木嶋佳苗被告がブログ(木嶋佳苗の拘置所日記)を開設したというニュースがあったので、さっそく読んでみました。それにしても、死刑判決を受けた被告がブログを開設したなんて前代未聞です。と言っても、もちろん、木嶋被告が直接記事をアップしているわけではありません。ブログを開設したのは支援者で、木嶋被告から届いた原稿を支援者がアップしているのです。ブログでは、その支援者の「おじさま」のことも書かれていました。

彼女はブログの「画面表示」がどうなっているか気になるので、サイトをプリントアウトして見せてもらいたいのだけど、ブログを管理している「おじさま」は、「久米宏さん同様」プリンターを持ってなく、それで早くプリンターを買ってほしいと頼んでいるのになかなか買ってくれないと嘆くのでした。有楽町の家電量販店に買いに行ったものの、「途中で、丸の内のゴルフショップに入ったら、あるドライバーが目に入り、それを買い、帰って来た」「スマン」という手紙が来たという内容なのですが、木嶋佳苗被告の自己愛と彼女特有の”ツンデレぶり”がよく出ていて、なかなか面白い記事だと思いました。

最近の私たちの会話って、ゴルフのことばかりじゃないですか。私も昔を思い出して、掃除用のホウキで素振りをしちゃったりする今日この頃ですが。切実です。プリンター買って。
私はどうも、男の人に怒りを感じない性質の持ち主でして、こういう擦れ違いや通じなさが、たまらなく面白いんです。
男性に対して苛立ちを感じないから、全て許してしまう。基本的に、全て受け入れて断わらない。
生理的に無理、という初体験が、婚活で知り合った男性たちだったわけです。彼らは「スマン」の美学を知らない人たちだった。武装戦線対E.M.O.Dの抗争で、昇がやられる直前に「すまん・・・宗春・・・」という一言にジーンとくる私には、物足りない人たちだった。私は鈴蘭の体育館でやった、入場料御一人様千円の花対九里虎の対決読んで、何だか知らないけれど、涙が止まらなくなってきた。私のメンタリティは、少年なのかもしれないな。
そう言えば、おじさまと初対面した翌日の手紙に、何やら色々褒め言葉が綴られ、最後に「意外だった。スマン」と書いてあったなあ。あの「スマン」も、ぐっときました。
(2014年02月23日・「プリンター」)


これぞ木嶋佳苗被告の真骨頂という感じです。拘置所の外にいたときも、こうやって男心をくすぐったのでしょうか。彼女からメールを受け取った男たちは、さぞヤニさがったことでしょう。

木嶋被告は、「私がブログを始めた理由」という最初の記事のなかで、「私は、最低限の人権が保たれる現在の処遇で発言可能な年月を余命と考え、行動しています。最悪のパターンを想定すると、私の余命はあと数年です。その日まで、美しい魂でありたいと思っている。」と書いていましたが、どっこい「木嶋佳苗劇場」はまだつづいているのです。

追記:
この記事をアップした直後に、木嶋佳苗被告のブログにも「「裁判員裁判について①」という最新の記事がアップされていました。裁判員裁判の茶番を批判した内容でしたが、これが彼女の”もうひとつの顔”と言っていいでしょう。相変わらず文章もうまいし、思わずパソコンの前で唸ってしまいました。

>> 『毒婦たち‐東電OLと木嶋佳苗のあいだ』
>> 木嶋佳苗被告からの手紙
>> 木嶋佳苗 100日裁判傍聴記
>> ふしだらな女 木嶋佳苗
>> 木嶋佳苗被告と東電OLの影
2014.02.28 Fri l ネット・メディア l top ▲
ネトウヨ化する日本


先日の朝日新聞に「『嫌中憎韓』が出版界のトレンドになりつつある」(朝日新聞デジタル2014年2月11日)という記事が出ていましたが、たしかに電車に乗ると、戦争前夜と見まがうようなオドロオドロしい見出しが躍る週刊誌の中吊り広告が目に飛び込んできます。さらに書店に行けば、朝日の記事に書いているように、入ってすぐのいちばん目立つコーナーに、ヘイトなナショナリズムを煽るような本がずらりと並んでいるのを目にすることも多くなりました。

