差別は文明人として最低の行為です。ヘイト・スピーチは犯罪です。

しかし、思想としていちばん大事なのは、そういった観念的なスローガンではなく、実際の現場でしょう。もちろん、ヘイトデモの現場もそのひとつですが、なにより私たちの日常において、文化的な背景が異なる人間と一緒に仕事をする場合、おのずと生まれてくる理屈ではない感情をどう自分のなかで処理していくのかということに、謂わば思想の真価が問われるのだと思います。

たとえば、いわゆる「在日」にもいろんな人間がいますが、ともすれば「在日」であることに意識過剰になり、やたら虚勢を張り、対抗心を燃やすような人間がいます。勝ったか負けたか、損か得か、という考えを前面に出されると、たしかにうっとうしいものです。日本人には負けたくない、日本人にバカにされたくない、という姿勢をむき出しにされると、ケンカを売っているのかと思ってしまいます。

どうしてそんなに虚勢をはるのか、その背景にある事情も理解できます。もちろん、その責任の一端が私たち日本人にあるのは言うまでもありません。でも、個人の立場から見た場合、こんな人間と一緒に仕事をするのは嫌だなと正直に思います。そこから差別やヘイト・スピーチはあと一歩なのです。

感情ではなく理性なのか。しかし、平岡正明の『ジャズ宣言』ではないですが、感情こそ大事なのではないか。理性ほどいかがわしくいい加減なものありません。私たちは決して理性的な動物ではないのです。

じゃあ、腹を割って話し、本音を言い合い、お互いに理解するように努めるのか。しかし、私たちの日常は、そんな牧歌的な関係のなかにはありません。まして利害が対立する現場では、そんな余裕などとてもないのです。

背景にある文化の違いというのは、思っている以上に大きなものです。人と人を隔てる壁でもあります。

理性は、関東大震災のときの朝鮮人虐殺のようなものを押しとどめることは可能でしょう。また、ヘイトデモを社会的に封じ込めることも不可能ではないでしょう。あれほどおぞましく野蛮なものはありません。

ただ、問題は私たちの日常にある差別なのです。うざい、めんどうくさい、ずるい、うるさい、汚いという感情なのです。同じ嫌いな人間でも、日本人同士と違って、「在日」だからとか朝鮮人だからとか中国人だからといった枕言葉がどうしても付いてしまうのです。もう既にその時点で差別ははじまっていると言えるでしょう。

日本人にもどうしようもない人間はいますが、「在日」にもどうしようもない人間はいます。そんな人間が身近にいるとき、私たちはどうしても「在日」だからという言葉を使ってしまいがちです。たしかに彼は「在日」なのです。「在日」も日本人もないと言いながら、彼は「在日」(朝鮮人)であることを拠り所にし、私たちは日本人であることを拠り所にしているのです。

このように異文化というのは、差別やヘイト・スピーチだけでは捉えきれない、ややこしくてむずかしいものなのです。


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2015.12.23 Wed l 社会・時事 l top ▲