幸福論


高梨真教氏のブログ(中村うさぎvsマッド髙梨 ガチBLOG!)を読むと、中村うさぎも元気を取り戻したみたいで、まずはひと安心です。私は、前にも書いたように、中村うさぎの「老残」を見たいので、中村うさぎにはもう少し長生きしてもらいたい。そして、鈴木いづみではないですが、ジタバタする姿を見てみたい、その姿を赤裸々に書いてもらいたいと思っています。それがもの書きの使命、いや宿命でしょう。

中村うさぎの入院のニュースをきっかけに、ふと思い出して、小倉千加子と中村うさぎの対談本『幸福論』(岩波書店)を読み返しました。

奥付を見ると、2006年3月16日第1刷発行となっていますので、もう7年半前の本です。私は、この本を買ったことをなぜかよく覚えているのです。

当時住んでいたいた埼玉のとある町の、駅前のショッピングセンターのなかにある書店で買ったのですが、その書店はいわゆる棚割がメチャクチャな店で、ピンクの表紙が目立つタレント本の棚のなかから偶然この本を見つけたのでした。

「幸福」とはなにか。フェミニズムの論客である小倉千加子と嗜癖をとおして女性の生き方を考える中村うさぎは、一見好対照なイメージがあります。たしかに、頭脳(理論)の小倉千加子と身体(体験)の中村うさぎは、いろんなところで意見の相違が見られます。でも、そんな二人の対話から浮かびあがってくる「幸福論」は、ありきたりな人生訓ではない深味と柔軟性を併せ持ったものになっているのでした。

「幸福」について、心理学者の小倉千加子は、「あとがき」でつぎのように書いていました。

 「豊かさ」を求めることが「みんなの幸福」であった戦後の日本には、一人に一個の「自意識」はなく、「われわれ」という「集合的自己」が温存されていた。幸福であることがわからないほど幸福だった時代である。しかし、個別の「幸福探し」あるいは「自分探し」が始まると自意識は過剰になり、人は「幸福戦争」の被害者でありながら加害者になるという立場に置かれていく。
 個別の「幸福」とは、他人への優越感や劣等感の波の上で揺れる小船のようなものであり、船を繋留する岸辺はどこにもない。人はそこで揺曳し続ける。アディクション(依存症)とは、揺曳の痕跡であると思う。それは、寄る辺ない小船の悲鳴であり、孤独な「自意識」からの下船の要求であり、船酔いしないために人がみずから起こす酩酊である。


中村うさぎは、ブランド買い・美容整形・ホスト狂いと転変する嗜癖のなかで、「幸福」を手に入れることができたのか。もちろん、否(ノン)です。そういった嗜癖は、単に一過性の「快感」にすぎないからです。小倉は、「快感」は点で「幸福」は線なので、本質的に違うものだ、点をつなぎ合わせたものは線にはならない、形になる、それは「幸福」ではなく「意味」だと言ってました。

うさぎ◆結局、消費による自己実現、消費による個性化みたいなものが、もうすでに無価値であるという結論に達するぐらいまで、消費生活はある意味、成熟したのであり、もう臨界点に達してしまったんですよね。そうすると人は、何を求めるかというと・・・。
小倉◆「意味」ですよね。
うさぎ◆大義ということになるのでしょうか。


中村うさぎも、愛国心という大義に心の拠り所を求める知り合いの若い女性の話をしていましたが、「幸福探し」や「自分探し」、あるいは「個性化」という欲望のナチュラリズムの果てに待っている、大義に投企する自己というパラドックスは、昨今の状況がなにより雄弁に物語っているように思います。

急速に進む階層化のなかで、低階層の家庭では「教育による階層上昇の道」が「ほとんど塞がれてしまった」現在、勉強しろと尻を叩くエネルギーもお金もない親が、教育に代わるものとして子どもに求めるのは、「個性」です。前も書きましたが、「(勉強しなくて)いいのよ、いいのよ、個性があればいいのよ」というあれです。階層上昇のツールとして、「個性化」が親の幻想になっているという小倉の指摘はそのとおりでしょう。勉強がダメなら、Jリーガー・アイドル・ダンサー・モデル等々と、親子の見果てぬ夢はつづくのでした。

階層化は、結婚にも表れます。それは、桐野夏生が『パピネス』で描いたテーマであり、曽野綾子の暴論にも通じるものです。

うさぎ◆主婦の世界では、シロガネーゼが、一般的な主婦をつつくわけです。兼業主婦・共稼ぎ主婦を、「私たちは夫の稼ぎだけで、こんなに優雅な暮らしをしている」と。それで、収入が下の主婦たちは、主婦どうしで、何かを持っているとかそういうことでつつきあうわけです。じゃあ、皆につつかれた最下層の主婦は、誰をつつくかというと、もう主婦階層の中では最底辺なので、未婚女性をつつくわけですよ。「結婚っていいわよ。子どもをもたなきゃ一人前じゃないわよ」といって。


