かぞくのくに


新宿のテアトル新宿で、「かぞくのくに」(ヤン・ヨンヒ監督)を観ました。

ウェブサイトに「2012年インディペンデント映画を代表する一作」というキャッチコピーがありましたが、そのコピーどおり、第86回キネマ旬報ベスト・テンにおいて日本映画ベスト・テン第1位に選出され、同時に主演女優賞(安藤サクラ)を受賞した作品です。その他、第55回ブルーリボン賞(作品賞、主演女優賞、助演男優賞)、第67回毎日映画コンクール(脚本賞)、「映画芸術」2012年日本映画ベストテン第1位、第62回ベルリン国際映画祭(国際アートシアター連盟賞)など数々の映画賞を受賞。文字通り2012年の日本映画を代表する作品と言ってもいいでしょう。また、受賞は映画賞だけにとどまらず、第64回読売文学賞でも 戯曲・シナリオ賞が与えられ、文学的な視点においてもヤン・ヨンヒ監督の脚本が高く評価されたのでした。

映画は昨夏に公開されたのですが、あいにく私は見逃していたので、今回受賞記念のアンコール上映を機に観に行ったのでした。平日の午前でしかも再上映にもかかわらず、上映前から受付に行列ができるほど多くの観客がつめかけていました。

ストーリーの大半は、ヤン・ヨンヒ監督の家族の実話に基づいているそうです。そのあたりの経緯については、アジアプレスのウェブサイトに掲載されているヤン・ヨンヒ監督のインタビューで詳しく語られています。

ヤン・ヨンヒ監督はもともとドキュメンタリー映画出身で、帰還事業で北朝鮮に帰国した3人の兄とその家族を撮った「ディア・ピョンヤン」や「愛しきソナ」で知られていますが、この「かぞくのくに」は、そんな生涯のテーマをフィクションの手法をとることでさらに飛躍させ、「ついにやったか!」と言いたくなるような、生まれるべくして生まれた映画だと言えます。

隣に座っていた若い女性の観客も、上映中しきりに涙をぬぐっていましたが、「政治に翻弄された」という常套句で言い表せないような、悲しくてやりきれない映画です。この映画が低予算のため、わずか2週間で撮られたというのは驚きですが、名作というのは、予算や期間に関係なく生まれるべくして生まれるもんだなとあらためて思いました。

なにより主演の井浦新(兄ソンホ)と安藤サクラ(妹リエ)の演技が光っており、この映画の質をより高めているように思いました。特に安藤サクラの個性が際立っていました。安藤サクラは、昨年度の各映画賞で主演女優賞と助演女優賞を総ナメして、一気に女優としての評価を高めましたが、おそらく「かぞくのくに」は彼女にとっても記念碑的な作品になるのではないでしょうか。その意味では、安藤サクラに対しても、「ついにやったか!」と言いたくなるような映画なのです。

北朝鮮に帰国していた兄ソンホが25年ぶりに帰ってきた。それは頭にできた腫瘍を治療するためでした。「総連」(映画では「同胞協会」)の活動家である父親と喫茶店をやって家計を支える母親が、5年かけて働きかけやっと実現した「一時帰国」でした。しかし、その帰国には監視役のヤン同志が同行し、帰国中も常にソンホの行動に目を光らすのでした。

滞在予定は3ヶ月でした。それでも診察した医師からは、3ヶ月では責任を持てないと手術を断られます。両親は本国にかけあえば6ヶ月くらい延ばせるのではないかと考えるのですが、そんな淡い期待を打ち砕くように、突然「明日帰国するように」という命令が下されるのでした。6ヶ月どころか3ヶ月の予定がわずか2週間で打ち切りになり、怒り悲嘆する家族たち。でも、ソンホだけは「こういうのはよくあるんだよ」と淡々とそれを受け入れます。「理由は?」と問う妹に、ソンホは「理由なんてない。あの国に理由なんて何の意味もない」と答えます。

通りかかった店でシルバーのスーツケースをみつけて、妹に「お前は、そういうのを持って、色んな国に行けよ」という兄。この映画には、こういった胸をしめつけられるようなセリフが至るところに出てきます。

「考えずにただ従うだけだ。考えると頭がおかしくなる」
「考えるのはどう生き抜くかだけだ」
「あとは思考停止。楽だぞ~、思考停止は」

こんなセリフに込められたソンホの現実。私たちは、同じようなセリフを拉致被害者の蓮池薫さんからも聞いた覚えがあります。それは、「あなたもあの国も大っ嫌い!」と監視をなじる妹に対して、ヤン同志が放った次のセリフにも重なるものでした。

