若い頃、私は、いわゆる「在日」の女の子とつきあっていたことがありました。つきあい出してしばらくしてから、突然、「あたし、日本人じゃないの」と言うのでびっくりしました。

「エッ、じゃあ、何人?」
「朝鮮人なの」
「ああ、そうなんだ」

彼女は、そんな私の軽い反応が意外だったそうです。妄想癖のある私は、最初「日本人じゃないの」と言われたとき、(冗談ではなくホントに)宇宙人かと思ったのです。

彼女もまた本を読むのが好きで、妄想癖がある女の子でした。学校の成績はあまりよくなかったと言うので、頭はよさそうなのにどうして?と訊いたら、「授業中外を見て物思いに耽ってばかりいたから」と言ってました。

ただ、つきあっているうちに、一見似ているけど実は微妙に似てない面があることに気付きました。わかりやすく言えば、日本人がこだわる部分を朝鮮人はこだわらなくて、朝鮮人がこだわる部分を日本人はこだわないのです。その違いは、似ているだけによけい際立つところがあり、ときに「根本的な」違いのように思えるのでした。

私はよく朝鮮人は勝ったか負けたか得か損かでしかものを見ないと「悪口」を言ってました。すると、彼女は、日本人は冷たくてずる賢くてなにを考えているかわからないと「悪口」を言い返してきました。その損得勘定と狡猾さというのは、たしかに似ているようで似てないのです。「アジア的」な生産様式のなかで生きてきた日本人と朝鮮人のなかには、どちらも”人情味”という共通した共同体意識はあります。しかし、その”人情味”にしても、当事者にしかわからないような微妙な違いがあるのです。それは、儒教の影響の濃淡だけでなく、大陸に連なる半島と島国の精神風土の違いも関連しているように思います。

私は、お姉さんの結婚式にも招待されて出席しました。朝鮮人の披露宴は、日本人の披露宴のような席次表がありません。親戚のテーブル以外は、基本的にどこに座ってもいいのです。聞けば、招待されなくてもやってくる人がいるそうです。それで、戸惑って立っていたら、彼女のお父さんがやってきて、おばさんが多く座っているテーブルに案内してくれました。そこは、お父さんとお母さんの友達が座っているテーブルでした。

おばさんたちは驚くほどきさくで、新郎新婦とどんな関係なのか訊くでもなしに、「お兄ちゃん、どんどん食べなさいよ」「なにが好きなん?」と言って料理を皿に取ってくれるのでした。

披露宴の途中、彼女がやってきて「大丈夫?」「まわりはバリバリの朝鮮人ばかりだよ」「お父さんに、なんであんな朝鮮人のテーブルに連れて行ったの?って文句を言ったの」と言ってました。

ところが、トイレに行った際、叔父だという人から呼び止められ、「××(彼女の名前)は、お前のような日本人にはやらないからな」とドスのきいた声で言われたのです。披露宴のあと、「あのやくざみたいな叔父さんは、なんなんだ?」と文句を言ったら、彼女は泣いていました。お母さんの弟で金融業をやっているということでした。

たしかに、普通の披露宴と違って、妙にコワモテの人間が多かったのは事実です。駐車場にベンツが多く停まっていたので、「親戚や友達にそんなに金持ちが多いの?」と訊いたら、「なに言ってるのよ、みんな朝鮮人よ。あれが朝鮮人なのよ」と言っていました。

最近、知り合いが仕事の関係で「在日」の人間とトラブルになって困っていると言うので、私も相手に会いに行きました。ひと言で言って、”年取ったチンピラ”でした。如何にもという感じで両足を外に向けて座り、威圧するように鋭い目でこっちを睨みつけながら、分厚い胸から野太い声を出して、感情を露わにまくしたてるのでした。

知り合いは、「だから『在日』は嫌なんだよ」と言ってました。それを聞いて、私は彼の気持はわからないでもないけど、でもそれは短絡すぎるのではないかと思いました。

たしかに、朝鮮人特有の気質と呼べるようなものはあるし、日本人との違いはあります。日本人だけには負けたくない、バカにされたくないという、日本人に対する対抗心のようなものも感じることはあります。だからあのように虚勢を張るのでしょう。それは、私たちから見ると、あまりにも意識過剰でうっとうしく感じることも事実です(もちろん、その背景に差別の歴史があるのは言うまでもありませんが)。

ただ、よく考えてみれば、日本人のなかにもやくざっぽい人間はいるし、トラブルになるとやっかいな人間はいくらでもいるのです。庇を貸して母屋を取られるような気持になるのは、なにも「在日」に限った話ではないでしょう。それをすべて「民族性」とか「国民性」などということばで括るのは、やはり短絡的だし予断と偏見に満ちていると言わねばならないでしょう。

「古本屋の覚え書き 」というブログにつぎのような「抜き書き」がありました。私は、どちらの本も読んでいませんが、「民族」という概念の薄っぺらさをよく言い表しているように思います。薄っぺらな概念だがらこそ、排外主義のような暴力的な感情に訴えなければならないのかもしれません。

古本屋の覚書
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/

 民族という概念そのものは18世紀の西欧の発明であり、これは「血と土」を意味するドイツ語のBlud und Borden(ブルート・ウント・ボーデン)およびVolk(フォルク)「民」からきている。これを明治前期に民族と造語した。現代中国語の民族(ミンズー)は、明治中期に日本から輸出された熟字である。それ以前の中国語にはなかった。昔から日本は原料加工製品輸出がうまかったのである。(以下略)

【『無境界の人』森巣博〈もりす・ひろし〉(小学館、1998年/集英社文庫、2002年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20100309/p1


 民族という現象は実に厄介です。誰にでも眼、鼻、口、耳があるように、民族的帰属があると考えるのが常識になっていますが、このような常識は、たかだか150年か200年くらいの歴史しかないのです。アーネスト・ゲルナーたちの研究(※『民族とナショナリズム』岩波書店、1983年)の結果では、民族というものが近代的な現象であると、はっきりとした結論が出ています。民族的伝統と見られているものの大半が過去百数十年の間に「創られた伝統」に過ぎないのです。

【『インテリジェンス人生相談 個人編』佐藤優〈さとう・まさる〉(扶桑社、2009年)】
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20091101/p2


月並みな言い方をすれば、日本人だって、朝鮮人だって、中国人だって、ロシア人だって、アラブ人だって、フランス人だって、みんな五十歩百歩なのです。相手の醜さは自分の醜さでもあるのです。私たちの前にはいつもそういった合わせ鏡があるのだということを忘れてはならないでしょう。


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