一昨日、女優の原節子が9月に亡くなっていたというニュースがありました。もちろん、私は、原節子は小津映画でしか知りません。私たちにとって、原節子は最初から”過去の人”でしたので、亡くなったというニュースを聞いて少なからず驚きました。95歳だったそうです。

原節子は、42歳で女優を引退し、以後、マスコミといっさい接触を断って、鎌倉の浄妙寺の近くで、甥夫婦と暮らしていたそうです。今回公表が遅れたのも故人の意志だったとか。そんなみずからの美学を貫いた生き方があの”原節子伝説”を創ったと言えるでしょう。

また、先週は、NHKスペシャルで、「いのち 瀬戸内寂聴 密着500日」というドキュメンタリーをやっていました。93歳になった瀬戸内寂聴の日常を追ったドキュメンタリーでしたが、番組を見ているうちに、いつの間にか瀬戸内寂聴に母の面影を重ねている自分がいました。

年齢も1歳違いということもありますが、瀬戸内寂聴を見ていると、(縁起でもないと言われるかもしれませんが)病院のベットに寝ていた死の間際の母の顔がオーバーラップしてくるのでした。

老いの現実。それは、やがて私たちにも容赦なくやってくるのです。黄昏を生きるというのは、なんとせつなくてなんと物悲しいものなんだろうと思います。

私は、認知症は”死の苦悩”から解放してくれる神様からの贈り物だと思っていますので、まわりには迷惑をかけるかもしれませんが、認知症になって死ねたらいいなと思っています。

母は認知症になることもなく、末期ガンが発見されるまで一人暮らしをしていました。ドクターは、「認知症を患うこともなく、ずっと自分のことを自分でやってきたお母さんは幸せな老後だったと思いますよ」と言ってましたが、私はホントにそうだろうかと思いました。

不肖の息子は、月に一度電話で話をするくらいでしたが、母はいつも「もういつ死んでもいいと思っちょるけど、なかなか死なせてくれないんよ」と言っていました。私も母と同じくらいの年齢まで生きたら、やはり同じようなことを思うのかもしれません。そうやって”死の苦悩”を抱いて残りの日々をすごすくらいなら、認知症になったほうが余程いいと思うのです。

私は、今、民俗学者の六車由実氏が書いた『介護民俗学へようこそ! 「すまいるほーむ」の物語』(新潮社)という本を読んでいます。六車氏は、大学教員から介護ヘルパーに転職し、さらにグループホームの施設責任者になった方ですが、この本は、民俗学の手法を使ってホームのお年寄りに「聞き書き」したものです。

柳田国男は、ひとりひとりが「物語を語れ」「物語を創れ」と言ったのですが、「すまいるほーむ」の物語のなんと豊穣で感動的なことか。「聞き書き」のなかから、ひとりひとりのお年寄りの人生の物語が光芒を伴って浮かび上がってくるのでした。昔、生きるってすばらしいという歌がありましたが、「聞き書き」を読んでいるとホントにそう思えるのです。そして、みんな、そうやって自分の物語を抱いて旅立って行くのだなとしみじみ思うのでした。


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2015.11.27 Fri l 日常・その他 l top ▲
若い頃、私は、いわゆる「在日」の女の子とつきあっていたことがありました。つきあい出してしばらくしてから、突然、「あたし、日本人じゃないの」と言うのでびっくりしました。

「エッ、じゃあ、何人?」
「朝鮮人なの」
「ああ、そうなんだ」

彼女は、そんな私の軽い反応が意外だったそうです。妄想癖のある私は、最初「日本人じゃないの」と言われたとき、(冗談ではなくホントに)宇宙人かと思ったのです。

彼女もまた本を読むのが好きで、妄想癖がある女の子でした。学校の成績はあまりよくなかったと言うので、頭はよさそうなのにどうして?と訊いたら、「授業中外を見て物思いに耽ってばかりいたから」と言ってました。

ただ、つきあっているうちに、一見似ているけど実は微妙に似てない面があることに気付きました。わかりやすく言えば、日本人がこだわる部分を朝鮮人はこだわらなくて、朝鮮人がこだわる部分を日本人はこだわないのです。その違いは、似ているだけによけい際立つところがあり、ときに「根本的な」違いのように思えるのでした。

私はよく朝鮮人は勝ったか負けたか得か損かでしかものを見ないと「悪口」を言ってました。すると、彼女は、日本人は冷たくてずる賢くてなにを考えているかわからないと「悪口」を言い返してきました。その損得勘定と狡猾さというのは、たしかに似ているようで似てないのです。「アジア的」な生産様式のなかで生きてきた日本人と朝鮮人のなかには、どちらも”人情味”という共通した共同体意識はあります。しかし、その”人情味”にしても、当事者にしかわからないような微妙な違いがあるのです。それは、儒教の影響の濃淡だけでなく、大陸に連なる半島と島国の精神風土の違いも関連しているように思います。

私は、お姉さんの結婚式にも招待されて出席しました。朝鮮人の披露宴は、日本人の披露宴のような席次表がありません。親戚のテーブル以外は、基本的にどこに座ってもいいのです。聞けば、招待されなくてもやってくる人がいるそうです。それで、戸惑って立っていたら、彼女のお父さんがやってきて、おばさんが多く座っているテーブルに案内してくれました。そこは、お父さんとお母さんの友達が座っているテーブルでした。

おばさんたちは驚くほどきさくで、新郎新婦とどんな関係なのか訊くでもなしに、「お兄ちゃん、どんどん食べなさいよ」「なにが好きなん?」と言って料理を皿に取ってくれるのでした。

披露宴の途中、彼女がやってきて「大丈夫?」「まわりはバリバリの朝鮮人ばかりだよ」「お父さんに、なんであんな朝鮮人のテーブルに連れて行ったの?って文句を言ったの」と言ってました。

