夕方、本を買うために、散歩がてら新横浜まで歩いて行きました。

途中、横浜アリーナの周辺は、若い女の子たちであふれていました。コンサートかなにかの入場待ちなのでしょう。近くの公園には、京都や大阪や豊橋ナンバーの貸切バスが停まっていました。

公園の片隅では、人の輪から離れ、ひとりでベンチに座ってパンを食べている女の子がいました。好きなアーティストのライブを見るために、遠くからやってきたのでしょう。私は、その姿がまぶしく見えてなりませんでした(帰ってネットで調べたら、flumpoolのライブがあったみたいです)。

駅ビルに行くと、いつもに比べて人が多く混雑していました。なかでも、これから新幹線に乗って帰省するのでしょう、キャッリーバックを引いた家族連れの姿が目立ちました。

思えば、1年前、私は、死の間際の母に会うために、そんな帰省客に混ざって大分行きの飛行機に乗っていたのです。それは、とてもさみしいものでした。まわりの光景から自分ひとり隔絶されているような感じでした。

空港に着いたら、出迎えの家族と笑顔で対面しているような光景があちこちで見られましたが、私は、病院に直行しなければなりません。空港から大分市街までバスで1時間近くかかるのですが、窓外に流れるふるさとの風景を眺めていたら、胸がしめつけられるような気持になりました。

本を買ったあと、階下の食品売り場に行くと、おせち料理を売っていました。どうしようか迷ったのですが、ひとりで食べるおせち料理ほどわびしいものはありません。それで、この正月は焼肉とカレーにすることにしました。

私の田舎では、「歳取り」と言って、大晦日におせち料理を食べる風習があります。そういった「歳取り」の風習は、北海道・東北・長野・新潟の一部と、鹿児島・熊本・大分・宮崎など九州に残っているのだそうです。

そのため、帰省する場合、大晦日の「歳取り」までに帰るようにするのが一般的です。「歳取り」に間に合ったとか間に合わないとか、よくそんな言い方がされるのです。

私の場合、もう家族で「歳取り」をすることはないのです。「歳取り」は、子どもの頃のなつかしい思い出になってしまったのです。若い頃はそんなものはどうだっていいと思っていましたが、こうして年を取ってくると、「歳取り」のない大晦日がいつにも増してさみしいものに感じられるのでした。
2015.12.31 Thu l 日常・その他 l top ▲
帝国の慰安婦


いわゆる「従軍慰安婦」問題に関する日韓合意について、私は、朴裕河(パクユハ)著『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)をとおして考えてみたいと思いました。

小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)の帯に、「私たちは『戦後』を知らない」という惹句がありましたが、私たちは、戦後はもちろん、あの戦争についても実はなにも知らないのです。知らされてないのです。

90年代に再浮上した「従軍慰安婦」の問題は、私たち戦争を知らない世代にとっても、正視に耐えないようなおぞましくショッキングなものでした。できれば見たくなかった歴史の赤裸々な現実でした。それは、「強制性」があったかどうか、「自発的な売春婦」であったかどうかなんて関係なく、人とし、て国家として、その根幹に関わる恥ずべき行為、恥ずべき歴史だと言えます。

慰安所の行列のなかには、間違いなく私たちの祖父や父親たちがいたのです。いくら「従軍慰安婦」の存在を否定しようとも、その事実は否定しようがないのです。そして、彼らは、そのおぞましい記憶を胸の奥に秘匿したまま戦後を仮構してきたのです。

慰安所の利用を常識とし、合法とする考えには、その状況に対する恥の感覚が存在しない。しかし、一人の女性を圧倒的な多数の男性が欲望の<手段>としたことは、同じ人間として、恥ずべきことではないだろうか。慰安婦たちが尊厳を回復したいと言っているのはそのためでもある。彼女たちの羞恥の感覚はおそらく、人間ではなく、<もの>として扱われた記憶による。
『帝国の慰安婦』(以下引用は同じ)


慰安婦問題の日韓対立は、記憶の対立で、そこに記憶の隠蔽と抑圧が存在していると言うのは、そのとおりでしょう。著者が見ようとしたのも、「強制」と「自発」の不毛な対立の先にある植民地支配の「矛盾と悲惨」であり、当事者の私的な記憶の回復です。国家としての公的な記憶や被害者史観に基づいた共有の記憶ではなく、元慰安婦たちのなかにある個別具体的な汚辱と協力と悲しみの記憶なのです。

著者が本の前半で、「韓国に残っているのは、あらゆるノイズを――不純物を取り出して純粋培養された、片方だけの『慰安婦物語』でしかない」と韓国内の取り組みに手厳しいのも(そのために元慰安婦の名誉を傷つけたと訴追されたのですが)、そういった理由によるものなのでしょう。

著者は、日本軍の関与だけが強調される一方で、慰安婦たちを直接集め管理し搾取した朝鮮人業者たちが不問に付されている現実に対しても、被害者史観に基づいた記憶の抑圧と批判しているのでした。「日本も悪いが、その手先になっていた朝鮮人のほうがもっと悪い」という元慰安婦の声は、支援者たちには無視され、日本の否定論者たちには、「責任転嫁の材料しにしか使われなかった」のです。

