも若いつもりでも、年齢はごまかせないのです。そう思うと、玉手箱を開けた浦島太郎ではないですが、いっきに老けたような気持になるのでした(と言っても、年に何度かそういったことがありますが)。
2013.10.12 Sat l 日常・その他 l top ▲
今日の昼間のことでした。外から帰ってきて、パソコンを立ち上げていたら、電話(固定)のベルがけたたましく鳴りました。電話は留守電のままだったのですが、留守電のアナウンスが流れてもしばらく無言で、そしてガチャリと切れました。

2~3分後、再びベルが鳴りました。その際、電話機のモニターで確認したら、045×××××××という横浜市内の電話番号が表示されていました。しかし、私の「電話帳」にない番号です。

すると、今度は5~6秒くらい無言のあと、意を決したような女性の声が流れてきたのです。

「×村×子です。お久しぶりです。お手紙ありがとうございました。私のことを忘れないでいてくれてうれしかったです。私も・・・ピー、ピー、ピー」
「メッセージを録音しました」
メッセージの時間切れです。

「また来るぞ」と私は思いました。案の定、2~3分後、三度目のベルが鳴ったのです。

「×村×子です。お手紙ありがとうございました。私のことを気にかけてくれてうれしかったです。私も会いたいと思っています。いろんなことがあり、お話ができれば・・・ピー、ピー、ピー」
「メッセージを録音しました」

今度かかってきたらどうしようかと思いました。今さら「間違い電話です」と言うのも忍びない気がしますし、「×村×子」さんに大恥をかかせることにもなります。だからと言って、留守電の盗み聞きをつづけるのも気が引ける。

でも、私の悩みも杞憂に終わりました。四度目の電話はかかって来なかったのです。ちょっと残念な気もしました。

「×村×子」さんは既に結婚しているのではないか。結婚生活もマンネリになっていたときに、突然、昔の恋人から「まだ君のことが忘れられない」という手紙が来た。どうしよう。もう昔とは違うのだ。今度会ったら「不倫」になるし。でも、でも、やっぱり会ってみたい。電話の前で私は、そんなことを想像しました。

しかし、あろうことか「×村××子」さんは、見も知らない相手に自分の「不倫」に揺れる気持を吐露していたのです。

やはり三度目の電話のとき、野暮を承知で「×村×子」さんに”真実”を伝えるべきだったのかもしれません。胸が張裂けそうなくらい大きくなっていくトキメキを抱えながら、返事を待っている「×村×子」さんのことを思うと、なんだか申し訳ないような気がして、後味の悪さだけが残りました。

後日談
待ちくたびれたのか、その後再び×村×子さんから電話がかかってきました。それで、野暮を承知で電話に出て、「×村さん、今まで何回も変なメッセージが入っていましたが、私はあなたが待っている×崎さんではありませんよ。間違いですよ」と言いました。すると、×村×子さんは、「エエッ!」と素っ頓狂な声を出し、「すいませんっ!」と言って電話をガチャリと切りました。
2013.08.22 Thu l 日常・その他 l top ▲
一昨日、仕事の関係で帰りが遅くなり、新宿のホテルに泊まったのですが、結局、一睡もせずに朝を迎えることになりました。私は見かけによらず神経質なところがあって(一方で無神経なところもありますが)、よそに行くと寝付けないことが多いのです。

ホテルでは高橋源一郎の『銀河鉄道の彼方に』を読んで時間を潰しましたが、読み疲れたら窓のカーテンを開け、きらびやかなネオンが瞬く新宿の街を眺めたりして朝を待ちました。『銀河鉄道の彼方に』は非常に長い小説なので、読み終えたらまた感想を書くつもりですが、小説のせいなのか、ふと二十歳の入院していたときのことを思い出しては、ちょっとセンチメンタルな気分になっている自分がいました。

それは私にとっては三度目の入院でした。大学受験に失敗して東京の予備校に通っていたのですが、病気が再発したため、一旦九州に戻り、地元の国立病院に入院したのでした。

国立病院は街を見下ろす高台にあり、私のベットは窓際でしたので、そこからは、至るところに湯けむりが立ち昇る温泉地の街並みとその前に広がる別府湾の海原を見渡すことができました。

