ワイドショーでもおなじみ、ジャーナリストのモーリー・ロバートソン氏が、『週刊プレイボーイ』のコラムで、イギリスのガーディアン紙でのスラヴォイ・ジジェクの発言を取り上げていました。

Yahoo!ニュース(週プレNEWS)
左派賢人の過激な問い。"世界のトランプ化"はリベラルのせい?

ロバートソン氏の要約によれば、ジジェクの発言はつぎのようなものです。

〈(略)今、リベラル陣営はグローバル経済の構造自体の欠陥に関する議論よりも、倫理やモラル、多様性、ゲイライツ、人種差別といった"小さな問題"にばかり注目するようになっている。

本筋から逃亡し、"正しい側"の席に座り、"正しいこと"を叫ぶだけでは何も変わらない。左派が本質的な原因に目を向けることなく、本来すべき役割を果たさないからこのような社会になっているのだ〉


つづけて、ジジェクの発言について、ロバートソン氏はつぎのように注釈を加えていました。

ジジェクは、リベラル陣営がトランプら右派政治家の言動ばかりに目を奪われるのは「バカげている」と喝破(かっぱ)します。極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である。

にもかかわらず、右派陣営に煽(あお)られるがままに、反差別や多様性といった"些末(さまつ)なこと"を追いかけても、この社会はよくならない。いや、むしろ右派ポピュリズムは拡大していくだけだ――。

身もふたもない言い方をすれば、ジジェクは「左派はきちんとゼニの話をしろ」と言っているのです。


左派がリベラル化するにつれ、社会の根本にある下部構造の話をしなくなったというのは、そのとおりでしょう。それゆえ、「極右の再興はあくまでもグローバリズムの暴走、格差の拡大による"二次的な症状"である」という視点すら持てなくなっているのです。成長や繁栄から置き去りにされ、大労組からも見捨てられたアンダークラスの人々こそ、右か左かに関係なくプロレタリアートと呼ぶべきなのです。

また、ジジェクは、つぎにような大胆な発言もしています。

〈混乱した社会の中で左派に惹(ひ)かれる人々は、決まって理想やモラルを叫ぶ。だからこそ、こういうときに一番大事なのは民衆の声を聞かないことだ。民衆はパニックに陥っており、そこには知恵などない。これまでも民の声を聞いた結果、ポピュリズムとファシストしか出てこなかったじゃないか〉


思わず「異議なし!」と叫びたくなりました。

ジジェクは、「はじめは悲劇として、二度目めは笑劇として」というマルクスの有名な箴言が副題に付けられた『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書)でも、つぎのように書いてました。

 じつは進行中の危機の最大の犠牲者は、資本主義ではなく左派なのかもしれない。またしても世界的に実行可能な代案を示せないことが、誰の目にも明らかになったのだから。そう、窮地に陥ったのは左派だ。まるで近年の出来事はそれを実証するために仕組まれた賭けでもあったかのようだ。そうして壊滅的な危機においても、資本主義に代わる実務的なものはないということがわかったのである。
『ポストモダンの共産主義』


ジジュクは、別の章では、構造改革は「詭弁」だとも書いていました。

左派が下部構造=経済の話をしなくなったというのは、ブレイディみかこ氏も常々指摘していることです。ブレイディみかこ氏の発言も、ジジェクと重なるものがあります。

ブレイディ 両極化する世界とか中道の没落とか言われてますけど、それはあくまで地上に見えている枝や葉っぱの部分で、地中の根っこはやっぱり経済だと思います。中道がいつまでも「第三の道」的なものや緊縮にとらわれて前進できずにいるから、人びとがもっと経済的に明るいヴィジョンを感じさせる両端にいっている。

シノドス
「古くて新しい」お金と階級の話――そろそろ左派は〈経済〉を語ろう
ブレイディみかこ×松尾匡×北田暁大


先日、パリのシャンゼリゼ通りのガソリン価格の高騰や燃料税引き上げに抗議するデモで、「一部が暴徒化した」というニュースがありましたが、その街頭行動の背景に、2017年の大統領選挙の第一回投票で、マクロンにつづいて極右・国民連合(国民戦線)のマリーヌ・ル・ペンが2位、そして、ニューレフト(新左翼)の左翼党(不服従のフランス)を率いるジャン=リュック・メランションが3位を獲得したという、フランスにおける「流動的」な政治情勢が伏在しているのは間違いないでしょう。

