悲しいだけ


早朝の5時前に目が覚め、ベランダのカーテンを開けて、徐々に白んでゆく外の景色を眺めていたら、途端に、母が亡くなったときの感情がよみがえってきました。そして、帰るべき家がなくなった事実をあらためてしみじみと思い知らされたのでした。

若い頃、藤枝静男の『悲しいだけ』を読んだとき、親が亡くなり帰るべき家がなくなってこの小説を読んだらつらいだろうなと思ったことがありました。今、そのときが訪れたのです。

『悲しいだけ』は、つぎのような文章ではじまっています。

 私の小説の処女作は、結核療養所に入院している妻のもとへ営養物をリュックにつめて通う三十余年前の自分のことをそのままに書いた短編であったが、それから何年かたったとき友人の本多秋五が「彼の最後の近くになって書く小説は、たぶん最初のそれに戻るだろうという気がする」と何かに書いた。そのとき変な、疑わしいような気がしたことがあった。むしろ否定的に思った。
 しかし今は偶然に自然にそうなった。


読者である私も、作者とは別に、いつかこの小説に「戻ってくるだろう」と思ったのでした。

『悲しいだけ』は、妻の死を綴った短編小説です。39年間の結婚生活のなかで、妻が健康だったのは最初の4年間だけでした。肺結核とそのあとに発見された乳癌によって、あとの35年間は入退院と手術のくり返しでした。

小説のなかに、こんな場面があります。

 死期が近づいて全身の衰弱が訪れたころの妻は、腹水の貯溜のための仰臥も横臥もできなくなった身体を、折りたたんで重ねた布団や枕にもたせかけた姿勢で昼夜を過ごしていた。ときおりは細い項を俯向け、絶えずふらつく上体を両手で支えて、小学校時代の唱歌を小声でうたっていることがあった。俯向いたままの顔を僅かに動かして
 「こうしていると気がまぎれるのよ」
 と呟いた。(略)その低い声が、動かしがたい運命の悲しみから無意識に逃れようとする一筋の細道のように思われた。 


死を前にした床のなかで、小声で唱歌を口ずさむ。なんだか私も同じ場面を見たような気がしてきました。そんな日常こそがホンモノで、今のこの日常はニセモノであるような気がします。藤枝静男の小説を読むとそんな気持になるのです。私は、藤枝静男の小説を読むたびに、小説を読んでよかったなとしみじみ思うのでした。

先日、家の電話に田舎の妹からの着歴がありました。おそらく新盆に帰ってくるのかどうか、その確認の電話なのだろうと思います。でも、私は返事の電話もしてないのでした。私も年に一度くらいは墓参りに帰りたいと思っています。でも、姉妹にも田舎の人たちにも、誰にも知られずにひっそりとお墓に参りたいと思っているのです。

人間というのは身勝手なもので、こうして年を取り、今度は自分の番だと思うと、今までめったに帰ることもなかった田舎が、なつかしく思えてくるのでした。”郷愁”と言えばそう言えるのかもしれませんが、ただ、その田舎は、あくまで子どもの頃に見た風景のなかにある田舎なのです。

『悲しいだけ』には、作者が周辺の寺や河川などを訪れ、その風景にみずからの心境を映すような場面がくり返し出てきますが、私は今回は、小説に出てくる地名をパソコンで検索しながら読みました。

すると、初めて『悲しいだけ』を読んだすぐあとに、当時付き合っていた彼女と浜松の周辺をまわったときのことが思い出されてきたのでした。その頃、私は、会社の仕事で名古屋と静岡を担当しており、月に一度、それぞれ出張で訪れていたのですが、名古屋に住んでいた彼女がちょうど浜松の友達のところに行く用事があるというので、仕事を終えた翌日、浜松で落ち合い、周辺をドライブしたのでした。

佐鳴湖という小さな湖に行って、近くのレストランで食事をしたことや、遠州灘の景色を遠くに眺めることができる山の頂きにのぼったことなどを今でも覚えています。そのときずっと頭のなかにあったのは藤枝静男の小説のことでした。その前年に父親を亡くしたということもあり、私のなかでは、浜松の風景と藤枝静男の小説を重ねる気持があったのでしょう。

 妻の手を掌にくるんで握ると、もう冷えていた。曲げた片脚をずらして踏みのばすように動かすのでさすってやると何の反応もなく動きが止まった。それは運動ではなくて、縮めるための緊張をしていた神経が働きを停止して自然の状態に戻る動きであった。


このように、死を看取る作者の目は、医者らしく冷静で客観的なものです。それだけに読む者にはよけいせつない気持が増してくるのでした。作者は、「自分が如何に感覚だけの、何ごとも感覚だけで考え判断し行動する以外のことはできもせずしもしなかった人間であった」と言うのですが、私たちはそういう「感覚」のなかで生を紡いでいるのだと思います。

亡くなった人の目尻に涙の跡が残っていたという話を聞いたことがありますが、ホントなんだろうかと思います。死を前にした床のなかで、自分はなにを思うのだろう。最近、そんなことをよく考えます。私の場合、誰にも看取られず、孤独に死を迎えるのは間違いありませんが、涙を流しながら死ねたらいいなと思います。そんな「無機質」な感覚のなかで、死を迎えたらいいなと思うのです。

「妻の死が悲しいだけ」という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している。これまでの私の理性的または感覚的の想像とか、死一般についての考えとかが変わったわけではない。理屈が変わったわけではない。こんなものはただの現象に過ぎないという、それはそれで確信としてある。ただ、今はひとつの埒もない感覚が、消えるべき苦痛として心中にあるのである。


人間の生において最後に残るのは、このような原初的な「無機質」な感覚なのでしょう。

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2015.07.31 Fri l 本・文芸 l top ▲
作家の盛田隆二氏が、みずからのTwitterにつぎのような書き込みをしていました。


それに対して、つぎのようなリツィートがたてつづけにありました。





私は、これらの書き込みを読んで、高見順ではないですが、「いやな感じ」を受けました。また、中核派と目されている「法政大学文化連盟」周辺が投稿したと思しきYouTubeの動画も見ましたが、あらためて安保法制反対派への違和感を抱かざるを得ませんでした。

ここにあるのは、あきらかに排除の論理です。『絶歌』騒動に見られるように、犯罪者を排除することで成り立つ日本文学という「愚者の楽園」。それと同じように、中核派のような過激派を排除することによって成り立つ「ぼくらの民主主義」。

ビラ配りを恫喝し排除しようとしたのは、ヘイトスピーチに対してカウンターをおこなっているグループや反原発の官邸デモを主催している団体の人間たちのようですが、これでは「ヘイトスピーチ反対」や「原発再稼働反対」が色あせて見えるのは当然でしょう。

法政大学がもともと中核派の拠点であり、全共闘運動退潮後も、長い間中核派の影響が強かったのは事実です。私が受験したときも、機動隊の壁のなかを教室に入り、教室のなかもまだ多くの落書きが残されていて、とても受験するような雰囲気ではありませんでした。