私は、いつの間にか、みんなが寝静まった深夜にベットに腰掛けて、海に沿って帯状に伸びる街の灯りを眺めるのが日課になっていました。そのため、同じ病室の人たちは、私が我が身をはかなんで「泣いているんだろう」と思っていたそうです。

買い物のために外出して駅前通りを歩いていたら、カメラを構えて写真を撮っている同級生の女の子を偶然見かけたことがありました。彼女は地元の大学に進んだので、おそらく大学で写真のサークルにでも入ったのでしょう。しかし、私は声をかけることもなく、彼女に気付かれぬようにその場をあとにしました。「エッ、なんで別府にいるの? 東京に行ったんじゃないの?」と言われるのがつらかったからです。

でも、今考えれば、たしかに病気は深刻だったけど、それでも夢もあったし希望もありました。「明日」を信じることもできたのです。だから、どんなに苦しくても恋もできたのです。

老人病院のベットの上から外を眺めて朝を迎えるなんて、あまりにも悲しすぎて想像したくもありませんが、しかし、私たちに残っているのは、もうそんな現実だけかもしれません。『銀河鉄道の彼方に』のなかに、「真の悲しみとは、ただなにかを失うことではなく、それが存在していた時に自分を浸していた豊かな感情が再現されることだ」という文章がありましたが、老いるということは、そうやって「真の悲しみ」を知ることでもあるのかもしれません。「悲しみに負けた時」「希望を失った時」(『銀河鉄道の彼方に』)、私たちはなにを支えに立ち上がり再び歩みはじめればいいのか。もう一度あの頃に戻ってそれを知りたいなと思います。若い頃の思い出はせつないものがありますが、しかし一方で、どこか心のよすがになっているような気がするのは、そこに間違いなく「明日」があったからでしょう。

>> 二十歳の夏
>> 「銀河鉄道の夜」
2013.07.09 Tue l 日常・その他 l top ▲
安井かずみがいた時代


今日も用事で行った豊島区界隈を3時間近く歩きました。と言って、池袋まで歩いて帰ろうと思ったものの、方向音痴のため、道に迷って住宅街のなかをウロウロしただけなのですが。しかし、怪我の功名と言うべきかもしれません。おかげで今日の歩数は1万5千歩を越えました。

ほうほうの体で池袋に着いて、例の『安井かずみがいた時代』を買おうと、まず東武百貨店のなかにある旭屋書店に行きました。旭屋書店も以前に比べて売り場が縮小されていましたが、案の定、「在庫なし」でした。それで、池袋駅のコンコースを縦断して東口のリブロに行きました。備え付けのパソコンで在庫検索をすると、「芸術」のコーナーに在庫があることがわかりました。

でも、「芸術」のコーナーは、メインの売り場からかなり離れた別館(?)の3階にあり、顧客も疎らな売り場です。その片隅に5~6冊平積みにして置かれていました。

これだけ大手の書店をまわってもどこも「在庫なし」の状態なのに、こんな目につかない売り場の片隅に平積みされているというのは、配本がアンバランスで販売機会を失っているような気がしてなりません。これじゃ著者が気の毒です。

表紙の帯には、「おもしろかった。ファンだった私には、待ちに待っていた本でありました。すごい力作!!」という山田詠美の手書き風の推薦文が載っていました。

たまたま私は、山田詠美の最新作『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』(幻冬社)を読んでいたのですが、退屈でつまらなかったので途中で放り出したばかりだったのです。山田詠美さん、他人の本が「おもしろい」と言う前に、あなたこそ面白い小説を書いてください、と言いたくなりました。

ネットの時代になり、オタクたちのネトウヨ化が最近とみに目に付くようになりましたが、どうして彼らはあんなに単純にトンデモ話(陰謀論)にイカれるのか。その”原点”というべき1989年の宮崎勤逮捕直後に出版された『Mの時代』(太田出版)をアマゾンで買いました。この本、新刊の定価が1100円なのに、中古にはプレミアムが付いて1800円になっていました。