ところが、トイレに行った際、叔父だという人から呼び止められ、「××(彼女の名前)は、お前のような日本人にはやらないからな」とドスのきいた声で言われたのです。披露宴のあと、「あのやくざみたいな叔父さんは、なんなんだ?」と文句を言ったら、彼女は泣いていました。お母さんの弟で金融業をやっているということでした。

たしかに、普通の披露宴と違って、妙にコワモテの人間が多かったのは事実です。駐車場にベンツが多く停まっていたので、「親戚や友達にそんなに金持ちが多いの?」と訊いたら、「なに言ってるのよ、みんな朝鮮人よ。あれが朝鮮人なのよ」と言っていました。

最近、知り合いが仕事の関係で「在日」の人間とトラブルになって困っていると言うので、私も相手に会いに行きました。ひと言で言って、”年取ったチンピラ”でした。如何にもという感じで両足を外に向けて座り、威圧するように鋭い目でこっちを睨みつけながら、分厚い胸から野太い声を出して、感情を露わにまくしたてるのでした。

知り合いは、「だから『在日』は嫌なんだよ」と言ってました。それを聞いて、私は彼の気持はわからないでもないけど、でもそれは短絡すぎるのではないかと思いました。

たしかに、朝鮮人特有の気質と呼べるようなものはあるし、日本人との違いはあります。日本人だけには負けたくない、バカにされたくないという、日本人に対する対抗心のようなものも感じることはあります。だからあのように虚勢を張るのでしょう。それは、私たちから見ると、あまりにも意識過剰でうっとうしく感じることも事実です(もちろん、その背景に差別の歴史があるのは言うまでもありませんが)。

ただ、よく考えてみれば、日本人のなかにもやくざっぽい人間はいるし、トラブルになるとやっかいな人間はいくらでもいるのです。庇を貸して母屋を取られるような気持になるのは、なにも「在日」に限った話ではないでしょう。それをすべて「民族性」とか「国民性」などということばで括るのは、やはり短絡的だし予断と偏見に満ちていると言わねばならないでしょう。

「古本屋の覚え書き 」というブログにつぎのような「抜き書き」がありました。私は、どちらの本も読んでいませんが、「民族」という概念の薄っぺらさをよく言い表しているように思います。薄っぺらな概念だがらこそ、排外主義のような暴力的な感情に訴えなければならないのかもしれません。

古本屋の覚書
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/

 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。(以下略)

【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100309/p1


 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム』岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。

【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20091101/p2


月並みな言い方をすれば、日本人だって、朝鮮人だって、中国人だって、ロシア人だって、アラブ人だって、フランス人だって、みんな五十歩百歩なのです。相手の醜さは自分の醜さでもあるのです。私たちの前にはいつもそういった合わせ鏡があるのだということを忘れてはならないでしょう。


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2015.11.24 Tue l 日常・その他 l top ▲
先日、朝日新聞の「学びを語る」というシリーズ企画に、「ネットの万能感 『世間を知っている』と自信過剰に」という情報教育アドバイザー・遠藤美季氏のインタービュー記事が出ていました。

朝日新聞デジタル
(学びを語る)ネットの万能感 「世間を知っている」と自信過剰に 遠藤美季さん

「2012~13年の厚生労働省研究班の調査によると、ネット依存の傾向がある中高生は全国に推計約52万人いる」そうです。

しかし、これは中高生に限った話ではないのです。中高生と一緒に、2ちゃんねるやニコ動に常駐している、いい年したニートやフリーターのなんと多いことか。

今やフリーターの第一世代は50代に入ったのです。彼らの特徴は、「世間話」ができないことです。彼らには「世間」がないのです。「世間」や「社会」に対して基本的な経験や知識が欠けているからです。

そのためによけい、ネットで得た知識によって、誰よりも世の中を知っていると思い込み、2ちゃんねるやニコ動で攻撃的な書き込みをすることで、他人を支配したつもりになり、「万能感」に酔い痴れ、自分が大きくなったつもりになるのです。そこにあるのは、ネット特有の夜郎自大な性向です。ヤフコメも同じですが、それではますます社会と乖離し適応できなくなるのは当然でしょう。

一方でネットには、社会に適応できないことが自由だと勘違いさせる、そんな自己を合理化する”屁理屈”も用意されているのです。特にネットの黎明期には、その手の言説があふれていました。たとえば梅田望夫氏なども、『ウェブ進化論』で、リアル社会に適応できなくても、ネットで充分特化した生き方ができるなどとさかんに喧伝していました。もちろん、現実がそんな都合のいいものではないことは言うまでもありません。

それに、彼らの唯一の情報源であるネットにしても、多分に人工的に工作されたものでしかないのです。まして、ネットに”自由な言論”があるとかネットこそ真実なんて思っている人間は、あまりにも能天気だと言わざるを得ません。

『紙の爆弾』(鹿砦社)12月号に掲載されていた「世論を動かすアメリカの情報操作 『サイオプス』の正体」という匿名座談会に、つぎのような発言がありました。サイオプスというのは、サイコロジカル・オペレーションの略で、アメリカ国務省が指揮するアメリカ陸軍の「心理作戦」のことです。作戦を担う特殊部隊は、1万人規模の組織だとか。

X(引用者註:軍事ジャーナリスト) 九月に日本最大手のポータルサイト「Yahoo!」が、嫌韓を煽るからと「サーチナ」との契約を解除した。ところが、嫌韓や嫌中を煽っていたのはサーチナじゃなくて「レコード・チャイナ」(レコチャイ)で、こっちが国務省資本のサイオプス部隊といわれているんだ。だいたいサーチナはソフトバンクの孫正義が所有している。むしろ、レコチャイの情報工作を円滑にするために、潰すように圧力をかけられたとしか思えないんだよ。
Y(引用者註:週刊誌記者) 実際、中国共産党の批判を辿っていくと、だいたいネタ元はカナダのネットニュースサイト「エポックタイムズ」、日本語名の「大紀元」なんだよ。もともとは文化大革命に亡命した華僑という触れ込みだが、経営しているのはアメリカ国務省。法輪功の信者を死刑にして臓器売買をしているとか、共産党の腐敗や賄賂といった情報は、ここから発信されている。とはいえ中国政府に批判的な大紀元のニュース発では信憑性が薄くなる。そこでレコチャイが情報の受け手となって情報のロンダリングをしてきた。


