2017年3月29日ESWL


ESWLのその後について書いていませんでしたので、参考までに書いておきます。

ESWLのあと、家で排尿する際は、茶こしを使って排石を確認するようにしましたが、小さな破片のようなものが少し出ているだけでした。

ところが、1週間が経った頃、外出先で突然、赤ワインのような血尿に見舞われたのでした。そして、家に戻ると、石の破片がゴロゴロ出てきたのでした。ほぼ2~3日、そんな状態がつづきました。

慣れてくると、大きな破片が尿道にとどまっているのがわかるようになりました。そして、尿を溜めていっきに排尿すると、尿とともに愚息の先端からポロリと破片が出てくるのでした。文字通り「生まれ落ちる」ような感じで、感動すら覚えるくらいです。

上の画像は、茶こしで捕獲した石の破片です。

ESWLを受けた病院の診察は来月ですが、私は既にかかりつけの病院で、石の状態を確認してもらいました。レントゲンで確認すると、尿管にあった石はすべてきれいになくなっていました。ただ、破砕の際、飛び散ったと思しき小さな破片が腎臓内に二つあるそうですが、それは特に問題ないと言われました。

「石のことならなんでも聞いてくださいよ」と言っていた近所の商店主に、そのことを話したら、「(ESWLが)1回で済むなんてめずらしいな~」「いい機械を使っているんだろうな」と言ってました。心なしかことばに力がなく、本音はうらやましいと思っているのかもしれないと思いました。

結石は体質なので、また10年後くらいに石が成長しているかもしれませんが、とりあえず今回の結石に関しては一件落着しました。


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前に紹介した『ネットメディア覇権戦争』(光文社新書)で、著者の藤代裕之氏はつぎのように書いていました。

 歴史作家の半藤一利と保坂正康は、『そして、メディアは日本を戦争に導いた』で、戦争が売り上げを伸ばすことをジャーナリズムは学んだと指摘している。満州事変、日中戦争、太平洋戦争の間、朝日新聞の部数は150万部から350万部に倍増、毎日新聞も250万部から350万部に増加した。ネットニュースのメディアにとっては、猫コンテンツや炎上、偽ニュースはアクセスを稼げる。かつての新聞にとっての戦争のようなものだ。新聞も戦争報道では多くの虚報や誇張を繰り返していた。


もちろん、これは、今の北朝鮮情勢をめぐる「明日は戦争」キャンペーンの前に書かれたものです。

たまたま先日、『噂の真相』の匿名コラム「撃」の1992年から2004年までの分をまとめた『「非国民」手帖』(情報センター出版局)を読み返していたら、つぎのような文章が目にとまりました。

 《平和と民主主義》という理念が強固に確立された現在、《戦争》という名辞が忌避されているだけで、真剣に考えることは逆に抑圧されている。
 そしてその一方では、北朝鮮核疑惑を契機として、《戦争》への扇動が確実に隆起している。《国土防衛》や《世界秩序維持》や《邦人救出》のために、と。これこそが十五年戦争へと導かれたセリフではないか。
(94年8月号/歪)


1994年と言えば、自社さ連立の村山内閣が誕生した年です。同時に、日本社会党は、国旗・国歌、自衛隊、日米安保等で基本方針の大転換を行い、自滅への道を歩みはじめたのでした。

23年前も今と同じようなキャンペーンが繰り広げられていたのです。

私などは、挑発しているのはむしろトランプ政権のほうではないか、ホントに危険なのは金正恩よりトランプのほうではないか、と思ってしまいますが、そんなことを口に出して言おうものなら、それこそ「非国民」扱いされかねないような空気です。

キャンペーンを仕掛ける側にとって、北朝鮮はまさに格好のネタと言えるでしょう。北朝鮮は、国交がないため、言いたい放題のことが言える好都合な相手です。それに、(見え見えの)瀬戸際外交を行う北朝鮮は、「ソウル(東京)を火の海にする」「全面核戦争も辞さない」などと感情をむき出して大言壮語する、謂わば「キャラが立つ」国なので、「明日は戦争」を煽るには格好の相手でもあるのです。

