東京都議会におけるセクハラやじの問題で、やじを飛ばしたことを名乗り出て謝罪した(前)自民党の鈴木章浩議員が、尖閣に無断で上陸するなど党内でも有名な”右翼議員”であったことから、セクハラやじは保守特有のマッチョ(男尊女卑)思想によるものだという意見がありますが、それは皮相的な見方にすぎないように思います。

私は、この問題を考える上で、以下に紹介する中森明夫氏と高橋源一郎氏の文章が参考になるように思いました。

中森明夫氏は、つぎのような文章をネットにアップしていました。

REAL-JAPAN.ORG  2014/6/17
「中央公論」掲載拒否! 中森明夫の『アナと雪の女王』独自解釈

これは、『中央公論』からの依頼で書いたものの、「掲載拒否」されボツになった原稿だそうです。中森氏によれば、『中央公論』編集部からは、雅子妃殿下と安倍首相の”お友達”の長谷川美千子氏(NHK経営委員)に言及した部分が問題になったと言われたそうです。雅子妃殿下だけではなく安倍首相の”お友達”も問題になったということは、あの風流夢譚事件のトラウマというより、『中央公論』が産経新聞ともども安部政権の広報紙と化している読売新聞の系列だということが関連しているのでしょう。どんなかたちであれ、政権批判はタブーなのでしょう。

中森氏は、雅子妃殿下は『アナと雪の女王』の「雪の女王」ではないのかと言います。

 今一人、私たちの国を代表する雪の女王がいた。そう、雅子妃殿下である。小和田雅子氏は外務省の有能なキャリア官僚だった。皇太子妃となって、職業的能力は封じられる。男子のお世継ぎを産むことばかりを期待され、好奇の視線や心ないバッシング報道にさらされた。やがて心労で閉じ籠ることになる。皇太子殿下がハンスのような悪い王子だったわけではない。「雅子の人格を否定する動きがあったことも事実です」と異例の皇室内の体制批判を口にされ、妃殿下を守られた。同世代の男として私は皇太子殿下の姿勢を支持する。雅子妃は『アナと雪の女王』をご覧になったのだろうか? ぜひ、愛子様とご一緒にご覧になって、高らかに『レット・イット・ゴー』を唄っていただきたい。創立90周年を迎えたディズニーは、いわば王制なきアメリカの精神の王室である。それが“アナ雪”で大きな変化の一歩を踏み出した。我が国の皇室はどうだろう? 皇太子妃が「ありのまま」生きられないような場所に、未来があるとは思えない。


一方、高橋源一郎氏は、朝日新聞の論壇時評(「アナ雪」と天皇制 ありのままではダメですか)で、「人の一生を『籠の鳥』にするような、人権を無視した非人間的な制度の犠牲には、誰にもなってもらいたくない」から象徴天皇制に反対するという上野千鶴子氏と、「女だからという理由で」「生まれてこのかた、『お前ではダメだ』という視線を不特定多数から受け続けてきた」敬宮愛子様に深い同情を寄せる赤坂真理氏の天皇論(皇室論)をそれぞれ引き合いに出して、つぎのように書いていました。

 この二つの本(引用者注:上野千鶴子『上野千鶴子の選憲論』と赤坂真理『愛と暴力の戦後とその後』)からは、同じ視線が感じられる。それは、制度に内在している非人間的なものへの強い憤りと、ささやかな「声」を聞きとろうとする熱意だ。制度の是非を論じることはたやすい。けれども、彼女たちは、その中にあって呻吟(しんぎん)している「弱い」個人の内側に耳をかたむける。それは、彼女たちが、男性優位の(女性であるという理由だけで、卑劣なヤジを浴びせかけられる)この社会で、弱者の側に立たされていたからに他ならない。彼女たちは知っているのだ。誰かの自由を犠牲にして、自分たちだけが自由になることはできないと。


小和田雅子氏は、外務省に勤務していたときは、目黒区洗足の自宅から外務省までトヨタ・スターレット(?)だかで通勤していたそうです。そんな活発なキャリアウーマンだったのです。結婚するときも、外務省で経験したことを皇室のなかで生かせればというようなことを言ってました。

もちろん、女性が「『ありのまま』生きられない」のは、皇室のなかだけではありません。『アナと雪の女王』の独自の解釈から見えてくるのは、都議会のえげつないやじを生み出すこの社会のあり様です。北原みのり氏は、『木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』で、「女はとっくに白馬の王子なんて、この国にいないことを知っているのに」と書いていましたが、肝心な男たちは、未だに女は「白馬の王子」を待っている、「白馬の王子」なしでは生きられない、それが女にとって幸せな人生の一本道だ、と思い込んでいるのです。それがあのようなセクハラやじを生み出す背景になっているのではないか。

多くの男たちは、自分も東京都議会の議員たちとそう遠くないところにいることを知っているのです。セクハラやじは言わないまでも、その場にいたら自分も一緒になって笑ったはずだということはわかっているのです。セクハラやじは、なにもおやじの専売特許なんかではないのです。週末の自由が丘で、妻の代わりにベビーカーを押しているやさしい夫たちも、一枚めくれば都議会議員たちとたいして変わらないのです。

レヴィ・ストロースの「結婚=(女性)交換」説ではないですが、男のなかにはどこかに、女性に対して「ものにする(手に入れる)」という意識がはたらいているのは否定できないでしょう。そんな男たちにとって、高学歴で「生意気な女」や「結婚しない女」は、自分たちにまつろわぬ女のように思えるのではないでしょうか。まして、小保方さんや塩村議員のような゛オンナ度゛の高い女性は、一見男に媚びを売っているように見えるので、よけい”裏切られた感”が強く、許せない気持になるのではないでしょうか。だから、ネトウヨと一緒になって、あのように人格攻撃を加えバッシングするのでしょう。そして、バッシングに使われるのは、おなじみの「ふしだらな女」「計算高い女」というフレーズ(常套句)です。そう考えれば、従来の「白馬の王子」を待つディズニー映画のイデオロギーから脱却し、「ありのまま」に生きる女性への讃歌を高らかに歌う『アナと雪の女王』に、男たちが今ひとつ乗れないのもわかる気がするのです。
2014.06.28 Sat l 社会・時事 l top ▲
前回の記事(「自演乙」する人たち)のつづきになりますが、ワールドカップ日本代表の戦いが終わりました。予想どおり、弁解の余地がないほどの惨敗でした。