買ったまままだ読んでない本も溜る一方なので、気合いを入れて(!?)本を読まなければと思っています。

『安井かずみがいた時代』の感想は、後日読み終えたら書きます。
2013.05.19 Sun l 日常・その他 l top ▲
最近、高校のクラス会の案内状がたてつづけに届きました。どうして「たてつづけ」なのかと言えば、東京の同窓会と九州の地元の同窓会の両方から案内状が届いたからです。

私が出た高校には、結構しっかりした同窓会が各地にあるのですが、現在、東京の同窓会も、地元の同窓会も、いづれも「会長」(世話人)は私の同級生がやっているようです。それくらい私たちも年を取ったということでしょう。

東京の同窓会のサイトには、新しい会長による挨拶が写真付きでアップされていました。それを見た私は、一瞬「このハゲたおっさんは誰?」と思いました。名前はたしかにかつてのクラスメートです。でも、まるで古参の区議会議員のような風格の写真と名前がどうしても一致しないのです。

高校を卒業してから彼とは一度も会っていません。たしか私が受験で上京するとき、駅に見送りに来てくれたように記憶していますが、それが最後でした。以後、同じ東京にいながら、一度も会ってないのです。以前は仕事でしょっちゅう新宿にある彼の職場の前を通っていましたが、それでも職場に寄って声をかけることもありませんでした。

なにか彼に会いたくない事情があったわけでもないのです。ただめんどうだっただけです。私は変わったところがあって、旧交を温めるというような人間関係が好きではないというか、どうも苦手なのです(そのくせいつまでも過去に拘泥しているところがありますが)。

東京のクラス会の案内状には、前回行われたクラス会の記念写真が同封されていました。でも、そこに写っていた中年のおっさんやおばさんたちに、ひとりとして昔の面影を見つけることはできませんでした。名簿を見ると、東横線沿線にも何人か住んでいますので、どこかですれ違ったことがあるかもしれません。でもこれじゃわかるわけないなと思いました。

ただ、勝手な話ですが、一度も出席してないのにこうして忘れられずに案内状が届くことに対して、最近はちょっとありがたいなと思うこともあります。槇原敬之の「遠く遠く」ではないですが(でもあのようなリリカルな気持をもつにはあまりに年を取りすぎていますが)、今年はせめて欠席のハガキくらいは出そうかなと思いました。
2013.05.08 Wed l 日常・その他 l top ▲
昨日テレビを観ていたら、私の田舎が出てきたのでびっくりしました。折しも先日、田舎の同級生からも電話がかかってきて、最近、田舎が「すごいことになっている」話を聞かされたばかりでした。私の田舎は、九州の山間の温泉場なのですが、温泉の特徴である”炭酸泉”がにわかに注目され、若い女性の間に人気が出て、町も活況を呈しているのだそうです。

昔は文字通りひなびた温泉場で、10軒あまりある温泉旅館も、跡を継ぐ人間なんて誰もいませんでした。過疎化の速度もすさまじく、私たちが中学生の頃は1学年200人前後いましたが、20数年前、私が石もて追われ田舎を出る頃は(石川啄木か!)、20人くらいしかいませんでした。

ところが、私が田舎を出てから、このひなびた温泉場が脚光を浴びるようになり、跡を継ぐ者がいなかった旅館も、二代目三代目が帰って来て、建物もつぎつぎと建て替えられたのです。

先日の電話でも、「Tちゃん(私の名前)が東京に行っちから不思議とN(田舎の地名)が発展しだしたんだよな」と皮肉を言われ、おれは厄病神かと思いました。最近は都会からの「移住」にも力を入れていて、これがまた人気だと言うのです。「Tちゃんも帰って来ればいいだべ。田舎でんインターネットはできるだべ」(方言は創作デス)と言うので、「だからさぁ、前から言っているように、おれはさぁ、たとえ野垂れ死にしても帰るつもりはないのさ」と怪しい東京弁で返答しました。

