座間の事件に関して、先日、下記のような記事が出ていました。

Yahoo!ニュース(毎日新聞)
<座間9遺体>笑顔、もう会えない 全員身元判明

しかし、被害者たちは、記事に出ているような「同級生」や「職場の上司」に心を開くことはなかったのです。それどころか、家族にさえ心を閉じていたのです。学校に通っているときに、いじめに遭ったり、登校拒否になった被害者もいますので、なかには「同級生」が心を閉じる原因になったケースもあるでしょう。

被害者たちは、加害者とのやりとりのなかで、まわりの人間たちはなにもわかってない、ただきれい事を言うだけだ、と訴えていましたが、この記事などもまさにその典型と言えるでしょう。

私たちは常に競争のなかに身を晒されているのです。そのなかで生きることを強いられているのです。それがこの社会のオキテです。だから、電車が来てもないのに、まるで強迫観念にかられるかのようにホームへの階段を駆け降りて行くのでしょう。

電車が来ると、まだ人が降りているのももどかしいかのように、血走った目で乗り込んで来て、我先に座席を確保する人々。それは、実にみっともない姿です。しかし、一方で、そうしなければ生きていけないのだ、そうすることが懸命に生きていることの証しだ、みたいなイデオロギーがこの社会にあります。みっともないなんて思ったら“負け”なのです。落伍者になるのです。座間の事件で犠牲になった女性たちは、そんな座席争いのなかで、むしろ押しのけられ邪魔扱いされるような人たちだったのではないか。

Web2.0の頃、ネットがリアルな社会で居場所のない人たちのあらたな居場所になるのだ、という理想論が喧伝されましたが、しかし、ネットもいつの間にかこの社会のオキテを肯定するイデオロギーに覆われています。犠牲になった女性たちにとって、ネットはホントは居場所なんかではなかったのです。金満な虚業家が英雄視されるネットでは、今や経済合理性こそが唯一の価値基準であるかのようです。「楽して生活したかった 」という”動機”のなかにも、ネットに共通した価値観(荒んだ社会観や人間観)が伏在しているように思えてなりません。女性たちは、ネットの餌食になったと言えなくもないのです。

私たちは、「死にたい」と訴える人間に対して、一体どんなことばを持っているでしょうか。この記事にあるような、まわりの人間たちの「建前」や「きれい事」を超えるようなことばを持っているでしょうか。私たちもまた、知らず知らずのうちに、毎日ホームへの階段を駆け降り、人を押しのけ我先にと座席争いをしているのではないか。せいぜいがそう自問することくらいしかできないのです。


関連記事:
雨宮まみの死
2017.11.19 Sun l 社会・時事 l top ▲