「電波芸者」ということばは、70年代か80年代の初め頃、どこかの雑誌の匿名コラムで、田原総一郎氏に対して言っているのを目にしたのが初めてだったように思います。

それが今や「電波芸者」だらけです。「電波芸者」は、本来とても恥ずかしいことなのに、いつの間にか権威ズラしてのさばるようになっています。いつからテレビに出ることが恥ずかしいことではなくなったのか。

テレビ朝日の「報道ステーション」のコメンテーターをつとめていた古賀茂明氏が、27日に最後の出演をした際、官邸からの圧力で”降板”させられたと発言したことに対して、「電波芸者」たちがいっせいに批判を浴びせています。その代表格が、竹田圭吾氏と江川詔子氏でしょう。

二人はそれぞれTwitterでつぎのように批判していました。

竹田圭吾Twitter20150327

江川詔子Twitter20150327

二人ともテレビに出る「機会」が非常に「貴重」なものだと思っているみたいです。だから、その「機会」を大事にしなければならないのだと。

それにしても、竹田氏は、「責任」や「義務」ということばをどっちに向けて言っているのかと思います。竹田氏の発言は、自民党の政治家などが、自由には「責任」や「義務」が伴うことを忘れていると言うのとよく似ています。

江川氏も然りです。古賀氏は、今回の”降板”の裏にある官邸の圧力や、テレビ朝日や根っからの「電波芸者」である古舘伊知郎周辺の報道機関にあるまじき”事なかれ主義”を批判しているのですが、江川氏は、それを「個人的な恨み」だと矮小化しているのです。そうすることで、「電波芸者」であるみずからを合理化しているように見えます。もしかしたら、「私は大丈夫ですよ」と言いたいのかもしれません。

私の友人に講演を斡旋する仕事をしている人間がいますが、彼によれば「テレビに出ている人」というだけで講演の依頼が多く、講演料も跳ね上がるのだそうです。だから、ワイドショーのコメンテーターやキャスターなどは、平日はテレビで顔を売り、週末は講演で地方をとびまわって荒稼ぎしているのだとか。

かくも「電波芸者」は金のなる木なのです。テレビ局様々なのです。そして、そのおいしい仕事を維持するためには、権力に対して「責任」と「義務」という恭順の意を示すことを忘れてはならないのです。

竹田氏や江川氏らの“古賀批判“は、眉に唾して聞く必要があるでしょう。彼らがときに口にする「政府批判」(らしきもの)も、単なる「ガスぬき」にすぎないのです。マツコ・デラックスや有吉弘行の”毒舌”と同じような「お約束芸」です。それがテレビというものです。それを彼らは、大事にしなければならないと言っているのです。

そもそも今回の問題の背景にあるのは、安倍政権によるメディア介入疑惑(のはず)なのです。NHKや朝日新聞に対してのさまざまな手段を使った圧力。メディア関係者との定期的な会食による懐柔。NHKの従軍慰安婦に関する番組に事前に介入し内容を改変させたり、ネトウヨ御用達のヘイト出版社、産経やワックや青林堂の本を大量買いしていたことが政治資金報告書の「書籍購入記録」であきらかになったりと、安倍総理の言論に対する認識が(民主主義者とは思えないような)きわめてゆがんだものであるのは、もはや周知の事実です。

古賀氏が1月の放送で「I am not ABE」と発言した直後から、官邸の圧力で古賀氏が降板させられるのではないかという噂がささやかれはじめたのも、そういった背景があったからです。また、前の「報道ステーション」のコメンテーターで、現在「ワイド!スクランブル」のコメンテーターをつとめている末延吉正元政治部長が、同郷の「宰相A」=安倍総理ときわめて親しい関係にあることを本人が週刊誌などで公言していますので、テレビ朝日に対してよけい神経質にならざるを得ない面もあったのでしょう。ニュースステーション」の関係者たちは、古賀氏の行為を「テロだ」と騒いでいたそうですが、それを言うならNHKや朝日新聞に対する権力の介入こそ「テロ」と言うべきでしょう。

竹田氏や江川氏の発言は、そんな官邸の介入疑惑やテレ朝報道局の臭いものには蓋をする姿勢から目をそらす役割を果たしているように思います。「電波芸者」たちは、文字通りその役割を演じているのです。
2015.03.29 Sun l 東京 l top ▲
宰相A


前の記事でもチラッと触れていますが、田中慎弥の新作『宰相A』(新潮社)を読みました。

私は、あの田中慎弥氏がどうしてこんな小説を書いたのだろう、と最初は戸惑いました。ところが、『宰相A』を読んで以来、テレビで総理大臣のアベシンゾウ氏が国会答弁をしている姿などを目にするたびに、やたらこの小説が思い出されるのでした。

『宰相A』に関連した記事で、私が読んだのは以下の2つですが、いづれの記事も、文学云々よりアベシンゾウ氏と小説の「宰相A」を重ねることに重点が置かれた内容になっていました。つまり、作者と同郷の実在の政治家をモデルにしたディストピア小説という読み方をしているのです。