そのためか、今の田中優子学長のもとで、学内の中核派をはじめとする”過激派排除”が実施され、学内でのビラ配りや演説などもいっさい禁止されているそうです。一方、それに抗議する運動の過程で、既に百名以上の逮捕者がでているという話もあります。

田中優子学長は、週刊金曜日の編集委員も務める「リベラル」派であることから、「法政大学文化連盟」をはじめとする学生側は、田中学長に象徴されるような「リベラル」や「民主主義」に対して、その欺瞞性を激しく批判しているのですが、はからずも今回もまた、反原発や反ヘイトスピーチや反安保法制を主張する人たちが口にする「民主主義」のその薄っぺらさが露呈されたと言っても過言ではないでしょう。

法政大学の問題も、反安保法制の問題も、中核派云々以前の問題です。それを本末転倒した「極左」「過激派」「ブサヨ」問題に矮小化して、そこに排除の論理を持ち込むというのは、誰が見ても「民主主義」とは相いれないものでしょう。

同じ学生として、SEALDsのようなやり方は生ぬるい、日和見主義だ、堕落した議会主義だ、提灯デモではなく実力闘争に訴えよう、と主張するのは、とっちが正しいかではなく、学生運動ではよくあることです。敵対する党派が怒鳴り合いながら、ときには殴り合いながらビラ配りをしている光景は、当たり前のこととして昔からありました。それが運動のエネルギーになったのです。ギリシャだってスペインだってスコットランドだって、そんななかから、シリザやポデモスやSNPが生まれたのです。

結局、盛田隆二氏は、”反論”のリツィートに対して、つぎのように、みずからの懸念をあっさりと引っ込めたのでした。


私も盛田氏の『いつの日も泉は湧いている』(日本経済新聞出版社)を読みましたが、氏自身、川越高校在学中から反戦闘争に参加していたのですから、そのなかで、このような排除の論理の醜悪さも見てきたはずです。それは、新左翼党派間の内ゲバだけではありません。日本共産党にも、同党傘下の”全学連”の裏組織として「あかつき部隊」というのが存在していました。「あかつき部隊」の主要メンバーだった宮崎学氏が書いているように、「極左暴力集団=トロッキスト」に対して、「学園の正常化」の名のもとに排除を目的としたテロをおこなっていたのです。私は、今回の行為に、学生運動の昂揚期にまるで運動のエネルギーを奪うかのように立ち現われた、「平和の党」の”もうひとつの暴力”を想起せざるを得ませんでした。

ビラを配っていた学生は、たかだか10数名です。しかも、ただビラを配っていただけなのです。なんの留保もない、多数や絶対的な正しさを背にした排除の論理。過激派云々以前の問題として、私はその行為に身の毛のよだつものを覚えてなりません。

盛田氏の最初のTwitterも、おそらく私と同じように「いやな感じ」をもったから書き込まれたのでしょう。それがどうしてこんなにも簡単に、見ざる言わざる聞かざるになるのか。もしかしたら、国会の外にも、”別のファシズム”が蠢きはじめているのかもしれないのです。作家であれば、高見順のように「いやな感じ」は「いやな感じ」として、どこまでもこだわるべきではないか。ただ政治に随伴するのではなく、運動の論理とは別に作家の目があって然るべきではないか。

こういった話は、非常にデリケートな問題で、ともすれば色眼鏡で見られる懸念がありますので、ホントは触らぬ神に祟りなしが賢明なのかもしれませんが、しかし、やはり見すごせない問題があるように思えてならないのです。

ファシストを批判する人間がどうしてファシストまがいのことをするのか。だったら吉本隆明の「昼寝のすすめ」ではないですが、反対デモなんて「関心ない」と言う人間のほうがよほど”健全”と言えるでしょう。反対派は、今度は、デモに参加しない人間たちが法案の成立を許したんだと言うに決まっているのです。

今回の行為も含めて、在日の視点からSEALDsを批判的に見ているつぎのような書き込みが、この問題の本質を衝いているように思いました。



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2015.07.29 Wed l 社会・時事 l top ▲
3年前に買った東芝のノートパソコンがあるのですが、ある日、本体部分と上蓋のディスプレイを接続するヒンジのカバー(キャップ)の片方が失くなっているのに気付きました。ヒンジカバーは、ヒンジの部分に上からはめて、底をネジで止めるようになっている幅1センチ長さが3~4センチの小さな部品ですが、開け閉めしているうちにいつの間にかネジがゆるみ外れてしまったのだと思います。別になにかしたわけではありませんので、それしか考えられません。

使用する上では別に支障はありませんが、接続部がむき出しになっていて気になるので、取り扱いマニュアルに記載されていたお客様センターに電話しました。

その際の主なやりとりは以下のとおりです。

「申し訳ございませんが、部品だけは売っておりません」
「じゃあ、どうすればいいのですか?」
「ノートパソコンの本体を送っていただいて、修理工房で点検し、修理することになります。費用は往復の送料を含めて基本料金が1万2千円かかります。それに部品代がプラスになります」
「だって、プラスドライバーがあれば誰でもできるような簡単なものですよ」
「申し訳ございませんが、そういう対応になります」

部品は数百円程度のもので、取り付ける作業も、子どもでもできるような簡単なものです。それがどうしてこんな大袈裟な話になるのか。

「じゃあ、部品はあるのですか?」
「今、ご返答はできません。本体を送っていただいてから手配することになります」

私は、「喧嘩売ってるのか」と言いたくなりました。車で言えば、ホイールキャップが外れたようなものです。私も経験がありますが、メーカーの部品会社でキャップを買って自分ではめたら数千円で済みました。それを「部品だけは売っていません。一度車をメーカーの工場に出していただいて、点検した上でないとキャップは取り付けられません。基本の点検料金がかかります」「部品も車を入庫していただいたあとから手配になりますので、在庫があるかどうかわかりません」と言われたら、お客は誰でも怒るでしょう。

もっとも、お客様センターと言っても、どこかのコールセンターに委託しているみたいで、電話口の男性は、丁寧な口調ではあるものの、こちらから口をはさまれないように、まくし立てるように一気に喋るのでした。男性は、おそらくコールセンターで雇われているアルバイトなのでしょう。気の毒ですが、彼に課せられた対応マニュアルでは火に油を注ぐような結果になるのは目に見えています。私も「話にならないな」と言って電話を切りました。

そのあと、ネットで調べたら、東芝のノートパソコンはヒンジカバーがはずれやすいのか、同じような経験をした人の書き込みが何件か出てきました。なかには、高額請求を覚悟の上で本体を送ったら、請求がゼロだったという話がありました。しかし、その一方で、別の箇所の故障が見つかったと言われて、逆に請求されたという話もありました。また、高額な基本料金を提示する(ふっかける)のは、使用する上で支障がないような簡単な作業の依頼を減らす(あきらめさせる)”水際作戦”ではないか、という穿った見方もありました。

東芝のコールセンターと言えば、1999年のあの「東芝クレーマー事件」を思い出しますが、東芝の体質はあの頃からなにも変わってないということなのでしょうか。

私には、今、問題になっている「不適切会計」とこの対応はどこかでつながっているように思えてならないのです。修理依頼をクレーマー対策のマニュアルで処理しようとする体質。会社ぐるみの「不適切会計」=粉飾決算に対して、「上場廃止」という話さえ出てこない不思議さ。

