最近は散歩に行くのに、カメラをもって出かけることが少なくなりました。あたらしくカメラを買ったものの、ほとんど本の上に置きっぱなしで(私の場合、なんでも本の上に置きっぱなしですが)、数えるほどしか使っていません。

だったらスマホで写真を撮ればいいのにと思うかもしれませんが、写真屋の息子としてはスマホで写真を撮るのはどうも気が進まないのです。やっぱり、写真はカメラを構えてナンボのような観念からぬけ切れないのでした。

昨日の散歩も写真はありませんが、いつものように横浜駅からみなとみらい・馬車道・伊勢佐木町・桜木町・野毛をまわり、再び横浜駅まで戻りました。

私は、日曜日の夕暮れどきの横浜の街を歩くのが好きです。私は、運動会のときにの校舎の裏に行ったり、終着駅のある街や人里離れた山奥にある湖などを訪れるのが好きなのですが、日曜日の夕暮れの横浜の街にもそれらとどこか似た感覚があります。それは、祭りのあとのさみしさと似ています。そして、それが東京の街にない横浜の魅力なのです。

夕暮れの街を歩きながら、いつの間にか感傷的になっている自分がいました。ネオンの灯りに照らされた表通りとその横から薄暗い闇のなかに伸びている路地。そんな路地にいっそう寂寥感をかきたてられるのでした。そして、すれ違う人ひとりひとりに人生の物語があり、それが透けて見えるような気がするのでした。

人生が露出した等身大の街。それは、生き方も生活もなにもかもが規格化された郊外の街にない魅力です。昔、「喜びも悲しみも幾歳月」というタイトルの映画がありましたが、そんな「喜びも悲しみも幾歳月」のような人生の風景がある街に、平岡正明は「場末美」を見たのでしょう。

途中、伊勢佐木町の有隣堂本店に立ち寄りましたが、いつの間にか有隣堂にも「嫌中憎韓本」のコーナーができていました。「有隣堂よ、お前もか」と言いたくなりました。ヘイト・スピーチにも「言論・表現の自由」があると考えているのなら、出版文化(ことばの文化)に携わる者としては失格と言わざるをえません。国連の「勧告」でも示されているように、自由の敵に自由を許すなというような考えも必要なのです。貧すれば鈍するではないですが、今の書店に、その程度の見識を求めることさえ無理な相談なのでしょうか。最低限のモラルとして、「製造者責任」だけでなく「販売者責任」もあるはずです。

帰って万歩計を見たら、1万7千歩を歩いていました。

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野毛
2014.10.27 Mon l 横浜 l top ▲
昨日、逮捕されたネトウヨも例外ではありませんでしたが、ネットウヨは意外にも若者より中高年に多いというのが今や定説になっているようです。ブロガーの山本一郎氏は、湯浅誠氏との対談で、つぎのようなデータを紹介していました。

 やまもと:ネトウヨの恐ろしいところは、卒業を知らないことですよ。普通、自分のしていることのバカバカしさに途中で気付くでしょう。 
 湯浅:平均年齢はどれくらいですか?
 やまもと:一昨年に、調査会社さんの協力が得られたので一週間統計を取ったことがあります。「日本文化チャンネル桜」という右翼系のすてきな動画サイトの調査をする機会があって、興味があったのでGoogleのサービスやパネル調査で分析したら、42歳から46歳にでっかいボリュームゾーンがありました。
 もう一つのもう少し小さいボリュームゾーンは、18、19歳から20代前半ぐらい。80歳以上にもなってかじりついている根っからの民族主義者もいましたね。そのときは太平洋戦争に関する動画を流していた日も含まれていたためか、偏りはあったのかもしれませんが、全年代にそういう民族主義者という層はいます。
 民族主義的価値観の人たちは各年代層に1%から2%前後くらいのものですが、ウェブで発言するので存在が目立つ。ただタコツボなので、なかなか横には広がらないという傾向がありますね。

東洋経済オンライン
ネトウヨは、卒業することを知らない


また、「嫌中憎韓本」に関する書店員や編集者など出版関係者のシンポジウムでも、つぎのような指摘がありました。

《購入する客層や特徴は?》
・曾野綾子の読者層(60代後半以降)とほぼ一致する。(店長)
・圧倒的に50歳前後の〈日本の中核〉を担っているような男性サラリーマン。(雑誌・ムック担当)
・(最近は)中高年の女性も多い。普段は書店にこないのか、大抵が広告記事を片手に書名で問い合わせの目的買い。(社会科学書担当)

週刊金曜日ニュース
「ヘイトスピーチを煽動する本」を売ることの責任――出版関係者がシンポジウムを開催


「『愛国』という言葉を他の民族を排除し貶める意味で使用しているみたいで恐怖を感じる(法律・政治・経済・経営担当)」というのは、まったくそのとおりですが、しかも政権与党の閣僚や幹部たちが、そのような民族憎悪を煽る思想を共有しているのですから、事態はさらに深刻だと言えるでしょう。

ちなみに、中国や韓国の大型書店では、三省堂書店や書泉グランデのような「反日」本のコーナーはないそうです。なぜなら「それほど日本に興味がない」「日本を相手にしてない」からだとか。政治家やそれに煽られる一部の国粋主義者はともかく、一般市民は案外そういうものかもしれません。もちろん、その背景には、中韓が政治的にも経済的にも日本をしのぐほど力をつけ、存在感を増している自信があるからでしょう。たしかに、ヤフーの国際ニュースのあの異常な「アクセスランキング」を見ても、なんだかネトウヨは中韓に一方的に恋慕する(可愛さ余って憎さ百倍の)ストーカーのように思えないこともありません。

それにしても、中高年の彼らはどうしてあのようなストーカーまがいのネトウヨになるのか。「政治なんてない」と言ったのは吉本隆明ですが、本来なら「政治」なんかより老後を前にした「生活」の現実に直面するはずの中高年の人間たちが、どうしてこんなに異常に「政治」に興味を示すのか。

逮捕され公判で素性があきらかになったネトウヨを見ても、中高年が多く、低学歴で無職(職業不詳)かアルバイトというのがおよその共通点です。しかも、逮捕される前は、高学歴で高収入の職業であるかのように詐称していたのも共通しています。「どうして生活保護を受ける選択をしなかったのですか?」と裁判長から問われて、「生活保護を受けると不利益になると思い込んでいたから」と答えたネトウヨもいたくらいです。

