韓国の慰安婦(少女)像に対する、筒井康隆氏のつぎのようなツイート(既に削除)が批判に晒されています。

筒井康隆ツイート

元になった「偽文士目碌」の文章は、以下のとおりです。

偽文士目碌
http://shokenro.jp/00001452

新聞記事によれば、筒井氏は、批判に対して、「侮辱するつもりはなかった」「“炎上”を狙ったもので、冗談だ」と弁解しているそうです。

毎日新聞
筒井康隆氏 ブログで少女像への性的侮辱促す 韓国で反発広がる

筒井氏は、日本を代表する(と言ってもいいような)著名な作家です。そこらにいる「バカッター」とは違うのです。炎上狙いだなんて、あまりにもお粗末と言うしかありません。しかも、筒井氏は82才の高齢です。82才のじいさんがツイッターで炎上を狙ったなんて、「大丈夫か」と言いたくなろうというものです。

筒井康隆氏は、かつて社会や日常に潜在するタブーに挑む作家として、平岡正明らによってヒーローのようにもてはやされていた時期がありました。私が最初に筒井康隆氏の作品を読んだのは、『大いなる助走』や『農協月へ行く』だったと思いますが、メタフィクション的手法を用いたブラックユーモアが筒井作品のひとつの“売り”であったのはたしかでしょう。

『噂の真相』に連載していたコラムをまとめた『笑犬樓よりの眺望』や平岡正明の『筒井康隆はこう読め』などを今も持っていたはずなので、もう一度読み返したいと思い、本のなかを探したのですが、どうしても見つけることができませんでした。

唯一見つかったのが、1985年11月1日発行の『同時代批評』という季刊誌に載っていたインタビュー記事でした。それは、当時、巷間を騒わせていた“ロス疑惑“を特集したなかで、同誌を編集していた岡庭昇氏のインタビューに答えたものです。筒井氏は、そのインタビューで、「窓の外の戦争」というみずからの戯曲に関連して、「日本人の特性」をつぎのように批判していました。

(引用者注:「窓の外の戦争」の)戦争責任を追及するというのは、うわべのテーマであって、実際は、自分と関係のあることでも、あまり関係なさそうに客観的に見て、自分だけ逃れていこうとする。そういう日本人の特性がイヤだったんです。まあ、大きな声じゃ言えないけど、戦争に負けといて、今、日本人が一番うまいことをしている。それを別に恥ずかしいこととも思わないで、外国へ出かけていっては、やっぱり嫌われて戻ってきて、あるいは自分の国にも原因のある他国の災害とか戦争とか、そういったものをまったく関係のない、無関係の現象という目で見て、騒いで、無関係と思うからこそ騒げるわけです。(略)そもそもすべてのことを自分のこととして見ることができない特性というのが日本人にはあるんじゃないかと思うんですね。それを追及したかったんです。
(『同時代批評14』・星雲社)


この30年前の発言と「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という発言がどうつながるのか。慰安婦と(筒井氏の世代にはなじみ深い)キーセンツアーを結び付けた皮肉なのかと思ったりもしますが、さすがにそれは牽強付会と言うべきでしょう。

「先生と言われるほど馬鹿でなし」という川柳がありますが、今や作家センセイは世間知らずの代名詞のようになっています。いちばん世間を知らなければならないはずの作家が、いちばん世間知らずになっているのです。にもかかわらず、彼らのトンチンカンぶりが、逆に“作家らしい本音”みたいに扱われるのです。それは、政治に対しても同様で、政治オンチな発言をしても、大衆(庶民)の心情を代弁しているみたいに、むしろ好意的に受け止められることさえあるのです。

でも、炎上狙いという点では、筒井康隆氏のツイートは、コンビニの冷凍ケースのなかに横になったり、股間をツンツンした指でコンビニの棚の商品をツンツンしたり、チェーンソーをもってクロネコヤマトを脅したりした、あの「バカッター」たちとほとんど変わらないレベルのものです。

『大いなる助走』も、『農協月に行く』も、断筆宣言も、ツイッターがない時代だったから見えなかっただけで、実際は今回のツイートと同じような底の浅い風刺や皮肉でしかなく、大西巨人が言う「俗情との結託」にすぎなかったのかもしれません。私も筒井氏のツイートに対しては、「おぞましさ」というより俗情におもねる「あざとさ」のようなものしか感じませんでした。

あらためて筒井康隆ってなんだったんだと思えてなりません。彼の作品をありがたがって読んでいた読者たちこそ好い面の皮でしょう。
2017.04.12 Wed l 本・文芸 l top ▲
あんぽん 孫正義伝


著者の佐野眞一氏は、ご存知のとおり、『週刊朝日』に連載した「ハシシタ 奴の本性」で批判を浴び、責任をとってペンを置いたのですが、この『あんぽん 孫正義伝』を読み返すと、あらためてこの本がすぐれたルポルタージュであることを痛感させられるのでした。ベストセラーになったのもよくわかります。

著者は、父親の正憲氏に焦点を当てることで、孫正義氏を典型的な“在日の物語”を背負った人物として描いているのでした。日本国籍を取得するに際して、それまで名乗っていた通名の「安本」ではなく、本名の「孫」を名乗ることを決心し、日本名としての前例がないことを理由に「孫」を認めない法務当局と何度も折衝の上、「孫」という朝鮮名での日本国籍取得を実現した孫正義氏の“こだわり”が依拠するのも、一家の“在日の歴史”です。孫氏は、日本国籍を取得するに際して、あらためて自分のルーツが朝鮮半島にあることを宣言したのです。

私がこの本でいちばん印象に残ったのは、功成り名を遂げた孫正義氏が鳥栖の駅前にふらりとやってきて、かつて自分が住んでいた場所を感慨深げに眺めていたという、つぎのシーンです。(文中の引用は、すべて『あんぽん』より)

 孫正義の一家がかつて住んでいた場所には、現在、ファミリーレストランが建っている。その周辺で聞き込みを続けていると、数年前にこのあたりでばったり孫正義に会ったというタバコ屋の主人に遭遇した。
 そのタバコ屋の主人によれば、鳥栖駅前で孫に会ったのは、ダイエーホークスが親会社ダイエーの経営難から売却され、球団オーナーがソフトバンクホークスに変わった年だったという。ということは二〇〇五年のことである。

「店の前をどこか見た人が通り過ぎたんですよ。誰やったかなあ……としばらく考えて、ようやく孫正義さんだと気がついた。結婚式場のあたりをぼけーっと眺めていた孫さんに駆け寄って声をかけると、『ああ、おじさん』って、私のことを覚えてくれていたんです。『懐かしいなあ、僕の家、どこやったかね』と言うので、ファミリーレストランの付近を指差して、このあたりだと教えてあげました。
 しばらく感慨深げにそのレストランを眺めていましたね。地味なジャンパーにスラックスという、普通の恰好をしていましたね。近所のおじさんという感じでした。たったそれだけのことですが、孫さんがひとりでふらっと鳥栖に寄ってくれたのは嬉しかったですね」


そこは、最盛期に数十戸のバラック小屋が軒を連ね、三百人くらいの朝鮮人が身を寄せ合って暮らしていた「朝鮮部落」でした。朝鮮人たちは、軒先で豚を飼ったり、密造酒を作ったりして、それを生活の糧にしていたのです。

当時の暮らしについて、「朝鮮部落」に住んでいた元住民は、つぎのように話していました。

「狭い豚小屋にぎゅうぎゅう詰め込まれて、残飯ばかり食わされ、糞も小便も垂れ流しです。足が腐った豚もいた。しかも、その場所で豚を締めるんです。解体して肉やホルモンをとる。食べる部分以外は、朝鮮部落前にあるドブ川に流していたから、すごい臭いなんです」


孫正義氏の従兄弟の話では、孫少年は、そんな「朝鮮部落のウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」そうです。著者の佐野眞一氏は、その話を聞いて、「孫正義という男をつくってきた背骨のありかが、よくわかった」と書いていました。

九州では、養豚業のことを「豚飼い」と言うのですが、私も子どもの頃、「豚飼い」の人が、豚の餌にする残飯をもらいにリヤカーを引いて近辺の家々をまわっていたのを覚えています。リヤカーに積んだ石油缶のような“残飯入れ”から放たれる強烈な臭いに、私たち悪ガキは、鼻をつまんで急ぎ足でその横をとおりすぎたものです。

九州で会社勤めをしていた頃、取引先に在日朝鮮人の社長がいましたが、その社長もやはり、親が「豚飼い」をしていたと言ってました。在日朝鮮人が戦後、生活のために「豚飼い」をしていたというのは、九州ではよく見られた光景だったのでしょう。

また、本には孫氏が子どもの頃、豚の金玉を七輪で焼いて食べていたという話が出てきますが、私も子どもの頃、遊び場のすぐ脇にあった豚小屋で、「金抜き」と呼ばれていた仔豚の去勢を見たことがあります。「金抜きがはじまるぞ」とはやし立てながら豚小屋に向かうと、ギャーギャー泣き叫ぶ仔豚を大人たちが押さえ付けていました。そして、息を呑んで見つめる私たちの目の前で、「金抜き」(金玉の切断)がおこなわれるのでした。「金抜き」のあと、切り落とされた金玉はそのまま草むらに放置されていましたが、朝鮮人たちはあれを七輪で焼いて食べていたのです。

もっとも、孫少年にとって、鳥栖駅前の「朝鮮部落」の生活は、小学校に上がるまでで終わります。と言うのも、父親の正憲氏が、北九州の黒崎に事務所を構え、八幡製鉄所の工員相手に金融業(サラ金のはしりのようなもの)をはじめたからです。商才に長けた正憲氏は、さらに金融業で儲けたお金を元手にパチンコ業に転身し、九州一のパチンコチェーンを築くまでになったのでした。最盛期には、孫一族がもっていたパチンコ店は、福岡と佐賀に56軒もあったそうです。

そうやって成功した父親からの潤沢な資金(仕送り)によって、孫少年は九州屈指の進学校・久留米大付設高校へ進学、さらに同校を1年の半ばで中退するとアメリカ留学へ旅立つのでした。

それは、「ウンコ臭い水があふれる掘っ建て小屋の中で、膝まで水に浸かりながらも、必死で勉強していた」頃からわずか10年後の話です。そうやって短期間に生活がジャンプアップしたことが、孫氏の「前のめりに突っ走る危うさ」や私生活の「子どもじみた」成金趣味につながっているように思えてなりません。

それはまた、両班(ヤンバン)の末裔だと言いながら、下品で粗野な朝鮮語を使い、お互いを罵り合うような孫一族の仲の悪さなどにもつながっているように思います。とは言え、孫正義氏もまだ在日三世にすぎないのです。差別と貧困の記憶が、心のなかに刻まれている世代でもあるのです。多くの在日朝鮮人の成功者と同じように、「子どもじみた」成金趣味に走るのも無理からぬものがあると言えるのかもしれません。

成金趣味と言えば、ソフトバンクが福岡ダイエーホークスを買収し球団経営に乗り出したのも、経営するパチンコ屋の店名に「ライオンズ」と付けるほど熱烈な西鉄ライオンズファンだった父親への「恩返し」ではないかという親戚の話がありました。実際に、正憲氏本人も、自分がホークスの買収を息子に進言したと証言しているのでした。

金貸し時代から20年間、父親の正憲氏の下で働いた夫人の弟(つまり孫正義氏の叔父)は、正憲氏のことをつぎのように証言していました。

「口癖は『信用できるのは、金と自分だけ』という人間でしたからね。確かに事業欲だけはすごかった。事業を常に大きくしていくことに執着していました。立ち止まるということを知らない人でした」

「メチャクチャ人づかいが荒かった。正直、奴隷みたいなものでした」

「義理人情の人ではない。人間的にはついていけませんでした。あの人から、優しさみたいものを感じたことは一度もありません」

「やめたいと言ったときには『わかった』と言って、すぐ椅子を振り上げるんです(笑)。いつもそうでした。気が短くてキレやすい」


別の「元ヤクザ」の義弟は、著者のインタビューで、正憲氏について、こう言っています。

「(略)あいつはとんでもないヤツだ。まともじゃない。東京に出てきたら半殺しにすると、あいつには、はっきり伝えてある」


もっとも、正憲氏自身もつぎのように言っていたそうです。

「顔を合わすと、いつも殴り合いのケンカですから、もう本当に『血はうらめしか』ですよ。血がつながった実の姉弟同士ですからね。本当に『血はうらめしか』です」


ちなみに、孫正義氏の両親は、取材時は別居していて、正憲氏は、インタビューでも、夫人のことを「くそババア」と悪態を吐いていたそうです。

でも、これは、在日朝鮮人の間では別にめずらしい話ではありません。知り合いの在日の身内には、それこそ朝鮮総連で活動している者もいれば、ヤクザまがいの金貸しや不動産屋もいるし、もちろん、土建屋や焼き肉屋やパチンコ店や芸能プロダクションを経営している者もいました。三世四世になると、医者や弁護士など“士業”が多くなるのもこの本に書いてあるとおりです。IT時代の前には、テレクラやゲーム機で大儲けしたという者もいました。父親の友人(頼母子講の仲間)には、誰でも知っているアイドル歌手や人気女優の父親などもいました。

もちろん、差別や貧困から這い上がってきた者に上品さや紳士的な素養を求めるのは無理な相談でしょう。それこそ並大抵の根性やバイタリティがなければ這い上がることはできないのです。孫正義氏が中学生のとき、「『僕のお父さんの知り合いにコワい人がいる。そんな人が家に出入りするのがイヤなんです』と担任に打ち明けた」のもわからないでもありません。

孫正義氏の家族もまた、典型的な”在日の一族”と言えるでしょう。著者が書いているように、それが一部の人たちから、孫氏がうさん臭く見られる要因にもなっているように思います。そして、いちはやくトランプに取り入る狡猾さ、節操のなさも、そういった生い立ちからきているように思えてならないのです。

在日朝鮮人の知り合いから「ぶっ殺してやるぞ」などと言われた人間からみれば、朝鮮人とお互いに理解し共存していくなんてとても無理なことのように思えます。少なくとも、左派リベラルのステレオタイプな在日像では期待を裏切られるだけでしょう。もし理解や共存の道があるとすれば、それこそヘイトぎりぎりの本音をぶつけ合うことからはじめるしかないように思うのです。

孫正義氏は、まぎれもなく在日のヒーローであり、現代の若者たちにとってもIT時代のヒーローです。でも、著者の佐野眞一氏は、その裏に、あまりにも人間臭い、在日特有のハチャメチャと言ってもいいうような一族の存在とその歴史があることを、丹念な取材であきらかにしたのでした。それが、この本が傑出したルポルタージュであるゆえんです。


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在日の「心の中の襞」
2017.02.12 Sun l 本・文芸 l top ▲
島尾敏雄の妻・島尾ミホの生涯を書いた評伝『狂うひと  「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著・新潮社)を読んでいたら、たまらず『死の棘』を読みたくなり、本棚を探したのですが、ほかの作品はあったものの、なぜか『死の棘』だけが見つかりませんでした。それで、書店に行って新潮文庫の『死の棘』をあたらしく買いました。奥付を見ると、「平成二十八年十一月五日四十八刷」となっていました。『死の棘』は、今でも読み継がれる、文字通り戦後文学を代表する作品なのです。

まだ途中までしか読んでいませんが、『死の棘』も、若い頃に読んだときより今のほうがみずからの人生に引き寄せて読むことができ、全然違った印象があります。

愛人との情事を克明に記した日記を妻が読んだことから小説ははじまります。ある夏の日、外泊から帰宅した私は、仕事部屋の机の上にインクの瓶がひっくり返り、台所のガラス窓が割られ、食器が散乱しているのを目にします。それは、妻の発病(心因性発作)を告げるものでした。それ以来、二人の修羅の日々がはじまります。

来る日も来る日も、妻は私を責め立てます。一方で、頭から水をかけるように言ったり、頭を殴打するように要求したりします。詰問は常軌を逸しエスカレートするばかりです。私も次第に追い詰められ、自殺を考えるようになります。

愛人への暴力事件を起こした妻は、精神病院の閉鎖病棟に入院し睡眠治療を受けることになります。その際、医師の助言で、私も一緒に病院に入ることになるのでした。

     至上命令
敏雄は事の如何を
問わずミホの命令に
一生涯服従す
    如何なることがあっても順守
    する但し
    病氣のことに関しては医師に相談する
                    敏雄
 ミホ殿


これは、『狂うひと』で紹介されていた島尾敏雄自筆の誓約書の文面です。しかも、それには血判が押されているのでした。

愛人との情事を克明に記録し、しかも、それを見た妻が精神を壊し、責苦を受けることになる。それでも作家はタダでは転ばないのです。小説に書くことを忘れないのでした。文学のためなら女房も泣かす、いや、女房も狂わすのです。

週刊文春ではないですが、不倫を犯罪のようにあげつらう風潮の、まさに対極にあるのが『死の棘』です。だからこそ、『死の棘』は戦後文学を代表する作品になったのです。

もちろん、『死の棘』も“ゲスの文学”と言えないこともないのですが、しかし、ゲスに徹することで、人生の真実に迫り、人間存在の根源を照らすことばを獲得しているとも言えるのです。

昔、付き合っていた彼女は、男が約束を破ったので、ナイフを持って追いかけまわしたことがあると言ってました。さすがに私のときはそんなことはありませんでしたが、旅行の帰途、車のなかでお土産の陶器を投げつけられ、今、ここで車から降ろせを言われたことがありました。そして、薬を買うので薬局の前で停めろと言うのです。

また、早朝5時すぎにアパートのドアをドンドン叩かれ、大声で喚かれこともありました。深夜、死にたいと電話がかかってきたこともありました。しかも、私を殺して自分も死ぬと言うのです。

別れたあと、私はいつか刺されるのではないかと本気で思いました。でも、刺されても仕方ないなと思いました。土下座して謝りたいと手紙を書いたことがありましたが、返事は来ませんでした。

しかし、それでもそこには愛情がありました。哀切な思いも存在していました。それが男と女なのです。愛するということは修羅と背中合わせなのです。

誰だって大なり小なり似たような経験をしているはずです。『死の棘』を読めば、自分のなかにあることばにならないことばに思い至ることができるはずです。公序良俗を盾に、他人の色恋沙汰をあれこれ言い立てる(国防婦人会のような)人間こそ、本当はゲスの極みだということがわかるはずです。彼らは、人間や人生というものを考えたことすらないのでしょう。そんな身も蓋もないことしか言えない不幸というのを考えないわけにはいかないのです。
2016.12.13 Tue l 本・文芸 l top ▲
「愛国」ばやりです。どこを向いても「愛国」の声ばかりです。それは、ネットだけではありません。テレビや新聞など、既存のメディアにおいても然りです。今や「愛国」だけが唯一絶対的な価値であるかのようです。言うまでもなく、安倍政権が誕生してから、日本は「愛国」一色に染まっているのです。

しかし、現在(いま)、この国をおおっている「愛国」は、実に安っぽいそれでしかありません。自分たちに不都合なことは詭弁を弄して隠蔽する、まるでボロ隠しのような「愛国」です。無責任で卑怯な、「愛国」者にあるまじき「愛国」でしかありません。「愛国心は悪党たちの最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)ということばを、今更ながらに思い出さざるをえないのです。

さしずめ石原慎太郎や稲田朋美に代表される「愛国」が、その安っぽさ、いかがわしさをよく表していると言えるでしょう。それは、みずからの延命のために、国民を見捨て、恥も外聞もなく昨日の敵に取り入った、かつての「愛国」者と瓜二つです。

私は、「愛国」を考えるとき、いつも石原吉郎の「望郷と海」を思い出します。そして、私たちにとって、「愛国」とはなんなのかということを考えさせられるのでした。

1949年2月、石原吉郎は、ロシア共和国刑法58条6項の「反ソ行為・諜報」の罪で起訴、重労働25年の判決を受けて、刑務所に収容されたのち、シベリアの密林地帯にある収容所に移送され、森林伐採に従事させられます。しかし、重労働で衰弱が激しくなったため、労働を免除。そして、1953年3月、スターリンの恩赦で帰国が許可され、同年12月舞鶴港に帰還するのでした。

石原吉郎もまた、「愛国」者から見捨てられたひとりでした。

海から海へぬける風を
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう。
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
(陸軟風)

 海を見たい、と私は切実に思った。私には渡るべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、海ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なにより海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。
 私が海を恋うたのは、それが初めてではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。
 だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすら招きよせる陥没であった。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わるところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシアの地図にさえ、そう記された海である。
 望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(石原吉郎『望郷と海』)


この痛苦に満ちたことばのなかにこそ、「愛国」とはなんなのかの回答があるのではないでしょうか。私たちは、「愛国」を考えるとき、無責任で卑怯な「愛国」者たちによって見捨てられた人々の声に、まず耳を傾けるべきなのです。


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『永続敗戦論』
2016.10.11 Tue l 本・文芸 l top ▲
乳がんで闘病生活を送っている小林麻央が連日、病床から更新しているブログが話題になっています。おとといのブログでは、痛みなどを緩和するためにQOLの手術を受けたことや、がんの進行度が末期のステージ4であることを告白していました。

彼女が今置かれている状況を考えると、こうやってブログを更新していること自体、“驚き”としか言いようがありません。もし自分だったらと考えると、とても信じられないことです。

小林麻央は先月ブログを再開した際、「なりたい自分になる」と題して、がんと闘う決意を表明していました。自分の病状を公表するのは、その決意の表れなのでしょう。

吉本隆明は、言葉について、「自己表出」と「指示表出」という分け方をしています。「自己表出」というのは、自分に向けられる言葉で、「指示表出」というのは、他者とのコミュニケーションに使われる言葉です。吉本隆明は、これを一本の木に例えて、幹と根が自分に向けられる言葉(=沈黙)であり、枝や葉や実に当たるのがコミュニケーションに使われる言葉だと言ってました。そして、言葉の本質は、「沈黙」であると言うのです。

自分のことを考えてみても、自分に向ける言葉(沈黙)に“本音”があることは容易にわかります。他者に向けると、言葉に別の要素が入ってきて、“建前”とは言わないまでも、“本音”とは少し違ったものになるのです。

西欧の言語学でも、従来、話し言葉(パロール)のほうが書き言葉(エクリチュール)より発話者の観念を正確に表現するという考え方が主流でした(現代思想は、そういった伝統的な二項対立の考えに異議を唱えたのですが)。

書き言葉だと、さまざまな文章表現の制約もあり、うまく自分の考えが表現できないというのも日ごろ感じることです。なにより、そこには既に「自己表出」を「指示表出」に変換(翻訳)する作業がおこなわれているのです。ブログでも同じです。読者を想定している限り、内外のさまざまな制約から逃れることはできないのです。

末期のがんを前にして、自分の最期の姿を書き残したいという思いもあるのかもしれません。だとしたら尚更、自分の思いを正確に書き記すことができないもどかしさを感じることはないのだろうかと思います。

また、末期がんというきわめてプライベートでセンシティブな事柄について、SNSという公の場で、詳細な病状が公表されたり、家族間でやり取りがおこなわれたりすることに、私は、どうしても違和感を覚えてならないのです。世間には、小林麻央のブログに勇気をもらったとか元気をもらったとか励まされたとかいった声がありますが、他人の不幸で勇気をもらったり元気をもらったり励まされたりするのは、むしろ「蜜の味」と紙一重の心根と言えるでしょう。

例えは悪いですが、禁煙やダイエットなどと同じように、あえて口外することで、それをみずからの(闘病の)モチベーションにしたいと考えているのかもしれませんが、結果的にメディアに格好のネタを提供することになっているのは事実です。芸能ニュースの反応がまったく気にならないと言ったらウソになるでしょう。まして芸能人のブログは、アフィリエイトと無縁ではあり得ないのです。況やアメブロにおいてをやです。

不謹慎と言われるかもしれませんが、私は、小林麻央のブログに、芸能人の”悲しい性(さが)”とともに”したたかさ”のようなものさえ感じてならないのです。
2016.10.04 Tue l 本・文芸 l top ▲
文藝春秋2016年9月号


芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。

この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。

(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。


 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。

村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。

「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。

この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。

 コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。


差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。


そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。

しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。

「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。

今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。

選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。

高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。

 一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
 胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。


一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。

『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。


島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。

 タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。


 全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。


芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。


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2016.08.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
サッカーと愛国


清義明氏の『サッカーと愛国』(イースト・プレス)の感想文を書こうかと思っていたら、リテラが同書を取り上げていました。

リテラ
リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

最近リテラの記事を引用することが多いので、リテラを真似したように思われるのではないかと気にしています。自意識過剰と思われるかもしれませんが、ネットというのは、かように自意識過剰になり自己を肥大化しがちなのです。相模原殺傷事件の犯人も、ネットで夜郎自大な自分を極大化させ、ヘイトな妄想を暴走させたと言えるのではないでしょうか。

リテラは、芸能人の誰々が安倍政権を批判したとか改憲に懸念を表明したとか、そんな記事がやたら多いのが特徴ですが、私は、そんな姿勢には以前より違和感を抱いていました。なかには書かれた芸能人もさぞや迷惑だろうと思うような牽強付会な記事もあり、なんだか負け犬根性の染みついたリベラル左派の”友達多い自慢”のようで、見ていて痛々しささえ覚えるのです。

でも、リテラの「人気記事ランキング」を見ると、常にその手の記事が上位を占めています。芸能人や有名人が自分と同じような考えをもっていることを慰めにしている人たちも多いみたいです。そんな人たちは、無定見にSEALDsを支持し、官邸デモの盛り上がりに、「政治が変わる」「夜明けは近い」と思っているのかもしれません。それが”お花畑”と言われるゆえんでしょう。

明日、リオ・オリンピックでサッカーの初戦・ナイジェリア戦がありますが、今日も知り合いのサッカーファンたちの間では、その話題で持ちきりでした。

清義明氏は、『サッカーと愛国』で、「サッカーは右派的なスポーツではない」と題して、つぎのように書いていました。

(略)もともとナショナルチームというのはサッカーの大会のカテゴライズのひとつにすぎない。多くのサッカーファンは各国の代表チームではなく、それよりもクラブチームを重視している。例えば、Jリーグの熱狂的なサポーターで、毎週末に日本中のどこだろうとアウェーの自分のチームの試合を追いかけていくような部類の人でも、日本代表の試合となると、スケジュールすら知らないという人もたくさんいる。代表チームは、自分のチームの選手が選ばれている時だけしか興味を示さないという人も多いのだ。むしろ、クラブチームに入れあげれば入れあげるほど、そうなる傾向が強い。


日本戦のあと、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるサッカーファンなんて、急ごしらえの俄かサッカーファンにすぎないという指摘は頷けるものがあります。そして、そんな俄かサッカーファンたちがメディアに煽られて安っぽいナショナリズムを叫び、都知事選で桜井某に11万票を投じたのでしょう。

自民党政権が60年安保の盛り上がりに怖れをなして、ヤクザを台頭する左翼の対抗勢力とすべく、”右翼”として組織し利用したのは有名な話ですが、それと同じように、ヨーロッパの民族紛争では、サッカーのサポーターたちが民族排外主義者に利用され、“民族浄化”の先兵として殺戮行為に加担していた例があるそうです。

著者が言うように、「サッカーの起源はマチズモ(引用者:男性優位主義)に満たされ、排外主義的な思想を招きやすいのは否定できない事実」ですが、しかし一方で、ヨーロッパで育まれたサッカー文化には、リベラルで啓蒙主義的な面があるのも事実なのです。

ISのテロで露わにされたヨーロッパ社会の二重底。自由と博愛の崇高な精神を謳う西欧民主主義の裏に張り付いた人種差別の根深さ。そのため、ヨーロッパのサッカーは、常に高いハードルを科してレイシズムと戦わなくてはならないのです。

2008年、欧州連合は、「人種・皮膚の色・宗教・血統・出身国・エスニックな出自による差別を罰するように求め、これに懲役刑を定めるように要請する」「枠組みの決定」を採択したのですが、UEFA(欧州サッカー連盟)も、それに同調する方針を打ち出し、それがサッカーにおける「世界基準」になっているのです。

でも、日本の現状が、ヨーロッパのそれに比べて遅れているのは否めないのです。以前、このブログでも取り上げましたが、浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONRY」の横断幕を掲げ、無観客試合の制裁を受けた事件の背景には、「韓国選手を獲らない」というクラブの方針と李忠成の加入があるのではないかという指摘などもその一例でしょう。

また、Jリーグの国籍規定が「鎖国的」だという指摘もあります。プロ野球の場合、日本の学校に3以上在籍した選手は外国籍扱いしない(外国人枠の対象外)という規定があるのですが、Jリーグはあくまで国籍がすべてです。ところが、在日の有望選手が多いため、3名の外国人枠とは別にわざわざ1名の「在日枠」を設けているのだそうです。一方、FIFAは、二重国籍など国籍の概念が多様化している現状を考慮して、ナショナルチームの選手の資格を判断するのに国籍よりもパスポートを優先しているのだとか。だから、チョン・ホセ(鄭大世)は、韓国籍であるにもかかわらず北朝鮮の代表に選ばれたのです。チョン・ホセの家は、父親とホセが韓国籍で、母親が朝鮮籍だそうです。

サッカーと在日は切っても切れない関係にあります。かつて幻の最強チームと言われた在日朝鮮蹴球団。また、東京の朝鮮高校も高校では最強のレベルでした。帝京高校が強くなったのも、近所に朝鮮高校があったからだと言われていました。日本の強豪校は、朝鮮高校と定期戦をおこないレベルアップをはかっていたのです。

李忠成の家族も、祖父が朝鮮籍で父親が韓国籍、そして忠成が日本籍だそうです。李忠成の父・李國秀は、かつて横浜トライスター(横浜フリューゲルスの前身)の選手で、その後、多くのJリーガーを輩出した桐蔭高校の監督を10年務めた、指導者として知られた人物です。

その李國秀のインタビューは、「サッカーと愛国」を考える上でも興味深いものがありました。

李忠成が韓国U-19代表の合宿に召集された際、在日であるがゆえに「差別」を受け、そのために韓国の代表に選ばれなかったという話がありましたが、李國秀はつぎのように否定していました。

「それよりも、パク・ジュヨンとポシションがかぶっていたね。うまく溶け込めなかった。ちょうどU-19のチームのスタイルを固めようとしているときにあいつが入っていった。そうしたらサッカーが合わない。中国との練習試合の時に、あいつがヒールパスを出したんだけど、誰も反応できなかった。メイド・イン・ジャパンのサッカーなんだよ。スタイルが違う。フィジカル重視のスタイルに合わない。スペースにボールを蹴り込んで走っていくスタイルに、あいつがヒールパスを出したり、パスをスルーしても違うんだね」
「差別」は代表に選ばれなかった理由ではないというわけだ。
「いくら韓国の血であっても、小中高と日本のサッカーをやってきたら、サッカーのアイデンティティは日本なんだ」


さらに、つぎのような李國秀の話には、私たち日本人が知り得ない在日の歴史の重みがあるのでした。李忠成の曽祖父が、一旗揚げようと朝鮮半島から博多にやってきて、沖仲仕の仕事をはじめたのが100年前だそうです。そこから李一家の在日の歴史がはじまったのです。

李忠成の祖父は、戦争中は特攻隊員だったそうです。ところが、戦争が終わった途端に「日本人」から「外国人」になったのです。

「(略)親父(引用者:李忠成の祖父)は終戦後、今でも日本国籍になってないし韓国籍でもない。それは親父の妹が北朝鮮に帰還事業で帰っているからなんだ。兄が日本国籍を取得したことがバレたら、妹が強制収容所にでも送られてしまうかもしれないって理由で。
 一方で俺は忠成と一緒に韓国籍になった。親父はまだ朝鮮籍。だからウチは、長男の三代が、日本籍、韓国籍、朝鮮籍として一緒の家に住んでいるわけです。全員パスポートが違うんですよ(笑)。
 これが幸せなのか不幸なのか、よくわからないな。親父は日の丸を命を張って守ろうとして軍隊まで行ったのに、俺は『パッチギ!』の世界ですよ。そして忠成は新しい人生で日の丸を背負っている。これが100年の歴史なんですよ。なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きてきていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない。それはよくわからない」


サッカーには、レイシズムの誘惑という負の部分と、まったく正反対にリベラルな文化という顔もあります。私たちは、ある日突然、日本人から外国人になった経験もなければ、二重国籍の現実も知りません。もちろん、「永住許可」という制度に縛られることもないのです。だから、国籍規定の疑問点を指摘されたJリーグの理事のように、「自由にやりたきゃ日本国籍をお取りなさい」というようなタカピーな発言になるのでしょう。浦和の横断幕も横浜マリノスの「バナナ事件」も、根底にあるのは、このような「民族主義サッカー」の考えです。それが渋谷駅前の俄かサッカーファンにも投影されているのではないか。
2016.08.04 Thu l 本・文芸 l top ▲
3・11後の叛乱


しばき隊初期のメンバーで、先頃『サッカーと愛国』(イースト・プレス)を上梓したばかりの清義明氏は、『3.11後の叛乱』(集英社新書)について、ツイッターで、この本は野間易通氏の「プロパガンダの書」で、それを笠井潔氏がロマンチックに「ポジショニングしようとしている」と書いていましたが、言い得て妙だと思いました。

清義明 (@masterlow) | Twitter
https://twitter.com/masterlow?lang=ja

清義明2016年7月ツイッター1

清義明2016年7月ツイッター2

おそらくこの本を読んだ多くの人たちも、清氏と同じように、チグハクと思ったのではないでしょうか。なかでも笠井潔氏の言説をトンチンカンに思った人も多いはずです。

笠井潔氏は、60年代後半は構造改革派の共産主義労働者党のイデオローグでした。そして、70年代に入ると「マルクス葬送派」として左翼論壇で存在感を放っていました。共労党やその学生組織に属していたメンバーのなかには、のちにメディアで名を馳せた人が多いのですが、笠井潔氏もそのひとりでした。

笠井氏は、反原発や反安保法制で国会前を埋め尽くした群衆こそ、ネグリ/ハートが『叛逆』で規定した新たな大衆叛乱の姿だと言います。それは、<1968>後の「新しい社会運動」たる反グローバリズム運動をも乗り超えた、<2011>後の大衆叛乱なのだと。その主体となるのは、「何者でもない私」である「ピープル」です。

 分子的な無数の主体(シトワイヤン)がブラウン運動を続けながら、創発的に自己組織化し、やがてピープルを実現する。無数の微粒子としての主体は「何者でもない私」である。ピープルという創発的なシステムに、決定論的で機械論的なシステムであるネーションが対立する。ネーションを構成するのは、その国籍を有し国家に権利を保障される者、ようするに「何者かである私」だ。ピープルが流体(原文はルビ:リキッド)的な分子運動の産物だとしたら、ネーションはステートという鋳型のなかで凝固した均質な固形物(同じくルビ:ソリッド)にすぎない。


