吉本をめぐる騒動には、メディア(芸能マスコミ)やただメディアに踊らされるだけのネット民(“ぐみん”とルビ)のお粗末さが、これでもかと言わんばかりに露呈されているように思いました。

ご存知のとおり、当初、振り込め詐欺グループから「お金をもらってない」とウソを吐いた宮迫博之や田村亮は、メディアやネットで袋叩きに遭いました。特に、芸能マスコミにとって、謝罪会見もしない彼らは目の敵でした。

ところが、二人の捨て身の会見で、謝罪会見を吉本上層部から止められていたことが暴露されると、今度は“吉本叩き”に空気は一変したのでした。

二人の会見のあと、アクセスジャーナルの山岡俊介氏は、つぎのような記事をアップしていました。

アクセスジャーナル
<主張>「吉本興業に、反社会勢力からの謝礼を理由に宮迫らをクビにする資格なし」

現在、私は会員ではないので、記事の最後まで読むことができませんが、公開された部分にはつぎのように書かれていました。

そもそも「吉本興業」側にはそれを理由に所属芸人をクビにする資格はないのではないか。
なぜなら、未だに吉本興業自体、反社会勢力とのつきあいを絶てていないのではないかとの疑惑があるからだ。


裏事情にも精通するある芸能関係者は、20日の宮迫らの会見後、こんな電話を本紙に寄越した。
「宮迫らは会見では告発してたけど、数日もすれば口を噤むよ。見てな。


案の定、二人の会見から10日以上経った現在、「この問題の本筋は、宮迫らが反社グループからお金をもらったことだ」「宮迫らがウソを言わなければ、ここまで問題が大きくなることはなかった」などと、”吉本叩き”は問題のすり替えだと言わんばかりに、再び空気は変わりつつあります。

しかし、忘れてはならないのは、二人の捨て身の会見で、吉本興業に関して、看過できない二つの大きな問題が暴露されていたことです。

ひとつは、振り込め詐欺グループのパーティについて、田村亮が入江慎也に「大丈夫か?」と訊いたら、「吉本の会社を通したイベントについてくれているスポンサーなので安心です」と答えたという話です。それで、宮迫も「安心した」と言ってました。この「スポンサー」というのは、振り込め詐欺グループのフロント企業のようで、間接的であれ、吉本興業は振り込め詐欺グループのフロント企業と取引きをしていた疑惑があるのです。もっとも、入江は吉本公認で別会社を作って、今回のようなイベントなどの営業をしており、入江周辺では”闇営業”かそうではないのかという線引きも曖昧だったのかもしれません。

宮迫の契約解除の引き金になった(と言われている)金塊強奪事件の犯人たちとの写真についても、私はどこが問題なのかさっぱりわかりませんでした。たまたま飲み屋で一緒になり、トイレから出てきたら、彼らに囲まれて写真を撮らせてくれと言われて断りきれずに写真を撮った、「ただそれだけのことです」と宮迫は言ってましたが、芸能人の場合、こういったケースはよくあるのではないでしょうか。まして、相手が強面だったらよけい断ることはできないでしょう。それがどうして「ギャラ飲み」になるのか。

そもそもフライデーが一連の写真をどうやって手に入れたか、そっちの方が問題でしょう。反社周辺の人間がフライデーに写真を持ち込んだのは間違いなく、フライデーが謝礼を払って買取ったと考えるのが常識でしょう。反社からお金をもらったことと反社にお金を渡したことにどれほどの違いがあるんだろうかと思ってしまいます。考えてみれば、今回の騒動を仕掛けたのは、(写真を持ち込んだ)反社なのです。フライデーをはじめメディアは、反社に振りまわされているだけなのです。なんだか反社の連中の高笑いが聞こえるようです。

もうひとつは、岡本社長から「在京5社、在阪5社のテレビ局は吉本の株主だから大丈夫と言われた」という発言です。私は、なんだそういうことかと思いました。だから、テレビが吉本芸人に占められていたのかと合点がいきました。