リテラ
安倍首相のモデル小説を出版! あの芥川賞作家が本人に会った時に感じた弱さと危うさ

朝日新聞デジタル
いま「宰相A」と対峙する 田中慎弥さんの新作、舞台は「もう一つの日本」

小説家の「私」は、9月のある日、30年前に亡くなった母の墓参りに出かけます。「このところ小説のネタが尽きていた」「私」は、「母の墓に手を合わでもすれば何かアイデアが出てくるかもしれない、たとえ何も出てこないにしろ、初めての墓参りという事実を、母の思い出を混じえて描写すれば、圧倒的な評価は得られないまでも作家としての浮上の足がかりには十分なるのではないか」と考えたのでした。

しかし、母の墓がある町の駅に降り立った「私」は、奇妙な光景を目にします。駅のアナウンスも英語で、駅の構内を行き交う人たちも電車の乗客も、みんなアングロサクソン系の外人なのです。彼らは、同じ緑色の軍服風の制服を着ていました。しかも驚くことに、自分たちのことを「日本人」だと言います。やがて「私」は、身分を証明するN・P(ナショナルパス)をもってなかったために、「侵入者」として軍に引き渡され連行されることになります。その連行された先が、アングロサクソン系の日本人が支配する「日本国」なのでした。

「日本国」の公用語は英語で、日本語は「旧日本語」と呼ばれています。「日本国」は、「完全なる民主主義国であり、国民の国への関わり方も非常に積極的で、選挙の投票率は国会、地方を問わずしばしば百パーセント近くに達する。与党は現在の日本が成立して以降一貫して政権を任されており、与党はそれに応えて国民を完全に統治している」全体主義国家です。そして、戦争主義的世界的平和主義の精神を掲げ、世界各地で平和的民主主義的戦争をおこなっているのでした。

旧日本人は選挙権も与えられず、曽野綾子氏があこがれる南アフリカのアパルトヘイトと同じように、居住区に閉じ込められ、そのなかで生活することを強制されています。ただ、首相だけは、旧日本人を封じ込めるために、「旧日本人の中から頭脳、人格及び民主国日本への忠誠に秀でた者が選ばれる」慣例になっていました。そして、現在の傀儡が「宰相A」なのでした。

中央から分けた髪を生え際から上へはね上げて固めている。白髪は数えられるくらい。眉は濃く、やや下がっている目許は鼻とともにくっきりとしているが、下を見ているので、濃い睫に遮られて眼球は見えない。俯いているためだけでなく恐らくもともとの皮膚が全体的にたるんでいるために、見た目は陰惨だ。何か果たさねばならない役割があるのに能力が届かず、そのことが反って懸命な態度となって表れている感じで、健気な印象さえある。


「(略)あれでもだいぶ体調がいい方でしょう。何しろひどく悪くなって一旦は首相を辞めたくらいでしたから。特効薬が見つかったとかで復帰してはきましたが、完治はしていません。」
「なんの病気なんです?」
(略)
 カメラが引いて分ったことがもう一つ。よく見るとマイクが置かれた演壇の前板がそっくり外されていて、そこから、緑の生地に覆われた何かがミサイルの尖端部の形そっくりに突き出ている。首相の腹、にしては位置が低過ぎる。顔をほんの少し斜めうしろに傾けて、
「あの、出っ張ってるところって、ひょっとして。」
「ええ、局部です。」
「臨月の妊婦くらいありますよ。」
「あれが首相の病気です。一度は辞任して治療を続けていたのですが、いっそこのままやってみてはどうかとの軍部からの要請で復帰したんです。」


滑稽な独裁者。無能であるがゆえに精一杯虚勢を張って強い政治家=「愛国」者を演じる独裁者。でも、それは、対米従属の思想を唯一無二のものとする、「愛国」と「売国」が転倒した戦後の背理を体現する哀しき政治家の姿です。アメリカの言いなりになることが「愛国」であるという、この倒錯したナショナリズム。円安株高も、TPPと同様、国を売るカラクリでしかありません(おっと、そんなことはこの小説には書いていませんが)。

ホラン千秋は、帯につぎのような推薦文を寄せていました。

これは夢ではない、現実だ。
社会を疑うことさえ面倒になった日本人。
見て見ぬ振りをしてきた「日本」がここにある。


滑稽な独裁者は、トリックスターでもあります。ナヨナヨとした女性的な身のこなしの彼は、拳を胸の前に小さく振り上げながら、悪い冗談みたいな話をこともなげにつぎつぎと現実化しています。まるで「もうひとつの日本」が現実のなかでも進行しているかのようです。逆にそれが、滑稽で無能な彼の”強み”と言うべきなのかもしれません。

小説のほうは、居住区の旧日本人たちから救世主の再来と見なされた「私」が、やがて反「日」解放闘争のリーダーに祭り上げられ、過酷な役割を担うことになるのでした。

一方、私は、この『宰相A』には、同郷の政治家をカルカチュアライズするだけでなく、作家としての覚悟のようなものも表現されているように思いました。それは、愚直なまでに”文学の可能性”を問う姿勢です。それが、「さ、いくらでも書けばいいの。ただし途中でやめちゃ駄目。ずっとずっと、たとえどんなに大変なことがあっても惨めな目に遭っても書き続けなさい」と母親から言われた「私」の作家としての覚悟なのでしょう。