なんだかマスコミとネットのセカンドメディアとの違いがなくなった感じさえしますが、これこそ大塚英志の言う「旧メディのネット世論への迎合」と言うべきかもしれません。

『ネットと愛国』の著者の安田浩一氏は、『紙の爆弾』3月号(鹿砦社)のインタビュー記事(「大衆メディまで拡大する新たな『嫌中韓』の潮流」)で、嫌中嫌韓の記事について、週刊誌の編集者や記者たちもうんざりしているけど、でも、やめるにやめられない事情があると言っていました。、

ひとつは、嫌中嫌韓の記事に「そこそこの需要がある」からです。もうひとつは、記事自体が「コストをかけずに読者を惹くことができる」からです。つまり、ネットや新聞で材料を拾ってくればいいので、お手軽に記事ができるのです。

ただ、安田氏は、そうやってコストも手間もかけずに記事を作っていたら、取材力が落ちて、雑誌ジャーナリズムの生命であるスキャンダルを追うことができなくなり、結局は、読者離れを加速させることになるのではないかと懸念していました。

一方、若手の批評家の村上裕一氏は、新著『ネトウヨ化する日本 暴走する共感とネット時代の「新中間大衆」』(角川EPUB選書)のなかで、この社会をおおいつつある「ネトウヨ現象」について、それは「ネトウヨという人間が存在するというよりも、情報環境の進化に伴い、「共感主義」が人々の行動形式に組み込まれた結果、人間がネトウヨ的な激しい動きに巻き込まれやすくなったということを意味」しているのだと言います。そして、その原動力になっているのが、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で指摘した「セカイ系決断主義」だと。

村上氏は、実際に見たり経験したことでなくても、ネットを通じて得た情報は、あたかも実際に見たり経験したものであるかのごとく「臨場感」を覚え「共感」しやすいと言ってました。たしかに新聞やテレビなどの従来のメディアと違って、ネットの場合、目の前に表示される情報が”親近感”をもって受けとめられる傾向があるのは事実です。そもそもクリックする、あるいはタップするという指先の操作には、既に情報を選択するという意志がはたらいているのですから、最初から「共感」を求めていると言えなくもないのです。

ネトウヨ化には、サンプルになる知識が致命的に不足しているため、あたかもネットで「真実」を発見したかのごとく思い込む「ネットがすべて」「ネットこそ真実」という”オタク化””カルト化”の問題もありますが、もうひとつ、デバイスの機能が必然的に「共感主義」を招来するという側面も見逃すことができないのです。それがネットの特徴でもあります。

その結果、「情弱」な人々の「セカイ系決断主義」は、さらなる「暴走」へとエスカレートしかねないのです。

 ネットの存在しなかった世界では、いかなる思想・文学運動も旗を振るのは人間でなければなりませんでした。しかしながら、今やその旗振りは「匿名の誰か」ないしはネットの無意識が担うようになったのです。それは、イロニーを担うイデオローグの必然的・構造的不在を意味しています。かろうじて保田(引用者注:保田與重郎)そして小林(引用者注:小林秀雄)が担保していたはずのイロニーを担うものがいなくなり、ネット時代のロマン主義は、ただその結果としての過激さだけを産出する自動的な機械になりつつあります。そこでは、どれだけそこに合流する人々が「生真面目」で「正義」漢であろうとも、かつて日本を敗戦へと追い込んだ「無責任の体系」に囚われるほかありません。


保田與重郎や小林秀雄がもっていた「屈折」は、イロニーがロマン主義に搦め捕られ「情緒に流れる」ことに抗する、いわば「留保」だったと言えます。しかし、そんな「留保」のないベタなネットの時代においては、「真面目」であったり「正義漢」であったりすればするほど「暴走」して狂信的なナショナリズムに酔い痴れるようになるのは、ある意味で当然かもしれません。そして、その先にあるのは、むき出しの”テロルとしての日常”です。

セカイ系決断主義の暴力とは、単に戦争や国家を受け入れたり称揚したりすることにあるのではなく、アイロニカルな振る舞いの中で、「あえて」やっているという建前の意図のもとに成立していた行動がいつしか「本気で」やってしまっていたというような意図の取り替えにおいてのものです。本書が保田與重郎の発言における「日本とは一つのイロニイである」を置き換えて「ネットとは一つのイロニーである」と呼んだのは、共感主義化したネット環境が、ロマン主義的イロニーの至る果てとして、即ち「あえて」であることを忘却した情動や共感の暴走として現れやすいことを示唆してのことです。