「私にも家族がいますし、お兄さんにも家族がいます」「あの国で、私もあなたのお兄さんも生きているんです。死ぬまで生きていくんです」

16才で単身北朝鮮に渡ったソンホは、帰国船に乗る寸前、新潟の赤十字センターで見送りにきた叔父に、「ここで行くのをやめたらアボジに迷惑がかかるだろうか」と言ったそうです。その話を初めて聞かされ、父親はもちろん母親も妹も、ただ首をうなだれて涙を流すしかないのでした。

朝鮮人である限り、日本では差別され仕事もなく希望もない。子供の将来のためには、祖国に帰るのがいちばんだと親が考えたとしても、誰も非難はできないでしょう。ただ一方で、帰国者が「社会主義建設」という美名のもとに、一種の”人身御供”のように扱われたこともたしかです。そうやって彼らの受難の人生に、祖国が独裁国家であったという悲劇がさらに追い打ちをかけたのでした。

そのソンホにも北朝鮮に家族がいます。家族のためにも、さまざまな思いを胸の奥にしまい、口を閉ざすしかないのです。妹に工作員(スパイ)にならないかと誘ったのも、そう言わせられる(言わなければならない)祖国のむごい現実があります。そうやってすべてを諦観し、「凍土の共和国」での過酷な人生をこれからも生きていくしかないのです。

やせ細った息子の写真を見て以来、喫茶店の売上から小銭をためてはそれを北朝鮮の息子に送金する母親。一方、「地上の楽園と言われた国の人間が、栄養失調だったなんてね」と皮肉を言う娘。これは多くの在日が見聞きし実際に経験している現実でしょう。でも、ヤン・ヨンヒ監督が言うように、一方でそれを日本人から言われたくないという気持も朝鮮人のなかにはあるのです。

「じゃあ公の場で自分で先に言えってことですよ。でも、飲み屋で愚痴ってるだけ」「総連が情けないんですよ、はっきり言うて」というヤン・ヨンヒ監督のことばは、今の若い在日の多くが共有する気持でもあるのかもしれません。

個人的な話になりますが、私は、このインタビューを読んで、昔親しくしていた女性とヤン・ヨンヒ監督が重なって見えて仕方ありませんでした。そして、やはり同じような視点で在日の本音を描いた「月はどっちに出ている」(崔洋一監督)を彼女と一緒に観たことを思い出しました。

拉致問題がまだ公になる前でしたが、当時、私もこの映画の背景にあるような話を聞いたことがあります。ただ、金日成の誕生日の「プレゼント」として(!)、朝鮮総連が指名した朝鮮大学の学生たちが半ば強制的に帰国させられた話や、自分の進路を総連に委ねる「組織委託」の強要が朝鮮学校で行われていたという話は初耳でした。まったくヤン・ヨンヒ監督ならずとも「ヒットラー顔負けやん」と言いたくなるような蛮行と言わねばなりません。朝鮮総連や朝鮮学校が指弾されるのも当然でしょう。

ただ(と言うべきか、「だからこそ」と言うべきか)私たちは、(北朝鮮に限った話ではないですが)その国が好きだ嫌いだとかいう前に、まずその国で生きる(生きていかざるをえない)人間を見るべきで、そういった政治と一線を引いた視点をもつことがなにより大切ではないかと思います。何度も同じことをくり返しますが、坂口安吾が言うように、人間というのは政治という粗い網の目からこぼれおちる存在なのです。それは、北朝鮮の国民であれ在日であれ日本人であれみんな同じなのです。

ヤン・ヨンヒ監督は、北朝鮮にいる姪のソナに焦点を当てた「愛しのソナ」で、北朝鮮当局の逆鱗に触れ入国禁止になっているのですが、それでも映画を撮りつづける”覚悟”について、次のように語っていました。

(前略)昔はとてもじゃないけど、「兄貴たちに迷惑がかからないように考慮して作ってます」としか言えなかったけど、最近は変わりました。申し訳ないけど、家族に迷惑かかっても作ります。オッパ(=お兄ちゃん)たちが収容所に入れられますけど、どないしますか?って言われたとしても、やっぱり、私、やめますって言わないと思う。だってそこでやめたら、オモニらと一緒になるんですよ。もうええやんそれは、そんな時代は終わりにしようって本当に言いたい。そのためには、まだ何人犠牲になるか分からないけど。