私は、サッカーの経験はありませんし、代表戦しか興味がない典型的な俄かサッカーファンですが、しかし、そんな私から見ても、98年のフランス大会以降、日本のサッカーがほとんど進歩してないことがよくわかります。それどころか、むしろ後退しているように見えることさえあります。

「Jリーグがはじまってまだ20年しか経ってないから」という声をよく耳にしますが、しかし、この20年日本のサッカーはどれほど進歩したというのでしょうか。ドーハの悲劇のあと、日本はワールドカップに出場することが目標でした。だからグループリーグで1勝もできなくても、「健闘を称える」ことができたのです。でも、それ以後もメディアやサポーターは、バカのひとつ覚えのように「健闘を称える」ばかりなのです。

フットボールチャンネル」編集長の植田路生氏は、コロンビア戦の前日の昨日、同サイトのコラムで、「今のサッカーメディアの多くは単なる広報媒体に成り下がり、メディアとしての責任を果たしているとは言えない」と“自己批判”する記事を書いていましたが、日本のサッカーの停滞あるいは後退の原因に、ネトウヨまがいのお粗末なサポーターの存在とともに、お寒いサッカーメディアの現状があることはたしかでしょう。

フットボールチャンネル 6月24日(火)15時47分配信
【W杯】日本代表の停滞を招いたサッカー媒体の堕落。1敗1分は“メディアの敗北”である

 ある媒体には「日本代表をポジティブに見るべき」という主旨の記事が掲載された。確かに一理ある。勝利のために選手・監督・協会・サポーターが一丸となって戦うことは必須条件だ。だがそこにメディアが入ってはいけない。


 臭いものには蓋とばかりにネガティブな部分を論証せず、4年間、ひたすらザックジャパンをタレントのように持ち上げてきた結果がW杯での1分1敗だ。ポジティブに、建設的に見る一方で、メディアであるなら冷静に客観的な姿勢を忘れてはならない。


今はWEBが普及し、多くの人に記事が読まれる時代だ。情熱を持った記者の原稿は、あふれるばかりの“垂れ流し記事”に埋もれることも多い。ある意味、数の暴力。第二の一億総白痴化は近付いている。


今さらという感がなきにしもあらずですが、とりあえずこの記事は、「フットボールチャンネル」が真っ当なサッカーメディアに生まれ変わる”脱広報宣言”なのだと解釈したいと思いました。今、望まれるのは、(ネットに巣食うイタいサッカーファンではない)ホンモノのサッカーファンに向けた”批評”のメディアなのです。

今日のコロンビア戦に際しても、メディアは「運命の一戦」「最後まで希望を持ち続けよう」「希望を捨ててはならない」などと煽りまくっていました。でも、日本代表が置かれている状況は、どう考えても「運命の一戦」などと言えるようなものではないし、「希望」など持ちようがないものでした。私のような不真面目な俄かサッカーファンは、「なんで?」「奇跡なんておきるわけないのに」とシラけるばかりでした。

もちろん、サポーターも同じです。普段からスタジアムに足を運んでいるような筋金入りのサポーターは、自分たちを「サッカーファミリー」の一員であるかのように錯覚して、ものごとを客観的に見る目を失っているのではないか。彼らは、まるで評論家のように日本のサッカーに対して一家言をもっていますが、しかし、植田氏が言うように、一億総評論家は一億総白痴化の謂いでもあるのです。もしかしたら、日本のサッカーについていちばんわかってないのは、サポーター自身かもしれません。彼らもまた「煽られる人たち」なのです。

もっとも、このメディアとサポーターのテイタラクは、サッカーに限った話ではありません。安部政権が目論む「戦争ができる国作り」も然りです。高村薫ではないですが、借金が1千兆円もある国が戦争などできるのか、海岸線に49基の原発がむき出しで稼動しているような国に、国を守ることなどできるのか、というのが真っ当な感覚でしょう。もとより、集団的自衛権の行使も「国民の命と暮らしを守るため」なんかではなく、TPPと同じアメリカ様のためなのです。でも、ホントのことを言うと、サッカーの杉山茂樹氏と同じように、「反日」だと罵倒され「在日」認定されるのです。

一億総白痴化は、サッカーも政治も同じです。
2014.06.25 Wed l 社会・時事 l top ▲
ワールドカップですが、案の定、日本の決勝トーナメント進出はほぼ絶望的な状況になっています。このままでは1勝もできない可能性も大です。

グループリーグ最終戦のコロンビア戦を前に、主力選手たちは、記者会見で、「奇跡を信じている」(本田)「信じて戦うしかない」(長友)「無心でやるしかない」(岡崎)などと、およそスポーツ選手とも思えないような意味不明なことばを並べていますが、それは選手だけでなくマスコミも同様です。「前を向いて戦うしかない」「どれだけ心をひとつにできるかだ」「最後まであきらめない気持が大切だ」「選手たちを信じるしかない」などとこれまた言語明瞭意味不明な精神論のオンパレードです。

あの戦争のときもそうでしたが、戦況が不利になるとこのように精神論で現実から目をそらすのがこの国の特徴です。そして、竹槍で本土決戦に備えるなどという、カルトの妄想のような荒唐無稽な発想に対しても、誰も異をとなえることができず唯々諾々と従っていくのです。なかには竹槍でB29を撃ち落とすと本気で信じていた人もいたそうで、それが「愛国心」だと称賛されたのです。

この国ではサッカーファンも、ネトウヨと同じです。実際に、サッカーファンとネトウヨは重なる部分が大きく、前に触れた杉山茂樹氏に対しても、ネットでは「頭がおかしい」「反日スポーツライター」などとくそ散々な言われようでした。そして、案の定、「在日」認定までされる始末です。

杉山茂樹氏は、今大会の日本代表について、ブログで、つぎのように書いていました。

 メディアの商法として、手っ取り早いのは「がんばれ、ニッポン!」を煽ることだ。応援報道というヤツである。これを成立させるためには、日本がある程度、強い存在に見える必要がある。メディアのそうした願い、思惑と、日本サッカー協会の親善試合の組み方(ホーム戦過多)は実に相性がいい。それには負けにくい設定が施されている。
 しかもアジアの本大会出場枠は4.5。アジアの世界的なレベルを考えれば、緩すぎる設定だ。日本が予選落ちする可能性は10%程度。本当に接戦が期待できる試合は、せいぜい2試合ぐらいだ。他は楽勝して当たり前。平素の試合を通して問題点は露呈しにくいのだ。