なかでも、Yahoo!ニュースなどネットニュースとテレビのワイドショーの悪ノリぶりには、目にあまるものがあります。

今やネットニュースにとって、「猫コンテンツ」などより、「明日は戦争」キャンペーンのほうが手っ取り早くアクセスを稼げるコンテンツなのでしょう。と言うか、「明日は戦争」キャンペーンそのものが、究極の「偽ニュース」と言ってもいいのかも知れません。

ご多分に漏れず部数減に歯止めがかからず、早晩政敵の「赤旗」に部数を抜かれるのではないかと言われている産経新聞は、最近ますますネトウヨ化に拍車がかかっていますが、アクセスを稼ぐために、そんな産経のフェイクな記事を使って戦争を煽っているYahoo!ニュースを見るにつけ、私は、藤代氏のつぎのような指摘を思い出さざるをえません。

 私は多くのヤフー社員を知っている。真面目でいい人が多いが、事件記者として汚職事件や暴力団などを取材したり、調査報道チームの一員として政治家や企業の問題を暴いたり、といったリスクの高い取材を行い、ジャーナリズムとしての経験を積んだ人は少ない。
 記者というのは剣豪に似ている。剣道などで強くなると、竹刀を交える前から相手の身のこなしなどで強さが分かるという。記者同士でも、ニュースなどについて話をしていると、ニュースの切り口、事実性への評価、取材すべきポイントなどで、実力を測ることができる。剣豪が負ける相手とは立ち会わない冷静さを持つように、できる記者ほど冷静で、多くを語らない。経験が乏しい素人ほど、実力を過信する。私がヤフーで「できる」と感じた人は、ごく一握りしかいない。
(『ネットメディア覇権戦争』)


これが「ヤフーにはジャーナリズムの素人しかいない」と言われる所以ですが、僭越ながら私も以前、このブログで、Yahoo!ニュースについて、つぎのように書いたことがありました。

Yahoo!ニュースに決定的に欠けているのは、野党精神(=「公権力の監視」)であり、弱者に向けるまなざし(=「弱者への配慮」)です。でも一方で、それはないものねだりなのかもしれないと思うこともあります。なぜなら、ウェブニュースの「価値基準」は、「公権力の監視」や「弱者への配慮」にはないからです。ウェブニュースの「価値基準」は、まずページビューなのです。どれだけ見られているかなのです。それによってニュースの「価値」が決まるのです。それは、ウェブニュースの”宿命”とも言うべきものです。
『ウェブニュース 一億総バカ時代』


先の戦争の前夜、メディはどのように戦争を煽ったのか。あるいは、ヒットラーが政権を取る過程で、メディアがどのような役割を果たしたのか。どうやって全体主義への道が掃き清められていったのか。私たちは、それをもっと知る必要があるでしょう。


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一昨日、田中龍作ジャーナルに、下記のような記事が掲載されていました。

田中龍作ジャーナル
【アベ友疑獄】「昭恵刑事告発」延期 市民の分裂は回避された

この記事には前触れがあり、2日前の4月18日にことの発端を伝える記事が掲載されていました。

【アベ友疑獄】昭恵刑事告発はオウンゴールか 小沢代表「時期尚早」

要は、昭恵夫人を告発すれば、逆に政権側に「係争中につきお答えできない」という口実を与え、疑惑隠しに利用される怖れがあるので、告発に反対だということです。

森友学園問題については、既に水面下で幕引きの手打ちが行われたという報道が一部にありますが、たしかに、今、メディアをおおっている「明日は戦争」キャンペーンのなかで、森友学園問題が片隅に追いやられているのは間違いないでしょう。

今やこの国のメディアは、戦争を待ち望んでいるかのようで、塚本幼稚園の園児と同じように、「安倍首相ガンバレ」「トランプ大統領ガンバレ」の大合唱を行っていますが、そんな戦争キャンペーンのなかでは、安倍退陣なんてもはや誇大妄想のようにしか思えません。なんだか”宰相A”の高笑いが聞こえてくるようです。「幕引きされる前に刑事告発して世論に訴えよう」という、運動の現場にいる人たちのやむにやまれぬ気持は、痛いほどよくわかるのです。

私は、告発に反対する人たちの論拠には、なにを今更の気持しかありません。野党になにが期待できるというのでしょうか。「民進党やマスコミに任せていても埒(らち)が明かない」と言うのはそのとおりでしょう。告発に反対する人たちは、茶番にすぎない国会質疑に対して、いたずらに期待を煽っているようにしか思えません。

