昨日の夕方、副都心線に乗っていたら、酔っぱらったネパール人らしき若者が二人、渋谷から乗ってきました。二人はかなりの酩酊状態で、車両全体に響き渡るような大声で喋っていました。聞いたこともないような外国語でした。喧嘩でもしているのか、お互い興奮してまくし立てていました。

電車は、週末に都心の繁華街に出かけて、これから帰宅する人たちでかなり混んでいました。二人は足元も覚束なくて、電車が揺れるたびに、身体がふらつき周囲の人たちにぶつかっていました。しかも、一人が缶コーヒーを持っていたのですが、ふらつくたびに飲み口が横に傾き、中身のコーヒーが床にこぼれていました。床には液体の染みがあちこちにできていました。そのためもあって、いつの間にか二人の周りに空間ができていました。

私は、少し離れたところに立っていたのですが、注意しようかと思いました。今までも何度か、似たような場面で注意したことがありました。中には、相手の反発を招きトラブルになったこともありました。ホームでもみあいになって、駅員から「警察を呼びますよ」と言われたこともあります。友人から、「やめなよ。そんなことしているとそのうち刺されるよ」と忠告を受けたこともありました。

私は、「迷惑だ」は英語でなんと言うんだっけと思いました。ネパール語は無理だけど、英語だと通じるのではないかと思ったのです。「降りろ」は「get down」でいいのか、スマホのGoogle翻訳で調べようかなと思いました。

でも、そう思いながら、あらためて電車の中を見渡しました。週末で、しかも夏休みなので、若者や家族連れが多く、ネパール人の近くには髭を生やしたストリートファッションの若者もいました。小さな子どもをかばうように立っている若い父親もいました。でも、みんな、見て見ぬふりなのです。顔をしかめて彼らを睨みつける人間すらいません。みんな、知らんぷりしてスマホの画面を見ているだけです。

そこで私は思いました。私が注意してまたトラブルになり、ホームに降りろというような話になっても、みんな、自分たちの身に火の粉がかからないように見て見ぬふりをするだけなんだろうなと。へたに正義感を出して行動を起こしても、所詮バカを見るだけなんじゃないかと。自分の中に、そういった損得勘定のようなものが働いたのでした。

そして、いつの間にか、二人の酔っぱらいより、見て見ぬふりをしている乗客たちのほうに軽蔑の眼差しを向けている自分がいました。過去に、ホームでトラブルになったとき、「何、この人たち」というような冷たい目で見られた体験がよみがえってきたのでした。それに、相手がネパール人だと、レイシストなんて触れ衣を着せられる可能性だってあるでしょう。

もちろん、「やってやってるんだ」というような背負った(しょった)気持があるわけありません。「ちょっとした正義感」にすぎません。とは言え、行動を起こすには勇気もいります。しかし、あの冷たい視線を思い出すと、バカらしくなり気持も萎えてくるのでした。

電車の中で、マナーの悪い乗客に対して、「何だ、お前は」みたいに注意すると、逆に周りから白い目で見られるのはよくあることです。見て見ぬふりをするのは、彼らの処世術なのです。そうやって「善良な市民」としての日常の安寧と秩序が保たれているのです。私は、電車の中を見回しながら、「卑怯な大衆」という言葉を頭に浮かべていました。

オウム真理教の死刑執行も然り、杉田水脈の”悪魔の思想”も然りです。みんな、見て見ぬふりなのです。自分たちの社会の問題なのに、所詮は他人事なのです。少しでも考えることすらしないのです。

この社会には、見て見ぬふりをすることが誠実に生きている証しだみたいな“大衆民主主義”のイデオロギーがあります。他人を押しのけて我先に座席に座る人々も、それが懸命に生きている証しであるかのようなイデオロギーがあるのです。

「小さなお子様連れ」という文言をいいことにして、週末のシルバーシートがベビーカーの家族連れに占領されているのをよく目にします。しかし、「小さなお子様」は通路を塞ぐベビーカーに乗っていて、シルバーシートに足を組んでふんぞり返って座っているのは、「小さなお子様」の親たちなのです。それがさも当然の権利だと言わんばかりです。

でも、そんな親たちを批判すると、この国は子育てをする母親に冷たいなどと、識者から批判を受けるはめになります。シルバーシートに足を組んでふんぞり返って座っている親たちは、子育てに無理解なこの国で苦労している、”恵まれない大衆”でもあるのです。たとえ武蔵小杉のタワーマンションに住んでいてもです。そのため、自民党から立憲民主党や共産党までが、彼らの歓心を買おうと耳障りのいい(そして、ほとんど大差ない)子育ての施策をアピールしているのでした。

あの杉田水脈でさえ、問題になった『新潮45』の文章では、「子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うという」のは、「少子化対策のためにお金を使うという大義名分」があると言っています(一方で、子供を産まない、「生産性」のないLGBTのために、どうして税金を使わなければならないのかと言うのです)。今や左右を問わず、子育て支援は最優先課題なのです。間違っても彼らを「卑怯な大衆」なんて言ってはならないのです。

私は、「ちょっとした正義感」に身を委ねるのは、もう「や~め~た」と思いました。その結果、自分も見て見ぬふりをする一人だと見られても、それでもいいと思いました。なにより「バカらしい」と思ったのでした。


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2018.08.05 Sun l 日常・その他 l top ▲