能年玲奈(のん)や元SMAPのメンバーの例を上げるまでもなく、芸能人が独立するとどうして干されるのかという問題の根っこにあるのも同じでしょう。そこにあるのは、芸能プロダクションとテレビ局の共犯関係です。それは、芸能マスコミが華々しくぶち上げる芸能人のスキャンダルなるものも同じです。ターゲットになるのは、いつも弱小プロか個人事務所の人間ばかりなのです。

昔は、芸人の楽屋にまでヤクザが借金の取り立てに来ていたそうですが(タイガースの選手も、球場に取り立てに来ていたそうです)、それは芸人だけの話ではないのです。吉本自体も興行会社として闇社会と持ちつ持たれつの関係にあったというのは、多くの人が証言しています。

前に紹介しました森功著『大阪府警暴力団担当刑事』(講談社・2013年刊)では、わざわざ「吉本興行の深い闇」という章を設けて、吉本と闇社会の関係について書いていました。

昭和39年(1964年)の山口組に対する第一次頂上作戦を行った兵庫県警の捜査資料のなかには、舎弟7人衆のひとりとして、吉本興業元会長(社長)の林正之助の名前が載っていたそうです。

2006年、正之助の娘の林マサと大崎洋会長(当時副社長)&中田カウスの間で起きた内紛(子飼いの芸能マスコミを使った暴露合戦)は、私たちの記憶にも残っていますが、その背後にも裏社会の魑魅魍魎たちが跋扈していたと書いていました。本では具体的な名前まで上げて詳述していますが、巷間言われるような、裏と表、守旧派と開明派、創業家と幹部社員の対立というような単純なものではなかったのです。また、その対立は、2011年の島田紳助の唐突な引退にもつながっているそうですが、今回の騒動にもその影がチラついているように思えてなりません。

一方で、総合エンターテインメント企業を名乗る吉本興業は、テレビ局と癒着することで公序良俗の仮面をかぶり、さらには官邸と密接な関係を築いて国家の事業にまで触手を伸ばすようになったのでした。それが、今回のようなゴタゴタを招いた(謝罪会見を止めた)遠因であるのは間違いないでしょう。

それにしても、岡本社長の会見を見て、あんなボキャブラリーが貧しく如何にも頭の悪そうな人間がどうして社長になったのか不思議でなりませんが、それもひとえに岡本社長が大崎会長の操り人形だからなのでしょう。岡本社長のパワハラも、虎の威を借る狐だからなのでしょう。「大崎会長が辞めたら自分も辞める」という松本人志や、「大崎会長がいなくなったら吉本はもたない」という島田紳助の発言は、将軍様ならぬ会長様の意向を汲んだ(あるいは忖度した)、多分に政治的なものと考えるべきなのです。

ここにも怖い怖い芸能界のその一端が垣間見えているのです。


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34人の命を奪った京都アニメーションの放火事件。事件直後、みずからも全身にやけどを負った犯人の41歳の男は、「(小説を)パクりやがって」と叫んでいたとか。

警察も、犯人はもともと精神的に不安定なところがあったと言ってましたが、男が過去に起こした騒音トラブルやコンビニ強盗などを見ても、多分に被害妄想のようなところがあり、精神的な疾患を抱えていたのは間違いないでしょう。

現在、重篤な状態で供述も得られないことから、「犯行の動機はヤブの中」などとメディアは報じていますが、仮に犯人から供述が得られたとしても、おそらくメディアが求めるような動機はなく、「ヤブの中」で終わるのではないでしょうか。

犯人は、幼い頃に両親が離婚し、タクシー運転手をしていた父親に、ほかの兄妹とともに育てられたそうですが、経済的には貧しかったと言われています。

新聞の記事によれば、高校は定時制に進み、昼間は埼玉県の文書課の非常勤職員として「各部署に手紙や文書を配る」、「メールボーイ」呼ばれる仕事をしていたそうです。その頃は、同年代の同僚と明るく楽しそうに仕事をしていたそうで、部屋を出入りするときも大きな声で元気に挨拶していたのが印象的だったという証言もありました。

しかし、仕事が民間委託になったことで契約が打ち切られ、その後は、郵便局やコンビニなどでアルバイトをしていたそうです。また、派遣切りに合ったりして、住まいも転々とするようになったのだとか。

