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東電OL殺人事件に再審の可能性が出てきたという読売新聞の報道が一気にマスコミ全体をおおい、それにつれネットもまたたく間に関連記事であふれたのが先週のことです。そして、4年前に書いた私の記事(東電OL殺人事件)が1日でアクセスが4万を越えたのは前に書いたとおりです。

東電OL殺人事件に関しては、『創』の篠田博之編集長がブログ(メディアウォッチ)で、一過性の「大報道」ではなく、長期的にフォローしていく姿勢が大事だと書いていました。そうすることで、世論が形成され、裁判所を動かすことも可能になるのです。

ところで、驚異的なアクセスを記録した私の記事ですが、3日後にはアクセスが10以下に激減しました。4万から10以下という、遊園地のフリーフォールのような落差に一瞬失神しそうになりましたが、これにはちゃんとした理由があったのです。

それまで「東電OL殺人事件」や「東電OL」や「東電OL事件」などのキーワードで10位以内に表示されていたのが、一気に150位以下に急降下したからです。そのために、それらのキーワードでアクセスしてくる方がほとんどいなくなったのでした。

別に恨みごとを言いたいわけではなく、これは検索エンジンを考える上でいい事例になるように思います。

ブログの場合、常に新鮮な記事を掲載するという性格が検索エンジンにはあります。いつまでも古い記事ばかり並んでいたのでは情報の鮮度が落ちるというのはそのとおりでしょう。そのために、今回のような大きな関心を呼んだテーマでは、ウィキペディアなどの一部の記事を除いて、トップページから新聞記事をなぞっただけのような似たような記事で埋まることになるのです。

その結果、(私の記事のことは別にして)みんながあまり関心がなかった頃から事件に注目して書いていたようなオリジナルな記事は、ただ古いというだけで人の目に触れない下位に追いやられてしまうのです。

事件に対する視点ということでは、どちらに”価値”があるかは言うまでもないでしょう。個人的には、そうやってみんなが関心がなかった頃から、事件に注目していたような人たちが、今回の新展開についてどう考えているか聞きたい気がしますが、「お気に入り」に入れてない限り、検索してさがすのはもう至難の業です。

そうやってコピペまがいの似たような記事で埋め尽くされることに(しかも同じ記事が何度も出てくる)、一体なんの意味があるんだと言いたいけど、もとより検索エンジンというのはその程度のものなのです。

どれだけ「良質な」ページからリンクされているかを評価する「PageRank」にしても、間違ってもサイトそのものの”質”や”価値”をはかるものではありません。あくまでGoogleが設けた便宜的な指標にすぎないのです。ネットではどうしてもひとつの色や方向に染まってしまう傾向(同調圧力)がありますが、それは水が低い方に流れるネット住人たちの民度の問題だけではなく、こういった検索エンジンの性格に依るところも大きいのです。

だからこそ、もっといろんな検索エンジンが登場して競合するなかで、ユーザーの選択の幅を広げることが大事なのではないでしょうか。そうすることによってしか、ネットでの言論の多様性は保障されないのだと思います。

その意味では、YahooがGoogleの検索エンジンを選択してGoogleのシェアが95%以上になった今のこの状況は、諸々の事情を考えればやむをえなかったにしても、やはり「異常」だとしか言いようがありません。一応、中国には百度があり、韓国にはNAVERがありますが、日本にはそれに代わるものがありません。ネットもまた骨の髄まで対米従属なのです。

しかも、前も書きましたが、多くの人が指摘しているように、最近はGoogleの「arrogant(傲慢)」な傾向がますます強くなっています。Googleの検索画面をみればわかりますが、「ショッピング検索」や「画像検索」や「動画検索」など、昔に比べてゴチャゴチャして非常に見づらくなっていますが、それもGoogleが検索をとおしてユーザーを囲い込みたいがためなのです。私たちが感動したかつてのイメージはもはやなく、最近はこのようにえげつなさ・セコさばかりが目立つようになりました。

今のようなGoogle一党独裁のネット状況は、決して好ましいものではありません。今の状況ではないものねだりかもしれませんが、やはり第二第三のGoogleの登場が待ち望まれてなりませんね。それがGoogleのいう「民主的な」ネットの本来の姿ではないでしょうか。
2011.07.30 Sat l ネット・メディア l top ▲
竹中労 没後20年・反骨のルポライター

