昨年、2ちゃんねるで個人情報が流出した際、ライトノベルの某作家が2ちゃんねるのなかで同業者や出版社を誹謗中傷する書き込みをしていたことが判明し、批判を浴びて謝罪しましたが、彼もまたある意味でネットに人生を支配されていたと言えなくもありません。

ネットというのは狭いマイナーな世界です。いくら同業者を誹謗中傷しようとも、社会的な影響力なんてまるでなく、ただの自己満足にすぎません。ところがネットにのめり込み、人生を支配されるようになると、そういった客観的な視点を失って、ネットの評判に一喜一憂するようになるのです。でも、それってたかだか数十人の評判にすぎないのです。しかも多くは遊び半分の”釣り”かもしれないのです。

ネットにのめり込むとまわりが見えなくなり、それこそ頭隠して尻隠さずみたいな醜態を演じることにもなりかねません。2ちゃんねるにのめり込むあまり、自分の個人情報が売られて、書き込みが特定されるなんて夢にも思わなかったのでしょう。2ちゃんねるがログを売っているというのは、10年以上前から指摘されていました。如何にもネットに習熟しているように見えて、そういう知識に疎いのが彼らの特徴です。

もちろん、それは一般の人たちも例外ではありません。「ネットこそ真実」「ネットがすべて」の人間は別にめずらしくありません。作家やライターなど、メディアで仕事をしている人間ですらそうなのですから、メディアにもともと縁のない人間たちは、なおさらでしょう。ネトウヨなどが典型ですが、彼らは、検証するデータや知識をもってないので、初めて触れたネットの情報に感動して舞上がり「真実を知った」つもりになるのです。そして、ネットに人生を支配されるのです。

ネットの情報は玉石混淆だと言いますが、それを見分けるには、それこそ人一倍、メディアの情報に通じ専門的な知識がないと無理でしょう。「ネットがすべて」「ネットこそ真実」の人間たちの特徴は、自分たちにわからないもの、理解できないものは、「真実」ではないと否定するその反知性主義にありますが、もとより彼らは無知蒙昧であるがゆえに反知性主義にならざるをえないのです。

芸能界が魑魅魍魎と言っても、魑魅魍魎だと言っている人間たちが魑魅魍魎の場合だってあるのです。もしかしたら、魑魅魍魎と言っている人間たちが魑魅魍魎を利用しているのかもしれないのです。ライトノベルの作家の例にも見られるように、ときにネットがメディア内のトラブルや思惑に利用されることもあるのです。そして、情報操作が別の情報操作に使われる場合だってあるのです。ネットには歯止めがないので、それはいくらでも可能です。

ネット・リテラシーということばがありますが、そもそもなんでもありの世界にリテラシーなんて意味があるのかと思ったりもします。たしかにネットは便利なツールです。でも、それはあくまで「ツール」にすぎないのです。いつの間にか、その「ツール」が生活そのものになり、人生を支配され、生き方をも縛ってしまう。それは、どう考えても本末転倒です。Googleや梅田望夫氏(なつかしい!) が言うように、ネットは必ずしも人を幸せにするとは限らないのです。パソコンを閉じて街に出よう(寺山修司の「書を捨てて街に出よう」のもじりですが)ではないですが、ときに一歩下がったところから自分とネットとの関係を眺めることも必要ではないでしょうか。

関連記事:
ツイッター賛美論
2014.07.29 Tue l ネット・メディア l top ▲
ネットには”嫌儲”と言われる考え方があるのだそうです。つまり、お金のためというのを嫌う考え方です。たしかに、ネットを見ると、ヤフーにしても楽天にしてもドワンゴにしても2ちゃんねるにしても、身も蓋もないような拝金主義が目に付きます。もっとも、ネットの場合、ビジネスモデルが広告か課金か限られたものしかないので、どうしてもそのカラクリが目に見えてしまうという側面もあるのでしょう。

私自身のなかにも”嫌儲”のような考えがあります。特にブログで、アフィリ(アフィリエイト)を貼っていたり、有料にしたりしていると、途端に興ざめするのです。自分のブログでは広告が表示されるのも嫌なので、逆にお金を出して広告を非表示にしているくらいです。

ブログを書く場合、アフィリを貼ったり有料にしたりすれば、それを意識しないで書くことはできないでしょう。どうしてわざわざそんな不自由なことをしてブログを書かねばならないのかと思います。私たちは、依頼され原稿料をもらってブログを書いているわけではないのです。だから、完全とは言えないけど、ある程度は自由に自分の意見を書くことができるのです。もちろん、ブログを公表する上では、さまざまな制約があることはたしかでしょう。でも、そのなかでもできる限り自由に自分を表現したいと思って書いているはずです。

たかが数千円、数万円のお金のために、不自由な思いをしてブログを書く必要があるのかと思います。だったら、ほかで商売をすればいいのです。よくサーバー代くらいは稼ぎたいからという声を聞きますが、そんなセコいことを考えずにサーバー代くらい自分で出せよと言いたくなります。金額の多寡に関わらずお金がからむと、別の要素が入ってくるのは否定できないでしょう。

そういった不自由なブログは、まず文体にその不自由さが表われるのです。それは、新聞や週刊誌などと同じような「制度化された文体」です。表現の仕方に暗黙のルールがあり、それを無視することができなくなるのです。

たとえば、ブログで本や映画について書く場合、ネタばれはルール違反だという意見などもそうでしょう。ブログで書いているのは書評や映画評ではないのです。まして、どこかの評論家がお金をもらって書くような解説でもありません。ただの感想文です。なのにどうしてそこにネタばれはルール違反というような、業界の(?)ルールを押し付けてくるのか。それに、ブログの場合、どこまでがネタばれでどこまでがネタばれでないかなんていちいち意識して書いている人間なんていないでしょう。しかし、アフィリや有料ブログだとこうはいかないはずです。いちいち意識して書かなければならないのです。「制度化された文体」にならざるをえないのです。