そして、30代に入ってから、騒音などでまわりとトラブルを起こすようになります。貧困と孤独。同じスタート台に立つことさえできない社会の現実。犯人は、その理不尽さを呪ったに違いありません。30代になり、将来に対する悲観と焦りに、精神的に追いつめられていったというのは容易に想像できます。秋葉原事件の犯人や川崎殺傷事件(登戸事件)の犯人と共通点を見つけるのはそう難しいことではないでしょう。

派遣を「働き方の多様化」だと積極的に捉えるムキもありますが、派遣は雇用の安全弁として新自由主義が要請してきたのであり、「働き方の多様化」が“資本の論理”であるのは言うまでもありません。しかし、政府や財界は、その“資本の論理”をあたかも「生き方の多様化」であるかのように、詭弁を弄して“個人の論理”にすり替えているのです。さらには左派リベラル界隈でも、正規社員=社畜のイメージを盾に、正規社員だけが唯一の生き方ではないなどと、資本の論理に追随するような考え方さえ存在します。

どうして非正規が問題なのかと言えば、非正規では経済的にまともな人生が送れないからです。国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば、年齢や企業規模によって多少の違いはありますが、非正規の年収はほぼ200万円前後です。しかも、雇用は不安定です。どう考えても、非正規で生きて行くなんて無理なのです。でも、現実には、非正規の人たちは2162万人(厚労省労働力調査・2019年1月~3月期の速報値)もいるのです。

だったら、待遇を改善すればいい。安定した収入と安定した雇用を保障すればいいじゃないか。政府はそう言って、正規と非正規の格差の解消を「働き方改革」のひとつの柱に据えています。でも、派遣が資本の要請である限り、それが絵に描いた餅の気休めにすぎないことはあきらかでしょう。

京アニ放火事件の犯人は、やったことは特殊ですが、存在自体は特殊でもなんでもないのです。同じような境遇の人間は、私たちのまわりにもいくらでもいます。メディアが言うように、動機は「ヤブの中」なんかではないのです。ただ彼らは現実を見ようとしてないだけです。


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17日の水曜日、再び埼玉の山に行きました。

今回は、八高線の毛呂駅から鎌北湖を経て、峠と山を越えて西武秩父線の吾野駅に至るルートで、距離は12~3キロです。

前回と同様、ほとんど眠ってない最悪の状態で出かけました。中止にしようかと思ったのですが、とにかく、行けるところまで行こうと電車に乗りました。

西武池袋線の東飯能でJRの八高線(八王子と高崎を結ぶローカル線)に乗り換えたものの、八高線に乗るのは初めてだったので、うっかり反対側の電車に乗ってしまい、途中で引き返すというアクシデントもありました。

八高線は本数が少ないので、引き返す際も、次の電車まで20~30分待たなければなりません。そのため、池袋を出たのが6時すぎだったのに、毛呂駅に着いたのは、なんと10時近くになりました。

毛呂駅は、埼玉医科大やその付属病院があります。しかし、このあたりは、地方と同じように、移動手段はほとんど車なので、大学病院があるにもかかわらず毛呂駅の乗降客は一日700人くらいだそうで、駅前は前回の越生よりは商店らしきものがあったものの(ただ休みなのか、ほとんど閉まっていた)、おせいじにも賑わっているとは言い難い感じでした。

私は、埼玉に住んでいた頃に、大学病院の前の道路は何度も通ったことがあります。前の道路は、あんな山奥にもかかわらず、夕方になると渋滞するのでした。それは、なんだかとても奇妙な光景に見えました。大学病院にも、友人が入院していたことがあり、お見舞いに行ったことがあります。

鎌北湖は、私が埼玉に住んですぐの頃、大学病院に入院した友人から連れて行ってもらいました。それから、私は、埼玉の山に行くようになったのでした。言うなれば、鎌北湖は、埼玉の山に行くきっかけになった場所でもあるのです。

当時、鎌北湖は、東武鉄道が観光名所として売り出していて、東上線の電車の中にも、鎌北湖の観光ポスターなどが貼っていました。鎌北湖には、宿泊施設もあり、宿泊料と乗車券がセットになった“お得なプラン“なんていうのもありました。日本中がちょうどバブルに浮かれていた頃です。

