10代の終わり頃だったと思いますが、なにかの雑誌で、五木寛之氏と寺山修司が「市民的価値意識批判」というテーマで対談しているのを読んだことがありました。

当時はまだ全共闘運動の余韻が残っていて、論壇もいわゆる“新左翼的な論調”が主流でした。二人の対談のように、「市民的価値意識」を批判するのも半ば常識のような感じでした。今風に言えば、右か左かではなく上か下かの視点が存在していたのです。総評が主導する左派の労働運動も、本工主義だと批判されていました。労働の現場には、本工→下請工→期間工と言った三重の差別構造が存在していると言われていました。当然、左翼の権威の象徴でもあった日本共産党は、徹底的に批判されていました。民青の運動なんて、資本主義的な価値意識を補完する欲望のナチュラリズムにすぎないと批判する文章を読んだ覚えもあります。

しかし、今は「市民的価値意識」が金科玉条のようになっています。それこそ自民党から共産党まで、「市民的価値意識」を批判する政党なんていません。各政党は、「市民的価値意識」にどれだけ貢献できるかを競っているのです。与党も野党も同じ土俵で相撲を取っているだけです。「市民的価値意識」は、至上の価値になっているのです。まさに「市民」は神様なのです。

一方で、この国には、生活保護の基準以下で生活している人が2千万人もいるのです。OECDの加盟国のなかでも飛びぬけた格差社会なのです。労働の現場でも、差別構造は温存されたままです。それどころか、製造派遣が解禁され、益々劣悪になっている現状があります。

この国には、既成政党が用意する土俵に上がれない、「市民」にもなれない人たちが多くいるのです。

同じ土俵で相撲を取っている限り、野党が与党に勝てないのは当然です。有権者にとって、与党も野党も似たもの同士にしか見えないでしょう。だったら、政権与党の方が安心だと考えるでしょう。

「市民的価値意識」に安住し、欲望のナチュラリズムを美徳とする有権者には、”安倍独裁”なんてどうだっていいのです。武蔵小杉のタワマンの住民に向かって、改憲を目論む安倍政治にノーを突き付けましょうなんて演説しているのは、滑稽ですらあります。

弱肉強食を是とする風潮の中で、ものごとの本質が隠蔽されていますが、階級の問題は決して過去の話ではないのです。むしろ、すぐれて今日的な問題でもあるのです。右はもちろん、左もそれに目を向けてないだけです。

ブレンディみか子氏は、左派は経済を語ることをやめてしまったと書いていましたが、左派というのは、言うなればサンクコストの呪縛に囚われた、もうひとつの保守にすぎないのです。そこに、左派が存在感を失った理由があるのだと思います。

何度もくり返しますが、右か左かではなく上か下かなのです。これも既出ですが、以前、ブレンディみか子氏は、ポデモスのイグレシアスの、次のような言葉を紹介していました。

「勝つためには、我々は左翼であることを宗教にするのをやめなければならない。左翼とは、ピープルのツールであることだ。左翼はピープルでならなければならない」


しかし、私は、イグレシアスの言葉をこう言い換えたくなりました。「勝つために、我々は左翼であることをやめなければならない。左翼に代わって、新しいピープルのツールを作らなければならない」と。

左翼こそめぐまれた既得権者だというネトウヨの”放言”も一理あるように思います。国会前デモや排外主義に反対する人たちのSNSなどを見ても、なんだか政権批判ごっこをしているようにしか見えません。”安倍独裁”と言いながら、危機感や絶望感はあまり伺えません。安倍政権と同じように、「やってる感」で自己慰撫しているだけのようにしか見えないのです。

ネトウヨに対して、「オマエたちはオレたちのような『市民』ではないだろう。ざまあみろ」みたいな”批判”が何のためらいもなく行われているのを見るとき、私は、暗澹たる気持にならざるを得ません。

今、必要なのは、左翼と決別することでしょう。左翼のドグマに無頓着な左派リベラルに引導を渡すことでしょう。そして、与党にも野党にも、もっと絶望することでしょう。全てはそこから始まるのだと思います。


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2018.09.13 Thu l 社会・メディア l top ▲