最近は寝付きが悪くて、夜中に起きていることが多いのですが、深夜、ふと思いついて、NHKアーカイブスで、2015年1月にEテレで放送された吉本隆明を特集した番組を見ました。

戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度「知の巨人たち」
「第5回 自らの言葉で立つ 思想家~吉本隆明~」

番組のなかで遠藤ミチロウも言ってましたが、ときに生きづらさのようなものを覚え、眠れぬ夜をすごしているときなど、吉本隆明の思想はどこか元気にしてくれるところがあります。それが吉本の思想が「肯定の思想」と言われるゆえんなのでしょう。

番組では、つぎのようなことばが紹介されていました。

市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬという生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったく同じである。
『カール・マルクス』より


世界的な作家といわれ、社会的な地位や発言力をもつことよりも、自分が接する家族と文句なしに円満に気持よく生きられたら、そのほうがはるかにいいことなのではないか。そういうふうにぼくは思うのです。
『ひきこもれ』より


指導者の論理と支配者の論理というのは、自分の目先の生活のことばかり考えているやつは一番駄目なやつで、国家社会、公共のことを考えてるのがそれよりいいんだみたいな価値観の序列があるんですよね。ところが僕は違うんです。僕は反対なんです。自分の生活のことを第一義として、それにもう24時間とられて、他のことは全部関心がないんだって、そういう人が価値観の原型だって僕は考えている。


たしかに、私たちは、人間関係や仕事やお金や健康など、日々いろんな思いを抱えて生きているのです。会社の上司や同僚との関係に悩んだり、仕事に行き詰まりを感じたり、身体の不調に不安を覚えたり、通勤電車のなかでマナーの悪い隣の客に不快感を抱いたり、家族や恋人との関係に齟齬を覚えたりしながら生きているのです。もう少しお金があればもっと幸せになれるのにと思うこともあります。そんな日常の些事に纏わるいろんな思いのなかから、自分のことばが生まれるのです。

私のブログもそうですが、ネットに飛び交っているような、自民党がどうとか、民進党がどうとか、韓国がどうとか、中国がどうとかといったことは、それらに比べれば「取るに足らない小さなこと」です。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」という吉本隆明のことばは、「政治の幅は常に生活の幅より狭い」という埴谷雄高のことばにも共通するものです。吉本隆明は、そんな日常のなかから生まれた「大衆の思想は世界性という基盤を持っているのだ」と言ってました。

文学や歌謡曲も、そこにあるのは個人のことばです。「大衆の思想」にとって、SEALDsなんかよりは宇多田ヒカルのほうが、何百倍も何千倍も価値があるのは間違いないでしょう。

国家や公を第一義とする、たとえば、国家があって私がある、私的利益ばかり追求して公共心が疎かにされている、というような「動員の思想」に抗するには、徹底した個人の論理(私の論理)しかないでしょう。「動員の思想」は、なにも「アベ政治」の専売特許ではないのです。「アベ政治」に反対する左派リベラル(風なもの)も同じです。

「個人のほうが国家や公よりも大きいんです」ということばのあとには、「何が強いって、最後はひとりが一番強いんですよ」ということばがつづいていましたが、もって銘すべしと思いました。


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2016.09.01 Thu l 社会・時事 l top ▲