本の感想を書くと、なかには著者が自分のTwitterなどに、「こんなにネットで評判になっています」とでも言いたげに、勝手にブログを紹介してコメントを付けている場合があります。しかも、紹介しているブログの多くはAmazonのアフィリのために書いたような、実際に読んでいるのかどうかもわからないようなブログです。そんなブログと一緒に並べられ(ミソもクソも一緒にされ)、その上、ネタばれだなんだと言われると、釈然としない気持にならざるをえないのです。

もっとも、考えてみれば、ネタばれというのは、実際に読んでいる証拠と言えなくもないのです。Amazonの広告文の文句をそのままコピペしたようなブログに比べれば、ネタばれのほうがはるかに誠実で真実味があると言えるのかもしれません。

ネット企業の拝金主義もブログのアフィリも著者の「自演乙」の宣伝も、根っこは同じで、要するに「セコい」ということでしょう。”嫌儲”は、ネットに蔓延するそういった「セコさ」に対する反発なのではないでしょうか。ネットにおいては、「セコさ」は自由の反対語なのです。もともとネットには、オープンソースや無料経済の思想がありましたが、ネットがリアル社会化するにつれ、そういったネットが本来もっていた自由な考え方が片隅に追いやられてしまったのは事実でしょう。”嫌儲”は、そんなネットのあり様にアンチテーゼを提示しているとも言えるのです。

関連記事:
ブログの文体
2014.07.27 Sun l ネット・メディア l top ▲
週刊ダイヤモンド7月26日号

アベ経済マフィア


『週刊ダイヤモンド』7/26号の特集に、衝撃的なタイトルが付けられていました。曰く、「相場を動かすアベ経済マフィア全人脈・全内幕」。さらに、表紙のイラストも、タイトルに優るとも劣らぬくらい衝撃的でした。

日本の株式市場は、「3A+1S」の大物政治家に左右されているのだそうです。3Aとは安倍晋三(総理大臣)・麻生太郎(副総理兼財務相)・甘利明(経済再生担当相)で、1Aとは菅義偉(官房長官)です。

この4人とそれに連なる40人のキーマン(ブレーン)によって、この国の経済政策がすすめられているのだとか。これを『週刊ダイヤモンド』は、「経済マフィア」と呼んでいるのでした。

「政権の生命線は株価」というのが、彼らの合言葉だそうです。それが安倍内閣が「株価連動内閣」とヤユされるゆえんなのです。たしかに、アベノミクスの成長戦略なるものも、すべては株価のためのようにしか思えません。

そして、「株価を意識するとなると、日本の場合は必然的に外国人対策が必須となる」のです。「なぜなら、日本の株式市場は売買シェアの6割超を外国人投資家に握られている」からです。日本の株式市場は、「もはや外国人の存在なしでは立ち行かない市場」なのです。たとえば、テレビ東京の経済ニュースのコメンテーターたちがいつも口にするのは、国民生活がどうあるかということではなく、「(政府の経済政策が)外国人投資家にどう評価されているか?」ということですが、それは安倍政権も同じで、彼らの眼中にあるのは、外国人投資家の動向と株価だけなのです。

すべては株価のため。安倍政権による外国人投資家向けの大判振る舞いは、さらにエスカレートするばかりで、あろうことか年金積立金にまで触手を延ばそうとしているのです。それが法人税減税と並ぶ新成長戦略の目玉と言われるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)改革です。改革の狙いは、現行12%に抑えられている日本株の運用を20%まで拡大できるようにすることです。GPIFが管理する積立金は126兆円、1%買い増しすれば1兆円が株式市場に流れる計算になるそうです。これが究極の株価対策と言われるゆえんです。

言うまでもなく、年金の積立金というのは、将来の年金給付に充てるもので、それを政権維持の株価対策のために賭場につぎ込むというのは、あまりにもリスクが大きく「掟破り」と言わざるをえません。

株価と連動した高い支持率を背景に、戦前型の富国強兵政治に回帰する安倍政権。グローバル資本主義(=アングロサクソンの強欲資本主義)に拝跪しながら、一方で国内向けにアナクロな国粋主義を押し付ける安倍政権。まさに「売国」と「愛国」が同居した支離滅裂な政権です。

ときの総理大臣が「成長戦略」なるアドバルーンをぶち上げると、マスコミはこぞってアベノミクスの応援団と化し、あたかも景気がよくなったかのような記事を書き立てる。ときの総理大臣がみずからの野心のために嫌中嫌韓の空気をふりまくと、マスコミはこぞって”鬼畜中韓”の記事を書き立て、ヘイトなナショナリズムを煽る。その先に、特定秘密保護法や解釈改憲など、経済政策だけでなく、政治そのものがマフィア化し、夜郎自大になっている現実があるのです。
2014.07.26 Sat l 社会・時事 l top ▲
岡山県倉敷市で発生した女児監禁事件の全容があきらかになるにつれ、新潟県の柏崎市で拉致した少女を9年2ヶ月にわたって監禁したあの事件のおぞましさが脳裏によみがえってきたのは、私だけではないでしょう。

捜査員に対して、犯人は、女児のことを「私の妻です」と言ったとか。犯行の動機についても、「(女児を)自分好みに育てたかった」と供述しているそうです。さらに、昨年12月には、1千万円弱の費用をかけてリフォームをおこない防音の部屋を作っていることから、「長期監禁を計画」していたのではないかと言われています。

朝日新聞デジタル
倉敷女児「自分好みに育てたかった」 長期監禁を計画か

それらの報道を見るに、犯人が新潟の事件に影響を受けているのは間違いないでしょう。

オタクの事件と言えば、オウムの一連の事件や宮崎勤事件を思い起こしますが、オタクが商品として消費されるなかで、いつの間にか私たちはオタクがもっているおぞましさ(負の側面)を忘れていたのではないか。

捜査員が踏み込んだとき、布団に横になってアニメのビデオを見ていた女児が「何、何」と驚いた様子を見せていたという新聞記事がありましたが、それについてネットでは、「(女児は)リラックスしていた」「犯人は優しかったのではないか」などという書き込みで盛り上がっているそうです。それに対して、小林よしのり氏はブログで、ネットのオタクたちは「あまりにも想像力が貧困で呆れた」と書いていましたが、案の定、その後、拉致されたあとも脅されて怖かったという女児の証言が伝えられました。

