座間の事件に関して、先日、下記のような記事が出ていました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<座間9遺体>笑顔、もう会えない 全員身元判明

しかし、被害者たちは、記事に出ているような「同級生」や「職場の上司」に心を開くことはなかったのです。それどころか、家族にさえ心を閉じていたのです。なかには、中高時代に登校拒否になった被害者もいますので、「同級生」が心を閉じる原因になったケースもあるでしょう。

被害者たちは、加害者とのやりとりのなかで、まわりの人間たちはなにもわかってない、ただきれい事を言うだけだ、と訴えていましたが、この記事などもまさにその典型と言えるでしょう。

私たちは常に競争のなかに身を晒されているのです。そのなかで生きることを強いられているのです。それがこの社会のオキテです。だから、電車が来てもないのに、なにかにせかされるようにホームへの階段を駆け降りて行くのでしょう。

電車が来ると、まだ人が降りているのももどかしいかのように、血走った目で乗って来て、我先に座席を確保する人々。それは、実にみっともない姿です。しかし、一方で、そうしなければ生きていけないのだ、そうすることが懸命に生きていることの証しだ、みたいなイデオロギーがこの社会にあります。みっともないなんて思ったら“負け”なのです。落伍者になるのです。座間の事件で犠牲になった女性たちは、そんな座席争いのなかで、むしろ押しのけられ邪魔扱いされるような人たちだったのではないでしょうか。

Web2.0の頃、ネットがリアルな社会で居場所のない人たちのあらたな居場所になるのだという理想論が喧伝されましたが、しかし、ネットもいつの間にかこの社会のオキテを肯定するイデオロギーに覆わてしまいました。

私たちは、「死にたい」と訴える人間に対して、一体どんなことばを持っているでしょうか。この記事にあるような、まわりの人間たちの「建前」や「きれい事」を超えるようなことばを持っているでしょうか。私たちもまた、知らず知らずのうちに、毎朝ホームへの階段を駆け降り、人を押しのけ我先に座席争いをしているのではないか。せいぜいがそう自問することくらいしかできないです。


関連記事:
雨宮まみの死
2017.11.19 Sun l 社会・時事 l top ▲
「衣料品不況」と言われるほど、衣料品が売れてないのだそうです。

『誰がアパレルを殺すのか』(杉原淳一/染原睦美・日経BP社)によれば、「1991年を100とした場合の購入単価指数は、2014年度には60程度まで落ち込んでいる」のだとか。また、「総務省の家計調査によると、1世帯当たりの『被服・履物』への年間支出額は2000年と比べて3割以上、減少した」そうです。

同書では、その要因として、つぎのような”内輪の論理”=「負のサプライチェーン」を上げていました。

 中国で大量に作り、スケールメリットによって単価を下げる。代わりに大量の商品を百貨店や駅ビル、SCやアウトレットモールなど、様々な場所に供給することで何とか商売を成り立たせる。需要に関係なく、単価を下げるためだけに大量生産し、売り場に商品をばらまくビジネスモデルは、極めて非合理的だが、麻薬のように、一度手を染めると簡単にはやめられないものだった。ムダを承知で大量の商品を供給しさえすれば、目先の売り上げが作れるからだ。


その結果、ブランド名は違っても(ブランド名が違うだけで)、似たようなデザインの似たような商品が店頭にあふれるようになったのです。ブランド名も、デパートなどとの取引上の都合のために、メーカーが空手形のように節操もなく作り出したものだとか。

しかし、私は、衣料品が売れなくなったのは、そういった業界の怠慢だけにあるのではないように思います。“内輪の論理”というのは、二義的な要因にすぎないように思います。もっと本質的な要因があるのではないか。デフレで服の原価を消費者が知ってしまったからなどというのも、表層的な要因のようにしか思えません。

私は、「メチャカリ」を運営するストライプインターナショナルの石川康晴社長の「アパレル不況の要因の一つは、洋服が生む高揚感が減っていることにある」ということばに、アパレル不況の本質が示されているように思いました。

既出ですが、吉本隆明は、埴谷雄高との間で交わされた「コムデギャルソン論争」のなかで、『アンアン』を読み、ブランドの服を着ることにあこがれる《先進資本主義国の中級または下級の女子賃労働者たち》が招来しているものは、「理念神話の解体」であり「意識と生活の視えざる革命の進行」である、とブランドの服にあこがれる若い女性たちを肯定的にとらえたのですが、あれから30年が経ち、今の若者たちは、もはやブランドの服を着ることにさえ高揚感を持てなくなったということなのかもしれません。

『誰がアパレルを殺すのか』で紹介されていた「アパレル産業の未来」なるものも、とても「未来」があるようには思えませんでした。アパレル業界お得意の「ネット通販」がありきたりな発想にすぎないように、手作りの「別注商品」も、ユーズド商品を扱う「シェアリングエコノミー」も、私には気休めにしか思えませんでした。