兄がお気に入りだったリモアのスーツケースを引いて交差点を渡る最後のシーンにも、ヤン・ヨンヒ監督の”覚悟”が表現されているように思いました。映画でも文学でも”覚悟”が必要なのです。そして、そういう”覚悟”があるからこそ、この映画が私たちの胸を打つのでしょう。
2013.02.28 Thu l 芸能 l top ▲
アベノミクスについて素人なりに考えてみました。

安倍政権は、「強い日本を取り戻す」ための「成長戦略」として、①大胆な金融政策、②機動的な財政政策、③民間投資の促進の「3本の矢」を基本政策として掲げています。具体的には、2%の物価目標(インフレターゲット)によるデフレ脱却。そのための日銀法改正や円安での輸出増。「国土強靭化計画」による大型の公共事業。規制緩和やTPPなど経済連携協定による成長分野への投資の促進などです。

これでホントに景気がよくなるの? この疑問に、池田信夫氏がブログで簡潔にわかりやすく答えていました(アベノミクスについてのFAQ)。

池田氏と言えば、原発容認派で典型的なネオリベですが、その池田氏と正反対の反原発・反グローバリズムを掲げる緑の党も、別の視点からやはりアベノミクスを批判していました(【論説】アベノミクスは人びとの生活を破壊する)。

一方、新聞やテレビは、円安・株高を歓迎する声を背景にアベノミクス礼讃一色です。同じ保守派の小林よしのり氏でさえ懸念するくらい、今や安部政権を批判することがタブーになったかのようです。これでは今夏の参院選でも自民党の勝利(失地回復)は約束されたも同然です。そして、その先にあるのは、言うまでもなく96条の改正要件の緩和を突破口にした憲法改正でしょう。安部首相が「千載一遇のチャンス」と浮足立つのもわからないでもありません。

でも、どう考えても(私たちのような素人が考えても)、このアベノミクスなるものは、ただ単に古い自民党政治の復活のようにしか思えません。アベノミクスによって再び土建国家が復活すると書いていた経済誌がありましたが、それが真相のように思えてならないのです。

今の株高も、円安や大胆な金融緩和に対する期待感から上がっているだけですが、またぞろ不動産会社やゼネコンの”悪貨”がバッコする世の中になるのかと思うと、なんだかバブルの頃の悪夢がよみがえってくるようです。その”悪貨”の中身は、市中の資金供給量を今後2年間で2倍にするという異次元の金融緩和=日銀券の増刷と、自民党が今後10年間で公共事業に200兆円投入すると豪語する私たちの税金なのです。

消費税増税が決まった途端にこのあり様で、昨日まで飛び交っていた「財政再建」の声はどこに行ったのかと言いたくなります。しかも、聞こえてくるのは公共事業の大盤振る舞いの声だけで、消費税増税とセットになっていたはずの社会保障改革もどこかに行ってしまった感じです。

為替の問題にしても、日本経済が弱くなったのは、円高のせいではなく、日本企業の国際競争力が低下したことが原因だという指摘のほうがむしろ頷けます。それに、先日も、世界貿易機関(WTO)の審査会合では中国と韓国が、G20の前にはドイツが、日本政府の円安誘導に対して懸念を表明したというニュースがありましたが、円安に対する国際的な圧力は今後益々大きくなるでしょう。

アメリカが超大国の座から転落して、世界が多極化するのは間違いないのです。そして、東アジアに中国を中心とする新しい秩序が生まれるのも間違いないのです。そんななかで、中韓と対立して孤立を深める日本経済の不安要素は増すこそすれ減ることはないのです。

政治的にも、安倍首相らが主張する古色蒼然とした(単に安倍首相個人のグランドファザーコンプレックスの産物でしかないような)憲法観のもとで、これからの”アジアの時代”をまともにかじ取りできるのかという不安もあります。先の北朝鮮の核実験に対しても、アメリカはただ中国になんとかしろと言うだけで、実質的にはまったく無力でした。そもそも六カ国協議にしても、既にアメリカは中国に丸投げしており、中国が完全に主導権を握っているのです。このように東アジアでは、日本国内の見方(嫌中の希望的観測)とは逆に、政治的にも経済的にも中国の存在感は増すばかりなのです。