酒井順子は、そんな主婦につつかれる未婚女性を「負け犬」と呼んだのでした。

「他人に評価され、他人に必要とされ、他人に認定された時点で自分の価値が生じる」(中村うさぎ)女性性は、そういったさまざまな階層化によってその存在価値を問われることになるのです。とりわけ、容姿(顔の美醜やファッションセンス)を問う「女性偏差値」は、大きな意味をもちます。小倉千加子は、「女はすべて外見」がフェミニズムの「最終回答」だと言ってました。

小倉◆(略)究極の女性性というのは美の表象であり、それ以外の何者でもない。それ以外に女性というものは存在しないんですよ。黒人の黒人らしさが、白人に対する「従順さ」であるのとは違うように、黒人は黒い皮膚の色をした人であるだけで、女性は「女性のように見える人」というだけで、本質としては存在しない。


だから逆に女性は、「どんどん女性装をすることを楽しめるし、ある意味どこまでも自由で、何にでもなれるんです」と小倉は言いますが、しかし一方で、中村うさぎは、東電OLの嗜癖の背景にも、この「女性偏差値」の問題が伏在していたのではないかと指摘していました。皆が皆、松田聖子のように、したたかに女性性を逆手にとって生きることができるわけではないのです。

そして、「幸福探し」「自分探し」「個性化」の先に待っていたのは、孤独です。中村うさぎは、「神をもたない人間は承認してくれる他者をいつも必要としている」「人間は共存する生き物である」と言い、このメンヘラの時代に、みずからを傷つけながら人生をさまよっている人たちを、つぎのように叱咤激励するのでした。

うさぎ◆(略)未婚女性の不安は孤独への不安、ゲイの不安も孤独への不安。それで命を絶ったり、パニック障害になったり、変な嗜癖にはまったり。だったら最初から他人に嗜癖しろと。嗜癖する相手を見つけるのがお前の人生だと。


中村うさぎについて、「ここまで女性への究極の信頼と人間への静謐な愛を冷徹なリアリズムに即して維持している人が、外にいるだろうか」と、小倉千加子は「あとがき」で書いていましたが、私もそう思います。だからこそ中村うさぎには、元気になって「老残」をさらすまでがんばってもらいたいと思うのです。そして、これから規格外の老人なんていくらでも出てくるでしょうから、そんな私たちの老後に、あたらしい解釈で光を当ててもらいたいと思うのです。

>> 桐野夏生『ハピネス』
>> 中村うさぎの老残
2013.09.30 Mon l 本・文芸 l top ▲
朝日新聞の今月の「論壇時評」(2013年9月26日)で、高橋源一郎氏は、「働く母の権利 甘えているわけじゃない」と題して、『週刊現代』(8月31日号)に掲載された「甘ったれた女性たちへ 私の違和感」という曽野綾子氏の「発言」をとり上げていました。

曽野氏の「発言」は、つぎのようなものです。

 そもそも実際的に考えて、女性は赤ちゃんが生まれたら、それまでと同じように仕事を続けるのは無理なんです。なぜなら、赤ちゃんは始終熱を出す。大抵はたいしたことないですけど、母親としては心配です。その場合、「すみません、早退させてください」となるのは無理もありません。でも、そのたびに「どうぞ、急いで帰りなさい」と快く送り出せる会社ばかりではないはずです。

 ですから、女性は赤ちゃんが生まれたら、いったん退職してもらう。そして、何年か子育てをし、子どもが大きくなったら、また再就職できる道を確保すればいいんです。


曽野氏は、「出産したら(会社を)お辞めなさい」と言うのです。それどころか、「彼女たちは会社に産休制度を要求なさる。しかし、あれは会社にしてみれば、本当に迷惑千万な制度だ」とさえ言うのでした。

私は以前仕事で曽野綾子氏に逢ったことがありますが、そのときの印象は、ごく普通の礼儀正しくお上品な年配の女性といった感じでした。某週刊誌の若くてきれいな記者と同じで、とてもこんなインテリジェンスの欠片もない、ネトウヨまがいのおバカな発言をする人とは思えないのですが、こういうのを「保守」と言うのでしょうか。