なかでも私が嫌悪感を覚えたのは、菅野完氏のつぎのような書き込みでした。




告発を準備しているのは、元ヤクザで、過激派とつるんだ人物だという「印象操作」。ここにあるのは、官邸前デモなどでも見られたもうひとつの全体主義です。

「善良な市民」とはなんなんでしょうか。「善良な市民」なんてことばを使うのなら、菅野氏自身だって他人(ひと)のことは言えないでしょう。もし本当に、元ヤクザが過激派とつるんでいるのなら、私などは、竹中労の『黒旗水滸伝』や猪野健治の『戦後水滸伝』が想起させられて、逆に感動すら覚えるくらいです。

「共謀罪」の国会審議を見ていると、「共謀罪」が昨年のヘイト・スピーチ対策法と地続きであることがよくわかります。ヘイト・スピーチ対策法の成立において、与党側の立役者と言われた自民党の西田昌司参院議員の、その後の民族差別に関する発言や籠池泰典氏に対する証人喚問での質問などを見るにつけ、ヘイト・スピーチ対策法の裏にある権力の“思惑”が透けて見えるような気がするのです。

ヘイト・スピーチ対策法にあえて反対した山本太郎参院議員や福島瑞穂元社民党党首が、当時言っていたことを今更ながらに思い出さざるをえません。ヘイト・スピーチ対策法も、同法とバーターで成立した盗聴法の拡大や刑事訴訟法の”改正”も、もちろん今国会で審議されている「共謀罪」も、そこには同じ治安立法としての性格が貫かれているのはあきからでしょう。

これらに共通しているのは、警察の裁量権の拡大です。警察の裁量次第で、捜査対象がいくらでも広がることが可能になる(なった)のです。ヘイト・スピーチ対策法の制定を推進した人たちは、結果的に警察の裁量権の拡大に手を貸したと言われても仕方ないでしょう。ヘイト・スピーチに反対する”善意の動機”があったとか、同法が罰則規定を含まない理念法にすぎない、というのは弁解になりません。裁量権の拡大という”焼き太り”(=官僚の罠)に対して、あまにも無頓着だと言わざるをえないのです。

左右の全体主義は、所詮、双面のヤヌスにすぎず、右か左かにたいした意味はないのです。


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2017.04.22 Sat l 社会・時事 l top ▲
木嶋佳苗手記


『週刊新潮』(4月20日号)に掲載された木嶋佳苗被告の手記を読みました。

4月14日、最高裁第2小法廷は、木嶋被告の上告を棄却し、死刑が確定しましたが、手記は判決前に書かれたものです。

木嶋被告は無実を訴えていますが、一方で上告破棄を「覚悟」していたかのように、手記のなかで、死刑の「早期執行の請願」を行うことをあきらかにしていました。

 生みの母が私の生命を否定している以上、確定後に私は法相に対し、早期執行の請願をします。これこそ「ある決意」に他なりません。通常、全面否認事件での女子の執行は優先順位が極めて低いものですが、本人からの請願は何より強い“キラーカード”になる。
 まったくもって自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない、それだけです。


木嶋被告は、実母との確執によって、「生きていく自信」がなくなったと書いています。以前、北原みのり氏が『木嶋佳苗 100日裁判傍聴記』で、木嶋被告は幼い頃から実母との葛藤を抱えていたと書いていましたが、木嶋被告は、ブログで、北原氏を「『毒婦』ライター」と呼び、つぎのように批判していました。

「毒婦」ライター。彼女が私に関して語ることの7割は、事実じゃありません。3割は事実かって?それは、NHKのニュースで報道されるレベルのこと。彼女の取材能力は限りなくゼロに近いので、ルポルタージュを書けるライターじゃないですよ。

木嶋佳苗の拘置所日記
心がほっこりするイイ話


ところが、ここに至って木嶋被告は、実母との間にかなり深刻な確執があったことを認めているのです。それどころか、実父の死は、事故ではなく、夫婦関係が原因による自殺だったことをあきらかにしているのでした。もしかしたら図星だったから、あのように北原氏に対してヒステリックに反発したのかもしれません。

