27日には、「高畑会見 危機管理のプロ評価」などという記事をアップしていたYahoo!トピックスですが、昨日は一転「高畑淳子会見 性被害者の怒り」という記事をアップしていました。これでバランスをとったつもりなのかもしれません。

Yahoo!ニュース
高畑会見 危機管理のプロ評価
高畑淳子会見 性被害者の怒り

高畑淳子の会見の無神経さは、裕太容疑者がやったこととのおぞましさを踏襲するものと言わざるをえません。それが、二次被害=セカンドレイプと言われるものです。もちろん、その無神経さは、高畑淳子の「涙」に同情して、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として彼女の気持がよくわかる」などとインタビューに答えている“街の声”も同じです。

当日、高畑淳子は、ほとんど寝てなくて憔悴していたとメディアは伝えていましたが、しかし、そのわりに、受け答えには多分に計算されたものがありました。たとえば、記者の質問に答える前、必ず「申し訳ございません。よろしくお願いします」とかなんとか謝罪のことばを入れて、へりくだった姿勢を見せる場面などがそれです。

また、一時間ずっと立ちっぱなしで会見をおこなったことについて、「誠実さの表れ」みたいな報道がありましたが、ホントに「憔悴していた」のなら、どうして座って会見をしなかったのかと思いました。会見のあと、ふらふらとよろめいて退場する場面がありましたが、もしあれが演技でなければ、よけい座って会見すればよかったのにと思いました。

結局、「涙」によって、見ている者たちは思考停止に陥り、(メディアや”街の声”のように)情緒的に受け止めることで、事件の本質が隠蔽されるのです。そして、世間的には「情状酌量の余地」をもたらし、仕事復帰のハードルが取り除かれるのです。

しかし、その一方で、被害者は、高畑淳子がメディアに出るたびに二次被害を受け、苦しむことになるのです。メディアも“街の声”もそれがまるでわかってないのではないか。

まして、「親の責任論」の是非を問う下記のような記事は、レイプ事件の二次被害をまったく理解してないトンチンカンなものと言うべきでしょう。高畑淳子が批判されるのは(批判されなければならないのは)、「親の責任論」からではないのです。

The Huffington Post
高畑淳子さんが謝罪 でも「母親叩き」に道義はあるのか?
Yahoo!ニュース(日刊スポーツ)
高畑淳子の長男不祥事謝罪で議論…親の責任どこまで
2016.08.31 Wed l 芸能 l top ▲
高畑淳子に関して、来月から上演される芝居には予定どおり出演するけど、来年以降の活動は未定という報道がありました。これで逆に、高畑淳子に対する芸能人仲間からの同情論や、先日の会見へのメディアの好意的な見方の背景が、なんとなく見えてきたような気がします。

忘れてはならないのは、高畑裕太容疑者がやったことは非道な犯罪だということです。「強姦罪」は被害者の告訴が必要な親告罪ですが、「強姦致傷罪」は告訴が必要ない非親告罪だそうです。怪我は全治一週間の指の打撲だとか言われており、怪我自体はきわめて軽症のようです。それでも、群馬県警があえて非親告罪の「強姦致傷罪」で逮捕したのは、もちろん、加害者が有名人であったということもあるでしょうが、もうひとつは、犯罪自体が悪質だったからではないかと言われています。また、警察官が宿泊している部屋に踏み込んだら、裕太容疑者は犯行直後にもかかわらずぐっすり寝込んでいたそうで、その“ふてぶてしさ“から常習性さえ疑われているのです。

ところが、高畑淳子の会見に対しては、犯罪の悪質性などどこ吹く風で、危機管理上どうだったか、及第点をあげられるかどうかなどという話になっているのでした。そんな反応を見ると、やはり、あの会見は「商品」イメージの低下を食い止め、活動をつづけるために演出されたものだったのかと思ってしまいます。また、会見自体も、仕事関係に迷惑をかけて申し訳ないというような話が多く、二次被害に苦しむ被害者の存在は片隅に追いやられてしまったかのようです。そして、「誠実さがよく伝わった」「同じ母親として高畑淳子さんの気持はよくわかる」などという“街の声”が、被害者不在の会見のカラクリを覆い隠す役割を果たしているように思えてなりません。

極めつけは、会見の際、裕太容疑者の性癖について質問した、フジテレビの番組でフィールドキャスターを務めるフリーアナウンサーに対しての批判です。結局、フリーアナウンサーは謝罪するはめになったのですが、でも、あの質問は別に批判されるべきものとは思いません。性犯罪の背景(性依存症)を考えると、当然出てきておかしくない質問だと思います。

それより、高畑淳子が活動をつづけることに対して、被害者がトラウマで苦しむことになるのではないか、それをどう思っているのか、という質問がなかったことこそ批判されるべきだと思うのです。もしかしたら、フリーアナウンサーの質問は、演出された会見の空気を乱すKYなものだったので、批判されたのかもしれません。

