今日、「北朝鮮が中距離弾道ミサイル『ムスダン』の発射準備作業を停止」「米軍も監視態勢を一時的に緩和した」というニュースがありました。なんだか肩すかしを食らった感じですが、考えてみれば、今までの”北朝鮮危機”なるものも、ときにミサイルの試射はあっても、実質的にはこのように大山鳴動して鼠一匹出ずで終わっているのです。

下記は先々週アップする予定だったのですが、一知半解に床屋政談ばかり書くのも気が滅入るので、ボツにした記事です。「後付け」のように誤解されるかもしれませんが、たまたま下書きが残っていましたので、あらためてアップしました。

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北朝鮮によるミサイル発射問題は、迎撃ミサイルPAC3の配備などもあって、マスコミはまるで開戦前夜のように大騒ぎしていますが、実際は田中宇氏がブログ(田中宇の国際ニュース解説)で書いているように、「北朝鮮は言葉上の威嚇が過激なものの、経済力が弱いので軍事力は比較的貧弱で、日米韓が本気で北と戦えば国家的に壊滅させられるだろう。北はそれを知っているだろうから、本気で戦争を仕掛けてくるとは考えにくい」のが実情でしょう。

韓国や中国やアメリカが北朝鮮の崩壊を望んでないという本音を共有している限り、戦争なんてとてもありえない話です。むしろ世界大戦の発火点は中東にあり、イスラエルの動向次第だ、と主張する田中氏の見方のほうがはるかに説得力があります。

北朝鮮問題のイニシアティブを握っている中国が、アメリカに対してたびたび「北朝鮮を挑発するな」と警告しているように、アメリカが北朝鮮を挑発して「危機」を煽っている側面もあり、少なくとも現実が、日本政府や日本のマスコミが煽るような好戦的なムードとは別のところにあるのは間違いないでしょう。

 米国では、軍事費を含む政府財政支出の削減が検討されている。軍事費が減ると、米政界で強い力を持つ軍産複合体が困窮する。軍事費の削減を阻止するには、米国にとって脅威となる状況をあおり立て、軍事費を維持または増額しないと米国の国益が損なわれる状態を作ればよい。北朝鮮は、こうした軍産複合体による脅威のあおり立ての相手としてうってつけだ。北朝鮮は国家存続のために好戦的な言動を拡大し、米国の軍産複合体は軍事費削減を阻止するために、北との敵対をあおっている。
 
 日本は、北朝鮮の脅威が強い限り、沖縄の米軍の駐留が必須だという話になり、日米同盟と日本の対米従属を維持できる。日本でも米国でも北朝鮮でも、当局やマスコミが一触即発の戦争危機だと誇張して報じることを、権力に近い勢力が望んでいる。

2013年4月11日有料配信 「北朝鮮と世界大戦の危機」


「米軍が派遣するイージス艦が、昨年7隻だったのに今年は3隻だけで、しかも配備海域も昨年のような日本近海でなく、グアム島や太平洋だ」という”ゆるい現実”や、国連でも北朝鮮の言い分を認めて交渉するしかないという見方が出ていることは、まるで都合の悪い話であるかのように、この国のマスコミはほとんど無視したままなのです。

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今回の問題に対しても、これほど(まるで開戦前夜のように!)大騒ぎしているのは日本のマスコミだけで、韓国にしても、マスコミや国民の反応は至って冷静だと言われます。私たちが見ている(つもり)の”現実”は、ホントの現実なのでしょうか。もしかしたら私たちに見えないところで、まったく別の現実が進行しているのかもしれないのです。ただひとつだけ言えるのは、ヤフートピックスや2ちゃんねるやニコ動だけでは、現実は見えないということです。いいように煽られてネトウヨ化するのが関の山です。
2013.04.29 Mon l 社会・時事 l top ▲
今日の朝日新聞に「官邸にキタノ」という見出しで、北野武が安倍首相と並んで映っている写真が掲載されていました。

それは、「世界のたけし」が安部首相の肝入りで設置された「アジア文化交流懇談会」のメンバーに任命され、その第一回会合に出席した写真でした。排外主義的なネトウヨとの関係が取りださされる安倍首相が「アジア文化交流」とは悪い冗談だとしか思えませんが、それ以上に北野武が「有識者」として「政府委員」に任命されるなんて、まさに悪貨が良貨を駆逐する今の時代を象徴する光景のように思えてなりません。

