冷たい雨が降っているなか、病院に行ったついでに、新横浜のドコモショップで解約の手続きをしました。

既にOCNからSIMが届いているのですが、今のドコモで契約しているプランは日割り計算ができないため、「月末に解約したほうがいいですよ」とお客さまセンターで言われたので、今日まで延ばしていたのでした。

窓口で担当したのは、名札に「研修生」と書かれた若い男性でした。私は、彼も「派遣」か「契約社員」なんだろうなと思いました。隣のカウンターでは、空港のグランドホステスと見紛うような、やけに首のスカーフが目立つ制服を着た若い女性が応対していましたが、その後ろには同じ制服を着たフジテレビの宮澤智アナ似の女性が座って、若い担当者の応答に耳を傾けていました。隣の女性も「研修中」で、そうやってフォローしながら実戦訓練しているのでしょう。

店内を見渡すと、平日の昼間で、しかも悪天候だからなのか、客は少なく、なぜかラフな格好をした中高年の男性が目立ちました。隣も40代後半くらいのナイロンのジャンパーを着た冴えない感じの男性でした。なにやら早口で(しかもぞんざいな言葉使いで)、「研修中」の担当者に向かってスマホに対する浅薄な知識を延々と披歴していました。私は、こういうお客が携帯電話会社にとって「おいしいお客」なんだろうなと思いました。

今やスマホも「下流ビジネス」(もっと露骨な言い方をすれば、DQN相手のビジネス)のひとつになっているような気がしてなりません。あたらしいiPhoneがどうだ、スペックがどうだというような話を聞いていると、吉野家と松屋の牛丼の違いがどうだという話と似た感じがしてならないのです。新型のiPhoneを手に入れるために、早朝からApple Storeに行列を作っている人たちを見ると、私は、朝からパチンコ屋の前に並んでいる人たちと重なって見えて仕方ないのです。おそらく彼らは携帯に月に何万円も使い、それこそ歩きながらでも食事をしているときでもトイレに入っているときでも、いっときもスマホから目を離さない(離すことができない)、スマホにとり憑かれたような生活を送っているのではないでしょうか。そして、私は、村上福之氏の『ソーシャルもうええねん』(Nanaブックス)のつぎの文章を思い出さないわけにはいかないのでした。

 ケータイコンテンツの世界は、クーラーのきいた涼しいオフィスビルのパソコン上で作られた仮想アイテムに、汗水流して働くトラックの運転手さんなどのブルーワーカーがお金を払う不思議な世界です。


「研修生」の彼に解約を申し出ると、別に理由を聞くでもなく「かしこまりました」と言って、淡々と手続きをはじめました。なんだか拍子抜けするくらいでした。もっとも、彼もまだ慣れてないみたいで、手続きをするのが手いっぱいの様子でした。

やっと書類が出来上がったと思ったら(と言っても、簡単な書類が3枚でしたが)、「最終確認をさせていただきますので、少々お待ちください」と言って、胸元のマイクで「書類の確認をお願いします」と告げたのです。すると、上司(社員?)とおぼしき男性が出てきて、書類をさっとめくって承認印を押し、一礼して立ち去って行きました。

私は15年以上もドコモを使っていましたので、さすがに寂しい気持が湧いてきました。それで、「お世話になりました」と挨拶したら、「研修生」の彼は、雨の日はそう言うように教育されているのか、たどたどしい口調で「足元にお気を付けてお帰りください」と言って一礼していました。

店を出ると、外はいちだんと雨脚がはやくなっていました。私は、傘をさすと肩をすぼめて歩道橋を上がり、駅ビルのほうに向かいました。でも、やはり、心のなかにはしんみりとした感情が残っていました。

それから、新横浜駅の三省堂書店で、本日発売されたばかりの田中康夫の『33年後のなんとなく、クリスタル』(河出書房新社)を買って帰りました。

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ドコモにさよなら
『ソーシャルもうええねん』
2014.11.26 Wed l ネット・メディア l top ▲
最近、駅前で通行人にチラシを配っている若者をよく見かけますが、私がよく行く私鉄の駅では、いつも同じ女の子がチラシを配っています。彼女がチラシ配りに駅前に立つようになってもう半年以上になるでしょうか。見ると、如何にも流行の先端を行く今どきのおしゃれな女の子という感じです。

なんのチラシを配っているのかと言えば、ヘアサロン(美容院)のチラシです。それは、今やどこの駅前でも見られる光景です。彼女たちは、「アシスタント」と呼ばれる学校を出たばかりの美容師の見習いなのです。

