少し前の話ですが、安倍首相が二月十日の自民党大会で、「悪夢のような民主党政権」と発言したことについて、民主党政権時代に副総理や外相などを務めた岡田克也氏(元民主党・元民進党代表)が、衆院予算委の質疑で、発言を撤回するよう求め、撤回を拒否する安倍首相との間で感情的な応酬が行われたと話題になりました。ちなみに、私も、安倍首相とは別の意味で、民主党政権は悪夢だったと思っている人間のひとりです。

安倍首相は、岡田氏の撤回要求に「では、なぜ、民主党という名前を変えたんですか」と“反論”したそうですが、痛いところを突いたと言えるでしょう。名前を変えても中身(顔触れ)は変わらないのです。

政権交代への期待と裏切り。それを考えれば、厚顔無恥ということばしか思い浮かびません。立憲民主党の枝野代表の「政権奪還」宣言なんて、誇大妄想もいいところでしょう。有権者を舐めんなよと言いたくなります。

シャンタル・ムフは、『左派ポピュリズムのために』で、つぎのように書いていました。

政治の対抗モデルと左 ‐ 右の対立を時代遅れだと主張し、中道右派と中道左派の「中道での合意」を歓迎することで、いわゆる「ラジカルな中道」は専門家(引用者:“テクノクラシー”とルビ)支配による政治形態を進めることになった。この考え方によれば、政治とは党派対立ではなく、公共の事柄を中立的にマネジメントすることとされたのだ。
(『左派ポピュリズムのために』)


シャンタル・ムフは、これを「ポスト政治的状況」と呼んでいます。

 結果として、市民がそれを通じて政治決定に影響を与える議会や諸機関の役割は劇的に後退してしまった。選挙はもはや、伝統的な「統治を担う諸政党」を通して、真の代替案(引用者:”オルタナティヴ”とルビ)を選択する機会にはなりえない。ポスト政治的な状況においては、中道右派政党と中道左派政党の二大政党的な政権交代しか起こらない。「中道での合意」や新自由主義的なグローバル化以外に選択肢はないという教義に反対する者はすべて、「過激主義者」と表現するか「ポピュリスト」であるとして、政治にかかわるべきではないとされたのだ。
(同上)


『左派ポピュリズムのために』の帯にある「少数支配(オリガーキー)」とは、こういうことです。

「野党が政権を取ってもなにも変わらない」という巷の声は真実を突いているのです。事実、民主党が政権を取ってもなにも変わりませんでした。自民党政権と五十歩百歩でした。政権交代が可能な二大政党制の導入を旗印に、労働戦線の右翼的再編と軌を一にして誕生した民主党は、文字通りシャンタル・ムフが言う「ポスト政治的状況」を招来する役割を担っていたのです。それが、私にとって、民主党政権が悪夢であった所以です。

シャンタル・ムフは、党派性は政治の本質であり、そのことを再肯定する必要があると言っていました。党派性を否定する政治は、政治ではなく、「少数支配」を前提とした「マネジメント」にすぎないのです。


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左派ポピュリズムのために


先日、朝日新聞デジタルに、政治学者の山本圭氏(立命館大学準教授)の非常に示唆に富んだ寄稿が掲載されていました。

朝日新聞デジタル
極右に対抗「左派ポピュリズム」広がる 政治家に存在感

山本氏は、次のように書いています。

もとよりポピュリズムに対しては、「大衆迎合主義」と(誤って)翻訳されることが多いせいか、本邦ではことのほかネガティブな印象が強い。これが喚起するイメージといえば、デマゴーグによる人気取り政策、あることないこと放言する民主主義の腐敗、おおかたそんなところだろう。

 とはいえ、元来ポピュリズムとは、既存の政党政治からこぼれ落ち、疎外されてきた人々を、ひとつの政治勢力としてまとめあげる、そのような政治手法を指す言葉である。そのかぎりで、ポピュリズムこそ真に民主主義的である、という見方も当然成り立つ。

