最近の朝日の「論壇時評」には違和感を覚えることが多いのですが、今月も例外ではありませんでした。

朝日新聞デジタル
(論壇時評)2015年「安保」のことば 「わたし」が主語になった

どうやら高橋源一郎にとって、安保法制(安保関連法案)に反対する運動は、SEALDsと「非暴力」に集約されているようです。

でも、SEALDsの運動は、共産党の「国民連合政府」構想に象徴されるように、ただ来夏の参院選に収斂されるものでしかないのです。共産党の「国民連合政府」構想自体も、別に目新しいものではなく、今までも何度も似たものがありました。”共産党アレルギー”でうまくいかないのも最初から計算済みで、結局は「我が党こそ唯一の野党」という共産党お得意のプロパガンダに利用されるのがオチでしょう。

採決の日の国会周辺は、SEALDsとはまったく別の光景もあったのです。中核派のダミーと目されている法政大学文化連盟の採決当日のツイッターには、つぎのような発言がリツイートされていました。

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しかし、高橋源一郎の目にはSEALDsしか映ってないのでした。しかも、SEALDsの「非暴力性」が、「極左」や「ブサヨ」などを暴力的に(!)排除する方便に使われていた現実には目を塞いでいるのです。

高橋は、今回の運動が60年安保や70年安保と違う点は、「徹底した非暴力性」と、「『ことば』がなにより重視されたことだ」と書いていますが、私には悪い冗談のようにしか思えません。リベラル・左派のなかには、SEALDsによって、あたらしい「政治文化」や運動のスタイルが生まれつつあるのではないかという見方もありますが、それは参加者のファッションなど見た目のあたらしさを「勝てない左派」が希望的観測で“拡大解釈“しているだけです。SEALDsの背後にあるのは、手あかにまみれた”永田町政治”と左のもうひとつの全体主義です。それは、高橋ら全共闘世代がかつて否定したはずの古い政治の姿です。

高橋源一郎に言わせれば、今回の運動は、「政治の世界では珍しい、『わたし』を主語とする、新しいことばを持った運動」だそうですが、湯浅誠でさえ辟易したというあの単調なスローガンのどこに新しい「ことば」があるというのでしょうか。そこには、ただ共産党や民主党の”選良”にお願いするだけの、そのために選挙に行くことを呼びかけるだけのおなじみの「ことば」があるだけです。”絶対的な正義”や”多数(派)”に無定見に身を寄せ、異論や異端の少数派を排除する運動の論理に無頓着な彼らに、「わたし」の「主語」なんてあろうはずもないのです。

また、高橋源一郎は、60年安保をめぐる鶴見俊輔の言説についても、(前に書きましたが)鮎川信夫の辛辣な批判を「かなりのところまであたっていることを認めるところから、再出発したい」と”自己批判”している点はなぜか無視しているのです。60年安保を総括する上では、それがいちばん大事な点でしょう。

問われるべきは、「民主主義の回復」よりまずその「民主主義」の内実でしょう。そのためにも、私たちは、右だけでなく左の全体主義も(勇気をもって)指摘しなければならないのです。


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2015.09.25 Fri l 社会・時事 l top ▲