 こうした環境の中に置かれていると、世界が狭く見えてくる。サッカー観戦に不可欠な世界観も生まれにくい。コートジボワール? ギリシャ? 馴染みのない集団に対して、畏敬の念を払えなくなる。相手をリスペクトする習慣が芽生えにくくなる。サッカーの試合を戦う上で、これは好ましくないスタンスだ。研究を怠り、毎度「我々のサッカーをすれば」と言っている国に、幸は訪れにくい。

杉山茂樹のBLOGマガジン
日本のサッカーを見ているのは、日本人だけではない」(2014 6/22)


杉山氏が言わんとすることも同じでしょう。「自演乙」して現実を直視しないメディアとサポーターのお粗末さ。

日本はすばらしい、日本は世界中からリスペクトされている、などいくら「自演乙」しようとも、サッカーの場合、相撲や野球と違って、世界の舞台で戦うことを宿命づけられているのです。そこで示される結果はごまかしようがない(「自演乙」のしようがない)のです。

テレビ解説者のなかで、杉山氏と同じように、この当然の結果(!)を事前に予想した人間がいるでしょうか。テレビ解説者の大半はJリーグ関係者で、ただ無用な期待を抱かせるためだけに存在している”茶坊主”と言っても過言ではありません。

私の知る限り、杉山氏以外では、あのセルジオ越後氏が辛辣なコメントを残していました。

「これが実力だ。結果は驚きでもなんでもない。今大会の他の試合を見れば一目瞭然だ。日本はどの国よりも未熟で、どの国よりも走っていないし、迫力がない。にも関わらず、一番期待されている国だ。海外組ブランドが喧伝され、選手たちは大スターのように扱われてきた。ヌルい親善試合と、本当のことを言おうとしないメディア。強化よりも興行に気を取られてきた結果、自分たちの実力が実態以上に大きく見えるようになってしまった。しかし、現実は隠せないということだ」
「『自分たちのサッカー』がどうこうというフレーズが騒がれているけど、一つ答えを出すとすれば、今日のこの試合で見せたプレーが、まさに『自分たちのサッカー』だよ。本来の力を出せていないのではなくて、これが世界における我々の本来の力なんだ。そこを見誤っては成長がない。他の試合をよく見てほしい」

サッカーキング
ギリシャ戦ドローにセルジオ越後氏『“自分たちのサッカー”とはこの程度。日本はどの国よりも未熟』


コロンビアは、ラテンアメリカの人間特有の気質から、既に決勝リーグ進出が決まっているので、日本戦は気を抜くのではないかとか、決勝トーナメントではイタリアよりコスタリカと戦いたいので、日本戦では負け試合をして2位通過を狙うのではないかなどという見方が一部にありますが、いづれにしても日本にはもうコロンビア頼みの「奇跡」しか残ってないのです。これがイタいサッカーファンやスポーツメディアが目をそむけている現実なのです。

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2014.06.23 Mon l 社会・時事 l top ▲
その後、体重は10キロ減を維持しています。たまたまジャパネットたかたの「快適ショッピングスタジオ」を見ていたら、野菜ジューサーのコーナーで、高田社長が、「私が食べるのは1日に1食半で、米はほとんど食べません」と言ってました。私は、それを聞いて、「高田社長も糖質制限ダイエットをしているのだな」と思いました。

高田社長に限らず、他人様に身を晒すことが商売の芸能人のなかには、体形を維持するために、糖質制限(炭水化物制限)ダイエットをしている人が多いというのはどうやらホントのようです。

私の場合は、別に他人様に身をさらす仕事ではないし、それに幸いなことに糖尿病でもその予備軍でもないので、高田社長より全然ユルくて、1日に2食か3食食べ、米も1食につきおにぎりを1個食べています。おにぎりと言っても、家で食べるときは自分で握ったおにぎりなので、コンビニのおにぎりより全然大きいのです。また、外食の際のライスも「普通」盛りです。ただ、店によって盛りが違いますので、盛りがいい店の場合は、ライスを少し残すこともあります。

もちろん、パンや麺類はほとんど食べません。それから果物や根菜類(特に芋類)も基本的には食べません。それ以外はしっかり食べています。だから空腹を我慢するということはありません。また、おのずと野菜サラダをよく食べるようになりますので、以前より野菜(葉物野菜)を食べる量は増えました。このように、糖質制限ダイエットとも言えないようなユルいダイエットですが、それでも1ヶ月半で10キロ痩せたのでした。

ただ、糖質制限ダイエットにも難点があります。エンゲル係数が高くなることです。安価な炭水化物で腹を満たすのではなく、言わばおかずで腹を満たすため、どうしても食費がかさむのです。

考えてみれば、(『炭水化物が人類を滅ぼす』でも書いていましたが)、手軽に摂取できるエネルギー源としては炭水化物に勝るものはないでしょう。しかも、安価で腹を満たすこともできる。でも、昔のように過酷な肉体労働をしていた頃ならまだしも、労働の質がまったく変わり運動不足さえ指摘されるような時代に、同じように炭水化物を主食とする食事をしていたら、糖質過多になってブクブク太るのは当然です。過酷な肉体労働が当たり前の時代にエネルギー源として食べていたものを、今はB級グルメだとか言ってもてはやしているのですからメチャクチャな話です。生活習慣病をひきおこすのも当然でしょう。

テレビのラーメン特集だとかB級グルメだとか大食いだとかいったグルメ番組は、いわば貧困ビジネスの一種だとも言えます。どこどこのラーメンがどうだとかどこどこの丼がどうだとか、蘊蓄とも言えないような蘊蓄を傾けている人たちを見ると、私は「B層」ということばを連想せざるをえません。B級グルメじゃなくて「B層グルメ」じゃないかと言いたくなります。ネトウヨと同じように、彼らもまた「煽られる人たち」なのです。当然、そのうしろには、「煽る人」がいるはずです。