もちろん、私たち国民にとってもアベノミクスが「毒薬」になる可能性は充分あります。スタグフレーション(インフレ下の不況)・財政破綻・重税・格差の拡大という負の側面です。

百歩譲って、安倍首相が言うように企業の業績が好転したとしても、それが私たちの懐を潤すと考えるのはあまりに単純すぎます。儲った分は、まず内部留保にまわすでしょうし、あらたな投資に使うでしょう。仮に人件費にまわすにしても、給与10万円の非正規雇用の社員が給与25万円の正社員に登用されるなんてありえないでしょう。それより、給与10万円の非正規雇用の社員を2人雇ったほうが、資本として効率がいいのは当然です。

逆にインフレによって実質賃金は目減りするので、非正規雇用の社員たちは窮乏化するだけです。しかも、(アベノミクスとは直接関係はありませんが)4月から施行される改正労働契約法の「5年ルール」で、5年以内の雇い止めが常態化するでしょうから、非正規雇用の社員たちは短期間(5年以内)で転職をくり返すことを余儀なくされ、益々生活が不安定になるでしょう。

イギリスの経済誌「エコノミスト」が安倍内閣を「恐ろしいまでに右傾的な内閣」」と評したことは前も書きましたが、もしかしたらその「恐ろしさ」にいちばん気付いてないのは、私たち日本の国民なのかもしれません。ナショナリズムを煽りながら、一方で対米従属的な政策を推し進めるのが自民党の常套手段ですが、安倍政権とて例外ではありません。それをただアベノミクスと呼んでいるだけです。

テレビに出てくるエコノミストたちもみんな口をそろえてアベノミクスを礼讃していますが、それもなんだかバブルの頃にみた光景と似てなくもありません。あのときも彼らはただバブルを煽るだけでした。テレビ東京の経済ニュースなどに出ている、証券会社の「ステラジスト」や「チーフエコノミスト」たちは、どう見てもヘッジファンドの代弁者でしかありませんが、彼らの”香具師の口上”を記録して、「毒薬」が現実のものとなったときにどう弁解するのか、あとで確認するのも一興かもしれません。

>> TPPを考えた
2013.02.21 Thu l 社会・時事 l top ▲
商売に差し障りがあるといけませんので、あまり突っ込んだ話はできませんが、以前、新聞にこんな記事が出ていました。

電車内のベビーカー利用に賛否両論 啓発ポスター引き金

 列車でのベビーカー利用に理解を求める鉄道会社や東京都のポスターに、批判が寄せられている。車内で通路をふさぐなどと苦情があり、鉄道会社はマナー向上の呼びかけに力を入れている。
 「ベビーカーでの電車の乗り降りには注意が必要です。周りの方のお心づかいをお願いします」「車内ではストッパーをかけて」
 首都圏の鉄道24社と都は3月、利用者に呼びかけるポスター約5700枚をJR東日本や私鉄、地下鉄の駅に張り出した。少子化対策の一つで、担当者は「赤ちゃんを育てやすい環境をつくる」と話す。
 だが、利用者から「ベビーカーが通路をふさぐ」として、ポスターに対する疑問の声が都に寄せられた。都営地下鉄には「車内でベビーカーに足をぶつけられた」「ドアの脇を占領され、手すりを使えなかった」との声が相次いだ。
 JR東日本にも「ポスターがあるからベビーカー利用者が厚かましくなる」「ベビーカーを畳もうというポスターも作って」と意見が寄せられたという。ネットでは意見が1千件以上飛び交っている。 (以下略)
(朝日新聞デジタル 2012年8月26日18時17分)


私は、最初、ポスターに対して、ベビーカーを使用する母親たちから「批判が寄せられている」のかと思ったら、そうではなくて、ほかの乗客たちからだったのです。要はそうやってベビーカーの車内持ち込みを追認していることに反発しているのです。車内持ち込みを規制しろと言っているのです。

たしかに、日常的に電車を利用する人間からみても、(別に電車内に限りませんが)ベビーカーのマナーの悪さが目に付くのは事実です。特に週末の自由が丘のホームなんてそれこそ”ベビーカー天国”で、乗り換えで自由が丘に途中下車するのさえためらわれるほどです。

