先日、突然、見覚えのある名前でメールが届きました。それは、以前取引していた雑貨店で働いていた女の子の名前でした。びっくりしてメールを送ると、当時働いていた仲間で、最近LINEのグループを作ったので入りませんかという、LINEへの招待でした。

私が彼女たちの店に行っていたのは、もうかれこれ15年くらい前です。店は都内のターミナル駅の商業ビルのなかにあったのですが、しょっちゅう顔を出し、おしゃべりをしたり、ときには店の手伝いもしていました。ビルにあるほかの店の人たちから、エリアマネージャーだと間違われるくらい親しくしていました。

単なる取引業者であったにも関わらず、職場の飲み会にも出席していましたし、クリスマスやバレンタインなど忙しいときは応援に駆り出されたりしていました。店の性格上、店長以外働いているのは若い女の子ばかりでしたが、それほど違和感もなく溶け込んでいたのです。

彼女たちの何人かは既に結婚し、LINEで子どもに作った弁当の画像を見せ合ったりしていました。そんな様子を見ていると、みんな確実に人生を前に進めているんだなとしみじみ思いました。

あの頃はみんな若かったのです。私だけがあの頃からおっさんでしたが、それでも、今よりずっと若い感覚のなかで生きていました。LINEで「あの頃はいつも楽しそうにしていましたね」と言われましたが、実際はそうでもなかったのです。10年近くつづいた恋愛に破れ、親友と仲たがいし、借金も抱え、結構深刻ななかにいました。

しかし、それでも傍目に楽しそうに見えたというのは、まだどこかに”余裕”があったのかもしれません。それだけ若かったということなのでしょう。今から考えれば、なにより身体が元気だったことが救いだったように思います。元気であれば、バイタリティもわいてくるのです。

長い間会ってないということもあるのでしょうが、LINEをやっていると、今のほうがなんだかわけもなく疎外感のようなものを覚えるのでした。自分のメッセージがどこかトンチンカンのように覚えてならないのです。LINE特有の空気を読むことができないのです。

団塊の世代の橋本治は、『いつまでも若いと思うなよ』(新潮社新書)という本のなかで、人間は自分という「アク」がたまって大人になるんだと書いていました。

 アクが溜まって大人になる。大人になるということは、そのように「自分」が蓄積して行くことで、「自分」が溜まってしまうと、そう簡単に身動きが出来なくなる。体が重くなるし、思考もまた重くなる。
 山菜や野草と同じで、人間も若い時にはアクが出ない。でも年と共に「鍋の中にそんなに安い肉入れるなよ、アクばっかりだ」状態になる。「アク」というのは短絡して「老い」と錯覚されるが、「アク」は「老い」ではない。「アク」は、自分の中から生まれる自分で、それが生まれなければ老いることも出来ない。
(略)
 かく言う私だって、四十を過ぎてアクだらけになる前に、「自分の体にアクが出ている、もう若くはない」ということは承知している。別に見る気もないのに、鏡や窓ガラスに映った自分を見ると、「今までに見たことないような自分」がいる。つまり、アクが出たということなのだが、そんな事実を突然突きつけられたって、どうしたらいいのかは分からない。だから、「もうアクは出ているけど、なかったことにしよう。まだごまかせるから」と思って、ないことにする。


でも、自分のことを考えると、もはやなかったことにしたり誤魔化したりできないほど「アク」だらけなのです。LINEにうまく乗れないのも、「アク」だらけだからでしょう。

言うまでもなく、昔はなつかしいのです。ただ、年を取ってくると、なつかしいだけではなく、せつないとか哀しいとか、そんな別の感情が付随してくるようになるのです。

私は、彼女たちがまぶしくてなりませんでした。昔は年は離れていても、そんな気持を抱くことはありませんでした。私だって同じように恋愛をしていたし、同じようにいろんなものに関心をもっていたからです。仕事柄、今流行っているものはなにかとか、これから流行るものはなにかなんてよく話していましたし、そういった最先端の若者の風俗にも興味をもっていました。逆に同年代のおっさんたちと話をするのが退屈なくらいでした。

金原ひとみが『蛇とピアス』で出てきたときも、かつて私が扱っていた商品が小説のなかに出ていたということもあって、世代は違っても、私がいた場所の近くで書かれた小説だという認識をもつことができました。でも、金原ひとみも年を取ったけど、私も年を取ったのです。

たしかに、誰かも言ってましたが、あの頃は若かったと思うことほど痛ましいことはないのです。
2016.05.07 Sat l 日常・その他 l top ▲