手前味噌になりますが、文春砲とそれに煽られる“お茶の間の論理”や、大塚英志が言う「旧メディア のネット世論への迎合」によって文春砲が増幅される“私刑の構造”について、私はこのブログで一貫して批判してきたつもりです。

ただ、今回の小室哲哉に関する文春砲については、文春砲に煽られる“お茶の間の論理”だけでなく、一転して文春砲を批判する世論に対しても、違和感を抱かざるを得ません。

今回の文春砲について、いろんな人が発言していますが、そのなかで目にとまったのは、ゲスの極み乙女。の川谷絵音の「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間。」という発言と、新潮社の出版部部長でもある中瀬ゆかり氏の「二元論でものを考える人は怖い」という発言です。

デイリースポーツ
川谷絵音「病的なのは週刊誌でなく世間」

デイリースポーツ
中瀬ゆかり氏、文春批判にひそむ危険性を警告「二元論でものを考える人は怖い」

中瀬氏はつづけて、つぎのように言ってます。

「私の好きな言葉に『知性っていうのは、思ったことを極限までに突き進めないことだ』っていう。知性っていうのは、あるところで歩留まりというか、そこで止められることが一種の知性だと思っているので。一方的に、感情だけでカッとして、『だから廃刊にしろ』とか『不買運動だ』みたいになっている人たちは、また今度、何かあった時には手のひらを返すんだろうなって気はしてみてますね。


川谷絵音の発言に対して、ネットでは「お前が言うな」と批判が起きているそうですが、私はむしろ中瀬氏の発言のほうに、「お前が言うな」と言いたくなりました。

世間も週刊誌もメディアも「病的」なのです。そうやって“異端”や”異物”を排除することで、”市民としての日常性”が仮構されるのです。”市民としての日常性”は、そんな差別と排除の力学によって仮構されているにすぎないのです。

それにしても、中瀬氏の“知性論”は噴飯ものです。「留保」ということを言いたかったのかもしれませんが、そうやって他人の不幸を飯のタネにする自分たちのゲス記事をただ弁解しているとしか思えません。そもそも新潮社の中瀬氏がテレビのワイドショーに出て、したり顔でコメントしている光景にこそ、”私刑の構造”の一端が垣間見えるのです。

今回、文春砲を批判し炎上させている人間たちは、小室の場合はやりすぎだけど、山尾志桜里や上原多香子やベッキーは別だというスタンスが多いようです。男の不倫には理由があるが、女の不倫はどんな理由も許されないとでも言いたげです。そこにあるのは、文春や新潮と同じ男根主義的な”オヤジ目線”です。また、日頃不倫に眉をしかめる世間の人間たちも、妻の介護によるストレスや欲望のはけ口を身近な女性に求めたことには、なぜか理解を示すのでした。

前も書いたことがありますが、小室哲哉に関しては、みずからが手を付けたB級アイドル(華原朋美)をデビューさせた公私混同ぶりや、絶頂期の目をおおいたくなるようなバブリーな振舞いに、私は当時から違和感を抱いていました。

絶頂期の彼には、今のような如何にも「誠実そうな」姿とは真逆な一面がありました。常にクスリやオンナの噂が付き纏っていたのは事実です。詐欺事件で逮捕されたときも、事件に登場する人物たちにどこかいかがわしい人間たちが多かったのも事実でしょう。

芸能人である限り、「不倫なんてどうだっていいじゃないか」「どこが悪いんだ」「お前たちだって不倫したいと思っているだろう」と口が裂けても言えないのです。そのため、小室哲哉は、よりによって妻の介護と不倫を結び付け弁解しているのです。小室哲哉が虚像であることは言うまでもないでしょう。文春砲に対してどっちの立場をとるにせよ、その当たり前の前提がすっぽりとぬけ落ちているのです。それが違和感を抱く所以です。


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