新潟の事件の際も、どうして逃げなかったのか?という話がありましたが、監禁され脅かされれば抵抗する気力を失い為す術もない心理に陥るのは、誰でも考えればわかるはずです。まして被害者はまだ年端もいかない女の子なのです。私は、ネットのオタクたちの解釈は、想像力の貧困というより、彼らの”ゆがんだ願望”のように思えてなりません。それがおぞましさを抱くゆえんです。

私は、この事件のあと、1989年(新潟の事件の前年!)に出版された『Mの世代 ぼくらとミヤザキ君』(太田出版)を読みかえしてみました。これは言うまでもなく、宮崎勤事件を扱った本ですが、それを読むにつけ、ペドフィリア(小児性愛)が新潟の事件をきっかけに、大きく変質していることを痛感させられました。

『Mの世代』のなかの大塚英志氏と中森明夫氏の対談で、M君の犯罪を招いた背景には、家族の解体があり、「もう家族には戻れない」状況があると言ってました。中森氏は、「捨て子の倫理みたいなものが問われるんじゃないか」、どんなに寂しくても「捨て子であることに耐えることが大事ではないか」と言っていましたが、新潟の事件ではそういう「倫理(=エチカ)」もほとんど意味を失くしてしまったかのようです。

小林よしのり氏が言うように、犯人のような人間はネットや秋葉原の「少女萌えキャラ」の周辺にいくらでもいるというのはそのとおりでしょう。そして、彼らをとりまく状況が新潟の事件以降大きく変質していることを考えれば、彼らの妄想のなかにも犯人と通底するものがあると考えても不思議ではないでしょう。

犯人は49才のアニオタだったようですが、言うまでもなく彼は、フリーター第一世代であり、アニメに影響を受けた先行世代でもあるのです。本来なら充分分別をわきまえてもいい年齢ですが、その想像力の貧困や未熟な精神は、むしろ年齢を重ねれば重ねるほど、希薄な社会性によってより尖鋭化されるという一面をもっていると言っていいのかもしれません。もちろん、妄想を実行に移すには千里の径庭を越えなければならず、決して短絡的にできるような犯罪でないことはたしかでしょう。しかし、実行に移すまでにはいかないにしても、その手前でとどまっている”危ない大人たち”は、私たちの身近にもいくらでもいるのです。三面記事が伝える「女の子が声をかけられた」「女の子にいたずら」などもそうでしょう。それは、女児だけでなく男児においても然りです。

秋葉原の事情に詳しい人の話では、アニメが好きだとか言って秋葉原を訪れる外国人観光客の多くは、実は児童ポルノが目当てなのだそうです。Google に見られるように、欧米では児童ポルノはきびしく規制されています。その点、日本は児童ポルノの規制がゆるいので、海外では手に入りにくいその手のグッズが簡単に手に入るからです。それが政府が旗を振る「クールジャパン」のひとつの側面なのです。

オタクが市民権を得たというのは、AKB48に見られるように、オタクが資本の論理によって商業化され金のなる木になったからです。そうやって負の側面が脱色され、商品(消費者)としてもてはやされているからです。でも、一方で、AKB48のブームの先に児童ポルノの問題があることを忘れてはならないでしょう。

私たちは、児童ポルノやロリコンの問題を、おためごかしの建前論ではなく、身近な問題として、もっと深刻に考える必要があるのではないでしょうか。反動だとか短絡志向だとか批判されるのを承知で言えば、それこそ全体主義でもって全体主義を制すような考え方も必要ではないかと思ったりもするのです。

関連記事:
きゃりーぱみゅぱみゅに勝手な想像
峯岸みなみの丸刈り謝罪
2014.07.24 Thu l 社会・時事 l top ▲
芸能人はなぜ干されるのか?


『芸能人はなぜ干されるのか?』(星野陽平著・鹿砦社)を読みました。書名は軽いですが、本自体は脱稿まで5年を要したという労作です。ただ、多くは直接取材したものではなく、過去の記事や関連する文献を当たって、それをまとめたものです。そのため、本書で引用されている『噂の真相』や竹中労や沖浦和光氏の本を読んできた人間には、今さらの感はぬぐえません。それに、資料のせいなのか、本書で紹介されている芸能人の事例が古いものが多く、私にはやや興ざめでした。

著者は、こう書きます。

 芸能資本の力の源泉は有名タレントを所有することにある。だが、タレントは「モノを言う商品」であり、放っておけば芸能資本の手から離れてしまう。それを防ぐために必要なのは、①「暴力による拘束」、②「市場の独占」、③「シンジケートの組成」の三つである。これは古今東西を問わず、同じ構造だ。


今の芸能界がバーニングと吉本興業とジャニーズ事務所に「支配」されているというのは、衆目の一致するところでしょう。それを可能にしているのが、音事協(日本音楽事業者協会)という「シンジケート」による「市場の独占」です。その結果、芸能プロダクションがテレビ番組の制作にまで関わり、「番組が局ではなく、芸能プロダクションを中心に動いている」ような状況まで招来しているのです。

芸能プロダクションというビジネスモデルは、日本と韓国の芸能界にしか存在しないと言われているそうです。もっとも、韓国の芸能プロダクショにしても、最大手のSMエンターテインメント(1995年法人登記)が「芸能ビジネスの手本とした」のは、2010年までSM社の主要株主でもあった日本のエイベックスだそうです。

韓国の芸能界については、東方神起の分裂騒動やKARAの引退騒動、あるいは性的接待による自殺事件など、スキャンダラスなニュースが日本でも話題になりましたが、「韓国芸能界の醜悪さは、日本の芸能界の映し鏡でもある」と著者は書いていました。「日本のマスコミは韓国の芸能界について語る時、その後進性を指摘することがある。だが、韓国に芸能ビジネスを教えたのは日本」なのです。