しかも、批判の急先鋒に立っていたのが、一方で、被害者女性のプライバシーを晒すことに躍起になっているネット民であったということも忘れてはならないでしょう。ここにも、リアルとネットの共犯関係によって作り出される、「万人が万人を支配する」「デモクラチック・ファシズム」(竹中労)の構造が垣間見えるような気がしてならないのです。
2016.08.29 Mon l 芸能 l top ▲
高畑裕太容疑者の母親・高畑淳子の会見を見ましたが、私は、どうしても意地の悪い見方をせざるをえませんでした。

私は、高畑敦子の会見を見て、先日の高島礼子や古くは三田佳子の会見を思い出しました。人前で涙を流すことなど女優にとっては朝飯前です。ぶっつけ本番の”涙の謝罪会見”は、文字通り女優としての腕の見せどころでしょう。女優にとって、一世一代の“大舞台”と言っていいのかもしれません。

高畑淳子は、出演する舞台の降板を否定して、「皆さんに演技を見せるのが私の贖罪と思っています」と言ってました。私は、その手前勝手な理屈の意味が理解できませんでした。

被害者は今後半永久的に忌まわしい記憶を抱え、トラウマに苦しむのです。メディアをとおして高畑淳子の名前を目にするたびに、その忌まわしい記憶がよみがえり苦しむことになるでしょう。高畑淳子はそれがわかってないのではないか。

私は、「親も同罪」「子の罪は親の罪」と言いたいのではありません。でも、性犯罪の二次被害を考えるとき、高畑裕太だけでなく、親の高畑淳子もトラウマの対象になるのは明白です。それが有名人の性犯罪が(被害者にとって)より残酷である所以です。

また、高畑淳子は、つぎのようにも言ってました。

「(面会は)もう、ほとんど覚えていないが『一生かけて謝らなければいけないよ』と。こんなことは不謹慎で言ってはいけないが、本当に申し訳ないことをしたねって言った後に、でもどんなことがあってもお母さんだから、姉はどんなことがあっても裕太のお姉ちゃんだからと言っていたように記憶しています」

Yahoo!ニュース
高畑淳子が会見 涙で謝罪「大変なことをしてしまいました」
オリコン


私は、それを見て、高畑裕太は服役して出所したあと、また同じ犯罪を犯すのではないかと思いました。

性犯罪が個人のキャラクターの問題などではなく、一種の嗜癖(依存症)であるというのは、多くの専門家が指摘しています(下記参照)。つまり、心の病気なのです。だからこそ、出所後の治療とケアが大事なのです。親として子どもの心の闇と向き合い、そのなかに分け入り、人格形成に果たした役割をもう一度辿りなおすことが肝要なのです。でないと、何度も同じ犯罪を犯すことになるでしょう。

ダ・ヴィンチニュース
なぜ性犯罪を犯すのか? なぜ繰り返すのか? 「性依存症」について考える
dot.(ドット)
性犯罪の背景に“依存症” 「性的なしらふ」にするための試みも

高畑淳子に対して「女手ひとつで一生懸命育てていた。気の毒だ」というようなコメントが芸能人仲間から出ていますが、少なくとも今回の犯罪においては、そんな同情論はなんの意味もないのです。むしろ、これらの同情論の背景には、高島礼子のときと同じように、芝居の制作会社の意向(降板させられないビジネス上の事情)がはたらいているのではないかと、そんなうがった見方をしたくなるのでした。

一方、有吉弘行と夏目三久の交際&妊娠報道では、昨日まではスクープを放った日刊スポーツ以外、どこも芸能界のドンの意向(怒り)を反映した「否定」のオンパレードで、「法的処置も検討」というような記事さえありました。

テレビが一切無視して、スポーツ新聞がいっせいに「否定」の記事を載せる。この翼賛体制こそが黒を白と言いくるめる(あるものをなきものにする)芸能界のドンの”力”なのです。テレビもスポーツ新聞もそれにひれ伏しているのでした。

ただ、スクープから2日経ち、風向きが微妙に変わりつつあるのも事実です。双方の事務所の「否定」コメントが遅すぎるとか、不自然だとかいった話が出はじめているのでした。これから徐々に「有吉が干される危機」などという、SMAP解散騒動などでも見られた”脅しの記事”が増えてくるのかもしれません。

私は、これらのニュースを見て、あらためて芸能界というのは「特殊××」(吉本隆明)なんだなと思ったのでした。
2016.08.26 Fri l 芸能 l top ▲
SMAPの解散にまつわる報道は、今や完全に情報操作の段階に入っています。それこそなんでもありの状態です。それに一喜一憂するのは、みずから“衆愚”と言っているようなものでしょう。

SMAPが稼ぐ年商250億円の既得権益をできるだけ死守しようとするジャニーズ事務所と、その利権をジャニーズ事務所から奪おうとする大手プロダクションや黒い紳士たちの暗闘。そんな魑魅魍魎たちが陰に陽に跋扈して、腹にイチモツのリーク合戦をおこなっているのが、今、私たちの目の前で繰り広げられている光景です。

