なにもていたらくなのは、芸能マスコミだけではありません。このブログでもくり返し書いていますが、野党もまた同じです。

たとえば、今マスコミを賑わしている甘利明経済再生担当大臣のスキャンダルも然りです。甘利大臣のスキャンダルは、ご存じのとおり『週刊文春』が報じたのですが、UR(都市再生機構)の道路工事の補償をめぐって、千葉県の建設会社から口利きを依頼され、3年間に渡り1200万円もの金銭を授受したと言われるものです。もし事実なら、政治資金規正法とあっせん利得処罰法違反になると言われています。その手の口利きは、従来、闇世界の住人たちの“専売特許“でした。政治家や警察(OB)はヤクザと競合関係にあるとよくヤユされますが、これなどはその好例でしょう。「暴力団排除」の掛け声の裏に、こういった”利害の対立”があることも知る必要があるでしょう。

国会論議のなかで「政権を追い詰める攻め手を欠いていた」野党は、この記事で「攻勢を強めている」そうです。一方、自民党内には、今回のスキャンダルは「はめられた」という同情論も多いのだとか。たしかに、『週刊文春』の記事ひとつで、”政局”が動いていくこのような構図は、どこか不自然な気がしてなりません。間違っても「言論の自由」のおかげなんかではないでしょう。つまり、「攻勢を強める」野党も、所詮『週刊文春』の掌の上で踊らされているにすぎないのです。政権を倒す展望もその気もない野党は、自分たちの力ではなく、ただ週刊誌の記事を借りて、文字通り他力本願で政権批判しているにすぎないのです。これほどのていたらくがあるでしょうか。

ウソかホントか、東京地検特捜部も動きはじめているそうですから、「甘利辞任」もあり得るかもしれません。しかし、仮に辞任に至っても、安倍政権は後任を据えて首を挿げ替えればいいだけの話です。いくら野党が「攻勢を強めても」大勢に影響はないのです。もっとも、野党が「攻勢を強める」とか「政権に打撃」とかというのは、いつものマスコミの常套句にすぎないのです。これらは、今まで何十回も何百回もくり返されたおなじみの風景です。

私たちは、いつの間にかこのような”政局”を政治と勘違いさせられているのです。こんなのは政治でもなんでもないのです。

私は、(既述ですが)あらためて60年安保反対の運動について、詩人の鮎川信夫が述べた、つぎのような辛辣な批判を思い出さないわけではいきませんでした。「進歩的文化人」を「野党」と置き換えれば、鮎川の批判がこの国の政治(議会制民主主義)の本質をも衝いているように思えてならないのです。

 詩人の鮎川信夫は「政治嫌いの政治的感想」という文章を、一九六一年二月に書いている。この文章によると、安保反対の運動は、進歩的文化人のあやまちの総決算だそうだ。反対の根拠が薄弱である。大新聞が安保強行採決を非難して大きく書きたてた。その論調をうしろだてにして、反対運動が大規模におこった。やがて新聞の論調は、デモのゆきすぎを非難する方向にかわり、デモの指導をした進歩的文化人は新聞の変節にフンガイした。しかし、新聞の論調がかわるのはこれまで毎度のことだし、新聞をアテにしていては革命などできるわけはない。こういう軽い運動が、新聞とともに消えていったのはあたりまえのことだ。
 こういう鮎川のまとめが、大衆運動としての安保闘争について、かなりのところまであたっていることを認めるところから、再出発したい。

(鶴見駿輔『日常的思想の可能性』』 「さまざまな無関心」より)


「支持政党なし」や低い投票率で示される政治的アパシー(無関心)に対して、たとえばSEALDsは議会政治の危機だなどと否定的な見方をするのですが、私はむしろそこに積極的な意味を見出すべきではないかと思うのです。「勝てない左派」への幻想にいつまでも拘泥していても仕方ないのです。


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2016.01.23 Sat l 社会・時事 l top ▲