先日、朝日新聞デジタルに、つぎのような宮台真司氏のインタビュー記事が載っていました。

朝日新聞デジタル
「制服少女」の告白、実はショックだった 宮台真司さん

この記事にあるように、社会学者の宮台氏が、援交をしたり、ブルセラショップに下着や制服を売ったりして小遣いを稼いでいる女子高生たちをフィールドワークして、『制服少女たちの選択』(講談社のちに朝日文庫)を書いたのが1994年です。それは、このブログで何度も書いていますが、私が仕事で渋谷に日参していた時期と重なります。

私は、女子高生など若い女性向けの商品を扱う仕事をしていましたので、「女子高生が流行を作る」などというメディアのもの言いを嘲笑しながら、宮台氏が言う「制服少女」たちを身近で見ていました。

暗さを押しつける前者(引用者:「彼女たちを「道徳の崩壊」の象徴として批判」する言説)と違い、彼女たちは「うそ社会」を軽やかに飛び越えていると感じました。「うそ社会」に適応するといっても、染まるのではなく、なりすます。内面の夢や希望は捨てない。断念と夢を併せ持つ明るい存在。僕は自分を重ねて共感したのです。


それは、私も同じでした。

要するに、「制服少女」たちのほうが一枚も二枚も上手だったのです。センター街に行くと、通りを行ったり来たりしている彼女たちに、背広姿のオヤジが「二万でどう?」などと声をかけている光景を当たり前のことのように目にすることができました。

そうやってテレクラや街頭で声をかけてくるオヤジのなかに、教師や役人や警察官やマスコミの人間がいることを彼女たちは知っていたのです。また、そんなオヤジたちが、一方で「道徳然」とした説教を垂れ、若者たちの性の乱れを嘆いていることもよく知っていたのです。

「論壇的ないし新聞の論説的な道徳然とした言説が、現実をかすりもして来なかったことが暴露された」というのは、そのとおりでしょう。

「現実をかすりもしない」「道徳然とした言説」は、今の左派リベラルの言説も例外ではありません。

菊地直子元被告の無罪確定について、マルチ商法やカルト宗教の被害者救済で知られる弁護士の紀藤正樹氏が、みずからのブログでつぎのように書いていました。

17年の逃亡生活は何だったのだろうか?無罪なら逃亡する必要はなかった。

無罪は、とても後味の悪い結末となった。それは被害者にとっても、社会にとっても、そして菊地さんにとっても。

菊地さんは、逃亡のために多くの人に迷惑をかけた。

逃亡のために多くの税金が投入された。

無罪と言っても、菊地さんが、殺人集団であるオウム真理教に所属していた事実は、変わらない。

今回の無罪を教訓に、菊地さんには、オウム真理教の犯罪性の語り部になってほしい。

弁護士紀藤正樹のLINC TOP NEWS
17年の逃亡生活は何だったのか?オウム・菊地直子の無罪確定


菊地直子元被告は、無罪が確定したのです。「17年間の逃亡」は、警察が指名手配したからです。手記にあるように、警察に捕まれば無罪でも有罪にさせられるのではないかという恐怖から逃げたのです(実際に一審では有罪判決が下され、無罪なのに有罪にさせられそうになったのでした)。

「多くの税金が投入された」などと言うのは、菊地元被告に対してではなく、無罪の人間を容疑者として指名手配した警察に言うべきことでしょう。

これが法律の専門家の言うことなのかと驚くばかりです。無罪が確定し、これから一般人として社会復帰しなければならない人間が、どうして「オウム真理教の犯罪性の語り部」にならなければならないのでしょうか。

マルチ商法やカルト宗教の被害者救済の弁護をするというのは、リベラルな人なのでしょう。でも、このように、紀藤弁護士のリベラルなるものは、いつでも全体主義に転化できるようなリゴリズムで固められたそれでしかありません。

市民社会や市民としての日常性を所与のものとし、その安寧と秩序を保守することを一義とするような思想には、左派も右派もリベラルも違いはないのです。いざとなれば、みんなで翼賛の旗を振りはじめるに違いありません。
2017.12.31 Sun l 社会・メディア l top ▲
今日、オウム真理教による東京都庁爆発物事件で殺人未遂ほう助罪に問われた菊地直子被告の上告審で、最高裁が検察側の上告を棄却する決定をし、同被告の無罪が確定したというニュースがありました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<元オウム信者>菊地直子被告の無罪確定へ 検察の上告棄却