そういった声に対して、「どうしてこんなに子育てに冷たい社会になったのか」とコメントしている「識者」がいましたが、問題はそういったことではないでしょう。マナーの悪い人が多い。そのために同じベビーカーユーザーでも、まわりに気を使うような人たちほど肩身の狭い思いをしなけければならない。そういった悪貨が良貨を駆逐する状況になっている。ただそれだけのことです。

こういった「識者」のようなもの言いがいわゆる”常套句”で、なにかを語っているようで実はなにも語ってないのです。

ネットでアルファブロガーとして「評価」されているブログなどを読んでも、やはりこの手の”常套句”のオンパレードです。それは、「明日は雨が降るけど天気がいいでしょう」式のマスコミの文体の模倣でもあります。ある人はそれをオブスキュランティズム(曖昧主義)と言ってました。

ネットはなにか新しくて、従来のメディアとは違う(対立する)ものであるかのようなイメージがありますが、実はそうではなくて、ただ従来のスタイルを踏襲しているだけです。そして、マスコミの(制度化された)文体を模倣するブログが、アルファブロガーとして「評価」されるのです。「バランスが取れた考え方」「抑制した表現」「目配りのある文章」と言われるものがそれです。

なぜなら、フーコーの規律訓練型権力ではないですが、私たち自身がそういった思考法を学校やマスコミなどによって訓練されてきたからです。でも、それはなにかを語っているようで実はなにも語ってない。なにかを考えているようで実はなにも考えてないのです。私のこの記事も例外ではありませんが、別に強制されなくても、当たり障りのないように自主規制しているのです。そうやって泣く子と地頭には勝てない「愚民社会」の安寧と秩序に貢献しているだけです。
2013.02.18 Mon l ネット・メディア l top ▲
しつこいようですが、今夜もテレビ東京の「カンブリア宮殿」で、臆面もなく陳腐なご託宣を垂れている村上龍をみながら、こういうのが現代文学をけん引している作家だともてはやされているんだから、この国の文学が衰退するのは当然だろう、とひとり悪態を吐いていました。

学生時代に文壇デビューした村上龍は、社会に出て働いた経験はほとんどなく、典型的な「世間知らず」です(唯一霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいです)。だから、あのように海千山千の社長の話に、なんの留保もなく「すごい」「すごい」と感激するのでしょう。

社会経験がないのですから”留保するもの”なんてあろうはずもないのです。要するに、中身はスカスカだということです。そう考えると、文学ってなんだろうと思ってしまいます。

注目の黒田夏子の「abさんご」について、村上龍は芥川賞の選評で、次のように書いていました。

 推さなかった。ただし、作品の質が低いという理由ではない。これほど高度に洗練された作品が、はたして新人文学賞にふさわしいのだろうかという違和感のためである。(略)その作品の受賞に反対し、かつその作品の受賞を喜ぶという体験は、おそらくこれが最初で最後ではないだろうか。(『文藝春秋』2013年3月特別号)


要はわからなかったのではないか。だったら、正直にそう書けばいいのです。こういったところにも、村上龍のウソっぽさが出ているように思います。村上龍に比べれば、山田詠美の選評のほうが好感が持てました。

 正直、私には、ぴんと来ない作品で、何かジャンル違いのような印象は否めなかったし、漂うひとりうっとり感も気になった。選考の途中、前衛という言葉が出たが、その言葉を使うなら、私には昔の前衛に思える。洗練という言葉も出たが、私には、むしろ「トッポい」感じ。


一方、芥川賞の発表の日、東浩紀は、Twitterで次のように芥川賞を「批判」していたそうです。

芥川賞がじつに閉鎖的で腐った文学賞だという、つい10年まではだれもが知っていた常識を忘れ去られ、ネット時代になってかえって(なにも実態は変わっていないのに)なにか偉いものなんだからすごいんだろうというブランド強化が始まっているあたりに、日本社会の限界を見るのは考え過ぎかしらね。


芥川賞は日本文学の最先端とかとはなんの関係もない。菊池寛の業績に集まった遺産相続者たちが、自分の目の届く新人に恩を売るための賞でしかない。だから文芸5誌からしか選ばれる。そんなの常識。ライトノベルが芥川賞取れないのとか、サッカー推薦で東大入れないんですか、と同じくらいナンセンス。