ヘアサロン、アパレル、エステなど、若い女の子があこがれる職業を「キラキラ系」と呼ぶそうですが、『週刊金曜日』(8/22号)の特集「夢とやりがいに潜むワナ キラキラ系業界の裏側」をとり上げたリテラの記事は、その実態をつぎのように書いていました

特集記事「今や信号機よりも多い 競争激烈のヘアサロン」によれば全国の美容室の店舗数は23万店(13年)。全国の信号機数約20万機(12年)よりも多く、激烈な競争のしわ寄せは若いアシスタントにいく。
「たとえば埼玉県内の美容室では次のような給与体系になっている。基本給13万円の『見習い』は、『社会人としての常識がある』ことが条件だ。『アシスタント』は『シャンプーができる』ことで14万円に昇給」する仕組みだ。
美容室「Ash」を経営しているジャスダック上場「アルテ サロン ホールディングス」では、アシスタントを朝10時から夜中の11時過ぎまで外でチラシ配りをさせていて問題になったこともある。

リテラ
月収11万、自腹購入、枕営業…オシャレ業界のブラックすぎる実態


有名ヘアサロンでは、タレントやモデルの仕事を取るために”枕営業”をさせられるアシスタントもいるのだとか。売上げのノルマをこなすために自腹買いを余儀なくされるアパレルのショップ店員も同じですが、一方で彼女たちは、仕事に「やりがい」をもって夢を追いかけている(と思い込んでいる)ので、自分が働いている職場が「ブラック」だという認識はないのです。これを「ブラック企業にありがちな『やりがい搾取』」と言うのだそうです。

「やりがい搾取」とは、いろいろな仕掛けでやりがいを錯覚させることで従業員を低賃金で働かせ、搾取するというもの。代わりがいくらでもいる若手は身体や精神がこわれるまで搾取する。ヘアサロン、ファッションなどのオシャレ業界だけではなく、テーマパーク・東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドなどでも見られるものだ。



この国の格差はもはや先進国で最悪と言われていますが、こんな話を聞くと、「やりがい」だとか「生きがい」だとかいった日本人特有のストイックな仕事観が、逆に格差をもたらす要因になっているような気さえしてきます。アベノミクスの「成長戦略」のひとつである「女性が輝く社会(づくり)」も、「やりがい搾取」の政治版と言えないこともないのです。

近所の駅前商店街でも、個人商店がどんどん姿を消してチューン店ばかりになっていますが、その背後にあるのは、このような人をモノのように使い捨てる殺伐とした現実です。それは、人をコストとしてしか見ない冷徹な資本の論理であり、資本の論理のもとで人間が疎外される資本主義の現実なのです。これは、私たちにとっても決して他人事ではないはずです。「お客様」の立場でふんぞり返るのではなく、そこからちょっと視点をずらせば、女性に「夢」を売り女性を「幸せ」な気分にする仕事が実は女性を酷使し女性を搾取しているという現実とその仕組みが見えてくるはずです。
2014.11.24 Mon l 社会・時事 l top ▲
現在、もっとも注目を集めているジャーナリストは常岡浩介氏ではないでしょうか。言うまでもなく、常岡氏は、「イスラム国」行きを志願した北大生が刑法第93条の「私戦予備及び陰謀罪」の容疑で取り調べを受けたことに関連して、警視庁公安部外事三課から家宅捜索を受けたフリーのジャーナリストです。

常岡氏は、北大生を「イスラーム国司令官に引き合わせるための引率役を引き受けていた」(Wikipedia)と言われていますが、真相はまったく違っているようで、そのあたりの経緯について、つぎのように語っていました。

ーー学生とはどうやって知り合った?
「Oという怪しい人物が『シリアで求人募集』と書かれたチラシを悪ふざけでつくった。それを北大生がアキバで見て、電話した。するとその怪しい人物Oがイスラム法学者の中田考先生へ。中田先生はまったく冗談の通じない人なので、僕へ『シリアで戦いたいという学生がいるので取材してもらえないか』とわざわざ連絡してきた。それで北大生とは3回会った。8月初めに2回と10月4日。8月の2回目にVTR回してインタビューした」
ーー学生はどんな人?
「イケメンでしゃきしゃきしてて普通に話すとまとも。北大の大学院生で26歳。数学を研究してたはず。彼にインタビューすると、『もともとシリアにもイスラムにも、あるいはイスラム国にもイスラム革命にも全く関係関心もなく、今も関心がない。日本でない別の常識がある場所へ行きたい』と。
 シリアにわざわざ戦いに来たりボランティアに来たりする人はシリアのことが気になってしょうがないという人たち。北大生がシリアに全く関心がないというのが意味不明。彼は結局、シリアが破滅的な場所というイメージでとらえて、その場所を自分の自殺願望か破滅願望の舞台装置として使いたいというだけの人だよ」