安田浩一氏は、問題なのは在特会(在日特権を許さない市民の会)よりも「在特会的な空気が蔓延しつつある」ことだと言います。「在特会に嫌悪を示しながら、それでもいまの嫌韓的な空気を充分に吸い込んで、発散したがっている層が確実に」いて、それは若者ばかりではなく、いい年した大人たちも多いと言ってました。それがいわゆるサイレントヘイト・スピーチという「空気」です。

もちろん、この反知性的な(脊髄反射的な)「共感主義』の「暴走」は、「進撃の巨人」が中国や韓国でも人気を博していることからもわかるように、日本に限った話ではありません。中国だって韓国だって同じです。ただ、私は、ソチオリンピックでのキム・ヨナに関する報道を見るにつけ、まだしも韓国の社会のほうが柔軟性を保持しているように思えてならないのです。「アンネの日記」の事件に見られるように、もしかしたら日本の社会は韓国より余裕がなく融通が利かなくなっているのではないか。

キム・ヨナのフリーでの演技に対する採点について、韓国内では例によって例の如く採点が低すぎるという声が沸騰したのですが(日本では逆に高すぎるという声が多かったのですが)、本人は「偏った判定の話が出るたびに、私より周囲の人が怒っている。私はうまく滑れたことに満足していて、何も未練はない」と述べたそうです。

また、キム・ヨナが演技している画面に「あなたはキム・ヨナではない」「あなたは大韓民国の呼吸を4分8秒間停止させた」「あなたは1人の大韓民国だ」などと大仰なキャッチコピーがかぶせられたガス会社のテレビCMに対して、ネットユーザーを中心に「典型的な全体主義志向ではないか」「スポーツ選手と国を並べて語るのは脅迫的で不愉快だ」と反発する声が出て、結局、放送中止になったそうです。

私は、こういったキム・ヨナやネットユーザーの「留保」こそ、「セカイ系決断主義」「共感主義」を対象化する知性であり見識だと思います。そして、それは、つぎのような村上氏が言う「逡巡」にも通じるものだと思います。ネトウヨ化する社会のなかでなにより大事なのは、こういった「留保」や「逡巡」ではないでしょうか。

 私は、人を助けるためだったら人を傷つけてもよいなどという立場には与さない。目的が手段を正当化するという発想こそが、他者への暴力そのものなのである。もちろんそれは、人を救うことを否定しているのではない。しかしながら、人を救うというのは軽々しいことではない。それはセロサムゲームの産物ではないのだ。私たちはその営みがどのような意味を持つものかを考え続けなければならない。それは終わらない逡巡を生きるということを意味している。決断をせずに生きることは難しいが、決断の前にも決断の後にも逡巡がなくてはならない。私が文学の復活を願うのは、そのような逡巡を体験するものこそが文学だからだと思っているからだ。

2014.02.26 Wed l 社会・時事 l top ▲
あの古賀茂明氏が「細川・小泉連合の敗因 『民主党の支援』が足を引っ張った。 選対解任の裏話」というブログを書いていましたが、それを読むと、今回の東京都知事選挙で民主党や連合が果たした役割がよくわかる気がしました。

そして、私は、『労働貴族』(深笛義也著・鹿砦社)という本のなかのつぎのような文章を思い出しました。

 ひたすら頭を垂れている体の会社に変わって、機関紙で堂々と「来るべき再稼動に向けて」と叫んで、力こぶを入れる東電労組。会社が崩壊するようなことがあっても、彼らは”自主管理”してまでも原発を動かすのではないか。ふと、そんなことまで考えてしまうほど、会社より前のめりになっているのが、原発を抱えた電力会社の労働組合だ。


組合員106万人を擁する連合東京の会長は、東電労組出身の大野博氏です。そのため、東京都知事選挙では、連合は自民党や公明党と一緒に舛添要一候補を推薦したのでした。言うまでもなく、舛添氏が脱原発候補ではないからです。

電力会社10社の労働組合などで組織される電力総連(全国電力関連産業労働組合総連合)は、連合のなかでもその組織力と資金力によって大きな力をもっていると言われています。実際に、連合本部の副会長には、東電労組出身で電力総連会長の種岡成一氏が名を連ね、事務局長や副事務局長や中央執行委員にも電力総連から入っているそうです。そのため、当然のことながら連合は、脱原発を明確に掲げることはしません。

それどころか、『労働貴族』によれば、連合やその傘下の自治労などは、反原発運動に関わっている組合役員に対して、その発言を封じたり役職を解くなどの圧力を加え、なかには組合から除名され職場からも追放された事例さえあるそうです。連合は、間違っても脱原発ではないのです。

