沖縄高江の米軍北部訓練場ヘリパッド建設工事の警備に派遣されていた大阪府警の機動隊員二人が、反対派住民に対して「土人」「シナ人」と発言した事件には、ただあきれるしかありませんでした。

しかも、この二人は、発言に対して反対派住民から抗議されると、隊列の後方に退いたのですが、後方に退いたあとも、二人で反対派住民を見やりながらニヤニヤ笑っているシーンがありました。私はそれを見て、なんだか異常な感じさえしました。隣の警官は、なだめるようにまあまあと肩を叩いていましたので、まわりも彼らの異常さに気付いていたのでしょう。

二十代の若者にとって、「土人」や「シナ人」などということばは普段は無縁なはずです。私たちの世代でもほとんど耳にすることはありません。子供の頃、戦争に行った祖父の世代の人間が口にしているのを聞いたのと、仕事で街宣右翼の活動家と話をしていたとき、彼らが口にしていたのを聞いたことがあるくらいです。そんな無縁である(はずの)ことばが、二十代の若者の口から咄嗟に出たのです。本人たちが言うように、「侮蔑的な意味があるとは知らなかった」というのは、どう考えてもウソでしょう。彼らは日ごろから、街宣右翼やネトウヨと同じように「土人」や「シナ人」ということばを使っていたのではないか。と言うか、彼ら自身が、ネトウヨ的思考に染まっていたのではないでしょうか。

公安の刑事に、「転び公安」と呼ばれる自作自演のでっち上げがあるのはよく知られていますが、デモや集会を規制する機動隊の傍若無人ぶりは、意外と知られていません。若い頃、集会に参加したことがある知人によれば、集会場の入口は機動隊の盾で壁が作られ、その間をとおって会場に入らなければならないように規制されているのだそうです。その際、機動隊員から差別語オンパレードの罵声を浴びせられ、さらに盾で腹や腰を小突かれたり、「安全靴」のような重厚な編上靴で脛を蹴られるのだそうです。そして、それに抗議しようものなら即「公務執行妨害」で現行犯逮捕されるのだそうです。

「土人」発言に対して、松井一郎大阪府知事が差別発言の機動隊員をねぎらう発言をして物議をかもしていますが、松井知事の発言に対しては、今回も上西小百合議員の批判がいちばん痛いところを突いていたように思います。もっとも、「土人」発言を擁護しているのは、「頭の悪い」松井知事だけではありません。産経新聞や夕刊フジも、機動隊員の発言は「売り言葉に買い言葉」にすぎないというような記事を書いていました。

しかし、高江の問題は、私たちの日常にあるような喧嘩とは違うのです。警察官と反対派住民では、その立場が根本的に異なるのは言うまでもないことです。警察官は権力の行使の権限をもつ公務員なのです。そんな政治学のイロハさえ無視して、「売り言葉に買い言葉」だと強弁するフジサンケイグループは、もはやジャーナリズムとは呼べないでしょう。彼らが擁護しているのは、機動隊員だけではありません。そうやって宗主国のアメリカ様を擁護しているのです。そして、アメリカの軍事基地建設に反対する住民を「売国奴」呼ばわりしているのです。

それはまさに『宰相A』の世界です。「売国奴」はどっちなのか、この国に「愛国」者はいるのか、と思ってしまいます。フジサンケイグループの記事が示しているのは、骨の髄まで染み付いた対米従属「愛国」主義という戦後の“病理”です。

「土人」発言に関して、私もこのブログで書いたことがありますが、沖縄タイムスも、「1903年、大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場で『7種の土人』として、朝鮮人や台湾先住民、沖縄県民らが見せ物として『展示』される『人類館事件』」があったことを書いていました。

沖縄タイムス+プラス
「土人」発言は何が問題なのか 大阪で沖縄女性らが見せ物にされた人類館事件

おそらく警察内部では、こういった話題が個人間で共有されていたのではないでしょうか。それがああいった発言につながったのではないか。

一方で、当然ながら沖縄にも“買弁の系譜”というのがあります。「土人」「シナ人」と言われながら、米軍基地と引き換えに日本政府からもたらされる甘い汁に群がる人々がいるのもたしかです。「アメリカ世」の時代に、米軍の占領政策に異を唱える議員の追放を画策した仲井眞弘多前知事の父親などもそのひとりでしょう。岸=安倍家と同じように、沖縄でも“買弁の系譜”はしっかりと受け継がれているのです。