朝鮮人慰安婦は、ほかのアジアの慰安婦とは異なる存在だったと言います。たとえば、スマラン事件(インドネシアのジャワ島のスマランの民間人収容所に入れられていた17歳~28歳のオランダ人女性35名を日本軍が強制的に慰安所に拉致して、輪姦し売春させた事件)のような事例とは、同じ慰安婦でも質的に異なるのだと言います。それは、彼女たちが植民地人、つまり、「二番目の日本人」だったからです。そのため、如何にも日本的な名前を名乗らされ、着物を着て、「大和撫子」を装い、文字通り日本兵を慰安する役割を担わされたのでした。そこに朝鮮人慰安婦の「矛盾と悲惨」があるのだと言います。

 性を媒介とした日本軍と朝鮮人女性の関係は、しいて区別すれば文字通りレイプを含む拉致性(連続性)性暴力、管理売春、間接管理か非管理の売春の三種類だったと考えられる。オランダ人、中国人などを含む「慰安婦」たち全体の経験はこの三種類の状況を併せ持つものと言えるが、朝鮮人慰安婦の体験は、例外を除けば管理売春が中心だった。


もちろん、だからと言って、日本帝国主義が犯した罪が免罪されるわけではありません。「朝鮮人慰安婦問題は、普遍的な女性の人権問題以上に、<植民地問題>であることが明白だ。そして個人を過酷な状況に追い込む制度を国家が支えていた以上、『軍の関与』はまぎれもない事実となるほかないので」す。

慰安婦の発生起源は、近世以降の日本文化の伝統や、それを効率的に利用できるようにした近代的制度にあった。そこに帝国内の人々が動員されたのは、あくまで彼らが日本国民とされていたからである。もっともそのようなゆるやかな国家動員を可能にした直接の体制は、ファシズムや帝国主義である。しかし慰安所とは、あくまで<移動>する近世的遊郭が、国家の勢力拡張に従い出張り、個人の身体を国家に管理させた<近代的装置>だった。


かつて山崎朋子や森崎和江が書いたように、日本には年端もいかない少女たちが、「出稼ぎ」名目で、ボルネオやシンガポールなどアジアの娼館に売られていった「からゆきさん」の歴史がありますが、朝鮮人慰安婦たちは、公娼制度の最下層に組み入れられることで、そういった日本人の「代替」という側面もあったと言います。著者は、慰安婦の前身は「からゆきさん」であったと書いていました。

しかも、慰安婦問題は、決して過去の問題ではないのです。戦後、韓国は、日本と同じように、「共産主義から国を守る」ためにアメリカに従属したのですが、その過程で、慰安婦が再び「動員」されることになるのでした。

「沖縄でアメリカの軍属たちは一二歳ないし一三歳の沖縄少女たちを米軍基地にある捕虜収容所に入れて兵士たちへの性的なサービスを強制した。フィリピンでアメリカ軍の部隊長は積極的に売春を奨励し、彼らのうち一部は自分所有のクラブを持って売春婦たちを団体で管理した。一九七〇年代の韓国では軍用バスが一日に二〇〇人もの女たちを東豆川基地村から近くのキャンプケイシに運んだりした。このとき部隊長はそういうことを暗黙裡に見逃すか積極的に加担した」(引用略)のです。

さらに、韓国が経済成長した2000年代に入ると、東豆川基地村から韓国人の姿がなくなり、中国人朝鮮族やロシア人やフィリピン人やペルー人に取って代わったそうです。「これはまさしく、大日本帝国時代に日本人慰安婦がしていたことを朝鮮人慰安婦がするようになったのと同じ構造である」と著者は書いていました。

また、ベトナム戦争では、アメリカの傭兵として参戦した韓国人兵士たちが、「過去に日本やアメリカがしてきたことをベトナムでした」のです。著者は、「いつかベトナムの女性たちがアメリカや韓国に『謝罪と要求』をしてくる日が来ないとも限らない」と書いていました。

今回の日韓合意の背後にアメリカの意向がはたらいているのは間違いないでしょう。韓国の支援団体が慰安婦の少女像をアメリカに建立しているのも、アメリカ政府やアメリカの世論に訴えるためですが、そこには虎の威を借りたい狐の意図がミエミエで、あらたな「植民地支配の矛盾と悲惨」をくり返しているように思えてなりません。著者が言うように、「旧帝国(日本)の罪を、ほかの帝国(オランダ)と提携してもう一つの旧帝国(アメリカやイギリスやヨーロッパ)に問うて審判してもらうというような、今の運動における世界連帯は、その意味ではアイロニーでしかない」のです。

「帝国は崩壊したが、冷戦体制は依然として東アジアを分裂させ」、冷戦の思考をひきずったままなのです。それは、「強制」と「自発」をめぐって対立する両国の自称「愛国」者たちも同じです。

慰安婦問題が戦争も戦後も知らない私たちに突きつけた問題の在り処は、あまりに広く深いと言えるでしょう。それをひとつひとつ丹念に拾い上げ、真摯に向き合うことで、私たちは戦争や戦後を知ることができるのだと思います。もとより私たちは、戦争や戦後を知らなければならないのです。
2015.12.29 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日、日本郵便の「お客様サービス相談センター」に、つぎのようなメールを送信しました(一部プライベートに関する部分などの表現を変更しています)。

*****************

本日、代金引換郵便を渋谷郵便局の窓口に出した際のやりとりについて、確認したくメールを差し上げました。

私は、仕事(ネット通販)の関係で、よく代金引換(普通郵便とゆうパック)を利用させていただいており、ラベルの印字も近くの郵便局にお願いしています。

通常は近くの郵便局を利用することが多いのですが、今朝は所用で渋谷に行ったついでに、渋谷郵便局に伺いました。渋谷郵便局は今までも何度も利用させていただいたことがあります。