で、そのテレビですが、通販の化粧品かなにかのCMでした。”炭酸泉”というのは非常にめずらしくて、”炭酸泉”には「美肌効果」があると言うのです。どこかの大学の先生も出てきて、「美肌効果」にお墨付けを与えるようなコメントを述べていました。一方、それを聞きながら私は、田舎の人たちのなつかしい顔を思い浮かべていました。

田舎では、町営の温泉があちこちにあったので、内風呂のある家なんてなく、みんな町営の温泉に行ってました。私は中学までしか親元にいませんでしたが、それまでは毎日温泉に入っていました。当時は町営の温泉場は24時間開放されていましたので、1日に2度も3度も入ることもありました。

でも、うちの家族でも、近所の人たちでも、同級生でも、役場の職員でも、旅館のおばさんたちでも、サメ肌のような人はいくらでもいましたが、美肌の人間なんてひとりもいませんでした。唯一、初恋の相手の女の子だけが「美肌」のように見えましたが、それも「あばたもえくぼ」の幻覚だった可能性が大です。私自身も、前に書いたように、花粉がくっついて困るくらいフランス人形のようにまつ毛が長いという自覚はありますが、美肌だという自覚はありません。実際に、「背が高いね」「足が大きいね」「お金がないね」「将来が不安ね」と言われたことはありますが、「肌がきれいね」と言われたことは一度もありません。母親なんておよそ60年間温泉に入っていますが、とても美肌だとは言い難い。そもそも昔は「美肌効果」なんて誰も言ってませんでした。

もっとも温泉というのは、テレビ東京の旅番組を観ればわかりますが、この手の”誇大広告”が付きものです。まあアベノミクスと同じで、一種のおまじないみたいなものかもしれません。

アベノミクスで再び日本にバブルが訪れるのではないかと言われていますが、田舎の活況も「美肌効果」なんて”誇大広告”に踊らされたバブルにすぎないのではないのかとちょっと不安になりました。
2013.03.17 Sun l 日常・その他 l top ▲
今年は花粉症が深刻です。

私は、4~5年前くらいから行きつけの病院で花粉症の薬を処方してもらっていますが、それまで飲んでいた市販の薬に比べたら効果はてきめんで、これでいくらか花粉症の悩みから解放されたと思っていました。

ところが今年は、それがまったくの幻想だったことを思い知らされています。くしゃみや鼻水はそうでもないのですが、とにかく目の痒みがひどいのです。もはや限度を超えていると言ってもいいほどです。

昨日も外出先で猛烈な目の痒みに襲われました。そして、ほうほうの態で知り合いの会社に着くや、洗面所に直行して、洗眼液で目を洗い、目薬をさして、ようやくひと息吐くことができました。

赤鬼のような形相で駆け込んできたので、みんな「何事か?」と思ったそうです。真っ赤に腫らした目を見て、「違う人みたい」と言われました。

もちろん、病院で点眼液を処方してもらってますが、ほとんど気休めでしかありません。山本リンダではないですが、痒くなったら「どうにも止まらない」のです。

それでも「フランス人形みたいにまつ毛が長いので、他人(ひと)より花粉が付きやすいんだよ」と減らず口を叩いたら、飲みかけのウーロン茶を吹き出した人がいましたが、まったく髪も眉もまつ毛も全部そり落としたい心境です。

私は花粉症になって10数年ですが、こんなにひどいのは初めてかもしれません。ゴーグルのようなメガネをかけるのは恥ずかしいけど、こんな状態がつづくならあのメガネをかけるしかないかなと本気で思っています。
2013.03.12 Tue l 日常・その他 l top ▲
東横線渋谷駅2014031001


前も書きましたが、来週の3月16日から東急東横線と地下鉄副都心線の相互乗り入れがはじまります。それに伴い、東横線のホームが今の渋谷駅の2階から渋谷ヒカリエの地下5階の副都心線と共有のホームに移転します。つまり、あの見慣れた東横線のホームが姿を消すのです。ちなみに、東横線のホームが高架になったのは、1964年だそうです。