テレビのグルメ番組や食品のCMなどを見ていると、薬物中毒の人たちをさらに煽って薬を売りつける薬物の売人のようにしか見えません。糖質制限ダイエットを実践してわかったのは、自分が「糖質中毒」だったということです。「甘くて美味しいっ!」というのはまさにそれなのです。旧知の食堂の主人が、お客に受ける味にするには全体的に甘めに味付けすることだと言ってましたが、私たちは、いつの間にか甘いことが美味しいことだという味覚に馴らされているのではないか。

テレビ東京のグルメ番組や旅番組などで、「わぁ~、美味しい~!」なんて嬌声をあげている女性タレントも、普段はそんな食べ物には目もくれずダイエットに励んでいるのです。しかも、CMやステマにあるような、妙な器具を使ったり妙な健康食品を口にしたり妙な踊りを踊ってダイエットしているわけでもないのです。そのカラクリさえ“理会”できない人たちがなんと多いことか。

糖尿病は”贅沢病”というイメージがありますが、病院関係者に聞くと、実際の患者は金持ちの美食家よりそうではない層の“雑食家”に多いそうです。あの大食いタレント(?)の女の子たちを見ても、DVを受けていたとかイジメに遭っていたとか、なにか人に言えないトラウマを抱えているのではないかと思ってしまいます。もしかしたら、収録のあと、食べたものをゲーゲー吐いているのかもしれません。あれはどう見ても、昔のヘビ女や小人プロレスや(欧米人から見た)相撲レスラーと同じようなフリーク(見世物)と言うべきでしょう。私は、彼女たちを見ていると痛ましささえ覚えてなりません。
2014.06.20 Fri l 健康・ダイエット l top ▲
JR上野駅公園口


柳美里の最新作『JR上野駅公園口』(河出書房新社)を読みました。

この小説には、さまざまな声や音に混ざって、「まもなく2番線に池袋、新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください」というあの駅のアナウンスの声が、低調音のようにずっと流れています。

文芸評論家の川村湊氏は、『週刊文春』の書評で、この小説について、つぎのように書いていました。

さまざまな人々の声が聞こえてくるポリフォニック(多声的)な小説構造が示しているのは、声なき声の恨(=ハン)を聞き分けようとする作家の耳の鋭敏さなのだ。そこには、戦後というより近代社会そのもののノイズが聞こえる。

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/3921

この小説の主人公は、上野公園でホームレス生活を送っている男です。そして、男の時空を超えたモノローグ(独白)によって、物語が語られていくのでした。

1933年生まれの男は、今上天皇と同じ歳です。さらに、ひとり息子も皇太子殿下と同じ歳で、誕生日も同じでした。「浩一」という名前も、皇太子殿下から一字をもらって名付けたのでした。

男は、福島の相馬生まれです。当時の浜通りには、「東京電力の原子力発電所や東北電力の火力発電所」も、「日立電子やデルモンテの工場もなかった」ので、微々たる田んぼしか持ってない農家の長男である男は、国民学校を卒業すると、出稼ぎに出て生活の糧を得ることを余議なくされるのでした。男の出稼ぎは、結婚して子どもができてからも、家族を養うためにつづきます。

そんななか、ひとり息子の浩一が、21歳のときに東京のアパートで突然死します。さらに、60歳をすぎて出稼ぎをやめ福島に戻った男が、出稼ぎのためにほとんど一緒に生活することのなかった妻の節子と、残りの人生を「月に7万円づつの年金」でのんびりすごそうと思っていた矢先、その妻にも突然先立たされるのでした。そのとき、男は、息子が死んだときに母親から言われた「おめえはつくづく運がねぇどなあ」ということばを、あらためて噛み締めるのでした。

そして、人生に絶望した男は、故郷の福島を出奔する決意をします。自分の面倒をみてくれた孫娘の麻里に、「突然いなくなって、すいません。おじいさんは東京に行きます。この家にはもう戻りません。探さないでください。いつも、おいしい朝飯を作ってくれて、ありがとう」という書き置きを残して、常磐線で上野にやってきたのでした。それは67歳のときでした。

上野公園は、正式には「上野恩賜公園」と言って、天皇家から下賜された土地に作られた公園です。そのためか、公園には東京国立博物館・国立西洋美術館・国立科学博物館・日本学士院など芸術や学術の施設も多いため、皇族方が訪れることがよくあります。

皇族が公園を訪れる日が近くなれば、それぞれブルーシートに「特別清掃」の紙が貼られます。紙には、「○○時○○分から○○時○○分まで、現在地から移動すること」「○○時○○分から○○時○○分までの間は公園内での移動禁止」と書かれてあります。これがホームレスたちが言う「山狩り」です。

この間、彼らはブルーシートで作られた「コヤ」を畳み荷物を移動させて、皇族方から見えないところに姿を隠さなければなりません。しかも、「行幸啓」が終わっても、元の場所には立ち入り禁止の看板や柵や花壇が設置されていることがあり、必ずしも元の場所に戻れるわけではありません。「特別清掃」は、一方で、ホームレスたちを締め出す格好の口実にもなっているのでした。

高貴な血筋に生まれ、「跳んだり貪ったり彷徨ったりすることを一度も経験したことのない人生」と、社会の底辺を必死で生きてきた挙句に、なにもかも失いホームレスに零落した男の人生。

ある「山狩り」の日、男は、いつもより早く上野公園に戻ると、天皇皇后両陛下が乗ったトヨタ・センチュリーロイヤルの御料車が、目の前を通りすぎるのに出くわします。男は、御料車に向かってつぎのように独白するのでした。

 自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
 なにか──。
 なにを──。
 声は、空っぽだった。
 自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。
 昭和二十二年八月五日、原ノ町駅に停車したお召し列車からスーツ姿の昭和天皇が現れ、中折れ帽子のつばに手を掛けられ会釈をされた瞬間、「天皇陛下、万歳!」と叫んだ二万五千人の声──。


男は、過去にも故郷の駅で昭和天皇の姿を見たことがあったのでした。

 三十歳の時に東京に出稼ぎに行く腹を決め、東京オリンピックで使う競技場の建設工事の土方として働いた。オリンピックの競技は何一つ見なかったけれど、昭和三十九年十月十日、プレハブの六畳一間の寮の部屋でラジオから流れてきた昭和天皇の声を聞いた。