それは、(このブログでも再三書いていますが)フランスに限った話ではありません。ヨーロッパでは、反グローバリズム・反資本主義において、極左と極右がせめぎあいを演じているのです。そういったせめぎあいは、右か左かでは理解できない状況です。

上記の『そろそろ左派は〈経済〉を語ろう』のなかで、社会学者の北田暁大氏が、“社会学の陥穽”について、「自戒を込めて」つぎのように言ってました。

北田 経済がどうやって発展するとか、社会が安定的に成長していくには具体的にはどうしたらいいのかって発想がなくて、全部制度的な公正性の原理だけで物事を考えているわけですよ。

(略)いまの社会学って、方法はさまざまありますが、やっぱり制度を比較に基づいて分析する学問だから。「その制度は不公正ですよ」「この制度では機能していませんよ」ということは言えるんですけど、どうやったら社会が全体的に「豊か」になるのか、そもそも社会を「豊か」にするとはどういうことなのかって発想が欠落しているんですよね。

(略)イスの数は決まっていて、その分配については不公平がある、その不公平はこのような形で生み出される、という分析は大切ですが、イスの数を増やすという発想は薄い。じゃあ、誰かのイスを取り上げるしかない、ということになりがちです。


これは、社会学の問題だけでなく、リベラルの限界であり、リベラル化した左派の限界でもあるでしょう。もとより私たちも「自戒」とすべき事柄でもあります。
2018.11.27 Tue l 社会・メディア l top ▲
2018年11月渋谷1


私は、週に2~3日は東横線(副都心線)で渋谷を通っています。車でもよく246や明治通りを通ります。

しかし、考えてみたら、もう1年くらい渋谷で途中下車したことがありません。最近はめっきり足が遠ざかっています。私にとって渋谷は、いつの間にか通過するだけの街になっていたのです。

今月、BSフジの「TOKYOストーリーズ」という番組で、二週に渡って「さよなら渋谷90s」と題し渋谷を特集していました。また、昨日のテレ東の「アド街」でも、「百年に一度の再開発」が行われている渋谷を特集していました。

それで、今日、久しぶりに渋谷で途中下車して、変わりゆく渋谷の街を歩きました。

私が一番渋谷に通っていたのも90年代です。「さよなら渋谷90s」では、牧村憲一(音楽プロデューサー)・谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)・カジヒデキ・鈴木涼美・石川涼(アパレルブランド・せーの代表)・藤田晋(サイバーエージェント代表)・Licaxxx(DJ)らが、みずからの“渋谷体験”を語っていました。ただ、鈴木涼美とLicaxxxは、90年代の渋谷を語るには年齢的に若すぎ、明らかに人選ミスだと思いました。

もっとも番組で語られる渋谷は、パルコの広告戦略に象徴されるような公園通りを中心とした渋谷にすぎません。カジヒデキは、「95年頃に『渋谷系』ということばは終わった」と言ってましたが、私は最初から「渋谷系」ということばにすごく違和感がありました。このブログでも書いているように、私も、セゾン(パルコ)とは仕事をとうして関わっていましたが、しかし、公園通りの風景は渋谷のホンの一面でしかないのです。まして、藤田晋がヒップホップを語るなんて悪い冗談だとしか思えません。

昔、起業したばかりでまだ無名の藤田に密着したドキュメンタリー番組を観たことがありますが、そのなかで、田舎の両親(父親はたしか学校の教師だったような?)が原宿かどこかのアパートでひとり暮らしする息子の行く末を心配しているシーンがあったのを思い出しました。エリートやボンボンによくある話ですが、渋谷を語るのに、昔はちょっとヤンチャだったと虚勢を張りたかっただけなのでしょう。ヒップホップもいいようにナメられたものです。

過去というのは、このように語る人間に都合のいいようにねつ造されるものなのです。それは、国家の歴史に限らず個人においても然りです。

彼らが語る渋谷には、ストリートの思想がまったくありません。そこには、ただ資本に踊らされる予定調和の文化があるだけです。

谷中敦は、番組のなかで、渋谷をうたった詩を朗読していましたが、そのなかに「踊れないのではなく踊らないのだ」という詩句がありました。でも、谷中敦だって、「踊っていた」のではないのです。「踊らされていた」だけなのです。そして、これからも渋谷を支配する東急資本に踊らされるだけなのだろうと思います。