それで今朝、渋谷に行ったついでに、スマートフォンでホームの光景を写真に撮りました。今日は日曜日とあって、ホームには消えゆく光景を写真におさめようという人たちが至るところにいました。また、電車から降りてくる乗客のなかにも、携帯を取り出して写真を撮る人がいました。そうやって記念に残すために写真を撮っている人たちを見るにつけ、写真屋の息子としては、ちょっと感動するものがありました。

東横線の桜木町駅が廃止になったのは9年前だそうですが、あのときも写真を撮っておけばよかったなと今になって思います。ネットで探しても、旧桜木町駅の写真は意外と少ないのです。ただ、当時と違って今はブログをやっている人も多いので、そのうち旧渋谷駅の写真があふれるようにネットにアップされるのかもしれません。

東急桜木町駅が廃止になってまだ9年しか経ってないというのも意外な気がしました。感覚的にはもっと昔だったように思っていたからです。それくらい街はめまぐるしく変貌しています。それが現代の資本の回転速度なのでしょう。

若い頃は街の変化を楽しむ余裕がありました。でも最近は、そのスピードにまったくついて行けない(行けてない)自分がいます。アポリネールの「ミラボー橋」ではないですが、「時は流れ私は残る」といった感じで、なんだかおいてけぼりにされているような気さえするのです。だから、よけい街の変化に寂寥感を覚えるのでしょう。  

東横線渋谷駅2014031002

東横線渋谷駅2014031003

東横線渋谷駅2014031006

東横線渋谷駅2014031004

東横線渋谷駅2014031008


>> 真実は現実にある
2013.03.10 Sun l 日常・その他 l top ▲
083716表参道


朝、原宿に行く用事があったので、そのまま原宿駅から渋谷まで歩きました。

駅を出てすぐの表参道の舗道に、長い行列ができていました。よくみると、大半は男性で、しかも、こう言っては失礼ですが、早朝のパチンコ屋に並んでいるようなタイプの人たちが目につきます。

場所柄、初売り(バーゲン)に並んでいるようにもみえるのですが、まさかラフォーレの初売りの行列が原宿駅まで伸びているということはないでしょうし、なんのバーゲンなんだろうと思いました。

もっとも最近は、ネットで売る商品をバーゲンなどで仕入れる人たちもいるみたいなので、行列のなかに場違いな人たちが混ざっているのも不思議ではないのかもしれません。

私の知り合いで、オークションで落札した商品を再びオークションに出品して利ざやを稼いでいる人間がいますが、本人の話ではヘタなアルバイトより稼げるのだそうです。まったくネットというのは、「虚実入り混じった」変なところです。

表参道は、ほとんどの店はまだ開店前で、歩いている人もまばらでした。あらためて舗道沿いの店をみると、大半はファッション関連の店で、それも大小さまざまなブランドの直営店ばかりです。

「モードの時代は終わった」という声もありますが、原宿をみる限り、まだモードは人々の心をとらえつづけているかのようです。人々がモードにとらわれるのにはいろんな解釈があると思いますが、なによりそこに資本主義の”原理”が凝縮されているのは間違いないでしょう。

先述した『資本主義の「終わりの始まり」』によれば、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、「資本主義とは永遠の経済成長という非合理な宿命を強迫のように背負わされた宗教だ。」と言ったそうですが、モードにとらわれた人々はまるでそんな宗教の信者のようです。

スローフード、スローライフなどと言っても、それが観念的なスローガンにとどまっている限り、「脱原発」と同じような”運命”をたどるのは目にみえている気がします。『資本主義の「終わりの始まり」』の著者・藤原章生氏は、いやそうではない、「大事なのは、二十万人もの人々が少なくとも一度は官邸前に集まったという事実だ。もし、仮にもっとひどい政策がなされたとき、おそらくさらに多くの人々が一カ所に集まる反政府運動のポテンシャル(可能性、潜在力」)が示されたことだ。」と言うのですが、私にはそれはやはり、おためごかしだとしか思えません。