これは、SEALDsのデモで発せられた「国民なめんな」のコールが、「近代の国民概念を先鋭化しているとか、国民主体から排除されているマイノリティに差別的だという批判」に対しての反論であり、SEALDsを擁護する論拠です。私は、最初、皮肉ではないのかと思ったほどでした。

笠井氏は、しばき隊の後継組織であるあざらしについても、つぎのように書いていました。

 興味深いのはあざらしが、声なき声の会に始まる「市民」性と全共闘的な「大衆」性の双方を、意識的・無意識的に継承しているらしい点だ。同じ陣営に属すると見なされていた進歩派教授を全共闘が徹底批判したように、「しばき隊」はヘサヨや大学の文化左翼などに容赦ない攻撃を浴びせかける。


辺見庸氏の言う元全共闘の「ジジババども」が反原連やしばき隊やSEALDsにシンパシーを覚えるのは、こういった理由なのかと思いました。

一方、野間易通氏は、「官邸前デモでは規範や規律が重視されていて、はみだし者が自由に参加する余地があまりない」という素人の乱(福島の原発事故直後に高円寺の反原発1万人デモを主催した人たち)の批判に対して、つぎのように反論しているのでした。

(略)私は、「大衆というのは、はみだし者の集合ではない。そのはみだし者が忌避するような、規律を好む穏健で目立たない普通の人たちの集まりである」と反論した。デモや抗議行動が奇異な恰好で反社会的行動を好んでとるようなはみだし者の集まりになるとそれは同好の士の集いにすぎなくなり、ひいてはデモそれ自体が目的化してしまう。官邸前に集まっている人々のあいだに「反社会的で暴力的なアンチヒーローを望む声」などなく、ただ政策を変更してほしいと訴えているだけなのだと。


だから、デモの参加者に対して「おまわりさんの言うことを聞け」とか「選挙に行こう」などと呼び掛けていたのでしょう。となると、デモに参加している「規律を好む穏便で目立たない普通の人々」は、「何者でもない私」というよりむしろ「何者かである私」ではないのかと思ってしまいます。さしずめSEALDsはその典型ではないのか。彼らが体現しているのは、どう見ても共産党や民進党に一票を投じればなにかが変わるというような、それこそ<1968>の運動で否定された古い政治の姿です。

しかし、笠井氏の論理はエスカレートするばかりです。しばき隊の運動に、初期社会主義運動の理論家で、「武装した少数精鋭の秘密結社による権力の奪取と人民武装による独裁の必要を主張した」(ウキペディアより)ルイ・オーギュスト・ブランキの「結社」の思想を重ね合わせるのでした。

特定の行動という一点に目標を絞り込んで、他の一切を排除するところにブランキ型の<結社>の特異性がある。これは近代的な政治運動や社会運動の団体としては異例、むしろ異形である。レイシストしばき隊の特異な組織思想は、ブランキの<結社>と時代を超えて響きあうところがあるように感じられる。


笠井氏は違った見解をもっているようですが、ブランキの思想は、18世紀末のフランス革命におけるジャコバン派の独裁政治を起源とし、パリコミューンで実践されたことにより、レーニンの「プロレタリア独裁」にも影響を与えたと言われています。笠井氏は、しばき隊を日本左翼の悪しき伝統であるボリシェヴィズム(ロシアマルクス主義)の対極に据えているのですが、そういった論理自体が既に矛盾していると言えなくもないのです。

 大衆蜂起が自己組織化され、市民社会の諸分節に評議会という自己権力機関が形成される。大小無数の評議会が必要に応じて連合し、下から積みあげられて政治領域まで到達する。最終的には、政府が評議会の全国連合に置き換えられる。


ここまでくると、たしかにロマンチシズムと言うしかないでしょう。なんだか片恋者の妄想のようです。

清氏が言う「書かれていないこと」がなにを意味するのかわかりませんが、鹿砦社の『ヘイトと暴力の連鎖』でとりあげられていたしばき隊のスキャンダルもそのひとつかもしれません。「リンチ事件」でも、被害者に対して、ツイッターで執拗に誹謗中傷がおこなわれ、被害者の氏名や住所、学校名までネットで晒されるという二次被害が生じているそうです。野間氏自身も、個人情報を晒すなどの行為により、ツイッター社からアカウント停止の処分を受けたのだとか。

私は、ネットで個人情報を晒すという行為に対して、新左翼の内ゲバの際、対立する党派のメンバーが勤めている職場に、「おたくの××は、過激派の○○派ですよ」などと電話をして、対立党派の活動家=「反革命分子」を職場から追放するように仕向けていたという話を思い出しました。襲撃して殺害するよりはマシと言えますが、そういった”内ゲバの論理”としばき隊がネットでやっていることは似ているような気がしてならないのです。

そして、私は、やはり(今や幻となった)辺見庸氏のSEALDs批判を思い出さないわけにはいかないのでした。

だまっていればすっかりつけあがって、いったいどこの世界に、不当逮捕されたデモ参加者にたいし「帰れ!」コールをくりかえし浴びせ、警察に感謝するなどという反戦運動があるのだ?だまっていればいい気になりおって、いったいどこの世の中に、気にくわないデモ参加者の物理的排除を警察当局にお願いする反戦平和活動があるのだ。
よしんばかれらが××派だろうが○○派だろうが、過激派だろうが、警察に〈お願いです、かれらを逮捕してください!〉〈あの演説をやめさせてください!〉と泣きつく市民運動などあるものか。ちゃんと勉強してでなおしてこい。古今東西、警察と合体し、権力と親和的な真の反戦運動などあったためしはない。そのようなものはファシズム運動というのだ。傘をさすとしずくがかかってひとに迷惑かけるから雨合羽で、という「おもいやり」のいったいどこがミンシュテキなのだ。ああ、胸くそがわるい。絶対安全圏で「花は咲く」でもうたっておれ。国会前のアホどもよ、ファシズムの変種よ、新種のファシストどもよ、安倍晋三閣下がとてもとてもよろこんでおられるぞ。下痢がおかげさまでなおりました、とさ。コール「民主主義ってなんだあ?」レスポンス「これだあ、ファシズムだあ!」。

かつて、ぜったいにやるべきときにはなにもやらずに、いまごろになってノコノコ街頭にでてきて、お子ちゃまを神輿にのせてかついではしゃぎまくるジジババども、この期におよんで「勝った」だと!?おまえらのようなオポチュニストが1920、30年代にはいくらでもいた。犬の糞のようにそこらじゅうにいて、右だか左だかスパイだか、おのれじしんもなんだかわからなくなって、けっきょく、戦争を賛美したのだ。国会前のアホどもよ、安倍晋三閣下がしごくご満悦だぞ。Happy birthday to me! クソッタレ!

(辺見庸「日録1」2015/09/27)

※Blog「みずき」より転載
http://mizukith.blog91.fc2.com/


「左翼の終焉」はそのとおりだとしても、それがどうして反原連・しばき隊・SEALDsになるのか、私にはさっぱりわかりません。「教義も修道院も持たない新たなレフトの誕生」(野間氏)なんて片腹痛いと言わねばなりません。私たちは、前門の虎だけでなく、後門にも狼がいることを忘れてはならないのです。
2016.07.31 Sun l 本・文芸 l top ▲
ヨーロッパ・コーリング

ヨーロッパ・コーリング帯

私は、よくこのブログで、「右か左ではなく上か下の時代だ」というブレイディみかこ氏のことばを引用していますが、その箴言が帯に麗々しく掲げられた本が出版されました。

ブレイディみかこ氏の新著『ヨーロッパ・コーリング』(岩波書店)です。と言っても、書き下ろしではなく、Yahoo!ニュース(個人)に書いた記事をまとめたものです。

表紙の写真は、イスラエルのパレスチナ自治区のベツレヘムで撮った、バンクシーの有名な「The Flower Thrower」です。装丁もとてもセンスがよくて、見た目もカッコいい本になっています。

折しもイギリスでは、EU離脱をめぐって国民投票がはじまりました。日本時間で今日にも投票結果が判明すると言われていますが、EU離脱をめぐっても、右か左ではなく上か下かの時代が色濃く表れているように思います。EU離脱は、ブレイディみかこ氏が書いているように、単に移民問題だけでなく、反緊縮・反グロバーリズムの側面があることも見過ごしてはならないでしょう。

一方、この国は参院選の真っ最中ですが、メディアの情勢調査では、与党が改選過半数を越える勢いで、改憲派が改憲の発議に必要な3分の2の議席を確保する可能性が高いと伝えられています。

与野党党首の演説を聴いても、私には与党と野党の違いがわかりません。特に、経済政策についてはどこも同じなのです。安倍総理は、成長の果実を社会保障の充実や介護や子育てに分配するためにも、アベノミクスのさらなる進化が必要だと演説していましたが、野党の党首たちも物言いは異なっても、成長と分配という基本的な考えはほとんど同じです。

左派の劣化は、たとえば公務員の給与問題などにも端的に表れているように思います。公務員の給与は下がっている、公務員は大変だと言われますが、それは今や公務員の半分を非正規雇用が占めている現実がそういったイメージを作り出しているにすぎないのです。

私の田舎は、交付金の5割近くが人件費に消えていくと言われるほど県内でも上位の”高給自治体”ですが、高齢者が多く住民の所得が低い田舎では、市役所の職員はまさに”特権階級”です。横浜も、かつてスパイラル指数で日本一になったほどの”高給自治体”です。ただ、横浜の場合、大都会なので、田舎のように“特権階級“ぶりが目に付きにくい面があり、それが彼らに幸いしているだけです。もっとも、自治労や左派に言わせれば、それは偉大なる階級闘争の成果であって、高給を批判(嫉妬)する者は労働者の敵、保守反動ということになるのでしょう。

自民党と同じ”成長神話”にとり憑かれた左派。公務員問題をおおさか維新のようなファシストの専売特許にさせてしまった左派のテイタラク。民進党は左派ではありませんが(リベラルですらありませんが)、公務員と原発の二つのタブーを抱えたあんな政党が支持を受けるわけがないのです。何度も言いますが、民進党(旧民主党)は、もはや自民党を勝たせるためだけに存在していると言っても過言ではないのです。今度の選挙でも、民進党が野党第一党であることの不幸を痛感させられることになるのは間違いないでしょう。

一方、プロレタリア革命を掲げ”革命左派”を自認する新左翼のセクトも、自治体労働者に対する”賃下げ攻撃”を階級的反撃で打ち砕けと訴えていますが、それは、公務員のシンパからのカンパに頼っている財政的な事情もあるのではないかと穿った見方をしたくなります。レーニンは『国家と革命』のなかで、公務員の給与は全労働者の賃金の平均を越えてはならないと戒めていますが、それは社会主義国家がその性格上官僚主義=「役人天国」に陥る傾向があるのをレーニン自身がよくわかっていたからでしょう。

自治労の組合員たちをプロレタリアと言ったら、もはやギャグでしかないでしょう。右か左かなんてほとんど意味をもたないのです。

先進国で最悪の格差社会を招来したこの国にこそ上か下かの新しい風が待ち望まれますが、そのためにはまず、徹底的に敗北し、徹底的に絶望することでしょう。そうやって「勝てない左派」と決別することでしょう。

 難民問題で右傾化していると言われる欧州では、実のところ左派が猛烈な勢いで台頭している。それは「与党も野党も大差なし」と醒めていた人々に、いまとは違う道は存在することを示す政治家たちが登場したからだ。彼らは、勝てる左派だ。勝てない理由を真摯に受け止め、あらためて、敗けるというお馴染みの場所でまどろむことを拒否した左派だ。この欧州に吹く風が、地球の反対側にも届くことを祈りながら本書をぶち投げたい。
(帯より)



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2016.06.24 Fri l 本・文芸 l top ▲
群像6月号


第59回群像新人文学賞を受賞した崔実(チェシル)の「ジニのパズル」(『群像』6月号)を読みました。

主人公のジニは、アメリカのオレゴン州の高校に留学している在日の少女です。下宿先の主は、ステファニーという絵本作家です。ジ二は、ハワイの高校を退学してオレゴンにやってきたのですが、オレゴンの高校も退学処分になろうとしています。

 全校生徒、全員のロッカーが並ぶ長細い廊下に腰を落ち着けた。廊下の端から端までは、ゆっくり歩いたって二分は掛からない。
 ガムテープでぐるぐる巻きにしただけの悲惨な修理が施されたヘッドフォンを耳にかけて、レディオヘッドのセカンドアルバム『ザ・ヘンズ』を流した。そうして視線の先を行きかう靴を眺めるのが、私の日課だった。


ジニは、そんな孤独ななかにいます。10代の在日の少女が抱く孤独と焦燥。それを主人公は、「空が今にも落ちて来そう」という言い方をするのでした。

「人生の歯車が狂い始めたのは、五年前のことだ」とジニは言います。それは、中学進学を機に、日本の学校から北区十条の朝鮮学校に入ったことです。そこからジニの告白がはじまります。

ジニの母親のアッパ(父親)は、家族を日本に残して北朝鮮に帰国しています。そのアッパから娘(ジニの母親)に届いた手紙がジニの告白の途中に挿入されています。最初は「北朝鮮は、とても住み心地が良い国だぞ」「こっちに来て正解だったと思う。どんどん発展していくぞ」と書いていましたが、そのうち「アッパのことは、忘れるんだ。いいな。どうか、次の手紙は待たないでくれ」と書いてくるようになります。そして、やがて、アッパは病院にも行けないような極貧のなかで亡くなるのでした。

朝鮮語を話せないジニにとって、日本語が禁止の朝鮮学校はまったくの異世界で、常に違和感がありました。なにより気になったのは、教室の正面に恭しく掲げられている金日成と金正日の肖像画でした。いつも誇らしげに微笑んでいる二人。それはジニにとって「気持の悪いもの」でしかありませんでした。

肖像画が掲げられているのは、「終戦後、日本に残った在日朝鮮人が自らの文化を守り、教育を受ける為の支援として、北朝鮮がお金を出してくれたことへの感謝の気持ちなのだという」のです。しかし、北朝鮮に渡ったあと収容所に入れられた家族を取り戻すために、大金を使って交渉し、奇跡的に日本に「帰国」させることができた話を親戚のおばさんがしているのを聞いたジニは、つぎのように思うのでした。

 一体、誰を返してもらえたのだろうと、その晩考えた。一体どれほどのお金を払ったのだろうか。北朝鮮では奇跡が起これば、人の命をお金と交換できる。なんて素晴らしい国なのだろうか。そのような素晴らしい国に作りあげ、いつまでも支配している金一家の肖像画を私は学校に行くだけで毎日拝むことが出来る──。
 間違いだ!
 私は、間違いを発見した。どうして、こんなにも簡単な間違いを見つけられなかったのか。教室にある肖像画は間違いである。学校中に飾られている肖像画は間違いである。


テポドンが発射された日、朝鮮学校の生徒たちは、チマチョゴリを鞄のなかに入れて、体操着で通学するよう連絡が来ます。チマチョゴリ姿だと心ない日本人から嫌がらせを受けるからです。学校にも水道に毒を入れたとか、女生徒を拉致し裸にして吊るなどという脅迫が殺到します。しかし、友人のニナが忘れたせいで、ジ二にはその連絡がきませんでした。そのためにチマチョゴリで家を出たジニは、電車のなかで乗客たちの冷たい視線にさらされるのでした。うっかりして急行電車に乗ったジニは、池袋で下車し、十条に引き返そうとします。しかし、その前にふと懐かしくなってパルコの地下のゲームセンターに入るのでした。

そこで、警察を名乗るスーツ姿の三人の男に囲まれたジニは、ゲームセンターの外に連れ出され、「朝鮮人ってのは、汚い生きものだよな」などということばを浴びせられた上、性的な嫌がらせを受けるのでした。その日以来、学校を休んだジニは、やがて「革命」を起こすことを決意するのでした。

ジニは、「革命」を決行するために三週間ぶりに登校します。真っ先に教室に入ったジニの目には、つぎのような光景が映っていました。

誰もいない教室は、とても神聖な場所に見えた。ベランダの窓から差し込む太陽の日差しは半分カーテンに遮られ、柔らかい光の影が教室を優しく照らしていた。教室がより一層、愛おしく見えるように演出されているみたいだ。その光の中に舞うチリのような白い埃までも、まるで小さな妖精みたいだ。ただ、黒板の上に居座る、いつもの金一家がそれを汚していた。北朝鮮は支配できても、国境を越えた日本の朝鮮学校までいつまでも同じだと思うな。こんな学校の体制のせいで、くだらない大人の誇りのせいで、大切な友達まで傷付くようなことになったら、学校もろともぶっ壊して、お前等にだって地獄を見せてやる。


そして、ジニは、天国のハラボジ(おじいさん)に訴えるのです。

朝鮮学校に通っているのに、どうして今現在の北朝鮮から目を逸らすのだろうか。学校と政治は関係ないと言われた。だったら、どうして政治的なものが校内にあるの。感謝の気持ちを表しているものだなんて、そんな理由があるか。感謝している人だけ、心で勝手に感謝して、子供たちのために、取り外せば良いじゃない。大人って、ずるいよ。
 子供相手に脅迫してくる日本人も、子供が犠牲になっても変わらぬ学校の連中も、いとも簡単に人の命を奪う金の糞独裁者も、みんなみんな、糞食らえだ。ハラボジ、私は、絶対に目を逸らさない。逸らすもんか。会ったことがなくても血の繋がった家族が北朝鮮にいるんだ。だから、ハラボジ、私は、絶対に目を逸らしたくない。全員を敵に回しても、目を逸らしたくないよ。


私は、この小説を読んで、その熱量に胸苦しささえ覚えました。そして、若い頃親しくしていたガールフレンドを思い出さないわけにはいきませんでした。彼女もまた十条の朝鮮学校を出ていたのです。この小説の主人公と同じように、中学から朝鮮学校に入ったと言ってました。

どうして朝鮮学校に入ったのか訊いたら、親が朝銀から融資を受けるためだったと言うのです。融資をあっせんする代わりに、子どもたちを朝鮮学校に入れることを総連から「指導」されたらしいのです。

彼女は、本を読むのが好きで、特に林真理子のファンでした。モデルをしていたのですが、ショーのあと、楽屋に林真理子が来て直接話をしたこともあるそうで、感激したと言ってました。ただ、一度か二度手紙をもらったことがありますが、日本語で文章を書く訓練を受けてないので、それはまるで子どもが書いたようなたどたどしい文章でした。私は、手紙を読んで、これから日本の社会で生きていくのは大変だろうなと思いました。

まだ拉致問題がマスコミに取り上げられる前でしたが、既に一部の人の間ではその噂がささやかれていました。彼女は、李英和の『北朝鮮 秘密集会の夜』を読んでショックを受けたと言ってました。それで、私は、崔銀姫と申相玉の『闇からの谺』を読むことを勧め、その感想を聞いた覚えがあります。

親たちは、帰国した人間たちのなかには厄介払いされた人間も多いと言っていたそうです。帰還事業には、建て前はともかく、鼻つまみ者を祖国建設の美名のもとに厄介払いで帰国させる、そんな一面もあったのでしょう。

彼女も、学校の集会で、このたび何々トンム(君)が祖国に帰国することになりました、皆さんでお祝いの拍手を送りましょうなどと校長から紹介されるのを見ながら、「バカじゃないの。あんな貧しい国に帰ってどうするの」と思っていたそうです。実際に朝鮮学校の生徒ほどブランド好きはいないと言っていました。大人はベンツやロレックス、子どもはヴィトンやプラザが大好きなのです。

また、朝鮮大学から北朝鮮の大学に留学して帰国した知り合いが、突然行方不明になり、家族から居場所を知らないかと電話がかかってきたこともあったそうです。そういった不可解なことも身近で起きていたのです。

金日成が死んだとき、「悲しくないの?」と聞いたら、「なんで私が悲しまなければならないの?」と言ってました。テポドンなんてまだない頃でしたので、金日成が死んでまた北朝鮮のことが話題になるのが嫌だなと言っていました。

その彼女もやがて小説の主人公と同じように、アメリカに旅立って行ったのでした。アメリカに行くのに、朝鮮籍より韓国籍のほうが便利なので、韓国籍に変えると言ってましたので、おそらく韓国籍に変えたのでしょう。

朝鮮学校の日常が小説になったということは特筆すべきことです。また、拉致やテポドン以後の北朝鮮に対する若い在日の葛藤が小説になったということも特筆すべきことと言えるでしょう。在日という理不尽な存在。理不尽なものにしているのは、旧宗主国の私たちの社会です。ヘイト・スピーチはその一端にすぎません。それより、大多数の日本人のなかにある”サイレントヘイト・スピーチ”のほうがはるかに問題でしょう。在日の問題は、私たち日本人の写し鏡でもあるのです。

選評では、「素晴らしい才能がドラゴンのように出現した!」(辻原登)、「何としても世に送り出さなければならない作品だ」(野崎歓)と絶賛されていましたが、少なくとも又吉直樹なんかよりホンモノであるのは間違いないでしょう。この作品によって、文学が国家や民族や政治的イデオロギーなどからまったき自由であり、自由でなければならないのだということを再認識させられたのはたしかです。

ジニは、ステファニーから「逃げたら駄目よ。逃げたら、そこで終わりなの」と言われます。「だけど、私には過去がくっ付いてくる。それこそ、逃げ場のない過去だよ」とジ二は言います。だから、受け入れるしかないんだとステファニーは言います。それがどんな空であれ、落ちてくる空を受け入れるのだと。すると、ジニは、ステファニーの腕のなかで「赤子のように声をあげて泣いた」のでした。

 もしかしたら、私は待っていたのかもしれない。いつか、誰かが私を許してくれる日を。落ちてくる空を。それが、どんな空であれ、許し、受け入れることを。誰かに、良いんだ、と。それで良いんだ、と。認めてもらえる日をずっと待っていたのかもしれない。


作者は、「受賞のことば」のなかで、「作家として生き抜いてやりたい」と書いていました。上の文章はその覚悟のようにもとれます。文学という苦難の道をどう生き抜くのか、作者の今後の作品を待ちたいと思いました。


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2016.05.21 Sat l 本・文芸 l top ▲
消えがての道


今回の地震は、正式には「平成28年熊本地震」と言うのだそうです。しかし、私には、「熊本地震」とか「熊本と大分の地震」とか言うより「九州の地震」と呼んだほうがピタリきます。

今回の地震をきっかけに、あらためて自分は九州の人間なんだとしみじみ思い知らされています。地震がきっかけで、私は、森崎和江の『消えがての道』(花曜社)を本棚の奥から出して読み返しました。これは、1983年に刊行された本です。

この本の帯には、「九州に生き、九州を旅する」という惹句がありました。その「九州」という文字がいつになく胸にせまってきました。

九州に生きる。私も、この本を読んだ当時はそう思っていたのです。私は、地元の会社に勤めていて、まあそれなりに順調でしたので、おそらくこのまま地元で暮らして行くんだろうなと思っていました。

読んだのが先だったかあとだったか覚えていませんが、この本に出てくる五家荘に、著者と同じように私も訪れたことがあります。阿蘇側にある旧矢部町から旧泉村(五家荘)に登り、「五木の子守唄」で有名な五木村へと尾根を越えたのでした。

五家荘は、”九州の屋根”と呼ばれていた”秘境”でした。その生活には、私たちの想像も及ばないような苦労があったに違いありませんが、一方で私は、そういった山里離れた山奥に定住したということも含めて、柳田国男の言う「山の人生」にロマンのようなものをかきたてられたのでした。

 山の暮らしといっても、町には町ごとに表情があるように、山村にもひとつひとつ面影があるのだと、近年うっすらと知ったようだ。阿蘇山や九重高原の村は空が広い。たとえ民家は谷あいにあっても、眺望がきくひろがりを山々が持っている。が、九州の屋根といわれる五家荘・米良荘の山は隣接する山々にはばまれて生活空間は空と地が呼応しつつ、筒のようにこんもりとしている。他郷の空へは鳥が渡るように天の川を伝って思いを馳せるほかない。と、そう思うほど、村は孤独で独自の天地を持っている。
(『消えがての道』第三章・尾根を越えて)


 かつては牛馬の通う道もなかったと聞いた。足で歩き、荷はすべて人の背に負った。わたしは対馬や天草の山の中の細道も歩いたが、それらの山の一軒家は、なるほどひっそりとした一軒家だったが、馬が通い牛が通った。傾斜がなだらかで、家畜も人も歩けたのである。
 が、五家荘にはそのような斜面はめったにない。皆無といっていいほどの急斜面が谷へながれて、いくつもいくつも重なっている。かつて人びとはこの崖を、木の根草の根を頼りによじ登って他郷との用を足した。
(同上)


五家荘には当時親しくしていた知人と一緒に行きました。彼は、地元でも知られた大百姓の跡取り息子で、国立大学の農学部を出て、実家の農業を継いでいました。私とは農業や農村を考える集まりで知り合ったのでした。彼はまた、写真が趣味で、その点も写真屋の息子である私とは気が合ったのでした。

しかし、五家荘を訪れてほどなく、知人は海外青年協力隊に志願して、タイへ行ったのでした。そして、帰国後、同じ海外青年協力隊のメンバーであった女性と結婚、一時地元に帰ったものの、すぐに群馬か栃木だかに行ってしまったのです。あれだけ農業や農村の問題を真剣に考えていた人間が、農業を捨てふるさとを捨てたのです。そのため、地元では彼の評判はガタ落ちでした。

彼は、農業にも地元にも実家にも失望したと言ってました。私は、その話を聞いたとき、彼の気持がわかるような気がしたのです。というのも、私自身も既にその頃は地元に骨をうずめるという気持がぐらつきはじめていたからです。そして、それから数年後、私も会社を辞めて上京したのでした。

「アジアはひとつ」という有名なドキュメンタリー映画がありましたが、最近、あらためて汎アジアならぬ”汎九州”の思想について考えることがあります。それは、かつて谷川雁のコミューン思想や五木寛之の『戒厳令の夜』などで示されていた、ナショナル(土着)なものを掘り下げて行けばインターナショナルなものに行き着くという考えです。九州に生きるということは、アジアに生きるということでもあるのです。九州から出て行ったうしろめたさもあるのかもしれませんが、九州の地震が、このような”九州ナショナリズム”とも言うべき九州への思いを私のなかに呼び覚ましているのでした。
2016.04.30 Sat l 本・文芸 l top ▲
最近、暇なとき、よくインスタグラムを見ています。私は、写真屋の息子でしたので、他人の写真を見るのは昔から好きでした。

インスタグラムにアップされている写真を見るにつけ、ホントにみんな写真を撮るのがうまいなと感心させられます。

写真館をやっていた父親は、いつも私たちに、写真を撮るときはどんどん前に出てシャッターを押せと言ってました。恥ずかしいとか邪魔になるとか思ったらダメだ、遠慮なく前に出て撮った写真がいい写真なんだと言ってました。

家には小さい頃から、「アサヒカメラ」や「カメラ毎日」や「日本カメラ」などのカメラ雑誌がありましたが、たしかにそのなかの写真コンテストの入選写真を見ると、28ミリの広角レンズで(前に出て)撮った写真ばかりでした。インスタグラムに掲載されている写真にも、そんな「前に出て撮った」写真が多いのです。デジタルの時代になり、写真は手軽で身近なものになりましたが、父親が言っていたいい写真、上手な写真がホントに多いのです。

ただ、一方で、テクニックは申し分ないものの、なにかが足りないような気がしてならないのです。それは、テクニックとは別のものです。そして、私は、大塚英志が『atプラス』27号(太田出版)に寄稿した「機能性文学論」のなかで書いていた、つぎのような文章を思い出したのでした。

(略)何年か前、まんがの書き方を大学で教えていて印象深かったのは、かつて「ペンタッチ」と呼ばれた描線のくせ(註:原文は傍点)を彼らの多くが、忌避したがるという傾向だった。確かにまんがの描線は「きれいで細やかだが単調」というのが主流になっている。ペンタッチに作画上の個性を求めるという、ちょうど文学における「文体」に近いものがまんが表現でも忌避されているわけだ。


大塚英志によれば、堀江貴文(ホリエモン)は、かつて『ユリイカ』2010年8月号(青土社)の”電子書籍特集”で、「どうでもいい風景描写とか心理描写」をとっぱらって、尚且つ「要点を入れて」あるような小説をみずからの「小説の定義」としてあげていたそうです。それは、文学における文体の否定であり、文学に作者性=個性はいらないという、文字通り身も蓋もない”暴論”です。そこには、守銭奴の彼が信奉する経済合理性と通底する考えが伏在しているのでしょう。

ただ、大塚英志は、時代の流れのなかに、ホリエモンのように文学に「情報」(機能性)のみを求める傾向があるのもたしかだと言います。そして、「まんが表現における『ペンタッチの消滅』」は、「自我の発露である『文体』の消滅」とパラレルな関係にあるのだと言うのです。(余談ですが、私は、文体の消滅=「文学の変容」に関して、又吉直樹の『火花』と芥川龍之介の『或阿呆の一生』の同じ花火に関する描写を比較した部分がすごく説得力があって面白かったです)

それは写真も同じではないでしょうか。風景・心理描写やペンタッチをうっとうしいとか恥ずかしいとか思ったりする今の傾向は、写真においても個性の消滅というかたちで表れているのではないか。たしかに、インスタグラムにアップされている写真から見えるのは、個性より「情報」です。そこにあるのは、パターン化された構図と撮る人と撮られる人(もの)との無防備で弛緩した関係性です。おそらく二者の間になんらかの緊張感のようなものが存在すると、うっとうしいとか恥ずかしいとかいう感覚になるのでしょう。こんな機能性ばかりを求める摩耗した感覚こそ”今様”と言えるのかもしれません。

でも、これだけは言えるのは、いくら文学やまんがや写真の表現が「変容」しようとも、私たちの人生は「変容」しようがないということです。「快適」や「癒し」だけが人生ではないのです。他人から勇気やパワーをもらったりできるほど、人生は単純ではないということです。
2016.04.10 Sun l 本・文芸 l top ▲
バカラ


桐野夏生の新作『バカラ』(集英社)を読みました。帯には、「今、この時代に、読むべき物語。」という惹句とともに、「ノンストップ・ダーク・ロマン」という語句がありました。どういう意味だろうと思ってネットで調べても、『バカラ』以外にこの語は出てきませんので、もしかしたら造語なのかもしれません。

しかし、私は、この小説は「ノンストップ」では読めませんでした。途中、何度も挫折しそうになりました。「面白くていっきに読みました」というレビューを見ると、別に皮肉でもなんでもなく、すごいなと思います。こんなのが面白んだと感心します(これは皮肉です)。

群馬県O市で生まれたブラジル日系人の子ども「ミカ」。彼女は、家庭不和から夫と別れあらたな職を求めて渡航した母親に連れられて、中東のドバイに渡ります。ところが、母親は現地で知り合った情人に殺害され、「ミカ」は養子売買のシンジケートに売られるのです。ドバイのショッピングモールの奥にあるベビースーク。そこで売られている子どもたちは、全員「バカラ」と呼ばれています。「バカラ」とは、”神の恩寵”という意味です。2歳の「ミカ」=「バカラ」は、2万ドルで売られていました。

日本人の女性に買われて日本に戻った「バカラ」。しかし、東日本大震災によって、「バカラ」の運命は、さらに大人たちの思惑に翻弄されるのでした。福島原発の爆発直後に養父に連れられてフクシマに入った「バカラ」は、被爆して、のちに甲状腺ガンになっていることがわかります。「悪の権化」のような養父の手から逃れ、置き去りにされた犬とともに「警戒区域」の納屋のなかにいるところをペットを救済するボランティアの「爺さん決死隊」に発見された「バカラ」は、反原発派のメンバーとともに全国を放浪する旅に出ます。

当時の日本は、東日本は「警戒区域」に指定されて人口が激減し、首都も大阪に移り、東西二つに分裂した状態になっており、カルト宗教や排外主義(レイシズム)が跋扈する荒廃した世相にあります。そんななかで、被害を隠蔽し原発事故の収束をはかりたい推進派や警察は、さまざまな陰謀をめぐらし反対派の抹殺を狙っています。その数奇な運命から反原発派のシンボルのようになった「バカラ」の周辺でも、親しい人がつぎつぎと不可解な死に方をするのでした。

しかし、私には、この小説は”荒唐無稽”としか思えませんでした。エンタテインメントとは言え、話の展開が取ってつけたようにめまぐるしく変わるため、登場人物も尻切れトンボのように、途中であっけなくいなくなります。その唐突感は、『だから荒野』とよく似ていました。

それは、この小説も”反原発”とかいった観念が優先しているからではないか。小説というのは、絶対的に自由なものです。あらゆる観念から自由だし、自由でなければならないのです。まず”反原発”(それは、”社会主義バンザイ”や”戦争反対”でも同じですが)ありきでは、ステレオタイプで皮相的なつまらない作品になるのは当然です。自由であるからこそさまざまな人間も描けるし、奥行きのある面白い小説になるのです。自由であるということと”荒唐無稽”ということは、必ずしもイコールではないのです。

ジャンルは違いますが、たとえば、井上光晴の『地の群れ』などを対置すれば、それがよくわかります。戦後文学、特に左翼体験をひきずっていた近代文学派(系統)の作家たちにとって、観念との格闘は切実なものでした。ブレイディみか子氏の「右か左かではなく上か下か」ということばを借りれば、文学もまた「右か左かではなく上か下か」なのです。

「桐野文学の最高到達点」という惹句もありましたが、『ハピネス』などと比べてもとてもそうは思えませんでした。


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桐野夏生『だから荒野』
桐野夏生『ハピネス』
2016.04.01 Fri l 本・文芸 l top ▲
帝国の慰安婦


いわゆる「従軍慰安婦」問題に関する日韓合意について、私は、朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)をとおして考えてみたいと思いました。

小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)の帯に、「私たちは『戦後』を知らない」という惹句がありましたが、私たちは、戦後はもちろん、あの戦争についても実はなにも知らないのです。知らされてないのです。

90年代に再浮上した「従軍慰安婦」の問題は、私たち戦争を知らない世代にとっても、正視に耐えないようなおぞましくショッキングなものでした。できれば見たくなかった歴史の赤裸々な現実でした。それは、「強制性」があったかどうか、「自発的な売春婦」であったかどうかなんて関係なく、人とし、て国家として、その根幹に関わる恥ずべき行為、恥ずべき歴史だと言えます。

慰安所の行列のなかには、間違いなく私たちの祖父や父親たちがいたのです。いくら「従軍慰安婦」の存在を否定しようとも、その事実は否定しようがないのです。そして、彼らは、そのおぞましい記憶を胸の奥に秘匿したまま戦後を仮構してきたのです。