東京ブレイキングニュース
イスラム国「参加計画」騒動の内幕を渦中のジャーナリスト常岡浩介氏に聞いた。


北大生については、公安警察に詳しい清水勉弁護士も、ブログで、「この北大生が刑法制定はじまって以来はじめて私戦予備・陰謀罪を適用した容疑者だというのだから、警視庁公安部のセンスに呆れる」と警視庁公安部をヤユしていました。

さくら通り法律弁護士事務所
清水勉の小市民的心意気!

北大生の高笑い

清水弁護士は、今回の「私戦予備・陰謀罪」は「秘密保護法の予行練習」だと言ってましたが、たしかに12月から施行される特定秘密保護法で謳われている主目的は、「テロ」、それも「国際テロの脅威」から国家機密を守ることなのです。特定秘密保護法の施行を現場で担う公安警察が、今回の「強制捜査」に対する政治家やマスコミや世論の反応を探っているのは間違いないでしょう。

常岡氏は任意同行だけでなく、「被疑者として取り調べる」という出頭要請も拒否し、このままでは逮捕も必至と言われています。清水弁護士も「逮捕されるのは間違いないだろうが、最終的には不起訴で釈放されるのではないか」と言っていました。

逮捕が現実味を増してきたのに伴い、常岡氏のTwitterのアカウント名もいつの間にか「常岡浩介容疑者」に変わっていました。もちろん、これは常岡氏のジョークです。このように常岡氏はみずからに迫る警察の影を逆におちょくり面白がっているフシさえあるのです。常岡氏は、早稲田の「少女マンガ研究会」OBでもあるのですが、そういったユニークなキャラクターも常岡氏が注目されるゆえんなのでしょう。

それにしても、この「私戦予備及び陰謀罪」に登場する人物たちは、北大生や常岡氏だけでなく、日本のイスラム学の第一人者と言われる中田孝元教授も、上記のインタビュー記事で「O」と呼ばれている「求人募集」の貼り紙をした「大司教」(秋葉原の古書店主)も、みんなユニークなキャラクターの持ち主ばかりです。彼らの話を聞くと、新聞やテレビなどマスメディアが伝えるイメージとはまったく違った「事件」の姿が浮かび上がってくるのでした。

「イスラム国」の実像もマスコミが伝えているものとはかなり違っています。「イスラム国」に3度行った常岡氏は、実際の「イスラム国」はまったく統制がとれてなくて、なかにはフセイン政権を支えたイラクのバース党の残党が「イスラム国」を名乗っているケースもあると言ってました。常岡氏は、最近、彼らの暴力が内部に向かっている(粛清がはじまっている)ことを懸念していましたが、私は、「イスラム国」は(スケールは比べようがないけれど)連合赤軍と同じような末路を辿るんじゃないかと思いました。「イスラム国」を過大に危険視し「世界の敵」であるかのように看做すことで「得」をするのは誰なのか。「イスラム国」と対立するシリアのアサド政権が、「イスラム国」以上の虐殺行為をおこなっている事実や、国内的には「イスラム国」の「脅威」を利用して、ジャーナリストの取材活動に網をかける「秘密保護法の予行練習」がおこなわれている事実を知る必要があるでしょう。

「イスラム国」というと、なにかとんでもない話のように思いますが、そういった「過激派」を口実に”自由な言論”が規制されていくそのカラクリを、常岡氏は、おちゃらけながら彼なりの方法で告発していると言えるのです。
2014.11.20 Thu l 東京 l top ▲
メディアミックス化する日本


既に「ネットの『責任』と『倫理』」でも触れましたが、大塚英志著・『メディアミックス化する日本』(イースト新書)を読みました。「あとがき」によれば、本書は、今年の夏に東京大学大学院情報学環で開かれた「角川文化振興財団寄付講座」のなかで、受講のために来日した外国人向けにおこなった「裏ゼミ」の講義を書き起こしたものだそうです。

KADOKAWAとドワンゴの合併によってますます進化するメディアミックス。しかし、同じ角川でもかつて角川春樹がおこなったものと今のKADOKAWAの総帥・角川歴彦がおこなっているものは、似て非なるものだと著者は言います。角川春樹がおこなったのは、まず「原作」があって、それを映画化し相乗効果を狙う典型的なタイアップ商法でした。それは、メディアミックスではなく「トランスメディア」だと言います。