今日、河出書房新社の「KAWADE 道の手帖」シリーズの竹中労特集(「竹中労 没後20年・反骨のルポライター」)を買ったら、浅草キッドの水道橋博士のインタビュー記事「俺の根本はやっぱり竹中労なんだ」が出ていました。水道橋博士も竹中労ファンだったことは前から知っていましたが、私が注目したのは、水道橋博士が今回の原発事故について、発言していたことです。

というのも、浅草キッドは、「東電、電事連のPR記事の常連」で、原発の広告塔をつとめていたからです。あろうことか、事故発生時に店頭に並んでいた『週刊現代』(3月19日号)でも、「浅草キッドが行った!見た!聞いた! 原子力発電最前線」というパブ記事に登場し、刈羽柏崎原発を訪問した印象をつぎのように語っていたそうです。

今から3年前の7月16日、マグニチュード6.8の中越沖地震に見舞われたわけですが、とくに大きな事故がなかったということは特筆すべき点ですよね。
(『別冊宝島1796号・原発の深い闇』 中田順「『原発文化人』の妄言メッタ斬り!」より)


「安全第一で運営されていることを知りました。東京電力さんにはこうした事実をどんどんアピールしていってほしいですね。そして、『安全供給しているんだ!』ってガツンと言ってもらったほうが、安心できますよね。」(玉袋筋太郎)
「あらゆることをオープンにして理解してもらおうという電力会社の方向転換の姿勢が強く印象に残りました」(水道橋博士)
(前掲書 佐々木圭一「週刊誌・新聞の『東電広告』出稿頻度ワーストランキング!」より)


今思えば、これほどトンマな芸人もいませんが、これらは、師匠・ビートたけしのつぎのような発言と見事にリンクしているというべきかもしれません。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


上記の記事で中田順氏が書いているように、これじゃ「稀代の欠陥商品」をPRする「詐欺師の一味」だと言われても仕方ないでしょう。

しかも、事故が発生したら、みずからの発言などどこ吹く風で、放射能を怖れて家族を愛知県の奥さんの実家に避難させたのだとか。

彼の行動について、彼も愛読していたという『噂の真相』の元編集者の神林広恵は、『日刊サイゾー』で、「もちろん小さな子どもがいるのだから、こうした判断も当然だ。だが、直前に『原発は大丈夫』と言った自身の言動への自己批判、いや言及さえ一切ないのはいかがなものか。」と批判していました("原発擁護"芸能人に強まる風当たり インテリ芸人・水道橋博士はどう動く?)。

かつての愛読誌の編集者からこう言われたのではさぞやショックだったでしょうが、どう弁解しようとも、広告塔であった事実とその罪は消えるものではありません。要するに、高額なギャラに目が眩んで魂を売ったのではないのか。だったら、神林広恵が書いているように、正直にそう言えばいいのです。

しかし、このインタビュー記事でもそんな反省はうかがえません。少し悩んではいるようですが(高円寺の反原発デモに参加していたという目撃談もありますが)、たとえば、(私も前にとり上げた)『週刊現代』での佐野眞一氏と原武史氏との対談で、佐野氏が東浩紀やホリエモンを「被災地の実情も知らないで発言している」と批判していることに対して、「じゃあ現場に行った奴しか発言権はないのか?」「俯瞰で見るからこそ言える意見だってある。」などと子どものような屁理屈で”反論”する始末です。なんだかそれは遠まわしに自己弁解しているように聞こえないこともありません。

週刊誌草創期に、『女性自身』の名物記者として、いわゆる「芸能の論理」をひっさげて、今日の芸能ジャーナリズムの原型をつくったといわれる竹中労について、この本に所収されている論考「『トップ屋』竹中労はなぜ芸能記事を捨てたか」で関川夏央は、つぎのように書いていました。
 

竹中労は芸能人をおなじ仲間とみなした。社会の底辺にあって技芸だけで生きる、その技芸で世間に衝撃と影響を与えることができるという意味で、トップ屋と芸能人はおなじだと考えた。「芸があるひと」「性格のいいひと」「性格は悪いが芸のあるひと」はみとめたが、「芸のない有名人」と「分をわきまえず偉ぶる芸人」を徹底して憎んだ。


