参院選について、大手新聞の情勢調査では、終盤になってもやはり、改憲勢力が3分の2を取る可能性が高いという結果が出ています。何度も言いますが、民進党(旧民主党)が存在する限り、この流れが変わることはないでしょう。そもそも民進党は、東京都連の顔ぶれなどを見てもわかるとおり、必ずしも護憲政党とは言えないのです。もちろん、電力総連の組織内議員を多く抱える民進党は、脱原発ですらありません。

そんな民進党と一緒に「野党統一候補」を立て、改憲を阻止しようなんて大甘の認識だとしか思えません。東京都知事選でも、「野党統一」の接着剤にすべくお人好しの石田純一を担ぎ出した「市民連合」は、そうやっていたずらに「野党共闘」という”選挙幻想”を煽り、結果的に敗北主義的な運動を演出しているだけです。”人民戦線ごっこ”をして「アベ政治を許さない」つもりになっている彼らこそ、「『負ける』という生暖かいお馴染みの場所でまどろむ」「勝てない左派」(ブレイディみかこ)の典型と言えるでしょう。

それは、三宅洋平も然りです。彼は、「上か下かではなく、上も下もない社会」と言ってましたが、私には言っている意味がわかりませんでした。和をもって尊しの日本的美学なのかと思いました。市場原理主義やグローバリズムが格差の拡大をもたらし、国民の六人に一人が貧困にあえいでいるという現実を考えるとき、「上も下もない」という発言は、文字通りポエムだとしか言いようがありません。

三宅洋平は、演説のなかでさかんにポデモスということばを使っていました。今の長髪も、パブロ・イグレシアスを意識しているのかと思いました。しかし、その背景や拠って立つ基盤には雲泥の差があります。前も書きましたが、ポデモスは、文字通り「上か下か」の格差や貧困を告発する運動に端を発し、やがて既成政党批判やウォール街のオキュパイ運動の先駆けとなる学生たちの「15M」運動(占拠闘争)へと発展したのでした。笠井潔は、世界内戦の時代は同時に大衆叛乱の時代でもあると言ってましたが、シリザにしてもポデモスにしても、(日本では彼らを「中道左派」と分類する見方が多いのですが)単なる議会主義政党ではなく、大衆的な実力行使(直接行動)から生まれた政党なのです。選挙での躍進はその延長上にあるのです。それが、彼らが“急進左派“とか“新左派“とか言われるゆえんなのです。

私は、今回の選挙も、「無関心層」と同じように、「入れるところがない」「どこに入れても同じだ」という考えしかもてません。そういう考えは改憲勢力の思うつぼだという”脅し”がありますが、それこそ思考停止と言うべきでしょう。かつて詩人の秋山清は、『朝日ジャーナル』に、「積極的投票拒否の思想」という文章を書いていましたが(私は、高校時代、学校の図書室でそれを読んでショックを受けたのですが)、秋山が言うように、「積極的投票拒否の思想」という考えがあってもいいのではないかと思います。今の政治が愚劣だと思うなら(そして、既成の政治を乗り越えるには)、投票に行かないということに積極的な意味を見出すべきではないかと思うのです。


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2016.07.09 Sat l 社会・時事 l top ▲