一方、角川歴彦のそれは、一つの「世界観」を作り、そこから多様な作品を生み出すTRPGの考え方に基づいたものです。ゆえに「角川歴彦型メディアミックス」はポストモダン的と言われるのですが、しかし、著者によれば、この「多元的なストーリーテリングの仕組み」は、中世の「説教師」の口頭構成法や江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃や能や講談など、大衆文化にもともと内在していたのだとか。講談速記本を出版することから出発した(大日本雄弁会)講談社の成り立ちに示されるように、「固有の作者」や「著作権」というのは、近代の大衆メディアから派生的に生まれたものにすぎないのです。

江戸時代の大衆表現には『世界網目』という「世界観」の種本があり、そこから「趣向」に沿ってさまざまな物語が立ちあげられたのです。さらに受け手もそれに参画し、「生産」と「消費」が溶け合っていくシステムを著者は「物語消費」と呼ぶのでした。現代におけるその典型例がアニメや音楽などの「二次創作」です。KADOKAWAとドワンゴの合併は、ユーザー(ファン)の「二次創作」への課金を企む(つまり、プラットフォームを提供することで、ロイヤリティを取ってコンテンツを作成させる)、「吐き気もする」ようなシステムだと著者は批判するのでした。

KADOKAWAでは、「著者」と「編集者」が、KADOKAWAに内在したある種の物語消費論的なシステムの中で「メディアミックス」の名の元にコンテンツをこれまで制作してきたが、そこにユーザーのコンテンツを吸い上げる「ニコ動」が一体化した時、そこに成立するのは、より大きなプロもアマも包摂する巨大なコンテンツの生成システムである。なるほど、これまでも制作は見えない制度によって呪縛されてきた。そしてその呪縛の所在を示すのが批評であり、格闘するのが文学でもあった。しかしこの不可視の制度が外部化し、ユーザーサービスとしての装いを施すことで、ユーザーの些細な水準での徹底した快適さが提供され、その環境の中で人は消費行動としての創造性を「快適に」発露することになる。


そして、KADOKAWAとドワンゴの合併がもたらすのは、「『快適』に想像力が管理された未来である」と言います。そんな「趣向」の変化は、「若者の『教養』がマルクス主義からアニメおたく的文化に急激に変化した」ことと無縁ではないでしょう。今の若者たちが政治や宗教や文学や社会などにコンタクトする際、そのベースになるのはアニメやRPGなどによって培われた「サブカルチャー的想像力」なのです。純文学や左翼的言説が見向きもされなくなったのもむべなるかなです。

それはまた、現在(いま)の反知性主義が跋扈する風潮においても同様です。偽史カルト(歴史修正主義)は、ネトウヨだけの話ではないのです。安倍首相のFacebookでの発言などを見るにつけ、安倍内閣が「ネトウヨ内閣」と言われるのはあながち的外れではないような気さえします。安倍首相に代表されるような、中国や韓国によって正しい歴史が歪められたと主張する「被害者史観」(その裏返しとしての「慰撫史観」)とオウム真理教は地つづきなのです。彼らに共通するのが偽史カルトです。

著者は、「受け手側の創作性を発動させて自発的に<大きな物語>に回収していく仕組み、つまり角川歴彦型メディアミックスとしてオウムはあった」と言います。

 少し前までなら、作家になるためには新人賞などを経由して「小説家」としてメディアに参画する権利を有する必要があり、その基準の妥当性はさておき、完全なコピーアンドペーストではない程度の創作性は認められていました。しかし、物語消費的なメディアミックスというものがあれば、そこに広く誰でも参加でき、擬似的な創作というものを行う環境が与えられるのです。
 このような擬似的な創作をしながら世界の中に参入していくことは、「固有の私になりたい」と「大きな物語の中に抱かれたい」という、近代的な二つの欲望を何らかのやり方で満たすことなのだと言えます。


でも、これはあくまで「擬似的な創作」にすぎないのです。「物語消費的なメディアミックス」は、そうやって消費しながらひとつの世界観に回収していく装置なのです。

もちろん、それは、YouTubeやニコ動の「二次創作」だけでなく、ネットの書き込み全般に言えることです。彼らが政治や社会に対して主張するその根拠に、本を読んだり勉強したりして得たいわゆる「古典的な教養」は皆無です。すべてはネットのパクリ(口真似)でしかないのです。だからこそ彼らはカルト化していかざるを得ないのだとも言えるのです。オウムがしたことは、「架空の歴史と本当の歴史を交換しようとするテロ」であったと著者は言いますが、もし今のネット住人たちが80年代にタイムスリップしたなら、オウムが捏造する「大きな物語」にからめとられるのは間違いないでしょう。

