ファミリー・シークレット

柳美里の『ファミリー・シークレット』(講談社)を読みました。

ご存知のとおり”未婚の母”である柳美里は、ADHD(注意欠陥・多動性障害)ではないかと言われた小学校4年生のひとり息子に対して、「どうして声を荒らげ、手を上げてしまうのか」という自責の念と、このままでは虐待がエスカレートして歯止めがきかなくなるのではないかという不安から、臨床心理士の長谷川博一氏にカウンセリングを受ける決意をするのでした。この本はそのカウンセリングの過程を記録したノンフィクションです。

柳美里は、カウンセリングを受ける決意をした理由について、つぎのように書いていました。

 「本人は過去を忘れても、過去は本人を覚えている」
 トラウマには、自分の身に起きたことを無意識に繰り返してしまう「再演化」という性質があるそうだ。
 わたしは、自分の内に同在する被害と加害を書くことによって変容させて、小説や戯曲のかたちで意識的に「再演化」してきた。
 小説や戯曲の中に、加害者でもあり被害者でもある自分を匿ってきたのだが、わたしは、過去に見つかってしまった。逃げるものなら、息がつづく限り、逃げていたいが、息子を産み、自分の家を建てたときから「再演」の幕が開いていたのだろう。
 しかし、わたしは、この芝居に出演したくない。
 この芝居を、息子に「再演」させたくない。
 わたしは、母と父から受け継いだこの芝居に幕を下ろすために、「虐待」という問題に関わるつもりだ。


それは、自分の過去を辿り心の闇をさぐるつらい”旅”でもあります。横浜の在日朝鮮人の家庭に生まれ、やがて両親が別居。「バイキン」と呼ばれいじめに遭ったり、近所の同級生の父親に性的虐待を受けていた小学生時代。「母は生活用品を盗み、父は犬を盗んだ」ような環境の中で身に付いた盗癖。母親の夢を背負って入学した山手のお嬢様学校を素行不良で中退。そして、自殺未遂と鬱病。

カウンセリングと併行して彼女は、取材で訪ねた「虐待母」や秋田連続児童殺害事件の畠山鈴香被告や酒井法子にも自分と同じ心の闇を見るのでした。親から虐待された経験のある人間は、どうして自分の子どもを虐待するのか。長谷川博一氏は、この虐待の世代連鎖について、小さい頃から恐怖と暴力によって服従させようとするような環境で育つと、そういった人間関係を日々学習して身につけてしまうからだ、と言ってました。つまり、虐待される子どもにとっては、いつの間にかそんな暴力に裏打ちされた倒錯した関係こそが当たり前になるというわけです。人間は高度な学習能力によってさまざまな文化を生み出してきましたが、人間が本来もっている学習能力が虐待の世代連鎖を生むなんて、なんと哀しい「文化」なんだろうと思いました。

 母性がなにか解らないひとがうまく接しようとしてもね、母性的に接しようと努めるれば努めるほど、母性が解らないこころは軋んで、その軋みが自分の願いとは正反対のかたちで暴走してしまう。それが、柳さんの今。


(略)肝心の自分を慈しむこと、自分に優しくすることが、柳さんにはできない。優しくされた、慈しまれたことがないから、それがどういうものか解らないんですよ。


「親になることは簡単だが、親でありつづけることはむずかしい」という言い方がありますが、長谷川博一氏の言葉は、まさに親でありつづけることのむずかしさを語っているようにも思いました。

一方、”旅”は柳美里自身だけでなく、家族の心の闇にも敷衍していかざるをえません。カウンセリングに父親が登場するにつれ、父親の心の闇も晒されることになるのでした。ただ、それは、波乱に満ちた在日朝鮮人の家庭では別にめずらしい話ではないように思います。私も知り合いの在日の人間から似たような話を聞いた経験があります。

30年間黄金町のパチンコ屋で釘師として働きながら、家庭をかえりみず酒と博打に明け暮れた人生。いつも子ども達に金を無心し、年老いた今も「年金と二人の息子の送金で」博打を打っている父親。

私はたまたま『ファミリー・シークレット』の前に、江藤淳の『成熟と喪失』(講談社学芸文庫)を再読したばかりなのですが、ここにも江藤の言う「父の崩壊」と「母の不在」があるように思います。ただ、この在日の家庭には、「第三の新人」達が描いたような、近代化された日本の中産階級の家庭がもっている「恥ずべき父」の姿はありません。父親失格のような父であっても、「恥ずべき父」ではないのです。もちろん、在日の家庭にも「家」や「世間」はありますが、「世間」に対して、日本の中産階級のように「恥ずかしい」という感覚はないのです。むしろ、「それでも父は父だ」というような感覚さえあります。ありていに言えば、どんな父親であっても心のどこかに「父権」は存在するのです。それが日本的な農耕社会が生んだ「母の文化」と大陸的な「父(天)の文化」の違いではないかと思いました。

崩壊する前の家族が暮らしていた保土ヶ谷の家では、現在、父親が娘ほど年の離れた韓国人女性と暮らしているのですが、カウンセリングのあと、父親を送るために久しぶりに訪ねたときのつぎの箇所が印象的でした。ここには、柳美里が言う「家族という檻」に対する、「逃げるものなら、息がつづく限り、逃げていたい」けど逃げ切れない、”宿命”のような思いが吐露されているように思いました。(文中の「コモ」というのは「父方の伯母」という朝鮮語なのですが、柳美里は、保土ヶ谷の家で同居していたコモ=父親の姉が実は父親の”実の母”であり、父親はコモの”私生児”であったことを父親のカウンセリングで確信したのでした)

 わたしは「アニョイゲシプショ(お元気で)}と会釈して家を出た。
 外は真っ暗だったが、葉と枝のシルエットで、家を隠すように生えている大きな木が、枇杷(びわ)だということが判った。
 枇杷は、コモが住んでいた二階の窓まで届いていた。
 わたしが生まれた日の朝、父は床屋に行って髪と髭を整え、母に食べさせるために枇杷をひと箱買って、わたしに逢いにきた。
 「ありがとう」
 父はひと言だけそう言うと、涙ぐんだという。
 昨年の誕生日に、枇杷の苗を買った。
 「家に枇杷を植えると、死人が出る」「枇杷を植えると、家が滅びる」「病人がいる家には枇杷の木がある」という言い伝えがあることは知っていたが、枇杷の苗にこころが吸いついて離れなかった。
 わたしは、家と向き合う場所に枇杷の苗を植えた。

2010.06.18 Fri l 本・文芸 l top ▲