窓口で郵便物を出すと、「身元を確認できるものがありますか?」と言われたので、健康保険証を出しました。すると、窓口の担当者(若い女性)は、保険証だけでなく、「口座(振替口座)の名義を証明するものがありますか?」と言うのです。

ちなみに、振替口座の名義は屋号で、差出人名は、屋号と名字(個人名)が併記されています。もちろん、住所は保険証と同じです。

しかし、いきなり振替口座の証明と言われてもなにもありません。ご存知のとおり振替口座の場合、通帳もキャッシュカードもありませんので、証明するものなんて普段もっていません。

私は、「そんなこと言われたのは初めてです。いつも保険証や免許証で確認をしていますが、それじゃダメなんですか?」と言いました。すると、彼女は、少しふて腐れたような感じで、「でも、それじゃ受け付けることはできません」と言うのです。それで、私は、「今まで何百通も出したけど、いつも保険証か免許証で確認するだけですよ」と再度強い口調で言いました。

窓口の女性は、ふくれっ面をして「上司に相談します」と言って、奥の席に行きました。そして、上司とおぼしき男性職員が出てきて、今まで何度も見た「代金引換郵便の身元確認の厳格化」を説明した紙を差し出し、「住所は確認できましたが、この口座が本人のものか確認する必要があるのです」と言うのです。

それで、私は、「たしかに窓口での確認が厳格化されたのは知っていますが、口座を確認するものまで必要だと言われたのは初めてですよ」と言いました。すると、「いつもどこの郵便局に出しているのですか?」と訊かれたました。

「港北郵便局や大倉山の郵便局や横浜中央郵便局などです」
「それじゃ、そんな郵便局が間違っていますね」
「エエッ、全部、間違っているのですか?」
「そうです」

上記にあげた郵便局以外にも、横浜や都内のさまざまな郵便局で代金引換郵便を出しましたが、どこも保険証や免許証の確認だけで済みました。

「じゃあ、何を出せばいいのですか?」
「たとえば、口座の名義が書かれた通知票か名刺などです」

受払通知票(註:入金や出金や送金があった場合、その都度郵送されてくる入出金を記録した葉書大の用紙)なんて普段持ち歩いているはずがありませんし、あんな単なる印刷物がホントに証明になるのでしょうか。それに、私は入金確認や送金などはもっぱらネットでおこなっているのですが、最近、ゆうちょ銀行は通知票に代わりネットで確認できるようにぺーパーレスをすすめており、もしペーパーレスに切り替えたら、もはや「口座を確認するもの」がなくなってしまいます。まして、名刺など、いくらでも偽造が可能で、口座を確認するための証明にはとてもなり得ないと思います。

結局、たまたま財布のなかに、前回送った際のラベルの控えがありましたので、「これじゃダメですか?」と言ったら、しぶしぶ(文字通りしぶしぶ)、それと保険証をコピーして「今日はこれで手続きしますが、もしお客様に迷惑がかかってもいっさいの責任はもちません」というようなことを言われました。そして、「今後は口座を証明するものを持ってきてください」と念を押されました。

保険証や免許証など以外に、口座を証明するものがホントに必要なのですか? 担当者が言うように、他の郵便局はすべて「間違っている」「手抜きしている」のですか? 臨機応変に対応するという現場の判断も認めず、全て住所氏名以外に口座を証明するものの提出を「義務付けている」のでしょうか? 身元確認をするという趣旨は充分理解できますが、あまりにも杓子定規で、通知票の問題ひとつとっても、きわめて非現実的で対応に苦慮します。

もし今日の渋谷郵便局のように(同じ渋谷郵便局でも他の方の場合は、保険証や免許証で済みましたが)、口座を証明するものの提出を求められた場合、どうすればいいのでしょうか?

長くなりまして申し訳ございませんが、今後のこともありますので、今日の対応についてご見解をお聞かせいただき、今後どうすればいいのか、ご教示いただけないでしょうか。

ご回答をよろしくお願いいたします。

*****************

代金引換郵便を利用した犯罪(送り付け詐欺や薬物売買)に対応するために、去年から郵便局が発送時の身元確認を厳格化したのですが、しかし、それこそ何百通も出したなかで口座の証明まで求められたのは初めてでした。もちろん、通帳やキャッシュカードがあればことは簡単ですが、振替口座(当座口座)にはそれがないのです。

言うまでもなく、口座の身元確認はゆうちょ内部でできるはずです。それをお客に証明しろというのは、本末転倒しているようにしか思えません。そもそも代金引換で問題になったのは、代金を口座に入金するケースではなく、為替で送金するケース(郵便為替をゆうちょ銀行の窓口で現金化する方法)です。それだと、口座がないため、発送時の確認はできるけど、入金時の確認ができないからです。そのため、代金引換における為替送金は、禁止になりました。

身元確認の厳格化は、郵便局の「内規」だそうです。おそらく警察当局の要請で、そういった「内規」を設けたのでしょう。

一連のやりとりのなかでつくづく感じたのは、有無を言わせない杓子定規な対応です。それは、どう見ても官尊民卑の旧体質をひきずった公務員のものです。厳格化という「内規」がいつの間にか(役所特有の)事なかれ主義に転化しているのです。私たちに対する姿勢も、「お客様」ではなくあくまで「利用者」のそれなのです。