私は、宿泊施設はとっくになくなっているものと思っていましたが、ネットで調べたら、ホテルは現在も予約の入ったときだけ営業しているそうです。ホテル(元々はユースホステルだったらしい)自体は1990年代に廃業し、その後、飯能市(?)かどこかの「公共の宿」になっていたそうです。

旅館の方は、完全な廃墟になっていました。一部の好事家の間で”心霊スポット”として知られているそうですが、案の定、不審火で建物の一部が焼失したらしく、金網には「敷地内に勝手に入るのは犯罪です。警察に通報します」という看板が取り付けられていました。そう言えば、峠の奥にも、昔、川越市の山の家というのがありましたが、あれもおそらく廃墟になっているのではないでしょうか。

また、都幾川村の林道沿いには、不動産会社かなにかが建てたペンションのような白い建物(実際は社員の研修所だったらしい)があったのですが、それを地下鉄サリン事件のあと、オウム真理教が買収して、麻原彰晃の家族が住むようになり、麻原の子供を都幾川村の小学校が入学拒否をしたとして大騒動になったことがありました。

私は、最初、車で林道を登っていたとき、突然目の前に現れた白い建物にびっくりした覚えがあります(その頃は既に建物は無人になっていた)。さらにそれから1年後くらいに、再び建物のある林道を走っていたら、「オウム反対」「オウムは出ていけ」などという立札がびっしり林道沿いの木々にぶら下げられていたので、二度びっくりしました。そして、事件後各地を漂流したオウムの信者たちが、その建物に住み着いたことを初めて知ったのでした。

その頃は、山に行くと、警察官からしょっちゅう職務質問を受けるようになりました。オウムの信者たちは、人目を忍んで峠を行き来していたらしく、警察が峠の上で24時間検問していたのです。それで面倒臭くなって山に行くのをやめたのでした。

鎌北湖(と言っても、ホントは灌漑用のダムですが)の周りには、表札は出ているものの、人が住んでいる気配のない半ば朽ちた建物もありました。一方で、実際に人が住んでいる建物もありましたし、食堂のようなものも一軒残っていました。

毛呂駅から鎌北湖までは、5キロ弱で、歩いて1時間ちょっとでした。湖のまわりを一周したあと、駐車場の隅で休憩しながら、どうしようかと思いました。吾野駅に行くには、これから8~9キロ歩いて峠と山を越えなければなりません。このまま横になってしばらく眠りたい心境でした。引き返すか。

そう思っていたとき、向こうの道を山から徒歩で下りて来る人物が見えました。リュックを背負って、頭に白いタオルを巻いた、如何にも昔から山歩きが好きだというような、山でよく見かけるタイプの初老の男性です。今どきの山ガールなどをしかめっ面で睨みつけるような”偏屈老人”です。

最近の登山ブームは、登山自体がファッション化し、服装や装備にブランドを競うような風潮があるのはたしかでしょう。著名な登山家たちがメーカーの広告塔になり、素人を煽っているのです。そのためかどうか、登山関連の商品はとにかくバカ高いのでした。

でも、山好きに聞くと、日帰りのトレッキングレベルでは、中国製の安いザックで充分だし、シューズも有名ブランドではない、安価なもので用は足りると言います。速乾のポリエステル製の衣類にしても、ブランド品でなければ安いのがいくらでもあります。ブランドものでなければダメだと言うのは、広告塔になっている登山家や登山雑誌の編集者たちのセールストークなのです。

一方、山好きの”偏屈老人”たちは、作業ズボンのようなものを穿き、頭にタオルを巻いて、なんだか木こりや猟師の延長のような恰好をしています。でも、昔はみんなそうやって山を歩いていたのです。今、私たちが歩いている登山道も、昔は木こりや猟師が歩いていた道なのです。そう考えれば、山好きの”偏屈老人”たちのしかめっ面も、一理あるような気がしました。

私は、山から下りてきた”偏屈老人”を見たら、やはり、山に登ろうと思ったのでした。そして、スマホの登山用アプリを立ち上げると、山の中に入って行ったのでした。

考えてみれば、山と言っても、子どもの頃、祖父と一緒に行った山とそんなに変わりはないのです。祖父は、私が生まれた記念や小学校に入学した記念などに、所有する山に木を植えていました。そして、ときどき私を連れて下刈りに出かけていました。