一方、アメリカの芸能界は、日本や韓国と違って、「タレント本人がエージェントやマネージャー、パブリシスト、アシスタント、弁護士などをそれぞれ雇うことになっている」そうです。しかも、エージェントは、反トラスト法(アメリカ版独占禁止法)やタレント・エージェンシー法という独自の法律によって、その活動がきびしく規制され、タレントの権利が手厚く保護されているのです。もちろん、そういったタレントを保護する体制ができた背景には、タレント(俳優)たちの組合による闘いの歴史があったからにほかなりません。

著者は、「芸能プロダクションにとってタレントは『所有物』だが、エージェントにとってのタレントは『お客様』である」と書いていましたが、それが日本の芸能界とアメリカの芸能界の根本的な違いなのでしょう。そして、その違いのなかに、ある日突然、芸能人がメディアから消える現象(芸能人はなぜ干されるのか?)の解答が示されているのだと思います。

 芸能プロダクションの経営は、タレントを独占的に抱え込むことによって成り立っている。タレントが自分の意志で勝手に移籍や独立をすることは絶対に許されない。そのために、タレントの引き抜き禁止、独立阻止の協定を結ぶ音事協という談合組織が設立された。


竹中労は、音事協の統一契約書について、「タレントはすべての自由を奪われ、義務だけを負わされる」「まことに恐るべき”奴隷契約”」だと批判していたそうですが、まさにそこにあるのはタレントは「商品」「所有物」という思想なのです。

このような日本の芸能界の”前近代性”は、日本の芸能文化の”特殊性”に根ざしているという見方もできるのかもしれません。それは、言うまでもなく、本書でも一章が割かれていた「芸能と差別」の問題です。

芸能者(人)は、律令制の身分制度のなかでは最下層の「巫(ふ)」に属する賤民とされていたそうです。そして、中世から、芸能は「神社や寺院や仏像の建立、修繕のための資金を募って信仰の道を説く『勧進興行』として発達した」のです。

安土桃山時代以降、寺社勢力が衰えていったのに伴い、芸能者は寺社を離れて、信仰とは関係のない娯楽としての興行をはじめたのでした。その際、興行する場所として選ばれたのが、広いスペースのある河原でした。しかし、河原は昔から死者の埋葬地に使われ「穢れ(ケガレ」の場所と考えれていました。そのため、芸能者も不浄の民とされ「河原乞食」として蔑まれてきたのです。

それは近代に入っても然りで、”芸能の街”と言われた東京の浅草や大阪の千日前が、かつて近くに刑場や火葬場や墓場があった「悪所」だったのは偶然ではないのです。

「普通のお嬢さまにはできない」芸能界のお仕事。そんなやくざなお仕事にテレビ局や芸能評論家と称する人間たちが寄生し、裏で支えているのです。著者はこれを「癒着」と書いていましたが、私には「共犯」のようにしか見えません。

90年代前半、WANDS、ZARD(坂井泉水)、DEEN、B'Z、大黒魔希、T‐BOLANといったアーチストをつぎつぎと送り出し、まさに時代をけん引するヒットメーカーだったビーイングの長戸大幸も、ある日突然、耳の病気を理由に芸能界から引退したのですが、実際はその背後に、音楽利権をめぐる暗躍があったのだそうです。

従来の芸能界の音楽利権のシステムに反旗を翻し目障りな存在であった長戸大幸は、坂井泉水のあとに交際したタレントとのトラブルを口実に「潰された」のだとか。これなども「怖い、怖い、芸能界」を物語るエピソードと言えるでしょう。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。たかが芸能界と言うなかれ。芸能記事を眉に唾して読むことも、大事なメディア・リテラシーと言えるのではないでしょうか。

関連記事:
「官邸にキタノ」
中村勘三郎さんの葬儀
酒井法子復帰と芸能界
テレビ局のカマトト
水道橋博士
魔性
2014.07.20 Sun l 芸能 l top ▲
漫画家で芸術家のろくでなし子氏が、自分の性器の3Dプリンタ用のデータをネットで配布したとして、「わいせつ電磁的記録頒布罪」の容疑で逮捕された事件について、北原みのり氏がブログに、「ろくでなし子さんの逮捕に思うこと」という文章をアップしていましたが、それを読むにつけ、あらためて「猥褻」とはなにかということを考えさせられました。

逮捕されて護送されるろくでなし子氏の映像がテレビのニュースで流れていましたが、ああやって事前にマスコミを待機させ、一罰百戒のみせしめにしているのでしょう。警察の狙いが、多くの人が指摘するように、模造刀や改造銃と同じように「猥褻物」における「3Dプリンタへの警告」であるのは間違いないでしょう。しかし、一方で、(警察の意図とは別に)ろくでなし子氏の逮捕によって、「猥褻」とはなにかという問題があらためて提起されたのも事実なのです。

私たちが知っている「猥褻」裁判と言えば、悪徳の栄え事件四畳半襖の下張事件愛のコリーダ事件などが有名ですが、なかでも悪徳の栄え事件と愛のコリーダ事件では、被告側は対照的な主張をしていました(四畳半襖の下張事件は、その中間に位置していたように思います)。

悪徳の栄え事件で主張されたのは、「猥褻」か「芸術」かという二項対立です。その主張の前提になっているのは、チャタレー事件で最高裁が定義した「猥褻」概念でした。言わば悪徳の栄え事件は、国家が定義する「猥褻」概念に対して修正主義的な主張がなされた裁判だったのです。

一方、愛のコリーダ事件では、「猥褻」か「芸術」かという二項対立は最初から存在しませんでした。被告側は、「猥褻」でなぜ悪い?、そもそも国家がなにが「猥褻」でなにが「猥褻」ではないなんて定義する資格があるのか?と主張したのでした。そこにあるのは、「猥褻」とはなにかという根源的(ラジカル)な問題提起でした。