ヘイト・スピーチの団体の幹部がニューエイジ系の雑誌の編集者であった事実や、幹部たちが知り合ったのは自己改造セミナーだったという噂などを知るにつけ、ヘイト・スピーチはカルト宗教の問題でもあるのだということをあらためて痛感させられるのでした。もちろんそこには、口真似しかできない「架空の私」が伏在しているはずです。

「ニューエイジ」や「自己改造セミナー」とヘイト・スピーチ、それらを架橋しているのが偽史カルトであり「サブカルチャー的想像力」です。「架空の私」を「架空の歴史」に飛躍させる、それが「セカイ系」なるものの内実です。その装置(仕掛け)として「おたく騙し」の「角川歴彦型(物語消費的)メディアミックス」があるのだと著者は言うのでした。「角川歴彦型メディアミック」が政治や宗教の動員ツールとしていくらでも転用が可能だと言うのは、そのとおりでしょう。

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2014.11.14 Fri l 本・文芸 l top ▲
私は、ドコモに加入して来月でまる12年になります。もっとも、途中、携帯電話を紛失して数ヶ月だけ他社に加入していた時期がありますので、通算すれば15年以上ドコモに加入しているはずです。

しかし、今月でドコモを解約することにしました。理由は、ドコモの新料金プランにまったくメリットがなかったことと、来るべきSIMフリーの時代に備えるためです。

携帯電話の料金プランは、ご存知のように、音声通話とパケット通信(データ通信)の二つの柱によって成り立っています。今、私が加入しているのは、通話の部分が「タイプXiにねん」(802円)で、パケットの部分が「Xiパケホーダイフラット(7G)」(5700円)です。これにスマホの割賦払いが加わり、月に大体8000円~9000円くらい払っています。

割賦払いは今月で終了しますが、それに伴い端末代金を補てんする「月々サポート」(1900円)も終了しますので、来月以降、今より1000円くらい安くなり、7000円~8000円の支払いになる予定でした。

ただ、私が加入しているのは、既に新規契約の受付を停止している旧料金プランです。新プランに移行すると、旧プランより2000円くらい負担増になるのです。いつまでこの旧プランを契約できるのか、当然そういった不安を抱きます。それで、ドコモのお客様センターに電話して確認しました。すると、答えは以下のようなものでした。

①機種変更をしなければそのまま旧プラン継続可能。
②機種変更すれば、iPhoneの場合は新プランに強制加入。iPhone以外は旧プランの継続は可能だが、「月々サポート」1900円は適用されない。

つまり、機種変更すれば、旧プランであっても「月々サポート」がなくなるので、新プランとほとんど変わらなくなるのです。この新料金プランの仕組みは、ドコモだけでなく他社も似たようなものです。今回ドコモが主導した新料金プランは、収益源である通話料金を無料アプリに奪われないように一定額確保し、携帯電話料金の高止まりを狙う「邪悪な」意図がミエミエなのです。

新料金プランと旧料金プランの違いは、主に通話の部分です。パケットの部分は、金額的にはそう違いはありません(家族でデータ量をシェアできるとかありますが、それも私には関係ない)。新料金プランに移行すれば、2916円で電話がかけ放題になるというのが謳い文句です。しかし、私のようにあまり電話をかけなくて、月に通話料金が1000円以下のような人間は、逆に負担増になるのです。それに今はLINEやカカオトークなど無料(格安)アプリもありますので、「電話のかけ放題」というのは、ドコモが言うほどメリットはないのです。

そこで、目をつけたのが同じNTTグループのOCNモバイルONEでした。ドコモと同じ回線で、データ量4Gのプランで1566円(税込)でした。ただ、その場合、ひっかかったのがテザリング(「デザリング」ではなく「テザリング」が正しいらしいので、そっちに統一します)でした。私は、たまに出先でパソコンを使うことがありますので、テザリングが必要なのですが、しかし、ドコモの端末ではテザリングができないのです。MVNOはNTTのドコモの回線を使い、SIMもドコモのSIMなのに、テザリングができないというこの不思議。なんでもドコモの端末には、デザリングを規制するために、テザリングすると接続先(APN)を変更する機能が組み込まれているからだそうです。こういったところにも、ユーザーの利便性を無視したドコモの夜郎自大な体質が垣間見えるのでした。