 「第十八回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピックの東京大会の開会を宣言します

 昭和三十五年二月二十三日、節子が産気付いていた時に、ラジオから流れてきたアナウンサーの声──。

 「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります

 不意に、涙が込み上げた。涙を堪えようと顔中の筋肉に力を入れたが、吸う息と吐く息で肩が揺さぶられ、両手で顔を覆っていた。


御料車の窓から、「柔和としか言いようのない眼差しをこちらに向け」、手を振っている両陛下。そんな両陛下に歓声をあげて手を振りかえす人々の背後で、肩を震わせながら両手で顔を覆い泣いているホームレスの男。なんと哀切で、なんと感動的な場面なんでしょう。私は、脈絡もなく中野重治の「雨の品川駅」という詩を連想しました。

小説の最後は、津波におそわれ故郷の海に呑み込まれていく孫娘の麻里の姿と、そして、あの駅のアナウンスの声なのでした。

 「まもなく2番線に池袋、新宿方面行きの電車が参ります。危ないですから黄色い線までお下がりください

ホームの端に立った男が、最後に見たものはなんだったのか。

生きることのかなしみ、せつなさ、やりきれなさ。この小説にオーバーラップするのは、大震災や原発事故によって、主人公と同じように故郷を失い家を失い家族を失った人々の姿です。それは、「がんばろう、東北!」や「ひとつになろう、日本!」や「パワーをもらった」「元気をもらった」などという傲慢なことばのために存在する「被災者」とは違った人々の姿です。

「あとがき」によれば、この小説を構想しはじめたのは12年前だそうですが、しかしやはり、あの大震災や原発事故がなければ生まれえなかった作品であるのは間違いないでしょう。この小説が私たちの胸を打つのは、大震災や原発事故を直視するなかで生まれた小説でありながら、同時に生と死の普遍的な問題を私たちに問いかけているからではないでしょうか。読後、澱のようにいろんな思いが残りました。

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柳美里
2014.06.16 Mon l 本・文芸 l top ▲
2ちゃんねるnet   2ちゃんねるsc


紙の爆弾』(鹿砦社)7月号の匿名座談会「2ちゃんねる『乗っ取り』騒動でわかった 洗脳メディア化する『まとめサイト』の実態」によれば、2ちゃんねるの「乗っ取り」騒動の背景には、まとめサイトの利権の奪い合いがあるのだそうです。

2ちゃんねる自体は、それほど価値はないものの、「2ちゃんねるから副次的に派生する『まとめサイト』が大金脈に育って」いて、既にまとめサイトの広告収入は、年間20億円になっているのだとか。そのため、大元の2ちゃんねるを押さえれば、金脈もコントロールできると目論んでいるらしいのです。

20億円は、グーグルのアドセンスの報酬です。2012年からまとめサイトに対してアドセンスのサービスがはじまったのをきっかけに、「まとめサイトの価値が急上昇した」のだそうです。また、それに加えてスマホの普及が、まとめサイトのPVを飛躍的に増やす追い風になったのでした。

まとめサイトのアドセンスの場合、1日10万PVがボーダーラインで(1日10万PVで月収30万円だとか)、それを下回ると契約が打ち切られる(広告が表示されなくなる)そうです。そのため、管理人たちは、必死で、それこそ手段を選ばずPVの確保に走らなければなりません。そこで2ちゃんねるに自演の書き込みをしたり、スレッドの流れとは関係なく恣意的に書き込みをコピーしたりして、PVを稼げるような扇動的なサイトに仕上げていくのです。そして、まとめサイト同士がお互いに煽っていくことによって、世論を誘導していく。それが「いま起こっている嫌韓の構図」だと言います。

たしかに、アドセンス以前スマホ以前の2009年の政権交代のときも、2ちゃんねるやまとめサイトでは、民主党は「ミンス」などとヤユされ罵言のオンパレードでした。しかし、それは大きな世論にはなりませんでした。当時は既存のメディアのほうが強くで、ネットの影響力は限定的だったからです。それが今では様相を一変しています。もちろん、安倍政権が誕生して、憲法改正や集団的自衛権行使容認の世論作りのために、嫌中嫌韓の空気がふりまかれたという側面もありますが、今は逆に既存メディアがネット世論に迎合しているような傾向さえ見られるのです。その背景にあるのは、このような「愛国ビジネス」とも言うべきお金の論理なのです。

一方、ネットには別の見方もありました。2ちゃんねるの実質的な「経営者」であったひろゆき(西村博之)氏の関連会社は、ホットリンクという会社と2ちゃんねるのログ(書き込み)を売買する契約を結んでいて、さらにホットリンク社はログをいろんな顧客に転売していたのですが、それが騒動の背景になっているのではないかと言うのです。

たしかに、今回の騒動は、2ちゃんねるの関連会社のサーバーから有料会員のクレジットカード情報が流出したことが発端でした。その際、2ちゃんねるに書き込みをした人物がつぎつぎと特定されたことに不思議に思った人も多いのではないでしょうか。それは、ログとクレジットカードの個人情報が結び付けられていたからです。つまり、どんな人物がどんな書き込みをしているか、わかるようになっていたのです。ひろゆき氏らは、そうすることによって販売するログの商品価値を高めていたのです。

このように、2ちゃんねる騒動とは、火事場泥棒的に参入してきた「おーぷん2ちゃんねる」(ヤフー系)も含めて、ネットの守銭奴たちのお金をめぐる欲まみれの争いでしかないのです。

ところが、話はこれだけにとどまりませんでした。ログの個人情報が送信されていた先に、ひろゆき氏が役員をしていたドワンゴも含まれていたのですが、実はドワンゴには麻生太郎財務大臣(元総理大臣)の甥も役員に入っていて、さらに麻生大臣の長男が経営する会社がドワンゴの子会社になっていたことが判明したのでした。

九州の筑豊で誕生した麻生グループは、石炭採掘業から出発して、今やセメント製造・病院経営・人材派遣・不動産等で一大コンツェルンを築いていますが、メディア「支配」にも積極的で、既に福岡のRKB毎日放送の大株主であり、同社の経営に大きな影響力をもっていると言われています。また、最近は、キー局の「乗っ取り」も画策していて、TBSへ触手をのばしているという噂もありました。

ひろゆき氏や川上量生氏のようなネットの「創業経営者」というのは、お金のためなら悪魔にでも平気で魂を売るような守銭奴ばかりなので、政治権力にとって、ネットをコントロールすることなど赤子の手をひねるように容易いことなのかもしれません。お金を餌にすればいくらでもコントロールは可能で、それが「洗脳メディア」と言われるゆえんなのでしょう。
2014.06.13 Fri l ネット・メディア l top ▲
先日、久しぶりにバス(横浜市営バス)に乗りました。市営バスの場合、220円(現金の場合)の均一料金ですが、私はあいにく10円玉の持ち合せがなかったので、百円玉3個を握って乗りました。しかし、普段バスを利用しないので要領がよくわかりません。昔は別に両替機があってそこで両替して料金箱に入れていたような記憶がありますが、両替機のようなものは見当たりません。

それで、私は、運転手に300円を示しながら、「これ、どこに入れればいいんですか?」と尋ねました。すると、運転手はぶっきらぼうに「早く入れて」と言うばかりなのです。

「エエッ、どこに?」
「早く」
「どこにですか?」
「そこに入れて」

どうやら目の前の料金箱に入れろと言っているみたいです。でも、お釣りは出てくるのか?