また、たけしのフライデー事件についても、「芸能人にプライバシーがないのは当たり前」だとして、つぎのように言っていたそうです。

 この世の中には面(つら)はさらしたい、有名にはなりたい、ゼニは稼ぎたい、自分の生活は隠しておきたいなんてそんなムシのいい話はないでしょう。


インタビュー記事のなかで、この混迷の中にあって竹中労がいたら何を言ったと思うかと質問されて、彼は、「どうだろう、もしかしたら、東電側に立っていたかもしれない」と答えていましたが、表では差し障りのないお約束の「毒舌」を吐きながら、裏では「強い人」「偉い人」に揉み手をして媚びへつらう北野武や水道橋博士のような”二枚舌”を、竹中労は絶対に許さなかったはずです。竹中労を読んでいるなら、それくらいわかるはずで、これも自己弁解のひとつなのでしょう。

どう考えても(逆立ちしても)、竹中労ファンであるということと、原発の広告塔であったという事実に整合性はないのです。竹中労ファンのひとりとして、論語読みの論語知らずの水道橋博士には、もう竹中労のことを語ってほしくないと思います。
2011.07.29 Fri l 芸能 l top ▲
叔父が亡くなり、そのことで田舎の母親と電話で話したり、また、田舎の同級生から電話がかかったりと、このところ田舎と連絡をとることが多かったということもあって、自分でも不思議なくらい郷愁におそわれています。

別に啄木のように石もて追われたわけではありませんが、私はもともと田舎(ふるさと)が好きではありません。だから、私にとっての郷愁は、どっちかと言えば、子どもの頃の記憶に出てくる田舎の風景のなかにあります。私が田舎が嫌いなのをよく知っている同級生から、「気持はようわかるけど、とにかく一度帰っち来(く)りゃいいのに」と言われました。また、先日は夢のなかに死んだ父親が出てきて、その日一日は夢の余韻でちょっとしんみりした気持になりました。

それで、ふと思いついて久しぶりに、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読み返しました。この物語を初めて読んだのは、16才のときです。前年に発症して3ヶ月入院した病気が再発し、二度目の入院をしたときでした。

入院の日、父親と二人でタクシーに乗って入院先の国立病院に向かったのですが、途中繁華街を通りかかったら、突然父親が、タクシーの運転手さんに「ちょっとここで待っててくれますか」と言って、一人でどこかへ出かけて行ったのです。そして、しばらくして戻ってきた父親は、「ほら、これ」と言って、私にデパートの包装紙に包まれた小さな箱を差し出したのでした。「なんだろう?」と思って箱を開けたら、そこには腕時計が入っていました。そのセイコー5(ファイブ)の自動巻きが、私にとって初めての腕時計でした。本人は知る由もないのですが、再発したということもあって、病状はかなり深刻だったようです。腕時計は、そんな不憫な息子に対して精一杯の親心だったのかもしれません。

そのとき、入院用の寝巻や下着などと一緒にバックに入っていたのが、宮沢賢治の本でした。「風の又三郎」もそうですが、「銀河鉄道の夜」も私にとっては、そんな思い出とともにあります。そして、あらためて「銀河鉄道の夜」を読み返すと、胸がいっぱいになるくらいいろんな思い出がよみがえってくるのでした。

 坂の下に大きな一つの街灯が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電灯の方へ下りて行きます、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。


こんな感受性をゆさぶるような情景描写が宮沢賢治の作品の魅力ですが、こういった箇所にも私の思い出が重なるのでした。私は、小学校にあがると毎晩、坂道を下った先にある祖父母の家に泊まりに行くのが日課になっていました。夜遅く、ひとりで坂道を下るのはすごく怖くて、いつも脇目もふらず一目散に走って下っていました。そのとき、街灯に照らされた自分の影にいつも追いかけられているような気持になりました。そして、いつの間にかそんな世界のなかで物語を演じている自分がいました。

主人公のジョバンニは、ケンタウル祭(星祭り)の夜、きらびやかな灯りが遠くに輝き、「子どもらが歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞こえて来る」、そんな街を見下ろす丘の上にひとりでやってきたのでした。そして、そこから幻想的な銀河鉄道の旅がはじまるのですが、こういったところにも、運動会の日に喧噪を離れてこっそり校舎の裏を訪れるのが好きだったという子どもの頃の自分がよみがえるような気がするのでした。