私は当時、南口の東急プラザの裏の、玉川通りから脇に入った路地によく車を停めていましたが、あたりにはまだラブホテル(というより「連れ込み旅館」と言ったほうがふさわしいような古いホテル)が残っていました。

夜遅く、車を取りに坂を上ると、暗がりに人がウロウロしているのです。最初は、なんだろうと怪訝に思って見ていました。でも、やがて彼らの目的がわかったのでした。イラン人からクスリ?を買うために来ていたのでした。イラン人たちは、ビルの前の植え込みなどにクスリ?を入れたビニール袋を隠していました。初めの頃は私もイラン人たちから警戒されているのがわかりました。しかし、やがて彼らの敵ではないことがわかると、目で挨拶されるようになりました。

路地で「東電OL」とすれ違ったこともありました。彼女の”仕事場”は、道玄坂の反対側の神泉や円山町あたりでしたが、ときどき道玄坂を横切り、坂の上から裏道を降りて東急プラザに来ていたのでしょう。

でも、今は東急プラザは壊され、跡地はステンレスの囲いで覆われ、来年の秋の開業に向けて新しいビルが建築中です。周辺も人通りが少なく殺風景になっていました。

牧村憲一は、「渋谷で知っているところはもう9割がた失くなった」と言ってましたが、私も歩いていたらいつの間にか、新しい渋谷より知っている渋谷を探している自分がいました。


2018年11月渋谷2

2018年11月渋谷3

2018年11月渋谷4

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2018.11.25 Sun l 東京 l top ▲
カルロス・ゴーンの逮捕が、ルノーと日産の経営統合を阻止するための国策捜査であり、国策捜査を誘引したクーデターであることが徐々に明らかになっています。

グローバル資本主義においては、日本の大企業が外国資本に呑み込まれるのはいくらでもあり得るでしょう。日産だってグローバル資本主義のお陰で復活したのです。グローバル資本主義に拝跪するということは、「日本を、取り戻す」ことではなく「日本を売る」ことなのです。裁量労働制の導入も外国人労働者に門戸を開放するのも、グローバル資本主義のためなのです。「助けてもらったのに、恩を仇で返すのか」というルノーの地元の声は当然です。

日本のメディアは、例によって例の如く検察からのリークを垂れ流し、重箱の底をつつくようにカルロス・ゴーンの“悪業”を暴き立ていますが、でも、彼らは昨日までグローバル資本主義の使徒とも言えるカルロス・ゴーンをカリスマ経営者としてヒーロー扱いしていたのです。日産の役員たちに勝るとも劣らない見事な手の平返しと言えるでしょう。こういった寄らば大樹の陰の節操のなさも、日本社会の特質です。

フランス在住の永田公彦氏は、ダイヤモンドオンラインで、ゴーン逮捕について、日本特有の集団的な手のひら返しだと書いていました。

DIAMOND online
ゴーン氏逮捕でフランス社会から見える、日本の「集団手のひら返し」

永田氏が書いているように、サラリーマンの社会でも、ある日突然梯子を外されることはめずらしくありません。永田氏によれば、手の平返しは権威主義を重んじ集団的な和を尊ぶ「アジアやアフリカ諸国に多い」そうですが、たしかに、中国や韓国などでも手の平返しの話はよく聞きます。大統領経験者に対する韓国世論の手の平返しなどは、その最たるものでしょう。

東京地検特捜部の(国策捜査であるがゆえの)荒っぽい手法については、元検事で弁護士の郷原信郎氏が、下記のインタビューで、法律の専門家の立場から疑問を投げかけていますが、しかし、日本のメディアの報道にこういった視点は皆無です。ただ、「検察は正義」の幻想を痴呆的に振りまくばかりです。

VIDEO NEWS(ビデオニュース・ドットコム)
不可解なゴーン逮捕と無理筋の司法取引説

一方で、ゴーン逮捕の“副産物”として、日本が人権後進国であることが世界に知られたのは、誠に慶賀すべきことと言えるでしょう。

朝日のパリ特派員が、フランスのメディアの反応を伝えていました。

朝日新聞デジタル
ゴーン容疑者いる拘置所「地獄だ」 仏メディアが同情?