「ここに入れればいいんですか?」
「早く、入れて」
「お釣りは出るんですか?」
「早く、入れて」

あとでわかったのですが、料金箱にお金を入れれば、下から自動的に釣り銭が出るしくみだったのです。だったら、どうしてそう説明しないのか? 

運転手は、つぎのバス停を案内するアナウンスもなにを言っているのかよく聞き取れず、小さい声でぼそぼそ言っているだけでした。しかし、それは私が乗ったバスの運転手だけではありませんでした。終点の市営地下鉄の駅では、停車しているバスが発車する際、運転手が外に向かってどこどこ行きのバスが出発しますというようなアナウンスをするのですが、やはりなにを言っているかよく聞きとれず、同じようにぼそぼそと言っているだけでした。

私は、それを見て、昔の国鉄の車内アナウンスを思い出しました。あの頃、国鉄の職員たちは、制服のボタンを外して帽子を斜めにかぶっているような者もめずらしくなく、態度も横柄でした。窓口で切符を買う際も、返事もせず仏頂面で切符を投げるように寄越したものです。でも、私たちは彼ら国鉄労働者を”革命の闘士”のように仰ぎ見ていたのです。菜っ葉服にヘルメットをかぶってジグザグデモをする彼らをカッコいいなと思って見ていました。

今どきこんな運転手がいるんだと私はあらためてびっくりしました。どうして普通に仕事ができないんだろうと不思議でなりませんでした。以前、横浜の市営バスの運転手たちの給与がやり玉にあがった際、運転手たちの平均年収が830万円だとか言われていましたが(今は下がっているみたいですが)、だったらもう少し謙虚に、普通に仕事をしてもいいんじゃないかというのが、市民の感覚ではないでしょうか。

横浜市の場合、ゴミ収集も、ビンや缶やペットボトルやプラスティックなどは民間委託で、生ゴミは直営(職員が直接収集)が一般的です。一時、生ゴミも民間に委託する方向で進んでいたのですが、資源循環局によれば、「燃やすゴミの中には危険物が入っていたり、業者が倒産した場合の危機管理も考えてやはり市の収集がいいだろうと、途中で方針を変えて」、生ゴミは直営に戻したそうです。

そのためか、収集日に収集拒否される生ゴミがやたら多いのです。道路脇には「収集できません」という警告文の貼られたゴミがあちこちに放置されています。しかも、横浜市は分別していないゴミの持ち主を特定して過料(罰金)を課す条例も施行しており、実際に職員が「開封調査」してゴミのなかの個人情報からゴミの持ち主を特定することもやっているのです。たしかにちゃんと分別しないのは問題かもしれませんが、そのやり方はまるで全体主義国家のようです。

しかも、組合も、自治研集会の発言(横浜市におけるごみ減量化の取り組みについて)などを見る限り、そういったやり方に対して明確に反対しているわけではありません。むしろ、それも「直営だからこそ出来る業務」で「付加価値」なんだという意見さえあるようです。要するに、自分たちの利益になれば多少のことは目をつむるということなのかもしれません。そして、言うまでもなく現場でゴミのなかから個人情報を収集しているのは、自治労の組合員なのです。

横浜市の場合、10分別15品目の細かい分別を要求されるので、悪意があるというより複雑すぎて理解できないケースが多いのではないかと思いますが、(分別をしている)正直者がバカをみるというあのお役所お得意の論理で、市民の俗情と結託して、全体主義国家の秘密警察まがいのやり方を当然視しているのでした。直営の自治体ほど、分別が細かくて硬直した収集がおこなわれているという話を聞いたことがありますが、さもありなんと思います。ホントにゴミの減量化や資源の有効利用のためなのか、首を捻らざるをえません。

一方で、これはゴミ問題に限ったことではありませんが、ゴミの減量化や資源の有効利用なるものがいつの間にか問答無用な”絶対的な正義”となり、一種の”エコ・ファシズム”のようなものが跋扈している気がしてなりません。労働組合のような古い観念の組織は、そういったデリケートな問題に対してきわめて鈍感な気がします。もとより左翼的な理念を背負っている組織が、本質的にその手の全体主義(的傾向)と親和性が高いのは否定できないでしょう。

労働組合なのですから、ゴミ問題に対してももっと別の視点(プライバシーを侵害するような管理化とは別の市民目線)に立った考えがあってもよさそうですが、組合が主張しているは、市当局とまったく同じ効率優先、自分たちの都合優先の論理にすぎません。まるで市当局が言っていることをそのままなぞっているかのようです。これが労使協調ということなのかと思ってしまいます。

私は、今の労働組合を見るにつけ、前も書きましたが、労働というのを生産点で考えるのではなく、消費の観点から考えるべきだという吉本隆明氏の状況論を思い出さずにはおれません。吉本氏は、労働とか労働者とかいう概念も変わるべきだと言います。そして、消費というのは時間と空間をずらした生産である、という言い方をしていました。今やGDP(国内総生産)のなかで、「個人消費」が占める割合は6割近くになっているのです。ゆえに「個人消費」が重要な景気指標にもなっているのですが、そんな高次の消費社会において、いわゆる従来の左翼的な運動論である「生産点からの変革」なんてのは、もはやほとんど意味を為さなくなっているのはないか。それは原発問題における東電労組や連合の姿勢を見れば一目瞭然でしょう。現代の資本主義が怖れるのは、デモやストより消費のサボタージュなのです。