キムタクがどうだ、中居がどうだ、香取がどうだという話は、今年の1月の時点では多少意味があったと言えますが、解散が決定した現在、もはや情報操作の道具でしかなく、どっちに正義があるとか、どっちに真実があるとか、そんなものはほとんど意味がなくなったのです。

私は、以前『芸能人はなぜ干されるのか』の記事(下記の関連記事参照)のなかで、つぎのように書きました。記事に多くのアクセスが集まったのに伴い、思ってもみないような反響がありました。なかには本の内容を紹介した部分に対して脅しのようなメールも届きました。それで、記事をアップしたあとに、下記の部分を書き足したのでした。

大半の人たちは、芸能記事に書かれていることを真に受け、記事の芸能人に、失望したり憤ったり、あるいは逆に感動して涙したり応援する気持になったりするのでしょう。しかし、話はそんな単純なものではないのです。記事の裏には、芸能界を「支配」する者たちの思惑やカラクリだけでなく、さらにそれに対抗する(「告発」する)者たちの思惑やカラクリも複雑に絡んでいる場合があるのです。


もっともこれは、SMAPだけの話ではありません。肯定と否定が交錯している、有吉と夏目三久の交際&妊娠報道も同じでしょう。芸能界のドンの手にかかれば、黒を白と言いくるめることも可能なのです。

これらの報道であらためて思ったのは、ドレイ契約に縛られている彼ら芸能人は、どこまで行ってもただの「商品」でしかないということです。仮に移籍しても、それはドレイ契約の付け替えでしかないのです。

芸能界の魑魅魍魎たちにいいように転がされているSMAPの5人を見ていると、まるで羊飼いに引かれて行く屠られる羊のようで、憐れみと哀しささえ覚えてならないのです。しかも、それは仔羊ではなく、40すぎのおっさんなのです。キムタクの虚勢が滑稽に見えるのも、故なきことではないのです。


関連記事:
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.24 Wed l 芸能 l top ▲
文藝春秋2016年9月号


芥川賞を受賞した村田紗耶香の「コンビニ人間」(『文藝春秋』9月号)を読みました。

この小説を「現代のプロレタリア文学」と評した人がいましたが、つぎのような表現をそう解釈したのかもしれません。

(略)かごにセールのおにぎりをたくさん入れた客が近づいてくるところだった。
「いらっしゃいませ!」
 私はさっきと同じトーンで声をはりあげて会釈をし、かごを受け取った。
 そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。


 朝になれば、また私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。


選考委員の村上龍は、選評で、みずからが司会を務める「カンブリア宮殿」で見聞きしたことを引き合いに出して、企業の教育やトレーニングに共通している「挨拶」の徹底は、「一種の『規律』であり、いろんな意味での、会社への同化・帰属意識の醸成である」と書いていましたが、しかし、これってただ当たり前のことを言っているにすぎないのです。それをさも自分が“発見“したかのように、フーコーまがいの表現でもったいぶって書いているだけです。

村上龍が働いたことがあるのは、デビューする前に、霞が関ビルでガードマンのアルバイトをしたことくらいで(その際、エレクトーンを弾いていた奥さんと知り合い結婚したと言われています)、彼は、私たちが想像する以上に“世間知らず“なのです。だから、「カンブリア宮殿」に出てくる海千山千の「社長」たちをあのように「すごい」「すごい」と言って感嘆するのでしょう。

「コンビニ人間」を「現代のプロレタリア文学」と評するのも、村上龍と同じような“世間知らず“の読み方だとしか思えません。

この小説に“社会性“があるとすれば、大学1年のときから18年間、就職もせずに同じコンビニでアルバイトをつづけている、36歳・未婚・恋愛経験なしの主人公に向けられる“世間の目”に、かろうじて見ることができるだけです。

 コンビニで働いていると、そこで働いているということを見下されることが、よくある。興味深いので私は見下している人の顔を見るのが、わりと好きだった。あ、人間だという感じがするのだ。


差別する人には私から見ると二種類あって、差別への衝動や欲望を内部に持っている人と、どこかで聞いたことを受け売りして、何も考えずに差別用語を連発しているだけの人だ。


そして、そんな“世間の目”を代弁するような屁理屈をこねまわす同じ「万年フリーター」(私の造語です)の男と出会い、奇妙な同居生活をはじめることで、この小説は、作者の真骨頂とも言うべき「普通ではない」世界に入っていくのでした。

しかし、「普通ではない」世界から陰画のように描かれた「普通」の世界(世間)は、今どきのテレビドラマでもお目にかかれないような、単純化され戯画化されたそれでしかありません。

「コンビニ人間」は、緻密な心理描写を排した簡潔な文体で、しかもユーモアもあり、とても読みやすい小説です。おそらく芥川賞受賞の話題性で映像化されるでしょうが、映像化に適している作品とも言えます。ユーモアもお笑い芸人のギャグレベルのもので、その意味でも面白くて受け入れやすいと言えるでしょう。でも、それだけです。読んだあとになにか考えさせられるような小説の奥深さはありません。予定調和のウケを狙った小説と言えないこともないのです。