渋谷郵便局の窓口は5つありましたが、今朝、稼働しているのは2つしかありませんでした。あとの3つは、年配の職員が担当していましたが、なにやらラベルにスタンプを押したりとほかの作業をしていて(しかも、おせいじにもテキパキとは言い難いペースで)、窓口を一時的に閉じていました。そのため、開いている2つの窓口の担当者(いづれも女性)があきらかに苛立っているのが見て取れました。それで、嫌な予感がしたのですが、案の定、途方に暮れるような”厳格な対応”に遭遇することになったのでした。

個人情報保護法が成立して、たとえば病院で知人が入院しているか尋ねても、「個人情報」を盾に回答を拒否されたり、学校の保護者会で連絡網を作ろうとしても、やはり「個人情報」を盾に作れないなどの現実がある一方で、一民間会社(!)が警察に協力するために、サービスの前提として「個人情報」の提出を「内規」で設け、窓口でさも当然のことのように「個人情報」の提出を求め、さらにそれを(照合するだけでなく)当然のことのようにコピーするという現実があるのです。しかも、そんな風潮は、ますますエスカレートするばかりです。コピーした「個人情報」は、ラベルの控えにホッチキスで止められて背後の箱に無造作に入れられていましたが、その後どのように管理されるのか私たちは知る由もないのです。
2015.12.28 Mon l 日常・その他 l top ▲
先日(12/17)の記事から数日後、自サイトはPC検索で90位台までさらに下落しました(モバイル検索は70位台)。もう見事としか言いようがありません。ここまで落ちると、逆に清々しささえ覚えます。

考えてみれば、今年の4月までPC・モバイルともに4~6位でした。その状態は10年間つづいていました。それがわずか半年ちょっとであれよあれよという間に90位台まで下落したのです。

もちろん、通常の更新以外に、サイトになにか手を加えたわけではありません。どうしてこんなに下落したのか、その理由をGoogle に訊きたい気がします。

さしずめSEO業者であれば、Google の「品質ガイドライン」に沿ったサイト作りをしてないからだと言うのでしょう。そして、牽強付会に、あれこれ”問題点”を上げていくのでしょう。あるいは、順位を決定するアルゴリズムは日々進化しているので、従来のやり方がいつまでも通用すると思っているのが間違いだ、というような常套句で煙に巻くのかもしれません。

一方で、モバイル検索のトップページ(1位~9位)で、モバイル対応しているサイトが3つしかなく、あとはモバイル未対応のサイトで、しかも、それらの多くは、4月21日のモバイルフレンドリー以降にトップページに登場したとか、モバイルフレンドリー以降、モバイル未対応にもかかわらず大幅に順位を上げたのは、Google のアドワード(スポンサー)サイトか公共団体のサイトばかりだという、“不可解な現象“があるのです。しかし、そういった現象に対して、彼らが的確な説明をしているのを見たことがありません。

検索順位の上位をめざし、そのノウハウを提供するというのなら、Google のガイドライン云々以前に、そういった”不可解な現象”をどう捉えるかという視点も必要ではないでしょうか。

自サイトに関しても、ここまで順位が下がるというのは、なんらかのペナルティを科せられたのは間違いないでしょうが、だからと言って、合理的な理由があるわけではないのでしょう。もちろん、Search Consoleに、”警告”のメッセージは来ていませんし、「HTMLの改善」でも「サイトでコンテンツの問題は検出されませんでした」となっています。

ネットに飛び交っているSEO話なんて、気休めにもならない与太話にすぎないのです。「品質ガイドライン」などに関係なく、検索と広告の「一体化」によりSEOは無効になった、無効になりつつあるのだと思います。それがGoogle がめざすこれからの検索の姿なのです。
2015.12.25 Fri l ネット・メディア l top ▲
差別は文明人として最低の行為です。ヘイト・スピーチは犯罪です。

しかし、思想としていちばん大事なのは、そういった観念的なスローガンではなく、実際の現場でしょう。もちろん、ヘイトデモの現場もそのひとつですが、なにより私たちの日常において、文化的な背景が異なる人間と一緒に仕事をする場合、おのずと生まれてくる理屈ではない感情をどう自分のなかで処理していくのかということに、謂わば思想の真価が問われるのだと思います。

たとえば、いわゆる「在日」にもいろんな人間がいますが、ともすれば「在日」であることに意識過剰になり、やたら虚勢を張り、対抗心を燃やすような人間がいます。勝ったか負けたか、損か得か、という考えを前面に出されると、たしかにうっとうしいものです。日本人には負けたくない、日本人にバカにされたくない、という姿勢をむき出しにされると、ケンカを売っているのかと思ってしまいます。

どうしてそんなに虚勢をはるのか、その背景にある事情も理解できます。もちろん、その責任の一端が私たち日本人にあるのは言うまでもありません。でも、個人の立場から見た場合、こんな人間と一緒に仕事をするのは嫌だなと正直に思います。そこから差別やヘイト・スピーチはあと一歩なのです。

感情ではなく理性なのか。しかし、平岡正明の『ジャズ宣言』ではないですが、感情こそ大事なのではないか。理性ほどいかがわしくいい加減なものありません。私たちは決して理性的な動物ではないのです。

じゃあ、腹を割って話し、本音を言い合い、お互いに理解するように努めるのか。しかし、私たちの日常は、そんな牧歌的な関係のなかにはありません。まして利害が対立する現場では、そんな余裕などとてもないのです。