しかも、この「曽野発言」は、単にお母さんたちに冷たいなんていうレベルにとどまらないのです。「曽野発言」は、今この国をおおいつつある空気とリンクしているのです。高橋氏は、つぎのように指摘していました。

 もっと深刻な問題は、曽野さんのことば(と、それを含めた週刊誌の一連の報道)が、いまこの国で噴き上がっているヘイトスピーチと同じ本質を持っていることだ。(略)

在日、生活保護受給者、公務員、等々。彼らへの糾弾は、その中の少数の「違反」者を取り出し、まるで全員に問題があるかの如(ごと)く装ってなされる。そこでは、彼らの「特権」(があることになっている)が怨嗟(えんさ)の的となり、やがて、およそ権利というものを主張すること自体が敵視されることになるんだ。


これが今のこの国の光景なのです。在日でも生活保護でも産休でも、そこにはひとりひとりの人間の生活があり人生があり、ひとりひとりの切羽詰まった事情があります。もちろん、ひとりひとりは、それぞれ悲しみやせつなさややりきれなさなどのことばを胸の内に秘めているはずなのです。

私たちに必要なのは、右や左の政治のことばではありません。まずそういった人たちの胸の内にあることばに耳を傾けることです。そんな想像力や感受性をもう一度取り戻すことなのです。
 
高橋氏は、みすからの子育てで体験した、つぎのようなエピソードを書いていました。

 忘れられない光景がある。ぎりぎりまで働いて子どもを迎えに行くので、保育園に着くのは延長保育のリミットあたり。だから、毎日、近くの駅から走った。すると、たいていすぐ近くに、一緒に走っているお母さんがいるのである。2、3分遅れても文句はいわれないだろう。でも走るのだ。汗で化粧がはげ落ち、目にうっすら涙の気配。


こういう現実を知っていれば、曽野綾子氏のような暴論は出てこないはずです。

知り合いのお母さんは、保育園に迎えに行って、「ママっ!」と叫びながら駆け寄ってくる子どもを見ると、せつなくなって思わず子どもを抱きしめてしまうと言ってました。仕事で遅くなると、ひとりでさみしい思いをしているんじゃないかと、そのことばかりが気になって、子どもの顔がチラついてならないと言っていました。こういう母親の気持は、「甘ったれ」ているのでしょうか。「迷惑」なのでしょうか。

何度もくり返しますが、「愛国」の声が大きくなればなるほど、どうして社会は冷たくなっていくのでしょうか。どうして「福島第一原発の汚染水は完全にブロックされている」という嘘八百やヘイトスピーチやこんな暴論がまかり通るようになるのでしょうか。私たちは、その現実をもっと深刻に受け止めるべきではないでしょうか。
2013.09.26 Thu l 社会・時事 l top ▲
醤油と薔薇の日々


小倉千加子氏の最新エッセイ集『醤油と薔薇の日々』(いそっぷ社)を読みました。

ただ、本の初版は今年の6月30日なのですが、個々のエッセイの初出一覧を見ると、収載されているのは、1993年から1994年に筑摩書房のPR誌「ちくま」に書かれたものと、2005年から2008年に「東京新聞」書かれたものの2本立てで、たしかに著名になっている文章など、題材に古さを感じさせる部分がないわけではありません。

『醤油と薔薇の日々』で主要なテーマになっているのは、「ある意味男性以上に個人としての達成と自己実現に駆り立てられている」女性の生き方についてです。言うまでもなくそれは、「他人への気遣いと役割の遵守」がなにより必要とされ、そのために「個人」や「自己」が二の次になるような女性の人生の現実があるからでしょう。

「他人への気遣いと役割の遵守」がいちばんよく出ているのは、無難でシックな「女性らしい」ファッションです。著者は、つぎのように書いていました。

 女として地上に生を享けた以上、自己の肉体と融和できるようになることは、<女>になるために果たさなければならない最低で最大の目標であろう。<正しい>服装を身につけることは、女として制度にきちんと適応したことを意味するのだ。


街なかや電車のなかで女性の服装を見てすごく感じるのは、規範としての服装です。特に東京のプチブルにその傾向が強いように思いますが、通勤する女性や営業まわりの女性社員やおでかけする主婦の服装は見事なほど画一化され、我々から見てもそこに逸脱することのできないルールが存在することがよくわかります(男性の場合はルール以前の問題がありますが)。それどころか、小さな女の子の”よそいきの格好”にしても例外ではないのです。そうやって子どもの頃から女性としての「たしなみ」や「おしとやかさ」などの規範が刷り込まれ、ボーヴォワールではないですが、「女になる」のでしょう。