それは、料金も然りです。ドコモは言わば(回線=インフラの)メーカーのようなもので、そのメーカーが小売と卸しを両方やっていて、MVNO業者は、ドコモから回線を卸してもらいそれを小売しているのです(だから、ドコモのSIMを使うのです)。ところが、利用料金(商品代金)は、メーカー直で買うよりメーカーが卸した小売店で買うほうがはるかに安いのです。通常の商売ではこんなことはありえないでしょう。

テザリングができないので、スマホ用のSIMとは別にPC用のUBS端末もレンタルすることにしましたが、それでも全部で3千円足らずでした。ドコモの半分以下です。OCNモバイルONEにすると、電話番号が090や080ではなく050のIP電話になり、メールも携帯(キャリア)メールが使えないという”制約”がありますが、それもデメリットとは言えない程度の話でしょう。追記:12月より音声付SIMが発売され、従来の携帯と同じように番号ポータビリティ(MNP)が可能になりました。

なにより、やっと2年の割賦が終わったばかりのスマホを無駄にしたくないという気持がありました。ドコモが嫌だからと言って、ソフトバンクやauに乗り換えれば、端末もあらたに買い替えなければならないのです。もっとも、端末のSIMフリーが義務づけられれば、このような特殊ニッポン的なシステムも改変され、海外と同じように端末メーカーと通信業者の区分けが明確になって、もっと自由に端末を選ぶことができるようになるはずです。もちろん、たとえばandroidの場合、Google のIDでログインしてさらにドコモのIDでログインしなければならないとか、Gmailがあるのに別にドコモメールがあり、そのために電話帳が二つあるとかいった、ややこしいことも徐々に解消され、テザリングに規制をかけられるような理不尽なこともなくなるでしょう。あとは通信方式が統一されて、さらに競争が進むことを願うばかりです。

今までは資本主義社会にあって資本主義のメリットを充分享受できない体制にあったのです。そのガラパゴスな体制をつくったのがNTTドコモです。たしかに、SIMフリーになっても、インフラ(回線)をNTT(ドコモ)が独占している限り、ガラパゴス体制はつづきますが、それでも今までよりいくらか資本主義のメリットを享受できるようになるはずです。その第一歩が今回の「ドコモにさよなら」なのです。
2014.11.08 Sat l ネット・メディア l top ▲
私は、仕事の関係で、夜遅く隣駅との間にある郵便局(本局)の「ゆうゆう窓口」(時間外窓口)を利用することが多いのですが、半年前くらいから行く途中に、台車に犬を乗せて散歩している人を見かけるようになりました。はじめてその光景を見たときはびっくりしました。と言うのも、犬は、台車の上で横になってベタッと寝ているだけなのです。私は、死体を運んでいるのかと思いました。

実は、年老いて立つことさえままならない愛犬を散歩させていたのでした。台車を押している人も、もう70を越したような老齢の男性です。昼間は他人(ひと)の目があるので、そうやって深夜に散歩させているのでしょう。

あるとき、脇道の外灯の下に台車が止められ、男性が前かがみになって、犬の胴体を持ち上げようとしているのに出くわしたことがありました。男性は、犬を歩かせようとしていたのです。しかし、犬は自力では一歩も歩けないほど弱っていました。でも、男性は何度も犬の胴体を持ち上げて、懸命に歩かせようとしていました。そんな二人の影が深夜のアスファルトの上でゆれていました。立ち止まってその光景を眺めていた私は、今にも涙があふれそうになりました。

子どもの頃、わが家でも犬を飼っていました。小学校のとき、作文に「ジョン」(最初の犬の名前)のことを書いて、みんなの前で発表した思い出があります。そのあとは「ウタ」という名前の犬も飼っていました。「ウタ」は、今から20年くらい前に亡くなりましたが、早朝、田舎の母親から「今、ウタが死んだよ」と涙声で電話がかかってきたことを覚えています。私は、深夜に台車に乗せられた犬を見るたびに、「ジョン」と「ウタ」のことが思い出されてならないのでした。

一方で私は、そんなペットのいる光景とネットの殺伐とした光景をどうしても対比したくなるのでした。ネットはどうしてあんな畜生のようなもの言いにあふれているのか。「水は低いほうに流れる」ネットの同調圧力は、もはや最低限の人間性さえ奪っててしまったかのようです。宮台真司は、ネトウヨは「知性の劣化ではなく感情の劣化だ」と言ってましたが、まさに感情の暴走がはじまっていると言うべきかもしれません。

