ビッグデータの覇者たち


海部美知氏の『ビッグデータの覇者たち』(講談社現代新書)を読みました。

ビッグデータとは、著者の定義によれば、ネットで収集されたさまざまなデータを使って「予測」「絞り込み」「見える化」をする技術のことです。身近な例で言えば、過去の検索履歴から個人別にカスタマイドされるグーグルのパーソナライズ検索やアマゾンのレコメンド広告(おすすめ広告)などがそれです。

業界では、「データは新しい石油」と言われているそうですが、たしかにネットで収集される個人データが”無限の可能性”を秘めているというのは、そのとおりでしょう。ただし、それはあくまで金の成る木としての可能性です。

もちろん、ビッグデータを考える上で、ユーザーのプライバシーは避けて通れない問題です。考えようによっては、非常に深刻な問題をはらんでいると言えます。でも、著者の認識は、呆気にとられるくらい能天気なものでした。本のなかでも、プライバシーの問題は申し訳程度にちょっと触れているだけで、あとはもっぱら金の成る木としての可能性の話ばかりでした。

(略)ユーザーがアマゾンのタブレット「キンドル」を使うと、そのユーザーのデジタル・コンテンツの利用状況の詳しいデータを取ることができます。電子書籍ならば、いつ、どの場所で、何を、何ページまで読んだか、どこにブックマークしたか、ハイライトしたか、などまでアマゾンが正確に把握することができます。


(略)ベンチャーのプロテウス社では、食べられる素材で作った微小チップを薬の錠剤に埋め込み、ユーザーが錠剤を服用したときだけチップが微弱電波を発するようにし、その信号をキャッチしてサーバーにアップするシステムを開発しています。大きな手術後にはたくさんの薬を服用することが必要ですが、用法・用量を守らず、また病院に逆戻りというケースが多いため、服用状況を自動監視するための仕組みです。


私は、こういった具体例を読むにつけ、やはりプライバシー問題を考えないわけにはいきません。それどころか、ビックデータというのは、総監視社会化の謂いではないかという思いを強くせざるをえないのです。

でも、著者は、「『プライバシー問題があるからビッグデータは全面禁止』というのは、『交通事故が怖いから自動車は全面禁止』と同じくらい、非現実的です」と言ってました。このセリフはどこかで聞いたことがあるなと思ったら、福島第一原発事故のあとに原発推進派が口にしていたセリフと同じなのです。

著者は、ビッグデータによる実害については、その都度個別に防止策を講じればよく、データを集める部分に制約を設けるべきではないと言います。なぜなら、「どのデータが役に立つのか、今はゴミでも将来はどうか、自分にとってゴミだが他の人にとってはどうか、など集める段階での判断をつけづらいのがビッグデータ」だからだと言うのです。なんだかこれも「まず原発ありき」の推進派の詭弁に似ています。

しかも、現在、ビッグデータで利用されているデータは、ほんの入口にすぎないのだそうです。その先には、あまりにも「強力」すぎて使うことができない、著者が言う「戦略核兵器」のようなデータがあります。たとえば、フェイスブックがもっている「プライベートな人間関係データ」などがそれです。ただ、逆に言えば、「強力」である分、巨大な金の成る木になる可能性もあるわけで、ネットの守銭奴たちがただ指をくわえて見ているはずはないのです。

もっとも、先日、元CIA職員でアメリカ国家安全保障局(NSA)の要員であったエドワード・スノーデン氏が暴露したNSAの諜報活動からは、国家レベルでは既にその「戦略核兵器」に手をつけている実態が垣間見えるのでした。スノーデン氏が提供した内部文書によれば、国防総省の諜報機関であるNSAは、「PRISM」というソフトを使って、グーグル・アップル・マイクロソフト・ヤフー・フェイスブック・スカイプ・ユーチューブ・AOL・パルトークの大手ネット企業9社のサーバーに侵入し、サーバー内に保存されていたメール・検索履歴・通信記録・画像・動画等の個人データを収集していたそうで、アメリカ政府もその事実を認めています。