「私」は、三島由紀夫について、「また小説を書かなければならないのだ。いつまでも死んでいる場合じゃない。死ぬのは作家の仕事じゃない。」と言います。さらに、「どうしてこの世は、大きなお城と立派な制服が大好きな」カフカの『城』のバルナバスばかりなんだろう、と嘆きます。そして、「しっかりしろ、作家。目と耳を塞ぐな。これはお前が書いている世界だ。何を怖がってる? 作家の想像力はそんなに貧しいのか? 紙と鉛筆(それが目に見えないのがどうした?)を使うお前の仕事はこの程度の現実にも簡単に打ち負かされるものなのか?」と自問するのでした。

どんなことばでもいいのです。どんな稚拙でつたないことばであってもいい。大事なのは、政治や文学や批評の世界で流通している制度化されたことばではなく、自分のことばなのです。文壇や論壇などとはまったく無縁な、たとえばヘイト・スピーチに対抗する路上の激しいことばのやり取りのようななかにこそ、あたらしいことばが生まれる可能性があるのだと思います。そのあたらしいことばからあたらしい知性も生まれるはずです。制度化されたことばでいくら反知性的な風潮を嘆いても、なにもはじまらないのです。それは、文学も同じでしょう。

純文学の作家にとって冒険とも言えるこの小説は、そんなあたらしいことばを求める覚悟の表明のようにも読めました。

関連記事:
「共食い」
Coward
2015.03.27 Fri l 本・文芸 l top ▲
笑顔がかわいいE-girlsのAmiチャンに関して、ネットにつぎのような記事が掲載されていました。

Yahoo!ニュース
E-girls・Ami、「逃走中」の言動で批判殺到……「性格悪すぎ」

livedoor'NEWS
E-girlsのAmiが「逃走中」で仲間を売った上に自首し炎上

しかし、私はこれらの記事を読んでも、なにが問題なのか、さっぱりわかりませんでした。何度読み返しても、なぜ「視聴者」が「反感」を抱くのか、「性格が悪すぎ」などと思うのか、その理由がわかりませんでした。

たかがテレビ番組なのです。Amiチャンの「自首」を批判する「視聴者」は、このゲームがガチだと本気で思っているのでしょうか。だとすれば、彼らは、現実と虚構の区別ができない誇大妄想か、はたまたパラノイアなのか。

言うまでもなく、出演者たちは、番組のなかでそれぞれ与えられた役割を演じているだけなのです。「性格」とか「人間性」とか、そんなことばが出てくること自体、もはや理解の外です。

考えてみれば、いつの時代にもこの手のおめでたい人間はいました。ただネット以前は、当然ながらほとんど相手にもされなかったし、彼らが表現する手段も機会もありませんでした。ところが、「総表現社会」(梅田望夫)のネットの時代になると、SNSや掲示板や動画サイトや、あるいは芸能人のブログやYahoo!ニュースのコメント欄などで、彼らがいっせいにイタい「自己主張」をはじめたのでした。しかも、そこで示されているのは、「逃走中」や「テラスハウス」のようなバラエティ番組をガチだと思い込むような「頭がお花畑」の感覚です。

これでは、腹にイチモツの政治家やメディアに煽られるのがオチで、デマゴーグの権化のような「宰相A」(田中慎弥)が彼らのヒーローであるのは当然でしょう。

一方で、PVを稼ぐために、彼らを「ネット世論」として利用しているのが、Yahoo!トピックス、J-CASTニュース、ニコ動、アメーバブログなどのネットメディアです。こんなバカバカしい記事を配信しているRBB TODAY やスポニチアネックスも同様です。なぜなら、ネットメディアにとってPVが広告収入の指標で、「バカと暇人」の彼らがいちばんPVを稼いでくれる存在だからです。そのために、彼らの夜郎自大な勘違いをますます増長させているのです。

これがネットの日常です。ネットにおいては、水は低いほうに流れるのが常ですが、その水はドブ川のほうに流れていると言えます。そして、そのドブ川は、ヘイト・スピーチや偽史カルトで仮構された(「宰相A」がトリックスターをつとめる)「もうひとつの日本」につづいているのです。
2015.03.19 Thu l ネット・メディア l top ▲

 マスメディアから圧倒的な量の情報が奔出すればするほど、オウム真理教はより不可解な存在になっていく。
 当然だろう。警察やマスコミのように社会規範からの逸脱を断罪するだけでは、彼らを理解できるはずがないのだ。
 議論が回避されている宗教の宗教性を徹底して批判することで、わたしたちはわたしたち自身に接近しなければならない。
 神に似せて人間が造られたのではなく、人間に似せて神が造られたと同様、宗教もまた共同体に似ている。
 "オウム真理教"という教団はあっても、そのような宗教はない、とまず知るべきなのだ。
 仏教は、快楽と苦行の"中道"をゆくのであり、オウム的修行を要請しない。"最終戦争"は"末法思想"とさえ結びつかないキリスト教の思想である。反バラモン教の宗教運動であるヒンズー教の神・シヴァを主宰神とすることはあり得ない。
 諸行が無常であることを知らず、ハルマゲドンの到来を怖れる姿は、煩悩にまみれ切った醜悪な姿というべきだろう。
 彼らは絶対的な価値観に身を投じたわけではない。自分たちの価値観に沿って、各宗教を都合よくつぎはぎしているだけなのだ。
 息を止めたり、空中を浮揚したり、セックスを我慢したり。自分ではたいそう苦しい修行を重ねているつもりだろうが、彼らにとって本当に苦しいのは、職場のつきあいだったり、親との折り合いをつけることだったり、セックスをすることだったりするのだ。
 結局彼らはただただ自分を愛しているにすぎない。
 オカルト・軍事・SFおたくで、自分だけを溺愛する偏差値エリートは、われらが親しき隣人である。
 わたしたちは"オウム真理教"に、わたしたちの姿を極相において見ているのだ。
 建設途上で挫折した"オウム国家"が恐怖・嫌悪されるのは、最も異質なものほど最も近しい存在であるからである。 (歪)