そんな連合は、一方で民主党の有力な支持母体でもあります。民主党のなかには電力総連出身の国会議員が2人いますし、民主党の国会議員の半分は、連合の票がなくては当選できないと言われるほどです。民主党の野田政権(当時)が大飯原発の再稼動に動いたのも当然なのです。

こうして見ると、選挙戦の最中に選対を解任された古賀氏が、「民主党の支援が足を引っ張った」と言うのもわからないでもないのです。

そもそも考えてみれば、原発再稼動だけでなく、「尖閣」も消費税増税も特定秘密保護法も集団的自衛権も、みんな民主党政権が自民党にプレゼントしたもの(その道筋を作った)と言えなくもないのです。

細川・小泉連合に勝ったことで、まるで当選したかのように大喜びだったという宇都宮陣営もひどいけど、連合(電力総連)と通じた民主党に選対の主導権を明け渡した細川・小泉連合もおそまつと言わざるをえません。「保守リベラル」に結集するという細川・小泉連合の選択は間違ってなかったと思いますが、しかし、ゾンビのような民主党と関わったことが自滅を招いたのです。

何度も繰り返しますが、もう右も左も「終わった」、政治的にも思想的にも「終わった」のです。かつて「保守対革新」なんて言い方がありましたが、そんな「革新」幻想から脱却しない限り、脱原発の展望がひらけないのは自明でしょう。「保守対革新」なんていつの話だ?と思われるかもしれませんが、脱原発や平和運動のなかには未だにそういった幻想にしがみついているガラパゴスな人たちも少なくないのです。「ノーサイド」なんておためごかしを言っている場合じゃないでしょう。
2014.02.19 Wed l 社会・時事 l top ▲
文藝春秋2014年3月号


第150回芥川賞の受賞作・小山田浩子の「穴」(文藝春秋3月号掲載)を読みました。

どれがホンモノでどれがニセモノか、どれがホントでどれがウソか、どれが現実でどれが現実ではないのか、そんな虚実皮膜の日常に私たちは生きています。意味不明なのっぺらぼうとした世界。この小説でも、そんな世界が作者独特の切り口で描かれていました。

主人公の「私」は、SNSでもしているのか、暇さえあればいつも携帯電話の画面を見ながら激しく指を動かしている夫とふたり暮らしです。そして、夫が夫の実家と同じ土地にある営業所に転勤になったことで、実家の隣にある借家に住むことになるのでした。家賃は5万2千円ですが、夫の実家の持ち物であるために、タダになりました。転勤に伴い、非正規雇用の仕事を辞めた「私」にとっては、それは「ありがたい」話でした。

引越しの日はあいにく大雨でしたが、翌日は例年になく早く梅雨明けが宣言され本格的な夏が到来しました。窓を開けると蝉の声が響く田舎の夏。そこから奇妙な出来事がはじまります。

仕事に出ている姑から電話がかかってきて、日にちを勘違いして払い込むのを忘れてしまったお金の払い込みを頼まれます。しかし、姑が用意した払込票と現金をコンビニに持っていくと、支払金額は7万4千円なのに現金は5万円しかありません。わざと忘れたのか、それとも単なる勘違いなのか。訝しみながらも差額の2万4千円を立て替え、そのことを姑には言えないままなのでした。

しかも、コンビニ行く途中、「私」は大きな獣に遭遇します。「とにかく真っ黒で、おそらく毛は硬そうで、中天に太陽があるせいでほとんど影がなく、そのほとんどない影ごと体であるかのように、それはトコトコと先を急いでいた」のでした。しかし、誰も「私」と獣のことは見ていません。その獣に先導されるように、私は川原に降りて行きます。と、不意に「私」は、「すとんと」穴に落ちたのでした。

また、ある日、「私」は、実家の裏にプレハブ小屋があることに気付きます。しかも、そこには夫の兄、つまり義兄だという男性が住んでいました。もちろん、義兄がいるなんて初耳です。義兄は、自分のことをヒキコモリかニートのようなもので、もう20年その小屋でひとり暮らしをしていると言うのです。義兄は、「私」が穴に落ちたことを話すと、「不思議の国のアリス」になぞらえてヤユするのでした。義兄は、「私」をさらに奇妙な世界に連れ出します。ホントに義兄なのか。またしても訝しみながら「私」は、義兄が先導する世界で不思議な体験をするのでした。