著者は、「派手で濃くて下品な大阪ファッション」を、欲望に従順な「民衆のエネルギーの直截的な誇示」と捉える一方で、「贅沢さを隠しつつ仄めかすという、遠回しの富と知性の暗示である」シックをセンスの拠り所とする東京のファッションを「不誠実」だと批判していました。しかし、私は、個人的には大阪ファッションより東京のファッションのほうが好きです。おそらく私のなかに、女性に対して「無難」や「従順」の欲求が潜んでいるからなのでしょう。それは、「無難」や「従順」とは無縁な女のきょうだいのなかで育ったという環境も大きいのかもしれません。

また、「美人の条件」のなかの「美しい女は、男に似ている」というのもよくわかる話でした。著者は、「顔だちにおける彫の深さや背の高さ、贅肉のないこと、などに集約される、つまり、女性における美の特徴は男性の模倣である」と書いていました。

私は昔つきあっていた女性のことを思い出し、合点がいきました。彼女は、モデル(ショーモデル)をやっていて、身長が173センチあり、彼女と初めて会った日、帰りの電車のなかで、目の前にいる女性たちがみんなカボチャや大根に見えたくらいきれいな子でした。ところが、つきあっているうちに彼女の美しさのなかに”男性的な要素”があることに気付いたのでした。ときに、彼女はもしかしたら性転換したオカマではないかという妄想に囚われたことさえありました(本人に言ったら殺されたかもしれませんが)。

モデルや女優などを見ても、彼女たちの美しさのなかに”男性的な要素”が含まれているのはたしかな気がします。もちろん、それは、「性のビジュアル的な特徴」が、男性を基準にしているからにほかなりません。ここにも男性中心主義の思想(観念)が入りこんでいるのです。著者は、つぎのように言います。

 男たちは、よく、男と女は違うとか、女性本来の美しさなどと言って、男女の性差が自明のものであり、なおかつそれは強調されねばならぬと言う。が、女が<男>性の片鱗を備えてない場合は、決して美しいとは見なされないのである。従って、女性本来の美などというのは戯言であることがわかる。


女性性なるものが男性中心社会のなかで捏造された”制度”にすぎないというのは、頭では理解できますが、しかし、私たち自身の恋愛や結婚のなかでそれをどう理解していくかというのは、なかなか難しい問題です。街なかのバカ夫婦やバカップルを見ても、気が遠くなるような問題の難しさを痛感されられます。でも、一方で、そこに伏在する問題は、多くの女性たちにとって、日々直面し実感していることでもあるのです。

たとえば母親と娘の関係などは端的な例でしょう。「産むなら娘」というエッセイでは、文字通り「身体は嫁いでも心は実家に置いたまま」の娘の存在が指摘されていました。でも、それは、あくまで母親の願望にすぎないのです。「応援しているよ」と言いながら、いつも足をひっぱっている母親。親孝行な娘ほど母親の呪縛にがんじがらめになり、苦悩しなければならない理不尽な現実。

 娘が実家に帰ると、冷蔵庫の中の物をあれもこれもと持たせるのは、お盆に冥界から帰ってきたご先祖様を供養するのに似ている。「先祖崇拝」とは「子孫崇拝」の別名である。そして、親にとって唯一の子孫は娘と娘の子どもになりつつある。
 
 どんなに介護保険が改正されても、娘はそれ以上の「歩く介護保険」である。「老後は子どもの世話になるつもりはない」という、アンケートでは大多数の意見となる親の言葉は、親が自分に無理やりそう言い聞かせている呪文のようなものであって、「息子の嫁より実の娘を当てにする」ところに、本音はあるのだと思う。


「女性の時代」などというのは、安倍総理の「福島第一原発の汚染水は完全にブロックされている」という発言と同じように嘘八百ですが、こういった日常的な光景のなかから、制度や規範に抑圧された女性の問題をどう掬い上げていくかということは、私たちに課せられた大きな課題だと言えるでしょう。女の子のカバンや傘を持ってあげる「やさしさ」なんかどうだっていいのです。

>> 『松田聖子論』復刊
2013.09.24 Tue l 本・文芸 l top ▲
別に脊髄反射のつもりはありませんが、今日、気になったニュースが2つありました。

ひとつは、中村うさぎが現在、大学病院のICU(集中治療室)に入院していて、病状の急変で「数分間の心停止と呼吸停止」を起こしていたというニュースです。

Yahooニュースの記事:
中村うさぎさん、病状急変で一時心肺停止 ICUに入室

これは、友人のタカナシクリニック院長・高梨真教氏がブログ(中村うさぎvsマッド髙梨 ガチBLOG!)であきらにしたのですが、当初病名は「ギランバレー症候群」が疑われたけど、未だ診断は確定してないそうです。いわば手探りの治療が行われており、予断を許さない状態がつづいているのだとか。中村うさぎウォッチャーのひとりとしては、気がかりなニュースです。