 近年、欧州や米国ではポピュリズムのこうした伝統が回帰している。それが〈左派ポピュリズム〉と呼ばれるものだ。ギリシャの急進左翼進歩連合(シリザ)やスペインのポデモスといった政党をはじめ、英国労働党のコービン、「不服従のフランス」のメランション、米国のサンダース、さらに最近になると富裕層への課税を訴える民主党のオカシオコルテスといった政治家らが存在感を示している。


また、ブレイディみかこ氏も、かつてみずからのブログ「The Brady Blog」で、左派ポピュリズムについて、次のように書いていました。

Yahoo!ニュース
ポピュリズムとポピュラリズム:トランプとスペインのポデモスは似ているのか

「ポピュリズム」という言葉は、日本では「大衆迎合主義」と訳されたりして頭ごなしに悪いもののように言われがちだが、Oxford Learner’s Dictionariesのサイトに行くと、「庶民の意見や願いを代表することを標榜する政治のタイプ」とシンプルに書かれている。
(中略)
EU離脱、米大統領選の結果を受けて、新たな左派ポピュリズムの必要性を説いているのは英ガーディアン紙のオーウェン・ジョーンズだ。

「統計の数字を見れば低所得者がトランプ支持というのは間違い」という意見も出ているが、ジョーンズは年収3万ドル以下の最低所得者層に注目している。他の収入層では、2012年の大統領選と今回とでは、民主党、共和党ともに票数の増減パーセンテージは一桁台しか違わない。だが、年収3万ドル以下の最低所得層では、共和党が16%の票を伸ばしている。票数ではわずかにトランプ票がクリントン票に負けているものの、最低所得層では、前回は初の黒人大統領をこぞって支持した人々の多くが、今回はレイシスト的発言をするトランプに入れたのだ。英国でも、下層の街に暮らしていると、界隈の人々が(彼らなりの主義を曲げることなく)左から右に唐突にジャンプする感じは肌感覚でわかる。これを「何も考えていないバカたち」と左派は批判しがちだが、実はそう罵倒せざるを得ないのは、彼らのことがわからないという事実にムカつくからではないだろうか。


左派ポピュリズムについては、私もこのブログで何度もブレイディみかこ氏のことばを引用して書いてきました。大事なのは、右か左ではなく上か下かだ、と。

そして、ブレイディみかこ氏やオーウェン・ジョーンズやポデモスのパブロ・イグレシアスに影響を与えているのが、ベルギーの政治学者のシャンタル・ムフです。

山本圭氏が邦訳した彼女の新著『左派ポピュリズムのために』(明石書店)は、現代の社会運動を担う人々にとってバイブルになり得るような本だと思いました。私は、本を読むとき、受験勉強のなごりで、重要と思う箇所に赤線を引いて、そのページに付箋を貼る習慣があるのですが、『左派ポピュリズムのために』は文字通り赤線だらけ付箋だらけになりました。

でも、その多くは、このブログで再三くり返していることです。

どこを引用してもいいのですが、たとえば、中道化するなかで新自由主義という”共通の土俵”に上がってしまった「社会ー民主主義」勢力(=左派リベラル)のテイタラクについて、シャンタル・ムフは次のように書いています。

 多くの国において、新自由主義的な政策の導入に重要な役割を果たした社会ー民主主義政党は、ポピュリスト・モーメントの本質を掴みそこねており、この状況が表している困難に立ちむかうことができていない。彼らはポスト政治的な教義に囚われ、みずからの過ちをなかなか受入れようとせず、また、右派ポピュリスト政党がまとめあげた諸要求の多くが進歩的な回答を必要とする民主的なものであることもわかっていない。これらの要求の多くは新自由主義的なグローバル化の最大の敗者たちのものであり、新自由主義プロジェクトの内部にとどまるかぎり、満たされることはない。
 (略)右派ポピュリスト政党を「極右」や「ネオファシスト」に分類し、彼らの主張を教育のせいにすることは、中道左派勢力にとってとりわけ都合がよい。それは右派ポピュリスト政党の台頭に対する中道左派の責任を棚上げにしつつ、彼らを不適合者として、排除する簡単な方法だからである。「民主的討議」から「過激派」を追い出すための「道徳的」フロンティアをつくり上げることによって、「善良なる民主主義者たち」は、自分たちが「不合理な」情念の台頭を止めることができると信じているのである。