銀河鉄道に乗り合わせるのは、みんな亡くなった人たちです。それはあたかも死後の世界に向かっているかのようです。ただ、吉本隆明が書いていたように、その死後の世界(天上の世界)は、信仰する対象によって、人それぞれ違うのです。妹トシの死と信仰する法華経を通してそこにたどり着いた宮沢賢治は、この物語では主人公のジョバンニに信仰のあるべき姿を描いているように思います。だから、ジョバンニがもっていた切符は、「天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券」だったのでしょう。

みんながそれぞれの天上へ行くために下車したあと、親友のカムバネルラと二人きりなったジョバンニは、後述する少女から聞いた、みずからの罪を悔い改め、みんなの幸せのために身を焼くことをいとわなかったという蠍の話を引いて、カムパネルラにこう言います。

「カムパネルラ、また僕たちは二人きりになったねえ。どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」


また、列車に乗り合わせた奇妙な「鳥捕り」の男に対しても、男が突然姿を消したあと、ジョバンニはつぎのように思うのでした。

「僕はあの人が邪魔なような気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんとうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思いました。


そのあと「六つばかりの男の子」とその姉の「十二ばかりの眼の茶いろな可愛らしい女の子」を連れた青年が乗ってきました。青年は二人の家庭教師でした。姉弟の父親が急な用でひと足先に本国に帰国したため、あとから二人を連れて帰国する途中、船が氷山にぶつかって沈没し、彼らは乗船客たちが殺到する救命ボートに乗ることを断念して、死後の旅にやってきたのでした。

「・・・僕、船に乗らなけゃよかったなあ。」と後悔する少年や、傍らで泣いている少女を前にして、青年は二人にこう言うのでした。

「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代わりにボートに乗れた人たちは、きっとみんなに助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」


この青年のことばに示されているのが、「銀河鉄道の夜」の中心にあるテーマです。それは、仏教で言えば、「大悲はつねに我を照らし給う」慈悲の世界です。

死は誰にでも等しく訪れるのです。そのとき大事なのは、どんな豪華な部屋で死を迎えるかとか、どんな多くの人々に囲まれて死を迎えるかではなく、どんな思い出のなかでどんな物語をもって死を迎えるかではないでしょうか。だから、柳田国男は、ひとりひとりが「物語を語れ」「物語を創れ」と言ったのでしょう。
2011.07.26 Tue l 本・文芸 l top ▲
東電OL殺人事件

昨日の午後から今日の午前にかけて、このブログが驚異的なアクセス数を記録しました。普段は大体300~500くらいなのですが、この1日で4万以上のアクセスがありました。その大半は、2007年6月の記事「東電OL殺人事件」へのアクセスによるものです。この記事に関しては、ときどき2ちゃんねるがらみでアクセスが伸びることがありますが、それでもせいぜい2000~3000くらいです。今回のアクセスはまさに「驚異的」というしかないほど、とびぬけているのです。

それは、昨日、新聞各紙が次のような記事を配信したからです。

東電OL事件、再審の可能性…別人DNA検出

東京都渋谷区で1997年に起きた東京電力女性社員殺害事件で、強盗殺人罪により無期懲役が確定したネパール国籍の元飲食店員ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者(44)が裁判のやり直しを求めた再審請求審で、東京高検が、被害者の体から採取された精液などのDNA鑑定を行った結果、精液は同受刑者以外の男性のもので、そのDNA型が殺害現場に残された体毛と一致したことがわかった。

 「(マイナリ受刑者以外の)第三者が被害者と現場の部屋に入ったとは考えがたい」とした確定判決に誤りがあった可能性を示す新たな事実で、再審開始の公算が出てきた。

 この事件でマイナリ受刑者は捜査段階から一貫して犯行を否認。同受刑者が犯人であることを直接示す証拠はなく、検察側は状況証拠を積み上げて起訴した。

 2000年4月の1審・東京地裁判決は「被害者が第三者と現場にいた可能性も否定できない」として無罪としたが、同年12月の2審・東京高裁判決は逆転有罪とし、最高裁で03年11月に確定した。