レコチャイは、嫌中のニュースを2ちゃんねるのスレッドに立て、ヘイトな書き込みを煽り、系列のまとめサイトがその書き込みを掲載して拡散するのだそうです。また、中国の掲示板でも中国のユーザーを挑発して、「反日」的な書き込みを煽り、それを記事にして日本で配信するのだとか。Yahoo!の国際ニュースのアクセスランキングで上位を占めているのは、そんな煽り記事ばかりです。

そんなアメリカの情報工作のお先棒を担いでいるのが、自民党のネットサポーターズクラブ(J-NSC)です。約1万人いると言われる会員たちが、従属思想を「愛国」と言い換え、日々嫌中嫌韓の書き込みをして、安倍政権に批判的な書き込みや記事を「反日」として炎上させるべく工作しているのです。

それが、ネットでなんでも知っているつもりになり、「万能感」に酔い痴れている者たちが拠り所とする情報の実態なのです。
2015.11.23 Mon l ネット・メディア l top ▲
今日届いた田中宇氏のメルマガ(有料版)につぎのような記述がありました。

田中宇の国際ニュース解説 会員版(田中宇プラス)
パリのテロと追い込まれるISIS、イスラエル
http://tanakanews.com/

 フランス軍は報復のため、ISISの「首都」になっているシリア北部のラッカ周辺にある、ISISの司令部や弾薬庫、訓練施設などを12機の戦闘機で空爆した。仏軍は米軍と連携し、ISISへの空爆を強めるという。しかし、この話もよく考えると頓珍漢だ。仏軍が今回空爆したISISの司令部や弾薬庫、訓練施設などは、場所がわかりしだいすぐに空爆すべき地点だ。フランスは昨年9月から1年以上、米軍と一緒にISISの拠点を空爆し続けている。仏軍は、ISISの司令部や弾薬庫、訓練施設などの所在を、この数日間に発見したのか?。そうではないだろう。仏軍や米軍は、以前からそれらの所在を知っていたが、空爆していなかったと考えるのが自然だ。米国や英仏は、以前からISISなどテロ組織がアサド政権を倒すことを期待し、ISISなどを退治するふりをして温存(支援)してきた。


 パリテロ前日の11月12日には、米軍が、シリア上空に飛ばした無人戦闘機でISISの英語広報役の「聖戦士ジョン」(モハメド・エムワジ、英国人)を殺害したと発表した。ジョンは、外国人の人質を座らせ、殺害するぞと脅すISISの動画にいつも出てくる人物で、米欧日で有名だ。米軍は有名人を空爆で殺し、米国がISISと戦って成果を上げている印象を世界的に示したかったのだろう。だが、ジョンは単なる広報役であり、彼が死んでも代役はくさんいる。ジョン殺害は逆に、米国が本気でISISを潰すつもりがないことを示している。


たしかによく考えてみれば、おかしな話です。

奇々怪々な構図はそれだけではありません。田中宇氏も書いていますが、もうひとつ、親パレスチナ対反イスラエル、反パレスチナ対親イスラエルという構図もあるのです。とりわけヨーロッパにとって、イスラエルの存在は、過去のホロコーストの問題なども絡み一筋縄でいかないやっかいなものでもあるのです。

ロシアのプーチンが、フランスを「同盟国」と呼び、フランスに同調してイスラム国に対する空爆をさらに拡大すると表明したそうですが(それも多分にカマトトですが)、それは自国の航空機が標的になったからというだけでなく、イスラム国と対立するシリアのアサド政権を延命させる思惑もからんでいるのだとか。

イスラム教徒でもある常岡浩介氏は、反アサドなので当然反プーチンです。だから、必ずしも反米ではありません。ツイッターでも、まず反米ありきの日本の左派・リベラルを批判しています。大国の思惑だけでなく、イスラム内部の宗教対立もあり、それがまた大国に利用されているという側面もあるのです。このように、イスラムをめぐる政治の問題は、複雑怪奇で魑魅魍魎なのです。

そんなさまざまな政治的宗教的思惑に翻弄されるのが、「民間人」と称される無辜の民です。パリの129名の犠牲者に対して、世界中が哀悼の意を表明し、フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグが自分のプロフ写真にトリコロールのフランス国旗を付けたり、Google が検索ページに黒いリボンを掲げたりしていましたが、しかし、フランス軍の空爆によって犠牲になっているパレスチナの無辜の民衆に対しては、みんな知らんぷりです。

西欧のテロの犠牲者とは比べものにならないくらいの(おそらくその何百、何千倍もの)パレスチナの人々が有志国連合の空爆やシリア内戦で殺戮されている現実(シリア国内だけでも2011年の内戦以後、既に25万人以上が亡くなったと言われています)。でも、彼らはフェイスブックやGoogle で哀悼の意を表されることはありません。

しかし、15億人のイスラム教徒のかなりの部分は、パリの犠牲者より、空爆や内戦で犠牲になったムスリムの同胞のほうに心を寄せているはずです。そして、世界の不条理を痛感しているはずです。そんな不条理が存在する限り、ムスリムの若者が、狂信的なイスラム原理主義に走り、死をも厭わないテロリストになるのは避けられない現実であるとも言えるのです。空爆が憎悪の連鎖を生むだけなのは誰が見てもあきらかでしょう。
2015.11.19 Thu l 社会・時事 l top ▲
今回のパリの連続テロについて、ブレイディみかこ氏がブログのなかで紹介していたデイリー・メール紙の記事を孫引きします。デイリー・メールというのは、「右翼煽り記事とゴシップ記事に強い」新聞だそうですから、日本で言えば産経新聞のようなものでしょう。書いたのは、「コテコテの右派ピーター・ヒッチェンズ」氏です。

