オウム真理教の死刑囚たちには、逮捕後もずっと寄り添いケアしていた身内や友人がいました。「知的エリート」であった彼らは、もともと家庭環境や友人関係に恵まれた人間が多かったのです。しかし、それでも、人知れず“生きる意味”について悩み、生きづらさを覚え、自分の居場所を探していたのです。

世間から鬼畜のように指弾される彼らに寄り添ってきた人たちを考えると、ホントに頭の下がる思いがします。そして、ホッとした気持になるのでした。

豊田亨死刑囚にも、大学1年で知り合い、東京大学理学部物理学科、同大学院で共に学んだ親友がいました。その伊東乾氏が、死刑執行を受け、『AERA』に寄稿していました。

AERAdot
オウム豊田亨死刑囚 執行までの3週間に親友が見た苦悩 麻原執行後に筆記具を取り上げられた

伊東氏は、1992年3月、突然行方不明になり、次に豊田死刑囚が「私達の前に現れたときは地下鉄サリン事件の実行犯となっていた」と書いていました。

逮捕後の99年から接見を始め、「最高裁で死刑が確定した2009年以降は特別交通許可者として月に1度程度、接見し、様々な問題を共に考え、責任の所在や予防教育の必要を議論してきた」そうです。執行の当日も、約束通り小菅の東京拘置所に向かった伊東氏は、「書類を窓口に提出すると程なく年配の刑務官から『面会は出来ません』と告げられた」のです。そして、「待合室にいる間に、彼を含む6人のオウム事犯の死刑が執行された」のでした。

豊田死刑囚は、公判でも「『今なお自分が生きていること自体申し訳なく、浅ましい」と語り、深く悔いていた』」そうです。

3月に拘置所内の「収監される階が変わり、昔長らく在房した階に戻った」豊田死刑囚は、死刑執行が間近に迫っている中で、次のようにくり返し言っていたそうです。

「日本社会は誰かを悪者にして吊し上げて留飲を下げると、また平気で同じミスを犯す。自分の責任は自分で取るけれど、それだけでは何も解決しない。ちゃんともとから断たなければ」


Yahoo!ニュースのコメント欄のように、「当然だ」「遅すぎたくらいだ」「執行しないで生かしつづけるのは税金の無駄使いだ」などと、彼らを「吊し上げて留飲を下げる」だけでは、オウムが私たちに突き付けた問題はなにひとつ解決しないでしょう。オウムの信者たちは、私たちの「親しき隣人」なのです。彼らの過ちは、決して他人事ではないのです。

聡明で真面目であるがゆえに、人生に悩み、苦しみ、挙句の果てにカルトに取り込まれて犯罪者になった彼ら。一方で、”生きる意味”を考える契機すら持たず(そんなことを考えるのはバカだと言わんばかりに)、ただ彼らを「吊し上げて留飲を下げる」だけのヤフコメの住人たち。不条理とはなにも難しい話ではないのです。このように、私たちのすぐ身近にあるものなのです。

また、私は、昨夜、広瀬健一死刑囚の手記を読みました。アゴラの宇佐美典也氏の記事で、手記の存在を知ったからです。

アゴラ
元オウム真理教信者、広瀬健一死刑囚の手記について

真宗大谷派 円光寺
オウム真理教元信徒 広瀬健一の手記

読み終えたのは朝方でした。窓を開けると、朝もやの中で徐々に輪郭をあらわしてくる街の風景がありました。その風景を眺めながら、私は、なんとも重い気持の中にいました。それが今もつづいています。

麻原が最終解脱を主張したのが1986年8月。翌9月に出家制度が発足しますが、そのときの出家者は15人、会員(信者)は約350人だったそうです。

広瀬死刑囚が、「宗教的回心」によってオウム真理教に入信したのが1年半後の1988年3月です。静岡県富士宮市の富士山総本部道場が完成したのが、1988年8月。そのときの出家者数は約100人、信者数は約2500人でした。広瀬死刑囚が出家したのは、翌年の1989年3月末。入信からちょうど1年後でした。

母親をはじめ、私の田舎の人間たちが、熊本県旧波野村のサティアン建設計画に関する国土利用計画法違反事件で、オウム真理教を知ったのが1990年です。

そして、私が恵比寿の駅前で、選挙運動をするオウムの信者たちを初めて観たのも、同じ1990年です。選挙の惨敗によってオウムは一気に武装化を進め、1994年6月の松本サリン事件、1995年3月の地下鉄サリン事件へと突き進んで行ったのでした。それらは、僅か10年足らずの短い間の話です。

広瀬健一死刑囚は、早稲田の理工学部応用物理学科を首席で卒業、卒業式では卒業生を代表して答辞を述べるなど、将来を嘱望された科学者の卵でした。大学院の修士課程に進み、出家する際は電機メーカーの研究所に就職も決まっていました。大学及び大学院時代は、母親と一緒にメッキ工場でアルバイトをして、学費も自分で賄っていたそうです。

武装化計画のために、理系エリートを勧誘するという方針の元、麻原から直々に出家を求める電話を受けた広瀬死刑囚は、就職の話を断って出家することを決意するのでした。その際も、内定を貰った会社に、わざわざ出向いて詫びを入れているのでした。そんなところにも、彼の誠実な人柄が伺えます。出家に関しても、自分が出家することで家族のカルマを自分が背負い、家族をより幸福な世界に転生させることができると信じていたのでした。

広瀬死刑囚は、科学の専門教育を受けた「知的エリート」です。麻原の空中浮遊についてどう考えていたのか、今どう考えているのか、手記にそのことが出ていました。

(略)「空中浮揚は慣性の法則に反する」という論理では、空中浮揚を否定できません。既知の物理法則を超える法則の存在は、論理によっては、否定できないのです。
つまり物理法則は、それが見かけ上成立する領域(条件)が不明な部分があるのです。ですから、ある領域において現象が未知の法則に支配される可能性は否定できません。言い換えると、物理法則は常に成立するものとして定義できないのです。それは、ニュートンの運動法則を超える相対論、量子力学・場の量子論が発見されて発展してきた物理学の歴史が示すとおりです。
麻原やオウムの教義から離れた今、「空中浮揚はあると思うか」と問われれば、私は「思わない」と答えます。しかし、これは推測――〈外見として日常的な領域で起こることだから、既知の物理法則のみが成立する条件が満たされている可能性が高いだろう〉という――に基づく見解であって、論理によって厳密に導出された結論ではありません。麻原のいう空中浮揚を・・・厳密に否定するには、麻原の空中浮揚を物理的に測定してその誤りを発見する以外に方法はありません。


また、サリンを散布するのにためらいはなかったのかという問いに対して、「ためらいはなく、感情を抑えることもなく、してはいけないことだとも思わなかった」「ヴァジラヤーナの救済のための当然の指示と感じた」と書いていました。

私は第一審時に共犯者の公判で、次の趣旨の供述もしました。
「指示が私の存在していた宗教的世界観に合致していたので、従わなくてはならないと強く思ったということではない。その指示自体が自然に、違和感なく受け入れられる状態になっていた」
「サリン袋を傘で刺すときためらいはなく、感情を抑えることもなく、してはいけないことだとも思わなかった」
前者の供述は、地下鉄サリン事件の指示について、麻原の指示だから自身の意思に反しても従わなければならないと思ったということではなく、ヴァジラヤーナの救済のための当然の指示と感じた、いう意味です。当時、私は教義の世界で生きている状態でした。


くり返しますが、彼らは私たちの「親しき隣人」なのです。彼らの過ちは、決して他人事ではないのです。
2018.08.02 Thu l 社会・メディア l top ▲