上記の引用文の前段にそのことが書かれています。

 私の父は妻である母に心を蝕まれた結果、還暦で自死を選びました。私が30歳のときです。4人の子ども達に残された遺言状を見るまで父の懊悩や2人の不仲など知る由もなかったし、限界まで追い詰められいたことに気付かなかった4人は遺骸の前で慟哭するほかなかった。母は父の親族から葬儀の喪主になることを許されなかったほどです。


木嶋佳苗被告が、父親の墓を実家のある北海道の別海町ではなく、わざわざ浅草の寺に造った理由も、これで納得がいきました。

このように実母との確執は、今にはじまったわけではないのです。昔からあったのです。私も以前、彼女の”売春生活”は、母親のようになりたくないという「不機嫌な娘」の意趣返しという側面もあったのではないかと書きましたが、それが今更どうして、早期の執行を求める理由になるのか。

「自殺願望ではなく、生きてゆく自信がない」からという弱気な発言も、唐突感はぬぐえず、額面通りに受け止めることはできません。まだ、「木嶋佳苗劇場」(木嶋被告の自己韜晦)は、つづいているような気がしてならないのです。彼女の心の奥底にあるものは、あきらかになってないように思えてならないのです。


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木嶋佳苗 100日裁判傍聴記
人名キーワード 木嶋佳苗
2017.04.17 Mon l ネット・メディア l top ▲
先日、Yahoo!ニュースに下記のような記事が掲載されました。

Yahoo!ニュース・ビジネス
「もう立っている方がいい」狭すぎてハラハラする都内の“痛勤”電車のイス

記事を書いたのは、西日本新聞の東京支社に勤務する記者のようです。

この記事は、一時、Yahoo!ニュースの「経済総合」のアクセスランキングで1位になっていました。それだけ多くの人たちが共感したのでしょう。

私たちは、日々、この記事に書かれているような日常を生きているのです。そして、わざと咳ばらいをしたり、相手を睨みつけたり、あるいは肩で相手の身体を押しやったりしながら、どこかの総理大臣夫人が言うような「修行」の時間をすごしているのです。それは理屈ではないのです。どんなに高尚な思想を持っている人でも、このようなゲスな感情から自由にはなれないのです。

以前、電車で日本共産党のシンパとして有名な映画監督と遭遇したことがありました。監督は、まだ下車する人がいるのに、待ちきれないかのように人をかき分けて乗り込んで来ると、餌を探しているニワトリのようにキョロキョロと車内を見まわしていました。そして、7人掛けなのに6人しか座ってない座席を見つけると、急いで歩み寄り、わずかに空いたスペースに身体を押し込め、身体を奥にずらすと、上体を反らせ腕組みをして目を瞑ったのでした。

そこでは、反戦平和の主張も、社会的不公平に対する怒りも、抑圧された人々に対する連帯感も、どこかにすっ飛んだかのようでした。ただ、自分が座席にすわればそれでいい、それが当然の権利だとでも言いたげでした。

何度も言いますが、「政治の幅は生活の幅より狭い」(埴谷雄高)のです。私もこの記事の記者と同じで、すわって嫌な思いをするより立っていたほうがいいと考える人間ですが、日々、目の前で繰り広げられる「電車の座席にすわることが人生の目的のような人たち」の暗闘を見るにつけ、政治なんてものはホントは取るに足らないものなんだなと思わざるをえないのです。もし「電車の座席にすわることが人生の目的だ」というような思想があるなら、これほど最強なものはないでしょう。

吉本隆明が言うように「政治なんてものはない」のです。生きるか死ぬかの瀬戸際まで追いつめられたら、もう泥棒でも強盗でもなんでもして生き延びるしかないのです。善か悪かなんて二の次です。それが生きるということでしょう。そこに政治的な考えが介在する余地なんてないのです。

本来、思想とはそういったところから生まれるものではないでしょうか。ドフトエフスキーの『罪と罰』でラスコーリニコフが苦悩したのも、そういった場所でした。
2017.04.15 Sat l 日常・その他 l top ▲
韓国の慰安婦(少女)像に対する、筒井康隆氏のつぎのようなツイート(既に削除)が批判に晒されています。