背景にある文化の違いというのは、思っている以上に大きなものです。人と人を隔てる壁でもあります。

理性は、関東大震災のときの朝鮮人虐殺のようなものを押しとどめることは可能でしょう。また、ヘイトデモを社会的に封じ込めることも不可能ではないでしょう。あれほどおぞましく野蛮なものはありません。

ただ、問題は私たちの日常にある差別なのです。うざい、めんどうくさい、ずるい、うるさい、汚いという感情なのです。同じ嫌いな人間でも、日本人同士と違って、「在日」だからとか朝鮮人だからとか中国人だからといった枕言葉がどうしても付いてしまうのです。もう既にその時点で差別ははじまっていると言えるでしょう。

日本人にもどうしようもない人間はいますが、「在日」にもどうしようもない人間はいます。そんな人間が身近にいるとき、私たちはどうしても「在日」だからという言葉を使ってしまいがちです。たしかに彼は「在日」なのです。「在日」も日本人もないと言いながら、彼は「在日」(朝鮮人)であることを拠り所にし、私たちは日本人であることを拠り所にしているのです。

このように異文化というのは、差別やヘイト・スピーチだけでは捉えきれない、ややこしくてむずかしいものなのです。


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「在日」嫌い
2015.12.23 Wed l 社会・時事 l top ▲
昨日、吉田栄作と平子理沙の離婚のニュースがありました。

僭越ながら(!)私は若い頃、吉田栄作に似ていると言われたことがありました。しかし、実際はまったく似ていなかったのです。似ていたのは髪型だけだったということがわかったのです。

というのも、もう10年近く前の話ですが、私は、吉田栄作氏に会ったことがあるからです。しかも、一緒に焼き鳥屋で酒を飲んだことがあるのです。

私の友人が家が近いということで彼と知り合いで、よく飲みに行ってました。それで、たまたま私が友人を訪ねた際、吉田氏と飲みに行く約束をしていたそうで、一緒に出かけたのでした。

実際の吉田氏は文字通り好漢(ナイスガイ)の一語に尽きる人物でした。礼儀正しく言葉遣いも丁寧で、私たちの仕事の話にも熱心に耳を傾けていました。芸能人にありがちな独りよがり・不躾・尊大なところはいっさいありませんでした。

芸能マスコミの手にかかれば、離婚は犯罪みたいな扱いになりますが、人生いろいろです。離婚もまた人生の選択なのです。

彼は、現在も俳優として高い評価を得ていますが、今後ますます俳優としての地位を高めていくのではないでしょうか。芸能界というのは不思議なところなので、この離婚をきっかけにさらにブレイクするような気がします。


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人生の絶対量
2015.12.23 Wed l 芸能 l top ▲
拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々


元共同通信政治部記者の野上忠興氏が書いた『安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの仮面』(小学館)のなかに、「安倍が異様なまでに安保法案を『9月18日』にこだわったのはなぜだったのか」という文章があります。

 実はこの日程は、安倍が売りにしてきた拉致問題に絡んでいた。「9月18日」は、北朝鮮が日本政府に「1年程度を目標に再調査結果を報告する」と通告してきてからちょうど1年目にあたる日だったのである。
(略)
 この日が安保法案の参院強行採決と重ならなければ、新聞各紙には「北朝鮮の拉致被害者調査再開から1年、進展なく」などと北朝鮮外交の失敗が大きく報じられていたはずだ。国民的関心も高く、安倍にとって「売り」であった拉致問題での失敗は、当然ながら本人が株価とともに最も気にする内閣支持率に大きな影を落としかねない。それが安保法案にかき消され、拉致被害者調査が暗礁に乗り上げている実相は国民の目に触れないまま忘れられる格好になった。


2014年7月の日朝局長級協議で、拉致被害者らの「再調査」のための「調査委員会」の設置合意を受けて、安倍政権は北朝鮮に対する経済制裁の一部解除を決定したのですが、「再調査」の報告はその後再三延長された挙句、結局、「反故」にされたのでした。

あわてて朝鮮総連の許宗萬(ホ・ジョンマン)議長の次男らをマツタケの不正輸入の容疑で逮捕して圧力を強めていますが、拉致問題をただ政治的に利用するだけの安部外交に対して、したたかな北朝鮮が一枚も二枚も上手だったのは否定しようのない事実でしょう。

一方、拉致被害者・蓮池薫氏の実兄で、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」の事務局長であった蓮池透氏は、新著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社)で、北朝鮮が報告をしたくても日本側の都合で報告できないのではないか、と書いていました。もちろん、「再調査」とか「報告」とかいったものがまったくのカマトトであるのは言うまでもありません。常識的に考えても、全体主義国家が、拉致被害者や残留日本人(妻)の動向(生死)を把握してないはずがないのです。

また、拉致問題の関係者のなかには、非公式に「報告」を受けているけど、政治的な事情で、日本政府がそれを発表できないのではないかという見方もあります。このように拉致問題は、「再調査」の「報告」ひとつとっても、一筋縄ではいかないのです。

問題は、蓮池氏も書いているように、拉致問題の解決の「定義」がはっきりしてないことでしょう。要するに、”落としどころ”が決まってないからです。これでは、「報告」のたびに、北朝鮮に対するバッシングだけでなく、日本政府の”弱腰”にも批判が集まるのは当然で、そんな解決の糸口が見えない状況に”苦慮”しているのは、日本政府も同じだというわけです。

私は以前、事務局長を解任されたあとの蓮池氏の講演を聞いたことがありますが、同書は講演のときにも触れていなかった「家族会」やその支援組織である「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の”内情”を赤裸々に書いているので驚きました。それは各章の見出しによく表れています。