竹中労は、『黒旗水滸伝』(皓星社・2000年刊行)の「プロロオグ」で、大労組主体の沖縄「革新」勢力もその“買弁の系譜”に入るのだとして、彼らが「本土復帰」に果たした役割をつぎのように批判していました。

 全琉プロレタリアートの八割、三十五万人は新レート三〇五円で読み替えられた、実質二割の”賃金カット”に甘んじねばならかったのだ。加之(しかのみながらず)、七万人の生活保証のために公共料金は値上げされ、諸物価は右にならえと、三六〇円、いや商品によってはそれを上回る換算値上げ、かくて経済恐慌は世替わりの南島をおおった。復帰運動の旗をふり、”親方日の丸”、祖国日本の幻想に庶民をまきこんで、とどのつまりはおのれらのみ、三六〇円読み替えの特権をほしいままにした奴輩、教職員会、官公労、全軍労の特権労働貴族、ダラ幹こそコンプラドールよ、五・一五”琉球処分”の元凶、といわなくてはならぬのだ。
 彼らは口をぬぐっていう、「我々は日本政府に裏切られた」「反戦平和の決意を新たにせよ」。人民の代表ズラしていう。「基地を撤去し、自衛隊の派兵を阻止しよう」「CTS反対」。
 笑ァさんけえ(笑わせるな!)、信じてえならんど、”革新”こそ眼のウツバリ、沖縄人民の内部の敵である(引用者:傍点あり)。そのことをハッキリと見すえ、擬制の左翼と絶縁するところから、”琉球人民共和国”独立、──無政府窮民革命テーマは浮上してくる。


時はめぐり、今や沖縄の「革新」勢力は、フジサンケイグループやネトウヨらによって「過激派」と呼ばれているのですから、なにをか況やでしょう。竹中労流バッタリと扇動は割り引くとしても、今回の「土人」発言を考えるとき、琉球独立は、もはや当然の方向のように思えます。スコットランドやカタルーニャを見てもわかるとおり、それは決して絵空事ではないし、過激な考えでもないのです。


関連記事:
『琉球独立宣言』
2016.10.24 Mon l 社会・時事 l top ▲
「愛国」ばやりです。どこを向いても「愛国」の声ばかりです。それは、ネットだけではありません。テレビや新聞など、既存のメディアにおいても然りです。今や「愛国」だけが唯一絶対的な価値であるかのようです。言うまでもなく、安倍政権が誕生してから、日本は「愛国」一色に染まっているのです。

しかし、現在(いま)、この国をおおっている「愛国」は、実に安っぽいそれでしかありません。自分たちに不都合なことは詭弁を弄して隠蔽する、まるでボロ隠しのような「愛国」です。無責任で卑怯な、「愛国」者にあるまじき「愛国」でしかありません。「愛国心は悪党たちの最後の逃げ場である」(サミュエル・ジョンソン)ということばを、今更ながらに思い出さざるをえないのです。

さしずめ石原慎太郎や稲田朋美に代表される「愛国」が、その安っぽさ、いかがわしさをよく表していると言えるでしょう。それは、みずからの延命のために、国民を見捨て、恥も外聞もなく昨日の敵に取り入った、かつての「愛国」者と瓜二つです。

私は、「愛国」を考えるとき、いつも石原吉郎の「望郷と海」を思い出します。そして、私たちにとって、「愛国」とはなんなのかということを考えさせられるのでした。

1949年2月、石原吉郎は、ロシア共和国刑法58条6項の「反ソ行為・諜報」の罪で起訴、重労働25年の判決を受けて、刑務所に収容されます。そして、シベリアの密林地帯にある収容所に移送され、森林伐採に従事させられます。しかし、重労働で衰弱が激しくなったため、労働を免除。1953年3月、スターリンの恩赦で帰国が許可され、同年12月舞鶴港に帰還するのでした。