今や小説家は、“世間知らず“の代名詞になっているかのようです。選評を読んでも、トンチンカンなものが目立ちます。なかでも川上弘美のトンチンカンぶりは相変わらずですが、今回の選評では、崔実の「ジニのパズル」をどう評価するかに、彼らの小説家としての”現実感覚”が試されているように思いました。

選評では、高樹のぶ子と島田雅彦が「ジニのパズル」を推していることがわかります。

高樹のぶ子は、「ジニのパズル」について、つぎのように書いていました。

 一読したとき、頬を叩かれたような衝撃を受けた。(略)
 胸を打つ、という一点ですべての欠点に目をつむらせる作品こそ、真に優れた作品ではないのか。かつて輝かしい才能が、マイノリティパワーとして飛び出して来たことを思い出す。


一方、山田詠美は、「ジニのパズル」を散々にこき下ろしていました。

『ジニのパズル』。ここにも、のっけから<感受性>という言葉が出ているよ。今度は感受性ばやり? そして、文章が荒過ぎる。特に比喩。どうして、こんなにも大仰な擬人化? <雨の滴が窓ガラスに体当たりするようにぶつかって、無念だ、と嘆きながら流れ落ちていった>だって…! わははは、滑稽過ぎるよ。


島田雅彦は、「コンビニ人間」と「ジニのパズル」をそれぞれ「能天気なディストピア」「マイナー文学の傑作」と評して、つぎのように書いていました。

 タイトルとテーマ、コンセプト、そしてキャラだけでもたぶん小説は成立するだろう。叙述や会話のコトバから一切オーラを剥奪しても、心理の綾をなぞることを省いても、ギリギリセーフだ。セックス忌避、婚姻拒否というこの作者にはおなじみのテーマを『コンビニ人間』というコンセプトに落とし込み、奇天烈な男女のキャラを交差させれば、緩い文章も大目に見てもらえる。


 全世界的に外国人排斥と自民族中心主義が広がる中、移民二世、三世は移民先の文化に適応するか、ルーツの民族主義に回帰するか、あるいはハイブリッド文化を構築するか、パンク文化するか、やけっぱちのテロリズムに走るか、これは文化の未来を左右し、文化の不安をかき立てる。在日三世の韓国人が日本の学校から、なぜか朝鮮学校を経て、米オレゴン州へと向かった少女の反抗と葛藤の記録は肉弾的リアルティに満ちている。(略)試行錯誤のパズルを繰り返すジニの姿こそが世界基準の青春なのかもしれない。荒削りで稚拙な表現を指摘する委員が多かったが、それは受賞作にも当てはまるので、この作品の致命的欠点とはいえない。受賞は逃したが、『ジニのパズル』はマイナー文学の傑作であることは否定できない。


芥川賞の選考委員なんて町内会のお祭りの実行委員みたいなものなので、マスコミ受けする又吉の「火花」のつぎは、読者に迎合して「大目に見てもらえる」小説を選んだのかもしれません。


関連記事:
崔実「ジニのパズル」
2016.08.15 Mon l 本・文芸 l top ▲
「SMAP12月31日解散」のニュースを見て、私は「やっぱり」と思いましたが、同じようにそう思った人も多かったのではないでしょうか。

解散に関しては、メンバーの公開謝罪やジャニー喜多川氏の否定発言にも関わらず、キムタクとほかのメンバーとの軋轢が囁かれ、噂は消えることはありませんでした。

一方、ジャニーズ事務所の意を汲んだ芸能マスコミは、バカのひとつ覚えのように、SMAP存続の翼賛記事を垂れ流すだけでした。日本の芸能界がアンタッチャブルな世界になっている要因のひとつに、芸能マスコミの存在があるのは否定できないでしょう。それは、芸能マスコミが芸能界を牛耳る大手プロダクションやテレビ局に隷属しているからです。芸能マスコミの記事だけを読めば、SMAP解散は過去の話になっていたはずです。SMAPはジャニー喜多川氏の庇護の下に戻り、修復しているはずでした。

事務所の発表によれば、メンバーは、既に来年9月までの契約を更改しており、1年間はジャニーズ事務所に籍を置きソロで活動するそうです。おそらくそのあと、キムタクを除いたほかのメンバーは、移籍や引退を選択するのでしょう。

私は、個人的にこの1年の契約にどんな意味があるのか興味があります。お礼奉公なのか、あるいは解散スキャンダルからメンバーを守る親心なのか。芸能界のオキテから言えば、お礼奉公と考えるのが常識でしょう。そうなれば、徹底的に搾取されるのは目に見えています。そして、ボロボロにされて放り出されるのではないか。

いくらとっちゃん坊やとは言え、40すぎたおっさんたちがアイドルを演じるのは、生物学的に見ても無理があるでしょう。そう考えれば、解散は自然の理だったと言えなくもないのです。でも、栄枯盛衰は世の習いで、況や芸能界においてをやです。メンバーたちにとって、これからイバラの道が待っているのは間違いないでしょう。