うまくいかない人生。そこには「生活」と呼べるものさえないのです。それに、学歴コンプレックスによる知性への呪詛。そういった負の感情が夜郎自大な「政治」への幻想に向かわせているのは間違いないように思います。そう考えると、吉本隆明のことばも恵まれた人間の操り言のように思えてきます。

さらにもうひとつ、フリーターの先行世代が既に50代にさしかかっているという世代的な問題も見逃せないように思います。フリーターの先行世代は、同時にアニメ(アニオタ)の第一世代でもあるのです。あの上祐史浩氏も、「“負け組”から右傾化・カルト思想が生まれてくる」と言っていましたが、その意味では「オウムは終わってない」と言うべきかもしれません。ヨーロッパでは歴史修正主義はカルトと看做されるそうですが、オタクにとって、歴史修正主義は格好の”謀略史観”と言えるのかもしれません。

BLOGOS
“負け組”から右傾化・カルト思想が生まれてくる~元オウム・上祐氏の話

しかし、一方で私は、彼らを安手の詐欺師のような”ファシスト”に売り渡した「責任」も考えないわけにはいかないのです。それは、「戦後」を検証することをなおざりにした「責任」であり、アメリカの核の傘の下で惰眠を貪り「平和と民主主義」を糊塗した「責任」でもあります。笠井潔は、『日本劣化論』のなかで、「世界内戦の時代」は同時に「民衆蜂起の時代」でもあると言ってましたが、日本においては、それが非常にいびつなかたちで現出している(しつつある)と言えるのかもしれません。
2014.10.26 Sun l 社会・時事 l top ▲
今日、おしっこの勢いの検査に行きました。電車のなかでも下腹部を常に意識しながら濃いお茶を飲みつづけ、駅に着いたら、グッドタイミングで尿意を催してきました。「今度はバッチリだ」と胸を張って(?)病院のドアを押しました。

ところが、診察室の前で待てども、なかなか私の名前が呼ばれないのです。私よりあとから来た人が先に呼ばれる始末です。「どうして?」と思ったら、なんだか焦りが募り、よけい尿意のレベルが上がってきました。「このままじゃやばい!」と思ったとき、やっと私の名前が呼ばれたのでした。

検査室に入ると、ナースから、「エコーの検査をしますので、こちらのベットに横になってください」と言われました。私は、「おしっこはあとなのか」と思いながら、ベットに横になり言われるままに横向きに寝て、ズボンとパンツを下ろしました。ほどなくドクターがやってきて、「ちょっと冷たいですよ」と言いながら、脇腹にゼリーのようなもの(そのものズバリ「超音波ゼリー」と言うらしい)を塗り、先端にローラーが付いた器具(「超音波プローブ」)を滑られせていきました。すると、モニターを見ていたドクターから意外なことばが発せられたのでした。

「おしっこの貯めすぎですね」
「ええっ、そ、そんな・・・」

私は、心のなかでそう叫びました。おしっこを貯めてきてくださいと言われたから、貯めてきたのです。それも何度も失敗を重ねてやっと限界ギリギリでやってきたというのに、なんという言い草と思いました。

「仰向けになってください」
仰向けに寝ると、「超音波プローブ」が下腹部に当てられました。しかも、かなり強い力で押し付けられながらパンパンに張った下腹部を円を描くように滑らせるのでした。

「う、うっ」
私は、思わずうめき声を上げました。そして、うめき声を上げながら、今、ここで我慢しきれずに放尿したらどうなるんだろうと想像している自分がいました。

ドクターは、「こんなに貯まっているのに我慢できるというのは、膀胱の機能も正常と言えますね」なんて呑気なことを言っています。私は、額に汗が噴き出ているのがわかりました。

「ああ~、先生、かなり限界です」
「あっ、はい、はい、じゃあ、終わりましょう」

やっとエコー検査が終わりました。そして、パンツとズボンを引き上げてベットから起き上がると、ナースが紙コップを差し出し、「これにおしっこを取ってください」と言うのです。紙ゴップにおしっこを取るのは、来院するたびにおこなわれる通常の尿検査です。

「エッ、おしっこの勢いの検査があるんじゃないの?」と思った私は、ナースに、「おしっこの勢いの検査をするんじゃないですか?」「だから、おしっこを貯めてきたんですよ」と言いました。ナースは、私のおしっこの勢い、じゃなくてただの勢いに気圧されたのか、紙コップを手にしたまま困惑した表情を浮かべ固まっていました。すると、奥から顔なじみのベテランのナースが出てきて、「ああ、そうなんですか。はい、わかりました」「じゃあ、用意して」と紙コップのナースに指示したのでした。

トレイに入ってバケツのような容器に放尿しながら、私は、あの奇妙な空気はなんなんだと思いました。おしっこの勢いの検査じゃないのか。もしや、おしっこを貯めてくるように言われたのは、エコー検査のためだったのか。おしっこの勢いの検査というのは、自分の独り合点だったのか。

そうなのです、どうやら独り合点だったようです。私があまりに強い口調で言うので、「じゃあ、お望みどおり検査しましょう」と検査したみたいです。

ドクターもおしっこの勢いのグラフを示しながら、「この線の山は勢いがありますよ」「大丈夫ですよ」と言ってましたが、心なしか皮肉のようにも聞こえました。どうしてこの患者はそんなにおしっこの勢いにこだわるんだろうと思ったのかもしれません。

私は、なんだかドン・キホーテのような心境で徒労感を覚えながら、とぼとぼ帰ってきたのでした。

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おしっこの勢いの検査
2014.10.25 Sat l 健康・ダイエット l top ▲
昨日も「ステキな光景」がふたつありました。私の最近のお気に入りのフレーズを使えば、「ええなぁ」です。

ひとつは、小渕優子経産大臣と松島みどり法務大臣が辞任したニュースです。安倍政権の「成長戦略」のひとつである「女性活用」のシンボルとして登用された女性閣僚5人のうち2人が同時に辞任というこの「異常事態」。まさに「ええなぁ」です。