大分に東芝の工場があるのですが、工場に勤めている人間の話では、現地採用と本社採用の社員の間では天と地の差があるのだそうです。現地採用の社員は、出世してもせいぜいが主任か係長どまりで、しかも40才をすぎると昇給もストップしてラインから外れ、作業の裏方にまわるのが決まりだそうです。一方、本社採用の社員は、20代で課長でやってきて、数年勤務するとまたどこかへ転勤していくのだとか。

東芝の屋台骨を支えるのは、言うまでもなく原発事業です。世界的な原子炉プラントメーカー・ウェスチングハウスを買収するなど、東芝は日本を代表する”原発企業”で、原発事故以後も安倍首相の外遊に同行し、原発を海外に売り込むなど、国策と一体となったコングロマリットです。「不適切会計」やコールセンターのマニュアルに共通しているのは、夜郎自大で官僚的な巨大企業の体質です。「不適切会計」で、東芝のブランドイメージが毀損されたなどと言われますが、なにがブランドイメージだと思いました。
2015.07.23 Thu l ネット・メディア l top ▲
ウェブニュース 一億総バカ時代


月刊誌『Journalism』(朝日新聞出版)の5月号に、Yahoo!ニュース編集部員の井上芙優氏が、「『取材をしない』ニュース編集部 いかに報道マインドを根付かせるか」という記事を書いていました。

Yahoo!ニュースの編集部が新卒社員を受け入れるようになって、今年で5年目を迎えるのだそうですが、現在、編集部には、東京・大阪・北九州・八戸のオフィスに26名の部員が所属していて、新卒入社組は8名で、残りは報道機関からの転職組だそうです。

ただ、新卒入社組は、Yahoo!ニュースの編集部を希望して入社したわけではなく、「何れもビジネスコースの採用枠で入社し、入社後に編集職に配属」された人たちなのだそうです。つまり、彼らは、最初から「報道」に対する問題意識をもって入社したのではないのです。

Yahoo!ニュース編集部の場合、「取材をしない」だけでなく、みずから記事を書くこともありません。取材をすることと記事を書くことは、ジャーナリストの基本中の基本です。その”修練”は、単なるテクニックの問題にとどまらず、ジャーナリストとしての視点や問題意識を養う上で、大きな意味をもつはずです。

記事によれば、Yahoo!ニュースでは、編集者として身につけなければいけないことが大きく分けて二つあるのだとか。ひとつは、「ニュースの“価値判断能力”」、もうひとつは、「Yahoo!ニュース編集者としての“マインド”」です。

”価値判断能力”については、契約先から配信される1日あたり約4000本の記事のなかから、トップページ(Yahoo!ニューストピックス)に掲載される8本(1日で約100本)の記事をピックアップする訓練が、「野球の1000本ノックのように」くり返しおこなわれるのだそうです。

そして、その”価値判断能力”に欠かせないのが、もうひとつの「Yahoo!ニュース編集者としての“マインド”」です。

記事によれば、編集部には、”マインド”について、3つの「定義」があるそうです。

①ニュースを“出して終わり”でなく、「ユーザーに届いているか」という視点
②ネットでニュースを届ける世界を切り開く者としての気概
③伝統的な報道機関が必要としてきたニュースの使命感・責任感・恐ろしさへの理解、公権力監視・弱者への配慮


私は、Yahoo!ニュースにもっとも足りないものがこの”マインド”なのだと思います。特に、③の「公権力の監視・弱者への配慮」です。

ヤフトピ(Yahoo!ニューストピックス)を見ていると、政治ネタにおいても芸能ネタにおいても、ユーザーの負の感情を煽るような記事が目に付きます。ときに戦争や差別を煽っているのかと思うことすらあります。それは、Yahoo!ニュースの”マインド”の低さを表しているように思えてなりません。生活保護バッシングの際も、バッシングを煽るような記事はこれでもかと言わんばかりに掲載するけど、生活保護受給者のきびしい生活の実態を伝えるような記事が載ることは皆無でした。そんな姿勢は、今の安保関連法案に対しても同じです。

Yahoo!ニュースに決定的に欠けているのは、野党精神(=「公権力の監視」)であり、弱者に向けるまなざし(=「弱者への配慮」)です。でも一方で、それはないものねだりなのかもしれないと思うこともあります。なぜなら、ウェブニュースの「価値基準」は、「公権力の監視」や「弱者への配慮」にはないからです。ウェブニュースの「価値基準」は、まずページビューなのです。どれだけ見られているかなのです。それによってニュースの「価値」が決まるのです。それは、ウェブニュースの”宿命”とも言うべきものです。

そもそも、Yahoo!ニュースの編集者はジャーナリストと言えるのでしょうか。

 ニュースを取り巻く環境はここ数年間で大きな転換期を迎えている。情報摂取の起点はスマートフォンやタブレット端末等のスマートデバイスが中心となり、インターネットにおける情報摂取の導線も、スマホのアプリやツイッター・Facebook等のSNSの広がりに因って大きく変化した。Yahoo!ニュースもスマートデバイスの普及に因って、2014年の6月には月間100億PVの半数以上をスマートフォンからのアクセスが占めるようになった。
 ジャーナリストの仕事というと、主に報道機関等の組織に属している記者の他、フリーランス等も含めて、“取材して書く・撮る”という手法が真っ先に思い浮かぶ人も多いのではないかと思う。だが、ニュースの“見られ方”“見せ方”の変容に因って、取材して書く・撮る人材“だけ”がジャーナリストを名乗っていた世界は変わろうとしている。


記事はこう言いますが、しかし、どう考えてもYahoo!ニュースの編集者をジャーナリストと呼ぶのは無理があるように思います。どちらかと言えば、まとめサイトの編集者と言ったほうが適切ではないのか。実際に彼らの仕事は、まとめサイトの管理人がやっていることと同じです。

ウェブニュースの内部事情とそのからくりについては、『ウェブニュース 一億総バカ時代』(三田ゾーマ著・双葉新書)が具体的に書いていました。著者の三田ゾーマ氏は、企業系ニュースサイトの編集者をつとめる、いわゆる「中の人」です。

私たちがYahoo!ニュースをはじめ、ウェブニュースをどうして無料で読むことができるのかと言えば、ニュースサイトが広告を収入源としているからです。そのため、ニュースサイトは、多くのページビューが稼げるニュースを優先して掲載するようになるのです。ページビューを多く稼げば、それだけ広告枠が高く売れるからです。

 ニュース媒体を持てば広告収入が得られて金が儲かる。だから酷い媒体になるとどんな記事でも、誰が書いたものでも構わないから掲載して人々のアクセスを集めようとする。その記事は何の専門性もないアルバイトが書いたものかもしれないし、どこかからかコピペされた一部だけを書き換えたような”盗作”かもしれない。(略)
 そして、そんな屑を”報道”だとありがたがって読んでいるとすれば? 曖昧な発言元の情報に踊らされ、根拠の薄い発表を信用し拡散する人が増えていく。バカの一丁上がりである。


