「電波芸者」ということばは、70年代か80年代の初め頃、どこかの雑誌の匿名コラムで、田原総一郎氏に対して言っているのを目にしたのが初めてだったように思います。

それが今や「電波芸者」だらけです。「電波芸者」は、本来とても恥ずかしいことなのに、いつの間にか権威ズラしてのさばるようになっています。いつからテレビに出ることが恥ずかしいことではなくなったのか。

テレビ朝日の「報道ステーション」のコメンテーターをつとめていた古賀茂明氏が、27日に最後の出演をした際、官邸からの圧力で”降板”させられたと発言したことに対して、「電波芸者」たちがいっせいに批判を浴びせています。その代表格が、竹田圭吾氏と江川詔子氏でしょう。

二人はそれぞれTwitterでつぎのように批判していました。

竹田圭吾Twitter20150327

江川詔子Twitter20150327

二人ともテレビに出る「機会」が非常に「貴重」なものだと思っているみたいです。だから、その「機会」を大事にしなければならないのだと。

それにしても、竹田氏は、「責任」や「義務」ということばをどっちに向けて言っているのかと思います。竹田氏の発言は、自民党の政治家などが、自由には「責任」や「義務」が伴うことを忘れていると言うのとよく似ています。

江川氏も然りです。古賀氏は、今回の”降板”の裏にある官邸の圧力や、テレビ朝日や根っからの「電波芸者」である古舘伊知郎周辺の報道機関にあるまじき”事なかれ主義”を批判しているのですが、江川氏は、それを「個人的な恨み」だと矮小化しているのです。そうすることで、「電波芸者」であるみずからを合理化しているように見えます。もしかしたら、「私は大丈夫ですよ」と言いたいのかもしれません。

私の友人に講演を斡旋する仕事をしている人間がいますが、彼によれば「テレビに出ている人」というだけで講演の依頼が多く、講演料も跳ね上がるのだそうです。だから、ワイドショーのコメンテーターやキャスターなどは、平日はテレビで顔を売り、週末は講演で地方をとびまわって荒稼ぎしているのだとか。

かくも「電波芸者」は金のなる木なのです。テレビ局様々なのです。そして、そのおいしい仕事を維持するためには、権力に対して「責任」と「義務」という恭順の意を示すことを忘れてはならないのです。

竹田氏や江川氏らの“古賀批判“は、眉に唾して聞く必要があるでしょう。彼らがときに口にする「政府批判」(らしきもの)も、単なる「ガスぬき」にすぎないのです。マツコ・デラックスや有吉弘行の”毒舌”と同じような「お約束芸」です。それがテレビというものです。それを彼らは、大事にしなければならないと言っているのです。

そもそも今回の問題の背景にあるのは、安倍政権によるメディア介入疑惑(のはず)なのです。NHKや朝日新聞に対してのさまざまな手段を使った圧力。メディア関係者との定期的な会食による懐柔。NHKの従軍慰安婦に関する番組に事前に介入し内容を改変させたり、ネトウヨ御用達のヘイト出版社、産経やワックや青林堂の本を大量買いしていたことが政治資金報告書の「書籍購入記録」であきらかになったりと、安倍総理の言論に対する認識が(民主主義者とは思えないような)きわめてゆがんだものであるのは、もはや周知の事実です。

古賀氏が1月の放送で「I am not ABE」と発言した直後から、官邸の圧力で古賀氏が降板させられるのではないかという噂がささやかれはじめたのも、そういった背景があったからです。また、前の「報道ステーション」のコメンテーターで、現在「ワイド!スクランブル」のコメンテーターをつとめている末延吉正元政治部長が、同郷の「宰相A」=安倍総理ときわめて親しい関係にあることを本人が週刊誌などで公言していますので、テレビ朝日に対してよけい神経質にならざるを得ない面もあったのでしょう。ニュースステーション」の関係者たちは、古賀氏の行為を「テロだ」と騒いでいたそうですが、それを言うならNHKや朝日新聞に対する権力の介入こそ「テロ」と言うべきでしょう。

竹田氏や江川氏の発言は、そんな官邸の介入疑惑やテレ朝報道局の臭いものには蓋をする姿勢から目をそらす役割を果たしているように思います。「電波芸者」たちは、文字通りその役割を演じているのです。
2015.03.29 Sun l ネット・メディア l top ▲