芥川賞が腐っているのはそのとおりだとしても、「芥川賞が日本文学の最先端」だなんて誰も思ってないでしょう。なんだかトンチンカンがトンチンカンを批判しているようで、目クソ鼻クソのように思えてなりません。東浩紀は都知事選の際、猪瀬直樹の応援演説をしたそうですが、そういった俗流政治にすり寄る感覚の先にあるのは、政治に奉仕する文学の醜悪な姿だけです。

同じ保守でも、大塚英志が言うように、「江藤淳のように『日本の不在』に徹底して耐えようとする保守はもういない」(『物語消費論改』)のです。東浩紀も石原慎太郎や猪瀬直樹と同じように、ただ「悪党達の最後の逃げ場」(A・ピアス『悪魔の辞典』)のような「愛国」を無節操に振りかざして、動員の思想のお先棒を担いでいるだけです。そこには保守の矜持のカケラもありません。

このように口先三寸の世間知らずたちが文学や社会を語ることの悲劇(喜劇?)が、そのまま今のこの国の文学や批評の悲劇(喜劇?)につながっているように思えてなりません。トンチンカンな世間知らずにもかかわらず、妙に”世間知”だけは長けているのが彼らの特徴です。
2013.02.14 Thu l 本・文芸 l top ▲
多少痰と咳が残っていますが、インフルエンザもなんとか乗り越えたみたいで、昨日から外出しています。病院に行ったあと熱も出ることもなく、至って平穏にすごすことができました。やはりクスリの効果は絶大です。

医療費抑制のキャンペーンなのか、最近、安易に医者にかかるのを非難するような風潮がありますが、しかし、私のまわりをみる限り、むしろ「医者に行かない人たち」のほうが多いのです。なかでも感染症の疑いがある場合、「医者に行ってもしょうがない」なんて強がりを言う人間は、正直言ってハタ迷惑です。

無知蒙昧はときに自分で自分の首を絞めることにもなりかねません。以前、肝臓の病気で入院していた知り合いがいましたが、彼は「医者の言うことなんかいい加減だ」「自分の身体のことは自分がいちばん知っている」という思考パターンの人間で、当然、入院生活もきわめて不真面目でした。そして、結局亡くなったのですが、私の目には自殺したようにしか見えませんでした。別に病気に限りませんが、「いくら言ってもわからない人にはわからない」のです。

既に人工透析もはじまっている糖尿病の患者の病室で、「いつもお世話になっています」と言って饅頭を配って歩いた患者の家族がいたそうです。たまたまそれを目にした看護師は、「殺す気か!」と思ったそうですが、身内の病気に対して、ここまで無知蒙昧になれるのかと思います。でも、実際にある話なのです。

ただ、これはおっさんやおばさんに限った話ではありません。医者の言うことなんかいい加減だ、マスコミが言うことなんかウソばっかりだ、サラリーマンになっても仕方ない、恋なんかしても仕方ない、デモをしても仕方ない、本を読んでも仕方ない・・・。その先にあるのは、「ネットがすべて」のアマチュア信仰であり反知性主義であり陰謀史観的なものの考え方でありオレ様主義でありカルト的セカイです。そういった夜郎自大な言説は、ネットの掲示板やSNSなどに溢れています。「類は友を呼ぶ」ネットがそんな無知蒙昧な自分を合理化するツールになっているような気さえします。

今、私たちの目の前にあるのは、「ネットに叡智が集まる」「集合知の世界がやがてリアル社会も変えていく」と予言した『ウェブ進化論』とは、逆の世界のように思えてなりません。「恐ろしいまでに右傾的な内閣」と英エコノミスト誌が評した安部内閣の誕生に伴って”扇動政治”が復活し、さっそく扇動的な政治的キャンペーンがはじまっていますが、それにいちばん乗せられているのは、「ぼくたちのユキリン」のようなネットの若者たちです。

未だ放射性物質のタダ漏れ状態がつづいている原発事故による放射能汚染の問題を棚に上げて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い式に中国の大気汚染の影響に大騒ぎをする(しかも、中国の大気汚染の問題は今にはじまったことではないのです。それがどうして急に取りださされるようになったのか不思議です)、その”からくり”に疑問を抱くこともないのです。まるで「尖閣」の前には、TPPも原発も消費税増税も公務員問題もすべてチャラになったかのようです。これじゃ病室で饅頭を配るおばさんを誰も笑えないでしょう。
2013.02.08 Fri l ネット・メディア l top ▲
自宅軟禁でヒマなので、再びAKBネタを。