記事によれば、フィガロ紙は、「『検察の取り調べの際に弁護士も付き添えない。外部との面会は1日15分に制限され、しかも看守が付き添い、看守がわかる言葉(日本語)で話さなければならない』と指摘し、『ゴーン容疑者の悲嘆ぶりが想像できるというものだ』と報じている」そうです。

また、いわゆる日本式「人質司法」についても、つぎのように書いていました。

 フランスでは容疑者が拘束された際、捜査当局による聴取の際に弁護士が同席でき、拘束期間もテロ容疑をのぞき最長4日間(96時間)と定められている。このため、ゴーン容疑者の環境がとりわけ厳しく映ったようだ。


これでは、ニッポン凄い!どころか、日本ヤバい!になりかねないでしょう。

ちなみに、東京地検特捜部と密通して、ゴーン逮捕を事前にスクープしたのが、他ならぬ朝日新聞でした。だから、上記の記事も、どこか斜に構えたような感じになっているのでしょう。
2018.11.24 Sat l 社会・メディア l top ▲
2018年11月伊勢山皇大神宮2


夕方から散歩に出かけました。桜木町と野毛の間の丘の上に、伊勢山皇大神宮という神社があるのですが、まだ一度も行ったことがないので行ってみようと思いました。

自宅から新横浜まで歩いて、新横浜から市営地下鉄に乗り、横浜駅のひとつ先の高島町駅で降りました。高島町駅からは、スマホのナビを頼りに国道16号線を桜木町駅方面に進み、途中から右手にある紅葉坂(もみじざか)を上りました。かなり急な坂ですが、坂の上は伊勢山という横浜で有名な高級住宅地です。ここでも成り上がったら坂の上に住むという横浜人の法則がはたらいているのでした。

既にあたりは暗くなりましたが、坂の上に県立青少年センターという公共施設があったので、入口の警備員の人に、伊勢山皇大神宮の場所を訊きました。

「あの脇道を入れば、裏参道があるよ」と言われ、言われたとおり脇道を入ると、薄闇に参道の階段が現れました。

境内は人の姿もなく、ひっそりと静まり返り、夕闇の中に浮かび上がった本殿が一層荘厳に見えました。本殿の前では、仕事を終えた巫女さんが拝礼していました。

帰りは表参道を降りて、野毛の方へ坂を下りました。そして、野毛をぬけ、伊勢佐木町の有隣堂で本を買い、さらに関内・汽車道・赤レンガ倉庫から臨港パークを歩き、大観覧車のあるコスモワールドの脇をとおって、横浜駅まで歩きました。

途中、汽車道の対岸にある北仲では、再開発に伴って三井不動産のタワマンやアパの高層ホテル、それに32階建ての横浜市庁舎の建設が進んでいました。なんだか途端に現実に引き戻された気がしました。

3兆円を超す借金(市債発行残高)。全国的にトップクラスの職員給与。地上32階の豪奢な市庁舎。公務員の給与が高いのではない、民間の給与が低すぎるのだと嘯き、現市政を支持する労組。「自治体労働者への攻撃を許すな」と主張する新左翼セクト。そこにあるのは、醜悪としか言いようのない、平岡正明が言う「中音量主義」をまるで嘲笑っているかのような光景です。

帰りはさすがに足が棒のようになっていました。万歩計を持っていませんでしたが、1万歩を優に超したのは間違いないでしょう。


2018年11月伊勢山皇大神宮3

2018年11月伊勢山
(野毛に向かう坂)

2018年11月汽車道2
(ワールドポーターズの前のツリー)

2018年11月北仲
(汽車道から北仲を望む)

2018年11月臨港パーク
(臨港パーク)
2018.11.17 Sat l 横浜 l top ▲
日本が売られる


向こう5年間で34万人の外国人労働者を受け入れる出入国管理法(入管法)改正案が衆院本会議で審議入りしましたが、議論の叩き台になるはずの法務省のデータに改ざんが見つかり、審議がストップしたままです。

移民は認めないと公言する日本政府ですが、2015年のOECD外国人移住ランキングでは、日本はいつの間にか世界第4位の”移民大国”になっているのでした。

以下が、2015年のトップ10です。

1.ドイツ(約201万6千人)
2.米国(約105万1千人)
3.英国(約47万9千人)
4.日本(約39万1千人)
5.韓国(約37万3千人)
6.スペイン(約29万1千人)
7.カナダ(約27万2千人)
8.フランス(約25万3千人)
9.イタリア(約25万人)
10.オーストラリア(約22万4千人)