では、検察側の証人で出廷した井上嘉浩死刑囚の偽証があったとは言え、一審の裁判員裁判で下された判決はなんだったんだ、と思わざるをえません。裁判員裁判での判決は、上級審で減刑されたり破棄されたりするケースが多いのですが、裁判員裁判に往々にして見られる俗情におもねる感情的な厳罰主義には大きな問題があると言えるでしょう。裁判員裁判は、審理や量刑に市民感覚を反映させる目的で導入されたのですが、そもそも市民はそんなに賢明なのかという疑問があります。『大衆の反逆』を書いたオルテガが現代に生きていたら、間違いなく裁判員裁判には反対したでしょう。

市民裁判員たちに、オウムの信者だったら罪を犯しているに違いない、だったら厳罰に処すのは当然だ、という先入観がなかったとは言えないでしょう。もしかしたら、市民感覚なるものは、その程度のものかもしれないのです。

一方、菊地元被告のことを「走る爆弾娘」などとレッテルを貼り、あたかも爆弾テロをおこなう危険人物であるかのように書いていたメディアの罪も看過してはならないでしょう。無罪が確定してもなお、「時間の壁」「関係者無念」などと、ホントは有罪だけど、(逃亡で)時間が経ったので無罪になったのだと言わんばかりの報道が目に付きます。

17年間も逃亡したのは、「警察につかまれば暴力をふるわれてでも嘘の自白をさせられる」という恐怖を抱いていたからだと、彼女は手記に書いています。裕福な家庭に育ち、大学に進学してすぐに出家したために、文字通りの世間知らずだったのでしょう。身に覚えがなかったらどうして17年間も逃亡したんだというもの言いも、メディアお得意の(推定有罪!の)印象操作と言えるでしょう。


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2017.12.27 Wed l 社会・メディア l top ▲
毎年書いていることですが、年の瀬はどうしてこんなに淋しい気持になるんだろうと思います。年を取ると、よけいその気持が強くなります。しかも、そこには少なからず侘しさも伴っているのです。

クリスマスの時期になると、最近はどこもイルミネーションばやりですが、カップルや家族連れなどがさも楽し気に嬌声をあげている前を通るのは、苦痛で仕方ありません。そのため、気が付いたら、いつの間にかイルミネーションを避け、遠回りして歩くようになっている自分がいました。

イブの日、野暮用で渋谷へ行ったら、革命的非モテ同盟という集団(と言っても十数人)のデモに遭遇しました。

革命的非モテ同盟
https://kakuhidou.fumizuki.net/

「クリスマス粉砕!」「恋愛資本主義反対!」「街中でイチャつくのはテロ行為。テロとの戦いを貫徹するぞ!」「セックスの回数で人間を差別するな!」「セックスなんかいくらやったって無駄だ!」(サイトより)などというスローガンを掲げてデモをしていましたが、立ち止まってデモが通り過ぎるのを見遣りながら、心のなかで拍手喝さいを送っている自分がいました。

でも、考えてみたら、「非モテ」も若い人の話なのです。年を取るのは、「非モテ」以前の話です。

私たちが若い頃はちょうどバブルの真っ只中でしたので、クリスマスは恋人とディナーを楽しみ、都心のホテルで一夜をすごすのが定番でした。

当時、私は六本木にある会社に勤めていたのですが、イブの夜、仕事を終え駅へ向かう途中、あるレストランの前を通りかかった際に目にした光景を今でもよく覚えています。その店は半地下になっていて、通りから店内が見渡せるのですが、見ると、壁際の席に女性が、反対の通路側に男性がお行儀よく一列に並んで座っているのでした。まるでおやつの前に勢ぞろいさせられた幼稚園児のようでした。しかし、当時の私もまた同じようなことをしていたのです。

赤坂プリンスホテルは「赤プリ」なんて呼ばれ、イブの夜をすごすカップルにとってはあこがれのホテルでしたが、煌々と灯る客室の明かりを見上げながら、あのそれぞれの部屋でみんないっせいにセックスをしているのかと思うと、なんだかホテルの灯りも妖しく揺れて見えたものです。