筒井康隆ツイート

元になった「偽文士目碌」の文章は、以下のとおりです。

偽文士目碌
http://shokenro.jp/00001452

新聞記事によれば、筒井氏は、批判に対して、「侮辱するつもりはなかった」「“炎上”を狙ったもので、冗談だ」と弁解しているそうです。

毎日新聞
筒井康隆氏 ブログで少女像への性的侮辱促す 韓国で反発広がる

筒井氏は、日本を代表する(と言ってもいいような)著名な作家です。そこらにいる「バカッター」とは違うのです。炎上狙いだなんて、あまりにもお粗末と言うしかありません。しかも、筒井氏は82才の高齢です。82才のじいさんがツイッターで炎上を狙ったなんて、「大丈夫か」と言いたくなろうというものです。

筒井康隆氏は、かつて社会や日常に潜在するタブーに挑む作家として、平岡正明らによってヒーローのようにもてはやされていた時期がありました。私が最初に筒井康隆氏の作品を読んだのは、『大いなる助走』や『農協月へ行く』だったと思いますが、メタフィクション的手法を用いたブラックユーモアが筒井作品のひとつの“売り”であったのはたしかでしょう。

『噂の真相』に連載していたコラムをまとめた『笑犬樓よりの眺望』や平岡正明の『筒井康隆はこう読め』などを今も持っていたはずなので、もう一度読み返したいと思い、本のなかを探したのですが、どうしても見つけることができませんでした。

唯一見つかったのが、1985年11月1日発行の『同時代批評』という季刊誌に載っていたインタビュー記事でした。それは、当時、巷間を騒わせていた“ロス疑惑“を特集したなかで、同誌を編集していた岡庭昇氏のインタビューに答えたものです。筒井氏は、そのインタビューで、「窓の外の戦争」というみずからの戯曲に関連して、「日本人の特性」をつぎのように批判していました。

(引用者注:「窓の外の戦争」の)戦争責任を追及するというのは、うわべのテーマであって、実際は、自分と関係のあることでも、あまり関係なさそうに客観的に見て、自分だけ逃れていこうとする。そういう日本人の特性がイヤだったんです。まあ、大きな声じゃ言えないけど、戦争に負けといて、今、日本人が一番うまいことをしている。それを別に恥ずかしいこととも思わないで、外国へ出かけていっては、やっぱり嫌われて戻ってきて、あるいは自分の国にも原因のある他国の災害とか戦争とか、そういったものをまったく関係のない、無関係の現象という目で見て、騒いで、無関係と思うからこそ騒げるわけです。(略)そもそもすべてのことを自分のこととして見ることができない特性というのが日本人にはあるんじゃないかと思うんですね。それを追及したかったんです。
(『同時代批評14』・星雲社)


この30年前の発言と「あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という発言がどうつながるのか。慰安婦と(筒井氏の世代にはなじみ深い)キーセンツアーを結び付けた皮肉なのかと思ったりもしますが、さすがにそれは牽強付会と言うべきでしょう。

「先生と言われるほど馬鹿でなし」という川柳がありますが、今や作家センセイは世間知らずの代名詞のようになっています。いちばん世間を知らなければならないはずの作家が、いちばん世間知らずになっているのです。にもかかわらず、彼らのトンチンカンぶりが、逆に“作家らしい本音”みたいに扱われるのです。それは、政治に対しても同様で、政治オンチな発言をしても、大衆(庶民)の心情を代弁しているみたいに、むしろ好意的に受け止められることさえあるのです。

でも、炎上狙いという点では、筒井康隆氏のツイートは、コンビニの冷凍ケースのなかに横になったり、股間をツンツンした指でコンビニの棚の商品をツンツンしたり、チェーンソーをもってクロネコヤマトを脅したりした、あの「バカッター」たちとほとんど変わらないレベルのものです。

『大いなる助走』も、『農協月に行く』も、断筆宣言も、ツイッターがない時代だったから見えなかっただけで、実際は今回のツイートと同じような底の浅い風刺や皮肉でしかなく、大西巨人が言う「俗情との結託」にすぎなかったのかもしれません。私も筒井氏のツイートに対しては、「おぞましさ」というより俗情におもねる「あざとさ」のようなものしか感じませんでした。

あらためて筒井康隆ってなんだったんだと思えてなりません。彼の作品をありがたがって読んでいた読者たちこそ好い面の皮でしょう。
2017.04.12 Wed l 本・文芸 l top ▲