石原吉郎もまた、「愛国」者から見捨てられたひとりでした。

海から海へぬける風を
陸軟風とよぶとき
それは約束であって
もはや言葉ではない
だが 樹をながれ
砂をわたるもののけはいが
汀に到って
憎悪の記憶をこえるなら
もはや風とよんでも
それはいいだろう。
盗賊のみが処理する空間を
一団となってかけぬける
しろくかがやく
あしうらのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
しろくかがやく
怒りのようなものを
望郷とよんでも
それはいいだろう
(陸軟風)

 海を見たい、と私は切実に思った。私には渡るべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、海ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際(きわ)までであった。海をわたるには、なにより海を見なければならなかったのである。
 すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。
 私が海を恋うたのは、それが初めてではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。
 だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすら招きよせる陥没であった。その向こうの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終わるところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終わりを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシアの地図にさえ、そう記された海である。
 望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。
(石原吉郎『望郷と海』)


この痛苦に満ちたことばのなかにこそ、「愛国」とはなんなのかの回答があるのではないでしょうか。私たちは、「愛国」を考えるとき、無責任で卑怯な「愛国」者たちによって見捨てられた人々の声に、まず耳を傾けるべきなのです。


関連記事:
『永続敗戦論』
2016.10.11 Tue l 本・文芸 l top ▲
今月初め、小泉今日子が上野千鶴子との雑誌の対談で、“反アンチエイジング”宣言をおこなったという日刊ゲンダイの記事が、瞬く間にネットをかけめぐり、大きな話題になりました。

日刊ゲンダイDIGITAL
小泉今日子“反アンチエイジング”宣言に40代女性なぜ共感

もちろん、小泉今日子の発言だからこそ、アラフォーの女性たちの支持を集め、大きな話題になったのでしょう。とは言え、小泉今日子の発言は、おしゃれなんてどうだっていいとか、いつまでも若くありたいという気持は間違っているとかいう話ではないように思います。”反アンチエイジング”が妙な開き直りを招来するだけなら、それこそ元も子もないように思います。

米山公啓氏が言うように、今の“美魔女現象”があまりにもいびつなので、そういったアンチエイジングに疑問を呈しただけなのでしょう。

先日、私は横須賀線の車内でとってもきれいな中年女性に遭遇して、未だにその素敵な姿が瞼に焼き付いています。その女性は、わかりやすい例をあげれば、叶姉妹などとは対極にある中年女性の魅力に溢れた人でした。上品で大人っぽいボブヘアに、如何にもセンスのよさそうな清楚なファッションで、笑ったときの目尻の皺がとっても魅力的でした。

「筋力をつけて代謝をよくしたり、運動してはつらつさをキープしたりするのが健全なアンチエイジングですが、女性が語るアンチエイジングは、美容整形を施したり、高額なサプリを飲んだり、皮膚科のクリームを塗ったりして人工的な要素を含んでいます。運動して筋肉に張りを持たせてシワを少なく見せるのとは、ちょっと違う。小泉さんはそこにくさびを打ち、軌道修正したのです。(略)」


米山公啓氏の言うことは、私たち男性にもよくわかる話です。私の知り合いで、皮膚科でシミ取りをした女性がいましたが、シミがなくなって喜んでいる彼女を見たらよかったなと素直に思いました。そういったアンチエイジングは理解できないわけではありません。しかし、テレビや雑誌などに登場する美魔女は、なんだか痛々しく見えるだけで、ちっとも魅力的ではありません。むしろ、あざとい感じが透けて見えるのです。目尻の皺が魅力的に見えるようなそんな年の取り方ができれば最高ではないでしょうか。

私などは、街で若くてきれいな女性を見ると、「ああ、もう一度若くなりたいなあ」としみじみ思います。そして、ウインドーガラスに映った自分の姿に愕然とするのでした。

「いつまでも若くありたい」という気持も大事ですが、一方で、そうやって「もう若くないんだ」という気持をもつことも、人生にとって大切なことのように思います。

どう考えても、若いときのほうが希望があったし夢があったのです。その意味では、幸せだったのは間違いないでしょう。恋愛でも仕事でもなんでも溌剌としていたのはたしかです。40代もまだまだ若いと思いますが、たそがれていく人生に向き合う姿勢も必要なのだと思います。