当ブログの中村うさぎ関連記事:
『狂人失格』
中村うさぎの老残
『愛という病』
『私という病』

もうひとつは、医療法人「徳洲会」が、自民党の徳田毅衆議院議員の選挙運動を巡って、公職選挙法違反の疑いで、東京地検特捜部の強制捜査を受けた事件です。

朝日新聞デジタルの記事:
徳洲会本部を捜索 公選法違反の疑い 昨年の衆院選
選挙運動の職員に日当も 徳洲会関係者「出張扱い」

私は、このニュースを聞いたとき、奇異に感じました。というのは、徳州会の病院関係者が選挙運動に動員されているのは、業界では誰でも知っている公然の事実だったからです。それがどうして今回に限って強制捜査になったのか。天の邪鬼な人間としては、どうしてもその背景を勘繰りたくなるのです。

ただの患者でしかない私でさえ、今まで何人もの元職員から選挙運動のために鹿児島に行った話を聞いたくらいで、めずらくもなんともない話です。医師に限らずコメディカルでも、徳洲会出身者は「鍛えられている」ので、他医療機関でも非常に重宝されています。彼らに聞けばいくらでも話を聞くことができるはずです。

徳洲会について、世間では毀誉褒貶相半ばしていますが、医療関係者に聞いても、一長一短あると言う人が多いようです。ただ、医療のスキルは間違いなく高いそうです。それだけ多くの症例に当たることができるからでしょう。

徳田虎雄理事長が現在、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病で入院している鎌倉市の湘南鎌倉病院も(その前はたしか葉山ハートセンターの特別室に入院しているという話を聞きましたが)、地元では「湘鎌(しょうかま)」と呼ばれ、患者はもちろん医療関係者の間でも高く評価されているのはたしかです。職員のモチベーションがまったく違うと言ってました。

24時間オープン、来る患者は絶対に断らない、差額ベット代は徴収しない、患者からのお礼は受取らない、生活に困窮している患者には生活資金を貸し付けるなど、「生命だけは平等だ」という徳田理事長のことばが実践されていることは事実で、それはすなおに評価すべきでしょう。医者や看護師たちの多くは、そういった理念に惹かれて徳洲会に入ったのです。私の知り合いにも、沖縄の離島にある徳洲会病院に行った看護師がいました。神奈川出身なのにどうして?と訊くと、「へき地医療に貢献したいから」と言ってました。

しかし、徳洲会は、別にセツルメント運動をしているわけではありませんので、一方で、理念を額面どおりに受け取れない一面があったことも事実でしょう。徳田氏の政治的野望や病院経営の一族支配などを見ると、いつの間にか目的と手段が逆転した、そういうパラドックスに陥ったという面は否定できないように思います。もっとも、病院進出に関連して、地元の医師会との間にきびしい対立と軋轢を抱えていることを考えれば、唯一の社会主義国であったソ連にスターリン主義が生まれた背景と似ているような気がしないでもないのです。

地元に拠点となる総合病院がほしい(総合病院を存続したい)自治体の要請もあって、病院のグループ化(医療のコングロマリット化)がどんどん進み、それに伴ってさまざまな弊害が出ているのは事実で、それはなにも徳洲会に限った話ではありません。場当たり的な医療行政が、医療のコングロマリット化という”ヌエ”を育てている側面もあるように思います(実際に、ほかの病院グループを見ても、経営の一族支配といい、理事長をカリスマ化して定期的な”研修”で職員を洗脳するようなやり方といい、まるで徳洲会をお手本にしているかのようです)。

これからカマトトなマスコミによって、徳洲会のスキャンダルがこれでもかと言わんばかりに出てくるのかもしれませんが、それにしても、どうして今なんだ?という疑問はぬぐえません。
2013.09.18 Wed l 社会・時事 l top ▲
保守の本分


しつこいようですが、相変わらずオリンピック狂騒曲はつづいています。そして、案の定と言うべきか、ネットでは、「オリンピックに反対するやつは非国民だ」というような発言さえ出ています。

一方、オリンピック開催の追い風を受け、来春の消費税増税も既定路線に入った感じです。安倍政権はこの勢いを借りて、さらに原発再稼動・TPP参加・憲法改正へと一気呵成に進むつもりなのでしょう。けだし「オールジャパン」とは、そういう翼賛体制の謂いであり、「オリンピックに反対するやつは非国民だ」という空気が出てきてもなんら不思議ではないのです。