慰安所の利用を常識とし、合法とする考えには、その状況に対する恥の感覚が存在しない。しかし、一人の女性を圧倒的な多数の男性が欲望の<手段>としたことは、同じ人間として、恥ずべきことではないだろうか。慰安婦たちが尊厳を回復したいと言っているのはそのためでもある。彼女たちの羞恥の感覚はおそらく、人間ではなく、<もの>として扱われた記憶による。
『帝国の慰安婦』(以下引用は同じ)


慰安婦問題の日韓対立は、記憶の対立で、そこに記憶の隠蔽と抑圧が存在していると言うのは、そのとおりでしょう。著者が見ようとしたのも、「強制」と「自発」の不毛な対立の先にある植民地支配の「矛盾と悲惨」であり、当事者の私的な記憶の回復です。国家としての公的な記憶や被害者史観に基づいた共有の記憶ではなく、元慰安婦たちのなかにある個別具体的な汚辱と協力と悲しみの記憶なのです。

著者が本の前半で、「韓国に残っているのは、あらゆるノイズを――不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』でしかない」と韓国内の取り組みに手厳しいのも(そのために元慰安婦の名誉を傷つけたと訴追されたのですが)、そういった理由によるものなのでしょう。

著者は、日本軍の関与だけが強調される一方で、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちが不問に付されている現実に対しても、被害者史観に基づいた記憶の抑圧と批判しているのでした。「日本も悪いが、その手先になっていた朝鮮人のほうがもっと悪い」という元慰安婦の声は、支援者たちには無視され、日本の否定論者たちには、「責任転嫁の材料しにしか使われなかった」のです。

朝鮮人慰安婦は、ほかのアジアの慰安婦とは異なる存在だったと言います。たとえば、スマラン事件(インドネシアのジャワ島のスマランの民間人収容所に入れられていた17歳~28歳のオランダ人女性35名を日本軍が強制的に慰安所に拉致して、輪姦し売春させた事件)のような事例とは、同じ慰安婦でも質的に異なるのだと言います。それは、彼女たちが植民地人、つまり、「二番目の日本人」だったからです。そのため、如何にも日本的な名前を名乗らされ、着物を着て、「大和撫子」を装い、文字通り日本兵を慰安する役割を担わされたのでした。そこに朝鮮人慰安婦の「矛盾と悲惨」があるのだと言います。

 性を媒介とした日本軍と朝鮮人女性の関係は、しいて区別すれば文字通りレイプを含む拉致性(連続性)性暴力、管理売春、間接管理か非管理の売春の三種類だったと考えられる。オランダ人、中国人などを含む「慰安婦」たち全体の経験はこの三種類の状況を併せ持つものと言えるが、朝鮮人慰安婦の体験は、例外を除けば管理売春が中心だった。


もちろん、だからと言って、日本帝国主義が犯した罪が免罪されるわけではありません。「朝鮮人慰安婦問題は、普遍的な女性の人権問題以上に、<植民地問題>であることが明白だ。そして個人を過酷な状況に追い込む制度を国家が支えていた以上、『軍の関与』はまぎれもない事実となるほかないので」す。

慰安婦の発生起源は、近世以降の日本文化の伝統や、それを効率的に利用できるようにした近代的制度にあった。そこに帝国内の人々が動員されたのは、あくまで彼らが日本国民とされていたからである。もっともそのようなゆるやかな国家動員を可能にした直接の体制は、ファシズムや帝国主義である。しかし慰安所とは、あくまで<移動>する近世的遊郭が、国家の勢力拡張に従い出張り、個人の身体を国家に管理させた<近代的装置>だった。


かつて山崎朋子や森崎和江が書いたように、日本には年端もいかない少女たちが、「出稼ぎ」名目で、ボルネオやシンガポールなどアジアの娼館に売られていった「からゆきさん」の歴史がありますが、朝鮮人慰安婦たちは、公娼制度の最下層に組み入れられることで、そういった日本人の「代替」という側面もあったと言います。著者は、慰安婦の前身は「からゆきさん」であったと書いていました。

しかも、慰安婦問題は、決して過去の問題ではないのです。戦後、韓国は、日本と同じように、「共産主義から国を守る」ためにアメリカに従属したのですが、その過程で、慰安婦が再び「動員」されることになるのでした。

「沖縄でアメリカの軍属たちは一二歳ないし一三歳の沖縄少女たちを米軍基地にある捕虜収容所に入れて兵士たちへの性的なサービスを強制した。フィリピンでアメリカ軍の部隊長は積極的に売春を奨励し、彼らのうち一部は自分所有のクラブを持って売春婦たちを団体で管理した。一九七〇年代の韓国では軍用バスが一日に二〇〇人もの女たちを東豆川基地村から近くのキャンプケイシに運んだりした。このとき部隊長はそういうことを暗黙裡に見逃すか積極的に加担した」(引用略)のです。

さらに、韓国が経済成長した2000年代に入ると、東豆川基地村から韓国人の姿がなくなり、中国人朝鮮族やロシア人やフィリピン人やペルー人に取って代わったそうです。「これはまさしく、大日本帝国時代に日本人慰安婦がしていたことを朝鮮人慰安婦がするようになったのと同じ構造である」と著者は書いていました。

また、ベトナム戦争では、アメリカの傭兵として参戦した韓国人兵士たちが、「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」のです。著者は、「いつかベトナムの女性たちがアメリカや韓国に『謝罪と要求』をしてくる日が来ないとも限らない」と書いていました。

今回の日韓合意の背後にアメリカの意向がはたらいているのは間違いないでしょう。韓国の支援団体が慰安婦の少女像をアメリカに建立しているのも、アメリカ政府やアメリカの世論に訴えるためですが、そこには虎の威を借りたい狐の意図がミエミエで、あらたな「植民地支配の矛盾と悲惨」をくり返しているように思えてなりません。著者が言うように、「旧帝国(日本)の罪を、ほかの帝国(オランダ)と提携してもう一つの旧帝国(アメリカやイギリスやヨーロッパ)に問うて審判してもらうというような、今の運動における世界連帯は、その意味ではアイロニーでしかない」のです。

「帝国は崩壊したが、冷戦体制は依然として東アジアを分裂させ」、冷戦の思考をひきずったままなのです。それは、「強制」と「自発」をめぐって対立する両国の自称「愛国」者たちも同じです。

慰安婦問題が戦争も戦後も知らない私たちに突きつけた問題の在り処は、あまりに広く深いと言えるでしょう。それをひとつひとつ丹念に拾い上げ、真摯に向き合うことで、私たちは戦争や戦後を知ることができるのだと思います。もとより私たちは、戦争や戦後を知らなければならないのです。その意味でも、政治のレベルはともかく、民間レベルでは、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」などあり得ないのだと思います。
2015.12.29 Tue l 本・文芸 l top ▲
拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々


元共同通信政治部記者の野上忠興氏が書いた『安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの仮面』(小学館)のなかに、「安倍が異様なまでに安保法案を『9月18日』にこだわったのはなぜだったのか」という文章があります。

 実はこの日程は、安倍が売りにしてきた拉致問題に絡んでいた。「9月18日」は、北朝鮮が日本政府に「1年程度を目標に再調査結果を報告する」と通告してきてからちょうど1年目にあたる日だったのである。
(略)
 この日が安保法案の参院強行採決と重ならなければ、新聞各紙には「北朝鮮の拉致被害者調査再開から1年、進展なく」などと北朝鮮外交の失敗が大きく報じられていたはずだ。国民的関心も高く、安倍にとって「売り」であった拉致問題での失敗は、当然ながら本人が株価とともに最も気にする内閣支持率に大きな影を落としかねない。それが安保法案にかき消され、拉致被害者調査が暗礁に乗り上げている実相は国民の目に触れないまま忘れられる格好になった。


2014年7月の日朝局長級協議で、拉致被害者らの「再調査」のための「調査委員会」の設置合意を受けて、安倍政権は北朝鮮に対する経済制裁の一部解除を決定したのですが、「再調査」の報告はその後再三延長された挙句、結局、「反故」にされたのでした。

あわてて朝鮮総連の許宗萬(ホ・ジョンマン)議長の次男らをマツタケの不正輸入の容疑で逮捕して圧力を強めていますが、拉致問題をただ政治的に利用するだけの安部外交に対して、したたかな北朝鮮が一枚も二枚も上手だったのは否定しようのない事実でしょう。

一方、拉致被害者・蓮池薫氏の実兄で、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の事務局長であった蓮池透氏は、新著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)で、北朝鮮が報告をしたくても日本側の都合で報告できないのではないか、と書いていました。もちろん、「再調査」とか「報告」とかいったものがまったくのカマトトであるのは言うまでもありません。常識的に考えても、全体主義国家が、拉致被害者や残留日本人(妻)の動向(生死)を把握してないはずがないのです。

また、拉致問題の関係者のなかには、非公式に「報告」を受けているけど、政治的な事情で、日本政府がそれを発表できないのではないかという見方もあります。このように拉致問題は、「再調査」の「報告」ひとつとっても、一筋縄ではいかないのです。

問題は、蓮池氏も書いているように、拉致問題の解決の「定義」がはっきりしてないことでしょう。要するに、”落としどころ”が決まってないからです。これでは、「報告」のたびに、北朝鮮に対するバッシングだけでなく、日本政府の”弱腰”にも批判が集まるのは当然で、そんな解決の糸口が見えない状況に”苦慮”しているのは、日本政府も同じだというわけです。

私は以前、事務局長を解任されたあとの蓮池氏の講演を聞いたことがありますが、同書は講演のときにも触れていなかった「家族会」やその支援組織である「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の”内情”を赤裸々に書いているので驚きました。それは各章の見出しによく表れています。

序章 「救う会」に乗っ取られた「家族会」
第一章 拉致を使ってのし上がった男
第三章 拉致被害者を利用したマドンナ
第五章 「救う会」を牛耳った鵺
第七章 カンパを生活費にする男

「拉致を使ってのし上がった男」や「拉致被害者を利用したマドンナ」や「『救う会』を牛耳った鵺(ヌエ)や「カンパを生活費にする男」」が誰を指すのか。獅子身中の虫は誰なのか。拉致問題に少しでも詳しい人たちには明々白々でしょう。

「家族会」は収支決算報告をしたことがないそうです。著者が「横田ファンド」と呼ぶカンパで集まった億単位のお金は、横田滋氏がひとりで管理しているのだとか。「家族会」から「救う会」に渡った1千万単位のお金。「家族会」の事務局専従としてM氏に支払われた給与。挙句の果てに、「家族会」も「救う会」もお金がらみで内紛が起きるのでした。

この本のなかで、私があらためて興味をもったのは、2004年6月に蓮池薫・祐木子夫妻が上京し、赤坂プリンスホテルで、横田めぐみさんの情報を家族に伝えたその内容です。蓮池薫氏は、「たとえ、めぐみさんの消息にとってネガティブな情報であったとしても、断腸の思いで話した」と言っていたそうです。

①めぐみさんは、精神的にかなり病んでいた。
②めぐみさんのDVが激しく、娘のウンギョンさんは、たびたび同じ招待所に住む弟、蓮池薫の家に避難してきた。弟は、ウンギョンさんを歓待した(ウンギョンさんは、うちの三番目の子どものような存在だ、と弟は語る)。
③めぐみさんは、自分の髪の毛を自身の手で切る。洋服を燃やすなどの奇行を繰り返していた。
④めぐみさんは何度かの自殺未遂をしている。
⑤めぐみさんは、北朝鮮当局に対して、「早く日本に帰して」「お母さんに会わせて」と、盛んに訴えていた。弟は何度も止めるように促したが、彼女は受け入れなかった。
⑥夫の金英男氏は、めぐみさんとの結婚について、当局に騙されたといっていた。
⑦めぐみさんは二回、招待所からの脱走を試みた。一回は平壌空港を目指し、もう一回は万景峰(マンギョンボン)号が係留される港を目指した。その際、北朝鮮当局に発見され、拘束された。
⑧このため、弟一家や同じ招待所に居住する地村さん一家は連帯責任を問われ、「山送り(=強制収容所行き)」の危機に晒された。だが、弟たちの必死の請願により、それは免れた。その代わり、めぐみさんは、義州(ウィジュ)という場所にある四九号予防院(精神科病院)へ送られることとなった。
⑨その後、夫の金氏は、「何があっても一切の異議を申し立てない」という誓約書を書かされた。
⑩一九九四年三月、病院に向かうめぐみさんが乗ったクルマを見送った。それ以降、めぐみさんに会うことはなかった。
⑪夫の金氏は、数年後に再婚し、息子をもうけた。


しかし、母親の横田早紀江さんは、話自体を否定するのだそうです。蓮池薫氏は、「せめて、聞いたけれども信じたくないといってほしい」と嘆いていたのだとか。

ちなみに、横田夫妻は、滋氏が「宥和派」 、早紀江さんが「強硬派」で、意見が噛み合わず喧嘩になることもあるそうです。一方で、そういった意見の相違を利用して、北朝鮮は横田夫妻にさまざまなゆさぶりをかけているのです。

ジャーナリストの田原総一郎氏は、「横田めぐみさんらの拉致被害者は生きていない。外務省もそれをよく知っている」とテレビで発言し、1千万円の慰謝料を求める民事訴訟を起こされたのですが、蓮池氏も書いているように、「拉致問題に関して、日本政府の政策や『家族会』の意向に異論を唱えることがタブー化している」のは事実でしょう。

北朝鮮が「報告」できない理由(日本政府が「報告」を受けていても発表できない理由)は、このあたりにあるのかもしれません。

拉致問題を利用した政治家や反共(反北朝鮮)運動の活動家たち。「経済制裁をすれば北朝鮮はもがき苦しむ。そして、どうしようもなくなって日本に助けを求めてくる。ひれ伏して謝り、拉致被害者を差し出してくる」とか、北朝鮮に自衛隊(?)を派遣して奇襲作戦で拉致被害者を奪還するとか、そんな荒唐無稽な「強硬論」を利用し偏狭なナショナリズムを煽ることで名を売って、権力の階段を一気に駆け上がったのが安倍晋三氏です。しかし、小泉訪朝で拉致被害者5名が帰国した際、北朝鮮との約束だからと北朝鮮に戻ることを一貫して主張したのが、ほかならぬ当時小泉内閣の官房副長官であった安倍晋三氏なのです。そして、荒唐無稽な「強硬論」を煽ることで自縄自縛になり、その勇ましい声とは逆に拉致問題を停滞させたのも彼なのです。

私たちを政治利用する国会議員は、党派を問わず、タカ派と呼ばれる人が多い。見分け方は簡単である。そういう人は、間違いなくブルーリボンバッチを付けている。そして、必ずといっていいほど、北朝鮮に対して強硬な主張をする。
「今度帰ってこなければ、制裁復活だ。さらに追加制裁を要求する」と。


巻末では、蓮池透氏とジャーナリストの青木理氏が対談をしていましたが、そのなかで、青木氏はつぎのように安部首相の姿勢を批判していました。

 拉致問題を最も政治的に利用したのが安倍さんだったといっても過言ではないと思います。経済制裁をやるだけなら、誰でもできるでしょう。


日朝首脳会談後の日本の姿勢、特に安倍政権の対北政策は、ひたすら圧力をかけていれば北朝鮮が困って折れてくるはずという、単純皮相なものでした。


中国ばかりか韓国との関係すらぶち壊しておいて、日朝関係や拉致問題が前進するわけがないということです。歴史問題や靖国問題で中国や韓国を怒らせておいて、拉致問題の解決に向けた協力は得たい、というのはムシがよすぎる。


また、拉致被害者・蓮池薫氏のつぎのような発言も考えさせられるものがありました。

「頭でわかっていても抑えられない感情が相手にあることを理解するべきだ。それを刺激してはいけない。日本と朝鮮半島の過去の事実を踏まえながら今後の関係を発展させていくヒントはそこにある」


でも、こういった声も、安倍晋三氏には馬の耳に念仏でしょう。いつものようにせせら笑うだけでしょう。それがこの国の総理大臣なのです。
2015.12.21 Mon l 本・文芸 l top ▲
山口百恵は菩薩である


深夜、ラジオを聴いていたら、中森明菜の「スローモーション」とかぐや姫の「神田川」がつづけて流れてきました。「スローモーション」は1982年、「神田川」は1973年の曲で、10年近くの時代的な開きがあるのですが、今あらためて聴くと、「スローモーション」の”歌謡曲的世界”に圧倒され胸が震えました。

若い頃の私は、「神田川」のほうが好きでした。しかし、それなりに人生の辛酸を舐めた現在、「スローモーション」のほうが心に沁み入ってくるのです。おそらく「スローモーション」には、メロディだけでなく、歌の世界を表現することばに”普遍性”があるからでしょう。あるいは、それをことばの”重力”と言い換えてもいいのかもしれません。もちろん、「スローモーション」に”普遍性”や”重力”をもたらしたのは、来生えつこ(作詞)や来生たかお(作曲)ではなく、中森明菜です。

そして、私は、最近再読した平岡正明の『山口百恵は菩薩である』(講談社文庫)のなかのつぎの一節を思い出したのでした。

(引用者註:フォークが)決定的にだめなことは反社会性がないことだ。反体制まではいく。しかし、そこでとどまり、中産階級の自足のなかにひき返す。思想本来の姿では反体制は変態性を通って反社会性を出るのであるが、フォークはそれを遮断し、シカトウを決め込んでいる。反社会性の核心は、破壊ということである。個人原理を社会性や国家の上位におき、快楽と労働の嫌悪と暴力と、総じてルンペン・プロレタリアート的実存のもとに、改良ではなく、革命を熱望するこころである。ジャズ、艶歌、ロックンロールにはこの方向がある。フォークは安全音楽である。


また、平岡正明は、「流行歌は、作り手と歌い手が別でなければならない」と書いていました。「歌謡曲は作り手、歌い手の角逐のなかに、聴衆の欲望という巨大な第三者を吸引するのであって、シンガー・ソングライターは、中産階級の日常生活における感傷を代弁したとたん聴衆の日常性にはりついて終わるのだ」と。平岡正明は、中産階級はその「知の性質」によって、資本主義総体を見ることができないと書いていましたが、それはとてもよくわかる話です。

『山口百恵は菩薩である』の単行本が刊行されたのが1979年です。私がまだ「神田川」に涙していた頃です。

『山口百恵は菩薩である』を読むと、このブログでも再三書いていますが、山口百恵や中森明菜や松田聖子が如何にすごいのかということがよくわかるのです。人生の甘いも酸いも知った(と思っている)いい年こいたおっさんでさえそう思うのでした。五木寛之流の言い方をすれば、彼女たちは、間違いなく「時代と寝た」のです。

『山口百恵は菩薩である』には、数々の箴言がちりばめられています。その箴言の背後には、朝鮮の港湾労働者のメロディを母胎に生まれたと推定する艶歌論や、「日本の敗戦こそ、抗日戦争が革命戦争に飛翔する決定的時点だった」と夢想する汎アジア革命論への論理的飛躍が伏在しているのでした。まさに平岡正明の面目躍如たるものがあります。

美空ひばりから山口百恵への転換は戦後史の転換である。


一つの音楽の方向が、「社会の半分を表現する多くの才人」ではなしに、まさに山口百恵によって開花していったのは、山口百恵におけるプロレタリアートの勝利である。


山口百恵は地涌の菩薩である。地涌の菩薩は仏教的に表明されたプロレタリアートの原像である。


山口百恵の歌は、日本社会の最深部とまでは断言しないが、ジャズがどうしても到達できなかった深部にはとどいている。


若いとき、高円寺のスナックでたまたま隣り合わせた人から、「スター誕生」の予選に出場したときの話を聞いたことがあります。当日、遅れてやってきた中学生の女の子がいて、新聞配達のアルバイトをしているので遅刻したと言っていたそうです。その中学生がのちの山口百恵だったとか。

酔っ払いの話なのでどこまでホントかわかりませんが、しかし、実際に中学生のとき、お母さんが脊椎の病気で入院したために、彼女は5歳下の妹の世話をしながら、読売新聞の朝刊を配達するアルバイトをはじめているのです。

山口百恵は! デビュー以前、中学一年の夏休み、朝四時半に朝刊配達のアルバイトをし、新聞の束をかかえてアパートの五階へ駆けのぼったり、丘をかけおりたりする途中見たであろう屋根のきれめの横須賀の海を、「横須賀ストーリー」で、〽急な坂道駆けのぼったら、今も海が見えるでしょうか、と謳って感覚を全開放して、原体験の昇華を歌で行って以来、歌をもって、貧民的実存を民衆の品位に昇華しつづけている。


その山口百恵が、やがて富士フィルム・グリコ・花王・トヨタ・国鉄などこの国を代表する企業のイメージソングを歌い、この国の資本主義の「シンボリズムの華」になっていくのです。そして、結婚引退は、そういった「資本主義のシンボリズムの華であることを背負い込まされた山口百恵の実存の反撃」である、と平岡正明は書いていました。

「私生児として生まれ、生活保護を必要とした母子家庭に育った子ども」が、愛する人と幸せな結婚生活を夢見ることこそ「プロレタリアートの実存」と言うべきで、そうであるがゆえに私たちにもその気持は痛いほどよくわかるのです。

松田聖子は若干違いますが、山口百恵や中森明菜は生活のために歌手になったのです。年端もいかない少女がそう選択しなければならない「貧民的実存」。平凡な歌詞でも、彼女たちが歌うと、どこかはかなげで陰影の深いことばになるのは、そこに彼女たちの生い立ちや生き方が露出しているからでしょう。

そんなリアルに生の実感を得ることができた時代がかつてあり、そのなかに山口百恵や中森明菜や松田聖子が(まるで菩薩や女神のように)屹立していたのです。アイドルは文字通りスターでもあったのです。

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『松田聖子論』
2015.11.08 Sun l 本・文芸 l top ▲
琉球独立宣言


先日(10月15日)、朝日新聞に、「『琉球独立』絵空事ではない」という松島泰勝・龍谷大教授の寄稿文が掲載されていました。松島教授は、石垣島出身で、「琉球民族独立総合研究学会」の共同代表を務めている人物です。

朝日新聞デジタル
「琉球独立」絵空事ではない 松島泰勝・龍谷大教授寄稿

そのなかで、松島教授は、つぎのように述べています。

 琉球人は基地の押し付けを「沖縄差別」であると考えている。このまま差別が続くならば、独立しかないと主張する人が増えてきた。ネットの世界で飛び交っている、琉球独立運動への偏見に満ちた言葉によっては、琉球で今起きていることは理解できない。

 今、琉球では歴史上これまでになく独立を求める声が広がっている。琉球は日本から本当に独立できるのだろうか。何のために独立するのだろう。私たちにとって独立とは世界のどこかのことであり、自分とは関係がないと思っている人が日本人の大半ではないか。

(略)そのような日本の中で琉球では本気で独立を目指す運動が活気づいているのである。どこから独立するのか? この日本からである。琉球の独立は日本や日本人とって他人事でも、絵空事でもなく、自分自身の問題である。


「琉球人の琉球人による琉球人のための独立」を主張する松島教授に対して、ネットでは「中国共産党の手先」「反日」「売国奴」「スパイ」などという罵詈雑言が浴びせられていますが、ネットを席巻している”中国脅威論”についても、松島教授は、近著『琉球独立宣言』(講談社文庫)のなかで、漢字・仏教・法制度・芸術など、日本が中華文明からさまざまな影響を受けてきたがゆえに、逆に「日本人のアイデンティティ」が「中国の文物を否定することで形成された一面」があることを指摘していました。つまり、”中国脅威論”には、単に政治的な意味合いだけでなく、「中国のやることなすことを否定することで日本人として自己認識し、他の日本人からも同じ日本人と認められるという」”東夷”の国の屈折した心性が伏在しているというわけです。

自民党沖縄幹事長であった翁長雄志氏が、2014年の知事選で、「イデオロギーよりアイデンティティ」という有名なことばを残して、共産党を含む「オール沖縄」の候補として立候補したきっかけについて、松島教授は、『琉球独立宣言』で、つぎのように書いていました。

2013年に41自治体の全市町村長、議会議長、県議会各会派代表、経済団体代表がオスプレイ配備撤回、普天間基地の閉鎖撤去、県内移設断念を日本政府に訴えた「建白書」を翁長はとりまとめ、東京の街を皆でデモ行進しました。そのとき、沿道から「うじ虫、売国奴、日本から出て行け」などのヘイトスピーチの攻撃を受けました。そのころから、翁長の心には「被差別の対象」であり、「自己決定権行使の主体」という琉球人アイデンティティが強くなり、イデオロギーをこえた「オール沖縄」への志向がこれまでになく高まったのではないでしょうか。


辺野古の問題に限らず沖縄をめぐる一連の問題の根底には、あきらに沖縄への差別があり、沖縄を日本の植民地のようにしか見ない考えがあります。ネトウヨや百田尚樹らの沖縄に対するヘイト・スピーチは、そんな日本の本音をあらわしたものと言えるでしょう。

しかし、琉球が日本から統治されていたのは、1879年から1945年までと1972年から現在までの109年にすぎないのです。14世紀の北山国、中山国、南山国の三国時代から1429年に琉球国に統一され、1872年に明治政府によって琉球国が滅ぼされ日本に併合される(琉球処分)までの600年近く、「琉球は日本国とは異なる国として存在していたのです」。

かつて琉球国は、アメリカ・フランス・オランダと修好条約を締結していました。その原本は、現在、外務省の外交史料館にあるそうです。

今年の1月、松島教授ら「琉球民族独立総合研究学会」のメンバーが外務省沖縄事務所を訪問して、その原本の琉球への返還を求めたのに対して、応対した外務省の職員は、「当時の状況があいまいであるため、琉球国は存在したとも、存在しないとも言えない」と答えたそうです。琉球の歴史にとって、これほど侮蔑的な発言があるでしょうか。

1903年の大阪で開催された内国勧業博覧会において、琉球人は檻に入れられ見世物にされたそうですが、そういった差別の本質は現在も変わらないのです。

「本土復帰」の際に体験した「同化」教育について、松島教授はつぎのように書いていました。

「復帰」の年に小学校3年生であった私は、担任の教員から「方言札」の罰を受けました。生徒が琉球諸語を教室で話すと「方言札」と書かれた紙を首からつるされ、さらし者のように1日を過ごさなくてはならないのです。


ヨーロッパでは現在、分離独立運動が政治的なトレンドになっています。昨年の9月に実施されたイギリスのスコットランド独立を問う住民投票は独立派が僅差で敗れましたが、独立運動を担っているスコットランド国民党(NSP)は、先の総選挙で56議席を獲得し、保守党・労働党に次ぐ第三党に躍進しました。また、私たちにもジョージ・オーウェルの『カタロニア賛歌』でなじみが深いスペインのカタルーニャ自治州では、今年の9月におこなわれた州議会選挙で、独立派が過半数を制したというニュースがありました。スペインではほかに、バスク地方の分離独立運動も先鋭をきわめています。もちろん、スペインだけでなく、イギリスにもフランスにもイタリアにもドイツにも、ヨーロッパには数えきれないくらい分離独立運動が点在しており、スコットランドやカタルーニャの躍進が、それらの地域の独立の機運をさらに高めるだろうと言われています。

ヨーロッパの分離独立運動の高まりの背景には、反緊縮・反グローバリズムを掲げる急進左派の台頭があると言われており、ヨーロッパのトレンドをそのまま沖縄にあてはめることはできないと思いますが、しかし、「民族自決」の気運は決して過去のものではないのです。

さらに、辺野古の問題でもあきらかなように、琉球ナショナリズムの視点から日本のナショナリズム(「愛国」主義)を見ると、日本のそれが如何に対米従属主義の所産でしかなく、「売国的」なものでしかないのかが情けないほどよくわかるのです。琉球ナショナリズムは、日本のナショナリズムの欺瞞性を見事に映し出しているのです。

従属思想を「愛国」と強弁し、「愛国」の名のもとに沖縄に悪罵を浴びせ、沖縄の歴史と文化を冒涜しつづける限り、松島教授が言うように、琉球独立が「絵空事」ではなく、これからますますリアルな問題として浮上してくるのは間違いないでしょう。


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琉球処分
2015.10.21 Wed l 本・文芸 l top ▲
めでたく芥川賞を受賞した又吉が、「アホなりに人間を見つめて書きました」と自著のCMをテレビでやっていますが、それ以前には、インスタントコーヒーを買うと、芥川賞作家・又吉直樹の書き下ろしエッセイを無料でプレゼント、というようなバナー広告がYahoo!のトップページに出ていました。

『貧乏の神様 芥川賞作家困窮生活記』(双葉社)を書いた柳美里によれば、作家のなかで、副業をもたずに小説だけで生活している人は、せいぜい「30人を超えることはない」そうです。新人作家の場合、年収100万円なんでザラだとか。柳美里は、そんな作家の”懐事情”について、下記のインタビュー記事でも具体的に語っていました。

Business Journal
年収1億円から困窮生活へ――芥川賞作家・柳美里が告白「なぜ、私はここまで貧乏なのか」

『火花』は発行部数が200万部を越えたそうなので、印税が仮に10%だとすれば、印税収入だけで2億6千万円です。もしかしたら、又吉ひとりで、この国の純文学作家全員の収入を越えるのかもしれません。

昔、井上陽水や中島みゆきのように、テレビに出ないことを「売り」にするシンガーソングライターがいましたが、純文学の「小説を書くのはお金のためじゃない」というイメージは、あれと似ている気がします。純文学の芸術至上主義的でピュアなイメージとお笑い芸人という「意外な」組み合わせが、今回の芥川賞の「売り」なのです。

吉本興業は、今やさまざまなコンテンツビジネスを展開する「総合エンタテインメント企業」です。テレビ番組や映画の製作だけでなく、当然出版部門ももっています。文春だけでなく吉本にとっても、『火花』が”金のなる木”であるのは言うまでもないでしょう。

又吉の芥川賞も、南海キャンディーズのじずちゃんの”オリンピック”と同じように、吉本のプロジェクトによるものではないかという見方がありますが、小説を書く前は「本好きの芸人」で売り込み、クラシックな丸メガネをかけた如何にも文士然としたいでたちで、新潮文庫のイメージキャラクターになったりしていましたので、吉本がまったく関与してないということはないでしょう。

上げ底の作家・又吉直樹が、そのうちフェードアウトして、「又吉の芥川賞受賞って、あれはなんだったんだ?」という話になる可能性も大ですが、今回の芥川賞に関しては、そんなことはすべて織り込み済みのような気がします。

一方で、吉本興業は、コンテンツや肩書以上に、もっと大きなものを手に入れたとも言えるのです。それは”文壇タブー”です。週刊文春や週刊新潮に対して、”文壇タブー”という治外法権を手に入れることができたというのは、芸能プロダクションにとって、想像以上に大きいはずです。それは、又吉だけでなく、所属する芸人たちにも大きな恩恵をもたらすことでしょう。

さっそく、女性レポーターのタメ口が気に入らないとかなんとか、又吉センセイの何様のような発言が出ていますが、当分は週刊文春や週刊新潮に吉本のタレントのスキャンダル記事が載ることはないでしょう。

さらに今度は、ジャニーズ事務所の某が次回の直木賞候補にあがるのではないかという噂も出ていますが、二匹目三匹目のドジョウを狙った“作家輩出ブロジェクト“はこれから益々盛んになっていくのかもしれません。もちろん、出版不況で背に腹をかえられない出版社も利害は一致するのです。かくして小説はタレントの”隠し芸”になり、文学はただのコンテンツビジネスになっていくのです。
2015.09.07 Mon l 本・文芸 l top ▲
東京を生きる


雨宮まみの『東京を生きる』(大和書房)を読みました。「東京”で”生きる」でも「東京”に”生きる」でもなく「東京”を”生きる」と書くところに、作者の東京に対する思いが込められているように思います。

地方出身者の哀しい性(さが)というべきか、私のなかには、小説でもエッセイでも写真集でも雑誌の特集でも、「東京」という文字が入っていると、つい手にとってしまう習癖があります。

東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京東京
書けば書くほど恋しくなる。


少年時代に東京にあこがれた寺山修司は、『誰か故郷を想はざる』(角川文庫)でこう書いたのですが、実は私は、この「恋しくなる」という語句を「哀しくなる」と間違って記憶していたのです。書けば書くほど哀しくなる、と。

私たち地方出身者にとって、東京というのはあこがれであると同時にどこか哀しい存在でもあります。そのあこがれと哀しみの狭間に、地方出身者それぞれの「上京物語」があるのです。

そして、東京に対するあこがれと哀しみの二律背反な思いは、同時に『ふるさと考』(昭和50年・講談社現代新書)で松永伍一が書いていた、故郷に対する「愛憎二筋のアンビバレンツな思い」とパラレルな関係にあります。「追い出す故郷が同時に迎い入れる故郷となる矛盾」。ふるさというのは求心力のようであって実は遠心力でもあるのです。

「書けば書くほど哀しくなる」ような地方出身者の「哀しい性」は、時代が変わってもいっこうに変わることがありません。あえて言うならば、その思いを彩る時代の意匠が変わっただけです。

家賃より高いブランドの服を買い、ときにお金がなくてその服をクリーニングに出すこともままならないような「身の丈に合わない暮らし」。「いつになったら、季節ごとに服を買い替えるような生活をやめられるのだろう。すぐ夢中になり、すぐ飽きてしまうような生活をやめられるのだろう」と著者は自問します。そして、こう書きます。

 すぐに飽きてもいい。つまらなくなってもいい。手に入れたことを後悔してもいい。それでもいいから新しいものに夢中になりたい。刺激が欲しい。刺激が欲しい。刺激が欲しい。


それが資本主義の最先端の都市で生活するということなのです。東京では、誰しもがそんな欲望や刺激から逃れることはできないのです。「欲望が私の神で、それ以外に信じられるものはない。もっと、もっと、と神が耳元で囁き、私はその声に、中途半端にしか応えられない自分に苛立つ」のです。

「ロハスな生活」とか「スローライフ」とか言っても、どこにもロハスな生活やスローライフはありません。そういった商品があるだけです。だったら、欲望にまみれ刺激に狂い、目いっぱい見栄を張って、破滅への道を突き進むほうがよほど自分に正直ではないかと思うのです。少なくとも「東京を生きる」思想があるなら、そういった欲望と刺激のなかにしかないでしょう。

 貯金もないくせに、私はおいしいものを食べ、好きな服を買い、お酒を飲み、本を買い、香水や化粧品を買い、美術館や映画館に行き、上等なタオルや石鹸を使い、自分のものにはならない家にために家賃を払って生きる。
 どこまでが分相応で、どこからが分不相応なのか、私にはわからない。
 いつか、そういう堅実ではない生き方に、天罰が下るだろうか。
 砂の上を、幻を見ながら歩いているような暮らしに、破滅が訪れるのだろうか。
 来るなら来ればいい。私はそれまで、魂に正直に生きる。破滅が訪れることよりも、破滅に遠慮して、悔いの残るような選択をすることのほうがずっと怖い。