原子力発電を批判するような人たちは、すぐに「もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ」とか言うじゃないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。 だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。
(『新潮45』2010年6月号)


前にも紹介しましたが、これは福島第一原発事故の前年に行われた原子力委員会委員長(当時)・近藤俊介氏との対談における、北野武の発言です。

彼は同じ対談で、「新しい技術に対しては『危険だ』と叫ぶ、オオカミ少年のほうがマスコミ的にはウケがいい」「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて自動車に乗るのを止めましょうとは言わない」などと言って、原発を懸念する声をヤユしていました。このように北野武は、弟子の浅草キッドなどとともに、電事連ご用達の”原発芸人”と言ってもいいくらい、原発に関しては確信犯でした。

もとより彼の”毒舌”も、このような事大主義と背中合わせなものでしかありません。ベネチア映画祭など海外の映画賞にあれほど執心するのも(たけしが照れ笑いを浮かべながら映画祭から帰ってくる映像は、毎年の恒例行事のようになっていますが)、ひとえに自分の映画を権威づけたいからなのでしょう。そうやって「世界のたけし」の虚像がつくられたのでした。強いもの・大きなものにはヘラコラして、弱いもの・マイナーなものには”毒舌”を吐きこきおろす、それが彼の芸風にほかならないのです。

三國連太郎さんと被差別民の研究で有名な沖浦和光氏との対談集『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫)のなかで、「支配文化」に対する「反文化」、「上層文化」に対する「下層文化」、「中央文化」に対する「周辺文化」の担い手であった芸能が、国家の庇護のもとに入ることについて、二人はつぎのように語っていました。

沖浦 権力のヒモが付いて国家の庇護下に入って、お上から勲章やゼニカネを貰って喜んでいると、そこから芸能の堕落が始まるのが世界の芸能史の通例ですね。
三國 やはり時代を主導する精神に疑問を抱き、既成の支配体制の矛盾を批判して、時代のあり方や人間の生き方を、飽くことなく追及していこうとする意欲 ― それをどう表現していくかという貪欲な意欲が、その時代を生きようとする芸人にとって本当に大事なんですね。
沖浦 そうです。地位が安定しフトコロ具合が良くなると、想像力や構想力もしだいに自由奔放性を失って、芸能表現の生命力が枯渇してしまうんですね。(略)
(「ヒモ付き芸能の堕落」)


たけしも浅草フランス座の「寄席的見世物」(沖浦和光氏)の出身です。だから逆に上昇志向が強いのかもしれませんが、あえて言えば、「河原乞食」なら「河原乞食」でいいじゃないかと思います。そんなに権力や権威にすり寄って偉ぶりたいのかと思います。偉ぶることが芸人にとってなにほどの意味があるのかと思います。技芸に生きる人間の、「河原乞食」としての矜持はないのかと言いたいのです。

ネットでは、フライデー事件で彼が干された際、志村けんがたけし軍団を援助したという”美談”(嘘八百)が信じられていたそうですが、実際は逆で、当時、「たけしが(闇社会に食い物にされて)かわいそうだ」という同情論さえあったのです(『噂の真相』にも同様の記事が出ていました)。先述した『大阪府警暴力団担当刑事』にもたけしの名前が出てきますが、事件をきっかけに右翼の街宣のターゲットになったたけしに対して、その筋のある人物(故人)が”後見人”になり、ことを収めたという噂があったのです。右翼の高名な活動家が参院選に出馬した際、会見の場に横山やすしとともにたけしが同席しているのを見て、私も奇妙に思ったことを覚えています。

たけしの任命が自民党のマスコミ対策であることは明白ですが、「TVタックル」のような”時事討論番組”の司会者が「政府委員」に任命されてもなお、彼を司会者として登用しつづけるテレビ局の見識も問われて然るべきでしょう。

「官邸にキタノ」なんて、能天気にオヤジギャクを言ってる場合じゃないのです。

>> 酒井法子の復帰と芸能界
2013.04.20 Sat l 芸能 l top ▲
昨日、俳優の三國連太郎が亡くなったというニュースがありました。

もちろん、私ははるかにあとの世代(というか子どもの世代)ですので、私が三國連太郎の映画を同時代的に観たのは、足尾鉱毒事件を扱った「襤褸の旗」(吉村公三郎監督)が初めてでした。それ以来、田中正造翁の「辛酸亦佳境に入る」ということばが私の座右の銘になったのでした。