何度も言いますが、悲しみは人生の親戚です。悲しみだけでなく、せつなさも、やりきれなさも、みんな人生の親戚です。もちろん、生きる哀しみも人生の親戚です。

アンチエイジングは、今や打ち出の小槌のようなおいしいビジネスになっており、美魔女たちは、その広告塔でもあるのです。それが美魔女たちが痛々しく見えるゆえんなのでしょう。
2016.10.10 Mon l 健康・ダイエット l top ▲
乳がんで闘病生活を送っている小林麻央が連日、病床から更新しているブログが話題になっています。おとといのブログでは、痛みなどを緩和するためにQOLの手術を受けたことや、がんの進行度が末期のステージ4であることを告白していました。

彼女が今置かれている状況を考えると、こうやってブログを更新していること自体、“驚き”としか言いようがありません。もし自分だったらと考えると、とても信じられないことです。

小林麻央は先月ブログを再開した際、「なりたい自分になる」と題して、がんと闘う決意を表明していました。自分の病状を公表するのは、その決意の表れなのでしょう。

吉本隆明は、言葉について、「自己表出」と「指示表出」という分け方をしています。「自己表出」というのは、自分に向けられる言葉で、「指示表出」というのは、他者とのコミュニケーションに使われる言葉です。吉本隆明は、これを一本の木に例えて、幹と根が自分に向けられる言葉(=沈黙)であり、枝や葉や実に当たるのがコミュニケーションに使われる言葉だと言ってました。そして、言葉の本質は、「沈黙」であると言うのです。

自分のことを考えてみても、自分に向ける言葉(沈黙)に“本音”があることは容易にわかります。他者に向けると、言葉に別の要素が入ってきて、“建前”とは言わないまでも、“本音”とは少し違ったものになるのです。

西欧の言語学でも、従来、話し言葉(パロール)のほうが書き言葉(エクリチュール)より発話者の観念を正確に表現するという考え方が主流でした(現代思想は、そういった伝統的な二項対立の考えに異議を唱えたのですが)。

書き言葉だと、さまざまな文章表現の制約もあり、うまく自分の考えが表現できないというのも日ごろ感じることです。なにより、そこには既に「自己表出」を「指示表出」に変換(翻訳)する作業がおこなわれているのです。ブログでも同じです。読者を想定している限り、内外のさまざまな制約から逃れることはできないのです。

末期のがんを前にして、自分の最期の姿を書き残したいという思いもあるのかもしれません。だとしたら尚更、自分の思いを正確に書き記すことができないもどかしさを感じることはないのだろうかと思います。

また、末期がんというきわめてプライベートでセンシティブな事柄について、SNSという公の場で、詳細な病状が公表されたり、家族間でやり取りがおこなわれたりすることに、私は、どうしても違和感を覚えてならないのです。世間には、小林麻央のブログに勇気をもらったとか元気をもらったとか励まされたとかいった声がありますが、他人の不幸で勇気をもらったり元気をもらったり励まされたりするのは、むしろ「蜜の味」と紙一重の心根と言えるでしょう。

例えは悪いですが、禁煙やダイエットなどと同じように、あえて口外することで、それをみずからの(闘病の)モチベーションにしたいと考えているのかもしれませんが、結果的にメディアに格好のネタを提供することになっているのは事実です。芸能ニュースの反応がまったく気にならないと言ったらウソになるでしょう。まして芸能人のブログは、アフィリエイトと無縁ではあり得ないのです。況やアメブロにおいてをやです。

不謹慎と言われるかもしれませんが、私は、小林麻央のブログに、芸能人の”悲しい性(さが)”とともに”したたかさ”のようなものさえ感じてならないのです。
2016.10.04 Tue l 本・文芸 l top ▲
今日、Amazonの定額読み放題サービス「Kindle Unlimited」に関して、下記のようなニュースがありました。

Yahoo!ニュース
講談社、Amazonへ強く抗議 「Kindle Unlimited」から説明なく全作品消され「憤っております」

私は「Kindle Unlimited」を利用してないので、今ひとつわからないのですが、おそらく講談社が配信していたのはコミックなのでしょう。それで、定額の読み放題にしたら、アクセスが殺到して、講談社に支払うロイヤリティがかさ張り採算がとれなくなったので、ランキング上位の作品を削除したのではないでしょうか。さらに、講談社の抗議で、ほかの作品もすべて削除されたのでしょう。