自分自身のことを考えればよくわかりますが、「猥褻」というのは、環境や体験などに起因するきわめてパーソナルな欲情(性的感情)の問題です。もちろん、その背後には、歴史的社会的宗教的な「規範」によって形成された文化の問題も伏在しています。なにが「猥褻」かというのは、個人によっても社会によっても時代によっても違うのです。その意味では、悪徳の栄え事件のような「猥褻」か「芸術」かという二項対立は、不毛なものでしかありません。

北原氏は、今回の事件に対して寄せられた批判をつぎのように書いていました。

(略)今回なし子さんの作品が「猥褻」なのかどうか、逮捕は表現の自由を侵している! などという議論が起きています。そしてその点について、私に同じような種類の批判の声が届いています。北原みのりは児童ポルノ規制を容認しているのに、女性器の表現については肯定するのか? というような批判です。

 一月ほど前、週刊誌アエラでロリコンについての記事を書きました。現在の児童ポルノ規制がいかに抜け穴法で機能していないかについて。
 幼児の性器を象ったアダルトグッズが、幼女のイラストつきで「パパいれて」等という台詞と共にパッケージ化され一般流通している現実。小学低学年の女の子の水着姿の写真撮影イベントが、「ジュニアアイドル・イベント」として珍しくなく行われている現実。多くの国が例えアニメであっても幼児を利用した性表現を規制する中、私たちの社会はなぜこんなにもロリコンに寛容なのか。そのことについて議論するべきだ、という内容です。
 ロリコンに批判的な内容を書いたためでしょうか。ポルノ規制しろ! と書いたわけでもないのに、ろくでなし子さんの逮捕に伴い、私には「嘲笑」を含んだ批判が届きました。曰く、
「表現の自由を狭めて自らの首を絞めている」
「自分が嫌いなものは規制し、自分が好きなものを擁護しているだけ」
 要は、フェミニストは女性の立場にこだわり過ぎるあまり、表現の自由を規制する権力に荷担しているという事実に気がつけ! みたいな批判です。


こういった批判は、たしかに俗耳に入りやすい批判と言えるでしょう。私のなかにも、少なからず同じような見方がありました。しかし、北原氏は、この手の批判こそ男根主義(家父長主義)だと反論するのでした。

 断言しますけど、ロリコン表現を容認している世間と、女性器の猥褻化に荷担している世間って、一本の線でつながってるでしょ。っていうか、同じでしょ。私にとってはロリコン規制容認と、猥褻規制批判は、全く矛盾していません。また、もっと言えば、猥褻規制を表現の自由問題として議論するのもバカバカしいと思ってる。


なにが「猥褻」かなんて誰にも定義できない、なにが「公序良俗に反する」かなんて誰にも決められないのです。それは「猥褻」に限った話ではありません。なにが「幸せ」かなんて誰にも定義できないし誰にも決められないのです。それは自分のなかにある、自分で決める問題です。しかも、その”自分”も歴史的社会的な価値観や道徳観によって規定された”自分”でしかないのです。

むしろ北原氏が言わんとすることは、「猥褻」論議のなかに映し出されている女性を卑屈にするこの社会の理不尽さであり、卑屈になって生きていかざるをえない女性の理不尽な人生です。

女児の性器をかたどったアダルトグッズが何万個も売れている社会で、自分の性器をかたどったデータを渡すだけで犯罪になる。男性の性欲は某市長が「性風俗を利用しましょう」と大声で言えるくらいに「自然」のことで、性欲は女を利用して発散できることが大前提。女は「若いうちに産め」と性器の活用を求められ、一方で性について表現すると「ふしだら」と叩かれ、風俗で働くと「女は簡単に稼げていいな」などと貶められる。そして、こんなジェンダーの非対称性などは一部の一部だよ。それなのに、このようなことを一言でも言えば、「男も大変だ」「男こそ大変だ」「被害者ぶるな」「男を敵に回すのは得策ではない」などと言われたり、「フェミニストか?」と嘲笑されたり、「女と男はカラダが違う」などとムチャなこと言われて話にならないものだから、凸凹や不平等や理不尽さに対して、目をつむりながらも「嫌われない」「変だと思われない」「エキセントリックだと思われない」安全な道を信じて歩こうとする。私が知る限り、どんなに熱い怒りを抱えていても、男を刺激しないように過激さを抑え、丁寧に男を持ち上げながら、最も刺されにくい表現方法で、細心の注意を払いながら表現する女の表現者ってとても多いですよ。


ろくでなし子氏は、その対極にいた。ろくでなし子氏の作品は、そういった卑屈さを突破しようとする表現であった。だから「猥褻」であり「公序良俗に反する」として狙われ、みせしめにされたのではないでしょうか。

ろくでなし子氏の逮捕の根底にあるのは、男根主義という国家の(社会の)安寧と秩序の論理です。この社会が男中心の社会である限り、女性が女性の論理を貫こうとすれば(女が女であることを主張しようとすれば)、国家の(社会の)安寧と秩序の論理と対立せざるを得ないのです。

「殺せ!」とか「海に沈めろ!」とかいうような聞くに耐えないヘイト・スピーチが警察に守られて白昼堂々天下の公道でくり広げられているのに対して、ろくでなし子氏のような表現行為が「わいせつ頒布の罪」で摘発されみせしめにされる。この対比のなかに、私たちの社会の構造や国家の論理が示されていることを知る必要があるでしょう。

参考:
芸術家・ろくでなし子氏(五十嵐恵容疑者)の即時釈放
2014.07.15 Tue l 社会・時事 l top ▲
ワールドカップの準決勝、ブラジルVSドイツ戦には、文字通り目を覆いたくなりました。私は、眠い目をこすりながら見ていましたが、試合開始から20分で既に勝負の興味は失せてしまいました。茫然と立ちすくむブラジルの選手たちを見ながら、どうしてサッカーにコールドゲームがないんだろう?と思いました。

ブラジルは個人の能力に頼りすぎた、そのため、ネイマールとチアゴ・シウヴァを欠いたことで、ブラジルらしいサッカーができなかった、それが敗因だ、と言われていますが、でも、南米らしい個人技のサッカーこそサッカーの醍醐味です。それだけに、ブラジルの大敗は、4年に一度の俄かサッカーファンの私にもショックでした。