これは、地下鉄サリン事件から2ヵ月後の『噂の真相』(1995年6月号)の「撃」という匿名コラムに掲載された文章です。

地下鉄サリン事件からさかのぼること5年前の1990年に、オウム真理教は、熊本県阿蘇郡波野村に土地を取得し、「日本シャンバラ化計画」と称して数百人の出家信者が修行する施設を建設しようとしました。そのため、周辺住民の間で反対運動が起こったのですが、波野村は私の実家も近いため、田舎の友人や実家の母親たちは、既にその頃からオウムに強い関心をもっていて、世間の人たちよりはるかにオウムについての知識を有していました。

また、同年(1990年)オウム真理教が衆議院選挙に出たとき、恵比寿の駅前で象の被り物をした信者たちが選挙カーの上で、歌を歌っていたのを見たことがあり、「あれがオウムか」と思ったことを覚えています。田舎の母親は、その「ショ、ショ、ショーコ、ショーコ」という歌を幼稚園児の姪が覚えて人前で口ずさむので、「困っちょる」と言ってました。

地下鉄サリン事件が起きたとき、田舎の人たちはみんな口をそろえて「やっぱり」と言ってましたが、しかし、私には、オウムがどうしてあんなことをしたのか、そもそもオウムとはなんだったのか、まったく理解の外でした。私は、オウムのことを知りたいと思い、連日の洪水のようなオウム報道を横目に、以前より興味があった仏教の本などを片っ端から読み返してみましたが、でも、私の疑問が氷解することはありませんでした。当時、港区の南青山にあった東京総本部(のちに村井秀夫が刺殺された現場)に直接行って、書籍などを購入したりもしました。その際、応対した信者から、「名前と住所を教えてください」と言われましたが、「ただ本を買いたいだけですから」と言って断りました。しかし、建物から出たら、今度は公安の刑事に取り囲まれ職務質問を受けるはめになったということもありました。

そんななか、この匿名コラムの文章によって、私は、文字通り目から鱗が落ちた気がしたのでした。そうか、彼らはオタクだったのか、と。だったら、オウムというより、”オウム的なもの”は私たちの身近にいくらでもあるのではないか。むしろ、そっちのほうが問題ではないのか、と私は思いました。

地下鉄サリン事件から19年、目黒公証人役場の事務長・仮谷清志さん拉致監禁致死事件や宗教学者の島田裕巳氏宅爆弾事件に関与したとされる平田信被告の裁判員裁判がはじまったことで、再びオウム真理教に対する関心が高まっています。それで、私は、当時の問題意識を呼び起こすように、新進気鋭の宗教学者・大田俊寛氏が書いた『オウム真理教の精神史』(春秋社)を読みました。

オウムとはなんだったのか。著者は、つぎのように書いています。

(略)ロマン主義的で全体主義的で原理主義的なカルトであるというのが、その答えである。そして、ロマン主義、全体主義、原理主義という思想潮流が発生し、社会に対して大きな影響力を振るうようになったのは、近代という時代の構造、より具体的に言えば、国家が此岸の世界における主権性を獲得し、宗教や信仰に関わる事柄が「個人の内面」という私的な領域に追いやられるという構造そのものに起因していると考えることができる。


もっと具体的に言えば、今の社会は、近代国家という「虚構の人格」から「個々人の『死』に関する事柄」が「排除されている」。そのために、「他者=死者との『つながり』のなかで生きるということは、人間にとってもっと重要かつ公的とされるべき事柄でありながら、近代の社会ではそれがスムーズに行われない」ために、「近代社会の表面から追い払われた『死』の問題は、さまざまな幻想を身にまとってやがて回帰してくることになる」。そのひとつとして、オウムがあると言うのです。

オウムの背景に、宇野正美の「ユダヤ陰謀論」や武田崇元の「霊学的終末論」や五島勉の「ノストラダムの大予言」シリーズなど、『ムー』(学習研究社)や『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス)のようなオカルト雑誌を舞台に展開された80年代のオカルトブームがあったことは、多くの人が指摘しているとおりです。しかし、それは日本で突然生まれたものではないのです。

著者によれば、80年代のオカルトブームは、「キリスト教原理主義の終末論が日本的オカルト想像力と混淆し、徐々に大衆的ポピュラリティを獲得していった」もので、オウムの教義や世界観には、仏教やヒンズー教だけでなく、『ヨハネ黙示録』やノストラダムスが著わした『諸世紀』など、「キリスト教的な幻想」も刻印されていると言います。著者は、そのように、神智学からニューエイジ思想まで、さまざまな異端思想が「日本の『精神世界』に引き継がれている」構造のなかに、オウムを見ているのでした。だから、コラムが言うような「各宗教を都合よくつぎはぎしている」「混淆主義(シンクレティズム)的な傾向」があるのは、むしろ当然だと言うのです。