みんなが寝静まった深夜、認知症の義祖父が外に出たことに気づいた「私」は、義祖父のあとを追いかけます。すると、義祖父は川原に降りて行き、穴に入るのでした。私も別の穴に入ります。私の穴のなかには例の大きな獣が身をひそめていました。ところが、その夜のことが原因で、義祖父は肺炎になり、あっという間に亡くなります。そして、義祖父の死をきっかけに、義兄も大きな獣も、遠い昔の出来事だったかのように姿を消してしまったのでした。

「(略)ま、皆さんはそんなものに興味がないんだろう。見えてないのかもしれない。大体いちいちその辺を歩いている動物だの飛んでいる蝉だの落っこちているアイスのかすだの引きこもりの男だのを見ますか。見ないでしょう。基本的にみんな見ないんですよ、見たくないものは見ない。」義兄のこのことばに、この小説の真髄が語られているように思います。作者はラテンアメリカの文学に影響を受けたそうですが、たしかに話そのものは、昔ばなし(民話)の”異郷訪問譚”や”冥界訪問譚”のような感じがしないでもありません。それが非正規雇用や携帯電話やインターネットやコンビニや通販などの現代的な風景と対置して描かれているのでした。

私たちが生きるこの日常を書きことばの制約のなかで描くとすれば、こんな虚実入り混じったような手法でしか描けないのかもしれません。このように意味をはく奪しなければ見えてこない世界があるのではないか。私たち自身、たとえばふとしたことで疑心暗鬼にとらわれたりすると、その途端に世界が奇妙にゆがんで見えてくるのはよくあることです。私たちは、世事にわずらわされながら、一方でそうやって意味不明な世界で生きているのです。でも、それは無視できないもうひとつの世界です。

いろんな場面で流れている蝉の声や自分の目の前にある微細な世界を描写する箇所などに作者の感受性が見てとれますが、ただ、この小説で使われていることばは総じて平板です。その意味では、川上未映子が登場したときのような衝撃はありませんが、でも味わいのある読後の余韻の残る小説だと思いました。
2014.02.18 Tue l 本・文芸 l top ▲
Tポイントがたまったので、Yahoo!ショッピングでニューバランスのスニーカーを買おうと思いました。

ところが、3店舗に注文したのですが、いづれも「メーカー在庫なし」でキャンセルになったのでした。私も欠品が生じてお客様にご迷惑をおかけすることがありますので、あまり偉そうなことは言えませんが、しかし、3店舗もつづけて「ショップの都合」でキャンセルなんてあるでしょうか。

スニーカーと言っても、別に品薄になるような人気の品番ではありません。ごく普通の型です。いづれも注文時は「在庫あり」で注文を受け付けたのです。しかし、後日「完売していました」という連絡が入り、キャンセルになったのでした。Tポイントは5000ポイント利用していましたが、キャンセルになっても即時に返ってくるわけではなく、1日~2日おいてから返却になりました。それを性懲りもなく3回も繰り返したのです。一連の経緯を見ると、3店舗とも在庫を抱えないで商売をしていたとしか思えないのです。

私は、これはYahoo!ショッピング無料化の負の面が出ているように思えてなりません。ヤフオク!などでも、落札したものの、「欠品です」と出品者の都合で一方的にキャンセルになる場合がありますが、無料化によって安易な考えの業者が出店し、Yahoo!ショッピングもヤフオク!と同じようにモラルハザードがおきているのではないでしょうか。

「ヤフオク!ヘルプ」では、入札者に対して、「落札したらキャンセルできません」と謳っています。そして、「落札者が『落札者都合』で落札を取り消すと、出品者から落札者に対して自動的に『非常に悪い』の評価がつきます」と注意書きがあります。このように、落札者にはきびしくモラルの遵守を義務づけているのですが、出品者は「平気」で欠品しましたと言って寄越すのです。

これは、今回のTポイントにしても同様です。ショップの都合でキャンセルになったのに、どうしてTポイントの返却に時間がかかるのか。そのために、すぐにポイントを使って買い物ができないのです。

「Yahoo!ショッピングヘルプ」では、「注文をキャンセルした場合」のポイントについて、次のように書かれていました。

注文後、キャンセルした場合は、ストアでのキャンセル手続き完了後に利用予定のポイントが返却されます。返却時期は、ストアやキャンセルのタイミングによって異なります。ポイント通帳にてご確認ください。