モードの時代は終わったのです。言うまでもなく、資本主義は常に過剰生産恐慌の危機を内包しており、そのためにさまざまなマジックを使って購買意欲を煽るのですが、アパレルの世界ではそのマジックが効かなくなったということなのでしょう。中野香織氏が言う「倫理の物語」の消費もその表れでしょう。

要するに、おしゃれをする”意味”がなくなったのです。おしゃれをすることが”意味”のあることではなくなったのです。それは、街を歩けば一目瞭然でしょう。おしゃれをして街を闊歩する高揚感なんて、もはやどこにもないのです。そうやって文化は変容するのです。

「アパレルを殺す」のは、業界の”内輪の論理”などではなく、時代の流れと言うべきでしょう。コモディティ化もそうですが、アパレルという文化的な最先端の商品に(最先端の商品であるからこそ)、先進資本主義の”宿阿”が端的に表れているということではないでしょうか。


関連記事:
理念神話の解体
ポーターのバッグ
『モードとエロスと資本』
2017.11.14 Tue l 本・文芸 l top ▲
座間のアパートで9人の遺体が発見された事件。身の毛がよだつとは、こういうことを言うのでしょう。

当初は、容疑者が自殺サイトを利用して、自殺志願の女性を物色していたと伝えられていましたが、実際に利用していたのは、ツイッターなどSNSのハッシュタグだったそうです。ハッシュタグで「死にたい」と呟いている女性を見つけ、コンタクトを取っていたのです。

容疑者は、実家のある座間に帰る前は、歌舞伎町で風俗関係のスカウトマンをしていたことがわかっています。ただ、今どきのスカウトマンは、路上で声をかけるだけでなく、SNSでわけありの女性を見つけて、風俗店に紹介することもあるのだとか。つまり、ネットで女性を物色するのはお手のものだったのです。

誰しも一度や二度は「死にたい」と思ったことはあるでしょう。「死にたい」と思うことほど孤独な心はありません。「死にたい」と思う心は、本来人に吐露するようなものではないはずです。だから、カウンセラーは、人に相談しなさい、話せば心が楽になりますよ、とアドバイスするのです。

SNSで「死にたい」と呟くのは、もしかしたら「死にたい」のではなく、「死にたくない」からかもしれません。カウンセラーが言うように、誰かに話して心が楽になりたかったのかもしれません。

若者事情に詳しい(と自称する)評論家が、今の若者たちにとって、リアルな日常とネットは別のものではなく、地続きでつながっているのです、と言ってましたが、たしかに今の若者たちは生まれたときからネットが身近にあるのです。ネットに無防備になるのも当然かもしれません。

しかし、街で声をかけてきたら、あんなに短期間のうちに「親しく」なれるでしょうか。お互いを理解し信頼を得るまでには、膨大な時間と労力を要するはずです。でも、ネットだとあっさりその壁を乗り越えてしまうのです。そして、今回のように、「死にたくない」気持を逆手に取られて、みずから死を招いてしまうことにもなるのです。

私は、風俗で働く(容疑者のようなスカウトマンによって風俗に沈められる)女性と「死にたい」と呟く女性には、共通点があるように思えてなりません。そのひとつがメンヘラです。容疑者もそれがよくわかっていたのではないでしょうか。”現代の女衒”にとって、ことば巧みに誠実さや優しさを装い、メンヘラ傾向のある女性の心のなかに入り込み、女性を手玉に取ることなど、赤子の手をひねるくらいたやすいことだったのでしょう。また、そういった女性たちは家族やまわりの人間たちとの関係も希薄で、社会的にも精神的にも孤立しているということも知り尽くしていたのかもしれません。

ネットにあふれるお手軽にデフォルメされた「人間観」や「死生観」。そんなものは嘘っぱちだよと言っても、リアルとバーチャルの境目もない今時の若者には所詮、馬の耳に念仏なのかもしれません。

殺害方法にしても、あきらかに狂気を感じますが、しかし、報道ではその狂気が見えてこないのです。切り刻まれた内臓や身体の部位がゴミとして回収されたというのも、俄に信じがたい話です。背後に臓器売買の闇の組織があるのではないかという陰謀論が出てくるくらい、理解しがたいものがあります。

ネットには、自己肯定の無限ループとも言うべき側面もあります。「克己のない世界」(中川淳一郎氏)であるネットでは、夜郎自大な自分が肥大化するだけです。相模原の事件の”優生思想”もそうですが、”ネットの時代”は、私たちが知らないところで、とんでもない(狂気を内に秘めた)モンスターを生み出しているのかもしれません。でも、もう後戻りはできないのです。


関連記事:
『女性たちの貧困』
2017.11.05 Sun l ネット・メディア l top ▲