 マイナリ受刑者は05年3月、東京高裁に再審を請求した。

 同高裁は今年1月、弁護側からの要請を受け、現場から採取された物証についてDNA鑑定の実施を検討するよう検察側に求めた。これを受け、東京高検が精液などのDNA鑑定を専門家に依頼していた。

(読売新聞・7月21日3時1分配信)


他にも、事件現場のアパートの空き部屋の鍵を受刑者がもっていたことが逮捕の決め手になったにもかかわらず、鍵は事件の数日前に大家に返却されていたことが逮捕後判明したとか、事件後、豊島区巣鴨の民家の庭に捨てられていた被害者の定期入れから受刑者の指紋が検出されなかったとか、関係者の証言が途中で受刑者に不利なように180度変わった(なかには警察が就職を世話して証言を変えさせた例があった)とか、現場にあったコンドームやティッシュなどの遺留品の存在と受刑者をむすびつける検察側の主張に論理的な矛盾があるなど、当初から弁護側は強引な捜査手法とともに状況証拠の杜撰さを指摘していました。

また、逮捕されたのがネパールというアジアの果ての貧しい国から出稼ぎに来ていた青年であったことも、事件に暗い影を落としたのです。『東電OL殺人事件』(2000年5月新潮社刊))の佐野眞一氏が書いているように、「これがもし、韓国人もしくは中国人が逮捕され、冤罪の可能性がでてきたならば、事態は相当かわった方向に進展していった」かもしれないのです。受刑者の場合、当初は支援団体のひとつも作られず、唯一頼るべき在日ネパール大使館も「そっけない反応」だったそうです。その裏事情について、佐野氏はつぎのように書いていいました。

ネパールは日本のODA(政府開発援助)の最大援助国である。ネパールのアクション次第では、せっかく築いた日本との友好関係にヒビがはいるかもしれない。下手すれば、ODAを削減される恐れもある。大使館がそう考えたとしてもまったく不思議ではなかった。


一方、私は、この事件に福島第一原発の事故を重ねる誘惑にかられてなりません。それはいうまでもなく、東京電力という会社の体質との関連です。当時も一部では、”東電の闇”との関連を指摘する見方がありました。もちろん、それは妄想の域を出ないものでした。しかし、もう一度、そんな妄想を抱きたくなります。

どうして東電をはじめ電力会社にあれほどの警察・公安関係者が天下っているのかと言えば、それは、ひとえに「核テロ」を大義名分にして、原発問題を治安問題として扱ってきたからにほかなりません。それが地域住民の思想調査や原発反対派への尾行やいやがらせなどにエスカレートしていったのです。山本太郎が「Twitterでの発言は必ずチェックされる」と言っていたのは、決してオーバーな話ではないのです。それが原発問題のもうひとつの側面であり、”東電の闇”につながる背景でもあるのです。そういった背景がこの事件の捜査を非常に荒っぽいものにした、あるいは荒っぽいものにしなければならい事情があったということはないのでしょうか。

ただ、事故によって、東電をとりまく状況も大きく変わりました。それに伴いこの事件も、発生から14年にして今までとは違った色合いを帯びてきたような気がしないでもありません。これをきっかけに再審への道がひらかれて、事件の真相があきらかになり、横浜刑務所の獄窓から無実を訴えている受刑者が、1日もはやく祖国の家族のもとに帰ることができるように願うばかりです。
2011.07.22 Fri l 社会・時事 l top ▲
朝、寝ていたら九州の母親からの電話で起こされました。叔父が亡くなったというのです。ここ数年、手術をしたりして体調はよくなかったそうですが、昨夜急に具合が悪くなり、救急車で運ばれてそのまま亡くなったのだそうです。

「おいちゃんが、ゆうべ死んだんよ」
「あっ、そう。しょうがないよ」
「しょうがないって・・・、あんたはいつも冷たい言い方をするんやね」
と母親は言ってました。

叔父には子どもの頃、よくかわいがってもらった思い出があります。でも、不思議と驚きもしなかったし、悲しい気持もありませんでした。みんなこうして死んでいくんだなと思っただけです。

最近、友人と話をしていても、親が入院したとかおじさんやおばさんが亡くなったとか、そういった話が多くなりました。それは明日の自分の姿でもあります。私たちもまた、やがて同じ運命をたどるのです。