それにしても、ワールドカップを見るにつけ、日本や韓国などアジアの国とヨーロッパや南米の国のサッカーに対する考え方の違いが痛感されてなりません。

ブラジルと言えば、サッカー王国で、「サッカーは絶対!」というイメージがありますが、ワールドカップの前には開催に反対する大規模なストやデモがくり広げられたことは記憶にあたらしいところです。私たちはストやデモの映像を見て意外に思ったものですが、それはサッカーに対する考え方が日本や韓国のそれと違っているからではないでしょうか。

ヨーロッパや南米では、日本や韓国のように、サッカーにおける”熱狂”が国粋主義的なナショナリズムと必ずしも結びついているわけではないのです。ヨーロッパは言わずもがなですが、南米も多くの国は移民による多民族国家ですし、それに二重国籍を認めている国も多いので、いくら国旗を掲げ国名を連呼していても、そこにあるのは日本や韓国のようなナショナリズムとは質的に違うものです。

特に南米では、サッカーは民衆のエネルギーを代弁するスポーツになっていると言えます。4年前のワールドカップのときも書きましたが、マラドーナがどうして南米の下層の民衆から熱狂的に支持されているのか、その理由を考えればよくわかります。

ブラジルが大敗した際、ダビド・ルイスは、涙ながらにこう言ったそうです。

「みんなが笑っているところが見たかった。大切な試合だということはチームの誰もが分かっていた。少なくともサッカーでは、ブラジルのみんなを幸せにしたかった」
Yahoo!ニュース
涙のダビド・ルイス、ブラジル大敗で「国民に謝る」


また、会場近くに住む医師も、こう呟いたそうです。

「言葉もない。ブラジルは楽しみが少ない国で、サッカーが数少ない楽しみなのに……」。
朝日新聞デジタル
ブラジルぼうぜん「王国の恥」 ファン同士で殴り合いも


こういったことばに、ブラジルでのサッカーの存在がよく示されているように思います。

南米のサッカーには、集団や統制(国家や民族)を一義的に考える「専制的」なアジアのサッカーからは決して生まれない自由なスタイルがあるのです。同じ”熱狂”でも、国粋主義的なそれとは違う”熱狂”があるのです。言うなれば、サッカーに国家や民族を投影する人たちと、サッカーに自分の人生を投影する人たちの違いと言えば、そう言えるのかもしれません。

サッカーは貧しい国のスポーツだと言った人がいましたが、それは言い得て妙で、貧しい小国が金持ちの大国をコテンパに打ちのめすというのは、サッカーならではです。親に車で送り迎えしてもらって練習場に通ってくるような日本の子どもが、マッチ売りの少女のように貧困から抜け出すことを夢見みながら、破れたシューズでボールを蹴っている南米の子どもたちに勝つわけがないと言った人がいましたが、そこにサッカーというスポーツの魅力があるのではないでしょうか。

その原点にあるのが、南米流の自由なスタイルのサッカーなのだと思います。だからこそ、ブラジルの大敗は残念でなりませんでした。

関連記事:
マラドーナ
2014.07.09 Wed l 社会・時事 l top ▲
サムライブルー


ワールドカップは、ベスト8の戦いに入っていますが、日本では既にザッケローニがイタリアに帰国して、次の監督もほぼ決定というような報道がなされています。でも、これでホントにいいのか?と思うのは、私だけではないでしょう。

今朝のブラジルVSコロンビア戦を観てしみじみ思ったのは、日本代表との途方もない力の差です。たとえば、ネイマールとロドリゲスはともに22才ですが、日本サッカーの次の時代を担うと言われている柿谷・清武・大迫の24才トリオと比べても、その差は歴然でしょう。

しかし、日本の24才トリオは、国内ではスターです。セルジオ越後氏が言うように、代表戦は「コンサート会場のような雰囲気」になり、黄色い歓声に包まれるのでした。試合に負けても渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるようなイタいサッカーファンたちを生み出したのは、日本サッカー協会とそれにぶら下がるマスメディでしょう。

1勝もあげることもなく帰国した日本代表を迎えたのは、「力をもらった」「勇気をもらった」「感動をありがとう」というような、大震災以後常套句となった意味不明の感嘆詞と、あたたかい1千人のサッカーファンたちでした。それが「ひとつになろう! 日本」を象徴する光景なのでしょう。

一方、同じように1勝もあげることなく帰国した韓国代表を迎えたのは、「韓国サッカーは死んだ」という横断幕とアメ玉の洗礼でした。

これは、常に世界基準を意識せざるをえない彼の国と、「パラダイス鎖国」のなかでガラパゴスに生きることが可能な「自演乙」の国の違いなのではないでしょうか。もちろん、これはサッカーに限った話ではありません。政治も経済も同じです。

それにしても、柿谷や清武や大迫のような選手が、どうしてヨーロッパのクラブに高額な契約金で招聘されるのか。素人の私には疑問でした。他国の選手と比べると、買い被られているようにしか思えないのです。それで、その疑問をサッカーに詳しい知人にぶつけてみました。

「お金ですよ」
「お金?」
「そう、スポンサーが付くからですよ」
「スポンサー?」
「彼らが加入することによって、スカパー!のような衛星放送などが高額な放映料を払うからです」
「日本向けの客寄せパンダ?」
「そうです。サッカービジネスにとって日本は美味しい市場なのです。放映料だけでなく、選手と一緒にいろんなスポンサーも付いてくるので、充分元は取れるのです」

サッカーが巨額なビジネスに動かされているというのは、ワールドカップを見るまでもありません。セルジオ越後氏が言う「(日本代表は)興行的な親善試合ばかりが多い」というのも同じ理由なのでしょう。

私のような素人が見ても、サッカー協会に巣食う獅子身中の虫をなんとかしない限り、いくら監督を交代させても同じではないかと思うのですが、そういった視点から日本サッカーの問題点を指摘するメディアはほとんどありません。なぜなら、メディアもまた、”サッカームラ”の一員だからです。サッカー協会や選手たちと”お仲間”だからです。勝村某や矢部某や加藤某などサッカー好きな芸能人が、Jリーグ関係者とくだらないおしゃべりをするだけのサッカー番組なども然りです。