ページビューを稼ぐための記事。業界では「バズる」と言うそうですが、TwitterやFacebookで拡散される記事。そのための煽るような記事。そう思って、ヤフトピを見れば、納得できるものがあるのではないでしょうか。

しかし、ウェブニュースの問題はこれだけではありません。広告収入で成り立っているニュースサイトでは、広告そのものが巧妙化し、記事と広告の見分けもつかなくなっているのです。

ウェブ広告は、バナー広告のクリック率が下がり広告の効果が薄れてくると、記事を装ったタイアップ広告やステマなどのネガティブ広告へと、次第にエスカレートしていったのでした。そして、PCに比べて画面の情報量が少なく、ユーザーが閲覧するページ数も少ないスマホ時代になると、ニュースをマネタイズする方法はますます巧妙化し、ブラックになっているのです。

 ・広告主からお金を貰って作ったタイアップ広告を、広告であることを隠して(記載せず)掲載する。
 ・広告主の商品を、大して流行もしていないのに、広告であることを隠して「今話題になっている・・・」と称して記事を作る。
 ・広告主の商品が、さも業界を代表するブランドであるかのように紹介する記事を、広告であることを隠して作る。
 ・数十人規模のアンケートをもとに、広告であることを隠して、広告主の商品がさも日本中で求められているかのように記事を作る。


今なにが流行っているか(なにがトレンドか)という記事や、サイトに必ず設けられているアクセスランキングなどは、特に眉に唾して見る必要があるでしょう。

ニュースサイトの目的が、広告で金儲けすることであり、ニュースがそのための手段である限り、広告に対するルールや倫理感が欠如するのは当然でしょう。「読者をバカにして金を稼ぐウェブニュース」。それはYahoo!ニュースも例外ではないのです。
2015.07.21 Tue l ネット・メディア l top ▲
前回のつづきで、床屋政談をもう一席。

今日のテレビ東京「週刊ニュース新書」に民主党の枝野幸男幹事長が出演していましたが、そのなかで、番組ホストの田勢康弘氏から「政権をとったら、安倍政権の”解釈改憲”を元に戻すのか?」と質問された枝野幹事長は、早い時期に政権に復帰したら戻すけど、解釈が定着したあとに政権に復帰したら戻すのは難しいだろう」と答えていました。

私は、最初言っている意味がわかりませんでした。自民党を勝たせるためだけに存在するような民主党が「政権をとる」という仮定自体があまりにも非現実すぎてピンとこなかったということもあるのですが、それだけでなく、「解釈が定着したら戻すのが難しい」ということばの意味がわからなかったのです。しかし、そのあとの枝野幹事長の話で、やっと合点がいったのでした。

枝野幹事長は、従来の解釈の積み重ねを無視して、独断的に解釈する安倍政権の”解釈改憲”は立憲主義に反するけど、安倍政権の”解釈改憲”が定着した場合、今度はそれを踏襲することが立憲主義になるので、解釈を元に戻すことはできないと言うのです。つまり、枝野幹事長の言う立憲主義というのは、憲法に違反しているかどうかではなく、解釈の積み重ねに違反しているかどうか、その整合性があるかどうかなのです。

なんのことはない、民主党の「安保法制反対」は、平和憲法に対する理念からではなく、単に立憲主義に関する論理上の技術論の問題にすぎなかったのです。枝野幹事長の論法だと、安倍政権の”解釈改憲”がなし崩し的に定着すれば、「9条を守れ」「自衛隊の海外派兵反対」が逆に「立憲主義に反する」ことになり、将来(!?)の民主党政権が、今の自公政権と同じような立場をとることも充分考えられるのです。枝野幹事長の発言は、その”含み”をもたせたものと言えるでしょう。

枝野幹事長の発言を聞いていたら、まさに民主党の正体見たり枯れ尾花という感じで、あの民主党政権の悪夢がよみがえるようでした。福島瑞穂が言うように、自民党と民主党は「カレーライスとライスカレーの違いしかない」のです。ただ、与党と野党の立場の違いで、国民向けのポーズが違っているだけです。

衆院特別委員会の強行採決の際、民主党の議員たちがいっせいにテレビカメラに向かって、「強行採決反対!」というボードを掲げていましたが、辻元清美議員の”涙の訴え”やあのボードを掲げた光景に、私はひどく違和感を覚えました。「反対」というより、「つぎの選挙は私たちに」とアピールしているようにしか見えませんでした。そして、今日の枝野幹事長の発言を聞いて、私の違和感が間違ってなかったことを確信したのでした。

今、SEALDsという学生の運動にスポットが当てられていますが、なぜ彼らがメディアや既成政党に受けがいいのかと言えば、70年安保のときと違って学生たちが「良い子」で「お行儀がいい」からです。昔の学生のように自分たちに歯向かってこないからです。

でも、枝野幹事長の”含み”を見てもわかるように、そのうち”用なし”になれば、狡賢い大人たちに裏切られるのは目に見えています。それは、今まで何度も「勝てない左派」がくり返してきたことです。

戦後の政治は、与党であれ野党であれ、それを背後で支える官僚機構やメディアも含めて、ひとつの”理念”を共有することで、”ネオ翼賛体制”とも言うべき体制が作り上げられているのです。もちろん、その”理念”というのは、「国是」としての対米従属です。

『絶歌』出版に対して、作家の東野圭吾が激怒したという話がありますが、東野圭吾の小説も又吉の『火花』も、それこそ本屋大賞も芥川賞も、所詮は『絶歌』のような”異端”を排除した「閉じられた言語空間」のなかで成立する、”日本文学”という安寧と秩序に奉仕する”お約束芸”にすぎないのです。それと同じです。

平和も民主主義も、そして私たちの日常も、反米や犯罪のような”異論”や”異端”を排除することで仮構されているにすぎないのです。

「戦後安保政策の大転換」は、なにも日本が主体的に「大転換」したわけではなく、アメリカの都合が変わっただけです。アメリカの意向に唯々諾々と従うので、「大転換」になるだけです。

「売国」を「愛国」と言い換え、従属思想で自己を合理化して惰眠を貪る、そんな「愚者の楽園」(『永続敗戦論』)を視座におさめない反戦・平和運動は、所詮虚妄です。まして、なんの留保もなく「ぼくらの民主主義」(高橋源一郎)に依拠し、「選挙に行かない人間が(安倍政権の)暴挙を許しているんだ」というような夜郎自大な運動は、それこそ「アべ政治」の裏返しでしかないのだと思います。
2015.07.18 Sat l 社会・時事 l top ▲
安全保障関連法案が、昨日の衆院特別委員会での強行採決につづき、今日、衆議院本会議でも与党と次世代の党の賛成多数で可決。今後は参院の質疑に移りますが、これで憲法の「60日ルール」が適用できるため、実質的に今国会での成立が確実になりました。