と、解散のニュースに対しても、このようにありきたりなことしか言えないのです。それくらい解散は、世間的には既定路線で、むしろ今更の感さえあるのでした。


関連記事:
ジャニー喜多川氏の発言の真意
SMAP解散騒動の真相
「SMAP解散」と芸能界の魑魅魍魎
『芸能人はなぜ干されるのか?』
2016.08.14 Sun l 芸能 l top ▲
昨日、三宅洋平が、米軍ヘリパッド(ヘリコプター着陸帯)建設用資材の搬入を阻んでいる高江のN1ゲート裏のテントに、安倍昭恵総理夫人を連れてきたことで、論議を呼んでいます。

私は、このニュースを聞いて「やっぱりな」と思いました。杞憂が現実になった感じです。

先月、三宅洋平は、安倍昭恵夫人と面談したのですが、そのときのことをツイッターにつぎのように書いていました。面談は、参院選の投票日の翌日、昭恵夫人が「三宅洋平さん、公邸でお待ちしてます!」という呼びかけ文をフェイスブックに掲載したのに応えたものです。




また、面談に批判的なコメントに対しては、つぎのように反論していました。


そして、昨日の行動になったのでした。

Togetterまとめ
安倍昭恵を帯同して高江に行った三宅洋平と地元の人の会話

彼の行動に対するツイッターの反応のなかで、私は、つぎのような声に「いいね」(!?)をあげたくなりました。


三宅洋平は、選挙に出たことで自分が大物になった気分なのかもしれません。それで、大きなもの(=権力)に接近し、それから承認されることを求めているのかもしれません。それが、政治に対して、「賢人政治」のようなイメージを抱くようになっているのではないか。ヒットラーとは言わないまでも、水戸黄門や遠山の金さんを待望するような気分になっているのかもしれません。

ところが、ネットでは、建設に疑問をもっている(と自称する)人のなかで、三宅洋平の行動に好意的な見方をしている人が結構いるのでした。『サッカーと愛国』の清義明氏もそのひとりですが、彼らは、テントで座り込みをしている反対派が昭恵夫人に「なにしに来たんだ!」と罵声を浴びせて追い払ったと言って、これだから反対派はダメなんだ、昭恵夫人を巻き込んで運動を広げるチャンスをみすみす逃した反対派は愚かだ、と批判するのでした。なかには、こういった左翼の血償主義が運動をダメにしているなどと言う者さえいました。

でも、こういった反応こそ昭恵夫人が狙っていたものだったのかもしれないのです。もしかしたら、してやったりとほくそ笑んでいるのかもしれません。

昭恵夫人が「家庭内野党」を演じるようになったのは、第二次安倍政権のときからです。第一次安倍政権のときは、そんな話は微塵もありませんでした。要するに、第一次政権の失敗から学んで、安倍政権の強権的な手法への風当たりを和らげるために、内助の功で「猿芝居」を演じているのではないのか。夫の強権的な姿勢と、話せばわかってもらえるはずという妻の役割をそれぞれ演じ分けているだけではないのか。その「猿芝居」に一役買ったのが、前にも書いたように朝日新聞です。

昭恵夫人は、三宅洋平らが言うように、ヘリパッド建設に疑問をもっているわけではないのです。その証拠に、昭恵夫人は、先の参院選のときは、建設推進の島尻安伊子沖縄・北方担当大臣の応援演説をおこなっているのです(「追記」のYouTube参照)。演説では、沖縄の有権者に向かって、「主人は独裁者ではありません」と訴えているのです。そんな人物が、「現場で何が起きているか知りたかった」なんて言って、警視庁のSPを引き連れ(本人たちはSPの存在を否定していますが、現職の総理夫人にSPが付いてないわけがないのです)のこのこやって来れば、「バカにするな!」と怒るのは当然でしょう。むしろ、怒らないほうがおかしいのです。彼女の夫が「平気で『ええかげんなこと』を言う人」(故・船井幸雄氏)だということを忘れてはならないでしょう。

昭恵夫人が言う「わかってらえるはず」というのは、夫に対してではなく、あくまで反対派に対してなのです。それが、田布施システム同様、三宅洋平らがトンデモであるゆえんです。

三宅洋平の行動に肩をもつ人たちは、全国から機動隊員を動員して工事を再開した政府の姿勢や、週明けにも強制排除がおこなわれるかもしれないと言われている高江の現実など関係なく、ただ反対派を叩くことしか念頭にないかのようです。

IWJは、昭恵夫人が帰ったあとの三宅洋平とテントの住民とのやり取りをテキストに書き起こしていますが、そのなかで、反対派の男性の三宅洋平に対するつぎのような発言が印象的でした。