反原発の「官邸デモ」は、野田首相(当時)との会見に象徴されるように、結局は60年代後半に否定されたはずの古い政治のことばをよみがえらせただけではないのか。そういう方向に収れんさせることによって運動のエネルギーを奪っていったのではないか。非常に言いにくいのですが、そのようにしかみえません。

考えてみれば、永遠の経済成長、つまり永遠の拡大再生産なんて、私たちの商売と同じで、「そうなればいい」「そうならなければ困る」という希望的観測にすぎないのです。案外、日本は資本主義というモードの最先端を走っていて、私たちは、「永遠」がもう「永遠」ではなくなりつつある資本主義の、その波頭に立っているのかもしれません。原宿の光景だって、マッチ売りの少女がみるうたかたの夢にすぎないのかもしれないのです。

しかし、私たちにはつぎの準備がなにもないのです。GDPがじわじわと減りつづけ、借金の比率が高まっていく。そうやって徐々に空気が薄くなっていくと、最初に影響を受けるのは体力のない人たちです。そのとき、「成長が続くという幻想が消えた」ことを知る最初の世代であり、労働人口の最高齢にいるはずの40代はどう反応するのか。日本以上に「労働の流動化」、つまり非正規雇用が進むイタリアの例をとりながら、藤原章生氏は、つぎのように問うのでした。

人間同士の関係を重視し、自身のエゴをうまく抑え、貧者に対して最低でも生きていける程度の富を分け与え、少ない仕事を共有するような形へと落ち着くのか。


既に露骨な「ナマポ」叩きがはじまっている日本の現実を考えるとき、とてもじゃないけど、これは夢物語のようにしか思えません。なにより、「つぎの準備」がこのような(まるで宗教のお題目のような)願望によってしか表現できないことに愕然とせざるをえないのです。

渋谷に着いてしばらく時間を潰したあと、開店したばかりのGAPで、予備がないと不安症候群の私は、カーディガン2色をそれぞれ2枚づつ買って帰りました。


084144表参道

083832表参道
2013.01.05 Sat l 日常・その他 l top ▲
2013年謹賀新年

あけましておめでとうございます。

正月3が日は完全休養でした。と言えば聞こえはいいですが、年越しのカウントダウンで山下公園に行った以外は、文字通りの寝正月でした。

今年はプライベートでも仕事でも課題山積ですが、それでも例年どおり今日できることを明日に延ばして、怠惰にやりすごすのだろうと思います。

最近は「無理しても仕方ない」と半ば開き直っています。性格にしても、大半は脳内物質の分泌量の違いで決まるみたいで、自分ではどうにもならないのです。無理すると、メンヘラではないですが、どこかにひずみが出てくるのはそのせいなのでしょう。無理しないのがいちばんです。

今の生活パターンでは、どうしても深夜遅くまで起きていることが多いのですが、深夜はずっとインターネットラジオのradikoでラジオを聴いています。

最近のお気に入りは、平日の早朝4時から5時55分まで(月のみ5時から開始)、TOKYO FMで放送されている「SYMPHONIA」というクラシック音楽の番組です。

私は、クラシック音楽はまったくの門外漢で、今まで一度もコンサートに行ったこともありません。ところが、この番組を聴いているうちに、なぜかクラシックの旋律が自然と耳に入ってくるようになったのです。最近はこの番組を聴くためにわざわざ朝まで起きているくらいです。

「SYMPHONIA」について、TOKYO FMのプレスリリースでは、「ジョギングや『朝活』など、早朝の時間を有意義に使う風潮が高まっている中、クラシック番組をBGM=“インテリア音楽”とすることで、爽やかな朝を過ごしていただくべく、良質なプログラムを厳選してお届けしています。」と謳っていますが、怠惰な私には、そんな健康的な聴き方とはまったく無縁です。