今週発売の『週刊文春』(2月14日号)に、今度は柏木由紀の「深夜に合コン」の記事が掲載されるのだとか。オヤジ週刊誌の『文春』がこうやってつぎつぎとAKBを狙い撃ちしているのは、なにか裏があるのだろうかと勘繰りたくなります。

個人的にはAKBのなかでは柏木由紀がいちばんのお気に入りでしたので、「ブルータス、お前もか」という心境ですが、ただ、若いオスとメスがお互いを求め合うのは、動物としては自然な欲望であり当然の行為です。まして彼女たちは、「シロウトのお嬢さま」ではないのです。

「恋愛禁止」なんてオキテを作ったがために、逆に合コンしただけで「スクープ記事」になるような状況を招来したわけで、これでは痛し痒しではないのか。

・・・と考えるのは、既にAKBの術中にはまっているのかもしれません。お泊りデート発覚、移籍や降格、といった一連の「処分」もすべて計算されたものかもしれないのです。「炎上商法」という言い方があるそうですが、記事にインパクトがなくなって騒がれなくなるのをいちばん恐れているのは、ほかでもなくAKBの背後にいる「人形使い」たちかもしれません。

そう考えれば考えるほど、「ショックだ」「裏切られた」とか言って騒いでいるファンはキモいし”異常”だと言わざるをえません。妄想と現実をはき違えて、「ぼくたちのユキリン」なんて本気で思っているのだとしたら、それはもはやカルトと呼ぶしかないでしょう。

オウム真理教事件から20年、「オウムは怖い」などとオウムを特別視する見方とは裏腹に、カルトと一般社会の融合は進み、今やカルト(的要素)がビジネスにまでも利用されるようになったのです。その先端にいるのがネットとオタクです。

そして、その背後には『物語消費論改』で大塚英志が指摘した「旧メディアのネット世論への迎合」、つまり「マスゴミ」とネットの結託とも言うべき状況があるのです。それは、AKBだけでなく、「尖閣」でも「竹島」でも「ナマポ」でも同じです。「カルト化するニッポン」というのは、決してオーバーな話ではないのです。その象徴としてAKBがあるのかもしれません。
2013.02.05 Tue l 芸能 l top ▲
週が明けたので病院に行ったら、風邪ではなく「A型インフルエンザ」だったことが判明しました。

鼻に綿棒のようなものを差し込まれて検査されるのですが、先生から「A型インフルエンザの確定ですっ」と勝ち誇ったように言われたので、なんだか負けたような気がしてショックでした。昨秋予防接種を受けていたのでそう伝えたら、「予防接種は万全ではないですよ」と再び勝ち誇ったように言われたので、二重のショックでした。

インフルエンザに感染したのは、ホントに久しぶりのことです。というか、私のなかには感染した記憶がほとんどありません。風邪はもちろんありますし、ほかの病気も経験豊富で今も病院通いをつづけている身ですが、ことインフルエンザに関してはまったくと言っていいほど無縁でした。日ごろから手の消毒とウガイは欠かしたことがなく、細心の注意を払っていたつもりだったので、よけいショックでした。

インフルエンザだったのかどうかわかりませんが、小学生の頃、風邪をひいて床に伏せったときのことがなぜか今でも記憶に残っています。そのとき、頭を高くするために、布団の下に母親が定期購読していた『主婦の友』が敷かれていたのです。そして、そっと布団をめくったら表紙の大原麗子の写真が目に飛び込んできて、妙に胸が高鳴った覚えがあります。また、大原麗子の写真の横に「性生活」がどうのという文字も目に入ったのですが、さすがに高熱にうなされる状態でしたので、本誌をめくるほどの余裕はありませんでした。

子どもの頃、風邪で寝込んだとき、母親が作ってくれたおかゆの味が忘れられないとかいう話をよく聞きますが、私の場合は、おかゆの味ではなく、頭の下にあった大原麗子の写真です。

今日、病院で処方されたクスリは、①イナビル吸入粉末剤、②ツムラ麻黄湯エキス顆粒、③カロナールの3種です。このうち吸入剤というのが初めてだったので、先生に「難しいものなんでしょうか?」と訊いたら、「いえ、子どもでもできますよ」とあっさり言われて、訊かなければよかったと思いました。今日はまったくの完敗です。