後年、親がお金がないと嘆いていたので、「あの山を売ればいいんじゃん」と私が言ったら、父親が、「バカ、あんなものはとっくにねぇ(無い)わ」と言うのです。「エエッ、どうして?」と訊くと、「お前のために売ったんじゃ」と言われました。

今回のコースは、距離は長かったものの、前回のような岩場もなく、それほど神経を使うことはありませんでした。ただ、アップダウンが続くので、結構足に来ました。そんなとき、ハアーハアー肩で息をしながら坂を見上げ、体力がなくなったなあとしみじみ思うのでした。

峠を下る途中に、ユガテという集落を通りました。ネットでは、「桃源郷」などと言われていますが、私の田舎に行けば、似たような集落はいくらでもあり、山奥のよくある集落にしか見えませんでした。

私は、若い頃、”九州の秘境”と呼ばれる熊本の五家荘を2日間かけて縦断したことがあります。阿蘇の方から山に入って山越えし、五木の子守唄で有名な五木村を経て、それこそ麻原彰晃が生まれた八代に下りたのでした。

五家荘の人たちは、昔は柳田國男の「山の人生」を彷彿とするような生活をしていて、道らしい道もなく、山の斜面を上り下りしていたという話を聞きました。今で言えば、毎日登山をしていたようなものです。だから、私が訪れた頃でも、村には小学校の分校が6つくらいありました。学校が遠すぎて、通えないからです。

ユガテでは、家の軒先に「カメラで録画しています」という注意書きの札が下がっていました。「桃源郷」にあるまじき光景に戸惑いましたが、花や野菜を盗む不心得者がいるのかもしれません。トレッキングなどと称し、モンベルやノースフェイスやパタゴニアのシェルを着てカッコをつけていても、そうやって山奥の「桃源郷」を荒らす輩がいるのでしょう。登山ブームと言っても、油断も空きもあったもんじゃないのです。

山が好きな人に悪人はいないというのは、おめでたい幻想でしょう。すれ違うとき、「こんにちわ」と挨拶するので、そういった幻想を抱くのかもしれません。私が聞いた話では、頂上にアタックする際などに、余分な荷物を登山道や山小屋に置く場合があり、それを登山用語で「デポ」と言うのですが、デポしていると、中の用具が盗まれてなくなっていることもあるそうです。私は、その話を聞いて、どこにも泥棒はいるんだなと思いました。

ユガテからはずっと下りだと思っていたら、何度か上りもあり、そのたびに立ち止まってため息を吐いている自分がいました。事前に地図で調べて、「飛脚道」(昔、飛脚が山越えする際の予備の道だったらしい)を下り神社の横に降りるはずだったのですが、着いたのは福徳寺というお寺の横でした。途中でルートを外れたみたいです。

それまでも、何度か道を間違え、そのたびに登山アプリの音声の警告メッセージでもとの道に戻ったのですが、最後の間違いは、チェックポイントが同じだったからなのか、警告メッセージが発せられなかったみたいです。山に行って怖いのは、自分の方向音痴と熊ですが(ちなみに、九州の山には熊はいません)、この登山アプリはとても便利です。一応地図とコンパスも持って行きますが、よほどのことがない限りコンパスを使うことはなくなりました。

福徳寺には、国東の富貴寺に似た立派な釈迦堂がありました。県の重要文化財に指定されているそうです。かなりの名刹と見受けられましたが、人の気配がなく森閑としていました。聞けば、住職が住んでない「無住寺」だそうです。

帰りは、東飯能から八高線で八王子に出て、八王子から横浜線で帰りました。なんやかやで2時間近くかかりました。山に行くと帰りはどうしても帰宅ラッシュに遭うので、それが憂鬱です。せっかくいい汗をかいたあとなのに、電車の座席に座ることが人生の目的みたいな人たちにもみくちゃにされ、くたくたになって帰ってきました。


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2019.07.20 Sat l l top ▲
山に行ってきました。と言っても、行ったのは埼玉の越生の山で、練習のためです。朝7時すぎの東武東上線に乗り、越生駅まで行きました。仕事の関係で前の日は一睡もしてなくて、最悪のコンディションでした。