また、そのあと名画座で観た「戒厳令」(吉田喜重監督)での北一輝役の彼の凛としたたたずまいも印象に残っています。ちょうどその頃、松本健一氏の『北一輝論』を読んだばかりだったので、その北一輝のイメージと彼が演じる北一輝のイメージが重なって見えたことを覚えています。

ただ、私にとって三國連太郎は、やはり親鸞思想の研究家としてのイメージのほうが強くあります。そういった顔をとおして、私は、俳優・三國連太郎にずっと興味を持っていました。

三國連太郎は、死に際して、「戒名はいらない」「骨は散骨してくれ」と言ったそうですが、もしかしたら「葬式も必要ない」と言っていたのかもしれません。実際に、娘さんだったか誰だったかが亡くなったとき、葬儀なんてどうでもいいと言って葬式に出なかったとかいった話を聞いた記憶があります。

今手元に2009年、三國さんが86才のときにNHK教育テレビに出演して、インタビューを受けたときのテキスト(『NHK 知るを楽しむ「人生の歩き方」・三國連太郎 虚と実を生きる』日本放送出版協会)があるのですが、そのなかで彼は、鎌倉仏教についてつぎのように語っていました。

調べれば調べるほど、考えれば考えるほど、日本の仏教というものには大きな落とし穴があるようで、今の日本の仏教の中心になっているのは鎌倉期に発生した宗派ですが、そのお寺の存在とか、葬式仏教とか、功徳の話とか、何となくみんな嘘っぽく感じちゃったわけなのです。(略)
 本当は親鸞さんも、日蓮さんも、道元さんも含めて、乱暴な言い方ですが、つまり鎌倉仏教の祖師さんたちは、民衆という一切の人々を救いたい、なんとかしたいと思って、天台仏教や真言仏教を抜け出て新しい教えを開いたのじゃないか。


そして、そんな仏教観のもとに生まれたのが、ご自身が監督をして制作した「白い道」でした。三國さんは、この映画が三國連太郎という役者をもう一度再構築させてくれたと言ってました。

また、三國連太郎は、家でもなんでも所有という普通の考えが自分にはできない、本来借り物であるものを所有することは、人間として冒涜的なことではないか、と言ってましたが、彼が主演した「ひかりごけ」(熊井啓監督)の原作者の武田泰淳氏も同じように、物にこだることは恥とすべしと言ってました。こういった考えの根底にあるのは、言うまでもなく仏教思想です。私生活では息子の佐藤浩市と確執があったとか言われていますが、私は、その奔放な生き方にも、どこかに仏教的(親鸞的)なものを感じてなりませんでした。

(略)僕はダメな人間ですけれども、今まで真剣に生きてきたし、これからも真剣に生き抜いていこうと思っています。生意気な言い方かもしれませんが、よくぞこの人生を生き抜いてきたと、自分で思えるような最期にしたいのです。


NHKのインタビューの最後に三國連太郎はそう言ってましたが、彼に限らず、死に際しては皆さんホントに立派です。どんな人生であれ「生き抜いてきた」というだけでもすごいことなのです。本来仏教が言わんとすることも、葬式とか戒名ではなく、そういうことではないでしょうか。
2013.04.16 Tue l 訃報 l top ▲
大阪府警暴力団担当刑事


今回はちょっと異質な本を。

先日、2012年度(第44回)の大宅壮一ノンフィクション賞に、船橋洋一氏の『カウントダウン・メルトダウン』(文藝春秋)が決定しましたが、私は、それを聞いたとき、「なんで?」と思いました。今回はどう見ても、世評も高かった安田浩一氏の『ネットと愛国ー在特会の「闇」を追いかけて』(講談社)で決まりだろうと思っていたからです。猪瀬直樹(東京都知事)ら選考委員の顔ぶれや勧進元が文春であることを考えると、安田作品の受賞はないものねだりだったのかもしれませんが、同じように今回の選考に失望した読者も多いのではないでしょうか。

『大阪府警暴力団担当刑事ー「祝井十吾」の事件簿 』(講談社)は、『なぜ院長は「逃亡犯」にされたのかー見捨てられた原発直下「双葉病院」恐怖の7日間』(講談社)で、やはり大宅賞の候補にあがっていた森功氏の最新刊です。

これは、タイトルどおり大阪府警のマル暴担当刑事たちに取材したノンフィクションですが、本のなかで指摘されているのは、芸能界・ボクシング・銀行等と闇社会との深い関係です。