誰かも言ってましたが、これで残るは極右のカルトばかりとなったのでした。下記のリテラの記事にもあるように、残る3人に稲田朋美自民党政調会長を加えた4人は、「女性」や「母性」についても、「女性が輝く社会」とは真逆のネトウヨレベルのトンデモ発言をしているのです。

リテラ
母乳強制、DV擁護、中絶禁止…安倍内閣・女性閣僚の「反女性」発言集

要するに、彼女たちは、マッチョ思想(男尊女卑思想)のおやじたちお気に入りの女性にすぎないのです。安倍政権が言う「女性活用」「女性登用」というのは、本音は「女性利用」にすぎず、権力を握るのはあくまでおやじたちなのです。彼女たちは、権力を握るおやじたちのためならなんでもしますわという「あなた好みの女」にすぎません。そうやっておやじたちにしなだれかかり、頭を撫でられきたのでしょう。その行き着く先が、極右思想であるのは理の当然です。「閑人舎通信」の新藤厚氏は、山谷えり子拉致問題担当大臣兼国家公安委員長について、「山谷親平の娘はむかしはサヨクだったはずである。いつ頃転向したのかは知らないがテレビでの話し方を見ていても可哀そうなほどの知性である」と書いていましたが、そうやってカルトな極右思想でおやじたちを喜ばせ、大臣にまでのしあがってきたのでしょう。

小渕優子経産大臣の問題も然りです。どう見ても彼女は、おやじたちに担がれた「お姫様」にすぎないのです。今回の「カネの問題」の背後にあるのは、信じられないような古い政治の構造です。もちろん、それは連綿とつづくタカリの構造でもあります。それがこの国の保守政党を支える草の根政治の実態なのです。それをマスコミは、「地盤」「看板」と呼んできたのでした。ただ担がれただけの「お姫様」がなにも知らなかったというのは本当なのかもしれません。マスコミは、そんな「お姫様」を将来の女性首相候補と持ち上げてきたのでした。

今回の辞任劇のきっかけは、『週刊新潮』の記事でしたが、いちばん最初に書いたのは「赤旗」で、いわば新潮は「赤旗」をパクったようなものです。一方、新聞やテレビは、トンマな提灯記事を書きつづけ、辞任劇もただ手をこまねいて見ていただけでした。昔、『文藝春秋』の記事が発端となったいわゆる「田中金脈問題」で田中(角栄)内閣が倒れたとき、新聞記者たちは「あんなものは前から知っていた」と嘯いたそうですが、今度もまた同じセリフを口にするのでしょうか。

ところで、小渕大臣辞任に関連して、多額の政治資金が実姉夫妻が経営する南青山の「服飾雑貨店」の商品購入に使われていたことが話題になりましたが、その報道のなかで、実姉が独立する前に、今はなき「イソップ」というポストカードの会社でデザインを担当していたということを知ってびっくりしました。「イソップ」は私も知っている会社で、もしかしたらどこかで会っていたかもしれないと思いました。だからというわけではないですが、小渕優子も政治家などにはならずに、あのままTBSに勤めて、自由に生きていたほうがよかったんじゃないかと思いました。

もうひとつの「ステキな光景」は、橋下徹大阪市長と桜井誠(高田誠)在特会会長との「面談」です。私は、「お前みたいな差別主義者は大阪にはいらない!」「お前こそ、飛田新地に帰れ!」などという名言、いや、怒号が飛び交う動画を見て、「ええなぁ」と思いました。橋下大阪市長は、「面談」のあと、「彼らの宣伝に使われず、一方的に主張だけを述べさせないよう、応対の仕方や打ち切り方を考えて行ったつもりだ」と言ったそうですが、怒号がホントに意図的だったのかは別にしても、橋下市長が言わんとすることはわかるのです。「どっちもどっち」論や「話せばわかるごっこ」などを越えたところにあるのが、ヘイト・スピーチです。ヘイト・スピーチを「言論・表現の自由」で解釈しようとするのは、「講壇民主主義」の空理空論でしかありません。むしろ、あのような怒号(汚いことば)のなかにこそ、問題の本質があるのです。「主張が平行線のまま」などと言うマスコミが、ヘイト・スピーチの問題の本質を理解しているとはとても思えません。

まして警察行政のトップである山谷えり子国家公安委員長が、民族憎悪を煽るヘイト・スピーチのメンバーと思想を共有し「懇ろな」関係にあるという事実は、小渕・松島両大臣の問題など比べものにならないくらい深刻な問題を孕んでいると言えるでしょう。しかし、山谷国家公安委員長に対して、きびしい追求をおこなっているのは欧米のマスコミと一部のフリーランスの記者だけで、新聞・テレビはこの問題に対してもあきらかに及び腰なのです。

ヘイト・スピーチについて、今までマスコミは正面から扱うことを避けてきました。そのため、昨日の動画を見て、びっくりした人も多いのではないでしょうか。だからこそ、あの怒号が飛び交う「面談」は、「ええなぁ」と思うのでした。動画を見て、いろんな人たちがいろんなことを考えたことでしょう。そのことによって、ヘイト・スピーチの問題が私たちの面前に浮上してきたと言えるのです。そして、さらにそのことによって、差別を金儲けの手段にしている醜悪な嫌韓ビジネス(「愛国」ビジネス)や国連の人種差別撤廃委員会が「勧告」のなかで指摘した政治家や官僚とのただならぬ関係など、ヘイト・スピーチを背後にある問題もあきらかになってくるはずなのです。
2014.10.21 Tue l 社会・時事 l top ▲
このブログに時折、と言うかわりと頻繁に、「おしっこの勢い 検査」「おしっこ 回数」「おしっこ 出にくい」などというキーワードでアクセスしてくる方々がいます。テレビのCMが言う「大人の悩み」に苦しんでいる人がそれほど多いということなのでしょう。

私の場合は、「大人の悩み」を抱くほどではないのですが、それでも年に1回、おしっこの勢いの検査があります。先月、「おしっこの勢いの検査をしますので、次回はおしっこを貯めてきてください」と先生から言われました。でも、この「おしっこを貯める」というのが大変なのです。膀胱におしっこが貯まったら、当然、尿意を催しますが、その尿意を我慢して「病院に駆け込む」、そのタイミングが至難の業なのです。