東上線は、昔、沿線に住んでいましたので、毎日利用していたなつかしい路線です。通勤時間帯ではあるものの、都心とは逆方向なので、空いているだろうと思ったら、とんでもない、座っている人より立っている人のほうがはるかに多いくらいでした。昔では考えられないような込み具合で、びっくりしました。

それだけ沿線の開発が進み、勤務先や通学先が増えたということなのでしょう。たしかに、時折、車で通ることがあるのですが、昔に比べて、ショッピングモールや総合病院などが増えています。幹線道路沿いもあたらしい建物が増えて、開発が進んでいるのがよくわかります。

川越あたりまでは、制服姿の高校生の姿も多くありました。普通、通学と言うと、都心に向かうようなイメージがありますが、実際は都心とは逆方向に通っている高校生も多いのです。川越をすぎると、電車のなかは大学生が目立つようになります。

私は、会社を辞めた翌日、いつもの時間帯に都心とは逆方向の電車に乗った思い出があります。そのときは、電車のなかはガラガラでした。朝、都内に向かう通勤の電車を待っているときに、ホームの反対側にやって来る、逆方向の電車に乗ってみたいとずっと思っていたのでした。路線バスの運転手が、路線を外れ違う道を走ってみたいと思うのと同じかもしれません(そんな映画がありましたが)。

越生に行くには、坂戸駅で支線の越生線に乗り換えなければなりません。越生には車では何十回と行ってますが、電車で行くのは初めてです。越生線になると、車内は学生に占領されたような光景になりました。意外にも、埼玉の奥には大学のキャンパスが多くあるのでした。

乗り換えの時間などもあり、越生駅に着いたのは8時半すぎでした。越生からは、目的地である黒山行きのバスに乗るのですが、バスは1時間に1本しかなく、次の便まで40分待たなければなりませんでした。なんだか蛭子能収の「路線バスの旅」みたいでした。

越生の駅前にはコンビニもなく、「お土産」の看板を掲げた食料品店が一軒あるきりでした。その店でおにぎりを買って、駅の待合室で食べて時間を潰しました。ちなみに、越生線はワンマン電車で、越生駅も無人駅でした(ネットで調べたら今年から無人駅になったみたいです)。

越生駅から25分くらいで終点の黒山に着きました。乗客は、私とやはりトレッキングの恰好をした女性の4人グループの5人だけで、途中、乗降客もなく、全員終点の黒山で降りました。

黒山は、黒山三滝という滝の名所で、近くに田山花袋も訪れたという鉱泉宿もあります。車で来たことはありますが、修験道が修行したという峠への登山道を登るのは初めてです。

滝見学が目的ではないので、最初の滝の横から滝の上に登り、それから「パノラマコース」と道標で示された峠への道を登り始めました。ところが、これが想像以上に荒れた急坂で、息が上がりました。樹林帯のなかの沢と崖がつづく道を登るので、湿気も多く、周辺は天然記念物だというシダが茂っています。さらに途中から岩場も多くなり、両手を使って登る場面も何箇所か出てきました。また、数メートルですが、クサリが架かっているところもありました。しかも、途中から雨が降り始めたので、岩が滑り、かなり気を使いました。

同じルートを登った人のブログを見ると、途中で引き返したという人もいましたが、その気持もわかります。低山と言っても、あなどれないのです。

体力がないので、途中、休み休み登りました。鬱蒼とした森林のなかにいるのは、私一人です。近くでクマの目撃情報があったという注意書きもありましたが、クマに襲われても誰も助けてくれません。それどころか、足を踏み外して、崖の下に落ちても、誰にも知られることもないのです。

大きな岩が目の前に出現すると、「もう登れないよ」と思うのですが、しかし、いざ登り始めると、火事場の馬鹿力のような力が出て、自分でも意外なほどクリアできるのでした。岩登り自体は、スリルがあって楽しいのでした。子どもの頃、よく岩登りをして遊んでいたので、そのときの感覚が思い出されるのでした。

雨と一緒に汗が滝のように流れ、心臓が波打っているような激しい鼓動に思わず声を漏らすほどでした。登っている最中は、「なんでまた山に登りたいなんて思ったんだろう」「山に登るなんて自分には無理だよ」と思うのですが、上まで登るとまた来たいと思うのでした。