ひと昔前なら、「オリンピック反対!」の声を上げるのは左派だったはずです。それが社会の常識でした。「保守」の立場から、ヘイトスピーチ(排外主義)や原発再稼動やTPPや生活保護バッシングなどに反対し、ことばの上だけでなく果敢な行動でみずからの主張を実践している人気ブロガーのnoiehoie氏は、自著『保守の本分』(扶桑社新書)のなかで、反原発運動などで遭遇する「左翼」について、党派性にこだわるばかりで「危機感がない」と言ってました。オリンピックに対しても有効な反対論を打ち出すことができず、結果的に「オールジャパン」の翼賛体制に組み込まれている「左翼」もまた、能天気な既得権者にすぎないと言うべきでしょう。

みんな我も我もと、寄らば大樹の陰、風にそよぐ葦になっています。「オリンピックなんていらない」なんて言おうものなら、それこそ「在日認定」されて袋叩きに遭いそうな感じです。そして、その陰では、国家を食いものにする拝金亡者たちがよだれを垂らしながら、「経済効果」のソロバンをはじいているのです。

昨日の朝日新聞に、「東京五輪、決まったからには 招致反対の立場から注文」という記事が出ていましたが、これなども典型的な「アリバイ作り」の記事と言えるでしょう。要するに、みんな、突っ張ってないで寄らば大樹の陰になろうよ、ということなのでしょう。インタビューに答えるほうも答えるほうですが、この記事には朝日新聞の体質がよく出ているように思います。自他共に認める日本を代表するクオリティペーパーである朝日新聞は、「アカいアカいアサヒ」などと言われるほど一見進歩的なイメージがありますが、しかし、そんなイメージとは逆に、いざとなれば時の権力と密通して、きわめて反動的な姿勢を見せる、マッチポンプの顔ももっているのです。60年安保も70年安保も然り、原発推進が「社論」であった原発の問題も然りです。

noiehoie氏がネットで知られるようになったのは、「制度を改正するために個人を攻撃する必要はありません」という見出しが掲げられた新聞の意見広告でした。それは、いわゆる生活保護の「不正受給」問題で、お笑いタレントの河本準一がバッシングされた際、自民党の片山さつき議員が国会で河本の名前を出して批判したことに対して、疑問を呈する広告でした。

 主権在民である日本において、一般市民が国会議員を批判するのは当然の権利です。しかし、その逆はあってはならないことです。
 国会議員が、議場の中から一般市民(有権者)を名指しで批判するなど、これほどおかしいことはありません。ましてや、その個人攻撃をもって大義名分を勝ち取ろうなどとする手法は、議会制民主主義の手続きのイロハとして明らかにおかしいのです。


こう思ったnoiehoie氏は、ネットで意見広告のための賛同者を募ったところ、わずか2日間で200万円を越える寄付が集まったそうです。また、募金を募る趣意書には、つぎのような問いかけが書かれていたそうです。

「誰かの不幸を指さし、誰かを不幸にすることで初めて自分の幸せを感じさせるようなやり方がまかり通るような社会でいいのだろうか?」「このようなやり方で、本当に必要な議論ができるのだろうか?」「このような議論の進み方が、本当の民主主義なのでしょうか?」


私は、昨今の風潮を見るにつけ、「愛国」の声が大きくなればなるほど、社会が冷たくなっているように思えてなりません。愛国心と差別心はイコールなのでしょうか。愛国心というのは、人に対するやさしさや思いやりとは無縁なのでしょうか。人の痛みもわからないのでしょうか。まさかそんなはずはないでしょう。でも、片山さつき議員は、河本を名指ししたことで、ネトウヨたちのヒーロー(ヒロイン?)になったのでした。

「誰かの不幸を指さし、誰かを不幸にすることで初めて自分の幸せを感じさせるようなやり方がまかり通るような社会でいいのだろうか?」 ネットの時代になり、私たちはこういった真っ当な心を忘れているのではないでしょうか。ネトウヨに限らず、私たちの身近を見ても、ネットの出現によって、妬みや僻みや嫉みなど負の感情や、あるいは仕事や人間関係におけるストレスを、他人への差別で解消しようとする傾向がより顕著になり常態化した気がします。そして、愛国心がその方便に使われているように思えてならないのです。

noiehoie氏は、「生活保護制度の見直しは戦後一貫して何らかの裏の狙い、政策、意図に基づいて行われている」と言ってました。そして、今回の生活保護バッシングは、最初、民主党政権に対する批判の一環として行われ、そのうち暴対法絡みの制度改正に使われたと指摘していました。