前述した『「かなしみ」の哲学』にも書いているように、鳥の鳴き声や花びらが落ちていくさまを眺めては、人生のはかなさを詠嘆する心情(悲しみの心情)は、万葉集の大伴家持の時代からあったのですが、それは身近な人の死に対しても同じなのです(ただ、ヒューマニズムの考え方はなかったので、そのわりには平気で人を殺していたのですが)。

万葉の時代から千年以上も(いやそれ以前から)人間はそうやって身近な人や愛する人の死を悲しみ悼んできたのです。さらに歌に詠んだり日記に書き記したりすることで、悲しみは文学的な表現を帯び、よりいっそう深くなり多様なものになっていったのでした。

もちろん、ネットの時代になりTwitterのように140字で自己表現する時代になっても、身近な人や愛する人の死が私たちの胸を塞ぐ出来事であることには変わりがありません。ただ、悲しみの表現が変わっただけです。

小学校の3~4年の頃だったと思いますが、春休みに初めて叔父の家にひとりで遊びに行ったとき、少しヨレヨレのステンカラーのコートに弁当箱を包んだ風呂敷を小脇抱えた叔父が、駅の改札口に立っていて、私に向かって「おう」と右手をあげたときの姿が、なぜか今でも私のなかに残っています。あのときの叔父は、たしかに若かったなと思います。

弔電を頼むとき、オリジナルの電文を送ろうかと思いましたが、NTTの「おすすめメッセージ」の「いつまでも、いつまでもお元気で長生きしてくださるものと思っておりました。在りし日のお姿を偲び、心からご冥福をお祈りいたします」という電文がふと目にとまったので、それを選んで送りました。

何度も同じことをくり返しますが、私にとって身近な人間の死は、「倶会一処」の言葉とともにあります。だから、しょうがない。
2011.07.20 Wed l 訃報 l top ▲
最近、ネットでビジネスをはじめた若い方と知り合い、よく話す機会があります。彼は、まだサラリーマンとの二足のわらじなのですが、ゆくゆくは会社を辞めてネット一本で食えるようになりたいと言ってました。その心意気やよしですが、ネットの黎明期ならいざ知らず、ネットがリアル社会と同じように秩序化されつつある現在、想像以上に現実はきびしいと言わねばなりません。彼の熱情にどう応えていいのか、正直、戸惑うことが多いですね。

「若者よ大志を抱け」と言わんばかりに、「これからは起業してチャンスを掴む時代だ」なんて掛け声だけは盛んですが、現実は源泉徴収でちゃんと税金を収めてくれるサラリーマンが優遇される社会であることには変わりがありません。と言うと、自営業者はろくに税金も払わず、収入がガラス張りのサラリーマンはいつもバカをみているなんて常套句が必ず出てくるのですが、でも、そう言うサラリーマンも、安定した会社勤めを辞め、自分で商売をやろうという人はごくごく少数で、大半は「やっぱりサラリーマンがいちばんだよ」と思っているのです。

だからといって、大志を抱いている若者に「冒険はやめた方がいい」「老後のことを考えれば、安定がいちばんだ」なんて身も蓋もないことは言えないので、やんわりと「二足のわらじをつづけるのも面白いかも」なんてわけのわからないことを言うしかないのです。

一方で、サラリーマンも今や「気楽な稼業」なんかではなく、それはそれで大変だというのもよくわかります。サラリーマンでありつづける限り、所詮は組織の前に自分を殺して生きていくしかないというのは、そのとおりでしょう。だから、月曜日の朝、「人身事故」で電車を停める人が多いのでしょう。それに、40代になるとリストラでもう一度人生をやり直さなければならないケースも多く、もはや「安定」しているとは言い難い現実があることもたしかでしょう。

要は、人の生き方に、他人が軽々しく口をはさむなんてとてもできないのです。だから、今サラリーマンをやっているのなら、わざわざイバラの道を歩む必要もないんじゃないか、と無難な答え方をするしかないのです。

それに、人生というのは、なにも損得勘定だけではかれるようなものではありません。よく誤解されるのですが、自分で商売していても「やりがい」というのは、必ずしも金儲けの側面だけにあるわけではないのです。抽象的な言い方になりますが、ある種の覚悟を決め、どんなときでも「オレはオレだ」といういわば一匹狼の矜持のようなものを持てるようになったら、おのずと「やりがい」も持てるようになる気がします。組織のなかにいようがいまいが、そういった人生観や人間観を持っているか(持つことができるか)どうかではないでしょうか。