でも、今は昔、私は背を丸め、白髪交じりの頭をうつむけて、これからイブの夜を楽しむカップルや家族連れとは逆方向に家路を急いでいるのでした。

クリスマスが終わると、学校も冬休みになり、電車もいっきに空いてきます。それにつれ、キャリーバックを持った乗客の姿も目に付くようになりました。

一方で(これも毎年書いていることですが)、人身事故で電車が遅れることも多くなります。

おせっかいなテレビが、年末年始を一人ですごしている人間のアパートをアポなし訪問して、どうして一人ですごしているのか事情を訊く番組がありますが(私だったら水をかけて追い払うけど)、私もいつの間にか、そんな「一人正月」の人間になっていたのです。

でも、今、イルミネーションの前で嬌声をあげている若者たちも、そのうちイルミネーションを避けて歩くようになるでしょう。そうやって時はめぐって行くのです。

年は取りたくないものだと思います。しかし、容赦なく年は取って行くのです。それもあとで考えれば、あっという間なのでした。
2017.12.26 Tue l 日常・その他 l top ▲
ルポ ニッポン絶望工場


日本は公式には「移民労働者」を認めていません。しかし、下記の毎日新聞の記事によれば、2016年末の在留外国人数は238万2822人で、そのうち永住資格を持つ「永住者」が72万7111人もいるそうです。

在留資格のなかでは、「永住者」がもっとも多く、つぎに在日韓国・朝鮮人などの特別永住者(33万8950人)、留学生(27万7331人)、技能実習生(22万8588人)の順になっています。「永住者」は「1996年の約7万2000人から約10倍と大幅に増加」しているのです。

首都大学東京の丹野教授が言うように、「在留資格の更新が不要で職業制限もない『永住者』は実質的に移民」なのです。これが日本が「隠れ移民大国」と言われるゆえんです。

毎日新聞
在留外国人 最多238万人…永住者、20年で10倍

一方、「移民労働者」を認めない政府が、「国際貢献」や「技能移転」という建て前のもとに、外国人労働者の期限付きの受け入れをおこなっている「技能実習生制度」には、過重労働や低賃金など多くの問題が指摘されています。“現代の奴隷制度”だと指摘する人さえいるくらいです。

実習生の失踪も問題になっていますが、その主因になっているのが低賃金です。

実習制度を統括する公益財団法人「国際研修協力機構」(JITCO)が公表している2009年9月に「基本給が最も低い技能実習生」の平均給与額は、14.3万円です(なぜか2009年以降公表されてない)。しかし、そのなかからさまざまな名目で経費が引かれるため、実際に手にするのは10万円くらいだと言われています。

昨年度の大宅賞の候補になった『ルポ ニッポン絶望工場』(講談社+α文庫)の著者・出井康博氏は、外国人労働者が置かれている実態について、「日本が国ぐるみで『ブラック企業』をやっているも同然だ」と書いていました。

どうして低賃金になるのかと言えば、背後にピンハネの構造が存在するからです。つまり、実習生たちが受け取るべき労働の対価の一部が、「会費」や「管理費」の名目で、監理団体や監理機関の「天下り役員たちの報酬に回されている」からです。

『ルポ ニッポン絶望工場』では、その「”ピンハネ”のピラミッド構造」について、具体的につぎのように書いていました。

 実習生の受け入れ先では、「監理団体」と呼ばれる斡旋団体を通すのが決まりだ。受け入れ先の企業は、監理団体に対して紹介料を支払うことになる。(略)一人につき約50万円の支払いが生じる。(略)
 実習制度には、民間の人材派遣会社などは関与できない。監理団体も表面上は「公的な機関」ということになっていて、実習生の斡旋だけを目的につくることは許されていない。しかし、そんな規制はまったく形骸化してしまっている。
 監理団体には一応、「協同組合」や「事業組合」といったもっともらしい名前がついている。だが、実際は人材派遣業者と何ら変わらない。しかも、実習生の斡旋を専業とする団体がほとんどだ。監理団体は業界に幅広い人脈を持つ関係者が設立するケースが多い。運営には、官僚に顔のきく元国会議員なども関わっている。
(略)
 受け入れ側の日本と同様、送り出し国でも公的な機関しか関われない決まりだ。しかし、それも建て前に過ぎず、実際には現地の人材派遣会社が送り出しを担っている。政府や自治体の関係者が送り出し機関を設立し、仲介料を収入源にしていることもよくある。
 送り出し機関にとっても、実習生は”金ヅル”なのである。一人でも多く日本へと送り出せば、毎月入っている「管理費」も増える。だが、実習生が失踪すれば管理費も途絶えてしまう。そこで失踪を防ごうと、実習生から「保証金」と称して大金を預かり、3年間の仕事を終えるまで「身代金」にしているような機関もある。
 一方、日本の監理団体は、実習生が仕事を始めると、受けれ先から「管理費」を毎月徴収する。送り出し機関と山分けするためのものだ。金額は団体によって差があるが、月5万円前後が相場である。だからといって、監理団体が実習生を「管理」してくれるわけではない。
 受け入れ先は、監理団体に年10万円程度の「組合費」も支払わなくてはならない。あの手この手で、監理団体が受け入れ先からカネを取っているわけだ。