本来生活保護を受ける資格のある(基準以下の貧困状態にある)人たちのなかで、実際に生活保護を受けている人の割合、つまり「捕捉率」は、日本の場合、社会保障の実態があきらかになるのを怖れて(?)役所が集計してないのではっきりしないのですが、大体「2割程度」と言われています。ちなみに、ドイツは64.6%、イギリスは47~90%、フランスは91.6%だそうです。このように、先進国のなかで日本は捕捉率が著しく低いのです。にもかかわらず、これだけのバッシングが起きているのです。むしろ、バッシングされるべきは、政治の役割を果たしてない(社会保障に怠慢な)政治家や官僚のほうでしょう。

noiehoie氏によれば、戦後初の生活保護バッシングは、1950年代半ばにあったのですが、そのときは、「内地に居留する旧植民地出身者を追い出す」ために使われたそうです。そして、バッシングと並行して「地上の楽園」北朝鮮への帰還事業がはじまったのでした。

そのとき、政府(旧厚生省)のキャンペーンのお先棒を担ぎ、真っ先に生活保護バッシングの記事を掲載したのが朝日新聞でした。「こんなに贅沢な朝鮮人受給者」「(受給者の家に行くと)真新しい箪笥があった」「仕事もしないで一日中のらりくらい」というような、バッシングの記事を連日掲載していたそうです。なんのことはない、ネトウヨが主張する「在日特権」のフォーマットは、60年前の朝日新聞にあったのです。

こうして見ると、今のオリンピック狂騒曲の本質も見えてくるようです。なにがホンモノでなにがニセモノか、それは右か左かなんて関係ないのです。

>> 「福祉」の現場
>> 負の感情の「地下茎」
>> 河本準一の「問題」と荒んだ世相
2013.09.15 Sun l 本・文芸 l top ▲
マスコミの報道の特徴に、「アリバイ作り」があります。つまり、ものごとの雌雄が決したあとになって、如何にもといった感じで反対論や疑問点を報道して、彼らが言うところの「バランスをとる」のです。もちろん、大勢に影響はありません。60年安保や70年安保のときもそうでした。

我らが大分県出身の筑紫哲也にしても、新聞記者出身の宿痾で、その傾向が多分に見られました。政治的に重要なテーマの国会審議などが山場を越すと、にわかに反対論者などにインタビューして「アリバイ作り」をするのでした。私は、「またか」と思って、半ばあきれながらいつも「NES23」を見ていたものです。

それが、”制度化された報道”というものです。どんなに「中立」を装っても、どんなにリベラルを装っても、結局は安寧と秩序に貢献することを要請されるのです。それがまた「言論の自由」の本質でもあります。

今回のオリンピック狂騒曲にしても同様です。招致が決定し、AKBの総選挙のときのように大はしゃぎした朝日新聞は、今日になって「汚染水問題、『対応遅かった』72% 朝日新聞世論調査」(朝日新聞デジタル2013年9月9日6時45分配信)という記事を掲載したのでした。まるで誘致に影響を与えるので、決定まで掲載を見送っていたと言わんばかりのミエミエの記事です。

その結果、安倍総理の「健康問題は、今までも現在も将来も問題ない」「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は福島第1原発の港湾内0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている」という、IOC総会での仰天発言を許容することになったのでした。

オリンピックのためなら放射能汚染の問題なんて二の次なのか。それは政府もマスコミも同罪です。また、そういう政治を支持しているという点では、福島の県民も含めて国民も同罪でしょう。今さら「汚染水めぐる首相発言に批判の声 福島の漁業者ら『あきれた』」(東京新聞 TOKYO Web 2013年9月8日 20時51分)などと言ってもカマトトのようにしか聞こえません。もちろん、それも「アリバイ作り」にすぎないのでしょう。

汚染水の問題は、これから安倍総理の発言に沿って「コントロール」され、「安心安全な現実」が捏造されることでしょう。ついでに言えば、ネトウヨによる「朝鮮人を殺せ!」などというヘイトスピーチのデモに対して、ああいうみっともないデモが東京の中心で行われることはオリンピック開催のイメージダウンになる、というような声がありますが、私はそれも汚染水を隠ぺいするのと同じ論法のように思えて仕方ないのです。

マドリードでは経済危機に対するデモが頻発しており、それがオリンピック開催にマイナスに作用したと言われていますが、当然、オリンピックなんかより大事な問題はあるはずです。マドリードのデモ隊は、「オリンピックはTOKYOで!」と叫んでいたそうですが、むしろそういった社会のほうが健全と言えるのではないでしょうか。