「自分らしく」生きていくというのはなかなか難しいことですが、覚悟を決めて、これと思った道を自分なりの方法で突き進んでいくしかないように思いますね。と、こんな平板なことしか言えない自分に、また自己嫌悪に陥ったりするのですが。
2011.07.18 Mon l 日常・その他 l top ▲
篠原八幡神社_3853

郵便局に行ったついでに、菊名から新横浜の篠原口まで歩きました。菊名駅の南側の錦が丘という住宅街をのぼっていくと、丘の上から篠原北町という住居表示に変わります。そして、丘を越え迷路のように入り組んだ道を下ると新横浜駅の篠原口に出るのです。もっとも、遠くに見える新横浜のビル群を目印に下っていけばいいので、方向さえ間違わなければそう道に迷うことはありません。

横浜はどこもそうですが、丘が連なるこのあたり一帯も、見事なほど宅地造成され住宅地が広がっています。丘の上にはアパートもありますが、駅からだと15分も20分も坂道をのぼらなければならないし、近所には店もないし、夜道は物騒な感じだし、よく借りる人がいるなと思いますが、なぜか結構人気があるのだそうです。月極めの駐車場も1万5千円くらいするそうで、そんなに安くはないのです。

丘のちょうど突き当りに、鎮守の森の名残のような木々に囲われた篠原八幡神社がありました。境内では作業着姿の年老いた男性がひとり草むしりをしているだけで、ほかに人の姿はありませんでした。

篠原八幡神社は、無病息災の霊検あらたかな神社だそうで、私も一度お参りしたいと思っていましたので、やっと念願が叶った感じでした。静謐な空気が流れるなかで、パンパンと柏手を打つと、やはり凛とした気持になるものです。

今、NHKブックスの『「かなしみ」の哲学-日本精神史の源をさぐる』(竹内誠一著)という本を読んでいるのですが、そのなかで、綱島梁川の「神はまず悲哀の姿して我らに来たる」(『病間録』)という言葉が紹介されていました。また、源信の『往生要集』に出てくる「悲の器」という言葉も紹介されていましたが、私は高校の頃、高橋和己の『悲の器』という小説が好きでした。「悲の器」である人間にとって、神や仏が「まず悲哀の姿をして我らに来たる」のだと思えば、なんだか救われる気持になります。この年になると、神や仏はいてほしいと思います。

余談ですが、『「かなしみ」の哲学』では、つぎのような哲学者の西田幾太郎の文章も紹介されていました。私はそれを読んだとき、石巻の大川小学校をはじめ、今回の震災で我が子を亡くした親たちのことが連想されてなりませんでした。

人は死んだ者はいかにいっても還らぬから、諦めよ、忘れよという、しかしこれは親にとっては耐え難き苦痛である。・・・何としても忘れたくない、何か記念を残してやりたい、せめてわが一生だけは思い出してやりたいというのが親の誠である。・・・おりにふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。(『思索と体験』)

著者の竹内誠一氏は、「それがいかに苦痛であろうと、そうした生者の『いたみ(いたましさ・いたわり)』を通してしか死者はその存在をこちら側に現わすことはできない。『悼む』とは、そうした営みである」と書いていましたが、それはもはや宗教的な営みと言ってもいいのではないでしょうか。教義や教団なんてどうでもいいけど、じっと目を瞑って手を合わせる気持というのは、やはり大事じゃないかと思います。

神社の石段をおりようとしたら、前の道を学校帰りとおぼしき女子中学生たちがキャーキャー嬌声をあげながらとおりすぎて行きました。丘の上に突然現れた女子中学生たちに思わずびっくりしましたが、道を下って行くと途中に中学校がありました。彼女たちにとっては、丘の上のこの迷路のような道は通学路なのです。

道を下りきると、目の前に新横浜駅の白い建物がそびえてきました。その建物をめざして昔の農道のような曲がりくねった細い道をひたすら進んで行くのでした。やがてたどり着いた駅前には小さなロータリーがありましたが、表口と比べると、同じ新横浜駅の駅前とは思えないほどのどかな雰囲気が漂っていました。


