2017年帰省1


先週、恒例の墓参りのため、九州に帰省しました。今回も、旧交を温める旅でした。

空港から墓のある生まれ故郷の町まで車で90分かかるのですが、町に着くと、外はときならぬ突風と激しい横殴りの雨で、線香をあげることもできませんでした。それが未だに悔やまれてなりません。

墓参りのあと、思い出のある久住高原や阿蘇の大観峰に行こうかと思っていたのですが、雨と濃霧でとても行けるような状態ではありませんでした。それで阿蘇行きをあきらめ、田舎の友人の家を訪ねました。

彼も数年前に離婚し、お母さんは介護施設に入っているため、今は侘しいひとり暮らしです。彼の実家は地元では知られた旧家で、彼も含めた姉弟はいづれも東京の大学に進学しています。東京の叔父さんは、私が以前勤めていた会社の関連会社の社長でした。

九州の田舎から三人の子どもを東京の私立大学にやるのは、経済的には相当な負担だったはずですが、彼の実家はそれだけの財力があったのです。そうやって代々、子どもを東京の大学に学ばせていたのです。

しかし、今は没落し、間口が狭く奥に長い、江戸時代から特徴的な大店の建物も、見るも無残に荒れ果てていました。そこにあるのは、文字通り黄昏の風景でした。没落したあとも田舎に住み続けなければならない、旧家であるがゆえの苦悩を背負っている感じでした。

そのあと時間が余ったので、30年近く会ってない昔の会社の同僚に電話をしました。久しぶりに会わないかと誘ったのですが、あいにく用事があるとかで会うことができませんでした。

電話のあとしばらくして、彼からショートメールが届きました。「実は俺、独身に戻りました」と書いていました。お父さんが昨年亡くなったことは知っていましたが、今はお母さんと二人暮らしだそうです。彼もまた離婚していたのです。職場結婚で奥さんもよく知っていただけに、俄かに信じられない気持でした。聞けば、かつての上司や同僚の何人かも、離婚しているそうです。みんな、どうしたんだろうと思いました。

旧知の人間たちに試練を与えているのは、家庭不和だけではありません。もうひとつ、病気があります。

既にガン治療をおこなっている年上の知人は、去年、別のガンが見つかって手術を受け「大変だった」と言ってました。しかし、それでも精一杯元気にふるまっていました。奥さんと一緒に、ホテルのランチバイキングに行ったのですが、誰よりも食欲旺盛で、数日前は、ソフトバンクのキャンプを観に、宮崎に行ってきたと言っていました。

私は、その人の甥とも仲がよくて、昔はよく一緒に遊んだのですが、その甥のことを聞いたら、彼もまたガンに冒され、余命数か月の宣告を受けているのだそうです。東京にいる娘の、最期は一緒に暮らしたいという申し出を受け、近いうちに大分を引き払って東京に転居する予定だとか。「たぶん、今会っても顔がわからんと思うぞ」と言ってました。

実家が会社を経営していて、その跡取り息子だったので、なに不自由な生活をしていたのですが、会社が倒産したため、人知れぬ苦労をしたようです。挙句の果てに、末期ガンとはなんと浮かばれない人生なんだろうと思いますが、それでも「子どもの教育だけは手をぬかなかった」ので、「今は子どもに救われている」と言っていました。

卒業して以来会ってなかった高校の同級生にも会いました。同級生は、糖尿病が進行し、既に人工透析を受けているそうで、昔の面影はありませんでした。糖尿病の合併症で視力障害もおきているため、「わかるか、オレだよ」と言っても、「誰か、よぉ見えんのじゃ」と言ってました。

それでも話しているうちに昔の同級生の感覚に戻ってきました。彼も私と同じように、学区外の中学の出身で、親戚の家に下宿して学校に通っていました。下宿先の家もすぐ近所でした。もうひとり、やはり山奥の中学からきた同級生がいました。彼は、市内のアパートに、デパートで働いていたお姉さんと一緒に住んでいました。生活の面倒はお姉さんが見ていたようです。

私は若干違いますが、二人は田舎の中学で成績がよかったので、兄弟のなかでひとりだけ一家の期待を背負って街の学校にやってきたのでした。昔は、そんな話がよくあったのです。

その三人で近くの海に泳ぎに行ったことがありました。海とは縁のない山国育ちの三人が海に行ったのです。案の定、私以外の二人が溺れはじめ、それを助けようした私も、彼らにしがみつかれて危うく溺れそうになり、文字通り、九死に一生を得たのでした。

同級生ともそのときの話になりました。「お前は、オレたちの命の恩人だよ」と言われましたが、考えてみれば、山猿三人が海に行くこと自体無謀だったのです。ほかの同級生たちからはそう言われ、しばらく笑いのネタにされたものです。

ところが、高校を卒業したあとの話を聞いて、私は三人になにか因縁のようなものを感じました。

私は、二十歳のとき病気になって東京から帰り、別府の国立病院に一年間入院したのですが、その同級生も同じように東京の大学に進学したあと、精神的なストレスから胃を壊して、やはり別府の病院で胃の切除手術を受け、半年間入院していたそうです。しかも、もうひとりの同級生も、同じ頃、精神を病み、同じように別府に帰って精神科に入院したのだそうです(彼は未だに精神病院に入院していると言ってました)。

あの夏の日、海で溺れた三人は、卒業したあと、いみじくも同じ年に、それぞれ高校時代をすごした街に戻り、入院生活を送っていたのです。私のもとには、夏休みや冬休みのとき、帰省した同級生が見舞いに来ていましたが、あとの二人は同級生たちとは疎遠になっていたので、誰も彼らが別府に帰っていることを知らなかったのです。

「オレたちは、田舎では”秀才”と言われ、街の学校に出てきたけど、街の学校では“タダの人”になった。それで追い詰められたところもあるんじゃないかな」と言ってましたが、なんとなくわかる話です。ほかの兄弟の犠牲の上にわざわざ街の学校に出てきたものの、期待に沿えるような結果にならなかったことで自分を責めた、というのは考えられない話ではありません。

明治の若者たちとは比べようがないけれど、それでもまだささやかながら「坂の上の雲」を眺めていた、眺めることができた、そんな時代があったのです。その延長に「上京物語」も存在したのです。

しかし、もうみんな年を取り、離婚や病気など悩みを抱え、黄昏のなかを生きています。束の間、若い頃の気分に戻ることができたというのは、哀しみだけでなく、いくらかの慰めにもなったかもしれません。そして、私は、あらためて「思えば遠くに来たもんだ」としみじみ思ったのでした。


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