でも、それは「政治的には無力である」とシャンタル・ムフは書いていました。

私たちは、右派ポピュリズムに学ばなければならないのです。生産諸関係のなかに「政治的アイデンティティ」を求めるような「階級本質主義」(教条主義的なプロレタリア革命の幻想!)から離別し、左派ポピュリズムに依拠することをためらってはならないのです。既存の政治から見捨てられた人々のなかに、もうひとつの”政治”を発見しなければならないのです。シャンタル・ムフは、「その結果として、平等と社会正義の擁護に向けた共通の感情を動員することで、『人民』の構築、すなわち集合的意志の構築が生じるだろう。これにより、右派ポピュリズムが推し進める排外主義政策と闘うことができるようになる」のだと書いていました。

※最近、文章を書くのがしんどいので、引用ばかりになってしまいましたが、ご容赦ください。


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歌を忘れたカナリア
「市民的価値意識」批判
2019.02.20 Wed l 本・文芸 l top ▲
今日の早朝6時前、車で首都高を走っているときでした。既に車は多く走っていましたが、まだ流れは順調でした。

途中、前方にスピードの遅い車が走っていたので、追い越そうとドアミラーで確認して右に車線変更したときでした。後ろから猛スピードで車がやってきたのです。そして、私の車の後ろにピタリと付け、プープープーとけたたましくクラクションを鳴らしながら激しくパッシングするではありませんか。

ルームミラーで見ると、ボンネット型のバンです。どこかの営業車なのでしょう。私は、頭に来ましたが、まさか首都高の上で急停車するわけにはいきませんので、しばらく走ったのち、左に車線変更をしました。すると、私の方にわざと車を寄せながら走り去って行ったのでした。横にピタリと付けられた際、運転手を見ましたが、五十絡みの作業服のようなものを着た男性でした。しかし、運転手はこちらを睨みつけるでもなく、まるで何かに取り憑かれているかのように正面を凝視したままでした。私は、逆にそれが怖いなと思いました。

こう書くと、ただ急いでいるだけだろうと言う人がいるかもしれません。また、あおり運転を受けないために心がけることを書いた記事なるものを見たこともあります。まるで私たちの日常にあるあおり運転は仕方ない面もあり、あおられる方にも非があるのだと言わんばかりです。

しかし、テレビニュースなどで取り上げられるような事例の方がむしろ特殊なのです。動画を見ると、車から降りて窓ガラスをドンドン叩いたり、暴言を吐いたり、車体を蹴上げたりしていています。なかには、酒を飲んでいたケースもあるようです。

あおり運転は、そんな特殊なものだけではないのです。もっと日常的にあるものです。車を運転している人だったら、普段誰しもが経験していることでしょう。むしろ、急いでいるのだろうとかトロトロ走っているからあおられるのだ、などというもの言いこそがあおり運転をはびこらせる要因になっているように思います。

あおり運転は、事故を誘発するケースも多いのです。特に、運転に未熟な人ほど、後ろからあおられたら、気が動転して運転を誤る危険性も大きいでしょう。しかも、運転に未熟な人ほど、あおり運転のターゲットになるケースが多いのです。

あおり運転もメンヘラの一種と言えないこともないでしょう。放っておくとどんどんエスカレートするという点も含めて、あおり運転はDVと似ている気がしないでもありません。警察は、特殊な事例をアピールすることで一罰百戒を狙っているのかもしれませんが、これほど社会問題になってもなおあおり運転をしているような人間には、もはや一罰百戒なんて効果がないのは明白です。

それは、歩きスマホと同じです。電車に乗ると、「歩きスマホは危険ですからやめましょう」とうるさいほどアナウンスしていますが、常識のある人間はもうとっくにやめています。今でも歩きスマホをやっている人間には、そんなアナウンスは馬の耳に念仏でしょう。それより、万歩計のような仕組みを利用して、歩行中にスマホを操作できないような機能をスマホ本体に組み込むべきでしょう。HUAWEIがどうのといった陰謀史観に囚われる前に、まずそういった身近な問題を検討すべきなのです。