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2011.07.16 Sat l 横浜 l top ▲
クイーンズスクエア_3827

夕方、みなとみらいで知人と待ち合わせたのですが、知人が来るまでクイーンズスクエアの上から手すりに身体をもたせかけ、仕事を終え家路を急ぐ人たちがエスカレーターで地下の駅へ下りて行くのを眺めていたら、ふと、堀田善衛の『広場の孤独』という小説のタイトルを思い出しました。オレはこんなところで何をしているんだろう、なんて思ったら、なんだか身も心も目の前の空間の中に吸い込まれていくような感覚にとらわれました。

何度も同じことをくり返しますが、「思えば遠くに来たもんだ」としみじみ思います。ただその一方で、「もっと遠くへ」という気持もあります。もうそんな年ではないだろうという声が聞こえてきそうですが、やはりいくつになっても「一処不在」にあこがれる気持があるのです。ヒンズー教の林住期ではないですが、知らない土地でひっそりと最期を迎えたいという気持があります。

でも、今回の震災における多くの「無念の死」を前にすると、そう考えることすら贅沢に思えるのです。生死の分かれ目といいますが、その差はあまりにも大きく冷酷だとしか言いようがありません。

井上光晴は『明日』という小説で、長崎に原爆が投下される前日の庶民の日常を描きました。“明日”があることが前提だからこそ、日常の中にさまざまな思いや感情があり、その分希望や期待もあったのです。しかし、それも一瞬の閃光によって打ち砕かれ、“明日”は永遠に訪れることはなかったのでした。“明日”を閉ざされた人たちは、なんと無念だったろうと思わざるをえません。

石原吉郎もやはりシベリアの地に倒れた多くの「無念の死」を抱えて帰還し、戦後の文学を出発したのです。でも、それは文学だけでなく政治でもなんでも同じだと思います。そう考えるとき、「無念の死」に対する想像力の欠片さえ持ってない今の政治には慄然とせざるをえません。

原発の問題でも然りで、人類史上最悪の原発事故に遭遇してもなお、何事もなかったかのように「元の日常」に戻そうと腐心する姿ばかりが目立ちます。菅内閣の対応を批判するといっても、誰も原発再稼動に動く菅内閣の姿勢を批判するわけではないのです。むしろ逆で、再稼働もせず、いつまで経っても「元の日常」に戻そうとしない「モタモタした」姿勢を批判しているのです。突然打ち出したストレステストにしても、経産省主導で進められている原発再稼働に対する菅内閣の抵抗と受取れないこともないのですが、しかし、なぜかそういった見方はマスコミにも皆無なのです。

世界一高い電気料金を原資とする政治献金で甘い汁を吸った政治家たち、巨額の広告宣伝費に群がったマスコミや電波芸者たち、電力会社が提供する研究助成金に魂を売った曲学阿世の学者たち。彼らは未だに懲りずに「安全デマ」を流しつづけています。そして、電力不足キャンペーンなどにみられるように、電力会社は彼らを操ることで、相変わらず情報工作や世論工作をつづけているのです。やらせメールなんてそれこそ氷山の一角にすぎません。

原発反対派の学者や議員などを尾行したり、いやがらせの無言電話をかけたり、ときには身体的な危害を加えるようなことまでしていたのは、どこの誰なのか。それは誰の命令だったのか。活動資金はどこから出ていたのか。それに比べれば、やらせメールなんてまだかわいいものです。

しかし、どうごまかそうとも、東日本をおおう放射能汚染は、誰の身にも等しくふりかかってくるのです。先日のラジオで、「今の子供たちがこれから数十年にわたって高い確率で甲状腺の癌などに罹るのは間違いない。ただ早期発見早期治療をすれば、癌は怖い病気ではないので、これから息の長い健康チェックが必要だ」と言ってましたが、それが3.11以後の私たちの現実なのですね。もう「元の日常」なんてどこにもないのです。

にもかかわらず、この緊張感のなさはなんなのでしょうか。「安全デマ」で現実から目をそらし自分をごまかす姿勢も相変わらずですが、私たちもまた「無念の死」にどう応えるかが問われているのではないでしょうか。

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万国橋から
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2011.07.08 Fri l 震災・原発事故 l top ▲