しかし一方で、私は、『オウム真理教の精神史』に対して、どこか隔靴掻痒の感を抱かざるえませんでした。と言うのも、そこには『噂の真相』のコラムにあるようなオタクという視点が欠落しているからです。

オウムは、コラムが言うように、オタクの極相に生まれたのではないか。オタクがカルト化したのがオウムだったのではないか。やはり、そう思えてならないのです。

その意味では、「オウムは終わってない」のです。むしろオウム(”オウム的なもの”)は、私たちの日常に深く入り込んでいると言えます。実際に、ネットの掲示板や動画サイトなどは、文字通りオタクたちの書き込みであふれています。そして、セカイ系のアニメから派生した軍事オタクやヘイトスピーチのネトウヨのように、オタクが(政治的に)カルト化しているのをひしひしと感じざるをえません。

ネトウヨや産経新聞や安倍首相らが信奉する歴史修正主義は、本当の歴史は別にある(陰謀によって真実が隠されている)という”偽史カルト”の一種と言ってもいいでしょう。総理大臣や閣僚が靖国に参拝しただけで、どうしてあんなに(中国や韓国だけでなく)海外から批判されなければならないのか。国内ではそれがまるでわかってないかのようです。オウムの後継団体にあらたに入信する若者が増えているというのもわからないでもないのです。このように”カルト化するニッポン”にとって、オウムはすぐれて今日的な問題だと言えるのではないでしょうか。

九州の山間のムラの人々が対峙したオウム。あれから20数年。オウムの幹部たちの多くは獄窓につながれています。しかし、グローバル資本主義の進展に伴い、世の中はますます殺伐としたものになり、人々はますます”寄る辺なき生”を生きることを余儀なくされ、それにつれ、”オウム的なもの”は社会の隅々にまで拡散し、政治の中枢に影を落とすまでになっています。その危機感を私たちはどれほど自覚し共有しているでしょうか。

※今月の20日で、地下鉄サリン事件から20年という節目を迎えます。それで、昨年1月にアップした記事を再録しました。20年の節目を迎えて、メディアの特集で流れているのは、当時捜査に当たった警察の”自慢話”と「若い人に事件を伝えていかなければならない」という抽象的な常套句だけです。政治の中枢や社会の隅々にまで浸透した”オウム的なもの”からは故意に目を背けているかのようです。
2015.03.16 Mon l 社会・時事 l top ▲
Yahoo!の「ネタりか」に、「メンタルが強い人の特徴」という記事が紹介されていましたが、それを読んで妙に納得する自分がいました。

ネタりか
知らなきゃ負け組に?ぜひ真似したい「メンタルが強い人」の特徴6個

■1:いつもメンタルが安定している

メンタルの強い人は、どんな状態であっても、情緒不安定になりません。いつ、チャレンジしなければいけない事態になっても、冷静な判断ができるように、常に気持ちを平穏にし、頭を明快にしています。


■2:常に幸せでいようとは思わない

過度に幸せになろうとはしません。メンタルが強い人は、自分の否定的な感情に関して、それを避けることはせず、ポジティブとネガティブな感情を両方とも、受け止めます。


■3:楽観的である

失敗すると、誰もが自信を失ったり、反省したりします。ただ、メンタルの強い人は、転んでも、失敗しても、すぐに立ち上がります。反省する代わりに、問題の解決法を見出す方に力をいれます。クヨクヨ悩まないのです。メンタルの強い人は、とても楽観的なのです。


■4:今を生きようとしている

メンタルの強い人は、過去を振り返って悩んだり、未来に不安を抱いたりせず、今を生きようとします。そして、世界の動きに注意深い傾向にあるそうです。世界の動きに注目していると、情緒不安定な状態が緩和され、ストレスや不安を減らしてくれるといいます。


■5:夢に対しての粘り強さがある

心理学者が出した研究結果で、挫折を何度も繰り返しながらも、夢をかなえた人が優れていたポイントは、IQでも美貌でも、健康でも、感情指数でも、強運でもなく、“粘り強さ”だったと明らかになりました。


■6:人生が好き

人生には必ず障害や壁があります。メンタルの強い人は、それをわかっていて、壁が立ちはだかっても、それにより気付かなかった幸せを知ったり、壁を乗り越えることで得る幸せを楽しもうとします。つまり、人生の障害すらも楽しんで生きようとしているのです。


別に人生に成功したいとは思いませんし、第一そんなことを思ってももう手遅れなのですが、ただ、人一倍メンタルの弱い人間としては、メンタルが強かったらどんなに人生が楽だったろうと思うことがあります。

私は、ここであげられている6項目すべてにおいて、真逆の人間です。ちょっとしたことでも動揺して冷静な判断ができず、何事にも悲観的でクヨクヨして、いつも過去を振り返って悩んだり、未来に不安を抱いているし、一度挫折すると立ち直れず、当然、こんな人生が嫌いです。

寺山修司だったかが、人生のかなりの部分は性格に規定されているというようなことを書いていましたが、たしかに自分の人生をつらつら考えるに、性格の要素は大きいように思います。しかし、性格は変えられないのです。そう言うと、「いや、性格は変えられますよ」と言う人が必ず出てきます。でも、そう言う人は、大概、自己啓発や自己発見のセミナーや宗教系の人です。