しかし、人間というのは哀しい動物で、いくら欲望にまみれ刺激に狂っていても、自分を忘れることはできないのです。それが孤独な心です。自分を変えたい、今までの自分を叩きつぶして欲しいと思って上京したものの、「東京は私を叩きつぶしてくれるほど、親切な街ではなかった」「ただ私はまるでそこに存在しないかのように、そっと黙殺されるだけ」です。

池袋や新宿や渋谷の喧噪のなかにいると、無性にひとりになりたいと思うことがあります。帰りの電車で車窓に映るネオンサインを見るとはなしに見ているときや、スーパーの袋を下げてアパートに帰る道すがらに、ふと抱く底なしの孤独感。

そんな孤独感の裏に張り付いているのが望郷の念です。今の時代に望郷の念なんて言うと笑われるだけかもしれませんが、しかし、そういった湿った感情は、多少の濃淡や色彩を変えつつも、いつの時代にあっても私たち地方出身者の心の奥底に鎮座ましましているはずです。

 (略)困ったとき、自分が東京で食べていけなくなったとき、逃げ場として心の中で実家を頼っていること。
 あんなところに帰るのは嫌だ、と言いながら、同時に、自分に故郷の悪口を言う資格なんてない、と思う。
 嫌だ嫌だと言っておきながら、故郷を最後の保険にしている。帰る場所として頼っている。


ここには松永伍一が言う「追い出す故郷が同時に迎い入れる故郷となる矛盾」が表現されていると言えます。

個人的なことを言えば、親が亡くなり帰る場所がなくなったら、途端に望郷の念におそわれている自分がいます。それは、むごいほど哀しい感情です。欲望にまみれ、刺激に狂った思い出と、もはや帰るべき家もなくなった望郷の念。その二つの思いを胸に、これからも東京を生きていくしかないのです。「東京を生きる」には、そういった祭りのあとのさみしさのような”後編”があることも忘れてならないでしょう。
2015.08.30 Sun l 本・文芸 l top ▲
はたらかないで、たらふく食べたい


栗原康『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)を読みました。

よく売れているのか、横浜市内の書店をまわってもどこも売切れでした。横浜駅の地下街にある有隣堂のカウンターで、スマホの画面を見せながら「この本はありますか?」と尋ねました。すると、応対した若い男性の店員は、大きな声で「『はたらないで、たらふく食べたい』ですね」と念を押すのでした。その途端、まわりのお客たちがいっせいに私のほうをふり返った気がしました。

結局、横浜では見つけることができず、ネットで在庫を検索したら池袋のジュンク堂にあることがわかりました。それで池袋まで行きました。サイトに表示された売り場のカウンターに行くと、若い女性の店員が出版社の営業マンと楽しそうにおしゃべりをしていました。私は、スマホの画面を指し示しながら、「この本ありますか?」と尋ねました。すると、おしゃべりを中断させられた店員は、ちょっと不機嫌な表情を見せながらスマホに目をやり、こう言ったのです。「ああ、あの本」。

『はたらかないで、たらふく食べたい』という書名は、それだけで人々の顰蹙を買うのかもしれません。その顰蹙のなかに、「生の負債化」があるのだと著者は言います。つまり、働かざる者食うべからずというあれです。

著者の栗原康氏は、30代半ばのアナキズム思想が専門の研究者です。現在は大学の非常勤講師をしていますが、それでも年収が80万円。その上、奨学金の借金635万円を抱え、埼玉の実家で、両親の年金に寄生して暮らしています。

 大杉(引用者註:大杉栄)がいっていることは、ひとことでいうと、やりたいことしかやりたくないということだ。文字通りの意味である。そして、これをいまの資本主義社会にあてはめると、はたらかないで、たらふく食べたいということだ。(略)
 でも、資本主義社会だとこういわれる。やりたいことをやりたければ、まずカネをかせげ、やりたいことでカネをかせぐか、それができなければ、ほかの仕事でカネをかせいでこい。そうじゃなければ、生きていけないぞと。


カネを稼ぐことができない者は落伍者。働かざる者食うべらからず。これが資本主義社会のオキテです。しかも、「生の負債化」は、労働倫理の強制だけにとどまりません。資本主義社会では労働と消費は一体化しているのです。

(略)かせいだカネで家族をやしないましょう。よりよい家庭をきずきましょう。家をたてましょう。車をもちましょう。おしゃれな服をきて、ショッピングモールでもどこでもでかけましょう。これがやばいのは、そうすることが自己実現というか、そのひとの人格や個性を発揮することであるかのようにいわれていることだ。まるで、カネをつかうことが自分のよろこびを表現しているかのようだ。ショッピングをたのしまざるもの、ひとにあらず。


特に資本主義の尖端にある都会では、消費することが一義的なことで、それが生きることと直接つながっています。働いてものを買うというより、ものを買うために働いているという感じです。消費するバロメーターが幸福のバロメーターであるかのようです。消費できなければ都会では生きていけないのです。消費することが都会で生きる証しですらあるのです。

合コンで小学校教諭の女性と知り合い婚約まで至ったものの、年収50万円(当時)の婚約者に不安を抱いた相手から三行半を突きつけられ、公務員の妻の扶養に入るという甘い夢ははかなく終わるのでした。でも、著者は、みずからの失恋に伊藤野枝の「矛盾恋愛」を重ね、思想的に総括することを忘れません。アナキズムの”絶対的な自由”を今の社会に敷衍するとどうなるか。それは、ときに滑稽に見えることもありますが、しかし一方で、笑い話で済ますことができない本質的な問題を示してもいるのです。

ほんとうはただ相手のことをたいせつにおもっていただけなのに、結婚というものを意識した瞬間から、自分のことばかり考えるようになってしまう。しらずしらずのうちに、いわゆるカップルの役割を演じていて、それをこなすことが相手のためだとおもいこんでしまう。それがたがいに自分を犠牲にするものであったとしてもである。むしろ自分がこれだけのことをしているのだから、相手もこのくらいはしてくれないとこまるとおもいがちだ。たがいに負い目をかさね、見返りをもとめるようになる。


こういった考えが親鸞の他力思想にまで遡及していくのは当然でしょう。日本のアナキズム思想は、単に政治的な思想にとどまらず、自由恋愛論者の大杉栄に代表されるように、個人の思いや感情に視点を据えた人間味あふれる魅力的な思想でもあるのです。
2015.08.09 Sun l 本・文芸 l top ▲
悲しいだけ


早朝の5時前に目が覚め、ベランダのカーテンを開けて、徐々に白んでゆく外の景色を眺めていたら、途端に、母が亡くなったときの感情がよみがえってきました。そして、帰るべき家がなくなった事実をあらためてしみじみと思い知らされたのでした。

若い頃、藤枝静男の『悲しいだけ』を読んだとき、親が亡くなり帰るべき家がなくなってこの小説を読んだらつらいだろうなと思ったことがありました。今、そのときが訪れたのです。

『悲しいだけ』は、つぎのような文章ではじまっています。

 私の小説の処女作は、結核療養所に入院している妻のもとへ営養物をリュックにつめて通う三十余年前の自分のことをそのままに書いた短編であったが、それから何年かたったとき友人の本多秋五が「彼の最後の近くになって書く小説は、たぶん最初のそれに戻るだろうという気がする」と何かに書いた。そのとき変な、疑わしいような気がしたことがあった。むしろ否定的に思った。
 しかし今は偶然に自然にそうなった。


読者である私も、作者とは別に、いつかこの小説に「戻ってくるだろう」と思ったのでした。

『悲しいだけ』は、妻の死を綴った短編小説です。39年間の結婚生活のなかで、妻が健康だったのは最初の4年間だけでした。肺結核とそのあとに発見された乳癌によって、あとの35年間は入退院と手術のくり返しでした。

小説のなかに、こんな場面があります。

 死期が近づいて全身の衰弱が訪れたころの妻は、腹水の貯溜のための仰臥も横臥もできなくなった身体を、折りたたんで重ねた布団や枕にもたせかけた姿勢で昼夜を過ごしていた。ときおりは細い項を俯向け、絶えずふらつく上体を両手で支えて、小学校時代の唱歌を小声でうたっていることがあった。俯向いたままの顔を僅かに動かして
 「こうしていると気がまぎれるのよ」
 と呟いた。(略)その低い声が、動かしがたい運命の悲しみから無意識に逃れようとする一筋の細道のように思われた。 


死を前にした床のなかで、小声で唱歌を口ずさむ。なんだか私も同じ場面を見たような気がしてきました。そんな日常こそがホンモノで、今のこの日常はニセモノであるような気がします。藤枝静男の小説を読むとそんな気持になるのです。私は、藤枝静男の小説を読むたびに、小説を読んでよかったなとしみじみ思うのでした。

先日、家の電話に田舎の妹からの着歴がありました。おそらく新盆に帰ってくるのかどうか、その確認の電話なのだろうと思います。でも、私は返事の電話もしてないのでした。私も年に一度くらいは墓参りに帰りたいと思っています。でも、姉妹にも田舎の人たちにも、誰にも知られずにひっそりとお墓に参りたいと思っているのです。

人間というのは身勝手なもので、こうして年を取り、今度は自分の番だと思うと、今までめったに帰ることもなかった田舎が、なつかしく思えてくるのでした。”郷愁”と言えばそう言えるのかもしれませんが、ただ、その田舎は、あくまで子どもの頃に見た風景のなかにある田舎なのです。

『悲しいだけ』には、作者が周辺の寺や河川などを訪れ、その風景にみずからの心境を映すような場面がくり返し出てきますが、私は今回は、小説に出てくる地名をパソコンで検索しながら読みました。

すると、初めて『悲しいだけ』を読んだすぐあとに、当時付き合っていた彼女と浜松の周辺をまわったときのことが思い出されてきたのでした。その頃、私は、会社の仕事で名古屋と静岡を担当しており、月に一度、それぞれ出張で訪れていたのですが、名古屋に住んでいた彼女がちょうど浜松の友達のところに行く用事があるというので、仕事を終えた翌日、浜松で落ち合い、周辺をドライブしたのでした。

佐鳴湖という小さな湖に行って、近くのレストランで食事をしたことや、遠州灘の景色を遠くに眺めることができる山の頂きにのぼったことなどを今でも覚えています。そのときずっと頭のなかにあったのは藤枝静男の小説のことでした。その前年に父親を亡くしたということもあり、私のなかでは、浜松の風景と藤枝静男の小説を重ねる気持があったのでしょう。

 妻の手を掌にくるんで握ると、もう冷えていた。曲げた片脚をずらして踏みのばすように動かすのでさすってやると何の反応もなく動きが止まった。それは運動ではなくて、縮めるための緊張をしていた神経が働きを停止して自然の状態に戻る動きであった。


このように、死を看取る作者の目は、医者らしく冷静で客観的なものです。それだけに読む者にはよけいせつない気持が増してくるのでした。作者は、「自分が如何に感覚だけの、何ごとも感覚だけで考え判断し行動する以外のことはできもせずしもしなかった人間であった」と言うのですが、私たちはそういう「感覚」のなかで生を紡いでいるのだと思います。

亡くなった人の目尻に涙の跡が残っていたという話を聞いたことがありますが、ホントなんだろうかと思います。死を前にした床のなかで、自分はなにを思うのだろう。最近、そんなことをよく考えます。私の場合、誰にも看取られず、孤独に死を迎えるのは間違いありませんが、涙を流しながら死ねたらいいなと思います。そんな「無機質」な感覚のなかで、死を迎えたらいいなと思うのです。

「妻の死が悲しいだけ」という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している。これまでの私の理性的または感覚的の想像とか、死一般についての考えとかが変わったわけではない。理屈が変わったわけではない。こんなものはただの現象に過ぎないという、それはそれで確信としてある。ただ、今はひとつの埒もない感覚が、消えるべき苦痛として心中にあるのである。


人間の生において最後に残るのは、このような原初的な「無機質」な感覚なのでしょう。

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母の死
「盗作」事件
2015.07.31 Fri l 本・文芸 l top ▲
新潮2015年7月号


『新潮』(7月号)に「400枚一挙掲載」されていた金原ひとみの「軽薄」を読みました。

小説としては、登場人物も話の筋立ても荒っぽくて散漫でした。おそらくこの小説を評価する人は少ないだろうと思います。

作者の金原ひとみは、東日本大震災に伴う原発事故のあと、放射能汚染を避けて(?)岡山県に移住し、現在はフランスに住んでいるそうです。その間、次女を出産し、二人の娘の母親になっていたのです。

でも、この作品では、そんな家庭の幸福とは真逆を求める既婚女性が主人公です。

スタイリストとして華やかな世界で仕事をするカナ。カナは、イタリアの服飾ブランドの日本支社に勤める夫と8歳になる息子との三人家族です。カナと夫は、イギリスで知り合い結婚しました。当時、夫は服飾ブランドの日本法人からマーケティングディレクターとしてイギリスに派遣されていて、カナは服飾系の専門学校に留学していました。

しかし、カナの留学にはある事情がありました。カナには、16歳のときから2年間、薬と酒に溺れたような「破滅的な」関係をつづけていた男がいたのです。でも、そんな関係に疲れ、普通の人と「普通の恋がしたい」と思ったカナは、浮気相手と一緒に男のもとから逃げたのでした。それから男は、ストーカーと化し、カナに執拗に付きまとい脅迫するようになったのです。それで、カナは友達の家やキャバクラの寮などを転々として逃げまわっていたのですが、とうとう居場所を知られ、ある日突然、背後からナイフで刺されたのです。それがきっかけで、イギリスに留学したのでした。

なに不自由ない生活。夫も非の打ちどころのないような人物です。過去とはまるて別世界のような日常。しかし、カナはどこか満たされない思いを抱いています。心の空隙を埋めるかのように仕事に生きがいを求めるカナ。しかし、やがて、カナは、その空隙のなかに、あの過去の「破滅的な」恋愛の”しこり”が残っていることを気付かされるのでした。

それは、姉の息子・弘斗との道ならぬ関係によってでした。弘斗は19歳の大学生です。姉一家もまた、長い間、アメリカで暮らしていて帰国したばかりです。弘斗とは幼児のときに会ったきりでした。弘斗もカナと同じように、日本の社会に対してどこか疎外感を抱いているのでした。

 弘斗とのセックスは気持ち良い。でも、それは世界を揺るがすようなものではない。私は、甥と不倫しても壊れない世界に苛立っているのかもしれない。そんな事をしたら世界が変わると思っていたのかもしれない。でも世界は壊れなかった。私の世界を変える人や物は、もうこの人生の中には現れないのかもしれない。そう思ったら苛立ちも消えて、プッチ柄みたいな幾何学模様を見つめている時に抱くような、だから何だという虚無的な気持ちになった。


そう思っていたカナでしたが、弘斗との関係が深まり、さらに弘斗がアメリカで起こしたストカ―まがいの刺傷事件を知り、夫の浮気の気配を感じたりするにつれ、カナの心の奥深くに眠っていた「破滅願望」や「狂気」が再び頭をもたげはじめたのでした。それは、弘斗に対する「執着」だけでなく、過去のあの事件にケリをつけるということでもあります。

私はあの時果たせなかった誠実であり続けるという、自分自身の望みでもあり彼の望みでもあった道を、ここで果たせるのではないかと、自分でも信じれられないような希望を抱いている事に気付く。彼とだったら、私はあの時諦めてしまった、相手に対して誠実に向き合うという行為から逃げずに二人の関係を全う出来るかもしれない。あの時捨てた自分と、あの時捨てた男と、あの時捨てた狂気と、私は邂逅しているような気持ちでいた。


狂気が、また私の中に宿ったのかもしれない。軽蔑し、倫理的に否定し続けてきた非合理的な狂気を、長い時を経て私は今甘受したのかもしれない。(略)
時計の針が帳尻合わせをするように、私は帳尻合わせをしているのだ。善と悪、嘘を真実、希望と諦め、未来と過去、全ての両橋の合間でどこに立てばいいのか、迷いながら自分が倒れないバランスを探している。私はこの思いに全てを差し出すだろう。軽蔑の上に築き上げてきた物ものは、乾いた紙粘土が崩れるように倒壊し、砕け散り、辺りに舞い上がる埃の中、私はそれでもまだ生きていて、弘斗の手を探すだろう。


恋愛というのは大なり小なり「狂気」の要素が含まれているものです。まして不倫のような恋愛であれば尚更でしょう。”背徳”ということばは、決して死語ではないのです。

法事で帰省した折、姉と妹がささいなことで口喧嘩になりました。その際、エスカレートして、「あのとき男を追いかけて行って」とか「あんただって男にお金を貢いで」とか「お金をせびって」とか、ずいぶんきわどい話になったのです。もちろん、いつも●●●桟敷に置かれている私には、初めて聞く話でした。

でも、私は、それを聞いて、なにかホッとしたような気持になったのでした。今の彼女たちは、どこの誰が見てもさえない中年のおばさんでしかありません。しかし、若いときに、そんな世間の人たちから眉をひそめられるような、それこそ親戚が知ったら非難轟々のような非倫理的な恋愛を経験していたことを知って、私は逆に「よかったな」と思ったのです。

人生には「破滅願望」や「狂気」を抱くような瞬間というのはあるはずです。赤裸々な人間性がむき出しになったとき、もうどうなってもいい、そんな気持になることもあるでしょう。非倫理的な恋愛であればよけいそうでしょう。人間は誰しも、墓場までもっていく話がひとつやふたつはあるはずです。それが恋愛に関するものであれば、人生はもっと奥行きができて、色合いも豊かなものになるでしょう。どんな恋愛であれ、「恋愛は人生の花」(坂口安吾)なのです。

この作品は饒舌すぎるのです。それに飾り物が多すぎる。それが小説の魅力を損なっているように思います。

私は、カナと弘斗二人の場面だけで充分のような気がします。18禁のようなセックス描写も、そこに流れる空気感もすごく巧みで惹かれるものがありました。そういった場面だけで小説を構成すれば、もっと読者の想像力をかき立てるような魅力的な作品になったように思います。別に、叔母と甥でなくてもいい。ただの人妻と大学生の話でも、カナと弘斗の世界は充分成り立つように思います。

「破滅願望」や「狂気」を抱かせるような恋愛。たとえさえないおばさんやおっさんになっても、心のなかにはそんなせつなく哀しい思い出はあるのです。私たちにとって、カナや弘斗は決して遠い存在ではないのです。カナや弘斗をとおしてみずからの人生と向き合うこともできるはずです。でも、そのためには、この小説は饒舌すぎるのです。その饒舌さは、平板で倫理的な結婚生活を送っている作者の弁解のように思えないこともありません。


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2015.07.10 Fri l 本・文芸 l top ▲
いい加減食傷気味なのは重々承知ですが、あと一度だけ『絶歌』について書きたいと思います。と言うのも、朝日新聞の「『絶歌』出版を考える」企画の第二弾(下)で、荻上チキと斎藤環両氏のインタビューが掲載されていたのですが、その記事を読んで思うところがあったからです。

朝日新聞デジタル
(表現のまわりで)『絶歌』出版を考える:下 何が読み取れるのか 識者に聞く

ハフィントンポスト(転載)
『絶歌』何が読み取れるよのか 荻上チキさん・斎藤環さん

二人のインタビューは、好対照、と言うより、まったくレベルの違うものでした。萩上キチは、大方の人たちと同じように、世間の”反発”をただなぞっただけの薄っぺらな”感想”に終始していました。要するに、誰でも言えることを言っているだけです。最近、テレビの情報番組に、口だけ達者な芸能人がコメンテーターとして出ていますが、荻上キチが言ってることはそんな芸能人となんら変わらないのです。

一方、斎藤環氏は、精神分析の専門家だけあって、示唆に富んだ分析をしていました。

 彼は祖母への愛着から性的な発展がいびつな方向に向かい、嗜虐(しぎゃく)的な方法でしか快楽が得られなくなります。その後、手段が急激にエスカレートしていく過程は、アルコールなどの依存症者のパターンとよく似ています。最初は猫を殺すことで満足していたのが、次第に耐性がついて同じ刺激では満足できなくなる。

 彼は他人と違う衝動を抱えた劣等感が強く、孤立感を抱えたまま自己を追い詰めていった可能性があります。どうすれば良かったかと言われれば、そうした性的嗜好(しこう)が思春期には特別なものではないことを説明できる大人が、じっくり彼の話を聞く機会を持つことが抑止効果を持ち得たかもしれません。


逮捕されたあと、面会に来た叔母さん(母親の妹)が、泣きながら「A、ごめんな、ごめんな」と謝ったというのも、そういった後悔の念があったからかもしれません。

私たちも、専門家ではないので斎藤環氏の分析のすべては無理だとしても、その半分くらいは読み取ることができるのではないでしょうか。

罪を憎むことは簡単です。小田嶋隆氏や荻上チキのように、罪を非難するだけなら誰でもできる。しかし、同時に罪の先にある人間を見ることも必要ではないのか。少くともそれが「識者」の役割ではないのか。

斎藤環氏の分析にもあるように、『絶歌』の本質は、むしろ第一部のなかにあるのだと思います。それを荻上チキは、「いかにも90年代的な言葉遣いがちりばめられた第一部は、痛々しくて読むのが苦痛でした。冗舌ですが表層的。」と否定するのでした。要するに、なにも読み取ることができず(読み取る気もなく)、ただ俗情と結託しているだけなのです。

荻上キチが否定する「いかにも90年代的な言葉遣い」(90年代的な言葉遣いってなに?って感じですが)についても、斎藤氏は、「象徴的表現をたくさん使うのは健全化の証拠」と言ってました。

ゼロ年代の批評家たちは、どうしてこんなに揃いも揃って人間に対して鈍感なのでしょうか。いや、それは人間に対してだけではありません。政治に対しても然りです。彼らの相対主義的な言説は、案外全体主義のそれと隣接しているのではないか。
2015.06.30 Tue l 本・文芸 l top ▲
絶歌


『絶歌』(太田出版)を読み終えました。

『絶歌』は、第一部と第二部の二部構成になっているのですが、第一部と第二部では文体が違っています。著者の元少年Aが長い時間をかけて書いたのは第一部のほうで、第二部は、あとから編集者の要請で書き足したのではないかと思ったくらいです。

第一部は、須磨警察署に逮捕され、神戸家庭裁判所で審判を受け(その間60日間の精神鑑定を受け)、関東少年医療院への送致が言い渡されるまでの約4カ月間の出来事を綴ったものです。そのなかで、事件の”真相”が回想されるのでした。

寺山修司は、人生において読書ができるのは、学生時代か病院に入院しているときか刑務所に入っているときしかない、と書いていましたが、著者も例外ではなく、関東少年医療院に入っているときに、「読書療法」の名目で差し入れられた数々の文学作品によって、読書する楽しみを覚えたと書いていました。影響を受けたのは、三島由紀夫と村上春樹で、なかでも、三島由紀夫の『金閣寺』は「”僕の物語”だと思った」「僕の人生のバイブルになった」と書いていました。

第一部では、そういった読書体験で得た手法を使って、犯行に至る過程や逮捕されたあとの心情を、過剰とも言えるほど凝りに凝った文体で綴っているのでした。あまりに凝りすぎな感じで逆に辟易するくらいでした。

一方、第二部は、第一部と違って簡潔な文体になっています。内容は、2004年4月、関東少年医療院を「仮退院」して、弁護士や篤志家のサポートなどを受けながら、社会復帰していく過程を綴ったものです。でも、当然ながらそれは容易なものではありません。神戸連続児童殺傷事件の少年Aであることがバレそうになって、急遽転居したり、職場になじめず転職したりと、職と住まいを転々とする生活でした。著者もその心境をつぎのように書いていました。

信頼されている?
必要とされている?
社会の一員として受け入れられている?
そんなものはファンタジーにすぎなかった。
自分は周りを騙している。そんな後ろめたさが芽生え、人と関わりを持つことが怖くてならなかった。


一度捨て去った「人間の心」をふたたび取り戻すことが、これほど辛く苦しいとは思わなかった。まっとうに生きようとすればするほど、人間らしくあろうと努力すればするほど、はかりしれない激痛が伴う。


少年Aの犯罪については、神戸家庭裁判所の審判で、精神的な疾患による特異な犯罪と判定され、”刑罰”ではなく治療が必要という結論が下されたのです。さらに、治療を終え、「仮退院」の保護観察期間を経て、更生していると判断されて「本退院」しているのです。既に法的な「縛り」もなくなっているのです。ネットや週刊誌の”ためにする”誹謗や、つぎの諸澤英道氏の発言を考える上で、このことを確認しておく必要があります。

刑法や少年法が専門の常磐大学教授の諸澤英道氏は、朝日新聞の記事(下記参照)のなかで、『絶歌』について、「文学的な脚色が多く、事件と向き合っていくという真摯(しんし)さが伝わってこない」「刑法でのサンクション(制裁)とはレベルがあまりに違い、世間が『罪を償っていない』と感じるのも無理はありません」「過去を清算して新しい人生を歩む覚悟があるなら、少年法で保護された延長線上で匿名のまま発信するのではなく、実名で出版すべきでした」と批判していました。

朝日新聞デジタル
(表現のまわりで)『絶歌』出版を考える:上 加害者は語りうるか 識者に聞く

しかし、少年Aの処分は法律に則っておこなわれ、適切に処理されているのです。異論があるなら元少年Aではなく、裁判所に反論すべきでしょう。まして、匿名で書くか、実名で書くかなんて個人の自由でしょう。諸澤氏の発言は、今の安保法制と同じで、立憲主義ならぬ罪刑法定主義、強いては少年法の理念をもないがしろにする、法律の専門家にあるまじき”感情論”で、これこそ俗情との結託と言うべきです。

『絶歌』を読んだ人の間では、第二部のほうが評判がいいようです。たとえば、アパートを借りる保証人にもなってくれた職場の先輩に、夕飯に誘われて先輩の自宅を訪れた際、小学校に上がったばかりの先輩の娘を見て、激しく動揺する場面があります。

 無邪気に、無防備に、僕に微笑みかけるその子の眼差しが、その優しい眼差しが、かつて自分が手をかけた幼い二人の被害者の眼差しに重なって見えた。
 道案内を頼んだ僕に、親切に応じた彩花さん。最後の最後まで僕に向けられていた、あの哀願するような眼差し。「亀を見に行こう」という僕の言葉を信じ、一緒に遊んでもらえるのだと思って、楽しそうに、嬉しそうに、鼻歌を口ずさみながら僕に付いてきた淳君の、あの無垢な眼差し。
 耐えきれなかった。この時の感覚は、もう理屈じゃなかった。


そして、少年Aは、「食事の途中で体調の不良を訴えて席を立ち、家まで送るという先輩の気遣いも撥ね退け、逃げるように彼の家をあとにした」のでした。自宅に帰るバスのなかでも涙がとまらなかったそうです。

こういう場面に、悔恨と贖罪を読む人も多いはずです。でも、私は、そういう解釈には首を捻らざるをえません。『罪と罰』のラストシーンをあげる人もいますが、なんだか安っぽいテレビドラマを見ているような感じがしないでもありません。現実の人間というのは、ホントにこのようにアプリオリな存在なのでしょうか。もっと屈折しているのではないか。むしろ、この文章で捨象した部分こそ大事なのではないかと思います。

そもそも謝罪なんて受け入れられるものではないと思います。自分の子どもを殺された親が、どんなかたちであれ、受け入れる謝罪なんてないでしょう。

少年Aは、慕っていた祖母が亡くなったあと、祖母が使っていた電気按摩器によって精通を体験するのですが、それが性的倒錯に陥るきっかけになったのでした。

祖母の部屋で初めて射精し、あまりの激痛に失神して以来、僕は”痛み”の虜だった。二回目からは自慰行為の最中に血が出るほど舌を強く噛むようになり、猫殺しが常習化した小学校六年の頃には、母親の使っていたレディースカミソリで手指や太腿や下腹部の皮膚を切った。十二歳そこそこで、僕はもう手の施しようのない性倒錯者になった。


しかも、それは、「死を間近に感じないと興奮できない」「”黒い性衝動”」でもありました。

また、犯行後も、”アエダヴァーム”に隠していた淳君の頭部を手提げバッグに入れ、それを自転車の前カゴに乗せて自宅に持ち帰ると、頭部を風呂場に持って行って、「殺人より更に悍ましい(引用者註:おぞましい)行為に及んだ」のでした。しかも、それ以降2年間、まったく性欲を感じず、勃起もしなかったそうです。

少年のヰタ・セクスアリスがおぞましいかたちで逸脱した、その延長上に少年Aの犯罪があったのです。

 僕と淳君との間にあったもの。それは誰にも立ち入られたくない、僕の秘密の庭園だった。何人たりとも入ってこられぬよう、僕はその庭園をバリケードで囲った。
 凶悪で異常な根っからの殺人者だと思われても、そこだけは譲れなかった。誰にも知られたくなかった。その秘密だけは、どこまで堕ちようと守り抜かなくてはならない自分の中の聖域だった。


こんな性的倒錯の犯罪にどんな悔恨や贖罪があり、どんな謝罪があるというのでしょうか。もはやそれは文学的なことばでしか”説明”がつかないのです。諸澤氏が批判する「文学的に脚色」して表現するしかないのです。要するに、文学という”絶対的自由”によってしか表現できないのではないか。

 居場所を求めて彷徨い続けた。どこへ行っても僕はストレンジャーだった。長い彷徨の果てに僕が最後に辿り着いた居場所、自分が自分でいられる安息の地は、自分の中にしかなかった。自分を掻っ捌き、自分の内側に、自分の居場所を、自分の言葉で築き上げる以外に、もう僕には生きる場所がなかった。


著者は、ものを書くこと(文学)に自己救済の道を見つけようとしているのです。であれば、ありきたりな悔恨や贖罪ではなく、徹底的に悩み苦しみ、人非人としてイバラの道を歩むしかないのです。そして、自分のことばで心の奥深くに分け入り、人間存在の本質にせまるなかで、忌まわしい犯罪を犯したみずからの心の在処をあきらかにすべきでしょう。

『絶歌』には、その姿勢は見てとれます。しかし、まだ序章にすぎないと思いました。
2015.06.24 Wed l 本・文芸 l top ▲
『絶歌』(太田出版)を手に入れました。戸塚の有隣堂に1冊だけ残っていたのです。なんだか「奇跡」に遭ったような気持でした。もっとも、来週には重版が出来上がるので、徐々に入荷する予定だと言ってました。

まだ、帰りの電車のなかで30ページほど読んだだけですが、たしかに文章がうまいなと思いました。研ぎ澄まされた文体とは言い難いけど、読む者をぐいぐい引き込んでいく力があります。少年Aがこんなに頭のいい人間だったとは、思ってもみませんでした。これではネットのイタい人間たちは、少年Aの足元にも及ばないでしょう。

犯行現場となったタンク山や犯行に使った凶器を捨てた向畑ノ池。それらは、少年Aにとって特別な思い入れのある場所だったのです。タンク山と向畑ノ池(むこうはたけのいけ)と入角ノ池(いりずみのいけ)は、「誰にも立ち入られることのない、自分だけの聖域」であり、「この世界のどこにも属することができない自分の、たったひとりの居場所」だったと言います。

 虫一匹もいないのではないかと思わせる閑静なニュータウンと、原初の森の記憶をとどめる鬱蒼とした入角ノ池の対比は強烈だった。それはあたかも僕の無機質な外見と、その裏に潜む獣性を投影しているかのような風景のコントラストだった。両極端な”ジキル”と”ハイド”が鬩ぎ合いながら同居する僕の二面性は、”人工”と”自然”がまったく調和することなく不自然に隣り合う、このニュータウン独特の知貌に育まれたのかもしれない。
 入角ノ池のほとりには大きな樹があり、樹の根元には女性器のような形をした大きな洞がバックリ空いていた。池の水面に向かって斜めに突き出た幹は尖端へいくほど太さを増し、その不自然な形状は男性器を彷彿とさせた。男性器と女性器。アダムとエヴァ。僕は得意のアナグラムで勝手にこの樹を”アエダヴァーム(生命の樹)”と名付け愛でた。
 水面にまで伸びたアエダヴァームの太い幹に腰掛け、ポータブルCDプレイヤーでユーミンの「砂の惑星」をエンドレスリピートで聴きながら、当時の”主食”だった赤マル(引用者註:マールボロ)をゆっくりと燻らすのが至福のひとときだった。


少年Aは、その”アエダヴァーム”と名付けた「女性器のような形をした大きな洞」に、土師淳君の遺体の一部(頭部)をひと晩隠したのでした。そして、この「解せない行動」について、「ふざけた事をほざくな」と言われるのを承知で、もしかしたら土師淳君を「”生き返らせたかった”のではないか」と自己分析するのでした。

森鴎外の言うヰタ・セクスアリス。思春期の男の子にとって、それはときに深刻なものですらあります。思春期の少年犯罪のかなりの部分に、ヰタ・セクスアリスが関係しているというのは、多くの専門家も指摘しているところです。少年たちは、大なり小なりそんな闇を心のなかに秘匿しているのです。私たちの性の目覚めと少年Aの猟奇的な犯罪が、紙一重とは言わないまでも、同一線上にあるのはたしかでしょう。私は、ネットの人間たちのように、少年Aの犯罪をまったく他人事と見ることはどうしてもできないのです。そこまで自分にバカではないつもりです。

また、最後の「被害者のご家族の皆様へ」のなかで、少年Aは、つぎのように書いていました。

 この十一年、沈黙が僕の言葉であり、虚像が僕の実体でした。僕はひたすら声を押しころし生きてきました。それはすべて自業自得であり、それに対して「辛い」「苦しい」などと口にすることは、僕には許されないと思います。でも僕は、とうとうそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の思いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。
 本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをかわっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います。本当に申し訳ありません。


『絶歌』には、単なる贖罪ではない、その先にあるものを見ようとする姿勢があります。それが世間の反発を招き、ネットの悪意を誘発しているのでしょう。でも、だからこそ『絶歌』が、読みごたえのある本になっているとも言えるのです。

変な言い方ですが、『絶歌』は読んで損のない本だと思います。雑音に惑わされるのではなく、自分の目で読めば、いろんな思いや考えが去来するはずです。そして、反発するにせよ、同情するにせよ、みずからの人生観や人間観が激しくゆさぶられるはずです。それだけでも読んで損はないと思います。

読み終えたら、あらためて感想を書きたいと思います。
2015.06.20 Sat l 本・文芸 l top ▲
私は、へそ曲がりなので、話題になった本はあまり読まないのですが、少年Aの『絶歌』は読みたいと思いました。しかし、書店をまわっても在庫がありませんでした。それどころか、ネットもどこも品切れでした。