言ってもわからない人間はいくら言ってもわからないのです。だったら、なんらかの強制力を伴った規制をかけるしかないのです。

新東名では、ヘリコプターであおり運転を監視しているようですが、ヘリコプターで監視して、果たして一日に何件摘発できるのでしょうか。

ヘリコプターで監視するような手間暇があるなら、私たちが普段利用する道路で日常的に行われているあおり運転をもっと摘発すべきです。ドライブレコーダーやスマホの動画をどんどん証拠物件として採用すべきなのです。警察庁は、あおり運転の取り締まりを強化して、2018年度は年間1万件以上摘発し、前年に比べ倍増したと胸を張っていますが、倍増であれなんであれ、あおり運転が日常的に繰り返されている現実は何ら変わりはありません。

私の経験では、トラックやバンなど営業車によるあおり運転が多いように思います。日頃からその道路を利用しているので、「オレたちの道路だ」「邪魔なんだよ」というような意識がはたらいているかもしれません。

昔から大型ダンプの運転が危険だと言われていますが、彼らはダンプカー協会という後ろ盾があるからなのか、我が物顔でやりたい放題のように見えます。また、深夜の「PRESS」と書いた新聞社の配送トラックや、収集を終えて湾岸部の清掃工場に向かう首都高のゴミ収集車もあおり運転の常習者です。「PRESS」ならあおり運転してもいいのか、ゴミ収集という公共サービスに携わっていればあおり運転をしてもいいのかと思ってしまいます。また、平日の夕方、環八の外周りなどでは、現場帰りの人夫送迎車がよく前の車をあおりトラブルになっているのを目にします。

あおり運転においても、後ろ盾(天下りの業界団体)のない一般車ばかりがやり玉に上がっていますが、常習的な”営業車”を重点的に取り締まれば、もう少し道路も平和になるでしょう。後ろのガラスに「後方録画中」というステッカーを貼っている車がありますが、自分を守るにはそんな方法しかないのかと思ってしまいます。無力というのは切ないもんだなと思います。あおり運転の問題にしても、悪貨が良貨を駆逐するような現実があるのです。

あおり運転は、私たちの日常で半ば常態化しているのです。テレビで取り上げられる特殊なケースだけではないのです。
2019.02.13 Wed l 日常・その他 l top ▲
千葉県野田市の10歳の女児が父親から虐待を受けて死亡した事件では、母親の両親から家庭内暴力の相談を受けていたにもかかわらず、女児から聴取することもなく「虐待はない」と判断して事態を放置した糸満市の教育委員会や、父親の暴力を具体的に記述し「先生、どうにかなりませんか」と訴えた女児のアンケート用紙をあろうことか父親に渡した野田市の教育委員会や、父親に強制的に書かされた女児の書面が嘘だとわかっていながら、それを根拠に一時保護を解除して家に戻す判断をした柏市の児童相談所など、またしても行政のずさんな対応が問題になっています。

それは、昨年起きた目黒の5歳女児虐待事件のときと同じです。今までも、子どもの虐待やいじめによる自殺が起きるたびにくり返し指摘されていたことです。ずさんな対応の背景に、児童相談所の人員不足や行政の縦割り意識があるという識者の意見も、いつものことです。そもそも人が足りないというのは、なにか問題が起きると決まって出てくる役所の常套句です。しかし、そんなことを百万遍くり返しても、虐待事件はなくならないでしょうし、学校や教育委員会や児童相談所のずさんな対応もなくならないでしょう。

たしかに、公権力が個人のプライバシーに介入することのむずかしさはあるでしょう。しかし、結果として子どもの命が奪われたのです。どうして関係機関が機能しないのか、どうして同じことがくり返されるのか、ということをもっと真面目に且つ深刻に考える必要があるでしょう。でも、メディアや識者には、そういった姿勢は皆無です。

メディアや識者の意見には、根本的に欠けているものがあるように思います。それは、公務員の仕事に対する当事者意識の欠如です。当事者意識の欠如は、公務員特有の事なかれ主義にも通じるものです。こういった事件が起きても、肝心な公務員たちはまったく他人事にしかとらえてないのではないか。また、担当した職員たちに対しては、「運が悪かった」「気の毒だ」というような見方しかしてないのではないか。