これこそ、AmazonやGoogleなどにありがちなアロガントな姿勢と言えます。AmazonやGoogleがこういった姿勢を取る(取ることができる)のも、EUなどと違って、日本の公正取引委員会がまったく動かず、AmazonやGoogleの寡占を野放しにしているからです。

Googleの検索などはその最たるものです。Yahoo!JapanがGoogleの検索エンジンを採用したのは、今から6年前の2010年7月からですが、それによって、PC検索におけるGoogleのシェアは90%以上になったのでした。これは、誰が見ても健全な状況とは言えないでしょう。しかも、Googleは広告会社なのです。圧倒的なシェアを背景に、検索と広告を連動させることで莫大な利益を得ているのです。

私のサイトは、今年の1月にメインのキーワードで圏外に飛ばされました。それまで10数年トップページにいたのですが、突然、圏外に飛ばされたのでした。理由はまったくわかりません。サイトになにか手を加えたわけではありません。

「SEOに詳しいと称する人間」に言わせれば、アルゴリズムが変わったからだと言うのですが、そうであれば順位が下落するだけでしょう。6位が15位とか30位とか100位とかになったというのなら理解できます。それがどうして、検索にひっかからないような圏外に飛ばされるのか。

Googleには、「Search Console」というサイトオーナーに向けたサイトがあり、そこに登録すれば、ペナルティなどを与えられた場合、修正箇所が指摘され、それを修正して再審査をリクエストするというシステムがあります。一見、Googleお得意の民主的なシステムのように思いますが、しかし、それはあくまで表向きのポーズにすぎません。実は、「Search Console」で指摘されないペナルティというのがあるのです。私のサイトの場合も、「Search Console」ではなにも指摘されていません。

「SEOに詳しいと称する人間」に言わせれば、「Search Console」に指摘されないペナルティは、Googleに「悪質」と判断されたペナルティだそうです。そんなバカなと思います。10数年、むしろ優遇されていたサイトが、なにも手を加えてないにもかかわらず、ある日突然、圏外に飛ばされたのです。どこが「悪質」なのでしょうか。

そう言うと、「SEOに詳しいと称する人間」はハグかもしれないと言うのです。でも、1年近くハグのままだというのも、とても常識では考えられません。

もっとも、突然、圏外に飛ばされたのは自サイトだけではありません。同じ業種で競合していたサイトも、過去に圏外に飛ばされた例がいくつもあります。それどころか、10年くらい前からネット通販をやっていた同業サイトのなかで、圏外に飛ばされずに残っていたのは、自サイトくらいでした。

私は、「SEOに詳しいと称する人間」たちが言う、“SEOの法則”も、(それが正しいと仮定すれば)逆にGoogleの”難癖”のようにしか思えないのです。

たとえば、「重複コンテンツ」がその典型です。通販サイトでは、「拡大画像」や「ランキング」や「おすすめ」や「カテゴリー別」など、どうしてもGoogleの言う「重複コンテンツ」が発生します。それがペナルティの対象と言われたのでは、ネット通販が成り立たないほどです。まして、通常、オーナーたちは、通販サイトを運営する上で、「重複コンテンツ」なんてほとんど意識してないでしょう。「重複コンテンツ」に「悪意」なんてあろうはずもないのです。

私は、先日、自サイトにあたらしいページを作成しました。そして、レスポンシブ・ウェブデザインになるようにviewportを設定した上で、Googleの「モバイルフレンドーテスト」でチェックしてみました。ところが、「モバイルフレンドリーではありません」という“不合格”の評価が下されたのです。「テキストが小さすぎて読めません」とか「リンク同士が近すぎます」とかいった改善箇所が指摘されていました。

しかし、自分のスマホで表示してみると、スマホの画面にすっぽりおさまっており、別に支障があるわけではないのです。文字やリンクが、小さすぎるとか近すぎると言われても、スマホの画面ではそれは当たり前です。スマホの小さな画面では、いづれにしても拡大しなければならないのです。モバイルフレンドリーが言う適正サイズなんて、なんの意味があるんだろうと思いました。

むしろ、Googleの検索結果を見ると、Googleが言うモバイルフレンドリーなんてただの気休めでしかないことを痛感させられます。その証拠に、上位はGoogleに広告を出しているサイトで占められています。しかも、同じサイトの違うページが複数表示されている例も多くあります。それこそ「重複コンテンツ」と言うべきでしょう。