言うなれば、ビッグデータとは、諜報活動の民生転用のようなものと言ってもいいのかもしれません。ビッグデータをとおして見えてくるのは、筒抜けになった私たちのプライバシーが日々企業や国家から覗き見されている、ジョージ・オーウェル描くところの『1984年』の現代版のような世界です。それは、「ネットは自由か?」なんて質問も、もはや間抜けな愚問にすら思えるほどです。そう考えると、『ビッグデータの覇者たち』は、ユーザーの側から見た問題意識がおそろしく欠けていると言わざるをえません。そして、あらためてウィキリークスのジュリアン・アサンジ氏やスノーデン氏が、ヒーローに見えて仕方ないのでした。

>> ”国営マンガ喫茶”
2013.06.28 Fri l ネット・メディア l top ▲
今日、Yahooニュース(個人)にアップされた藤代 裕之の「インターネットと「私刑化」する社会」 は、非常に示唆に富んだ秀逸な記事でした。

記事のなかで、藤代氏がくり返し指摘しているのは、「ネットとマスメディアの共振が『私刑化』する社会を拡大させている」構造です。これは、大塚英志氏が『物語消費論改』で指摘した「旧メディア のネット世論への迎合」ということに符合しているように思います。

「私刑」は、従来『週刊新潮』や『週刊文春』などの週刊誌が得意としていた手法でした。しかし、最近は、ネット以前には発言の場がなかった人たち、なかでも終日ネットに張り付いている「ネットこそ真実」「ネットがすべて」のネット住人たちが、その手法をネットに持ち込み、人生がうまくいかない”負の感情”のはけ口にしている側面もあるように思います。

一方で、彼らを煽るメディアがあることも忘れてはなりません。藤代氏が言うJ-CASTニュースやイザ!やYahooトピックスなどのミドルメディアがそれです。ミドルメディアは、記事を売るわけではなく買う側で、サイトの広告収入によって成り立っています。よってとにかくアクセスを稼ぎページビューを増やす必要があります。そのために、意図的に煽るような記事を出す傾向があるのです。これも一種の”炎上商法”と言えるでしょう。

私たちの前にあるのは、こういった構造によって、いじめにも似た低劣な”センセーショナリズム”が生み出されるネットの日常です。もっとも、「私刑」をふりかざすのは、なにも無名な「バカと暇人」(中川淳一郎氏)ばかりとは限りません。

ブロガーのイケダハヤト氏は、同じブロガーのやまもといちろう氏との間の「ブログ論争」で、やまもと氏のブログがもっている「攻撃性」は、「『私刑』そのもの」で、「俺が許せないから裁いてやる、という論理は危険です。ネトウヨやネット自警団と変わらない理屈です」と批判していました(「イナゴの王」やまもといちろう氏との対談を終えて )。

やまもといちろう(山本一郎)氏については、このブログでも何度も発言を紹介しているように、ネットやネトウヨに対する視点には教えられるところ大なのですが、ただ一方で、彼のブログに見られる必要以上に粘着質の個人攻撃に、私も常々違和感を覚えていたことはたしかでした。

ネットの場合、過激なことばで読者を獲得するという一面(芸風)もありますが、読者の反応によって逆に煽られ、「私刑」まがいにエスカレートする懸念もあるように思います。

ヘイトスピーチは、なにも新大久保の路上だけに存在するわけではないのです。言うまでもなく「私刑」もヘイトスピーチも同じ構図のなかでつながっています。ヘイトスピーチに関しては、作家の中沢けい氏が先日、「規制は少ないほうが良いという考えだった。で、この2か月で考え方が逆転して、ヘイトスピーチ規制は法的にしたほうが良いと思うようになった」とTwitterでつぶやいていましたが、私はネットの書き込みについても、権力が規制する”危険性”を重々承知の上で、それでもなお規制すべきではないかと思うことがあります。