オリンピック開催のために、右も左も沈黙し、デモもない社会を演出する。これが日本的おもてなしならぬ日本的自粛なのか。しかも、自分たちにとって切実な問題である(はずの)放射能汚染の問題ですら、まるで襤褸(ボロ)を隠すように後方に追いやるのです。「オールジャパン」とは、そんな異論を排した翼賛体制の謂いにほかなりません。もちろん、マスコミもただ制度化された言論を糊塗するだけで、なにかを報道しているようで、実はなにも報道してないのです。おそらく消費税増税もTPPも憲法改正も同じパターンを辿るのでしょう。

蛇足ですが、この際だから、東京招致の言いだしっぺである石原慎太郎前東京都知事に「国民栄誉賞」(それが無理なら「名誉都民」)を授与してもいいのではないでしょうか。尖閣の問題でもそうですが、オリンピックでも、石原氏のおかげで、右も左も招致に動員する「オールジャパン」の体制ができたのですから、安倍総理も石原氏に足を向けて寝られないはずで、その貢献度は間違いなく「国民栄誉賞」ものと言っていいでしょう。

>> 朝日新聞とAKB
2013.09.09 Mon l 社会・時事 l top ▲
明日(9/6)2020年の五輪開催都市を決めるIOCの総会が、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催され、最終候補に残った東京は、マドリード、イスタンブールと最後のプレゼンテーションを行うそうです。

東京有利の報道もあるようですが、しかし、福島第一原発の事故による海洋汚染が問題になっているなかで、オリンピックなんかやっている場合か、と思うのは私だけでしょうか。まして、開催地の選定に悪影響を与えるからという理由で、汚染水対策の国会審議もあとまわしにするなど、本末転倒もはなはだしいのです。

参院選のために汚染水の問題が伏せられ、今度はオリンピックのために対策があとまわしにされる。原発事故やそれに伴う放射能汚染の問題は、その程度のものなのかと言いたくなります。私は、ここにも不条理を感じてなりません。

もっとも、先の選挙結果を見る限り、国民に不条理という感覚はあまりないようです。それがこのような、原発事故の処理を二の次にするような政治をもたらしているのではないでしょうか。大変言いにくいけど、あれほどの被害を受けた福島においても、選挙では原発事故に対する明確な意思は示されなかったのです。

オリンピック開催が決まれば、巨額の公共投資が実施されます。お台場・青海・晴海を中心とした湾岸エリアの大規模な開発が行われ、国立競技場の建て替えだけでなく、首都高の大規模な改修も行われると言われています。オリンピック誘致の言いだしっぺは、都知事時代の石原慎太郎氏ですが、その際、(”石原タブー”のない)一部のメディアに、彼の選挙の面倒を見た某ゼネコンとの関係が取り上げられたことがありました。いわゆる”五輪利権”もあるはずで、ゼネコンをはじめ広告代理店やマスコミなど関連業界が、ヨダレを垂らしながらIOC総会に熱い視線をそそぐのは当然でしょう。

一方で、これから何十年もかかって原発を廃炉にしなければならず、それには途方もない費用と知恵が必要になると言われています。専門家のなかには、人類がかつて経験したことのない難題が待ち構えていると言う人もいます。また、汚染水の問題も、単にタンクから汚染水が漏れたとかいう話ではなく、メルトスルーして格納容器からぬけ落ちた核燃料が地下水脈を汚染している可能性もあり、もしそうなら抜本的な解決策はない、お手上げだという話さえあります。オリンピック誘致に首を傾げたくなるのが普通の感覚ではないでしょうか。

にもかかわらずマスコミは、拝金亡者ご用達の日経&テレビ東京を筆頭に、経済効果の皮算用をしてはしゃぐばかりで、この「無理が通れば道理が引っ込む」現実に疑問を呈するような視点は皆無なのです。

機を見るに敏なテレビのニュースキャスターやワイドショーのコメンテーターたちも、みんないっせいに風にそよぐ葦になっています。オリンピックについては、昨今の商業主義や勝利至上主義、国家主義などによって、スポーツが歪められているという指摘がありますが、いつの間にかそんな問題もどこかに吹っ飛び、疑義をさしはさむのもはばかられるようなオリンピック招致の大合唱がはじまっているのです。

内田樹氏は、みずからのブログ(内田樹の研究室)で、五輪招致について、つぎのように書いていましたが、私もまったく同感です。

原発事故のことを忘れたがり、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立ち、ひたすら金儲けの算段に夢中になっている国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず胸に手を当てて考えてみた方がいい。
五輪招致について

2013.09.05 Thu l 社会・時事 l top ▲