ウェブ時代をゆく

梅田望夫さんの最新刊『ウェブ時代をゆくーいかに働き、いかに学ぶか』(ちくま新書)を読みました。本書の帯には”『ウェブ進化論』完結編!”という惹句がありました。『ウェブ進化論』ではグーグルを中心としたネット社会の近未来が描かれていましたが、今回は書名どおりネット社会の中で如何に働き如何に学ぶかがみずからの体験をまじえながら具体的に説かれています。

もちろん、今回も『ウェブ進化論』同様、梅田流オプティミズムは健在で、中でも持論の「総表現社会の三層構造」に関しては、次のようなミクシィでの感想に出会い、益々確信を深めた、と梅田さんは書いていました。

ちなみに、「総表現社会の三層構造」というのは、ブログなどによる総表現社会化を考える場合、そこに不特定多数無限大の人達が参加するとネットが衆愚化するのではないかという懸念に対して、梅田さんが『ウェブ進化論』の中で提示した仮説(イメージ)です。梅田さんによれば、エリート(1万人)と大衆(1億人)の二つの層の間に、<多様で質の高い人たちの第三層「総表現社会参加者層(1千万人)」>が存在するはずで、そういった一定の知的レベルを持った善意の層が「総表現社会」のイニシアティブを握ることによって衆愚化は免れるのではないかと言うのです。

彼女は、自分こそ「総表現社会参加者層」に参入したい代表的な人間と強く自覚した、と日記に書いていた。
 リアル社会の職業だけからは「大衆」層に分類されてしまうかもしれないし「エリート」になりたいわけではないが、自分の存在を知らしめたいという欲望がある。読書をしたり、文章を書いたり、文化的に活動している側面があり、その活動や知識を誰かと共有したいが、そういう場所が今まで日本には少なかった。読書にまつわるキーワードでつながったミクシィ上の知己には、読んでいる本の質・量も豊富で文章を書く能力も素晴らしい知識人が多い。昔の「サロン」のような会話ができるコミュニティをネット上に彼女は持ち、充実した生活を送っている。大学の専門では「エリート」集団に属することはできなかったが、「大衆」の中に埋没するのも違和感がある。受験勉強と部活だけに追われていた進学校で表面上のつきあいをしてきた高校時代の友人たちと、いまさら苦しみや悩みをわかちあったりはできない。「エリート」でもなく「大衆」にも埋没していない中間層の人たちにとっての新しい可能性の出現、それがネットの本当のありがたみだ、と彼女は結んでいた。この感想は、私の問題意識とぴったり合致するものだった。


個人的にはすごくよくわかる話ですが、しかし、(矛盾した言い方になりますが)同時に少し首を傾げたくなる部分でもあります。

梅田さんは、こういった中間層の人達がリアル社会の様々な制約から解放されたネット上に「志向性の共同体」たる「島宇宙」を作ることによって、この社会がもっと住みよいものになるはずだと書いていました。

たしかに最近、ネットを探索していると、思わず唸るような高い見識を持ったブログに出会うことが多くなったのも事実です。それは、かねがね梅田さんが主張しているように、ブログによって表現手段を得た巷の有能な人材が、ネットの拡がりとともに私達の前に浮上して来ている証拠(「群衆の叡智」の出現)なのかもしれません。

しかし、ネットというのは、見方によっては良くも見えるし悪くも見えるものです。一方で、既に衆愚化しているとしか思えないようなひどい現実があることも事実です。それに、ほとんどまともなウェブリテラシーも語学力も持ち合わせていない私達1億人の「大衆」は、じゃあどうすればいいんだ、とはたと考え込んでしまいます。

また、これを読んだ若い人達が「ネットが全てだ」「ネットは万能だ」と誤解するのではないか、そんな懸念も抱きました。

梅田さんは、「リアル世界とネット世界の境界領域に大きなフロンティアが生まれようとしている」「そこでは『新しい職業』もたくさん生まれ」るはずだと書いていましたが、この「リアル世界とネット世界の境界領域」というのが大きなポイントではないでしょうか。それは、換言すれば、リアル世界にもネットの世界にも通じていなければならない、両方のスキルを身につけていなければならない、ということではないでしょうか。

陳腐な言葉を使えば、やはり経験なのだと思います。とりわけ、リアル世界での経験が大事なのではないでしょうか。ましてや、人間関係が嫌だからとか人に頭を下げるのが嫌だ(できない)からとかいった理由でネットに逃避してそんな自分を合理化するだけでは道が拓けるはずもないのは当然でしょう。本書でくり返し強調している「好きなことを貫く生き方」というのは、多分にこういった誤解を招きやすい気がします。

ネットが全てではないし、ネットは万能ではないのです。このことは強調しても強調しすぎることはないと思います。「書を捨てよ街に出よう」と言ったのは寺山修司ですが、それをもじった言い方をすれば、パソコンをシャットダウンしてもっと街へ出ようと言いたい気がします。

このミクシィの女性についても、本当に心を揺り動かすような言葉はリアル社会の中にあるはずなのです。ネットとは関係のないところで、好きなことだけではなく嫌なことも厭わぬような生き方をしてきた、そんな市井の人が持つ言葉の重みを彼女は知らないだけではないでしょうか。

街に出たり旅をしたり、あるいは仕事先や近所など日常の中でももっといろんな出会いがあるはずなのです。そして、そのときの感動はネットでの出会いなど比ではないでしょう。ただ単にネットのコミュニティで知的充足感を得たというだけではいつまで経っても何も変わらないように思います。

最後に、本書に関するAmazonのカスタマーレビューで、以下のような3つの現実を対置している方がいましたが、それは本書に対するすぐれた批評になっていると思いました。

1.オープンソースだから成功するわけではない。
2.電気を使える人は世界の半分以下。
3.ウェブでご飯は食べられない。

ネットは所詮「情報」なのです。それ以上でもそれ以下でもない。そのことを忘れてはならないとあらためて思いました。
2008.01.13 Sun l ネット・メディア l top ▲