序章 「救う会」に乗っ取られた「家族会」
第一章 拉致を使ってのし上がった男
第三章 拉致被害者を利用したマドンナ
第五章 「救う会」を牛耳った鵺
第七章 カンパを生活費にする男

「拉致を使ってのし上がった男」や「拉致被害者を利用したマドンナ」や「『救う会』を牛耳った鵺(ヌエ)や「カンパを生活費にする男」」が誰を指すのか。獅子身中の虫は誰なのか。拉致問題に少しでも詳しい人たちには明々白々でしょう。

「家族会」は収支決算報告をしたことがないそうです。著者が「横田ファンド」と呼ぶカンパで集まった億単位のお金は、横田滋氏がひとりで管理しているのだとか。「家族会」から「救う会」に渡った1千万単位のお金。「家族会」の事務局専従としてM氏に支払われた給与。挙句の果てに、「家族会」も「救う会」もお金がらみで内紛が起きるのでした。

この本のなかで、私があらためて興味をもったのは、2004年6月に蓮池薫・祐木子夫妻が上京し、赤坂プリンスホテルで、横田めぐみさんの情報を家族に伝えたその内容です。蓮池薫氏は、「たとえ、めぐみさんの消息にとってネガティブな情報であったとしても、断腸の思いで話した」と言っていたそうです。

①めぐみさんは、精神的にかなり病んでいた。
②めぐみさんのDVが激しく、娘のウンギョンさんは、たびたび同じ招待所に住む弟、蓮池薫の家に避難してきた。弟は、ウンギョンさんを歓待した(ウンギョンさんは、うちの三番目の子どものような存在だ、と弟は語る)。
③めぐみさんは、自分の髪の毛を自身の手で切る。洋服を燃やすなどの奇行を繰り返していた。
④めぐみさんは何度かの自殺未遂をしている。
⑤めぐみさんは、北朝鮮当局に対して、「早く日本に帰して」「お母さんに会わせて」と、盛んに訴えていた。弟は何度も止めるように促したが、彼女は受け入れなかった。
⑥夫の金英男氏は、めぐみさんとの結婚について、当局に騙されたといっていた。
⑦めぐみさんは二回、招待所からの脱走を試みた。一回は平壌空港を目指し、もう一回は万景峰(マンギョンボン)号が係留される港を目指した。その際、北朝鮮当局に発見され、拘束された。
⑧このため、弟一家や同じ招待所に居住する地村さん一家は連帯責任を問われ、「山送り(=強制収容所行き)」の危機に晒された。だが、弟たちの必死の請願により、それは免れた。その代わり、めぐみさんは、義州(ウィジュ)という場所にある四九号予防院(精神科病院)へ送られることとなった。
⑨その後、夫の金氏は、「何があっても一切の異議を申し立てない」という誓約書を書かされた。
⑩一九九四年三月、病院に向かうめぐみさんが乗ったクルマを見送った。それ以降、めぐみさんに会うことはなかった。
⑪夫の金氏は、数年後に再婚し、息子をもうけた。


しかし、母親の横田早紀江さんは、話自体を否定するのだそうです。蓮池薫氏は、「せめて、聞いたけれども信じたくないといってほしい」と嘆いていたのだとか。

ちなみに、横田夫妻は、滋氏が「宥和派」 、早紀江さんが「強硬派」で、意見が噛み合わず喧嘩になることもあるそうです。一方で、そういった意見の相違を利用して、北朝鮮は横田夫妻にさまざまなゆさぶりをかけているのです。

ジャーナリストの田原総一郎氏は、「横田めぐみさんらの拉致被害者は生きていない。外務省もそれをよく知っている」とテレビで発言し、1千万円の慰謝料を求める民事訴訟を起こされたのですが、蓮池氏も書いているように、「拉致問題に関して、日本政府の政策や『家族会』の意向に異論を唱えることがタブー化している」のは事実でしょう。

北朝鮮が「報告」できない理由(日本政府が「報告」を受けていても発表できない理由)は、このあたりにあるのかもしれません。

拉致問題を利用した政治家や反共(反北朝鮮)運動の活動家たち。「経済制裁をすれば北朝鮮はもがき苦しむ。そして、どうしようもなくなって日本に助けを求めてくる。ひれ伏して謝り、拉致被害者を差し出してくる」とか、北朝鮮に自衛隊(?)を派遣して奇襲作戦で拉致被害者を奪還するとか、そんな荒唐無稽な「強硬論」を利用し偏狭なナショナリズムを煽ることで名を売って、権力の階段を一気に駆け上がったのが安倍晋三氏です。しかし、小泉訪朝で拉致被害者5名が帰国した際、北朝鮮との約束だからと北朝鮮に戻ることを一貫して主張したのが、ほかならぬ当時小泉内閣の官房副長官であった安倍晋三氏なのです。そして、荒唐無稽な「強硬論」を煽ることで自縄自縛になり、その勇ましい声とは逆に拉致問題を停滞させたのも彼なのです。

私たちを政治利用する国会議員は、党派を問わず、タカ派と呼ばれる人が多い。見分け方は簡単である。そういう人は、間違いなくブルーリボンバッチを付けている。そして、必ずといっていいほど、北朝鮮に対して強硬な主張をする。
「今度帰ってこなければ、制裁復活だ。さらに追加制裁を要求する」と。