男性「話を聞いてわかったのは、あなたは何十年間も虐げられている沖縄の人の気持を、あまり理解していない」


IWJ(Independent Web Journal)
【速報!】「現場で何が起きているか知りたかった」安倍昭恵・総理夫人が沖縄・高江を訪問!~新ヘリパッド強行建設工事に反対する市民からは戸惑いの声――IWJが追ったその一部始終 2016.8.6

もちろん、三宅洋平だけでなく私たちも、「何十年間も虐げられている沖縄の人の気持」をわかっているとは言い難いのです。もしかしたら(言っていることが違うだけで)、沖縄の人たちを「売国奴」呼ばわりするネトウヨと同じ目線に立っているのかもしれないのです。

それは、三宅洋平の肩をもつ人たちも同じです。彼らは、昭恵夫人と「対話」をしなかったとして、反対派を叩くのですが、彼らが言う「対話」とはなんなのかと思います。彼らは、反対派の住民たちが「黄門様、お願いしますら」「基地の建設をとどまるよう将軍様にお伝えくださいまし」と昭恵夫人に手を合わせてお願いすることを願っていたのでしょうか。その傲慢な上から目線は、安倍政権の沖縄に対するそれと同じでしょう。

清氏に至っては、ツイッターでのやり取りのなかで、「沖縄から基地全面撤収って、沖縄の人達がホントに臨(ママ)んでる話なんですかね?」などと言い出す始末で、そういった薄っぺらな観念と傲慢な目線は、三宅洋平と同じように、いつでも”動員の思想”にからめとられる危険性を孕んでいると言えるでしょう。

いや、これは既に、強権政治を前にして、雪崩を打って敵前逃亡がはじまっている兆候なのかもしれません。その方便に、お決まりのブサヨ批判と話せばわかる式の戦後民主主義へのオプティミズムが使われているのではないか。

追記:
YouTube
安倍昭恵夫人が涙ながらに必死の「島尻あい子 応援演説」

関連記事:
積極的投票拒否の論理
昭恵夫人の「猿芝居」
2016.08.07 Sun l 社会・時事 l top ▲
サッカーと愛国


清義明氏の『サッカーと愛国』(イースト・プレス)の感想文を書こうかと思っていたら、リテラが同書を取り上げていました。

リテラ
リオ五輪、W杯最終予選直前に考える、サッカーは右翼的ナショナリズムやレイシズムと無縁ではいられないのか

最近リテラの記事を引用することが多いので、リテラを真似したように思われるのではないかと気にしています。自意識過剰と思われるかもしれませんが、ネットというのは、かように自意識過剰になり自己を肥大化しがちなのです。相模原殺傷事件の犯人も、ネットで夜郎自大な自分を極大化させ、ヘイトな妄想を暴走させたと言えるのではないでしょうか。

リテラは、芸能人の誰々が安倍政権を批判したとか改憲に懸念を表明したとか、そんな記事がやたら多いのが特徴ですが、私は、そんな姿勢には以前より違和感を抱いていました。なかには書かれた芸能人もさぞや迷惑だろうと思うような牽強付会な記事もあり、なんだか負け犬根性の染みついたリベラル左派の”友達多い自慢”のようで、見ていて痛々しささえ覚えるのです。

でも、リテラの「人気記事ランキング」を見ると、常にその手の記事が上位を占めています。芸能人や有名人が自分と同じような考えをもっていることを慰めにしている人たちも多いみたいです。そんな人たちは、無定見にSEALDsを支持し、官邸デモの盛り上がりに、「政治が変わる」「夜明けは近い」と思っているのかもしれません。それが”お花畑”と言われるゆえんでしょう。

明日、リオ・オリンピックでサッカーの初戦・ナイジェリア戦がありますが、今日も知り合いのサッカーファンたちの間では、その話題で持ちきりでした。

清義明氏は、『サッカーと愛国』で、「サッカーは右派的なスポーツではない」と題して、つぎのように書いていました。

(略)もともとナショナルチームというのはサッカーの大会のカテゴライズのひとつにすぎない。多くのサッカーファンは各国の代表チームではなく、それよりもクラブチームを重視している。例えば、Jリーグの熱狂的なサポーターで、毎週末に日本中のどこだろうとアウェーの自分のチームの試合を追いかけていくような部類の人でも、日本代表の試合となると、スケジュールすら知らないという人もたくさんいる。代表チームは、自分のチームの選手が選ばれている時だけしか興味を示さないという人も多いのだ。むしろ、クラブチームに入れあげれば入れあげるほど、そうなる傾向が強い。


日本戦のあと、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをして騒いでいるサッカーファンなんて、急ごしらえの俄かサッカーファンにすぎないという指摘は頷けるものがあります。そして、そんな俄かサッカーファンたちがメディアに煽られて安っぽいナショナリズムを叫び、都知事選で桜井某に11万票を投じたのでしょう。

自民党政権が60年安保の盛り上がりに怖れをなして、ヤクザを台頭する左翼の対抗勢力とすべく、”右翼”として組織し利用したのは有名な話ですが、それと同じように、ヨーロッパの民族紛争では、サッカーのサポーターたちが民族排外主義者に利用され、“民族浄化”の先兵として殺戮行為に加担していた例があるそうです。