今日も午後から病院に行こうと思っていました。それで、朝、早めにトイレに行き、そのあとはずっと我慢して検査に備えていました。そして、いよいよ出かける段になり、顔を洗おうと洗面台で水道の蛇口をひねったときです。なんということでしょう。勢いよく迸り出る水道の水に、膀胱が激しく反応しはじめたのでした。そうなると顔を洗うどころではなく、私は、バタバタ足踏みしながらあたりをぐるぐるまわりづつけました。でも、我慢できない。もうおしまいだ。

結局、すべては水の泡、いや、トイレの泡となり、また最初からやり直すことになってしまいました。しかし、病院の外来の受付終了まであと2時間です。飲んだ水はどのくらいで膀胱に貯まるのか、ネットで調べたところ、アホー知恵袋、いや、Yahoo!知恵袋に「20分くらい」と書いていました。それならと思い、コーラゼロや濃いお茶などをガブガブ飲みました。

ところが、不思議なことに、いくら飲んでも膀胱におしっこが貯まったという感覚がよみがえってこないのです。時計と睨めっこしながら苦行のような飲水をつづけました。しかし、下腹に変化なしです。そして、なんでこんなことをしているんだろう?という疑問と虚しさのなか、本日の病院行きを断念することにしたのでした。

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2014.10.21 Tue l 健康・ダイエット l top ▲
昨日の午後、東横線の上り電車に乗っているときのことでした。私は、いつものようにシルバーシートに座って本を読んでいました。電車が自由が丘駅に着いたとき、私の座席の横のドアから色鮮やかな服装の少女が乗ってきたのです。少女は、本の上に視線を落としている私の視界の端を横切って、反対側のドアのところに向かって行きました。

私は、気になったので、一瞬、少女のほうに目をやりました。少女は、こちらに背を向け外に向かって立っていましたが、身長が170センチもあろうかという背の高い子で、スラリと伸びた足は、白と赤のストライプのタイツで包み、真っ白なホットパンツに、足元はニューバランスのピンクのスニーカーを履いていました。また、上は黄色のブランドかなにかのロゴが入ったフリースを羽織り、髪は三つ編みにしていました。タレント?モデル?と思いましたが、タレントやモデルが普段そんな派手な格好をしているわけがありません。じゃあ、やっぱりシロウトなのか。こういう子が渋谷や原宿を歩いていると、スカウトされて「読者モデル」になったりするんだろうなと思いました。

そして、視線を再び本に戻そうとしたとき、ふと、私の座席の横に立っている青年に目がとまりました。典型的なオタクファッションで、それこそAKBのCDを100枚でも200枚でも買いそうな感じの青年です。彼はドアに背を向け、件の少女のほうをじっと食い入るように見つめているのです。私は、ストーカー?と思いました。しかも、青年はときおり股間のあたりに手をやっているのです。私は、変質者?と思いました。危ない、危ない、と思いながら本に目を戻しました。

電車は中目黒をすぎると地下に入り、やがて渋谷に到着しました。渋谷駅のホームは、私の座席の側にあります。少女も身体の向きを変え、渋谷で降りるようです。これからスカウトされるために週末の渋谷の街を闊歩するのかなと思いました。私は、本を読みながらも、ひと目顔を見たいという誘惑を抑えきれずにいました。ドアが開き、少女も乗客の後ろからドアに向かって歩きはじめたとき、私は意を決して顔を上げ、私の脇を通りすぎて行く少女の顔にチラッと視線をやりました。

その瞬間、私は思わずのけぞったのでした。三つ編みの少女は、なんと60才も越していようかという年増の女性だったのです。私は、目を見開き、口をポカンと開けたまま、人ごみに消えていく”年増の少女”の後姿を目で追っていました。

と同時に、私は、心のなかでこう叫びたい気持でした。これが東京だ(だったのだ)!と。70年代・80年代の東京には、こういった倉田精二の写真のような光景がいくらでもありました。あの頃の東京の街角には、西ドイツのハンブルクに似た世紀末の頽廃的な雰囲気がありました。どうしてハンブルクかと言えば、ハンブルクにTUSHITAというポストカードの会社があるのですが、TUSHITAにも同じような世紀末の街の光景を撮った写真が多くあったからです。安井かずみや鈴木いづみが街を闊歩していたのも同じ頃です。

私は、なんとステキな光景なんだろうと思いました。いつから私たちの社会は、異端を排除する窮屈で面白味のない社会になってしまったのか。「愛国」「日本人の誇り」の名のもとに、すべてをひとつの色に染めてしまうような社会。常にそういった同調圧力がはたらく社会。しかし、思わず目を見開くような規格外の色彩のなかにこそ、爛熟した資本主義でしか味わえない自由の魅力がある(あった)はずなのです。今の時代は、”異形な人”が街を歩いていると、誰かがスマホで盗み撮りしてネットで晒し、それを下衆なことばでいたぶるのが常ですが、そうやって自分たちで自分たちの社会を息苦しくしているのがわからないのかと思います。ネットが逆に私たちの「自由と寛容」を奪っているのです。

カルトな総理大臣やカルトな総理大臣のためならどんなことでもしますわというような女性閣僚たちは、どう見てもただのアナクロなおっさんやおばはんたちでしかありません。そんなアナクロなおっさんやおばはんたちに、若者たちはどうしてあんなにいとも簡単に操られるのか。若者たちはどうしてあんなに権威や権力に弱いのか。「時代を造ってきた」(と言われた)若者文化はどこへ行ってしまったのか。鈴木いづみは、「若者文化はバカ者文化である」と言ったのですが、今は「バカ者文化」ですらないのです。

私は、オタクの青年と同じように、渋谷駅の人ごみのなかに消えて行った”少女”をマジで追いかけて行きたい心境でした。
2014.10.19 Sun l 社会・時事 l top ▲
仕事柄、いろんな配送会社がやってきますが、私の場合、発送はもっぱらクロネコヤマトと郵便を利用しています。なかでもいちばん多いのはクロネコヤマトのメール便(それも「速達」)です。メール便を利用しはじめてもう6~7年経ちますが、今まで”未着事故”があったのは1~2件くらいしかなく、パーセンテージに直せば、それこそコンマ以下の限りなくゼロに近い数字です。よくネットでメール便への不平不満の書き込みを目にしますが、私自身はメール便には全幅の信頼を寄せていました。