私たちが生きるもうひとつの文明世界もまた、「テロの脅威」に引きずられ、全体主義化し自閉していく”運命”にあるのです。「世界内戦」の時代は、そういった社会の力学が容赦なく猛威をふるう時代でもあるのです。その意味では、安部晋三はこの時代の格好のトリックスターと言えるでしょう。

それにしても、こういった記事が右派の論客から出ているというのは驚きです。

Yahoo!ニュース(個人)
ブレイディみかこ
パリ同時多発テロ:レトリックと復讐。その反復の泥沼
※ブレイディみかこ氏抄訳

もう空虚な大騒ぎはやめてくれないか。これは追悼の時であり、見せ掛けだけのポーズや印象操作はいらない。(中略)過去40年ぐらい、僕たちの大半は、政治家やその他の人々が、断固としてテロと戦い、犯人を探し出し、2度とこのようなことが発生することは許さないと誓う姿をうんざりするほど見て来た。次には大仰な名称の委員会の緊急会議が開かれ、取り締まり、監視の強化、数十億ポンドをスパイ活動と諜報に投入し、その上で対テロ戦争などを行って自らの兵士たちを大勢殺しながら、それでも我々は安全を感じることができない。相手の言語を理解できる人間はこちら側にはほとんどいないのに、向こうはこちらの言語を喋ることができ、自由に我々の世界を移動でき、しかも、先に我々を殺すことができれば自分は喜んで殺されたい(または自殺したい)という敵を目の前にして、自己を防衛するのは至難の業なのだ。
(中略)
フランスと共に喪に服すべきこの時期に、いったいどれほどの愚かなことがフランスについて語られているだろう?胸を膨らませたマッチョな姿勢でフランスを馬鹿にしたり、フランス軍は勝てないなどとネットに書き込まれているのはなぜだ?(中略) こういうテーブルを叩いて叫び、威嚇し、威張るようなことが人命が失われた残虐行為の後に必ず起こる。(中略)我々が数千年かけて築いてきた、何ものにも代えがたい「自由と公正」は、この早急で感情的な手段によって粉砕される。グアンタナモでの無裁判の違法拘禁と拷問を見てほしい。そして秘密の刑務所に秘密の輸送機が飛んでダークなことが行われている「囚人特例引き渡し」も。こんなことをしている我々が「自由と公正」を基盤にしていると言えるのか?そして今度は、あの疑わしくも危険なドローン使用などという方法で、手っ取り早く敵を処刑し始めた。モハメド・エムワジ(ジハーディ・ジョン)の死を可哀そうなどと思う人はほとんどいないだろうが、我々はなんという前例を作っているんだ?敵はまだそれを持っていないが、そのうち使い始めるだろう。

出典:The Mail On Sunday: "Really want to beat terror? Then calm down and THINK" by Peter Hitchens



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2015.11.17 Tue l 社会・時事 l top ▲
先日の『山口百恵は菩薩である』の記事を書いたあと、ずっとスマホに中森明菜の歌を入れて聴いているのですが、あらためて中森明菜のすごさを実感しています。

最初はレコード会社のキャッチフレーズで「歌姫」と呼ばれていたのですが、やがてそんなレコード会社のよこしまな思惑を越えて、中森明菜は正真正銘の「歌姫」になったのでした。

私が好きなのは、加藤登紀子作詞作曲の「難破船」です。これほど中森明菜の才能を感じさせられる歌はありません。「スローモーション」や「セカンド・ラブ」もすごいけど、「難破船」は文字通り「歌姫」と呼ぶにふさわしい歌だと思います。

それは、加藤登紀子の歌と比べてみると一目瞭然です。同じ「難破船」でも、その描く世界はまるで違うものになっているのです。なにより歌の深さが違います。ことばに陰影があり、聴く者の胸に激しくせまってくるのです。そこに中森明菜の才能があるのだと思います。

若い人にはわからないかもしれませんが、年をとってみずからの人生をふり返ると、中森明菜が「難破船」で歌いあげるような世界は、たしかに私たちのなかにもあるのです。私たちはそのなかで、人知れず生きるかなしみに涙するのです。恋は、メタファにすぎません。中森明菜が「難破船」で描いた世界は、藤枝静男や大庭みな子の小説の世界にも通じるものがあるように思います。

昨夜、夢のなかに亡くなった母親が出てきて、今日は一日中しんみりした気持になったのですが、そんなときはよけい中森明菜の歌が心に染み入るのでした。

平岡正明が言うように、感情をもつことは絶対的に正しいのです。私たちが生きているのは、国家のためでも社会のためでもなく、ほかならぬ私自身のためです。私的な感情がすべてであり、私的な感情から生まれたことばを紡いで私たちは自分を表現し、そして日々生きているのです。中森明菜が描く世界は、そんな私たちのなかにある絶対的な世界に隣接しているのだと思います。

中森明菜が気が強くて感情の起伏が激しく、完全主義者でわがままなのは有名な話です。恋人でもあったマネジャーにも、なにか気に食わないことがあると灰皿を投げつけていたそうです。その感情の起伏の激しさが、自殺未遂を起こしたりするのですが、一方でそれが彼女を「歌姫」にしたとも言えるのです。

中森明菜が本格的にカンバックできないのは、事務所のマネジーメントの弱さだけでなく、彼女の性格も災いしているように思えてなりません。たしかに、「歌姫」の名声をパチンコメーカーに安売りしている今の姿は見るに忍びないものがありますが、でも、彼女が戦後歌謡史に残る「歌姫」であることには変わりはないのです。山口百恵に負けないくらいの「歌姫」の神話を作っているのは、否定すべくもない事実でしょう。

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難破船 中森明菜
2015.11.16 Mon l 芸能 l top ▲
イスラムの預言者・ムハンマドの風刺画を掲載した週刊誌の発行元のシャルリー・エブド社が、イスラム原理主義を信奉する若者に襲撃されのが今年の1月の初めでした。そして、それからひと月も経たずに、人質になっていた湯川遥菜さんと後藤健二さんが、イスラム国によって相次いで公開処刑されたのでした。個人的には年末に母を亡くし、ちょうど気分が落ち込んでいるときでした。