そして、病院から戻ると、明日明後日予定に入っていた約束をすべてキャンセルしました。
2013.02.04 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
AKB48の峯岸みなみの丸刈り謝罪について、「識者」と称する人たちが「恋愛禁止は人権侵害だ」なんてのたまっているのを見るにつけ、思わず目をおおいたくなりました。相手の白濱亜嵐に「丸刈りにしないんですか?」と問いかけた東スポの記者同様、AKBをめぐる話題になると、なぜかみんな醜態をさらしてしまうようです。『前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48』(ちくま新書)なんて本を書いた濱野智史も然りです。そこには時流におもねる能天気であざとい心根しか感じられません。それがいわゆる「ゼロ年代批評」の特徴でもあります。

AKBはアイドル商法だと言われますが、それを言うならむしろオタク商法と言うべきでしょう。

女性に縁のないオタク相手に商売をするのですから、表向き恋愛をご法度にせざるをえないのは、営業上当然かもしれません。非モテのオタクたちにひとりで100枚も200枚もCDを買わせるには、それは最低限のオキテなのでしょう。私には、そのオタク商法の”異常さ”を誰も指摘しないのが不思議でなりません。丸刈りが異様に見えるのは、なによりそれがオタク商法だからです。

一方で、以前『週刊新潮』が、AKBの活動資金には振り込め詐欺のお金が使われていたというような記事を掲載して、秋元康から抗議を受けましたが、そういった芸能界の裏人脈からこの問題を考えることも無駄ではないかもしれません。

AKBというのは、気をもたせてお金を巻き上げる、キャバクラみたいなものです。AKB加入前の大島優子が、ロリコン向けの”ジュニアアイドル”として、ブルマーやスクール水着でマニア雑誌のグラビアに出ていたのは有名な話ですが、AKBの「恋愛禁止」も、そうやってオタクたちの”ゆがんだ劣情”を商売に利用していると言えなくもないのです。「恋愛禁止」を重要なコードとして機能させるには、カルト的要素は不可欠で、それがオタク商法の”異常さ”につながっているのだと思います。

ヤンキーとロリコンは、芸能界にとって不滅のキャラクターです。女子高生を買春したりスカートのなかを盗撮すればただの犯罪ですが、ロリコンのアイドルに妄想の世界で”疑似恋愛”するのは、巨万の富を生むビジネスになるのです。その違いは紙一重と言ってもいいでしょう。そう考えれば、この騒動から見えてくるものがあるのではないでしょうか。
2013.02.03 Sun l 芸能 l top ▲
風邪で完全にダウンしました。年をとって体調が悪いとホントに身にこたえます。死ぬときはこんな感じで息をひきとっていくんだろうか、なんてオーバーなことを考えたりします。

病院で働く知人に聞くと、亡くなった人はみなさん穏やかな表情をしていて、苦悶の表情の人はほとんどいないのだそうです。ただ、なかには稀に、目尻に涙のあとが残っている人もいると言ってました。それを想像すると、なんだかいたたまれない気持になりますね。

昨日の昼まですこぶる元気でした。ところが、電車で横にすわった、いかにも峯岸みなみの不純異性交遊に悲憤慷慨するようなタイプの(偏見デス)、オタクっぽい中年男性が、マスクをしないで、しかも口元に手も当てずにしきりにクシャミしているのでした。私は一応マスクをしていましたが、ときどきマスクがずれて鼻が外にはみ出していたので、やばいなと思っていました。そして、案の定、夜帰宅してから喉が痛くなりはじめ、徐々に風邪の症状が出てきたのでした。

食堂で向かい合って食事をしていても、口に手を当てずに平気でクシャミする人間もいます。また、立ち食いそば屋などで、給水機で水を飲んだあと、そのままコップを給水機の横にある未使用のトレイに戻す人間もよく目にします。しかも、いい年したおっさんが多いのです。一緒に行った友人は、「あいつらはバイキンマンか!」と憤慨していましたが、まったくどういう育ちをしているんだ?と言いたくなります。

東京には私たちの想像も及ばないくらい優秀な人間が集まっているのは事実ですが、一方で私たちの想像も及ばないくらい「動物的」な人間が集まっているのも事実なのです。ヒューマニズムを過信するあまり警戒心が足りなかった、他人に対して無防備すぎたと反省しています。

そんな八つ当たりとも言いがかかりとも言えないようなことを考えては、ひとりベットで唸っているのでした。
2013.02.02 Sat l 健康・ダイエット l top ▲