ここで書かれているのは、あくまでユーザー(購入者)の都合でキャンセルした場合です。ショップの都合でキャンセルした場合のことは想定してないかのようです。Yahoo!はどっちを向いて商売をしているのかと言いたくなりますが、ただ、Yahoo!はあくまで金を掘る人に道具を売るのが商売なので、ユーザー(購入者)目線が欠けるのは当然と言えば当然かもしれません。

また、先日利用したファッション関連のショップでは、注文の際プルダウンで商品の色の品番を選択するようになっていたものの、肝心な色見本の画像も説明もありませんでした。それでは記載されている品番がどの色なのかわからず、選択のしようがありません。それで、ショップにメールで問い合わせたところ、「楽天のほうのショップで色を確認してください」という返事が来て唖然としたことがありました。

Yahoo!は、無料化に伴い、楽天など他のモールに出店しているショップは優先的に開店できるキャンペーンをしていましたので、おそらくそのショップもどうせ無料だからとYahoo!にも出店したのでしょう。メールには、「早急に手直しします」と書いていましたが、ひと月以上経った今も手直しされておらず、ほとんど放置といった感じです。

Yahoo!ショッピングの無料化は、結局、ショッピングのヤフオク!化(質の低下)をもたらしたのではないのか。無料化によって、Yahoo!ショッピングは、文字通り枯れ木も山の賑わいのようになりつつありますが、枯れ木は所詮枯れ木でしかありません。

もっとも、Yahoo!にしても、いつまでも無料にするつもりはないのかもしれません。無料化で出店者を募り、出店者を囲い込んだら有料にするという、かつてヤフオク!でとったようなしたたかな戦略も考えているのかもしれません。

これでは、楽天の独走に歯止めをかけるのは夢のまた夢のような気がします。むしろ逆に、ますます客離れを招くことにもなりかねないのではないでしょうか。これが孫正義会長の言う「eコマース革命」なのか、と皮肉のひとつも言いたくなりました。

>> eコマース革命
2014.02.15 Sat l ネット・メディア l top ▲
東京で高校の同窓会の世話人をしている同級生が、帰郷して母校を訪れた際、今年の卒業生のなかで東京の大学に進学するのは、わずか10人程度だという話を校長から聞いてびっくりしたそうです。ちなみに、私たちの頃は120人くらいいました。もはや「上京物語」も遠い昔の話なのでしょうか。

どうしてそんなに減ったのか。いちばんの理由は、親の経済的な事情だそうです。つまり、子どもを東京の大学にやるほどの経済的な余裕がなくなったのです。そのため、なるべくお金がかからないように、進学も地元(九州)で済ませる傾向が強いのだとか。

たしかに、同級生たちと会うと、あの頃、親たちはどうやってお金を工面したんだろう、という話になるのですが(我が家の場合、山を売ったらしく、のちに山がほとんど売り払らわれていることを知ってショックを受けた覚えがあります)、じゃあ私たちが自分たちの子どもに同じことができるかと言えば、もうとてもそんな余裕はないのです。

中国や韓国が台頭(キャッチアップ)して、政治的にも経済的にも日本と肩を並べるようになり、それを認めたくない人たちが嫌中嫌韓に走っているように思えてなりませんが、アベノミクスで株価が上がったとかアニメや和食が世界中でブームになっているとか日本人は世界の人たちからリスペクトされているとか(そんなテレビ番組ばかりですが)、そうやって”自演乙”して、落ちぶれて行く我が身から目をそらしているのが今の日本です。

中国や韓国とコスト競争すれば、国内の格差が広がり経済的にゆとりのない人が多くなるのは、ある意味で当然でしょう。もちろんそれを、ネトウヨや田母神氏に61万票を投じた東京都民のように、中国や韓国のせいにするのはお門違いです。落ちぶれて行く自分をどう考えるか。ただ中国や韓国と競争するだけでいいのか。

先日、税金や社会保険料など、国民の公的な負担の度合いを示す「国民負担率」が平成26年度は41.6%にもなった(厚生労働省の発表)というニュースがありましたが、そういう重税感や閉塞感から目をそらすために、アベノミクスの幻想がふりまかれている側面もあるのではないでしょうか。また、あの”生活保護叩き”も、嫌中嫌韓と同様、「うまくいかない社会」や「うまくいかない人生」のうっぷん晴らしという側面があるように思えてなりません。

そう考えると、安倍首相のアベノミクスとヘイトな(嫌中嫌韓な)ナショナリズムが表裏一体であることがわかります。貧すれば鈍するということばがありますが、近隣の国を罵倒することで「自分の国に誇りをもつ」というのは、なんとも心根が貧しく情けない話ではないでしょうか。これこそ貧すれば鈍するの最たるものでしょう。
2014.02.11 Tue l 社会・時事 l top ▲