 
こうしたピンハネ構造には官僚機構も加わっています。「国際研修協力機構」(JITCO)は、法務・外務・厚生労働・経済産業・国土交通の5つの官庁が所轄し、役員には各官庁のOBが天下りしています。しかも、JITCOは、監理団体や受け入れ先から年13億円の会費収入を得ているのです。

 受け入れ企業の上には監理団体と送り出し機関があって、さらに制度を統括するJITCOが存在する。このピラミッド構造を通じ、実習生の受け入れが一部の業界関係者と官僚機構の収入源となっている。そして陰では、官僚や政治家たちが利権を貪っているわけだ。その結果、実習生の賃金は不当に抑えられてしまう。


しかし、話はこれだけにとどまりません。実習制度の問題点が指摘されると、その「改善」と制度の拡充を目的に、あらたな法律(技能実習適正化法)が作られたのでした。そして、同法の成立に伴い、今年1月、JITCOとは別に、厚労省と経産省によって外国人技能実習機構(OTIT)という監理機関が設立されたのでした。しかし、OTITも受け入れ先企業や監理団体からの「会費」を収入源としており、またひとつピンハネ先と天下り先が増えたと言っても言いすぎではないでしょう。「転んでもタダでは起きない」如何にも官僚らしいやり方ですが、出井康博氏もあたらしい監理機関の設立について、「官僚利権」の「焼け太り」だと批判していました。

そのOTITのサイトに、先日、つぎのような「重要なお知らせ」が掲載されていました。

外国人技能実習機構(OTIT)
送出機関との不適切な関係についての注意喚起

でも、これがみずからを棚にあげたきれい事にすぎないことは誰が見てもあきらかでしょう。諸悪の根源は、国が主導する「”ピンハネ”のピラミッド構造」にあるのです。

しかし、“現代の奴隷制度”は、実習制度だけではありません。技能実習生の”悲惨な実態”を取り上げる新聞社に対しても、出井氏は批判の矛先を向けています。新聞社も決して他人事ではないのです。

今や都市部の新聞配達は外国人(特にベトナム人)留学生なしでは成り立たないと言われています。彼らは、留学ビザで来日していますので、就労は「週28時間以内」に制限されています。しかし、彼らの目的は勉学ではなく就労(出稼ぎ)です。日本語学校のなかには、手数料を取ってアルバイトを斡旋しているところもあるそうです。

人手不足に悩む新聞販売店は、(なにがあっても泣き寝入りするしかない)彼らの”弱み”に付け込み、「週28時間以内」の制限はおろか、法定賃金や法定休日を無視した違法就労を強いているのです。出井氏は、「外国人労働者で今、最もひどい状況に置かれているのは実習生ではなく、留学生」で、その典型が「新聞配達の現場」であると書いていました。

 朝日新聞本社社員の平均年収は約1237万円(2015年3月末)にも達する。そんな高給も販売所、そして配達現場で違法就労を強いられている外国人たちのおかげなのである。


まったくどこに正義や良心があるんだと言いたくなります。テレビやネットでは、相変わらず「ニッポン、凄い!」の自演乙が満開ですが、(大手企業の検査データ改ざんなどもそうですが)どこが「凄い!」のだろうと思ってしまいます。ホントに日本は世界の人々があこがれる「凄い!」国なのか。出井氏もつぎのように書いていました。

 シリア内戦で難民が欧州に押し寄せた際、日本も彼らを受け入れるべきだという声が出た。確かに日本は、欧米の先進国と比べて難民の受け入れ数は少ない。だが、難民にとっては日本は魅力的な国なのだろうか。事実、400万人にも達したシリア難民のうち、日本への亡命を希望した人はわずか60人程度と見られる。命がけで国を逃れたシリア人にとってすら、日本は「住みたい国」ではないのである。
 今、日本でも移民の受け入れをめぐっての議論が始まっている。だが、私から見れば、受入れ賛成派、そして反対派にも大きな勘違いがある。それは、「国を開けば、いくらでも外国人がやってくる」という前提で議論を進めていることだ。日本が「経済大国」と呼ばれ、世界から羨望の眼差しを注がれた時代は今や昔なのである。にもかかわらず日本人は、昔ながらの「上から目線」が抜けない。