峠に辿り着き、林道脇に設置されたベンチでしばらく休んでいたら、下から声が聞こえてきました。自分だけでなく、同じルートを登ってくる人がいたのでした。

見ると、来るときのバスで一緒だった女性のグループでした。途中で、同じルートに合流したのでしょう。みんな、ハアハア息をしてしんどそうでした。

「お疲れ様でした。結構しんどかったでしょ?」と声をかけると、「もう泣きそうでした」「岩がきつかったあ」と言ってました。「埼玉の山もバカにできないですね?」と言うと、「ホント、こんなにきついとは思いませんでした」と言ってました。

私は、自分の体力を測るのにいいコースだなと思いました。熊が怖いけど、自分の体力を測るためにまた来たいと思いました。

そのあと、別の峠に移動して、峠の茶屋で山菜の天ぷらそばを食べました。その峠も、昔は車でよく来ましたが、こうして尾根伝いに林道を歩くのは初めてでした。

茶屋では、もう60年やっているという、茶屋の主のおばあさんと話をしました。最近は、峠にも外国人がやって来るのだそうです。「毎日、必ずやって来ますよ。多いときは、10人くらい来る日もあります」と言ってました。その日も、ウインドシェルを着た金髪の青年が、蕎麦を食べていました。

「何を言っているのかチンプンカンプンで困りますよ」

それで、イギリスの大学に留学していたという女の子がときどきアルバイトに来るので、その子に頼んで英語のメニューを作ってもらったと言ってました。

峠の茶屋の栄枯盛衰の話も聞きました。峠はもう東武ではなく西武のテリトリーなのですが、昔は、西武線の終点が吾野駅だったというのは初めて知りました(あとで調べたら、終点が秩父になったのは1969年です)。その当時は、吾野駅からハイキング客が登ってくるので茶屋も繁盛したそうです。また、学校の遠足でもよく峠まで来ていたそうです。

「西武が秩父まで伸びてからハイキングの客がガクンと減ってしまいました」「その分、秩父の人間たちは喜んでいますよ。西武様々ですよ」と言ってました。なんだかことばの端々に秩父の人たちに対する対抗心のようなものを感じましたが、もしかしたら昔から地域対立があり、秩父事件のような歴史も関係しているのかもと勝手に想像しました。

西武線が伸びるまでは、秩父の人たちの交通手段は秩父鉄道だけで、都内に出るには、秩父鉄道で寄居まで行って、そこから東武東上線で池袋に出るしかなかったそうです。「そりゃ、不便でしたよ」と言ってました。私は、その話を聞いて、だから、秩父は熊谷との結びつきが強かったんだなと思いました。買い物も熊谷に行っていたし、優秀な生徒は、熊谷高校や熊谷女子高に通っていたという話を聞いたことがあります(埼玉では、旧制中学の流れを汲む高校は、今でも男女別学の伝統が残っているのです)。

ちなみに、東武東上線が寄居まで開通したのが1925年で、秩父鉄道の熊谷・秩父間が開通したのが1930年です。それまで秩父は、交通の便の悪い辺境の地だったのです。私が秩父事件のことを知ったのは、井手孫六の一連の著書によってですが、1884年(明治17年)、秩父困民党が蜂起した秩父事件は、文字通り日本の近代史で特筆すべき辺境最深部でおきた窮民革命だったと言えるのかもしれません。

帰りは、吾野駅まで下って、飯能と練馬で乗り換え、副都心線で帰ってきましたが、2時間以上もかかってしまいました。

体重も既に10キロ近く落としましたが、あと5キロ落としたいと思っています。毎日、スクワットで登山に必要な大腿筋と臀部の筋肉を鍛え、低山登山を重ねながら岩登りの練習もしたい。そして、年齢的なタイムリミットも見極めつつ、人生最後の挑戦をしたいと思っています。