その結果、日本には既に128万人の外国人が居住しているのです。

労働力不足と言っても、要するに、「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)で謳われているように、「介護」「建設」「農業」「宿泊」「造船」など、いわゆる3Kの仕事で、低賃金の若年労働力が不足しているという話なのです。現在、その部分を弥縫的に担っているのが、”留学生”(資格外活動)29.7万人と技能実習生25.8万人です。

先日、日立製作所が山口県下松市の笠戸事業所で働くフィリピン人技能実習生40人に解雇を通告した問題で、実習期間の残り2年間分の基本給と生活費として月に2万円を支払うことで実習生と和解したというニュースがありましたが、基本給は14万円だそうです。

でも、この給与は技能実習生としては、恵まれた方で、農家に来ている実習生なんて、手取りが5万~10万円もめずらしくないと言われています。別のニュースでは、実習先から失踪して東京の飲食店で働いていた元実習生の話が出ていましたが、彼が得ていた給与は月に20万~25万円だったそうです。

これでは、失踪したくなるのは当然という気がしますが、しかし、20~25万円の給与も(福利厚生がほとんどないことを考えれば)最低レベルの賃金です。技能実習生の給与は、文字通り“最低以下”なのです。

どうして“現代の奴隷制度”とヤユされるような“最低以下”の給与しか貰えないのかと言えば、前に書いたとおり(『ルポ ニッポン絶望工場』)、監理機関や監理団体など官僚の天下り機関による(「会費」や「管理費」などの名目の)ピンハネがあるからです。実習生ひとりにつき10万円近くのピンハネが行われているという話さえあります。また、多くの監理団体には、政治家たちが役員におさまっており、文字通り官民あげて実習生を食い物にしているのです。

ところが、まだ始まったばかりとは言え、入管法改正をめぐる国会審議や、あるいはメディアの報道においても、このピンハネの問題がいっこうに表に出て来ないのです。何か不都合でもあるのか、不思議でなりません。

一方で、ホントに人出不足なのかという声もあります。仕事がきつくて賃金が安いので敬遠されているだけではないのかと。

堤未果氏は、WEBRONZAで、「現在日本には一年以上、職についていない長期失業者が約50万人いる」と書いていました。

WEBRONZA
人間にまで値札 外国人労働者拡大の危うさ

堤氏か書いているように、「人材がいないのではない」のです。労働条件が劣悪で、なり手がいないだけなのです。その「なり手がいない」仕事を、外国人労働者にさせようという話なのです。

 景気を良くするためだ、などと言って金融緩和をしても、永住まで可能な外国人を数十万人規模で受け入れれば、価格競争によって賃金は地盤沈下を起こし、日本人の失業者や単純労働者は、今後入ってくる移民との間で仕事を奪い合うことを余儀なくされるだろう。


外国人労働者の流入が、日本のアンダークラスの賃金を押し下げる要因になるというのは、これまでも指摘されていました。

堤氏は、新著『日本が売られる』(幻冬舎新書)の中でも、次のように書いていました。

 一橋経済研究所の試算でも、単純労働に外国人が100万人入れば、国内の賃金は24%下落するという数字が出ているのだ。
 こうした政府の方針によって、「人・モノ・サービス」はますます自由に国境を越えて売買され、2019年のTPP発効までに、日本に参入してくる外資や投資家が「世界一ビジネスしやすい環境」が着々と作り上げられてゆく。


グローバル資本主義に拝跪して(国を売り渡して)、何が愛国だ、何が「日本を、取り戻す」だと言いたいですが、一方で、プロレタリアートに国境はないという左翼のインターナショナリズムが、現代に奴隷制度をよみがえらせたグローバル資本主義と同床異夢を見ているという「右も左も真っ暗闇」の現実があることも、忘れてはならないでしょう。