ところが、この半月の間に、メール便のトラブルがたてつづけに4件も発生したのです。トラブルの内容は、原因不明の「未着」(ヤマトは投函していると主張し、受け取るほうは届いていないという水かけ論)と「配達漏れ」(配達されずに営業所のなかに放置されていた)と「誤配」(共同住宅の別の部屋に配達)と勘違いによる「返送」(「転居先不明」として返送されてきたけど、そこに居住していた)でした。ネットには、補償のないメール便を利用するほうが悪いという意見がありますが(如何にもネットらしい身も蓋もない言い方ですが)、単価の安い商品の場合、メール便にせざるをえないという事情もあるのです。

それにしても、今まで6~7年間はほとんど記憶もないほど限りなくゼロに近い事故率だったにもかかわらず、今月に入って4件も発生したというのは、単なる偶然なのかと思ってしまいます。ネット通販の拡大などにより、配送会社は以前に比べ身近な存在になっており、それにつれ、どこの会社は配達か遅いとか、不在時の受け取りが不便だとか、配達員の態度が悪いとか、配送会社に対する利用者の目がきびしくなっているのも事実です。また、楽天やセブンイレブンにつづいてアマゾンも宅配便に参入するという話もあり、配送サービスが大きな曲がり角にきているのもたしかでしょう。

メール便は、宅配便の配達員とは別に「クロネコメイト」と呼ばれるパートの嘱託社員が配達を担当しており、通常の宅配便とは違ったシステムでおこなわれているようですが、もしかしたら、大きな機構改革や合理化がおこなわれ、そのしわ寄せが現場にきているというようなことはないのでしょうか。宅配業界もご多分にもれず過重労働の問題がありますが、たしかに配達員を見ると、表情に余裕がなく、疲れているのがありありと見てとれることがあります。そういった内部の問題が顧客の目にも映るようになっているというのは、その深刻さを示しているのではないでしょうか。

メール便は手間ばかりかかって利益が出ないので、なおざりになっているというような俄かに信じがたい話もありますが、今回のようなトラブルに遭遇すると「まさか?」と思ってしまいます。また、「安いからしょうがない」という声もありますが、しかし、「安いから(届かなくても)しょうがない」というのは、とてもビジネスとして通用しない話です。福山通運は、個人向けの宅配業務から撤退しましたが、それは、宅配便に対する個人ユーザーの要求に応えられなくなったからかもしれません。一方で、エコ配のように小口配送に特化して評価を集めている新参の会社もあるのです。また、小口決済を得意とする通販会社の参入は、脅威になる可能性も大で、”一強”だからと言って決して安閑としてはいられないはずです。

いらぬおせっかいかもしれませんが、「大丈夫か、クロネコヤマト!」とあえて言いたいです。

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追記:2014年10月26日

上記のなかで、「配達した」「受取ってない」という水かけ論になっていた「未着」のものが、3週間経った今日、返送されてきました。

返送されてきた封筒の表に貼られた紙を見て、私はびっくりしました。なんとメール便は、「日本郵便」の「新東京郵便局」から「ヤマト運輸」に「返却」されていたのです。そこから担当営業所を経由して、私の手元に戻ってきたのです。

どうして「新東京郵便局」なのか。ヤマトのメール便がどうして郵便局にあったのか。

それはこういうことでしょう。誰かがメール便を郵便ポストに投函したのではないか。それで、集配されて「新東京郵便局」で保管されていたのではないか。表には、「他社メール便返却」「メール便事業者様用」と印刷された専用の紙が貼られていました。と言うことは、こういったケースも多いということなのでしょう。

じゃあ、誰が郵便ポストに投函したのか。盗んだ者か。でも、今回のケースでは、郵便受けは盗まれるような構造になってないと言ってました。それに、盗んだ者がわざわざ郵便ポストに投函するでしょうか。それは考えられない。と言うことは、あとはひとつのケースしかないのです。

誤配です。それで、誤配された家の方が郵便ポストに投函したのではないでしょうか。封筒なので、メール便も普通の郵便も区別がつかなかったのでしょう。

もう一度あらためて言いたいです。大丈夫か、クロネコヤマト!
2014.10.15 Wed l 仕事 l top ▲
案の定、「誤報」問題以後、朝日新聞の紙面から安倍政権に対する批判的な記事が消えています。

この国のメディアは、カルトな政権にあっけないほど簡単に膝を屈したと言えるでしょう。どうしてなのか。そこには、アメリカの占領政策の置き土産にすぎない「言論の自由」に依拠する”あなたまかせの思想”しかなかったからです。朴槿恵大統領に関する記事をめぐり、産経新聞の加藤達也前ソウル支局長が韓国の検察に在宅起訴されたことに対して、日本政府が「『言論の自由』の観点から憂慮を表明し抗議した」というのは、まさに「言論の自由」のご都合主義を表わしていると言えます。朝日新聞の「言論の自由」は「反日」として封殺するが、産経新聞やヘイト・スピーチの「言論の自由」は、「民主主義の根幹」だとして「守る」のです。竹中労が言っていたように、「『言論の自由』なんてない」のです。あるのは「自由な言論」だけです。

この手の話は、どうしてもベタな政治の話にならざるをえないのですが、先日、Yahoo!ニュースに、つぎのような記事が掲載されていました。

Yahoo!ニュース
正恩氏側近が訪韓 北、経済難・孤立焦り…対南懐柔で打開狙う

人の振り見て我が振り直せという諺がありますが、どうやら安倍政権に「恋ボケ」した産経新聞や読売新聞(読売も同じ記事を書いていた)は、北朝鮮の「孤立」に、彼の国の誘惑に乗って「調査団」の訪朝を検討している自国の「孤立」と「焦り」を重ねて見ることはできないみたいです。

拉致に関する日朝合意に、アジアで孤立を深める日本の焦りが反映していることは、誰の目にもあきらかなのです。北朝鮮は、そんな日本の足元を見る「したたか」な外交を展開していると言えるでしょう。これでは、拉致問題が外交カードに使われ、北朝鮮に「ふりまわされる」のは当然でしょう。