巻末では、蓮池透氏とジャーナリストの青木理氏が対談をしていましたが、そのなかで、青木氏はつぎのように安部首相の姿勢を批判していました。

 拉致問題を最も政治的に利用したのが安倍さんだったといっても過言ではないと思います。経済制裁をやるだけなら、誰でもできるでしょう。


日朝首脳会談後の日本の姿勢、特に安倍政権の対北政策は、ひたすら圧力をかけていれば北朝鮮が困って折れてくるはずという、単純皮相なものでした。


中国ばかりか韓国との関係すらぶち壊しておいて、日朝関係や拉致問題が前進するわけがないということです。歴史問題や靖国問題で中国や韓国を怒らせておいて、拉致問題の解決に向けた協力は得たい、というのはムシがよすぎる。


また、拉致被害者・蓮池薫氏のつぎのような発言も考えさせられるものがありました。

「頭でわかっていても抑えられない感情が相手にあることを理解するべきだ。それを刺激してはいけない。日本と朝鮮半島の過去の事実を踏まえながら今後の関係を発展させていくヒントはそこにある」


でも、こういった声も、安倍晋三氏には馬の耳に念仏でしょう。いつものようにせせら笑うだけでしょう。それがこの国の総理大臣なのです。
2015.12.21 Mon l 本・文芸 l top ▲
シール12月16日1
シール12月16日2


上は、昨日、「シール」のキーワードで検索した際、表示されたPC検索のトップページの画像です。

同じサイトの明らかに意図的に似せたタイトルのページが6位と7位に並んで表示されていました。こういった現象は昨日に限った話ではありません。今年の4月21日のモバイルフレンドリー以後、同じような現象がほぼ日常的に起きています。とても単なるハグとは言い難い現象なのです。

一方、(自サイトの例を出すと、単なる愚痴だと受け取られかねないので気がひけるのですが)自サイトは「シール」のキーワードで10年以上トップページを維持していたものの、4月21日以降、トップページから転落。現在、PC検索で50位、モバイル検索で35位に低迷しています。もちろん、モバイルフレンドリーにも適応済みで、モバイル検索のページでも「モバイル対応」のラベルが付けられています。にもかかわらず大幅な下落に見舞われたのでした。

しかも、その下落には“不自然“と言ってもいいようなパターンがありました。最初は20位くらいに下落しました。それで、サイトを更新すると、10位くらいに戻りました。しかし、1週間から10日経つと、25位に下落。再び更新すると15位に戻り、それから30位、40位、50位、60位、80位と段階を追って順位が下がっていったのでした。今も更新すると、1週間から10日順位が戻る現象はつづいています。また、モバイル検索も、同じパターンで、常にPC検索より10~15位上に表示されています。

これはなにを意味するのでしょうか。やはりなんらかのペナルティを科せられたのか。

先日、Google が検索結果の品質を評価するガイドラインの完全版を公開したというニュースがありました。しかし、私たちは、そういった”公式見解”ではなく、その裏にある邪悪なシステムにこそ目を向けなければならないのです。収益の9割を広告で稼ぐ一企業が、検索で圧倒的なシェアをもち、ウェブを統御している、その不健全な現実をこそ直視する必要があるのです。

ちなみに、皮肉と言うべきか、マイクロソフトのBingでは、自サイトはここ数日「シール」で1位に表示されています。もちろん、Google とBingで順位が違うのは当然です。でも、どうしてここまで順位が違うのかと思わざるをえないのです。それは、自サイトだけではありません。Google で圏外に飛ばされているサイトも、Bingでは上位に表示されています。また、Bingでは上の画像のような一部のサイトに見られるおかしな現象もありません。

なによりGoogle の品質ガイドラインに照らせば、上の画像のようなサイトこそ、故意に過剰な操作をおこなったとしてペナルティが課せられてもおかしくないのです。でも、現実は逆です。なぜなら上のサイトは、Google のスポンサー(アドワーズ)サイトだからです。

独裁国家であっても、一見民主的な権利を並べたような憲法を制定しているのが常です。「民主共和国」を謳っている国が、独裁国家である例はいくらでもあります。Google のガイドラインもそれと似たようなものかもしれません。

SEO関連のサイトがバカバカしいのは、あきらかにおかしな現象に対しても、Google の”公式見解”をそのまま鵜呑みにして、まず結論ありきで帰納的に説明するだけで、その裏にある邪悪なシステムに誰も触れようとしないことです。おかしいということさえ誰も言わないのです。それでは、Google の腹話術師と言われても仕方ないでしょう。


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2015.12.17 Thu l ネット・メディア l top ▲
昨日、作家の野坂昭如氏が亡くなったというニュースがありました。野坂昭如氏は、私たちより上の世代にとって、五木寛之氏と人気を二分をした文壇のスタア(!)でした。当時の若者たちにとって、それくらい娯楽小説は文化的に大きな存在だったのです。

私たちより上の世代は、経済的な理由で上の学校に行ってない人も多いのですが、しかし、文字を読む習慣を身につけている人が多くいました。当時は、そんな文字の文化がリスペクトされる時代(教養の時代)でもあったのです。

もう20年以上も前の話ですが、末期ガンにおかされたガールフレンドのお父さんを入院している病院に見舞ったことがありました。お父さんは貧しい母子家庭に育ち、中学を出ると横浜の中華街で修業してコックとしての腕を磨き、やがて自分の店をもった苦労人でした。

