今日の早朝5時から放送されたフジテレビの「新・週刊フジテレビ批評」を見ていたら、「批評対談」と称して、今年5月にFIFAの理事に選出された田嶋幸三日本サッカー協会副会長と、サッカーファンでもあるライターの速水健朗氏が対談していました。

日本サッカーの現状について、田嶋氏は、女子は「この4年間で成熟している」、男子は「本来日本がめざしていたものを具現化しつつある」「国際標準に近づいている」と自画自賛していました。私たちの目には、女子も男子も、世代交代に失敗しているようにしか見えませんが、JFA内部の評価はまったく違うようです。

ハリル監督についても、「個人のレベルが上がってきているなかに、優秀な監督がきて、ワクワク感がもてる」と言ってました。アギーレ招聘の責任などどこ吹く風とばかりにこれまた自画自賛していました。

また、会長選挙で、JFAがブラッター氏を支持した理由についても、田嶋氏は、「噂だけで判断したくなかった」「(ブラッター支持は)AFC(アジアサッカー連盟)の決議があったから」と弁解していました。要するに、田嶋氏の発言は、安倍政権と同じ”全体主義国家の言説”にすぎないのです。

一方、田嶋氏に対する速水健朗氏の質問は、突っ込みどころ満載であるにも関わらず、あっけないほど当たり障りのないものに終始していました。これでは、”政権批判”を封印する翼賛的なサッカージャーナリズムとなんら変わらないのです。

挙句の果てには、FIFAの混乱に乗じて、ワールドカップの開催地を(2018年のロシアや2022年のカタールから)日本に変更できるチャンスがあるのではないかと、如何にも日本らしい火事場泥棒的な願望まで披歴するあり様でした。

たしかに、速水氏の発言は、この国の平均的なサッカーファンの声を代表していると言えるでしょう。でも、それだったら別に速水氏でなくてもいいのです。

ここにも、権威や権力にからきし弱い(と言うより、阿ることに達者な)「ゼロ年代の批評家」たちの特徴がよく出ているように思います。彼らは、そんな”世間知”だけは長けているのです。もちろん、彼らのロールモデルが、東浩紀であるのは言うまでもないでしょう。東浩紀は、東日本大震災の際、「ひとつになろうニッポン」を称賛し、日本人は、自分たちの「公共的で愛国的な人格」に目覚め、「日本人であることを誇りに感じ始めている。自分たちの国家と政府を支えたいと感じている。」と言い、批評の世界における”テレビ東京的慰撫史観”の先鞭をつけたのでした(For a change, Proud to be Japanese : original version)。

日本のサッカーが停滞しているのはあきらかでしょう。でも、JFAやサッカーファンたちは、その事実すら認めようとしないのです。

対談のなかで、渡辺和洋アナウンサーが指摘していたように、男子のU-20に至っては、2011年以降ずっとアジア予選で敗退しているのです。それでも、田嶋氏は、「若手は確実に育っている」と強弁するのでした。柴崎岳しても、武藤嘉紀にしても、とても世界で通用するとは思えません。しかし、そんなことを言おうものなら、サッカーファンたちから「反日」だと袋叩きに遭うのがオチです。速水健朗氏もまた、そんなネトウヨ化したサッカーファンのひとりにすぎず、批評の欠片さえないのでした。

「ゼロ年代の批評家」たちはスカだった、と言った人がいましたが、私は、あらためてそのことばを想起せざるを得ませんでした。
2015.06.13 Sat l ネット・メディア l top ▲