余談ですが、先日、登山雑誌に載っていた穂高の歴史を読んでいたら、1941年に西穂高の西穂山荘が建設されたと書いていました。1941年と言えば、真珠湾攻撃がおこなわれ、日米戦争がはじまった年です。日本は、既にその前から中国大陸や南洋諸島に進出し、侵略戦争の泥沼にはまり込んでいました。そんな戦時下に穂高連峰の南端の西穂高岳に山小屋を建設したというのは、なんと(時流に反する)浮世離れした話なんだろうと思いましたが、そういった”非日常性”が登山の魅力でもあるのです。今の自分にも、前に山に来ていた頃と同じように、個人的に逃避したい日常があり、それが再び山に向かわせた理由でもあります。

また、女優の杏が、二十歳のとき、奥穂高から西穂高まで穂高連峰を縦走したことも知りました。穂高の縦走は、国内でも屈指の難ルートですが、実際にジャンダルムやピラミッドピークも登ったのだとか。私は、その話を聞いて、いっぺんに杏を尊敬しました。

次回は、奥多摩か丹沢に行こうと思っています。そして、来月か再来月には、また、長野に行きたい。こうしてだんだん”非日常”への思いがエスカレートしていく自分なのでした。


※途中で雨が降り始めたり、きつくて撮る余裕がなくなったりしたので、写真は登り始めの部分しかありません。

奥武蔵1

奥武蔵2

奥武蔵3

奥武蔵4

奥武蔵7


2019.07.12 Fri l l top ▲
津原泰水氏の『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫)を読みながら、ふと、山本太郎のれいわ新選組が6人目の候補者にヒキコモリの人間を擁立したら面白いのにと思いました(フリーターを擁立する可能性はあるように思いますが)。

アンダークラスに依拠する政党として、これ以上のインパクトはないでしょう。そして、ヒキコモリたちが選挙のスタッフに参加すれば、文字通り小説を地で行くような話になり、若者から中高年まで100万人以上いると言われるヒキコモリたち=「忘れられた人々」にとって、大きな希望になるのは間違いないでしょう。

こう書くと、ヤユして書いているように思うかもしれません。ヒキコモリの話をすれば、ややもすればそう誤解されることが多いのも事実で、「ヒッキー」は言わずもがなですが、ヒキコモリということば自体にも、既にヤユするようなイメージが付与されているのです。ヒキコモリが、労働力の再生産という資本主義社会のオキテに反する、それこそ生産性のない存在だからでしょう。

だったら、それを逆手に取ればいいのだと思います。れいわ新選組から立候補した重度障害者の木村英子氏は、立候補の要請が来た際、「障害者を利用している」と山本太郎がバッシングされることを心配したそうです。それに対して、山本太郎は、「上等ですよ。利用して制度を変えていけばいいじゃないですか」と答えたのだとか。彼には、そういう(政治家として必須の)したたかさを持っているのです。

山本太郎は、朝日新聞のウェブサイト「論座」で、れいわ新選組の政策を表明していますが、立憲民主党や国民民主党と一線を画した反緊縮の主張には傾聴に値するものがあると思いました。

論座
山本太郎から自民党を支持してきた皆様へ

ヨーロッパで若者たちをひきつけたポデモスやシリザと同じように、反緊縮を主張する政党が日本にも出てきたことの意味は、私たちが想像する以上に大きいのかもしれません。現に、僅か3カ月で2億円以上の寄付金を集めた、れいわ新選組ブームと言われる現象までおきているのです。私は、(買い被りと言われるかもしれませんが)ユーチューブで山本太郎の辻説法を見るにつけ、シャンタル・ムフの言う「左派ポピュリズム」ということばが連想されてなりませんでした。

ただ、ポデモスやシリザが、「急進左派」と呼ばれ、ラジカルな大衆運動を背景に生まれた政党であるのに対して、れいわ新選組はそういった基盤をもっていません。あくまで議会内の政党にすぎないのです。そのため、ブームがブームで終わる可能性もあるでしょう。選挙が近づけば、マッチポンプがお家芸の朝日新聞が手のひらを返して、れいわ新選組を「落とす」に違いありません。また、ホントにれいわ新選組が脅威になれば、文春や新潮を使ったスキャンダルが仕掛けられるかもしれません。既成政治の洗礼を受けるのはこれからなのです。そういったことも含めて、アンダークラスに依拠し反緊縮の旗を掲げる、このあたらしい政党の行く末を注視する必要があるでしょう。
2019.07.01 Mon l 社会・メディア l top ▲