また、北朝鮮サイドから見れば、日朝合意の裏に、関係が冷えていると言われる中国への「恋のさや当て」があるのはたしかで、日本は北朝鮮に二重に利用されているとも言えるのです。世界の常識ではこんな外交を「無能」と言うのですが、しかし、サティアンのなかでは、その「無能」が「愛国」になるのでした。そして、中国も韓国も北朝鮮も、日本なしでは生きていけないので、ホントは日本との復縁を切望しているのだと自演乙するのでした。

先月末、インドのモディ首相が来日した際も、日本のメディアは、経済・安保で連携強化をはかり、国境問題で中国と対立するインドとの間に対中包囲網を築くことを確認した、とまるで”明日は戦争”みたいな記事を書いていました。しかし、その10日後、タジキスタンで開かれた上海協力機構(SCO)の首脳会議では、インドの加盟申請を受け、2015年からインドが正式メンバーとしてSCOに加盟することが決定したというニュースが流れたのでした。対中包囲網どころか、対日包囲網が築かれているのです。あの日本の報道はなんだったんだと思いますが、このメディアのネトウヨ化こそ、カルト化するニッポンを象徴する光景と言えるでしょう。

中国とロシアとインドが経済的利害を一致させ、経済的な同盟関係を結ぶ上海協力機構(SCO)が、これからのアジア経済をけん引していくのは間違いありませんが、そのとき仲間外れにされた「カルトの国」がどうなっていくのか、想像したくもない近未来です。カルト思想は、サティアンのなかでしか通用しない妄想ですから、こうなったらテレビ東京がやっているように、日本(人)は世界中でリスペクトされているというような「慰撫史観」(宮台真司)で、ますます夜郎自大に自閉していくしかないのかもしれません。

折しもネットでは、書評家でフリーライターの豊崎由美氏の以下のようなツイッターでの発言が論議を呼んでいますが、ここにも「言論の自由」の虚妄が露呈されているように思います。

豊崎由美@ガタスタ屋ですが、それが何か?
豊崎由美@ガタスタ屋ですが、それが何か?

豊崎氏の発言は、「一部」という断りがあるものの、よく耳にする「どっちもどっち」論です。でも、これはなにも語ってない、なにも考えてない、ただの事なかれ主義です。文筆家でありながら「排外主義」のことばの意味も理解していない、思考停止の最たるものです。

豊崎氏は、片山さつきではないですが、「言論の自由」は誰でも等しく天賦として与えられ、何人も侵すことのできない基本的な人権だと思っているのでしょうか。少なくともものを書く人間であれば、その「建前」に気づいてよさそうですが、そんなデリカシーさえないようです。もしかしたら、この発言には取引先の文春や新潮に対する”政治的配慮”がはたらいているのかもしれませんが、だとしたらもっとタチが悪いと言えます。彼女の仇敵である百田尚樹のほうが、単細胞な分、よほど”正直者”に思えるほどです。

ただ一方で、豊崎氏のトンチンカンな発言によって、「あたらしいことば」がどこにあるかということがあらためてわかったような気がします。豊崎氏の言う「穏やかな対話」というのは、文字通り「閉ざされた言語空間」で予定調和のことば(常套句)をかけあい、現実を糊塗するだけの、「話せばわかるごっこ」にすぎません。でも、話してもわからないこともあるのではないか。況んや、「本音モード」というカルトな時代においてをや、です。私たちに今、求められているのは、このような迷妄する現実に冷水を浴びせる「あたらしいことば」なのです。「あたらしいことば」は、建前も本音も、右か左かという政治的イデオロギーも、「言論・表現の自由」という天賦説も凌駕し、「どっちもどっち」論の虚妄を露呈させるような、ぬきさしならない、それこそ豊崎氏のような(能天気な)「民主主義者」が眉をひそめるような、ある意味暴力的なことばが飛び交う場所にしか生まれないのではないか。

そして、そんな”講壇民主主義”とは真逆の「あたらしいことば」こそが、サティアンで自演乙するテレビ東京的「慰慰史観」を溶解させ、ベタな政治の風景も含めて、見たくないけど見なければならない現実を私たちの目の前に提示する役割を担っているのだと思います。何度も言いますが、「言論の自由」なんてないのです。あるのは「自由な言論」だけです。
2014.10.12 Sun l ネット・メディア l top ▲
一昨日、テレビの健康番組で、ものまねタレントの原口まさあきが糖質制限ダイエットに取り組んでいる模様が放送されていました。ただ、そのダイエット法は、奥さんが豆腐やコンニャクを使って”もどき食品”を作ったりと、かなり本格的なものでした。あとで、ドクターが「一般的には長続きできるような方法ではないですね」と感想を述べていましたが、たしかにそれはやりすぎという気がしないでもありません。

別に糖尿病ではないのですから、そこまでシビアにやる必要はないのです。最近、私のまわりでも糖質制限ダイエットをはじめた人が何人かいますが、私は、その人たちに対しても、「3食のうち1食か2食を主食ぬきにする程度で充分ですよ」と言っています。

ダイエットの場合、その程度で充分効果があります。むしろ、そうやってゆっくり時間をかけてやったほうが、太りにくい(リバウンドしにくい)身体になるような気がします。おかずに関しても、基本的な知識は必要ですが、おかずで摂取するのはたいした量ではないので、そんなに神経質になる必要はないのです。

私は一応13キロ減の目標値を達成しましたので、この2カ月、ダイエットは休止していますが、それでもリバウンドはまったくありません。このブログを読んでいただければわかりますが、今までいろんなダイエットを試み、そのたびにリバウンドをくり返していたことを思えば、私にとっても糖質制限ダイエットは画期的なダイエット法と言えるのです。

どうしてリバウンドしないかと言えば、食生活が変わったからです。と言うと、なんだか仰々しいのですが、つまり、以前に比べてご飯やパンや麺類を食べなくなったからです。誤解のないように言っておきますが、まったく食べないわけではありません。以前のように”大食い”をしなくなったいうだけです。もちろん、1~2キロくらい体重が増えることもありますが、その場合は3食のうち1食を主食ぬきにして、それを1~2日つづければすぐ元に戻ります。