外国人労働者の主流は、中国人や日系ブラジル人からベトナム人やネパール人に変わりつつあるそうです。中国人やブラジル人が少なくなっているのは、母国が経済発展して、もはや日本でお金を稼ぐ必要がなくなったからです。それは裏を返せば、出井氏が書いているように、日本が彼らに「見捨てられた」と言えなくもないのです。彼らにとって、日本はもはやお金を稼ぐ国ではなくなったのです。その魅力も必要性もなくなったのです。もちろん、そのうち、ベトナム人やネパール人からも「見捨てられる」ときがくるでしょう。

国家を食い物にすることしか能のない政治家や官僚たち。自分たちが坂道を下っているという自覚さえない国民。そこには、移民受け入れ是か非か以前の問題があるように思えてなりません。「ニッポン、凄い!」と自演乙しているのも、なんだか滑稽にすら思えてくるのです。


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上野千鶴子氏の発言
2017.12.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
年を取っても、社会に媚を売るような衛生無害な好々爺なんかではなく、永井荷風のような好色で偏屈な老人になりたいと思っていますが、好色はともかく、偏屈ぶりはそれなりに身に付いている(身に付きつつある)気がします。

今日、最寄りの駅で改札口を出ようとしたときでした。その改札機はいつも出口専用に設定されているのですが、なにを勘違いしたのか、前からやってきた初老の男性が、私に先を越されまいとするかのように、急いで財布を取り出しセンサーのところにタッチしたのでした。当然、エラーが出て通ることができません。

すると、男性は再び財布をセンサーに(前より激しく)タッチしたのでした。結果は同じです。男性は、髪の毛がヘルメットのようにベタッと貼り付いた、見るからにむさ苦しい感じで、パスモ(かスイカ)が入っている財布もボロボロに使い古されたものでした。

男性は、みずからの勘違いに気付かず、何度も同じ行為を繰り返しています。私は、改札機の前で男性の行為が終わるのを待っていました。しかし、学習能力のない男性の行為は終わりそうもありません。

すると、そのとき、しびれを切らした私の口からつぎのようなことばが発せられたのでした。

「違うだろ、タコ!」

最近、この「タコ」ということばがよく口をついて出るのです。そのため、相手が怒ってときどきトラブルになることがあります。

男性は、私のことばでやっと自分の勘違いに気付いたようで、隣の改札機に移ったのでした。ただ、改札機を通るとき、「なんだ、こいつは」というような目で私のほうを見ていました。

そのあと、私は、駅前のスーパーに行きました。買い物を終え、レジで精算し、台の上で買った食品を買い物カゴからレジ袋に移そうとしたときです。レジ袋のサイズが小さくて、買ったものがはみ出すほどでした。

そこで、私は、レジ係の女性のもとへ歩み寄り、こう言ったのです。

「ケチらないで、もっと大きな袋をくれないかな」

レジに並んでいたお客たちは、一様にキョトンとした顔で私を見ていました。

とは言え、永井荷風は行きつけの天ぷら屋で、いつも座っている席に他の人間が座っていたら、その後ろに立って、わざと大きな咳払いをして席をのかせたそうで、それに比べれば私などはまだ初心者です。永井荷風の域に達するには、まだまだ修行が足りないのです。


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永井荷風と岸部シロー
2017.12.04 Mon l 日常・その他 l top ▲
大相撲日馬富士の暴行問題。

もし加害者が横綱の日馬富士ではなく一般人だったら、当然逮捕されたはずです。しかし、横綱だと逮捕を免れ、書類送検でことが済まされるのです。

しかも、話は暴行傷害事件という問題の本質を離れ、おかしな方向に行っています。なぜか警察に告訴した貴乃花親方が批判に晒されているのです。

話をおかしな方向にもって行ったのは、テレビやスポーツ新聞など大相撲周辺のメディアです。「相撲ジャーナリスト」や「東京相撲記者クラブ会友」などという手合い(最近はそれに「相撲レポーター」というのが加わっています)のいかがわしさは、もっと指摘されて然るべきでしょう。