路上のヘイトスピーチの背後には、多くの一般市民の「サイレントヘイトスピーチ」が存在していると言った人がいましたが、ネットの「私刑」も同じでしょう。いたずらにネットに幻想を抱くより、ネットは自由ではないし匿名でもない、総表現社会とは実は総監視社会でもあるのだということを、むしろはっきりさせたほうがいいのではないかと思ったりもするのです。

※記事のタイトルは、なんの関連もないのですが、昔読んだ五木寛之氏の小説のタイトルを借用しました。
2013.06.26 Wed l ネット・メディア l top ▲
不本意ながら、また床屋政談です。

東京都議会議員選挙は、戦前の予想どおり自民圧勝で終わりました。おそらく来月の参院選も同じ結果になるのは間違いないでしょう。

テレビ東京と日本経済新聞が週末に行った最新の世論調査で、安倍内閣を「支持する」と答えた人は、66%だったそうです。一方で、「安倍内閣の経済政策で景気の回復を実感しているとの回答は17%にとどまり、アベノミクスの効果の見通しについては、43%が『「効果は続かない』と回答」しているそうです。

アベノミクスにはあまり期待してないけど、安倍内閣を支持する。この一見矛盾した評価は、一体なにを意味しているのでしょうか。

別の世論調査では、改憲についても国民の意見は分かれていて、賛成と反対がほぼ半々です。アベノミクスはあまり期待してない、憲法改正も賛否は半々だ。しかし、安倍内閣の支持率は高く、実際に選挙でも自民党は圧勝しています。そして、結果的に、TPP参加にも、10年間で200兆円という公共事業の復活にも、消費税増税にも、憲法改正にも、お墨付きを与えているのです。

マスコミは、橋下徹氏を持ち上げて維新のブームを作りましたが、橋下氏自身の「従軍慰安婦発言」でブームは終わりました。しかし、同じ手法による安倍内閣ブーム(正確に言えば、アベノミクスブーム)は依然つづいます。6年前の第一次安倍政権では、安倍首相はただのアホなボンボンのようなイメージがありました。それもマスコミが作ったイメージでした。そして、今度は180度正反対のイメージがふりまかれているのです。

日本経済新聞とテレビ東京は、今やアベノミクスの広報紙と化していますが、例のバブルのとき、日経は無定見にバブルを煽り、社員がインサイダー取引に関与したとして逮捕され、のちに大きな批判を浴びました。しかし、懲りないとはこのことで、今もまた同じことをくり返しているのです。

もっとも、これは日経に限った話ではありません。ほかの新聞やテレビも同じようにアベノミクスブームに便乗して、守銭奴たちを煽っているのです。マスコミでは、もはや安倍内閣の批判はタブーのような空気だそうですが、これでは新聞やテレビだけを情報源とする人々にとって、自民圧勝は自然の流れのような気がします。

一方、野党のていたらくは言わずもがなです。自民党の幹部は、圧勝は野党のおかげだと高笑いしていたそうですが、たしかに今や野党は自民党の引き立て役のために存在しているかのようです。そもそも野党と言っても、多くは自民党の亜流のような保守政党ばかりなのですから、選択の余地はきわめて狭く、最初から自民圧勝のレールが敷かれていたようなものです。

今日、このブログでは「サンクコストの呪縛」というキーワードでのアクセスが多かったのですが、私はそれを見て、なるほどなと思いました。

民主党の現状は、まさに「サンクコストの呪縛」に囚われていると言えるのかもしれません。選挙中、ノブタやフランケンやイラ菅やアメリカのポチがまたぞろ這い出し演説しているのを見たとき、一瞬我が目を疑いました。民主党内では、彼らは未だに「民主党の顔」なのでしょうか。だとしたら、その感覚は常人のものとは思えません。

「自民党は消費税増税のいいとこ取りをしている」なんてよく言えたもんだと思います。消費税増税を自民党にプレゼントしたのはどこの誰なのか。自分たちが有権者からどう見られているか、まるでわかってないようです。どう考えても、民主党は解党するしかないと思いますが、解党すらできないのでしょう。それが「サンクコストの呪縛」たるゆえんでしょう。