でも、夜明け前の時間に聴くクラシックの旋律はとても叙情的です。そのゆったりとした旋律のなかにいると、いつの間にかいろんな思いがこみあげてきて、ときにしみじみとこの人生をふりかえりることもあります。

文字通り馬齢を重ねているような人生ですが、しかし、そうは言っても、「誰の手も借りずになんとか今日まで生きてきた」という自負のようなものもどこかにあります。自分の人生をふりかえるに、そんな自己嫌悪と自負心がない混ざったような気持があるのです。

昔聴いたフォークソングの歌詞ではないですが、今日まで、そして明日から、自分なりのスタイルで無理せずに生きていくだけです。それしかない。

そんな抱負にもならないような抱負を抱いた正月でした。

今年もシールマニアともどもよろしくお願いいたします。
2013.01.04 Fri l 日常・その他 l top ▲
先日、電車に大きなスポーツバッグを手にした60代後半くらいの男性が数人乗ってきました。どうやら工事現場の警備員かなにかガテン系の仕事をしているらしく、その仕事帰りのようでした。そして、次のような会話が耳に飛び込んできました。

「寒くなったなぁ」
「メリヤスのシャツを二枚着ているけど、それでも寒いもんな」

メリヤス?

ああ、なんとなつかしい言葉でしょう。私は、思わず発言主の男性の手を取って、「感動しました」と言いたいくらいでした。

私のなかにはこのように多くの死語がいまだに残っています。

若い頃、彼女がデートの待ち合わせに遅れてやってきたことがありました。

「ごめん、パンツが汚れていたのに気付いたので、途中で家に引き返してはきかえてきたの」

パンツ?

私は、よからぬ妄想を抱いてちょっと興奮したものです。

中学生になると、田舎の子供でもやはりおしゃれに興味をもつようになり、それまでのデカパン(でかいパンツ)ではなく、今で言う男性用のショーツを買ってくれるように母親に頼みました。すると、母親は、「エッ、男のくせにパンティがいいんだ?」と鼻で笑っていましたが、その際、パンティの「ィ」を大文字のように発音するのでした。

ジーンズに至っては、今でも「ジーパン」です。ジーンズだなんてカッコつけやがってと思うのです。コーデュロイという言い方もいまだに違和感があります。さすがに「コール天」とは言いませんが、コーデュロイと発音するとき、ときどき噛むことがあります。

食べ物屋で「スプーンありますか?」と言ったとき、一瞬頭のなかに「匙」ということばが浮んだことがありました。ちなみに、父親は、上京して新宿のレストランで食事した際、実際に「すんません、匙ありますか?」と言ったのです。それも大声で。

「ベッピン(別嬪)」さんは今でも普通に使っています。知り合いの家に行ったとき、娘さんを見て、「ベッピンさんですねぇ」と言ったら、篠田麻里子のような娘はニコリともせず、憐れむような目で私を見ると、そそくさと二階にあがって行ったのでした。

こうして考えると、老けるのは当然ですね。
2012.11.27 Tue l 日常・その他 l top ▲
栗ごはん

季節柄栗ご飯を食べたくなり、近所のスーパーに「栗ご飯の素」を買いに行ったときのことです。炊き込みご飯の素だとか鶏五目ご飯の素などが置いてあるコーナーに行ったのですが、肝心な栗ご飯の素だけが見当たりません。それで、近くで品出しをしていたアルバイトの少年に、「栗ご飯の素が見つからないんだけど。どこにあるの?」と尋ねました。

すると、少年はお米売り場に行って、周辺の棚を探していました。しかし、やはり見当たりません。そして、「ここにもないということは、置いてないと思いますが」と言うのです。

「エッ、置いてない? でも、今は栗の時期じゃないの?」
「はぁ、置いてないというか、売切れたんじゃないかと」
「売切れた? やはり時期だからよく売れたんだ?」
「はぁ、そうかと」
「わかった、わかった。いいですよ」
と言って、私はほかの売り場に行きました。