でも、「政治なんてない」(吉本隆明)のです。ネトウヨは、ただの”煽られるバカ”、いや、”煽られる人”にすぎません。私たちにとって大事なのは、”鬼畜中韓”の妄想にとりつかれ、寝ても覚めても「嘘つきの」中国や韓国のことを考えることより、深夜に年老いた愛犬を台車に乗せて散歩させるような気持を忘れずにもちつづけることなのです。そっちのほうが人として大事なのだという思想をもつことなのです。
2014.11.07 Fri l 日常・その他 l top ▲
2014年11月 3日3


夕方、横浜駅前の中央郵便局に行ったついでに、いつものように横浜駅からみなとみらい・関内を歩きました。

やはり、連休の最終日だからなのか、途中、横浜ベイクォーターやコスモワールドは大変な人出でした。そもそも一人で歩いている人間なんてほとんどいません。しかも、なぜか人波に逆らって歩くことが多いため、舗道を通りぬけるのさえひと苦労でした。

コスモワールドは、夜景はきれいなのですが、施設は期間限定の「暫定施設」なので、乗物や施設はショボくて、どことなく場末感が漂っています。ちなみに、みなとみらいにある2階建ての建物などは、ほとんどが期間限定の「暫定施設」です。最近、やたらと外車ディラーのショールームができていますが、それらも期間限定の「暫定施設」にすぎません。そして、そういった「暫定施設」が、なによりみなとみらいが「負の遺産」であることを物語っているのです。

舗道が歩きずらいので、コスモワールドのなかに入ったら、なかはカップルだらけでした。私の前を新垣結衣に似たかわいい娘(こ)が男の子と手をつないで歩いていました。おじさんは、新垣結衣のミニスカートからすらりと伸びた足に目が吸い寄せられ、目まいを起こしそうでした。どうやら二人はお化け屋敷に入るみたいで、お化け屋敷が近づくと、新垣結衣は隣の裾のほつれたズボンをはいた男の子に身を寄せながら、「怖いよォ~」と甘えた声を出していました。すると、サルのような顔をした男の子が、「大丈夫だよ」と言って人さし指と中指で新垣結衣のおでこをつついたのでした。それを見ていたおじさんは、「ふん」と鼻で笑い、二人をガン見すると、そそくさと追い抜いて行ったのでした。

象の鼻パークに行くと、「スマートイルミネーション横浜2014」というイベントの一環で、プロジェクターを使った「野外劇」がおこなわれていました。それは、隣接するビルの壁に映し出された人物が会話劇を演じる、奇妙で薄気味の悪いパフォーマンスでした。

横浜は、このようなアートの催しが多いのが特徴です。でも、どう考えても普段の横浜はアートなんてまったく似合いません。アートはあくまで観光客向けのイベントにすぎないのでしょう。素の横浜は、アートよりマンガ、ジャズよりヒップホップや演歌が似合うヤンキーの産地です。横浜では新垣結衣もヤンキーになるのです。そして、ハリボテの「暫定施設」やおつに済ましたアートなどとは関係ない、そんな素の部分にこそ横浜の魅力があるのです。


2014年11月 3日1


2014年11月 3日2

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横浜の魅力
2014.11.03 Mon l 横浜 l top ▲
まだ途中までしか読んでないのですが、大塚英志氏の新著『メディアミックス化する日本』(イースト新書)のなかで、KADOKAWAとドワンゴの合併に関連して、つぎのような文章がありました。

「世論」を極端な方向に誘導した朝日新聞など旧メディアは糾弾される一方で、例えばニコ動上の「世論」形成に対して、川上量生も角川歴彦も、自らが「責任」を問われるという感覚がそもそもないでしょう。もし朝日新聞の報道がつくり出した「空気」の責任を朝日というメディや、その経営者に問うことが妥当なら、プラットフォームの責任をプロバイダ責任制限法を持ち出してよもや免責することはあってはならないわけです。自分たちが「発話」のためのプラットフォームの提供者だから、その中身に責任はないというのは、一方でその投稿をコンテンツとしている以上、通用しないロジックです。


言うまでもなく、ニコ動はヘイト・スピーチの一大拠点です。そして、ドワンゴは、その「流言飛語」の「多元的発話システム」を「マネタイズ」しているのです。つまり、ヘイト・スピーチや歴史修正主義のようなカルト思想に「場」を提供することによって、金儲けをしているのです。金儲けをしている限り、間違っても責任がないなんていうことはないでしょう。