あれから10ヶ月。再びパリで連続テロが発生しました。しかも、今回は120名以上が犠牲になるという前代未聞の事件になり、オランド大統領が非常事態を宣言し国境を封鎖する事態にまで至ったのでした。オランド大統領は、「『我々は戦争に直面している』としたうえで、今回のテロをISによる『フランスや、私たちが世界中で守っている価値に対する戦争行為だ』と強く非難した」そうです。

朝日新聞デジタル
パリ同時テロ、127人が死亡 仏政府がIS犯行と断定

もちろん、今回の事件が1月のシャルリー・エブド襲撃事件の延長にあるのはあきらかでしょう。まさに「世界内戦」の時代を象徴する事件と言えます。宣戦布告もなしに、いつどこで戦争が起こるかわからないのです。私たちの日常が戦場になるのです。戦闘員も非戦闘員もないのです。それが対テロ戦争としての「世界内戦」の時代なのです。

戦争なんて所詮他人事だと思っているような平和ボケのネトウヨたちが、ネットで無責任に戦争を煽っていますが、彼らの万年床のゴミ屋敷もいつなんどき戦場になるかわからないのです。

よく知られていることですが、イスラム国(IS)のようなテロ組織は、もともとアメリカの中東政策によって生み出されたのです。アメリカは彼らを利用していたのです。しかし、シリア内戦に見られるように、アメリカの覇権が衰退するにつれコントロールが利かなくなり、西欧世界に牙をむくようになったのです。

その構図は今の日本もよく似ています。アメリカの対中国政策によって安倍政権の戦争政策が生まれたのですが、だからと言ってアメリカは中国と戦争をするつもりなどありません。南シナ海のイージス艦派遣が「茶番」であると言われるのも当然です。

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週刊朝日
南シナ海にイージス艦 米中にらみ合いの「茶番」

むしろ逆に米中で覇権を分割する方向に進んでおり、その際、東アジアにおいて、外交上中国をけん制する役割を担っているのが日本です。日本のナショナリズムは、このようにアメリカに対する従属思想の所産でしかなく、「愛国」でもなんでもないのです。安倍らの戦前的価値への郷愁も、その従属思想に悪ノリしているだけです。

イスラム過激派のテロも、安倍政権の戦争政策も、背景にあるのはアメリカの覇権の衰退であり、それに伴う世界の多極化です。イスラム過激派はその間隙をぬって西欧的価値に矢を放っているのですが、日本は衰退するアメリカの肩代わりを引き受けようとしているのです。

オバマ大統領は、今回のテロに対して「人類や共通の価値への攻撃だ」と非難したそうですが、イスラム過激派はその価値を共有してないのですから、そういった非難も空しく響くばかりです。西欧的価値やアメリカンデモクラシーが、決して人類共通のものではないことをイスラムの台頭が示していると言えるでしょう。

「世界内戦」はますます苛烈化し、多大な犠牲を伴いながら世界は多極化する。それは間違いないのです。


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西欧民主主義の二重底
連続テロ事件と「文明の衝突」
「世界内戦」の時代
2015.11.14 Sat l 社会・時事 l top ▲
Google のパンダアップデートがはじまったとき、シールの通販をしていたあるサイトが検索ページから姿を消しました。それまでメインのキーワード(シール)で2ページ目(11~20位)に表示されていたのですが、どこを探しても見つけることができません。圏外に飛ばされたのです。

そのサイトで使われていた商品画像は、メーカーの画像をそのままコピペしたものでした。また、商品の説明文も、多くはメーカーの説明文を流用していました。その意味では、Google の言う典型的な「低品質なサイト」と言えます。そのためにパンダアップデートの餌食になったのは間違いありません。

しかし、オリジナルの商品を扱ってない小売店がメーカーの商品画像や説明文を流用することは、通販サイトではよくあることなのです。サイトの管理人にしても、別に悪意があってやっていることではないでしょう。それに、リアルな店舗ではそんなことは常識で、販促のために、メーカーがみずから作成したポスターやポップを小売店に提供しているケースさえあります。

ところが、リアル店舗では常識なことでも、ネットだと「悪意のある行為」と看做され、ペナルティが課せられるのです。でも、それはあくまでGoogle の基準にすぎません。Bingでは、件のサイトはペナルティを課せられることなく、ずっと2~3ページ目に表示されています。

Google は、同じ画像を異なったサイトが使うと、ネットが混乱してユーザーを惑わすからというようなことを言ってますが、だからと言って、Google のように「低品質なサイト」を締め出してないBingがユーザーにとって快適ではないのかと言えば、もちろんそんなことはありません。むしろGoogle よりバランスのとれた検索結果を提供しているくらいです。

このような独善的なGoogle の基準が、結果的に通販サイト、それも零細な通販サイトに非常にきびしいものになっているのは事実です。当初は、パンダアップデートは、検索の上位を占領しているまとめサイトなどを排除するための基準だと言われていました。しかし、蓋を開けてみたら、まとめサイトではなく通販サイトが標的になっていたのです。

現在もパンダアップデートが進行中で、パンダアップデートは終了するまで数ヶ月かかるとGoogle は表明しています。そのためか、Google の検索ページは、(何度も同じことを書きますが)同一サイトの似たようなページが重複して表示されるなど、混乱した状態がつづいています。しかも不思議なことに、ページが重複して表示されているサイトの多くは、アドワーズのスポンサーサイトです。

Google に言わせれば、まだアップデートが終了してないので「テスト中」ということになるのかもしれませんが、であればこれほどユーザーを愚弄した話はないでしょう。これではハンドルもブレーキも効かない未完成車を公道で走らせて「テスト」しているようなものです。もしかしたら、交通ルールはオレたちが決めるので、公道で「テスト」しても構わない、ほかの車にぶつけても構わない、と思っているのかもしれません。