ところが、惣菜売り場に行ったら、通路のテーブルの上に、江崎グリコの栗ご飯の素が売っていたのです。「なあんだ、ここにあるじゃないか」と思った私は、すぐに先ほどの品出しの少年のところに行って、「あそこにあったよ」と言いました。

「はぁ、そうですか」
「また訊かれたら答えられるように、よく覚えておいたほうがいいよ」
「はぁ、わかりました」
「じゃあ、そういうことで」と私。
「このオヤジ、なんなんだ? いらぬおせっかいだよ」と思われたかもしれません。

さらに私は、その勢いを借りて、入口の横にある「総合案内」に行き、そこにいた女性店員に、「栗ご飯の素もほかのご飯の素と同じコーナーに置いておくべきじゃないかな。でないと、お客さんが見つけるのに苦労するよ」と忠言したのでした。女性店員は、「貴重なご意見ありがとうございました」と言ってましたが、心なしか私にはそれが皮肉のように聞こえました。彼女も「このオヤジ、なんなんだよ? なにが栗ご飯の素だよ」と思ったかもしれません。でも、私は、栗ご飯の素に燃えていたのです。
2012.09.19 Wed l 日常・その他 l top ▲
2012-09-13 01

池袋に行ったついでに、ふと前に住んでいた街へ行ってみようと思い、東武東上線の電車に乗りました。

途中、川越駅で下車しました。川越駅のホームにある立ち食いそば屋で久しぶりにそばを食べたくなったからです。私はここのかき揚げそばが好きでした。ところが、よく見ると、店の造りが変わっています。店名も違っている。もしやと思って入ってみると、案の定、別の店に変わっていました。

以前はおばさんたちがきりもりしていましたが、新しい店は、頭にタオルを巻いた若い男性がふたりできりもりしています。おばさんたちは、仕事をしながらいつも人の悪口ばかり言っていました。しかし、新しい店のふたりは人の悪口なんてとんでもない、いっさい無駄口を叩かずテキパキと手際よく仕事をこなしています。お客さんが帰るときは、「ありがとうございました!」「行ってらっしゃいませ!」と挨拶もぬかりがありません。前のおばさんたちとは雲泥の差です。

しかし、現実は不条理です。私は、悪口三昧のおばさんたちが作るそばのほうが好きです。どうして店が変わったんだろうと思いました。私は、がっかりして再び電車に乗り、前に住んでいた街に向かいました。

川越周辺はどこもそうですが、前に住んでいた街もご多分にもれず地元のスーパーYの牙城です。それはますます拍車がかかり、街の最寄駅には東西ふたつの改札口があるのですが、なんとその両方に店舗を構えているのでした。

東口には改札口から歩道橋でむすばれたショッピングモール(複合商業施設)がありますが、そこもYの経営です。さらにショッピングモールから100メートル先にも店舗がありました。ショッピングモールができたら当然、その店舗は閉鎖するものと思っていました。ところが、そのまま閉鎖せずにつづけたのです。また、別の方角に行けば200メートル先にも店舗があります。つまり、駅周辺の200~300メートル四方のなかに同じ店舗が三つもありました。

そして、10年近く前に新しく西口ができました。すると今度は西口の駅前にも店舗を構えたのでした。ただ、さすがに店舗が密着しすぎていると思ったのか、東口の100メートル先の店舗は閉鎖されていました。といっても、むざむざと撤退するはずもなく、系列のドラッグストアに変わっていました。はす向かいにマツキヨがあるのですが、今度はマツキヨを追い出す作戦なのかと思いました。

マーケティング用語に「ドミナント戦略」というのがありますが、これもYなりの「ドミナント戦略」なのかもしれません。要するに、閉鎖したあとに競合店が進出してくるのは恐れているからでしょう。それにしても、病的なほど他店の進出を恐れている感じがしないでもありません。

私は、「恐れ入りました」といった感じで、思い出深い街をあとにしたのでした。

>> 最後の日
>> 一抹のさみしさ


2012-09-13 02

2012-09-13 03

2012-09-13 04

2012-09-13 05
2012.09.13 Thu l 日常・その他 l top ▲