 異論封じへの伏線はあった。5月28日の特別委で、首相が自席から民主党議員に「早く質問しろよ」とヤジを飛ばした。政府の説明責任を放棄するような姿勢に批判が集まった。また、6月25日の首相に近い自民党議員の勉強会で、議員が「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番」「沖縄のゆがんだ世論を正しい方向に持っていく」などと述べ、政府に批判的な報道や世論を威圧する発言も飛び出した。
 自民幹部の一人は法案の作成過程も問題視する。議員が幅広く法案の作成過程に関与することなく、「一部の幹部だけで法案が作られ、党内議論で意見しようとすれば、作成を主導した高村正彦副総裁に論破された」。異論に耳を傾けぬ党内の空気が醸成された。首相に近い参院議員の一人は「消費税や年金と違い、国民生活にすぐに直接の影響がない。法案が成立すれば国民は忘れる」と言い切る。

朝日新聞デジタル
安保法案「成立すれば国民は忘れる」 強行採決の背景は


たしかにこの記事が言うように、法案が安倍内閣の独裁的な手法によって作成されたのは事実でしょう。

「法案が成立すれば国民は忘れる」という側近議員の声は、痛いところを突いていると言えます。おそらくマスコミの話題も、多くの国民の関心も、明日になれば又吉の芥川賞受賞に移っていることでしょう。

一方、昨日の強行採決に抗議するデモで、「選挙に行かなかった人間たちが、こういう暴挙を許しているんだ」という声がありましたが、それを聞いて私は、「なに言っているだ、民主党政権のあのテイタラクを忘れたのか」と言いたくなりました。

彼らはよく「選挙に行こう!」と呼びかけ、あたかも選挙に行けば世の中が変わるかのような幻想をふりまいていますが、ホントにそうなのか。そもそも、選挙に行ってどの政党に投票しろと言うのか。私は、むしろ「選挙なんか行っても仕方ない、なにも変わらない」という無関心層の声こそ、今の政治の本質を衝いているのだと思います。

私は、そんな”正しさ”の前に思考停止するような反対派の体質に、どうしても違和感を覚えてならないのです。

民主党を「極左」呼ばわりするのは、「中国が攻めてくる」というのと同じネトウヨの病的な妄想でしかありませんが、仮に民主党が「左派」だとしても(もちろん、「左派」ですらありませんが)、民主党や共産党のような「勝てない左派」に、今さらなにを期待するというのでしょうか。

自民党の高村副総裁か谷垣幹事長だかが、「民主党のなかにも(安保法制に)賛成している人がいる」と言ってましたが、たしかに、民主党の議員たちの発言を聞いても、すべてに反対というわけではないのです。「国際貢献」という点では、民主党も異論はないのです。それは、民主党政権の頃から言われていたことでした。

もちろん、対米従属を国是とするこの国では、「国際貢献」であれ「TPP」であれ、常に主語はアメリカです。安部首相は、「日本のため」「日本の国民の生命と財産を守るため」と言ってますが、その前に「アメリカのため」という前置きがあるのは言うまでもありません。

経済政策でも、民主党のかなりの部分は、新自由主義的な考えで占められています。「国際貢献」とグローバル資本主義は表裏一体ですが、民主党は間違ってもグローバル資本主義に反対する政党ではありません。グローバル資本主義を認める限り、軍事的な「国際貢献」や「集団的自衛権」が必要とされるのは当然でしょう。それで、違憲だと言っても、政治的には辻褄が合わないのです。

民主党の議員たちが泥舟から逃げ出さないのは、有力な支持母体である連合の票があるからですが、その連合は労使協調路線をとる総評の右派と旧民社党系の同盟が一緒になってできたナショナルセンターです。労組の立場から原発や防衛産業の利益を守るという主張が、民主党のなかに、なんの矛盾もなく存在しているのです。

福島瑞穂が言うように、「自民党と民主党はカレーライスかライスカレーかの違いしかない」のです。実際に、民主党では護憲派は少数です。そんな民主党が「9条を守れ」「戦争をするな」と言っても、眉に唾したくなるのは当然でしょう。

どうして日本では、シリザやポデモスやSNPのような本気の政治、「勝てる左派」が出てこないのか。どうしてお揃いのプラカードを掲げ、お揃いのスカーフを首に巻いて、「安倍政権は追い詰められている」などというおためごかしのことばに喝采を送る、そんな運動しかないのでしょうか。
2015.07.16 Thu l 社会・時事 l top ▲
東海道新幹線のぞみ車内で乗客が焼身自殺を図った事件。老後を前にした人間には身につまされる事件でした。

死亡した70才の老人は、杉並区西荻の家賃4万円の風呂なしのアパートで独り暮らし。年金は、35年間加入して2カ月で24万円だったそうです。

以前の記事でも紹介しましたが、厚生労働省年金局の「平成23年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況」によれば、月額平均受給額は、国民年金で54682円(厚生年金の受給権がなく国民年金だけの人は49632円)、厚生年金で152396円です。

報道によれば、彼は、20数年流しをやっていて、「その後、鉄鋼会社に勤務するも、その会社が倒産。送迎バスの運転手や清掃会社で働くなどして、生計を立てていた」そうです。そんな職歴から言えば、2ヵ月で24万円という年金額は、決して少なくなかったのです。

テレビのニュースに出ていたアパートは、おせいじにもきれいとは言い難い木造の「安アパート」でした。でも、月に12万円の年金で家賃や税金や健康保険料を払ったらほとんど残らず「生活ができない」と嘆いていたそうです。働けるうちは、なんとかやりくりできるけど、70才になり仕事を辞めた途端、「年金だけでは生活できない」過酷な現実を前にして絶望感を抱いたことは、容易に想像できます。

彼は今年の3月に産業廃棄物処理の仕事を辞めたそうですが、住民税や健康保険料は前年の収入に基づいて計算されるため、いわゆる「租税公課」が生活を圧迫していたことは充分考えられます。どこの自治体でも、逼迫した財政を維持するために、住民負担はもはや生活実態とかけ離れたものになっており、とりわけ、住民税非課税のボーダーラインに近い低所得世帯ほど負担割合が大きくなり、真面目に”納税者の義務”を果たそうとすればするほど生活が苦しくなるという理不尽な現実があるのです(※その後の報道によれば、国民健康保険料の支払いが10カ月分納で月2万円だったそうです)。家賃や税金や健康保険料を払ったらほどんど残らず「生活できない」というのは、決してオーバーな話ではないでしょう。

岩手のお姉さんが地元で一緒に暮らそうと誘ったが、畑仕事はできないと断られたそうです。お姉さんは、こんなことならもっと強く誘えばよかったと言っていたそうですが、月に12万円の年金額は、家賃もいらない田舎であればなんとか暮らせないことはないでしょう。しかし、いくら「安アパート」でも、家賃を払いながら東京で暮らすには、私たちの経験から言ってもとても無理な金額と言えます。