また、議席が倍増し「唯一の野党」としての存在感を示したと言われる共産党にしても、記者会見で満面の笑みを浮かべている志位和夫委員長と市田忠義書記局長の写真が新聞に出ていましたが、自民圧勝を考えれば笑っている場合じゃないのです。むしろ状況は、(共産党の口真似をすれば)「暗黒の時代」にさらに近づいていると言えるのです。こういったところにも、自分さえよければいいという共産党の独善的な姿勢が表れているように思いました。

そして、挙句の果てが、投票率がどうだ、得票率(数)がどうだ、勝ったと言っても消去法で支持されたにすぎないという、おなじみのおためごかしと負け惜しみの”分析”です。いわゆる左派(かつての革新)は、この何十年、選挙のたびにこの手の”分析”をくり返し現実を糊塗してきたのでした。これも”常套句”のひとつと言ってもいいでしょう。

これじゃ自民党の高笑いが止まらないのも当然でしょう。

>> サンクコストの呪縛
2013.06.24 Mon l 社会・時事 l top ▲
新潮45(7月号)


『新潮45』(7月号)の「橋下徹の落日」という特集に惹かれ、駅前の書店で買って電車のなかで読みました。

特集の記事は、なにが言いたいのかわからない徳岡孝夫氏の記事以外はどれも正鵠を射ていて、面白く読めました。橋下氏や維新の会が「終わった」のは、もはや誰の目にもあきらかのように思いますが、ただ大阪だけはそうではないのだとか。信じられない話ですが、大阪では未だに橋下氏はヒーローなのだそうです。昔、藤本義一や上岡龍太郎などが、「11PM」などでよく、大阪人のなかには「反中央・反権力」の気質があるなんて胸を張って言ってましたが、その行き着く先が橋下(ファシスト)なのかと言いたくなります(その前に横山ノックもいたけど)。

ただ、『新潮45』の今月号では、特集記事もさることながら、元大蔵官僚の榊原英資氏とエコノミストの水野和夫氏の対談「先進国だけが豊かになれる『近代』は終わった」が面白くて、思いがけない収穫を得た感じでした。

二人に共通しているのは、アベノミクスに対する懐疑です。アベノミクスが言う「デフレからの脱却」についても、今のデフレの正体は、通常の需給ギャップによるデフレなどではなく、「構造デフレ」だと言います。

その背景にあるのは、資源国の台頭、つまり、資源ナショナリズムの勃興による先進国と途上国の政治的力学の変化です。その典型例が、資源価格の高騰です。

水野 (略)一九九四年の原油価格は一バレル一七・二ドルで、日本は年間四・九兆円払えば原油や天然ガスなど鉱物性燃料を買えたのです。ところが二〇〇八年には、年間平均でいうと一バレル九九ドル、一時は一四七ドルまで上昇して、二七・七兆円出さないと同量の原油や天然ガスを買えなくなってしまった。


こういった20世紀末からはじまった新興国の台頭による資源価格の高騰によって、「エネルギーをタダ同然で手に入れることを前提に成り立っていた近代社会の根底が揺さぶられ」「先進国と周辺国の間の『交易条件』が大きく変わったのだと言うのです。

つまり、資源を安く手に入れて、それを元に生産した工業製品を高い価格で輸出する先進国の従来の「交易条件」が通用しなくなり、先進国の企業が儲からなくなったのです。その結果、いくら景気が拡大しても、デフレのままで国民の所得は増えないという状況が現出したというわけです。

榊原 (略)財務省の出しているデータによれば、九五年度から〇八年度にかけて、大企業製造費の売上高は四三兆円増えたのに、変動費も五〇兆円増えてしまった。つまり、変動費が増えた分、どこかが削られています。それが、人件費や利益だったと考えられます。


実際に、リストラや非正規雇用の拡大によって、人件費が削られているのは、私たちもよく知っているところです。これがあの「失われた20年」の内実なのです。

しかも、今までは先進国10億人の人間が石油を使っていただけでしたが、これからは新たに周辺国の50億人も使いはじめるのですから、さらに資源価格が高騰するだろうことは容易に想像できます。それがグローバリゼーションのもうひとつの側面で、だからこそ、資源が少しでも安く手に入る円高のほうがむしろ国益にかなっているのではないか、という二人の主張には説得力があります。