自治労横浜市従業員労働組合(環境事業支部)は、東日本大震災の支援活動の経験から、「直営体制の持つ優位性」について、つぎのように自画自賛していました。

横浜ではこれまでも当局交渉において、行政が市民に対して果たすべきセーフティー・ネットとしての位置づけを強く訴え、結果として、『さらなるごみの減量化資源化の推進、安定的で確実な収集の確保、災害時の危機管理の観点から、燃やすごみについては本市職員が収集することにいたしてまいります。』との市長答弁を引き出し、家庭ごみの収集をそれまでの行政区委託から品目別の委託に変更し、『燃やすごみ』の収集は直営に戻すことを市当局に判断させてきました。
東日本大震災における横浜市の取り組みと、「新たな防災対策の策定」に向けた取り組みについて


ゴミ収集の直営は、「行政が市民に対して果たすべきセーフティー・ネット」だと言うのですが、この論理を理解できる市民がどれだけいるでしょうか。

先日、古賀茂明氏がテレビ番組で、野党再編について、改革はするけど戦争はしないという野党が出て来なければ、真に自公体制と対決することはできない、というような発言をしていましたが、でも、その前に改革の中身も問題なのではないかと思います。

私たちが本来求めていたのは、自由に解雇できる改革や残業手当を廃止する改革や派遣の期限をなくす改革や法人税率を引き下げる改革や混合診療を認める改革などではなく、行政をスリムにする(国家を食い物にする構造にメスを入れる)改革だったはずです。いつの間にか改革の中身が大きく変質しているのです。実際に、安部政権になって”公務員改革”は後退して有名無実化しているのです。

行政サービスの民間委託を主張することは、自治労が言うように、自治体労働者を攻撃する保守反動なのか。安部政権の手先なのか。たしかに、行政サービスの民間委託と市場原理主義は微妙に近接しており、その見極めも必要でしょう。ただ一方で、そういうこけおどしの(平和と民主主義を偽装した)”左翼的言辞”には、眉に唾して聞く必要があるように思います。

かつて自治労は、裏金・不正経理・脱税・ヤミ専従(給与の二重取り)などが発覚して批判を浴び、「不祥事のデパート」と呼ばれたことがありました。

 当時、銀座のクラブで「自治労だ」と聞くと、ホステスたちが群がってきたという。自治労の本部役員が、一晩で使うお金は十万円以上。飲んだ翌日は、昼頃に市ヶ谷の本部に出てばいい。ホステスを愛人にしていた役員もいた。(略)
 それぞれの(引用者:傘下の組合の)支払う組合費から、本部に集まるの年間百億円ほど。そのうち十億円が遊興に使われていた。それを可能にしていたのが、十六もあった裏口座だ。
(深笛義也著『労働貴族』・鹿砦社)


その背景にあるのが、「当局と組合が一体となって作り上げている公務員天国」(『労働貴族』)です。深笛氏は、「自治労に『弱者の見方』というイメージがあったのは、はるかに遠い、昔のことである」と書いていました。

深笛氏によれば、「組合から嫌われている職員は出世できない」のだそうです。労使交渉で、組合がその職員を吊るし上げるのは、目に見えているから」です。深笛氏は、「組合は、異分子を排除するフィルターになっている」と言います。

(略)縁故採用も多いことから、県庁・市役所職員は地元の名士、大地主、神社の神主なども多い。彼らは、役所では労働者の顔をして、自分たちは弱者との外面を作って見せている。だが、退職すると地元の自民党議員の後援会幹部になっていたりする。
 平均年収は七〇〇万円、退職金は二五〇〇万~三〇〇〇万、退職後は月額二五万円ある共済年金、というのが地方公務員の得られる恩恵だ。
 一方、非正規職員の平均賃金は、時給で九五〇円ほど、フルタイムで働いても年収が二〇〇万円を下回る。その差は歴然としている。
(同上)


こういった批判に対して、組合は鄧小平の「先豊論」のような反論をするのが常です。それは、旧総評の「弱者救済」「国民春闘」路線の頃から変わっていません。そのため、給与の問題をとりあげると、逆に妬みだとか嫉みだとか言われるのがオチです。

私は、公務員を批判することは新自由主義に手を貸すことだ、保守反動の策動(分断工作)に乗せられているのだという主張には、論理のすり替えがあるような気がしてなりません。何度も言いますが、もう右も左も「終わった」のです。その結果、左右が同工異曲のような状況さえ生まれているのです。既得権者の詭弁にまどわされることなく、もう一度改革の中身が問い直されるべきではないでしょうか。

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ハシズム
2014.06.10 Tue l 社会・時事 l top ▲
映画「アナと雪の女王」の日本語吹き替え版で、ヒロインのエルサを演じる松たか子が作中で歌う「Let It Go」の歌唱力が「すごい」と話題になっているようですが、昔からの松たか子ファンとしては、「してやったり」という思いとともに、やや戸惑う気持があることも事実です。

以前、ミュージカル女優の卵の女の子に、松たか子が好きだと言ったら、彼女は「お父さんは声が通らなくてダメだけど、松たか子は声もよく通るし、歌唱力も演技力もお父さんより全然上だよ」と言ってました。ミュージカル関係者の間では、松たか子の才能は前から定評があったのです。

また、旧知の会社が原宿で経営していた居酒屋があり、その店は業界関係者がよく集まる店として有名だったのですが、私も一度だけ松たか子が来ているのに遭遇したことがありました。ちょうどその頃、週刊誌に某スタイリストとのロマンスの記事が出たことがありましたが、その店には件のスタイリストもよく来ていましたので、そういった関係で噂が出たのかもしれません。

スタイリストをよく知る業界関係者の知り合いなどは、「いくらなんでもそれはないだろう」「もしそれがホントなら松たか子にはがっかりだな」と言ってました。のちに松たか子がギタリストの佐橋佳幸氏と結婚したと聞いて、私も含めて周辺の松たか子ファンはみんな、ホッと胸をなでおろしたものです。

私は、「明日、春が来たら」にしても、「桜の雨、いつか」にしても、「コイシイヒト」にしても、どっちかと言えば、素朴で素人っぽい歌い方がいいなと思っていましたので、「歌唱力がすごい」とか「海外で絶賛されている」なんて書き込みを目にすると、どうしても戸惑う気持が先に立つのです。私は、その素朴で素人っぽい歌い方に、どこかなつかしさのようなものを感じていました。いつまでも心の片隅に残っている青春の甘酸っぱさのようなものを感じていたのです。