近所に40年来の知り合いもいて、草野球のチームにも入っていたというので、、西荻界隈に古くから住んでいて地域にもそれなりに溶け込んでいたようです。岩手から上京して、東京でさまざまな仕事をしながら35年間律儀に年金保険料を納めてきたのです。マスコミはパチンコ好きだったとか消費者金融に借金があったとかいう話を針小棒大に取り上げて、「どうしうようもない人間」のように書き立てていますが、彼は私たちのまわりにもいるごく普通の地方出身者のひとりなのです。年金も平均より多い。でも、それでも老後に絶望して、こんな最期を迎えねばならなかったのです。

新幹線の乗客の話では、「ホームレスかと思った」くらい服装も粗末だったそうです。頭からガソリンを被る際は、涙を流していたという目撃談もあります。

一方、この事件を報じる同じ新聞には、「路線価:東京都心部『億ション』完売」という記事が出ていました。

毎日新聞
路線価:東京都心部「億ション」完売

現在、東京では史上空前の「億ションブーム」なのだそうです。その多くは、投資と相続税対策なのだとか。この対象的な二つのニュースは、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなっていく、格差社会の非情な現実を映し出していると言えます。

どうしてこんな社会になったのか。さらにやり切れないのは、世間の人間たちが、まるで他人事のように(!)、ワイドショーのコメンテーターたちと一緒に、焼身自殺した老人に悪罵を浴びせていることです。そこには、明日は我が身という一片の想像力さえないのです。


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2015.07.13 Mon l 社会・時事 l top ▲
ギリシャへの金融支援問題をめぐるユーロ圏財務相会合では結論が出ず、首脳会議に判断が委ねられました。しかし、世界が注視する首脳会議は、今の時点ではまだ開催中で、結論が出たという報道はありません。

21年前、マーストリヒト条約の発効でEUが誕生したとき、私たちは国家の枠にとらわれないあたらしい時代が登場したと思っていました。EUは、戦争やファシズムの母体である偏狭なナショナリズムを乗り越える“理性の具現化“(=民主主義のあらたなステージ)と思っていたのです。でも、実体は違っていたのです。

「2015年の欧州政治は右VS左の時代から、上VS下の時代に移行している感が」あるとブレイディみかこ氏が書いていましたが、EUは今や持てる国が持たざる国を搾取する、新自由主義の草刈り場と化しているのです。

ギリシャにとって、「EU離脱」はマスコミが言うように”絶望”を意味するのではなく、むしろギリシャの民衆が言うように”改革”や”希望”を意味するのです。「EU離脱」のダメージは、ギリシャよりEUのほうが大きいのは間違いなく、それをカードにしたチプラス政権のしたたかなチキンレースが今まさにブリュッセルでくり広げられているのです。

ギリシャ問題については、仲宗根雅則氏のブログ「ギリシャ危機の責任はEUにもある 」が問題の本質をわかりやすくまとめていました。

Yahoo!ニュース・個人
ギリシャ危機の責任はEUにもある

 財政破綻が明らかになってからは、ギリシャも緊縮政策を実施してギリシャなりに頑張った。ギリシャ人は怠け者、と決め付ける単細胞の人々は、ギリシャが頑張ったなどとは決して認めようとしないだろう。しかしギリシャも頑張ったのだ。
 
  ギリシャ国民の頑張りが見えづらいのは、ギリシャ人は怠け者という悪意ある先入観と、ドイツを筆頭にする成金国の主張ばかりがメディアに充満していたからだ。それに加えて-- 実はこれがもっとも重要なのだが-- 緊縮策によるギリシャ経済の疲弊があったから、ますます彼らの頑張りが見えにくくなった。
 
 それをいいことに、ギリシャ自身が頑張らないから財政難が少しも改善しない、と前述の成金たちはさらに執拗に主張しまくった。だが、そうではなく、彼らが債務の減免をしないでギリシャだけに節約を押し付け続けたから、同国の財政危機は一向に改善しなかったのだ。


 経済成長を無視した緊縮財政は、十中八九その国の経済を悪化させる。借金の返済のためにひたすら節約をし続ける家計には消費活動をする余裕はない。だから経済は沈滞する。沈滞する経済は税金も払えない。なのに国は払えない税金を無理に徴収する。だからさらに経済が落ち込むという悪循環に陥る。それがギリシャの状況だったのだ。
 
 EUの要求を達成しようと緊縮策を懸命に実行した結果、ギリシャの名目のGDPは、2011年から昨年までの3年間で約14%も減少した。当たり前だ。増税と緊縮策が同時進行したのだから経済が転ばない方がおかしい。それにもかかわらずにドイツを柱とするEUは、彼らが規定する「怠け者」のギリシャに、もっと節約しろ、年金をカットしろ、増税もしろ、そうやって財政を立て直せと言い続けた。


投入した資金も借金返済のために使われて「『EUに舞い戻り』、ギリシャ社会にはほとんど流通しなかった」のです。ここにあるのは、典型的な生かさず殺さずの金貸しのやり方です。

ギリシャなどヨーロッパ各国が、1953年に戦争で疲弊したドイツを救済するために借金を棒引きした事実については、トマ・ピケティも指摘しており、緊縮策に反対する他の経済学者とともに、緊縮策をやめ、負債の減免を要求する公開書簡をドイツのメルケル首相に送っています。昔、借金を棒引きしてもらった成金国が、恩義のある没落した国に、死んでもお金を返せと血も涙もない要求をおこなっているのです。

それなら破産して家を出て行ったほうがいいと考えるのは当然でしょう。仮に今回、「支援」の合意に至ったとしても、緊縮策がつづく限り、「EU離脱」の声はギリシャ国内から止むことはないでしょう。それが、マスコミ報道ではわからないギリシャ問題の本質なのです。

日本も同じですが、ブレイディみかこ氏が言うように、現代は右か左かではなく、上か下かの時代になっているのです。
2015.07.13 Mon l 社会・時事 l top ▲
新潮2015年7月号


『新潮』(7月号)に「400枚一挙掲載」されていた金原ひとみの「軽薄」を読みました。

小説としては、登場人物も話の筋立ても荒っぽくて散漫でした。おそらくこの小説を評価する人は少ないだろうと思います。

作者の金原ひとみは、東日本大震災に伴う原発事故のあと、放射能汚染を避けて(?)岡山県に移住し、現在はフランスに住んでいるそうです。その間、次女を出産し、二人の娘の母親になっていたのです。

でも、この作品では、そんな家庭の幸福とは真逆を求める既婚女性が主人公です。

スタイリストとして華やかな世界で仕事をするカナ。カナは、イタリアの服飾ブランドの日本支社に勤める夫と8歳になる息子との三人家族です。カナと夫は、イギリスで知り合い結婚しました。当時、夫は服飾ブランドの日本法人からマーケティングディレクターとしてイギリスに派遣されていて、カナは服飾系の専門学校に留学していました。

しかし、カナの留学にはある事情がありました。カナには、16歳のときから2年間、薬と酒に溺れたような「破滅的な」関係をつづけていた男がいたのです。でも、そんな関係に疲れ、普通の人と「普通の恋がしたい」と思ったカナは、浮気相手と一緒に男のもとから逃げたのでした。それから男は、ストーカーと化し、カナに執拗に付きまとい脅迫するようになったのです。それで、カナは友達の家やキャバクラの寮などを転々として逃げまわっていたのですが、とうとう居場所を知られ、ある日突然、背後からナイフで刺されたのです。それがきっかけで、イギリスに留学したのでした。