『絶歌』については、「ネットで批判が殺到」などと言われていますが、しかし、Amazonのレビューなどを見る限り、(レビューがどういうしくみになっているのかわかりませんが)実際に本を読んでなくて、ただ感情的に「批判」(というより誹謗)しているようにしか思えません。もともとAmazonのレビューには、この手の”ためにする”誹謗が多いのですが、特に今回は「炎上」目的でそれが集中している感じです。「遺族の許可を取ってない」とか「不買運動を起こそう」とか、そんな”頭の悪いこと”しか言えないイタい人間たち。

Amazonでは、1620円の定価に対して、3千円とか4千円の高値で売っているマーケットプレイスの書店がありました。こういう便乗商法こそ批判されるべきでしょう。

一方、京王電鉄系列の啓文堂書店が、「遺族感情に配慮して」、『絶歌』の販売を自粛することを決定したというニュースもありました。私は、如何にも鉄道会社らしい官僚的な対応(=事なかれ主義)だなと思いました。判断するのは書店ではなく、読者なのです。自粛を決めた「上層部」というのは、もともと出版文化とは関係のない親会社の京王電鉄からの天下りなのでしょう。私は、このような俗情と結託して”焚書坑儒”に加担するような書店が、「良識を示した」とか「英断だ」とか称賛される風潮こそ、逆におぞましいと思いました。

秋葉原事件の加藤智大被告も何冊か本を出していますが、彼の場合、今回のような大きな批判はありませんでした。私は、昨年発売された『東拘永夜抄』(批評社)を読みましたが、全然期待外れでつまらなかったです。自己を対象化することばがあまりにも稚拙なのです。それがあの短絡的な犯罪と結び付いているのかと逆に思ったくらいです。

『絶歌』を読んだ人の間では、少年Aの文章力と表現能力の高さにびっくりしたという声が多いそうです。今回、ネットで反発を呼んだのは、そういった少年Aの才能に対するやっかみもあるのではないかという見方もありますが、あながち的外れとは言えないのかもしれません。そうなるとますます『絶歌』を読みたくなります。又吉の小説なんてどうでもいいけど、少年Aの手記は読みたいと思います。あとは読んでどう思うかでしょう。

今回は手記のようですが、殺人犯が小説を書いても構わないのです。それが文学というものです。もし彼にホントに才能があるなら、ドフトエフスキーや太宰治やカポーティに匹敵するような小説が書けるかもしれない。その可能性だってあるのです。

週刊誌の記事によれば、少年Aが最初に出版を依頼したのは、幻冬舎だったとか。しかし、幻冬舎の見城徹社長は、百田茂樹の『純愛』で批判を浴びたばかりで、しかも安倍首相の”お友達”でもあるので、出版を断念。それで、太田出版に企画を持ち込んだと言われていますが(「押し付けた」と言う人もいますが)、腐っても鯛とはこのことでしょう。私は、見城氏をちょっと見直しました。

小説家というのは、本来、市民社会の埒外に存在する”人非人”なのです。往来を歩けば、石が飛んでくることだってあるのです。”人非人”だからこそ、人間存在の本質にせまるような作品が書けるのです。見城氏も、そんな編集者として最低限の”見識”は失ってなかったと言うべきでしょう。

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2015.06.19 Fri l 本・文芸 l top ▲
よみがえる夢野久作


昨日、書店に行ったら、平岡正明の『山口百恵は菩薩である』(講談社)がリメイクされ、四方田犬彦編集の「完全版」と銘打ち発売されていたのでびっくりしました。

しかも、価格が4320円だったので、二度びっくりしました。平岡正明は竹中労・太田竜とともに、当時、「三バカ・ゲバリスタ(世界革命浪人)」と呼ばれ、ある意味で全共闘世代の”アイドル”でもありました。Amazonでは、「革命的名著、完全版となって、いま甦える!!」というキャッチコピーが付けられていましたが、今回のリメイクは、AKBと同じような、全共闘世代を対象にした”アイドル商法”と言えるのかもしれません。

私が『山口百恵は菩薩である』を読んだのは、九州にいた若い頃です。山口百恵ファンの私にとって、あの平岡正明が山口百恵を論じたこと自体、衝撃的な出来事でした。ちなみに、平岡正明は、その前だったか、そのあとだったかに、朝日新聞の「レコード評」の歌謡曲欄を担当していたこともありました。

しかし、昨日、私が買ったのは、『山口百恵は菩薩である』ではなく、リメイク版を編集した四方田犬彦氏の『よみがえる夢野久作』(弦書房)です。『よみがえる夢野久作』は、昨年の5月に福岡市でおこなわれた福岡ユネスコ協会主催の四方田氏の講演を書籍化したものです。

私は、若い頃、夢野久作や久生十蘭や小栗虫太郎や牧逸馬(谷譲次)など、戦前に活躍した探偵小説作家に惹かれ、彼らの作品を片端から読んだ時期がありました。私が「蠱惑的」ということばを覚えたのも、彼らの作品を読んでからです。これらの作家は、主に『新青年』という雑誌で活躍したのですが、その作品群には探偵小説や幻想小説という範疇には収まりきれない独特の世界観があります。それは、今の小説にはないものです。

なかでも、夢野久作の作品は特別でした。私は、文字通り彼の「蠱惑的」な小説の世界に魅了され、どっぷり浸かったのでした。

『東京人の堕落時代』は、夢野久作が「九州日報」(西日本新聞の前身)の記者だったとき、1923年9月と1924年9月~10月の二度にわたって、大震災に見舞われた東京を訪れ、そこで見たものを同紙に連載したルポルタージュです。

四方田氏は、『東京人の堕落時代』について、「夢野が被災地の東京で獲たものとは人間の堕落であり、廃墟と化しているのは建築ばかりではなく、人間そのものであるという認識」だったと言ってました。

最初の震災直後の上京の際は、九州から船を乗り継いで、東京に入ったのですが、廃墟となった東京は人影もなく「がらーんとしているだろう」と思っていたら、実際は人であふれ、道路も大混雑していたそうです。

(略)彼はそれを、冷静に観察している。「しかし、そうやっている群衆の八割か九割は、物見遊山の見物客であり、野次馬である」と書くのです。つまり、震災によって壊れたものが面白くて見に来ている人たちだと。実際の避難民の人たちというのはわずか「五厘」と言っています。五厘だから〇.五%ですか。とにかく少ないと思う。避難民の人がぞろぞろ歩いているんじゃない、と言う。みんな、何が壊れたかとか、そういうものを面白がって見に来ているんだと書いてしまう。そして、そうした事態に対し彼は非常に不快感を持っています。


そんななか、朝鮮人が井戸に毒を入れたなどという流言飛語によって、6千人の朝鮮人が虐殺されたのでした。手を下したのは、軍人や刑務所が倒壊し解放された囚人などもいましたが、大半は自警団に組織されていた一般の市民たちでした。「十五円五拾銭」と言わせて、「チューコエンコチセン」と発音した者は朝鮮人と見做され、頭に斧や鳶口が振り下ろされたのです。千田是也や折口信夫も、朝鮮人に間違われて殺されそうになったそうです。しかも、状況が落ち着くと、自分たちがやったことを闇に葬るべくみんなで口を噤んだのです。

詩人の萩原朔太郎は、そんなおぞましい狂気の所業に憤り、「朝鮮人あまた殺されたり / その血百里の間に連らなれり / われ怒りて視る、何の惨虐ぞ」と詠ったのでした。また、自警団の一員であった芥川龍之介は、「大正十二年九月一日の大震に際して」という文章で、朝鮮人虐殺に憤慨する菊地寛から一喝されたことを明かしていました。そして、朝鮮人がボルシェビキ(共産主義者)の一員であることを信じる、あるいは信じる真似をするのが「善良なる市民の資格」であり、「善良なる市民になることは、――兎とに角かく苦心を要するものである」とみずから自嘲するような書き方をしていました。

私は、阪神大震災の際、テレビの映像で見た、今でも忘れられないシーンがあります。それは、地震直後、高速道路が倒壊した現場から中継した映像に映っていたのでした。

アナウンサーが興奮した口調で被害の状況を伝えているその背後には、トラックの荷台から落ちた荷物が散乱していました。すると、どこからか野次馬のような人たちが集まってきて、散乱した荷物を物色しはじめたのです。そして、めぼしいものを見つけると、荷物を両腕に抱えてつぎつぎと持って行ったのでした。

それは、夢野久作が見たのと同じ群衆の姿です。四方田氏によれば、そんな群衆のことを「迫害群衆」と言うのだそうです。「迫害群衆」というのは、ドイツのノーベル賞作家・エリアス・カネッティのことばですが、四方田氏は、カネッティと夢野久作はよく似ていると言ってました。夢野久作(杉山泰道記者)は、死体や汚物の臭い、汚れた街の様子、人々の無責任な行動や犯罪行為など、自分の目で見たものをありのままに記事に書いたのです。

私が見たシーンは、地震直後の混乱のなかで予期せず映ったものでしょう。それ以後、そういった生々しい映像を目にすることはありませんでした。その代わりに、「お互いを助け合い」「礼儀正しく」「忍耐強く」「非常時に犯罪もない」「すばらしい日本人」像が、くり返し伝えられたのでした。

四方田氏は、3.11以後のメディア状況についても、夢野久作の『東京人の堕落時代』を引き合いに出して、つぎのように言ってました。

感傷的な美談は積極的に報告するけれど、汚れたもの、臭いもの、在日朝鮮人に関するものは排除するみたいな、そういうことをやっている。だから、被災地から離れた場所に住む人間は、本当に何が生じているのかわからない。ある種のセンチメンタリズムだけがずっと続くという状況が続いている。そして、東京にいる小説家とか知識人は、「フクシマを忘れるな!」、「人類全体の体験だ!」とかオウムのように繰り返しているわけです。世界じゅうで「フクシマを救え」というロックフェスティバルをやる。「収益は、みんなフクシマに」って口実で、みんな浮かれ騒いでいる。


震災直後の状況に「東京人の堕落」を見た夢野久作に、父親・杉山茂丸の影響があったのは言うまでもないでしょう。と、同時にそれは、九州の精神風土と無縁ではないように思うのです。杉山茂丸が深く関わった玄洋社にしても、ただの「右翼」とは言い難い思想的な懐の深さをもっていたのでした。

私の父親も戦前、満州の鉄道会社に勤めていたのですが、私が子どもの頃、「シナ」や「チョウセン」という差別用語を平然と使いながらも、我が家にはいつも近所の「シナ」人や「チョウセン」人のおいちゃんやおばちゃんたちがやって来て、世間話に花を咲かせていました。夢野久作が「東京人の堕落」と言った、その憤りや嘆きには、そんな九州の人間がもっている大陸的な気風や思考も関係しているように思います。

九州の精神風土を掘り下げていけば大陸に行き着くというのはよく言われることです。ナショナルなものを掘り下げていけば、インターナショナルなものに行き着くのです。杉山茂丸や玄洋社のナショナリズムには、そんな回路があったのでした。

一方、平岡正明もまた、かつて『ユリイカ』(青土社)の特集において、『東京人の堕落時代』が「朝鮮人」ということばを使ってないことを取り上げ、それは、夢野久作が「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れているというデマを疑い、逆に朝鮮人が日本人に殺されているのではないかという疑問を持った」からではないかと推察していました(『ユリイカ』1989年1月号・「特集=夢野久作」所収、「品川駅のレコードの謎―「東京人の堕落時代」)。そして、そういった”見識”は、「玄洋社・黒竜会という右翼の本流に夢野久作が直結していればこそである」と書いていました。黒竜会の内田良平も、「自分たちの対朝鮮行動が帝国主義者に利用されたことを憤って一度も日韓併合という語を用いなかったし」、震災直後も、朝鮮人暴動がデマであると主張していたそうです。

もし、現代に夢野久作が生きていたなら、今、この国を覆っている排外主義的な風潮に対しても、「日本人の堕落」と断罪したに違いありません。近隣の国を貶めることで自分の国に誇りをもつというのは、なんとも心根が貧しく、それこそゲスの極み乙女ならぬ「堕落」の極みと言うべきでしょう。夢野久作は、『東京人の堕落時代』で、既に今日の「日本人の堕落」を予見していたとも言えるのです。

「愛国」とはなんなのか。今、巷にあふれている「愛国」は、ホントに「愛国」なのか。安倍が言う「愛国」は、「愛国」と言えるのか。そう考えると、まさに夢野久作が「よみがえる」気がするのでした。
2015.06.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
ずっと気になっていた詩がありました。江東区の「亀戸」の地名が出てくる鈴木志郎康の詩です。

その詩に出会ったのは、私がまだ九州にいた頃でした。当時、私は、人口2万人あまりの小さな町の営業所に勤務していて、会社が借り上げた町外れの丘の上にあるアパートに住んでいました。

九州の片田舎に住んでいながら、どうして「亀戸」という地名が気になったのか。もちろん、亀戸には行ったこともありませんし、亀戸にゆかりのある人物も知りません。でも、なぜか「亀戸」という地名が出てくるその詩がずっと頭に残っていたのです。

再度上京して、何度か車で亀戸を通ったことがありました。その際も、「亀戸」の詩を思い出したりしていました。しかし、書店でさがしても「亀戸」の詩は見つかりません。そもそも鈴木志郎康の詩集が置いてないのです。

ところが、先日来、本を整理していたなかで、『新選 鈴木志郎康詩集』(思潮社現代詩文庫)が棚の奥から出てきたのでした。なんと、私は、鈴木志郎康詩集を24年前に九州からもってきていたのです。

上京する際、前の記事で書いた『五木寛之作品集』と『ドフトエフスキー全集』を泣く泣く処分したことを今でも後悔していますが、鈴木志郎康詩集は処分してなかったのです。私は、その茶色く変色した詩集を手にして、なんだか長年の胸のつかえが下りた気がしました。

私がずっと気になっていた「亀戸」の詩は、「終電車の風景」と「深い忘却」という詩でした。

終電車の風景

千葉行の終電車に乗った
踏み汚れた新聞紙が床一面に散らかっている
座席に座ると
隣の勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元にけった
新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった
前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった
みんなで汚れ新聞紙の山をけったり押したり
きたないから誰も手で拾わない
それを立って見ている人もいる
車内の床一面汚れた新聞紙だ
こんな眺めはいいなァと思った
これは素直な光景だ
そんなことを思っているうちに
電車は動き出して私は眠ってしまった
亀戸駅に着いた
目を開けた私はあわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた

(『やわらかい闇の夢』1974年青土社刊)


深い忘却

屋上に出て見渡せば
亀戸の密集した屋根が見える
屋根の下には人が居る筈なのに
屋根があるから人の姿は見えないのだ
眺めというものはこれだけのことで
見えない人にしてもどうせ他人だと突っ撥ねる
そして次に
あれが駅前の建物だと確認して
次々に目立つ建物を確認してみて
それで屋上から降りてくる
屋上に出て見渡して見たものが
この自分の国の姿だとか
我が故郷の姿だとか
見えなかった人は人民なのだ
私には関係なく出来上がっている建物の群れに向かって
住んでいる人たちに向かって
思いようもない
そういうことでは
私自身をも忘れている

(『見えない隣人』1976年思潮社刊)


なにかの雑誌で、これらの詩を知ったのだと思います。それで、詩集を買ったのでしょう。

私が、これらの詩に惹かれたのは、当時の私の心境と無関係ではないように思います。私は、このまま田舎で一生をすごすのか、それとも仕事をやめて再び東京に行くのか、ある事情からその決断を迫られていたのでした。

これらの詩に惹かれたというのは、自分のなかで、一旦、このまま田舎に骨をうずめる決意をしたのかもしれません。あるいは、そう自分に決意を促していたのかもしれません。当時の私にとって、「亀戸」という地名は、そんなメタファーだったのでしょう。

でも、結局、私は、田舎の生活を精算して、再度上京する決意をしたのでした。
2015.06.07 Sun l 本・文芸 l top ▲
本を整理していたら、『五木寛之ブックマガジン・夏号』(KKベストセラーズ)というムック本が出てきました。奥付を見ると、「2005年8月8日初版第1刷発行」となっていますので、ちょうど10年前の本です。

表紙には、「作家生活40周年記念出版」「これが小説の面白さ、読む楽しさ!」「60年代傑作集」という文字が躍っています。

なかをめくると、「さばらモスクワ愚連隊」「海を見ていたジョニー」「ソフィアの秋」「GIブルース」「第三演出室」の60年代の代表作5本が掲載されていました。そして、あらためてそれらの「綺羅星の代表作」を読み返していたら、初めて読んだ若い頃が思い出され、なつかしさで胸がいっぱいになったのでした。

私たちは、五木寛之の初期の作品を同時代的に読んだ世代ではありません。多くは文庫本で読みました。でも、高校のとき、「さらばモスクワ愚連隊」やフォーク・クルセダーズの歌にもなった(作詞は五木寛之)「青年を荒野をめざす」を読んで以来、私は自他共に認める”五木寛之フリーク”になったのでした。

気がついた時には、私はもうピアノの前に座って、〈ストレインジ・フルーツ〉をイントロなしで弾きだしていた。
 私刑リンチにあった黒人が丘の上の木にぶら下がっている。たそがれの逆光の中に、風に吹かれて揺れている首の伸びたシルエット。それは、まったく哀れで滑稽な「奇妙な果実ストレインジ・フルーツ」だ。その時、私はなぜか引揚船の甲板から見た、赤茶けた朝鮮半島の禿げ山のことを思い出した。ほこりっぽい田舎道と、錆びたリヤカーのきしむ音がきこえてきた。十三歳の夏の日。
 どんなテンポで弾こうとか、どのへんを聞かせてやろうとか、そんなことは全く頭に浮かんでこなかった。音を探そうとあがくこともなかった。音楽は向こうからひとりでにやってきた。私の指が、おずおずとそれをなで回すだけだ。私は確かにブルースを弾いていた。背筋に冷たい刃物を当てられたうようなふるえがくる。時間の裂け目を、過去が飛びこえて流れこんできた。ピアノは私の肉体の一部のように歌っていた。

「さらばモスクワ愚連隊」


こんな文章に、私は胸をときめかしたのでした。

その後、病気で1年間、別府の国立病院に入院することになったのですが、ちょうどその時期に、文藝春秋社から『五木寛之作品集』(全24巻・別巻1巻)の刊行がはじまりました。もちろん私は、病院の近くの書店に注文しました。

私は、毎月、書店の人が配達してくる作品集が待ち遠しくてなりませんでした。なかには初めて読む作品もありました。そんな作品に出合うといっそうときめいたものです。また、作品集には、さまざまな人たちの解説が付録の小冊子で入っていて、それも楽しみでした。

当時、隣のベットには、大月書店のマルクス・エンゲルス全集を読んでいた年上の学生がいましたが、私の場合は、”マルエン”より五木寛之だったのです。新左翼運動が盛んな頃、五木寛之の作品を「反スタ(反スターリニズム)小説」と評する向きもありましたが、私はそんなことはどうだっていいと思いました。私は、五木寛之によって鈴木いづみや堤玲子や稲垣足穂などを知り、彼らの作品も読んでいたのです。

ちなみに、隣の学生は、「再生不良性貧血」かなにか「血を造ることができない」病気にかかっていたのですが、私が退院したあとに、短い生涯を終えたという話を同じ病院で医師をしていた叔父から聞きました。私は、その話を聞いたとき、なんと無念だったろうと思いました。そして、いつも週末に見舞いに訪れていた彼の恋人のことを思い浮かべ、彼女はどんなに悲嘆に暮れたことだろうと思いました。

70年代の『戒厳令の夜』以降は、私も五木作品を同時代的に読むことができましたが、しかし、80年代に入ると、徐々に読むことも少なくなりました。ただ、『大河の一滴』が出たとき、ちょうど私も仏教に興味をもっていましたので、久しぶりに再会したような感じがありました。しかし、それも一時的で、その後は再び読むこともなくなりました。

私にとって、初期の五木作品は、午後の陽光を浴びてキラキラ輝いていた別府の海の風景と重なるものがあります。私は学校の帰り、いつも坂の上からその風景を眺めていたのでした。あの頃、どうしてあんなに何事にもときめいていたんだろうと思います。

私は、五木寛之氏と同じロシア文学科に行きたくて、同じようにゴーリキーの『私の大学』を携えて上京したものの、思いは叶わず、病気をして失意のまま帰省し入院生活を送っていたのです。

入院していたとき、私は、深夜、よくベットに腰かけ窓の外を眺めていたのですが、その姿を見た看護婦さんたちは、私が泣いていると思っていたそうです。実際は泣いてはいなかったのですが、深刻な病気を抱えていた私が、文字通り夢も希望もない状態にいたのはたしかでした。そのとき、いつも隣にあったのが五木寛之の本でした。

現在、私は、たまたま五木寛之氏と同じ東急東横線の3つ隣の駅に住んでいるのですが、時折、氏の住まいがある駅を通るとき、五木寛之を読みふけっていたあの頃を思い出すことがあります。考えてみれば、五木寛之氏も今年で83才になるのです。なんと多くの時間が流れ、なんと遠くまでやってきたんだろうと思います。

熱ありて咳やまぬなり大暑の日 友の手紙封切らぬまま

帰るべき家持たぬ孤老の足音 今宵も聞こへり 盂蘭盆さみし

裏山で縊死せし女のベットには 白きマリア像転がりており

(前も紹介しましたが)これらは、当時、寺山修司を真似て作った歌です。

よく若いときにしか読めない小説があると言われますが、私にとって五木寛之の小説は、こんなせつないような哀しいような青春の思い出とともにあるのでした。
2015.06.05 Fri l 本・文芸 l top ▲
女性たちの貧困


NHK「女性の貧困」取材班『女性たちの貧困 ”新たな連鎖”の衝撃』(幻冬舎)を読みました。本書は、女性たちの貧困を取り上げた「クローズアップ現代」や「NHKスペシャル」などで、放送できなかった取材内容やエピソードをスタッフたちがまとめたものです。

渋谷や新宿や池袋の駅前などで、若い女性がキャリーバッグを引いて歩いているのをよく目にします。もちろん、その多くは仕事や学校やイベントのために東京にやってきた女性たちなのでしょう。しかし、番組のスタッフが夜の新宿で、彼女たちに声をかけて話を聞くと、「家賃が払えず、携帯電話だけを頼りに、深夜営業の店を渡り歩く女性が数多くいることがわかってきた」そうです。

 街でよく見かけるキャリーバッグを転がす少女たち。
 ファーストフード店や、ファミリーレストラン、カフェで見かける携帯電話を充電する少女たち。
 今回の取材を始めるまでは、特に気にとめることもなかった日常の風景だった。しかし、実際に、こうした女性たちに話を聞いてみると、その背景には、貧困、経済的な困窮という現実があり、そこから逃れようと必死にもがく姿が、漂流という形になって現れているのだと感じられた。


新宿駅近くのあるネットカフェでは、定員の7割が長期で利用する女性なのだとか。また、行政との交渉で住民票を置くことが認められた別の店では、小学生の女の子を含む母子3人が2年間店で寝泊まりしているという、衝撃的な事例が紹介されていました。

彼女たちは、化粧して身ぎれいにしているので、一見そんなに困っているようには見えないのです。だから、彼女たちのことを「見えない貧困」と言うのだそうです。

「キャリーバッグと携帯電話だけを頼りに街をさまよう少女たち」。そんな彼女たちの背景にあるのが、親の貧困です。

私も昔、「風俗」で働く若い女性たちに話を聞いたことがありますが、そのなかでよく耳にしたのは、きょうだいが多くて貧乏、父親が病気あるいは失業中、母子家庭でまだ幼い妹や弟がいるなど、経済的に「家族には頼れない」事情でした。また、メンヘラの傾向がある子も多いように思いました。もちろん、女子高生のあこがれの職業の上位にキャバ嬢が入るなど、若い女性たちのなかで「風俗」への敷居が低くなっているのは事実ですが、だからと言って「楽でお金が稼げるから」というような、私たちが想像しがちな「軽い」ものばかりではないのです。

一方で、「風俗」が経済的に困窮する若いシングルマザーの受け皿になっているという現実もあります。本書でも、「セーフティネットとしての『風俗』」と題して、報道局の女性記者がその現実を報告していました。

取材したデルヘル店では、シングルマザーのために、寮だけでなく託児所まで用意しているのだそうです。

 就労、育児支援、居住。働くことを余儀なくされたシングルマザーにとって、生活に欠かせない三つの要素だ。行政に頼ろうとすると、いくつもの担当課をまたぎ、それぞれの手続きを進めなくてはいけない。しかし、ここでは、生活するための必要な環境や支援がワンストップで手に入るのだ。


専門家は、番組のなかで、これを「社会保障の敗北」と表現したのでした。

厚生労働省の専門部会では、年収200万円未満を「生活保護に至るリスクのある経済困窮状態」と位置づけているのですが、非正規雇用の若年女性(15~34歳)のなかで年収200万円未満の収入しかない人は、289万人もいるそうです(2012年)。また、「勤労世代」(20歳~64歳)の1人暮らしの女性の32.1%、未成年の子どもがいる母子世帯の57.6%が貧困状態にあるのだそうです。

今の社会保障は、よく言われることですが、結婚して家庭を作り、世帯主の男性の収入やあるいは共稼ぎによって「文化的な生活」を営むことを前提とした家庭単位、家族単位のものです。でも、離婚率や生涯未婚率の上昇で、その前提そのものが既に現実的ではなくなっているのです。

高齢者世帯のなかで、単身世帯の貧困率が高いのも、年金二人分と一人分の金額を考えれば、誰でも理解できる話ではないでしょうか。それは、シングルマザーの場合も同じです。離婚しても、実際に養育費を受け取っているのはわずか20%にすぎないという現実。そのため、家計を補助するためにパートやアルバイトに出ていたのが、離婚した途端、そのパートやアルバイトの収入で生活することを余儀なくされるのです。とりわけ子供に手がかかり経済力に乏しい20代のシングルマザーにおいては、相対的貧困率がなんと80%にも達するのだそうです。

当然、親の貧困は子どもの貧困へとつながっていきます。OECDのレポートによれば、ひとり親世帯のなかで、親が働いている世帯の子どもの貧困率は54.6%で、加盟国34カ国中、とびぬけて高いのだそうです。これが、先進国で最悪と言われるこの国の格差社会の現実なのです。

普天間移設問題に象徴されるように、アメリカの言いなりになることが「愛国」であるというようなゆがんだ(倒錯した)「愛国」主義と”テレビ東京的慰撫史観”で自演乙するだけの「宰相A」やネトウヨには、NHKの一連の番組も「反日」に映るのかもしれませんが、私は、この現実を考えるとき、日本はホントに豊かなんだろうかと思わざるをえませんでした。本書で言うとおり、私たちは、「見えない貧困」と言いながら、ホントは見てないだけではないのか。ネトウヨと同じように、見ようとしてないだけではないのか。

人並みのスタートラインに立つことさえできない貧困の世代連鎖。「女性が輝く社会」などという官製版やりがい搾取のようなスローガンの一方で、労働市場では相変わらず弱い立場に置かれている女性たち。本書が指摘した貧困は、私たちのすぐ身近にあるのです。もとより、私たち自身にとっても、決して他人事ではないはずです。

本書の最後に、「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターのつぎのようなことばが紹介されていました。

「自分のことを思い返しても、十代から二十代の前半の時代は、夢や希望にあふれる時期でした。時につらいことがあっても、憧れの人について友人ととどめもなく語り合ったりして、他愛のないことでも笑っていられる、人生の中でもキラキラ輝いている時期だと思います。その人生のスタート地点ともいえるときに、すでに夢や希望が失われる社会とはどんな社会なのでしょうか」



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2015.04.08 Wed l 本・文芸 l top ▲
宰相A


前の記事でもチラッと触れていますが、田中慎弥の新作『宰相A』(新潮社)を読みました。

私は、あの田中慎弥氏がどうしてこんな小説を書いたのだろう、と最初は戸惑いました。ところが、『宰相A』を読んで以来、テレビで総理大臣のアベシンゾウ氏が国会答弁をしている姿などを目にするたびに、やたらこの小説が思い出されるのでした。

『宰相A』に関連した記事で、私が読んだのは以下の2つですが、いづれの記事も、文学云々よりアベシンゾウ氏と小説の「宰相A」を重ねることに重点が置かれた内容になっていました。つまり、作者と同郷の実在の政治家をモデルにしたディストピア小説という読み方をしているのです。

リテラ
安倍首相のモデル小説を出版! あの芥川賞作家が本人に会った時に感じた弱さと危うさ

朝日新聞デジタル
いま「宰相A」と対峙する 田中慎弥さんの新作、舞台は「もう一つの日本」

小説家の「私」は、9月のある日、30年前に亡くなった母の墓参りに出かけます。「このところ小説のネタが尽きていた」「私」は、「母の墓に手を合わでもすれば何かアイデアが出てくるかもしれない、たとえ何も出てこないにしろ、初めての墓参りという事実を、母の思い出を混じえて描写すれば、圧倒的な評価は得られないまでも作家としての浮上の足がかりには十分なるのではないか」と考えたのでした。

しかし、母の墓がある町の駅に降り立った「私」は、奇妙な光景を目にします。駅のアナウンスも英語で、駅の構内を行き交う人たちも電車の乗客も、みんなアングロサクソン系の外人なのです。彼らは、同じ緑色の軍服風の制服を着ていました。しかも驚くことに、自分たちのことを「日本人」だと言います。やがて「私」は、身分を証明するN・P(ナショナルパス)をもってなかったために、「侵入者」として軍に引き渡され連行されることになります。その連行された先が、アングロサクソン系の日本人が支配する「日本国」なのでした。

「日本国」の公用語は英語で、日本語は「旧日本語」と呼ばれています。「日本国」は、「完全なる民主主義国であり、国民の国への関わり方も非常に積極的で、選挙の投票率は国会、地方を問わずしばしば百パーセント近くに達する。与党は現在の日本が成立して以降一貫して政権を任されており、与党はそれに応えて国民を完全に統治している」全体主義国家です。そして、戦争主義的世界的平和主義の精神を掲げ、世界各地で平和的民主主義的戦争をおこなっているのでした。

旧日本人は選挙権も与えられず、曽野綾子氏があこがれる南アフリカのアパルトヘイトと同じように、居住区に閉じ込められ、そのなかで生活することを強制されています。ただ、首相だけは、旧日本人を封じ込めるために、「旧日本人の中から頭脳、人格及び民主国日本への忠誠に秀でた者が選ばれる」慣例になっていました。そして、現在の傀儡が「宰相A」なのでした。

中央から分けた髪を生え際から上へはね上げて固めている。白髪は数えられるくらい。眉は濃く、やや下がっている目許は鼻とともにくっきりとしているが、下を見ているので、濃い睫に遮られて眼球は見えない。俯いているためだけでなく恐らくもともとの皮膚が全体的にたるんでいるために、見た目は陰惨だ。何か果たさねばならない役割があるのに能力が届かず、そのことが反って懸命な態度となって表れている感じで、健気な印象さえある。


「(略)あれでもだいぶ体調がいい方でしょう。何しろひどく悪くなって一旦は首相を辞めたくらいでしたから。特効薬が見つかったとかで復帰してはきましたが、完治はしていません。」
「なんの病気なんです?」
(略)
 カメラが引いて分ったことがもう一つ。よく見るとマイクが置かれた演壇の前板がそっくり外されていて、そこから、緑の生地に覆われた何かがミサイルの尖端部の形そっくりに突き出ている。首相の腹、にしては位置が低過ぎる。顔をほんの少し斜めうしろに傾けて、
「あの、出っ張ってるところって、ひょっとして。」
「ええ、局部です。」
「臨月の妊婦くらいありますよ。」
「あれが首相の病気です。一度は辞任して治療を続けていたのですが、いっそこのままやってみてはどうかとの軍部からの要請で復帰したんです。」


滑稽な独裁者。無能であるがゆえに精一杯虚勢を張って強い政治家=「愛国」者を演じる独裁者。でも、それは、対米従属の思想を唯一無二のものとする、「愛国」と「売国」が転倒した戦後の背理を体現する哀しき政治家の姿です。アメリカの言いなりになることが「愛国」であるという、この倒錯したナショナリズム。円安株高も、TPPと同様、国を売るカラクリでしかありません(おっと、そんなことはこの小説には書いていませんが)。

ホラン千秋は、帯につぎのような推薦文を寄せていました。

これは夢ではない、現実だ。
社会を疑うことさえ面倒になった日本人。
見て見ぬ振りをしてきた「日本」がここにある。


滑稽な独裁者は、トリックスターでもあります。ナヨナヨとした女性的な身のこなしの彼は、拳を胸の前に小さく振り上げながら、悪い冗談みたいな話をこともなげにつぎつぎと現実化しています。まるで「もうひとつの日本」が現実のなかでも進行しているかのようです。逆にそれが、滑稽で無能な彼の”強み”と言うべきなのかもしれません。

小説のほうは、居住区の旧日本人たちから救世主の再来と見なされた「私」が、やがて反「日」解放闘争のリーダーに祭り上げられ、過酷な役割を担うことになるのでした。

一方、私は、この『宰相A』には、同郷の政治家をカルカチュアライズするだけでなく、作家としての覚悟のようなものも表現されているように思いました。それは、愚直なまでに”文学の可能性”を問う姿勢です。それが、「さ、いくらでも書けばいいの。ただし途中でやめちゃ駄目。ずっとずっと、たとえどんなに大変なことがあっても惨めな目に遭っても書き続けなさい」と母親から言われた「私」の作家としての覚悟なのでしょう。

「私」は、三島由紀夫について、「また小説を書かなければならないのだ。いつまでも死んでいる場合じゃない。死ぬのは作家の仕事じゃない。」と言います。さらに、「どうしてこの世は、大きなお城と立派な制服が大好きな」カフカの『城』のバルナバスばかりなんだろう、と嘆きます。そして、「しっかりしろ、作家。目と耳を塞ぐな。これはお前が書いている世界だ。何を怖がってる? 作家の想像力はそんなに貧しいのか? 紙と鉛筆(それが目に見えないのがどうした?)を使うお前の仕事はこの程度の現実にも簡単に打ち負かされるものなのか?」と自問するのでした。

どんなことばでもいいのです。どんな稚拙でつたないことばであってもいい。大事なのは、政治や文学や批評の世界で流通している制度化されたことばではなく、自分のことばなのです。文壇や論壇などとはまったく無縁な、たとえばヘイト・スピーチに対抗する路上の激しいことばのやり取りのようななかにこそ、あたらしいことばが生まれる可能性があるのだと思います。そのあたらしいことばからあたらしい知性も生まれるはずです。制度化されたことばでいくら反知性的な風潮を嘆いても、なにもはじまらないのです。それは、文学も同じでしょう。