そんな個人的な感覚からすると、「Let It Go」の松たか子はちょっと違います。もし「海外で絶賛されている」(と言っても、You Tubeの書き込みで絶賛されているとかいった話のようですが)から「すごいのだ」と言うのなら、それはやはりニッポン人お得意の「自演乙」と言わざるをえません。

私は、「Let It Go」よりも、やはり、「明日、春が来たら」や「桜の雨、いつか」や「コイシイヒト」の松たか子のほうが好きです。
2014.06.09 Mon l 芸能 l top ▲
角川書店とドワンゴの経営統合について、WEBRONZAに掲載されていた倉沢鉄也氏の「ネット業界の苦しい未来像が垣間見える『角ンゴ』」という記事が、このニュースの核心を衝いているように思いました。

倉沢氏は、「両社の組み合わせの妙は期待が持てる」という見方に「大筋賛成」しつつも、一方で、「今さら角川と組まねばならないほどドワンゴは苦しいのか」「オールドメディアの無形の資産に頼らねばならないほど、ネット業界の先行きは苦しいのか」という疑問を提示するのでした。

 すでにインターネットのメディアコンテンツビジネスとしてできることは、たぶん5年前くらいに全部出揃ってしまい、シンクタンクの目線で見ればそのラインナップは2000年を少し過ぎたあたりでもうほぼ全部わかってしまった。テキストから動画までを含めたソーシャルメディアの趨勢も、広告収入に頼らないと収益規模を維持できなくなることも、広告の呼び水になるコンテンツを自社企画する資質を失っていくことも、そのコンテンツを自社企画できるオールドメディアがリッチな職業でなくなりつつも持ちこたえてしまうであろうことも、すべて想定されたことの範囲内だ。


そして、つぎのようにつづけるのでした。

 この2、3年起きていることは単に競合プレイヤーの盛衰(グリー、モバゲー、ミクシィもその前はこの世の春を謳歌していた)であり、日本のネットビジネスの構造がじりじりと世界三大プラットフォーム(Google、Apple、Amazon)に収れんされていく中で、楽天やヤフージャパンが日本風土に合わせた対抗策を試行錯誤中、今回の「角ンゴ」もその一つと見る。


たしかに、私たちの目にも、ネット事業が企画面で「見た目にも苦しさを帯びてきている」のはよくわかります。

グリーは5月からコメ兵と組んでブランド品の買い取りビジネスをはじめたのだそうです。この事業は、ヤフーも既に先行してはじめています。

折しも今日、DeNAも、東京大学医科学研究所の協力を得て遺伝子検査サービスをはじめるというニュース(DeNAが遺伝子検査サービスに参入 東大医科研が協力)がありました。この遺伝子検査サービスも、既に先行する会社がいくつもあり、私も郵便局の窓口に、郵便による申し込み用紙が置かれているのを見たことがあります。

ドワンゴも事情は同じなのでしょう。ニコ動の三大コンテンツである「アニメ・政治・将棋だけでは近未来像が立ち行かなくなっている中」で、今回の統合は「一発逆転の策」ではないかという倉沢氏の見方には頷かざるをえません。

倉沢氏は、ドワンゴの川上氏のような「創業経営者」の多くは、「長期的投資に関心の薄い人たち」だと書いていましたが、もとより浮き沈みの激しいネット事業自体が、「長期的投資」に耐え得るようなビジネスではないのです。

もちろん、今回の統合もネット優位ではありません。ネットがリアルを呑み込んだのでは決してないのです。倉沢氏が言うように、ドワンゴの経営陣が新会社の経営の主導権を握ることもありえないでしょう。

ネットは所詮ネットなのです。グリーのブランド品の買い取りも、ヤフーがブックオフと組んでおこなう古本や中古DVDなどのヤフオク!での販売も、もちろんDeNAの遺伝子検査サービスも、あくまでリアルが前提で成り立つビジネスであり、言うなればリアルビジネスの「下請け」でしかありません。倉沢氏が言うように、ネットは「リアルビジネスのアウトレット先状態をかき集めないとやっていけなくなっている」のが実情なのでしょう。

極端なことを言えば、ネット(ビジネス)はものを売る道具・手段でしかないのです。夜店の屋台や移動販売の車のようなものです。それを商売を知らない人たちが、「すごい!」「すごい!」と言っているだけです。それは、屋台や移動販売車を「すごい!」「すごい!」と言っているのと同じです。

さらに話を飛躍させれば(暴論を承知で言えば)、私は、安倍政権がすすめる「集団的自衛権の行使」も、リアルとネットの関係という観点から考えれば、むしろいいことかもしれないと思ったりもするのです。「集団的自衛権の行使」というのは、要するに戦闘行為も厭わないということですから、当然死傷者も出てきます。自衛隊に入隊する若者も減るでしょう。そうなれば、自民党の石破幹事長も口を滑らせていましたが、徴兵制の導入も俎上にのぼってくるはずです。

これほどリアルなことがあるでしょうか。ネット住人たちがどうしようもないのは、自分たちが戦場に赴くことはないだろうとタカを括り、汚れ仕事は自衛隊にさせればいいというような卑怯な考えで、ネットのなかから鬼畜中韓を叫び、戦争を煽っていることです。すき家はブラックだと言いながら、じゃあストをやろうとネットで呼びかけても、実際にストに立ちあがったのは全国で一人だけだったという笑えない現実も同じです。

徴兵制が導入されれば、ヘタレなネット住人たちも否応なく”リアルな現実”と直面しなければならないのです。「承認」なんて悠長なものではなく、文字通り軍隊の(戦争の)「当事者」にならざるをえないのです。赤紙一枚で自分と国家が直結しているという容赦ない”現実”を知るはずです。ネット住人たちは、そこで初めてリアルな身体としての”自分”とも向き合うことができるはずです。

角川とドワンゴの統合は、「ネットとリアルの融合」でずらありません。もうネットを「すごい!」「すごい!」と言うような時代ではないのです。ネット業界の趨勢から言えば、今回の統合も当然の流れとも言えるのです。ドワンゴもまた、”リアルな現実”に身を晒され、ネット企業として正念場を迎えることになるのは間違いないでしょう。
2014.06.03 Tue l ネット・メディア l top ▲