なに不自由ない生活。夫も非の打ちどころのないような人物です。過去とはまるて別世界のような日常。しかし、カナはどこか満たされない思いを抱いています。心の空隙を埋めるかのように仕事に生きがいを求めるカナ。しかし、やがて、カナは、その空隙のなかに、あの過去の「破滅的な」恋愛の”しこり”が残っていることを気付かされるのでした。

それは、姉の息子・弘斗との道ならぬ関係によってでした。弘斗は19歳の大学生です。姉一家もまた、長い間、アメリカで暮らしていて帰国したばかりです。弘斗とは幼児のときに会ったきりでした。弘斗もカナと同じように、日本の社会に対してどこか疎外感を抱いているのでした。

 弘斗とのセックスは気持ち良い。でも、それは世界を揺るがすようなものではない。私は、甥と不倫しても壊れない世界に苛立っているのかもしれない。そんな事をしたら世界が変わると思っていたのかもしれない。でも世界は壊れなかった。私の世界を変える人や物は、もうこの人生の中には現れないのかもしれない。そう思ったら苛立ちも消えて、プッチ柄みたいな幾何学模様を見つめている時に抱くような、だから何だという虚無的な気持ちになった。


そう思っていたカナでしたが、弘斗との関係が深まり、さらに弘斗がアメリカで起こしたストカ―まがいの刺傷事件を知り、夫の浮気の気配を感じたりするにつれ、カナの心の奥深くに眠っていた「破滅願望」や「狂気」が再び頭をもたげはじめたのでした。それは、弘斗に対する「執着」だけでなく、過去のあの事件にケリをつけるということでもあります。

私はあの時果たせなかった誠実であり続けるという、自分自身の望みでもあり彼の望みでもあった道を、ここで果たせるのではないかと、自分でも信じれられないような希望を抱いている事に気付く。彼とだったら、私はあの時諦めてしまった、相手に対して誠実に向き合うという行為から逃げずに二人の関係を全う出来るかもしれない。あの時捨てた自分と、あの時捨てた男と、あの時捨てた狂気と、私は邂逅しているような気持ちでいた。


狂気が、また私の中に宿ったのかもしれない。軽蔑し、倫理的に否定し続けてきた非合理的な狂気を、長い時を経て私は今甘受したのかもしれない。(略)
時計の針が帳尻合わせをするように、私は帳尻合わせをしているのだ。善と悪、嘘を真実、希望と諦め、未来と過去、全ての両橋の合間でどこに立てばいいのか、迷いながら自分が倒れないバランスを探している。私はこの思いに全てを差し出すだろう。軽蔑の上に築き上げてきた物ものは、乾いた紙粘土が崩れるように倒壊し、砕け散り、辺りに舞い上がる埃の中、私はそれでもまだ生きていて、弘斗の手を探すだろう。


恋愛というのは大なり小なり「狂気」の要素が含まれているものです。まして不倫のような恋愛であれば尚更でしょう。”背徳”ということばは、決して死語ではないのです。

法事で帰省した折、姉と妹がささいなことで口喧嘩になりました。その際、エスカレートして、「あのとき男を追いかけて行って」とか「あんただって男にお金を貢いで」とか「お金をせびって」とか、ずいぶんきわどい話になったのです。もちろん、いつも●●●桟敷に置かれている私には、初めて聞く話でした。

でも、私は、それを聞いて、なにかホッとしたような気持になったのでした。今の彼女たちは、どこの誰が見てもさえない中年のおばさんでしかありません。しかし、若いときに、そんな世間の人たちから眉をひそめられるような、それこそ親戚が知ったら非難轟々のような非倫理的な恋愛を経験していたことを知って、私は逆に「よかったな」と思ったのです。

人生には「破滅願望」や「狂気」を抱くような瞬間というのはあるはずです。赤裸々な人間性がむき出しになったとき、もうどうなってもいい、そんな気持になることもあるでしょう。非倫理的な恋愛であればよけいそうでしょう。人間は誰しも、墓場までもっていく話がひとつやふたつはあるはずです。それが恋愛に関するものであれば、人生はもっと奥行きができて、色合いも豊かなものになるでしょう。どんな恋愛であれ、「恋愛は人生の花」(坂口安吾)なのです。

この作品は饒舌すぎるのです。それに飾り物が多すぎる。それが小説の魅力を損なっているように思います。

私は、カナと弘斗二人の場面だけで充分のような気がします。18禁のようなセックス描写も、そこに流れる空気感もすごく巧みで惹かれるものがありました。そういった場面だけで小説を構成すれば、もっと読者の想像力をかき立てるような魅力的な作品になったように思います。別に、叔母と甥でなくてもいい。ただの人妻と大学生の話でも、カナと弘斗の世界は充分成り立つように思います。

「破滅願望」や「狂気」を抱かせるような恋愛。たとえさえないおばさんやおっさんになっても、心のなかにはそんなせつなく哀しい思い出はあるのです。私たちにとって、カナや弘斗は決して遠い存在ではないのです。カナや弘斗をとおしてみずからの人生と向き合うこともできるはずです。でも、そのためには、この小説は饒舌すぎるのです。その饒舌さは、平板で倫理的な結婚生活を送っている作者の弁解のように思えないこともありません。


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2015.07.10 Fri l 本・文芸 l top ▲
EUが求める財政緊縮策に対するギリシャの国民投票について、日本のマスコミは、「賛否が拮抗」とか銀行の休業などに不安を抱いた国民が「緊縮策の受入れに傾いている」というように報道していました。しかし、結果は、反対(61%)が賛成(38%)を大きく上まわり、ギリシャ国民はEUの緊縮策にNOを突きつけたのでした。

ギリシャの国民投票の直前、イギリス在住のブロガー・ブレイディみかこ氏は、たてつづけに2本の記事をアップしていました。

Yahoo!ニュース・個人
ギリシャ国民投票:6人の経済学者たちは「賛成」か「反対」か
ギリシャ危機は借金問題ではない。階級政治だ

記事のなかで注目されるのは、EU の緊縮策、いわゆるトロイカ(EU、欧州中央銀行、IMF)の要求は、きわめて「懲罰的」で「緊縮の上に緊縮を重ねる」「単純な罰課題」であり、その裏にはシリザ(急進左派連合)のチプラス政権を潰す狙いもある、とギリシャ政府を支持する知識人や政治家たちが口をそろえて指摘していることです。

ブレイディみかこ氏のブログによれば、ノーベル賞経済学者・ジョセフ・スティグリッツも、トロイカの要求の不当性とその背後の”政治的意図”を批判しているそうです。

「5年前にトロイカ(欧州委員会+IMF+ECB)がギリシャに押し付けた経済プログラムは大失敗に終わり、ギリシャのGDPは25%減少した。これほど故意な、そして壊滅的な結果をもたらせた不況を私は他に思い浮かべることができない。ギリシャの若年層の失業率は現在60%を超えているのだ。衝撃的なのは、トロイカはこれに対する責任の受け入れを拒否しているということであり、自分たちの予測や構想がどれほど劣悪だったか認めていないことだ。さらに驚くべきことに、彼らは学んでいない。いまだに2018年までにGDP比3.5%の財政黒字を達成するようにギリシャに要求している」