また、榊原氏が指摘するように、「世界経済の重力の中心が西から東に戻り始め」「中国やインドの世界経済への再登場」という「世界経済の数百年単位の大きな構造変化」も見逃すことができません。尖閣で寝た子を起こし、排外主義的なナショナリズムを煽り、「アジアの時代」に背を向ける安倍政権の姿勢は、そのうち大きなツケとなって跳ね返ってくるのは間違いないでしょう。

一方、グローバリぜージョンは、さらなる格差をもたらし、必然的に国民国家の解体へと進んでいかざるをえません。

水野 (略)アメリカのサブプライムローン問題が象徴しているのは、グローバル化が進むと、周辺部の貧しい国々だけでは足りなくて、中心の先進国の中にいる貧しい人たちからも収奪しようという資本主義の論理です。日本に広がっている貧困の問題も同じものです。


TPPによって、国民生活が大きな影響を受けるのは必至で、貧困率はますます高くなっていくでしょう。ユニクロではないですが、賃金の平準化によって年収100万円なんて当たり前の時代になるかもしれません。しかし、社会保障は削られ、もう国は面倒をみてくれないし、その余裕もないのです。

日の丸の小旗をうち振り「愛国」を叫びながら、グローバリゼーションに拝跪する「売国」的な道をつき進んでいるのが今の日本です。安部政権の政策は、「日本を、取り戻す」(自民党の選挙ポスター)ではなく「日本を、売り渡す」じゃないのか、と言った人がいましたが、たしかにどこが「日本を、取り戻す」ことになるのか、私にもまったく理解の外です。
2013.06.20 Thu l 社会・時事 l top ▲
2013年6月17日 013


ダイエットは、10キロ減を目標にしていましたが、あと1キロまできました。このひと月は1日1万歩をノルマにひたすら歩いていました。

今日も午後から新横浜まで歩いて、そのあと市営地下鉄で桜木町に移動して、みなとみない界隈のいつものコースを歩きました。帰って万歩計を見たら、1万7千歩歩いていました。

最近、赤レンガ倉庫と山下公園の間をジョギングしている人がやたら目につきます。皇居の周回コースと同じように、そのうち赤レンガ~山下公園間が横浜のジョギングのメッカになるのかもしれません。

そんな元気な人たちを横目に見ながら、私の心は暗く沈んでいました。ダイエットも順調に進んでいるのに、どうしてかと言えば、最近体調がよくないからです。その憂さを忘れるために歩いているような感じさえあります。既に検査もしているのですが、その結果を聞きに病院に行くのが怖くて仕方ないのでした。

山下公園のベンチにすわり、夜の海を眺めていたら、いろんな思いが去来しました。人間はいくつになっても悩みは尽きないものです。むしろ、年をとればとるほど、悩みは深く大きくなっていくような気がします。隣のベンチでは、若いカップルが嬌声をあげながらいちゃついていましたが、彼らにも苦悩に胸を塞ぐようなことがあるのだろうかと思いました。もちろん、ないはずがないのです。でも、孤独にうち沈んでいると、世の不幸を自分ひとりで背負いこんでいるような気持になり、つい「自分だけがどうして」と思ってしまうのでした。


2013年6月17日 017

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2013.06.17 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
さる6月8日、「第5回AKB選抜総選挙」の開票イベントが、日産スタジアムで大々的に行われました。テレビでも生中継していましたが、私がなにより驚いたのは、朝日新聞の入れ込みようでした。

朝日新聞デジタルでは、次々と発表される順位を速報で掲載していて、まるでホンモノの総選挙の開票速報のようでした。しかも総選挙のあとは、選挙結果について、濱野智史氏(『前田敦子はキリストを超えた―<宗教>としてのAKB48』の著者)が、池上彰のように「総評」する熱の入れようでした。