本の冒頭は、例の島田紳助の引退会見からはじまります。「正直に話します」と言った紳助の会見を見た大阪府警のマル暴刑事は、こう吐き捨てたそうです。「紳助、よう言うわ。認めるんなら、もっと正直に話さんかい」

吉本興業は、そんな紳助のカンバックを画策していると言われます。しかし、当の吉本と闇社会との関係も、この本ではかなりのスペースを割いてあきらかにされているのでした。

もっとも、関西の人たちにとっては、こういった話は半ば常識で、別に驚くに値しないのかもしれません。中島知子の件でもそうですが、芸能界のご意見番よろしく偉そうにコメントを述べる和田アキ子を見て、大阪府警の刑事と同じように、「よう言うわ」と思っている大阪府民も多いのではないでしょうか。だからこそ、「だったら、どうして橋下なのか?」と言いたくなるのです。

この本のなかでも橋下徹氏の名前がチラッと出てきますが、Twitterの発言に見られるような橋本氏のガラの悪さにも、魑魅魍魎がバッコする維新の会のいかがわしさにも、やはり”大阪的風土”が反映されているように思えてなりません。かつてアイフルの子会社・シティズの顧問弁護士をしていた橋下氏には、大阪をサラ金特区にするというトンデモ話がありましたが、この本を読み進むうちに、あの”大阪都構想”さえもトンデモ話のように思えてくるのでした。
2013.04.14 Sun l 本・文芸 l top ▲
ハピネス


桐野夏生の『ハピネス』(光文社)を読みました。

この小説の主人公は、江東区の埋め立て地に建つベイタワーズマンション(通称BT)という高層マンションの29階に住む主婦・岩見有紗です。有紗は3歳になったばかりの娘・花奈とふたり暮らしで、夫はアメリカに単身赴任しています。

人もうらやむようなタワーマンションの生活。しかし、そのなかにも勝ち組・負け組の”カースト”が存在するのでした。

BTは、ベイウエスト・タワー(BWT)とベイイースト・タワー(BET)の2棟から成るのですが、BWTとBETとでは暗黙の差異が存在します。また、下層か高層か、分譲か賃貸かも、差異化のための重要な要素です。

BETの賃貸に住む有紗は、のっぴきならない家庭の事情もあって、いつも引け目を感じながらママ友たちと付き合いをつづけています。

日頃から、あの人はBWT高層グループとか、BET賃貸組、などといろいろ小さな差異を問題にしているのだろうと想像すると不快だった。差異のあげつらいは、住まいから始まって、いずれ幼稚園の選択、そして小学校受験の可否にかかっていくのだろう。有紗は溜息が出そうだった。憧れのタワマンに住めたのに、すでに自分は負け組なのだ。


タワマンではバルコニーに物を出さないという決まりがあるのですが、うっかりしてバルコニーに置いたままにしていた花奈のシャベルが強風に吹き飛ばされてしまったことに気付いた有紗は、激しく動揺します。「どこかの部屋のバルコニーにでも落下していたら大問題になる」からです。しかも、シャベルには花奈の名前が書いているのです。

そして、案の定、数日後、つぎのような手紙とともに、レジ袋に入れられたシャベルがドアノブにかけられていたのでした。

「このシャベルは、数日前の強風の朝、私の家のバルコニーのガラスを直撃しました。
幸い、何ごともありませんでしたが、私は驚いて目を覚ましました。
上階からの落下物はとても危険です。
くれぐれも規則を守り、だらしのない生活はおやめください。
隣人より」


「だらしのない生活」ということばに、有紗はひどくショックを受けます。それは今の宙ぶらりんな生活を非難されているような気がするからです。実は、有紗には離婚歴があり、子どももいたのですが、そのことを言えないまま、今の夫と「できちゃった婚」したのでした。そして、それが原因で、夫婦間に亀裂が生じ、1年前に一方的に離婚を告げるメールが届いたきり、夫との連絡も途絶えているのでした。

常に後ろを振り返っては、誰かが自分の背に指を突き立てていないか、確かめでばかりいるのはどうしてだろう。誰かに非難されることを、殊の外、怖がっている自分。「だらしのない生活」という手紙の語句は、まさしく有紗の脆い心を直撃しているのだった。