 「デミトロフ」といっても、チョコレートやケーキの名前ではない。ましてや「テルミドール」のような料理でもない。東欧ブルガリアの政治家である。私などの老輩には、デミトロフは「獅子吼」という言葉とともに思い起こされる。獅子吼といえばデミトロフである。
 ゲオルギー・デミトロフは、1933年2月のドイツ「国会議事堂放火事件」の容疑者として逮捕された。が、ナチスの共産党弾圧を引き出すための、自作自演のでっち上げだった。ナチスの法廷に引き出されたデミトロフは、徹底的に陰謀を論証して、翌年には無罪を勝ち取っている。
 しかし、名前が記憶されているのは、国会放火事件によってではない。その二年後に行われた、「コミンテルン大会」での演説によってである。彼は独善的で公式的、現実には全く通用しない、排他主義的な同志たちを批判、大胆な反ファッショ統一戦線の結成を呼びかけた。ナチスと対抗するための、多様で広範な、民主主義のための共同行動を熱烈に訴えた、その情景が「獅子吼」として語り継がれている。
 戦争に向かおうとしている、いまのこの危機的な状況にもかかわらず、広く手を結んで共同行動に立ち上がらず、あれこれ批判を繰り返している人たちに訴えたい。いったい敵は誰なのか、と。


これは、1月28日の東京新聞「本音のコラム」に掲載されたルポライター・鎌田慧氏の文章です。今回の東京都知事選挙で「脱原発候補の一本化」にこだわった鎌田氏がデミトロフの例をあげて批判しているのは、日本共産党です。

東京都知事選挙は、大方の予想どおり、自公と連合(連合東京の会長は東電労組出身)が推薦する舛添要一氏が圧勝して当選しました。脱原発派は惨敗と言ってもいいでしょう。

しかし、なかには惨敗と思ってない人たちもいるようです。ある週刊誌によれば、共産党は、宇都宮候補が細川候補に勝ち次点に入るのを目標に党をあげて支援していたそうです。私などは、当選しなければ2位だろうが3位だろうが同じじゃないか、と思うのですが、共産党のなかでは同じではないのでしょう。

実際に、選挙の後半になると、都内の私鉄の駅前では共産党の都議会議員や区議会議員たちが毎朝、辻立ちして、宇都宮候補への投票を呼び掛けていて、共産党の熱の入れようが半端ではないことがよくわかりました。でも、それはあくまで次点(2位)を目標にしたものにすぎなかったです。

私は、それを見て、共産党がやっているのは選挙運動ではなく、選挙を利用した党勢拡大運動ではないのかと思いました。

共産党は、今回の選挙の結果についても、宇都宮候補は「大健闘」して「安倍政権を追いつめた」とかなんとかいつものように自画自賛して締めくくるのでしょう。これが共産党の独善主義と言われるものです。そこにあるのは、古い古い政治の姿です。

一方で、安倍首相の盟友の百田尚樹氏が応援した核武装論者の田母神としお候補が、組織も政党の応援もないなかで61万もの票を獲得したのでした。これこそ「大健闘」と言っていいでしょう。この事実を衝撃をもって受けとめている人は、果たしてどれだけいるでしょうか。もう右も左も(もちろん新右翼も新左翼も)「終わった」のです。歴史的に見てもその存在価値はなくなったのです。彼らの党勢拡大なんてもはやなんの意味もないのです。

今回の選挙では、党派政治の陳腐さ愚劣さがあらためてはっきりしたのではないでしょうか。そして、脱原発デモのエネルギーを野田首相(当時)との面会でガス抜きしたのと同様、脱原発派は、人々の脱原発の思いをこのような古い党派政治の鋳型にはめることしかできなかったのです。それは、「一本化」以前の問題だと言えます。脱原発がそういった既成の政治に乗っかっている限り、原水爆禁止運動と同じ運命をたどるのは自明のような気がします。「健闘した」「脱原発の声は届いた」なんておためごかしに自画自賛するよりは、惨敗を惨敗として認めるほうがよほど意義があるように思います。今、脱原発派に必要なのは、徹底した敗北感と失望感ではないでしょうか。
2014.02.10 Mon l 社会・時事 l top ▲
サイゾー2014年2月号