Google は数ヶ月前から検索エンジンに「RankBrain」という人工知能を導入しているそうで、さっそくネットの事情通たちは「すごい」「すごい」と大騒ぎしていますが、私にはただのお粗末な暴走車にしか見えません

SEOのサイトを見ても、大半はGoogle の「品質に関するガイドライン」をコピペした、まるでGoogle の腹話術師のようなサイトばかりです。しかも、その多くはアフィリサイト向けのSEO話にすぎず、通販サイトにとって参考になるような情報はほとんどありません。そもそも、「NPO、公共団体、教育機関、法人(スポンサー)企業」を優遇するという前提を問題にしない限り、「1位になるための対策」なんて意味がないのです。
2015.11.14 Sat l ネット・メディア l top ▲
山口百恵は菩薩である


深夜、ラジオを聴いていたら、中森明菜の「スローモーション」とかぐや姫の「神田川」がつづけて流れてきました。「スローモーション」は1982年、「神田川」は1973年の曲で、10年近くの時代的な開きがあるのですが、今あらためて聴くと、「スローモーション」の”歌謡曲的世界”に圧倒され胸が震えました。

若い頃の私は、「神田川」のほうが好きでした。しかし、それなりに人生の辛酸を舐めた現在、「スローモーション」のほうが心に沁み入ってくるのです。おそらく「スローモーション」には、メロディだけでなく、歌の世界を表現することばに”普遍性”があるからでしょう。あるいは、それをことばの”重力”と言い換えてもいいのかもしれません。もちろん、「スローモーション」に”普遍性”や”重力”をもたらしたのは、来生えつこ(作詞)や来生たかお(作曲)ではなく、中森明菜です。

そして、私は、最近再読した平岡正明の『山口百恵は菩薩である』(講談社文庫)のなかのつぎの一節を思い出したのでした。

(引用者註:フォークが)決定的にだめなことは反社会性がないことだ。反体制まではいく。しかし、そこでとどまり、中産階級の自足のなかにひき返す。思想本来の姿では反体制は変態性を通って反社会性を出るのであるが、フォークはそれを遮断し、シカトウを決め込んでいる。反社会性の核心は、破壊ということである。個人原理を社会性や国家の上位におき、快楽と労働の嫌悪と暴力と、総じてルンペン・プロレタリアート的実存のもとに、改良ではなく、革命を熱望するこころである。ジャズ、艶歌、ロックンロールにはこの方向がある。フォークは安全音楽である。


また、平岡正明は、「流行歌は、作り手と歌い手が別でなければならない」と書いていました。「歌謡曲は作り手、歌い手の角逐のなかに、聴衆の欲望という巨大な第三者を吸引するのであって、シンガー・ソングライターは、中産階級の日常生活における感傷を代弁したとたん聴衆の日常性にはりついて終わるのだ」と。平岡正明は、中産階級はその「知の性質」によって、資本主義総体を見ることができないと書いていましたが、それはとてもよくわかる話です。

『山口百恵は菩薩である』の単行本が刊行されたのが1979年です。私がまだ「神田川」に涙していた頃です。

『山口百恵は菩薩である』を読むと、このブログでも再三書いていますが、山口百恵や中森明菜や松田聖子が如何にすごいのかということがよくわかるのです。人生の甘いも酸いも知った(と思っている)いい年こいたおっさんでさえそう思うのでした。五木寛之流の言い方をすれば、彼女たちは、間違いなく「時代と寝た」のです。

『山口百恵は菩薩である』には、数々の箴言がちりばめられています。その箴言の背後には、朝鮮の港湾労働者のメロディを母胎に生まれたと推定する艶歌論や、「日本の敗戦こそ、抗日戦争が革命戦争に飛翔する決定的時点だった」と夢想する汎アジア革命論への論理的飛躍が伏在しているのでした。まさに平岡正明の面目躍如たるものがあります。

美空ひばりから山口百恵への転換は戦後史の転換である。


一つの音楽の方向が、「社会の半分を表現する多くの才人」ではなしに、まさに山口百恵によって開花していったのは、山口百恵におけるプロレタリアートの勝利である。


山口百恵は地涌の菩薩である。地涌の菩薩は仏教的に表明されたプロレタリアートの原像である。


山口百恵の歌は、日本社会の最深部とまでは断言しないが、ジャズがどうしても到達できなかった深部にはとどいている。


若いとき、高円寺のスナックでたまたま隣り合わせた人から、「スター誕生」の予選に出場したときの話を聞いたことがあります。当日、遅れてやってきた中学生の女の子がいて、新聞配達のアルバイトをしているので遅刻したと言っていたそうです。その中学生がのちの山口百恵だったとか。

酔っ払いの話なのでどこまでホントかわかりませんが、しかし、実際に中学生のとき、お母さんが脊椎の病気で入院したために、彼女は5歳下の妹の世話をしながら、読売新聞の朝刊を配達するアルバイトをはじめているのです。

山口百恵は! デビュー以前、中学一年の夏休み、朝四時半に朝刊配達のアルバイトをし、新聞の束をかかえてアパートの五階へ駆けのぼったり、丘をかけおりたりする途中見たであろう屋根のきれめの横須賀の海を、「横須賀ストーリー」で、〽急な坂道駆けのぼったら、今も海が見えるでしょうか、と謳って感覚を全開放して、原体験の昇華を歌で行って以来、歌をもって、貧民的実存を民衆の品位に昇華しつづけている。


その山口百恵が、やがて富士フィルム・グリコ・花王・トヨタ・国鉄などこの国を代表する企業のイメージソングを歌い、この国の資本主義の「シンボリズムの華」になっていくのです。そして、結婚引退は、そういった「資本主義のシンボリズムの華であることを背負い込まされた山口百恵の実存の反撃」である、と平岡正明は書いていました。