「僕は精神が好きだ」と言ったのは、大杉栄ですが、大杉栄が言う「精神」とここで言う「精神」とは別のものです。でも、大杉の言う「精神」も大事だけど、ここで言う「精神」も案外バカにできないように思います。お手軽な自己啓発や自己発見の本が売れるのもわからないでもないのです。だからと言って、自分は精神を自己啓発や自己発見で盛って暗示がかけられるほど素直ではありません。

老後を生きる上でもメンタルが強いほうが楽なんだろうかと思います。年金が少なくても、そんなにクヨクヨしないで日々をすごせるのか。足腰が立たなくなり、糞尿の臭いが漂う老人病院の大部屋に入れられても、嘆かずに平気でいられるのか。死を前にしても、ジタバタせずに冷静に死を迎い入れることができるのか。

そんなことをあれこれ考えました。そして、この6項目を書き写して、机の前の壁に貼っておこうかと思いました。
2015.03.16 Mon l 日常・その他 l top ▲
鳩山由紀夫元総理が、政府の中止要請を無視して、ロシアに編入されたクリミアを訪問したことに対して、マスコミの”鳩山バッシング”がはじまっています。高村正彦自民党副総裁が11日の記者会見で、「国益に反することで遺憾だ」と鳩山氏を批判すると、それを受けていっせいにバッシングがはじまったのでした。今日は菅官房長官が、「首相まで経験した人の行動、発言とは思えない。極めて軽率だ」とコメントして、さらにバッシングを煽っているのでした。

たまたま今日の夕方、TBSテレビの「Nスタ・ニュースワイド」を見ていたら、キャスターの堀尾正明氏が、このニュースに関連して、鳩山氏が「親露的」であるのは、「日ソ共同宣言」によって日ソの国交回復をおこなった祖父(鳩山一郎元総理大臣)のDNAを引き継いでいるからだというような発言をしていました。さらに父親の鳩山威一郎氏が外務大臣になったのも、ソ連からの推薦があったからだと言ってました。

堀尾氏の発言は、鳩山由紀夫氏に「国賊」だと悪罵を浴びせるネトウヨと同レベルの”ためにする”話にすぎません。また、コメンテーターの元村有希子氏(毎日新聞記者)も、薄笑いを浮かべながら「鳩山さんは総理大臣のときにはなにも実現できなかったくせに」「まったく困ったものですね」と、近所のおばさんレベルのコメントをしていました。元村氏も、なにも考えてなくて、ただその場の空気に同調しているだけなのでしょう。私は、こういう人をジャーナリストと言うのだろうかと思いました。

鳩山氏がクリミア編入を決定した住民投票を「民主的」で「合法的」で、領土問題の解決法として「納得できた」と評価したのは、別に非常識なものではなく、むしろひとつの”見識”と言ってもいいくらいです。住民投票がロシアの介入による政治的な陰謀で、国際法違反であるというのは、あくまでアメリカなど「西側」の主張にすぎないのです。

ヨーロッパの議会で伸長しているネオナチ政党の多くがロシアのプーチン政権に「好意的」で、プーチン政権と「親和性」が高いのは事実のようですが、一方で現在のウクライナ政府も、多くの人が指摘するように、ネオナチが主導する極右の政権です。今の政権は、民主的に選ばれたヤヌコヴィッチ政権から半ば「クーデター」によって政権を奪取したのですが、その背後にアメリカがいたことは周知の事実です。要は、どっちもどっちなのです。

「イスラム国」が生まれたのは、イラク戦争とシリア内戦によるものですが、イラク戦争の口実であったフセイン政権による「大量破壊兵器の保有」は、アメリカのでっち上げであったことがあとで判明しました。あのときも日本政府は、アメリカに追随し、「国際社会」に同調して、イラク戦争を正当化しました。今回もまったく同じ構図です。

 ウクライナは、西部のウクライナ系と東部のロシア系という2つの民族が共存してきたが、米政府は数年前からロシア敵視策としてウクライナ系の反露的なナショナリズム運動を扇動し、昨春にはウクライナの極右勢力が親露的なヤヌコビッチ政権を倒して現政権を作ることを支援した。東部のロシア系(親露派)が分離独立を目指して決起すると、米政府は露軍が親露派を支援していると非難し、EUを巻き込んでロシアを経済制裁した。米欧マスコミはロシアを非難する記事を流し続けているが、実のところウクライナ危機を起こしたのは米国であり、ロシアはむしろ被害者だ。

田中宇の国際ニュース解説
ウクライナ米露戦争の瀬戸際


折しも今日、アメリカがウクライナ政府に非武装の小型無人機や高機動多目的装輪車「ハンビー」230台を供与する方針を決定したというニュースがありました。このままエスカレートすれば、ウクライナを舞台にした米露戦争が勃発する危険すらあるのです。

今までの「親露的」な政権に代わってウクライナ民族主義を掲げる「反露的」な極右政権が生まれたので、危機感を抱いたロシア系の住民たちが生き延びるためにロシア編入を選択したのは、大国の思惑以前の問題として、当然あり得る話でしょう。そう考えれば、鳩山氏が言うことも理解できないわけではないのです。(鳩山氏に同行した)一水会の木村三浩氏がどうだとか高野孟氏がどうだとか言うのは、それこそ木を見て森を見ない本末転倒した話です。それに、安倍政権だってつい昨日までは、似た者同士のプーチンに秋波を送っていたのです。