しかし、小説の終盤になると、有紗をとりまく状況が変化していきます。有紗の心をおおっていた疑心暗鬼も徐々に氷解し、その多くが有紗の思いすごしだったことがわかったのでした。

「だらしのない生活」と自分を指弾した階下の「隣人」からも、「あんなことして後悔しています」と乗り合わせたエレベーターのなかで謝罪されます。引け目を感じていたママ友たちも、有紗と同じように「秘密」を抱え苦しんでいることがわかりました。ひとり娘の花奈を奪おうと画策しているのではないかと疑っていた義父母も、ただ息子夫婦の行く末を案じているだけだったことがわかりました。そして、なにより夫の俊平も離婚を望んでないことがわかったのでした。

母であることの孤独という点では、以前感想を書いた金原ひとみの『マザーズ』と共通するものがあります。不倫がからむという点でもよく似ています。でも、個人的にはこの『ハピネス』のほうが感情移入するものがありました。『マザーズ』の感想とは矛盾しますが、主人公の有紗に対しては、夫婦関係が修復して幸せになればいいなと切に思いました。それは一度失敗して傷ついた心に、同じことをくり返してほしくないという気持があるからです。

なかでも、ときどきかかってくる無言電話が、3才のときに別れたきりになっている息子・雄大からではないかと思った有紗が、ママ友と一緒に故郷の新潟に雄大に会いに行った際、前夫の鉄哉と対面するつぎのようなシーンでは、個人的な体験とオーバーラップしてこみあげてくるものがありました。無言電話は雄大からではなく、結婚生活がうまくいってない前妻を心配した鉄哉からだったのです。

 「有紗が東京で幸せに暮らしてるって聞いて、俺、本当に嬉しかった。だから、今心配していた。早く解決して、幸せになってくれよ。そして、いつまでも元気で暮らしてください。雄大のお母さんなんだから。」
 鉄哉の目に光ったのは涙だった。七年前、「お前は、我儘過ぎる」と血相を変えて、自分を殴った男が今、泣いている。雄大の実母の不幸せは、幸せな鉄哉一家にとって不安の種なのかもしれない。
 「ありがとう。じゃあ、そろそろ帰るね」
 タクシーに戻ろうとすると、手の中に紙袋を渡された。
 「うちの『ル・レクチエ』だよ。洋梨。ふた箱あるからお友達に」


この本の帯に、「結婚は打算から始まり、見栄の衣をまとった。」という惹句がありましたが、「打算」や「見栄」であっても、あるいは人に知られたくない”過去”を抱えていても、幸せはあるはずです。「みんな必死だったんだなと思った」という有紗のセリフがありますが、タワマンに住んでいるかどうかなんて関係なく、みんな必死に生きているのです。「隘路でも道は道」なのです。その道を辿って行けば、幸せはあるし和解もあるはずです。この小説の結末が”平板”なのも、そこに人生の真実があるからでしょう。ありきたりな言い方ですが、そう思いました。

>> 金原ひとみ『マザーズ』
2013.04.10 Wed l 本・文芸 l top ▲
ハンサラン 愛する人びと


第11回・R-18文学賞を受賞した深沢潮の『ハンサラン 愛する人びと』(新潮社)を読みました。R-18文学賞というのは、新潮社が主催する公募新人賞で、応募された作品の下読みも女性編集者が行い、選考委員も女性作家の三浦しをん氏と辻村深月氏がつとめる「女性による女性のための」文学賞です。

『ハンサラン 愛する人びと』は、受賞作の「金江のおばさん」と書きおろしの5編からなる連作小説です。この作品で描かれているのは、若い在日の視点から見た現代の在日社会のリアルな日常です。

「金江のおばさん」というのは、在日同士の縁を取り持つ有名な”お見合いおばさん”です。私も昔、在日の知り合いから”お見合いおばさん”の存在を聞いたことがあります。その背景には、子どもに対しても同胞との結婚を望む親たちの意向があるからですが、ただそれだけではありません。この小説でも描かれていますが、結婚においても、百済・新羅の時代から連綿とつづく家系や出身地(いわゆる「本貫」)にこだわる意識が古い朝鮮人の間に未だに残っているからです。もっとも在日だからよけい、そういった意識にこだわるという側面もあるようです。