純文学の作家にとって冒険とも言えるこの小説は、そんなあたらしいことばを求める覚悟の表明のようにも読めました。

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「共食い」
Coward
2015.03.27 Fri l 本・文芸 l top ▲
若い女性がみずからの身体的な価値(女としての価値)をお金で換算するのは、資本主義社会では当たり前のことです。資本主義とはそういう制度なのです。ゆりかごから墓場までお金なしではなにひとつ手に入れることができないのです。この世のありとあらゆるものは、それこそ一木一草に至るまでお金で換算される、それが私たちが生きる資本主義という社会なのです。

もちろん、”愛”も然りです。”愛”はお金では買えないけど(買えるときもあるけど)、お金をかければ「より煌めく」と著者の鈴木涼美は言います。

 人は愛周辺にオカネがからむと何かと人を批判したがるから、セックスは神聖化するくせに、オカネをもらってすると怒られるし、ホストクラブで何十万円もかけて恋愛ごっこするとほとんど廃人扱いされるし、オカネのためにスキとか言うと、信じられないと言わんばかりのすごい目で睨まれる。でも本当の愛なんて、オカネをかければより煌めくのに。


貪欲な資本主義は、さらに「女子高生」という属性に性的な意味を付与し、お金に換算するようになったのでした。つまり、「女子高生」が記号化し商品になったのです。それは、この社会が「死」をも商品化していることを考えれば、別に驚くことではありません。1983年生まれの著者もまた、そんな女子高生が商品化された援交・ブルセラ以後の世代の人間で、最初から自分たちの身体に商品的価値があることを知っているのでした。

際限のない欲望と差異化、その先に待っているのは”特別な自分”です。でも、その”特別な自分”は、たとえホストに入れあげても、イタくない自分でなければなりません。「私たちには、絶対に死ぬまで捨てる気にならない自負がある。私たちの身体は、かつてオトコたちがひと月に何百万円も使う価値があったことだ」と書く著者ですが、一方で、そんな自分を冷静な目で見ることも忘れないのでした。みずからの身体を夜の世界やAVに売って手に入れたお金で、つぎになにを手に入れたいのか。なにを手に入れたのか。それがこの本のキモです。

なんというタイトルだったか、「愛をください」という歌詞の歌がありましたが、私はこの本を読むにつけ、「愛をください」というリフレインが聞こえてくるような気がしました。「女という価値を物質に落として、分裂を繰り返してきた」と著者も書いていましたが、それが資本主義的な価値(貨幣の物神性)に縛られた私たちの生の隘路でもあるのでしょう。

 私たちは100万ドルの価値がある身体を、資本主義的目的遂行のためにいつでも市場にさらすことができた。それはオカネだけじゃなく、他のものじゃ代えのきかない時間を私たちに与えてくれた。(略)
 問題は、そこで得られるオカネや悦楽が、魂を汚すに値するかどうかであって、いいか悪いかではない。好きな人にゲロを吐かせてまで手に入れたいものだって私たちにはあると思う。言い換えれば、少なくともそれに値すると思えないんであれば、そんなはした金、受け取らないほうがいい。


私は、女三人男一人のきょうだいのなかで育ちましたので、女のわけのわからなさや面倒くささは、子どもの頃から痛いほど感じていました。そして、長じた今、仲がいいのか悪いのかわからない彼女たちが、お互いを批評するその鋭い視点に感心し驚くことが多々あります。関係性を通してしか自己を確認できない女性の同性を見る目は、たとえ姉妹と言えども残酷です。

一流大学を出て一流会社で働いているOLだって、そうでもないOLだって、将来性のある男と結婚した主婦だって、そうでもない主婦だって、ある年齢以下の女性たちは、恋愛や仕事やその他諸々の局面において、大なり小なりみずからの身体的な価値をお金で換算した経験があるはずです。それは、女性のほうがみずからの欲望に忠実で、ゆえに資本主義の原理に忠実だからではないでしょうか。

著者が言うように、みんな「狂っている」のです。下北沢の通りを歩く「文化系女子」も、同僚と結婚して下高井戸に家を買った郵便局員も、「平凡」だけど「狂っている」。そうでなければ、この生き馬の目をぬくような資本主義の世の中を生きぬくことなんてできないでしょう。「愛をください」と人知れず叫びつづけるのも、そこに「狂っている」自分がいるからでしょう。

 たしかにオカネやモノをくれて私を泊めたオトコたちが枕元でささやいたかわいいよ、とかっていう言葉は、私にとって心震える本当の愛、とは程遠いものだけど、だからと言って、別に現金をくれるわけじゃない彼氏が同じ枕元でくれた名もなき熱っぽい詩がまさにそうであるかというと微妙だ。でも、複雑にこんがらがった社会で、カメラの前で悩ましげなポーズをしていた過去を抱えながら、女が生きていくのはそれなりに体力がいるので、私たちはその名もなき熱っぽい詩を、時々どうしても、少なくとも交通費の20万円よりも、欲しくなるのもまた事実だ。だからそれをぼやっとしたまま愛とか叫ぶのであれば、それは脆い上に期待はずれにつまらないものだけど、それがなければ生きていけないかもな、とも思う。



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小倉千加子・中村うさぎ『幸福論』
2015.03.06 Fri l 本・文芸 l top ▲
昨日、買いたい本があったので池袋のリブロに行ったのですが、帰ってネットを見ていたら、リブロ池袋店が6月で閉店というニュースが出ていたのでびっくりしました。

セゾングループは、経営破たん後、バラバラに解体され叩き売られていますが、リブロは取次大手の日販(私も若い頃、当時お茶の水にあった日販でアルバイトした経験があります)の傘下になっています。ちなみに、多店舗展開する大手の書店は、実質的に日販かトーハン(東販)かいづれかに系列化されており、日販とトーハンの市場占拠率は75%にも達するそうです。これでは新刊本が大手の書店にしか並ばないのは当然で、「言論・表現の自由」とのカラミでとりだたされる”出版文化”なるものも、このようなゆがんだ流通システムによって成り立っているのが現実なのです。

余談ですが、今日、『週刊新潮』が川崎の中学生リンチ殺人の主犯の少年の実名と顔写真を掲載しているという記事がありましたが、一方で『週刊新潮』や『週刊文春』は、『絢愛』捏造疑惑の百田尚樹やアパルトヘイト容認発言の曽野綾子を批判することはいっさいないのです。権力を持たず、みずからと利害のない一般人であれば、口を極めてののしり、人権などどこ吹く風とばかりにあることないこと書き連ねるのですが、作家センセイに対してはどんなスキャンダルでも見て見ぬふりをするのが常です。

また、作家センセンたちも同様で、『新潮』や『文春』の下劣な”ためにする”記事に対して、いつも見て見ぬふりをするだけです。ネットに跋扈する”私刑”は、『週刊新潮』や『週刊文春』のやり方をただコピーしているだけですが、普段リベラルな発言をしている作家センセイたちでも、新潮や文春の姿勢を批判しているのを見たことがありません。それどころか、業界では、新潮社から本を出すことがステータスで、物書きとして一流の証なのだそうです。

リブロ閉店については、以下のような内部事情を伝える記事がありました。

 現在のリブロは取り次ぎ大手、日本出版販売(日販)の子会社。閉店は業績の問題ではないとも言われ、毎日新聞は、西武百貨店を傘下に持つセブン&ホールディングスの鈴木敏文会長が日販のライバル・トーハン出身であり、いずれ撤退を迫られるだろうという指摘があったことを挙げている。

Yahoo!ニュース
「リブロ池袋本店が閉店へ」 惜しむ声がネットに広がる(ITmedia ニュース)


どうやら大家の西武百貨店から、テナントの契約更新を断られたのが真相のようです。かつて同じ釜の飯を食っていた西武百貨店から出て行けと言われたのです。なんだかセゾン(文化)の末路を象徴するような話で、一家離散の悲哀を覚えてなりません。

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2015.03.04 Wed l 本・文芸 l top ▲
33年後のなんとなく、クリスタル


田中康夫の新作『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社)を読みました。また、この機会に、『なんとなく、クリスタル』(河出文庫)も読み返してみました。

『なんとなく、クリスタル』が刊行されたのは1981年で、私がこの作品を最初に読んだのは、まだ九州にいた頃です。そのためか、当時はそれほどの感銘は受けませんでした。もちろん、メディアでは大きな話題になりましたが、田舎暮らしの私にはピンときませんでした。

私が再度上京して、六本木にあるポストカードを輸入する会社に勤めはじめたのは1986年で、『なんクリ』から5年後のことです。それで、今あらためて『なんクリ』を読むと、最初に読んだときとまるで違った印象がありました。主人公の由利は、青学に通いながらモデルの仕事をしているのですが、当時、私もモデルをしていたガールフレンドがいましたので、『なんクリ』のような”時代の気分”とまったく無縁ではありませんでした。しかし、やがてバブルが崩壊し、社会の様相は一変します。

『なんクリ』は、大学のテニスクラブの仲間と一緒に表参道をランニングする由利のつぎのようなシーンで終わります。

 私は、クラブの連中と一緒に走り出した。早苗も私の横で掛け声を出しながら走っている。
 青山通りと表参道との交差点に近付いた。
 ちょうどその時、交差点のところにある地下鉄の出口から、品のいい女の人が出てくるのが見えた。シャネルの白いワンピースを、その人は着ているみたいだった。フランスのファッション雑誌に載っていた、シャネルのコレクションと同じものだったから、遠くからでもすぐにわかった。
 横断歩道ですれ違うと、かすかにゲランの香水のかおりがした。
 三十二、三歳の素敵な奥様、という感じだった。
 <あと十年たったら、私はどうなっているんだろう>
 下り坂の表参道を走りながら考えた。
(略)
 私は、まだモデルを続けているだろうか。
 三十代になっても、仕事のできるモデルになっていたい。

 <三十代になった時、シャネルのスーツが似合う雰囲気をもった女性になりたい>
 私は、明治通りとの交差点を通り過ぎて、上り坂になった表参道を走り続ける。
 手の甲で額の汗をぬぐうと、クラブ・ハウスでつけてきた、ディオリッシモのさわやかなかおりが、汗のにおいとまざりあった。


ところが、小説が終わったあと、つぎのページに唐突に、「人口問題審議会・出生力動向に関する特別委員会報告」の合計出生比率(一人の女子が出産年齢の間に何人の子供を産むかという比率)の予想値と、「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年度厚生白書)」の六十五歳以上の老年人口比率と厚生年金保険料の予想値が添付されているのでした。

『33年後のなんとなく、クリスタル』は、字義通りその33年後の話です。ただ、『33年後』には、『なんクリ』にはいなかった「僕」=「ヤスオ」が登場します。その「僕」がFacebookで由利と久しぶりに再会するのでした。

『33年後』と『なんクリ』の違いは、「僕」=「ヤスオ」の登場だけではありません。『なんクリ』で話題を呼んだ「注釈」もかなり違っています。『なんクリ』のそれは、東京の最先端の風俗を批評するものでしたが、『33年後』のそれは、社会・政治的な事柄に対するものが多く含まれていました。そこには、言うまでもなく『なんクリ』以後、阪神大震災のボランティアを経て政治の世界に足を踏み入れた著者の体験が反映されているのでしょう。

私は、『なんクリ』の解説(河出文庫版)で高橋源一郎が書いているように、現代風俗を批評することをとおして爛熟した資本主義社会の現在(いま)を対象化した作者の姿勢に共感するところがありますし、その「注釈」の真骨頂とも言うべき『噂の真相』に連載されていた「東京ペログリ日記」を愛読していましたので、『33年後』の”生真面目さ”に対しては、どこか違和感を覚えざるをえませんでした。

既に50代後半になった『なんクリ』の登場人物たち。私は、もう一度、初老の域に入った「ペログリ日記」を読みたいと思いました。高橋源一郎は、解説のなかで、『なんクリ』はマルクスの「資本論」に比肩するような書物だと書いていましたが、私は、「ペログリ日記」こそ永井荷風の「断腸亭日乗」に比肩するような日記文学の傑作になるように思うのです。

出生率は政府の甘い予想をあざ笑うかのように低下の一途を辿り、少子化が進んでいます。また、一方で、老年人口比率は急カーブを描いて上昇し、超高齢化社会を迎えています。

私が現在住んでいる東横線沿線の街でも、平日の昼間の商店街の舗道は老人の姿が目立ちます。カートを押して背を丸めおぼつかない足取りで舗道を歩いている老人たち。三つある商店街のひとつは既に解散し、街灯の管理をどうするか頭を悩ましているそうです。それが、かつてANAの女子寮があった街の現在の姿です。

 <あと十年たったら、私はどうなっているんだろう>と思っていた由利は、33年後、つぎのように言います。

「『微力だけど無力じゃない』って言葉を信じたいの」。醍醐での由利の科白が頭を過る。
「黄昏時って案外、好きよ。だって、夕焼けの名残りの赤みって、どことなく夜明けの感じと似ているでしょ。たまたま西の空に拡がるから、もの哀しく感じちゃうけど、時間も方角も判らないまま、ずうっと目隠しされていたのをパッと外されたら、わぁっ、東の空が明るくなってきたと思うかもしれないでしょ」
 由利は悪戯っぽく微笑んだ。


いくら中国や韓国に対して意気がってみせても、日本がたそがれていく国であることには変わりがありません。私たちは、もっとその事実を直視すべきではないか。誤解を恐れずに言えば、絶望することの意味を知る必要があるのではないか。自分の人生を含めて、もっと生きる哀しみやせつなさを大事にすべきではないか。

武田泰淳は、『目まいのする散歩』(1976年)のなかで、最新のファッションで表参道を闊歩する若者たちを見て、「何と沢山の苦悩が、そのあたりの空気に浮遊していることだろう」と書いていましたが、そうやって表参道を闊歩していた若者たちも、もう60歳前後です。そのうち「高齢化」と「貧困」の苦悩を背負うことになるはずです。時は容赦なくすぎていくのです。

背を丸めおぼつかない足取りで舗道を歩く自分の姿なんて想像したくもないですが、それも遠い先の話ではないのです。老いることは、たしかにたそがれることかもしれませんが、しかし、「誰(た)そ彼」=黄昏にも静かに時を見つめるロマンティックな響きだってあるのです。
2014.12.12 Fri l 本・文芸 l top ▲
メディアミックス化する日本


既に「ネットの『責任』と『倫理』」でも触れましたが、大塚英志著・『メディアミックス化する日本』(イースト新書)を読みました。「あとがき」によれば、本書は、今年の夏に東京大学大学院情報学環で開かれた「角川文化振興財団寄付講座」のなかで、受講のために来日した外国人向けにおこなった「裏ゼミ」の講義を書き起こしたものだそうです。

KADOKAWAとドワンゴの合併によってますます進化するメディアミックス。しかし、同じ角川でもかつて角川春樹がおこなったものと今のKADOKAWAの総帥・角川歴彦がおこなっているものは、似て非なるものだと著者は言います。角川春樹がおこなったのは、まず「原作」があって、それを映画化し相乗効果を狙う典型的なタイアップ商法でした。それは、メディアミックスではなく「トランスメディア」だと言います。

一方、角川歴彦のそれは、一つの「世界観」を作り、そこから多様な作品を生み出すTRPGの考え方に基づいたものです。ゆえに「角川歴彦型メディアミックス」はポストモダン的と言われるのですが、しかし、著者によれば、この「多元的なストーリーテリングの仕組み」は、中世の「説教師」の口頭構成法や江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃や能や講談など、大衆文化にもともと内在していたのだとか。講談速記本を出版することから出発した(大日本雄弁会)講談社の成り立ちに示されるように、「固有の作者」や「著作権」というのは、近代の大衆メディアから派生的に生まれたものにすぎないのです。

江戸時代の大衆表現には『世界網目』という「世界観」の種本があり、そこから「趣向」に沿ってさまざまな物語が立ちあげられたのです。さらに受け手もそれに参画し、「生産」と「消費」が溶け合っていくシステムを著者は「物語消費」と呼ぶのでした。現代におけるその典型例がアニメや音楽などの「二次創作」です。KADOKAWAとドワンゴの合併は、ユーザー(ファン)の「二次創作」への課金を企む(つまり、プラットフォームを提供することで、ロイヤリティを取ってコンテンツを作成させる)、「吐き気もする」ようなシステムだと著者は批判するのでした。

KADOKAWAでは、「著者」と「編集者」が、KADOKAWAに内在したある種の物語消費論的なシステムの中で「メディアミックス」の名の元にコンテンツをこれまで制作してきたが、そこにユーザーのコンテンツを吸い上げる「ニコ動」が一体化した時、そこに成立するのは、より大きなプロもアマも包摂する巨大なコンテンツの生成システムである。なるほど、これまでも制作は見えない制度によって呪縛されてきた。そしてその呪縛の所在を示すのが批評であり、格闘するのが文学でもあった。しかしこの不可視の制度が外部化し、ユーザーサービスとしての装いを施すことで、ユーザーの些細な水準での徹底した快適さが提供され、その環境の中で人は消費行動としての創造性を「快適に」発露することになる。


そして、KADOKAWAとドワンゴの合併がもたらすのは、「『快適』に想像力が管理された未来である」と言います。そんな「趣向」の変化は、「若者の『教養』がマルクス主義からアニメおたく的文化に急激に変化した」ことと無縁ではないでしょう。今の若者たちが政治や宗教や文学や社会などにコンタクトする際、そのベースになるのはアニメやRPGなどによって培われた「サブカルチャー的想像力」なのです。純文学や左翼的言説が見向きもされなくなったのもむべなるかなです。

それはまた、現在(いま)の反知性主義が跋扈する風潮においても同様です。偽史カルト(歴史修正主義)は、ネトウヨだけの話ではないのです。安倍首相のFacebookでの発言などを見るにつけ、安倍内閣が「ネトウヨ内閣」と言われるのはあながち的外れではないような気さえします。安倍首相に代表されるような、中国や韓国によって正しい歴史が歪められたと主張する「被害者史観」(その裏返しとしての「慰撫史観」)とオウム真理教は地つづきなのです。彼らに共通するのが偽史カルトです。

著者は、「受け手側の創作性を発動させて自発的に<大きな物語>に回収していく仕組み、つまり角川歴彦型メディアミックスとしてオウムはあった」と言います。

 少し前までなら、作家になるためには新人賞などを経由して「小説家」としてメディアに参画する権利を有する必要があり、その基準の妥当性はさておき、完全なコピーアンドペーストではない程度の創作性は認められていました。しかし、物語消費的なメディアミックスというものがあれば、そこに広く誰でも参加でき、擬似的な創作というものを行う環境が与えられるのです。
 このような擬似的な創作をしながら世界の中に参入していくことは、「固有の私になりたい」と「大きな物語の中に抱かれたい」という、近代的な二つの欲望を何らかのやり方で満たすことなのだと言えます。


でも、これはあくまで「擬似的な創作」にすぎないのです。「物語消費的なメディアミックス」は、そうやって消費しながらひとつの世界観に回収していく装置なのです。

もちろん、それは、YouTubeやニコ動の「二次創作」だけでなく、ネットの書き込み全般に言えることです。彼らが政治や社会に対して主張するその根拠に、本を読んだり勉強したりして得たいわゆる「古典的な教養」は皆無です。すべてはネットのパクリ(口真似)でしかないのです。だからこそ彼らはカルト化していかざるを得ないのだとも言えるのです。オウムがしたことは、「架空の歴史と本当の歴史を交換しようとするテロ」であったと著者は言いますが、もし今のネット住人たちが80年代にタイムスリップしたなら、オウムが捏造する「大きな物語」にからめとられるのは間違いないでしょう。

ヘイト・スピーチの団体の幹部がニューエイジ系の雑誌の編集者であった事実や、幹部たちが知り合ったのは自己改造セミナーだったという噂などを知るにつけ、ヘイト・スピーチはカルト宗教の問題でもあるのだということをあらためて痛感させられるのでした。もちろんそこには、口真似しかできない「架空の私」が伏在しているはずです。

「ニューエイジ」や「自己改造セミナー」とヘイト・スピーチ、それらを架橋しているのが偽史カルトであり「サブカルチャー的想像力」です。「架空の私」を「架空の歴史」に飛躍させる、それが「セカイ系」なるものの内実です。その装置(仕掛け)として「おたく騙し」の「角川歴彦型(物語消費的)メディアミックス」があるのだと著者は言うのでした。「角川歴彦型メディアミック」が政治や宗教の動員ツールとしていくらでも転用が可能だと言うのは、そのとおりでしょう。

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2014.11.14 Fri l 本・文芸 l top ▲
愛と暴力と戦後とその後


著者の赤坂真理は、アメリカの歴史家ジョン・ダワーが著した『敗北を抱きしめて』という占領期研究の書名について、「抱きしめて」の原題”Embracing”には、日本語の「抱きしめる」よりもっと性的なニュアンスが強く、そこには「性的な含み」さえあると書いていました。

どうして日本人は、”昨日の敵”をあれほど愛したのか。

赤坂真理はそう問います。そして、日本国憲法や日米安保条約の文言のなかに、その甘美な関係を成り立たせている「欲望」のありかを探ろうとするのでした。

たとえば、「戦争を放棄する」の「放棄」は、原文では”renounce”という動詞ですが、これは「自発的に捨てる」というニュアンスが含まれているのだそうです。「他者の(引用者注:傍点あり)言葉で、『私はこれを自発的に捨てる』と言うことほど、倒錯的なことはない」「こういう単語が、私たちの憲法に、他者のしるしとして刻印されている」と。

「侵略戦争」ということばも然りです。東京裁判の起訴状では、”War of aggression”と書かれているのですが、”aggression”は「攻撃性」を意味することばであり、先制攻撃をかけた戦争、それが「侵略戦争」と訳されるのです。

1951年の日米安保条約にも、同じように二者の関係性が戦勝国のことばで、そして、戦勝国の論理で表現されているのでした。

”Japan desires a Security Treaty with the United States of America”
日本国は欲する / アメリカ合衆国との間に安全条約を結ぶことを

”Japan grants, and the United States of America accepts to dispose United States land, air ”
日本国は保証し、アメリカ合衆国を受け容れる / 陸、海、空の武力を日本国内と周辺に配置することを。


そして、赤坂真理は、つぎのように書きます。

 日本が欲し、アメリカ合衆国にお願いする。
 日本が保証し、アメリカ合衆国は受け容れる。
 決して、逆ではなく。
 それをアメリカ合衆国が、書く。
 他人の手で、ありもしない欲望を、自分の欲望として書かれること。まるで「共犯」めいた記述を、入れ子のような支配と被支配性。ほとんど男女関係のようだと思う。誘うもの、誘発されること。条約にここまで書かれるものなのか。いや、条約とはもともと関係の写し絵なのか。二者しか知らない直接の占領期の生々しさがここにある。そして、二者にしかわかりがたい、占領期の甘美さも、ここにある。


もちろん、それらは日本語に翻訳され日本語として解釈されます。その日本語のなかには、当然「漢字」も含まれています。「漢字」は、英語では”Chinese character”と言うそうで、文字通りそれは漢=中国の文字なのです。私たちの元に届くまでには、二重の翻訳が存在しているとも言えるのです。

 漢字はもともとは中国でも言葉が通じない人たちのための字だったらしい。広い国土で、放言同士が通じないような人たちが商売をするときの、読めなくても見ればわかる符牒であったらしい。そんな漢字を、日本人が日本語として、外国語の翻訳に使ったとき、実はかなり危険なことが起きたと思う。
 そして私たちはその上に自らを規定している。


私たちはただわかったつもりになっているだけではないのか。赤坂真理が言うように、私たちは、自らが告発されたことばを「私たちの言語に照らし、じっくり精査したことが、一度だってあったのか」。そもそも私たちは「私たちの言語」をもっているのか。

天皇を「元首」とする自民党の改憲案について、赤坂真理はこう書きます。

 けれど、権力を渡す気などさらさらないのに、「元首」である、と内外に向けて記述するのは、まずいだろう?
 しかし・・・。
 私はここではたと考え込んでしまった。
 それが、明治に日本国をつくり運営し記述した者の、したことではないのか?
 天皇権威を崇め、利用し、しかし実権を与えない。


それは誰も責任を取らない巧妙なシステムです。そんなこの国の近代を貫く「無責任体系」が、歴史修正主義という亡霊をよみがえらせる要因になっているのではないか。責任を取るべき人間が責任を取らずに、”昨日の敵”に取り入り、挙句の果てにはあの戦争は正しかったと言い出す。一方で、私たちには、戦死者より病死者や餓死者のほうがはるかに多かったあの無謀な戦争に、国民を駆り出した戦争指導者たちを告発することばさえもってないのです。

戦争に負けたにもかかわらず、甘美な幸福に包まれていたなんてこれ以上の「侮辱」があるでしょうか。しかも、その「侮辱」を旗印に「愛国」が叫ばれているのです。誰も責任を取らず、誰も「総括」しなかった。だから、戦争の暴力の残り香が連合赤軍やオウムを生み出したのだ、という著者の解釈は、そのとおりだと思いました。

「私たちは敗戦を忘れることにした。そして、他人の欲望を先読みして自分の欲望とすることに夢中になった」のです。それを対米従属と言ってしまえば簡単ですが、しかし、産経新聞に見られるように、ナショナリズムでさえ”対米従属「愛国」主義”とも言うべきゆがんだものにならざるを得ないほど、その”病理”は深刻なのです。

著者は、80年代のバブル期で「戦後は終わった」と書いていましたが、しかし、(何度も同じことをくり返しますが)戦後は終わってはいないし、はじまってもいないのです。あの戦争を「総括」しない限り、戦後は終わらないし、はじまりもしないのです。「敗戦を忘れることにする」ような(歴史に対する)不誠実な態度で、どうして戦後なんてあり得るだろうと思います。

>> 『永続敗戦論』
2014.09.21 Sun l 本・文芸 l top ▲
ブログの編集ページを見ていたら、当方のミスで、設定が「下書き」になったまま「公開」になってない記事が見つかりました。「保存」した日時は、2010年8月27日になっていましたので、ちょうど4年前の記事です。記事中にあるように、『日本の路地を旅する』のあとです。

ヘイト・スピーチは、決して今にはじまった問題ではないのです。ネットの書き込みを見ても、そのもの言いが、昔、私たちの上の世代が言っていたのとそっくり同じなのに驚かされます。つまり、差別のことばは、同じ構造のなかで連綿と受け継がれているのです。

それで、4年遅れになりましたが、あらためて本日付で記事をアップすることにしました(一部リンク切れを修正しました)。

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サンカの民と被差別の世界


『日本の路地を旅する』の流れで、五木寛之氏の『サンカの民と被差別の世界』(五木寛之 こころの新書・講談社)を読みました。私は、五木寛之氏が生まれた福岡県八女郡とは九州山脈をはさんでちょうど反対側の、大分県の山間の町で生まれ育ちましたので、やはり差別は身近にありました。門付けの芸人や物乞いを「カンジン」と呼んでいたのも同じです。

また、この本の中でも取り上げられていますが、同郷にサンカ小説で有名な三角寛がいましたので(三角寛は、池袋の文芸座を創設した人としても知られています)、サンカに対しても若い頃から興味をもっていました。

五木氏が本の中で書いていたように、田舎(農村)で家もなく土地もないような人達は、程度の差こそあれ、差別(蔑視)の対象になっていました。それは、言うまでもなく、定住して農業を営む在来の人間に対して、家も土地ももってない人間というのは、どこからかやってきた”よそ者”だったからでしょう。私の田舎でも、彼らの多くは山仕事をしたり山菜や川魚を取って、それを温泉旅館に売ったりして生計を立てていました。当然、生活は貧しくて、川岸や町はずれなどで、掘立小屋のような粗末な家に住んでいたのを覚えています。やがて高度成長の過程でみんな田舎を離れて行くのですが、私の中には、どうして彼らはこんな田舎に住み着いたんだろうという疑問がずっとありました。親に聞いても、よくわからないと言うのです。

五木氏は、「触穢(しょくえ)思想」の背景に「竹の文化」と「皮の文化」があると書いていましたが、大分県は竹の産地で竹工芸が盛んな土地でもあります。そんな地元の名産品の中にも、差別の歴史があることを知りました。

差別というのは、「差別はよくないのでやめましょう」「はい、やめます」というようなものではありません。いわんや、みずから負い目を背負って懺悔すればいいってものでもありません。私達にとって、差別というのは、やはり”乗り越えるべきもの”として”在る”のだと思います。なぜなら差別は、心の構造として、社会の構造として私達の中に”在る”からです。

一方で、差別問題の中に”同和利権”や”人権マフィア”のような負の部分が生まれ、そのために解放運動に失望して差別問題そのものに背を向ける人が多くなっているのも事実です。しかし、だからと言って、『日本の路地を旅する』でも書いているように、「路地の哀しみと苦悩」がなくなったわけではありません。

差別は歴史的な概念にすぎないと言えばそうなのですが、差別される当事者にとっては、そんな単純なものでないことは言うまでもありません。子どもの頃よく遊んでいた同級生にしても、普段は大人たちの陰口を除いて、差別なんてほとんど経験しなかったと思いますが、長じて結婚するような年齢になると、途端に差別の現実が立ち現われてくるのです。

大事なのは、差別の歴史を知ることとともに、そういった個々の人間の人生に投影された個別具体的な「路地の哀しみと苦悩」に思いを馳せ、それを少しでも共有することではないでしょうか。なによりそういった想像力をもつことだと思います。文学作品の中にも、『破戒』(島崎藤村)や『青年の環』(野間宏)や『死者の時』(井上光晴)や『枯木灘』(中上健次)など(個人的には堤玲子もいますが)、差別をとり上げた作品がありますが、その意味でも文学の役割は大きいのだと思います。

この本の中で紹介されていたサンカの末裔の方が書いた「サンカ研究の視座」という文章について、五木氏は、サンカの水平社宣言ではないかと書いていました。「それでも人間は生きんとした」、こういったことばのもつ重みを受けとめる感性を、私達が同じ人間としてもっているかどうかではないでしょうか。

 私の関心は一点、「なぜ人間がこの生き方を選んだか、あるいは選らばざるをえなかったのか」という疑問であり、サンカと呼ばれた側からの、その生き方の必然性に迫りたいという問題意識である。
 サンカ論は、「旅」「放浪」「漂泊」をキーワードとして、彼らの暮らしの特異性を都合よく切り取って、論じつくせるものではない。
 どのような要因が、「一所不在」すなわち「所有を断ち切る」という歴史的転回点に彼らを立たせたのか―。なぜそのような生活形態を自ら選択したのかという解明こそが、サンカ研究の視点ではないかと、私は考えている。
 それは数ある選択肢の中から、意気盛んに自ら選ぶといったロマンチックなものではない。歴史における支配の差別・弾圧が、苛酷なまでに死の淵、絶望の極みに人間を追いつめ、その時代を生きた多くの人間の怨嗟うずまく中で、生きる術をすべて奪われた者たちの、捨て身の抗いであったであろう。
 それでも人間は生きんとした。サンカ人の選択とは、「それでも生きねば」という生へのこだわりであったと私は考える。

2014.09.08 Mon l 本・文芸 l top ▲
永続敗戦論


たとえば、産経新聞(フジサンケイグループ)が掲げるナショナリズムは、”対米従属「愛国」主義”とでも言うべき非常に歪んだものですが、このような「親米保守」が依って立つグロテスクな戦後政治の構造を、白井聡氏は、「永続敗戦」と名付けたのでした。

敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二重性は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。
(『永続敗戦論』太田出版)


ゆえに、戦前的価値観を保守したい右派の政治勢力は、「戦後」にあっては、産経新聞のように歪んだナショナリズムを掲げざるを得ないのです。

彼らは、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの「信念」を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーションと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く──それが「永続敗戦」という概念が指し示す状況である。


著者の白井氏は、「震災・原発事故以来、この国の権力・社会が急速に一種の『本音モード』に入っている」と書いていましたが、そこには「永続敗戦」の露わな姿が出ているように思います。それは、戦後民主主義という擬制であり、「絶対的平和主義」(憲法第9条)という虚構です。その延長にあるのが、「南京大虐殺なんてない」「従軍慰安婦は朝日新聞の捏造で、ただの売春婦にすぎない」というような歴史修正主義としての「敗戦の否認」(=戦争責任の否定)です。白井氏は、「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後のレジームの根幹は、永続敗戦である。永続敗戦とは、『戦後の国体』である」と書いていました。

降伏の英断にしても、巷間言われるように、国民を思って(犠牲を増やさないために)下されたものとは言えないのです。敗戦の半年前の1945年2月、近衛文麿は、戦争の早期終結を訴える文章(いわゆる「近衛上奏文」)を天皇に上奏しているのですが、そのなかで近衛は、つぎのように書いていたそうです。

(略)国体護持の立前より最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。
 つらつら思うに我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速に進行しつつありと存候。


なんと当時の指導者たちが怖れたのは、「共産革命」であり、それによって「国体」が瓦解し消滅することだったのです。そのためには、本土決戦を回避しなければならないと考えたのです。歴史学者の河原宏氏が言うように、降伏の英断は「革命より敗戦がまし」という判断によるものだったのです。

当時の米内光政海軍大臣は、広島・長崎の原爆投下を「天佑」(※天の恵みという意味)と言ったそうですが、それは、原爆投下により本土決戦が回避されることで、「共産革命」の怖れがなくなり「国体」が護持される安堵からだったのでしょう。既にそこから「戦後」という虚妄の時代がはじまっていたと言うべきかもしれません。

”対米従属「愛国」主義”という歪んだナショナリズムは、このように「国体」を護持するために、”昨日の敵”に取り入る屈折した心情が反映されたものです。それは、「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を保障した安保体制を所与のものとする、文字通りの”従属の思想”です。しかし、「戦後」にあっては、それが「愛国」になるのでした。

白井氏は、中国の北京にある「中国人民抗日戦争記念館」を訪れた際、見学者のノートに「恥」という文字がもっとも多く書き込まれているのを見て、中国人にとって、日本帝国主義から侵略されたことは「恥ずべき」事柄だったのだということを実感したそうですが、一方、日本の指導者から、戦争に負けたことを「恥」ととらえるような観念はほとんどうかがえません。白井氏は、「通常の思考回路からすれば不思議千万な事柄である」と書いていました。

それは、国民向けの建前とは別に、彼らのなかに真に”誇るもの”がなかったからでしょう。だから、「恥」の観念もないのでしょう。でなければ、あれほど変わり身が早く”昨日の敵”にすり寄るはずがありません。まさに日本の中心にあるのは”空虚”なのです。坂口安吾も『堕落論』で見ぬいていたように、それが戦前から一貫して変わらない「国体」(=日本の近代)の本質です。