それどころか、モバイルフレンドリーに対応してないサイトが上位に表示されているケースさえあります。しかも、そのサイトは、モバイルフレンドリー未対応にもかかわず、PC表示よりモバイル表示のほうが順位が上なのです。

素人のオーナーにとって、Googleが要求するモバイルフレンドリーに対応するには、技術的にもハードルは高く、専門の業者に頼まなければ、普通は無理でしょう。そうやって高いハードルの対応を要求しながら、実際の検索はまったく別の基準でおこなわれているのです。これでは、口コミサイトを謳いながら、評価のスコアはユーザーのスコアと違うものを使っていた食べログと同じです。アルゴリズムなんていくらでも操作ができるのです。

モバイルフレンドリーは、言うまでもなくGoogle独自の基準で、きわめて恣意的なものです。今やネットにおける検索は、公共なものと言っていいでしょう。公共のものである検索が、一(いち)広告会社の利益のために使われており、そのために検索のルールが都合のいいように捻じ曲げられているのです。理不尽なペナルティで多くのサイトが検索エンジンから消えている一方で、同一サイトのページが重複して上位に表示されている矛盾が、なによりその”不都合な真実”を示していると言えるでしょう。

キーワードのマッチングにしても、以前に比べてトンチンカンな事例が多くなっています。たとえば、「パン」というキーワードでも(便宜上、「パン」の例を出しているだけで、実際の「パン」の検索とは関係ありません)、店名にたまたま「パン」という文字が入っているだけで、食べ物のパンとはまったく関係のないサイトが上位に表示されていたりするのです。

別にBingの肩をもつわけではありませんが、Bingにそういった例はあまりありません。また、同一サイトのページが重複して表示される例も、Googleに比べてきわめて少ないように思います。それになにより、Googleで圏外に飛ばされたサイトも、Bingではちゃんと表示されています。

昔は、むしろ逆でした。MicrosoftのMSNに比べて、Googleのほうが優秀であるのは誰の目にもあきらかでした。それで、Googleはユーザーの圧倒的な支持により急成長したのです。当時、Googleが今のように邪悪になるなんて誰が想像したでしょうか。

今のGoogleの寡占状態は、どう考えても健全とは言えません。日本のネットの健全化のためにも、寡占状態は解消すべきでしょう。聞けば、Yahoo!JapanとGoogleの契約は二年ごとの更新のようです。素人の浅知恵でGoogle対策のSEOにうつつをぬかすより、検索エンジンの寡占状態を解消する方向に声をあげたほうがよほど生産的だと思うのです。
2016.10.03 Mon l ネット・メディア l top ▲
朝、駅前のスーパーに行ったときのことです。開店直後のスーパーはお年寄りのお客が多いのですが、今朝はいつになく店内が混雑していました。レジも既に行列ができていました。

レジに並んでいるお客を見ると、なぜかいつもと違ってぎっしり商品が入っているカゴを手にしている人が多いのです。

店内の棚を見ていた私は、ほどなくその理由に合点がいきました。今日は「安売りの日」だったのです。卵の10個入りのパックが98円で売っていました。私がよく買うコーラゼロも1.5リットルのペットボトルが118円でした。気が付いたら私のカゴもいつの間にかいっぱいになっていました。

開店直後のスーパーに来ている人は、年金暮らしのお年寄りも多いのでしょう。そのため、「安売りの日」に押しかけて買いだめしているのだと思います。

やがて買い物を終えた私は、重いカゴを床に置いて行列の最後尾に並びました。前に並んでいる人たちを見ると、ほとんどが年金世代とおぼしきお年寄りばかりでした。

レジで品物のバーコードを読み取っている店員も、初老の女性でした。と、そのとき、急に彼女の手が止まりました。トラブルが発生したみたいです。彼女は慌てて、隣のレジの女性になにか聞こうとするのですが、隣のレジも長蛇の列で混雑しているため、相手にしてくれません。すると、女性は、店内に向かって「すいませ~ん!」と大声で叫びました。でも、誰も反応がありません。レジはずっと止まったままです。なかには、私たちの列を離れて隣の列に並び直す人もいました。