しかし、鳩山氏の行動や言動は、「国益」に反するとして総否定され、バッシングを浴び、「国賊」扱いされるのです。しかも、その「国益」なるものは、実際はアメリカの意向に沿うということであって、「ご主人様(アメリカ)の意に逆らったから国賊だ」と言っているにすぎないのです。アメリカの属国であること(そう望むこと)が「愛国」になるという、『永続敗戦論』が指摘した戦後のゆがんだ構造、(私流の言い方すれば)「愛国」と「売国」が転倒した”戦後の背理”がここにも露呈している気がします。ルービー(頭がおかしい)なのはどっちなんだと言いたくなります。

それにしても、メディアはいつから「国益」の代弁者になったのでしょうか。それなら中国の人民日報や北朝鮮の朝鮮中央通信と同じです。メディアが記事の枕に「国益」ということばを使うようになったら、もはやメディアの死を意味していると言っていいでしょう。

もちろんそれは、大手のメディアに限った話ではありません。常岡浩介氏らフリーのジャーナリストも然りです。常岡氏は、鳩山氏のクリミア訪問に対して、「国益」に反するので旅券を取り上げるべきだとTwitterで主張していました。まさか常岡氏の口から「国益」ということばが出てくるとは思いませんでしたが、常岡氏が言うには、ジャーナリストと鳩山氏のような「公人」は別で、「公人」は「国益」を考えるべきだと言うのです。

常岡浩介Twitter2015年3月5日

常岡浩介Twitter2015年3月6日

でも、常岡氏自身がその「国益」のために、警視庁公安部によってガサ入れされ、監視対象にされているのではないか。シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマンの杉本祐一氏が、外務省から旅券を返納させられたのも「国益」が理由でした。「国益」に「私人」も「公人」もないのです。「国益」とは、常岡氏が考えるような都合のいいものではないのです。ここに至ってもなお、「国益」の先に「自己責任論」があることを”理会”してないとしたら、あまりにもおそまつと言わねばならないでしょう。

私は、高村正彦自民党副総裁が、後藤健二さんの行動を「蛮勇」と言ったのは、高村氏の意図は別にして、ジャーナリストに対しては褒めことばだと思っています。ジャーナリストたるもの「蛮勇」であれと言いたい。「国益」なんて知ったこっちゃないと言うのが、ときに「国益」の犠牲になることもある名もなき人々の声を伝えるジャーナリストの心意気というものでしょう。常岡氏の発言は、ジャーナリストまがいの堀尾正明氏や元村有希子氏と同じように、「国益」優先の翼賛的な空気に与するものでしかありません。

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『永続敗戦論』
2015.03.12 Thu l 東京 l top ▲
若い女性がみずからの身体的な価値(女としての価値)をお金で換算するのは、資本主義社会では当たり前のことです。資本主義とはそういう制度なのです。ゆりかごから墓場までお金なしではなにひとつ手に入れることができないのです。この世のありとあらゆるものは、それこそ一木一草に至るまでお金で換算される、それが私たちが生きる資本主義という社会なのです。

もちろん、”愛”も然りです。”愛”はお金では買えないけど(買えるときもあるけど)、お金をかければ「より煌めく」と著者の鈴木涼美は言います。

 人は愛周辺にオカネがからむと何かと人を批判したがるから、セックスは神聖化するくせに、オカネをもらってすると怒られるし、ホストクラブで何十万円もかけて恋愛ごっこするとほとんど廃人扱いされるし、オカネのためにスキとか言うと、信じられないと言わんばかりのすごい目で睨まれる。でも本当の愛なんて、オカネをかければより煌めくのに。


貪欲な資本主義は、さらに「女子高生」という属性に性的な意味を付与し、お金に換算するようになったのでした。つまり、「女子高生」が記号化し商品になったのです。それは、この社会が「死」をも商品化していることを考えれば、別に驚くことではありません。1983年生まれの著者もまた、そんな女子高生が商品化された援交・ブルセラ以後の世代の人間で、最初から自分たちの身体に商品的価値があることを知っているのでした。

際限のない欲望と差異化、その先に待っているのは”特別な自分”です。でも、その”特別な自分”は、たとえホストに入れあげても、イタくない自分でなければなりません。「私たちには、絶対に死ぬまで捨てる気にならない自負がある。私たちの身体は、かつてオトコたちがひと月に何百万円も使う価値があったことだ」と書く著者ですが、一方で、そんな自分を冷静な目で見ることも忘れないのでした。みずからの身体を夜の世界やAVに売って手に入れたお金で、つぎになにを手に入れたいのか。なにを手に入れたのか。それがこの本のキモです。

なんというタイトルだったか、「愛をください」という歌詞の歌がありましたが、私はこの本を読むにつけ、「愛をください」というリフレインが聞こえてくるような気がしました。「女という価値を物質に落として、分裂を繰り返してきた」と著者も書いていましたが、それが資本主義的な価値(貨幣の物神性)に縛られた私たちの生の隘路でもあるのでしょう。