河原宏氏は、本土決戦が回避されたことの”意味”を、つぎのように指摘していたそうです。

日本人が国民的に体験しこそなったのは、各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった。
(『日本人の「戦争」──古典と死生の間で』講談社学術文庫)
※『永続敗戦論』より孫引き


本土決戦になれば、当然さらなる悲劇を招いたでしょう。しかし一方で、本土決戦は、日本人が「自らの命をかけても護るべきもの」を見い出すチャンスであったし、ホントに「護るべきもの」があるのかどうかをみずからに問うチャンスでもあったのです。でも、戦争指導者たちは、「国体」の継続と引き換えに、そのチャンスを潰した、そのチャンスから逃避したのでした。

そう考えれば、「戦後」も戦争を指導した人間たちが、敗戦を「終戦」と言い換えて権力の中枢に居座り、みずからの戦争責任に頬かぶりをしたのはわからないでもありません。しかも、現在、権力の中心にいるのは、その戦争指導者の末裔です。その末裔は、歪んだナショナリズムを掲げ再び戦争を煽っているのです。

余談ですが、今の”中国脅威論”にしても、アメリカ(の軍需産業)の意向を汲んだ戦争政策、いわば”軍事版TPP”の側面があることを忘れてはならないでしょう。現に、「日本周辺の安全保障の不安定要因 のより深刻化」を理由に、防衛予算は大幅に増額され、中期防衛力整備計画では、17機のMV-22オスプレイや28機のF-35戦闘機の導入などが決定しているのです。その金額は目も眩むほど莫大なものです。

「戦後レジームからの脱却」「自主憲法の制定」「日本を、取り戻す!」などというもっともらしいスローガンの一方で、この国の戦後政治が骨の髄まで対米従属であるという現実。「敗戦を否認」し、ナショナリズムを言挙げするために、いっそう対米従属を強化しなければならない背理。それは、「愛国」と「売国」が転倒した戦後という時代の背理です。

対米従属は、絶対に脱け出せない底なし沼のようなものです。”危機”が演出されればされるほど、ますます深みにはまっていく。しかも、それは、没主体的にはまっていくのではありません。みずから進んで主体的にはまっていくのです。そのために、天皇制においても、憲法においても、国防においても、外交においても、建前と本音、顕教と密教、表と裏が必要なのです。それが「永続敗戦」としての戦後政治の構造であり、戦後の”病理”です。

作家の大岡昇平は、芸術院会員への推挽を断った際、その理由について、つぎのように語ったそうです。

 私の経歴には、戦時中捕虜になったという恥ずべき汚点があります。当時、国は”戦え””捕虜になるな”といっていたんですから、そんな私が芸術院会員になって国からお金をもらったり、天皇の前に出るなど、恥ずかしくて出来ますか(『中国新聞』1971年11月28日、記事中の談話)。
※同上孫引き


加藤典洋氏は、『敗戦後論』(ちくま文庫)で、大岡昇平の発言を、責任をとらない戦争指導者に対する「恥を知れ」というメッセージだと書いていたそうですが、それは先の戦争だけでなく、福島第一原発の事故に対しても、同じことが言えるのではないでしょうか。それらに共通するのは、この国の「恥知らずな」「無責任体系」です。

『永続敗戦論』は、反原発集会の挨拶のなかで大江健三郎氏が引用した、「私らは侮辱のなかに生きている」という中野重治のことばからはじまっていますが、「侮辱」ということばがこの「無責任体系」を指しているのは言うまでもないでしょう。それがほかならぬ日本の中心にある”空虚”の内実です。

白井氏が言うように、この国では敗戦においても、「『負けたことの責任』という最も単純明快な責任でさえ、実に不十分な仕方でしか問われなかった」のです。ごく一部の民族主義者を除いて誰も責任をとらずに、みんなで頬かぶりをしたのです。佐藤栄作首相(当時)の密使として沖縄返還交渉に当たり、のちに自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で沖縄核密約の存在を暴露した若泉敬は、そのなかで戦後社会を「愚者の楽園(フールズ・パラダイス)」と呼んだそうですが、まさに「永続敗戦レジーム」とは、頽落した「無責任体系」が辿り着いた(辿り着くべくして辿り着いた)「愚者の楽園」と言えるのかもしれません。そのなかにあっては、ナショナリズムでさえ、あのような歪んだものしかもてないのは至極当然でしょう。

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『愛と暴力の戦後とその後』
2014.08.26 Tue l 本・文芸 l top ▲
文学界2014年6月号


柴崎友香「春の庭」が今回(第151回)芥川賞を受賞したので、『文学界』(6月号)に掲載されていた同作品をあたらめて読みました。

この小説の主人公は、世田谷区にある築31年のアパート「ビューパレス サエキⅢ」に住む「太郎」と「西」の二人です。そして、話の軸になるのは、アパートの裏にある「水色の板壁の家」を撮った20年前の写真集「春の庭」です。「春の庭」は、当時「水色の板壁の家」に住んでいたCMディレクター「牛島タロー」と小劇団の女優「馬村かいこ」の夫婦が自分たちの生活を撮影したものでした。

高校3年のときに、「春の庭」を見た「西」は、写真集におさめられた二人の暮らしのスタイルに感動しあこがれたのでした。

 実はその写真集を眺めていたときに、結婚とか愛とかっていいのかもしれない、と初めて思った。写真の中の牛島タローと馬村かいこは、満ち足りて見えた。愛する人とともに暮らすことは楽しそうだ、とあのときほど感じたことはない。


それ以来、「春の庭」に心を引き寄せられた「西」は、後年、引っ越し先を探すために見ていた不動産の賃貸サイトで、「水色の板壁の家」を偶然見つけ、その裏手にある「ビューパレス サエキⅢ」をわざわざ借りたのでした。

アパートの住人や職場の同僚や離れて暮らす家族との小さなエピソード。そのエピソードが織りなす淡々とした日常。そんな日常のなかで、写真集「春の庭」は、いわば太い縦糸の役目を担っています。

希望でもない癒しでもない慰めでもない、もちろん夢でもない。この小説は、そんな凹凸のある感情とは無縁です。強いてあげれば、「太郎」のなかにある孤独くらいです。

味わい深い小説と言えば、そう言えるのかもしれません。しかし、私には、どこかなじめないものがありました。芥川賞の選評がまだ出ていませんので詳細はわかりませんが、このような小説を村上龍や山田詠美がどんな理由で押したのか、私には興味があります(もちろん皮肉ですが)。

先日、テレビで「となりのトトロ」を見ていたら、前回芥川賞を受賞した小山田浩子の「穴」が連想されてなりませんでした。私もうっかりしていたのですが、「となりのトトロ」とよく似ているなと思ったのです。でも、芥川賞の選評では、そういった指摘はありませんでした。芥川賞なんてその程度のものと言ったら言いすぎでしょうか。

「春の庭」に関しては、途中の視点の移動もそんなに「効果的」とは思えませんでしたし、話のなかにちりばめられたメタファーも同様です。たしかに、俯瞰的な風景描写や微細な生物や事物へのこだわりに作者の個性が見えますが、それと話(エピソード)の平板さが「効果的」に接続されているとは言い難い気がします。尻切れトンボのエピソードのその先には、日常の裂け目があるはずなのですが、それがいっこうに浮かびあがってこないのです。

「春の庭」にあるような”文学的なるもの”のその前提をまず疑う必要があるのではないか。奇を衒った実験的な手法を用いていますが、底にあるのはきわめて古い”文学的”なる構造です。

芥川賞は、商業的な意味合いで「新人の登竜門」ではあるのかもしれませんが、必ずしもあたらしい文学の登場をうながすものではないということをあらためて感じさせられた気がします。
2014.08.02 Sat l 本・文芸 l top ▲
JR上野駅公園口


柳美里の最新作『JR上野駅公園口』(河出書房新社)を読みました。

この小説には、さまざまな声や音に混ざって、「まもなく2番線に池袋、新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください」というあの駅のアナウンスの声が、低調音のようにずっと流れています。

文芸評論家の川村湊氏は、『週刊文春』の書評で、この小説について、つぎのように書いていました。

さまざまな人々の声が聞こえてくるポリフォニック(多声的)な小説構造が示しているのは、声なき声の恨(=ハン)を聞き分けようとする作家の耳の鋭敏さなのだ。そこには、戦後というより近代社会そのもののノイズが聞こえる。

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3921

この小説の主人公は、上野公園でホームレス生活を送っている男です。そして、男の時空を超えたモノローグ(独白)によって、物語が語られていくのでした。

1933年生まれの男は、今上天皇と同じ歳です。さらに、ひとり息子も皇太子殿下と同じ歳で、誕生日も同じでした。「浩一」という名前も、皇太子殿下から一字をもらって名付けたのでした。

男は、福島の相馬生まれです。当時の浜通りには、「東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所」も、「日立電子やデルモンテの工場もなかった」ので、微々たる田んぼしか持ってない農家の長男である男は、国民学校を卒業すると、出稼ぎに出て生活の糧を得ることを余議なくされるのでした。男の出稼ぎは、結婚して子どもができてからも、家族を養うためにつづきます。

そんななか、ひとり息子の浩一が、21歳のときに東京のアパートで突然死します。さらに、60歳をすぎて出稼ぎをやめ福島に戻った男が、出稼ぎのためにほとんど一緒に生活することのなかった妻の節子と、残りの人生を「月に7万円づつの年金」でのんびりすごそうと思っていた矢先、その妻にも突然先立たされるのでした。そのとき、男は、息子が死んだときに母親から言われた「おめえはつくづく運がねぇどなあ」ということばを、あらためて噛み締めるのでした。

そして、人生に絶望した男は、故郷の福島を出奔する決意をします。自分の面倒をみてくれた孫娘の麻里に、「突然いなくなって、すいません。おじいさんは東京に行きます。この家にはもう戻りません。探さないでください。いつも、おいしい朝飯を作ってくれて、ありがとう」という書き置きを残して、常磐線で上野にやってきたのでした。それは67歳のときでした。

上野公園は、正式には「上野恩賜公園」と言って、天皇家から下賜された土地に作られた公園です。そのためか、公園には東京国立博物館・国立西洋美術館・国立科学博物館・日本学士院など芸術や学術の施設も多いため、皇族方が訪れることがよくあります。

皇族が公園を訪れる日が近くなれば、それぞれブルーシートに「特別清掃」の紙が貼られます。紙には、「○○時○○分から○○時○○分まで、現在地から移動すること」「○○時○○分から○○時○○分までの間は公園内での移動禁止」と書かれてあります。これがホームレスたちが言う「山狩り」です。

この間、彼らはブルーシートで作られた「コヤ」を畳み荷物を移動させて、皇族方から見えないところに姿を隠さなければなりません。しかも、「行幸啓」が終わっても、元の場所には立ち入り禁止の看板や柵や花壇が設置されていることがあり、必ずしも元の場所に戻れるわけではありません。「特別清掃」は、一方で、ホームレスたちを締め出す格好の口実にもなっているのでした。

高貴な血筋に生まれ、「跳んだり貪ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生」と、社会の底辺を必死で生きてきた挙句に、なにもかも失いホームレスに零落した男の人生。

ある「山狩り」の日、男は、いつもより早く上野公園に戻ると、天皇皇后両陛下が乗ったトヨタ・センチュリーロイヤルの御料車が、目の前を通りすぎるのに出くわします。男は、御料車に向かってつぎのように独白するのでした。

 自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
 なにか──。
 なにを──。
 声は、空っぽだった。
 自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。
 昭和二十二年八月五日、原ノ町駅に停車したお召し列車からスーツ姿の昭和天皇が現れ、中折れ帽子のつばに手を掛けられ会釈をされた瞬間、「天皇陛下、万歳!」と叫んだ二万五千人の声──。


男は、過去にも故郷の駅で昭和天皇の姿を見たことがあったのでした。

 三十歳の時に東京に出稼ぎに行く腹を決め、東京オリンピックで使う競技場の建設工事の土方として働いた。オリンピックの競技は何一つ見なかったけれど、昭和三十九年十月十日、プレハブの六畳一間の寮の部屋でラジオから流れてきた昭和天皇の声を聞いた。

 「第十八回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピックの東京大会の開会を宣言します

 昭和三十五年二月二十三日、節子が産気付いていた時に、ラジオから流れてきたアナウンサーの声──。

 「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります

 不意に、涙が込み上げた。涙を堪えようと顔中の筋肉に力を入れたが、吸う息と吐く息で肩が揺さぶられ、両手で顔を覆っていた。


御料車の窓から、「柔和としか言いようのない眼差しをこちらに向け」、手を振っている両陛下。そんな両陛下に歓声をあげて手を振りかえす人々の背後で、肩を震わせながら両手で顔を覆い泣いているホームレスの男。なんと哀切で、なんと感動的な場面なんでしょう。私は、脈絡もなく中野重治の「雨の降る品川駅」という詩を連想しました。

小説の最後は、津波におそわれ故郷の海に呑み込まれていく孫娘の麻里の姿と、そして、あの駅のアナウンスの声なのでした。

 「まもなく2番線に池袋、新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください

ホームの端に立った男が、最後に見たものはなんだったのか。

生きることのかなしみ、せつなさ、やりきれなさ。この小説にオーバーラップするのは、大震災や原発事故によって、主人公と同じように故郷を失い家を失い家族を失った人々の姿です。それは、「がんばろう、東北!」や「ひとつになろう、日本!」や「パワーをもらった」「元気をもらった」などという傲慢なことばのために存在する「被災者」とは違った人々の姿です。

「あとがき」によれば、この小説を構想しはじめたのは12年前だそうですが、しかしやはり、あの大震災や原発事故がなければ生まれえなかった作品であるのは間違いないでしょう。この小説が私たちの胸を打つのは、大震災や原発事故を直視するなかで生まれた小説でありながら、同時に生と死の普遍的な問題を私たちに問いかけているからではないでしょうか。読後、澱のようにいろんな思いが残りました。

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柳美里
2014.06.16 Mon l 本・文芸 l top ▲
中村うさぎが、昨日(29日)、ブログ(中村うさぎvsマッド髙梨 ガチBLOG!)を更新していましたが、そこに気になる文章がありました。

http://takanashi.livedoor.biz/archives/65902973.html

車椅子生活は相変わらずつづいているし、「薬の副作用でパンパンにむくれてブスになり」、「時々、もう何もかもが嫌になる」と書いていました。「しかも薬の副作用で思うように舌が回らず、テレビに出ても『何言ってるかわからない。あんなのコメンテイターとしてテレビに出すな』なんて言われる始末」だそうです。

それで、「5時に夢中!」のプロデューサーに、番組を降板するとメールを送ったというのです。さらに、副作用をもたらした「ステロイド」と「ホリゾン」の服用もやめると宣言しているのです。

「覚悟」どころか、なんだかますます弱気になっている感じで、中村うさぎらしさも消えています。

「去年の今頃は、自分が立ても歩けもしなくなるなんて夢にも思わなかった。」と書いていましたが、たしかに病気になってそれまでの人生が一変するのはよくあることです。

私の身近でも、最近、超難関大学を出て有名企業で役員までしていた同級生が、脳梗塞で倒れて半身不随になり、家族を東京に残してひとり九州に帰ったという話がありました。文字通り人生が一変したのです。そんな話は枚挙に暇がありません。

入院していた二十歳のとき、隣の部屋の女性患者が、病院の裏山で首を吊って自殺したという出来事がありました。私は彼女とは親しくしていて、夕食を終えると、彼女の部屋を訪れて小1時間話をするのが日課になっていました。同病相哀れむではないですが、お互い重い病を背負い、病気のために仕事や学校も辞め、夢も希望も閉ざされたような気持で入院生活を送っていたのです。

早朝、彼女が自殺したという話を聞いたとき、私は、自分でも不思議なくらい冷静で、「やっぱり」と思いました。私は、彼女の気持が痛いほどよくわかりました。私自身も、彼女と同じような気持だったからです。彼女はいつも枕元にマリア像を置き、月に何度か神父さんが病室を訪れてお祈りを捧げていましたが、信仰も救いにならなかったのです。

でも、この年になると、その頃のように死にたいと思うことはなくなりました。なぜなら、いづれ死が訪れることがわかっているからです。死は間違いなくやってくる。それは、明日かもしれないし、1カ月後かもしれないし、1年後かも10年後かもしれません。死を意識するようになると、死にたいという気持は逆に遠ざかっていくのです。人間というのは、なんと勝手で単純なんだろうと思います。

絶望もまた人生だし、悲しみもまた人生だし、つらさもせつさなもやり切れなさも、みんな人生です。「いいことなんてなにもない」のもまた人生です。

私が以前通っていた病院で知り合った人たちも、みんな病気によって人生が一変した人たちでした。

倒れる前は女子高生を愛人にしていたとうそぶく男性は、半身不随になり、今は生活保護を受ける身ですが、いつも元気いっぱいで、病院のロビーで私の姿を見つけると、「待ってたよ」「コーヒー飲む?」と言いながら笑顔でやってくるのでした。私が「脳梗塞になったのはバチが当たったんじゃないの」と言うと、彼は、「ヘヘへ」と笑って、不自由な手で坊主頭を掻くしぐさをするのでした。

また、20代の頃に離婚して、それから女手ひとつで3人の子どもを育てたという女性は、50代の半ばで難病(病名を何度聞いても覚えられないようなめずらしい病気でした)を発症して、不自由な身体になり、車椅子のうしろにチューブでつながった尿を入れる袋を提げて、いつもロビーをウロウロしていました。「子どもも育ったし、これから好きなことをして生きようと思っていた矢先にこんな病気になって」「なんのための人生だったかと思うけどね」と言いながら、退院後に入居するグループホーム探しに忙しんだと言っていました。

彼らは、死の淵をさまよったことで、そんなに積極的ではないかもしれませんが、もう一度生への欲求を抱くようになったように見えます。彼らを見ていると、ちょっとしたささやかなことでもそれを希望にして生きているような気がするのです。

中村うさぎを見ていると、ネットの見すぎのような気がしてなりません。本を読まない作家というのがいるそうですが、中村うさぎもそのひとりかもしれません。その分、ネットに依存しているのではないか。

中村うさぎには、あんなネットの「バカと暇人」にふりまわされてどうするんだと言いたいです。私も中村うさぎを批判することがありますが、毀誉褒貶それもまた人生です。せっかく神様からもらった命じゃないかなんてくさい言い方をするつもりはありませんが、死は否が応でもやってくるのです。それまでもう少ししぶとく且つふてぶてしく生きてもらいたいと思いますね。

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中村うさぎ
2014.04.30 Wed l 本・文芸 l top ▲
中村うさぎの『週刊文春』の連載「さすらいの女王」が、今月で打ち切りになるとかで、それで、「書く場所を失った」中村うさぎは、「中村うさぎの死ぬまでに伝えたい話」と題して有料メルマガを発行することにしたそうです。

有料メルマガは、実質的に『週刊文春』からの移行と言えるでしょう。中村うさぎは、「作家」というより実際は「エッセイスト」としての活動が主なので、彼女にとって、『文春』の連載打ち切りは、想像以上に打撃が大きいのかもしれません。連載がなくなるということは、連載を収録した本の出版も今後なくなるということですし、TOKYO MXなどメディアへの露出も少なくなることが考えられます。そうなれば本も売れなくなり、今後の作家活動もままらなくなる。中村うさぎのような作家にとって、週刊誌の連載の打ち切りは、テレビ番組から降板させられるタレントと同じようなものなのかもしれません。

「文壇タブー」というと、作家と出版社の関係は作家のほうが上で、出版社が「お得意さま」に遠慮しているようなイメージがありますが、実際は逆のようです。作家は、あくまで出版社から仕事をもらう立場にすぎず、「文壇タブー」も、単に出版社の営業上の都合にすぎないのです。要するに、芸能タレントと同じで、干されたらおしまいなのです。

中村うさぎが、マスコミやネットに書いていることを鵜呑みにして(それを前提にして)、世間と一緒に”小保方叩き”をしているのも、そういった貧すれば鈍する状況と関係があるのかもしれません。

以前の中村うさぎだったら、この”魔女狩り”に対して、もっと斜に構えた見方をしたはずです。「異物」を排除する社会の風潮に「気持が悪い」と言ったはずです。若い女性であるがゆえに、必要以上に叩かれている状況に、同じ女性として「怒り」を表明したはずです。

でも、今の中村うさぎには、そんな「異物」の視点はないのでした。ただ誰でも言えることを言っているだけで、作家としての「覚悟」も見られません。曽野綾子と同じような、市民社会の公序良俗に奉仕するただのつまらないおばさんの姿しかないのです。

結局、中村うさぎも”あっちの世界”に行ってしまったのか。なんだか一抹のさみしさと憐れみを感じてなりません。作家は世間から同情されたらおしまいですが、中村うさぎも病気をして弱気になり、無定見に世間にすり寄っているのでしょうか。『狂人失格』で指摘した、もの書きとしての「覚悟」のなさがここにきていっそう露わになった気がします。これじゃ名誉毀損した『狂人失格』のモデルの女性に対しても失礼というものでしょう。

>> 中村うさぎの覚悟
>> 『狂人失格』
2014.04.13 Sun l 本・文芸 l top ▲
昨日、中村うさぎが再入院したというニュースがありました。ニュースによれば、中村うさぎ本人がTwitterであきらかにしているそうです。それで、さっそく彼女のTwitterにアクセスしてみました。

なんでも脚の血栓が肺に転移したそうで、「また心肺停止になるかも」と言われたらしい。しかし、彼女は、こうつぶやいていました。

5時夢は休みませんよー!原稿も書き続ける。インタビューや対談も続ける。死ぬときゃ死ぬんだからさ、命より仕事優先するって決めたのー。命あっての仕事?ううん、あたしにとっては、仕事あっての命だ。ここは誰に何を言われても譲れん!(←頑固)
https://twitter.com/nakamurausagi


実際にどの程度の病状かわかりませんが、しかし、その言やよしです。彼女が言うように、それが「物書きの業」というものでしょう。

死ぬのは仕方ないのです。死は、なにも特別のことではなく、ごく普通に当り前のこととして私たちの前にあります。たしかに、人生が終わりを迎え、親しい人と永遠の別れが訪れるというのは、悲しいことではありますが、でも、それはどうあがいても逃れることができない「運命」です。

別に強がりを言うわけではありませんが、私自身、いつ死んでもいいと思っています。もちろん、苦しまずに死にたいなとかお金がかからずに死にたいなとか老人病院のベットの上であちこち管を取り付けられたまま死にたくないなとか、そういった思いはありますが、でも、死ぬことに対しては自分なりの覚悟はできているつもりです。

誰にも看取られずに、持ち物が段ボール箱1個というような孤独な老人の最期を見たとき、この人の人生ってなんだったんだろう、生まれてきてよかったんだろうか、と思ったりしましたが、しかし、それは生きながらえた人間の傲慢で、死によって人生を量るのは人生を冒涜することでしかないのです。

大学病院の個室で家族に看取られて迎える死も、郊外の老人病院の大部屋で誰からも看取られずひっそりと迎える死も、同じ死です。その人にとって死は死です。ただそれだけの意味しかないのです。

要は、死をどうやって迎えるか、その「運命」をどう受け入れるかでしょう。物書きなら、その「運命」を死の直前まで書き綴ってもらいたいと思います。もとより物書きというのは、中村うさぎが言うように、命を削ってものを書かねばならない、そんな”業”を背負った人間です。「命より仕事優先する」というのは、物書きとして本望でしょう。

私は、中村うさぎのTwitterを読んで、彼女の物書きとしての覚悟に期待したいと思いました。

>> 『狂人失格』
2014.03.26 Wed l 本・文芸 l top ▲
誘蛾灯


一昨日、鳥取連続不審死事件の控訴審に関して、つぎのようなニュースがありました。

上田被告、二審も死刑=鳥取連続不審死―広島高裁支部
時事通信 3月20日(木)10時40分配信
 
鳥取県で2009年に男性2人が変死した連続不審死事件で、2件の強盗殺人罪などに問われ、一審鳥取地裁の裁判員裁判で死刑とされた元スナック従業員上田美由紀被告(40)の控訴審判決が20日、広島高裁松江支部であった。塚本伊平裁判長は一審判決を支持し、上田被告の控訴を棄却した。
 上田被告は一審の被告人質問で黙秘を貫いたが、控訴審では一転して発言し、自分の言葉で無罪を訴えた。被告側は一審に続き、被告と同居していた男性の関与を示唆し、検察側は「被告の供述は虚偽」として控訴棄却を求めた。新たな証人や証拠は出ず、控訴審は3回で結審した。 
Yahoo!ニュース


私は、折しもこの事件を扱ったフリージャーナリスト・青木理氏の『誘蛾灯』(講談社)を読んだばかりでした。『誘蛾灯』は、言うまでもなく、木嶋佳苗被告がブログで高く評価していた本です。それどころか、彼女は青木氏に取材を受けた上田美由紀被告に嫉妬すら覚えたと書いているのです。それで、私も読んでみようと思ったのでした。

青木氏は、木嶋佳苗被告の事件にはあまり興味がなかったそうですが、しかし、木嶋被告の熱烈なラブコールもあって、会えるなら会ってみたいとラジオ番組で言ってましたので、そのうち首都圏連続不審死事件の記事も書くことになるかもしれません。

このふたつの連続不審死事件は、驚くほど似通っています。どちらも同じ2009年に発生し、「首都圏」は4~6名(うち3名の事件が起訴)、「鳥取」は6名(うち2名の事件が起訴)の男性が、被告の周辺で不審死しているという点でも酷似しています。また、被告はいづれも詐欺の容疑で別件逮捕され、のちに殺人容疑で再逮捕されるという捜査手法もそっくりです。さらに、被疑者が殺人容疑に関して無罪を主張している点も同じです。

しかも、木嶋・上田被告ともに、「巨躯」で、年齢も3つ違いです。そのため、どうしてあんなメタボでトウの立った女性に多くの男たちが騙されたのか、という世間の反応も同じでした。

ただ一方で、ふたりの人物像や舞台となった土地は、この本でも書いているとおり、「対照的」と言ってもいいほどの違いがあります。「首都圏」は、文字通り東京や埼玉や千葉の首都圏の都市やあるいはネットを舞台にした事件だったということもあって、マスコミの注目度は高く、良きにつけ悪しきにつけ、木嶋佳苗被告は世間の耳目を集め、関連本も何冊も出版されました。

それに対して「鳥取」のほうは、世帯数も人口も全国最小の鳥取県の、日本海沿いの地方都市で起きた事件です。しかも、上田美由紀被告は、2度の離婚歴がある5人の子持ちの「地味で冴えない中年女」でした。彼女は、「デブ専門」と陰口を叩かれるような地元の場末のスナックで働いていました。しかも彼女が住んでいたのは、勤務するスナックのママが所有するアパートでしたが、そこは足の踏み場もないような”ゴミ屋敷”だったそうです。

そんな女に、読売新聞の記者や鳥取県警の刑事など多くの男たちが吸い寄せられるように心を奪われ金をむしり取られ、そして、家庭も職も失い、挙句の果てに命まで落とすのです。著者の青木理氏も、この「事件の陰鬱さ」をつぎのように書いていました。
 

 事件の重要な舞台となった鳥取最大の歓楽街・弥生町にしても、美由紀と男たちとの出会いの場となった店にしても、最終的に命を落としてしまった男たちや事件関係者にしても、垣間見えてくる風景はあまりにも殺伐としていて、救いがまったくないように思えて仕方なかった。
 すっかりと寂れ、人の気配がほとんどない歓楽街。その片隅で、太った二人の老女が営む店。ゴミ屋敷に一人住まい、唾を飛ばしながら憤る老女。縁者もなく、生活保護を受けながらぎりぎりの生を紡ぐ人々。
 段ボールを被って轢死した記者。雪の山中で首を吊ったという刑事。身内の不審死を隠蔽する警察。不自然な捜査に憤りながら、息をひそめてそれを見つめるしかない遺族。
 それぞれにそれぞれの事情はあるのだが、眼の前に次々と立ち現れてくる情景は溜息が出るほど暗く、目を背けたくなるほど澱んでいた。


ときには一人芝居で架空の「妹」を登場させるなど、大ウソつきで金に異常な執着を見せる被告。でも、男たちは、女手ひとつで5人の子どもを育てる被告の姿に、「心を打たれ、情のようなものを抱いて」、被告の魔手に落ちていったのです。

本のなかでは、上田被告が交際していた男性に当てた手紙が紹介されていましたが、それは読んでいるこっちが面映ゆくなるような、まるで中学生か高校生が書いたような稚拙で情熱的なラブレターでした。

そういったところが、男たちに無邪気で可愛く映ったのはわかるような気がします。男たちは、彼女のことを「いい気分にさせてくれる」「癒される」「男を立ててくれる」と言っていたそうですが、そんな男たちの声を聞くと、木嶋佳苗被告と同じように、上田被告にも男たちの古い女性観を逆手に取るしたたかさがあったように思えてなりません。もとより、家庭的にもめぐまれず、結婚でも幸せを掴むことができず、お金も学歴も資格もコネもなんにもなく、しかも容姿端麗とも言い難い5人の子持ちの女性が、夜の街で生きて行くには、それしかなかったとも言えるのです。

上田被告の場合、男たちからむしり取ったお金は、木嶋被告のようにブランド品につぎ込んだわけではありません。「郊外のファミリーレストランやラブホテルを好んで利用し、格安量販店では不必要なものまで大量買いしてその大半をガラクタとして打ち捨てていた」のです。ゴミ屋敷といい、無計画な衝動買いといい、私はメンヘラの疑いさえ抱きますが、そこには今の消費社会に翻弄される人間の”悲劇”があるように思えてなりません。その”悲劇”は、消費社会に対する免疫のない下の階層に行けば行くほど顕著になるのでした。

今の世の中は、お金も学歴も資格もコネもなんにもない人間には、経済的にも気持の上でもホントに生きづらくてしんどいのではないでしょうか。上昇志向さえないというのは、夢や希望も持てないからです。上田被告の犯罪には、そんなやるせないロウアークラス(下層)の現実が映し出されているように思えてなりません。

それに、2件の殺人容疑は、青木氏が具体的に検証しているように、女ひとりで実行するにはあまりにも無理があるのです。検察が描いた事件の構図も矛盾だらけです。そもそも6名が不審死しているにもかかわらず2名しか立件しない(できない)ということ自体、捜査の杜撰さを表しているように思います。

一方、弁護士費用のない上田被告には、国選弁護人が選任されたのですが、その弁護団も、「大物刑事裁判の被告弁護にふさわしい技量を備えた弁護団」とは言い難く、弁護も「相当にレベルの低い」「お粗末な代物」だったそうです。一審の死刑判決が出たあと、著者は、「遅きに失した」と書いていました。

また、「首都圏」の事件と同じように、この事件でも素人裁判員が事件を裁く裁判員裁判の問題点も指摘されていました。

≪裁判員と補充裁判員の計十人は閉廷後、会見。補充裁判員の女性は「黙秘は一番残念だった。被告に真実を話してもらえる機会があればいいなと思う」と話した≫(二〇一二年十二月四日、共同通信の配信記事)
≪黙秘した上田被告には、四十代の男性が「やっていないなら、やっていない根拠を語って欲しかった」とし、女性は「いつか真実を話す時が来れば」と望んだ≫(同十二月五日付、読売新聞朝刊)
≪米子市の男性は「無実なら黙秘は駄目だ」と話した≫(同日付、日本海新聞朝刊)
 この程度の認識の者たちが裁判員を務め、一段高い法壇から判決を宣告したと考える時、私は暗澹たる気持になってしまう。


しかし、上田被告は、死刑判決が下された法廷でも、閉廷の際、「ありがとう、ございました」と言って、裁判長と裁判員にぺこりと頭を下げたのだそうです。著者は、そんな被告の態度に「目と耳を疑った」と書いていました。上田被告は、そういった礼儀正しさも併せ持っているのだそうで、その姿を想像するになんだかせつなさのようなものさえ覚えてなりません。

これで二審も死刑判決が出たわけですが、青木理氏が言うように、「遅きに失した」感は否めません。事件の真相はどこにあるのか。無罪を主張する被告の声は、あまりにも突飛で拙いため、まともに耳を傾けようする者もいません。被告に「無知の涙」(永山則夫)を見る者は誰もいないのです。そして、刑事裁判のイロハも理解してない素人裁判員が下した極刑が控訴審でも踏襲されてしまったのでした。そう思うと、よけい読後のやりきれなさが募ってなりませんでした。
2014.03.22 Sat l 本・文芸 l top ▲
奥さまは愛国

北原みのり・朴順梨共著『奥さまは愛国』(河出書房新社)を読みました。

最近、ネトウヨ化は、家庭の主婦にまで広がっているのだそうです。

ネトウヨの生みの親のひとりである(と言っていい)小林よしのり氏のブログにも、つぎのような記述がありました。

週刊現代に「妻が「ネトウヨ」になりまして」という記事が載っているが、主婦はインターネットを頻繁に見ているらしい。

そこからネトウヨになってるらしいのだ。

あの人、在日なんじゃないの?」と根拠なく他人を在日認定したり、「ネットには本当のことが全部載っているんだから。みんなマスコミはマスゴミだって言ってるのよ。」と言ったり、「安倍総理の揚げ足とる奴らは売国奴」と信じているらしい。

家に一日中いる主婦ほど、「ネトウヨ主婦」になる可能性が高いようだから、まさに「専業主婦が女のあるべき姿」という考えの陥穽がすでに如実に現われてしまっている。
小林よしのりオフィシャルwebサイト 2014.03.01


実際に、著者の朴順梨氏に話しかけてきた50代半ばの活動家の女性も、こう言っていたそうです。

(略)私に「ネット、やってます?」と聞いてきた。「あまり、やらないです」と答えると、「私は大好きなの。テレビはあまり見ないのだけど、インターネットは色々勉強になるから、はまっているのよ。うふふ」と笑っていた。


「デモの参加者の中に女性が結構いるんだけど、あの人達って『韓国人を叩き出せ!』って叫んだ後に家に帰って、子供の食事とか作っているんですかね? その二面性ってすごくないですか?」と朴氏は言ってましたが、たしかに、考えてみれば「すごい」ことです。

殺せとか海に沈めろとか聞くに堪えないようなヘイト・スピーチの横で、薄笑いを浮かべながらあたりを睥睨している女性たち。でも、彼女たちは特別な女性ではありません。レディースでもなければヤンキーでもないのです。ましてメンヘラでもありません。家に帰ればごく普通の主婦で、愛する夫がいてかわいい子どもがいるママなのです。そのギャップをどう考えればいいのか。

著者の二人は、同じ女性としてときに重い気分になりながら、女性の愛国団体の街宣を聞きに行ったり、集まりに参加したり、あるいは活動家の女性にインタビューしたりして、ネトウヨに走る女性たちの心の底にあるものを探ろうとするのでした。