私はイライラしはじめ、心のなかで舌打ちをしました。そして、「どうなってるんだ?」とひとり言ちたのでした。すると、そのとき、「機械が変わったんで大変なんですよ」という声が後ろから聞こえてきたのです。振り返ると、とうに70をすぎているような高齢の男性がニコニコした顔で立っていました。横にはカゴを乗せたカートが置かれていました。

レジのほうを見ると、たしかにバーコードを読む機械の先に銀行のATMを小さくしたような機械が設置されていました。知らないうちに、最初の機械で金額を読み、次の機械でお金を入れて清算するように変更になったみたいです。レジの女性たちは、直接お金のやり取りをすることがなくなったのですが、ただ、システムの変更で読み取る機械も変わり、それで戸惑っているのでしょう。

私のなかでは、いつの間にかイライラする気持が消えていました。後ろの男性のひと言で我に返ったという感じでした。レジが止まった事情がわかると、感情的な気持も消えたのです。

どうやらレジの女性は、割引券の処理の仕方がわからなかったみたいで、やがて若い店員がやってきて、その方法を教えると行列は再び流れ始めました。初老の店員は、あとにつづくお客ひとりひとりに対して、「お待たせして申し訳ございませんでした」と謝罪していました。

やがて私の番になりました。女性の額には汗がびっしょり噴き出していました。私は、「いつから変わったんですか?」と尋ねました。女性は、下を向いて手を動かしながら、「おとといからなんですよ」と言ってました。「慣れるまで大変ですね」と言ったら、「いえ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」とさも恐縮した様子で答えていました。

私自身、さっきまでイライラしていたのがウソのようでした。あのとき、後ろの男性のひと言がなかったら、私はずっとイライラしたままで、もしかしたらそのイライラをレジの女性にぶつけていたかもしれません。

たしかに、年を取ってくるとキレる人が多く、「キレる老人」に遭遇するのもめずらしくありません。私自身、若い頃に比べてイライラすることが多くなったのを自分でも感じます。

香山リカに言わせれば、「キレる老人」というのは、年を取って世の中の流れに付いていけない自分に苛立ち、その苛立ちを他人にぶつけているところがあるのだそうです。そこには、デジタル化して急激に変わる社会や現役を引退して経済的な余裕がなくなったことなど、さまざまな背景があるのでしょう。もっとも、それは、老人に限った話ではないのです。

今の“貧困叩き”にも、似たような背景があるように思えてなりません。長谷川豊の暴論も、彼が金銭トラブルでフジテレビを辞め(辞めざるをえず)、フリーになったことと関係しているのではないかと思ったりするのです。彼にも、単なる炎上商法だけでない、どこか荒んだものがあるのではないか。

朝、駅に行くと、必死の形相で改札口をぬけ、エスカレーターを駆け上っている人を見かけます。寝過ごしたのかなと思うのですが、よく見ると、いつも同じ人物なのです。しかも、別に電車が来ているわけでもないのに、まるで強迫観念に駆られ、なにかに急き立てられるように駆け上っているのです。

資本主義が高度化して経済が金融化し、第三次、四次、五次産業の比率が高くなれば高くなるほど、“資本の回転率”は高くなります。その分、商品のサイクルも短くなり、人々の欲望のサイクルも短くなります。そして、そのサイクルは生活の隅々にまで貫かれるのです。システムが要求するスピードに常に急き立てられ、それに付いて行けるかどうかでその人間の能力が問われるのです。

そんな日常化した強迫観念と、“貧困叩き”や長谷川豊のような荒んだ心とは、背中合わせのような気がしてなりません。些細なことでわけもなくイライラするのも同じでしょう。

貧困や病気は、明日の自分の姿かもしれないのです。でも、彼らは、もはやそういった想像力さえ持てないのです。社会保障費が財政を圧迫しているからと言って、その原因を経済政策や社会構造に求めるのではなく、手っ取り早く個人に求め、自己責任論で他者を攻撃するだけなのです。そこにあるのは、想像力と理知の欠如です。

私たちには、後ろの男性のように、「機械が変わったんで大変なんですよ」と冷静に言ってくれる人がもっと必要なのかもしれません。
2016.10.01 Sat l 日常・その他 l top ▲