糖質制限ダイエットが画期的且つ効果的である理由を私なりに考えれば、三つあるように思います。一つは、主食を減らしても、その分おかずを食べればいいので、空腹感と無縁であることです。空腹に耐えるストレスがないので、途中で挫折することが少ないのです。二つ目は、食生活が変わり、体質も変わって代謝効率がよくなるので、リバウンドがない(少ない)ということです。三つ目は、糖質制限ダイエットは、食物の知識だけでなく、糖新生の仕組みなど代謝の基本的な知識に基づいておこなわれるので、ダイエットに対する科学的な理解によって高いモチベーションを維持できるということです。

何度も同じことを言いますが、糖質制限ダイエットができなけば、ダイエットはあきらめたほうがいいと思います。それくらい簡単にできるダイエット法です。健康体でダイエットを考えている人にすすめるとしたら、もうこの方法しか思いつかないほどです。

糖質制限ダイエットにとっての”天敵”は、むしろ自分の意志より、まわりの”雑音”かもしれません。いわゆるネガティブキャンペーンです。ネットにはこの手のコピペがあふれていますが、糖質制限ダイエットの場合、サプリも器具もなにも必要がないので、ビジネスとしてはあまり旨味がありません。そのため、その分野の”アフィリ野郎”たちが、目障りな存在の糖質制限ダイエットを貶めるべくネガキャンをしているのでしょう。

そして、そんな書き込みを真に受け、糖質制限ダイエットは危険だとかなんとか「知ったふうなこと」を言う人もいますが、そんな人間に限って、糖尿病予備軍のような人間が多かったりするのです。彼らは、自己管理ができない自分をそうやってネットで見つけた「理屈にもならないような理屈」で合理化しているだけなのです。

「ネットがすべて」「ネットこそ真実」の人たちにとって、ネットは逆にその人の人生を不幸にすることもあるのです。その典型がネトウヨですが(でも、本人たちは得意満面で、全然不幸だとは思ってない)、ダイエットをしたくてもうまくいかない人たちもどこか似ている気がします。ダイエットにおいても大事なのは、メディア(ネット)リテラシーなのです。
2014.10.08 Wed l 健康・ダイエット l top ▲
加藤典洋氏は、ツイッターで、今まで朝日新聞の購読をやめていたけど、今回のバッシングを機会に購読を再開しようと思っていると書いていましたが、私はその発言にはどこか違和感を抱かざるをえませんでした。

加藤氏は、今まで何度となくくり返されてきた「政治と文学」論争について、『敗戦後論』のなかで、つぎのように書いていました。

文学は、時の権力に対してどれだけ芸術的な抵抗をしたか、という観点ではかられるべきではない。このような考えなら、これまでもしばしばたとえば芸術至上主義などによって示されてきた。(略)
 しかし、文学は、そのような「観点」、芸術という観点、芸術的抵抗という観点、国家という観点、つまり文学という行為の外に立ち、これにいわばイデオロギーとして働きかける、どのような「観点」の正しさにも抵抗するのではないか、それが文学の本質なのではないか。
(『敗戦後論』所収「戦後後論」)


しかし、私は、こういった「文学の本質」が文春や新潮に対する文芸家たちの事なかれ主義を招いているように思えてならないのです。

朝日新聞バッシングに血道を上げる雑誌には「売国」「国賊」「反日」の大見出しが躍る。敵を排撃するためには、あらん限りの罵詈(ばり)雑言を浴びせる。まるで戦前・戦中の言論統制だ。ネットではおなじみの風景だが、活字メディアでも「市民権」を得つつある。「嫌韓本」で一線を越えた出版界には、もはや矜恃(きょうじ)もタブーもないのかもしれない。安倍政権が「戦争できる国」へ突き進む中、「売国奴」呼ばわりの横行は、あらたな「戦前」の序章ではないのか。 (林啓太、沢田千秋)

東京新聞
朝日バッシング 飛び交う「売国」「反日」


朝日新聞に批判的な向きも、『週刊文春』九月四日号には驚いたに違いない。メーン見出しは「朝日新聞『売国のDNA』」。朝日新聞が取り消し・訂正した「吉田調書」や慰安婦報道にとどまらず、「サンゴ事件」など朝日の過去の誤報を持ち出しながら「売国のDNAは脈々と受け継がれている」と指弾した。
(同上)


このような「一線を越えた」文春や新潮に対して、加藤氏が言うような”文学絶対主義”は、もはやただの方便にすぎないのではないか。

そもそも文学はそんな特権的なものなのでしょうか。「高尚」な文学談議と「売国」「反日」の見出しが躍る雑誌には、どう考えても整合性はないのです。「私たちも不本意でやっているのです。先生にいい小説を書いてもらうために、あれは商売としてやっているだけです」というような編集者の弁解を真に受けているのでしょうか。でも、読者はそんなアクロバティックな観念で小説を読んでいるわけではないし、そんな弁解を真に受けるほど世間知らずではないのです。

私は、朝日新聞を応援するという加藤氏のベタな書き込みを読んだとき、テレビのワイドショーにコメンテーターとして出ている大学教師や評論家や有名ブロガーたちのことを想起せざるをえませんでした。彼らの書くものは、それなりに考えさせられるものがないわけではありません。ところが、テレビの前では、誰でも言えるような実にありきたりでつまらないことしか言えないのです。

もちろん、そこには、”お茶の間の論理”に媚びを売る彼らの”志操”の問題もあるでしょう。でも、それだけでなく、むしろその落差のなかに、書くことの本質が示されているように思えてならないのです。私たちは、ものを書くことによって、現実を仮構しているのではないか。私たちが思ったり考えたりすることも、書きことばに直せばたちまち”常套句”に収斂され、あらかじめ定められたものに虚構化されるのではないか。私たちは、それを「現実」と思い込んでいる(思い込まされている)だけではないのか。コメンテーターたちが書いているものも、ただの手慰めな虚構にすぎず、彼らは、ときと場合によってそれらを使い分けているだけではないのか。