「世界中の経済学者たちがこの目標は懲罰的だと非難している。こんなことを目標にすれば景気はさらに悪化する。たとえ誰も想像できないようなやり方でギリシャの債務が整理されたとしても、トロイカが要求する目標を達成しようとすればギリシャの景気下降は続く」

「明確にしなくてはいけないのは、ギリシャに融資された巨額の資金の殆どはギリシャには入っていないということだ。それは民間の債権者への支払いに使われており、その中にはドイツやフランスの銀行も含まれている。ギリシャはすずめの涙ほどの金を得て、これらの国の銀行システムを維持するために大きな代償を払っている。IMFその他の「公式」な債権者は、要求されている返済など必要ない。いつも通りのシナリオなら、返済された金はまたギリシャに貸し出されるだろう」

「これはマネーの問題ではない。ギリシャを屈服させ、受け入れられない条件を受け入れさせるために『期限』を使っているのだ。緊縮だけでなく、他の後退的、懲罰的政策をギリシャ政権に行わせるためにそれを利用しているのだ。だが、なぜ欧州はそんなことをするのだろう?」

出典:"How I would vote in the Greek regerendum" Joseph Stiglitz (The Guardian)


もちろん、ギリシャ国民もそのカラクリは熟知しており、日本のマスコミが言うように、「賛否が拮抗」とか「賛成に傾いている」というのは最初からあり得ない話だったのです。チプラス政権は、デモクラシー発祥の地にふさわしいギリシャの伝統的なデモクラシーの手法を用いて、あらためて国民の意思をトロイカとその背後にいる国際金融資本に突き付けたと言えるでしょう。

では、どうしてEUの主要国は、チプラス政権を潰そうと躍起になっているのか。それは、現在、ギリシャだけでなく、スペインやイギリス(スコットランド)でも台頭しつつある急進左派の連携と伸長を懸念しているからにほかなりません。

そのあたらしい流れについて、ブレイディみかこ氏は、日本のネットでも話題になった「『勝てる左派』と『勝てない左派』」という記事でレポートしていました。

Yahoo!ニュース・個人
「勝てる左派」と「勝てない左派」

ヨーロッパで台頭しつつある急進左派について、日本では「新左翼」という言い方をする人がいますが、同じニューレフトでも、日本のそれとは似て非なるものなのです。

まだ若くて聡明だった頃の鷲田小彌太氏は、ソ連崩壊前夜の1991年に出版した『いま、社会主義を考える』(三一新書)のなかで、「資本主義の臨界点としての社会主義」というあたらしい(未来の)社会主義像を提示していましたが、この「勝てる左派」の台頭こそ、資本主義の危機(臨界点)に際して、起こるべくして起こった(もはや左翼とも言えないような)あたらしい政治の潮流と言えるのかもしれません。もちろん、そのスローガンは、反格差&反市場原理主義&反グローバル資本主義です。

では、翻って日本の現状はどうなのか。ギリシャ問題ひとつをとっても、日本のメディアが書く記事は、どれも国際金融資本の意を汲んだような、木を見て森を見ない記事ばかりです。ヨーロッパの特派員が書く記事でさえそうなのです。

また、先月の27日、安保法制に反対する「SEALDs」という学生の団体が主催するデモと集会が渋谷でありましたが、しかし、その呼びかけ人や当日壇上に上がった政治家の顔ぶれを見て、私は、がっかりしました。それこそ「勝てない左派」を代表するような古い政治家たちばかりなのです。もちろん、そこで交わされていたのも、うんざりするような古い政治のことばでした。

どうして日本では、シリザやポデモスやSNP(スコットランド国民党)のような「勝てる左派」の運動が生まれないのか。学生たちは、どうして古い政治に依存しているのか。「勝てない左派」のダメさ加減、数々の裏切り、遁走の記憶がどうして継承されてないのか。

ブレイディみかこ氏は、ブログで、ポデモスを率いるパブロ・イグレシアスのつぎのようなことばを紹介していました。

「(略)左派は連立を組むのが好きだ。『君たちと僕たちと彼らが組めば15%、いや20%の票が獲得できる』などと言う。だが、僕は20%なんか獲得したくない。僕は勝ちたいのだ。(中略)勝つためには、我々は左翼であることを宗教にするのをやめなければいけない。左翼とは、ピープルのツールであることだ。左翼はピープルにならなければならない」


民主党は言わずもがなですが、私がよく利用する地下鉄の駅前では、ほぼ毎日のように、共産党の女性がスーツ姿で街頭演説をしています。私はその姿を見るたびに、井上光晴の『書かれざる一章』という小説を思い出さざるを得ません。おそらく彼女は、誠実で忠実な党員なのでしょう。でも、彼女の演説は、十年一日の如く同じ常套句をくり返しているだけなのです。そこには、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」姿しかないのです。彼女は、「地べたの人間」ではなく、党官僚に向けて演説しているように思えてならないのです。

私たちが求めているのは、「地べたの人間」にとっての“希望の政治“です。そのための「パッションのこもったメッセージ」なのです。左翼のドグマなんてどうだっていいのです。

イグレシアスが、みずから政治学を教える学生たちに向けて言ったことば。

「君たちは権力というものについて学んでいる。そして権力とは、脅かすことが可能なものだ」


このことばには、これからのチプラス政権がとるべき道を暗示しているように思います。日本のマスコミは、相変わらず「ギリシャがEU離脱の瀬戸際に立たされた」などと国際金融資本のサイドに立った、彼らの”脅し””を代弁したような記事を書いていますが、これから私たちは、トロイカとその背後に控える国際金融資本との”チキンレース”のなかで、ギリシャのしたたかさ、それこそ「勝てる左派」のしたたかさを目にすることになるでしょう。チプラス政権を支持する人たちは、口々に「我々はヨーロッパの改革のために闘っているんだ」と言ってましたが、文字通り彼らは、「ギリシャ危機はファイナンスや債務返済の問題」ではなく「階級政治だ」というケン・ローチのことばを体現していると言えるでしょう。

ブレイディみかこ氏は、「『勝てる左派』と『勝てない左派』」の記事の最後をつぎのような示唆に富んだことばで結んでいました。

欧州で新左派が躍進しているのは、彼らが「負ける」という生暖かいお馴染みの場所でまどろむことをやめ、「勝つ」ことを真剣に欲し始めたからだ。
右傾化する庶民を「バカ」と傲慢に冷笑し、切り捨てるのではなく、その庶民にこそ届く言葉を発すること。
スペインの学者たちがやっていることは、実はたいへん高度な技だ。
だがそれに学ばない限り、左派に日は昇らない。



参考サイト:
ブレイディみかこ official site
THE BRADY BLOG
2015.07.07 Tue l 社会・時事 l top ▲