「私生児として生まれ、生活保護を必要とした母子家庭に育った子ども」が、愛する人と幸せな結婚生活を夢見ることこそ「プロレタリアートの実存」と言うべきで、そうであるがゆえに私たちにもその気持は痛いほどよくわかるのです。

松田聖子は若干違いますが、山口百恵や中森明菜は生活のために歌手になったのです。年端もいかない少女がそう選択しなければならない「貧民的実存」。平凡な歌詞でも、彼女たちが歌うと、どこかはかなげで陰影の深いことばになるのは、そこに彼女たちの生い立ちや生き方が露出しているからでしょう。

そんなリアルに生の実感を得ることができた時代がかつてあり、そのなかに山口百恵や中森明菜や松田聖子が(まるで菩薩や女神のように)屹立していたのです。アイドルは文字通りスターでもあったのです。

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2015.11.08 Sun l 本・文芸 l top ▲
久しぶりに高校時代の同級生にメールしたら、入院しているお母さんの容態が悪くて、病院から何度も呼び出しを受け、仕事も休んで待機している、と返事がきました。私は、なんと返信していいかわからず、そのままにしています。

また、昨日は突然、田舎の姉から電話がありました。妹の携帯がつながらなくなっているけど、妹からなにか連絡があったかという問い合わせでした。でも、家の電話はつながるそうなので、ただ、携帯を換えただけなのでしょう。

どうしてわざわざそんな電話をかけてきたのかよくわかりません。母親の一周忌のことで姉妹の間で意見の相違があるらしく、私にはさっぱり事情が掴めない愚痴をこぼしていましたが、そんな姉の声がいつになく年寄りじみて聞こえました。私は、電話の内容よりその声になんだかひどく気が沈んだのでした。

もちろん自分も含めてですが、みんなすっかり年老いてしまったのです。文字通り、黄昏の時間を迎えているのです。年をとればとるほど自分でままならないことが多くなり、そうやってひとり気をもんで取り越し苦労をするのでしょう。

電話を切ったあと、テレビから流れてくるワイドショーのキャスターの甲高い声が耳触りでなりませんでした。それに、彼らがもっともらしく喋っていることもなんだかいかがわしく聞こえて、嫌悪感すら覚えるのでした。

藤枝静男が61歳のときに書いた「厭離穢土」(1969年)という小説に、こんな場面があります。入院している「私」のもとに姪が見舞いにきて、83歳になる母親の、金銭や性に執着する「耄碌ぶり」についてひとしきり愚痴をこぼして帰ったあと、「私」はこう思います。

 姪が立ち去ったあとで夕食が来たが、食べる気にならなかった。肉親の叔母が、いま抑圧のとれた痴呆の世界に入ってやっと本来の自分に帰り、そして何十年のあいだ胸中にヘシ曲げられていた彼女の厭わしい欲望がぞろそろと正体を白日のもとに現しはじめたと思うと、何だか眼の前の膳のうえの魚がきたなく見えた。そしてやはりこの魚が結局は自分自身の姿であることを思い、厭世的な気分がゆっくり自分の胸を閉ざして行くのを感じた。


さらにその夜、「消灯してから眠れぬままに叔母のことをいろいろ考え」ます。さまざまなしがらみや因習のなかで農家の嫁を全うした叔母の人生。叔母も近いうちに小学生の頃通学路の脇にあったあの共同墓地に行くのだなと思います。そして、同時にみずからの死についても考えるのでした。

(略)来るべき死に対する恐怖の内容は、自分自身の硬直した死体とか、死臭とか、腐敗とか、焼亡とかいうような厭わしい肉体の崩壊を空想する生理的恐怖と、それに伴って永遠の闇黒世界に消え去って無に帰する自分への執着から生まれる恐怖である。
 私は、自分がどう理屈をつけようと、感覚的には到底この恐怖にうち克つ見込みのないことを観念している。「諦めきれると諦め」ている。結局、私はせめて死をEkelに満ちた自己から脱却し得る手段と考え、いくらかでもそれをバネにして最期の時を迎える他ないのであろう。


どう自分に死を納得させるのかと言っても、とても納得なんかできないでしょう。医師として医学的に死を熟知している藤枝静男にしても、みずからの死に対しては恐怖と苦悩を抱くのでした。そんな彼が思い出したのが、学生時代に学んだdas Ekel(嫌悪)というドイツ語の単語だったのです。それはトーマス・マンの「道化者」という短編小説に出てきた単語でした。

定期的に通っている病院のシャトルバスの運転手のおじさんが、70歳になり派遣会社から「雇い止め」されたと聞いたので、「お世話になりました」と挨拶したら、「定年になってからそのあとが長いんだよなあ」としみじみ言ってました。年金が少ないので、今度は牛乳配達のアルバイトをするのだそうです。

黄昏を生きると言っても人さまざまですが、でも、生活のために働かなければならないというのは、(もちろんそれはそれで大変でしょうが)かえって幸せなことではないかと思いました。


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2015.11.04 Wed l 日常・その他 l top ▲
昨日、Business Journalに、宮永博史・東京理科大学大学院MOT(技術経営専攻)教授の「iPhoneの広告ブロック機能、グーグルに大ダメージ?高いiPhone依存が急所に」という文章が掲載されていました。

これは、既にロイターなども伝えていますが、アップルがiPhoneなどで広告をブロックできるようにする(具体的には、ブロックするアブリのダウンロードを解禁する)方針を打ち出したことについて書かれたものです。

Business Journal
iPhoneの広告ブロック機能、グーグルに大ダメージ?高いiPhone依存が急所に

REUTERS ロイター
米アップル、iPhoneでの広告ブロック容認 グーグルに打撃

BLOGOS
iPhone新製品に広告ブロック機能、広告一辺倒ビジネスの終わりの始まり?

