花粉症ということもあって、私は1年の半分くらいは外出するときはマスクをしていますが、手持ちが残り少なくなったので、買いに行ったところ、新型インフルエンザの影響でどこも売り切れでした。何軒かのドラッグストアやスーパーをまわったのですが、いづれも棚は空っぽでした。

それで思い出したのですが、今朝、まだ開店前だというのに駅前のドラッグストアの前に行列ができていたのです。私は「セールかな?」と思っていたのですが、あれはマスクを買い求める人達だったのですね。テレビのニュースでも、患者が入院している病院の前からレポートする記者が、これみよがしにマスクをしているのを目にしますが、いくらなんでもそれはやりすぎだろうと言いたくなります。

アメリカなどでは新型インフルエンザも普通の風邪と同じような受け止め方しかしてないそうで、それはそれで問題があるように思いますが、一方でこの国の過剰な反応には、記者のマスク姿に象徴されるように、ある種の異様ささえ覚えます。特に、ニューヨークに行った川崎市の高校の生徒が感染した件で、学校側の対応に批難が集中し、いわゆる”学校叩き”が行われているのを見るにつけ、若い頃に流行った「差別と排除の力学」「テロルとしての日常性」という言葉を想起せざるを得ませんでした。まさにそこにはニッポン社会特有の「世間」がむき出しになって露出しているように思います。

たまたま今夜、J-WAVEを聴いていたら、番組の中で、厚生労働大臣の専門家チームの一員である神戸大学医学部の岩田健太郎教授に電話インタビューしていましたが、その中で情報の公開ということに関連して、岩田教授が「感染した方の学校がどこで、職業がなんで、どういった行動をしたかなどは、専門的な見地から見るとほとんど意味がなく、あれは単に興味本位なもので、患者さんにはお気の毒な話ですね」と言っていたのが印象的でした。今にはじまったことではありませんが、そうやって俗情と結託して「世間」を煽っているのは誰なのか、私達は冷静になって考える必要があるのではないでしょうか。

それにしても、はてなダイヤリーに「神戸大学の岩田健太郎教授の言葉にぐっときている今~H1N1の世界的流行の中で」という記事がありましたが、岩田教授の話には示唆に富んだものが多く、私もいろいろと考えさせられました。

新型インフルエンザに関する情報についても、岩田教授は、「成熟とはあいまいさを受け入れることだ」というフロイトの言葉を引き合いに出して、「あいまいさを受け入れることが大事」だと言ってました。情報というのは常にグレーなもので、白か黒か、いいか悪いか、やるかやらないかをはっきり言えるものではないと。しかし、「世間」の同調圧力というのは、白か黒かいいか悪いかはっきりした解答を求める傾向があります。そういった単純明快さを至上とし(単純明快でなければ理解できない?)、付和雷同して極端から極端に走るような考え方の先にあるのは、ネットで日々くり返されているような犯人探しと村八分的な「差別と排除の力学」による「テロルとしての日常性」です。

また、新しい情報には必ずガセネタも含まれているので、情報を鵜呑みにしてはならないと言ってました。だからと言って、有益な情報もあるので完全に無視するのではなく、「適切な猜疑心」を持った「中腰の姿勢」で向き合うことが大事だと。これはネットを考える上でも参考になるように思いました。

ものごとを冷静に受け止めることができるというのは、それだけ知性や見識があるからです。そう考えるとき、マスコミも含めて、まるで悪魔でもやってきたかのようにことさら大騒ぎをしているのがどういうタイプの人達であるかは今更言うまでもないように思います。
2009.05.22 Fri l 社会・時事 l top ▲