また、総選挙の当日付けのWEBRONZAでは、佐藤優氏が「宗教現象としてのAKB48――「センター」に神を求め続けて」という文章を書いていて、そのなかで佐藤氏は、「吉本隆明氏の『マチウ書試論』のキリスト理解を導きの糸にして、AKB48を宗教現象として理解する」濱野智史氏の視点を、「神学的にとてもよいセンスをしている」と高く評価しているのでした。

しかし、佐藤氏の文章は、何事も「宗教(性)」ということばで解釈すれば、もっともらしく説明がつくという氏お得意の”手慰みの論理”でしかありません。佐藤氏の言う「貨幣の宗教性」とマルクス経済学が言う「貨幣の物神性」は、ことばの概念においてまったく異なる(似て非なる)ものですが、そういった初歩的な概念さえ混同する、実に粗雑で頓珍漢な文章です。AKBのことなんて何もわかってないのに、なんだか無理してAKBを語っているような感じです。

(略)前田敦子さんの「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という発言も、AKB48という宗教教団の集合的無意識を言語化したものだ。AKB48には、商業主義の中にこの利他性が埋め込まれている。それが他の芸能集団とAKB48を区別する重要な差異と思う。


「集合的無意識」とは、あのユングの集合的無意識? こういう文章には、「バカバカしい」ということばしか思い浮かびません。

一方、肝心なオタクたちは、今回の総選挙に対しては多分に冷めているのでした。数年前までは秋葉原のAKB劇場に通っていたような知り合いの(中年の)オタクたちに今回の総選挙のことを聞いても、気のない返事しか返ってこず、あまり関心がない様子でした。そりゃそうでしょう。数々のスキャンダルと露骨な炎上商法、そして河西智美や篠田麻理子らと運営会社の社長との「不適切な関係」疑惑(文春との裁判で、同じマンションに住んでいることや、混浴に行けば「一緒に入浴する仲」であることを、当の社長自身が証言しているそうです)をあれだけ見せつけられれば、冷めるなと言うほうが無理というものです。AKBブームが終わりつつあるのは、もはや誰の目にも明らかなのです。

にもかかわらず、この朝日新聞のはしゃぎっぷりはなんなのでしょうか。なんだか無理して若づくりしている周回遅れのオヤジのようです。フジテレビの軟弱路線を真似た挙句、気持の悪いカマトト女子アナばかり輩出して、視聴率競争でテレビ東京にも追い抜かれるほど凋落した”お堅いTBS”とよく似ています。

まさかこれで朝日新聞のイメージが向上して部数減に歯止めがかかり、あらたな購読者を獲得できると思っているわけではないでしょうが、総選挙がどうたらこうたらではなく、せめてAKBブームの裏にある芸能界の魑魅魍魎や児童ポルノとの関連を記事にするくらいの気概と見識をもってもらいたいものです。それがメディアのあるべき姿でしょう。AKBだけでなくアベノミクスでも(二大超大国が世界の覇権について話し合った歴史的な)米中首脳会談でも同じです。

貧すれば鈍するなのか、朝日新聞は部数減に浮足立ち、メディアとしての本来の役割を忘れているように思えてなりません。
2013.06.16 Sun l 芸能 l top ▲
野心のすすめ


林真理子の『野心のすすめ』(講談社現代新書)を読みました。

昔、つきあっていた彼女は、林真理子の大ファンでした。実際に林真理子に会って話をしたこともあるそうで、「とってもいい人だった」と言ってました。

しかし、私は林真理子のどこがいいのか、さっぱりわかりませんでした。「女性の本音を書いている」と言うのですが、それは裏返せば身も蓋もないことを書いているようにしか思えませんでした。