著者が言うように、「サッカーの起源はマチズモ(引用者:男性優位主義)に満たされ、排外主義的な思想を招きやすいのは否定できない事実」ですが、しかし一方で、ヨーロッパで育まれたサッカー文化には、リベラルで啓蒙主義的な面があるのも事実なのです。

ISのテロで露わにされたヨーロッパ社会の二重底。自由と博愛の崇高な精神を謳う西欧民主主義の裏に張り付いた人種差別の根深さ。そのため、ヨーロッパのサッカーは、常に高いハードルを科してレイシズムと戦わなくてはならないのです。

2008年、欧州連合は、「人種・皮膚の色・宗教・血統・出身国・エスニックな出自による差別を罰するように求め、これに懲役刑を定めるように要請する」「枠組みの決定」を採択したのですが、UEFA(欧州サッカー連盟)も、それに同調する方針を打ち出し、それがサッカーにおける「世界基準」になっているのです。

でも、日本の現状が、ヨーロッパのそれに比べて遅れているのは否めないのです。以前、このブログでも取り上げましたが、浦和レッズのサポーターが「JAPANESE ONRY」の横断幕を掲げ、無観客試合の制裁を受けた事件の背景には、「韓国選手を獲らない」というクラブの方針と李忠成の加入があるのではないかという指摘などもその一例でしょう。

また、Jリーグの国籍規定が「鎖国的」だという指摘もあります。プロ野球の場合、日本の学校に3以上在籍した選手は外国籍扱いしない(外国人枠の対象外)という規定があるのですが、Jリーグはあくまで国籍がすべてです。ところが、在日の有望選手が多いため、3名の外国人枠とは別にわざわざ1名の「在日枠」を設けているのだそうです。一方、FIFAは、二重国籍など国籍の概念が多様化している現状を考慮して、ナショナルチームの選手の資格を判断するのに国籍よりもパスポートを優先しているのだとか。だから、チョン・ホセ(鄭大世)は、韓国籍であるにもかかわらず北朝鮮の代表に選ばれたのです。チョン・ホセの家は、父親とホセが韓国籍で、母親が朝鮮籍だそうです。

サッカーと在日は切っても切れない関係にあります。かつて幻の最強チームと言われた在日朝鮮蹴球団。また、東京の朝鮮高校も高校では最強のレベルでした。帝京高校が強くなったのも、近所に朝鮮高校があったからだと言われていました。日本の強豪校は、朝鮮高校と定期戦をおこないレベルアップをはかっていたのです。

李忠成の家族も、祖父が朝鮮籍で父親が韓国籍、そして忠成が日本籍だそうです。李忠成の父・李國秀は、かつて横浜トライスター(横浜フリューゲルスの前身)の選手で、その後、多くのJリーガーを輩出した桐蔭高校の監督を10年務めた、指導者として知られた人物です。

その李國秀のインタビューは、「サッカーと愛国」を考える上でも興味深いものがありました。

李忠成が韓国U-19代表の合宿に召集された際、在日であるがゆえに「差別」を受け、そのために韓国の代表に選ばれなかったという話がありましたが、李國秀はつぎのように否定していました。

「それよりも、パク・ジュヨンとポシションがかぶっていたね。うまく溶け込めなかった。ちょうどU-19のチームのスタイルを固めようとしているときにあいつが入っていった。そうしたらサッカーが合わない。中国との練習試合の時に、あいつがヒールパスを出したんだけど、誰も反応できなかった。メイド・イン・ジャパンのサッカーなんだよ。スタイルが違う。フィジカル重視のスタイルに合わない。スペースにボールを蹴り込んで走っていくスタイルに、あいつがヒールパスを出したり、パスをスルーしても違うんだね」
「差別」は代表に選ばれなかった理由ではないというわけだ。
「いくら韓国の血であっても、小中高と日本のサッカーをやってきたら、サッカーのアイデンティティは日本なんだ」


さらに、つぎのような李國秀の話には、私たち日本人が知り得ない在日の歴史の重みがあるのでした。李忠成の曽祖父が、一旗揚げようと朝鮮半島から博多にやってきて、沖仲仕の仕事をはじめたのが100年前だそうです。そこから李一家の在日の歴史がはじまったのです。

李忠成の祖父は、戦争中は特攻隊員だったそうです。ところが、戦争が終わった途端に「日本人」から「外国人」になったのです。

「(略)親父(引用者:李忠成の祖父)は終戦後、今でも日本国籍になってないし韓国籍でもない。それは親父の妹が北朝鮮に帰還事業で帰っているからなんだ。兄が日本国籍を取得したことがバレたら、妹が強制収容所にでも送られてしまうかもしれないって理由で。
 一方で俺は忠成と一緒に韓国籍になった。親父はまだ朝鮮籍。だからウチは、長男の三代が、日本籍、韓国籍、朝鮮籍として一緒の家に住んでいるわけです。全員パスポートが違うんですよ(笑)。
 これが幸せなのか不幸なのか、よくわからないな。親父は日の丸を命を張って守ろうとして軍隊まで行ったのに、俺は『パッチギ!』の世界ですよ。そして忠成は新しい人生で日の丸を背負っている。これが100年の歴史なんですよ。なんで在日が日本にいるんだって人もいるだろうけど、社会とイデオロギーに翻弄されている歴史をわかってほしいよね。そうやって翻弄されながら生きてきていることは、人間の弱さなのかもしれないし、強さかもしれない。それはよくわからない」