仕事などを通して公務員の生態を熟知している人たちから見れば、メディアの論調や識者の意見は、ただの気休めにしか思えないでしょう。メディアの論調や識者の意見もまた、公務員と同じ事なかれ主義にしか見えません。

母親も虐待に加担したとして逮捕されましたが、その論法に従えば、女児をさらに窮地に追いやることがわかっていながら、アンケート用紙を渡したり、自宅に帰したりした担当職員も、虐待に加担したと言えなくもないでしょう。

にもかかわらず、記者会見では「今後の課題としなければと思っています」などととぼけたことを言うだけです。記者会見における担当者の態度は、ひとりの子どもの命が失われたことに対する痛惜の念など微塵もないかのようです。ただ責任逃れに終始するばかりです。

一方で、生活保護の申請に来た人間に対しては、小田原市の例が示すように、公務員たちは居丈高な態度で門前払いするのが常です。そのくせ、強面の人間だと途端に弱気になり、ホイホイと申請を通してしまうのです。(極端な例ですが)ベンツに乗りながら生活保護を受けているというような話がときどきやり玉にあがりますが、それは単に窓口で断り切れなかっただけなのです。今回の女児の父親に対する対応と同じです。

税金にしても、取りやすいところから取るというのが”鉄則”だと言われますが、たしかに、私たちには強気な税務署が、ヤクザの事務所に税務調査に入ったなんて話は聞いたことがありません。

メディアや識者が言うように、児童相談所の人員を増やせば、今回のような無責任な対応がホントになくなるのでしょうか。そういった対策案は、(木を見て森を見ないではなく)”木を見ないで森ばかり見る”トンチンカンな議論と言わねばなりません。と言うか、問題の本質を隠蔽する役割さえ果たしていると言えるでしょう。

制度や組織の前に、まず公務員の仕事に対する意識そのものがきびしく問われるべきでしょう。未だに公務員=自治体労働者=自治労=プロレタリアートという噴飯ものの幻想にとらわれているのか、左派リベラルは、ここでも人員不足が原因だみたいな“焼け太り論”に与するのが関の山で、”公務員批判”すらできないのです。

左派リベラルに言わせれば、”公務員批判”は魔女狩りなのだそうです。”公務員批判”を日本維新の会のような安手のファシストに渡し、教条主義的なおためごかしの論理で現実をごまかすことしかできない左派リベラルのテイタラクが、ここでも露呈されているのです。

彼らは、役所は金儲けをするところではない、役所にコスト云々を言うのはお門違いだと言います。でも、公務員にコスト意識がないことが税金の無駄使いにつながっているのは誰が見てもあきらかでしょう。

公務員は、職務上の瑕疵は原則として問われないことになっています。つまり、責任は負わないようになっているのです。国家賠償法では、責任を負うのはあくまで国や地方公共団体です。だから、民間のように業務上過失〇〇という刑事罰は適用されないのです。それが公務員の事なかれ主義、無責任な対応を生む要因になっているように思えてなりません。

児童相談所の人員を増やしても、彼らの当事者能力のなさが解消されることはないでしょう。これからも同じような事件が起きる懸念は拭えません。

テレビのワイドショーでは、ゲストで呼ばれた児童相談所のOBが事件の背景や対応の仕方などを解説していましたが、スポーツ中継じゃないんだから「身内」に解説させてどうするんだと思いました。

DVというメンヘラに起因する行為に対して、教育委員会や児童相談所が対応すること自体、場違いな気がしてなりません。そもそも教育委員会や児童相談所には、DVがメンヘラに起因するという認識さえないのですからお話になりません。記者会見の質疑応答で、担当者が無能に見えるのもゆえなきことではないのです。DVのノウハウを持っているNPO法人などに「民間委託」するほうがまだしも現実的な気がします。と、公務員の問題を考えると、やはり、ネオリベの誘惑を抑えることはできないのでした。