一方、林真理子は、そういった身も蓋もないことを書いた本(デビュー作『ルンルンを買っておうちに帰ろう』)を出したのも計算ずくだったと言うのです。

 当時の書店の女性エッセイの棚には、落合恵子さんや安井かずみさんのような、女性らしい品のある本しか並んでいませんでした。「ああ、ここに爆弾をぶち込めば売れるだろうな」と私なりのマーケティングをしたんです。恋愛やセックスのあけすけなエピソードやちょっと下品なことまで、とにかく誰も書いていないような女性の本音を書けば絶対に売れるはずー。
 あの時は、悪魔に魂を売り渡してもいいとさえ思っていました。普通のことを書いていたら、無名の自分が世の中に出られるはずはないとわかっていたので、何か過激なことをしなければならなかった。


これを正直(本音)と見るか、あざとい(野心)と見るか、人それぞれでしょうが、この本には、野心が希薄な時代だからこそあえて「野心」を言挙げする彼女なりの考えも含まれているように思います。内田樹氏もかつて『下流志向』で書いていたように、学ばない・働かない若者たちがマスとして存在する時代だから、(野暮を承知で)努力をすることの大切さを強調しなければならないのでしょう。

林真理子は、「『今のままじゃだめだ。もっと成功したい』と願う野心は、自分が成長していくための原動力」で、そのためには「野心に見合った努力が必要で、野心が車の「前輪」なら努力は「後輪」だ、と言います。

 たとえば学生さんや就職浪人の方々がアルバイトをするのであれば、二流三流ばかりでつるんでしまいがちな居酒屋チェーンではなく、少しでも実入りのいいアルバイトをしようとして学校名で差別されるような経験をしたほうがいいと思います。
 社会に出てからも同じです。
 正社員として雇ってもらうことが叶わず、非正規雇用で差別された悔しい思いをしているなら、派遣社員の友人と、会社や社会の愚痴を言い合っているだけでは何も変わりません。


身も蓋もない言い方だけど、でも、痛いところをついているのはたしかでしょう。

コンビニの前でウンコ座りしている中学生とそれを横目に塾に通っている中学生が、10年後に差が付くのは当然だろう、と言った人がいましたが、正直私もそう思います。みんな平等なのだから、彼らに対等にチャンスを与えるべきだという考えは、理念としてはありえますが、現実にはありえないのです。

もちろん、すべてを個人の努力のせいにするのはあまりにも単純すぎますし、それはややもすれば弱肉強食の「自己責任論」にもつながりかねません。努力しても報われない社会の構造もたしかにあるわけで、そういった社会の不条理にも目を向けるべきでしょう。ただ、だからと言って、学ばない・働かない・努力しなくていいということにはならないのです。

林真理子は「無知の知」という言い方をしていましたが、みずからが「無知」であるという自覚(無知の知)のない人間に、どうやって無知であることを自覚させるかは、むずかしい問題です。永山則夫が「無知の涙」を流したのは、ネット以前の話です。病気をして仕事を失ったら生活保護を受けるしかないようなフリーターたちが、一方でナマポ叩きをする、その浅はかさ(無知)の根底にあるのは、「努力をしない」人生に対する勘違いと開き直りでしょう。類は友を呼ぶネットの出現によって、そういう勘違いと開き直りが生まれたのです。

 私が最近の若い人を見ていてとても心配なのは、自分の将来を具体的に思い描く想像力が致命的に欠けているのではないかということです。
 時間の流れを見通すことができないので、永遠に自分が二十代のままだと思っている。フリーターのまま、たとえば居酒屋の店員をずっとやって、結婚もできず、四十代、五十代になったときのことを全く想像していないのではないか、と。
 より具体的に言えば、「このまま一生ユニクロを着て、松屋で食べればオッケーじゃん」という考え方です。


たしかに、身も蓋もない言い方ですし、言葉尻をとらえればいくらでも批判できます。しかし、現実を見ると、盗人にも三分の理ではないけれど、林真理子にも三分の理があるように思えてならないのです。こういうベタな考えは案外人生の核心をついていて、バカにできないのではないでしょうか。

林真理子ファンだった彼女は、いつも口癖のように私に「欲がないね」と言ってました。そして、そんな私に三下り半を突きつけると、ひとりアメリカに旅立ったのですが、今になれば彼女の言い分にも三分の理があったように思えるのでした。
2013.06.11 Tue l 本・文芸 l top ▲
さよなら、韓流