保守運動のなかで、活動仲間の男性からコナをかけられたり、セクハラまがいの行為を受けたことに怒り、仲間から離れた女性が、一方で、「もし戦時に生まれていたら、自分は慰安婦に志願する。愛する男性を命がけで支える」とTwitterでつぶやいているのを目にして、著者の朴氏は、「私の範疇をはるかに超えていた」と愕然とするのでした。

お国のために戦う兵隊に慰安婦は必要だった、日本にレディーファーストなんていらない、憲法24条の男女平等は日本の文化にそぐわない、と主張する女性たち。

北原みのり氏は、そんな愛国団体の女性に、「フェミニズムは、被害者意識が強いから嫌い」と言っていたDV被害者の女性を重ね合わせるのでした。

 強者でありたい女性たちは、フェミニズムこそ女を侮辱していると考える。「被害者面(ズラ)する」「弱者ぶる」とは、フェミニズム嫌いの女性たちがよく言うことである。そしてそれは、愛国女性たちが元「従軍慰安婦」に向ける言葉と一字一句同じだ。


それは、木嶋佳苗被告の「フェミニズム嫌い」も同じだと思います。

教科書で最も古い登場人物が女の卑弥呼だったり、最も古い天皇が女の推古天皇だったりするのはおかしい。それは中国や左翼が日本を貶めるためにつくった意図であると主張し、女性に国は治められないと「女性天皇」に反対する、そんな「女性を見下す」明治天皇の玄孫・竹田某氏に熱い視線を送る女性たち。一方で、女権の拡大を主張するフェミニストの田嶋陽子を竹田某氏と一緒になってあざ笑う女性たち。

どうしてなのか。北原みのり氏は、つぎのように言います。「だって、女であることを誇れないのなら、日本人であることをせめて誇りたくなるから。男と一緒に心おきなく田嶋陽子を笑った方が、この国で生きやすいのだと確認したいから」だと。

私は同時に、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で引用していた、つぎのようなヒットラーの『わが闘争』の一節を思い出さないわけにはいきませんでした。

弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。大衆はしばしばどうしたらよいか途方にくれ、たやすく自分たちはみすてられたものと感じる。大衆はまちがった原理もわからないので、かれらは自分たちにたいする精神的テロの厚顔無恥も、自分たちの人間的自由の悪辣な削減も理解することができない。
(日高六郎訳)


フロムは、ヒットラーはそうやって「大衆を典型的なサディズム的方法で軽蔑し『愛する』のである」と書いていました。

愛国女性たちの「愛国」は、いわば”倒錯した愛”と言えるのかもしれません。どうしてそんなにこの国の男が信じられるのかと北原氏は書いていましたが、彼女たちの根底にあるのは、フロムのことばを借用すれば、「孤独の恐怖」ではないでしょうか。そこには、『マザーズ』や『ハピネス』が描いた「母であることの孤独」も含まれているのかもしれません。その孤独がネットをとおして辿り着いた先が、ネトウヨだったのではないか。もちろん、そこにあるのは、「ネットがすべて」「ネットこそ真実」という情弱な反知性主義であり、行く着く先は「共感主義」の暴走です。

フロムが言うように、「汝みずからを知れ」という「個の確立」を求める近代社会は、逆に『自由』の名のもとに生活はあらゆる構成を失う」のです。その結果もたらされるのは、「一つは聞くこと読むことすべてにたいする懐疑主義とシニズムであり、他は権威をもって話されることはなんでも子どものように信じてしまうこと」です。フロムは、「このシニズムと単純さの結合は近代の個人にきわめて典型的なものである」と述べていましたが、いわんやネットの時代においてをやでしょう。

街頭で「慰安婦はウソつき」「売春婦のババア」「お前、チョウセン人だろ?」と男ことばで悪罵を投げつける彼女たちも、実際に対面すると上品でおっとりしておだやかな表情を見せるのだそうですが、その落差のなかに彼女たちの人知れぬ孤独が秘められているように思えてなりません。

一方で、北原氏や朴氏が言うように、彼女たちの背後に、ただステレオタイプなことばをくり返すだけのこの国のサヨクやフェミニズムが放置してきた問題が影を落としていることも、忘れてはならないでしょう。彼女たちのサヨク嫌いやフェミニズム嫌いは、まったく理由のないことではないのです。だからよけいやりきれなくて重い気分にならざるをえないのでした。
2014.03.07 Fri l 本・文芸 l top ▲
文藝春秋2014年3月号


第150回芥川賞の受賞作・小山田浩子の「穴」(文藝春秋3月号掲載)を読みました。

どれがホンモノでどれがニセモノか、どれがホントでどれがウソか、どれが現実でどれが現実ではないのか、そんな虚実皮膜の日常に私たちは生きています。意味不明なのっぺらぼうとした世界。この小説でも、そんな世界が作者独特の切り口で描かれていました。

主人公の「私」は、SNSでもしているのか、暇さえあればいつも携帯電話の画面を見ながら激しく指を動かしている夫とふたり暮らしです。そして、夫が夫の実家と同じ土地にある営業所に転勤になったことで、実家の隣にある借家に住むことになるのでした。家賃は5万2千円ですが、夫の実家の持ち物であるために、タダになりました。転勤に伴い、非正規雇用の仕事を辞めた「私」にとっては、それは「ありがたい」話でした。

引越しの日はあいにく大雨でしたが、翌日は例年になく早く梅雨明けが宣言され本格的な夏が到来しました。窓を開けると蝉の声が響く田舎の夏。そこから奇妙な出来事がはじまります。

仕事に出ている姑から電話がかかってきて、日にちを勘違いして払い込むのを忘れてしまったお金の払い込みを頼まれます。しかし、姑が用意した払込票と現金をコンビニに持っていくと、支払金額は7万4千円なのに現金は5万円しかありません。わざと忘れたのか、それとも単なる勘違いなのか。訝しみながらも差額の2万4千円を立て替え、そのことを姑には言えないままなのでした。

しかも、コンビニ行く途中、「私」は大きな獣に遭遇します。「とにかく真っ黒で、おそらく毛は硬そうで、中天に太陽があるせいでほとんど影がなく、そのほとんどない影ごと体であるかのように、それはトコトコと先を急いでいた」のでした。しかし、誰も「私」と獣のことは見ていません。その獣に先導されるように、私は川原に降りて行きます。と、不意に「私」は、「すとんと」穴に落ちたのでした。

また、ある日、「私」は、実家の裏にプレハブ小屋があることに気付きます。しかも、そこには夫の兄、つまり義兄だという男性が住んでいました。もちろん、義兄がいるなんて初耳です。義兄は、自分のことをヒキコモリかニートのようなもので、もう20年その小屋でひとり暮らしをしていると言うのです。義兄は、「私」が穴に落ちたことを話すと、「不思議の国のアリス」になぞらえてヤユするのでした。義兄は、「私」をさらに奇妙な世界に連れ出します。ホントに義兄なのか。またしても訝しみながら「私」は、義兄が先導する世界で不思議な体験をするのでした。

みんなが寝静まった深夜、認知症の義祖父が外に出たことに気づいた「私」は、義祖父のあとを追いかけます。すると、義祖父は川原に降りて行き、穴に入るのでした。私も別の穴に入ります。私の穴のなかには例の大きな獣が身をひそめていました。ところが、その夜のことが原因で、義祖父は肺炎になり、あっという間に亡くなります。そして、義祖父の死をきっかけに、義兄も大きな獣も、遠い昔の出来事だったかのように姿を消してしまったのでした。

「(略)ま、皆さんはそんなものに興味がないんだろう。見えてないのかもしれない。大体いちいちその辺を歩いている動物だの飛んでいる蝉だの落っこちているアイスのかすだの引きこもりの男だのを見ますか。見ないでしょう。基本的にみんな見ないんですよ、見たくないものは見ない。」義兄のこのことばに、この小説の真髄が語られているように思います。作者はラテンアメリカの文学に影響を受けたそうですが、たしかに話そのものは、昔ばなし(民話)の”異郷訪問譚”や”冥界訪問譚”のような感じがしないでもありません。それが非正規雇用や携帯電話やインターネットやコンビニや通販などの現代的な風景と対置して描かれているのでした。

私たちが生きるこの日常を書きことばの制約のなかで描くとすれば、こんな虚実入り混じったような手法でしか描けないのかもしれません。このように意味をはく奪しなければ見えてこない世界があるのではないか。私たち自身、たとえばふとしたことで疑心暗鬼にとらわれたりすると、その途端に世界が奇妙にゆがんで見えてくるのはよくあることです。私たちは、世事にわずらわされながら、一方でそうやって意味不明な世界で生きているのです。でも、それは無視できないもうひとつの世界です。

いろんな場面で流れている蝉の声や自分の目の前にある微細な世界を描写する箇所などに作者の感受性が見てとれますが、ただ、この小説で使われていることばは総じて平板です。その意味では、川上未映子が登場したときのような衝撃はありませんが、でも味わいのある読後の余韻の残る小説だと思いました。
2014.02.18 Tue l 本・文芸 l top ▲
サイゾー2014年2月号


タレントの大沢樹生と喜多嶋舞の”実子騒動”は、年が明けても未だつづいていますが、私は、その”騒動”を見るにつけ、月刊『サイゾー』(2月号)の鼎談「マル激トーク・オン・デマンド」(希望なき日本社会に求めらる「正しさ」)で、宮台真司が言っていた「感情の劣化」ということばを思い出しました。

父親の大沢樹生がDNA鑑定の結果を公けしたのは、そのタイミングからみて、自身が監督した映画「鷲と鷹」の話題づくりのためではないかという疑いはぬぐえないのですが、それにつけても長男はまだ17歳の少年なのです。それを考えれば、大沢樹生は「畜生」のような父親だと言われても仕方ないでしょう。未成年の長男にどんな影響を与えるかということを考えないのでしょうか。

また、”騒動”に便乗して無責任なデバガメ記事を書いている女性週刊誌や他人の不幸は蜜の味とばかりにえげつない噂話にうつつをぬかしている世間の人間たちも、大沢同様、「畜生」と言わねばならないでしょう。私のまわりを見ても、人権という問題の本質に目を向ける人はほとんどいません。彼らの関心はただ実の父親が誰かということだけです。そのために、あのおなじみの「ふしだらな女」の論理が持ち出されるのでした。私が知る限り、正論を吐いていたのは、「公表する神経が全く分からない」と言っていた坂上忍だけです。

私は、この”実子騒動”には今の日本の社会の姿が映し出されているように思えてなりません。そして、ネトウヨのヘイトスピーチや日本テレビの連続ドラマ「明日、ママがいない」や籾井NHK会長の慰安婦発言なども、すべて同じ根っこでつながっているように思えてならないのです。そして、その大元にあるのが、「教養のなさや独りよがりが有名」な”アベちゃん問題”です。

宮台真司は、”アベちゃん問題”について、つぎのように言ってました。

(略)性愛に例えると、安倍晋三は愛情を履き違えた<粘着質>の類です。頭山満のごとき真の右翼なら、自国に愛国者がいれば相手国にも愛国者がおり、自分が憤る事柄で相手も憤り、自分が宥和する事柄と等価な事柄で相手も宥和することを弁えるから、諸般を手打ちできます。
 ところが安倍総理の類は相手国を鬼畜呼ばわりするだけの出来の悪い水戸学派。自分の感情を表出するだけなので関係を壊し、手打ちによる落とし所を失います。もうそうなっていて、戦争でアベノミクスの成果が灰燼に帰するかもしれません。自分の感情を表出するだけの<粘着厨>が、ストーカー行為を通じて恋愛を実らせる可能性は0%。なのにストーカーを続ける。よく似ています。


アベノミクスの先に国債の暴落や財政破綻を指摘する専門家も多く、今の株高も「売るために買っている」外国人投資家に支えられているにすぎないのに、誰もその”不都合な真実”を見ようとはしないのです。そして、「国土強靭化計画」なるヒットラーばりのネーミングの公共事業の大盤振る舞いが復活して、国の借金などどこ吹く風のような様相を呈しているのです。夢野久作ではないですが、唯物功利の惨毒に冒された拝金亡者たちが「愛国」を叫ぶこの悪夢のような光景。「感情の劣化」は、こんな「底がぬけた」なんでもありの状況に符号していると言うべきかもしれません。

文芸評論家の中島一夫氏は、「週刊読書人」(1月31日号)の論壇時評で、「冷戦後を生きはじめた言論空間」と題して、「ネット右翼の発生を、日本社会の右傾化や、社会的格差の拡大や貧困が生み出す鬱積といった一国的な視点ではなく、ソ連崩壊と冷戦の終焉によるグローバルなパラダイムチェンジに見出している」右派の論客・古谷経衡氏の視点を高く評価しているのですが、これなども「朝鮮人を殺せ!」というヘイトスピーチの問題の本質を見てないという点では、”実子騒動”と同じ「感情の劣化」の所産であると言わねばなりません。このように俗情と結託する批評もまた例外ではないのです。

先の国会の所信表明でも、安倍総理は「強い日本」「強い経済」などやたら「強い」という単語を連発していましたが、そうやって「強い日本」を強調したり、日本人は世界の人たちからリスペクトされているというようなテレビ番組で「すばらしい日本人」を”自演乙”する一方で、私たちは逆に日本人として人間としていちばん大事なものを忘れつつあるのではないでしょうか。中国や韓国を嗤う資格がホントにあるのかと言いたくなります。
2014.02.02 Sun l 本・文芸 l top ▲
101年目の孤独


高橋源一郎のルポルタージュ『101年目の孤独』(岩波書店)を読みました。「弱者」と呼ばれる、さまざまなハンディを背負って生きている人たちのもとを訪ね、作家のナイーブな感性で、彼らとの出会いを語り、そして、彼らの存在に光を当てる、そのことばはとても静謐でやさしさに満ちているのでした。それは、かつて失語症を経験した著者らしいことばだと思いました。

 ダウン症の子どもたちのアトリエ、クラスも試験も宿題もない学校、身体障害者ばかりの劇団。それから、重度の障害者を育ててきた親たちが、そんな彼らのために国や県を動かして作った施設、あるいは、平均年齢が六十歳を超える過疎の島で原発建設に反対する人たち、認知症の老人たちと共に暮らし最期まで看取ろうとしている人たち。あるいはまた、夜になると公園や駅の近くを歩き回り、病気のホームレスたちを探し、施設に入れ、あるいは彼の行く末を考えている人たち。
 ひとつの単語にすれば「弱者」ということになってしまうだろう、彼らのいる場所を訪ねるようになった理由の一つに、好奇心があることは否定しない。
 けれど、もっと大きな理由は、別にある。いや、大きな理由が他にあったことに、わたしは、途中で気づいた。それは、その「弱者」といわれる人たちの世界が、わたしがもっとも大切にしてきた、「文学」あるいは「小説」と呼ばれる世界に、ひどく似ていることだ。


著者は、「彼らがわたしたちを必要としているのではない。わたしたちが彼らを必要としているのではないか」と言います。そして、つぎのようにつづけるのでした。

 彼ら「弱者」と呼ばれる人びとは、静かに、彼らを包む世界に耳をかたむけながら生きている。彼らには、決められたスケジュールはない。彼らは、弱いので、ゆっくりとしか生きられない。ゆっくりと生きていると、目に入ってくるものがある。耳から聞こえてくるものがある。それらはすべて、わたしたち、「ふつう」の人たちが、見えなくなっているもの、聞こえなくなっているものだ。また、彼らは、自然に抵抗しない。まるで、彼ら自身が自然の一部のようになる。わたしたちは、そんな彼らを見て、疲れて座っているのだ、とか、病気で何も感じることができなくなって寝ているのだ、という。そうではないのだ。彼らこそ、「生きている」のである。
 「文学」や「小説」もまた、目を凝らし、耳を澄まさなければ、ほんとうは、そこで何が起こっているのか、わからない世界なのだ。


次男が急性脳炎で国立成育医療センターに運ばれ、2か月の間、同センターに通っているうちに、著者は、同じように重い病にかかって入院している子どものもとに通ってくる母親たちの表情がとても明るいことに気づいたのでした。それで、著者は、3つの難病を抱え、もう何年も自宅に帰ってない6歳の子どもをもつ母親に、どうしてそんなに明るくなれるのか、病気の子どもの傍にいることは苦痛ではないのか、訊ねたのでした。すると、母親はこう答えたそうです。「だって、可愛いんですもの」

この当たり前のことば。この母親のことばは、なんと私たちの胸に響いてくるでしょう。人間や世の中というのは、私たちが考える以上に簡潔で素朴なものではないでしょうか。だからこそ、そこから生まれることばは私たちの胸に響くのではないか。

著者は、イギリスにあるマーチン・ハウスという「子どもホスピス」をNHKのスタッフとともに訪ねます。そこで出会ったベアトリスという4歳の女の子。彼女のその深いブルーの瞳によって射抜くように見つめられているのを感じながら、こう思うのでした。

(略)いままで味わったことのない感情が、わたしのなかで動いていた。
 それは、マーチン・ハウスの中を歩きながら、その中で、人びとと話しながら、感じたものでもあった。いや、次男が、医者から宣告を受け、そして、いろんな場所を訪ねるようになってから、いつも、少しずつ感じていたものでもあった。
 わたしは、まだ、それをうまく説明することができない。すぐにことばにすることができない。でも、それは、「ある」のだ。
 それは、わたしが、小説とか、文学というものを書いている時、感じるなにかでもあるような気がした。


ベアトリスは、父親のアンドリューに「わたし、死ぬの?」と訊ねたそうです。「子どもホスピス」の子どもたちは、よくその質問をするそうです。しかし、それはみんな一度だけです。その理由を訊いたら、スタッフはこう答えたそうです。「知りたいことは一度でわかるのです。そして、それ以上、訊ねることが親を苦しめることを、よく知っているからです」と。

マーチン・ハウスのチャプレン(聖職者)は、「ここは悲しみの場所ではない」と言います。それは、悲しみだけの場所ではないという意味なのでしょう。死は悲しみだけではないのです。著者もつぎのように書いていました。

(略)こんなにも夥しい死に囲まれているのに、ここは,なんと清冽で、なんと明るい場所なのだろうか。ここで、人びとは、たくさんの話をする。それも、ゆっくりと、それから、同時に、たくさんの沈黙を味わう。そして、静かに、また考える。ここでしか感じることができない時間が流れている。


私は、以前、東京郊外のキリスト教系の病院のホスピス病棟を訪ねたことがありました。その病棟は、木々に囲まれ、チャペルの横にありました。長い廊下を歩いていくと、ほかの病棟とは違った静かでゆったりとした時間が流れているような気がしました。

ちょうどひとりの患者さんが息をひきとったところでした。家族も病棟のスタッフたちも、とても落ち着いてそのときを受けとめている感じでした。

ふと見ると、隣の病室では、年老いた男性の患者がベットの端に腰かけて朝刊を広げていました。音声が消された枕元のテレビでは、ミニスカートの女性キャスターが口をパクパクさせて今日の天気を伝えていました。また、廊下の向こうでは、清掃スタッフのおばさんがゴミ袋を手に、リネン室や看護師の詰所のゴミを回収していました。モップを手にした別のおばさんもいました。

死を前にしても、そうやっていつもの朝が来ていつもと変わらない一日がはじまる。その光景を目にした私は、感動すら覚えたのでした。深い悲しみのなかにある家族にとって、いつもの日常がすぐそばにあるというだけで、どんなに救いになるでしょう。死は特別なものではないのです。むしろ当たり前のこととして私たちの前にあるのです。

愚劣な政治とそれに随伴する愚劣な文学。その背後で進軍ラッパのように鳴らされる「永遠のゼロ」のような動員のことば。そこにあるのは、国家の名のもとに、死を特別なものに祭り上げる政治の(偽善の)ことばです。

著者は、重症心身障害児の通所施設で、重症心身障害をもって生まれた赤ん坊を抱かせてもらったときのことをこう書いていました。腕のなかの赤ん坊は、たじろぐほど強い視線で自分を見つめていたと言うのです。

 わたしが生涯を捧げようとしている「文学」というものが何に似ているか、と訊ねられたら、わたしは、あの時、抱いていた赤ん坊のことを思い出すのである。


私たちが求めることばは、このような文学のことばです。どこまでもナイーブでどこまでも静謐でどこまでもやさしいことば。当たり前とかいつもの日常というものがかけがえのないものであることを、教えてくれるようなことばです。そんな私たちの胸深くに降りてくることばなのです。
2014.01.05 Sun l 本・文芸 l top ▲
老人漂流社会


年の瀬もおしせまりましたが、ご多分にもれず、この時期になると、いつにも増して「人身事故」で電車が停まることが多くなります。一方、安倍晋三首相は、アメリカの警告を無視して、突然、靖国神社に参拝し、カルトな(歴史修正主義的な)ナショナリズムを煽り、海外から「挑発的だ」「周辺国との関係改善に逆行する」と批判を浴びました。このふたつのニュースは、今のこの国を象徴する光景だと言えます。

高橋源一郎氏は、朝日新聞の論壇時評で、この国の政治家が「DVの加害者に酷似しつつある」と書いていましたが、まさに言い得て妙だと思いました。まるで足手まといであるかのように、「弱者」をバッシングし切り捨てる一方で、国を愛せよと「愛国心」を強いる政治家たち。「愛国」の声が大きくなればなるほど冷たくなっていく社会。

今年の1月20日に放送されたNHKスペシャル「終(つい)の住処(すみか)はどこに 老人漂流社会」を書籍化した『老人漂流社会』(主婦と生活社)で紹介されているのは、経済功利主義のもとで「死に場所もなく、さまよい続ける」老人たちの非情な現実です。

この番組のポスターには、つぎのような衝撃的なキャッチフレーズが付けられていました。

歳をとることは罪なのか。

 「迷惑をかけたくない」と高齢者が思い込む原因を作っていたものは、誰もが高齢者になるにもかかわらず、高齢者を排除してきた私たちの社会だ。
 お年寄りを敬いなさい ― かつての日本、私たちが子どものころは、そう教えていたはずだった。しかし、競争社会の激化が価値観を変えてしまったのだろうか。いつの間にか、お年寄りを”ノロマの役立たず” ― そんな目で見下すようになってしまったような気がする。誰もが歳を重ね、いつかは高齢者の仲間入りをするにもかかわらず、現役世代の私たちは、どこかで線を引き、壁を作ってしまったのではなかろうか。


 歳をとることが罪だとお年寄りたちが感じてしまう今の日本。超高齢社会を迎え、これから成熟期に入らなければならないときに、その多くを占める高齢者が主役になれない。たとえ脇役だとしても、前を見ることをどこか恥じ入り、目を伏せて生きていかなければいけないという社会 ― やはりそれはおかしいだろう。


番組では、高齢になり身体の自由がきかなくなったひとり暮らしの老人が、「病院から病院、そして短期滞在の介護施設(ショートステイ)へと、居場所を転々とせざるを得ない」現実が、丹念な取材のもとに描かれていました。これが「老人漂流社会」と言われるこの国の現実なのです。

背景にあるのは、「高齢化」と「単身化」と「貧困化」の超高齢社会の現実です。

2012年団塊の世代が65歳に達し、65歳以上の高齢者人口が3000万人を超えました。そして、2040年まで高齢人口は増えつづけ、ピーク時には3800万人になると推計されているそうです。

また、高齢者の「単身化」も同時に進行しています。生涯独身や離婚等で、高齢者の単身世帯は急激に増えており、既に2012年の時点で500万所帯を超えているそうです。さらに、「単身高齢者世帯」の予備軍とも言うべき高齢者同士で暮らす世帯も、1000万所帯を超えているのだとか。このように、「家族がいることを前提にした社会保障制度は、もはや機能不全を起こしている」のが現実なのです。

一方、「貧困化」も深刻な問題です。2012年現在、月に6万6000円(満額)の国民年金だけで生活している人は、800万人程度いるそうです。なかでも単身世帯の場合、年間200万円未満の公的年金受給者は、全体の79.5%(2011年厚生労働省統計)で、さらに年間100万円未満(月に8万3000円以下)の人は41.8%にものぼるそうです。

そんな生活のなかで、病気をして身体の自由がきかなくなり、病院や施設の間を行ったり来たりして預貯金を使い果たせば、あとは生活保護に頼らざるを得ません。今の生活保護受給者215万人の背景には、このような「貧困化」する高齢者の問題が伏在しているのです。

みずほ情報総研・主任研究員の藤森克彦氏は、「日本は主要先進国のなかでも高齢者の貧困率が高い」と指摘しているそうです。なかでも単身世帯の貧困率が高く、高齢男性の貧困率は38.3%、女性は52.3%にのぼっているそうです。

「一般的に『日本の高齢者は豊かだ』と言われますが、それは幻想です。数字を見ると、はっきりわかる。なかでも単身の高齢者や、未婚者・離婚者の貧困率が高い。今後、単身化や未婚化という傾向は一段と高まっていくことが予想されていて、より高齢者の貧困率が高まっていくことが懸念されます」と警鐘を鳴らす藤森氏。

年金受給額が年100万円未満の人の場合、身体の自由がきかなくなったら、現実的には(費用の面で)入ることができる施設は、特養(特別養護老人ホーム)しかありません。でも、特養は圧倒的に数が不足しており、入所待ちが2年とか3年の場合が多い。そのために、療養病床の病院や老健施設や介護施設のショートステイを出たり入ったりするしかないのです。そうするうちに預貯金も財産もなくなり、より「貧困化」に拍車がかかるのです。

そして、そんな低収入の老人が行き着く先のひとつに、「無料低額宿泊所」や「簡易宿泊所」があります。私も若い頃、ボランティアで通っていたことがありますが、いづれももともとはホームレスの人たち向けに作られた「宿泊所」です。

家庭の事情で父親の面倒を見ることができない娘が、自治体の福祉課に相談に行ったら、担当者からこう言われて、ショックを受けたそうです。

「子どもが親の面倒をみられないというなら、生き先を見つけるのは簡単じゃないですよ。収入も限られているようですし、ホームレスの人たちが入るような施設に行ってもらうしかないですね」


これが、知能程度だけは「庶民的」なおぼっちゃま総理大臣が「国を愛する」ことを強いる国の現実です。

私たちにとって、『老人漂流社会』に登場する老人たちは、決して他人事ではありません。彼らは、明日の自分の姿でもあります。私たちは、ともすれば自分の老後のことは見ないように考えないようにする傾向がありますが、それは、老後が見たくない、考えたくない、嫌なことであり、不安なことだからです。

でも、「高齢化」「単身化」「貧困化」は、自分自身の問題なのです。「国を愛する」ということは、この国の総理大臣のように、株価の上昇に国の価値を求め、カルトでヘイト(民族排外主義的)なナショナリズムの妄想にとりつかれて近隣諸国を挑発することなのか。生きることに絶望して電車に飛び込む人たちや、「漂流」の果てに誰に看取られることなくひとりさみしく死を迎える老人たちのことを考えるとき、「国を愛する」というのはどういうことなのかをあらためて考えざるを得ません。

5年前に夫を亡くした40代の女性が、取材班に寄せたつぎのような声も、なんの不自由もなく育ったおぼっちゃま総理大臣には、所詮馬の耳に念仏なのかもしれませんが、でも私は、こんな女性のような思いのなかにこそ「国を愛する」ことの意味があるように思えてならないのです。

 夫の死後、ダブルワークをしながら、娘と必死で生きてきました。番組の内容は、私の将来を見ているようで暗澹たる気持になりました。ああした結果になるのは、自己責任なのでしょうか・・・。
 ほとんどの人は、幸せになりたくて真面目に生きています。そのなかで、ふとしたきっかけで落ちてしまったら、今の日本の社会は這い上がるのが厳しい気がいたします。同じ時代に生きている仲間なのですから、助け合って、息のしやすい社会になってくれたらと思います。ひとりでも多くの人が仲間を思い、手を差し伸べてくださる社会になりますように・・・。


>> 「福祉」の現場
2013.12.29 Sun l 本・文芸 l top ▲
ユーミンの罪


酒井順子の『ユーミンの罪』(講談社現代新書)を読みました。

この本は、1973年の「ひこうき雲」から1991年の「DAWN PURPLE」までの20枚のアルバムに収められた楽曲を仔細に辿ることによって、70年~80年代の若い女性たちがどうしてあんなにユーミンに惹かれていったかを解明する、いわば若い女性たちの精神史とも言うべものです。ちなみに、著者の酒井順子は、立教女学院高校でユーミンの後輩に当たるそうです。

ユーミンのなにが「罪」なのか。酒井は「あとがき」でつぎのように書いていました。

 女が内包するドロドロしたものも全て肯定し、ドロドロをキラキラに変換してくれた、ユーミン。私達は、そんな風に甘やかしてくれるユーミンが大好きでした。ユーミンが描くキラキラと輝く世界は、鼻先につるされた人参のようだったのであり、その人参を食べたいがために、私達は前へ前へと進んだのです。
 鼻先の人参を、食べることができたのかどうか。それは今もって判然としないところなのですが、人参を追っている間中、「ずっとこのまま、走り続けていられるに違いない」と私達に思わせたことが、ユーミンの犯した最も大きな罪なのではないかと、私は思っています。


酒井は、ユーミンは「瞬間」を歌にする人だと言います。ストーリーやイデオロギーや感情そのものを歌にするのではなく、「感覚であれ、具体的な事物であれ、一瞬『あ』と思ったこと、一瞬強力に光ったもの」、その瞬間をすくい上げ、歌に仕立てていくのだと。

 「日差しがこうだとか、波の具合がこう」(略)といったシチュエーションは、幸福な人しか切り取ることができないし、また幸福な人しか享受できないものです。喰うや喰わずの人にとって、日差しとか波とかの具合いなど腹の足しにもならぬでしょうし、健康でない人にとっても然り。すなわちユーミンの歌は、平和で満ち足りた世であるからこそ誕生し、そして人々に受け入れられていったものではないでしょうか。


私は、この酒井の分析は、吉本隆明が『重層的な非決定へ』(大和書房1985年刊)で書いていたつぎのような文章と符合しているように思えてなりません。吉本隆明もまた「肯定の思想」(現代思想2008年8月臨時増刊号)と言われた人でした。

『an an』(1984年9月21日号)が、「現代思想界をリードする吉本隆明のファッション」と題して、コム・デ・ギャルソンを着た吉本の写真を掲載したことに対して、埴谷雄高が、コム・デ・ギャルソンなんて「日本を悪魔」と呼ぶアジアの民衆を収奪した「ぼったくり商品」ではないかと批判し、吉本と埴谷の間でいわゆる「コム・デ・ギャルソン論争」がおきたのですが、その公開書簡のなかで吉本は埴谷につぎのように反論していました。

 埴谷雄高さん。
総じて消費生活用の雑誌は生産の観点と逆に読まれなくてはなりませんが、この雑誌(引用者注:『an an』)の読み方は、貴方の侮蔑をこめた反感とは逆さまでなければなりません。先進資本主義国日本の中級ないし下級の女子賃労働者は、こんなファッション便覧に眼くばりするような消費生活をもてるほど、豊かになったのか、というように読まれるべきです。


そして、吉本隆明はつづけて、埴谷の「左翼性(左翼的倫理)」をこう批判します。

やがて「アンアン」の読者である中学出や高校出のOLたち(先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち)が、自ら獲得した感性と叡知によって、貴方や理念的な同類たちが、ただ原罪があると思い込んだ旧いタイプの知識人を恫喝し、無知の大衆に誤謬の理念を根付けるためにだけ行使しているまやかしの倫理を乗り超えて、自分たちを解放する方位を確定してゆくでありましょう。


これを吉本は、「理念神話の解体であり、意識と生活の視えざる革命の進行」であると言います。この時代、セゾングループは感性の経営を謳歌し、私たちに最先端の消費文化を提示しました。ユーミンの歌に、そんな爛熟した資本主義の「豊かな」時代の気分が横溢していたのは間違いないでしょう。

しかし一方で、その「豊かさ」もまた、絶えざる差異化という資本主義のオキテから逃れることはできないのでした。それは、恋愛も例外ではありません。

酒井順子は、ユーミンの歌について、「助手席性」・時間の不可逆性・「軍歌」・「額縁性」などといったキーワードを使って詳細に分析していましたが、私がいちばん象徴的だと思ったのは「助手席性」です。

ユーミンの歌の主人公たちは、「中央フリーウェイ」のように、助手席にすわり、助手席の自分に満足している場合が多いのですが、しかし、それは必ずしも受け身な「古い女性」を意味しません。女性たちは「選ばれる人」ではなく「選ぶ人」なのです。どの助手席にすわるのかを「選ぶ権利」は、あくまで自分にあるのでした。

それは、スキーやサーフィンをしている彼が好きというより、スキーやサーフィンをしている彼を持つ自分が好き、という感覚です。スキーやサーフィンのみならず、「スポーツカーに乗る彼を持つ私」でもいいし、「××大学に通う彼を持つ私」でもいいでしょう。


たとえば、「ノーサイド」でも(先日の国立最後の早明戦でユーミンが歌った「ノーサイド」は感動ものでしたが)、ラブビー部の、しかも中心選手の彼の活躍をスタンドから見ている自分という、属性やシチュエーションが肝要なのだと言います。

それは、当時の女子大生の間に、「へら鮒釣り研究会とか奇術研究会の彼を持つよりも、体育会のクラブに所属する彼を持つ方が、ヒエラルキー的には上、そして体育会の中でも、バドミント部とか少林寺拳法部より、ラグビー部やアメフト部の方が上」という序列があったからです。そして、その先に、三谷友里恵に代表されるような”お嬢様ブーム”があったと言うのです。

もちろん、そういったヒエラルキーが消費生活の進化に伴う差異化、つまりブランド化と軌を一にしていることは言うまでもありません。ユーミンは、そんな時代の意匠を甘美なメロディに乗せて描く天才だったと言ってもいいのではないでしょうか。

でも、そんな時代の気分もバブル崩壊とともに大きく変質していきます。

今の若者が歌の歌詞に求めるのは、心のしんどさに対して、対症療法的効果を持つ言葉。「心の傷を癒すためにアカプルコを旅する」といった非現実的なシチュエーションよりも、「あなたは悪くない。そのままでいいんだよ」と言ってもらいたいのです。


こんな屈折もロマンもないベタな時代は、酒井が言うように、ユーミンに限らず歌を作る人間たちにとって、しんどい時代だと言えるのかもしれません。もう「私をスキーに連れてって」の時代ではないのです。助手席にすわって、甘い夢に酔いしれる時代でもないのです。今や苗場プリンスホテルの恒例のコンサートに来ているのは、ほとんどが「ポロシャツの襟を立て」たり「脱いだセーターを肩にかけている」ような(時間が止まった?)中年の男女だと言うのも頷ける気がします。

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2013.12.18 Wed l 本・文芸 l top ▲