関連記事:
『ルポ ニッポン絶望工場』
上野千鶴子氏の発言
2018.11.17 Sat l 社会・メディア l top ▲
渋谷のハロウィンのバカ騒ぎに対して、「狂騒」「暴徒化」などという言葉を使っているメディアさえありました。なんだか殊更問題化しているフシもなきにしもあらずです。渋谷区の長谷部健区長も、先週末に発生した一部参加者の乱痴気騒ぎに対して、「到底許せるものではない」と「緊急コメント」を発表。そして、ハロウィンから一夜明けた今日、長谷部区長は、来年以降ハロウィンの有料化も検討すると発言したそうです。ハロウィン有料化とは、まるでお笑いギャグのような話です。

私などは、渋谷の騒動と言えば、1971年の“渋谷暴動”を思い浮かべますが、あれに比べればハロウィンの騒ぎなんて子どもの遊びみたいなものでしょう。それに、もともと都市=ストリートというのは、常に秩序をはみ出す行動を伴うものです。そういった“無秩序”を志向する性格があるからこそ、私たちは、都市=ストリートに解放感を覚えるのです。都市=ストリートに対して、非日常の幻想を抱くことができるのです。

毛利嘉孝氏は、『ストリートの思想』(NHKブックス)の中で、イギリスにはじまって90年代に世界に広がった「ストリートを取り返せ」(RTS)運動について、次のように書いていました。

「ストリートを取り返せ」(引用者:原文では「リクレイム・ザ・ストリーツ」のルビ)のスローガンが意味するところは、やはり現在ストリートで切り詰められている「公共性」を、ダンスや音楽など身振りによって取り戻そうということだろう。ダンスや音楽は、「言うこと聞くよな奴らじゃない」連中が、同じように「言うこと聞くよな奴らじゃない」官僚制度や警察的な管理に対抗する手段だったのである。


テレビには、ハロウィンの若者たちは迷惑だと主張する地元商店会の人間たちが出ていましたが、私は以前、渋谷に日参していましたので、その中には当時顔見知りだった人物もいました。

私は、それを観て、渋谷は地元商店会のものではないだろうと思いました。渋谷に集まってくる若者たちだって、区民でなくても立派な渋谷の“住人”です。渋谷の街は、東急資本や地元商店会だけが作ってきたわけではないのです。私は、当時、路上で脱法ハーブやシルバアクセを売る外国人や地回りのやくざなどとも顔見知りでしたが、彼らだって渋谷の街を作ってきたのです。

もっとも、地元商店会にしても建前と本音があるのです。彼らも、商売の上では渋谷に集まる若者たちを無視することはできないのです。ドンキはじめ一部の商店が若者達に瓶に入った酒を売っていたとして批判を浴びていますが、イベント会場の周辺の店がイベントにやってくる若者相手に店頭で食べ物を売ったりするのと同じように、ハロウィンの若者たちを当て込みソロバンを弾いていた店も多いはずです。

メディアの前で迷惑顔をしている老人の中には、普段ストリート系の若者相手に商売をしている店の関係者もいました。若者の性のモラルの低下を嘆く教師や警察官や市議会議員などが、一方で中学生や高校生の少女を買春していた事件が後を絶ちませんが、あれと同じでしょう。

センター街には、昔からチーマーやコギャルが跋扈していましたが、しかし、跋扈していたのは彼ら(彼女ら)だけではなかったのです。コギャル目当ての大人たちも跋扈していたのです。チーマーやコギャル達は、そんな建前と本音のバカバカしさをよく知っていたのです。

それはメディアも然りです。メディアだって渋谷に建前と本音があることぐらいわかっているはずです。メディアは、地元の商店会と一緒になって建前を振りかざしながら、一方では若者たちを煽っているのです。「厳戒態勢の渋谷から中継」なんてその最たるものでしょう。今日の早朝の番組でも、各局がハロウィンから一夜明けた渋谷から中継していましたが、私にはバカ騒ぎの名残を惜しんでいるようにしか見えませんでした。

ともあれ、再開発の真っ只中にある渋谷が、やがて完全に東急に支配された(東急の色に染まった)街になるのは間違いないでしょう。そうなればストリートも消滅して、バカ騒ぎをする若者たちも、そんな若者たちに眉をひそめる地元の商店会も、街から排除される運命にあるのは目に見えています。そして、ハロウィンも、川崎などと同じように(あるいは、東京レインボープライドのパレードと同じように)、管理され秩序されたものにとって代わることでしょう。その意味では、渋谷の無秩序なハロウィンも、スカンクの最後っ屁のようなものと言えるのかもしれません。


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2018.11.01 Thu l 東京 l top ▲