 私たちは100万ドルの価値がある身体を、資本主義的目的遂行のためにいつでも市場にさらすことができた。それはオカネだけじゃなく、他のものじゃ代えのきかない時間を私たちに与えてくれた。(略)
 問題は、そこで得られるオカネや悦楽が、魂を汚すに値するかどうかであって、いいか悪いかではない。好きな人にゲロを吐かせてまで手に入れたいものだって私たちにはあると思う。言い換えれば、少なくともそれに値すると思えないんであれば、そんなはした金、受け取らないほうがいい。


私は、女三人男一人のきょうだいのなかで育ちましたので、女のわけのわからなさや面倒くささは、子どもの頃から痛いほど感じていました。そして、長じた今、仲がいいのか悪いのかわからない彼女たちが、お互いを批評するその鋭い視点に感心し驚くことが多々あります。関係性を通してしか自己を確認できない女性の同性を見る目は、たとえ姉妹と言えども残酷です。

一流大学を出て一流会社で働いているOLだって、そうでもないOLだって、将来性のある男と結婚した主婦だって、そうでもない主婦だって、ある年齢以下の女性たちは、恋愛や仕事やその他諸々の局面において、大なり小なりみずからの身体的な価値をお金で換算した経験があるはずです。それは、女性のほうがみずからの欲望に忠実で、ゆえに資本主義の原理に忠実だからではないでしょうか。

著者が言うように、みんな「狂っている」のです。下北沢の通りを歩く「文化系女子」も、同僚と結婚して下高井戸に家を買った郵便局員も、「平凡」だけど「狂っている」。そうでなければ、この生き馬の目をぬくような資本主義の世の中を生きぬくことなんてできないでしょう。「愛をください」と人知れず叫びつづけるのも、そこに「狂っている」自分がいるからでしょう。

 たしかにオカネやモノをくれて私を泊めたオトコたちが枕元でささやいたかわいいよ、とかっていう言葉は、私にとって心震える本当の愛、とは程遠いものだけど、だからと言って、別に現金をくれるわけじゃない彼氏が同じ枕元でくれた名もなき熱っぽい詩がまさにそうであるかというと微妙だ。でも、複雑にこんがらがった社会で、カメラの前で悩ましげなポーズをしていた過去を抱えながら、女が生きていくのはそれなりに体力がいるので、私たちはその名もなき熱っぽい詩を、時々どうしても、少なくとも交通費の20万円よりも、欲しくなるのもまた事実だ。だからそれをぼやっとしたまま愛とか叫ぶのであれば、それは脆い上に期待はずれにつまらないものだけど、それがなければ生きていけないかもな、とも思う。



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小倉千加子・中村うさぎ『幸福論』
2015.03.06 Fri l 本・文芸 l top ▲
昨日、買いたい本があったので池袋のリブロに行ったのですが、帰ってネットを見ていたら、リブロ池袋店が6月で閉店というニュースが出ていたのでびっくりしました。

セゾングループは、経営破たん後、バラバラに解体され叩き売られていますが、リブロは取次大手の日販(私も若い頃、当時お茶の水にあった日販でアルバイトした経験があります)の傘下になっています。ちなみに、多店舗展開する大手の書店は、実質的に日販かトーハン(東販)かいづれかに系列化されており、日販とトーハンの市場占拠率は75%にも達するそうです。これでは新刊本が大手の書店にしか並ばないのは当然で、「言論・表現の自由」とのカラミでとりだたされる”出版文化”なるものも、このようなゆがんだ流通システムによって成り立っているのが現実なのです。

余談ですが、今日、『週刊新潮』が川崎の中学生リンチ殺人の主犯の少年の実名と顔写真を掲載しているという記事がありましたが、一方で『週刊新潮』や『週刊文春』は、『絢愛』捏造疑惑の百田尚樹やアパルトヘイト容認発言の曽野綾子を批判することはいっさいないのです。権力を持たず、みずからと利害のない一般人であれば、口を極めてののしり、人権などどこ吹く風とばかりにあることないこと書き連ねるのですが、作家センセイに対してはどんなスキャンダルでも見て見ぬふりをするのが常です。

また、作家センセンたちも同様で、『新潮』や『文春』の下劣な”ためにする”記事に対して、いつも見て見ぬふりをするだけです。ネットに跋扈する”私刑”は、『週刊新潮』や『週刊文春』のやり方をただコピーしているだけですが、普段リベラルな発言をしている作家センセイたちでも、新潮や文春の姿勢を批判しているのを見たことがありません。それどころか、業界では、新潮社から本を出すことがステータスで、物書きとして一流の証なのだそうです。

リブロ閉店については、以下のような内部事情を伝える記事がありました。

 現在のリブロは取り次ぎ大手、日本出版販売(日販)の子会社。閉店は業績の問題ではないとも言われ、毎日新聞は、西武百貨店を傘下に持つセブン&ホールディングスの鈴木敏文会長が日販のライバル・トーハン出身であり、いずれ撤退を迫られるだろうという指摘があったことを挙げている。

Yahoo!ニュース
「リブロ池袋本店が閉店へ」 惜しむ声がネットに広がる(ITmedia ニュース)


どうやら大家の西武百貨店から、テナントの契約更新を断られたのが真相のようです。かつて同じ釜の飯を食っていた西武百貨店から出て行けと言われたのです。なんだかセゾン(文化)の末路を象徴するような話で、一家離散の悲哀を覚えてなりません。

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2015.03.04 Wed l 本・文芸 l top ▲