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噂の真相休刊号


『噂の真相』の編集長だった岡留安則氏が1月31日、那覇市の病院で死去したという報道がありました。

岡留氏は、『噂の真相』休刊後も、移住先の沖縄からブログを発信し、BLOGOSなどにも転載されていましたが、そのブログも2016年4月に途絶えたままでした。どうしたんだろうと気になっていましたが、記事によれば、2016年に脳梗塞を発症、さらに昨年の11月、肺がんが見つかり、そのときは既に末期の状態だったそうです。

享年71歳というのは、早すぎる死と言うほかありませんが、やはり酒と煙草が寿命を縮めたのかもしれません。

私は、『噂の真相』は前身の『マスコミ評論』の頃から毎号欠かさず読んでいました。『噂の真相』に関しては、創刊準備号から休刊号まで今でも全て持っています。『噂の真相』は、業界では「ウワシン」と呼ばれていましたが、全共闘以後の世代にとっても、「ウワシン」と「マナコ」(『現代の眼』)は必携の雑誌でした。

当時(70年代)は、『現代の眼』以外にも、“総会屋雑誌”と呼ばれていた総合誌が多くありました。そういった雑誌の誌面を飾っていたのが、いわゆる新左翼的な言説です。三菱や三井など一流企業の広告が掲載された雑誌に、新左翼的な立場に依拠した記事が並んで掲載されていたのです。言うなれば独占資本と革命派が同居していたのです。60年代後半の叛乱の季節の余韻がまだ残っている時代でした。しかし、81年の商法改正によって、“総会屋雑誌”は次々と休刊に追い込まれていくのでした。

そんななかで、総合誌とやや性格を異にする『噂の真相』だけは、2004年の休刊まで、80年代90年代をひとり駆け抜けて行ったのでした。それは、『噂の真相』が“総会屋雑誌”(前身の『マスコミ評論』)を他山の石にして、広告に頼らない経営方針をとったからにほかなりません。だからこそ「タブーなき反権力スキャンダル雑誌」が維持できたのです。『噂の真相』のスキャンダリズムに比べれば、文春砲なんて(権力との対立を回避した)子供だましの似非スキャンダルにすぎません。『噂の真相』は実際に黒字だったようで、岡留編集長は(上野千鶴子と同じように)ポルシェに乗っている、という噂を耳にしたことがあります。

ちなみに、私も70年代の半ばの浪人時代、虎ノ門にある総会屋の事務所でアルバイトをしたことがあります。一張羅のスーツを着て、タクシーで丸の内などにある有名企業の総務部を訪問し、一冊数万円もする右翼の評論家の本を売っていました(と言うか、有無を言わさず売りつけていました)。総会屋の事務所の壁には、孫文の革命がなんたらというような扁額がかけられていました。文字通り、私は、(冗談ですが)竹中労の言う「左右を弁別せざる思想」を実践していたのです。もっとも、竹中労は、『噂の真相』のような雑誌は嫌いだと言ってました。また、女優とのスキャンダルを書かれた五木寛之氏は、噂の真相の真相という雑誌が必要だと皮肉を言ってました。

一度、地下鉄丸の内線の車内で岡留氏を見かけたことがありました。岡留氏は、いかがわしい金融業者が持っているようなセカンドバッグ(ワニ革ではなかったような)を小脇に抱え、ドアの横に立っていました。その姿がなんだかとても孤独な感じに見えたのを覚えています。

『噂の真相』の副編集長であった川端幹人氏は、朝日の記事で、岡留編集長の人となりを次のように語っていました。

朝日新聞デジタル
川端幹人さん 「すぱっと謝罪、また書く」 岡留さん悼む

覚悟や理念はあっても、スタッフを責めたり、説教したりすることはなかった。変なプライドもなく、謝罪する時は割り切ってすぱっと謝罪する。そしてまた書く。


それは『噂の真相』の特徴でもあったように思います。親しくしていても、いつ斬られるかわからないという声はよく聞きました。でも、そのあとも、何事もなかったかのように親し気に接してくるのだそうです。そういった割り切り方、遠慮のなさは、みずからの人間関係においても少なからず参考になりました。


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2019.02.03 Sun l 訃報・死 l top ▲