サッカーに見られるのも、日本的な「自演乙」の光景と言うべきでしょう。
2014.07.05 Sat l 社会・時事 l top ▲
昨日、都内の某病院に健康診断に行ったのですが、待合室で順番を待つ間、その病院が発行している「会報」があったので、それを手にして読んでいたら、なんとそのなかに「糖質制限ダイエットのすすめ」という記事がありました。執筆者は、その病院に勤務している内科医でした。もちろん、内容は夏目医師の『炭水化物が人類を滅ぼす』とほぼ同じでした。

看護師など病院関係者で糖質制限ダイエットを実践している人は多いと聞きますが、なんだかお墨付きを与えられた気がして、”ドヤ顔”で健康診断を受けることができました。

その記事でも、”カロリー神話”からの脱却がさかんに強調されていました。問題は、カロリーではなく糖質だと。また、記事には、糖質には麻薬と同じような中毒性があり、「50代以降の人たちで、白米を食べなければ食事をした気がしないという人は、間違いなく糖質中毒だ」と書かれていました。たしかに、私も糖質制限ダイエットをはじめてから、「糖質中毒」を実感しました。ただ、糖質制限ダイエットは空腹感とは無縁なので、「糖質中毒」もわりと簡単に乗り越えられます。

検査の結果は後日届きますが、今日判明したなかで、ダイエットの効果が見られた点がひとつありました。血圧が下がったことです。と言っても、私は、高血圧ではなく、ただ健康診断のときに、いきなり血圧をはかると140とか表示することがあり、そのたびに「10回深呼吸をしてください」と言われて、深呼吸をしてはかり直していたのです。それでも120くらいはありました。ところが、今日はいきなりはかっても上が107で下が65でした。別に深呼吸をしなくてもその数字だったのです。

一方で、気になる点もありました。採血の際、腕の血管が浮いてこないので、しばらく水を飲んで時間を置いて、再び採血に臨んだのですが、その際、アルコール消毒した部分が赤くかぶれいることに気付いたのでした。看護師さんから、「今までかぶれたことはありましたか?」と訊かれたので、「いえ、初めてです」と言ったら、「どうしてでしょうね?」と首をひねっていました。それで、看護師さんが佐々木希のようなきれいな娘(こ)だったので、「おそらくアナタのようなきれいな人から触られたので、皮膚が赤面しているんですよ」と言ったら、「そんなことを言われたら手元がくるいますよ」と言ってホントにマスクの下で赤面していました。

ちなみに、半年前の健康診断のときより、ウエストは4センチ減、体重は10.5キロ減でした。
2014.07.04 Fri l 健康・ダイエット l top ▲
憲法9条の解釈を根本から変える集団的自衛権の行使容認の閣議決定は、「戦後の安全保障政策の大転換」「専守防衛からの転換」と言われていますが、それもわずか13時間の密室での与党協議によって決定されたのです。このやり方に対して、「クーデターだ」という声もありますが、あながちオーバーだとは言えないでしょう。

今回の”解釈改憲”については、憲法学者の小林節慶応大名誉教授のつぎのことばが、正鵠を射ているように思いました。小林教授自身は改憲論者でもあるのですが、安倍政権の”解釈改憲”は、日本の憲法がどうのこうのと言う以前の問題として、法治国家のイロハから言ってもメチャクチャで、安倍政権は「錯乱している」とさえ言うのでした。

人間は神じゃないから間違いを犯す。金を返さないやつがいるから民法があり、嫌なやつを殺す人間がいるから刑法がある。絶対王政では王様は神様だったから、間違いを犯さないことになっていた。しかし、近代市民革命以降、王の地位には普通の人間が就くようになった。普通の人間であれば、間違いを犯すので、憲法が生まれたのです。この歴史的事実を無視して、立憲主義を否定するのは卑しい行為です。
(日刊ゲンダイ2014年5月19日 慶大名誉教授・小林節氏 「解釈改憲は憲法ハイジャックだ」


「法が禁じていても最高権力者がそれを無視すると決めたら無視できる、これでは人の支配じゃないですか。王様・王政じゃないですか。全くおかしいです」
(7/1「ニュースステーション」出演時の発言より)


ヒットラーも「錯乱している」と言われました。安倍首相がファシスト(カルト)と言われるゆえんです。

カルトな総理大臣が右向け右と言ったら、与党のなかでそれに異議を唱えたのは村上誠一郎議員ひとりだけで、あとはみんないっせいに右を向く。日本の民主主義がこんなに脆いものだとは思わなかったという声がありますが、それもまた、全権委任法によってワイマール憲法が失効したとき、ドイツの民主主義者たちが口にしていたのと同じセリフなのです。

一方、そのような戦後安保体制の大転換にもかかわらず、マスコミや国民は、危機感もなくずいぶんのんびりした感じです。おそらくそこには、「戦争は自衛隊がやることでオレたちには関係がない」という意識があるからではないでしょうか。つまり、「汚れ仕事は自衛隊にさせればいい」という考えです。自分たちは安全地帯から、「中国が攻めてきたらどうする」「韓国が在日を使って日本を支配しようとしている」などとカルトな妄想を吐き散らし、無責任に戦争を煽るだけなのです。

今回の閣議決定が、集団的自衛権と個別的自衛権がゴッチャになった粗雑でいい加減な議論のもとですすめられたというのは、多くの人が指摘するとおりです。ネトウヨが妄想するように、仮に中国や韓国が脅威だとしても、それは集団的自衛権の問題ではなく個別的自衛権の問題なのです。小林教授が言うように、集団的自衛権の本質は、「日本のため」ではなく、「他国のため」(同盟国のため)に派兵するということなのです。「他国のため」に戦争に加担するということなのです。その「他国」とは、言うまでもなくアメリカです。そこには「アメリカのため」は「日本のため」という”集団安全保障”のレトリックがあるからですが、要はアメリカの肩代わりをするということです。集団的自衛権は、TPPと同じ「アメリカのため」なのです。