サッカーには、レイシズムの誘惑という負の部分と、まったく正反対にリベラルな文化という顔もあります。私たちは、ある日突然、日本人から外国人になった経験もなければ、二重国籍の現実も知りません。もちろん、「永住許可」という制度に縛られることもないのです。だから、国籍規定の疑問点を指摘されたJリーグの理事のように、「自由にやりたきゃ日本国籍をお取りなさい」というようなタカピーな発言になるのでしょう。浦和の横断幕も横浜マリノスの「バナナ事件」も、根底にあるのは、このような「民族主義サッカー」の考えです。それが渋谷駅前の俄かサッカーファンにも投影されているのではないか。
2016.08.04 Thu l 本・文芸 l top ▲
昨日の夜遅く、喉が渇いたので冷たいものでも飲もうとキッチンに行ったら、キッチン全体が熱気におおわれ、サウナ風呂のようになっていました。

なんとキッチンに置いていた卓上電気グリルのコンセントをさしたままになっていたのでした。そのためにグリルが過熱して、異常な熱を発していたのです。

夕食に電気グリルで塩サバを焼いたのですが、そのままコンセントをぬくのを忘れていたのです。電気グリルにはガラス製の蓋が付いていますが、蓋の取っ手も素手では持てないくらい熱くなっていました。

前も書きましたが、味噌汁を温めようと電子レンジの戸を開けたら、前に温めたまま取り出すのを忘れていた味噌汁が出てきたなんてことはよくあります。それどころか、一度などは温め終えた味噌汁を取り出そうとしたら、中から味噌汁が二つ出てきて、狐に摘ままれたような気持になりました。前に取り忘れた味噌汁が入っているのに気付かないまま、またあらたな味噌汁を入れていたのです。年をとると、このように毎日がハリーポッターの世界です。

先日のことです。部屋にいると、ピンポーンとチャイムが鳴りました。モニターで見ると、白いワイシャツ姿の男性が立っていました。私は、どうせ怪しいセールスだろうと思ってそのまま無視しました。チャイムは何度か鳴ったのち、鳴りやみました。

ところが、それからしばらくして、再びチャイムが鳴ったのです。モニターで見ると、前と同じ男性が立っていました。私は、「うるさいな」と思いました。文句を言ってやろうかと思いましたが、我慢しました。そんなとき、出ていくと、大概怒鳴り合いになるからです。年も年なので、無用なトラブルを避けるのが賢明でしょう。

チャイムが止んだあと、ふとベランダの窓越しに外を見ました。すると、道路をはさんだ反対側の駐車場に数人の男性が立ってこちらを見ているのに気付きました。上着を着ているのはひとりだけで、あとは白いワイシャツ姿でした。私は、一瞬「警察?」と思いました。刑事たちが犯人宅を遠くから監視するテレビドラマのシーンによく似ていたからです。上着を着ているのは宅麻伸演じる「係長」なのか。

と思ったら、またピンポーンとチャイムが鳴ったのでした。でも、私は、やはり無視しました。チャイムが鳴り終えたあと、気持が悪くなったので玄関のドアの確認に行きました。するとびっくり。ドアにカギがかかってなかったのです。カギもドアチェーンも外れたままになっていたのです。

私は、またしても狐に摘ままれたような気持になりました。毎日がハリーポッターであることを考えれば、ドアのカギをかけ忘れたということは充分考えられます。彼らはそのために何度もチャイムを鳴らしたのか。

あの駐車場に立っていた男性たちは誰だったのか。ドアが開いていることを誰かが通報して警察が来たのか。でも、制服の警官ではなく、私服の刑事というのもちょっと解せません。それも、ドアが開いているだけで、まるで殺人事件のように何人も来るでしょうか。

やはり、新聞の勧誘員かなにかセールスの人間だったのか。彼らは、“絨毯爆撃”のように、その地域をグループでいっせいに飛び込みセールスするのはよくあることです。

「あの部屋、ドアにカギがかかってないぞ」
「部屋に誰かいるのか?」
「わからん」

そう話していたのかもしれません。「もう一回確認して来い」と言われて、チャイムを鳴らしたのかもしれません。あのまま部屋に入って来られたら、もう怒鳴り合いどころではなかったでしょう。

毎日がハリーポッターも一歩間違えば、笑い話では済まされないことになるのです。

2016.08.03 Wed l 日常・その他 l top ▲