ガールフレンドは、お父さんはろくに学校にも行ってないのに、私なんかより漢字を知っているのでびっくりすると言ってました。昔の人は、学校に行ってなくても、そうやって自分で漢字を覚え本を読む楽しみを見つけていたのです。最近の若者は、スマホで検索するときも、文字ではなく画像や動画で検索するのが主流だそうですが、そんな”痴的”なネット文化からは考えられない時代がかつてあったのです。

病室に行くと、ベットの脇のテーブルの上に、『オール読物』と文庫本が何冊か置かれていました。私が、「作家は誰が好きですか?」と訊いたら、「最近じゃ、野坂昭如だな」「あいつの文章が好きや。夫婦善哉の織田作之助に似ているやろ」と言ってました。

野坂昭如氏は、世間からは“焼け跡闇市派“と呼ばれ、終戦直後、餓死した幼い妹の亡き骸を抱え、焼け野原に立ち尽くした戦災孤児の自分が原点だと常々言っていました。参院選に出馬したときのスローガンは、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」というものでした。

それに対して、五木寛之氏は、みずからの引き揚げ体験から「二度と飢えた親の顔を見たくない」と言ってました。食べ物がないとき、自分が食べなくても子どもに食べさせるというのは平時の発想で、極限状況になると、親は子どもの食べ物を横取りしてでも生き残ろうとするものだそうです。中国残留孤児も、終戦の混乱ではぐれたということになっていますが、多くは置き去りにされたり売られたりしたのだと言われています。

折しも今、私は、韓国の検察当局から訴追された朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版)を読んでいるのですが、中学1年のときピョンヤンで終戦を迎えた五木寛之氏は、引揚げの際、みずからが体験したつぎのようなエピソードをエッセイに書いていました。

数十人の日本人グループでトラックを買収して、深夜、南下している途中、ソ連軍の検問にひっかかり、お金を出せ、お金がなければ女を出せと言われたそうです。それも三人出せと。すると、グループのリーダーたちが相談して、三人の女性が指名されたのでした。

 指名された三人は全員の視線に追いつめられたように、トラックの荷台の隅に身をよせあって、顔をひきつらせていた。
「みんなのためだ。たのむよ」
 と、リーダー格の男が頭をさげて言う。言葉はていねいだが、いやなら力ずくでも突きだすぞ、といった感じの威圧的な口調だった。
 しばらく沈黙が続いたあと、その一人が、黙ってたちあがった。あとの二人も、それに続いた。
 運転手に連れられて三人の女性たちはトラックを降りて姿を消した。車内のみんなは黙っていたが、ひとりの男が誰にともなく言った。
「あの女たちは、水商売の連中だからな」
 一時間ほどして三人がボロボロのようになって帰ってくると、みんなは彼女たちをさけるようにして片隅をあけた。
「ソ連兵に悪い病気をうつされているかもしれんから、そばに寄るなよ」
 と、さっきの男が小声で家族にささやいた。やがてトラックが走りだした。
 私たちは、そんなふうにして帰国した。同じ日本人だから、などという言葉を私は信じない。

『みみずくの夜メール』(幻冬舎文庫)


慰安婦問題が典型ですが、そういった赤裸々な体験について、みんな口を噤んで「戦後」を仮構してきたのです。五木寛之氏は、戦後の私たちはそういった犠牲の上に成り立っている、常にそんな後ろめたさのなかにいる、というようなことを書いていましたが、野坂昭如氏にとって、その犠牲や後ろめたさに象徴されるのが、餓死した幼い妹なのでしょう。

野坂昭如氏は享年85歳でした。五木寛之氏は83歳です。子どもの頃戦争を体験した世代も、既に80を越え鬼籍に入る時代になったのです。そして今、「戦争を知らない」世代が再び戦争を煽っているのです。

野坂氏も五木氏もともに、早稲田を「横に出た」あと、黎明期のマスコミの周辺で、放送作家や作詞家やコピーライターなどをやって糊口を凌いでいました。彼らは、わずか10数年前の餓死した幼い妹や過酷な引揚体験の記憶を抱えて、東京で”マスコミ無頼”のような生活を送っていたのです。そして、小説家として華々しくデビューして、文字の文化の時代のスタアになったのでした。

成田空港反対運動のシンボル的存在でもあった反対同盟委員長の戸村一作氏が、「革命の斥候を国会へ!」というスローガンを掲げて参院選の全国区に出馬したとき、東京地方区で出馬していたのが野坂昭如氏でした。高田馬場の予備校に入るために上京したばかりの私は、新宿の駅頭で、二人が揃って演説しているのを見ていました。すぐ傍では、新左翼系の学生が民青の学生と殴り合いをしていました。私の周辺では、「どうして野坂なの」とみんな嘲笑していました。そのときも野坂氏は、「二度と飢えた子どもの顔を見たくない」と言っていました。

私は、野坂昭如氏と言えば、あのとき、アルタのネオンサインをバックに、選挙カーの上で、演説のあとに「黒の舟歌」を唄っていた姿をなぜか真っ先に思い出すのです。

野坂氏について、世間では無頼派のようなイメージがありましたが、しかし、私のなかでは、みずから進んでピエロ役を引き受けたような、そんなイメージがありました。

ちなみに、高校のときから野坂氏や五木氏が持ち回りで編集長を務めていた雑誌『面白半分』を読んでいた私は、野坂氏の作品では、『火垂るの墓』よりデビュー作の『エロ事師たち』のほうが好きでした。


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2015.12.11 Fri l 訃報 l top ▲