今回の問題では、日本相撲協会とメディアとの力関係が如実に表れているように思います。例えばNHK以外の民放のテレビ局は、本場所の取組みをスポーツニュースなどで取り上げる場合でも、すべて日本相撲協会の映画部が撮影した映像を借りるしかないのです。自由に取材できないのです。つまり、メディアは相撲協会から完全に首根っこを押さえられているのです。

相撲協会の隠蔽体質も、こういった力関係が背景にあるのはあきらかでしょう。今回も、貴乃花親方が批判されるのは、内輪で処理しなかった(隠蔽しなかった)からでしょう。

そもそも大相撲はスポーツと言えるのか、あるいは大相撲はホントに「国技」なのかという疑問があります。

ネットを見ていたら、ヤフー知恵袋に「相撲ってフリークショ-みたいなものですか?」という質問がありました。それに対して、つぎのような秀逸な回答がおこなわれていました。

一部を除き、あんな太った体形にするのが有利な種目なんて世界標準からみたら奇形大会みたいなものですもんね。
フリークショーという言葉でも外れていないかもしれない。

大体、朝起きて空きっ腹でけいこして、その後大食して昼寝して脂肪をつけるという、スポーツ医学を真っ向から否定するような競技は、このヘルシーブームに逆行しますよね。

Yahoo!知恵袋
相撲ってフリークショ-みたいなものですか?


私も昔、なにかの雑誌で、大相撲を「小人プロレス」やサーカスの「小人曲芸」などと同じように、フリークショ-として論じている記事を読んだ記憶があります。体形的な特徴(「異形」)を見世物にする残酷な世界が、昔の大衆文化にはあったのです。

取組みで、でぶっちよの力士が土俵に転がったり、土俵下に頭から落ちたりすると、観客は大笑いしながら拍手喝采を送っていますが、それはどう見ても、スポーツ観戦というより見世物を見ている感じです。

「異形」ということで言えば、歌舞伎なども同じ系譜に属すると言ってもいいのかもしれません。江戸時代以降の相撲は、勧進興行としておこなわれていたそうで、歴史的に見ても、相撲は歌舞伎など芸能と重なる部分があるのです。

寺社権力の庇護を外れた芸能は、生き残りのため、不浄の場所である河原で興行を打つことになります。そのために、「河原乞食」などと呼ばれ蔑まされたのでした。それは、相撲も似たようなものでしょう。「日本の伝統文化を継承」と言っても、それは本来マージナルなものだったはずです。

海外では、力士は「スモウレスラー(sumo wrestler)」と呼ばれるそうですが、大相撲もプロレスなどと同じように興行(見世物)なのです。興行である限り、八百長云々は野暮というものでしょう。今回「モンゴル会」の実態が公になったことで、ますますその疑念を深めた人も多いのではないでしょうか。

ただ、話がややこしいのは、同じ興行でも、大相撲は国家に庇護されているため、「国技」などと言われ、権威づけられていることです。もっとも「国技」の根拠も、明治天皇が相撲好きだったからというような話にすぎないのです。なかには、相撲の常設施設を造る際、「国技館」と名付けたので「国技」と呼ばれるようになったという信じ難い(アホらしい)説さえあります。

横綱が神の「依代」と言われるのも、勧進興行の名残なのでしょう。言うなれば、勧進興行の(普請のためにお金を集めるための)セールストークだったのでしょう。そのために、「品格」をもたなければならないと言われても、彼らは単にスモウレスラーのチャンピオンにすぎないのです。チャンピオンになったからと言って、急に「品格」なんかもてるわけがないのです。白鵬などを見ても、無理して「品格」がある風を装っているのがありありと見てとれます。

力士たちの貧しいボキャブラリーが「愛嬌」と見られるのも、見世物ゆえでしょう。彼らが、日本の伝統文化を背負っているなどと言われ裃を付けても、どこかぎこちなく見えるのも、(まるで「騎馬民族征服王朝説」を地で行くように)今やチャンピオンの多くが大陸からやって来た騎馬民族だからという理由だけではないでしょう。

公益財団法人という特段の地位を与えられ、国家に庇護されている今の大相撲は、虚構ではないのか。今回のように、対応がおかしな方向に向かうのも、虚構であるがゆえの弥縫策に走るからではないのか。そんな気がしてなりません。
2017.12.01 Fri l 芸能・スポーツ l top ▲