一方、”お見合いおばさん”も、ただ単にボランティアで男女の縁を取り持っているわけではありません。紹介料や結婚に至った際の礼金、さらにはお見合いや結婚式に利用するホテルや衣装を作る店などからバックマージンを得て、それを生活の糧にしているのです。しかし、その金江のおばさんにも北朝鮮に帰還し音信不通になった息子がいて、ここにも「かぞくのくに」と同じように、祖国が独裁国家であった悲劇が影を落としているのでした。

招待された結婚式で、朝鮮総連の婦人会の女性たちに促されて踊りの輪に加わりながら、おばさんは北朝鮮にいる息子(光一)を思い、こう自分に言い聞かせるのでした。

 民団も総連もなんだっていい。韓国だろうが北朝鮮だろうがどうだっていい。命があるうちは、同胞の縁を繋ぎ続けるしかない。そして、光一との縁をかろじて繋ぐのだ。


受賞作の「金江のおばさん」以外に私が好きなのは、「ブルー・ライト・ヨコハマ」です。

高校生の美緒は、日本の学校に通っていますが、学校では自分が韓国人であることをカミングアウトしていません。でもK-POPが好きで、特に少女時代の大ファンです。しかし、キムチはその臭いからして嫌いな今どきの若い在日です。

”お見合いおばさん”に紹介されたアジェ(叔父さん)の再婚相手が決まったことで、アジェと二人暮らしだったハルベ(お爺さん)を美緒の家で引き取ることになりました。ハルベは80歳をすぎ、既に認知症がはじまっていました。在日一世のハルベと生活をともにすることで、美緒は否応なく自分のルーツを意識させられるようになるのでした。でもそれは美緒にとって「あまり向き合いたくない事実」でした。

 Kポップ、この韓国はいいんだよ。だけど、ハルベにかかわる韓国は、好きじゃないんだよ。
 つまり、うちに臭う韓国と、少女時代の体現する韓国は別のもの。
 美緒の中では相いれない。


孫(美緒)と自分の娘(美緒の母親)の見分けもつかないほど、ハルベの認知症はかなり進行していましたが、なぜかいつもハルベは「ブルー・ライト・ヨコハマ」を口ずさんでいるのでした。どうして「ブルー・ライト・ヨコハマ」なのか。美緒は、ネットで「ブルー・ライト・ヨコハマ」に関する事柄を調べてみました。すると、軍事政権下で禁止されていたこのいしだあゆみの歌が、釜山ではひそかに海賊版が出回るほど好んで歌われていたことがわかりました。ハルベのたったひとりの妹のユンヤも釜山に住んでいたのです。つまり、妹の死に目にもあえなかったハルベの、妹を追憶する気持がこの歌に込められていたのでした。

結局、ハルベは千葉の養護老人ホームに入所することになったのですが、その前に、最後の思い出を作るために家族で横浜に日帰り旅行に出かけることになりました。横浜は一度だけユンヤが来日した際に一緒に訪れた、ハルベにとって思い出の地です。

そのなかで、ランドマークタワーの展望台に立った一家が、夕暮れの横浜の街を見下ろしながら、美緒の弟の浩太が歌う「ブルー・ライト・ヨコハマ」に耳を傾けるシーンが印象的でした。4歳の浩太は、ハルベがいつも口ずさんでいるので、いつの間にか「ブルー・ライト・ヨコハマ」を覚えたのですが、そのときこっそりと浩太に歌うように美緒がけしかけたのでした。

 浩太の歌声は大きかった。周りの人が、なにごとかとこっちを見る。ゴールデンウィークなので、展望台には多くの人がいて、浩太は注目の的だった。当然浩太と手を繋いでいる美緒も目立っていた。美緒にとっては耐え難い視線の数々だったが、このひとときは我慢しようと頑張ってみる。
 両親もアジェも、最初は急に歌いだした浩太に目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべて、小さく拍手をした。
 ハルベは思いつめた顔をしてじっと浩太の歌声に耳を傾けていた。自分は最後まで歌わずに、リズムを顎でとりながら。
 浩太が歌い終わると、ハルベは、わずかに微笑んだように見えた。


人はさまざまな境遇のもとに生まれます。そして、その境遇がもたらす喜びや哀しみのなかから文学(のことば)が生まれるのです。だから私たちは、日本人とか朝鮮人・韓国人とかいった枠を越えて共感することができるのです。小説としては拙い部分もありますが、在日という境遇のもとに生まれた人々の人生の力強さとその裏にある生きる哀しみを描いた、人間味のあふれたとても共感できる作品だと思いました。
2013.04.02 Tue l 本・文芸 l top ▲