ダウンロードしたアプリにくっついてくる広告がうざいというのは、誰しもが思うことで、その広告をブロックすることが可能になったというのは、iPhoneユーザーにとっては歓迎すべきことでしょう。

記事にもあるように、既にアップルの最新OS・iOS 9に「標準搭載されているブラウザ・ソフトのSafariには、広告をブロックする拡張機能が追加されており、専用のアプリをインストールすると広告をブロックできる」そうです。同時に、楽天やヤフオク!やAmazonなどで商品をクリックすると、その商品の広告がいつまでもつきまとってくる行動ターゲティング広告(その基になるユーザーの行動を追跡するトラッキング機能)も拒否できるそうです。これらはパソコンでは従来より可能でしたが、モバイルにおいても可能になったのです。

今後スマホやタブレットなどモバイルがネットの主流になるのは間違いなく、当然ネット広告もモバイルが主戦場になると言われています。Google がパソコン検索とモバイル検索を分離し、モバイル検索ではスマホに対応したモバイルフレンドリーのサイトを優遇すると表明したのも(実際はウソですが)、そういった流れを視野に入れているのは間違いないのです。

アップルがこのような大胆な方針を打ち出した背景には、広告に依存しない収益構造をもっているからです。アップルの収益の70%はiPhoneなど端末代で、残りはアップルストアの売上だそうです。アップルは広告に頼らなくてもいいのです。

一方、アップルの方針によって大きな打撃を受けるのがGoogle です。Google は、アップルと違って収益の90%がアドセンスなどの広告収入なのです。しかも、モバイルのブラウザのシェアを見ると、日本ではGoogle (android)が強いのですが、世界的にはSafariが45%とトップで、アップルとGoogle のシェアはほぼ互角なのです。

さらに、記事にあるように、ゴールドマンサックスの調査によれば、2014年のグーグルのモバイル広告収入118億ドル(約1兆4,600億円)のうち、実に75%の90億ドル(約1兆1,100億円)がiPhoneからのアクセスによるものだそうです。今回の方針が、Google にとって大きな打撃になるのは間違いありません。

ネットでは、アップルの方針によって、広告一辺倒のネットのビジネスモデルが終わりを告げるのではないかという声がある一方で、ユーザーにとってネットの”無料経済”はもはや当たり前のことになっており、それから脱却することは考えられないので、”無料経済”を支えている広告の”ありがたみ”をユーザーが再認識するきっかけになり、結局元の木阿弥になるのではないかという楽観的な見方もあります。

でも、今回のアップルの方針が私たちに突き付けた問題の所在は、そういったところにあるのではないと思います。

先日、ヤフーがソニー不動産と資本・業務提携したことに伴い、「大手不動産業者で組織する不動産流通経営協会(FRK)」が、「不動産情報サイト『Yahoo!不動産』を運営するヤフーへの物件情報の提供を12月10日に打ち切る」というニュースがありました。理由は、ポータルサイトの中立性を損なうヤフーの姿勢を疑問視したからだそうです。

CNET Japan
不動産業界団体、ヤフーへの情報提供を打ち切り--ポータルとしての中立性を重視

これは、広告においても同じでしょう。検索サイトが同時に広告業者を兼ねるという現実に対して、当然検索の中立性に疑問をもってもいいはずです。欧州委員会が再三指摘しているのも、まさにその点なのです(Google が、Google ショッピングに登録しているスポンサーサイトが上位に表示されるように検索順位を操作しているという疑惑です)。でも、日本ではなぜかそういった声がまったく出てこないのです。

言うまでもなく、検索順位を決めるアルゴリズムは、Google が独自に開発したものです。Googleのさじ加減ひとつで、いくらでも順位の操作が可能なのです。まして、Google は、収益の90%を広告収入に頼る広告業者でもあるのです。YouTubeやGoogle マップなどGoogle のサービスは広告のためにあるのです。それは検索も同じで、検索だけが中立なんてあり得ないでしょう。

たとえば、通販サイトが、メーカーの商品画像や商品名や商品の説明文を流用したり、同じ商品画像を使ってカテゴリー別や売れ筋(ベスト10)など別のページを作ることは、重複コンテンツと看做され、順位を下げるマイナス要因になるというSEO の“常識“がありますが、そんなのはすべてウソです。

いや、正確に言えば、私たちのような零細なサイトにとっては、たしかにそれらはマイナス要因になっています。しかし、「NPO、公共団体、教育機関、法人企業」には関係ないのです。

その証拠に、大手の通販サイトはメーカーの商品画像や説明文を堂々と流用していますが、まったく関係なく検索の上位に掲載されています。零細なサイトが同じことをおこなったら、大きく順位を下げるでしょう。実際に、モバイルフレンドリーが実施された今年の春以降、その傾向が強くなりました。一方、「NPO、公共団体、教育機関、法人企業」のサイトでは、逆に重複コンテンツとしか言いようのないページが並んで表示されている事例がいくらでもあります。

すべては広告がらみの思惑によるものなのでしょう。考えてみれば、検索に公平性や中立性が担保されているというのは、何の根拠もない話です。「そうあるべきだ」と”希望的観測”で勝手に思っているだけです。

最近のGoogle とマイクロソフトのBingの検索を比べると、Bingのほうがはるかにまともに見えます。Bingには、Googleによってペナルティを受け圏外に飛ばされたサイトもちゃんと掲載されています。それに、Google のように同じサイトのページが重複して掲載されるという”珍現象”もありません。もちろん、前も書いたように、「シール印刷」のアドワーズ(スポンサー)サイトが上位を占めるという不自然な現象もありません。どちらがユーザービリティにすぐれているかは一目瞭然でしょう。

Google のDon’t be evil(邪悪にならない)というスローガンには、マイクロソフトに対する皮肉が込められていたと言われていますが、今やそれが逆になっているのです。これこそ皮肉なことはないでしょう。

Google は、アップルの方針に対抗して、早速広告をブロックできないようにするアプリの配布をはじめたそうです。これなどもGoogle のアロガントな姿勢を示していると言えるでしょう。広告頼りの危機感がますますGoogle を邪悪にしているのです。


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2015.11.02 Mon l ネット・メディア l top ▲