タレントの大沢樹生と喜多嶋舞の”実子騒動”は、年が明けても未だつづいていますが、私は、その”騒動”を見るにつけ、月刊『サイゾー』(2月号)の鼎談「マル激トーク・オン・デマンド」(希望なき日本社会に求めらる「正しさ」)で、宮台真司が言っていた「感情の劣化」ということばを思い出しました。

父親の大沢樹生がDNA鑑定の結果を公けしたのは、そのタイミングからみて、自身が監督した映画「鷲と鷹」の話題づくりのためではないかという疑いはぬぐえないのですが、それにつけても長男はまだ17歳の少年なのです。それを考えれば、大沢樹生は「畜生」のような父親だと言われても仕方ないでしょう。未成年の長男にどんな影響を与えるかということを考えないのでしょうか。

また、”騒動”に便乗して無責任なデバガメ記事を書いている女性週刊誌や他人の不幸は蜜の味とばかりにえげつない噂話にうつつをぬかしている世間の人間たちも、大沢同様、「畜生」と言わねばならないでしょう。私のまわりを見ても、人権という問題の本質に目を向ける人はほとんどいません。彼らの関心はただ実の父親が誰かということだけです。そのために、あのおなじみの「ふしだらな女」の論理が持ち出されるのでした。私が知る限り、正論を吐いていたのは、「公表する神経が全く分からない」と言っていた坂上忍だけです。

私は、この”実子騒動”には今の日本の社会の姿が映し出されているように思えてなりません。そして、ネトウヨのヘイトスピーチや日本テレビの連続ドラマ「明日、ママがいない」や籾井NHK会長の慰安婦発言なども、すべて同じ根っこでつながっているように思えてならないのです。そして、その大元にあるのが、「教養のなさや独りよがりが有名」な”アベちゃん問題”です。

宮台真司は、”アベちゃん問題”について、つぎのように言ってました。

(略)性愛に例えると、安倍晋三は愛情を履き違えた<粘着質>の類です。頭山満のごとき真の右翼なら、自国に愛国者がいれば相手国にも愛国者がおり、自分が憤る事柄で相手も憤り、自分が宥和する事柄と等価な事柄で相手も宥和することを弁えるから、諸般を手打ちできます。
 ところが安倍総理の類は相手国を鬼畜呼ばわりするだけの出来の悪い水戸学派。自分の感情を表出するだけなので関係を壊し、手打ちによる落とし所を失います。もうそうなっていて、戦争でアベノミクスの成果が灰燼に帰するかもしれません。自分の感情を表出するだけの<粘着厨>が、ストーカー行為を通じて恋愛を実らせる可能性は0%。なのにストーカーを続ける。よく似ています。


アベノミクスの先に国債の暴落や財政破綻を指摘する専門家も多く、今の株高も「売るために買っている」外国人投資家に支えられているにすぎないのに、誰もその”不都合な真実”を見ようとはしないのです。そして、「国土強靭化計画」なるヒットラーばりのネーミングの公共事業の大盤振る舞いが復活して、国の借金などどこ吹く風のような様相を呈しているのです。夢野久作ではないですが、唯物功利の惨毒に冒された拝金亡者たちが「愛国」を叫ぶこの悪夢のような光景。「感情の劣化」は、こんな「底がぬけた」なんでもありの状況に符号していると言うべきかもしれません。

文芸評論家の中島一夫氏は、「週刊読書人」(1月31日号)の論壇時評で、「冷戦後を生きはじめた言論空間」と題して、「ネット右翼の発生を、日本社会の右傾化や、社会的格差の拡大や貧困が生み出す鬱積といった一国的な視点ではなく、ソ連崩壊と冷戦の終焉によるグローバルなパラダイムチェンジに見出している」右派の論客・古谷経衡氏の視点を高く評価しているのですが、これなども「朝鮮人を殺せ!」というヘイトスピーチの問題の本質を見てないという点では、”実子騒動”と同じ「感情の劣化」の所産であると言わねばなりません。このように俗情と結託する批評もまた例外ではないのです。

先の国会の所信表明でも、安倍総理は「強い日本」「強い経済」などやたら「強い」という単語を連発していましたが、そうやって「強い日本」を強調したり、日本人は世界の人たちからリスペクトされているというようなテレビ番組で「すばらしい日本人」を”自演乙”する一方で、私たちは逆に日本人として人間としていちばん大事なものを忘れつつあるのではないでしょうか。中国や韓国を嗤う資格がホントにあるのかと言いたくなります。
2014.02.02 Sun l 本・文芸 l top ▲