ものを書くということは所詮、おためごかしにすぎないのです。まして今のように、”お茶の間の論理”が尖鋭化しカルト化すれば、ものを書くことはますます現実と遊離しトンチンカンに見えてきます。仮に”常套句”に抗い、虚構のなかに真実を見つけることばがあるとすれば、それは、大岡昇平のように、無残で過酷な現実に打ちのめされた先にある、吉本隆明が言う「還相」の過程で獲得したことばしかないのではないか。それを「文学のことば」と言えばそう言えるでしょう。朝日新聞を応援すると表明することに、そんな真実を見つけようとする「態度」があるとはとても思えないのです。

「文学的態度」から言えば、朝日新聞なんてどうだっていいのです。バッシングのいかがわしさと朝日新聞を応援するということはまったく次元の異なる話です。それよりまず隗より始めよで、文春や新潮と自分との関係を問い直すことが肝要でしょう。「一線を越えた」文春や新潮こそ、「文学のことば」を政治に従属させようとする反動と言えるのです。そんな現実と拮抗することのないことばに、真実なんてあろうはずもありません。
2014.10.06 Mon l ネット・メディア l top ▲
上原多香子の夫が自殺したニュースに関連して、私のブログにも「上原多香子 関東連合」「上原多香子 西麻布迎賓館」というキーワードでアクセスしてきた人が何人かいました。おそらく、1年前に書いた「上原多香子の名誉毀損」という記事が、そのようなキーワードでヒットしたからでしょう。

「ネットは悪意の塊」というのはまさに至言で、ネットには、人の不幸をこういった視点でしか見ることができない人間が(それも少なからぬ数)いるということなのでしょう。

でも、忘れてはならないのは、彼らはみずから検証するデータも知識も知能ももってない情弱な人間であるということです。ネットにおいては、「悪意」というのは「無知」と同義語なのです。そして、そんな彼らこそ”煽られる人”でもあるのです。

週刊文春は、こういった悪質な記事を数多く捏造してきました。そんな文春が朝日の誤報を口を極めて罵っているのですから、開いた口が塞がらないとはこのことでしょう。誰かが言っていたように、人殺しがコソ泥を罵倒しているようなものです。

もちろん、それは、文春だけではありません。新潮も読売も産経も同様です。むしろ、彼らの誤報&捏造は朝日の比ではありません。朝日バッシングが官邸主導の周到に用意されたシナリオに基づいておこなわれているという見方もありますが、今のメディア状況では、そのカラクリがあきらかにされることはないでしょう。

ここぞとばかりに、朝日バッシングをくり広げている産経新聞や読売新聞ですが、森達也氏が「リアル共同幻想論」(ダイヤモンドオンライン)で書いているように、産経や読売も過去に同じように「吉田証言」を記事にしているのです。

産経新聞は、1993年に「人権考」というタイトルで、「吉田証言」を大きくとり上げ、そのなかで、「被害証言がなくとも、それで強制連行がなかったともいえない。吉田さんが、証言者として重要なかぎを握っていることは確かだ」(『加害 終わらぬ謝罪行脚』)と書いているそうです。しかも、その企画によって、産経新聞大阪本社「人権問題取材班」は、第1回坂田記念ジャーナリズム賞を受賞しているのです。また、読売新聞も、1992年8月15日の夕刊で、「百人の朝鮮人女性を海南島に連行した」という吉田氏の発言を紹介しているそうです。

それどころか、産経新聞には、編集局長(当時)の山根卓二氏がKGBのスパイだったという驚くべき過去さえあるのです。旧ソ連の諜報機関・KGBのエージェントで、のちにアメリカに亡命したスタニスラフ・レフチェンコが、1982年に米下院情報特別委員会で、山根氏の実名をあげて証言しているのです。

リテラ
編集局長がKGBのスパイだった!? 産経が頬かむりする「売国」的過去

産経や読売が頬かむりをして、朝日を叩いている図は、敗戦を「戦後」と言い換えて、みずからは責任を取らず、卑屈なまでに”昨日の敵”に取り入った戦争指導者とよく似ています。それはなにより、「愛国」と「売国」が転倒した「戦後」という時代の”背理”を体現しているとも言えるのです。

今や朝日新聞は、慰安婦の存在自体を否定するカルトな歴史修正主義者たちの格好の餌食となり、ほとんどサンドバック状態と化していますが、しかし、ここに至ってもなお、田原総一郎ら社外の有識者による第三者委員会を立ち上げ「検証」作業をおこなうというのです。一体なにを「検証」するつもりなのでしょうか。これからはリスクが伴う調査報道を避けて、記者クラブの発表により特化した報道に心がけますとでも言って、”反省のポーズ”をとるつもりなのでしょうか。

取材に誤報は付き物です。記者クラブが存在せず、調査報道が主体の欧米の新聞は、それこそしょっちゅう誤報&訂正をくり返しているそうです。朝日だけでなく、産経も読売もどこも誤報を犯しています。まして文春や新潮は、誤報どころではなく、上原多香子の記事のように、確信犯的に俗情と結託した「私刑」の記事を捏造しているのです。

私は、欧米の新聞のように、「はい、訂正しました。これでおしまい」と、どうして言えないのかと思います。「愛国心はならず者の最後拠り所」(A・ピアス『悪魔の辞典』)なのです。「誤報なんていくらでもあるじゃないか」「お前たちだって同じことをやっているじゃないか」と開き直るくらいの気概がなければ、ますます付け込まれ、要求がどんどんエスカレートするだけでしょう。今のようにカルトが跋扈して、「戦争前夜」(半藤一利氏)のような状況を招いているその責任の一端は、朝日の姿勢にもあるのではないでしょうか。

私は、この国の政治が加速度的に右旋回(カルト化)するその梃子の役割を担っている(担わされている)ところに、朝日新聞の”罪”があるのだと思います。それは、朝日の官僚的な体質と危機管理のなさによるものですが、今の経営陣にその自覚があるとはとても思えません。彼らがやろうとしているのは、きわめて官僚的で姑息な対応でしかありません。そして、彼らはみずからの責任を偽装するために、(これまた戦争指導者と同じように)「無条件降伏」というジャーナリズムの死を選択しているように思えてならないのです。

朝日新聞の経営陣は、朝日のコアな読者が「誤報」問題をどう考えているかということがまるでわかってないのではないか。コアな読者が失望したのは、「誤報」そのものより、あとの対応とその姿勢に対してなのです。
2014.10.03 Fri l ネット・メディア l top ▲