もとより軍隊というのは、安倍首相が言うように、「国民の生命と財産を守る」ためにあるわけではないのです。軍隊は、国家の存立と秩序、つまり、”国体”を守るためにあるのです。国があっての国民というのが、軍隊の考えなのです。先の戦争でも、軍隊が守ろうとしたのは、「国民の生命と財産」なんかではありませんでした。むしろ、”国体”を守るために、国民は命を投げ出せと言ったのです。

元防衛官僚で新潟県の加茂市長の小池清彦氏は、朝日新聞のインタビュー(拡大防げず徴兵制招く 小池清彦さん)で、「集団的自衛権の行使にひとたび道を開いたら、拡大を防ぐ手立てを失うことを自覚すべきです。日本に海外派兵を求める米国の声は次第にエスカレートし、近い将来、日本人が血を流す時代が来ます。自衛隊の志願者は激減しますから、徴兵制を敷かざるを得ないでしょう」と言ってましたが、「汚れ仕事は自衛隊にさせればいい」というような卑怯な考えが通用するほど、国家は甘くないということでしょう。

それにつけても、特定秘密保護法につづき、”解釈改憲”にも手を貸した公明党は、「平和の党」を党是としていただけに、その罪はきわめて大きいと言えます。

公明党は、「綱領」で、「平和主義」と「人間主義」をつぎのように高らかに謳っています。

「戦争と革命の世紀」といわれた二十世紀は、「国家の時代」「イデオロギーの時代」でした。戦争は国家の、革命は社会主義イデオロギーの属性でしたが、今日までの歴史の教訓は、個人あっての人間あっての国家であり、イデオロギーであるのに、それが「国家のため」あるいは「イデオロギーのため」の個人や人間であるという“主客転倒”がなされ、一切の目的であるベき人間自身が手段にされ犠牲にされてきたことです。人間自身の幸福な生存こそが目的価値であり、「国家」であれ「イデオロギー」であれ「資本」であれ、人間を超えた何らかの外部価値や権威の絶対化により人間が“手段化”されることがあってはなりません。いかなる主義・主張であれ、機構や制度、科学や経済であれ、それらはすべて人間に奉仕すベきです。これが〈生命・生活・生存〉を柱とする公明党の人間主義=中道主義の本質です。


しかも、創価学会の初代会長牧口常三郎は、1943年、治安維持法・不敬罪で逮捕・投獄され、翌年獄中死しているのです。それが、公明党の「平和主義」と「人間主義」の原点だったはずです。なのにどうして、「戦争ができる国作り」の”解釈改憲”に手を貸すのか、私にはとうてい理解の外です。

容認に至る過程も不可解なものでした。公明党は、閣議決定前の6月28日に、集団的自衛権の行使容認について、47都道府県の地方代表による懇談会を都内で開いたのですが、その席では反対論が噴出したと言われています。

(略)第二次世界大戦の記憶が色濃く残る広島、長崎、沖縄をはじめ、地方側は「北から南まで慎重・反対論が100%」(出席者)となり、「地元で連立離脱を求める声がある」「『次の選挙は応援できない』と言われた」と悲鳴もあがった。

(略)地方代表は25人が発言。慎重姿勢から容認に転じた執行部に対し、「憲法解釈の変更を本当に閣議決定でやっていいのか。本来は憲法改正だ」という疑問を皮切りに、発言を求める挙手が殺到した。

<集団的自衛権>公明、地方から異論 慎重論や連立離脱も
毎日新聞 6月28日(土)21時39分配信


しかし、なぜかいつの間にか「執行部一任」になり、予定どおり行使容認の閣議決定に進んでいったのでした。私は、この党にはホントに党内民主主義は存在するのかと首をひねりたくなりました。

創価学会の広報室も、朝日新聞の取材に対して、以前の慎重論を引っ込め、「『公明党が、憲法第9条の平和主義を堅持するために努力したことは理解しています』とする見解を明らかにした」そうです(集団的自衛権「公明の努力、理解」 創価学会が見解)。まるで原理原則も見識もないかのようです。

ネットに、「安定は希望です」という去年の参院選の公明党のキャッチフレーズにひっかけて、「安倍は希望です」という公明党をヤユする書き込みがありましたが、今回の公明党のヌエのような姿勢を見るにつけ、私は、ヒットラーの全権委任法に賛成し、のちのナチスとバチカンの政教協定(コンコルダート)への道を開いたカトリック中央党を想起せざるをえません。カトリック中央党は、反共主義の立場をとるカトリックの宗教政党でした。そのため、ヒットラーによる共産党や社会民主党への弾圧を黙認し、ナチス独裁(ファシズムの台頭)に手を貸したのでした。現在、公明党=創価学会も、同じように”和製ヒットラー”の台頭に手を貸していると言えないか。

竹中労は、かつて学会系の雑誌『潮』に、「聞書・庶民烈伝 牧口常三郎とその時代」を連載した際、「どうして創価学会を擁護するのか」という批判が寄せられたことに対して、つぎのように反論していました。

 民衆に愛され、民衆に恩義を受け、おのれ自身も一個の窮民であった者が、民衆の側に立つのは当然ではないか! (略) それは、ヴ・ナロードなどという知識人のセンチメンタリズムや、原罪意識とは無縁の所為である。おちこぼれの窮民・悩める者を百万の単位で済度して、生きる力と希望とを人々にあたえる信仰に対して、小生は一切の偏見と予断を抱かない。いやむしろ、謙虚にこれを評価する。
(ちくま文庫『無頼の点鬼簿』・駅前やくざはもういない)


さらにつづけて、竹中労は、「彼らを愚民と見なし、”淫嗣邪教”のレッテルをはる輩、ことごとく外道である」と書いていました。

今の公明党=創価学会の幹部たちのなかに、この「民衆」はどう存在しているのでしょうか。それを聞きたい気がします。
2014.07.03 Thu l 社会・時事 l top ▲