先月の17日に映画評論家の松田政男氏が亡くなっていたことを知りました。享年87歳だそうです。

私は、若い頃、映画が好きで、中でも独立系と言われる映画をよく観ていました。大学受験に失敗して、東京で浪人生活を送るべく九州から上京して高田馬場の予備校に入ったものの、予備校には行かずアテネフランセの映画講座に通っていたくらい、一時映画にのめり込んでいました。

それで、映画の上映会などで松田政男氏の話を聞く機会も何度かありました。また、松田氏が編集長を務めていた『映画批評』を愛読していましたので、氏が書いた映画批評もよく読んでいました。

にもかかわらず、松田氏が「映画評論家」と呼ばれていることには、ずっと違和感がありました。「映画評論家」というのは”仮の姿”のように思えてならなかったからです。

以下は、書評誌「週刊読書人」のサイトに書かれていた松田氏の履歴です。

一九三三年一月十四日、旧植民統治下台湾・台北市で出生。一九五〇年の日本共産党入党後から職業革命家として活動し、六〇年安保には吉本隆明らとともに六月行動委員会の一員として反対運動に加わった。その後、自立学校の設立運営、ベトナム反戦直接行動委員会に関わったのち、東京行動戦線やレボルト社などを主導、『世界革命運動情報』などを発行した。そのかたわら、五〇年代末から未來社、現代思潮社などで埴谷雄高、吉本隆明、宮本常一などの著書を編集、独立後は第二次『映画批評』を創刊、編集長をつとめた。

週刊読書人ウェブ
追悼 松田政男


松田氏は、アナキストとしても知られており、私が高校生の頃だったか、日本赤軍との関係を疑われてフランスのパリで身柄拘束され、フランス政府から国外退去処分を受けたという事件がありました。帰国後、今のテレビ朝日がNET(日本教育テレビ)と名乗っていた頃の昼のワイドショーの「アフタヌーンショー」に出演して、国外退去が不当だと訴えていたのを観た覚えがあります。そのとき、私は、大正時代に同じようにフランス政府から国外退去処分を受けた大杉栄みたいだなと思ったものです。

松田氏の話を聞くと、長年さまざまな運動に関わっていただけにアジテーターのような感じもありました。

松田氏は、いわゆる「風景論」の論客としても有名ですが、制作に関わったドキュメンタリー映画「略称・連続射殺魔」(1975年)で喝破したような風景の均質化(松田氏の言う「風景の死滅」)は、今日の散々たるあり様を見れば、今更言を俟たないでしょう。それは、とりもなおさず社会の均質化(画一化)を意味するのです。

新型コロナウイルスの猛威で、社会が瞬く間にネオ全体主義のような様相を呈し、まるで田中慎弥の『宰相A』の世界を再現したかのように、「子どもっぽい」総理大臣に超法規的な権限まで与え、挙句の果てにはマスクを配れば「不安がパッと消えます」という茶坊主の進言で、200億円(追記:その後466億円だったことが判明)の税金を使って各家庭に布製マスク2枚を配布するという、日本中が我が目を疑ったような方策まで登場したのでした。でも、発表する本人は得意満面で、見事なまでのバカ殿ぶりを演じているのでした。これが、均質化(画一化)の光景なのです。

風塵社という出版社のブログに、松田氏に関して次のような文章がありました。

(略)そんなある日の夕刻、M翁と二人で某所を歩いていたら、前方からおしゃれで可愛らしい感じの老婦人がこちらに向かってくる。そして、M翁に気づいたその女性が「あらぁ~、Mさん、お久しぶり~」なんて気さくに声をかけてきた。そのなにげない仕草が、なんとも色っぽい。エー、だれやろと見れば、あの吉行和子さんなのだ。小生、腰が抜けそうになる。しかもM翁、「ああ吉行さん、どうもご無沙汰で」なんて平然と応えている。M翁の語る武勇伝にも少しは真実が交じっていたんだなと感じた瞬間であった。

風塵社的業務日誌
追悼M翁


車で板橋区役所の先の中山道を走っていると、歩道橋に「北園高校入口」という文字が見えるのですが、そのとき「松田政男の母校はここなんだな」と思ったことがありました。

松田氏の文章は、「あだしごとはさておき(閑話休題)」という“接続語”が使われているのが特徴ですが、「あだしごとはさておき」と言いながら、半ば強引に語られる作品の”今日的意味”なるものも、よく考えれば氏なりのアジテーションであったように思います。

“新左翼文化”がまだ残っていたいい時代が生んだ、頑固おやじのようなアジテーターがまたひとりいなくなったのです。


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2020.04.03 Fri l 訃報・死 l top ▲