今までヘイト・スピーチを煽っていた政治家や官僚や桜井よしこなどの”右派文化人”たちは、ここにきていっせいに手のひらをかえしたように、ヘイト・スピーチの梯子を外しはじめていますが(そして、先日の飯田橋の暴力事件に警視庁公安部が乗り出してきたことからもわかるように、これからヘイト・スピーチに対する規制が本格化するのは間違いないと思いますが)、だからと言って、彼らがこれまでヘイト・スピーチを煽ってきた責任から逃れられるわけではないのです。それは、ニコ動も同じです。

 そもそも「個人の表現の自由」がより広く個人に与えられ、それに基づく「合意形成」がなされることは、民主主義システムの見果てぬ夢でした。それがWEBである程度可能になった時、それを運用する企業に「倫理」が不在なのは解せません。けれど、少なくともぼくも多少はインサイダーな話が漏れ伝わる立場にいたこともあるKADOKAWAやドワンドで、その経営陣がこのような「倫理」について言及したことを知りませんでした。


川上量生はジブリ関係者の前では「ぼくの夢はニコ動からネット右翼を追い出すこと」とかつて語っていますが(そういうオフレコ発言を書くのはフェアではないかもしれませんが、彼は公人なので)、問題なのはむしろ彼がニコ動というプラットフォームのもたらしたものに責任を持つ意思がないことです。安倍に政治的に加担するならすればいいのです。しかし、彼に限らずプラットフォームのトップは、「ニュートラル」などというものではなく「責任」という概念を全く持つことのできない、いや「それって何?」と本気で思える人たちです。


たしかに、ネットというのは「発話」(発言)すること自体は「自由」です。その意味では、「民主的」と言えるのかもしれません。しかし、現実において、私たちが「発話」するためには、ニコ動や2ちゃんねるやTwitterやFacebookやLINEなどなんらかのプラットフォームを利用しなければなりません。そして、プラットフォームを利用すれば、「発話」は立ちどころにあらかじめコントロールされたシステムのなかに組み込まれることになるのです。「一人ひとりの断片的な書き込みやツイートは、実は今や『民意』という『大きな物語』に収斂する仕掛け」になっているのです。私たちの「発話」は、その”宿命”から逃れることはできないのです。

一企業の金儲けの論理のなかに「言論・表現の自由」が担保されているというこのあやふやな現実。これがネット「言論」なるものの特徴です。そして、それは、私たちの「発話」だけに限った話ではないのです。Google 検索やYahoo!ニュースなどもまったく同じ構造のなかにあるのです。

先日、テレビの深夜番組で、Yahoo!トピックスが取り上げられていましたが、それによれば、Yahoo!トピックスを担当するのは、わずか25人だそうです。25人が国内にある3つの拠点に分散して、日々のニュースを編集しているのだとか。メンバーを見ると、ほとんどが20代後半~30代の新聞社や通信社の元記者たちでした。そんな彼らが、契約先からあがってくる記事を取捨選択し編集して、まとめサイトと同じようにトップページに掲載する作業をおこなっているのでした。

新聞記者というのは、みずから取材してみずから記事を書くことに生きがいを見いだすのが普通ではないでしょうか。そのために新聞記者になったのではないか。でも、彼らは取材することはありませんし、みずから記事を書くこともありません。一日中パソコンの前に座って他人が書いた記事をピックアップするだけなのです。

と言うことは、彼らは記者の落ちこぼれではないのか。ジャーナリストになれなかった人間たちではないのか。私にはそう思えてなりませんでした。本来なら靴底を減らして取材し、自分で記事を書くことに生きがいを見い出すはずなのに、それを捨てた人間たちなのです。そんな25人の青年たちが、月間45億ページビューというとてつもない影響力をもつYahoo!トッピックスを編集しているのです。そして、その背後には、言うまでもなくあのソフトバンクの拝金思想、いや、企業の論理が伏在しているのです。おそらくそこには、「編集権」という考えさえ存在してないのでしょう。

私は、その番組を見て、どうしてときおりYahoo!のトップページにヘイトな記事がアップされるのか、その理由がわかったような気がしました。2ちゃんねるの内紛によって、その一端があきらかになりましたが、政治権力にとって、一企業のあけすけな論理で運営されているニュース媒体をコントロールすることなど、それこそ赤子の手をひねるように簡単なことでしょう。むしろ、コントロールされてないと考えるほうが無理があるのではないでしょうか。

Yahoo!は、間違っても「報道機関」ではないのです。Yahoo!ニュースの担当者は、間違っても「ジャーナリスト」ではないのです。ネットにおいてはニュースさえ、「責任」も「倫理」もない、お金の論理に支配された(身も蓋もない)構造のなかで流通しているのです。そのことを忘れてはならないでしょう。

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2014.11.02 Sun l ネット・メディア l top ▲