北原みのり氏の『さよなら、韓流』(河出書房新社)を読みました。

この本は、韓流にはまった著者が、エッセイや同じように韓流にはまった女性たちとの対話をとおして描く「韓流の物語」であり「”非国民女”の欲望史」(”帯”より)です。

著者は言います。「韓流はエロである」と。そして、「女の欲望は正義じゃない。だからこそ、しなやかに強く根深く自由だ」と。

それに対して、フェミニズムの先達の上野千鶴子氏は、著者との対談で、韓流にきわめて否定的な見方をするのでした。韓流も所詮は「思うさま消費して使い捨てができる」便利な消費財にすぎない、「その背後には植民地時代からの優劣関係の記憶がきっとある」、だから韓流ブームは「不愉快だ」と言うのです。

でも、私には、今の韓流ブームは、上野千鶴子氏が言うような「歴史」や「政治」と切断されたところに成り立っているのが特徴で、むしろそこに韓流ブームの斬新さや可能性があるように思えてならないのです。

北原 むしろ、私はいままで男臭さや男らしさっていうのを否定してきたけれど、肯定すべき男らしさがここにあるんだ!と思って。
信田(引用者注:信田さよ子氏。臨床心理士) そうなんだ、韓流ではじめて?
北原 そう、韓流で自分の中のフェミニズムが変わったんですよ。いままで身体性のない「男らしさ」とかに対して、苛立っていたんだけど、肉体を伴った男が出てきた途端にいろんなことが解決されちゃった。それがすごく斬新で。
(略)
信田 (略)それって、ジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』で書いていることだよね。つまり、いままでジェンダー規範に取り込まれていた北原さんが東方神起を見て、ジェンダーにとらわれない本物のセクシャリティによってむしろ解放された、みたいな。
(信田さよ子×澁谷知美×北原みのり「韓流はフェミである!」)


こういった「しなやかに強く根深く自由」な「女の欲望」の解釈に比べれば、上野千鶴子氏のような旧来の(左派的な)解釈は、なんと不自由で紋切型なんだろうと思わざるをえません。

著者は、「韓流ドラマは不幸じゃなければ、はまらないものだ」「何の不幸もない、何の痛みもない人に、韓流ドラマは効かないだろう」と言ってました。

もちろん、男たちにも女たちとは違った「不幸」や「痛み」はあります。でも、男たちのそれは、いともたやすく国家(「愛国」)に収斂され、自閉的な嫌中や嫌韓に向かっていくのです。そして、それは、誤解と批判を怖れずに言えば、上野千鶴子氏の左派的で紋切り型の解釈の不自由さと重なって見えて仕方ないのです。

ただ一方で、『ネット右翼の矛盾』で指摘されていたように、2ちゃんねるのなかでは、意外にも既婚女性板に嫌中嫌韓の書き込みが多く、結婚生活におけるストレスが排外主義に結びつくという、女性たちのもうひとつの(ゆがんだ)現実があることも忘れてはならないでしょう。

安倍政権の誕生で、韓流に対する逆風は強くなる一方です。「さよなら、韓流」という著名もそういった状況に対する意味合いがあるそうですが(韓流を卒業するという意味ではない)、それでも韓流は紆余曲折を経ながらしなやかにしぶとく生き延びていくだろうと思います。なぜなら、韓流とは、前述したように、もともとそういった「歴史」や「政治」と切断したところに成立しているものであり、なにより韓流の背後には、「今を感じたい」この国の女たちの渇望や絶望や欠落が伏在しているからです。信田さよ子氏が言うように、彼女たちにとって、「韓流は嗜癖」なのです。そして、それは、「国に愛されたい」「女性に慰安されたい」ヘタレで甘ちゃんの日本の男たちに対するアンチテーゼでもあるのです。そう考えると、男たちにとっても、韓流が意味するものは大きいと言えるでしょう。
2013.06.06 Thu l 本・文芸 l top ▲